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東照宮御実紀附録/巻四

目次
 
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東照宮御実紀附録 巻四
 
天正十年五月、織田殿の勧めにより京に上らせ給ひ、やがて堺の地御遊覧終り、既に御帰洛あらむとせしに、家康堺に於て本能寺の変を聞く茶屋四郎次郎清延たゞ一騎馳せ来り、飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ、昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り、忠勝、四郎次郎と共に引返し、御前に出でこのよし申す、君聞しめしおどろかせ給ひ、今この微勢もて光秀を誅せむ事かたし、早く京に帰り知恩院に入り、腹切りて右府と死を同じうせむとて、御馬の首を京のかたへ向けられ、半里ばかり行かせ給ふ所に、忠勝又馬を引返し、酒井忠次・石川数正・榊原康政等に向ひ、若年のものゝ申し事ながら、君御帰京ありて無益の死を遂げられむよりは、速に本国にかへらせ給ひ、御勢をかり催し、明智を誅伐したまはむこそ、右府へ報恩の第一なれといへば、忠次、老年のわれら、かゝる心も附かざりしは、若者に劣りし事よとて、その旨申上げしに、われもさこそは思ひつれども、知らぬ野山にさまよひ、山賊・野伏のオープンアクセス NDLJP:1-47為に話たれむよりはと思ひ、帰洛せむとはいひつれ、家康帰国に決す誰か三州への案内知りたるものゝあるべきと仰せければ、さきに右府より堺の嚮導にまゐらせし長谷川竹丸秀一は、主の大事に逢はざるを怒り、哀れ光秀御追討あらむには、某も御先討つて討死し、故主の恩に報じなむ、これより河内・山城を経て、江州・伊賀路へかゝらせ給ふ御道筋のもの共は、多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば、何れの路も障ることはあらじと、かひしく御受申せば、君をはじめ頼もしきものに思しめす、さて秀一、大和の十市玄蕃允が許に使を馳せて案内させ、木津川に至らせ給へば、忠勝柴船かりて渡し奉り、河内路へて山城に至り、宇治川にて河の瀬知りたるものなければ、忠次小船一艘求め出で乗せ奉り、供奉の諸臣は皆馬にてわたす、その辺にいつき祭る呉服大明神の神職、服部美濃守貞信、社人をかり催し、御先に立ちて嚮導し奉れば、郷人ばら敢て御道を妨ぐる者なし、江州信楽に至らせ給へば、土人木戸を閉ぢて往来を止めたり、此地の代官多羅尾四郎光俊は、これも秀一が旧知なれば、秀一その旨いひやりしに、多羅尾光俊家康主従を饗す光俊すみやかに木戸を開かせ、御駕を己が家にむかへ入れ奉り、種々もてなし奉る、この時赤飯を供せしに、君臣とも誠に飢にせまりし折なれば、箸をも持たず御手づから召上がられしとぞ、光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を、御加護の為とて献る、〈慶長十五年、この像をもて愛宕山円福寺に安置せらる、〉 さきに堺を御立ありしとき、供奉の面々に金二枚づゝたまひ、かゝる時は人ごとに金もたるがよし、何れか用をなさむも知れずと仰せられけり、こゝにて多羅尾に暇くだされ、伊賀路にかゝらせ給へば、柘植三之丞清広はじめ、かねて志を当家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども、御路の案内し奉り、鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ、白子浦より御船にめして、三州大浜の浦に着かせ給ふ、船中にて、飯はなきかと尋給へば、船子己が食料に備置きし粟・麦・米の三品を一つにかしぎし飯を、常に用ゐる椀に盛りて献る、菜はなきかとのたまへば、蜷の塩辛を進む、風味よしとて三椀聞しめす、かくて御船大浜に着きければ、長田平左衛門重元、おのが家にむかへ奉り、こゝに一宿したまひ、明くる日岡崎へ御帰城ましける、家康岡崎に着す抑この度、君臣共に思はざる大厄にあひ、数日の艱苦をかさね、辛うじて十死を出でゝ一生を得させ給ひしは、さりとは天幸のおはします事よと、御家人ばら待迎へ奉りて、悲喜の泪を催せしとぞ、〈武辺雑談、永日記、貞享書上、酒井家旧蔵聞書、続武家閑議、〉

オープンアクセス NDLJP:1-48山口光広この御危難の折、御道しるべして勲功ありしものどもさまなり、山口玄蕃光広といひしは、多羅尾四郎兵衛光綱が三男にて、山城の宇治田原の城主、山口勘助長政が養子となり、この時長谷川竹丸より、御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより、光広実父多羅尾が方へ申送りて、己れ御迎に出でゝ田原の居城へ入れ奉り、これより供奉して、江州の光綱が家へ案内し奉り、伊賀路の一揆ども追払ひつゝ、白子まで御供せしかば、光忠の御刀及新地の御判物たまはれり、又山岡美濃守景隆は、代々江州勢田の城主にて、京都将軍家に勤仕す、弟の対馬守景佐が妹は、明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し、姻家たれども、逆党に背き瀬田の橋を焼断ちて追兵を支へ、御駕を迎へ賊徒を追払ひつゝ、伊賀の闇峠まで供奉せり、拓植清広又伊賀の侍柘植三之丞清広といひしは、これよりさき天正九年三河に参謁して、伊賀のもの共皆織田家をそむき当家に属せむとす、願はくは御書をたまはらむと申上げしに、当家織田家と交深ければ、御書をたまはる事難し、たゞ元のごとく本領を守るべし、もし当家に従はむとならば、御領国に遷るべしとなり、その後伊賀の者猶織田家の命に従はざれば、右府大に怒られ、悉く誅伐せらるゝにより、みな山林に遁隠れて時節を伺ふ所に、此度の事起りしかば、清広おのが一族伝兵衛・甚八郎宗吉・山口勘助・山中覚兵衛・米地半助・某外甲賀の美濃部菅三郎茂濃・和田八郎定教・武島大炊茂秀等を勧め、みな人質出して嚮導し、鹿伏兎越の険難をへて伊勢まて御供す、伊賀者及甲賀者の起源後年関原の役に、伊賀のもの廿人すぐり出し、御本陣に参りて警衛し奉る、この折伊勢路まで御供せし輩は、後々召出されて直参となり、鹿伏兎越まで供奉し、半途より帰国せし二百人のものどもは、服部半蔵正成に属せられ、伊賀同心とて諸隊に配せられしなり、またこの年六月、尾州にて召出されしは、専ら御陣中の間諜を勤め、後に後閣の番衛を奉る事となれり、いまも後閤に附属する伊賀ものゝ先祖はこれなり、また甲賀のものも、武島・美濃部・伴などいふやからは直参となり、その以下は諸隊に配せられて、与力同心となされしもありしなり、〈諸家譜、武徳編年集成、伊賀者由来書、〉

武田亡びて後、織田右府駿河国をば当家へ進らせ、甲斐国をば其臣川尻肥前守鎮吉に与へ、よろづ御心添あらまほしき旨、右府よりたのまれしゆゑ、こなたにもまめに受引給ひ、度々川尻が方へ御使つかはされ、御指諭ありしが、鎮吉もとより疑オープンアクセス NDLJP:1-49念深きをのこゆゑ、こなたの御深意をかへりてあしざまに思ひ、且甲州人の皆当家に従ひ、鎮吉に服するもの少きは、全く当家の御所為なりと思ひ誤り、諸事京のものとのみ相議し、国人にもひたすら心置きしゆゑ、国人もいよ心服せずして、川尻をにくむもの多し、河尻鎮吉本多信俊を殺すかゝる所に此度右府の凶事ありて、滝川左近将監一益も上州を捨てゝ上洛すれば、川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召し、その旧友なれば本多百助信俊をつかはされ、万事心安く語らふべし、もし上洛あらむには、此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞く、百助に案内せしめ、わが領内を経て上らるべしなど、ねもごろに仰せつかはされしに、鎮吉いよ疑を起し、百助に己を討たしめられむ御謀と思ひ、密に人をして百助を害せしむ、此事忽に聞伝へて甲人一揆を起し、鎮吉を討とりぬ、はじめ百助が死せし由注進に及びしかば、われかねて信長と約せし事もあれば、彼が謀議の為にもと思ひ、百助を遣せしに、かゝる無道人にあひて、おしき侍をあへなく殺さしめし事の口惜しさよとて、泪数行に及ばせ給ひぬ、このとき老臣等速に御勢を催し、川尻が罪をうち給へとすゝめしに、それは川尻が二の舞にて、家康などがする事にてなし、先その儘よとの上意なれば、又と申上ぐべき様もなくてやみぬ、斯くて川尻死せし後、甲州主なければ、その間をうかゞひ、北条氏政父子責入る由とり風聞し、国人も北条が民にならむは念なし、当家より御旗を向けられなば、皆々打語らひ、時日を移さず甲州一国を切取らむとうつたふるもの多かりしかども、更に聞しめし入れず、たゞ明暮奉行人に命じ、国人の忠否を正し、武道の御穿鑿のみを専とせられ、いさゝか競望の念おはしまさゞりしとぞ、〈岩淵夜話、〉

家康北条氏直と盟約す甲斐の若御子にて、数月の間北条氏直と御対陣ありし時、氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申すにより、上州を北条が領とし、甲信二国は当家の御分国とせられ、且督姫の方もて氏直に降嫁あらむ由、かれが請書のまゝに御盟約すでに定り、氏直も野辺山の陣を払ひて退かむとするに及び、平沢の朝日山に砦を築かしむる由聞しめし、大に怒らせ給ひ、われ先年駿河にありしとき、氏規と旧好あるをもて、こたび彼が強ちにこひ申すにまかせ盟約を定め、且姻家たらむ事をもゆるしぬ、さるにわが領国の内に城築く事不当の至なれ、この上は有無の一戦を決すべしと仰ありて、朝比奈弥太郎泰成もてこの由北条が方へ仰遣さる、このとオープンアクセス NDLJP:1-50き敵は平沢より信濃路引払はむとする所に、当家の御先手は若御子の上に押上り、もし北条が答遅々せば、直に打つてかゝらむ形勢したれば、大に恐れ早々人質出し、朝比奈と共に新府の御陣にまゐり、異議なき由をさま謝し奉りければ、聞しめしとゞけられ、こなたよりも人質をつかはされ、両陣互に引払ひしとなむ、 〈落練集、武徳編年集成、〉

この対陣のとき、味方の内誰なりとも、鉄炮打かけて敵陣の様試みよと仰ありしに、いづれも遅々せしが、曲淵吉景甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて、足軽めしぐし、鉄炮持たせて馳せいで、その子彦助正吉は、父が指物を相図として、斥候をしつつ馳廻るさまを御覧じ、たれもかのさまを見よとて床机より下り立たせられ、御杖もて二たび三たび地を叩かせ給ひ、曲淵は年老いぬれど、武道のうきやかなる様かな、彦助も父に劣らぬ若者よとて、殊に愛でさせ給ひしとなむ、〈家譜、〉

九年母の舶来天正十一年の事にや、京より九年母といふこのみを献りしものあり、こは其頃南洋よりはじめて舶載して、いとめづらかなるものなれば、百顆ばかりを分ちて、小田原の北条が許に贈らせ給ひしに、かの家臣ともだいと見あやまりて、珍らしくもあらぬものを何とて贈られしや、浜松には稀なると見えたり、こゝにはあまたあり、進らせむとて、だいを長櫃に入れ、役夫八人にかゝせて献りけり、君小田原のものどもこの菓を味ひもせず、たゞだいとのみ思ひとりて、かゝるなめげの挙動する事よ、主人はともあれ、家臣等がかゝる粗忽の心持にては家国の政事を執行ふに、いかなる過誤し出さむもはかり難しと仰せられしとなり、〈東武談叢、〉

長久手役長久手の役に、夜中小牧を御立ありしが、勝川といふ所にて夜ははや明けはなれたり、岩崎の城のかたに煙の上りしを御覧じ、哀れむべし、次郎助一定討死しつらむとのたまふ、こは丹羽次郎助氏重仰を蒙り、岩崎山守りしが、池田勝入が為に戦ひて討死せしなり、さてこの所は何といふぞと御尋あれば、勝川甲塚といふ由申上ぐ、こはめでたき地名なり、今日の勝利疑ひなしとて、この時ためぬり黒糸の御鎧に、椎形の御冑をめされ御湯漬をめし上がらる、士卒に御下知ありしは、人数押の声ゑいとうといふはあしく、ゑいとうゑい、といふべしと命ぜられ、いそぎ川を渡りて御勢を進めらる、井伊直政の奮戦井伊万千代直政が赤備一隊をやりすぎて、行伍の乱れしを御覧じ、あれとゞめよ、足並乱して備を崩すことがあるものか、木股ばをらオープンアクセス NDLJP:1-51ぬか、清左衛門は居ぬか、木股に腹を切らせよとて、御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ、直政山を越えて人数を押へむといふに、広瀬・三科の両人、小口にて息がきれてはならぬといふ、直政、何ならぬ事があるものかといふ所へ、近藤石見馳せ来り、かゝる事は、若大将の知る事にてなしといひつゝ、直政が馬のはな引かへし、脇道より敵陣へ打つてかゝる、君は竹山へ御上ありし所へ、内藤四郎左衛門正成還り来て、御先手崩れぬ、今日の御軍おぼつかなし、兵をおさめ給へといふ、高木主水正は、御勝軍なり、早く御勢をすゝめ給へといふ、本多正信は、かゝる御無勢にて大敵にかゝり給ふべきや、みだりの事ないひそと制す、主水、如何に弥八、御辺は座敷の上の御伽噺や、会計の事などはしるらめ、軍陣の進退はそれとは異り、今日は御大将の進まで叶はせられぬ所なり、速に御出あれといへば、君も咲はせ給ひながら、家康軍を進むさあ出でむとて、金の扇の御馬験を押立て進ませ給へば、敵は是を見て、さてこそ徳川の出馬ありしぞ、大事なれと驚きあわてゝ色めき立つを、森武蔵守長一打立つて制すれども聞入れず、とかうする内に鉄炮に中りて死しければ、これを御覧じ、婿めが備は崩るゝぞ、勝入が陣を崩せとのたまふにより、御家人等我先にと馳入りて高名す、勝入も引くな返せと下知すれど、崩れ立ちていよ敗走する所に、永井伝八郎直勝、遂に勝入を討ちとりしかば、これより上方勢総敗軍になりしなり、〈柏崎物語、東遷基業、〉

戦捷の後直に小牧に退く池田・森の両将既に討たれ、上方勢総崩して敗走す、味方これを追討ちゆくをとゞめ給ひ、砂川よりこなた十町計にて引上げさせ給ひぬ、その時秀吉は大敗を聞き、いきまきて馳せ来り、龍泉寺の上の山に、金の瓢簞の馬印を押立てたり、もし味方十町も追過ぎなば、荒手の大軍に出合ひて戦難儀なるべきに、早く其機を察し引上げしゆゑ、勝を全うし給ひしなり、君は遥にかの馬印を御覧じて、筑前頼み切つたる先手の三人まで討たせ、さぞせきたるらむとほゝゑませ給ふ、榊原康政進み出で、仰の如くいかにもせきたると見えて、馬廻ばかりにて走り出で候、今ぞかれを討取るべき機会なりといへば、又咲はせられ、勝に勝は重ねぬものぞ、一刻も早く小幡に引取れとて、渡辺半蔵守綱を殿として小幡に引とられ、其夜小牧に御帰陣ありしなり、此日秀吉は犬山に在りて茶を点じて居し所へ、敗軍の告ありしかば、大に怒り直に出馬し、龍泉寺の辺にて軍の状を尋ねられしに、徳川殿は既にオープンアクセス NDLJP:1-52小幡に引取られしといへば、秀吉家康の名将たちに感ず秀吉且怒り、且感じ、馬上にて手を打ち、さて花も実もある、もちにても網にてもとられぬ名将かな、日本広しといへども、その類またとあるまじ、かゝる人を後来長袴きせて上洛せしめむは、秀吉が方寸にありといはれしとか、〈渡辺図書小牧長久手記、落穂集、〉

按に、一説に、このとき酒井忠次、秀吉を討つは今日にありといひしに、勝ちて冑の緒をしむるといふはこゝぞと仰せらるれば、忠次重ねて、一陣破れて残党全からずと申せば、唯今こそよき図なりといふ内に、敵はや柵を附けたれば、明日は秀吉に降参し給ふべしといひしとか、これも康政と同じ事を両様にいひ伝へしなり、

本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが、秀吉が大軍押出すをみて、遮り伐たむといふ、酒井忠次・石川数正きかざれば、己が手勢わづか八百人もて川水にそひ、秀吉が大軍と睨みあひつゝ川越に押して行く、秀吉其大胆にして且忠烈なるを感ず、忠勝龍泉寺に至れば、既に御勝利にて小幡に引入れ給ふときゝ、今は心安しとて、御道筋に出でゝ拝謁し、かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは、よく御見限ありしと申上ぐれば、君、われ身を二つに分ちたる心地して、汝を小牧に残し置きしゆゑ、心やすく勝軍せしなりと仰せられて、直に供奉命ぜられ、小幡に入らせ給ひしなり、〈柏崎物語、〉

小幡の城にて、榊原康政・大須賀康高等御前へ出で、今宵敵陣の様を伺ひしめしに、昼の程長途を馳せ来りしゆゑ、みな疲れはてゝ、ゆくりもなく倒れふしぬ、一夜討かけて辛き目みせむと申ければ、家康夜討の議を斥く御首を振らせられ、いやとのたまひて、とかうの仰もなし、みな御前をまかでし後、本多豊後守広孝を召して、汝城門を巡視し、一人も門外へ出すべからずとありて、間もなく御湯漬を召上がられ、御出馬を触れられ、なるたけ物しづかに揃へと命ぜられしゆゑ、必ず夜討かけ給ふならむと人々思ひしに、小牧へ御馬を入れられしかば、誰も思ひ寄らぬ事とて感じ奉りぬ、後日浜松にてこの折の事語り出で給ひ、汝等が夜討せよといひしは、秀吉をうち得むと思ひてか、またはたゞ戦にかたむとまでの事かと尋給へば、互に面を見合せ、やゝありて、秀吉を討とるまでの思慮も候はず、たゞ必ず御勝利ならむと思ひしゆゑなりと聞えあげしかば、われもさは思ひし事よ、敵を皆殺にしても、秀オープンアクセス NDLJP:1-53吉を打もらしなば、かへりてあしく、昼の戦に池田・森の両人を討ちしさへ、一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしと、ぞ〈岩淵夜話別集、〉

按に、菅沼藤蔵定政が譜には、既に小幡の城に入らせ給ひ、斥候の者して敵の様伺はしめしに、今にも襲ひ来らむ由いふ、よて藤蔵定政を召して、彼等がいふ所いぶかし、汝行きてたしかに見てこよと仰あり、定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出でゝ伺ひ終り、かへりきて申上げしは、敵は皆甲をぬいで飯くひ居たり、今来らむ様にてなし、暁天に至らばはかり難し、この小城におはして大敵に囲まれなば、ゆゝしき御大事なりとて、小牧に御陣をうつし給へと勧め奉れば、我もさこそは思ひつれとのたまひて、重ねて小牧に御動座あり、果して暁になり、秀吉が兵小幡に至るといへども、空塁なれば案に相違し、徒に軍を班せしとぞ、

松平金次郎この戦、に松平金次郎は茜の羽織に十文字の鑓をもち、一番に勝入が陣に蒐入りて、敵の首三級取つて見参に入れしかば御感あり、追討の時は鎌もて草を薙ぐが如しといへば、首もたゞ一つ取つて足れり、多級を貪るに及ばずと仰せられたり、又大脇七兵衛は、金次郎と同じく先陣に進みたるが、此度の鑓は金次郎一番なりと仰せける所へ、七兵衛つとまゐり、某も其場に侍りしが、弓射よとの命ありしゆゑ、矢二筋を放しぬ、是も鑓と同じ様の御賞詞は蒙るまじき​(やカ)​​をと​​ ​申せば、しばし御思案の様にて、汝がいふ所の如く、是をしるしにとらせむとて、御手に持たせられし矢二枝を七兵衛に下されしと也、高井実重又高井助次郎実重といひしは、其父蔵人実広今川の家臣なるが、桶狭間の戦に討死し、助次郎も亦氏真に仕へ、終始節を改めず、この戦に諸人いづれも高名したるに、助次郎一人は何の仕出せし事もなく、あまりの面目なさに羽流して居しかば、汝は古主氏真の行衛を見とゞけ、信義あつきものなれば、今日の戦に敵の首取つたるよりはるか勝れり、歎くに及ばずと仰せられしかば、助次郎は思ひ寄らず面目を施しける、小笠原清十郎元忠は兼ねて弓籠手を好みてさしけるを御覧ありて、弓籠手は便よからぬものなり、腕に疵つくときは働のならざるものぞといましめ給ひしが、この戦に元忠敵三人切伏せしに、右の腕を打落され、左の手に太刀の腕貫をかけて働きしが、終に討死せしとなり、成瀬正成又成瀬小吉正成、このとき十七歳なりしが、敵陣に蒐入りて、首一つ取来つて御目にかくれば、その勇を称せられ、唯今旗本の人数少し、汝はこゝに止まれとのたオープンアクセス NDLJP:1-54まふ所に、御先手の崩れかゝる様を見て、正成また馳出でむとするに、馬の口取巒を控へて放さず、正成、柴武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて、鞭打つてあふれども猶放さず、君この体を御覧じ、士の討死すべきはこゝなり、放して遣せとのたまへば、口取放すと等しく敵陣に馳入りて、味方の退くものどもを励しつゝ奮戦し、又首を得てかへりぬ、後に正成が戦功を賞せられ、汝の働は宿将老師にもまされりとて、根来の騎士五十人を附属せられしとぞ、〈感状記、〉

玉虫忠兵衛玉虫忠兵衛といひしは、甲州の城意庵が弟にて、信玄・謙信に歴事し、後に当家に参り、此役にも供奉し、御行軍のさま拝覧してありしが、君忠兵衛に向はせ給ひ、今少し見合せて鑓を入れて見せむ、よく見よと仰ありしが、程なく御勝になりぬ、後に忠兵衛人に語りしは、君の御軍略は甲斐・越後には劣らせ給ふとも、御勇気の凛然たる事は、はるかに優らせ給へり、末頼もしき御事なりといひしとか、或時の仰に、玉虫はたはけたるをのこなれども、軍陣には眼の八つづゝあると仰せられしとぞ、後に上総介忠輝朝臣に仕へ、浪華夏の役に軍監つとめけるが、指揮のさまあしかりしとて御怒ありて、追放され、玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ、〈武功雑談、古士談話、大坂覚書、〉

初鹿野信昌初鹿野伝右衛門信昌は、甲斐の加藤駿河守が次男なり、同国に入らせ給ひし時、伝右衛門さま走廻りて勲功ありしかば、召抱へられむとせしに、己が旧知の四百貫に、実父駿河が遺領二百五十貫の地を共に書入れて、証状となして捧げしかば、兄丹後及弟弥平次郎両人、伝右衛門が一人して父が遺領とらむ様なしといひ争ひ訴へ出でしに、御糺ありて、たゞ四百貫の旧知のみをたまひければ、伝右衛門大にふづくみて、此度召出されし人々の内には、親兄弟のものを結び入れてしるし出せしを、そのまゝ下されしもあるに、己ばかりは賜はざるのみならず、あまつさへ奉行人の前に引出され、拷調にあひぬれば、この後人に面向けむ様もなしとて、さきに賜はりし御朱印のうち二箇所に墨を塗り、この御朱印は反古になりたり、我等が如く走り廻りても何の詮かあらむとて、人々に向ひ口さがなく広音吐きてゐたり、このよし岩間大蔵左衛門聞付けて、もとより伝右衛門とは中あしければ、これ究竟の事と思ひ、そのゆゑ目安に書連ねて奉りければ、御糺ありしに、目安にまがひなければ、大に御怒ありて、おごそかに警しめ給ふべけれども、世々オープンアクセス NDLJP:1-55武名ある家筋なれば、死一等を宥めて其禄収公せらるゝとなり、かくて伝右衛門旧知にも離れ、流浪の身となりてありしが、此度の戦に、ひそかに御陣に従ひ、三宅弥次右衛門正次と同じく敵の首取りて、内藤四郎左衛門正成に就て披露をたのみけれども、御咎蒙りし者ゆ憚りて聞え上げず、其折君はるかに御覧じ付けられ、伝右衛門これへ参れと上意なれば、御前に出でしに汝往年の罪により一旦はいましめつれども、久しからず呼返さむと思ひしに、よくもこゝまで供して高名せしぞとかへす仰せければ、伝右衛門かしこさの余り涙ながして拝伏す、其時弥次兵衛正次も傍より進みいで、さきに某一番鎗の仰を蒙りしが、まことは伝右衛門、某より一町余りも先にて、敵の首得たりと申せば、弥次兵衛も直実なるものよと、これも御賞誉を蒙りしなり、小幡昌忠小幡藤五郎昌忠は甲斐の小幡豊後守昌盛が子なり、武田亡びて後、当家に仕へ奉り、甲州の新府にて、北条と御対陣のとき、平原宮内といふ者、北条に志を通じける由露顕し、御前にて人の刀奪ひて切廻り、あまたの人に手負はせける所へ、昌忠走り来て宮内を切とむ、宮内倒れざまに払ふ刀に、昌忠​(左カ)​​右​​ ​の手首打落されぬ、其功を賞せられ父が本領給ひ、また外科に命じて療養せしめらる、かくて疵はいえたれど、かたはになりしかば、今は世のまじらひせむ事も叶はじ、暇たまはらむとこひ出でしに、左の手はなくとも、右の手にて太刀打はなるべし、あながち辞するに及ばずとて、もとの如く召仕はれたり、さてこの日の戦に昌忠敵の首二つ切つて御覧に備へ、また外に首二もち出で、これは家僕が取りしなりと捧げしかば、汝が家人のとりし首を我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば、昌忠畏つて御前を罷出でぬ、後近臣にむかはせ給ひ、かれ左の手首なけれども、その取りし首は家僕が力を添へしにあらずといふをしらしめむとて、家人のとりしをば別に見せしめしならむ、とかく甲州人には油断がならぬと仰せられしとぞ、水野正重又水野太郎作正重は、己が隊下の同心、銃もて森武蔵守長一を打落し、敵陣の色めくをみて正重たや一騎山の尾崎を乗下り、敵陣に蒐入りしを御覧じ、御馬廻に命じ、同じくかけ破らしむ、軍終りて後、今日の戦、大久保忠佐こそ先登して大功を立てしとて御感あり、正重、こは己れと忠佐を見違たまひしならむとは思へども、あながちいひも争はざりき、重ねて軍功を論ぜらるゝに及び、又この事仰出されしかば、正重もつゝみかねて忠佐に向ひ、尾崎より乗下せしは某オープンアクセス NDLJP:1-56なり、御ことは其折渡辺弥之助光と同じく久下に控へられたり、余人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど、御辺は数度の武功もありながら、上の御見違を幸に、人の働を己が功になさむと思はるゝか、御辺に似合はぬ事といへば、光も正重が申す所聊も相違なし、某も見届けたりと申す、君つばらに聞しめし分けられ、さてはわが見違ひしなり、正重心にかくるなと御懇諭ありしかば、正重もかへりて畏りて、その座をまかでしとぞ、武功によりて姓を改む又氏井孫之丞某・渡辺忠右衛門守綱二人は、池田が士卒を射しに、守綱鑓を落しければ、孫之丞敵の中へ駈入り敵を突伏せ、其鑓を取つてかへり守綱にかへしければ、この働武蔵坊弁慶にもまされり、今より氏を武蔵と改むべしと仰ありて、あらためしなりとぞ、〈岩淵夜話別集、落穂集、家譜、〉

軍機の洞察小牧対陣の折、当家及び織田信雄が勢、敵の二重堀に攻めかゝらむとしけるをみて、敵陣色めきしかば、その旨秀吉に告ぐるものありしに、秀吉折しも基を打ちて居られしが、二重堀破るれば兵を出すべし、早く知らせよといつて、もとの如く局に向ひ居たり、又こなたの御本陣へもかくと注進しければ、敵もし後詰にいづる程ならば、こなたよりも攻めかゝらむ、さまでになくば戦ふなと仰せられ、日中に及び両陣引上げゝる、後に筑紫陣の折、秀吉この事をいひ出され、先年小牧の時、など攻めかゝり給はざりしといふに、君、その折家臣どもは皆軍せよと勧めつれど、何某は小牧より勢をこなたに引付けむと思ひしゆゑ、かゝらざりきとのたまへば、秀吉も手を打つて感歎し、をのれも二重堀破るれば、小松寺より大勢を出し戦はゞ、必ず勝ちなむものをと思ひしといはれける、誠に敵も味方も良将のよく軍機を熟察ありしは、期せずして符を合する如くなりと、森右近大夫忠政が人に語りしとぞ、〈小牧戦話、〉

小牧山へ御陣をすゑられしとき、秀吉が方には隍をほり、柵をつくるを御覧じ、信雄にのたまひしは、先年長篠にてわれ故右府と共に、かゝる手術して武田勝頼を待うけしに、勝頼血気の少年ゆゑ陣をみだりて切かゝりしに、こなたは待設けし事なれば、思ふ図に引付け、鉄炮にて打すくめ、労せずして勝を得しなり、今秀吉その故智を用ゐ柵など作ると見えたり、かゝれば貴殿と我等を勝頼と同じたぐひの対手と思ふとみえたりとて、咲はせ給ひしとぞ、〈落穂集、〉

家康蟹江城を攻む滝川一益が秀吉に一味して、尾州蟹江の城に籠るよし告ありし時、尾州清洲におオープンアクセス NDLJP:1-57はしけるが、速に御出馬あるべしとて、奉書もて諸所へ触れしめらる、尊通といへる右筆、その状をかきて御覧に入れしに、可出馬とある文に至り、可字除くべし、軍陣の書は一字にても心用ゐて書くべきなり、今大敵を前に受けながら可出馬とかけば、文勢ゆるやかに聞ゆ、出馬するものなりとかゝば、その機速なりとて、書かへしめられしとぞ、同じ城責のとき、滝川が内に、滝川長兵衛といふ名ある者を捕へ来りしに、そが命を助けて返せとのたまへば、捕へしものやむ事を得ず放ちかへす、こは長兵衛程のものをかへし給へば、当家の兵鋒日数重ねても撓む事あるまじと思ひ、城兵おのづから退屈すべしと思しめしてなり、酒井忠次はこの城直に攻潰すべしといふに、まづそのまゝにして置けと仰せられ、九鬼が糧米を船に積みて城に入るゝをも支へむともし給はざれば、君には城攻を忘れ給ふかとさゝやきいふも聞入れ給はず、密に人に命じ城中の動静を伺はしむるに、此度一益、秀吉に頼まれて籠城しつれども、家康滝川一益を免すかく速に御出馬あらむとは思ひも寄らざりしといふを聞き給ひ、今は城兵疲れぬと見えたり、あつかひを入れてみよとて、その旨仰せつかはされ、且城将前田与十郎を切つて出さば、一益が一命は扶けむとなり、一益いなみけるを、家人等相議し、前田を切つて出しければ、約のごとく一益をゆるして城を受取らしめらる、一益が退去に及び、追伐たむといふを制して聞給はず、これも一益ほどの者をゆるさせ給ふといはゞ、秀吉方のものども思ひの外にて心を置くべし、その上唯今一益を扶け給ふとも、後に秀吉其まゝには捨置くまじと仰せられしが、果して秀吉一益が前田を殺せしを憤り、丹羽長秀が領内越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ、後に軍陣の事評するものゝいひしは、志津が岳は秀吉一代の勝事、蟹江は当家御一代の勝事にておはします、この後詰のとき、折しも湯あみしておはせしが、その告あるとひとしく、湯巻めしながら御出馬あり、従ひ奉るものは、井伊直政ばかりなり、滝川が船より城に入つて、残卒はいまだ上り終らざる内に、御勢は馳着きしとぞ、〈前橋聞書、小早川式部物語、老人雑話、〉

家康佐々成政に救援を約す佐々内蔵助成政、越路の雪を踏分けつゝ、さら越などいふ険難の地を歴てひそかに浜松へ来て、まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り、この上いよ心力をつくし、織田家の興立せむ事を願ふ由申す、君も成政が深冬風雪ををかし、はるばる参着せしを労せられ、われ元より秀吉と遺恨なし、たゞ信雄が衰弱をみるオープンアクセス NDLJP:1-58に忍びずして、故織田殿の旧好を忘れ兼ねて、わづかにこれを援けしのみなり、さるにこの頃、信雄また秀吉と和議に及びしときけば、わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ、さりながら成政旧主の為に義兵を起さむならば、援兵をば遣すべしとねもごろに待遇し給ふ、成政かしこまり御物語の序に、君を信玄に比し、己を謙信になぞらへ、自負の事どもいひ放ちつゝ、かへるさに信雄が許にゆきて、京に責上らむとそゝのかしけれど、信雄は已に秀吉と和せし上なれば、成政が言に従はず、よて後に成政もせむ方なく秀吉に降参せしなり、家康成政を評すはじめ成政が見え奉りしとき、高力与次郎正長めして仰ありしは、佐々は頗る人傑なり、かゝる者には知人となりて、その様見習ひ置くがよしと仰あり、酒井忠次は成政が自負を怒り、かゝるをこなるものに御加勢あらむは無用なりと申せば、かれもとより大剛の士なれば、その勇気にまかせ大言あるも理なり、さる事にかゝはるべからずと仰ありしとぞ、〈柏崎物語、〉

家康真田昌幸を恐る真田安房守昌幸、上田・戸石・矢津の城々明渡さむといふより、御家人を遣され請取らしめしむとありし時、真田は信玄の小脇差といはれし程の古兵にてあれば、定めてかの城々も守備堅からむ、その上彼が兄長篠にてわが勢の為に討たれたれば、此度弔ひ合戦すべきなど思ひまうけしも知るべからず、彼がごとき小身ものに五ヶ国をも領するものが打負けなば、いかばかりの恥辱ならむ、こは保科・蘆田などに扱はせよと仰せけれども、老臣強て申請ふにより、大久保・鳥居などの人々に、二万ばかりそへて遣はされしが、果して真田が為に散々打負けて還りしかば、いづれも御先見の明かなるに感じ奉りぬ、老臣重ねて兵を出さむと申上げしに、岡部弥次郎長盛に甲信の兵をそへて、信州九子表に出張し、真田が様を見せよと命ありて、長盛丸子に於て真田と戦ひしに、打勝ちて、真田上田に引退きしかば、ことに長盛が戦功を御賞誉ありしとなり、〈御名誉聞書、〉

三河草創よりこのかた、大小の戦幾度といふ事を知らざれども、別に当家の御軍法とて定れる事もなく、たゞその時に従ひ、機に応じて御指麾ありしのみなり、長久手の後豊臣秀吉たばかりて、当家譜第の旧臣石川伯耆守数正をすかし出し、秀吉石川数正を誘ふ数正上方に参りければ、当家にて酒井忠次と、この数正の両人は第一の股肱にて、人人柱礎の如く思ひしものゝ、敵がたに参りては、この後こなたの軍法敵に見透さオープンアクセス NDLJP:1-59れば蝱目にのぬけしなどいふ譬の如く、重ねて敵と戦はむ事難かるべしと、誰も案じ煩ふに、君にはいさゝか御心を悩し給ふ様も見えず、常よりも御気色よくおはしませば人々あやしき事に思ひ居たり、家康武田氏の軍法を用う其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ、信玄が代に軍法しるせし書籍、及びそのとき用ゐし武器の類、一切取あつめて浜松城へ奉らしめ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝の三人をもつて総督せしめ、甲州より召出されし直参のものをはじめ、直政に附属せられしともがらまで、すべて信玄時代にありし事は、何によらず聞え上げよとて、様々採撫ありし上にて、尚又取捨し給ひ、当家の御軍法一時に武田が規矱に改めかへられ、其旨下々まで普く令せしめ、近国にも其沙汰広く伝へしめられたり、〈岩淵夜話別集、〉

此巻は伊賀路の御危難より、長久手御合戦の後までの事をしるす、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。