東照宮御実紀附録/巻十二
御隠退の前かた、将軍家へ仰進らせられしは、小身の旗士へは、わきて目をかけて召仕はるべき事なり、同じ大名といふ中にも、三河以来の譜代より抜擢せられ、万石に列りし者は、当家と興亡を共にすれども、外様国持の輩に至りては、各そが家を大事と思ふからは、時に従ひ勢につき、たゞ家名の長く存せむ事をもて主とするは、古今の常態なれば、これまた深くせむるにたらずと宣ひしとぞ、〈駿河土産、〉
【家康貯蔵の金銀を秀忠に譲る】駿府へ移らせ給ひし年の十月、江戸へおはして、これまで江戸の西城に貯へ置かれし黄金三万枚、銀子一万三千貫をそのまゝ将軍家へ進らせらる、その時江戸の老臣へ仰ありしは、これは御身の奉養に用ゐ給はず、天下の物とも思召して、此上にも積貯へ給ふべし、平常の国費は年毎の入額もて弁じ、なるたけ浮費を省き、金貨を多く貯へ給ふべし、かく貯へ給へといふは何のためなれば、第一は軍国の費用に備へ、第二は不慮の大災にて、御居城はじめ城下の士民まで、焼亡にあひて艱困せむに、これを賑救あらむがため、第三は日本国中に守護・地頭を建置きて、万民飢渇せざらむ設はあるなれど、またいかなる凶荒打続きて、そが力も及ばざる時には、上より守護・地頭に力を添へて、それ〴〵に頒布して、救荒の政を施されむがためなり、これぞ天下の主たる者の本意なれ、かゝるをもて、当年の入額何程余分ありとも、あだに心得て、さまで功績なき者に、みだりに新地与ふる事あるべからず、将軍にはいまだ年若き事なれば、この後男子いくばく出生あらむも知れず、これまでわが末子にとらせし禄額もあれば、将軍の子達もこれに准じ、五万七万ばかり遣しては、国体に於ていかゞなり、故に天下の禄額のかねて減ぜぬ様にいたし置く事、経国の第一なり、その旨よく心得て、将軍にも申上げよと仰せられしとぞ、〈駿河土産、〉
これも御隠退の前かた、江戸より本多佐渡守正信、御用奉はりて駿河へまかりし時、正信に仰せられしは、我若年の時は軍務繁多にして学問するいとまなし、よて生涯不学にして、今此老齢に及べり、さりながら老子がいひし詞なりと人に聞き置きしは、【老子の二語】足る事を知りて足る者は、常に足るといふ詞と、仇をば恩をもて報ずる【 NDLJP:1-131】といふ二語は、若き程より常に心にとめて受用せしなり、将軍にはわれと違ひ、かねがね学問もせらるゝ事なれば、定めて聖賢の格言どもあまた心得てあるべければ、この語のみを用ゐられよといふにはあらざれども、汝等が心得までにいひ置くなりと宣へば、正信感銘して江戸にかへり、その由申上げしかば、将軍家直に御硯をめして、御みづから右の二語を記し給ひ、御座右に糊して置かせ給ひしとぞ、其後また金地院崇伝に命じ、この語を大書せしめて、平常の御座所に掛け置かれて、常々御覧あり、その御親筆は故ありて内田平左衝門正世が所持せしを、大猷院殿聞し召して、その子信濃守正信に仰下されて、御取よせありて、御床にかけられ、麻の上下めして御拝覧ありしとぞ、〈駿河土産、〉
【秀忠近侍の臣を誡む】江戸老臣のうち、誰にてかありけむ、江戸より御使奉はりて、駿河へまかりしに、御前近く召され、汝は将軍の心に叶ひてつかはるゝと見えて、此度も使に越されしな、おほよそ主の心にかなふは、いと難き事なるに、かくめみせよきはかしこき事なり、かゝるに付けても、汝が心懸また第一なり、すべて大小の諸臣をして将軍へおもひつかしむるも、又怨をふくましむるも、みな汝等が心ひとつにある事なり、第一、主人の気に入り、威権の帰するに従ひて、驕奢の心いつとなく出来る者なれば、わが身の尊くなるに従ひ、いよ〳〵慎謹にして、物ごと粗略にすべからず、また人を推薦するにも、いさゝか私意なく、その人品の邪正をたしかに見定めて、性質良忠にして、奉行・頭人にもなるべき器あらば、我と中あしくとも、私隙をすてゝこれを登庸すべし、第二は、重役のくせにて、己一人して万事を沙汰し、人には何もいはせぬ様にしたく思ふ心の出来るものなり、この心あらば、何程聡明にして才幹ありとも、甚害あるものなり、これを物にたとへば、舁夫の駕輿をかくに、其長同じ程の者が二人ある上に、また添肩の者がありてこそ、長途険所をもかき行くなれ、いかに剛力なりとも、一人して輿かくことはかなはず、その身の長短釣合はねば危き事なり、天下国家を治むるは、上もなき重荷なれば、その重荷を持こらへて落さゞらむために、数多の諸役人を建て設け、それ〴〵の位禄をも与へ置くなり、さるを己一人して、主の対手になりて担当せむと思ふは、大なる心得違なれ、舁夫に添肩のあるが如く、よき老臣あまた集り、奉行・頭人もそれ〴〵任にかなひ、何事も思ふ所をつゝまず、打明けて相議し、殊更善と思ふ【 NDLJP:1-132】事を取用ゐば、万民も帰服し、天下長久の基なれ、すべて和漢とも世々の名臣といはるゝ者は、一己の功を建てむとのみ思はず、賢哲を撰み材能をすゝめて、主の資とするをもて、第一の急務とす、汝等常々この旨同僚と相議し、輔導のたすけあらむ様に、心懸けよと仰せられしとぞ、〈駿河土産、〉
【土井利勝をして安藤直次に見習はしむ】駿河にて宰相頼宣卿の宅へ渡御あるべき御あらましなりしころ、土井大炊頭利勝はいまだ御側近くつとめし頃なりけるが、此度の事により、彼邸にまかりて、安藤帯刀直次が諸事指揮する様見習へと仰付けられ、利勝日毎に彼方に行きて見しに、諸役人帯刀が前に出て、この事をいかゞせむと議するに、己が意にかなふ事は領承し、かなはざる時は、いやあしゝとばかりいひて、何の指揮もせず、よてその者同僚と重議せし上にて、出でゝ伺ふに、又意にかなはざれば、幾度もかくのごとし、終に允当を得て後許容する事なり、利勝思ふに、人の物をとふに、あしとばかりいはむより、直にかくせよと指揮あらば、そのこと速に弁ぜむといふ、直次、某犬馬の齢既に長けて、この上は死なむのみなり、かく諸役人を遇するは、若き殿に人物を作りなして進らするなり、我指揮をうけてさへすれば、すむとのみ思へば、人人何事にも思慮を用ゐず、万事未熟にて、よき人物は出来ぬものなりといひしを聞きて、利勝大に感じ、こゝが君の見習へと仰せられし所ならむと心付き、後々機務を司るに及びて、下僚より議する事ある時、わが意に応ぜざれば、そはさる事なれども、また何とか仕方もあるべきか、同僚に相議して、重ねていひ出でられよ、同僚にて弁ぜずば、親族または家臣とも商量して申されよとありて、いよ〳〵評議を重ねて、理にかなへば、いかにも尤なり、その通にてよしといひしとぞ、これも君の御教諭によりて、利勝後に天下の良佐となりける事と、人々感歎せり、〈古諺記、〉
【土井利勝の失言】何役にや闕員ありし時、土井大炊頭利勝を召して、何某は人物性行いかにと御尋あり、利勝承り、その者は常に臣が方に出入せざれば、人物の善悪聞え上げ難しと申す、君聞召し御気色損じ、なべて諸旗本の善悪を知らぬといはゞ、わが非理なれ、今問ふ所の者は、さのみ人に知られまじき程の身分の者にてもなし、さるを知らずというてすむ事か、汝等は家人の善悪を常に見定めて、わが用ゐむ時に、いひ聞かするが主役なれば、いづれにも知らずといふ事を得ず、汝をかゝる心がけの浅露なる者と知らで、年若ながらも用にも立たむと思ひて、老職に登庸せしは、かへ【 NDLJP:1-133】す〴〵もわが過誤なれ、よく〳〵かうがへて見よ、総じて武辺の心懸深く、志操あるものは、上役に追従せぬものぞ、されば重役の許に出入せざる者の中に、かへりて真の人物はあるなれ、そが中にて人材を撰ぶこそ忠節の第一なれ、今雑庫の中に名高き刀剣埋れてありと聞かば、誰も掘出しわれに示し、悦ばせむと思ふべし、刀剣は何ばかりの名作といへども、治国の用に立たず、我常にいふ所の宝の中の実といふは、人材に如くはなしといふ語を、空耳に聞くゆゑ、かゝる卒爾の
一とせ尾張国通行の時、薩摩守忠吉朝臣に御所望ありて、その国の鍛工のきたひし小刀・剃刀の類を、供奉の面々へ下されけり、その時朝臣、昔よりこのかた、御武辺の御物語うけたまはりたき由を仰上げられければ、古き話をきゝたしとある心懸ならばよしと宣ひしのみにて、別に御話はなかりしとぞ、〈駿河土産、〉
【江戸城の改築】慶長十一年、江戸の城改築ありし時、藤堂和泉守高虎を召して、泉州老練の事なれば、よく参議し、思ふ所つゝまず申さるべしとありて、指指を出され、高虎と共に御覧じ、この所はかく、かしこはかうよとて、御みづから朱墨もて引直し給ひ、おほよそ城取といふものは、強ち人の才智もて作り得るものにあらず、その地勢に応じ、自然と出来るものなりと上意ありて、その図定まりて後、将軍家にも見せ奉れと仰ありて、御覧に入れしに、つばらに御覧じ、申す様もなき経営の御規模かなと御感賞あり、その後諸大名に課して経営を始められ、竣功の後、殊更に高虎が労をねぎらはれ、加恩の地二万石賜はりしとぞ、〈藤堂文書、家譜、〉
【殉死の禁】慶長十二年三月、薩摩守忠吉朝臣江戸にて病卒ありし時、近臣稲垣将監・石川主馬・中川清九郎など追腹切りしと聞しめし、殊に御気色あしく、江戸の老臣共は何と【 NDLJP:1-134】て制せざるぞ、制しても聴かずば、将軍へも申し、おごそかに咎申付くべきにと上意ありて、重ねて仰せけるは、おほよそ殉死は昔よりある事なれど、いとえうなき事なり、それ程主を大切に思はゞ、己が身を全うし、後嗣に仕へ忠義を尽し、万一の事あるに臨み、一命をなげうたむこそ誠の忠節なれ、何にもならぬ追腹切るは、犬死といふものなり、畢竟は主のうつけにて、かねて禁じ置かざるゆゑなりと宣ふ、この由江戸へも聞え、その閨四月、越前黄門秀康卿、北の庄にて卒去ありし時、将軍家よりかの家長等へ御書を賜はり、第一殉死をとゞめられ、駿府よりも同じ旨仰下さる、その大略は、黄門卒去あられしにより、殉死のものあらむと聞し召し及ばれぬ、一旦の死は易く、後嗣を守立て節を尽すは難し、北の庄は北国枢要の地にして、国家鎮禦の第一なれば、黄門へ忠義を尽さむと思ふものは、一命を全うして後命をまつべし、ゆめ〳〵無益の死を遂ぐべからず、もし此旨違背に於ては、子孫までも絶さるべしと仰下されしなり、この御書いまだ彼地に到着せざる前かた、永見右衛門・土屋左馬助などいふ黄門の近臣死せしのみにて、その余は殉せしものなかりき、かくかね〴〵厳禁ありしゆゑ、君大喪の折も、台徳院殿御事の時も、一人も殉死はなかりしなり、〈駿河土産、慶長見聞書、貞享書上、〉
【忠吉と秀康との卒去】薩摩守殿卒せられし時、君は伊豆の三島におはしけるが、江戸より土井大炊頭利勝御使して、かくと聞え上げしに、さこそ御痛悼おはしまさむかと思ひけるに、頃日の病体にては、さもありなむと仰ありて、例の如く、鶴の羮作れ、鷹野にも出でむとて、さして御悲歎の様にもおはしまさず、天海僧正にが〳〵しき事と思ひながら御前に出で、薩摩殿の御事によて、さぞ御歎おはしまさむかと思ひつるに、かゝる御気色にては、愚僧までも安心なりと申す、君又、われはたゞ将軍の親弟を失ひて、哀戚あらむかと、是のみ心にかゝると仰せられしなり、秀康卿卒去の時は、かへりて御愁傷申す許なし、こは薩摩殿はかねてより病体さはやぎ給ふまじと思召し定められしゆゑ、大事に及びても、さまで御哀痛もなく、秀康卿元来御長子といひ、且度々軍陣の御用にも立たせられ、今はまた北国におはして、常にとほ〴〵しくのみましませし上に、薩摩殿卒後いまだ幾程もなく、さしつゞき此卿も失せ給ひしゆゑ、取集め一入御愁悼深かりしならむと、人々思ひはかりしとなむ、〈池田正印覚書、駿河記、〉
【佐の局】秀康卿の病中に、かねて佐の局とて、君にも知ろしめしたる女房を駿河に進らせ【 NDLJP:1-135】られ、秀康こたび重病に罹り、とても世にあらむものとも思ひ侍らねば、うち〳〵この由仰せ進らせるゝなり、君聞し召し驚かせ給ひ、わが子多き中にも、秀康は長子といひ、殊更勇烈にして、度々軍功もありし者なり、さるをたゞ越前一国のみ与へ置きては本意ならず、此度の病平癒せば、その祝儀として、近江・下野の中にて、二十五万石まし与へ、百万石になし下されむ、汝とく越前にかへり、この旨申聞けて慰めよと仰ありて、御書付を下されければ、局は夜を日についで急ぎ立かへりしが、三河の岡崎にて卿の告を聞き、又駿河に引かへし御前へ出でしに、君にはこの折棋を囲みておはせしが、聞かせ給ふと、御愁悼の様かぎりなし、局はかの御書付を取出して、こは大切の御書なれば、返し奉るとて上ぐれば、女ながらも心きゝたる者よとて受取らせ給ひしとぞ、かの藩士等は内々この事きゝ伝へて、いらぬ女の利発だてよといひけるとか、〈天元実記、貞享書上、〉
慶長十三年十二月、武州河越に御鷹狩あり、その頃新庄越前守直頼は剃髪して、宮内卿法印とて御供せしが、【惣節居士】直頼に仰ありしは、近頃下総国の海上に一人の隠者ありと聞く、いと淳直の者にして、華飾なく財利を貪らず、常に一瓢を軒にかけ、里民の贈与をまちて食とす、もし瓢中空しき時は、強ち求むる事なし、氏姓をきくに、ただ三好家の者とのみいらふ、直頼が父蔵人直昌は、先年摂津江口の戦に討死す、其始末かれ定めてしりつらむ、汝ゆきて問ひ来るべしと仰ありしかば、直頼かの海上にゆき、隠士の家求めいでしに、七十余の老僧、法華経を読誦して居たり、名は惣帰居士といふ、直頼其庵に入りて対面し、四方山の物語きゝし序に、かの江口の事いひ出で、新庄といふ人の討死の様、及び其家人の首級実検せし事などかたる、直頼も思はず涙を浮べ、その新庄といふ人こそ、わがなき父直昌が事なれ、さて又御辺が姓名は何といはるゝかと問ひしに、隠士もいと驚歎の様にて、何とも名乗らず、直頼また、その時金の采配取つて三軍を指揮せし武者ありときゝしは、誰が事なりといへば、これぞ某が事なれとばかりにて、終に姓名を語らざれば、直頼辞して河越にかへり、その旨申上げしに、君も甚御感ありしとぞ、〈寛水系図、〉
【浄土法華の宗論】駿府にて浄土・法華の宗論起りて、既に対決に及ばむとす、まづ法華僧を御前へ召して、汝明日の対決に勝ちなば、ゆゝしき眉目なれ、さて負けたる浄土僧をばいかがすべきやと尋ね給ふ、僧申すは、かの首刎ねられ、その宗を絶し給はゞ、重ねて宗【 NDLJP:1-136】論起りて、上裁を労する事もあるまじきなりと申す、また浄土僧を召して、同じ様の事問はせ給ふに、何とも御請申さず、しひて問ひ給へば、宗論の起るも、各の祖師を尊信するゆゑなり、彼等が負候とて、強ち御咎にも及ぶまじ、そのまゝに差置かれてよからむといへば、御気色かはり、我かく切問するに、汝実情を白さぬかと、なほなほ責め問ひ給へば、さらば宗論に負けしは其宗の恥辱なれば、三衣を脱せしめ給はむのみといふ、こゝに於て御気色直り、かの僧神妙に思召し、御膳を下されまかでぬ、後に近臣に、明日の論には、いづれが勝たむと、汝等は思ふと上意なれば、いづれも決し難しと申す、仰に、必ず浄土勝ちなむ、いかむとなれば、日蓮僧は浄土に勝たば、その首を刎ねよとは、そが邪念より起りて、釈徳に似つかはしからぬいひ言なり、浄土は三衣を脱せむのみといふ、これ出家相応の答なり、故に浄土勝たむと思ふなりと宣ひしが、果して明日宗論はじまりしに、浄土の方勝ちぬ、人々御明察にして、御詞の露違はぬに感じ奉りぬ、この後はいたく宗論を禁ぜられしとぞ、〈校合雑記、〉
【蜂須賀家政】蜂須賀家政入道蓬庵が駿城にまうのぼりし時、さいつごろ秀頼公の気色うかゞはむため阪城に参りしに、大野修理亮治長密に申しけるは、入道には故太閤の厚恩受けられし事は、今に於て忘却はあるべからず、此後とても万事たのみ進らする由物語候ひき、かゝる事入道のみ聞き置きてもいかゞなれば、内々聞え上ぐると申しければ、俄に御けしき損じ、入道には年老いて、しれたる事いはるゝな、先年関原の時、われ殊更に仁典もて、秀頼の一命を助け置くのみならず、摂・河両国もて封邑とし、安楽にすごさしむるに、何の不足かあらむ、さるを入道が口より、かゝる事いひ出でゝよきものかと仰せらるれば、蓬庵もかしこまり入りて御前をまかでぬ、こは浪華の騒乱の前方の事にて、さる御下心ありて宣ひしなりとぞ、〈駿河土産、〉
【不明の門】駿府の不明の御門は、小十人の徒更番して守ることなり、ある日村越茂助直吉他所へ御使に参り、日暮に及び御門に至れば、既に御門は閉ぢたり、村越茂助なるが、御使はてゝたゞ今帰れり、御門を明けられよといふ、番の者、期限後れたれば、明くることかなはずといひしらふ所へ、安藤彦兵衛直次も通りかゝり、こは茂助に紛れなし、ひらに明けて通されよといふ、小十人云ふ、方々は重き御役をも勤められながら、さる事いひてよきものか、この御門はかねて日暮の後は人を通すまじと【 NDLJP:1-137】の御定なれば、誰にも通す事はかなはずとて、終に明けざりけり、この由聞し召して、この日当番の小十人両人へは加恩賜はり、常々よく御門を固守するとて賞せられ、後に二人とも紀伊家に附属せられしとなり、〈駿河土産、〉
【家康源頼朝を評す】常に鎌倉右幕下の政治の様、御心にやかなひけむ、その事蹟どもかれこれ評論ありし事多し、頼朝石橋山の戦に打負け、朽木の中にひそまり居しを、梶原景時が助けしとき、景時ちかごと立て、君もし後日天下の主になり給はゞ、景時を執権職にせられよといひしを、頼朝うけがはれぬ、さりながら若悪事もあらむには、刑戮に処すべしといはれしは、かゝる艱困の中といへども、大将たらむ人の体面を失はざりしは、実に将軍の器といふべし、又頼朝が七騎落の時、先例あしゝとて、一人の供奉を減じたるはいかなる故ぞ、かゝる時は一人にても多きがよきにと仰せらる、また頼朝陰晴をよく見定むる者を召し呼びて、浮島が原に出で天気を見定めしむ、その者、天気は見馴れし所にては分り易く、さなき所にては知れ難しといひしとか、こはいと尤の事なりと仰せらる、また頼朝蛭が小島に潜居の時、家僕に語られしは、われもし本意遂げて、天下の兵権を掌に握る事もあらば、必ず汝に恩禄取らせむといはれしを、その者嘲笑ひて居けり、後に頼朝将軍職になられて普く恩賞行はれし時、その者の沙汰には及ばざりき、よてその者むかしの事いひ出でしに、汝は昔わが詞を咲ひしを忘れしにやといはる、其者、いや某わすれは候はず、さりながらよくかうがへて見給へ、そのかみより、憂き年月、さまで頼もしく思ひ奉らぬ主君に、今まで附添ひ進らせし某を、はじめより此君に仕へて、功名をも立てむと思ひし人々に比べては、某が方かへりて忠義に候はずやといひしかば、頼朝も理に屈して、その者に厚恩を施されしとか、こは其者の詞いと尤なれと仰せられけり、また夜話の折、御談伴等申すは、頼朝は古より名将といひ伝ふれども、平家追討にさゝれし三河守範頼・伊予守義経二人の弟は、勝れて軍功もあるを、後に誅戮せしは、少恩の至ならずやと申せば、君、外々の者どもはいかゞ思ふと宣へば、いづれも同意の由を申す、その時、それは世にいふ判官びいきとて、老嫗児女など常に茶談にする事にて、採るに足らず、すべて天下を治むるものは、己が職を譲るべき嫡子の外、庶子の分には、別に異礼を施す事なし、其親族たるをもて、国郡の主になし置くといへども、これを遇するに至りては、外々の大名とかはれる事なし、【 NDLJP:1-138】よてその兄弟たる者も、身を慎しみ上を敬し、万事を篤実にせばよし、もし兄弟の親をたのみにし、無道の挙動するを、親族なればとて見のがしては、外様の示にならざるより、親族のわいだめなく、理非を分明に行ふこそ、天下の主たらむ者の本意なれ、驕奢無道ならば配流に処し、もし反逆の企もあらむには、死刑に行はねばならぬなり、すべて天下の主の心と大名の心とは、大にかはるものなり、さる大体を弁へずして、頼朝を非議するは、これまた老嫗児女と同日の所見なれと仰せられしとぞ、〈駿河土産、〉
【名古屋の築城】慶長十五年、諸大名に命じて尾州名古屋の城を改築せしむ、その頃福島左衛門太夫正則・池田三左衛門輝政に向ひいひけるは、近年江戸・駿河両城の経営ありて、諸大名みなこれが為に疲弊せり、されどいづれも天下府城の事なれば、誰も労せりとも覚えざるなり、この名古屋は末々の公達の居城なるを、これまで我等に営築せしめらるゝはあまりの事なり、御辺は幸大御所の御ちなみもあれば、諸人のためにこの旨言上せられよといふ、輝政は何とも答へざりしが、加藤清正大に怒り、正則に向ひ、御辺は卒爾なる事いはるゝものかな、経営を厭はるゝならば、人に議するまでもなし、早く自国に馳せ帰り、兵を起さるべし、さる事もなり難くば台命に違ひて、えうなき事いひ給ひそといたく誡めければ、正則も面あかめて居たり、後にこの事聞かせ給ひ、輝政を召して、諸大名度々の経営に難義すと聞きぬ、ばいづれも本国に馳かへり、城地を固くし人衆を集めて、わが討手の至るを待つべしと仰せければ、いづれも大に恐怖し、速に人夫を駆り集め、夜を日に継ぎて経営をはじめ、土地をならし、二十万の人夫もて、西海・南海の大石を伊勢・三河の大船もて運致し、石畳を築き城溝を掘り、いくばくもなくして竣功せしとそ、〈武徳大成記、〉
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