東照宮御実紀附録/巻十一

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東照宮御実紀附録 巻十一
 
秀忠参陣の遅刻

関原の役に、中納言殿は木曽路を経て、九月十三日大津の宿に御着あり、其日は御不予とて御対面なし、あくる十四日、御快然の由にて、中納言殿はじめ奉り、供奉の者までみな謁見す、中納言殿此度御遅参により、大事の戦に合はせ給はざる由謝し奉らせ給ふ、君の仰に、さきに参陣の期限申遣せし使のもの、違言なきにしもあらざるべし、あながち心を労せらるゝに及ばず、およそ此度のごとき大戦は、園碁と同じ様のものなれ、枢要の石だにとり得ば、対手の方に何ばかり目を持ちし石ありとも、そが用に立たぬものぞ、こたびの一戦にだに打勝たば、真田が如きの小身は、何程城を持固めたりとも、遂には聞おぢして、城を明けて降参せむより外なし、此度供奉せし者の中に、かゝる事議せし者はなきかと尋ね給へは、中納言殿、戸田左門一西こそ上田表にてかゝる事申出せしとて、戸田一西つばらに仰上げさせ給へば、供奉の人々の方を御覧じ、左門と召されしに、一西聞き得ざりしかば、中納言殿御オープンアクセス NDLJP:1-120高声にて召し呼ばる、西驚きて御前へ出でしに、御菓子を両の御手にてすくはせ給ひて下され、汝は小身にて口がきかれざるな、やがて口のきかるゝ様にしてとらせむと宣へば、一西あまりのかしこさに、いまだ御請もせざる中に、中納言殿御側より御懇の仰を蒙り、かたじけなき由御執謝あり、これまで一西は武州鯨井にて五千石下されしが、明くる慶長六年、江州膳所の城を預け給ひ、三万石になされしなり、その時本多正信を召して、こたび膳所の城新築ありしが、この所王城に近くして枢要の地なり、誰に守らしめむと問はせ給へば、正信しばし思案して、戸田左衛門一西こそ武勇すぐれ、且天性誠実なれば、これに過ぎたるはあらじと申せしにより、一西に定まりしとぞ、〈天元実記、明良洪範、〉

前田利長丹羽長重の罪を請ふ加賀中納言利長は北国を切従へ、大津の御陣へ馳参り、土方勘兵衛雄久と共に謁し奉る、君御気色斜ならで、その功労を賞せらる、利長、此度丹羽宰相長重はじめ逆徒にくみせしといへども、先非を悔い、某に就いて降謝をこひ奉るうちに、関原の戦既に御勝利に属しぬれば、今更忠功を励むべき便なし、あはれ願はくは一旦の科をば御許ありて、後効を勤めしめむといへば、御辺が請はるゝ所は、何事も申すまゝたるべけれど、この事に於てはかなひ難し、抑宰相が亡父長秀死期の様、武士の本意にあらずとて、故太閤の怒大方ならず、既にその所領をも没収せられむとありしに、われ長秀とかね親好あるをもて不便に思ひ、かれこれといひなだめて、本領安堵せしのみならず、長重また官位までも昇進せしは、みなわが旧恩ならずや、さるを忘却して賊徒にくみし、剰御辺と干戈に及びし事、死刑にも処すべきものなりと宣へば、利長なほまたさま言を尽して陳謝し、中納言殿も御傍より御解説ありしかば、辛うじて御許あり、利長のかくまで請はるれば、まげて長重が一命をばゆるし遣すにより、小松の城を明けて利長に引渡し、何地へなりとも立退くべしとて、雄久をもて長重が方へ仰遣さる、利長また越前北の庄の城主青木紀伊守一矩も同じく御許蒙ちむと請ひ奉れば、かゝる族は外々にもあるべし、城だに明け退かば一命をばゆるし遣はすべしと仰せられしとなり、〈天元実記、〉

三成の捕縛石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉隆二人が行衛知れざれば、田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる、この時三成はなみの者にあらざれば、今日落入となりても、明日は又いかなる企せむも計り難し、然るを田中一人に捜捕せしめらるオープンアクセス NDLJP:1-121るは、いかなる事にかと私議する者あり、幾程なく吉政石田を捕へ出で進らせぬ、その時の仰に、田中はかねて治部と中がよかりしゆゑ、いさゝか嫌疑なきにしもあらざりしが、此度の功によて、わが疑は晴れたりと仰せければ、諸人はじめて盛慮の深遠なるを感じ、もし此度吉政石田を捕へ得ざらむには、その身いかに危かりなむといひ合へりしとぞ、〈武功雑記、〉

石田三成を捕へ来りし時、、その状を尋ね給へば、三成関原の戦敗れて後、伊吹山に逃げ入り、草津の駅に出でしが、天運の尽くる所にて、折しも腹病を煩ひ出し、詮方なくて身を樵夫にやつし、弊衣を着し、腰に鎌を挟み、かくれ居りし所を捕へられしといふ、御前伺公の徒、かゝる大逆を企つる者が、死を惜む事のうたてさよと口口にいへば、三成死を惜むにあらず聞召して、おほよそ人は身を全うしてこそ何事も遂ぐるものなれ、大望を思ひ立つ身にては、一日の命も大事なり、未練といふにあらず、早く衣類を与へ食事なども喰はるゝ様にして進めよ、もし病気ならば、医者にも見せしめ、よく扶助して、よろづ不自由ならざらむ様にはからへとて、父の仇なれば鳥居彦右衛門元忠が子久五郎成次に預けらる、成次仰の如く懇に労はりしゆゑ、さすがの三成も涙流してその厚意を感ず、数日軽て成次見え奉り、尊意の辱きを謝し、且亡父元忠が一命を奉りしは、全く君の御為なれば、あへて三成が所為とも思ひ侍らず、元より私の遺恨あるべきにあらず、さりながら三成は天下の御敵なれは、余人にめしあづけられむかと申上げしに、御感ありて、本多上野介正純に預けられしとぞ、〈岩淵夜話、鳥居家譜、〉

十九日御上京の御道すがら、何者ともしれず、黒き具足を着、鹿毛の馬に乗り、金のさい槌の指物さして、御路の先を行く者あり、其あはひ十町計も隔てたり、供奉の者は心付かず、定めて大名の使番にてもあらむかといふ、君には遥に御覧じとめられ、あらためよと宣ひて、速に物色せしに、敵方の落人なれば、成敗せよとありて路傍にて切捨にせしとなり、〈明良洪範、〉

浮田秀家薩摩に遁る浮田黄門秀家は戦負けて後、伊吹山へにげ入り、家人進藤三左衛門正次といふ者たゞ一人附従へり、正次秀家にいふやうは、日ごろ君が御身に附けられし鳥飼国次の脇差は、衆人の知る所なれば、これを某に賜はらば、某徳川殿に参り、はからはむ様あり、御身はいかにも此地を遁れ、薩摩がたへ下り給へとすゝめて、正次かのオープンアクセス NDLJP:1-122脇差もて本多忠勝が陣に参り、某主の秀家を手にかけ、その死骸をば深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差を持参したりと申せば、忠勝、何ゆゑ検使をうけずして、密に秀家が屍を埋めしといへば正次、厚恩の主なれば、たとひ手にかくるとも、いかで其首敵に渡し、梟木にかけむや、抑此脇差は秀家が常に愛して、身をもはなさゞりしことは、内府公にも知ろしめせば、御覧にいれ給はれといふ、忠勝これを御覧に入れしに、まがふべくもあらず、かれ秀家を害せずば、よも当家に降ることはあるまじとて、御家人に召し加へらる、其頃人々、主を害して己が功にせむとす、後にはいかなる御誅伐にあはむも計り難しと囁きけり、さて秀家は虎口をまぬかれ、辛うじて薩摩へ下りけるが、後にその由聞え、かの国に仰ごと下り、秀家を召し呼ばる、進藤正次よて正次が前言の齟齬せし事を糺明に及びしに、正次承り、いかにもはじめは秀家を遁さしめむとて、詐言を申せしなり、主の為にこの身を失はむは、元より期したる所なれば、この上はいかなる重刑にも処し給はれといふ、この旨聞し召し、己が一命をすてゝ主を救はむとせしは、あつぱれ忠義の者かなと御賞詞ありて、ありし月俸をそのまゝ賜はりたり、秀家が八丈島へ遠流せられし後も、旧恩を忘れず、屢海舶の便に米金を送るよし聞えしかば、これも御感にあづかり、采邑五百石賜はりしとなむ、〈武家閑談、寛永系図、〉

按に、家譜には、初正次秀家に従ふ事三日にして、その後は行衛を知らずといひ、又仰により、関原の辺に行き、国次の刀を求め出して献り、後に秀家薩州にあると聞えて召し寄せられ、正次が事を御糺しあれば、かれ秀家に従ふ事五十日余なりといふ、然るを三日といひしは、全く主のためを思ひ、詐言をいひてその期を延ばせしは、げに忠臣といふべしとて御感ありしとなり、おほかた本文と同じ様にして、いさゝか異なり、こゝに附記して一説に備ふるのみ、

大津籠城大津の城巡視ありしに、山岡道阿弥御供にありて、此度京極高次上方の大敵を引受け、数日の防戦、感ずるに堪へたり、たゞ一日を持かゝへずして明け退きしは、近頃残多き事なりと申せば、何と仰せらるゝ旨もなく、たゞ奥平九八が長篠籠城の折は、此様の事にてはなし、戦終りて後見たりしに、壁は土を振り落して籠の如く、戸板は鉛丸に打貫かれて障子の如くなるを、筵畳をたて重ねなどして、持こらへたるはと御物語ありしとなり、〈太平雑話、〉

オープンアクセス NDLJP:1-123三成の遺子を免す本多佐渡守正信、中納言殿の御供して、二条の御城にて謁し奉りし時、石田三成が息、妙心寺のうち寿性院が弟子になりて、既に幼年より釈徒にもなりてある事なれば、ゆるし給はれと、かの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば、正信承り、それは早く御許あるべし、三成は当家へ対し奉りては、よき奉公せし者なれば、そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも、何のさゝはりかあらむと申す、君、三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば、正信、さむ候、こたび三成妄意にかゝる事企てずば、御勝にもならず、当家一統の御代にもなるまじ、さすれば治部は当家への大忠臣と存ずれといへば、ほゝゑませ給ひ、おがくずもいへばいはるゝものとの御戯言ありしとぞ、〈霊巌夜話、〉

按に、此石田が子の僧、其願のまゝ助命ありて、後には済院和尚といひて、泉州岸和田に居しが、年老いて後は、岡部美濃守宣勝、故ありてよく扶助して、終りをとりしとなり、

家康諸将と世子を議す関原の役既に終りて、大久保治部大輔忠隣・本多佐渡守正信・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝・平岩主計頭親吉の人々を召し、我男子あまたもてるが、いづれに家国を譲るべき、汝等思ふ所をつゝまず申せとの仰なり、正信は、三河守殿こそ元よりの御長子といひ、智略武勇も兼ね備り給へば、此度こそまさしく監国に備はらせ給ふべけれと申す、直政は、下野守忠吉卿然るべしといひてやまず、其外もまちまちにして一決せず、忠隣一人、争乱の時に当りてこそ、武勇をもて主とすれ、天下を平治し給はむには、文徳にあらでは、大業守成の功を保ち給はむこと難し、中納言殿には第一御孝心深く、謙遜恭倹の御徳を御身に負はせられ、文武ともに兼ね備らせ給へば、天意人望の帰する所、この上にあるべしとも思はれずと申し、其日はそのまゝ何とも御沙汰なくして、各退去せしめられしが、一両日過ぎて、先の人々を召し、忠隣が申す所、吾が意にかなへりとて、遂に御議定ありしとかいひ伝へし、抑中納言殿年頃儲位におはし、御官途も外々の公達より進ませ給ひ、すでに関東へ御遷ありし時、諸臣及寺社等へなし下されし御書は、皆中納言殿の御署状なれば、傭位の定まらせ給ひしはいふまでもなく、その頃より既に御位をも譲らせ給はむ尊慮にてありしなれば、この時に臨み、かゝる異議おはしまさむにもあらねど、関原御凱旋、天下一統のはじめなれば、なほ群臣人望の帰する所を試み給オープンアクセス NDLJP:1-124ひしものなるべしと、恐察し奉る事なれ、〈武徳大成記、烈祖成績、〉

この戦終りて後しばし大阪の西丸におはしまし、井伊・本多・榊原の人々して、此度諸将の勤怠を糺し、忠否を明にせしめ、天下の機務を議せしめられ、本多上野介正純して訴訟のことを司らしむ、又この人々を中納言殿御方に進らせ、此度の闕国もて有功の者に宛行はむとす、さるにてもまづ御居城をば、いづくに定め給はむか、江戸を秀忠の居城となす江戸をもてその所となさむかと、御意見を訪はしめ給ふ、中納言殿御答には、某年若くして何のわきまへか候べき、天下を経理せむに、さりぬべき所をもて、御居城と定め給ふべきか、然ればいづれも盛慮に任せらるべしとなり、よて遂に江戸をもて御本城となし、秀頼をば大阪に居らしめ、摂津・河内の両国を授けられぬ、其頃老臣等申上ぐるには、こたび逆徒等、秀頼が名を借りて大乱を起せしも、全く阪城の険要をたのめばなり、このまゝさし置かれば、後々とても同じ姦計思ひ立つもの、出来むもはかり難しと申せば、君、秀頼元より幼称にして、何事をかしらむ、さるを今当城を追ひ退けて、他所に引移さば、天下に於て利ありとも、われ何ぞこれをなすに忍びむやとて聴かせ給はず、片桐市正且元をして秀頼が輔導たらしむ、かくてぞ皆その公平仁慈の御処置に感服して、天下一同安心せしとぞ、〈武徳大成記、〉

福島正則家康に謁す福島左衛門大夫正則は、此度の大功により、安芸・備後の両国を賜はり、はじめて襲封を謝し謁見せし時、家長三人も謁を許さる、第一備後神辺の城主福島丹波は、片足なへて進退思ふ様ならず、第二同国三好の城主尾関石見は免欠なり、第三同国本条の城主長尾隼人は一眼なり、〈一説、準人は丈短く、耳遠く、左手きかずといへり、〉いづれも片輪なれば、御側に侍せし者、思はずに咲出しぬ、謁見終りて後、御気色あしく、汝等かの三人の不成なるを見て咲ひたるな、おほよそ人はいつの時いかなる働して、片輪にならむも計り難し、かの三人は武勇の誉高き者どもなれば、正則が家にても、追々に家長にまで取立てられ、家康が目通にも出づるとあるは、なむぢやう栄耀の事ならずや、されば汝等が忰心には、彼等にあやかり度と思ふべきなり、さるまことの心付なきゆゑ、咲も出づるなれ、総じて武士は生れ付かぬ片輪になるものよと覚悟をきはめねば、武功はなし得ざるものなれ、我心には、彼等をば汝ごとき若者には、煎じても飲ませたく思ふなりと御教諭ありしかば、人々何事に付けても、尊諭の辱きことゝ、かたみに感じ思へりとぞ、〈岩淵夜話、校合雑記、〉

オープンアクセス NDLJP:1-125大野治長土方雄久の戦功を賞す土方勘兵衛雄久、大野修理亮治長の両人も、本領安堵を命ぜらる、この両人は、先年大坂の奉行等が内意をうけて、君を害し奉らむとはかりし者どもなれば、此度そが一命を助けらるゝだにあるを、本領安堵とはあまり寛典に過ぎたると申す者ありしに、いやとよ、かの両人奉行の指揮を受けて、家康をだに害せば、秀頼が為にならむと、一筋に思ひこみしは、我に対しての敵なれど、秀頼が為に忠臣といふべし、まして今度修理は浅野幸長に属して、岐阜の城をも攻め、又関原の戦には、わが本陣に伺公して、石田が備へ矢の一筋も射懸けたしと、幸長もてこひ出で、敵方に名あるものを打取り、頗忠勤を抽でぬ、雄久も小山より我使をうけたまはりて北国に赴き、前田利長と共に諸事を相議し、わが為に馳廻り、一かどの微功なきにあらず、古人の旧悪を思はずとこそいひしに、ましてかの両人の所為、秀頼が為を思ひしなれば、旧悪といふにもあらず、かたその功を賞すべき事なりと仰せられき、漢の高祖が丁公を誅して雍歯を賞せし故事よりも、なほ寛宥の御所為は、遥にまさらせ給ふと、人みな仰服し奉りしなり、〈岩淵夜話、〉

浅野幸長の狩猟浅野左京大夫幸長は、此度の戦功によて、甲斐の国を転じて紀伊国三十七万石に封ぜらる、就封の後、後藤庄三郎光次暇給はりて、熊野祠へ参詣して還り謁せし時、汝は熊野のかへさは、幸長が許へも尋ねしや、幸長何をもて汝をもてなせしと問はせ給へば、さむ候、幸長紀伊河と申す所へ舟行せし供に参り、網引し魚など捕なぐさめ申し候、又山狩・鷹狩に出でし折も参りしが、これはいと目ざましき見物にて候ひき、それにつきたゞ某が思慮の及ばぬ事の候、はじめの度は雉子・山鳥、あるはむじなの獲物多かりしかば、定めて歓喜ならむと思ひしに、其日はさむ腹立ちて、勢子奉行はじめ、すべて役懸の者みな勘事に逢ひぬ、次の度は何の獲物もなければ、定めて不興ならむと存ぜしに、思ひの外心地よげにて、諸役人殊に出精せしとて、慰労の余、それに賜物とらせぬ、これぞ今に考へ得ぬ事にて侍れと申しければ聞召し、汝等が思慮には及ばぬ筈なり、幸長が所為は真の鷹山にて、物数の多少による事にてなしと仰せられしとぞ、〈駿河土産、〉

政仁親王宣下慶長五年二月廿八日、今上〈後陽成院、〉第二の皇子政仁〈後水尾院、〉親王宣下あり、御母は近衛信尹公の女なり、帝かねて御寵愛まして、御位を譲り給はむとおぼす、然るに是よりさき、中山大納言親綱卿の女の腹に生れさせ給ひし第一の皇子良仁〈後仁和寺覚深法親オープンアクセス NDLJP:1-126王、〉を、親綱、徳善院法印玄以と相議し、豊臣太閤にこひて、菊亭右府晴季公もて奏聞し、先立ちて親王宣下ありしにより、ひきこして政仁を坊に立て給はむ事もはばかり思召しけるが、この頃に至り、その事内々仰せ進らせられ、御内慮をはからせ給ひしに、君もかねて良仁を親王にせられし事、よしとも思召さゞれば、御答の趣には、子を知るは父に如くはなしといふは、古今の通議にて侍れ、臣もまた男子多くもてり、何れをもて嗣子とせむも、臣が思ふ所にありて、他人の議すべきにあらざれば、朝家においても、一二の皇子、いづれをもて皇嗣に定め給はむも、みな叡慮にこそまかせらるべけれ、但し第二の皇子は、槐門のよせ重くおはしませば、坊に居給はむ事しからむかと、御奏聞ありしにより、天感なゝめならずして、遂にその議に決せられしとぞ、〈武徳大成記、〉

家康将軍宣下を辞す関原の第一戦に、上方の凶徒既に天誅に伏し、四海一統して、当家の御威徳を仰がざる者なし、然るに年経てもいまだ将軍宣下の御沙汰なければ、内よりも御気色給はり、諸大名の中よりもよりいひ出でしものもありしとか、其頃藤堂和泉守高虎・金地院崇伝侍話の折から、何となくこの事いひ出し、世にははや将軍宣下の慶賀聞えあげむなどいふよし申しければ、君聞かせ給ひ、さる方の事はいそがぬ事ぞ、只今さし当りては天下の制度を立て、万民を撫育して、安泰ならしめむこそ急務なれ、まして諸大名どもゝ国替・所替等にて、いづれも多事なるに、我一人己が私をはかるにいとまあらむやとて、御心にもかけ給はぬ御様なれは、両人御謙徳の厚きに恐感して退きしとなむ、〈落穂集、〉

慶長六年十月、伏見を御立ありて、明くる十三日江州佐和山に着御あり、城主井伊兵部少輔直政は頭役の者ども引連れ、中門番所に出で、まち迎へ奉る、御輿近くなれば、いづれも平伏してあるに、足軽の中に一人、首をもたげて、何事やらむ聞えあげたり、通御の後、直政が頭役の者糺聞せしに、その足軽すゝみ出で、御糺までも候はず、某にて候、年久しく見え奉らざれば、久々にて御目に懸るといひしのみなりと申す、頭役いよ驚愕し、これ全く狂人の所為なれ、いかゞせむとて、同僚と相議してある所へ、本丸より中門の番頭よびに来れば、さはこのことならむと思ひ、そのものゝ腰刀もぎとり、番人附けて警めよといひ捨て馳行きしに、直政、さきに通御の折から、上へ向ひ、御久しくと申上げし者のあるを承らずやといへば、オープンアクセス NDLJP:1-127さむ候、しかの由にて、その者いましめ置きぬといふ、直政、いやさる事にあらず、その者に知行与へよとの上意なれば、新知百石申付くるなり、番ゆるして家に帰らしめよとあれば、番頭は思ひの外にてまづ安心し、立返りてその事申渡す、直政重ねて御前へ出でしに、かの足軽には何程の知行取らせしと御尋あれば、百石遣しぬといふ、君御頭をかゝせられ、よく役にたゝぬ奴ならむと仰せられしとぞ、この足軽は直政がいまだ年若くて御小姓勤め、寵眷ふかゝりしころ、御庭ちかき辺に直政が家居作らしめ、折々渡御ありし時、この者も直政に給事して、御前へも出でしゆゑ、上にも御見覚ありて、こたびその旧故を思召し出で、かくは仰下されしなり、〈天元実記、〉

二条城の堀幅慶長六年十二月、関西の諸大名に課して、京二条を営築せしむ、その折城溝の狭きにより、二間堀広げしむ、池田三左衛門輝政・加藤左馬助嘉明等は、今少し広くせむと申上げしに、いや、これにて足れり、もし世変出来て、この城攻囲まるゝとも、しばしが程はもちかゝゆべし、そのうちには近畿の城々より後詰も来り、とかうするうちには、江戸より大勢はせ上るべし、さらばせばきと思ふがよし、万一敵に攻取られし時、味方より取返さむにも便よし、功力を費すに及ばずと仰せられぬ、又ある時の仰に、堀は幅をせばく堀り、下には鎗を振廻さるゝ程にするがよし、又城の方をなぞへに、むかひを急にすべし、水のある堀もせばくて、舟の自由にならぬ程がよし、寄手へ鉄砲の近くあたるもよし、江戸の西丸の外堀は、広く堀り過ぎたりとて、其ころ御不興なりしとかいひ伝へし、〈古人物語、〉

家康加藤清正を憚る二条にて御物語の次、当時天下には加藤肥後守清正に及ぶ者はあるまじと宣ふを、折しも本多佐渡守正信空眠して居しが、目を見開き、殿は誰が事をほめ給ふかといへば、加藤肥後がことよと宣ふ、そは太閤が時に虎之助といひし小忰が事かと申せば、肥後が事を知らぬ者やあると仰せらる、正信、某年老いて物忘れする事のうたてさよ、されど殿は信玄・謙信始め、数多の名人の上を御覧じ尽されし御目にて、加藤などの事ほめ給ふはいかにぞや、さるにても加藤が為には、上なき名誉なれといへば、肥後が事はわれよく知れり、当時西国の事まかせ置きぬれば心安けれども、かれには一つの疵あれば、ひたぶるに頼みがたしと宣ふ、正信、何事にて侍るかと申せば、物にあやうき心あり、今少し心落付けば、実に立並ぶものはあるまじオープンアクセス NDLJP:1-128と宣ふ、正信、上意の如く、あやうき心ありて、剛気に過ぎしは大なる疵なれ、武田勝頼もかゝる疵ありしゆゑ、遂には国をも失ひしなれ、惜むべしといふ、折しも末座に京の商人など陪して承り居しが、後に清正に告げ知らせければ、清正、さては君には我を心あやうきものとおぼすよと心付きて、これより物事慎重にして、持重になりしとなり、後年正信が子上野介正純、この事を父に問ひければ、正信、こは実に清正をほめ給ふにあらず、そのころ当家草創の頃なれば、彼もし鎮西の人々に勧めて、秀頼に与党せしむるならば、ゆゝしき大事なれ、彼の危き心なくばと仰せられし御一言を承りしより、彼何となくおもりかになりて、生涯過誤なくて果てしなり、これ君の御智略の深遠にして、凡慮のはかり知るべきにあらず、それをたゞその事とのみ思ひて、我に問ふは、汝が智慮の浅きとやいはむ、その心にては天下の機務をとる事がなるものか、よく工夫せよと諭しけるとぞ、又正信後には清正と親しくなりしに、本多正信清正を諷諫すある時正信内意をうけて、清正に諷諭せし事三箇条あり第一は当時西国の諸大名、みな浪華に着岸すると直に、駿河・江戸に参観する事なるに、清正はいつも大阪に数日とゞまり、秀頼の起居を候して後、東国へ参観す、それにも及ぶまじ、第二は、近頃諸大名参覲の折、従兵も昔よりは減少せしに、清正は以前にかはらず、多勢を召し具するは、目立ちていかゞなり、第三には、当時清正が様に、面に鬚多く生し置くものなし、謁見の折など異様に見ゆれば、これを剃落さればいかにとなり、清正きゝて、この三条、御辺の詞を待つにも及ばず、某もかねて心付き、世の議評にもならむかと思ひつるが、さりとて又改めかぬる事どもなり、清正の弁明御辺も知らるゝ如く、某はじめは故太閤の抜擢によて肥後半国を賜はり、当家になりて、小西が旧領をまし賜はり、一国の主となりしは、当家の御恩はいふまでもなけれど、そのかみ旧恩うけし太閤の御子のおはす所をよそに見て空しく通らむは、武士の本意にあらざれば、今さらこの事やめ難し、次に、参覲の陪従を減ぜば、費用も省き、家臣も悦ぶべき事なれども西国の大名常は在国して、御用の折のみ召さるゝならば、ともありなむ、近頃のごとく交代して参観するからは、何ぞ臨時に御用仰付けられむもはかり難し、さらむには領国遥に隔りて、国許の人めしよばむに、急遽には来らず、少しなりとも、当地に有合ふ者どもにて、御用を弁ぜむ為に、余人よりは多く召しつるゝなれば、これまた減じ難し、三つには、オープンアクセス NDLJP:1-129頬鬚剃り落さば、我もさぞ心すゞしくなりなむと思へども、年若きより此鬚に頬当をし、甲の緒をしむるに、その心地よさいふばかりなし、今かゝる御治世に出逢ひても、心地よさの忘れがたさに、思ひ切りて剃り落し難し、御辺が懇志もていはるゝ事を、条も承引かぬとありてはいかゞなれど、今も申すごとくなれば、よく聞き分けて、あしからず思はれよといひしかば、正信思ひの外にて其旨言上せしに、清正がいひごとかとばかりにて、咲はせられしとなむ、〈駿河土産、〉

浅野長政の加封慶長十年、台徳殿より浅野弾正少弼長政に、常州真壁にて四万石、江州愛知川にて五千石下されけるを、長政あながちに辞し奉れば、長政を召して、此度の賜地を辞するは汝が一代の不思案なり、嫡子紀伊守こそ大国を賜はりてあれども、右兵衛・采女の両人もあるに、いらざる謙退ぶりかな、将軍よりくるゝとあらば、何程も貰ひ置きて、子孫の為にせよと上意ありしによて、其明日御請を申上げしとなり〈天元実 記、〉

此巻は関東御勝利の後、慶長十年頃までの事をしるす、

 
 

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