東照宮御実紀附録/巻十七

目次
 
家康今川氏の後を弔ふ初めて生母に謁す家康亡父の為に一寺を建つ夏目吉信の帰降家康衆議を排して矢矧橋を架す家康酒井正親の病を訪ふ少年刺客を放免す浅井長政討伐の理由信長松永久秀を辱しむ家康敵兵の亡魂を弔慰す信長家康、武田勝頼の首を実検す依田信蕃家康信雄を援けて秀吉と戦ふ伊達政宗家康の助言によりて転封を免かる家康細川忠興の窮厄を救ふ家康小早川秀秋の為に秀吉の怒を解く関原戦後凱歌を挙げしめず夏目信次家康に仕ふ濫行公卿の処罰水谷皆川の両氏家康義重広忠の贈官を奏請す菊桐御紋の勅許を辞退す大坂冬陣和議の成立喜連川氏山名禅高一色氏家康邸内に河水を引かむとして止む家康の仏教に対する態度穴山梅雪の妻
 
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東照宮御実紀附録 巻十七
 
すべて御徳義の深厚におはしませしかば、御祖先をゐやまひ、御親族をむつび給ひしはいふもさらなり、古き筋目を重じ、故旧を捨てさせ給はず、又人の危難をも御身にかへて救はせ給ひし事も度々おはしき、幼くましませしとき、今川義元が計ひにて、尾張の国より還らせ給ひ、陽には懇にうしろみ進らする様にて、実は三河の御所領を押領し、駿河より城代並に代官をすゑおき、岡崎の御家人をば、おのが軍の先手に用ゐて、鋒鏑を犯さしめしかば、討死せしもの多かりき、されど君は猶信義を失ひ給はず、義元のために大高城に軍糧を運びいれ、又その孤城を守り、義元、尾張の桶狭間にて討死ありし後も、其子上総介氏真がために、父の弔軍せられば、われも年頃のよしみを思へば、先陣に進み、織田信長に矢の一筋をも射かけむものをと、度々すゝめ給ひしかども、氏真闇弱にして奸臣の諛言をのみ用ゐ、更に軍を出さむともせざりしかば、かくては氏真謀を合すべき人ならずと御心を決せられ、信長がすゝめにより、終に今川の隣好を絶ちて、信長と御和睦ありしなり、されどもその後氏真、舅の武田信玄が為に国を奪はれ、遠江国掛川の城に逃こもりしが、こゝにても当家の軍威にあたりかねて、城を開きて小田原へ退去す、其ときも当家よりは、松平紀伊守家忠をして、海路を護送せしめられしかば、今川の士は申すに及ばず、北条の者どもまでもこれを見て、徳川殿は情ある大将かなと、感じたるもことわりなり駿河国御手に入りしをりも、氏真旧領なれば、半国をわかち授けられむとせしに、信長怒られ、さるいらぬ国ならば、信長給はらむといはれしをもて、やむ事を得ず、その意にまかせられぬ、その後氏真は、小田原をもまたすみうかれ、京摂の間に徘徊し、終には又当家にたより、浜松にまゐり寄食しければ、聞くもの氏真が義をも恥をもしらぬ鉄面皮と爪弾して、笑はぬものなかりしが、猶父義元の旧好を思しめし、氏真が不幸をあはれませ給ひ、始終御扶持ありて、家康今川氏の後を弔ふ後には厨料五百石賜ひて老を養はせられ、其孫刑部大輔直房・二男新六郎高久、みな御家人としてめしつかはる、〈今高家に今川・品川といふはこの末なり、〉かく御信義厚く沙汰し給ひける程に、いつも御上洛の度毎に、尾張国桶狭間をすぎさせ給ふとき、義元が墳墓の前オープンアクセス NDLJP:2-38にては、御輿を下らせ給ふ、御供の輩いづれも其御厚義を感じて、涙落さぬはなかりし、また氏真が寓客となりしとき、常に御座近く参りけるにも、むかしをわすれ給はで、礼遇の厚くましけるとて、見るものみな感じたてまつれり、〈三河記、古老物語、前橋聞書、〉

大高御出陣の御道すがら、久松佐渡守俊勝が阿古居の館に通らせ給ひ、年を経て御母堂〈伝通院殿〉に御対面あり、初めて生母に謁す俊勝もはじめて謁見す、君もいはきなき御程にて、御母公に別れさせ給ひ、こゝらの年月をかさねて、ふたゝび御親会ありしかばおぼえず悲喜の御泪にむせび給ふ、御母公俊勝が許にて設けられし、異父同母の御弟三人をも進見せしめらる、君、我兄弟少ければ、此人々ゆく頼母しくおぼし召すとて、松平の御称号を許され、三州一統せば、この弟共を招きよせて、ともに軍功を建てむと仰せらる、御母公、この三人の中にも、長福は今年生れて、襁褓の中より見え奉る事の嬉しさよと宣ふ、俊勝も種々御もてなしゝて物献る、又俊勝が家臣平野久蔵・竹内久六の両人もめし出して、御詞をたまふ、これはいまだ熱田におはしませしほど、阿古居よりわづか一日の路程なれば、御母堂つね君の御起居を問はせられ、御衣よりはじめ、菓子の類に至るまで進らせられしに、いつもこの両人御使奉はり、後駿府にうつらせ給ひしにも、同じ様に御使つとめければ、今はた旧故をおぼしめし出でゝ、かく御懇問ありしなり、〈貞享書上、〉

桶狭間にて今川義元討たれし後、君には御本国に還らせ給ひても、直に岡崎城へ入らせ給はず、御人数を大樹寺に留めらるゝ事三日なり、これよりさき義元は、其臣三浦・飯尾・岡部などに岡崎を守らせ、いまだ当家へかへし奉らむ心にはあらざりしかば、今義元死せりとて、これを僥倖として御入城あらば、信義に欠けたりと思召して、かく御滞留ありしなり、さて岡崎城守りし今川方の者どもは、義元の敗亡を聞きて、城を明けて立退くよし聞召し、人の捨つるものならば拾へと仰せられ、やがて御入城ましけるとなり、〈武徳大成記、〉

永禄五年西の郡攻取られし頃、刈屋へ立よらせられ、かさねて御母公〈伝通院殿〉に御対面おはしまし、水野右衛門大夫忠政も拝謁し奉る、その時岡崎殿〈贈大納言広忠卿〉の霊牌を拝し、御涙にむせび給ひぬ、家康亡父の為に一寺を建つ御母公の御願によて、一寺を剏建ありて、尊牌を安置し給ひ、五十貫の地を地附せられ、尊牌の裏に、御みづから御筆を染められ、この牌オープンアクセス NDLJP:2-39永世崇尊し奉るべき旨しるし置かせ給ひぬ、人々御孝思の篤きを感じ奉りけるとぞ、〈忠政遺状、〉

三河にて一向門徒等既に帰降し奉り、そのうちにて巨魁たるもの百人ばかり、岡崎にめし呼ばれ、御直に仰せけるは、汝等こたび宗門にくみし、譜代の主に敵せしは、大逆無道といへども、よく考へみれば、高きもいやしきも、この世はかりの世にて、来む世は長し、ゆゑにわれらをかりの主人、弥陀はながき世の主と思ひなせし、汝等が心さもあるべし、よていづれも御ゆるしあるからは、我においていさゝかも旧怨をおもはず、汝等もまた是迄の如く本心に立かへり、少しも心隔てず、忠勤を励むべし、この旨末々まであまねくいひしらせ、いづれも安心せむやうにいたすべしと仰諭されしかば、かの者どもかしこさのあまり、感涙にたへずして御前をまかでしとなむ、〈落穂集、〉

夏目吉信の帰降夏目次郎左衛門吉信も、同じ宗門にて一族多きものなれば、額田郡野羽といふ所にて要害をかまへ、深溝の松平主殿助伊忠と常に戦ひけり、ある日伊忠、吉信が隙をうかゞひ、俄に押寄せければ、吉信うち負けて針崎の寺中に遁入り、蔵のうちに籠りけるを、伊忠きびしくとりかこみ、其旨岡崎に注進し、御下知を待ちて罪に行はむとす、君、伊忠が忠勤を賞せられ、且吉信が蔵に遁入りしを誅せむは、籠のうちの鳥を殺すに同じ、そのまゝ助命せしむべしと仰あれば、伊忠あまり御寛容に過ぎし事とは思へども、既に仰出されしうへは、いかにともしがたく、園を解きて引かへしぬ、吉信は思ひの外に命を助かり、かしこみ思ふ事かぎりなし、岡崎のかたをふしをがみ、かゝる御恩愛の深き主君にむかひ、弓をひきたてまつりし事は、いかなる心にやありけむ、今さら悔いてもかひなき事と涙を流し、これよりしては、日毎におのが家の持仏堂に入り、仏にむかひ、あはれ今より後は、いかにもして主君の御用に立て、この身を果し給へと、高声によばはる常の事なり、後年味方が原御難戦のとき、速に一命を抛ちて忠死を遂げしは、全くこのをりの御厚恩にむくいたてまつりしなり、〈落穂集、〉

家康衆議を排して矢矧橋を架す矢矧の橋洪水にて押流したれば、架構の事命ぜられしに、老臣等、この架構、費用の莫大なるはいふまでもなし、御城下にかゝる大河のあるは、究竟の天徳にて、隣国より攻来るにも、橋なきをもて便よしとす、此度流失せしこそ幸の事なれ、このオープンアクセス NDLJP:2-40後は船渡しに命ぜらるべきにやと、各議し侍るよし申上げしかば、君聞召し、抑この橋の事は、代々の書籍にもしるし、謡曲にも入りて、本朝に名高き橋なり、さるをわが代に当りて、橋をかへて渡にせば、海道の旅行艱困するのみならず、何がしは敵を怯れ、費用をいとひて橋をやめしなど、天下後世にあざけられむは、国主の恥辱とやいはむ、まして地険をたのむは、人にも時にもよる事なれ、古人もいひし如く、国の治乱は人和にありて地険にあらず、険をたのむで敵を防がむは、本を知らざるの論なり、たゞ片時もはやく改架せよと命ぜられしかば、いづれも尊旨の恢豁にして、利済の念ふかくおはしますを感じたてまつれり、〈岩淵夜話、常山紀談、〉

家康酒井正親の病を訪ふ酒井雅楽助正親は、家長の職にありて、年ごろ夙夜の忠勤なみならず、天正四年六月病にかゝり、既に危篤の由聞召し、御みづからその家にならせられ、御手づから御薬たまひ、心に思ひ置く事あらば、つゝまず申せと仰ありしかば、正親仰のかしこさを謝し、嫡子与四郎〈後河内忠守重〉・次男与七郎守忠利後備後両人を御前へよび出し、正親申すは、某世に望なし、この二人の者ども、行末ながく御恵を蒙りて、忠勤を励み、そが材器によりて、さるべくめしつかはれむ事のみ願ひたてまつるといふ、君もその誠忠を感じ給ひ、平岩七之助親吉もて、病床に付け置かれ撫保せしめ、又近臣もて、度々病体を御懇問ありしかば、正親死に至るまでも、御恩遇の厚きをかしこみたてまつりけるとなむ、〈家譜、〉

少年刺客を放免す武田信玄より、容儀うるはしき小姓をえらびて、ひそかに御領国に遣しけるを召抱へられ、御身近くめしつかはる、ある日御酒宴過ぎてうちふさせ給ひしが、日毎に黒本尊の拝をなされしを、此日わすれ給ひしとて、起上りて仏前に念誦しておはしけるを、このもの御寝ありしとおもひ、腰刀引ぬきて、御衾の上に乗かゝり、突立てしを、即座にめしとらへしめ、ありしまゝに自首せよと宣ひて、その状具に聞召し、汝若年ながら、主の為に一命を抛ちて我を害せむとす、その志奇特なり、あながち咎むるに及ばずと仰せられて、甲州へはなちかへされしとなり、いと寛宥の御事なるにぞ、〈寛永聞書、〉

天正十三年正月の頃、織田信長より使をもて、江州の浅井長政は、わが近姻といへども、異心を挟むの日久しければ、其事いまだあらはれざるに先だつて、これを誅せむと思ふなり、さらむには援兵の事頼みまゐらするよし申おくらる、こなたよオープンアクセス NDLJP:2-41りも、酒井左衛門尉忠次・本多百助信俊両人もて御答ありしは、浅井長政討伐の理由長政さしあたり隠謀の聞えあるにもあらず、又改心あらむもはかりがたし、まづそのまゝになし置かれむこそ、平穏の御はからひと存ずれ、万一異心あらはれ、叛状明白ならむには、速に御勢を向けられ誅伐し給ふべし、某もそのときは御使蒙るまでもなし、手勢引具し急ぎ馳上るべしとあれば、信長も御答の寛宥にして理あるに服し、両使を返し、出軍の事をばまづ思ひとゞめしとなり、〈東武談叢、〉

信長松永久秀を辱しむ或時、信長のもとにおはせしに、信長、君に向ひ、かしこに侍る人は、松永弾正久秀といひて、人のなしがたき事を、三度までなしとげしものなり、第一は、己が主の三好義長にすゝめて、共に光源院将軍を襲ひ殺したり、第二には、将軍を弑せし上にて、主の三好をも滅し、第三には、南都の大仏を焼失せり、これ大胆不敵の所為にて、並々のものゝ及ぶ所にあらず、よく御見知あれかしと、事もなげにいはれしかば、久秀は赧顔して、何といふ事もならず、総身に汗を流し、ひれふして居たり君やをら御座立たせられ、久秀が側により居給ひ、御辺の事はかねて承り及びしが、かたみに遠路隔てゝ、是まで面会もせざりき、此後は心やすく申承らむと仰ありて、御帰殿の後に、老臣等が御前に出でしをり、この事を仰出され、其時久秀が様、いかにも笑止に覚えき、かれが悪行はいふまでもなし、されど先ごろ、信長金崎を引取られしとき、前後に大敵をうけ、いかにも危急なれば、江州の朽木にかゝりて帰らむとせらる、朽木は佐々木が領邑にて、同じく浅井が与党なれば、いかゞせむと心をなやます所に、久秀みづから朽木が方に赴き、種々たばかりて、かれを味方に引付けし上に、証人までもとり出して立かへり、そのよし信長に申せば、信長も疑念を散じ、朽木にかゝりて還られしなり、もし此事の実正ならばと仰せられしのみにて、末の御詞はなかりしとなり、盛慮には、久秀、織田家に於て勲功のなきにしもあらざるを、信長その功労を何とも思はず、旧悪を衆人の前にて評発せらるゝは、大将たらむ人の厚誼にはかなへりともおぼしめさゞりしなるべし、〈落穂集、〉

味方が原の役に、御領内農民ども、甲兵の為に侵掠せられ、居処を失ひて、浜松の城下にあつまり来りしが、それもまた焼払はれしゆゑ、たゞ道の傍にひれふして、泣かなしむさまを御覧じ、われゆゑに農民までも、かく艱困に及ばしむる事のうたてさよとて、御涙を流し給へば、御供の者も覚えず袖をうるほせしとぞ、又このとオープンアクセス NDLJP:2-42き犀が崕へ落ちて死せし敵の兵士、その数をしらず、家康敵兵の亡魂を弔慰す後にかの亡霊、夜ごとに声を発して泣さけぶこゑ夥し、よて僧徒に仰せて、冥魂を弔慰し給はむとて、七月十三日より十五日まで、種々の絹もて張りし器をつくり、念仏踊をもよほし、盆灯籠と名づけて、三日が間祭奠せしめ給ひしかば、その声程なくやみけるとなり、〈武者物語、武辺雑談、〉

信長家康、武田勝頼の首を実検す武田勝頼、甲斐の天目山にて自殺し、其首織田右府の実検に入れしとき、右府声あらゝげて、汝が父の入道世にありしほどは、我に対して種々の非礼をなせしむくい、今汝が身にせまり、かゝる体になりたる事のうたてさよ、汝が父、一度上洛せむの望ありしかば、汝が首を京にのぼせ梟首すべし、我も跡よりのぼるべきぞ、又近臣にむかひ、汝等もよく此首を見よ、何と心地のよき事にてはなきかと大に罵る、さて又此首を当家の御陣に進らせしかば、君には床机より下り給ひ、首を三方の上に載せ、上段にすゑ、一礼を施し給ひ、かゝるさまにて見参せむとは、かけても思ひよらざりき、偏に御身の若気の至にて、血気の勇にほこり、老臣の異見を用ゐざる過によれりと仰せられしとぞ、又武田代々の菩提所恵林寺は、織田家を恐れ、勝頼主従の屍をもとり納めざりしを、当家の御沙汰として、中山の広岩院に命じて、厚く葬らしめ、新に一寺を営み、天童山景徳院と号し、供養田をも寄せ給ふ、これらの事など見聞し、公の御徳義の深厚におはしますを感じ、織田家の臣下は、その主の粗暴を恐れ、何となくあやうげに思ひしとか、この後八十日ばかりありて、右府本能寺の変はありしなり、〈岩淵夜話、〉

依田信蕃依田右衛門佐信蕃、はじめ武田が旗下に属し、信州田中城を守り、年頃防戦したるが、勝頼ほろびて後、やうやく城を当家に明渡し、御旗下に属せむとす、かゝる所に織田右府より、使もて信蕃を招かる、信蕃おもふに、我今織田家に従はゞ、徳川殿の恩命に背くに似たり、又したがはざらむには、右府怒りて徳川殿に害をなさむ、先一旦織田家に従ひ、其後心ながく徳川殿に参らむと思ふ所に、またこなたより御使参りて、こたび右府、偽りて甲信の諸士を招き、ゆくものは必ず害せらるかまへてゆく事なかれ、ひそかに我陣に来れとの御書をたまはりければ、信蕃いそぎ山路をへて、市川の御陣に馳せ参じてまみえたてまつる、君の仰に、汝われと兵をかまへしこと、おほよそ十年ばかり、汝が武勇はかねて知る所なり、武田家衰ふるに及むで、汝一人孤城に拠り義を守りて操を改めず、敵ながらも感ずるに堪へたり、オープンアクセス NDLJP:2-43今汝にあひて、わが年頃の宿意をはたせり、さりながら、右府汝をにくむ事甚し、我方に隠れ居ると聞けば、さがし出し殺戮せられむ事は必定なり、早く身を山林にかくし、時節を待つべしと仰なり、信蕃盛意のかしこきに感じ、これより鍛工の姿に身をやつし、遠州二股の奥に引籠る、そのをりも御家人をそへて嚮導せらる、後に織田殿事ありし後、信蕃当家に参り軍忠を尽し、天正十一年二月、信州岩城の城攻に、兄弟三人ともに、鉄炮に中り討死しければ、殊に御悼惜ありて、信蕃が両児を召して、御称号・御諱字をたまはり、兄を源十郎康国、弟を新六郎康貞とて、父が遺領にまして、十万石賜はりしとぞ、又信長、武田の遺臣武名あるものは、みな捜し出して死刑に行はむとせしかば、君不便におぼしめし、三枝土佐守虎吉をば、駿河の藤枝東雲寺に隠れしめ、武川の諸士は遠州桐山に蟄居せしめ、岡崎次郎右衛門正綱・渡辺因獄​(正カ)​​守​​ ​等も、それ御扶持ありしかば、甲・信の者共、みな御仁恵をかしこみ、御領国にひそまり居て、時節をまつもの多かりしとなり、〈家譜、常山紀談、武徳編年集成、〉

家康信雄を援けて秀吉と戦ふ羽柴筑前守秀吉、既に主の仇明智日向守光秀を誅戮し、武名天下にかくれなし、織田信雄は主家の事なれば、表に崇敬するさまなれど、うちにはこれをも傾覆せばやと計策をめぐらし、信雄が家の長たる津川玄蕃をはじめ、三人の老臣共を、反間もて誅戮せしめ、やがて信雄姦臣を信じ、故老の良臣を誅したりといふを名とし、尾張に兵をすゝめむとするよし聞えて、信雄大に恐れ、故右府の旧恩ある人々へ援兵を乞ふといへども、時世に従ふ習にて、誰も秀吉の威勢に恐れ、信雄に同意する者一人もなし、かくてまた使を当家に進らせ、今ははや、徳川殿ならでは、外に頼みまゐらせむかたなし、あはれ願はくは、右府の旧好をおぼしめしすて給はで、こたびの危急を救はせ給へ、信雄が進退このときに極まれりと、うちかへし頼みたてまつれば、君にもいとあはれと思召し、秀吉威望猛熾なりといへども、そのはじめ松下が奴隷たりしを、右府の抜擢によりて、今の身とはなれるなり、さるを其旧恩を忘れ、正しき旧主の子孫を傾けむとはかるは、恩にそむき義に違ふといふべし、又右府の恩顧にあづかりしものどもの、今更信雄を見はなし、秀吉に荷担するは、時に従ふ習とはいひながら、信義なき族なり、われ右府の世におはせし程は、かたみにいひかはせし事もあれば、今其孤子の窮困するを見て救はざらむは、武士の本意にあらずと宣ひて、かの使に向はせ給ひ、使命の趣具に承り届けぬ、いつオープンアクセス NDLJP:2-44にても秀吉が寄来ると聞えば、速に手勢引連れ御味方に参るべし、某さへ御味方に参らむには、秀吉大軍といへども、さらに恐るゝにたらず、いさゝか御心を労し給ふなと復命ありしかば、信雄はさらなり、其家の子郎等ども迄、世にかしこく頼もしき事に思ひけるとぞ、〈落穂集、〉

伊達政宗家康の助言によりて転封を免かる伊達政宗、九戸一揆の事により、豊臣太閤の勘事を蒙り、京にめし上せられ、奥の旧領を転じて、伊予の国へ所替命せられしかば、政宗はじめその家人等まで、いづれも当惑し、たゞ茫然としてありしが、政宗きとおもひかへし、家人伊達上野に今一人をそへて、当家へ参らせ政宗此度殿下の厳譴を蒙り、家の存亡たゞ此時に極れり、あはれ願はくは洪慈の御はからひありて、ともかうもよきに救はせ給へといへり、をりしも霜月ばかりの事なるに、朝のほどいと寒し、君は火閤によりかゝらせ給ひながら、両使を御前へめし出して、汝等いまだ朝餉たうべざるべし、まづ粗飯を給べよと宣へば、左右の者両使を引つれ、御次にて給はらむとするを、いやそれにて相伴せよとありて、上の御膳をすゑ、両使にも供したり、御飯はかねてひえざらむ為に、火閣の上に置かれしを、近臣とりて御椀に盛りて進らす、その時、汝等が飯は冷えたらむ、これを与へよとて、同じ飯を賜はる、君が御膳にのせし菜は、粕漬の魚ばかりにて、いと倹素の御事なり、御膳過ぎて茶を給ひ、両使辞してまかでむとするに臨み、御高声にて、汝が主の越前といふをのこは、打むかひては荒けなく猛くも見ゆれど、実は腰のぬけて、後のきかぬゆゑ、かゝる事に狼狽すれ、四国へゆきて、海魚の餌にならむか、又はこゝにて切死せむか、よく分別して見よといへと宣へば、両使かしこみて、また此後殿下より責督あらむときの答詞までを、つばらに承りとゞけてまかで、仰の趣を政宗に伝ふ、政宗も心得し様にてその用意し、関白の使の来るを待ち居たり、とかうする内に使者来りぬ、この日は前日とかはり、政宗が旅館の前に、弓銃をもち、鎗・長刀を横たへし者ども群り出入しつつ、今にも打つて出でむさまなり、政宗一人は腰刀も帯せず、使をむかへ入れて上座に請じ、涙をはらとおしながし、殿下の仰とあれば、首刎ねられむもいなむべきにあらず、さるに領国をかへたまはるとあるは、此上の御恵なれば、速に御受も申すべきを、たゞ家の子郎等どもは、田舎そだちのあくたれ武士にて、公法をも弁へず、数代の旧地に離れしらぬ国にさまよひゆかむよりは、こゝにていさぎよオープンアクセス NDLJP:2-45く腹切りて、一人も残らず死なむこそ武士の本意なれと申して、何某にも自害をすゝめ申せばかれこれといひこしらへつれど、田舎育のならひにて、とにかく閉入れ侍らず、上使に対してかゝる狼藉の様するも、はゞかりある事なれ、某が御勘事蒙るにより、家人等迄某が下知を用ゐず、こはそもいかゞし侍らむといふにより、上使も何となくそらおそろしき心地すれば、いそぎ馳せ還りてかくと申す、このとき君は、とく太閤の方にわたりおはしたるが、政宗一人が事ならば、某かの旅館に馳むかつて攻め潰しなむ、今かれがめしつれし者千ばかりもあらむ、いづれも偏固にして上命をうけがはず、ましてその国中の者ども、たゞには国を明けて渡すまじ、それを取鎮むべき術ましまさば、ともかうも上意のまゝなれ、もし又かの家人が歎訴する所を不便におぼしなば、此度はまづ、まげて御ゆるし蒙るべきにやと宣ひしかば、太閤しばし思案せられ、政宗が事は、徳川殿のはからひのままたるべしとて、国替の事はとゞめられ、日を経て勘事もゆりしかば、政宗天に仰ぎ地にふして、再生の御恩をかしこみしとなむ、〈老談一言記、〉

細川越中守忠興、内々にて関白秀次より黄金かり請けし事ありしが、秀次生害ありてのち、家康細川忠興の窮厄を救ふ其事司る者、かの金速にかへされば、契劵を破りすてむもし遅々せば奉行人に訴へむとせめはたれば、忠興もこの事太閤に聞えなば、いかなる罪蒙らむもはかりがたし、さりとて大金を俄に償はむ事もかたし、とやせむ角やせむと思ひ煩ひて、家臣ども集めて議しけるに、家老松井佐渡それがしは、徳川家の御内なる、本多佐渡守正信と年ごろ親しければ、彼により徳川殿を頼み進らせむ、徳川殿はさるたのもしき人にておはせば、人の危急を見ながら、よも見捨たまふ事はあるまじといふ、忠興、われもとより内府と親しからねば、頼むべき便なし、汝よきにはからへといふ、松井、本多がもとに来り、しかのよしいふ、君聞召し、松井を御前へめされ、人を屏けてつぶさに御尋あり、正信して唐櫃二合とりよせ、明けさせらる、一合に黄金百枚づゝ入れたり、其櫃に点せし年号を見よと仰せらる、いづれも二十一年ばかり前かたにて、まだ三河におはしませし折の事なり、君、松井に宣ふは、おほよそ金銀は、その管轄するものあれば、みだりに用うる事を得ず、さるゆゑに、この金も年久しく貯へ置きて、かゝる用に充つる事を得たり、わが年頃の志も、こゝに於てあらはれし事の嬉しさよとて、松井にたまはせけり、松井よろオープンアクセス NDLJP:2-46こびにたへず、かゝるかしこき事こそ候はね、既に亡びむとする家の、ふたゝび存する事を得しも、全く御恩による所なり、細川家の候はむかぎり、いかで当家の御恩を忘れたてまつるべき、速に本国にいひ下し、ほどなく返納したてまつらむと申す、いや、この事もし世にもれ聞えなば、両家のためあしからむ、かゝればこそ人にもしらせず、其方へ授くるなれ、ゆめ返納に及ばずと仰あれば、佐渡はいよかしこまり、速に忠興に仰事伝へむとて、御前をまかづ、其後程へて、忠興御館に参りて謁見し、正信を呼び出し、君にむかひて申しけるは、さきに家人に仰下されし盛慮の旨、つゝしむでうけたまはりぬ、たゞ今御家に於て、何事のおはしますべきに候はねど、万一御異変のあらむには、必ず忠興命を抛ちても御情にむくいたてまつらむ、去ながら、忠興今までも親しう伺公せざるものゝ、俄に参らむは、人の見聞かむ所もあれば、かへりて本意とげむ事もかなふまじ、これよりは前前の如く、疎々しく候べけれとてまかでぬ、後に関原の役に、当家随一の味方して、上方の大軍を切靡けしも、全くこのをりの盛恩に報いたてまつりしなりとぞ、〈常山紀 談、〉

家康小早川秀秋の為に秀吉の怒を解く金吾秀秋、朝鮮の総督としてかの地に押渡り、蔚山の後巻して、はれなる戦し、武名を異域にあらはせり、しかるを石田三成、太閤へあしざまにいひなせしゆゑ、秀秋帰朝のゝち、太閤けしきよからず、秀秋の此度の挙動軽忽にして、大将たらむ者のさまならずといはれて、恩典にも及ばず、秀秋大に怒り、太閤の前にて、既に石田を打果さむとせしかば、君もその座におはして、おしとゞめ給ひ、その後太閤より、尼孝蔵主もて、秀秋がこたびの失体によて、領国筑前を転じて、越前にうつさるべしとの事なり、秀秋いよ怒りに堪へず、我首刎ねられむとも、国かへられむおぼえなしといふ、君、又秀秋をなだめられ、仰の趣謹むで承りぬと申させ給ひ、さて秀秋に、この事われにまかせられよ、よきに計らひ申さむとありて、秀秋が家長の杉原・山口等をめし呼ばれ、まづ家人少しにても、越前へ下されよとて、さし下さしめ、君にはこれより、日ごとに太閤の方へおはして、何と仰出さるゝ旨もなし、太閤もあやしみて、いかで徳川殿には、かく日毎に見え給ふぞとのたまへば、秀秋が事、あまりにいたはしうおぼえつれば、その事ねぎ申さむ為に参るなりと宣ひ、其後も、又おなじ様に参らせ給ふ、太閤も後には心とけて、さまで思はるゝならば、彼がオープンアクセス NDLJP:2-47事内府の計らひにまかせむ、かれ伴ひて参られよとあれば、大によろこばせ給ひ、やがて秀秋と打つれて参らせ給へば、太閤もこゝろよくたいめありて、秀秋が朝鮮の軍功を賞せられ、さま賜物あり、こなたへも引出ものせらる、秀秋まかでし後、家人長崎伊豆守を使に参らせ、此度秀秋が面目、またく御芳志によるところなり、この御恩いつの世にかわするべき、報じまゐらせむときこそあるべけれと申せしが、果して後、関原の役に、東国の御味方し、上方勢の後より切つてかゝりしは、このときの御恩に報いむとの本意なりしとぞ、〈藩翰譜、〉

関原御出陣の前かた、江府の城におはしまして、いつよりも御気色よく、午の刻ばかり、御料理の間に出御ありて、鶴の料理を仰付けられ、鍋をかけ、火など焼きて、御前には板坂卜斎・同朋金阿弥等侍りて、上にも炉の辺に座せらる、其折誰にかありけむ、細書の状一通を持参りて、御覧に備へしが、片はし見そなはすといなや、西の空をつくとうちまもり給ひ、はらと御泪を流し給ふ、こは去朔日伏見落城の注進なりしとか、その様を見上げし者ども、いづれも御前にたまりかね、御次の間へ走り出でしとなり、〈板坂卜斎、記〉

関原戦後凱歌を挙げしめず関原の戦既に御勝利に属し、諸将とり謁賀したてまつるとき、岡江雪入道、唯今こそ夜の明けたる心地し侍れ、勝凱を執行はせ給はむかと申上げしに、今従軍の諸大将の妻子、みな敵方にとらはれ大坂にあり、いづれもさぞ心許なく思ふらめ、われも又その事を心ぐるしく思ふなり、三日の内には大坂までおしつけ、いづれもの人質を引わたし、そのうへにて凱歌は行ふべけれと仰せらる、此時いまだ誰々も、妻子の事などおもひ出すものなかりしに、此御詞うけたまはりて、いづれも盛慮のほど心肝に銘じてありがたく思ひけるとなむ、後年浪花の役にも、凱歌をば奏せさせ給はざりしなり、〈天元実記、榊原日記、〉

夏目信次家康に仕ふ慶長十年八月、駿河の今泉辺御鷹狩の折、夏目次郎左衛門吉信が子、長右衛門信次、御道筋にうづくまり居しを御覧じ、その名を問はせ給ひければ、吉信が子なりと答へ奉る、其夜本多佐渡守正信をめして、吉信が子に片目しひし者ありやと尋ね給ふ、正信承り、長右衛門と申すが、さきに銃の捻抜けて眼を損じ、既に死すべかりしが、からうじて助かり、今隻眼にて侍ると申上ぐ、そは先ごろ浜松にて人を害し立退きし者なり、その罪重しといへども、年月既に立ちぬかつ忠臣の子なれば、オープンアクセス NDLJP:2-48めし還せと仰ありて、再び御家人となさる、後信次をめし、汝外に兄弟はあるかと尋ね給へば、弟杢右衛門吉次、今加藤肥後守清正に仕ふと申す、仰に、汝等は何程不肖なりとも、わが見捨つべき筋目の者にあらぬが、いづれも心ざまあしくて、人と闘諍を仕出し、おのれと当家を立去り、諸所を流浪し、さだめて年頃賤しの業してありつらむ、この後よく心付けよとていましめ給ひやがて吉次もめし出され台徳院殿に附属せしめられしとぞ、〈寛永系図、〉

濫行公卿の処罰慶長十三年内裏にて、花山院少将忠長・飛鳥井少将雅賢・猪熊侍従教利及び牙医兼保備中守等少年の輩、後宮の官女を誘ひ出し、遊会淫楽の挙動ありしよし聞えければ、備中守をめし捕へて糺問ありしに、つぶさに首告せしかば、主上逆鱗斜ならず、所司代板倉伊賀守勝重に仰せて、厳に刑を加へよと敷諚あり、勝重この旨駿府に伺ひしに、江戸へも御参議ありし上にて、勝重もて内裏へ奏せられしは、おほよそ古より、朝家の内乱、そのためし少からず、刑典に処せられし先規も、またさまざまなり、こたびの事は、朝廷格外の御仁愛もて、寛裕の御所置もあらば、この後人々の、恥おもふの心出来て、おのづから不良のふるまひやみなむかとありしかば、叡慮にもいと理と聞召し、この族死罪一等を減じ、三人の官女は伊豆の島々へ流し、忠良は津軽、飛鳥井は隠岐の島へ流し、松木侍従頼国・大炊御門少将宗澄の二人は硫黄が島、難波少将宗勝は伊豆国へ配せられ、猪熊はその濫行の魁首にして、備中守は宮門守るものなれば、赦しがたしとて、二人のみ死刑に行はれしとぞ、〈武徳大成記、〉

慶長十四年二月、紅葉山下において、四座の申楽に御免ありて、勧進能興行せしめられしに、成らせられて御覧あり、諸大名はじめ御家人までも、みな機敷かまへて見せしめらる、水谷皆川の両氏将軍家より、桟敷の図を御覧に入れしに、水谷・皆川両家の姓名、いかゞしてかもれしぞ、この両家は、わが三・遠にありし程より慇懃を通じ、譜代の旧臣にも准ずべきものなるにと宣ふ、本多佐渡守正信・大久保相模守忠鄰、御前にありて申すは、このごろ水谷・皆川は、笠間城の番衛奉はりて、かの地にあれば、除きしならむと、君、およそ武土は、名ををしむならひなるに、かの両家も此度の見物にもれなば、いかに遺憾ならむ、二人さゝはる事あらば、其家臣ばかりも召寄せて、機敷あたへて見せしめよ、後々の証にもなる事ぞとありて、両家の家長をめされて、見物せしめ給ひしかば、両家ともよく旧家の筋目をおぼし出で、そが門地を失はオープンアクセス NDLJP:2-49しめざらむ盛慮のほどを感じけるとぞ、〈寛永系図、〉

家康義重広忠の贈官を奏請す慶長十六年三月、勅使駿河に参向して、相国宣下及び菊桐の御紋勅許あるべき旨を伝へらる、君相国をば御辞退ありて、其代りに御曩祖新田大炊助義重朝臣に鎮守府将軍、御父岡崎次郎三郎広忠君に贈大納言の事申請はれしかば、内にも御孝志の至ふかくおはしますを叡感まして、即ち勅許あり、菊桐御紋の勅許を辞退す又菊桐の御紋の事は、かしこくおぼしめせども、抑源家新田・足利、の両流にわかれてより、其門流かはるがはる兵権をあらそふところに、後醍醐天皇の御宇にあたり、足利尊氏既に菊桐の御紋敷許ありて、かの一流これを用ゐ来れり、今当家は新田の末裔もて、足利の先蹤を追うて、これを賜はらむ事、あながち規模ともおもひ侍らざれば、これは御ゆるし蒙らむとてうけさせ給はず、その月御上洛ありて、御贈官位を謝したてまつり給ひ、同年十一月、増上寺の観智国師および土井大炊頭利勝・成瀬隼人正正成を上州新田につかはされ義重朝臣の旧蹟を尋訪せしめ、一寺を剏建し、義重山大光院と号し、寺領若干を寄せられ、御贈官の綸旨を寺に納めらる、又三河の岡崎にも、新に松応寺を御造営ありて、寺領御寄附あり、明くれば十七年正月、駿河より三河へおはし、まづ大樹寺に詣でさせ給ひ、御祖先はじめ、御一族までの廟所を巡視し給ひ、碑石の年月を経て、苔に埋れしをば、御みづから爪もて剥がせられて御覧じ給ひ、其後松応寺に御詣ありて、新廟を物し給ひ、住僧に銀など下され、ねもごろに御作善あり、かくとり追遠の典を執行はれしかば、天下なべて御孝思の至り深きに感じ、人々己が祖先をもおろそかにせず、おのづから風俗も淳厚に帰せしとなり、〈武徳大成記、駿府政事録、〉

大坂冬陣和議の成立大坂の冬の役に、御和議とゝのひし後、伊達陸奥守政宗藤堂和泉守高虎等の諸将、本多上野介正純もて申上げしは、今度の御和議、ながくつゞかむものとも思ひ侍らず、幸今城溝既に破壊しつれば、総勢もて一時に攻落されむこそしかるべけれと建白せしを聞召し、おの申す所、その理なきにあらざれども、おほよそ不義無道を行ふものは、終に天誅を蒙らずといふことなし、近くは織田右府が将軍義昭を廃し、武田信玄が父の信虎を追出せし類、その罰子孫にむくいて、家門みな衰廃せり、われ先年右府の旧好をおもひ、信雄を援けて、長久手にて秀吉と戦ひ、一戦に秀吉がたのみ切つたる三将を討取りしかば、秀吉も終には母・妹を質とし、和をオープンアクセス NDLJP:2-50あつかふに至り、やうと我も講和せしことは、おのしる所なり、其後太閤に和順し、西征東伐、諸所の戦に心力を尽し、秀頼をも厚く後見せしを、石田治部少輔三成、おのが姦智にてそねみねたみ、秀頼が名をかりて、罪なき我を滅せむと謀りしかども、天道是を悪みて、関原の一戦にかの凶徒みな誅に伏しぬ、そのころ秀頼をも誅戮せよと、勧めしものあまたなりしが、われその幼弱なるをあはれみ、一命をゆるし置くのみならず、三箇国まで授け、官位をも昇進せしめしは、わが莫大の洪恩といふべし、しかるに是を忘却して、我へ対し逆乱に及びしは不義の至なり、去ながら今一旦の迷誤を悛めて和議をこへば、まづそのまゝに宥し置くなり、もし此上かさねて無道の挙動ありて、干戈を起さば、これいよ天誅を招くなれば、その折はやむ事を得ぬ事なり、先此度は和議既にとゝのひしものを、俄に約を変じて不意をうたむは、わが本意にあらずとて、用ゐさせ給はざりしとぞ、〈東遷基業、〉

喜連川氏慶長二十年閏六月、喜連川左兵衛督頼氏上京して謁し奉り、まかでむとする時、御座を起たせられて御送礼あり、これは室町将軍家の支族にて、鎌倉幕府の末裔なれば、その筋目を重ぜられての御事なり、台徳院殿御時より後は、御送礼の儀停められしとぞ、〈駿府政事録、〉

山名禅高山名中務大輔豊国入道禅高は、その祖は贈鎮守府将軍義重朝臣の長男、伊豆守義範、はじめて山名と称し、足利家の初には、伊豆守時氏・右衛門督時凞など軍功ありて、数箇国を兼領し、ことさら持豊入道宗全が時に至り、普光院将軍の仇たりし赤松満祐入道を討取り、武名いよ天下に並ぶ者なく、遂に応仁の大乱をも引出したり、その後数代へて、やゝ衰微し、豊国の時には、わづか因幡・但馬を領しけり、天正六年のころ、毛利輝元がために攻められ、家人離畔せし折しも、羽柴秀吉・織田殿の命をうけ、播磨・但馬の国々きり随へ、進むで豊国が住める因幡鳥取の城攻め囲みしに、豊国かなはざることを知りて、秀吉に城を明渡して、摂津の国多田の辺に蟄居す、十四年君御上洛ありしとき、御旅館に伺公して初見し、御懇遇を蒙り、この後筑紫の御陣にしたがひたてまつる、あるとき禅高に仰せけるは、汝が祖の伊豆守義範は、当家の祖徳川四郎義季主と同じく、義重朝臣の御子なれば、今数十世の後といへども、一家のちなみ浅からず、この後は汝われに眠近せよ、我も又おろかにはおもはじとありて御優待なみならず、関原・大坂前後の役にも供奉し、オープンアクセス NDLJP:2-51殊に駿府におはしては、日野唯心・水無瀬一斎などゝ同じく、常にまうのぼりて御談伴に候し、御礼遇の様も、日野・水無瀬・冷泉等の堂上と同じ列に、懇の御もてなしなりしは、是も全くその名家たるをおぼしめしての御事なり、旧領なればとて、但馬国のうちにて、領邑六千石賜はりけり、後に台徳院殿にも御眷願を蒙り、寛永のはじめにみまかりぬ、〈家譜、〉

一色氏元和二年三月、相国宣下ありしとき、勅使駿府へ参向あり、御饗応の折、一色佐兵衛範勝に勅使の配膳つとむべき旨仰付けらる、永井右近大夫直勝申上げしは、範勝いまだ叙爵せざれば、外の諸大夫・侍従の徒と列を同じて、此役奉はらむはいかゞといふ、君、一色は足利家の一族にして、その名家たる事は、みな人のしる所なり、されば官位なくとも、この役つとむるとあらば、猶更面目の事なり、何の障かあらむとて、素襖着て配膳つとめしめらる、後に寛永六年に至り、将軍家この御詞をおぼしめし出され、範勝爵ゆりて式部少輔に任ぜしなり、〈寛永系図、〉

家康邸内に河水を引かむとして止む駿府の御庭へ阿部河の水をせき入れよとの仰にて、既に水道の標を立て置けり、其後御鷹狩の道すがら、これを御覧ぜしに、水道になるべき所に小寺あり、寺内を掘割りて水を通すといふを聞き給ひ、寺をこぼちて水をひくは、以の外の事なりと宣へば、扈従のもの、この地を上げしめ、別に代地たまはらば、何の障かあらむと申す、君、いやとよ、池に水を引入るゝは、わが一人の観に備ふるまでなり、わが心目を慰めむとて、旧来の寺院をこぼち、人の墳墓などあばかむ事は、あるまじき事なり、寺をよけて水かくることがならば、かけてもよし、さなくば停めよと仰せられ、遂に水ひく事はやめ給ひしとなり、〈岩淵夜話、〉

家康の仏教に対する態度駿河にて、ある浄土の僧申上げしは、仏道もそのはじめは釈迦の一法に出でしが末流となりては、おのがじゝ諸宗に分れたり、これを学ぶものゝ、もとは一法なれば、何れを習ふも同じ事と思ひ取りて、諸宗のわいためなく博雑に学ぶは、いとよからぬ事なり、わが念仏宗にては、誠に嫌ふよしを申す、君これを聞かせられ、仏道にもかぎらず、万の技芸の道も、たゞ一筋におもひ入りて学ばねば、なりがたきものなり、おほよそ後世を願ふにも、其身の高下によりて異なり、己が一身ばかり後世を願ふは、その帰依する所の宗門にて得道すべきなり、天下国家の主としては、人をすてゝ、おのればかり成仏せむと思ふべきにあらず、天下万民をして悉皆成オープンアクセス NDLJP:2-52仏せしめむとおもふ大願を立てねばかなはず、古今の宗門はさまに分れたるを、上たる人それの宗を立て置きて、銘々の宗によて、普く引導化度せしむるをもて、天下を治むる上の大願といふべきなりと宣へば、かの僧も盛慮の寛宏にして、弘済の大徳おはします事よとて、一かたならず感じたてまつりしとぞ、〈東武談 叢、〉

穴山梅雪の妻見性院と聞えしは、武田信玄入道が女にて、穴山梅雪信君が妻なりしが、武田亡び、穴山も又宇治にてうたれし後、第五の御子万千代丸のかたは、生母秋山越前守虎康が女なれば、さるちなみをもて、穴山が家人等は、みな万千代丸の方に附けられ、武田の家号を称せしめられしほどに、見性院をも江戸に招きはごくませ給ひ、田安門内の比丘尼町といふに住ましめられしが、この尼まうのぼり、まみえたてまつるときは、いつも上段より下らせ給ひ、厚く礼遇し給ひける、これも信玄が女なるゆゑなるべしと、みな人申し侍りき、〈以貴小伝、武辺咄聞書、〉

此巻はすべて御徳義にあつかりし筋の事をしるす、

 
 

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