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東照宮御実紀附録/巻十六

目次
 
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東照宮御実紀附録 巻十六
 
政務を秀忠の専決に任す

浪花の役既に畢り、御参内等も事ゆゑなく済ませられ、両御所江戸・駿河に還御あらむとするに及び、将軍家より、宿老もて伺はせ給ふ事ありて、二条城へ伺公せしに、御前へ召出され、是迄は思召す旨もありつれば、将軍家より天下大小の機務、御参議ある毎に、御意見をも仰せ遣されしが、此後は何事も将軍家の尊慮に任せらるべし、かさねて駿府へ御諮詢あるに及ばず、たとひ御商量あるとも、御答に及ぶまじ、よくこの旨申上げよとせ仰せられぬ、この後は万機のこと、みな江戸にて決せられてのち、其上駿河へ告げ進らせられしとなり、〈駿河土産、〉

慶長廿年七月朔日、台徳院殿二条に渡御ありて申楽興行あり、君にも御覧ぜられ、公武ともに拝観をゆるさる、兼ねては九番行はるべき定めなりしが、比丘貞の狂言御けしきにかなはで、七番にて終り、その明日また上意ありしは、昨日金春太夫が八島をかなでしに、平家はふね、源氏は陸といふ所にて、御前のかたをさして平オープンアクセス NDLJP:2-29家に譬へしは、僻事なりとてむづからせ給ひ、また太鼓打つものが、御前にて太鼓の紐をしめ直せしも無礼なりとて、その日の申楽ども多く御勘事蒙りしとぞ、 〈駿府政事録、〉

戸部太夫伊勢神官戸部太夫といふは、豊臣家先代より祈祷の事奉はる御師なり、一とせの戦に、秀頼が内意をうけて、両御所を咒詛し奉るよし聞えて、伊勢の事奉はる日向半兵衛正成・中野内蔵允訊鞘せしに、まがふ所もなければ、罪案を決して駿府へ伺ひしに、そは奉行人の心得違なり、秀頼が運を開かむとて丹誠をこらせしは、御師には似つかはしき事なり、早々獄屋を出し、没入せし器財も悉く返しつかはせと仰付けられしとぞ、〈駿河土産、〉

大角与左衛門豊臣太閤の時より、厨所の下吏つとめて、後にその頭までになり上りし大角与左衛門といふもの、五月七日落城の前に逆心し、下人にいひ付け、厨所に火を放ち、それより延焼して満城みな灰燼となり、終に落城せしなり、その後与左衛門これを勤功にし、当家へ奉仕を望みしが、幾程なく病にかゝりてうせぬ、君この始末聞召し、彼は去年和談の折も、秀頼が母儀の使として、茶白山にも来りしものなり、下司げすのならひとはいひながら、太閤以来厚恩をも蒙りし者の、恩をしらずといふべし、にくきやつかな、生きてゐれば、刑戮に行はむものをと仰せられしとぞ、戸部太夫をばゆるされ、与左衛門をばにくませ給ひし、公正の御心掟いとかしこし、〈駿河土産、〉

大坂に籠りし諸浪人共、みな御ゆるしなれば、心まかせに誰が家なりとも仕官すべし、諸家にても召抱へむ事も苦しからざる旨令せられしかば、草庵に隠れて時節を伺ひしものども、盛恩の寛大なるに感じ、それ旧功をいひ立て、俸禄にあり付きしとなり、又落城の後、赤座内膳永成・伊藤丹後守長次・岩佐右近正寿をはじめ、秀頼の小姓十余人ばかり、京の妙心寺に逃げ入りて、海山和尚をもて、検使をたまはらば腹切らむと申上げしかば、太閤以来譜代の者どもが、秀頼が先途を見届けし上にて、腹切らむといふは本望なり、今度罪する所の者は、大野修理などの首謀のものか、あるは先年関ケ原の役に一旦その命を扶けしものか、又はこたび籠城せしは重科なれば、ゆるすべからず、その外はなべて御ゆるしあれば、心まかせに何方へなりとも立退くべしとあれば、みな仁恩をかしこみ、己がじゝあがれオープンアクセス NDLJP:2-30行きしとなり、又増田右衛門尉長盛は、関ケ原の時、高力左近大夫忠房に預けられて、武州岩槻に在りしが、増田兵太夫其子兵太夫は、此度冬の役には、将軍家の御陣に従ひ奉り、審手の勝ちしときゝては顔色やましめ、城兵の利ありと聞けば、喜悦のさま顕れしが、この由御聴に入れしかば、それは旧主をわすれぬ神妙の心ざしなり、さすが増田が子程ありと仰せられて、何の御咎もなし、夏の陣には城中にはせ入り、長曽我部宮内少輔盛親が手に属し、五月五日藤堂が陣に向ひて、晴なる戦して討死しければ、今は父の長盛もかくて在らむはいかゞなりとて、遂に切腹命ぜられしなり、〈明良洪範、駿河土産、〉

本多正純木村重成を歎賞す大坂より京の二条に還御ありし頃、御物語の次に、本多上野介正純、木村長門守重成が事を称歎し、かれもし七日迄生きてあらむには、かならず秀頼を勧めて出城せしむべしといふに、とかうの御答なし、正純また松平武蔵守利隆がことをほめ聞ゆれば、利隆は金吾秀秋に似たりと仰せらる、正純、秀秋に似たりと宣ふは、逆意のきざしにてもあるかとおぼしめしての事かと思ひ、利隆には篤実なるものなりと申せば、五十万石も領するものは、わが父子にも目をかくる程の親愛の情がなくては叶はぬと仰せられしとなり、〈古人物語、〉

御年若き程より、近臣の過誤か、又は思はざる失言などは、咎め給ふ事もましまさず、かゝれば誰々もつかへ様いとやすらかにてありしなり、されども武道に欠けたる事、または事の首尾とゝのはずして、虚飾を加ふるものは、いたく咎め給ひしなり、浪花の役畢りて後、二条城に於て、城将御宿勘兵衛が事跡をよく知りたりといふ同国の者を、御前へ召して御尋あれば、そのもの御宿が事のみならず、下総国鴻台の戦に、おのが高名せしなどいふ事、ゆくりなくいひ出でしに、しばし御思案の様にて、汝は永禄それの年に生れしといへば、鴻台の戦の時は、北条氏康は五十歳の前後、氏政は廿六七ばかりの事なれば、汝はそのころわづか四五歳ばかりなり、何として軍に出づべきぞ、かゝるかけあはぬ事いふものか、そこ退けと仰ありしが、重ねて見上げ奉る事もならざる程の御顔色にておはしませしとぞ、此後もかゝる虚詐をいふもの、家人の内にあらば、その風諸人へおしうつりて、風俗をみだす基なり、おごそかに咎め申付けむと宣ひけるが、幾程なくてかくれ給ひしかば、御咎にも及ばざりしとぞ、何といひしものにや、姓名は伝はらず、〈岩淵夜話、〉

オープンアクセス NDLJP:2-31近臣等大坂の事語り出でしに、五日・六日若江の戦に、井伊掃部頭直孝が家人三人して、敵を相打にせしといふ、直孝検察せしに、両人の相打に極り、一人は言葉たがひしとて、咎めしといふを聞かせられ、いづれもよく承れ、すべて何事も余地のあるをもてよしとす、あまりに切詰めしはよからず、わきて武辺のことは猶更なり、むかし織田右府いまだ微弱のとき、いづれの戦にか、佐々内蔵助成政・前田又左衛門利家両人して、敵一人を突ふせしに、佐々成政前田利家互に武功を譲る成政、利家に向ひ、其首とられよといふ、利家、われは敵を突倒せしまでなり、はじめに鎗つけしは御辺なれば、御辺こそ首とられよと、かたみにゆづり合ひし所へ、柴田修理亮勝家はしり来て、さまで辞退の首ならば、我給はらむとて首をあげて、おのも来られよといひつゝ、三人打連れ、右府の前へ来り、そのよしいへば、右府大に感賞せられしとか、此三人などは武辺に余地がありて、いと優なる事と仰せられき、〈駿河土産、〉

浪花より還らせ給ひ、駿城にて夜詰のとき仰せけるは、われ若年より兵馬のうちに人となりて、学問する暇なかりしかば、年老いてもかたの如く不学なり、されどたゞ一句の要文をおぼえて、是を朝夕に心にとめて、天下一統の大業をもなしつれ、聖賢の語か、又は仏語なるもしらず、汝等あてゝ見よと宣へば、少し文字の心懸あるものは、是か彼かなど、おしあてに伺ひ奉れどもあたらず、今は誰も思ひくしたるに、汝等がいふ所は、みな経典の要文と聞ゆ、家康日夜服膺の一句我元より不学にして、此語何に出でしといふことはしらざれども、あだに報ずるに恩を以てすといふ一句の要文なり、これを常々胸中に忘れずして、何事もこの意もて処置せしなり、汝等に相伝すれば、おろかにな思ひそと、笑ひ給ひながら仰せられしとぞ、〈岩淵夜話、〉

駿府にて近臣へ宣ひしは、厚恩をうけし旧主、又は主の子などへ、無道の挙動するものは、一時は時の権勢にて無事なれども、子孫に至りて、かならず其報応あるものぞむかし織田三七信孝が、勢州の内海にて自裁せし時、むかしより主をうつ海の野間なればむくいをまてや羽柴筑前といふ、辞世よみしと聞えたるが、今度大坂にて秀頼が自殺せしは八日なれども、豊臣家の滅亡は七日なり、野間の内海にて信孝が切腹せしも五月七日なり、何と天道報応の理、おそろしきものにはなきかと仰せられしとぞ、〈駿河物語、〉

家康の大漸元和二年正月廿一日、駿河の田中に御放鷹あり、そのころ茶屋四郎次郎京とり参オープンアクセス NDLJP:2-32謁して、さまの御物語ども聞え上げしに、近ごろ上方にては何ぞ珍らしき事はなきかと尋ね給へば、さむ候、此ごろ京坂の辺にては、ををかやの油にてあげ、そが上に薙をすりかけしが行はれて、某も給はり候に、いとよき風味なりと申す、折しも榊原内記清久より、能浜の鯛を献りければ、即ちその如く調理命ぜられて、めし上がられしに、其夜より御腹いたませ給へば、俄に駿城へ還御ありて御療養あり、一旦は怠らせ給ふ様に見ゆれども、御老年の御事ゆゑ、打かへしまたなやましくおはして、はかしくもうすらぎたまはず、君にはとくにその御心を決定せしめられしにや、近臣には、兼ねて御身後の事ども仰せられしなり、将軍家もかくと聞しめし驚かせ給ひ、急ぎ江戸より駿河へ成らせられ、さま御あつかひあり、ひそかに朝夕近侍の輩をめし出して、大御所もし御身後の事など仰せらるゝとも、汝等かまへて御心の余事にうつらせ給はむ様にいひ慰め奉り、少しも御心のやすまらむこそ肝要なれと仰せらるれば、人々うけたまはり、仰迄もなく、いずれも鷹狩・申楽など、常々すかせ給ふ事ども聞え上ぐれども、さらに聞召し入れず、ただ御後の事のみ語らせ給ふといふ、天海僧正もその座に在りて、和漢ともに非常の英主は、あらかじめ死期を決定して、身後の事かね遺託せらるゝものなり、愚償も先頃より御側に侍して、かしこき上意ども奉はりしなり、此たびはとても御平快あるべしともおぼえずと申せば、将軍家もたゞ御涙にむせびておはします、かくて弥生の末つかた与安法印をめして御薬一帖調ぜしめ、本多上野介正純、手づから煎じて進らするに、めし上がらるゝ間もなく、盟盤をとりよせて、みな吐し給ひぬ、将軍家へむかはせられ、こたびわれ、獲麟の期すでに到り、天年こゝにきはまる、豈草根木皮のよくとゞむる所ならむや、よてはじめより服薬せまじと思ひつるに、あながちに仰進らせらるれば、つとめて服用しつるに、かく詮なし、もはやきこしめすまじと仰せられて、此後は絶えて御薬きこしめさず、又女房等も御側にさし置かせ給はず、あつしくなりまさらせ給ひても、外様の大名をめし出で、家康外様大名を招きて遺告すわが命旦夕に逼るといへども、将軍かくておはせば、天下の事心やすし、されども、もし将軍の政道その理にかなはず、億兆の民艱困することもあらむには、誰にてもその任にかはらるべし、天下は一人の天下にあらず、天下の天下なりと聞けば、たとひ他人天下の政務をとりたりとも、四海安穏にして万民その仁恩を蒙オープンアクセス NDLJP:2-33らば、これ元より家康が本意にして、いさゝか憾みおもふ事なし、われ死せば、いづれも先帰国して、将軍の指揮に従ひ、江戸に参観すべしとて、それ御遺物賜はる、殊に松平筑前守利常・島津薩摩守家久・松平陸奥守政宗三人をば御病床近くめして、おの御刀下され、この後北国筋に騒乱あらむには筑前守、西国は薩摩守、奥方は陸奥守にまかせ給へば、いづれも各国を鎮撫して、天下の静謐を心がくべしとのたまひ、細川越中守忠興も同じ仰を蒙りければ、いづれもみな感泣してまかでぬ、又義直・頼宣・頼房の三公達をめして、三家公子の後事を秀忠に託す将軍家へむかはせたまひ、かの人人はいまだいはけなきほどなれば、のちも友愛の情を加へて、うとくな思ひまたひそ、また公達へは、おことたち、わがなからむのちは、将軍を天とも父とも思ひゐやまひて、いさゝかその命にたがふ事なかれと宣へば、方々もふし沈みておはします、又成瀬隼人正正成・安藤帯刀直次をめして、汝等よく義直・頼宣を輔導して、後々も将軍へ対して、二心あらしむべからずとおほせ付けられ、又松倉豊後守重政・堀丹後守直寄・市橋下総守長勝桑山左衛門佐一晴・別所孫三郎友治を召して、将軍家へ、この五人のものども、常々まめに奉仕するのみならず、去夏大坂の大和口にても、晴なる働しつれば、この後も御心にとめてめしつかはるべしとて加恩賜ひ、また殊に友治を指し給ひ、かれは小身なれども、やさしき詞をつかひ、ゆく用立つべきものなりと宣へば、別所も、かしこさの余りに、大声あげて泣出でしとなむ、〈駿河土産、続武家閑談、東遷基業、〉

松平忠輝の遠流三月の初つかた、越後少将忠輝朝臣の生母、阿茶の局を御病牀にめして仰せけるは、忠輝には天資猛烈なれは、大坂の戦にも一かど諸人にすぐれ、天下の耳目を驚かす程の戦功もあらむかとおもひしに、思ひの外戦期に後れて、敵の旗色も見ずやみけるは、緩怠の至なれ、われ父子の間といへども、嫌疑なきにあらず、まして将軍の心中いかゞ思はれむもしれず、その上我にも告げずして、罪なき長坂血鎗が弟を誅せし事、無道の至なりとて、御気しきことにあしければ、局はとかうの答にも及ばず、このよしひそかに越後に申送りしかば、少将大に驚かれ、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気色伺はれしに、以の外の御いかりにて、城中へも入るべからざる旨仰下され、御対面も叶はざれば、少将せむかたなく、御城下の禅寺に寓居して、御病のひまを伺ひて謝し奉られむとする内に、薨御ありしかば、まオープンアクセス NDLJP:2-34た江戸に下られ、増上寺の観智国師もて、将軍家へ歎訴せられしかども、すでに先公御大漸の前かたにも、御対面なかりし程の御事にて、暴悪重畳しつれば、其儘大国を預けらるべきにあらずとて、遂に越後・信濃を収公ありて、遠流に処せられしなり、御父子の情愛はさるべけれども、少将かく無道にして国禁を侵すに至れば、今はの際に臨み給ひても、いさゝか私愛に引かれ給はず、天下後世の為を思召して、かく厳厲に御処置ありしは、かしこみてもあまりある御事にぞ、〈校合雑記、〉

家康秀忠加藤嘉明を評す御病床にて将軍家と、その頃の大名の人となりを、とり御評論ありしに、加藤左馬助嘉明は三河の産にて、性質篤実にして、太閤世にありし程より当家に志を通じ、いさゝか粗略なければ、永く愛憐を加へらるべし、されど少しの事も心にとめて、不足に思ふくせあれば、こゝは兼ねて心得置かせ給へと仰せらる、将軍家、嘉明は小量なれば、異慮はあるまじきやと伺はせ給へば、いやとよ、小量なりとてあなづりたまふな、譬へば踊などを見るに、をさなき者たりとも、音頭をとるもの節譜よくて、うきたつ程上手なれば、老いたるものもおもしろさに、己を忘れて踊出づるものなり、乱世のならひにて、一方の将となるべき者あれば、当人は異心なけれども、傍より打よりて取立つるものなれば、心ゆるし給ふなと仰せらる、又四月十四日のころにや、福島正則の嫌疑福島左衛門太夫正則をめして、襲封の暇給ひ、名物のお茶入下され、先年汝が事を将軍へいひそすものありて、年久しく江戸に滞留せしめしなり、こたびわれ汝が異心なきよしを、将軍へつぶさにいひほどきつれば、心安く帰国し、両三年も在国すべしと宣へば、正則は涙にむせび、何の御請もなしえず、また、かくはいへども、もしこの後将軍に対し遺憾あらば速に兵をおこさむとも、心まかせたるべしと宣へば、正則も大声揚げて、たゞ泣になきけるとぞ、後に本多正純を召して、正則は何といひしと尋ね給へば、正純、太閤の世に在りし時より、当家へ対しいさゝか二心なかりしを、唯今の上意は、あまり情なき御事と申しぬといへば、最早それにてざつとすみたり、その一言聞かむ為なりと仰せられしとぞ、 〈続武家閑談、〉

家康病床に軍伍の制を説く土井大炊頭利勝も、将軍家の供奉して駿府へまかりしを、度々御病床近くめし出で、仰事どもありし内に、近ごろ軍伍の次第は、鉄炮をもて先とし、次に弓、次に騎馬なり、これは定制とすべからず、この後は弓銃を首とし、騎馬是につぎ、鎗隊まオープンアクセス NDLJP:2-35たこれにつぎ、あるは右備とし、あるは左備とし、機に応じて定むべし、鎗には別に奉行人を立置きて、その指揮に従はしむべし、わがなからむ後は、将軍家へこのむね申上げよと仰せられしとぞ、神さらせ給ひしのち、利勝なく聞え上げしとなり、また堀丹波守直寄をめして、かれが浪花の軍功、及び平常の武略を賞せられ、わがなから後に、もし兵乱出でむには、将軍家の先陣は藤堂和泉守高虎うけたまはるべし、井伊掃部頭直孝は二陣たるべし、汝は両陣の間に遊軍とし、機に応じて勝を制すべしと、御遺命ありしかば、直寄感咽して御前をまかでしとぞ、〈東武談叢、土井譜、紀年録、貞享書上、〉

家康遺命して廟所を倹素ならしむ御病中侍養のものゝ内にも、とりわき秋元但馬守泰朝・板倉内膳正重昌・松平右衛門大夫正綱・榊原内記清久は、御心やすくめしつかはれしなり、ある日内膳正重昌をめし、御身後の事どもかず仰置かれし内に、わがなからむ後には、将軍家さだめてわが廟所をおごそかに営建あるべし、そは無用の事なり、子孫の末までも、始祖の廟にまさらぬ様にせしめむ所を思ひて、わが廟はかろく作り出すべしとなり、神さらせ給ひし後に、重昌此事申上げしかば、将軍家聞召し、先公の御身にとりては、御謙徳の至と申し奉るべけれども、等等が追孝の志にては、あまり菲倹に過ぐべからず、おほかた荘厳といはむ程に作り出すべしとて、最初の御廟は出来せしなり、其後崇源院殿の霊牌所造営に及むで、駿河亜相専らうけばりつかうまつられて、おごそかに出来せしをもて、台徳院殿の薨ぜられし時には、また霊廟を霊牌所よりまさらむ程に作り出でよとありて、追々荘厳になりゆき、この二所に比すれば、日光山の御廟いかにも御倹素に過ぎたりとて、大猷院殿の御時、新建とはなく、御修理の体にて、若干の御費用もて、後の御宮は出来せしとか、是より廟貌儼然として、天下にその比類なきほどになりしなり、〈駿河土産、〉

薨御の前、三四日ばかりの事にや、大坂の役に上総介忠輝朝臣が事仰出されし次に、村瀬左馬助重治・城織部昌茂に、われむかし信長の変ありて信楽越せしに、大和口の様見置きたり、かしこに山あり、こゝには野陣とるべき所ありしなど宣ふに、いさゝか違ふ事なかりしなり、年久しき間の事を、御危篤の際まで、いさゝか御遺忘なかりしとて、みな驚歎せしとなむ、〈永日記、〉

四月十六日、納戸番都築久太夫景忠をめし、常に御秘愛ありし三池の御刀をとりオープンアクセス NDLJP:2-36出さしめ、町奉行彦坂九兵衛光正に授けられ、死刑に定まりしものあらば、此刀にて試みよ、もしさるものなくば、試みるに及ばずと命ぜらる、光正、久太夫と共に刑場にゆき、やがてかへりきて、仰の如く罪人をためしつるに、心地よく土壇まで切込みしと申上ぐれば、枕刀にかへ置けとのたまひ、二振三振打ふり給ひ、剣威もて子孫の末までも鎮護せむと宣ひ、榊原内記清久に、のちに久能山に収むべしと仰付けらる、十七日すでに大漸に及ばせられむとせしとき、本多上野介正純めして、将軍家早々渡らせ給へと仰せられしが、またそれに及ばずとの上意にて、わがなからむ後も、武道の事いさゝか忘れさせ給ふなと申上ぐべしと宣ふを御一期とせられ、清久が膝を枕として、かくれさせ給ひしとぞ、家康の薨去此清久は、榊原七郎右衛門清正が三男にて、はやうより近侍し奉り、寵眷浅からず、御病中も日夜侍養して、さまざま御遺託どもあり、われはてなば、遺骸は久能山に蔵むべし、廟地はしかすべし、汝は末永くこの地を守りて、我に奉事する事生前にかはることなかれなど仰置かれ、また東国の方は、おほかた譜第のものなれば、異図あるべしとも覚えず、西国の方は心許なく思へば、我像をば西向に立て置くべしと仰置かれ、かの三池の刀も鋒を西へむけて立て置かれしとなり、〈続武家閑談、榊原譜、坂上池院日記、明良洪範、〉

此巻は大坂落城の後より薨御までの御事をしるす、

 
 

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