東照宮御実紀附録
一、東照宮御実紀附録二十五巻の中、初め十三巻を前編として本編に採収し、十四巻以下を後編とす、
一、誤字脱字を校訂せる外、読誦の平易を計りて語尾を補ひ、時に難訓の漢字には振仮名を施し、仮名文には漢字を充てたり、之を原本と比校するもの、其体裁の同じからざるを咎むる勿れ、
一、巻首掲ぐる所の伝記は、専ら本書読者の便宜を考へて草せるものにして、本書の性質によりて精粗ありといへども、評論等は一切之を避け、極めて大綱を挙ぐるにとゞめたり、
一、括弧〔〕を用ゐて傍記せるものは、当編輯部にての補記を示す、
本書は、徳川家康の言行を蒐録せるものにして、徳川幕府の官撰たる御実紀の一部なり、御実紀は、大学頭林衡総裁の下に、成島邦之助司直、命を奉じて編集に従ひ、文化六年稿を起し、天保十四年、司直の子桓之助良譲に至りて成り、十二月之を幕府に献ず、幕府其功を賞して、良譲に時服黄金若干を賜ひ、其他、事に与るもの二十四人に、賜物各差あり、嘉永二年、更に副本の功を終りて幕府に献ず、初め出典を註せざりしが、副本に至りては、毎条の下、悉く原書の名を出し、後の研究に便せしむ、本編四百四十七冊は、初代徳川家康より十代家治に至るまで、幕府に係はる大小の事蹟を、年月を追ひて記述し、附録六十八冊は、各将軍の言行を網羅す、編者成書例に於て、本書に就いていはく、
【 NDLJP:1-6】東照宮の御言行、諸書に栽する所、真偽錯雑し玉石混淆すれば、今是を正史に比較して、疑はしきを祛し正しきを採れり、巻首に、御幼年より薨御までの御言行を、年月にしたがひて統記し、其余は事類を分ちて記載し、瑣細の御事は、巻末に附して雑事の部とす、享保の附録も大略同様なり、
以て本書の性質を知るに足るべし、
徳川家康は、天文十一年十二月を以て、三河岡崎城に生れ、広忠の第一子にして、母は水野忠政の女、伝通院夫人なり、織田信秀の来つて岡崎を侵すに及び、広忠、援を今川義元に請ひ、質として家康を駿河に送る、途、信秀のために捕へられて名古屋に拘せらる、居ること三年にして、同十八年岡崎に帰るを得たりしも、幾何もなく義元、家康を駿府に移し、城代を遣して岡崎を治めしむ、かくて家康、駿府に在りて十五の春を迎へて元服を加へ、関口刑部少輔親永の女を娶りて夫人となす、之を築山殿といふ、永禄元年義元、三州の諸城を降して尾張に入らむとせしかば、家康十七歳にして初めて軍に従ひ、諸処に転戦して功あり、翌年敵の重囲を犯して兵糧を大高城に入れ、将器の非凡なるを見はせり、義元桶峡間に敗死するに至りて、帰つて岡崎城に入る、六歳質として駿府に送られしより、他郷に流寓するもの、こゝに十四年なり、家康は、義元の子氏真の為すなきを見て、今川氏と絶ちて織田氏に結び東西を攻略せしが、偶〻領内一向門徒の怒を買ひ、一揆の蜂起するや、家士の中之に応ずるものあり、氏真、隙に乗じて兵を出し、一宮の砦を囲む、家康、手兵三千を以て之に赴き、城将本多信俊を助けて帰る、遂に永禄八年に至りて、殆ど三河一国を平定せしかば、本多重次・高力清長・天野康景の三人を以て、国務並に訴訟裁断の事を行はしむ、之を岡崎の三奉行といふ、九年十二月叙爵して三河守と称し、十年信長の女を以て子信康の室とす、
永禄十一年武田信玄、今川氏を図るの志あり、後願の憂を慮りて、予め好を家康に通じ、駿遠二国を分領せむことを約す、之に依りて家康兵を進めて遠州掛川城を攻め、其他の諸城風を望んで降る、こゝに於て元亀元年浜松城に移り住し、信康をして岡崎城に居らしむ、時に信長、越前の朝倉義景を討たむとして援を家康に求む、乃ち兵一万余騎を率ゐて軍に従ひ、金が崎城を攻めしが、近江の浅井長【 NDLJP:1-7】政朝倉氏に与して、織田氏の後を襲はむとせしかば、転じて姉川に、浅井・朝倉の兵と戦ひ之を破る、翌二年信玄大軍を以て遠江を来り侵す、十二月家康之を三方原に邀へ撃ちしが、戦敗れて浜松に退く、天正元年信玄歿し子勝頼嗣ぎ、再び遠州に入りて長篠城を攻む、家康、信長の援を得て大に之を破る、後、北条氏、事を以て武田氏を怨み、之と絶ちて徳川氏に通ずるに至りしが、夫人築山殿、武田氏の謀に陥りて罪を得、天正七年自害せしめられ、尋いで子信康之に座してまた自裁す、同十年信長は信濃より、家康は駿河より、甲斐に侵入して武田氏を攻め、武田氏遂に滅び、駿河また家康の有に帰す、
是年五月、信長の、明智光秀のために弑せらるゝや、家康時に堺に在り、報を得て帰国に決し、路を大和・伊賀に取り、伊勢白子浦に出で岡崎に来り、命を駿遠の諸将に伝へて、鳴海或は熱田に至りしが、豊臣秀吉已に光秀を誅するの報を得て行を罷む、其後秀吉は、信長の嫡孫三法師丸を擁立し、三七信孝を亡し、柴田・佐久間等の諸将を討ち、威名海内に加はり、信長の子信雄を除かむとす、信雄急を告げて援を家康に請ふ、こゝに於て家康、尾張小牧山の麓に秀吉の軍と戦ひ、之を破りしといへども、永く戦ふの不利なるを暁り、秀吉の請に任せて和を講ず、十三年秀吉生母大政所を出して質とし、且つ妹朝日姫を家康に嫁せしめて其甘心を買ひ、切に入洛を勧めしを以て、家康また子秀康を出して秀吉の養子となし、十月京都に入り、秀吉に謁見の礼を執る、是月権中納言に進み、十一月正三位に叙せらる、時に家康、駿・遠・三・甲・信の五国を領し、駿府城に居り、威望漸く高く、十六年秀吉が、聖駕を娶楽第に迎ふるや、其儀に与り、詔によりて清華の上首に列せらる、十八年秀吉の北条氏を征するや、家康は、氏直と姻親の関係に在りしも、領内の諸城を修理して之を迎へ、軍に従ひて小田原を囲み、其兵を以て宮城野口・篠曲輪等を攻陥す、北条氏滅びて、秀吉功を論じ賞を行ひ、曩に北条氏の領せし関東八州の地を以て家康に授け、駿・遠・三・甲・信の旧領を収む、仍て家康は、七月二十九日小田原を発し、八月朔日江戸城に入る、十九年また秀吉に従ひて、奥羽の一揆を平定し、文禄元年征韓の役に際しては、東国諸大名の総大将として肥前名護屋に至り、帷幄の中に在りて参劃するところ多し、慶長元年内大臣に進み、正二位に叙せられ、一門の中、侍従二人・諸大夫十八人を出す、
【 NDLJP:1-8】 慶長三年秀吉薨ずるに臨み、遺命して、後事を家康及び前田利家に托す、之に依つて二氏共に政務を総攬せしも、石田三成等五奉行の徒、家康が、屢〻秀吉の遺制に背反するを責め、加藤・福島等征韓の七将、また三成と軋轢す、慶長五年三成、上杉景勝等と謀り、景勝まづ領国会津に拠りて兵を挙ぐ、こゝに於て家康大軍を卒ゐて東下し、下野小山に至りしが、時に三成等、秀頼の命と称し、檄を諸国に伝へて兵を聚め、毛利輝元・浮田秀家等之に応じ、直に伏見城を襲ひて、城将鳥居元忠を殺す、家康報を得て部署を定め、秀康をとゞめて景勝に備へ、軍を班して西上す、三成等関原に邀へ戦ひて敗績す、戦後大に諸侯の賞罰を行ひ勢威天下を圧し、政権徳川氏に帰す、八年二月征夷大将軍に拝し、十年四月軍職を秀忠に譲り、自ら駿府城に移りしも、大事は皆其裁決する所なり、是時に当り秀頼なほ大坂に拠り、敢て屈せざるを以て、十九年方広寺の鐘銘に依りて戦機を挑発し、家康・秀忠相共に之を攻む、城兵奮戦克く之を禦ぎしが、同年十二月和議成り、家康周池を填め客兵を追はしむ、之を大坂冬陣といふ、翌元和元年城兵再挙を謀り、填むる所の塹壕を鑿復し、四方の浪士を招集す、こゝに於て和議また破れて、五月五日家康・秀忠共に大坂に至り、六七両日の合戦に城兵多く死し、翌八日の朝、秀頼母子自殺し、豊臣氏滅ぶ、之を大坂夏陣といふ、尋いで公武諸法度を制定し、天下兵馬の権、全く徳川氏に帰す、二年三月家康内大臣に任じ、四月十七日薨ず、年七十五、其夜久能山に葬り、後日光山に改む、三年三月正一位を贈られ、正保三年、更に東照宮の神号を賜ふ、
大正四年八月 編者識
総目次この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。