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太閤記/巻四

目次
 
オープンアクセス NDLJP:261
 
大閤記 巻四
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○能登国石動山荒山合戦之事
 
昔日ソノカミ信長公に己之国を追出されし諸侯大夫、或庄官或一揆大将等多き中に、古しへ能州之守護畑山修理大夫義則之八臣、神保安芸守長九郎左衛門尉温井備前守三宅備後守ヘイ式部遊佐混田伊丹なと云て有しか、近年遊佐温井三宅は長尾喜平次景勝を頼み在越後也、温井郎従小南内匠筒井雅楽助広瀬隼人正山庄サンサウ藤兵衛尉、三宅か郎従鳥蔵内匠小山田甚五兵衛なと云勇略兼備りし者有しなり、石動ユスルキ山衆徒中之溢者其方より、遊佐温井三宅方へ云送りけるは、信長公不慮に今月二日於京都亡ひ給ふなり、其国へも早聞之申へく候、此節おほしめし立御入国有かし、随分合力し如前々互可申談通、使僧口上に其沙汰委し、彼人々是天之与る所之幸なりと同心し、其旨及返章けり、石動山密々之事に堅くこしらへしか共、衆□は制し難き故にや有けん、温井三宅事、石動法師共と心を合せ、本国還住之望をなし、近日帰国之沙汰有、然るにより、能登守護前田又左衛門尉より、柴田修理亮勝家、同甥にて侍る佐久間玄番允両人へ、

能以書簡愚意了、仍雖不実之義候、能州之国士温井三宅兄弟近年在越後と云共、就信長公之儀時節、語越後勢帰国之望由、衆口同音申鳴候、若於事実者、注進次第御加勢奉頼存候、恐惶謹言、

 六月十九日      前田又左衛門尉利家

  柴田修理亮殿 佐久間玄番允殿 人々御中

匠作玄番何も不何時、注進次第早速可出張旨、委及返章けり、

温井三宅思ふやう、石動よりの使僧所願之幸也、及遅々なは、其沙汰広く成行、不意を討便も宜しかるまし、いさゝらは急き入国せんとて、景勝より合力勢を申請、三千余之勢を催し、船に取乗おし出し、天正十年六月廿三日暁方、越中国免良メラの浦に着岸し、石動山へ同日夜半計に上着し、衆徒等にあひぬ、其比前田孫四郎利長は、越前府中に在、父利家は能州七尾に在しか、急き石動へ取懸、打果さんと息まきて、いらてけるを、家老共諫留るやうは、越後勢数多参たる由なり、なましいの事を仕出し、敵に気を付給ふては不然之条、急き勝家玄番允へ、内々被仰談候つる加勢之儀、飛脚を被差越宜しく可有之旨達て申けれは、応其儀即以飛札申けるは、

先日申談候遊佐温井三宅昨日廿三日越後勢同道仕、石動山へ取入、近辺荒山と云処を要害オープンアクセス NDLJP:262に搆候はんと、今暁鍬初之由申来候、今明之間不両葉斧柯之、早速於御合力者、可本望候、恐惶謹言

此認め六月廿四日早天に申入けり、玄番允は賀州金沢在城之事なれは、勝家へも不相伺二千五百騎を卒し能州に参陣し、高畑辺に野陣を取、此由利家へ及注進ぬ、温井三宅は石動山般若院大宮坊火宮坊を相語ひ越後よりの加勢都合其勢四千余人、荒山にして、要害の普請初のため、出張せし処に、玄番允は利家へ注進之返書を待とせしまに、晩日に及ひしかは宿陣し、其近辺之者を近付、石動山之為体委尋けれは、彼溢者共明朝も荒山之普請を、急勤めんため、此辺之百姓共、やとうへき旨唯唯触て候なる、明朝御出勢あらは某も御供申、道しるへ致さんと云けれは、玄番是は目出幸なりと悦つゝ、彼者共に引出物たふて、二心有ましき通誓紙をかゝせよと、拝郷五左衛門尉に申付ぬ、山路之行程を問は、是より石動山上まては五里、荒山まては三里余たるへしとなり、其夜も漸夜半過にも成ぬれは、はやおき出用意せよと云つゝ、昨夕之案内者呼集め、先にも立、又跡にも召連、またほのくらきに荒山五六町こなたなる坂に参陣し、物見之者をつかはし、先手のやうすを伺ひ待居たり、又左衛門尉も、あらこなし仕さうなる者を、二千五六百人撰み、夜半に七尾より打立、急きつゝ石動山と荒山との間なる柴峠と云所にて、彼兄弟四千余人を引卒し、今朝も荒山之普請を勤めんと出たりしに、よりあひかしらに渡し合せ、先勢を利家一あて二あて当、時を噇と上たりしかは、温井三宅是を見、手勢二千余人を引連、荒山之要害へ取入ぬ、其外二千計は石動へ逃上けり、かゝる処に玄番允物見之者も立帰、何之勢とは知され共、荒山之要害へ楯籠候と申けれは、さらは攻ほさんとて、拝郷五左衛門尉は、石動より救ふ事もあらば、可相防旨申付、種村三郎四郎を先とし、推よせ、山も谷もくつるゝ計に凱歌を噇と上たりしかは、温井備前守三宅備後守、般若院大宮坊火宮坊其外歴々之溢者共、左したりと云まゝに、四方に目を賦り、左右に下知し、弓鉄炮を以射あひうちあひ、火出る計に太刀打し、相戦ひし有さま、たとへていはん方もなし、般若院は事外なる剛の者、此前所々におひて無比類働き有し故、今弁慶と戯しも、宜ならすや、長六尺三寸に余て、手足のたくましさは、絵に移せる曽我五郎に似たり、行年三十八、さし物に鉄熊手まさかりをさし添、切て出れは向ふ者少し、玄番是を見あのやうなる者をは、遠矢に射て取よ近よるな者共と制し、すきまをあらせす責入けれは、敵も今日を限の命なりと、声々に呼り、互に時(鬨)を作り、山川もさくる計に戦ひ、爰にしては引組て、首(頸)を取つ、とられつ、かしこにては追も有、おはるゝも有て、勝負区なりし処に、種村か内、杉立九郎左衛門尉富田勘次郎能州之住人鈴木因幡なと横鑓に突かゝり、七八人突倒しけれは弱兵共、後を見そめ、我々は石動の方を防かんと、云まきらかし、五人十人つゝ落行よと見し処に、時のまに大半落散、或うたれ或生捕にな(けイ)り、残りすくなに成しか共、南之方は其をも事とせす、面も振す火華をちらし戦しなり、玄番ざいを振爰を捫や者共と身を揉て下知し、曈と鑓を入、突立込入しかは、温井三宅最期の軍して見せんと、訇り呼り切て出、多くの者共に打あたり、其後吉川五右衛門に渡し合せ、しはらく戦ひしか、終に吉川に討れにけオープンアクセス NDLJP:263り、三宅は元長刀つかひの達者にて数多切捨し処に、堀田新右衛門尉と名乗いなりかゝりに懸て、火を出し戦ひけるか、三宅は数度之戦につかれ、堀田は新手故にや、堀田か鎌鑓カマヤリにかけたほされ討れしを、火宮坊是を見、はや成ましきとや思ひけん、石動さして逃上れは、般若院は彼兄弟に憑れ、爰を遁、何まて耻をさらすべきやと、いなつて込入十文字之手鑓を以、七八人掛倒し是も討れにけり、般若院か同宿荒中将と云し大悪僧、師匠を鑓付し、桜井勘助を制御し猶込入動(働)しか、鉄炮にあたり身サレ合期は般若院か死骸に向ひ、念仏を唱へ腹十文字にかき切失ぬ、其外石動さして逃上けるを拝郷五左衛門道筋を取きり、悉く討留けり、山庄藤兵衛あまた所キスを蒙(被)り、片息して木陰コカケに居たりけるが、よろほひ出、ヌク井か死骸をなてゝ、腹カキ切供をそしたりける、温井三宅般若院山庄筒井此五人か首をは、野村勘兵衛尉に持せ、利家へ進せしかは、又左衛門尉満足有之旨、一礼懇に述、野村に村正之刀をたうてけり、

 
○石動山焼亡利家速成之功之事
 
信長公薨し給ひてより、天平寺にも限らす延暦寺高野山なとも、法威を振ひ出しなり、殊に石動山セキトウサンは温井三宅か帰国を心あてにや、任侠尤甚し、温井石動山之溢れ者をカタラひ、猛威を振はんとせし処を、利家六月廿六日未時におしよせたり、かくて又左衛門尉先手高畑石見守は、大行院之東谷より可攻上、利家は仁王門之方より可攻入に付て、侍大将長九郎左衛門尉奥村伊予守同孫介小塚淡路守、相順ふ人々十余人都合三千余進みけり、折節霧海十重廿重ハタヘたゝへ、石動山をつゝみしかば、勢の攻上るをも曽て不知、唯当山栄久之大護魔コマ、利家調伏テウフクイノリを頼としたる処へ攻め上り、矢もタテもたまりもあへぬ計に、鉄炮をつるへ、矢を射こみ喚叫て責入けれは、若き衆徒等門を開き切て出、面も振す防き戦ぬ、高畑石見守か先手栂野善次郎真先に進み、今日之先陣は栂野なりと名乗けれは、利家之小性丸尾又五郎富田助三雑賀サイカ金蔵弓手より来り、互可申合と有しを、善次郎聞もあへす、敵鑓ふすまを作て待居たる所へ突かゝりしか共、鑓十本計にて突立追下しけり、丸尾、富田、雑賀、得たりかしこしと助来り戦ひしか、痛はしや雑賀富田は鉄炮にあたり、立所にて果にけり、栂野又取て帰しけれは、遊佐孫太郎内白井隼人と名乗、突かゝり戦ひ攻入しかは、白井叶はしとや思ひけん、大行院之門之内へ引たりけり、隼人か引たるはにくしきたなし、帰せもとせと訇り、早田主膳三間柄之鑓を、二三りうと打振て、いなつて突かゝりしかは、栂野も互に火出る計戦ひけるに、丸尾又五郎横鑓に助し故、早田は善次郎に討れにけり、利家之先手弥透間もなく攻入し中にも、長九郎左衛門尉案内は知たり、宿敵旁遊佐をは吾手へ生捕にせよや者共と下知し、攻上りぬ、いかゝはして来たりけん、利家之小々姓篠原出羽、其比は勘六とて十七歳、其外小塚八右衛門寺岡兵左衛門尉と名乗、一番に攻入無比類働をなし首捕てけり、何もしころをかたふけ責上り、切先より、火焰を出し戦ひける処に、成就院の小相模法幢坊の中記なと数十人出来て、防き戦ひつゝ、死狂ひをして見せんと、のゝしる声々、始はあまた所なりと云共、次第に、或討れ或落散、残りすくなに成にけり、又長七尺計なる法師武者長刀を水車にのオープンアクセス NDLJP:264せ防き戦はんとせし処を、鉄砲にてうち倒しけれは、笠間義兵衛首捕てけり、味方弥気を得時を作りかけ、、攻入しかは、そこをも引仁王門を固めにけり、利家伊賀の忍ひ組とて五十人有しをよひ集め、衆徒中不残打出戦ひける間、或脇坊或寺々院々之人なき所へ忍ひ入、焼立よと云しかは、頓て十余ケ所焼立時を上(挙イ)たりけり、敵思之外なる所を焼立られ、度に迷ふ処を、爰こそ込入へき所なりと、利家ざいを振其身も鑓提向ひしかは、各おしとゝめ噇と乗入、五六十人討捕勝時(鬨)を上たりけれは、溢者共皆々本堂さして引入ぬ、是をほゐなしとや思ひけん、阿弥陀院の律師俊慶円満院天狗坊大宮坊飛駅金蔵院の中将なと名乗出、仁王門を引たるはにくしきたなし、一軍してみせんと、得道具おつ取、東西に開き合せ、南北に追つ返つ、互に、曳々声を出し、込入は追出し、追出せは付入に入て戦ひ、敵味方生死の数は知ね共、血は石苔をあらひ、屍は路径に横りぬ、寔似合ぬ僧の任侠ウテタテ是全理に背き、不義所の所以也、

 評曰、理者天也、背理則背天也、背天則上下共に豈不亡乎、

本堂を焼立けれ共要害能院々へ取籠り防き戦ひし処を、一あて当ては打破り、首を捕、降する老僧等をは、一命を助け追出し、勝時をそ上たりける、大くほ口長坂口をは態明て置し故、討洩されし僧俗此口を幸に落行けるを、弓鉄砲之者をつかはし、追討に大かた尽してけり、物かしら分の首廿三柴田修理亮へ持せつかはし、今度御加勢大慶之旨一礼述了、(畢イ)都合首数千六十、山門之左右に掛並へ置しなり、代々之秘法も調伏之護魔も本尊之神力も、実理にあふては其甲斐露なく見ゆ、吁利家卿武勇智謀全備にあらすんは、少しは手間も可入か功者之程可之、

 
○石動山由来之事
 
或曰、石動山天平寺と申は、養老元年泰澄法師之建立にして、天智天皇之勅願所也、故に法師原武勇を事とし、任侠を家業と意得、威を振ふ事、恰延暦寺根来寺之如し、二千余之寺僧田舎のくせとし、武勇のあらましきを、専に嗜み、勢ひ甚しきやうに言を巧にし、法威をおびたゝしく訇り出テラウと云共、近年は信長公、観音経念彼ネヒ之段或山伏等か祈、或後生善処など云事を専にせし、依僧をは信し給ふ事は扨置ね、かれか如く諸人をまよはし、施物等欲する奴原に威あれは、諸奉公人貧しく成行物なりとて、曽て用ゐ給ず、寺社領夥しく有しをは、闕所之地となし、高士に恩賜有しなり、夫なみの、僧を見るに、尊き姿を衒ひ、殊勝かほなる体をつくろひ、七福即生七難即滅武運長久等之目出事ハ、此愚僧か珠数の力に在しと、言を巧にし諛ひ廻る輩は、大略内心は曲り、金銀を求る心さしふかうして、施物を取ぬる蛛網之術は上手なり、凡て乞食之徒也、聖徳太子如此之虚説を用ゐ出、表向は王法を敬ひ給ふ名のみ有て、内心は仏法を信し給ひし事、いと強かりし故、王法衰へぬる其元を、信長公能勘(考イ)がへつゝ、延暦寺累年法威に驕り悪逆多かりしかば、焼亡し給ひてより、内裏仙洞の玉殿も立直り、摂家清花等も旧例に粗立かへりぬるやうに有しなり、然則延暦寺は王城之鎮守と云伝へ侍りしは妄語也、吁あさましかりし聖徳太子之用ゐなり、此属は皆、一犬吠虚万犬伝実と一味之オープンアクセス NDLJP:265浅智なるへし、寔歴々たる武士たちの武運長久之戦功を仏神に便り、殊数の力を憑む事は何事そや、秀頼公之寺社建立し給ひし、其数莫太なりと云共七福は即生せず、七難を身にまとひ即滅ありし事、不弁乎、利家は天智天皇之勅願所石動山を焼亡し、剰僧共を討捨られし故、武運長久し、二位大納言まて経上り、子孫繁昌有事、よく勘かへ知へし、信長公自然に明智なりし故に、誰実理をすゝめまいらせけるとはなかりしか共、依僧等にばかし入られ給はさりしに因て、諸寺之売子共そろと引て入、寺々院々之法力も其比より衰へ初しなり、是実理を諸国之守護用ゐ出、国家安泰に成行へき前表か、予わかゝりし時の迷ひを考へみるに、今世は何事も自身の勤に在と心得、さのみ仏力等をも頼す、売子にも多は化れさると見えたり、

○石勤山之巻と、末森との間にも、亦利家卿手柄なる戦有て、越中勢利を失ひし事有し也、因之各へ問しか共、其場に合さる、人は其節若して不知と云て語も侍らす、又(亦イ)其場にあふて能動きし人たちは、古風やらん辞しあひて、さたかにもあらさりし故、略之、思ひの外なる事共也、

 
○前田又左衛門尉利家末森之城後攻之事
 
羽柴筑前守秀吉卿江州志津岳岳合戦に得勝利、北庄へ推寄城を攻ぬる勢は、誰かれと被仰付賀州へは前田又左衛門尉を頼入条、被相越、能に計ひ給候へと有しかば、早速打越城々請取、其旨秀吉卿へ注進有し処に、速成之功悦ひ給ひ、則賀州之内石河河北両郡可進上との事に付て金沢に在城す、信長公にて同しさまなる傍輩なりしに因て、如此のあいさつに及へり、斯て能登加賀之間、つなきの城なくては叶へからす、何れの所か宜しかるへきと評議しけるに、唯末森之城両国の堺目なれは、是に増たる所侍らしと、各一決してそ申ける、利家も内々かく思ひ寄し事なれは啐啄に同し、此城には武之備も在て信厚く、万之裁判も兼備りたる者にあらすは、おほつかなし、奥村助右衛門尉を城主に定め宜しかりなんと思ひしか共、家老之者共に評議なくてはかなはしと、各を呼あつめ件之旨申出され、誰か宜しからんと尋られしに、十に七八助右衛門尉を指にけり、利家心よけに打笑、吾も内々奥村を思ひ寄しとて、即助右衛門尉を末森之城主と定られしなり、寔に先祖の面をおこし、武運にかなひたる奥村かなと、人皆申あへりき、かくて吉日をエラミ助右衛門同嫡子助十郎二男又十郎一族繁栄之粧をカヒツクロひ、天正十一年五月七日入部之規式いとゆゝしくそ見えたりける、与力之面々家来之者共、宜しきに随て、屋敷を相渡し、有付の用意を沙汰し置、助右衛門尉は金沢へ参り、一礼申上、扨普請等一々絵図を以、利家之内意を請、令帰城其翌日より昼夜のさかひもなく、普請等申付、或櫓々、或所々之門々、つまりの塀柵、心之不行所もなし、親しき朋友之人々見廻とし来り諫けるは、何方にも未敵の色も見えぬに、普請作事等の急なる事以外なり、少ゆるかせにもあれかしと申けれは、奥村聞て、是は各に似もつかさる御異見に候、歴々人もこそ多きに、若輩之某を撰み出し給ひしは、自然不意に起る敵を、防き申せとのためにも有へし、此城の有さまにては、其用にかなひ可申や、皆々供に具せられ候者共オープンアクセス NDLJP:266に、普請之合力し給へとて、見廻の面々五六日つゝとめ置、万の手クハり理にかなひしかは、年月をも経す成就してけり、かゝる処に佐々内蔵助成政、前尾張守護北畠中将信雄卿に与し、既対羽柴筑前守秀吉卿敵の色を立、一万五千之勢を卒し、末森之城に押寄しかは、奥村諸卒を下知し、町口へ打出、さゝへ見んとせし処に、寄手よはと会釈ひ、付入の行に及んとするけしきを見、助右衛門其道意得たる者なれは、敵のよはきふりを見するは、方便にて有へし、唯引取や者共とて、町をも自焼し引入しかは、案のことく敵すきまをあらせす引付て、込入来りけるに、つゝら木戸にして、三好勘左衛門尉野瀬二郎右衛門尉帰(返)し合せ、鑓を以たゝき立、追帰し、鑓下にて二人討捕けり、助右衛門三之丸之外へ打出、多勢なる敵に、さやうにしたるくはせぬ物そ、かると引取や者共と下知しけれは、さすか物なれたる兵共なれは、意得たると云よりはやく引入にけり、いかゝはしたりけん、三之丸外構の揚簀戸をおろさす引しかは、敵得たりかしこしと、引付て来りしを、野崎孫介同与左衛門兄弟面もふらす引返し、鑓を合せ、ゑい声を上戦しか、終にたゝき立大敵を追出し、あけすとを引立、しつと帰りしは、あつはれ弓矢取ての面目此上有へからすとて、感しあへりき、風少しなをりけれは、二之丸に近き家共を、高野瀬左近大西金右衛門尉罷出焼払ひし故、火矢のみの用心専なり、敵凱歌を唱へきりと取廻し、稲麻竹葦のことく取巻、持楯搔楯つきよせ螺鐘カイカネを鳴し、鉄炮の音矢叫の声、寔百千の雷も唯一度に鳴落る計に、喚叫てそ攻たりける、去共助右衛門尉中事共せす、士卒の機を励し堅固にこそは抱へけれ、佐々仕寄之町場見廻とし来りつゝ、此勢はつかれたるそ、佐々平左衛門か勢入代り、一揉もめや者共と下知しけれは、平左衛門入代て一揉二揉捫て攻入んとすれは、奥村兵を左右に随へ、つきくつけろて、ては引て入、静り反て守りけり、藁科ワラシタ新介三輪勘左衛門尉同弥十郎野崎新六高崎次兵衛前波三四郎白井四郎右衛門尉等粉骨を尽し、義気を励し、防戦ひ侍りしかは、弥攻あくんで見えけり、奥村か妻つねは心もいとしつかに、万の事に物おそれをし、青柳の糸をも欺計に、つよからぬ女性なるか、信長公の御母堂の事聞つる事ありとて、かひしき女房二三人相ともなひ、長刀をよこたへ、よるひるのさかひを分す城を打廻り、戦つかれ眠りかちなる番衆をは、事外にいかり禁め、或はをたやかにも睡をさまし、或はゆるかせもなく番をつとめぬる処をは、仮名ケシヤウ実名をえるし付、さそくたひれさふらふらめ、やかて金沢より後巻なさるへきとの事にておはしますなとゝ云慰め、或時は粥を大器に入持せつゝ、所労のほとをかんし、或時は夜寒の袖の露を、はらはんかため、紅葉を焼酒をあたゝめ、塀うらの睡をさましけれは、悦あへりつゝ昔の巴山吹閑の前なとは、一旦の勇こそあらめ、かく籠城になれもやし給ふやうにおはしますよとて、城中の人々此義に恥つゝ、義を思ふ事日々に新にして夜々に深し、寔金石をも欺く計に諸卒の心一致し、たのもしうそ見えたりける、助右衛門尉助十郎又十郎、かはる能者共あまた召具し、四方を打廻り各すかれさるやうにしけれは、皆々請取の町場を墓所と定へしと、音もせす静り反て守りしかは、敵も攻あくみ謀計を廻し、城内を引わりみんと、千秋主殿助か所へ扱をそ掛たりける、此人生国越前之オープンアクセス NDLJP:267者、利家府中を領せし初よりの旧功なるに因て、一方の物かしらとし、東の丸を預け置しなり、敵方に親しき因みあまたあれは、扱を入是非心を変し、内蔵助に対し忠節をいたせよかし、左もあらは能州之内二郡黄金千両可思賜そ、於同心者聊不相違之起請文を被相越候へとの事也、千秋思やうは、今五三日も経なは、粮絶矢種尽、唯首をひろはれん事、一定の事たるへし、此義に同してんやと、身ちかき者共に相議しけれは、皆尤なるへしと同しけり、さらは本丸に至て此旨助右衛門尉へとくと談合し、若同心にあらすは、ともかくも計りみんと、我にかはらぬ者四五人めし具し、本丸之門を扣は、入給へとて、千秋一人計そ入たりける、南角の櫓にて千秋ひそかにかくとさゝやきけれは、中々請も付す、唯千秋を東丸へ帰しなは、あしかりなんとて、即此櫓に留めをき、きひしく番を付置、東丸へは助右衛門尉か弟奥村加兵衛尉を入替てけり、城中の人皆此事を聞、扨も古今に絶なる忠臣るなへし、武勇と云、無欲と云、すゝしくもみえつる物なりと感しあへりつゝ、死を軽んし義を重んし戦しかは、責敗らるへくはなかりけり、去共俄なる籠城に依て、兵粮もなく、水の蓄もともしけれは、万之不如意事極りぬ、二之丸の門権も近き比の作事にて、全備なき事を、敵方に能知、扉を推(押)破、既押入んとせしを、本丸より勇士共助来て、鑓長刀にてつき出しけり、然といへ共多勢を以、入替爰を揉やと喚叫て攻けれは、不叶し、そこをは引て、一の門を固め、爰を枕にし快く討死せんより外はなきそと、互に思ひ入防き戦けり、此旨金沢へしき波を打せ、告度は思ひ侍れ共、幾重共なく囲みしかは、あはれ隠形の法もかなと希ひ、誰か忍ひ出、此急難を救ひ見ぬかと、助右衛門尉申ける処に、久々つかへ侍りし者、進出某忍ひ出、金沢へ参りみんと申けれは、うれしくも云つる物かな、さらは参て此旨委く申上候へ、とかく後巻をいそきし給ひ候へ、はや兵粮ともしく、諸卒つかれてみえ申候、たとひ千死一生に極りたり共、扱なとに取結ひ渡す事は中々候ましき旨を、たしかに申候へ、汝事は利家よく御存知之事なれは、書状まてもなし、事故なく帰候へとて、盃を取かはし出しけり、案内を知たる事なれは難なく忍ひ出、十日の晩金沢に参着し、件之旨かくと申上けれは、けに助右衛門か所存左も有ぬへしと、利家たのもしく思はれ、後巻有へしと、ひしめき給ふ事急なり、かゝる時のくせとして浮説まちなる物なれは、はや扱にし、城は渡しつると云募れとも止はせす、利家被申けるは、奥村事、尾州荒子の城を、信長公御朱印をも用ゐす、渡さゝりし者なれは、城を持遂る事ならすし、縦然切腹に及事は有共、扱に致し渡す者にてはなきそ、唯急き後詰をせんとて、嫡子肥前守諸共に物具取て着給へは、簾中御心に思召事もや有けん、熨斗蚫搗栗なと取すへ、手すからあたゝめ酒を持出、門出(首途)を祝ひ給ふ内にも、なこりおしけなる気は見えなから、門出をいはふことの葉露よはからす、さすか弓取のつまに備り給ふしるしかなと覚え侍る、前田又次郎〈利家甥〉は、利家在京なとの時は、城甥を預り居侍りける人なるか、留主には別人を御置候へ、某も御供申候はんと望けれは、いみしくも云つる物かなとて召れけり、又丹羽五郎左衛門尉長秀より、村上次郎右衛門尉溝口金右衛門尉其勢三千余加勢として参、即可参陣旨達て望み侍れ共、いや当地に在オープンアクセス NDLJP:268て、一揆等不起やうに頼入なりと残しをかれ、利家利長も十死一生に究め給ふ気象見えし験には、具足の上帯丁としめ、あまる所を小刀して切てすて立出給ひけれは、伴ひ出る人々まても、思ひ切てそ見えたりける、天正十二年九月十一日戌之刻金沢を打出、諸鐙を合せ急けるに、津幡の町にして、鉄炮の音聞えしかは、扨こそいまた落去いせさりけるよと、とつときほひつゝ、利家左右をかへり見、誰々早く来り、何れかおそかりし事をも記さんかため、又は勢の多少を知んかため、着到を付させ給ふ、其内に家老の人々をよひあつめ、軍評議有けるか、唯是にて末森へ早馬をつかはされ、一左右を聞合せをし給へと諫る人も多し、又内蔵助多勢を以幾重共なく取巻、我旗本の勢は、金沢よりの助之勢を防かんとて、末森より一里計罷出、金沢の方に向て陣を固め待居たり、たゝ是より引返し金沢にをゐて、一合戦有て、勝負を決せられん事可然候はんと、衆口同音に諫め留しもたれかれなり、去共利家父子仰けるは、とかく奥村を見殺しなは生涯之不覚たるへし、其上金沢におひて一合戦の勝負を頼み、時刻うのる其内に、居まけになる事出来る物そかし、殊にすへき軍をせすし、よはき心あれは、軍神も見すて給ふと也、唯後巻を遂、助右衛門を助けんより外はなしと、重て被申出し処に、徳山五兵衛尉進出申けるは、義之向ふ所をするは士之格也、是を義士といへり、仰之趣可然覚え奉る、とく急せ給へ、徳山におひては御供申さんと、馬を乗出したるは、こゝちよく見えてけり、若き人々は内々進み度思ふ所なれは、我をとらしと乗出したるいきほひは、寔に天魔破句も向ふへくも見えさりき、与かしら等も猪武者にくみし、いのちをすつる事、今に始めさるそと云つゝ、ひしと備を設け、段々にをしたり、是よりして猶汗馬をはやめゆくに、佐々の陣の備も近つきけれは、浜手へ廻り、轡のならさるやうに枚をふくませ、馳行に、をし明かたの雲山の端に横へ、おほつかなき比なるに、末森の城の東方に着陣せしとひとしく、人数を旦々立、佐々新右衛門尉野々村主水正なとか攻口に向て、凱歌トキノコヱを唾と上たりけれは、敵も内々後巻の用心してや有けん、さつしたりと云まゝに、城を巻ほくし、鑓おつ取見えし処に、利家小性富田六左衛門尉倫をはなれ進み出しを、山崎彦右衛門尉野村伝兵衛尉北村三左衛門尉半田半兵衛尉打見て、こは口おしこされけるよと、をしつゝき進み行、一鑓参り候はんと高声に呼り、鬼神をも欺計にきほひかゝつて進みしかは、敵にも野々村主水正佐々新右衛門尉堀田次郎右衛門尉斎藤半右衛門尉野入平右衛門尉矢島五郎右衛門尉本庄清七其弟市兵衛其勢五百余騎、鑓ふすまを作てをしかけたるに、彼五六人之者共ためらふ気色もなく、多勢に勝事は唯心を一致にし、一度に突かゝり、義気を存するにあるそと、真丸マンマルに成て鑓を打入、散々に相戦ふ処に、城中大きにほひあふて時を合せ突て出、内外より揉合せよや者共と助右衛門尉下知しけれは、意得たると言よりはやく、三輪助右衛門尉前波三四郎野瀬二郎右衛門尉三輪勘左衛門尉野崎孫助其弟与左衛門尉突て出たり、推つゝいて馬廻なる本田三弥左衛門尉可児才蔵ゑいや声を舉揉合たりしかは、寄手之勢一足も退くな、迚ものかれぬ道に極たるそと、野々村主水正大の眼に角を立、いかりまはり戦ひける、利家父子大音声を上、鑓にてたゝきあふな、唯つき倒せや者共と、すきまをあらせす下知しけオープンアクセス NDLJP:269れは、味方の鑓先つよかりけるにや、鑓下にて敵之物かしらの士多く討れてこそ、諸勢四方八方へさんはけたれ、斯悉く退散せしに、一備のきをくれたるに似て、又左もなく、用有かほに見えたる勢有、溢れ者共いさあの勢を追散し、討捕んと望みけるを、利家いや度を失てのきをくれたる敵にはあらす、彼は斎藤甚介寺島牛之介とて兄弟なるか、弓矢取ての名士なり、卒爾に砕れさる者そ、其上思ひ切たる勢を挫けは、能勇士をあまた失ふ物也とて、一人も出し給はされは、取あつめたる体にもてなし退にけり、

或曰、両年のゝち聞之、件之時甚助(介イ)牛之介方より、内蔵助へ使者を以云けるは、是にてしはし戦侍るへう候、然は帰し来り被勝負候へ、城はなんなくかつき可申となり、利家此事を夢にも知すして、取掛討んと云しを、制し給ひしは明将なり、すへき所をは物し、すましき所をいせさる、是良将のシハサ為也、味方勝に乗て追打に討て行けるを、利家長追はしすな、はや帰り候へと、使番を以再三とめ給ふ処に、案のことく逃る勢をはにけさせ、内蔵助旗本七八千の勢を左右にしたかへ、足をも乱さすまつくろに成てそ帰し来りける、されはこそ長追せし者共、徳山源七郎、堀喜一郎其弟左太郎、今宿印斎、其外十騎計、帰し来る先勢に跡を取きられ、一人も不残討れにけり、敵これに気を得、いさみに勇て帰し来たるいきほひは、ことしくそ見えにける、利家仰けるは、佐々も信長公の取立給ひし者なれは、更に侮るへからす、殊に勝利は得づ、まけはら立たる勢にはかまはぬか能そ、唯引帰せと下知しけれは、此道になれたる与頭共、尤にこそとて、はやり立たる若武者ともを、引とゝめにけり、しかはあれと敵あの節所をこへ来りなは、よき仕物そとて待居たりしか、佐々も思ふ処の囲まて推帰し、時を挙て引たりけり、其図の境を互に不出入こそ、弓矢取上のほまれなれ、利家翌日滞留有て、佐々家中之与頭の首十二、秀吉卿へ持せ進られけれは、開喜悦之眉旨、其書簡に曰、

今度佐々内蔵助企謀反、以多勢雖于能州奥郡発向之行、引違推寄於末森城取囲既及難儀之処、奥村助右衛門尉尽粉骨之働、堅固持静之処、其方早速為後攻出勢、佐々内頭分之首十二到来、当家無二之忠義、大慶甚深之至候、恐々謹言、

  天正十二年甲申九月十九日  羽柴筑前守秀吉判

          前田又左衛門尉殿参

利家利長今度佐々内蔵助家中之歴々、数多討捕首共秀吉卿へ持せ進せし事、偏に奥村か所為也、さらは感状つかはしてんやと両人相議有て、

今度遂末森籠城苦戦持定チシツメ、無比類忠節令大慶候、雖少分加増、以押水之内千石令扶助畢、与力之者三十人附与之、依如件、

  天正十二九月十六日  利家

          奥村助右衛門殿

態令啓達候、仍今度佐々内蔵助以多勢末守之城取巻、不昼夜攻戦、其方父子三人丈夫被相蹈堅固、早速駆着遂一戦勝利本意之段、甚快然至候、恐々謹言、

オープンアクセス NDLJP:270  九月十七日    前田孫四郎利長

         奥村助右衛門殿

助右衛門尉両道之感状しようきの馬しるしを頂戴致しつる事も、此城預りし翌日より、普請等油断なかりし故也、此上猶も普請以下勤め可然とて、下々共之労を慰め弥油断なかりしこそ、弓矢取身之勤めなれ、今世は士之格皆泯滅し、城を預り侍りては、茶之風味、道具之可不可、飲食之気味、或金銀得失之勘、或衣服珍器等に嗇志シクし、あはれなりける末世かな、

 評曰、いにしへより良将の後攻を企て、達本意又不達人々を且記す如左、

一武田四郎勝頼旧臣飯田唯光寺秋由晩霞斎、其勢二千濃州岩室の城に天正の初籠置候し、然るを城之介信忠卿打囲み、既落城程も有ましきに依て、甲信の勇士一万五千之着到にて、後巻を成候へ共不救、歴々を見捨、何之仕出したる功もなく引退し事

一秀吉公播州上月城に尼子勝久其臣山中鹿介等籠おかれしを、毛利右馬頭輝元取囲み、鳥ならてはかよふ物もなく、落城急なるを憐み後巻し給へ共、其甲斐もなく尼子山中両人令切腹之事

一越中小沢城に長尾家爪牙の臣六七人其勢五千にて、籠城難義し侍るにより、景勝後巻有けれ共、是亦不本意して退、籠城之歴々討死せし事

一三州長篠城奥年九八郎籠城せしを、勝頼打囲て落城急なりし所に、信長公後巻し給ふて開極運、勝頼勢を数万騎討捕給ひき、是は被本意しなり

一今度末森之後攻、敵の勢一万五千、味方はわつか三四千之勢を以相戦ひ、達本意せし事、古今まれなる後巻たるへきか、長篠之後攻は、武田勢は三万余騎、信長公之勢は五万騎なれは、是は不珍事なるへし、其後秀吉公又左衛門尉を同名にし給ひけるか、忠義之程を感し、羽柴筑前守之五字を賜りけり、是同名はしめなりしとかや、各秀吉公之幸にひかれ、諸臣皆昇殿せられ侍る中にも、利家は大納言に任せられし時、利家にも口宣之諸大夫可召具之旨に依て、高畠織郎正中川清二郎を、諸大夫に任し給ふへきやと、秀吉卿へ望侍りしかは、尹ヘキをも欺計の忠義を成たる利家なれは、其望可然旨被仰しなり、人皆いみしかりし任官かなと浦山さるはなかりしとかや、慶長四年閏三月三日、利家大坂にて逝去し給ひしを、賀州におひて無残処祭なしてけり、翌年庚子石田治部少補三成天下を覆さんとせし時、越前の堺なる、加賀之大聖寺之城に、山口玄番允其子左馬亮五六千の勢にて居城し、肥前守上方へ打て上りなは、押へ申さんの用意なり、越前府中の城に堀尾帯刀先生か孫、勘解由同宮内少輔有しを、大谷刑部少輔大将とし可攻干との企なるによつて、肥前守加勢有て給候へと、飛脚度々に及けれは、慶長五年七月廿六日、二万五千騎の着到にて打て上けるか、いさ大聖寺之城を軍神の血祭に攻ほさんと云まゝ、押寄即時に乗捕山口父子其外残党悉討捕けり、其後於濃州表は関原の合戦、家康卿得大利給ひ、天下大(泰イ)平万歳の功開て、忠勤の面々受領有しかは、賀州能美江沼両郡加増の地とし、家康将軍家より賜り、賀能越三ケ国之大守とそなれりける、如此龍の雲に乗するやうに、一かたならぬ幸なりし也、

オープンアクセス NDLJP:271

或曰、播州上月城に秀吉卿より、尼子山中こめをかれしを、毛利右馬頭取かこみ、落城急なるをあはれひ、秀吉卿うしろ巻したまへとも、其甲斐もなく尼子山中切腹せし事如何、対曰、これはうしろまきに不足はなけれとも、地之利よろしからすして落城と聞えし、又問、越中小沢之城に、長尾家爪牙之臣六七人、しかも其勢五千余にて籠城し、景勝うしろまきなれは、無下に落城すへき理にあらす、しかるに景勝も本意をとけすしてしりそき、城中之数輩討死せし事如何、

対曰、是は城中に大将なく、たかひに肩をならふる爪牙之臣なれは、権をあらそひをのれか下知にしたかへんと、衆口まちにして万事一決しかたく、上かろきにより下の心和せすして、諸卒義の心さしをおこす事なく、寄合勢のことくなるによつて、落城せしと聞え侍る、孟子の天の時は地の利にしかし、地の利は人の和にしかしといへる心思ひ合すへし、又問、三州長篠城に奥平九八郎信昌籠城せしを、武田勝頼三万余騎を卒し、稲麻竹葦のことく取囲て攻けれ共、攻千事を得すして終に信昌運を開き、勝頼敗北せしと、是は先之二ケ条にかはり遂本意也、吾嘗聞之、武田長篠の城へ攻寄けるは、天正三年五月朔日也、信長公家康公後巻し給ふ事は同月廿日也、九八郎鬼神にもあらし若年之大将といひ、しかも僅の小城に手勢はかりにて楯籠りしを、信長公家康公後巻なき以前、二十日に及ひ昼夜の堺もなく螺鐘カイカネを鳴し、武田か三万余騎を以もみに捫てせめけれ共、攻干事を得さりし、九八郎か至剛の致す所か、天運の致所か此理如何、且父美作守貞能は同く籠城せしや否、対曰、長篠籠城運を開きし事天運に合者也、九八郎天性孝を専にして父につかへけるとかや、忠臣は孝子の門に出るといへる、実なるかな忠孝の二つを以て城を守らは、何百万之兵を以せむるといふ共、豈敗る事を得んや、傍人曰、長篠籠城之時吾祖父信昌に属し籠れり、故にかれかつねにかたるを聞て吾能しれり、天正三年二月廿八日家康公より長篠城を九八郎に守らしむ、兼日軍忠をぬきんてしによつてなり、信昌時日をうつさす城中の修理をこたらすいとねんころ也、家康公弥感悦大かななす、然る処に同年五月朔日武田勝頼数万騎を引卒し、長篠の城に押寄、二重三重に柵摸鴈サクモガリをゆひまはし、ひますきまもなく取かこみ、竹多把を以て寄来り、河には縄綱をはり、金ほりを入、昼夜せめけれ共、九八郎元来義を専にして至剛の者なりけれは、少もひるます、士卒の機をはけまし堅固にこそはかゝへけれ、同月六日よせ手の惣軍牛窪へ出張し、ところやきはらひ去ね、同十六日敵渡合の南門へおしよせ竹多把を付あげ、きひしく攻之問、九八郎下知して城中より突て出、諸卒身命をかへり見す防戦ふ、てき竹たはを指て北退く、敵の捐る竹たはをやきすてさせ、城中へ引取にけり、翌日又前の如せめよする、同十三日之夜、ヲヨンテ半更寄手の軍兵瓢丸を乗とらんとす、此丸元来土居なくして沢の上に塀をかまへしのみなり、故に敵鹿角を以てすてに塀を引破らんとす、されとも兼て内より扣縄ヒカヘナハを付て、弓鉄炮を以て防戦ふの間、敵殞命被疵もの其数をしらす、然共もとより塀岩之上に立のゆへ、終に塀をひき落されぬ、天のあくるをまたは通路なりかたかるへし、諸卒はやく升方の丸へ退去すへきよし信オープンアクセス NDLJP:272昌下知す、此時敵わくを持来り、竹たはを付、棲楼をあけんとす、信昌つら了簡するに、せいろう成就しなは、追手口の通路叶ましきと思ひ、鉄砲数挺を以終に打破りぬ、敵素意を失処に月すてに西に入、日又東に出たり、武田勢或は命を殞し或は疵をかうふる者、殆八百余人に及へり、其後敵数百輩本丸の西のすみへ寄来り、土居へかねほりを入、大石あまた谷の下へ堀崩す、是に城中なくさむ方なく、防へきやうなくして、案わつらひけるか、相ほりにほれやとて、城中よりもほりけれは、てきのほり寄所へほり合ける者は、たかひに手と手を取合はかりに防けり、同十四日渡合門之際へ敵数百寄来る、城中より突て出、四方へてきを追ちらし、長追なせそとて、やかて引取けれは、敵取てかへし付入にいらんとす、又とつと突懸り、散々に防戦ひ、関の木漸さし合せ、城中へ引いれは、敵之事は城外なれは知かたし、味方の壮士殞命被疵者数十人に及へり、かくて数日を送る処に城中糧つきて当月を越かたし、因玆家康公へ後巻御座有間敷は、ちから尽さる先に切て出、死を一戦に決し候はんと存候と申上けれは、家康公もたへ憐ひ給ひて、九八郎か父美作守貞能、石川伯耆守両人を使者として、岐阜の城へ遣し、急に後巻を請給ふ、信長公諾し給ひ、即岐阜を打たち長篠に越き給ふ、同月廿日信長公家康公五万余騎を引卒して、長篠之近辺あるみ原に陣取給ふ、家康(家康公イ)より酒井左衛門尉を以被仰けるは、勝頼か陣取たる後の、鳶巣山へ、今夜取かけ、長篠城中之者共ともみ合追払、寄手の陣屋を焼立なは、武田か軍勢十方にくれ、利を失候はんと存候と申上けれは、信長公尤と同し給ひ、此議宜しかるへしとて、家康公より美作守を案内者として、洒井左衛門尉本多豊後守松平左近大夫、信長公より金森五郎八青山新七等、はや打立とて、其勢五千余輩川を越吉川に移り、深山を廻り、廿一日払暁に鳶巣久間両所の附城へ押寄、喚叫て攻上りけれは、思ひもよらさる事なれは、敵周章騒て見えにけり、され共物馴たる兵なれは、早く取合防戦ふ、敵も味方も入乱れ、討つうたれつ火の出る程こそ戦けれ、美作守貞能は、嫡子九八郎か運を開かん嬉しさに、一きは勇て見えけるか、爰かしこにて鑓を合せ、追詰追廻し、突臥切伏進ける、城中には是を見てあはや後巻の勢こそ廻りたれ、いさ切て出んとて、門の扉押開一度に噇と切て出、内外より揉合散々に戦ひけり、さしも名高き武田か勢も、怺兼てタヽヨフ所を難なく追崩し凱歌を唱、陣屋共を焼立時を咄と上たりけれは、武田か軍勢後より焼立たるに、十方にくれてそ見えにける、角て夜もほのと明けれは、信長公家康公と御覧し計はれ、諸軍に下知し給ひて、合戦数刻に及へり、卯の刻の初より未の刻の終まて、天地を響し挑戦ひ、竟に武田敗北し、信長公家康公大利を得給ひ、九八郎も窮運を開き、武勇の誉をそ得たりける、合戦終て、信長公の嫡子信忠卿、長篠の城に入給ひ、九八郎にむかひ、若年といひ小城と云、しかも大軍を引受て、堅固に城を守りし事、言語の及ふ所にあらすと感し、籠城の始終を尋給ひ、家老数輩被召出、悃詞を加へ給ひぬ、其後信長公御前へ被召出、今度武田敗化之事、九八郎長篠の城を堅固に守りし故也、自今以後武者之助と可仰とて、則諱字キジを給、信昌と号し、家康公の聟となし、領地数ケ所給りぬ、

オープンアクセス NDLJP:273
 
○越中国鳥越之城明退事
 
佐々内蔵助賀州表働之行思ふ所の図、度々相違せし事を、一度は日来之行不トカラ事を悔、一たひは我家中におひて、前田方より間者を入、内評を聞れし事もや有と疑ひ、又は遠見を出し、利家後巻を不知し事、此彼後悔しまけ腹立て、此上は加賀国へ乱入し、在々所々放火せんと発向し、津幡之町をおし破るへき旨、先備への面々に、佐々申付し処に、町を抱へんとせし其勢、在所の茂りを便り、備へしかは、越中勢いかゝは思ひけん引帰し、吉倉山へ勢を引上、陣をすへたるを、利家より鳥越之城へ籠置し、目賀田又右衛門丹羽源十郎古沢又右衛門尉見おとろき、明のきにけり、然るをも知す、佐々か内寺島甚助同牛助兄弟久世又兵衛其勢二千余騎、鳥越之城におしよせ、鉄炮あしかるをかけしか共、静り反(返)て音もせす、城をもかさらす、さひしく見えしに因て、扨は聞にげ、ごさめれと云もあへす乗みれは、如案鶏之外生類なし、三人之城守退散せしに、又寺島兄弟久世三人入替り、城守と成しこそ、自然なれ、利家はいまた末森城に在しか、佐々加州へ乱人せし由を聞と等しく、はまへをつたひに、金沢の城へ丑之刻に立帰り、トラ之刻に又打出、森本栗崎辺に至り、旗を立、物ふかう勢のふくらを隠し備し処に、佐々か物見之騎兵五六人走来たりしか、頓て駆帰て、かくと告しにこそ、扨は上方勢着たるにやと思ひ、内蔵助は木船之城へ引入にけれ、

其比之老人曰、前田は毎度得勝利、佐々は度々失利まけ腹立しかは、勢をかくし物すくなに見せて、戦を仕懸よるべしと思ひしか共、互之名将故、勢を打納にけり、

 
○加賀勢越中表働之事
 
天正十三年八月二日、前田方より、越中国に乱入し、在々所々可放火に付て、打向ふ人々には不破彦三前田右近大夫武藤助十郎岡島備中守村井豊後守奥村伊予守片山内膳富田越後守岡田長右衛門尉篠原出羽守種村三郎四郎等、金沢を払暁に立、至于越中国、利波郡に乱入し、民屋悉く放火し、猶奥郡へ心さし、おし行処に、はや可引入旨使番之者走来たり、制し留しにより引帰しけり、利家利長は鳥越之城押へとして備へつゝ、弓鉄炮之者三百人組頭六七人さし添、張出しおさへ置し処に、鳥越之城より打出、追払はんとそ催しける、加賀之先勢在々所々令放火引取、殿ひの勢に、木船より如雲霞打て出付しか共、不破彦三武藤助十郎、弓鉄炮を段々に立かへ、次第をも乱さす、くり退にせしかば、をくりすて山に添行、鳥越より打出し勢と牒し合せ、したひ来たり、真先に名乗しは、福岡与四郎カネ牧次郎兵衛尉飯野権兵衛尉栗田伝兵衛杉江左門八田甚兵衛鈴木孫左衛門栂野小一郎等也、利家父子之備より、鷲津九蔵横山右京上坂九左衛門半田源太郎カヽミ務勝三郎九里クノリ勝蔵、鉄炮頭には河村五右衛門尉そ進みける、敵は案内は知たり、得たりかしこけに引付、味方難儀に見えしかは、上坂九左衛門帰し合せ、鑓を打入しに、倉智猪之助面もふらす進み出、散々に突合し処に、細井弥左衛門鉄炮を打すて、倉智か鑓に取付たくりよりしか、猪之助鑓を投置、引組て、妻手メテの谷へ、上になり下に成て見えけるか、終に倉智を打捕、首をさし上たり、敵是をほいなしとや思ひけん、山のかさを取、先へ廻し、おし立進み来たり、味方危く見えけれは、鷲津ワシヅ九蔵オープンアクセス NDLJP:274大音声を上、帰し来たり、鑓を打振てかゝりしかは、八田甚兵衛と名乗出、しはし戦しか、鷲津は胸板を突ぬかれ、既に首をとられんと見えしに、横山右京は山崎勝兵衛尉に相理り、助行んとせしを、今少しはやかるへきと諫しをふりきり進み行、鑓を合せ、追払はんとせしか共、敵弥重て、味方猶難儀に見えしかは、勝兵衛時こそよけれと、いなりかゝりに大声を上、突かゝりしを、利家打みつゝ、山崎うたすな、つゝけや者共と下知し給へは、根尾吉左衛門尉助行、勝兵衛とモミ合せ、散々に戦て追帰しけり、利長誰か有先之様子見て参れよと有しに、横山三郎〈十七才後号山城守〉進み出、某見て参らんと申すて走出、退行敵に追着んと、捫に揉て急き行只今足はやに引けるは、正しく印牧にては無か、帰せもとせと三郎詞をかけつゝ、追行に、印牧次郎兵衛福岡与四郎飯野権兵衛尉、堀きりを便としこたへ、鑓ふすまを作り待かけたりしに、横山三郎と名乗かけ、印牧と鑓を合せ戦ひし処に、福岡は半田、飯野は三輪ミハ助右衛門尉と鑓を合せ、しはしか程戦ひしか、加賀勢雲霞の如く進み来たりしを、寺島兄弟松平のり来り、印牧福岡飯野に、早々引取候へ、此旨内蔵助申付たるそと、下知して退しかは、三郎も手いおうつ、相引にそしたりける、

或曰、山崎時こそよけれと、眼を賦りしはかさなり、右京勝兵衛に相理り、危を救はんと突出しも、カサに付てのことは也、

 
 
 

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