太閤記/巻十
評曰、件之使者には何れか宜からんと、其撰在㆓衆評㆒てこそ事も調ふべけれ、国朝之政務等に、事よする使者などに、権兵衛はおほつかなきか、千石素性腹あしく、武勇のみを専にして、弱き事を強て嫌ふ者なりき、か様の使者は智謀足て、武勇得㆓其所
評曰、惟福神は一人に私し給はす、移かはりゆく(行イ)か、仮令信長公にしてときめきし寵臣のうち、生残り侍りつる矢部善七郎、秀吉卿につかへていとわびしかりしか、あまり不如意なるに依て切腹せしなり、又秀吉卿にて、ならひもなく威勢有し増田右衛門尉等、是も関東【 NDLJP:326】岩着におゐて、上意として切腹有しなり、福神は其世其人にして、多くとこしなへに守す、思ふに此幸にあひ、栄久にあらさる人々を見るに、只驕がちにしてをのか心をつゝまやかにし侍らず、民の費をいとはす、家などにきよらを尽し、調度もよき品を好しなり、然るゆへに久しく不㆑守か、しかは云と夏商周は栄久に有し、されは倹は幸の基、賢は百福之宗と云伝へしもむへなるか、
明れは天正拾五年正月元旦之出仕なと、乱世ニ事かはり、式掌之沙汰に及て物ぶりてけり、二日之晩には御謡初とし、四坐の大夫とも召よせられ、御かはらけめくりにけり、諸侯大夫其外紹巴昌叱なとも御祝儀申上、一きはうたふ声々もゆたかにして、万歳をよはふ大夫共には小袖二重つゝ、坐のものにも一重つゝ引給ふ、めてたかりし事共也、
○九州御出勢に付御掟之条々一兵粮并馬之飼料九州之地、令参着之日より可㆑被㆓下行㆒之事
一別紙出勢之日次、二月十日より無㆓相違㆒立出、泊々不㆓指合㆒やうに、宿奉行次第可㆑守㆓於其旨㆒之事
一喧嘩口論仕出来候はゝ、双方其罪遁ましき事
一追立夫、をしかひらうせき等、有ましき事
一奉公人先主に暇をもこはす、主取を仕有之処、先主見付候て理不尽に成敗仕候者、却て可㆑為㆓越度㆒、見付次第当主人に相理
一城を打囲む事、相定る攻手之外一切令㆓停止㆒事
一合戦に出立
右軍法を背き、自由のかけ引有㆑之におゐては、可㆑被㆑処㆓厳科㆒者也、依如㆑件
天正十五年二月朔日より、先勢打立つゝ、海道は多勢引もちきらす打しか共、軍法正しけれは宿等さし合、事もなく、いとしつかに、喧嘩口論の災もなし、かくて先勢半をすき、渡海して豊後豊前に充満たるに、後陣はいまた備前播磨之浦々にひかへたり、二月下旬には、後陣も渡海せしかは、秀吉公三月朔日洛陽を立て、うち給ふ、其日の装束には、緋威の鎧鍬形打たる甲を猪首に着なし、赤地の錦の直埀、いとはなやかに出立たまふ、供奉の人々老たるは猶若き出立、言語を絶したり、奇麗古今あるなしき事なりと云あへりぬ、
三月十七日芸州之地に至て参陣し給ふか、厳島御見物あるへき旨也、然共風あらましう海上も穏ならされは、二三日御滞留有し処に、廿日之朝なき、いつに勝れしつか也けれは、さらはをし渡らんとて、厳島さしてこき出ぬ、水手梶取共、欵乃の歌こと〳〵しくうたひ出、にきはひわたりつゝ、宮島に上り給ふに、社僧神主内侍とも罷出、御祝儀さま〳〵に取つくろひぬ、廻廊に登り給へは、蜑とも貝ひろひて奉る、寔にけしき面白かりけれは
きゝしよりあかぬなかめのいつくしま見せはやと思ふ雲の上人
となん詠し給ふて、けに思ふ事有て見るよな、此景、都なりせはと、うらみにけり、いにしへ清【 NDLJP:327】盛入道の参詣し給ひつる事なと、是かれ内侍共由上しかは、御気色なり、かくて明神へ鳥目千貫つませ給ふ、其外神官等にも御引出物ねんころにそ、おはしましける、同廿五日赤間か関に御参陣有て、長門之浦々を御覧しけるに、折ふし風の音あらましう吹かはり、何と哉覧(やらむイ)物すさましけに、見えしかば、平家之亡魂、美しくや思ふらむと、おぼされて、かくなむ、
波のはなちりにしあとの事とへはむかしなからもぬるゝ袖かな
かやうに口号給へは、何となく海上おたやかに成て、程なく筑紫之地へ着給ひぬ、翌朝当地之体を下墨給ふに、通路之自由も、又九州之要にも、此関戸之城に越たるは有ましきとて、増田右衛門尉長盛を番手とし入置たまふ、夜の嵐に海上いたくあれしかは、名残の波つよふして、波枕岸をあらひ、すさましく有けれは、都に似ぬを旅とおほされ、御心つからにうきを慰給ふ、当津之警固として毛利勘八毛利兵橘を置給ふ、両人奉行して渡之船共、おほくあつめおき、往還之渡海いとやすく有けり、門司之城之番手とし丸毛三郎兵衛尉城戸十乗坊をぞ居置給ふ、此城にして軍評定有けるが、秀次卿を大将となし豊前豊後へ勢を分、可㆑被㆓差遣㆒との事也、相随人々には蜂須賀阿波守六千余騎、尾藤左衛門尉三千余騎長曽我部土佐守五千余騎、宇佐郡さして働給ふ、中国八ケ国之大守毛利右馬頭輝元其勢四万余騎、羽柴備前宰相一万余騎、目代として、黒田官兵衛尉、亀井武蔵守相添、同国とき枝之城を拵へ、可㆑申旨被㆓仰付㆒しかは、夜を日につき急けるほどに、三月廿八日出来し、即うつり給ふ、十日はかり御滞留ましまして、方々の人質を相卜、国中之仕置堅く定め給ふて、豊後国へ乱れ入にけり、島津方にも兼て用意やしたりけん、島津中務丞を大将として、二万余騎をさし添、豊後之府内之城を拵へ、楯籠相支むとそしける、秀吉公蜂須賀なとめしつれられ、城之南北を
一守㆓寺法㆒背㆓礼儀㆒申まじき事
一対㆓隣国㆒向後非儀仕まじき事
一衆議判之時、正路なる分別をは取立、贔負偏頗之徒党を立申ましき事
一悪行之衆徒御座候はゝ、山をはらひ可㆑申候事
一老僧を敬ひ、若輩之客僧を憐愍可㆑仕候事
評曰、一和尚法印分別ふかきに因て、彦山恙もなく、剰後に寺領も如㆓前々㆒、安堵之御朱印出て栄えにけり、秀吉公誓紙の罰文は、古しへより有来を立させ給ふ事尤なり、其理当れり、
重て彦山掟等可㆓申付㆒旨に付て、富田左近将監奥山佐渡守参し、万任㆓先規之旨㆒、新法之自由を改しなり、
○数ケ所之城明退事 新納武蔵守楯籠る高迫〈肥後之内〉之要害、打囲可㆓攻干㆒旨に付て、五万余騎を段々にをしよせければ、難㆑抱や思ひけん、同七日之夜明のきけり、同十一日南之関之城ニ御本陣をよせられ、十三日には堀尾茂助を番手として入置れけり、其より小代伊勢守居城筒か岳も渡しつるに依て、河戻肥前守を入をかる、肥後之内熊本之城は、城ノ十郎太郎居城也、先陣として遠巻にし、一むし蒸けれは、甲を脱て降人に成しかは、城を請取即掃除等よきに沙汰しけり、同十六日秀吉公移り給ふて御滞坐あり、 ○大隅日向表之事 高城とて可㆑然要害之地有、大和中納言秀長可㆑被㆑攻との事に付て、遠巻にして在陣せし処に、同十七日薩摩太守義久、大隅日向之勢を并せ、一万五千騎を卒し、伯耆の南条小鴨か陣へ夜討をそしたりける、宮部善祥坊五千、木下平大夫亀井新十郎〈後武蔵守と号す〉垣屋隠岐守福原右馬助、彼是都合其勢一万五千取合せ、防き戦大隅表打向人々には、龍造寺政家、筑後筑前肥後肥前之侍、其勢三万、羽柴肥前守、羽柴藤五郎、同左衛門督、青山修理亮、木村常陸介、浅野弾正少弼、戸田民部少輔、毛利壱岐守、村上周防守、溝口伯耆守、大田小源五、其勢五万騎さし添らる、向州表発向之人々には、羽柴少将殿 〈秀次公之舎弟大将分也〉徳川三川侍従、羽柴越中守、羽柴三左衛門尉、羽柴飛騨守、水野宗兵衛尉、羽柴五郎左衛門尉、稲葉彦六、羽柴下総守、同出羽守福島左衛門大夫、中川藤兵衛尉、高山右近、林長兵衛尉、都合其勢五万余騎、五月廿日太平寺を打立、日向へぞ押しける、向州之侍野村兵部丞が居城、山崎を先陣として、打囲まんと催しけれは、脱㆑甲鉾を横へ、降人に成にけり、則此城を御本陣にし侍らんと相議し、掃除等申付、御注進申けれは、同廿一日山崎之城に入給ふ、翌日けだうゐん表御陣廻有て、軍法堅く制しをき、山崎へ帰り給ふ、同廿三日島津右衛門大夫【 NDLJP:331】俊久が居城、鶴田之城に至て御参陣、大隅表へ参りたる勢、彼国之人質悉く取て鶴田へ帰陣し、御前へ罷出候へは、速成之功、尤之旨御感有、日向表へ参陣せし人々も、不㆓随順㆒城をは攻平け、降人となりし城々は人質を取帰陣し、御前へ出しかは、是も苦労之旨御感なり、両国五六日之内に平均、いと目出たかりけり、
○大隅日向知行割之事 大隅八郡之内 七郡島津兵庫頭日向五郡之内 二郡島津兵庫頭息又一郎 二郡新納武蔵守 一郡御蔵入
蘇阿
千とせをもたゝみ入たる箱崎の松に花さくおりにあはゝや
古しへは、博多箱崎之在家十万間有て、泉州堺の津にもをとらさる富家おほかりしか、肥前龍造寺と、豊後之大友宗鱗と及㆓鉾楯㆒、其乱十余ケ年に及しかは、かたはかりに荒はて、あはれに見えにけり、秀吉絶たるを起さはやと覚され、竪横之町割、十町宛に定られ、博多之古老を呼出され打渡し給ふ、町人是は有難き御再興かなと悦ひ、昼夜を分す家々のいそき甚し、同十五日義久舎弟二人家老三人召連、御供せらるへきため、博多へ参着有しかは、其夜御対面有て、事之外御懇なる風情也、同十八日小早川左衛門佐隆景、豊後大隅之仕置よきに相調、博多に着船し御礼申上候之処、永々苦労せし旨御感なり、毛利右馬頭輝元へ為加増筑後国を恩賜有、立花之古城舟之かよひ自由を得、地之利全き所なれは、御普請なと丈夫に被㆓仰付㆒、兵粮済々入をかれけるか、同廿八日隆景居城にいたすへき旨被㆓仰出㆒、筑前一国恩賜有て、御朱印を成し下し給ふ、誠に一家之面を起しぬ、隆景才智たくましく、心まめやかなりけるか、果していみしき幸にあひ奉るよなと、人みなうらやみにけり、七月朔日秀吉箱崎を御立なされ、宗像に御宿陣、三日小倉之城につかせ給ふて、豊前八郡之内六郡黒田勘解由に被㆑下、二郡は毛利壱岐守に被㆑下、則小倉を居城に致し可㆑申旨也、黒田は馬岳居城に宜しからんやと、自由せさせ給ふ、如㆑此被㆓仰付㆒、関戸に至て御渡海有し所へ、御迎舟多く浮出たり、船しるしを問せ給へは、大和中納言殿大友宗鱗父子、毛利輝元吉川小早川等也、御甲のうち(内イ)、物すきなるを一羽(刎イ)、輝元へ思賜有、関戸の御泊にて、輝元一献捧たてまつり、ひめをきし千鳥之太刀進上有しかは、御感有て、御腰にさし給ふ、忠光の刀を輝元へ被㆑下けり、大友は瓢簞の壺【 NDLJP:332】進上有、何も無双なる珍器なり、四日関
必のたひの行衛はよしあしもとはてふみ見るあしうらの山
軍書に欲㆑必則莫㆑令㆑卜㆓問軍吉凶㆒とあれは、おもひよれり、かやうにして湊と云所より、辰時はかりに出船して、其日の暮ほとに但馬因幡のさかひ、居くみと云所に舟とまりしける、旅宿いと所せくて上なか下らうかはしき、かり枕し侍りて、
主従者たひにしあれは里の名の居くみにしたるかりの宿かな
廿六日伯耆国みくり屋より船を出して、出雲国仁保之関に上り、見物し侍りて、それより磯つたひを行に、にしきのうらといへは、暫船をとゝめて、
船よするにしきのうらの夕なみのたゝむやかへる名残なるらん
かやうに口すさひて、其わたりちかき、かゝと云所、漁人の家にとゝまりぬ、
あはれにもいまた乳をのむあまの子のかゝのあたりやはなれさるらん
廿二日(二疑七)雨風あらき故に、かゝより船出成難かるへきよしを船人申侍れは、さらはいたつらにくらさんも物うしとて、船をは浪間をまちまはし侍へきよし申て、杵筑宮見物のためかちにてたとり行、道之程三里はかりへて、木ふかくて山のたゝすまひ、たゝならぬ社有を、見めくりて、神人と覚えたるに尋侍りしに、これなん佐
千早振神のやしろや天地とわかち初つる国のみはしら
廿八日佐
磯まくらうらみやたふのうら千鳥見はてぬ夢をさむるなこりに
かやうにして暮かゝるほとに、きつきの社に至て宝前をはしめ、末社等こなたかなた見めくりて尋るに、当社両神官、千家北島、何れも国造となんいひける、其家々見物して、其後旅宿をかりいてゝ、椎
廿九日朝なきの程にまはしつる者共順りきて、いそき舟にのれ日もたけにけりといへは、心あはたゝしくて、
この神の初てよめることの葉をかそふるうたや手向なるらん
逮㆓于素戔烏尊㆒到㆓出雲国㆒初有㆓三十一字詠㆒とあれは、やう〳〵字のかすをあはする計を、手向にあたりと云心さしけるに、両司なれは、一方へはいかゝとあるしのいひけるに、俄なれは同歌を書てやりける、又当社本願より、発句所望なれは、
卯花や神のいかきのゆふかつら
かやうに書やりけるに、千家方より今の発句は北島にて連歌たるへし、吾方にては百韵興行すへしとて、船に乗所に追付て、発句所望なり、いそかはしきに難㆑成よし、たひ〳〵申せしか共、所のならひにやわりなく申されける程に、人の心をやふらしとて、思ひめくらす折ふし、ほとゝきすの名乗けれは、
郭公声の行衛やうらの浪
廿九日石見の大うらと云所にとまりて、明るあした仁間と云津まて行に、石見のうみあらきと云古事ともたかはす、白波かゝる磯山の、いは(巌イ)ほそはたちたるあたりを、こき行とて、
これやこのうき世をめくる舟のみち石見のうみのあらきなみ風
それよりやかて銀山へこえて見るに、やまふきと云城、在所の上に有を見て、
城の名もことはりなれやまぶよりもほるしろかねをやまふきにして
やとりける慈恩寺、発句所望、庭前に楓の有を見て、
深山木の中に夏をやわかかえて
浪の露にさゝ島しける磯部かな
五日出船するに、跡にても一折張行すへきよしにて、所望なれは当座に、
うき草のねにひかれ行あやめ哉
七日浜田を出て行に、
うつり行世々をへぬれとくちもせぬ名こそたかつの松のことの葉
とかくして長門国にいたり、磯の上島々を見わたして行に、かり島と云所有と聞、誰も世の無常なる事を思ひ出て、
みな人のいのちなかとくたのめとも世はかりしまの浪のうたかた
おなしき国浦小畑と云湊に、唐船の着て有よしを、船人のうちにかたりけれは、さらは見物【 NDLJP:334】せんとて遥に舟をよせ、しは〳〵とゝめて、
我もまたうらつたひしてこきとめぬもろこし船のよりし湊に
あこのうら波のたかく聞えけれは、
小つゝみのとうにしらへやあはすらんうつ音たかしあこのうら浪
十日瀬戸崎と云所を出船せしに、風あらくて高波、半は船をもこし侍るはかりなり、召具したる者共、ゑひこゝちたゝならて、色をうしなへる体なれは、さらはこきかへすへきよしを云て、山かけて舟の入ほと廿町はかりには過す、されとも千里を行こゝちなんしける、からうしてやとりける在所に帰けるに、なを風あらくなりて、草木をも吹しほりて、海のおもては、ふすまをはりたるやうなり、何人の乗たるはしらねとも、先へ出たる舟は波に沈みたるなといへは、命ひとつをひろひたるこゝちして、其夜はねてのあさけも、昨日の名残(波イ)にや、なを雨風やます、波の音たかしほにきほひて見やれは、船の出へきやうもなしなと、船人わひあへり、さらはかちにて関
かたちなき夢てふものを心とも法のむしろにふしてこそしれ
心法無形通貫十方とやらんいへは、思ひよれり、きこえかたくや、豊浦宮を行過るとて
水もらぬ池のこゝろのふかさをもとよらの宮のつゝみにそしる
たらひと云在所にて、かれいひ侍らんとて、かりのやとりにあかるとて、下々あしをあらふに、まめのいてきて、いたきなといふをきゝ侍りて、
さしいれてあらへるあしのまめおほみ馬たらひとや人のみるらん(いふらんイ)
もしほくさかくたもとをもぬらす哉すゝりの海の波のなこりに
豊前国門司之関にて、
古郷にことつてやせん一ふてもかきや絶なんもしの関守
兵粮船おほくつとひて有を見て、くらなしのはま当国なれは、
米舟は国々よりも着にけりあけてもつまむくらなしのはま
豊前之柳浦名主とて発句所望せしに、
豊国の山くちしるき早苗かな
同月廿三日赤間関を出て行けるに、雨の名残にや波風のあらき故に、小倉にとまりて明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人のこれなん金か御崎といふ、昔鐘を求【 NDLJP:335】め船にのせてきたり、汀ちかく成て取をとして、今に有と云、日和のよき時は龍頭なと見ゆるよしをかたる、勅撰名寄には金と云字を書たりと覚えけるか、鐘にて有へきなとゝ、友たちなとに語りける次に、万葉に、我はわすれす、しかのすゑ神と哉覧読たる事なと思ひ出て、
暮わたるかねの御崎を行舟にわれは忘れずふるさとの夢
かやうに云たはふれて、こき行ほとに、夕浪あらくなりて、やう〳〵志賀の島に着て、金剛山の宮司坊にやとるに、春日鹿島当社おなし御ちかひの神なりと物語有、
みかさ山さしてやかよふしかのしま神のちかひのへたてなけれは
縁起なととり出して見せらるゝ次に、
〈波あらき塩干の松のかつらがた島よりつゝくうみの中道〉これ当社の御歌のよし社僧のかたられける、又香椎の神詠には、やまよりつゝくと一句かはりたるなとゝ有、立出見侍りけるに、砂の遠さ三里はかりも、海の中をわけて島につゝき、十四五間はかりも有と見えたり、文珠なともおはしませは、橋立の事なと思ひくらへられき、当社は
名にしおふ龍の宮この跡とめて波をわけ行うみの中道
此両首をかきて奉納して、廿五日朝なきのほとに、箱崎にわたりて見るに、松原はる〳〵つゝきて、八幡宮は北面にむかひて立たり、戒定恵の三学の箱を、むかしうづまれたる所に、あるしの松とて古木あり、たちよりて、
そのかみにをさめをきたる箱崎の松こそ千代のしるしなりけれ
日たかく侍けれは博多見にまかりけるに、爰を袖の湊と、里人のをしへけれは
いさゝらはともにぬらさんたひころも袖の湊のなみのまくらに
日も暮ぬいさ船よせてねもしなんひしきものには袖のみなとを
廿六日宰府は天神之住給ひし所と聞及しまゝ、為㆓見物㆒まかりける、彼宮寺は七とせはかりさきに炎上して、かたはかりなるかり殿有、旧跡の有様、松杉のおほくきられたるに、さすかに所々にのこり、うしろは青山そひえて、右の方七八町はかりもあるらんと見えて、観音寺有、寔に西都とも云へき所なり、飛梅も古木は焼てきりけるに、若はえの
鶯のはねをやとひて飛梅のかこにはいかてのらて来にけん
それより染川を、里人にたつねて見に行侍るに、思ひしにはかはりたるに、河のあさきなかれなり、うちわたりて、
老の波むかしにかへれ染川や色になるてふこゝろはかりも
思ひ川にて、
くるゝ夜の蛍やしるへ思ひ川
こゝかしこ見めくりて、帰りける道に、かるかやの関の跡有(一本無有字)とて、をしへけるに、今度の陣衆なのらせて、かへさるゝ事有よしを、つたへ聞て、
名のらせてやう〳〵とをす陣かへり兵粮米やかるかやのせき
【 NDLJP:336】此次にかまと山は何くそと、案内者にたつねしに、かへるさの右にたかき山有、是なんそれと云、昔は竈門山、賓重寺とて山伏の住ける所に有けるを、ちかきとし比より、高橋と云者城墎にこしらへて有けるか、去年島津出て、あたりちかき岩屋の城せめ落せし時分、あけにけるか、此比山伏の帰住と申せしに、五月雨の名残雲の懸りて、見えけれは、
立つゝく雲を千里のけふりにてにきはふ民のかまと山かな
可也山にて
しけり行かやの山辺に入しかは秋よりつゆにぬれてふすらん
姪
わきさしの代をしとへはやすよしのなかこたゝしきめいのはまかな
廿八日姪浜と云所にいたり、それより生
すゝしさを風のたよりにことゝはん今いくかあらはいきのまつはら
姪浜にて有人、宗養執筆せられし連歌の懐紙を見せて、奥書所望せしに、
これも又ながれて末のみつくきのあとのかたみと書そくはふる
六月三日姪浜興徳寺住持、
風かほる南をまつのとほそ哉
社同六月梅
同八日利休居士へ関白殿渡御あそひ有て、彼一折と被相催て、発句つかふまつるへきよしあれは、筥崎八幡の心を、
神代にもこえつゝすゝし松のかせ
雲間にとをき夏の夜の月 松
ほのかにも明行空の雨晴て 日野新大納言
箱崎の八幡のうち関白殿をはし所になりて、各参上せしに、しるしのまつによせて、祝言心をよませられけるに、
つるきをはこゝにをさめよ箱崎の松の千とせも君か代の友
関白殿箱崎の松原にてすゝまるへきよし有て、各召ぐせられ、しはし御遊興の事有、おほみきまいり、謡とも有て御当座有しに、
立出る袖のみなとの夕すゝみかたしくほとのうら風そふく
暮はてゝかへらせ給ふをりに、松原に名残思ふ歌、人々つかうまつるへきよしあれは、
松原にとまりからすの声をさへうらやまれぬるかへるさのみち
六月十日あまりのほとに、香椎の浦見にまかりて、
うなはらや塩路はるかに吹かせの香椎のわたり浪たつらしも
帰るさには船をは、はるかなるひかたのさきへまはして、たゝら浜にかちにて行て、
【 NDLJP:337】 いにしへはこゝにゐもしのあとゝめていまもふみ見るたゝらはまかな
対馬守護宗
しきしまの道すなほなる御代にあひてめくみ久しき箱崎の松
卒因㆓和歌韵㆒
始
しら波のうつかた山のしほかせにすゝしさそふる夕たちの雨
発句
とを島に立くはゝるや雲の嶺
六月廿五日一折可㆓張行㆒とて、溝口大炊允所望に、
浪の音も秋風ちかしにしの海
あまさかるひなのすまひ(ゐイ)とおもふなよとつこもおなしうき世ならすや
と千宗易より云をこせける返事に、
あまさかるひなにはなをそゐたむなきとつこもおなしうき世なれとも
廿七日関白殿花瓶あまたとり出されて、草花をいけられたる御座敷にて、俄に一折被㆑催て、発句つかうまつるへきよしあれは、
夏草に花のかならすたもとかな
すゝしき夜半のさころもの月 松
あら露の簾のひまをつたひきて 由巳
七月四日関白殿関
あきとふく風やせきの渡とまり舟
六日にも未た船の出難き風なれは、周防山口為㆓見物㆒、在所の荷をおふ馬かり出して、船木と云在所まて行て、七日に山口に到りぬ、今夜は七夕のあふ夜なりと思ひ出て、暁方の寝覚に、
七夕の別の袖にくらへ見よ露なからかす旅の衣手
八日所々寺社見めくりて、同国こふの天神まて立出へき用意せしに、当所本国寺住持一会興行すへしとて、しきりにとめられ侍れは、ちからなく其日は逗留して、
九日に
もる月もいま一しほの木間哉
十日山口をいて、国府
【 NDLJP:338】 色わけよまつこそ風のたむけ草
田しみ(しみ一本島ニ作ル)の湊にて、まりふの浦を見るに、網のおほくかけほしてあれは、
真砂地にあみはりわたしもてあそふまりふのうらの風そたえつゝ
十一日
あらきその道なりとても帰るさは岩くに山もふみならしてん
それより厳島ちかくなりて社頭を見るに、鳥居は海の面二町はかりとおほしくて立たり、廻廊も、柱はみな塩につかりてあり、船よりみて、
とを島の下津岩ねの宮はしら波の上より立かとそ見る
此歌をかきて当社棚守左近将監かたへつかはしける、とかく有て月に成侍れは、立出て更るまて見るに、塩干塩満目の前にかはりて、汀二三町はかりも遠近になりぬ、
みつ塩はたゝ大海の泉かなと宗祇賢作なり、理りなるかな、又大聖院良政発句所望有て、十三日一会あり、当社にかゝみの池と云あれは、
影うつす月やかゝみの池の水
十四日にも棚守連歌興行すへきよしあれとも、玉まつる日にあたれり、心つきなきやうにや有へきとて、辞退みけるに、さらは発句はかりをと所望なり、思ひかけぬに郭公の鳴けれは、
秋はまたは山しけ山郭公
かやうに申つかはしける、さらは晩にあるしすへきよしあれは行けるに、色々の肴もとめて盃いたされて、子息少輔三郎出座ありて、乱舞あり、脇指を出して罷帰しなり、やとりける所は奥坊と云ける、こよひの玉祭の手向なとかまへをかれけるに、時鳥の二声三声なけるを、こゝには何もかやうに有かと尋しに、めつらしき事なりと云、一首をよみてつかはしける、
しての山をくりやきつる杜鵑玉まつる夜の空に啼なり
十五日宮島神前にて、延年と云事ありといへは、見物して夜半はかりに船を出し、たゝのうみにとまり侍りて、それより備後津へ公儀御座所に参上して、十八日朝鞆まてこし侍るに、竹田法印かりそめの宿なれと、亭なと有て凉しきよしあれは、立寄て
名残ある月やともつなみなと舟
それより終夜舟をいそきて行に、明方のほとに備中国にありと云、
明ほのやふもとをめくる雲霧にいやたか山のすかたをそ見る
十九日備前のうち、ひらとゝ云所にとまり、それより暮ほとに、宇島門に着て、船をかけても、やかて出すへきしよをいへは、あかりもせてかち枕の月を見ればイる に物うき旅ねなれは、
船にねてなにをたのまん月にさへなをうしまとのとまりなりせは
其より月の夜船に乗て行に、虫明のさとといへは、
【 NDLJP:339】 秋風の身にしむ夜はゝなく音をも聞はかりなるむしあけのせと
風あらく成て、たてのうらと云所に上り、人さともなき所に旅ねし侍り、
夕波(浪イ)のたてのうらよりゆみはりの月もひかりをはなつとそみる
とかくありて、波間に船をいたして、播磨の室まて行道に、坂を越しやくしと云在所あり、其近きあたりに鍋の島と云あれは、
塩はたゝよき程なれやなへのしましやくしを中へ入てみつれは
廿一日明方をまちて舟を出し、家島をこきめくるとて、
いかはかり船よそひしてこきよせん我家しまと思はましかは
ひめちと云城を船に見て過行ほとに、しかま川ちかきわたり、海の面にこりたるを、船人に尋けるに、水上(海上)に大雨ふり侍れは、かやうに有と云、
水上にいくむら雨かしかま川にこりは海にいてゝ来にけり
かやうにうちなかめ、ひゝきのなたを漕過て、高砂の浦をかけて、其夜はとまりにけり侍り
高砂の尾上のかねも松かせもひゝきのなたの波にたゝへて
是より松おのうら見物せんとて、廿二日の暁夜舟こかせて行に、あかしのわたり追風をかたほにかけて、はる〳〵とあはち島によりて、
行船の追風きほふあかしかたかたほに月をそむけてそ見る
さてまつほの浦ちかくなれは、船をよせて見るに、明かたの月波にうかひてみえけるに、
あらしふくまつほのうらの霧晴て浪よりしらむ有明の月
又絵島と云磯を見るに、山のかさなりてしまのあれは、
いく重ともなみちはるかにたゝみなす山やまことのゑしまなるらん
須摩の浦にて
すまのうらさとのうしろの山柴やあまのしほやくけふりなるらん
くれかゝるほと波のあらくなるに、わたの御崎をこぎめくり、生田の森を船より見わたして、
こく舟の夕なみあらくなりにけりさそないく田のもりのあき風
去四月丹後を出船して九州をへ、帰陣の時は、南の海をまはりて、七月廿三日と云に難波に着ぬ、思ひやれはかきりなき日の本をも、なかははかりをめくり来にけることゝ、おとろきて、
なには江のみちにひかれてはるかなる豊あしはらもめくり来にけり
此道之記、いふかしき所もあんめれと、類本なければ、跡も正さずかく記し付畢、
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