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太閤記/巻九

目次
 
オープンアクセス NDLJP:313
 
太閤記 巻九
 
 小瀕甫菴道喜輯録
 
○北畠中将信雄卿令腹三臣之事信長公二男法名常真
 

天正十二年三月三日於尾州長島之城、津川玄番允〈勢州松島城主也〉岡田長門守〈岡田助右衛門尉長千尾州星崎城主也〉浅井田宮丸〈尾州苅安賀城主新八郎長于也〉生害せさせ給ふ、其起は秀吉より此三人は、武略兼備りたる者なれは、懇に事問かはす事多して、其聞え目出侍れは、つね寵を争ふ近習折を得、逆意有やうに沙汰せしに依てなり、長門守わかたう共落来り、長州昨日長島之城にて生害せさせ給ひつると告しかは、星崎之城、上を下へと騒動し、資財雑具南去北来の有さま、とこう云にも及はれず、長門守舎弟岡田勝五郎、〈後号伊勢守〉門葉にて侍る坂井下総守、其弟赤川総左衛門尉、林宗右衛門尉、那須十右衛門舎弟彦次郎、耶須隼人佑、山口半左衛門尉、喜田野彦四郎等を呼集め云やうは、下々の騒動は、上の心一致せさる故なるべし、長島之御勢も頓て寄来らむぞかし、長門守つねに武勇に、心さし深かりし事、何れも存知之前也、然は弔合戦のため各軽一命義之所在、当城を守り給候へ、三十日たもつ程ならは、秀吉合力し給ふへしと有しかば、衆口同義に答ふるは、如仰長州に対し、朋友の因も年久して、况今は臣となりぬ、何ぞ一命を惜み候はん、此者共におゐては、全義を重し、苦戦之前に、可討死候然上は人質を本丸へ入候はんとて、不残妻子を入にけり、山口は其妻長門守妹なるに因て、母をと好み侍る処に、何とやらん気味あしげに見えて云やう、母は前省熱田へ参り候か、今暁より虫さし出無正体由申来候、本復次第本丸へ参らせ候はんとなり、是によつて城中もイサヽカおだやかならず、翌日如案山口母を長島へめし捕給ひき、此事をことしく云なし、迷惑なるよし、半左衛門尉云出ぬ、勝五郎伯父良琢和尚、山口に向ひ理を尽し被申けるやうは、汝柴田修理亮か厚恩に沃しなから、其合戦にも忠死せず、落武者之身と成て退しを、長門守よきに撫育し、其方の下々まて其恵みうるほひしなり、其後五千石之地を施し、栄花に且見之、門葉に至て面をおこオープンアクセス NDLJP:314し侍りき、爾有に長門守、かく成しとて、兄弟の因を変し、母を長島へ調略を以まいらせ置、信雄に忠義し、此城を望み思ふな、其利一往は有けめど、士として左様之義理を変し名を汚し、誰か栄へ侍るぞや、汝がやうなる士畜生は、急ぎ出候へとて、城を出しけり、良琢和尚言のごとく果して、秀吉公へ義を汚す事有て、秀次御切腹之刻、生害せさせ給ひし也、

評曰、利に因て身を立ん事を根ふかふ好む者は、義をは曽て不知事多し、此類病は皆不乎天意也、人の身上に利害の胎む事有時に、他能察シテ之、己は知ぬ物なり、此田地は中人以下なるべし、中人己上はよく知て改之、

 
○信雄卿与秀吉卿鉾楯起之事
 

信雄卿、三臣を生害し給ふは、羽柴筑前守につかへ侍る品有によつてなり、然間秀吉より其とがめ有へしとて、徳河三河守家康卿、池田勝入、森武蔵守などをたのみおほしめすのよし使札を以、信雄卿より被仰入けれは家康卿は御同心有之旨御返事こまやかなり、池田森かたへは、秀吉より入魂頼入之旨、尾藤ビトウ甚右衛門を以、被仰入しか共、池田も信長公御厚恩を蒙りし事なれは、不是非之沙汰、信雄卿へ御味方に参らては、不叶事なりと、片桐に向て、いかゝ思ふぞと相談有、半右衛門奉り、かくこそあらまほしく存候へ、是理之当然也と感しけり、伊木清兵衛尉すゝみ出申けるは、秀吉近年立身の行を、聞もし見もし候に、諸大名をかたにして、秀吉と武略の軽重をあらそふ共、秀吉のかた、重く侍るへう覚之候、然は此後天下の執権は、秀吉にて候べし、願は秀吉に与し、身をも立、先祖をも目出祭り、旧功之者共をも、執立其労をも報し給ひなは、宜しくおはしまし候はんやと諫にけり、勝入も此諫けにもと思ひ、身もがな二つと思ひ累ひ、心摸綾の手に似たり、かゝる処に秀吉より勝入へ津田隼人佑を、使者として被申けるは、濃尾三、三ケ国を領納せらるべく候、曽て相違有へからさる趣、上巻の誓紙下りけり、清兵衛は秀吉の御方を取持けるか、三月十日の夜、勝入と良久しく、密談の事有て、奥の間より出て、勝入は秀吉方に与し、可申旨に極りぬるよし、披露有けり、片桐承り、義を外にし、信長公の厚恩を忘れ、秀吉卿に忠あらむとの事全由緒なし、行末はかしき事あらじと、眉を顰めにけり、又家康卿は池田に反し、義の在す所に与せんとて、三月十日至千尾州清洲、信雄卿を見廻給ひつゝ、秀吉当国発向あらば、必救ひまいらせ申べし、御心を安し給へと、力を付まいらせ、翌日帰国し給ひけり、

 
○尾州犬山之城落居之事
 
信長公、元亀之初犬山の城に一万貫之地を相添、勝三郎に被下しかば、普請等丈夫にこしらへ、其比より犬山之城主として、天正九年に至て有しが、織田源三郎殿〈信長公御子息〉を、聟取に奉り、渡し侍るなり、天正十年六月二日源三郎殿も、京都におゐて、討死し給ひしかば、信雄卿尾州の太守と成給ふ、依之犬山之城主として、中河勘右衛門尉をすへをかれけるが、勢州嶺之城為番手有由、勝入打聞て、犬山之城留守居ばかりなる事、天之与る幸也、旧因なれば、犬山町人、其辺の親き者の方へ、日置三蔵をつかはし其城を可乗取才学頼み入由申されしかば、則同心し、明後十三日の夜、船を渡し引人可申候、必御人数を出させ給へ、たしかになけれオープンアクセス NDLJP:315は御人数出しかねらるべうもやおはしまさんとて、人質二人渡し候て、三月十一日の未明に日置を大柿へ帰し侍りぬ、勝入其由打聞て、おどり上りはねあがり、悦ひぬる事かきりなし、かくて陣ふれ有けるは、明後十三日至東美濃発向し、其日に帰陣すべく候条、腰兵粮のみの用意せよとなり、十三日大柿を立て打けるに、北方の渡りの辺より、小船を数多何ひ、東さして行あり、是は池田紀伊守、猟船を十艘許調つゝ、大豆戸の渡りへはこびつかはしけり、夜に入しかば、使番の者向諸勢宇留馬の川はたに陣を取待候へ、東美濃へは通るまじき旨ふれ通りけり、亥の時とおほしきに、紀伊守十艘の舟に打乗て河を渡し、城へ忍ひ寄、凱歌を唱れは、城中思ひもよらぬ事ではあり、十方にくれて有し処を、乗入向ふ者あれは、引組て首を取、逃る者をは伐捨にけり、勘右衛門尉か叔父清蔵主、竪横十文字に切て廻り、八字に追廻ししか共、多勢入替々々攻入、終に清蔵主をも打捕てけり、かくて池田父子城に入しかば、十四日の朝、町人近辺の長百性、如前々御入城目出こそおはしませとて、祝儀を申上樽肴を捧け、門前に市をなす、翌日十五日卯之刻に、池田父子小牧山近辺に至て勢を出し、在々所々不一宇放火、引帰しけり、信雄卿家康卿は、清洲の城にして、十四日の夜、軍評定有て、明日は小牧山へ打て出、即山を城に拵へ、秀吉令発向におゐては、可対陣との事なり、十五日午刻清洲を打出、小牧山へと心さしけるに、彼近辺に当て、放火の煙曇天、鯨波の声動地、扨は池田焼働に出てこそ有れと、鞭をはやめ急しか共、勝入は人数を方々へ分つかはし、一時に仕廻早速打入てけり、然処へ清洲より卒二万騎至小牧山着陣し、近辺の長百姓なとを呼出し、池田か動の様子を問給へは、巳之刻計に二三万も有つへう見えて発向し、手分して在々を放火し頓て勢を打入侍りしと答へけれは、信雄卿も家康卿も足摺をして悔候ひしか共かひそなき、是を無念に思ひこめ、十六日之早朝悉く勢を押出し、犬山さして打て行、楽田羽黒五郎丸辺の民屋放火し、時の声を挙し処に、羽黒の八幡林に森武蔵守尾藤甚右衛門尉陣を備へ、鉄炮足軽などして有けるを、奥平九八郎〈後号美作守大須賀五郎左衛門尉、榊原小平太、丹羽勘介等是を見て、隔小川迭に鉄炮を放し、移剋、時に武蔵守か使番とおほしくて、あさき羽織の歩者十四五人、馬のまはりにめしつれたる武者一騎、陣の前を再三のり廻りけり、九八郎是を見て、何様よき武者と見えたり、あれうち取候へと、下知を加へけれは、馬上の侍共ひしとおり立、鉄炮を以彼武者をうち落す、敵少いろめき立時に、ひたとうちのり、九八郎か手勢僅に千余輩、川を越て武蔵守か三千許にてひかへたる真中へ、真黒に実てかゝる、両陣互に黒烟を立挑戦、森も心剛に能勇士多かりけれとも、味方急に揉立しかば、足を立かね羽黒の内へ引入処を、息をもくれず犬山近辺まてをしかけ討ほどに、敵悉く敗走し、爰かしこにて五人三人返し合うたるゝ者多かりけり、大須賀榊原等かひかへたる陣の前に沼有けるによつて、急にかゝる事を得す、とかくするうちに沼をめくり馳加りぬ、其後追々味方馳加りける間、敵は弥気を失ひ、味方は弥力を得、勝に乗て北るを追、羽黒の東、山きはにして、野呂助左衛門尉取て帰し、しはらく鑓を合せ戦ひ討死をぞしたりける、長子野呂助三は夢にもしらず、五六町も退し処に、助左衛門尉馬取の者見えたり、助三呼オープンアクセス NDLJP:316寄て父の行衛いかにととふに、されは候貴殿を尋ね、跡をしたるく見返し退給ふを、敵六七騎追かけ、山きはをのく母衣武者の、出しは見しりたるぞ、野呂助左衛門にてはなきか、キタナクも後を見せ候者かな、引返して勝負し給へと云し処に、此小刀を形身に子共の方へと計被仰面もふらす引返し討死し給ふ也、いそき御退候へと諫ければ、おのれが存分には、似合たるぞと云、鬢の髪をきり妻の方へ、汗巾アセヌクヒを毋の方へとて小姓を渡し、何も退候へと云すて、助左衛門尉討れぬる所へ心さし帰し行けれは、敵なを進来たるに、より合かしらに渡し合せ、先に進たる馬上を息をもさせす突落しくひねち切てけり、助三か若党一人やう走着て、御手からにておはしますぞ、もはや御のき候へと再三申せ共、おのれは此くひを持て武州に見せ候へとて、鑓を持てしつとてきの方へ行ける処に、十六七騎追かけ来りしを、二人つきふせしか共後より股をすへられ終に討れにけり、犬山より勝入父子稲葉伊予守子息右京亮、郡上の両遠藤都合其勢三万余騎、犬山段の下に陣を備へ有けるが、武蔵守敗北のよしを聞、是よりかゝつて合戦を挑み決勝負と、勝入身を捫ていさみしかども、誰やらむ勝入の陣にかけふさかり、あのきほひ来る旗先にかゝりなば利なかるへし、此勢を上の段へ引あけ陣を備へて御待候へ、敵勝に乗てかゝり来り候はん時、待うけ合戦ましまさば、十に八九勝利を得へく候といへば、尤也とて段の上へ勢を引上まち居たり、一番合戦をは稲葉仕候はんと鑓玉を取、二つ三つりうとならし、老の波に血の川を湛へんと云つゝ、大に笑しかは、若武者共も一きは浮やかに成て待かけたり、家康卿は敵段の上へ引上、勢を備へたるを聞給ひて、我先勢の者とも凱歌を唱へさつと引取候へとて、九八郎かたへ天野佐左衛門尉等をつかはし制し給へは、やがてかち時をあけ候けるに、段の上の備よりも時を合たり、かくて小牧山さして勢を入給へは、段のうへの勢も打納にけり、此節九八郎粉骨をつくし勇士の武蔵守を敗北せしめ、首数二百余討取て家康卿の実検に備ふ、家康卿感悦大かたならすして御前近く召出され、汝が動今にはしめず、先年長篠籠城之時大軍を引うけ、一度のをくれをとらす、後詰を待うけ終に運をひらき、武田勝頼を敗北せしめし武功の程をかんじ給ひ、信長公感悦のあまりに、汝か名を呼て武者之介と付給ひし事僻言ならす、今度又勇士の武蔵守を敗北せしめし事、ひとへに九八郎か武功に有と仰られ、即大一文字の腰物を給り、弥可忠功之旨憫詞少からす、扨信雄卿家康卿も小牧山をコシヘへ御在城也、蟹清水、外山村、宇田津村をも、要害に拵へ、勢を入をき給ふ、又春日井郡小幡之古城をも拵へ、三州上下の便之為、本田豊後守駿州穴山名代として穂坂常陸介在城たり、

評曰、森武蔵守其以前二三度得勝利事は対小敵の事也、父の武勇に続て若年より父に似たる事有と沙汰せし処に、武勇の佳名且々カツ〻出来、鬼武蔵など云出ぬ、か様之事有しにより、其勝手を大軍にあてしは若き故也、家康卿は武田と年久しう戦を挑み合、其功莫太也、其武功の程を森も深くつゝしみ、羽黒の郷中に在て、弓鉄炮を出し、湿みに付て寄来る敵をうたせ、日をくらし夜合戦を望なは、縦大軍たりと云とも、打なやます事も有へきに、小勢にて郷中を出はなれ、入幡林に陣を備へし事不覚也、又尾藤甚石衛門尉が素性、敵を侮り武オープンアクセス NDLJP:317勇に慢気ある者也、武蔵守と気象同し、是を森が横目がてらに合力し給ひし事、秀吉卿の越度にて侍るへしや、

翌日十七日秀吉卿より飛札到来し制し給ふは、敵仮令戦を挑まむと催し仕懸候共、必陣を堅してたゝかはざれと也、其状曰、態令申候然者信雄家康、雖合戦、必不其機候、殊池田勝入、森武蔵守は、前々侮於敵、武勇にほこり付たる人候条、能諫可申候、其段肝要候也、謹言

  三月十三日       秀吉在判

         尾藤甚右衛門殿へ

如此制し給ふに、如案以小勢、戦於多勢、執越度事無是非次第也、是孟子か、寡は固に不衆と有し、金言を不知故とて、秀吉千悔限なし、

 
○秀吉卿尾州表御出勢之事
 
羽柴筑前守秀吉、尾州表出勢之起は、津川玄番允、岡田長門守、浅井田宮丸、為秀吉誅せられし事を不便に思ひ、其鬱憤を散せんが故とかや、先勢、濃州垂井赤坂巣俣辺に着陣しけれは、後陣は未醍醐山科宇治勢多辺に充満して、大坂の御一左右を待居たり、前後其勢十二万五千の着到とそ聞えし、秀吉卿三月廿一日大坂を打立給へは、宇治瀬田辺に扣へし勢も、次第に打にけり、廿三日四日には、先勢犬山の下、大豆戸の渡を越、犬山五郎丸辺に陣取しか、逐日後陣之勢あまた打つどひ、尺地も更になかりけり、かゝる処に、秀吉卿も廿七日午刻に川を越給ふて、犬山之城に入給ひしが、未之刻に楽田羽黒辺まて、諸大名衆計被召連打て出、対小牧山、向城を多く拵へ給はんとの評定有、二重堀の要害一の先手なれはとて、日根野備中守、舎弟弥次右衛門尉、子共五人其勢二千余騎入置る、岩崎山之城には稲葉伊予守、子息右京亮、彦六、同名右近、勘右衛門其勢四千余、小松寺山の城には丹羽五郎左衛門尉長秀、其勢八千、青塚の城には森武蔵守其勢三千余、内窪山之城には蜂屋出羽守、金森五郎八其勢三千、其外里より里、嶺より峰をつゝきに、陣取けれは、夜に入て笧火夥しき事、云計なし、
 
○池田勝入父子討死之事
 
池田家老の面々を呼寄謀りけるは、小牧山之勢逐日重なりぬると見えたり、然間三川には人数も曽て有まじきか、いさ此すき間を幸に、三州に至て中入し、国中在々所々放火せん、さる程ならば、小牧山に有し、遠三二州の勢、可敗軍事掌を指か如くなるへし、其旨秀吉に相議し、三州表発向せんと思ふはいかに、面々思ふ所あらは、聞候はんと被申けり、何も宜しくおはしまさんと云しかは、即卯月四日の夜、犬山御本陣へ参、其旨かくと望みしかば、秀吉つくと御思惟有て、明日一着御返事有べきとて、先勝入をは帰し給ふ、五日の早朝に池田又秀吉卿、参、此興行今明日相延候はゝ、首尾相違いたすへく候、其子細篠木柏井の一揆を駆催し、村瀬作右衛門尉を一揆大将とし、森川権右衛門要害に入置候はん、あらましなる由、篠木より告知する者有と申上しかは、秀吉尤なりと同し給ふて、明日六日打立東三河を少々令放火、やかて引取、篠木柏井に両城を拵へ一揆原に、多くの扶持方なと扶助し、毎夜敵の在オープンアクセス NDLJP:318々へ夜討を入、おひやかす程ならは、尾州半国は味方に属し候へし、必敵を侮候な、まはらかけし侍るなと諫めて、勝入を帰し給ふ、角て三好孫七郎殿、其勢一万、堀久太郎五千、明日六日池田勝入三州に至て発向せしむるの条、両人も令出勢、勝入指図次第進退可之旨、増田仁右衛門尉を以被仰出けり、其旨勝入同息池田紀伊守、森武蔵守方へも、両人助成として、被差遣之条、宜相議となり、因然秀吉卿も犬山より出張し、楽田を本陣として、二重堀より青塚に至て、馬ふせきの築地を高くつかせ、用心きびしかりけり、卯月六日の夜半より、池田父子森武蔵守堀久太郎三好孫七郎殿、打立巳之刻に篠木柏井両江、尺地を不余陣取にけり、〈二里四方之陣取也〉一揆原にも秀吉より五万石之地を恩賜有へき旨、其沙汰に及ひしかは、何事もつきしくそ有ける、角て九日三州表可発向との催し、八日の未明より廻文あり、篠木より小牧山に至て注進申上者あつて、信雄卿も家康卿も、其あらましを知給へり、注進に来りし者を重く賞し給ひて帰しつゝ、密かに触給ふは、今日未之刻より小幡に至て、出勢の事有、旗をしぼりさし物を持せ、密かに小牧山を忍ひ出よと、榊原小平太〈後号式部大輔〉井伊満十代〈後号兵部少輔〉

丹羽勘介等、其外両卿の小姓馬廻、母衣之者、使番等其器を撰て触られ、小牧山を八日未之刻に立て急がせ給へは、無程小幡之城に着陣あり、本田豊後守に仰て、遠聞の歩士十人許、龍泉寺表へ出し、南さして勢の行事有か、聞て告知せよと、戌之刻に出し置給ふ、痛しや勝入は、かやうのこしらへを夢にもしらす、亥之刻より打立、勢を推行に遠聞之者立帰り、はや多勢南をさして打候由申上しかば、両公も其用意急にして、丑之刻に出給ふ、遠聞之者又来て多勢引もちきらす打候し、能々其御意得ましませと告申けれは、心易思ひ候へとて打笑せつゝ、程なく猪腰原の辰巳の山に着陣して、夜の明るをぞ待にける、かゝる処に丹羽勘介か居城岩崎に当て、鉄砲の音、城を攻る声夥しく聞えしか、早城は落たりと誰云共なくひそあへきめりぬ、池田か先手一番備、伊木清兵衛尉其勢二千余、二番備片桐半右衛門尉其勢二千、岩崎之城に至て着とひとしく取巻、平攻にせめて乗入処に、城内より大手へ突て出防きたゝかひし内に、鍬形打たる甲を猪首に着なし、大身の鑓持て能相手もかなと、思ひ入たる風情見えて、一きは先に進み来たりし者あり、又爰に池田紀伊守か内、太陽寺左平次〈後号牧野新九郎〉 と名乗出、つきあひしかつゐに猪首の甲は、太陽寺にうたれにけり、即紀伊守に見せしかば、軍初の門出よしと、ほうひしてけり、かくてこそそこをは打破られ、城内へ引入にけれ、丹羽勘助弟次郎助手鑓提大手の門を相防き、二三度突出しけれ共、多勢入替捫しかは、あまた所手を負土肥七郎右衛門尉に討れしかは、其手之弱兵等搦手さして落しを、片桐半右衛門尉か勢一人も不漏討捕、三百余実検に備ふ、勝入実検しつゝ事外なる機嫌にて有し処へ、三好孫七郎殿こそ井伊万千世と戦給ひしが、追立られ剛兵共多く討せ、敗軍し給ふよし云出たり、然共たしかなる事にもあらされは、備を替る事もなく、各目と目を見合せ、息はつんて居ける処へ、田中久兵衛尉堀久太郎備の前へ来て云やうは、孫七郎唯今榊原小平太、丹羽勘介と挑合戦候しが、多勢に捫立られ候と云も果ぬに、久太郎大の眼をいからかし、散々にしかりけるやうは、使も使にこそよれ、其方は組首と云、人数を進退する役人と云、旁以使などにオープンアクセス NDLJP:319往還する人には有へからす、唯逃て来たる物にこそあんめれ、其上兵書に、将軽則士侮ると云りと、ノヽシりけれは、田中更に辞もなかりけり、久太郎左右之者共、堀は推察の上手かな、田中は使の下手かなとて、目引鼻引笑ひしなり、

評曰、田中は其比千五百余人之組首とし、秀次長臣たりしに依て、堀散々に叱にけり、

卯月九日辰之下刻、小幡村より出来りたる勢共、人夫を追散し其威いかめしうぞ見えたりけり、又一備向ひ来たる者あり、穂富ホスミと云し者是を見て云やうは、あの一備へは、心に合戦を持たる勢なり、各覚悟し給ふへしと云けれ共、其行程一里ばかり有ての事なれは、爾々聞も入す、たゝ詠めやる計にて有ける也、先手に侍る岡本彦三郎、村善右衛門尉、白江権大夫なとは、鉄炮を下知して一町許張出うたせにける、とかう見るか内に、田中久兵衛尉〈秀次卿之先手也後任舞後守〉そなへゝ、手痛く足軽をかけ、既に合戦を取結はんとせし処に、田中は孫七郎殿へ得御意戦はんとて、甘け行を、岡本云けるは、得御意所では無ぞ、組首は使せんためか、キタナふも見え候物かなとのゝしりしか共、聞も不入傍輩にも総角を見せにけり、

評曰、穂富は幡州三木におゐて足軽大将なりしが、此陣にて秀次へ被召出しなり、さすか清撰にあひし者にて、合戦を心に持たる勢なりと、能も見知けるよとふりみあへりき、

岡本彦三郎村善右衛門白江権大夫なと鉄砲をうたせ防き見しかとも、敵猛勢を以追払ひけれは引退きたり、然と云共取て帰し合、手痛く戦て何も甲付の首三討捕てさし上たり、其をも事とせず、進み来るに平野権平〈後号遠江守〉は、秀吉の御馬廻たりしか共、孫七郎殿つね御目を懸られし故、見廻として楽田より来たりけるが、秀次へは不御目、手鑓提面もふらす突てかゝり、少々突退能侍一人討捕しか共、又新手を入かへ捫合せ戦ひけり平野も危く見えしか、是もおし立られ旗本さして退にけり、北るをおふ習敵引付て旗本を目に懸切て懸けれは、木下助左衛門尉、同勘解由左衛門尉、岡本彦三郎、進み向て鑓を合せ、しはしが程戦しが、裏くつれして、まはらに成危く見えけれは、敵弥利に乗て一捫揉て戦けるに、二人の木下も岡本穂富も、一足も引す討死したりけり、かくてこそ南さして逃るもあり、東さして落るも有て、前後左右さんはけたり、岩崎の城の北に当て山あり、池田父子森武蔵守堀久太郎も谷川を前にあて、陣を備へて有し処に、落武者五騎三騎宛見え来たれは、久太郎鉄炮大将を呼よせ、味方敗軍と見えたるぞ、敵唯今味方を追て可来、十間より外ならは、玉たうなにうたせそ、若あはてゝ遠く鉄炮をはなしすてなは、可曲事、馬上一人うちたをし候におゐては、為加増百石之地可宛行と、たしかに云渡しけれは、一きは静り反て待居たり、かゝる処に孫七郎殿先勢千騎許見えにけり、敵も追すかつて来たりしが、久太郎か備の堅きを見て追止て、かゝりも不来、又引もせす扣て見えし処を、久太郎ざい推取、時の声を挙かゝり候へと、大の眼をいからかし下知したりけれは、一度に噇とそ突かゝりける、まはらかけにをひ見たれたる、勢のくせとして、久太郎ことくよき図にのり、突て懸ぬれは、必たまりもあへす敗北する物なれは、堀か先勢いきをもくれす、一里許追討に、二百八十余討捕ぬ、池田勝入同子息紀伊守舎弟古新〈後号三左衛門尉森武蔵守も久太郎に推つくひて、追行、首数多討捕にけり、爰に井伊オープンアクセス NDLJP:320隼人佑か後裔井伊万千世とて十九歳、容顔美麗にして、心優にやさしけれは、家康卿親しく寵愛し給ひし故、剛兵三千之勢を付給ふ、長久手の辰巳なる山に、三段に備へ白しなひの弓鉄炮の者五六百人先手を張てうたせけれは、堀か先勢是に避易し、追止て、見えし処に、久太郎もはや走来り、使番の馬上を以弥制し止、人数を立んとすれ共、まはらに成て北るをおひ来たりし勢なれば、早速に立得ず、池田も森も勢を立んとすれども、立も揃す、下知も聞す、一揆勢のごとし、白しなひさしたる弓鉄炮爰を先途と射けるに依て、武蔵守あれを追立よと、大音声を上、下知すれ共、聞ずかほに見えしかは、手鑓おつ取走り出、追払はんとせしを、鉄炮にて森が眉間を射たりけるに、声もせずうつむきに臥てけり、敵は是に気を得味方は是に力を失ひ、弥進みかたう見えけれは、敵猶勝に乗て、山の尾崎を取て推廻しけり、勝入父子も左手の合戦の色、如此あしかりけるを見て、右手を強くせよとさいを振て、声もかれ身もつかるゝ許に、怒りつれ共、井伊が弓鉄炮之勢引しこりうちかれは、無為方、然処にキンの扇の馬験、嶺わきより、朝日の出るか如くおし上たり、扨は徳川殿これにましましけるよと、諸人見おどろきうしろ足をふみ初しが、下々之雑兵見るが内に裏くづれし、勝入の旗本うすく成て、弥危うかりしかは、秋田加兵衛尉梶浦兵七郎片桐与三郎竹村小平太などは、少しへだたつて戦ひ居たりけるが、此由を見るよりも、手前の敵をは追ちらし、手勢引つれ死を善道に守とは此時ぞかしと思ひきはめ、助来て堅横十文字に切て廻り防きたゝかふ形勢たとへて云ん方もなし、然りと云共敵は多勢なり、味方は小勢なれは、相叶はずして討死をそ遂たりける、

 評曰、此者共は志常に高かりしか、果して遂ケニ忠死き、

かゝりし処に、永井右近助突て懸り勝入としはし戦て突臥首を取てけりその時少手負き、安藤彦兵衛尉勝入子息紀伊守を討てけり〈永井右近助一本ニ以下安藤彦兵衛尉突てかゝりしばし戦て突臥しかは長井右近助来て勝入かくひを取てけりニ作ル〉池田か先手池田丹後守〈是は河三若江三人衆と云し内也〉銭壁も物かはに足踏実地戦へとも、左右之勢は其をも見すて退しかば、敵は北るを追行共丹後守には取合ず、依之勢を立初たる所を立も去す後まて有しかども、勝入同嫡子紀伊守、森打死せしに依て惣敗軍に及ひければ、丹後守も退にけり、両卿の先陣、後陣ひとつに成て追行平討にうち行候を、母衣之者使番之士を以長追ばしすな、もはや引返し候へと制し給へは、さすが其道に得たるしるしにや有けん、やかて追捨引入にけり、

 
○秀吉卿依池田父子討死御出馬之事
 

天正十二年卯月九日午刻、池田父子森武蔵守討死之由、至于楽田注進あり、秀吉卿いそき貝を立よ、取出に有之勢はよく其城を堅固にまもり候へ、其外は悉く打立候へと触廻し、鞭汗馬急給ふ、一番貝に先勢はや出しかば、御馬験のふくべを、庭前にをし立給へり、二番三番より十六番まで出し給ふて、即御出馬あり、道すがら落武者引もきらず通りつるに、をしわけ于龍泉寺、木村隼人(隼人一本作小隼人)佑堀尾茂助一柳市介など着陣し、足をもためず長久手原さして向はんと、龍泉寺の坂をくだり見やれば、はや合戦事過て、小幡のオープンアクセス NDLJP:321ガウへ家康信雄の御勢を取入給ふと、落武者もいひけり、けに左も有と見えければ、よこあひに馬を入、能兵共少々討捕ぬ、しか有にや敵も南の山に付て道をかへ、取入けるなかば、秀吉もはや彼寺へ着給ふていかりつゝ、池田に敵をかならす侮らざれ、まばらかけすなと再三制しつるに不用してかく取越度事、むねん極々せりとて、腹をたち小幡へかゝつて池田か弔合戦してんよと、いきまきて馬をはやめ給ひしを、各くつはに取付、はや日も西山にかゝり、てきも勝て甲の緒をしめ、一かう不取合体に見之候条、唯柏井まて御馬をいれられ、可然おはさんと、稲葉などもつよくいさめ申せば、応其儀帰陣し給ふ、

評曰、にくるをつよくをふは古今不易の人情なり、今十町も追過なは秀吉卿の先陣と寄合かしらにあふて、又合戦あらば上勢は新手と云多勢と云、三河勢は事にあふてつかれたる勢と云小勢と云、旁以あやうかるへきか、家康卿さすがの名将にて、長追すなとはやく制し給ひつるによつて、勝利を全くせし事は、龐涓があくまて追過し、孫子に討れしを以てか、慎みは可有物なり、先陣は打まけ、大将三人討死しつるよし注進有と等く、秀吉卿急に勢を出し、小幡へ取入勢の首を且見給ひしは猛将なり、聊もためらふ心ましまさは、かくはあらし、何もをとらぬ名将なりと、其比の風俗みなかんじけり、

殿は堀尾茂助仕候へ、即此龍泉寺に残て、吾馬しるし下なる川を越なば、陣払ひを致し退候へと被仰付しかは、堀尾奉り、御心安おほされゆると川を御越候へ、某是にあらん程は、能く沙汰し可申と云て、小幡の方に向て、弓鉄炮を張出し、雑人原は先へ退つゝ、かるき者八百計にて有しが、観音堂に火をかけ、心しづかにのきしに、敵もしたはざれは、弥しのしつと坂にかゝつてのきし也、

 
○秀吉卿十二万騎之勢を打イレ給ふ事
 

かくて翌日本陣楽田へ勢を可打納との事に極て、明日も又殿は堀尾茂助〈後号帯刀先生吉晴にて有ければ、篠本の内大草村に在て、其時刻をぞ待にける、秀吉十二万騎の勢を段々に備させ、くり引に引給ふが、順風の船下坂の車よりいと安う見えたりしは、豈韓信が下風に非乎、夜をこめつゝ退けれとも多勢なれ、辰の刻計にやう里をはなれ野へ上りしかば、いさ堀尾も退なんとせし処に、はや一揆共雲霞のことくをこり来て、茂助か宿陣のやしきを幾重共なく打かこみ、弓鉄炮を打入、時の声を作りかけ、既にせめ入んと見えしなり、突て出成次第に退給へと云も有、いや八重十重に打かこみ、殊に篠木柏井はむかしより、究竟の射手の多所なれば、いかでかのき得なん、唯此かまへを堅固に守り、うしろまきを請給ひ候へかしと云も多かりけり、堀尾其損益を勘弁し、唯急き突て出退候へ、時刻うつるにあたがつて、敵は弥かさなり、味方いうすく成へきぞとて、西の方を専に強く張出、鉄炮を放し立けれはゝ一揆共西の方へ悉く馳集て、切て出るかと相待、細き道にせきあふて騒動しける処を、門をひらき鉄炮をつるべ、突て出しかば、蠅を払ふがことく、弓手妻手へさんはけたり、やがて門のうちへ取入、東に向て出しかば、一人も残らず、上なる山へ引上、北の方へ赴けり、兵書に云、敵攻其右、其左を備へよと有し事を、一揆原不知事のはかなさよ、然共西より南よオープンアクセス NDLJP:322り、一揆共山の尾崎を取てしたひ、こゝの嶺よりも貝を鳴し、かしこの谷よりも、ゑひ声を挙、中々すさまじき事、肝魂もあらはこそと、思はれしかは、弱き下々はなれに退んとせしを、堀尾かやうの時、すさましきに驚き、わきみちをのけは、悉くうたるゝ物そ、心を一つに定め、生死は天命なりと思ひ極め、只真団に成て退候へと、下知し退たりけり、あまりにつよく付ぬる時は、堀尾引返し、突倒し、首を捕てはのきつる事、五六度に及へり、茂助家臣松田左近右衛門尉、吉川新兵衛尉、并河平右衛門尉、中西勝右衛門尉、保木善右衛門小野弥一広瀬専之助一瀬二左衛門、たひ帰しては戦ひ、今度は二町余追帰し、茂助おりしき、酒を一つ二つ呑て、松田にさし、息をつき退けれは、一揆の中にも心ある功者は、敵こそ思ひ切て見ゆるそと、心にふくみさたかにはいはされ共、其より大身を出し、おはされは、溢れ者もをのつから追すて、後は相引にして見えさりけり、卯月十四日羽黒の古城、御普請被仰付、堀尾茂助山内猪右衛門尉伊藤掃部助被入置、対小牧山向城十余ケ所城主相定め、万掟之条目物に記し付、同廿九日御馬を納給ふ、濃州大羅之寺内戸島東蔵坊か構、一両日有御滞留、小吉を〈後号丹波少将〉入置る、是は敵もなけれと万のシメ、又遊軍の備にても有、五月朔日富田之寺内に御陣を居られ、二日加賀野井弥八郎か居城を取巻給ふ、信雄卿より千草三郎左衛門尉浜田与右衛門尉小泉甚六楠十郎林与五郎子息十蔵小坂孫九郎都合其勢二千余騎、為加勢入置る、四方に柵を三重四重付廻し、弓鉄炮を無隙透間打入、射入攻けれは、扱をかけ城を渡し可申条、被一命候へかしと申候へ共、秀吉唯攻干候へと、被仰出しかは、弥攻詰城中之旗の招と、味方のまねきと、結ひ違ふるやうになん見えけり、けふは一とせの雨を尽す計に、五月雨甚しく、風も将はけしけれは、五日の夜半許に切て出んと支度し、大手の門を開かんと、忍ひ寄て見れは、敵鑓ふすまを作てさゝへたり、誰にても心さしある者、関の木を開き、出よと云共、すゝまざりけれは、林新蔵〈後号新右衛門尉〉進出、初に突て出るが忠節ならは、吾出へしとて、一番に突て出、大音声を上名乗合せ相戦う、敵は鑓にてたゝき入むとせしか共、城中の勢つよかりし哉らん、打破て通りけり、のきおくれたる勢を、追付追麺し、千二三百討留たり、其内小将と云れし者には、千草三郎左衛門尉林十蔵賀藤太郎右衛門尉等也、楠十郎をは生捕て御前へ引て参りぬ、滝川儀大夫聟なれは、浅野弥兵衛尉を以、一命を請奉れ共、首を刎給ふ、林十蔵弟松千世十五歳、容顔美麗殊に勝れしか、一両年以前人質として、秀吉へ進上せしを、此春是まてもなしとて帰し給ふ、かく御懇に沙汰し侍るに、義理を不知父に、首を切て見せ候へと被仰付にけり、此旨九日の夜心有者知せ、父母の方へ、文なとつかはし候へかし、十日の朝生害に及へきそと云けれは、はや二三日以前より、よな調へ侍るよとて、文十許取出し、形見の物、是かれ相渡し、よきに届たび候へ、御心さし返も忝存候よし、其気色おいらかにして云しかば、皆袖をそ絞りける、かくて十日の朝心しつかに念仏し、首を刎られにけり、十歳の比よりつかへ侍る、小姓追腹を切て相伴したりけれは、見る人皆感涙をそ催しける、同十日不破源六居城竹鼻におしよせ、遠巻にして見たまふに、水堀幾重共なく引廻し、一旦に攻らるべうも見えず、依之水攻にし給ふへき旨、十一日の夜相極、四オープンアクセス NDLJP:323方に町屋作りに、小路を十通許に、小屋を掛らる、其勢十万騎の着到なり、此勢を以堤の町場を定め、はゝ十五間に上まて六間之広さと被仰出けり、五六日に大かた出来せしかは、即木曽川を分てなかし入給ふに、日々にみかさ増とい見え侍らねと、日数やう積りぬれは、町屋ははや三尺余り水湛へ床をかき有し也、蛇鼠などことしく集り来て、女子共は敵より是に難儀して、絶入者も多かりけり、源六拘りかたくや思ひけん、一命を助け被下候へかしと達て申上しかは、即被一命城を請取、一柳市介を城主となし入をかれけり、其より多芸表へ御馬を寄られ、直江村を要害として丸毛三郎兵衛を入置給ふ、其辺仕置等堅く丸毛に被仰置六月十三日御帰陣に赴かせ給ひ、同十六日至于大垣、帰城ましけり、

 
○尾州壁江の城滝川以隠謀忍入之事
 

滝川左近将監一益は去年まて北伊勢五郡を領し、長島の城主として有しか、柴田滅亡之後は、遊客の身と成て、於江州南郡堪恐分五千石を領し有し也、因之長島の城をは信雄卿領し給ふてましけり、かゝる処に信雄卿と秀吉卿既に及鉾楯しかば、勢州木造之城へ、滝川と富田平右衛門〈後号左近丞両人在番として入置給ひぬ、滝川思ふやう、蟹江之城を調略し、尾州に至て中入をし、家康(卿イ)などおひやかし見んと謀て、前田与十郎かたへ、此節秀吉卿へ忠義をいたされ候へ、一廉恩賜之地可有ぞとひそかにいさめけれは、即同しけり、さらは来六月十六日之夜渡海し城に入候へと約しけり、然間九鬼右馬允に此旨告知せ、両人之勢都合三千大船に乗つれ出けるか、滝川勢半分蟹江之城へなんなく入にけり、即一益も入城して柵等之事はや申付んとせし処に、いかなる者のしわさにか有けん、酒家に入て放火せしかば、思はずも三十間はかり焼出たり、其折節家康卿は清洲之城におはしけるか、此旨注進有と等しく勢を出し、捨鞭を打て急つゝ、蟹江之城にをしよせ、先海の方をかため城中へ滝川勢を入さりければ、半は又大船に取乗て、鉄炮軍有かくて城を二重三重取まき、其夜にさくを付廻し、十九日には棲楼を上、城中を見おろし、弓鉄炮を打入射すくめ、夜に入ぬれは火矢を四方より射人、時の声をあげ鉄炮を子の方よりつるへ初め、亥の方にてうち納ければ、城よりも又つるへ返し終夜のすさましさに、城の兵共は蝉のぬけからのやうに成ぬ、其上矢たねも玉薬も尽しかは、滝川扱を致し退なんと、家臣に謀りけるに尤可然おはしまし候とて、即城を相渡し、同廿七日勢州木造之城へのき行けるが、其前は富田左近丞と両人此城に在しか共、富田云やうは蟹江の城を退しに付て、いかやうの堅約も有らん、此城へはえこそ入まじけれと申けり、滝川天にも付す地にもあられぬ境界と成て、後は越前の五分一と云所にてをはりにけり、

評曰、信長公御在世の時は、先をかくるにも滝川、又殿も滝川とて、佳名いと香しく、果敢決断もいみしかりしか、今のありさまいとあはれなり、アヽ時なるかな

 
○秀吉卿重て尾州表御出勢之事
 
同年八月下旬の事なるに、秀吉卿十六万騎之着到にて、至于尾州参陣し、二宮山へ上らせ給ひけり、上奈良村より五郎丸於久地ミツ井重吉近辺尺地陣とらせ給ふ、信雄卿は郡オープンアクセス NDLJP:324村に対陣、家康(卿イ)は小牧山におはしけり、翌日より上奈良村河田村大野村三ケ所、要害の普請はしめ有、九月下旬大かた出来せしかは、其城主を定られ、兵粮以下丈夫に沙汰し置、十月三日大柿まて人数を打納給ふ、其より直に至于勢州御参陣有、
 
○秀吉卿北伊勢表御出勢之事
 
同十月六日勢州羽津御着陣有て、なおふの城を拵へ、蒲生忠三郎桑部之城に蜂須賀彦右衛門尉を城守と定らる、信雄卿は中江に御対陣有て、浜田之城に滝川三郎兵衛〈後号羽柴下総守桑名之城に坂井左衛門尉石川伯耆守在城たり、日々あしかるなと有、かゝる処に足立清左衛門尉さし出、和睦の扱をかりそめなから取結ひける、信雄卿いかやうの子細有てか滞事もなく、御同心まして、信雄卿と秀吉卿と、十月廿日、於矢田河原、御対面有て、互疎意有ましきなと被仰合、秀吉卿は上方へ打納給ふ、尾州表取出の勢引取候へ、仕置等之儀、堀尾茂助、一柳市介次第にいたし、引払ひ可申旨、被仰遣けり、

或曰、信雄卿に群疑出来しける事有て、早速和睦之義、調しと也、

凡評、堀尾茂助於尾州龍泉寺大草村両度之殿、敵は名将と云多勢と云、大利を得られし上に、度々苦戦して故なく退しは、手柄なるへきか、

 
 
 

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