太閤記/巻十七
評曰、常陸介父は木村隼人佑とて、将軍取立之大臣也、常陸其長子なれは当家之権柄を取へき身なりけれと、三成に奪れ、有かひもなき形勢なるに因て、秀次公へ便りときめき出、勢ひ猛にみえけり、増田石田其あらましを察して、還て木村を取けさんと思ひこめ、常陸介家中に、よこ目の者を三人付をき、其行ひを日々に聞侍ぬ、いたはしや木村は左様之事有共露知す、聚楽へあさからさりし奉公なり、かやうなる事共有よし、石田達㆓上聞㆒しけれは、げに左も有べきと将軍おほし給ひけり、
同五日毛利右馬頭輝元より、秀次公、去春白江備後守を差下如㆑此之案紙を以、誓紙を沙汰し入魂いたすべき旨仰けるに因て、書上たる旨、石田治部少輔をして、彼案文をさし上にけり、かやうの品々方々より言上しけれは、謀反之御心は聊以なかりしか共、歴々之反逆人にそ似たりける、将軍は都鄙さはかしくならさるやうに、此事を静め度おほされ謀り給ふやうは、とかく父子之間、これかれ浮説出来侍るも直談なきによれり、急秀次是へ参られ候へ、此間まち〳〵の説々直に聞届、結れぬる氷を春風のとくやうに、互のおもはくを晴し、和睦有べきとて、御迎とし宮部善祥坊法印徳善院玄以僧正中村式部少輔一氏堀尾帯刀先生吉晴山内対馬守をつかはされけり、将軍いかゞおほしめす事にや有けん、堀尾には立帰り候へと玄以を以呼返させ給ふ、先生跪きけれは、彼徒者察し候て不㆑来事もあらは、何とか致すへきぞ【 NDLJP:430】と、さゝやき給ひしかは、堀尾奉り、御心を安むせられ候へ、よきに計ひ可㆑申と、心よけに言上せしなり、其時秀吉公汝か命を此度と、三度くれけるよなと宣ふと、ひとしくなみたくませ御暇乞有けり、五人の使者聚楽へ参ける中に、帯刀は洛(洛疑路)に用之事有とて馬をはやめ急きつゝ、三条まんぢう屋の道徹と云者の宿所に至て、ひそかに云けるは、爾々之事有て御使に聚楽へ参るなり、もし秀次公伏見へ御越被成まじきとの事ならは、さしちかへ可㆓打果㆒ぞ、常々汝に用之事云つる小袖等のかはり、可㆓相済㆒事あんめれと、臨㆓此期㆒其沙汰ならさるぞ、此状長子信濃守かたへ届候へ、金銀も可㆓相調㆒ぞ、此事露もらし候なと、堅く約し出にけり、かくて至㆓于聚楽㆒、此旨かくと申上にけり、去共御越有へきにも、不㆓相究㆒、又いなみ給ふへきにも不㆑定して、諸大臣近習さしつどひ、其沙汰区なり、此事何も申出しつるに、堀尾は衆をはなれ、秀次公之右の御
去程に秀次公御若君達并に御寵愛の女房達これかれ三十人余、同八日之夜徳永式部卿法印かやかたへうつしまいらせ、前田徳善院田中兵部大輔きひしく番をつとめにけり、かくて十一日丹州亀山之城へをくりまいらせ、堅く制法物に記し付、親しきかたよりのをとつれさへに思ひ絶しなり、やかて帰京おはしまして洛中を渡し六条河原にして、こと〳〵く生害に及ひなんとなり、益田少将此事をよくしれり、いたはしき事の至て痛しきは、此上あるへからす、かやうなる憂事を聞なは、身もよもあられん物か、我はもと江州浅井郡にして、本願寺之門流小菴を楽しみ有し坊主なりしを、秀次公天下之家督を請させ給ひてより、某を三奉行之内に加えさせ給ひき、報しても報しかたきは、此恩にしくはなし、いさ若君達を見廻奉ると号し、亀山に参り何もさしころし申さんと、ねふかく思ひごめしなり、一人有し息女をは、秀頼御母義へ頼み奉りつかふまつるやうにと、七月廿日大坂へ下しけり、妻の事は亀山よりの左右次第に藤井太郎右衛門と云し者に首をはねよ、此事返々も露洩すなよと、せいしをかゝせ、廿二日夜をこめつゝ名残おしくも宿を出て、亀山へいそき侍るに、おひの坂にて兵士多く有て、見廻の上下一人もとをすへからさる旨、前田徳善院増田右衛門尉石田治部少輔下知なりとて追帰しけり、されは亀山にてわか君たちおはします所、番等之寛急しらんかため、持参せし折なとこれは御ゆるし候へ、さゝけ奉り、聊なくさめ申たく候、ひとへに御芳志たるへきと
評曰、夫関白職は諺に、国たましゐとなん云けり、事外高職なるに、将軍其人を選侍らす、天下倶に此職を秀次に譲り給ふは私なり、私と云は理に非す、非㆑理則天に背なり、何も冥罰にあたり給ふへき
或老人曰、されは此私心も所以あり、関白職を一条院より爾来、近九二一鴈司の家に順廻し、職のために人を撰給はす、還て此高職人のために汚れぬ、其報
夫惟るに、大かた讒者は智深く才足物なり、秀次公在世し給はゝ、増田石田か身の上あしかりなんと遠慮し、弥讒言止期なし、将軍もあり〳〵しく長盛三成申しかば、けに左も有へしとおほされにけり、いたはしなから腹を切せ候へとて、福島左門大夫福原右馬助池田伊予守検使として遣されけり、此人々登山之沙汰有けれは、秀次公扨は最期近つき侍るなり、此者共は我に対し恨有者共なり、彼讒人等よきにこしらへ侍るよなと、隆西堂に対し笑せ給ひぬ、西堂は急下山有て、母瑞龍院殿之事、今後二世よきに計ひくれ候へと仰けれは、是へ御供仕候はんと粟野を以申上候時より、万事相究東福寺小菴之義なと、よきに沙汰し罷出申候つる、被㆑為㆑安㆓御心㆒候へ、下山之義中〳〵思ひもよらず候と、足踏㆓実地㆒言上有しかば、秀次公ふかう感し給ひけり、彼三使木食上人を呼て云けるは、如㆑此関白殿御切腹之義、奉行人より為㆓御意㆒書簡有㆑之とてさし出しけり、其状曰、
為㆓御意㆒申達候、仍秀次公御謀叛之条々少も依㆑無㆑疑㆑之
文禄四年七月十三日 徳善院玄以 長束大蔵大輔 石田治部少輔
増田右衛門尉 浅野弾正少弼
木食興山上人
同十五日之明かた上人彼状を令㆓披見㆒、是非もなき御事とかう申に及れす、能々思ふに、某事今日あれは今日之某なり、寺法は尽未来不㆑絶之大切なれは、可㆑及㆓一山衆会之評議㆒と、役人を呼よせ於㆓金堂㆒衆議判之催急也けり、一山及㆓衆会㆒寺法を立、御切腹を可㆓相救㆒と、肘いらゝけ申方も多く、又御奉行書簡之趣も道理至極せり、いかゞあらんと云衆徒も有て、区々也、三使之方より木食上人かたへ、何とて及㆓遅々㆒候乎、早速否を被㆓相究㆒可㆑然候はんと、使者敷波をたていそきけり、上人さし出申けるは、寺法も当寺目出有てこその沙汰なれ、若令㆓違背㆒難渋せは、此山可㆑及㆓破滅㆒候、されは御切腹を可㆓相救㆒之結構、還て寺法をも破り、開山之秘法、此彼滅却せんの張本人也、唯いそぎ御切腹に相極可㆑然候はんと、無㆑情申はなしけり、上人初の存分に相かはり、慈悲心をすて、義を外にし、利をおもんする物かな、其古しへ妻の首を刎、実子二人さし殺し、其後優婆塞の身と成、肩には金襴之袈裟を掛、心には塵埃をまとひ、利欲むねをふすほす、境界なるものゝよし聞しか、けに左も覚ぬとて、各上人がつらをにらまへ見たるは、興さめにけり、しかはあれど、当寺ノ官僧なれは、威たくましく行ひ、俗儀つよかりしに因て、言葉に出しもやらず、殊に秀次公数年御懇情ふかゝりし事のみ多く侍りしに、扨も人非人なりと、おもふどちはさゝやきにけり、衆評区にして、とかうの返事もなかりしかは、三便其勢三千余人、兵具いみしく出立て、青巌寺をひた〳〵と打囲みけり、秀次公いかり給ふて、狼藉なる働をいたしなば、切て可㆑出ぞ、淡路守静め候へと被㆓仰付㆒けれは、木食かたへ使者を立、如㆑此振廻以外尾籠なり、とても尋常に御腹めさるへき事なるに、士の格をしらさ【 NDLJP:433】りける溢れ者なり、昨日まては君臣之礼儀なり、今日は寺法を不㆑用と云、かた〳〵以如㆑此之段無㆓是非㆒次第なりと云けれは、上人三使へ参、秀次公とても御腹めさるへき旨相極りたる上を、一山之沙汰をも御用ゐなく、取囲み給ふ事甚以狼藉なり、必弓鉄炮うち入給ふなと、あら〳〵しく制しけれは、何も相意得候とて、勢をさつと引にけり、
○御切腹之事 秀次公かく成行へしと、一両日以前よりおぼし定め、こゝかしこへ御文なと沙汰しをかれ、かようなる御隙明にけれは、急行水をまいらせよと被㆓仰出㆒しかは、用意やしたりけん、はやまいらせにけり、御相伴の面々望申やうは、御供には、必あとに参るならひなれ共、同は御先へ参申度候、とてもの御事に介錯をあそはされ被㆑下候はんや、雀部に憑可㆑申やと、隆西堂を以申上し時、尤なり我手にかゝり、ゑんまの帳にはなやかに付候へとて、山本主殿助〈十八歳〉国吉の御脇指を被㆑下けり頂戴仕といなや、あへなくも左の脇へさしこみ、右へ引まはし、もはやと言上しけれは、首は前に在、二番山田三十郎〈生国播州三木之住十八才〉あり藤四郎の御脇指を拝領し、腹十文字にかき切て、首をうけしかは、うちをとし給へり、三番不被万作〈生国尾十八才〉父母より請し五体に、てつから疵つく事不孝なれ共、忠義なれはゆるし給へとて、拝領のしのき藤四郎にて、心よく腹をいたし、是も御手にかゝりにけり、四番隆西堂は雀部に介錯をと好みけるを、秀次某手に掛可㆑申と宣へは、冥加なくおはしませ共、奉㆑恐とて其義に及へり、五番秀次公〈生年二十八才〉正宗之脇指を以御心しつかに見えて、曳々と声し給ひつゝ、はやうてよと被㆑仰しかは、評曰、密々に有し事、名をおしむの至りか、
白江備後守四条貞安寺にて切腹なり、同妻四条道場におゐて、自害せしか、一首かくなん
心をも染し衣のつまなれは、おなしはちすの上にならはん
【 NDLJP:434】熊谷大膳亮は嵯峨二尊院にして自害せんと思ひ、七月十六日暁彼寺に至て扣門侍れは、内よりたそと問し時、住持へ聊用之事有て来りし者に候と有しかは、住持へ其由申届候はんと云つゝ院内に入、即其旨申達しけるに、急き請し入よと有しまゝ、門を開
あはれとも問ふひとならてとふへきか嵯峨野ふみわけておくの古寺〈[#「嵯峨野」は底本では「峨嵯野」]〉
万の事共二三日爾来調をきしかは、今は紛るゝかたもなふて、いとしつかなる切腹を遂にけり、
粟野木工助は粟田口吉水之辺、鳥
日比野下野守山口少雲は、北野辺におゐて切腹す、丸毛不心は相国寺門前にて老腹なれは、しは事外よりたるとて、同しくは首を打てたひ候へと云、うたれにけり、其後一柳右近を初として預をかれし人に、悉く切腹被仰付侍りき、此謀反之事虚共実共終にしれすして、方々におゐて自害有し人々、一人も及㆓白状㆒某は不㆑存、かれは存知たると云人もなく、ぬれ衣をきて旅に赴きぬる事、宿業のほとあさましと観念し終にけり、あはれなりし事共なり、
評日、秀次公讒言にあひ給ひしは、たヾ関白之高職ををろそかに思ひ給ふて、万其法に違ひつる故なるへし、天罰の急緩黙止して知へし、然れは長盛三成か讒言も、聊にくからぬ意味も有か、たとへは、院御所崩御七日も未過に、鹿狩なとの御遊、以外其職に違へり、まことに諒闇とてふかき其さま有けるとかや、むかしは天下をしなへて精進をつとめしたひ奉る事、いとふかゝりしなり、殊更関白職は百しきのなみをはなれ、浅からぬ御斎とこそつたへ聞しに、殺生禁断なる叡山へをし入、鹿狩其様憚る所もおはしまさゝれは、鉄炮の音なと夥し、其比洛中の辻々に落書夜々に有し、
院の御所手向のためのかりなればこれをせつしやう関白といふ
同六月八日、秀次公比叡山へ女房共を被㆓召連㆒山上し給ふて、一昼夜の遊宴つねよりも悪行いやましにけり、昼はひねもそ狩くらし、夜はよもすがらよこを引、鹿猿たぬききつね鳥類ものかすの程太莫なり、一山衆評して申けるは、当山は桓武天皇御草創より、殺生禁断女人結界の山なれば、被㆓思召分㆒被㆑下候へかしと、木村常陸介を以御理申候へは、我山にて我慰候に、誰か禁し候はんや、余人とは替るべきよとの御返辞也、即於㆓南光坊㆒調美之体、いとにか〳〵しくぞみえにける、貧僧心ほそげにたくはへをきし味噌の中へ、魚鳥のはらはたを入けかし給ふ、其外放埓の有様、ものにこえてをこがまし、折ふし雨篠をつき、おひたゝしくをやみもなければ、其日も御滞留有き、御台所方まかなひ侍る横田と云し者、院主へ米五石御かし候【 NDLJP:435】へと申ければ、此山はむしよりさやうのたくはへ多くはし侍らず、坂本よりつゞけ候へば、無㆑之よし被㆑申、不㆑応㆓其求㆒、然間糧つきて其夜供之人々うへにつかれ、横田を各悪口しけれは、をのか過を補はんためにや有けむ、院主不㆑届よし、さん〳〵にのゝしりければ、秀次ほの聞給ふて、此山の自滅の時来たるよなと、其悪みふかゝりしなり、同十五日北野へ成せ給ふに、盲者一人杖してとをり侍るを、秀次公御覧なされ、酒をのませ候へとて、手をひかせ給ふか、即右の腕をうち落し給へり、盲者中々肝をけし、をちこち人はなきかいたづらものめか人殺しを致し候に、おりあへや人々、助よやものゝふと、高声にのゝしりぬ、熊谷大膳亮其あり様にても助りたく思ふかと問し時、盲者察し、年来此辺にて殺生関白か辻切を物し侍るよし聞及ひし、必定是なるべしと思ひつゝ、かく盲目と成さへに、如何なる悪業にせめられて、此身と成ぬるよとかなしく存候に、如何してなからふべき、急き我首を取て、殺生関白の名を後代まてさらし給ふへし、敵の首をとらん事は思ひもよらざる事也、此職に在ては、天下の邪法を正し給はんこそ、国たましゐの役なるべきに、自邪法を行ひ給ふ事、桀紂が再誕うたがひなし、其因果幾程もなかるべきぞと、悪口せしが、づだ〳〵に成てみえにけり、
評曰、不味因果と云まじや、又物の自然と云てんや、符節を合する事こそあんなれ、其故いかにと云に、秀次公六月八日比叡山へ登り、狼藉を御心まゝにし給ひしが、七月八日高野山へ上り給ふて、うきめを見給ひけり、同十五日北野にて盲者を伐し給ひしが、其刀にて介錯せられし也、寔に昔は因果の程をつゝしめよ、或其因果孫彦に報か、或子に報か或其身にむくふかなど、云しぞかし、しかは云と、今は皿のはたを廻り侍るよと、世俗の諺なりしが、けに左も覚にけり、
或曰、思へは〳〵多くの群悲、たゝ秀次の方寸より出て、かやうになりひろこれり、後来国家を知人、こゝに至て思ひを焦し、天助天罰之来否を、自知凉暖すへし、
一日の朝も、とかうのゝしるうちに日もたけゝれは、追立之官人等、とく〳〵と声々に急き【 NDLJP:436】つるありさまあはれなり、とても叶ぬ道にせまりし事を、各覚悟し給ふて、二十余人の衆よろぼひ出給へは、物のわけをも知ぬ河原之者、小肘つかんて引立、車一両に二三人つゝ引のは奉るさへに、若君姫君の御事さま、扨も〳〵と云ぬ者もなく、其身の事は不㆑及㆑申、見物の貴賤も噇と鳴出、しばしは物のわけも聞えざりけり、世に在し時は、花やかなる有さまにて有ゝきか、昨日に今日は引かはり、白き出立の外はなし、若君姫君を御乳姆にも、はやそひまいらせず、御母おやの膝の上にいだき給ひしに、何心もなく、おちもこゝへなんとのたまふの、いたひけさ、あはれさ、此上あらん共覚え侍らず、三条河原に着しかば、車よりいたきおろし奉りぬ、各秀次公の御首の前へ、我おとらじと、はら〳〵とより給ひ、ふしおがみ候しさまあさからず見えにけり、一の台と申は、菊亭右府の息女なれは、いつれもよりは上におはしけり、行年三十四歳、今度御謀反の、沙汰ゆめ〳〵なき事を、増田石田かさゝへに、かくならせ給ふ事のあはれさ、是非もなくおほして、かくなん
心にもあらぬうらみはぬれきぬのつまゆへかゝる身と成にけり
お宮御方十三才一台御息女
うきはたゝおや子のわかれと聞しかど同しみちにし行そうれしき
お長御方十八才濃州竹中貞右衛門尉息女
時知ぬ花のあらしにさそはれてのこらぬ身とぞ成にけるかな
お辰御方十九才尾州山口少雲息女姫君有
かぎりあれやなにを恨みんから衣うつゝに来たりうつゝにぞ去
おさこ御方十九才北野松桜院息女若君有
残しをくかそいろの上を思ふにもさきたつ身よりわきてかなしき
中納言御方廿四才摂州小浜殿息女
時分ぬ無常の風のさそひ来て花ももみちも散にけるかな
おつまの御方十七才四条殿御息女
故もなき罪にあふみのかゞみ山くもれる御代のしるしなりけり
おいま御方十九才奥州最上息女
うつゝとも夢とも知ぬ世の中にすまでぞかへる白川の水
あせち殿卅一才秋庭殿息女
にこる世の白川の水にさそはれてそこのみくつとなるそかなしき
おあこの御方廿二才濃州日比野下野守息女
ぬれ衣をきし妻ゆへにしらいとのあやしや先とあとにたちぬる
おさなの御方十六才濃州武藤長門守息女
消てゆく身は中〳〵に夢なれや残れるおやのさぞなかなしき
お国の御方廿ニ才尾州大島新左衛門尉息女
君故になみたかはらの白川や思ひの淵にしづむかなしき
【 NDLJP:437】 およめの御方廿六才尾州堀田次郎左衛門尉息女
千代までもかはらじとこそ思ひしにうつりにけりな夢を見しまに
お菊御方十六才摂津国
先たつもをくるゝもみな夢なれや
お牧御方十六才斎藤吉兵衛尉息女
妻故にきえぬる身にしかなしきはのこれる母のさこそと思へは
おあひの御方廿四才古川主膳息女 京衆也
おもはずもすみそめ衣身に
お竹 捨子
夢にしも知ぬうき世に生れ来て又しらぬ世に帰るへらなり
おなあの御方十九才濃州坪内三右衛門尉息女
いかにとも何うらみけん難波がたよしあしもたゝ夢の世中
お藤御方廿一才大草三河守息女也父母にまみえ
まほしく侍れ共ゆるしなけれは
いかにせん親にしあはぬうらみこそうき世の外のさはりなりけれ
おきいの御方 生国江州
咲ばちる花の秋風立にけりたまりもあへぬ萩かえの露
お虎御方廿四才上賀茂岡木美濃守息女
限りある身をある雨のぬれ衣よ
おこゞの御方廿一才泉州
生れきて又かへるこそみちなれや雲の
おこほの御方十九才江州
是は
我いたゞみだの
少将 生国越前
おこちやの御方二十才
ぬれきぬをきつゝなれにし妻故に身は白川の淡と消ぬる
左衛門のかう卅八才河内国岡本彦三郎
母なりけり、これよりは万御用人也
中〳〵に花のかすにはあらねともつねなき風にさそはれにけり
右衛門のかう卅五才播州村善右衛門尉妹也
とても行みたの御国へいそげたゝ御法の船のさほなくるまに
お今四十三江州高橋息女 生国と名
【 NDLJP:438】 をよみかなへし事神妙なり
何事のとがにあふみの今なれやむしもあはれを啼そへにけり
東殿六十一濃州丸毛不心斎女房
夢のまに六十あまりの秋にあひてなにかうき世に思ひのこさむ
右の歌はかねて思ひきはめ給ふて、詠しをかれしやらん、一巻にし侍りて、出されしなり、吁心あるかな、人より先にと思へるかたもありて、太刀取のまへゝ急給ふもあり、又人よりあとにとおくしたるも有て、さま〳〵取々に哀なり、こはいかにと見る処に、五十許なる鬚男の其さまより、心もあらけなく見えしが、さもうつくしき若君を、狗をひつさくるやうに物し、二刀さし候へは、御母義外一同に鳴立給ひけり、見る人たちの袖も打しほれ、声を添しも理なり、三歳になり給ひし姫君、母上お辰の御かたへいたきつき、我をも害し侍るかとおほせけれは、南無阿弥陀ととなへ候へよ、父関白殿にやかてあひ侍るぞとて、念仏をすゝめ候へは、うゐことに十篇ばかり唱給ふ、うきことのかぎりなるへし、あらけなき河原の者共云けるは、左やうにあこがれ給ひても叶ぬ事なりとて、母上の御膝より奪取て、心もとを二刀さして投すてにけり、いまたびく〳〵とし給ふに、母上心もくれまとひ給はん計なるに、左もなくしてまつ〳〵、我を害し侍れよとて、西にむかひ給へは、御首は前に在、見る目もくれて中々肝胆も消はて、われからなくぞ覚えける、はや八九人も害し、かばねをわか君の上に打かさねけれは、不心か女房走りより、関白家之御子之上へ、かくあればとて、かさね侍る物か、奉行は何のためぞ、かほどの事をえも制し候はぬかと、散々にのゝしり侍れは、其よりけしき物ふりて見えにけり、あはれなるかな悲しひかな、かく痛ましくあらんと兼て思ひなば、見物に出まじき物をと、千悔の声々も多かりけり、廿余人伐かさねければ、河水も色を変じたり、三奉行之人々は、強ていためるけしきもなく、おほとかに見え、弥讒人とこそしられけれ、其夜洛之辻々に、何ものゝしはざやらむ、
天下は天下之大下なり、関白家之罪は関白家之例を引可㆑被㆑行之事、尤理之正当なるべきに、平人の妻子などのやうに、今日之狼藉甚以自由なり、行末めてたかるへき政道に非ず、吁因果のほど御用心候へ〳〵と書て、其楮端に、
世中は不味因果の小車やよしあしともにめくりはてぬる
評曰、秀次公人を伐し給ふ事を、一入にすき給ひつゝ、てつからためし物をし給ひき、或は盲目を伐し、或はこつかひ人に飯酒を施し、其後罪つくりに永くなからへんより、我手にかゝれよとて、引はりたち割給ひし事も有しとかや、其因果忽報ひ来て、若君たちの亡さま、哀共いたはし共、言葉も更になかりけり、いはゞ彼紂か忠良を焚炙し、孕婦を刳剔せし悪徳にも彷彿たり、
秀次公謀反に与せしとて、遠流の人々には延寿院玄朔紹巴法眼荒木安志木下大膳亮等也、たとひ秀次公謀反を思召立給ふ事有共、かやうの人々を其便におほし寄給はんや、各御反逆之事聊以不㆑奉㆑存旨申上度思ひ侍れ共、長盛三成が威に恐れて取次人もなく、奉行人指図に任【 NDLJP:439】せて、
一一柳右近将監 江戸大納言殿へ 一同妻子 伊藤加賀守 一服部采女正 越後宰相 一同妻子 吉田清右衛門尉 一渡瀬左衛門佐 佐竹右京大夫 一明石左近 小早川左衛門佐 一前野但馬守 中村式部少輔 同妻子 同人 長子出雲守 同人
【前野妻子以下無一之字】玄朔紹巳安志は後に御赦免有しなり、此外は皆切腹被㆓仰付㆒了
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