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太閤記/巻十五

目次
 
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太閤記 巻十五
 
 
○賀藤主計頭清正至都表勢事
 

主計頭おらんかい境に近付、度々挑合戦村菴里屋悉令放火、振猛威事甚以夥し、斯く金山と云所は地之利宜しきにより、要害に拵へ賀藤与三右衛門尉、同組其勢三千、馬廻之組頭三人都合五千人、橘中と云城に、九鬼四郎兵衛尉、天野助左衛門尉、山内甚三郎、其勢三千籠置、主計頭は感鏡道エアンタウに至て勢を入、近辺之百姓等如前々還住せさせ、撫育之功を成、兆民等も年の暮に成けれは、越年之便もなし、いかゞ致し候はんやと侘しか共、其求に応すべき行もなかりしかば、酒肴なと施しけり、主計頭思ひも寄ざりし敵之中にをゐて、静心なき年をこへし所に、都表之一揆等令蜂起、釜山浦への往還因自由、都在衆中評議し、主計頭をよひもとし可然と、備前中納言秀家三人之奉行衆連判にて、早々引帰(返イ)し都を守護し可然旨、正月九日飛脚到来す、賀藤承尤はや引帰し候はんすれ共、金山橘中両城に残し置つる勢を引取では、不計事なりとて、感鏡道エアンタウより、斎藤立本圧林隼人佑龍造寺又八郎勢之内を引分、二千五百都合五千、与三右衛門尉か迎とし出しけり、清正もおしつゞひて急けれ共、余寒甚く、河水氷を流し、春雪をやみもなけれは、心のみ急にして、駒の足なみ緩かなり、日数漸積、正月廿三日先勢金山に着陣し見れは、敵如稲麻竹葦打囲み攻にけり、然処を斎藤立本下知をなし噇と突かゝりしかば、城内之勢も突て出、捫合戦ひ追くづし、三千余討捕ぬ、斯く与三右衛門尉いかにと間に、敵寄来り責入んとせし時、突て出追散し、勢ひに乗長追せし処に、跡を取きられ討死し了、伊藤勘平井出市左衛門、其外百余人左右にして令打死候、ナカラへ在者も千死一生之期を免れ、二度各へ相見え候と云へは、長子兄弟等をうたれ悲しむも有て、哀楽自然也、立本隼人は討死せし者共の骸骨を灰になし、翌日心しづかに陣払ひし、都路さして引にけオープンアクセス NDLJP:403り、清正二月五日都に帰り、翌日一揆原楯籠りし在々へ発向し、五六日令逗留、悉く伐尽し帰陣せしかは、洛中穏かに昼夜を安心しけり、

 
○小西於平安道ペアンタウ猛威
 

小西摂津守は、遼東堺平安道に至て威雄を振ふ事、恰信長公天下初入之猛威にも似たり、此由将軍被聞召及、深入し越度を執なと、再往制し、可然地を見計、数ケ所要害を構、永く可在滞之行、不油断となり、然間小西に与力せし壱岐侍従、対馬侍従、有馬刑部卿法印、大村新八郎、五島若狭守、摂津守か弟主殿助、木戸作右衛門尉、其勢二万余騎、小西か要害を大将陣と定め、真中になし、六ケ所の要害を構えたり、都より此表に至て、百五十里つなきの城なくしては、通路おぼつかなしとて、大友宗鱗二ケ所、黒田甲斐守二ケ所、毛利右馬頭の先手、小早川筑前守七千、吉川左衛門尉三千、柳沢(川イ)二千、これらとして三ケ所、凡て七ケ所之要害、普請等よきに沙汰し在陣之体、数年を経へき有さまなり、将軍より之掟に、小西もし難儀に極りなは、大友助成すべし、急難を互に救可申となり、かゝる処に、大明より朝鮮の急難を救はんがため、李郎耶碩郎耶、両将軍に百万騎之勢を相添、文禄二年正月二十六日に、小西か要害を幾重共なく取囲みにけり、いたはしや摂津守は、籠鳥の思ひを焦し、千死一生の身と成ぬ、漢南之勢あつくして、屏風を立たる如く、十重廿重におし来たりしを、味方之小将 (軍兵イ)弓鉄炮を段々に備へ、空矢な射そ、とても不遁道にせまれり、心を一致にして、苦戦せば、十死一生の功も有へきぞと、下知し相戦ひ、一人して、五十人三十人こそきりもせんずれ、何ほど討れたるをも、事とせず、岩を立て、をしかゝるやうに、戦ひ来たりけり、木戸作右衛門尉、小西に急き御のき候へ、殿は某いたし候はんと云しかば、悉く要害に火を掛、煙のまきれに引けるに、あしをも乱さす、逃るを追て進侍るに、大友宗鱗是を見て、御法をも忘却し、小西を待も付ず、頓て都をさして落にけり、主殿助作右衛門尉小勢なるをもかへり見ず、数度帰し合せ、敵を追払ひ、摂州を退けるに、大友二ケ所の城に、小西は火を掛、黒田甲斐守か要害に、ちかづきけれは、甲斐守出向ひ云やうは、大友敗軍の時、小西殿は、漢南カクナミ勢幾重共なく取囲み、打果し候、某にも退候へと云捨て退し也、去共汝の行衛おほつかなきに因て、出向ひぬ、恙なく殊に数度帰し合せ、苦戦せられつるよし、至剛とかう申に及れず候、いざゝせ給へ飢を補はんとて、飯をいとなみ、人馬飽までに沙汰しけり、是よりの殿は、黒田せんと有しかば、某勢は度々の戦につかれて候なり、是よりはともかくも仰に任せ候と、小西はさきに退にけり、黒田内、後藤又兵衛尉やがて殿を請取つとめけるが、進退自由を得し事、猿猴の樹上に在かごとし、とかくして都近辺にツキしかば、各さしツドひ、軍評定有しに、立花左近将監は、とまれかくまれ、合戦に極られ宜しく侍らむと言を放て申けり、甲斐守恙もなく殿をし退候て、輝元上一本毛利二字粟屋上有小早川筑前守隆景臣下字輝元先手(勢イ)なる毛利七郎兵衛尉、〈隆景弟〉粟栗屋四郎兵衛、桂宮内少輔、井上五郎兵衛尉に、如何可有やと云しかば、はや殿を請取候とて、五千余騎にて入かはり、蜘手十文字に、馬を入戦ひしか共、終にまくり立られ、引あしに見えし処に、橘左近将監面も振ず、横鑓に突かゝり、爰にをしつめ、かしこに開き合せ、散々に相戦ひ終に追崩し、悉く討取唱凱歌、都オープンアクセス NDLJP:404に有し二十万騎之勢、此由聞とひとしく、いさ救ひ見むとて、一騎かけに駆出、三里四里にして止りつゝ、其手の勢を揃へ、既にかゝつて合戦を挑み、立花左近か勢を救はんと、思ひにのゝしれ共、増田石田大谷、かならす一人も出て合戦すな、将軍如此制し給ふ、御書昨日到来せしと、大の眼に角を立制しけり、秀家は軍旅八番目之次第なれ共、目前にあの勢を見すてなは、必定日本之軍、終にははかしからし、御法を用るも破るも軍に勝んかためなり、只かゝつて救はんと備をくつし、一度に唾と突かゝり合、橘左近将監か戦つる横鑓に突かゝり、東西にきり結ひ、南北に追なひけ、相戦ひしかとも、立花左近か勢はさきをさきに追崩しけり、味方勢是を見て方々より落合来つゝ、三万八千余討捕しかは、則耳鼻をそき殿下へ各連判を以進上し奉ぬ、秀家助給ひし戦功尤甚長せり、

評曰是を分目の合戦とは云めれ、思へは立花か成功之至、朝鮮陣中これに比すへきなし、左近将監是非共に、合戦之上にあらすんは、あしかりなんと、遠慮せし事、又もなき事なむめり、

 
〇三奉行諸勢を引連都へ入事、
 
三奉行之人々は、秀家下知を用ずして合戦に赴きし事を、奇恠にや思ひけん、諸勢を引具し、合戦之勝負を見も聞もせす、都へこそは入にけれ、秀家は軍に勝て、本陣に帰り、明石左近、木梨九右衛門尉か、一番に討捕し首を見せんと、三奉行を尋しか共、はや都へとて跡かたなし、夜も更、十方にくれ、いかゝ今夜は是に陣取てんやと、思ひけれと、三奉行より将軍へ何とか注進する事もあらんとて、亥之刻より都へ急き入しかば、夜半の鐘声過にけり、秀家右筆にて侍る、楢村監物をして、注進状をかゝしむ、

卒以飛力言上候、一昨日朔日、漢南カクナミ勢百万騎、至于当表出張、捫破小西摂津守要害、既都近辺進来、輝元下一本有先勢小早川五字輝元立花等挑合戦、在勝負区也、某雖助成、三奉行御停止之旨、達而制之、雖然於助成者、悉為討死之、然間不三人之下知、相救遂合戦、得大利、三万八千余討捕之畢、此旨宜御披露候、恐々謹言

 正月二十七日     備前宰相豊臣朝臣秀家

       安威アイ摂津守殿

両人之飛脚にもし御尋之事あらは此事を申せとて、

軍評諚之時、漢南勢以外多勢なるにより、合戦に相極宜しかるへきと、立花堅申候処に筑前守隆景尤なる旨同心之事

輝元先勢引あしに見えし処、橘左近将監突懸追くつし候事

合戦之勝負を不聞届、三奉行諸勢を引つれ、都へ逃入候事

此分たしかに申候へとて、つかはしけり、此両人夜を目に続て急し故、二月七日至于名護屋けれは、安威摂津守披露せし処、将軍悦ひ給ふて、飛脚之者具して参れと有しかは、摂津守庭上にをきぬ、立出給ふて委見及ひし事共、しつかに語れよと、仰けるに答奉る、

立花小早川は合戦之上にあらずんは、大利は有まじきと、堅く被申しとなん、

オープンアクセス NDLJP:405毛利殿の先手危く見えし時、橘左近帰し合せ大敵をしこうち候し、

合戦に備前之者かけ向ふを見て、三人之御奉行衆、都へすて鞭をうつて、入給ひて候なり、

此外めつらしき事、誰共なしに申けれ共、たしかに見及不申候となり、将軍きこしめし、不斜御気色にて、飛脚両人に銀子拾枚被下、五六日休息させよ、御返簡は、御はやみちの者につかはさるへき旨仰けり、

去月廿七日之飛札昨七日到来先以令大慶

大明より其国廃乱を救はんかため、李郎耶碩郎耶、百万騎を引卒し、令出張、小西か要害をもみ破り、既に都にちかつき、毛利右馬頭か先勢と、合戦をいとみ、勝負まちなるに依て、其方目明メキヽを以、軍法を破り鑓を入、即時に突崩し、三万八千余騎討捕之由、其戦功不計、寔助成なくんは、橘左近将監等もうち死し、都に至てをしつめ、籠城之体になりなは、うしろ巻の加勢、重てつかはすへきに、大切なる忠義、莫太に覚え候事

三人之奉行共、今度合戦を制しとめ候義、似合たる存分とは云なから、不是非事候、向後もさやうに臆したる下知は用ゐ被申ましく候事、

評曰三人之内有武功者一人加へらるへき事、理之当然たるへきか、信長公は、かやうの使には、猪子兵助、野々村三十郎なと、度々つかはされし也、

立花左近将監小早川筑前守は非合戦之上、百万騎之多勢に、得大利事有まじきと、令遠慮、其段つよく申達せし由、得其所、思慮不于今儀に候、又味方之合戦之色あしく見えし所、橋左近将監つきかゝりし、多勢を突退る由、武勇之甚に候重而感状遣し候はんまゝ、先々其方よきに意得可申達候事、右条々如件、

 二月八日       秀吉御朱印

        羽柴備前宰相殿

  毛利右京大夫秀元感状後被叙宰相

今度漢南李郎耶碩郎耶両将軍引卒百万騎之軍兵、朝鮮為急難俄然令出張、各及難義、惣陣軍勢周章騒動評定区々処、其方為先勢、挑合戦即時切崩、唐人首三万八千余級討捕、唐人数北仕之由、従備前中納言所注進之趣被 聞召届候、小早川吉川立花已下古今之至剛武勇不今候、併其方雖若年下知無比類 思召候、殊ウル(蔚歟)サン加藤主計籠城之砌も後詰数万之軍勢引廻、両度之働神妙候弥可忠節候、猶帰朝之節叙官位御褒美者也、仍感状如

  文禄四年二月廿八日            御朱印

      毛利右京大夫殿

 
○長谷川藤五郎秀一直言之事
 
秀次公より朝鮮渡海之人々見廻とし丹羽五平治を被遣し時、木村常陸介方へは、筒服単物帽子是彼百思賜あり、御書なとも他に異て見えにけり、木村其御書を藤五郎方へ持参し、関白殿オープンアクセス NDLJP:406浅からぬ御懇意なりと、はへしく語しを、秀一打聞て睡りけり、良有て若帰朝せし事有共、二度秀次へは御見舞申まじきと思ふなり、今度渡海しつる者は、行々皆秀次之臣也、去年三月打立しより終に言のはの露たも味ひせす、天下之器に当り給はさらんか、汝秀次之御心ざし忝存なば、百之賜を分配し、在陣之面々に御音信として、丹羽を同道し参り、永々苦労之段申候へかしと諫しかば、木村尤と同し、其沙汰に及しかば、各忝奉存旨、御請之状を奉りけり、

評曰、長谷川は童名竹とて、信長公小姓にて有しか、其比諸侯なとにも、聊へつらふ事もなく、直心に任せ振廻し人なり、

 
○大明より使者之事
 
沈惟敬遊撃将軍、文禄三年三月十六日西江セガクと云所に至て渡海し、小西摂津守方へ書簡有、其趣は、去年八月下旬に約せしごとく、唐使両人同道致し、秀吉公御内意を承り、可和睦との事なり、折節小西は龍山シグサンに在しが、通辞前聖福景徹、玄蘇西堂を以、遊撃宇愚に対面せさせ筆談あり、其趣小西承届、我等一人とし計ひなんもいかゝあらんと及遠慮、備前中納言殿、増田右衛門尉、石田治部少輔、大谷刑部少輔、小早川侍従隆景へ右之通遂相談、以連判言上之処、仰曰、至大明国猛威候ても益なかるへし、又永々朝鮮在陣も上下之疲労莫太の事なは、唐使朝来し請和に任せ、和睦可然之条相調可申之旨御返簡あり、因之宇愚将軍方より卯月十七日唐使両人請取、龍山に旅舘をいとなみ、饗膳等能に計ひ可申旨、奉行を付置、小西は釜山浦さして急つゝ、早速至名護屋和睦之様子委言上せしかば、各令談合然様に相調可申旨なりしかば、翌朝又朝鮮へ渡海し、御詫之趣備前中納言殿、増田石田なとへ申渡し、即唐使両人同道し、各も名護屋へ参り、和睦の段申上けれは、御気色も宜しきなり、唐使宿之義家康卿利家へ可然様に相計ひ可申旨、羽柴下総守を以被仰出(付イ)けり、

一大明正使参将謝用梓  別号 龍岩            江戸大納言家康卿

一副使遊撃徐一貫    別号 唯吾            加賀大納言利家卿

右宜馳走旨也、

異国之馬なとも我朝の馬に相替り、長も抜群のひ大やうに静か也、五月十五日より同廿一日まて、両卿として馳走有しなり、是より後は別人に被仰付十日宛もてなし可申旨也、

一番  五月廿二日より六月朔日まて            浅野弾正少弼

二番  六月二日より同十一日まて             建部寿徳

三番  十二日より同廿一日まて              小西如清

四番  廿二日より七月朔まて               太田和泉守

五番  二日より十一日まて                江川観音寺

右如此令汰沙、賄方之義何も手前之代官所之内を以相計ひ可申者也、

一唐使万事用所等承相調就申旨添奉行事

増田右衛門尉内 高田小左門尉 服部源蔵 石田治部少輔内 井口清右衛門尉 大島甚右衛門尉 大谷刑部少補内 引壇伝右衛門尉 小岩内膳 小西摂津守内 小西興七郎 結城弥平次

オープンアクセス NDLJP:407右両人宛昼夜相詰、万事馳走せしかは、唐使一かたならす忝旨を尽しけり、一唐使へ五月廿三日御対面之事

 三献   折等種々

 御盃台

 御配膳衆

御前  羽柴内河侍従八幡侍従   御杓  中江式部大輔御加  山崎右京進

 同し間視候之衆

江戸大納言 加賀大納言 岐阜中納言 丹波中納言 大和中納言 越後宰相

 次之間

羽柴三吉侍従 龍野侍従 有馬中務卿法印 戸田武蔵守 羽柴下総守 古田織部正 河尻肥前守 寺沢志摩守 氏家志摩守 富田左近将監 奥山佐渡守 上田主水正

 御酌かよひ衆

尼子三郎左衛門尉 三上与三郎 新庄駿河守 長谷川右兵衛尉

 唐使へ恩賜之目録

一御太刀 長光 目貫かうかい後藤 一同 助光 同      同 一銀子  三百枚宛 一小袖二十重宛 一帷子 三十宛 一銀子  百枚筆談之玄蘇西堂 一銀子五百枚 唐人供之下々 一帷子  百        筒服    百      同下々へ

かくて金のすきやにて、唐使に御茶被下けれは、其体尤つきして有しとなり、晩之御振廻は、長谷川刑部卿法眼勤之、

或曰、聖代は以倹約世を治るをよしとす、金のさしきさみし下さんか、

秀吉公は床のわきに坐し給へり、茶道 久阿弥  通ひ尼子三郎左衛門尉 三上与三郎

 諸侯大夫其外歴々之衆緑通りに並居たり、

書院之道具も悉く金なり、

 床のうち

  虚堂墨蹟  玉硼夜雨  晩鐘   馬藺朝山  青楓

唐使衆及拝覧褒美甚以重し、異朝にも如此之珍器は稀なる旨感しあへりき、其体のつきしき、日本人の及ふ所にあらすとなり、

 芬玉碉常牧渓等、真書日本秘也、

 大閤亦秘在焉、供

 麾下一覧、請証其真画可也、

オープンアクセス NDLJP:408 願観之、

日本為宝以名画筆者、

 大明人モトヨリマタ聞也、

 以画名家者甚多、不

貴国最愛者是誰之盧(廬疑画)也、

芬玉磵第一、以馬藺第二、以常収渓第三

中国之、若愛セハ三種極真妙者為送、然則則(一則字疑行)

大閤所秘之名画一覧如何、

 妙、

 所少三軸、二使回

 中国、遍求大方家、必得以送

大閤、不敢虚謬也、乞以少之名セヨ

朝鮮全羅セクヤウ慶尚ケクシヤク両道之士卒、開路過先鋒而各遮路、是朝鮮虚誕也、故至両道則未兵、待大明和親之実而収兵者必セリ矣、美セハ虚誕之朝鮮、大明亦豈不之乎、日本聞和親之実、遂結属国之約、則以日本先駆、伐韃靼何不大明之掌握乎、日本粉骨砕身欲大明皇帝、是

大閤之意、言々中肯啓、予心甚服、朝鮮虚誕〈[#底本ルビ読取困難。「エイナカラ」か]〉朝廷実坐不愁、又不疑、故遣使求観真否、今一聞云、巳愁於胸中、即誕之意帰奏

朝廷

命下三法司科道面議、諒不恕也、再差使来会、貴国方知此、子言為謬、且図

大閤遊玩之興何如、倘 大閤以二使之言信、借宝剣心以観之、死無悔也、多言心多過、不敢復措_詞矣、

今日初通情思、互知誠心、然則自是而有無和親之儀、則褻

二使媒介、客中常着褻衣禅師来、啜茗斟盃者、是

大閤欲也、片時要項俾

麾下帰国以日本誠心

天朝而雖和親之実、因吾一玉回命

台駕於此営之外他意、請思旃、収兵之遅必在

天朝震襟者也、

大閤之忠誠可之天地、帰奏セハ

天子嘉悦必矣、若有韃靼之禍、特遣使来請貴国之兵之亦可、但今帰者已十年、于玆九辺清寧天下太平、玆又得貴国通和千万年之美事、可嘉可尚、何楽如之、今日請於問答之処、知

オープンアクセス NDLJP:409大閤之意無偽詐

大閤亦知

二使誠心、互知人之亀鑑在于玆哉、全羅慶尚両道居士先開路、臘雪降明這以絶根道、是一時遺恨也、故若遣兵於両道、麾下以

大閤誠心

天朝、連示和親之実、日本若不其実則争収兵乎、

大閤三成長盛吉継行長四人誠心之臣、諸般之事与四人其誠之、其稀者誠心之臣也、今視

両麾下、倶

天朝誠心之臣也、

大閤四臣

天朝

二使者必矣、請他日莫

大閤_視好矣、思

大閤即死於方剣之下矣、

殿下

麾下、先是三年告朝鮮王曰、於大明訴事、朝鮮達之於大明可也、于コヽニ朝鮮差三使点頭矣、三年之間雖之遂、不其実、故起兵者全不

大明、只起兵而欲早臆而已、此明朝鮮遮路故倭兵伐朝鮮、盖是起朝鮮日本之処、天朝今差二使

 命為属国、此事若慣朝鮮虚誕

大閤直入遼東具以訴事 天聴

 二使帰去、以此意

 転奏而無虚誕則和親之策何加焉、思

貴国欲

 中国之情、去年八月先鋒已達於沈遊撃、沈遊撃回奏

天子、文武皆信奈何朝鮮不実言、是以誤事、今差二使来会

大閤、正欲其実情何如、玆承示知先鋒之言一口、則無虚誕知、而二国之和好万年不窮矣、子輩何大幸矣、即帰奏

大閤殿下之美意也、

大閤和親大概書在懐裏、雖然私而決之、則似天王、及関白、馳馳使告之、其大概件々即今出供一覧、以看、請伝奏、

和親之実則可也、頃日或使或書而雖

大閤猶疑焉、今於オープンアクセス NDLJP:410面前于僧書間之、初信麾下_答、

大閤二使所_説為

大明執政者所_説、毫髪虚誕者、是

大閤所欲也、請以

大閤書誕疑証之手裏実誕、又

大閤以麾下書、留之箱中実誕、思旃、盖是

大閤之意ナリ

大明若慣朝鮮虚誕、則日本怨恨益深而難忠誠、速以麾下之意、顕和親之実、而俾

大閤歴覧北京及処々名区、則是

 麾下良媒乎、向所謂在懐裏、之大概、凡今所書惟同、重供一覧、今日先閣為、

  五月廿八日

      増田右衛門尉長盛 石田治部少輔三成 大谷刑部少輔吉継 小西摂津守行長

 
○就大明国之両使帰朝御返簡之事
 

日本国 前関白 秀吉 書

大明国之使 遊撃将軍沈宇愚 麾下、大明日本為和親於 朝鮮国、趨而入予前駆営中、切詢起兵、故実猛将也、長盛吉継三成行長四臣具奏達之矣、急雖瓊報、前年委関白職於秀次、秀次可之於

天聴也、任予思慮、雖太事、不大綱者世礼也、図之、

王京此地水雲遼遠、依之  大明使者停台与(与疑輿)此営中、句(句疑勿)猶予、不昼夜、以命侍臣、馳羽檄、々書待相達回報、余者附四臣舌頭、書底蘊、方物如別録領納、特長刀十振投贈焉、以黄金褁之不宣、

 仲夏日          秀吉朱印

達 沈惟敬遊撃将軍

 大明之使於船入之地秀吉公催船遊

肥州名護屋之境地は、崛曲自然に興有てまれなる所なり、百町余り海水めくり入て、四方の風にも波を知す、深き事底なきに似たり、彼唐使見物し、嘉陵三百里之山水には不足也と云共、瀟湘十里之風景には事足りと、通辞之者に云つゝ感し奉り、即

重畳青山湖水長、無辺緑樹顕新粧、遠来日本明詔、遥出大唐聖光、水碧沙平迎日影、雨微煙暗送斜陽、回頭千態皆湖景、不覚斯身在異郷

    又

沓旋軺車日東、聖君恩重配天公、遍朝万国恩化、悉撫四夷代忠、名護風光驚旅眼、肥州絶境慰衰躬、洞庭何及此清景、空使詩人吟策窮

    又

一奉皇恩八紘、忽蒙聖諭九夷清、晴光湧景霊蹤聚、山勢抱江煙浪軽、虔境奇踪難闘靡、楊オープンアクセス NDLJP:411州風物寧堪争、扶桑聞説有仙島、斯処定知蓬又瀛、

秀吉公も唐使か一聯に弥御機嫌よく、さらはから八を慰んとて、逍遥を催し侍りぬ、数百艘之大船を家々の紋付たる幕、或旗或さし物を以てかさり立、欵乃アウアイノ歌なとことしくうたひ出てさゝめきしかは、上下離苦得楽のなかめに世を忘れにけり、将軍其日の出立いかにも花やかにかるしく物し、武具なと船に入、虎尾のなけさやの鑓二百本、十文字長刀何も金を以かなくし、あかねの羽織着したる中間三百余人、一やうに出立せて持せ給へり、勿論供奉の面々、綺羅をミガき善尽したる中間三百余人、一やうに出立せて持せ給へり、勿論ばさらに出立たるも有て、をのかさま更に云んも言葉なし、将軍も船中へ入せ給ふて、勅使其外諸侯大夫にも饗膳給り、御酒宴ゆうたり、其後御能を可遊とて、観世金春なと召て初め給ふ、音曲海上に響渡り、龍神も感応有けに覚えてけり、勅使も興に乗し、稽首眉をたれ感しあへりぬ、寔に天人も影向ましますにやと見えて、天気おだやかに、海上いと静かなり、見物の上下も寛徳に化せられ、ゆるやかに物し、浮世を忘れはてにけり、二人の勅使 蘇西堂船中にて御約束し給ひ翌日六月十日之朝、山里におゐて御茶給りぬ、露地には色々の菜園なともあり、麓の里をのつから物ふりて、諸木枝を連ね、岩つたふ流もいとすゝしく、山里の名に応し其さま尽ぬ、

 一四畳半之御数寄屋飾の次第

一玉硼帰帆之絵 ホソ口之花入 新田ニツタ肩衝カタツキ

   柵之節

一茄子の茶入内赤之盆に在 一台天目 一釜 一ゑんおけの水さし 一水こほし がうし 一象牙の茶杓

自御かよひ物し給へは、何も不言の唇のみにして感しあへりぬ、即御茶も手つから点し給へれは、其さまを尽し辱く存する体、異国人のやうにもなく、今世佳名の風に見えて、誹る所もまれなりけり、

一五畳布のくさりの間 一玉硼枯本の絵 一蕪なしの花入 一富士香炉 一肩衝なけつきん

 一勝手のかさり

一せめひほの釜 一いもかしらの水さし 一茶入尻ブクラ 一井土茶碗

此間にては諸侯大夫の衆も、茶堂友阿弥に被仰付、御茶済々給りぬ、六月廿六日唐使へ美酒住肴取そろへ、御懇の事なとかす宣ふて、民部卿法印、長束大蔵大輔、寺沢志摩守、友阿弥を被差越けり、

 
○六月廿八日唐使衆大明へ可帰朝之旨被仰出宮𥫩として被遣覚
 

生絹之スヾシノ摺薄尽手事無類也     帷子二重宛 一辻か花染惟      十重宛 一浅黄之表紋上品之帷   廿宛 一船中慰のため      挽茶壺 三 一真壺 極上五斤入    一ケ 一きりさきの旗      二本 一白米          五百俵 一諸白樽         百 一雁鴨          二百 一鶏          二百

オープンアクセス NDLJP:412右四人之衆御使者として令持参、渡之、猶何にても用所之事於之承候へと、上意之旨演説せしかは、辱御事不此上趣御返答申、頓て御礼とし登城有し処に、山里にをひて御対面有て、猶々忝存候やうに御沙汰有しかば、種々拝領と申、かた過当至極なる通、誠を尽しまかり立しは、中々及はれぬきはに見えしとかや、朝鮮人とははるかにこえ、其体宜しかりし、其比見し人たちの云、さすか大国のしるし、大やうにしめやかなる事、絶言語と感しあへりき、大明朝鮮日本三国和平之扱、永々令苦労之旨預御感、岡田将監、内藤飛騨守、御帷子十宛、銀子百枚宛拝領有けり、両人此扱に朝鮮と名護屋との往還十度計にも及ひしか、如此之御感にて、久労一時に亡ひしとなり、

 大明へ被遣御一書

一和平誓約無相違者天地縦雖茲矣、不違変也、然則迎

大明皇帝之賢女、可日本之后妃事、

一両国年来依間隙、勘合近年及断絶矣、此時改之、官船商舶可往来事、

一大明日本通好不変更之旨、両国朝権之大臣、互可誓調(調疑詞)事、

朝鮮前駆伐之矣、至今弥為国家百姓、雖良将、此条目件之於領納者、不朝鮮之逆意、対

大明、分八道、以四道国城朝鮮国王、且又前年従朝鮮、差三使木瓜之好也、余蘊附与四人口実也、

一四道者既返投之、然則朝鮮王子大臣一両員為、可渡海事、

一去年朝鮮王子二人前駆者生擒之、其人順凡間不混和、為四人度与沈撃旧国事、

一朝鮮国王之権臣累世不違却之旨、誓詞可之、如此者為四人、向癸未疑癸巳

大明唐使、縷々可説之者也、

  文禄二年幾六月廿八日          秀吉朱印

 対

大明勅使、可告報之条目、

夫日本者神国也、即

天帝、天帝即神也、全無差、依之国俗勤神代(一本無勤神代三字)風度崇王法、体天則地、有言有令、雖然風移俗易軽

朝命、英雄争権、隣国分崩矣、予之慈母懐胎之、初夢日輪入胎中、覚後驚愕而即相士之、日天無二日、徳輝弥四海之喜瑞也、故及壮年、夙夜憂世愁国、再会

聖明於神代、遺威名於万代思之不止、纔経十有一年、族滅凶徒姦党、而攻城無抜、敵陣無廃、有乖心者自消亡矣已、而国富家娛民得其所、而心之所会無遂、非予力、天之所オープンアクセス NDLJP:413授也、

日本之賊船年来入

大明国、横行于処々寇、予曽依日光照臨天下之先兆、欲正八極、既而遠島辺陬海路平穏通貫無障礙、制禁之

大明亦非希乎、何故不謝詞耶、蓋吾朝小国也、軽之侮之乎、以故将兵欲

大明、然朝鮮見機、差遣三使、結隣国允隣丁前軍渡海之時不粮道、不兵路之旨、約之而帰矣、

大明日本会同事、従朝鮮

大明達之、三年内可報谷、約年之間者可干戈旨諾之、年期已雖相過是非之告報、朝鮮之妄言也、其罪可逃乎、各自已出、怨之所攻也、欲違約之旨、於是役備築城高(塁歟)之矣、前駆以寡撃衆多、々刎其首、疲散之群卒伏林、恃蟷臂蟹戈、雖隙交鉾則潰散、追北数千人討之、国城亦一炬成焦土矣、

大明国救朝鮮急難、而失利、是亦鮮反間之故也、

此時

大明之使両人来于日本名護屋、而説大明之綸言、答之以七件、見于別幅、為四人説之、可返章間者相追講軍渡海遅速者也、

 六月廿七日     秀吉朱印

             増田右衛門尉

             石田治部少輔

             大谷刑部少輔

             小西摂津守

 
○秀吉公異形の御出立にて御遊興之事
 
文禄三年六月廿八日之事なるに、瓜畑なとひろく作りなしたる所におゐて、瓜屋旅籠屋を、いかにも麁相にいとなみ、瓜あき人のまねをなされつゝ、各をも慰め、又御心をも慰み給ひつゝ、長陣の労を補ひ給ひしなり、御出立は柿帷をめされ、わらのこしみの、黒き頭巾菅笠を御肩に物し、味よしの瓜めされ候へと有しは、聊商人に違ふ所もなふて、つきしく有しなり、

江戸大納言家康卿は、あしかうりに成せられ、大やうに、あしかかはし、と声し給ふも、又よく似侍りしなり、

丹波中納言秀勝は、ツケ物瓜をになふて、かりもりの瓜、瓜めせとふつゝかに、のゝしり給ひしか、ぶてうほうに有しなり、げにも若きは何事も無功に有よなと思はれて、年はよるへき物なり、いやよるまじき物でも有と云人も多かりしなり、

常真公は遍参僧に成給ふて、文庫をあさましげなる同宿に持せ、修行の体に物し給へとも、蛇に衣をきせたるやうにして、大ちやくに見えし、

加賀大納言利家は、高野ひじりのおひを肩にかけ、やとと声を長く引て、いかにも宿オープンアクセス NDLJP:414かり侘たる声左も有げに覚えて、聊あはれを催し侍りし、

会津忠三郎氏郷は、荷なひ茶うりに成て、秀吉公へ極上の茶を立まいらせつゝ、代をつよく請候し一興ありて、

三松老はあかき半帷を上にうちはをり、つるめせ、、又御用の物もなと云つゝ、うそめき打ゑませ給ふ、又おかし、

 或曰、三松は尾州武衛家なり、津川玄番允の舎兄にておはせしなり、

織田有楽ウラク老は客僧に出立せ給ひ、修行者の老僧に、瓜御結縁あらぬかと、請給ひしかは、秀吉公手つから二施したまふを、いや是は熟せぬとて、いみしきをと、所望有し、いとおかし、

 或曰、此人は織田備後守殿の末子、源五と云し人也、

有馬中務卿法印は、有馬の池坊に成て湯文を説廻り、有馬の湯の徳をことしく云立候し、所からけによき作意かなと思はれ、此人は物毎の相応も宜しく侍らんと、おもはれ、うらやましうそ有ける、

 或曰、此人は摂州有馬郡の主として、代々目出人なり、玄番允父是なり、

前田民部卿玄以法印は、比丘尼に成候しか、せい高くふとりたるひくにの、にくていなるかほさかに有しか、をかしけなる声して、たゝ念仏をつねに申せは、必仏になるそと説法し侍りぬ、去共先此世を第一に心にかけ、来世之事は第九第十に行候へし、念仏もむつかしく侍らは、昼ねをして聊気をも助け、心を正にもちなすへし、ひたすら現世の理に背ぬやうにとのみ行ひ候へし、生れ来る事父母の気よりす、父母の気は天地之気也、天地之気は不生不滅なれは、人道として按排する事ならさる事なり、

之外禰宜こも(普化イ)僧はちたゝき、猿つかひ種々様々の出立有しなり、

旅籠屋の亭主には蒔田マイタ権左成にけり、かゝは藤つほとて将軍の御中居なりしか、白きすゝしを着し、くろきとんすの前かけ、たすきは紅の糸にてうちたるなり、

茶屋の亭主には、三上与三郎をなし給ふ、かゝはとこなつとて是も将軍御そはちかふ有しを、其日計やといかさしめ給ふ、出立はあらましきひろ袖のゆかた、しゆすのかるさん、なんばんづきんをかふつて、御茶上り候へ、あたゝかなるまんちうもおはしまし候なりと云けり、又藤つほは御めし(食イ)まいり候へ、あま酒もきり麦も御入候と云つゝ、御手を引しやうし申せは、事外の御機嫌にて、布袋の笑るやうに、目も口もなき計に見えさせ給ふ、

 
○朝鮮舟着之浦々取出之城之事
 
朝鮮船着之所々、ツマリ々取出之城、二十ケ所被仰付、弓矢鉄炮玉薬兵粮番手之人数、多と被入置、勢勢悉く可打納之旨、四人之奉行を以被仰出けれは、上下之悦一かたならぬ事にそ有ける、

釜山浦為通路、対馬之豊崎に毛利民部大輔か勢、自分共に五千着到にて被入置、九州為警固、名護屋に寺沢志摩守加勢共に、八千之勢にて残し置給ふ、如此朝鮮九州之仕置等堅固に沙汰し、〈甲午〉八月十四日名護屋を立て御馬を納給ひ、事外急かせ給ふに依て、廿日路オープンアクセス NDLJP:415余之行程を、同廿五日至大坂着船あり、御廉中京極御所幸蔵主〈尼也〉おちやあなとは廿七日に御参着あり、上下喜之眉を開き、いと目出かりけり、禁中より帰国之義、御悦におほさるゝ旨、勅使菊亭右府御下、其外清花諸門跡公家衆之御見廻、諸寺諸社より御視儀之巻数なと捧け、門前市をなしつる事、八月廿六日より九月中に及へり、いといみしかりける御果報なりとそ、おしなへて云あへりぬ、

 
○大坂西丸御能之事
 
 甲午九月十八日   初日 翁  暮松新九郎

呉服   仕手 金春大夫脇  春藤六右衛門 笛   八幡助左衛門大つゝみ樋口石見小皷  今春又二郎 あひ   祝 弥三郎  太鼓 山崎卯兵衛 田村   仕手 秀吉公わき 山岡如軒 笛   長次郎大皷  大蔵平蔵小皷  幸五郎次郎 定家   仕手 今春大夫脇  下村 笛   伊藤安仲大皷  樋口石見小つゝみ大蔵道違 皇帝   仕手 今春大夫脇  甲田悪鬼 松浦伊予守貴妃 伊藤弥太郎 笛   八幡助左衛門大つゝみ大蔵平三小つゝみ大蔵道違 野守   仕手 金春大夫脇  下村 笛   竹友大皷  樋口石見小皷  いやし与二郎 羽衣   仕手 金春大夫脇  金春善三郎 笛   長次郎大皷  かなや甚兵衛小皷  早川源蔵 ぬえ   仕手  金郎脇   甲田 笛   長次郎大   かなや甚兵衛小   幸五郎次郎太皷  山崎卯兵衛 源氏供養 仕手 金春大夫脇  山岡如軒 笛   八幡助左衛門大つゝみ甚六小つゝみ又次郎 山祖母  仕手 金春大夫脇  金春善三郎 笛   長二郎大皷  伝右衛門小跛  やし与二朗太皷  春日五平次

 
○朝鮮陣七年
 

壬辰三月朔日秀吉公都を立て、至于肥前国名護屋、御着陣まして、朝鮮へ御勢をさしこし給ひしか、七月廿二日、大政所殿御煩に付て御帰洛なされ、九月又九州に御下向有しなり、

癸巳、夏加藤左馬助等、重て朝鮮渡海之折節、船軍有

甲午八月廿五日将軍至大坂御帰城也、三奉行衆も朝鮮より帰朝す、

乙未より戊戌まて四年は、朝鮮船着地之利全き所要害十ケ所こしらへ、番手之勢を置給ひしか、戌之秋在陣之勢、悉く日本へ引取畢、

 
 
 

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