太閤記/巻十五
主計頭おらんかい境に近付、度々挑㆓合戦㆒村菴里屋悉令㆓放火㆒、振㆓猛威㆒事甚以夥し、斯く金山と云所は地之利宜しきにより、要害に拵へ賀藤与三右衛門尉、同組其勢三千、馬廻之組頭三人都合五千人、并橘中と云城に、九鬼四郎兵衛尉、天野助左衛門尉、山内甚三郎、其勢三千籠置、主計頭は
小西摂津守は、遼東堺平安道に至て威雄を振ふ事、恰信長公天下初入之猛威にも似たり、此由将軍被㆓聞召及㆒、深入し越度を執なと、再往制し、可㆑然地を見計、数ケ所要害を構、永く可㆓在滞㆒之行、不㆑可㆑有㆓油断㆒となり、然間小西に与力せし壱岐侍従、対馬侍従、有馬刑部卿法印、大村新八郎、五島若狭守、摂津守か弟主殿助、木戸作右衛門尉、其勢二万余騎、小西か要害を大将陣と定め、真中になし、六ケ所の要害を構えたり、都より此表に至て、百五十里つなきの城なくしては、通路おぼつかなしとて、大友宗鱗二ケ所、黒田甲斐守二ケ所、毛利右馬頭の先手、小早川筑前守七千、吉川左衛門尉三千、柳沢(川イ)二千、これらとして三ケ所、凡て七ケ所之要害、普請等よきに沙汰し在陣之体、数年を経へき有さまなり、将軍より之掟に、小西もし難儀に極りなは、大友助成すべし、急難を互に救可㆑申となり、かゝる処に、大明より朝鮮の急難を救はんがため、李郎耶碩郎耶、両将軍に百万騎之勢を相添、文禄二年正月二十六日に、小西か要害を幾重共なく取囲みにけり、いたはしや摂津守は、籠鳥の思ひを焦し、千死一生の身と成ぬ、漢南之勢あつくして、屏風を立たる如く、十重廿重におし来たりしを、味方之小将
(軍兵イ)弓鉄炮を段々に備へ、空矢な射そ、とても不㆑遁道にせまれり、心を一致にして、苦戦せば、十死一生の功も有へきぞと、下知し相戦ひ、一人して、五十人三十人こそきりもせんずれ、何ほど討れたるをも、事とせず、岩を立て、をしかゝるやうに、戦ひ来たりけり、木戸作右衛門尉、小西に急き御のき候へ、殿は某いたし候はんと云しかば、悉く要害に火を掛、煙のまきれに引けるに、あしをも乱さす、逃るを追て進侍るに、大友宗鱗是を見て、御法をも忘却し、小西を待も付ず、頓て都をさして落にけり、主殿助作右衛門尉小勢なるをもかへり見ず、数度帰し合せ、敵を追払ひ、摂州を退けるに、大友二ケ所の城に、小西は火を掛、黒田甲斐守か要害に、ちかづきけれは、甲斐守出向ひ云やうは、大友敗軍の時、小西殿は、
評曰是を分目の合戦とは云めれ、思へは〳〵立花か成功之至、朝鮮陣中これに比すへきなし、左近将監是非共に、合戦之上にあらすんは、あしかりなんと、遠慮せし事、又もなき事なむめり、
卒以㆓飛力㆒致㆓言上㆒候、一昨日朔日、
正月二十七日 備前宰相豊臣朝臣秀家
両人之飛脚にもし御尋之事あらは此事を申せとて、
一軍評諚之時、漢南勢以外多勢なるにより、合戦に相極
一輝元先勢引あしに見えし処、橘左近将監突懸追くつし候事
一合戦之勝負を不㆓聞届㆒、三奉行諸勢を引つれ、都へ逃入候事
此分たしかに申候へとて、つかはしけり、此両人夜を目に続て急し故、二月七日至㆓于名護屋㆒けれは、安威摂津守披露せし処、将軍悦ひ給ふて、飛脚之者具して参れと有しかは、摂津守庭上にをきぬ、立出給ふて委見及ひし事共、しつかに語れよと、仰けるに答奉る、
一立花小早川は合戦之上にあらずんは、大利は有まじきと、堅く被㆑申しとなん、
【 NDLJP:405】一毛利殿の先手危く見えし時、橘左近帰し合せ大敵をしこ〳〵うち候し、
一合戦に備前之者かけ向ふを見て、三人之御奉行衆、都へすて鞭をうつて、入給ひて候なり、
此外めつらしき事、誰共なしに申けれ共、たしかに見及不㆑申候となり、将軍きこしめし、不㆑斜御気色にて、飛脚両人に銀子拾枚被㆑下、五六日休息させよ、御返簡は、御はやみちの者につかはさるへき旨仰けり、
去月廿七日之飛札昨七日到来先以令㆓大慶㆒候
○大明より其国廃乱を救はんかため、李郎耶碩郎耶、百万騎を引卒し、令㆓出張㆒、小西か要害をもみ破り、既に都にちかつき、毛利右馬頭か先勢と、合戦をいとみ、勝負まち〳〵なるに依て、其方
一三人之奉行共、今度合戦を制しとめ候義、似合たる存分とは云なから、不㆑及㆓是非㆒事候、向後もさやうに臆したる下知は用ゐ被㆑申ましく候事、
評曰三人之内有㆓武功㆒者一人加へらるへき事、理之当然たるへきか、信長公は、かやうの使には、猪子兵助、野々村三十郎なと、度々つかはされし也、
一立花左近将監小早川筑前守は非㆓合戦之上㆒、百万騎之多勢に、得㆓大利㆒事有まじきと、令㆓遠慮㆒、其段つよく申達せし由、得㆓其所㆒、思慮不㆑始㆓于今㆒儀に候、又味方之合戦之色あしく見えし所、橋左近将監つきかゝりし、多勢を突退る由、武勇之甚に候重而感状遣し候はんまゝ、先々其方よきに意得可㆓申達㆒候事、右条々如㆑件、
二月八日 秀吉御朱印
羽柴備前宰相殿
毛利右京大夫秀元感状後被叙宰相
今度漢南李郎耶碩郎耶両将軍引㆓卒百万騎之軍兵㆒、朝鮮為㆑拯㆓急難㆒俄然令㆓出張㆒、各及㆓難義㆒、惣陣軍勢周章騒動評定区々処、其方為㆓先勢㆒、挑㆓合戦㆒即時切崩、唐人首三万八千余級討捕、唐人数北仕之由、従㆓備前中納言所㆒注進之趣被㆓ 聞召届㆒候、小早川吉川立花已下古今之至剛武勇不㆑始㆑子㆑今候、併其方雖㆑為㆓若年㆒下知無㆓比類㆒被㆓ 思召㆒候、殊
文禄四年二月廿八日 御朱印
毛利右京大夫殿
評曰、長谷川は童名竹とて、信長公小姓にて有しか、其比諸侯なとにも、聊へつらふ事もなく、直心に任せ振廻し人なり、
一大明正使参将謝用梓 別号 龍岩 江戸大納言家康卿
一副使遊撃徐一貫 別号 唯吾 加賀大納言利家卿
右宜㆑被㆓馳走㆒旨也、
異国之馬なとも我朝の馬に相替り、長も抜群のひ大やうに静か也、五月十五日より同廿一日まて、両卿として馳走有しなり、是より後は別人に被㆓仰付㆒十日宛もてなし可㆑申旨也、
一番 五月廿二日より六月朔日まて 浅野弾正少弼
二番 六月二日より同十一日まて 建部寿徳
三番 十二日より同廿一日まて 小西如清
四番 廿二日より七月朔まて 太田和泉守
五番 二日より十一日まて 江川観音寺
右如㆑此令㆓汰沙㆒、賄方之義何も手前之代官所之内を以相計ひ可㆑申者也、
一唐使万事用所等承相調就㆓可㆑申旨㆒添奉行事
増田右衛門尉内 高田小左門尉 服部源蔵 石田治部少輔内 井口清右衛門尉 大島甚右衛門尉 大谷刑部少補内 引壇伝右衛門尉 小岩内膳 小西摂津守内 小西興七郎 結城弥平次
【 NDLJP:407】右両人宛昼夜相詰、万事馳走せしかは、唐使一かたならす忝旨を尽しけり、一唐使へ五月廿三日御対面之事
三献 折等種々
御盃台
御配膳衆
御前 羽柴内河侍従八幡侍従 御杓 中江式部大輔御加 山崎右京進
同し間視候之衆
江戸大納言 加賀大納言 岐阜中納言 丹波中納言 大和中納言 越後宰相
次之間
羽柴三吉侍従 龍野侍従 有馬中務卿法印 戸田武蔵守 羽柴下総守 古田織部正 河尻肥前守 寺沢志摩守 氏家志摩守 富田左近将監 奥山佐渡守 上田主水正
御酌かよひ衆
尼子三郎左衛門尉 三上与三郎 新庄駿河守 長谷川右兵衛尉
唐使へ恩賜之目録
一御太刀 長光 目貫かうかい後藤 一同 助光 同 同 一銀子 三百枚宛 一小袖二十重宛 一帷子 三十宛 一銀子 百枚筆談之玄蘇西堂 一銀子五百枚 唐人供之下々 一帷子 百 筒服 百 同下々へ
かくて金のすきやにて、唐使に御茶被㆑下けれは、其体尤つき〳〵して有しとなり、晩之御振廻は、長谷川刑部卿法眼勤㆑之、
或曰、聖代は以㆓倹約㆒世を治るをよしとす、金のさしきさみし下さんか、
秀吉公は床のわきに坐し給へり、茶道 久阿弥 通ひ尼子三郎左衛門尉 三上与三郎
諸侯大夫其外歴々之衆緑通りに並居たり、
書院之道具も悉く金なり、
床のうち
虚堂墨蹟 玉硼夜雨 晩鐘 馬藺朝山 青楓
唐使衆及㆓拝覧㆒褒美甚以重し、異朝にも如㆑此之珍器は稀なる旨感しあへりき、其体のつき〳〵しき、日本人の及ふ所にあらすとなり、
芬玉碉常牧渓等、真書日本
大閤
麾下一覧㆒、請証㆓其真画㆒可也、
【 NDLJP:408】 願㆑観之、
日本為㆑宝以㆓名画筆㆒者、
大明人
以㆑画名㆑家者甚多、不㆑知
貴国最愛者是誰之盧(廬疑画)也、
以㆓芬玉磵㆒為㆓第一㆒、以㆓馬藺㆒為㆓第二㆒、以㆓常収渓㆒為㆓第三㆒、
中国
大閤所㆑秘之名画㆒供㆓一覧㆒如何、
妙、
所少三軸、二使回㆓
中国㆒、遍求㆓大方家㆒、必得以送㆓
大閤㆒、不㆓敢虚謬㆒也、乞以㆓所㆑少之名㆒示
朝鮮
承㆑示㆓
大閤之意㆒、言々中㆓肯啓㆒、予心甚服、朝鮮虚誕〈[#底本ルビ読取困難。「エイナカラ」か]〉朝廷実坐不㆑愁、又不㆑能㆑無㆑疑、故遣㆑使求観㆓真否㆒、今一聞㆑云、巳
朝廷㆒、
命下㆓三法司科道㆒面議、諒不㆑経㆑恕也、再差使来会、貴国方知㆑此、子言為㆑不㆑謬、且図㆓
大閤遊玩之興㆒何如、倘 大閤以㆓二使之言㆒不㆑可㆑信、借㆓宝剣㆒剖㆑心以観㆑之、死無㆑悔也、多言心多過、不㆓敢復措_㆑詞矣、
今日初通㆓情思㆒、互知㆓誠心㆒、然則自㆑是而有無和親之儀、則褻㆓任
二使㆒媒介、客中常着㆓褻衣㆒伴㆓禅師㆒来、啜㆑茗斟㆑盃者、是
大閤所㆑欲也、片時要項俾㆓
麾下㆒帰国以㆓日本
天朝㆒、而雖㆑欲㆑聞㆓和親之実㆒、因㆑待㆓吾一玉回命㆒留㆓
台駕於此営之外㆒無㆓他意㆒、請思㆑旃、収㆑兵之遅必在㆓
天朝震襟㆒者也、
大閤之忠誠可㆑達㆓之天地㆒、帰奏
天子㆒嘉悦必矣、若有㆓韃靼之禍㆒、特遣使来請㆓貴国
【 NDLJP:409】大閤之意無㆓偽詐㆒、
大閤亦知㆓
二使誠心㆒、互知㆑人之亀鑑在㆓于玆㆒哉、全羅慶尚両道居士先開㆑路、臘雪降明這以絶㆓根道㆒、是一時遺恨也、故若遣㆓兵於両道㆒、麾下以㆓
大閤誠心㆒奏㆓
天朝㆒、連示㆓和親
大閤以㆓三成長盛吉継行長四人㆒為㆓誠心之臣㆒、諸般之事与㆓四人㆒其誠㆑之、其稀者誠心之臣也、今視㆓
両麾下㆒、倶
天朝誠心之臣也、
大閤視㆓四臣㆒猶㆘
天朝視㆗
二使㆖者必矣、請他日莫㆑味㆓
大閤所_㆑視好矣、思㆑旃
大閤即死㆓於方剣之下㆒矣、
殿下報㆓
麾下㆒、先㆑是三年告㆓朝鮮王㆒曰、於㆓大明㆒有㆓訴事㆒、朝鮮達㆓之於大明㆒可也、于㆑
大明㆒、只起㆑兵而欲㆑陳㆓早臆㆒而已、此明㆔朝鮮遮㆑路故倭兵伐㆓朝鮮㆒、盖是起㆑自㆓朝鮮㆒訛㆓日本㆒之処、天朝今差㆓二使㆒、
命為㆓属国㆒、此事若慣㆓朝鮮虚誕㆒、
大閤直入㆓遼東㆒具以㆓訴事㆒達㆓ 天聴㆒、
二使帰去、以㆓此意㆒、
転奏而無㆓虚誕㆒則和親之策何加焉、思㆑旃
貴国欲㆑通㆓
中国之情㆒、去年八月先鋒已達㆓於沈遊撃㆒、沈遊撃回奏㆓
天子㆒、文武皆信奈何朝鮮不㆓以㆑実言㆒、是以誤㆑事、今差㆓二使㆒来会㆓
大閤㆒、正欲㆑求㆓其実情㆒何如、玆承㆑示知㆘与㆓先鋒之言㆒若㆑出㆗一口㆖、則無㆓虚誕㆒可㆑知、而二国之和好万年不㆑窮矣、子輩何大幸矣、即帰奏㆓
大閤殿下之美意㆒也、
大閤以㆓和親大概㆒書在㆓懐裏㆒、雖㆑然私而決㆑之、則似㆑無㆓天王、及関白㆒、馳馳㆑使告之、其大概件々即今出供㆓一覧㆒、以㆑所㆑看、請伝奏、
示㆓和親之実㆒則可也、頃日或使或書而雖㆑間㆑之
大閤猶疑㆑焉、今於㆓【 NDLJP:410】面前㆒俾㆘于僧書間上㆑之、初信㆓麾下
大閤以㆓二使所_㆑説為㆓
大明執政者所_㆑説、毫髪
大閤所㆑欲也、請以㆓
大閤書㆒、【誕疑証】置㆓之手裏㆒為㆓実誕㆒、又
大閤以㆓麾下書㆒、留㆓之箱中㆒為㆓実誕㆒、思㆑旃、盖是
大閤之意
大明若慣㆓朝鮮虚誕㆒、則日本怨恨益深而難㆑致㆓忠誠㆒、速以㆓麾下
大閤歴㆗覧北京及処々名区㆖、則是
麾下良媒乎、向所㆑謂在㆓懐裏㆒、之大概、凡今所㆑書惟同、重供㆓一覧㆒、今日先閣㆑為、
五月廿八日
増田右衛門尉長盛 石田治部少輔三成 大谷刑部少輔吉継 小西摂津守行長
○就㆓大明国之両使帰朝㆒御返簡之事日本国 前関白 秀吉 書㆓
大明国之使 遊撃将軍沈宇愚 麾下㆒、大明日本為㆓和親於 朝鮮国㆒、趨而入㆓予前駆営中㆒、切詢起㆑兵、故実猛将也、長盛吉継三成行長四臣具奏㆓達之㆒矣、急雖㆑可㆑裁㆓瓊報㆒、前年委㆓関白職於秀次㆒、秀次可㆑達㆓之於
天聴㆒也、任㆓予思慮㆒、雖㆑可㆑決㆓太事㆒、不㆑紊㆓大綱㆒者世礼也、図㆑之、
王京去㆓此地㆒水雲遼遠、依㆑之 大明使者停㆔台与(与疑輿)於㆓此営中㆒、句(句疑勿)渉㆓猶予㆒、不㆑捨㆓昼夜㆒、以命㆓侍臣㆒、馳㆓羽檄㆒、々書待㆓相達㆒可㆑投㆓回報㆒、余者附㆓四臣舌頭㆒、書㆓底蘊㆒、方物如㆓別録㆒領納、特長刀十振投㆓贈焉㆒、以㆓黄金㆒纒㆓褁之㆒不宣、
仲夏日 秀吉朱印
達 沈惟敬遊撃将軍
大明之使於㆓船入之地㆒秀吉公催㆓船遊㆒事
肥州名護屋之境地は、崛曲自然に興有てまれなる所なり、百町余り海水めくり入て、四方の風にも波を知す、深き事底なきに似たり、彼唐使見物し、嘉陵三百里之山水には不足也と云共、瀟湘十里之風景には事足りと、通辞之者に云つゝ感し奉り、即
重畳青山
又
沓旋㆓軺車㆒来㆓日東㆒、聖君恩重配㆓天公㆒、遍朝㆓万国㆒播㆓恩化㆒、悉撫㆓四夷㆒助㆓代忠㆒、名護風光驚㆓旅眼㆒、肥州絶境慰㆓衰躬㆒、洞庭何及此清景、空
又
一奉㆓皇恩㆒撫㆓八紘㆒、忽蒙㆓聖諭㆒九夷清、晴光湧㆑景霊蹤聚、山勢抱㆑江煙浪軽、虔境奇踪難㆓闘靡㆒、楊【 NDLJP:411】州風物寧堪㆑争、扶桑聞説有㆓仙島㆒、斯処定知蓬又瀛、
秀吉公も唐使か一聯に弥御機嫌よく、さらはから八を慰んとて、逍遥を催し侍りぬ、数百艘之大船を家々の紋付たる幕、或旗或さし物を以てかさり立、
一四畳半之御数寄屋飾の次第
一玉硼帰帆之絵 一
一茄子の茶入内赤之盆に在 一台天目 一釜 一ゑんおけの水さし 一水こほし がうし 一象牙の茶杓
自御かよひ物し給へは、何も不言の唇のみにして感しあへりぬ、即御茶も手つから点し給へれは、其さまを尽し辱く存する体、異国人のやうにもなく、今世佳名の風に見えて、誹る所もまれなりけり、
一五畳布のくさりの間 一玉硼枯本の絵 一蕪なしの花入 一富士香炉 一肩衝なけつきん
一勝手のかさり
一せめひほの釜 一いもかしらの水さし 一茶入尻
此間にては諸侯大夫の衆も、茶堂友阿弥に被㆓仰付㆒、御茶済々給りぬ、六月廿六日唐使へ美酒住肴取そろへ、御懇の事なとかす〳〵宣ふて、民部卿法印、長束大蔵大輔、寺沢志摩守、友阿弥を被㆓差越㆒けり、
一
【 NDLJP:412】右四人之衆御使者として令㆓持参㆒、渡㆑之、猶何にても用所之事於㆑有㆑之承候へと、上意之旨演説せしかは、辱御事不㆑可㆑有㆓此上㆒趣御返答申、頓て御礼とし登城有し処に、山里にをひて御対面有て、猶々忝存候やうに御沙汰有しかば、種々拝領と申、かた〳〵過当至極なる通、誠を尽しまかり立しは、中々及はれぬきはに見えしとかや、朝鮮人とははるかにこえ、其体宜しかりし、其比見し人たちの云、さすか大国のしるし、大やうにしめやかなる事、絶㆓言語㆒と感しあへりき、大明朝鮮日本三国和平之扱、永々令㆓苦労㆒之旨預㆓御感㆒、岡田将監、内藤飛騨守、御帷子十宛、銀子百枚宛拝領有けり、両人此扱に朝鮮と名護屋との往還十度計にも及ひしか、如㆑此之御感にて、久労一時に亡ひしとなり、
大明へ被㆑遣御一書
一和平誓約無㆓相違㆒者天地縦雖㆑尽㆑茲矣、不㆑可㆑有㆓違変㆒也、然則迎
大明皇帝
一両国年来依㆓間隙㆒、勘合近年及㆓断絶㆒矣、此時改㆑之、官船商舶可㆑有㆓往来㆒事、
一大明日本通㆑好不㆑可㆑有㆓変更㆒之旨、両国朝権之大臣、互可㆑懸㆓誓調㆒(調疑詞)事、
一於㆓朝鮮㆒遣㆓前駆㆒追㆓伐之㆒矣、至㆑今弥為㆘鎮㆓国家㆒安㆗百姓㆖、雖㆑可㆑遣㆓良将㆒、此条目件之於㆓領納㆒者、不㆑顧㆓朝鮮之逆意㆒、対㆓
大明㆒、分㆓八道㆒、以㆓四道并国城㆒可㆑遂㆓朝鮮国王㆒、且又前年従㆓朝鮮㆒、差㆓三使㆒投㆓木瓜之好㆒也、余蘊附㆓与四人口実㆒也、
一四道者既返㆓投之㆒、然則朝鮮王子并大臣一両員為㆑質
一去年朝鮮王子二人前駆者生擒㆑之、其人順㆑凡間不㆓混和㆒、為㆓四人㆒度与㆓沈撃㆒可㆑帰㆓旧国㆒事、
一朝鮮国王之権臣累世不㆑可㆑有㆓違却㆒之旨、誓詞可㆑書㆑之、如㆑此者為㆓四人㆒、向㆓【癸未疑癸巳】
大明唐使㆒、縷々可㆑陳㆓説之㆒者也、
文禄二年幾六月廿八日 秀吉朱印
対㆓
大明勅使㆒、可㆓告報㆒之条目、
一夫日本者神国也、即
天帝、天帝即神也、全無㆑差、依㆑之国俗勤㆓神代㆒(一本無勤神代三字)風度崇㆓王法㆒、体㆑天則㆑地、有㆑言有令、雖㆑然風移俗易軽㆓
朝命㆒、英雄争㆑権、隣国分崩矣、予之慈母懐胎之、初夢㆔日輪入㆓胎中㆒、覚後驚愕而即㆓相士㆒卜㆑之、日天無㆓二日㆒、徳輝弥㆓四海㆒之喜瑞也、故及㆓壮年㆒、夙夜憂㆑世愁㆑国、再会㆓復
聖明於神代㆒、遺㆓威名於万代㆒思之不㆑止、纔経㆓十有一年㆒、族㆓滅凶徒姦党㆒、而攻㆑城無㆑不㆑抜、敵陣無㆑不㆑廃、有㆓乖心㆒者自消亡矣已、而国富家娛民得㆓其所㆒、而心之所㆑会無㆑不㆑遂、非㆓予力㆒、天之所【 NDLJP:413】㆑授也、
一日本之賊船年来入㆓
大明国㆒、横㆓行于処々㆒雖㆑成㆑寇、予曽依㆑有㆘日光照㆓臨天下㆒之先兆㆖、欲㆑匡㆓正八極㆒、既而遠島辺陬海路平穏通貫無㆓障礙㆒、制㆓禁之㆒、
大明亦非㆑所㆑希乎、何故不㆑伸㆓謝詞㆒耶、蓋吾朝小国也、軽㆑之侮㆑之乎、以㆑故将㆑兵欲㆑征㆓
大明㆒、然朝鮮見㆑機、差㆓遣三使㆒、結隣国允隣丁前軍渡海之時不㆑可㆑塞㆓粮道㆒、不㆑可㆑遮㆓兵路㆒之旨、約㆑之而帰矣、
一大明日本会同事、従㆓朝鮮㆒至㆓
大明㆒啓㆓達之㆒、三年内可㆑及㆓報谷㆒、約年之間者可㆑偃㆓干戈㆒旨諾㆑之、年期已雖㆓相過㆒無㆓是非之告報㆒、朝鮮之妄言也、其罪可㆑逃乎、各自已出、怨㆑之所㆑攻也、欲㆑匡㆓違約之旨㆒、於㆑是役備築㆑城高㆑畳(塁歟)防㆑之矣、前駆以㆑寡撃㆓衆多㆒、々刎㆓其首㆒、疲散之群卒伏㆑林、恃㆓蟷臂㆒挙㆓蟹戈㆒、雖㆑窺㆑隙交㆑鉾則潰散、追㆑北数千人討㆑之、国城亦一炬成㆓焦土㆒矣、
一大明国救㆓朝鮮急難㆒、而失㆑利、是亦鮮反間之故也、
於㆓此時㆒
一大明之使両人来㆓于日本名護屋㆒、而説㆓大明之綸言㆒、答㆑之以㆓七件㆒、見㆓于別幅㆒、為㆓四人㆒可㆑演㆓説之㆒、可㆑有㆓返章間㆒者相㆓追講軍渡海㆒可㆓遅速㆒者也、
六月廿七日 秀吉朱印
増田右衛門尉
石田治部少輔
大谷刑部少輔
小西摂津守
一江戸大納言家康卿は、あしかうりに成せられ、大やうに、あしかかはし、〳〵と声し給ふも、又よく似侍りしなり、
一丹波中納言秀勝は、
一常真公は遍参僧に成給ふて、文庫をあさましげなる同宿に持せ、修行の体に物し給へとも、蛇に衣をきせたるやうにして、大ちやくに見えし、
一加賀大納言利家は、高野ひじりのおひを肩にかけ、やと〳〵と声を長く引て、いかにも宿【 NDLJP:414】かり侘たる声左も有げに覚えて、聊あはれを催し侍りし、
一会津忠三郎氏郷は、荷なひ茶うりに成て、秀吉公へ極上の茶を立まいらせつゝ、代をつよく請候し一興ありて、
一三松老はあかき半帷を上にうちはをり、つるめせ、〳〵、又御用の物もなと云つゝ、うそめき打ゑませ給ふ、又おかし、
或曰、三松は尾州武衛家なり、津川玄番允の舎兄にておはせしなり、
一織田
或曰、此人は織田備後守殿の末子、源五と云し人也、
一有馬中務卿法印は、有馬の池坊に成て湯文を説廻り、有馬の湯の徳をこと〳〵しく云立候し、所からけによき作意かなと思はれ、此人は物毎の相応も宜しく侍らんと、おもはれ、うらやましうそ有ける、
或曰、此人は摂州有馬郡の主として、代々目出人なり、玄番允父是なり、
一前田民部卿玄以法印は、比丘尼に成候しか、せい高くふとりたるひくにの、にくていなるかほさかに有しか、をかしけなる声して、たゝ念仏をつねに申せは、必仏になるそと説法し侍りぬ、去共先此世を第一に心にかけ、来世之事は第九第十に行候へし、念仏もむつかしく侍らは、昼ねをして聊気をも助け、心を正にもちなすへし、ひたすら現世の理に背ぬやうにとのみ行ひ候へし、生れ来る事父母の気よりす、父母の気は天地之気也、天地之気は不生不滅なれは、人道として按排する事ならさる事なり、
右之外禰宜こも(普化イ)僧はちたゝき、猿つかひ種々様々の出立有しなり、
一旅籠屋の亭主には
一茶屋の亭主には、三上与三郎をなし給ふ、かゝはとこなつとて是も将軍御そはちかふ有しを、其日計やといかさしめ給ふ、出立はあらましきひろ袖のゆかた、しゆすのかるさん、なんばんづきんをかふつて、御茶上り候へ、あたゝかなるまんちうもおはしまし候なりと云けり、又藤つほは御めし(食イ)まいり候へ、あま酒もきり麦も御入候と云つゝ、御手を引しやうし申せは、事外の御機嫌にて、布袋の笑るやうに、目も口もなき計に見えさせ給ふ、
釜山浦為㆓通路㆒、対馬之豊崎に毛利民部大輔か勢、自分共に五千着到にて被㆓入置㆒、九州為㆓警固㆒、名護屋に寺沢志摩守加勢共に、八千之勢にて残し置給ふ、如㆑此朝鮮九州之仕置等堅固に沙汰し、〈甲午〉八月十四日名護屋を立て御馬を納給ひ、事外急かせ給ふに依て、廿日路【 NDLJP:415】余之行程を、同廿五日至㆓大坂㆒着船あり、御廉中京極御所并幸蔵主〈尼也〉おちやあなとは廿七日に御参着あり、上下喜之眉を開き、いと目出かりけり、禁中より帰国之義、御悦におほさるゝ旨、勅使菊亭右府御下、其外清花諸門跡公家衆之御見廻、諸寺諸社より御視儀之巻数なと捧け、門前市をなしつる事、八月廿六日より九月中に及へり、いといみしかりける御果報なりとそ、おしなへて云あへりぬ、
○大坂西丸御能之事 甲午九月十八日 初日 翁 暮松新九郎呉服 仕手 金春大夫脇 春藤六右衛門 笛 八幡助左衛門大つゝみ樋口石見小皷 今春又二郎 あひ 祝 弥三郎 太鼓 山崎卯兵衛 田村 仕手 秀吉公わき 山岡如軒 笛 長次郎大皷 大蔵平蔵小皷 幸五郎次郎 定家 仕手 今春大夫脇 下村 笛 伊藤安仲大皷 樋口石見小つゝみ大蔵道違 皇帝 仕手 今春大夫脇 甲田悪鬼 松浦伊予守貴妃 伊藤弥太郎 笛 八幡助左衛門大つゝみ大蔵平三小つゝみ大蔵道違 野守 仕手 金春大夫脇 下村 笛 竹友大皷 樋口石見小皷 いやし与二郎 羽衣 仕手 金春大夫脇 金春善三郎 笛 長次郎大皷 かなや甚兵衛小皷 早川源蔵 ぬえ 仕手 金郎脇 甲田 笛 長次郎大 かなや甚兵衛小 幸五郎次郎太皷 山崎卯兵衛 源氏供養 仕手 金春大夫脇 山岡如軒 笛 八幡助左衛門大つゝみ甚六小つゝみ又次郎 山祖母 仕手 金春大夫脇 金春善三郎 笛 長二郎大皷 伝右衛門小跛 やし与二朗太皷 春日五平次
○朝鮮陣七年壬辰三月朔日秀吉公都を立て、至㆓于肥前国名護屋㆒、御着陣まし〳〵て、朝鮮へ御勢をさしこし給ひしか、七月廿二日、大政所殿御煩に付て御帰洛なされ、九月又九州に御下向有しなり、
癸巳、夏加藤左馬助等、重て朝鮮渡海之折節、船軍有
甲午八月廿五日将軍至㆓大坂㆒御帰城也、三奉行衆も朝鮮より帰朝す、
乙未より戊戌まて四年は、朝鮮船着地之利全き所要害十ケ所こしらへ、番手之勢を置給ひしか、戌之秋在陣之勢、悉く日本へ引取畢、
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