太閤記/巻八
一北畑中将信雄卿南伊勢五郡伊賀尾張兼領清洲在城 一勢州松島之城 同臣津川玄番允 一尾州星崎之城 同臣岡田長門守 一同犬山之城 同臣中川勘右衛門尉 一同苅安賀之城 同臣浅井田宮丸 一勢州穴津城 織田上野介信良 一但馬兼播磨 羽柴美濃守秀吉御舎弟
一丹波 羽柴御次丸信長公御息秀吉卿御養子 一越前若狭賀州半国惟住越前守丹羽五郎左衛門尉長秀
一能登賀州半国 前田又左衛門尉利家 一越中 同肥前守利家長男
一濃州大柿城 池田紀伊守 一同岐阜之城 同息勝九郎 一同曽根之城 稲葉伊予守 一同金山之城 森武蔵守 一同多芸城 丸毛兵庫頭 一同郡上城 遠蔵左馬亮 一江州日野城 蒲生忠三郎後号飛騨守 一同勢田之城 浅野弥兵衛尉後号弾正少弼
一同坂本之城 杉原七郎左衛門尉 一同比田城 長谷川藤五郎 一同高島城 賀藤作内後号遠江守 一同佐和山城 羽柴久太郎後号左衛門督
一丹後 長岡越中守後号三斎 一若州佐柿城 木村隼人正後号常陸守
一若州高浜城 堀尾茂助後号帯刀 一播州三木城 前野将右衛門尉後号但馬守
一同滝野之城 蜂須賀小六蜂菴父也 一同広瀬城 神子田半左衛門尉 一木崎之城 木下助兵衛尉 一立石之城 青木勘兵衛尉号紀伊守
一因幡鳥取之城 宮部善祥坊 一同鹿野城 亀井新十郎後号武蔵守
一伯耆国
或曰、宇喜田家運二代相続有し事は、毛利右馬頭元就と秀吉卿と対陣有けるに、宇喜田和泉守直家、備後美作両国を領し、西輝元東秀吉其間に夾て東西弓矢之行を見もし、聞もし勘るに、羽柴の家は興るへき方也とみて、家老長船紀伊守、戸川肥後守、岡越前守、花房助兵衛尉をよひ寄、相謀りけるは、秀吉卿合戦之行、国々之仕置、毎㆑物はかの行やうを察るに、行々天下をも可㆑計人なり、此人に与し家運をさかへ、忠功有人々の労を補ひ、万民を撫育せんと思ふは如何にと、密かに評しけるに、四老奉り、仰尤にはおはしませとも、大切なる【 NDLJP:306】子共を人質に輝元へつかはしをきしなり、殊に安心之儀をはいかゝおほし給ふぞやと申けれは、子亦此事を悲しみつゝ、其用捨骨髄に徹し謀りみるに、今西に在人質は五人也、両国に在父母兄弟を、かそふれは百人に及へり、五人を捨百人を助けんは、国守之勤、鬼神も悦給ふへし、寔庁当然之理諸人を撫するは君主之業なり、所詮直家は順㆑理可㆑撫㆓万民㆒、もし此義をそむき正理を不㆑知者は、人質に付て西へ参候へ、更以恨なし、早いなやの返辞有べし、送届くへしと有しかは、皆直家に同しけり、さらは誓紙を調
一信長公の知行割は古今に異に、和漢に稀なる事さまにて、都合にも及はせ給す、南は河をさかひ、北は大道、東は某、西は某之郷をかきり、可㆓知行㆒之旨被㆓仰出㆒のみにて一行之
評曰、開闢爾来他の国にして、合戦を挑み敵を討平けても、やかて自国へ立帰しかは、退治せし国人のうち、当時味方に属しつる者に、代官とし国を預けをきしに因て、其功有名無実にして、果して他之国と又成帰りき、信長公に至て、国を伐随へ給ひては、旧功之臣に被㆓割与㆒則住国あらしめ給ひし也、かくてこそ物改り事変し、其功充足してけれ、此格、信長公より初て、今此義に及へり、
一秀吉公恩禄之地を与へ給ひしは、臣のためにも宜しく、主の為にもあしからぬやうに侍りつゝ、勿論山林河海なとも其里に付て給人進退せし也、しかはあれと信長公御知行わりのやうにはなかりき、損益に暁く侍る君の、恩禄之地は必くたけて、むつかしく有つゝ、信長公得失に御心をなやまし給ひしは、軍法のみ、其外は大かたに沙汰し給ひき、唯大やうに正しき事を、このみ給ひし故にや有けん、其比之士風は何となふ
一秀次公尾州を臣下に分与なされしは、よしあしの地をくみ合せしかは、諍論之事多く出来き、傍輩中不㆑和やうに聞しめし、さらは検地被㆓仰付㆒知行割なされかへんとて、検地之者一郡へ三与つゝ出し給ひて、一くみのうち信あつき者、又は算勘に達し損益に暁き者、如㆑此くみ合せられし也、撰人精して誓紙にも及す(不及してイ)出し給ひき、制書如㆑左、
覚一隣郷堺之儀如㆓先規㆒可㆑然之事 一百姓不㆑致㆓迷惑㆒やうに可㆑有之事 一薪之外自賄たるへき事 一給人ために能やうに仕、予かため不㆑可存㆑事 一昔は田畠たりと云とも、当分河に成候はゝ高に結ひ入ましき事
右無㆓相違㆒可㆑守㆓此旨
天正十七年八月初旬より、先西三川より検地をうち初、其より尾州智多郡をうち侍るに、前高より減しけれは、いかゝ有へき事にやとて、其手寄に在し検地之者共寄合つゝ、評議しけるに、唯注進致さんにはしかしとて、申上けれは、減増は有のまゝに物せよとのみにて、大とかにさたし給ひき、かくて三州小川苅屋辺、智多郡にて二万石げんし侍りしに依て、たとひ仰出しは有のまゝと有つれとも、一往吉田修理亮かたまて、此あらましを云をくり可㆑然候はんとて、又連状にて申達しゝかは、尤なりと匠作思ひ、ひそかに得㆓御内意㆒侍るに、くとき事な申しそ、たゝ給人痛さるやうにせよと
御状之趣即得㆓御内意㆒候へは、くとき事を申よと計仰有て、何事をも宣はさりし間、其御心得尤候、頓而被㆑明㆓御隙㆒待入存候、恐々謹言、
【 NDLJP:308】 八月十六日 吉田修理亮
検地衆此状を拝見し、思ひの外なる君にて有よな、愚意を以君の御心を計る事の、はつかしさよと、身を責再三赤面に及ひき、尾州并西三川(一本作三州)北伊勢の内にて、八万石減ししか共露悔給す、里々村々を限り、むつかしからぬやうに知行割を沙汰し給ひしに因て、領知之内小成物有と云共、即給人給りき、
評曰、欲心に溺れて天下之法をみたらん君にはなかりき、此意味過たるに因て秀吉公と内心は打とけさりしなり、寔に過たるは不㆑及にはしかしとなん云しは、此人にかきるやうに覚え侍る、
一羽柴大納言利家卿之知行割は、古今めつらしき事なり、世俗撰み(ひイ)取となん口号みけり、たとへは金沢之町の近辺、一在所も明たる所なく皆給人に出したまへり、城下を知行に出し侍りしは近来古往未㆑聞㆑之、かく士を愛しけるに因て自然に名士多く集て、寡を以多を砕侍りし事、あまたゝひ〳〵なりしとかや、
評曰、何之面々知行わりを能沙汰せしと世に諷しぬるとも、利家上に立んや下にならはんや、
傍人曰、能地を撰みとりは取て、家之益にもならす、たゝ人同前なる時は、いかゝあらんや、
抑佐々内蔵助成政元は、尾陽春日井郡平之城主たり、其後信長公被㆑封㆓于越中守護㆒、されは先君の恩懇を不㆑忘して、一とせ信雄卿与㆓秀吉卿㆒及㆓鉾楯㆒有しとき、信雄卿御味方に与し、越中にして義兵をおこし、秀吉卿には敵対せり、天正十二年霜月下旬、深雪をもいとはす、さら〳〵こえとて嶮難無双之山路に行迷ひぬ、是は何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問しかは、遠州へこえ行、家康へ相看申、来春は、羽柴筑前守を討亡し、信雄卿可㆑被㆑達㆓御本意㆒謀を尽し、可㆑及㆓帰国㆒也、兼て汝等にしらせ度は思ひけめど、於㆓賀州㆒無㆓沙汰㆒様にと、ふかく忍ひ出しに依て、左もなかりし也、富山を出てより十日計は前田知まし、ほの聞てより決定之間五日、かくて陣用意五六日はあらんや、上下廿日には帰城すへし、其間は病と号し、
何事もかはりはてたる世中にしらでや雪のしろくふるらん
と、ふる事なから思ひ出られにけり、内蔵助両年遊客の身となり、秀吉卿に順ひ有しか、九州退治之時肥後国を恩賜に因て入部す、旧臣嫉み侍る事有て、敵対せし者をは大臣になし、江州横山以来労功を積し者をは、さひしくし給ふ事を、うらみかほにみえしかは、秀吉其あらましを知給ふて、勿論奮臣之恨、其理なきにあらす、去共佐々は、信長公にして左右を争ひし傍輩なり、殊に素性至剛に、多勢をも進退せん者なれは、かく有しそかし、然則恩懇に強てあらさるか、実は其人取也、旧臣之累功をもそれ〳〵に封してん物を、ゆるやかにもなき事を云つるよと、おほし給ふとみえたり、時にあたつて佐々いかめしく面をおこせし有さま、いとうるはしくそみえにける、
○肥後一揆蜂起佐々退治之事 佐々肥後国受領之時五ケ条之制書有 定一五十二人之国人如㆓先規㆒知行可㆓相渡㆒之事 一三年検地有ましき事 一百姓等不㆑痛様に肝要之事 一一揆をこらさるやうに可㆑有㆓遠慮㆒之事 一上方普請三年令㆓免許㆒之事
右之条々無㆓相違㆒可㆑被㆑守㆓此旨㆒者依如件
天正十五年六月六日 秀吉卿御印
佐々内蔵助殿
肥後国拝領之折紙に、国吉之脇指并小袖五十重相添、制書ともにつかはされしかは、内蔵助忝次第身に余てぞ覚えける、肥後は思之外大国なるよし兼て聞及しが、実にさも有へきと佐々思ひつゝ、領知之目録を不㆑知は、受領せし甲斐もなしとて、さしたし〈是は百姓一人〳〵ひかへし田畠之高いかぼとゝ、記し付さし出す事也〉を申付取つるに、悉く田畠之員数を記し付さし出しけり、然処に菊地郡桑部か領内に至て、得こそ指出し申まじけれと、言を放ていなみ不㆓承引㆒しを、佐々奇怪に思ひこめ、十日計も過て国人を振廻、幸に日吉大夫有合せしかば、能をみせんとの廻文あり、日限に任せ何も国人来りけれとも、桑部は不㆑参けり、来り侍る人々饗膳給り、能をみせしめて帰しつゝ、頓て菊地郡へ勢をつかはし、桑部を可㆓誅果㆒旨にて、佐々与左衛門尉、久世又助、前野又五郎、【 NDLJP:310】三田村勝左衛門などを大将として、三千余騎〈天正十五年八月六日〉遣し、若
評曰、多は勇士のみを愛し、智士を寵せす、吁心盲之至か、又大志なきからにや、此謀計を以余多之国人心を一時に変し、内蔵助を痛しめ、剰後は切腹有しも、彼智士が三寸之舌を以なり、有動自然に此智士を愛し、心安きやうに老を養ひしかは、今度之急難をおのか任として、謀り出せしとかや、
〈元越中守なり〉突て出、内外より揉合、四方八方へ追散し、首千九百余討捕上㆓鯨波㆒たり、是にもひるます三方はいまた打囲て、鉄砲をうち入、時の声をやみもなくしきりぬ、佐々宿老共に向て数度勝利は得つれとも、取かこみし勢を目前に置しよな、心ながき佐々かなと世の誹はのかるまし、いさ切て出、一合戦せんと思ふはいかゝ有へきと評しけれは、各奉り敵退散、ほど有ましく覚え候、今少しまち合せ御覧候へ、自然聊にても、利を失ひ給ふ事あれは、得㆓大利㆒し軍【 NDLJP:312】之気脱、度々之勇功徒になる事もやと、おし返し諫め止し処に、聞続二十人之ひとりさし出、某は御さし図宜しく奉㆑存候と云しかは、松原を呼て只今両度之労力悦入也、重て無心之所望に候へとも、一揆原に取かこまれ、目前に置所にては有ましき条突て出候へと也、松原たゝかひつかれ、甲を脱聊息をつかんとせし処に、又突て出よと承、甲を手に持なから立出、手之者七百余人左右に随へ、幾重をもなくうつまいたる敵之真中へつきかゝり、右往左往に突わり、暫く戦ひし処に、敵之大将菊地香右衛門尉と云し者、敵に味方を合すれは百倍せり、真中に取こめて討とれや者共と、大音声を上、下知せしかは、いとゝ勇みあへる一揆原、弥重つてかゝも来つゝ、二方よりは跡を取きれよと呼り引包まんとせしかば、鬼松原と云れし五郎兵衛も、引色にこそ見えたりけれ、敵弥気を得て跡へ廻し、先を遮捫(揉イ)にもんて戦ひけれは、不㆑及㆑力這々橋を渡り取入にけり、
或日、聞続之役は万損益を見及聞及次第、告侍る也、我商量の善悪多は此者にあらんとて、物の理に且暁き者、武之備且知つる者をかねて廿人撰ひ、前後にめしつれ侍るに因て、指出切て出候へと云し也、然と云共宿老共今少まち合せ見給へ、敵敗北、程は有ましきと諫つるを不㆑用、云しは越度也、故に小利さへなく剰へ得大利し勢ひも、聊脱侍る意味出来にけり、此勢ひを織田備後守殿はよくつゝしみ養ひ給ひしと也後人評曰、信長公わかゝりし時、かやうのさし出を用ひ給ひ、大利を得られし事多かりし、然則聞続のさし出を堅く制せんもよきにはあらす、指出に古今之異、なふして、用ひに善不善之異有、畢竟信長公之軍理にさとかりし程、佐々はなかりしに可㆑極か、江州青山を越前勢かゝへ有しを、森三左衛門尉か臣武藤五郎右衛門尉と云し者、青山を取て見可申之条御勢聊加へさせられ候やうにと、さし出望しかとも、重ての事にと仰られ延給ひつゝ、殊にうち笑せ御気嫌もよかりし間、武藤か望に応し給ふへき事なるが、不審に思ふ人も多かりしと也、老人曰、若取損し敵に気を付ぬれは、大事之前如何とおほして、重ての事とのへたまふなるへし、
評曰、佐々亡君之厚恩を不㆑忘、信雄卿に対し忠義尤ふかし、かく有て栄へさりしは
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