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太閤記/巻八

目次
 
オープンアクセス NDLJP:305
 
太閤記 巻八
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○天正十一年城主定之事
 
秀吉卿去夏北国を征し給ひてより、威海外に溢れしかは、万国之守護何れも今度之御手柄目出よし、以使者馬太刀を献しけり、其頃之諸侯大夫之居城、且記之如左、

一北畑中将信雄卿南伊勢五郡伊賀尾張兼領清洲在城 一勢州松島之城  同臣津川玄番允 一尾州星崎之城  同臣岡田長門守 一同犬山之城   同臣中川勘右衛門尉 一同苅安賀之城  同臣浅井田宮丸 一勢州穴津城   織田上野介信良 一但馬兼播磨   羽柴美濃守秀吉御舎弟 一丹波      羽柴御次丸信長公御息秀吉卿御養子 一越前若狭賀州半国惟住越前守丹羽五郎左衛門尉長秀 一能登賀州半国  前田又左衛門尉利家 一越中      同肥前守利家長男 一濃州大柿城   池田紀伊守 一同岐阜之城   同息勝九郎 一同曽根之城   稲葉伊予守 一同金山之城   森武蔵守 一同多芸城    丸毛兵庫頭 一同郡上城    遠蔵左馬亮 一江州日野城   蒲生忠三郎後号飛騨守 一同勢田之城   浅野弥兵衛尉後号弾正少弼 一同坂本之城   杉原七郎左衛門尉 一同比田城    長谷川藤五郎 一同高島城    賀藤作内後号遠江守 一同佐和山城   羽柴久太郎後号左衛門督 一丹後      長岡越中守後号三斎 一若州佐柿城   木村隼人正後号常陸守 一若州高浜城   堀尾茂助後号帯刀 一播州三木城   前野将右衛門尉後号但馬守 一同滝野之城   蜂須賀小六蜂菴父也 一同広瀬城    神子田半左衛門尉 一木崎之城    木下助兵衛尉 一立石之城    青木勘兵衛尉号紀伊守 一因幡鳥取之城  宮部善祥坊 一同鹿野城    亀井新十郎後号武蔵守 一伯耆国羽衣石ウエイシ城 南条勘兵衛尉 一淡路洲本城   千石権兵衛尉 一同岩屋城    間島右兵衛尉 一備前美作    宇喜田八郎後任中納言

或曰、宇喜田家運二代相続有し事は、毛利右馬頭元就と秀吉卿と対陣有けるに、宇喜田和泉守直家、備後美作両国を領し、西輝元東秀吉其間に夾て東西弓矢之行を見もし、聞もし勘るに、羽柴の家は興るへき方也とみて、家老長船紀伊守、戸川肥後守、岡越前守、花房助兵衛尉をよひ寄、相謀りけるは、秀吉卿合戦之行、国々之仕置、毎物はかの行やうを察るに、行々天下をも可計人なり、此人に与し家運をさかへ、忠功有人々の労を補ひ、万民を撫育せんと思ふは如何にと、密かに評しけるに、四老奉り、仰尤にはおはしませとも、大切なるオープンアクセス NDLJP:306子共を人質に輝元へつかはしをきしなり、殊に安心之儀をはいかゝおほし給ふぞやと申けれは、子亦此事を悲しみつゝ、其用捨骨髄に徹し謀りみるに、今西に在人質は五人也、両国に在父母兄弟を、かそふれは百人に及へり、五人を捨百人を助けんは、国守之勤、鬼神も悦給ふへし、寔庁当然之理諸人を撫するは君主之業なり、所詮直家は順理可万民、もし此義をそむき正理を不知者は、人質に付て西へ参候へ、更以恨なし、早いなやの返辞有べし、送届くへしと有しかは、皆直家に同しけり、さらは誓紙を調よとて、熊野之牛王宝印を以、始終の固をこしらへ、秀吉卿へ小西如清をして、其旨申奉りけれは、事の外悦ひたまひつゝ、其身の事は不申、於子孫も全踈意有まじきとの誓紙を、蜂須賀彦右衛四尉につかはされしかは、直家快悦し侍りて、又四老を呼、秀吉卿より使札之趣を委く談合しつゝ、即輝元に対し敵の色を可立行を相謀りけり、是より秀吉卿へ丹忠を抜出、奉公之実を尽しけれは、弥睦く成しが、天正八年之春身まかられけども、嫡子八郎〈後任中納言に父之跡をつがせ、家老(家老一本作家臣)之面々も悦ひあへりき、直家若かりしときは、わづかなりし身にて侍りしが、未萠を謀る知深して損益に暁かりし故、備作二州を領せしなり、去共曽て天命を恐れす、不儀に耻す利に因て行ひし故、子息中納言秀家八条島之流人と成、哀なる事、俊寛僧都に肩を比へ、うき名を南海の波濤にさらしけり、直家義を露程も不知し事とも甚以夥し、且記すに先主君浦湯備前守宗景を隠謀を以弑し、舅中山備中守を属詫にふけり殺害し、作州ゑびの城主後藤を聟に取、毒して殺しけり、かやうの類悪のみにて備作の城主をあまた生害し、其領知を奪取る威猛く富溢れ出、一往栄へ侍れとも、天其不義をは赦し不給なり、去は島津家は不義をにくみ、理に順て行ひし故、久栄可見、まことに無道之報、直家にかきらす松永弾正久秀、斎藤山城守道三、此両人等も直家にひとしく、才高くして利を好み、義を疎にせしか、何も後絶にけり、浮田家之軍法は、家中之人数を四与に分、何事も四人〈戸川肥後守岡越前守長船越中守花房助兵衛尉〉之与頭へふれ渡しけれは、東西のはてに在者まても、一時にあつまるやうにこしらへ置て、一人も与はつれなきやうに侍りぬ、勿論小姓馬廻其外代官細工人中間、或弓鉄炮鑓、或蔵米家具等も四に分、何事ももるゝかたなく沙汰し置つゝ、東に事出来ぬれは東くみをつかはしけり、小事なれは一与、中なる事なれは北之与を加ふ、大事なれは南の与をも加へ、西の与のみ残し自身働く時の用としけり、東方之下知は東方之興頭次第と定め、其下に二人之副将を撰て定をき、若其方角のくみかしら病者にても、又異用有ても有合せぬ時は、二人之副将下知の団を取裁判せしに因て、万事はかの行事、下坂の車、順風の船のことくなん有しなり、

 
○古今各知行割之事
 
一織田備後守殿は武略備りし名士をは、ふかく執心し給ひて聘礼し、城下へ未至以前に、ます知行所を定置、家をもよきに調へ、家具等目録を以渡しつゝ、備州より半年ほとは賂をも沙汰し、友とち替らぬさまに愛し給ひけり、いはゝ父か子を愛するにちかゝりき、備前の浮田直家なとも、此風味を似せて見まく欲すと云とも、殊外義をはうとんして、よくふかゝりオープンアクセス NDLJP:307しと也、今世蜂須賀慈菴、士を愛する事備後殿に近く侍るやうに有しとかや、

一信長公の知行割は古今に異に、和漢に稀なる事さまにて、都合にも及はせ給す、南は河をさかひ、北は大道、東は某、西は某之郷をかきり、可知行之旨被仰出のみにて一行之ヲシテを出し給ふ事も、多はなかりき、天下且治り国風も且しつまりてよりは、有へき法にて有し也、

評曰、開闢爾来他の国にして、合戦を挑み敵を討平けても、やかて自国へ立帰しかは、退治せし国人のうち、当時味方に属しつる者に、代官とし国を預けをきしに因て、其功有名無実にして、果して他之国と又成帰りき、信長公に至て、国を伐随へ給ひては、旧功之臣に被割与則住国あらしめ給ひし也、かくてこそ物改り事変し、其功充足してけれ、此格、信長公より初て、今此義に及へり、

一秀吉公恩禄之地を与へ給ひしは、臣のためにも宜しく、主の為にもあしからぬやうに侍りつゝ、勿論山林河海なとも其里に付て給人進退せし也、しかはあれと信長公御知行わりのやうにはなかりき、損益に暁く侍る君の、恩禄之地は必くたけて、むつかしく有つゝ、信長公得失に御心をなやまし給ひしは、軍法のみ、其外は大かたに沙汰し給ひき、唯大やうに正しき事を、このみ給ひし故にや有けん、其比之士風は何となふアワ〈[#ルビ「アワ」は底本では「アノ」]〉しく清らかに、大とかに有しなり、今世如此之士有共、一向用ゐぬる君なからんか、又あらんや、吁時なるかな

一秀次公尾州を臣下に分与なされしは、よしあしの地をくみ合せしかは、諍論之事多く出来き、傍輩中不和やうに聞しめし、さらは検地被仰付知行割なされかへんとて、検地之者一郡へ三与つゝ出し給ひて、一くみのうち信あつき者、又は算勘に達し損益に暁き者、如此くみ合せられし也、撰人精して誓紙にも及す(不及してイ)出し給ひき、制書如左、

   覚

一隣郷堺之儀如先規然之事 一百姓不迷惑やうに可有之事 一薪之外自賄たるへき事 一給人ために能やうに仕、予かため不可存 一昔は田畠たりと云とも、当分河に成候はゝ高に結ひ入ましき事

右無相違此旨者也

天正十七年八月初旬より、先西三川より検地をうち初、其より尾州智多郡をうち侍るに、前高より減しけれは、いかゝ有へき事にやとて、其手寄に在し検地之者共寄合つゝ、評議しけるに、唯注進致さんにはしかしとて、申上けれは、減増は有のまゝに物せよとのみにて、大とかにさたし給ひき、かくて三州小川苅屋辺、智多郡にて二万石げんし侍りしに依て、たとひ仰出しは有のまゝと有つれとも、一往吉田修理亮かたまて、此あらましを云をくり可然候はんとて、又連状にて申達しゝかは、尤なりと匠作思ひ、ひそかに得御内意侍るに、くとき事な申しそ、たゝ給人痛さるやうにせよと思度計シトケなけに宣ひて、おくへ入せ給ひけり、吉田返簡に云、

御状之趣即得御内意候へは、くとき事を申よと計仰有て、何事をも宣はさりし間、其御心得尤候、頓而被御隙待入存候、恐々謹言、

オープンアクセス NDLJP:308  八月十六日         吉田修理亮

検地衆此状を拝見し、思ひの外なる君にて有よな、愚意を以君の御心を計る事の、はつかしさよと、身を責再三赤面に及ひき、尾州西三川(一本作三州)北伊勢の内にて、八万石減ししか共露悔給す、里々村々を限り、むつかしからぬやうに知行割を沙汰し給ひしに因て、領知之内小成物有と云共、即給人給りき、

評曰、欲心に溺れて天下之法をみたらん君にはなかりき、此意味過たるに因て秀吉公と内心は打とけさりしなり、寔に過たるは不及にはしかしとなん云しは、此人にかきるやうに覚え侍る、

一羽柴大納言利家卿之知行割は、古今めつらしき事なり、世俗撰み(ひイ)取となん口号みけり、たとへは金沢之町の近辺、一在所も明たる所なく皆給人に出したまへり、城下を知行に出し侍りしは近来古往未之、かく士を愛しけるに因て自然に名士多く集て、寡を以多を砕侍りし事、あまたゝひなりしとかや、

評曰、何之面々知行わりを能沙汰せしと世に諷しぬるとも、利家上に立んや下にならはんや、

傍人曰、能地を撰みとりは取て、家之益にもならす、たゝ人同前なる時は、いかゝあらんや、

 
○佐々内蔵助励真忠雪中さら越之事
 

抑佐々内蔵助成政元は、尾陽春日井郡平之城主たり、其後信長公被于越中守護、されは先君の恩懇を不忘して、一とせ信雄卿与秀吉卿鉾楯有しとき、信雄卿御味方に与し、越中にして義兵をおこし、秀吉卿には敵対せり、天正十二年霜月下旬、深雪をもいとはす、さらこえとて嶮難無双之山路に行迷ひぬ、是は何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問しかは、遠州へこえ行、家康へ相看申、来春は、羽柴筑前守を討亡し、信雄卿可御本意謀を尽し、可帰国也、兼て汝等にしらせ度は思ひけめど、於賀州沙汰様にと、ふかく忍ひ出しに依て、左もなかりし也、富山を出てより十日計は前田知まし、ほの聞てより決定之間五日、かくて陣用意五六日はあらんや、上下廿日には帰城すへし、其間は病と号し、トキ之者五六人かよひの小姓十人計には、起請をかゝせ此義を知せつゝ、毎日膳をもすへ常々有やうにこしらへをきしなり、かく思ひ立てよりは、只急かんより外、よろしき事はなきそとて、雪になつまぬわかきはらを百人はかりめしつれ、大山之嶺わきにヨド上り、南をみれは山下に里有とおほしくて、柴折くぶる煙たへ也、いさ煙を心あてに下りみむと、かんじきと云ものに乗ておとしけれは、真忠の心さしを天感し給ふにや、思ひの外やすと麓の里に着にけり民のかまどに立入ん事のうれしさに、あんなひをもせす入しかは、老たる樵夫胆を消し、是は変化の物そかし、今此雪中に人間のわさにはあらしと不審しあへりぬ、小姓之ヲサ建部兵庫頭と云し者、いやとよ、越中より信州深志辺へ、心ざす人にてあるぞ、宿をかしまいらせ道の案内をもせよ、汝等心やすくあらんほと、引出給べしと云しかば、それよりいとねんごろにもてけうしけり、越中外山之城を十一月廿三日に出て、十二月朔日午の刻に上オープンアクセス NDLJP:309諏訪スワに着しなり、是より家康へ飛脚を以申達しければ、駿州府中まで、乗馬五十疋伝馬百疋迎ひとして被仰付、宿等に至るまで一として不如意なる事露もなきやうに、徳川殿さたし給ひしに依て、雪中之労苦を忘れつゝ、十二月四日遠州浜松之城に至り、家康卿へ対面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被御本意候様に相議し、翌朝打立清洲之城に至て御礼申上、これかれ評議を尽し、則令請暇シンカ、又深雪に山路をたどり、越中に立帰りけり、かく義を守り信を厚くせしに依て、秀吉卿とは不和にそ成にける、其後信雄卿与秀吉卿和睦有しかば、佐々かひなき義を守り何事も徒になつて、越中四郡を、三郡羽柴肥前守に給り、一郡佐々に与へられ候し、されは世中物うかりけるに、雪のみ其時を忘れず、音つれしかば、

 何事もかはりはてたる世中にしらでや雪のしろくふるらん

と、ふる事なから思ひ出られにけり、内蔵助両年遊客の身となり、秀吉卿に順ひ有しか、九州退治之時肥後国を恩賜に因て入部す、旧臣嫉み侍る事有て、敵対せし者をは大臣になし、江州横山以来労功を積し者をは、さひしくし給ふ事を、うらみかほにみえしかは、秀吉其あらましを知給ふて、勿論奮臣之恨、其理なきにあらす、去共佐々は、信長公にして左右を争ひし傍輩なり、殊に素性至剛に、多勢をも進退せん者なれは、かく有しそかし、然則恩懇に強てあらさるか、実は其人取也、旧臣之累功をもそれに封してん物を、ゆるやかにもなき事を云つるよと、おほし給ふとみえたり、時にあたつて佐々いかめしく面をおこせし有さま、いとうるはしくそみえにける、

 
○肥後一揆蜂起佐々退治之事
 
佐々肥後国受領之時五ケ条之制書有   定

一五十二人之国人如先規知行可相渡之事 一三年検地有ましき事 一百姓等不痛様に肝要之事 一一揆をこらさるやうに可遠慮之事 一上方普請三年令免許之事

右之条々無相違此旨者依如件

  天正十五年六月六日   秀吉卿御印

           佐々内蔵助殿

肥後国拝領之折紙に、国吉之脇指小袖五十重相添、制書ともにつかはされしかは、内蔵助忝次第身に余てぞ覚えける、肥後は思之外大国なるよし兼て聞及しが、実にさも有へきと佐々思ひつゝ、領知之目録を不知は、受領せし甲斐もなしとて、さしたし〈是は百姓一人ひかへし田畠之高いかぼとゝ、記し付さし出す事也〉を申付取つるに、悉く田畠之員数を記し付さし出しけり、然処に菊地郡桑部か領内に至て、得こそ指出し申まじけれと、言を放ていなみ不承引しを、佐々奇怪に思ひこめ、十日計も過て国人を振廻、幸に日吉大夫有合せしかば、能をみせんとの廻文あり、日限に任せ何も国人来りけれとも、桑部は不参けり、来り侍る人々饗膳給り、能をみせしめて帰しつゝ、頓て菊地郡へ勢をつかはし、桑部を可誅果旨にて、佐々与左衛門尉、久世又助、前野又五郎、オープンアクセス NDLJP:310三田村勝左衛門などを大将として、三千余騎〈天正十五年八月六日〉遣し、若イタツラ者多勢にて成へからざる事なんあらば、注進せよ内蔵助も可発向と約しけり、熊本より行程七里なれは、晩日至彼地之辺まつ隣郷の者に、桑部かやうすいかにやと尋けれは、熊本より、多勢寄来る由、二三日以前其沙汰有しによつて、弓鉄炮之上手五六百人、其外千余人楯籠り、御勢を待得し事なれば、卒爾に寄給はゝ一定はかしき事よもあらしと、さゝやきにけり、然間熊本へ此旨注進しけれは、翌日午後内蔵助も着陣し、桑部か城に当て高き山有しを、久世又助鈴木彦一参て可取旨申付にき、見渡し八十五六町には過ざれとも、巌峙ち谷廻り通路自由ならされば、二三里廻て彼かさ山へ着けれとも、敵先立て究竟之弓鉄炮を多く上せおき、防き戦ひ噇とつるへしかは、味方廿余人うたれにけり、是をも事ともせず、鑓を打入もみ立、終にかさ山を両人取てけり、

 
○山鹿の有動父か為救急難後巻之事
 
内蔵助三千余騎を三手に分、桑部か城に攻入んとせし処に、桑部か嫡子山鹿と云城に在しか、勢をかたらひ三千余にて川向まて押寄、攻口を承可相攻候、何れの方に向候はんと、内蔵助か勢の多少をみせしめんがため、使者二騎越けれとも、佐々不審に思ひ、此方へは無用なり、たゝ川向に陣取可申旨返辞せり、両使立帰るとひとしく川を噇とこし来て、佐々か旗本に向ひつゝ、父に孝行のため、一合戦まいり候はんと呼つたり、佐々小姓馬廻咸(悉)く城を攻させ、手前には小々姓十人計使番之者十騎長巻五十人〈長巻は三尺余有し刀をさやなしに、柄四尺余にして歩たちの士に持せし也、信長公すきたまひて百人御先に立候し、今世にまれなり、〉傍弓二十人〈百人有しか共城攻に遺せし也〉ならてはなし、佐々下知して日、城を攻る勢をよひ帰し戦はんとせは、はかしからじ、長巻五十人弓廿人を左右に立、小々性十人はあとをくろめよ、使番三人は吾と一度突てかゝれよ、一足もひかんと思ふ心、露あらばまくべきそ、唯心を一致にして真一文字につきかゝるへしと、云もはてず、噇と大音声を上、推立かゝりしに、有動も勢を二手に分、下知しけるは、敵に味方を合すれは、大海の一滴九牛か一毛ぞ、引つゝむて討捕や者共と云つゝ、かゝりあひ、東西に開合せ、南北に追つ返つ、こゝをせんどゝぞ翔ひける、佐々はけしやう軍にせばまくへきぞやと、左右前後をもみす、真黒になつて突かゝり、きりかゝりしかは、有動か長臣弓手妻手にてうたれにけり、かゝる処に、有動も矢疵鑓疵あまた所れひしに因て、うしろに在し勢共、過半逃、有動もかなはじとや思ひけん、うしろをみるとひとしく、前後一度に敗軍に成て、川へなたれおちし処を、あますなもらすなと、呼て追うちにウツて行、城を攻し勢もちかきはらはおちあふて、思ふまゝに首取てけり、
 
○有動か智臣内蔵に与せし国人之心を変する事
 
有動か臣に武略且備りし者有しか、寄来りし国人とも方へ密に云やりけるは、各沈思して未萠を鑑み給へ、けふは有動身の上、重ては何れもの上たるへし、其を如何にと云に、去六月下旬桑部事去子細有て、剃髪染衣之姿と成て、一礼申上しよりは、合体におほし哀(憐)み給ふへき事、理之当然ならんか、然るを白髪老衰せし桑部を、きひしく戒しめ、下々をは刀脇指を取、オープンアクセス NDLJP:311幾重も柵を付廻しおき、向後何之仰をも背まじき旨之固をシメたまひて帰しけるは、行々国人其を思ふ図に随へ給はんとの事なるへし、先有動か身上を相果し、久々知来りし一所懸命之地を改易し、内蔵助老臣共に扶助せられん事疑有へからす、然は当地付城之普請を各勤めけるは、自縛之責と見及ぬ、此義於御同心者此表を引払ひ、熊本之城には留主居之勢僅にて可之条、急取掛攻候へ、必城をかつき候へし、左もあらは内蔵助定て後攻せんと急に帰陣有べき条、帰路之よき節所に伏兵し、討留ん事疑有へからず、右之趣同心之かた、多分有之由、五十返(通イ)書状をしたゝめつかはしけれは、何も同心しよな国人共内評し、普請等もおろそかにしつゝ、有夜悉く引払ひしが、小台下総と云し者のみ誓紙に信有て、のかざりけり、

評曰、多は勇士のみを愛し、智士を寵せす、吁心盲之至か、又大志なきからにや、此謀計を以余多之国人心を一時に変し、内蔵助を痛しめ、剰後は切腹有しも、彼智士が三寸之舌を以なり、有動自然に此智士を愛し、心安きやうに老を養ひしかは、今度之急難をおのか任として、謀り出せしとかや、

 
○熊本之城佐々後攻之事
 
山家之付城普請も未成に、国中一揆令蜂起由ひそめき出けり、かゝる処に、熊本より飛脚到来し、早々帰陣し給へ、一揆等数万騎よせ来て、当城を幾重ともなく打囲み候となり、さらは馳帰て後攻の軍をし、悉く可打果とて、二ケ所之付城には、三田村勝左衛門滝三位を残し置、打立急きけるか、直にうては七里、廻れは十里なり、尤近き道に赴きたくは有けめと、伏兵をおかさる事はよもあらし、唯郷司へ廻り、急けやとて、汗馬に鞭(策イ)うち、其日の暮ほとに、至于熊本着陣しみれは、城を稲麻竹葦も物かはに打囲み、大将は高き所を本陣とし備たり、痛しや内蔵助心はあくまて猛けれとも、敵の備はよし、味方之勢は十分一なれは、とやせんかくやあらましと案し累ひしかども、いやとかうせは、還て危事に遇もやせん、只向ひなる茶うす山本陣と見えたり、仕掛て合戦せよと、松原五郎兵衛佐々与左衛門尉に申付しかば、意得候と云まゝに鑓推取手之者引連進み行とも、高き岸を便て備へたれは、城を攻るに同し、いかが有へきと両人使者を以云つかはしけれは、只鉄砲をつるへかけ、其競を以突かゝれと還使に云含しに因て、指図に任せ、弓鉄砲をそろへ射かけうちかけ、洩々声を上噇と突かゝりしかば、敵半町計しさりしを、すきまもなく引付て、鑓を打入、散々に戦ひ、終に大軍を追散し、唱凱歌、かく得大利しかとも、城を囲みたる勢は少しもクツロかず、おのか攻口を固してみえしに依て、内蔵助手廻之勢にて突かゝりけれは、城中より神保安芸守

〈元越中守なり〉突て出、内外より揉合、四方八方へ追散し、首千九百余討捕上鯨波たり、是にもひるます三方はいまた打囲て、鉄砲をうち入、時の声をやみもなくしきりぬ、佐々宿老共に向て数度勝利は得つれとも、取かこみし勢を目前に置しよな、心ながき佐々かなと世の誹はのかるまし、いさ切て出、一合戦せんと思ふはいかゝ有へきと評しけれは、各奉り敵退散、ほど有ましく覚え候、今少しまち合せ御覧候へ、自然聊にても、利を失ひ給ふ事あれは、得大利し軍オープンアクセス NDLJP:312之気脱、度々之勇功徒になる事もやと、おし返し諫め止し処に、聞続二十人之ひとりさし出、某は御さし図宜しく奉存候と云しかは、松原を呼て只今両度之労力悦入也、重て無心之所望に候へとも、一揆原に取かこまれ、目前に置所にては有ましき条突て出候へと也、松原たゝかひつかれ、甲を脱聊息をつかんとせし処に、又突て出よと承、甲を手に持なから立出、手之者七百余人左右に随へ、幾重をもなくうつまいたる敵之真中へつきかゝり、右往左往に突わり、暫く戦ひし処に、敵之大将菊地香右衛門尉と云し者、敵に味方を合すれは百倍せり、真中に取こめて討とれや者共と、大音声を上、下知せしかは、いとゝ勇みあへる一揆原、弥重つてかゝも来つゝ、二方よりは跡を取きれよと呼り引包まんとせしかば、鬼松原と云れし五郎兵衛も、引色にこそ見えたりけれ、敵弥気を得て跡へ廻し、先を遮捫(揉イ)にもんて戦ひけれは、不力這々橋を渡り取入にけり、

或日、聞続之役は万損益を見及聞及次第、告侍る也、我商量の善悪多は此者にあらんとて、物の理に且暁き者、武之備且知つる者をかねて廿人撰ひ、前後にめしつれ侍るに因て、指出切て出候へと云し也、然と云共宿老共今少まち合せ見給へ、敵敗北、程は有ましきと諫つるを不用、云しは越度也、故に小利さへなく剰へ得大利し勢ひも、聊脱侍る意味出来にけり、此勢ひを織田備後守殿はよくつゝしみ養ひ給ひしと也後人評曰、信長公わかゝりし時、かやうのさし出を用ひ給ひ、大利を得られし事多かりし、然則聞続のさし出を堅く制せんもよきにはあらす、指出に古今之異、なふして、用ひに善不善之異有、畢竟信長公之軍理にさとかりし程、佐々はなかりしに可極か、江州青山を越前勢かゝへ有しを、森三左衛門尉か臣武藤五郎右衛門尉と云し者、青山を取て見可申之条御勢聊加へさせられ候やうにと、さし出望しかとも、重ての事にと仰られ延給ひつゝ、殊にうち笑せ御気嫌もよかりし間、武藤か望に応し給ふへき事なるが、不審に思ふ人も多かりしと也、老人曰、若取損し敵に気を付ぬれは、大事之前如何とおほして、重ての事とのへたまふなるへし、

 
○国人之内反忠之事
 
内蔵助も終日戦ひくらし、諸士は猶つかれ聊休息し侍る処に、亥の終りとおぼしき比、ひそかに門を扣く有、誰ぞと間は御ために宜しき事有て来たりし者ぞ、近習の人是へ御出候へ、其事申さんと有しかば、建部兵庫頭出て何事ぞと云し時、近くより給へ一揆大将共、明朝は先虎口を甘げんとの事におはしまし候条、御したひなされ候へ、後を遮申さん、即相違不之通、誓紙を持参いたし候由云けれは、内へ入内藤助対面し、願ふ所之幸とは明朝之指図なり、於某家丹忠不此上と、事外懇に愛し、望之義於之は、重て承り可其儀旨ことしく誓言して帰しけり、かゝりしは、晨鶏声々にしきり、東の方よこ雲引はへつゝ敵味方之陣何となうさはぎ出しかば、聞続廿人を呼て、組頭共西の方へ急き切て出よ、中黒の旗さし物したる勢は、味方に来し者也、蝶し合せ軍せよと、陣々に参て云渡し候へとの事に付て、即参申渡しけれは、皆々早速打出相待し処に北の方を園みし勢共のき初しを、聞続之者かくと告来るといなや、はや貝を吹立噇と時を作り突かゝるべしと佐々下知しければ、如オープンアクセス NDLJP:313案楯裏之謀叛出来、還て敵を討首を捕にけり、一揆原のきかゝりたるは、帰せもどせと云声計にて、我さきにと逃るならひ、誠に度にまよひたる形勢なるを、追付追廻し労せす思ひのまゝに首捕けり、与頭之者共ふるまひは中にも及はす、下々まて分捕高名いといかめしやかに見え、さゝめきあへりぬ、聞つきの者をつかはし成へき程追うちにせよ、一揆原は同じて返し合せ戦かふ事はなき物そと、軍法を破て小々姓まてゆるしけれは、中々悦ひ馳行勢ひ、事外にぞみえにける、かくて明朝頸共をあつめ付立見れは、三千二百八十級なり、佐々翔ひ、とかう申にや及ふ

評曰、佐々亡君之厚恩を不忘、信雄卿に対し忠義尤ふかし、かく有て栄へさりしは不審ヲボツカナシ、疑くは内蔵助大志ありし人なれば、一往信雄へ天下をとりまいらせ、のちはおのが執権ほしゐまゝに、天下を舒巻せんとや思ひつらん、秀吉も此格にて侍りし故に、後絶せしか、周公旦之心緒、百分一ほども、忠義之実あらましかば、久栄にあらん物を、

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。