太閤記/巻一

目次
 
オープンアクセス NDLJP:233
 
太閤記 第巻一
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
秀吉公素生
 
爰に後陽成院の御宇に当て、太政大臣豊臣秀吉公と云人有、自微小起り、古今に秀テヽ寔に離倫絶類の大器たり、其始を考るに、父は尾張国愛智郡中村の住人、筑阿弥とそ申しける、或時母懐中に日輪入給ふと夢み、已にして懐姙し、誕生しけるにより、童名を日吉丸と云しなり、出於襁褓之中より類ひ稀なる稚立にして、尋常の嬰児にはかはり、利根聡明なりしかは、出家させ禅派の末流をも続せ、松林の五葉を昌んにせはやとて、八歳の比同国光明寺の門弟となしけるに、沙門の作法には疎く、世間の取沙汰等には、十を悟れる才智世に勝れ、取分勇道の物語をは甚以すき給ひつゝ、稚心にも、出家は乞丐の徒を離れさる物をと思召、万雅意に振廻給ひ、僧共にいとはれはやの心なりしかは、如案いや此児の気分は、中々沙門とは成すして、還て仏法の碍をなすへしと衆議一決し、父の方へそ送ける、日吉殿父か折檻せん事を恐れ、追出しつる坊主共を打殺し、寺々を可焼払とことしく怒出られしを、彼僧共童部とは思ひなから恐れをなし、うつくしきかたひら扇なとを送り、機嫌を候ひにけり、父本より家貧しけれは、十歳の比より人の奴婢たらむ事を要とし、方々流牢の身と成、遠三尾濃四箇国の間を経廻すと云共、始終春秋を一所にくらす事なかりしは、ひとへに気象人にこへ、度量世に勝れたる人なれは、まことに奴隷の手に恥しめられさるも理なり、何事も寛仁大度にして、物ことと大やうなれは、渥淫の麒麟児の如しと世に諷しけるも亦不宜乎、累年爰かしこ事る身として、冬凍春温を経て二十歳の比、遠江国の住人、松下加兵衛尉と云し人につかへしか、他に異て用所をかなへ侍るに、或時尾州信長公御家中には、いかやうなる具足甲やはやるそと、松下尋しに、秀吉ウケタマハり、尾張国には、桶皮筒には事かはり、胴丸とて、右の脇にて合せ、伸縮自由なるを以、をしなへて是を用ひ侍る由被申けれは、さらは其具足冑かふて参れよとて、黄金五六両渡しつかはしけり、秀吉道すから思ひ給ふやう、雖礼節ケカスト忠義矣、謀路を以振威名国家は勇士の本意とする所也、所詮此金にて、丈夫の身と成へき支度の賄とし、天下の大器とならん人を頼奉り、立身を励み、父母并親族等をも撫育し、彼筒丸をも調へつゝ、松下殿に渡し可申と思ひ、先其あらまし叔父に尋けるに、尤宜しからん、其故を按するに、貧夫はイトナム財と云共、爾は是非貧夫、とかく励武立名と欲する者は、非于附青雲之士焉能為名乎、熟思ふに、信長公は武勇の道、昼夜を分す嗜み、権謀を事とし、信を守、其気象愚にして非愚、大きにつよき振舞のみ有、又そしる方も有けれと、実は賢く寛広なる人なり、其上利をすゝめ、百姓を虐なとする小人をは、事外にくみ給へり、此人必天下の主たるへし、只信長公につかへ、韓信張良か如く用いられ、時めき出なは、且は一門の眉目、且は国家の邪路を正さん為にても有へきか、爾之思所にまかすへしといさめけれは、やかて刀わきさし衣服に至る迄調へ、木下藤吉郎秀吉と名乗て、直訴の用意をそせられける、其比信長公は清洲に御在城ありけるに、永禄元年九月朔日に直訴せられけるは、某父は織田大和守殿に事へ、筑阿弥入道と申候て、愛智郡中村の住人にて御座候、代々武家の姓氏をけかすと云共、父か代に至て家まつしけれは、某微小にして方々使令の身オープンアクセス NDLJP:234と成て不君門、唯願くは御廕を仰奉存旨申上しかは、信長公彼か威儀立フルマひを御覧して、打笑せ給ひつゝ仰けるは、輔車ツラカマチは猿にも似たも、心もかろく見えしか気もよく侍らんとて被召出けり、筑阿弥か子なれはとて、しはしか程は小筑とそ呼給ひける、秀吉新参の事なれは、御前近く事へ奉る事は及ひなきにより、近習の人々に近付其用なとを承り、一両年は左様の体にてくらし被申けるか、ある時同国犬山城の近辺焼動として、信長公未明に打出給ふに、馬に乗いさめる者あり、誰そと宣へは、木下藤五郎秀吉とそ名乗ける、其後程へて、鴨鷹の為暁かた出させ給ひつゝ、誰か有そと尋させられけるに、藤吉郎是に候と答奉る、敬上尽臣職者は必公庭に隙なしと聞しか、近年藤吉郎か勤め、ゲニ左も有そかしと御感の御気さし始て有けり、如此勤め行、漸日を累ね月を経しかは、直に御用を奉る程に成にけり、臣としては君の御心緒を能知て事へん事、為臣上の枢要と思ひ、朝には信長公の御行ひを見奉り、暮には人にも間、後々は伺もし侍るに、好み給へる品々には、第一大器にして勇才兼備り、国柱にも立へき人、第二名士には非共忠義の志あつく、総軍をもやすく推廻すへき力も有て贔負偏頗等なき士、第三武名香しく、万事の裁判廉直に、於軍中衆才有者也、かくのことくなれは、管仲不鮑叔之智、穣苴不晏嬰之薦と見えたり、雑事は得たる事にも驕らす、さすか卑下もせす、只有のまゝなると、物ことはかをやるものとそみえし、

或曰、世人の云所は、信長公は鷹方の上手相撲の達者を、甚すき給ひつるやうに有しかとも、其等は時の興にして、小袖帷子やうの物をのみ賜りき、治国平天下の器と、おはし給ふには、莫太の領地を賜り事し度々に及へり、天下を随へ給ひしより後、兼て好み侍る輩には、二十万石三十万石宛御加増も有し也、

 
○秀吉初て普請奉行の事
 
或時清洲の城郭塀百間計崩れしかは、大名小名等に、急き掛直し可申旨被仰付しか共事行す、甘日許出来もやらて、御用心も悪けれは、秀吉千悔し、此節は高塁深塹すへき時也、東は今川義元武田信玄、北は朝倉義景斎藤山城守、西は佐々木承禎浅井備前守等、調略を事とし武勇を専にして、すきまを伺ひ尾張国を望み思ふ事、恰如戦国七雄、寔に棟梁の士を聘招し、介冑の士を用る折ふし、如此延々に掛る事招禍に似たり、危事かなとつぶやきけるを、何とかしたりけん、信長公きこしめし、猿めは何を云そ、何事そと問給へ共、さすか可申上義にあらされは、猶予し給へる処に、是非に申候へとて、かひなを取てねぢかがめ給ふ、有のまゝに申せは宿老共を讒するに似たり、又申さねは君の仰を背に似たり、アヽ口は禍門なりと世の諺に伝へし事、今おもひあたりたり、唯有のまゝに不申は悪かりなんと思ひ、御城の塀なとを今世間不穏折節、如此延々に掛申事にては有ましくや、深堀高塁全身、敵国を并せ平呑夫下せんと思召大将の、かゝる事や有と、御普請奉行を叱けると申上けれは、尤能そ申たりける、武勇の志有者は此こそ有度物なれ、汝奉行し急拵可申と被仰付、かくて宿老衆へ参て申けるは、御城の塀、下奉行の油断にて遅々に及条、某奉行仕り早速に出来候やうにと、御諚にておはしましけるそ、其旨下奉行共に堅く被申付然候はん由申けれは、唯御辺を頼入条能に計ひ候へオープンアクセス NDLJP:235と各被申けり、さらは割普請に沙汰し申さんとて、下奉行共と相謀り、百間を十組に令割符、面々に充しかは、翌日出来し、腕木ことに松明をも掛置、掃除以下きらよく見えし折節、信長公御鷹野より帰らせ給ふて、御覧しもあへす、御感有て御褒美不浅、其晩に被召出、御扶持方加増有けるこそ、終を初に立る微兆也と後にそ思ひ知れたる、斯て翌年夏の比、清洲の城は水多して水乏し、願は小牧山御城に宜しかりなんと申上奉る、信長も内々左様に思召寄給へ共、諸人の費を痛み給ふて、さたかにも不仰出に、さし出たる事と云,諸人の痛所を不省と云、弊人民兵器也、汝か云所似諫非諫、従下制上謂之賊、罪死に当と有、去共其段をは宥給ふと仰けるこそうたてけれ、寔にかく恥しめられし事を怨み奉る事もなく、主君の為に宜しき事あれは、不時申上ける心の内を、推察し見るに、自然に忠義に深き素性也、其はさし出者よと制し給ふ事、あまたたひの事なりしかば、皆人あれほとつらの皮の厚かりしは、見も聞もせぬなと、聞や聞ぬ計に目引鼻ひき笑ひけり、其をも露心に掛給はて、唯忠勤を抽て、善言を奉らんと思召計にて、異心はなかりけり、曩昔汲黯と云し者、好直諫数犯王之顔色と云伝しか、気象聊是に似たるか
 
○信長公秀吉を戯に大将にし試み給ふ事
 
永禄六年夏の比、講武試兵為に河猟し給ひ、敵味方を分つゝ合戦を挑みあひけるに、藤吉郎を一方の大将に定められしに、不学して道を知、不聞して得法たる生知の人なれは、孫呉之法に合ひ、駆挽自由をえたる事、寔に魚在水、鳥林に遊に似たり、

評曰、信長公と秀吉と、才智を同しさまに世俗論之事粗有か、信長公は秀吉を見立給ひし故を以、明智を眼前に亡し給ふ、是人を知之明瞭然たり、秀吉の外佐久間右衛門尉、梁田出羽守、柴田修理亮、河尻肥前守、滝河左近将監、丹羽五郎左、前田又左衛門尉、佐々内蔵助、毛利河内守、菅屋九右衛門尉、堀久太郎等、かようなる人々を、秀吉取立給ひし高士に比していはんに、誰をか対しみんや噫、

 
○秀吉卿賊を捕へ給ふ事
 
信長公西美濃に至て令発向、在々所々放火せむとて永禄六年秋の末打立給ふ、其夜は巣俟に陣取、軍士数多軍営を宿衛しける内に、いかゝはして見えさりけん、福富平左衛門尉か金龍之面指失しかば、其あたりへは誰渠近付有しなど云敢るに、藤吉殿をさして云ぬ計に有しなり、秀吉其体を見給ひ、以外怒り給へ共、誰を定めとかむべきやうもなし、無左と一命を可拾にも非す、勿論不小節、而羞功名不_於天下将士の道なれは、可恥にあらす、只調議を以彼盗人を捕へ、此寃認をはらさんには不如とて、先質屋方を問見んため、急津島へ馳行、富家共に、かうかいの様子を語りつゝ、質に置ける者あらは告知せよ、左もあらは、黄金十両褒美すべき旨堅く約束し、堀田孫右衛門尉と云富家久しき知人なれは、即此所を宿とし、もしやの幸を相待し処、彼盗人如案かうかいを持来、質に置、銭五貫文かり度由をこそ云候へと告しかは、孫右衛門尉と相謀てなんなく捕へけり、秀吉不斜喜つゝ、昔斉王の蘇秦を殺せし悪賊人を市の側にて捕へしも、かく嬉くは有ましきとて、喜の余りに牛頭天王の宝前に詣て、早速此盗人オープンアクセス NDLJP:236を得し事、某か誠心を憐み、寃情を救んとの御事にて有へし、是偏に天王の加護と存、丹誠を尽し礼拝し、頓て盗人をは津島の雑職に引せ、西美濃御本陣さしてそ来ける、信長公は在々所々不一宇放火し、既に帰陣し給ひけるが、藤吉郎囚を執て涕を流し、道の側に踞りしを見給ひて、此罪人は何者ぞ、何故ふかう歎くぞと御尋有し時、秀吉謹て、されば其事にて御座有ける、先夜巣俟にして福富平左衛門が面さし失候しを、皆人某を疑ひ、名をさゝぬ計に見えしに因て、其翌朝御暇をも不申上、津島の富家に参り、金龍のかうかい質に置物あらは告知せよ、褒美として黄金十両出し候はんと、津島の富家共に堅く約しつゝ、堀田孫右衛門尉所に宿をかり、件の盗人を待申処に、如案彼かうがいを質に置候はんとて参けるを、無難とらへ申候、諸入某を疑申せしつらうちに、陣中を引廻り、其後引張きりに致さんと存、是まて召連参て候なり、唯加様の疑にあひ申事も、偏に身の貧なる故と存候へは、不覚涙もそぞろなりし由申上しかば、信長卿も憫み給ふて、日来の指出をも許しおほさる、夫為近臣は矯君悪善言と聞しが、藤吉郎頃年我為に悪事あれは、身をも不顧、時をも不移云しも、矯非唯忠義を尽し見んと思ふ、己れか生禀なるへしとて、旁以喜ひ思召、彼褒美之黄金并百貫の地を恩賜し給へり、是福の事始として栄行身と成し門出なり、漢朝の王夫人が、日輪懐中に入と夢み、太子を誕生し、一天下の主として武帝と云れしか、我朝の秀吉も追年逐月次第に歴挙り、摂政関白の訓礼を極め、天下を舒巻し、終に位至正一位、豊国大明神と祝れしも、只尋常の宿因にては非しと、後にこそ覚えたれ、
 
○藤吉郎殿薪奉行の事
 
信長公常に民の飢寒を憫み思召故に、不錙殊漫に不財用、唯欲民間給ふ故、炭薪の費一とせの分何ほとにかと、其奉行に問給へは、千石有余也と答へ奉る、いかゝは思召けん、奉行をかへよと村井に被仰付しに、誰彼とさしつ申候へ共用ゐ給す、藤吉郎を召て今日より炭薪の入用、汝沙汰し能に計ひ、一両年裁拠致し可見旨被仰付しかは、翌日より自火を焼多くの囲炉を穿鑿し、一ケ月の分を勘弁し、一年の分を勘へ見るに、右の三分一にも不及ほとなれは、近年千石許は無左としたる費、益もなき事なりとて、秀吉千悔し、翌年正月廿日炭薪の費、往年の勘弁如此の旨、御そは近く寄て申上しかは、御気色も且宜く見えにけり、秀吉申上けるは、他国の守護は、山に付ては炭薪、海辺は其便に順て貢し奉るやうに聞え申候、されは国中の里々大木生茂れり、一村より一本宛貢し候へと被仰付なは、いと安き事になん有へしと申上しかは、兎も角も能に計ひ可申、雖然百姓等不痛やうに、価を遣すへき旨仰けるに因て、其々に賃を遣しけり、其後藤吉郎を召出し、汝を薪奉行なんとにせん事は、寔に駿馬を塩車に苦しめ、大材を小事に用るに等しきと戯れさせ給ひつゝ、異奉行に被仰付けり、

評曰、誰も己の才より引下て職を授給ふ時は、主を恨る心、内に根さし、終に其心外にあらはれ出、身を立るによしなき物也、然るに秀吉は何れの奉行也と云共、昼夜の堺も分す勤められし人也、

 
秀吉旗竿を信長公截折給事
 
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其後秀吉万の奉行を能勤め給ひし比、信長美濃国に発向し給ふ折節、見もなれぬ旗をさゝせたる者あり、誰そと尋させ給ふに、是は木下藤吉郎秀吉か旗なりと申けれは、其は誰ゆるし左も有そかしとて、以外怒りつゝ、既に旗竿を切おらせ給ひけり、雖然怨る気色もなく、前をかけ後をし給ふに、孔元亮か八陣の法を能得、奇正進退自由得其所しかは、常々誹れる人々も、還で、西施か矉に効ふ、信長公濃川西方大形令放火、勇々敷体にて帰陣し給ひけり、加様に年々楚辛労力し、数度の合戦に利を得給ふと云共、功臣に地を割与へ、城を預る其功未有事を、千悔し給ひき、

 
○秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事
 
或時信長卿老臣を呼聚評議し給ふやうは、美濃国に打越度々雖狼藉、敵痛むけしきもなく却て兵気撓み、軍勢疲て成功なし、然間川向ひに要害を構へ勢を入置、謀計を尽し戦功を励し、一国平均に治め、各数年の労力を安んし、忠勤を報せんと思ふは如何あらんと宣へは、何も奉り、一戦功成て敵国服し、民心帰せしむる御計策也と申上けれは、信長公御気色よけにして、誰をか其物主に定め、要害を拵へ給んと進て問給ふに、河を越可居住と云人なかりけり、良有て藤吉郎を召、要害の事如何思ふそと密かに御談合有けるに、憚る所もなく存知寄し事を申上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候、然間篠木柏井科野秦川小幡守山根上かは、并に北方の川筋に付て左様の兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかは、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百余人に及へり、其中にても武名も且々人に知られ番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青由新七同小助、蜂須賀小六〈後号彦右衛門〉同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也、上下五六千に可及候、是を二番になし被遣宜しく奉存候、大将に参候はんと申者於之者、某を被遣候はんやと、秀吉望れしかは、又指出たる事を申者哉と思召しか共、大河を越敵の地に有へきと望みぬる強気の程を感しおほされ、予も亦左様に思ひ寄し也と、御同心まして、藤吉郎艫の廻りし申さま、并に大志の程をほめ給ふて、帰し給ひける、かくて伊勢国に令出張、取出の要害をせさせ給ふへきと、永禄九年七月五日大小の長屋十ケ、槽十塀二千間、柵木五万本、来八月廿日以前に仕立候へと、作事奉行等に被仰出しに、日限より先て出来せしかは、老臣共をめされ、於勢州表取出の要害を拵んと思ふそ、然は国中の人数三分にして、一分は敵をゝさへ、二分は城の普請作事に掛候へし、今度は一きは果敢行やうに長臣何も可其意とて、永禄九年九月朔日、北方の渡より土にをいて、イカダにくみ下さんと、悉く城具を川際へ持はこはせ積置しかは、山の如くに見えにけり、川に近き在々所々、加様の事に意得たる者を呼聚め、筏に組せ給ふ、九月四日小牧山へ勢を聚められ、五日の未明に北川之川上に着陣し、美濃地へ相越先城所に柵を付廻し、ひたと城を拵むとし給ふに、井〈後号岐阜より八千余騎之軍勢を段々にをし出し、城の普請をゝさへんとせしを信長卿見給ひ、敵は多勢なるそ、柵より外へ出へからす、弓鉄炮にて能防き候へ、かやうの時の手柄は、敵をは討す共唯要害の普請を、速に出来しぬるか本意なるそと下知し給ひけれは、敵を防者は防矢を射、普請の人々は夜を日に続て急き、七日八日オープンアクセス NDLJP:238には大形城も出来、塀櫓をもをし立、其夜にぬり立長屋に至るまて残る所もなく、いよやかに見えしかは、敵も興をさましけるとそ聞えし、扨堀普請に悉く懸て急かせ給ひける程に、是も程なく出来しけれは、武具兵粮等入置れ、藤吉郎に番手の士共相添、すへ置給ふ、其制書に云、

  定

今度於美濃地番等無油断相勤め、勇功を励み候者共、浅深を記し付、可注進、随其軽重、或感状或恩賞の地を施し給ふへき事

不寄上下捕雑兵之首者には、為褒美料足百疋、士分之者の首には千疋、如此の通は不注進、早速可分与之事

鑓下又は太刀打の高名は、別に記し付可差越使事

敵城仮令謀略を以攻取勿論、及合戦攻落にをいては、即其城主に可仰付之事

頭者は勇才兼備り、度量寛大にして、可廻諸勢器量者可申附の事

其方第一之嗜は無依怙贔負、士卒に真実なる精を尽し候はゝ、諸勢も忠義実を可相立

正士は不進佞人時を得たりかほなる事あらは、其方裁判不明にして私欲有と可存之事

普請等無油断申付之事

敵東を襲事あらは西を疑可申之事

敵之地にをいて能兵なと恨を含み、其国を去度存候者あらは、聞立呼取才覚可然之事

弓鉄炮武具以下用所あらは、村井所之助方迄可申越之事

当坐褒美のため料足二千貫遣候、猶以用次第可申越之事

火之用心等油断有ましき事

諸勝負堅く可停止之事

敵方之事告知する者には可恩賞

小事の儀に感する事多けれは、武勇の嗜セハシく成物候間、其心持肝要候事

敵付入之テダテ有て働く時は、弱々と有之物の事

右条々相守此旨寛容大成之功者也

評曰秀吉之生禀厳急なるに因て、ゆるやかに成功をつとめよと制し給ふを以、信長公才智の程を知へし、中々勇功のみにて、天下速成の功は成ましきにや、世人以武勇之達者とのみ知れり、噫同気にあらすんは相求めされ、秀吉八歳より流牢の身と成、こゝかしこにをいていとはれ追出されし事可之、過たる才をは諸人多はいとひ捨る物なり、是古今不易の人情也、殊に秀吉は物にこえさし出たる人にて有しかは、世人ふかういなひつゝ吾党へ不入事もけに理とそ覚えたる、然るを信長胸中甚大なるに因て、秀吉国噐の才を心にしめ、麁に入細に入知召、遂月経年に順て用出させ給ふは明君也、又秀吉も信長卿の武勇智謀は乾坤に独歩し、古今にケツ出したるなるへしと、弥頼もしく骨髄に徹し存せられしかは、度々蒙勘当しか共、心にかけ給はす、寤寐俯仰忠を尽し見んと他念もなく心にかけて、公私の行衛を思はれしかは、積忠累功して、信長美濃国を御退治有て、先秀吉に三千貫の領知を賜り、其オープンアクセス NDLJP:239外与力の馬上をもあまた附給ひけり、歴々の大臣も多かめれと、他国を初て取給ふ物初めに、如此行ひ給ひしかは、無私意御裁判なりし故、天下速成の治功有しとかや、

傍人云君臣之評無当矣、予謂秀吉忠義之実、曽依査滓、天甚感而降福祥也、

藤吉殿に被属ける番手之士五百人、都合其勢三千人なり、然共扶特方は五千人の分、米三千俵渡し給りつゝ、信長卿も御勢を打納給ふ、同二十四日従井口敵先騎兵を出し、いかにもよはよはと足軽をかけ引して、藤吉殿勢をおひき出し、付入に付捕むとそ謀ける、稲田大炊助是をみて、敵勢足軽之為体心有仕様そ、柵より外へ一人も御出し有ましきにて候と諫めしかは、秀吉も常とは相替、聊かふきもし給はて、尤也と同し堅く制し給ひけり、其比の人々は、高きも卑も左様の行能意得たる事なれは、柵際を固め鉄炮をさへ打あはす、静り反て有けれは、敵案に相違し、時を挙て引たりけり、彼すつはの功者共評議しけるは、今日の返礼に今夜一てきは夜討をし、敵の機をおらては不叶所也と云けれは、稲田大炊助蜂須賀小六加治田集人正、尤なりと同し、兼て賂を遣し置ける、敵方の在所へ、案内者を請はやとて、かくと云やりけれは、賄を事とし利に耽る者共なれは、即使者と打つれ来りぬ、大炊助彼者共に向て、今夜何の里へ成共夜討し、分取高名せんと思ふは如何有へきと問しかは、案内の者承り井口勢今日の働にクタヒレて見之し也、誠に能折節て社候へ、要害へ近き里々は終夜の用心甚以夥しく候、新山の北なる在々は用心を呼声なく、ゆるやかに有ける条、加様の所能候はんやと也、大炊助いや先近きあたりへ打候へし、其子細は一度も二度も夜討入なは、後は用心厳く致し候はんか、左様の時遠き在々の思ひもよらぬ所へ討てこそ大利も有へけれ、又おくたのもしき事もあれ、近き在所たとひ用心す共何程の事かあるへき、初はしのひ入やすかるへきと云けれは、秀吉も稲田か申所可然と同心してけり、乍去付入にあはさるやうに相図を能シメて立出候へと、藤吉殿被申渡候処に、稲田申けるは、敵若付入の行有共、例の掟に任せ、敵を二三人も立入候程に門を御さし被成よ、殿をは大炊助致し候はんとてぞ打出ける、秀吉も信長公左様の義を堅く制し給ひしに依て斯は云なり、少危き事をし侍らねは、大なるはかは行ぬ物也、我一人の命を嗇んて軍士を立出す事は有ましき程に、丈夫に思ひ夜討をつよくしてくれ候へと被申しかは、心剛に手こわき者三十人、其道に心得たる下々五六人撰み出し、進退の大将は蜂須賀小六加治田隼人佐、諸手の勢百騎計其勢五六百人、此内弓鉄炮半せり、此大将は大炊助也、肴車ひし手楯等、其役人を相定め、案内者三人の内、人質の為にとやおほしけん、一人は止り候へ若敵つよくしたふ事あらは、其方を按内者にして助候はんと、藤吉殿被申しかは、何心もなう止りにけり、夜半の比北に当て在家二三間焼出たり、鉄炮の音もせす、又人声もせさりけれべ、稲田申やう、今夜の仕合宜しく有へきと云し処に、事外物音さはかしく成出しかは、大炊助青山小助松明を以、迎に五六町も出けれは、夜討の者共いきほひ猛にして、首十三并分捕余多し来りたり、秀吉おとり上り悦つゝ、各苦労の至謝するに所なし、寔に死を軽し敵を擒にすへき士共なり、と、感声尤夥し、即信長卿へ働き宜しき者の内五人、首討捕し者十三人進上あり、其状に曰、

謹而奉言上 昨日廿四日従井口数千騎出張了、其行曽不強付入之行無オープンアクセス NDLJP:240之条、自柵外へ一切不出之旨堅制止之処、敵勢失思所之図、何無仕出之事引入之条、唱凱歌弓鉄炮聊送而頓引帰申候、然処番卒之者共、昨夜於敵之地夜討、致手柄候者五人并討捕首十三進上申候、可然様御披露所仰候、恐々謹言、

  九月廿五日       木下藤吉郎秀吉

     福富平左衛門尉殿

     村井所之助殿

両人其旨披露有しかは、事外御機嫌能、藤吉郎物初よしとて、御持鎗御持筒の鉄炮を被下、殊に旗をも御赦しなされけれは、秀吉年来の望を達し、被本懐けり、夜討の者共にも御対面有て、御褒美とし米十石宛被下、五人の者共には御土器を賜り、領知五十貫つゝ宛行給ふ、

  或曰其比の十石は、寛永の比の百石ほとにもこへなんとなり、

稲田大炊助今度のさしつ等宜しき旨、御感有て被御書、御筒服被下けり、

評曰、如此の感を国主は深く可吟味事也、信長公自身の下知達する事は不申、其外万の奉行共の下知まても能達せし事は、不進所をは不進、可逃所をは軽く逃(退イ)しを感し給ひしを以也、小事の感をは強てなし給はす唯大なる裁判并及忠義辞等をは殊に感し給へり、例へは義元合戦の時ヤナ田出羽守能言を申上、得大利給ひしかは、即其場にて、沓懸村三千貫の地恩賜有て、義元の首を捕し毛利新介には、御褒美も出羽守よりはかろかりし也、此合戦は沓懸村の山にて有し故に、右之分なるへし、天正八年暮春の事なるに大坂麦なぎのため、諸勢を被遺事有し時に、為奉行猪子兵助大津伝十郎諸勢を進退せしか、信長公おはしましつゝ、下知し給ひしに増劣も有ましき程に、各申あへりき、

一濃州宇留馬の城主は大沢次郎左衛門尉と云しを、秀吉調略を以御味方となし、其旨十二月十日信長公へ注進有しかば、我勇気の程に怖るゝ所にはあらし、其方謀略の長する所に在とて、御気色なり、漸今年も方々事繁きうちに暮て、世中(間イ)しつかにもあらされ共、秀吉は城王の身となり万歳をそ唱ふ、かくて秀吉陽春の御礼とし、正月五日清洲へ往給はんと思はれけるか、此次に大沢をも同道し、御礼申させ宜しからんと思惟し、其旨次郎左衛門尉へ申遣はされしかば即参けり、初ての御礼なれは其さまゆゝ敷見えたり、然て明日は御暇申上可龍帰との事なるに、其夜秀吉をめし、大沢は聞る剛の者也、若又心を変する事も有へし、所詮生害せさせんと被仰けれは、秀吉奉り、於敵之地剛の者を御味方になし奉るは、大沢初にておはしまし候、然るを無下に害し給はゝ、重て左様の計略を以敵城を御味方に成事有ましく候間、是非々々御容被成候へと、再三申上しか共御許容もなかりしかは、宿に帰て大沢を呼よせ、密かに云けるは、汝之身の上にをゐて聊無心元事侍る条、此上は我を人質に取、急退候へと丸腰に成て被申しを、大沢心は剛なれ共不道者なる故、意得たると云つゝ、常の人質のことくに、脇指をふもとにをしあて、其夜退にけり、

評曰、秀吉刀脇指をぬき出し、軽一命ヲモ自人質に成給ふ上は、心本に脇指をさしあてす共の事なるを、情も知ぬ大沢かなと、後々まても口スサミにそしたりける、敵味方扱なとに、其比オープンアクセス NDLJP:241アマネく人の好みしは、丹羽五郎左衛門尉長秀木下藤吉郎秀吉とのみ云しなり、是信厚か故也、去は史記曰、夫人者止マリ、無信則国亡、家滅コロサル、甞聞斎桓公ソムカ柯之盟、晋文公不原之約、而諸候親信之、是全管仲舅犯之有信故也、秦孝公雖マシ地強フト、而商鞅ソムキ公子卯之旧恩ヲイツハツテ三軍之衆、而身死サシ車裂セラル、此唯強而ノミニシテ信故也、秀吉卿且雖ルト君命、専存シテ使君覇タラ于天下之基也、アヽ君知道之忠臣也、盖如尾生之信、斯即漢儒之中而巳、

 
秀吉を讒しけるを信長公用ゐ不給事
 
将軍義昭公六条に御座有し時、三好か一党打囲み攻しか共、助の勢多して囲を出給ひし後、洛の二条に信長公城墎を構へ進せられ、御暇被仰上御帰陣有へきとの折節、公義よりの御好に、大臣にして武略の達者一人残し置れ候へと有しかは、信長公委細奉其意と宣ひつゝ、誰をか残しをかれんと有し時、各推察し云けるは、大臣にも有、遠慮もふかゝりし人なれは、佐久間右衛門尉信盛にてあらんか、左もなくは柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門尉長秀にて有へきかなと思ひける処に、木下藤吉郎を残し置給へり、奮臣の恨と云、俗姓もおほつかなきと云、旁以案に相違したる御事と云あへる処に、佐久間か云、いや信長公御目きゝ相違の事何れにか在、かやうに大なる事にをひては必あたると覚ふ也、小智小見を以当否を論せされと、をとなしやかに云れしかば、満座言なかりき、夫以天下の政務は非大才治民、非武勇敵と云事なれは、秀吉に被定給ふか、誠武士の面目何事か如之乎、信長公御自筆にて制書を五ケ条記し付、秀吉に被下けるか、何事にや有けん、藤吉殿無限喜ひ給ふけしきなり、翌日はや義昭公の御舘へ参御目度由、上野中務少輔なとに相談被申しかば、今日の御目見いかが有けんと申のべ侍りし体を、秀吉頓て察しつゝ、いや急き御目見致し、直に御用をも奉ハリ早速相叶へ、万はかも行侍るやうにおはしまさば、諸人存する所も宜しく候はんや、かく申も御為なりと重て望み被申しかば、御ゆるしを蒙り御目見致されけり御懇の御意なれは、秀吉忝被存、向後御用の儀御座候にをひては、被召寄仰付候やうにと、御気色を伺ひ奉り、何事も無滞事裁判有しかば、其威勢弥増其聞之夥く、古より士に無賢不肖朝見嫉と云伝ることく、旧臣多く忌嫉て譖愬シンソにさゝへしか共、信長公明君なれは少しも聞入給す、さし出とはかの行事并威を振事とは、兼て思ひまうけ残し置し事なれは、今更可之に非す、運計策武勇治国家則朝暮無閑暇事、汝は不之乎と白眼給へは、讒者及赤面退出せしより後は、飛馬の前に塵を除とそ見えし、斯て仰けるはかやうなる高職をは、同は旧功の輩に附与有度思ふ事、尤不浅也、去共奮臣に無其才智則豈論新旧乎、予は唯才智大勇の者を用て、国家の為にせんと思ふより外他なしと被仰しかば、旧臣の面々嫉心をのつから止つゝ、唯をのか身の上を省み出、弥恥る心弥増、信長公を恨奉る心露なく、心を琢き清忠を尽し見んとのみ思ひけり、依之今世に替り其比の風俗は武の道の真なる意味を専と嗜み、民の利を不侵、されは民は民士は士にして、訴と云事もなく刑獄の役人も信長公にはなかりしなり、大かた人もおろかに信に止て、才覚等を事とせし士オープンアクセス NDLJP:242もなく、唯大やうに在し也、されは不鶏豚牛羊は、心もをのつから淳直にして、孟軻のすき給ひし以義為利に等しう、民も戸さしする事を忘れたり、
 
 
 

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この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。