目次
【 NDLJP:233】
太閤記 第巻一
小瀬甫菴道喜輯録
秀吉公素生
爰に後陽成院の御宇に当て、太政大臣豊臣秀吉公と云人有、自
㆓微小
㆒起り、古今に秀
寔に離倫絶類の大器たり、其始を考るに、父は尾張国愛智郡中村の住人、筑阿弥とそ申しける、或時母懐中に日輪入給ふと夢み、已にして懐姙し、誕生しけるにより、童名を日吉丸と云しなり、出
㆓於襁褓之中
㆒より類ひ稀なる稚立にして、尋常の嬰児にはかはり、利根聡明なりしかは、出家させ禅派の末流をも続せ、松林の五葉を昌んにせはやとて、八歳の比同国光明寺の門弟となしけるに、沙門の作法には疎く、世間の取沙汰等には、十を悟れる才智世に勝れ、取分勇道の物語をは甚以すき給ひつゝ、稚心にも、出家は乞丐の徒を離れさる物をと思召、万雅意に振廻給ひ、僧共にいとはれはやの心なりしかは、如
㆑案いや
〳〵此児の気分は、中々沙門とは成すして、還て仏法の碍をなすへしと衆議一決し、父の方へそ送ける、日吉殿父か折檻せん事を恐れ、追出しつる坊主共を打殺し、寺々を可
㆓焼払
㆒とこと
〳〵しく怒出られしを、彼僧共童部とは思ひなから恐れをなし、うつくしきかたひら扇なとを送り、機嫌を候ひにけり、父本より家貧しけれは、十歳の比より人の奴婢たらむ事を要とし、方々流牢の身と成、遠三尾濃四箇国の間を経廻すと云共、始終春秋を一所にくらす事なかりしは、ひとへに気象人にこへ、度量世に勝れたる人なれは、ま
に奴隷の手に恥しめられさるも理なり、何事も寛仁大度にして、物
と大やうなれは、渥淫の麒麟児の如しと世に諷しけるも亦不宜乎、累年爰かしこ事る身として、冬凍春温を経て二十歳の比、遠江国の住人、松下加兵衛尉と云し人につかへしか、他に異て用所をかなへ侍るに、或時尾州信長公御家中には、いかやうなる具足甲やはやるそと、松下尋しに、秀吉
奉り、尾張国には、桶皮筒には事かはり、胴丸とて、右の脇にて合せ、伸縮自由なるを以、をしなへて是を用ひ侍る由被
㆑申けれは、さらは其具足冑かふて参れよとて、黄金五六両渡しつかはしけり、秀吉道すから思ひ給ふやう、雖
㆘忘
㆓礼節
㆒塵㆗忠義
㆖矣、謀路を以振
㆓威名
㆒持
㆓国家
㆒は勇士の本意とする所也、所詮此金にて、丈夫の身と成へき支度の賄とし、天下の大器とならん人を頼奉り、立身を励み、父母并親族等をも撫育し、彼筒丸をも調へつゝ、松下殿に渡し可
㆑申と思ひ、先其あらまし叔父に尋けるに、尤宜しからん、其故を按するに、貧夫は
狥㆑財と云共、爾は是非
㆓貧夫、とかく励
㆑武立
㆑名と欲する者は、非
㆔于附
㆓青雲之士
㆒焉能為
㆑名乎、熟思ふに、信長公は武勇の道、昼夜を分す嗜み、権謀を事とし、信を守、其気象愚にして非
㆑愚、大きにつよき振舞のみ有、又そしる方も有けれと、実は賢く寛広なる人なり、其上利をすゝめ、百姓を虐なとする小人をは、事
外にくみ給へり、此人必天下の主たるへし、只信長公につかへ、韓信張良か如く用いられ、時めき出なは、且は一門の眉目、且は国家の邪路を正さん為にても有へきか、爾之思所にまかすへしといさめけれは、やかて刀わきさし衣服に至る迄調へ、木下藤吉郎秀吉と名乗て、直訴の用意をそせられける、其比信長公は清洲に御在城ありけるに、永禄元年九月朔日に直訴せられけるは、某父は織田大和守殿に事へ、筑阿弥入道と申候て、愛智郡中村の住人にて御座候、代々武家の姓氏をけかすと云共、父か代に至て家まつしけれは、某微小にして方々使令の身
【 NDLJP:234】と成て不
㆑能
㆑達
㆓君門
㆒、唯願くは御廕を仰奉
㆑存旨申上しかは、信長公彼か威儀立
翔ひを御覧して、打笑せ給ひつゝ仰けるは、
輔車は猿にも似たも、心もかろく見えしか気もよく侍らんとて被
㆓召出
㆒けり、筑阿弥か子なれはとて、しはしか程は小筑とそ呼給ひける、秀吉新参の事なれは、御前近く事へ奉る事は及ひなきにより、近習の人々に近付其用なとを承り、一両年は左様の体にてくらし被
㆑申けるか、ある時同国犬山城の近辺焼動として、信長公未明に打出給ふに、馬に乗いさめる者あり、誰そと宣へは、木下藤五郎秀吉とそ名乗ける、其後程へて、鴨鷹の為暁かた出させ給ひつゝ、誰か有そと尋させられけるに、藤吉郎是に候と答奉る、敬
㆑上尽
㆓臣職
㆒者は必公庭に隙なしと聞しか、近年藤吉郎か勤め、
実左も有そかしと御感の御気さし始て有けり、如
㆑此勤め行、漸日を累ね月を経しかは、直に御用を奉る程に成にけり、臣としては君の御心緒を能知て事へん事、為
㆑臣上の枢要と思ひ、朝には信長公の御行ひを見奉り、暮には人にも間、後々は伺もし侍るに、好み給へる品々には、第一大器にして勇才兼備り、国柱にも立へき人、第二名士には非共忠義の志あつく、総軍をもやすく推廻すへき力も有て贔負偏頗等なき士、第三武名香しく、万事の裁判廉直に、於
㆓軍中
㆒可
㆑励
㆑衆才有者也、かくのことくなれは、管仲不
㆑受
㆓鮑叔之智
㆒、穣苴不
㆑候
㆓晏嬰之薦
㆒と見えたり、雑事は得たる事にも驕らす、さすか卑下もせす、只有のまゝなると、物ことはかをやるものとそみえし、
或曰、世人の云所は、信長公は鷹方の上手相撲の達者を、甚すき給ひつるやうに有しかとも、其等は時の興にして、小袖帷子やうの物をのみ賜りき、治国平天下の器と、おはし給ふには、莫太の領地を賜り事し度々に及へり、天下を随へ給ひしより後、兼て好み侍る輩には、二十万石三十万石宛御加増も有し也、
○秀吉初て普請奉行の事
或時清洲の城郭塀百間計崩れしかは、大名小名等に、急き掛直し可
㆑申旨被
㆓仰付
㆒しか共事行す、甘日許出来もやらて、御用心も悪けれは、秀吉千悔し、此節は高
㆑塁深
㆑塹すへき時也、東は今川義元武田信玄、北は朝倉義景斎藤山城守、西は佐々木承禎浅井備前守等、調略を事とし武勇を専にして、すきまを伺ひ尾張国を望み思ふ事、恰如
㆓戦国七雄
㆒、寔に棟梁の士を聘招し、介冑の士を用る折ふし、如
㆑此延々に掛る事招
㆑禍に似たり、危事かなとつぶやきけるを、何とかしたりけん、信長公きこしめし、猿めは何を云そ、何事そと問給へ共、さすか可
㆓申上
㆒義にあらされは、猶予し給へる処に、是非に申候へとて、かひなを取てねぢかがめ給ふ、有のまゝに申せは宿老共を讒するに似たり、又申さねは君の仰を背に似たり、
呼口は禍門なりと世の諺に伝へし事、今おもひあたりたり、唯有のまゝに不
㆑申は悪かりなんと思ひ、御城の塀なとを今世間不
㆑穏折節、如
㆑此延々に掛申事にては有ましくや、深
㆑堀高
㆑塁全
㆑身、敵国を并せ平
㆓呑夫下
㆒せんと思召大将の、かゝる事や有と、御普請奉行を叱けると申上けれは、尤能そ申たりける、武勇の志有者は此こそ有度物なれ、汝奉行し急拵可
㆑申と被
㆓仰付
㆒、かくて宿老衆へ参て申けるは、御城の塀、下奉行の油断にて遅々に及条、某奉行仕り早速に出来候やうにと、御諚にておはしましけるそ、其旨下奉行共に堅く被
㆓申付
㆒可
㆑然候はん由申けれは、唯御辺を頼入条能に計ひ候へ
【 NDLJP:235】と各被
㆑申けり、さらは割普請に沙汰し申さんとて、下奉行共と相謀り、百間を十組に令
㆓割符
㆒、面々に充しかは、翌日出来し、腕木ことに松明をも掛置、掃除以下きらよく見えし折節、信長公御鷹野より帰らせ給ふて、御覧しもあへす、御感有て御褒美不
㆑浅、其晩に被
㆓召出
㆒、御扶持方加増有けるこそ、終を初に立る微兆也と後にそ思ひ知れたる、斯て翌年夏の比、清洲の城は水多して水乏し、願は小牧山御城に宜しかりなんと申上奉る、信長も内々左様に思召寄給へ共、諸人の費を痛み給ふて、さたかにも不
㆑被
㆓仰出
㆒に、さし出たる事と云,諸人の痛所を不
㆑省と云、弊
㆓人民
㆒弱
㆓兵器
㆒也、汝か云所似
㆑諫非
㆑諫、従
㆑下制
㆑上謂
㆓之賊
㆒、罪死に当と有、去共其段をは宥給ふと仰けるこそうたてけれ、寔にかく恥しめられし事を怨み奉る事もなく、主君の為に宜しき事あれは、不
㆑移
㆑時申上ける心の内を、推察し見るに、自然に忠義に深き素性也、其はさし出者よと制し給ふ事、あまたたひの事なりしかば、皆人あれほとつらの皮の厚かりしは、見も聞もせぬなと、聞や聞ぬ計に目引鼻ひき笑ひけり、其をも露心に掛給はて、唯忠勤を抽て、善言を奉らんと思召計にて、異心はなかりけり、曩昔汲黯と云し者、好
㆓直諫
㆒数犯
㆓王之顔色
㆒と云伝しか、気象聊是に似たるか
○信長公秀吉を戯に大将にし試み給ふ事
永禄六年夏の比、講
㆑武試
㆑兵為に河猟し給ひ、敵味方を分つゝ合戦を挑みあひけるに、藤吉郎を一方の大将に定められしに、不
㆑学して道を知、不
㆑聞して得法たる生知の人なれは、孫呉之法に合ひ、駆挽自由をえたる事、寔に魚在
㆑水、鳥林に遊に似たり、
評曰、信長公と秀吉と、才智を同しさまに世俗論㆑之事粗有か、信長公は秀吉を見立給ひし故を以、明智を眼前に亡し給ふ、是人を知之明瞭然たり、秀吉の外佐久間右衛門尉、梁田出羽守、柴田修理亮、河尻肥前守、滝河左近将監、丹羽五郎左、前田又左衛門尉、佐々内蔵助、毛利河内守、菅屋九右衛門尉、堀久太郎等、かようなる人々を、秀吉取立給ひし高士に比していはんに、誰をか対しみんや噫、
○秀吉卿賊を捕へ給ふ事
信長公西美濃に至て令
㆓発向
㆒、在々所々放火せむとて永禄六年秋の末打立給ふ、其夜は巣俟に陣取、軍士数多軍営を宿衛しける内に、いかゝはして見えさりけん、福富平左衛門尉か金龍之面指失しかば、其あたりへは誰渠近付有しなど云敢るに、藤吉殿をさして云ぬ計に有しなり、秀吉其体を見給ひ、以外怒り給へ共、誰を定めとかむべきやうもなし、無左と一命を可
㆑拾にも非す、勿論不
㆑恥
㆓小節
㆒、而羞
㆓功名不
_㆑顕
㆓於天下
㆒将士の道なれは、可
㆑恥にあらす、只調議を以彼盗人を捕へ、此寃認をはらさんには不
㆑如とて、先
質屋方を問見んため、急
津島へ馳行、富家共に、かうかいの様子を語りつゝ、質に置ける者あらは告知せよ、左もあらは、黄金十両褒美すべき旨堅く約束し、堀田孫右衛門尉と云富家久しき知人なれは、即此所を宿とし、もしやの幸を相待し処、彼盗人如
㆑案かうかいを持来、質に置、銭五貫文かり度由をこそ云候へと告しかは、孫右衛門尉と相謀てなんなく捕へけり、秀吉不
㆑斜喜つゝ、昔斉王の蘇秦を殺せし悪賊人を市の側にて捕へしも、かく嬉くは有ましきとて、喜の余りに牛頭天王の宝前に詣て、早速此盗人
【 NDLJP:236】を得し事、某か誠心を憐み、寃情を救んとの御事にて有へし、是偏に天王の加護と存、丹誠を尽し礼拝し、頓て盗人をは津島の雑職に引せ、西美濃御本陣さしてそ来ける、信長公は在々所々不
㆑残
㆓一宇
㆒放火し、既に帰陣し給ひけるが、藤吉郎囚を執て涕を流し、道の側に踞りしを見給ひて、此罪人は何者ぞ、何故ふかう歎くぞと御尋有し時、秀吉謹て、されば其事にて御座有ける、先夜巣
俟にして福富平左衛門が面さし失候しを、皆人某を疑ひ、名をさゝぬ計に見えしに因て、其翌朝御暇をも不
㆓申上
㆒、津島の富家に参り、金龍のかうかい質に置物あらは告知せよ、褒美として黄金十両出し候はんと、津島の富家共に堅く約しつゝ、堀田孫右衛門尉所に宿をかり、件の盗人を待申処に、如
㆑案彼かうがいを質に置候はんとて参けるを、無
㆑難とらへ申候、諸入某を疑申せしつらうちに、陣中を引廻り、其後引張きりに致さんと存、是まて召連参て候なり、唯加様の疑にあひ申事も、偏に身の貧なる故と存候へは、不覚涙もそぞろなりし由申上しかば、信長卿も憫み給ふて、日来の指出をも許しおほさる、夫為
㆓近臣
㆒は矯
㆓君悪
㆒進
㆓善言
㆒と聞しが、藤吉郎頃年我為に悪事あれは、身をも不
㆑顧、時をも不
㆑移云しも、矯
㆑非唯忠義を尽し見んと思ふ、己れか生禀なるへしとて、旁以喜ひ思召、彼褒美之黄金并百貫の地を恩賜し給へり、是福の事始として栄行身と成し門出なり、漢朝の王夫人が、日輪懐中に入と夢み、太子を誕生し、一天下の主として武帝と云れしか、我朝の秀吉も追
㆑年逐
㆑月次第に歴挙り、摂政関白の訓礼を極め、天下を舒巻し、終に位至
㆓正一位
㆒、豊国大明神と祝れしも、只尋常の宿因にては非しと、後にこそ覚えたれ、
○藤吉郎殿薪奉行の事
信長公常に民の飢寒を憫み思召故に、不
㆑尽
㆓錙殊
㆒漫に不
㆑費
㆓財用
㆒、唯欲
㆑賑
㆓民間
㆒給ふ故、炭薪の費一とせの分何ほとにかと、其奉行に問給へは、千石有余也と答へ奉る、いかゝは思召けん、奉行をかへよと村井に被
㆓仰付
㆒しに、誰彼とさしつ申候へ共用ゐ給す、藤吉郎を召て今日より炭薪の入用、汝沙汰し能に計ひ、一両年裁拠致し可
㆑見旨被
㆓仰付
㆒しかは、翌日より自
火を焼多くの囲炉を穿鑿し、一ケ月の分を勘弁し、一年の分を勘へ見るに、右の三分一にも不
㆑及ほとなれは、近年千石許は無左としたる費、益もなき事なりとて、秀吉千悔し、翌年正月廿日炭薪の費、往年の勘弁如
㆑此の旨、御そは近く寄て申上しかは、御気色も且宜く見えにけり、秀吉申上けるは、他国の守護は、山に付ては炭薪、海辺は其便に順て貢し奉るやうに聞え申候、されは国中の里々大木生茂れり、一村より一本宛貢し候へと被
㆓仰付
㆒なは、いと安き事になん有へしと申上しかは、兎も角も能に計ひ可
㆑申、雖
㆑然百姓等不
㆑痛やうに、価を遣すへき旨仰けるに因て、其々に賃を遣しけり、其後藤吉郎を召出し、汝を薪奉行なんとにせん事は、寔に駿馬を塩車に苦しめ、大材を小事に用るに等しきと戯れさせ給ひつゝ、異奉行に被
㆓仰付
㆒けり、
評曰、誰も己の才より引下て職を授給ふ時は、主を恨る心、内に根さし、終に其心外にあらはれ出、身を立るによしなき物也、然るに秀吉は何れの奉行也と云共、昼夜の堺も分す勤められし人也、
秀吉旗竿を信長公截折給事
【 NDLJP:237】
其後秀吉万の奉行を能勤め給ひし比、信長美濃国に発向し給ふ折節、見もなれぬ旗をさゝせたる者あり、誰そと尋させ給ふに、是は木下藤吉郎秀吉か旗なりと申けれは、其は誰ゆるし左も有そかしとて、以外怒りつゝ、既に旗竿を切おらせ給ひけり、雖㆑然怨る気色もなく、前をかけ後をし給ふに、孔元亮か八陣の法を能得、奇正進退自由得其所しかは、常々誹れる人々も、還で、西施か矉に効ふ、信長公濃川西方大形令㆓放火㆒、勇々敷体にて帰陣し給ひけり、加様に年々楚辛労力し、数度の合戦に利を得給ふと云共、功臣に地を割与へ、城を預る其功未㆑有事を、千悔し給ひき、
○秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事
或時信長卿老臣を呼聚評議し給ふやうは、美濃国に打越度々雖
㆑尽
㆓狼藉
㆒、敵痛むけしきもなく却て兵気撓み、軍勢疲て成功なし、然間川向ひに要害を構へ勢を入置、謀計を尽し戦功を励し、一国平均に治め、各数年の労力を安んし、忠勤を報せんと思ふは如何あらんと宣へは、何も奉り、一戦功成て敵国服し、民心帰せしむる御計策也と申上けれは、信長公御気色よけにして、誰をか其物主に定め、要害を拵へ給んと進て問給ふに、河を越可
㆓居住
㆒と云人なかりけり、良有て藤吉郎を召、要害の事如何思ふそと密かに御談合有けるに、憚る所もなく存知寄し事を申上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候、然間篠木柏井科野秦川小幡守山根上かは、并に北方の川筋に付て左様の兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかは、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百余人に及へり、其中にても武名も且々人に知られ番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青由新七同小助、蜂須賀小六
〈後号彦右衛門〉同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也、上下五六千に可
㆑及候、是を二番になし被
㆑遣宜しく奉
㆑存候、大将に参候はんと申者於
㆑無
㆑之者、某を被
㆑遣候はんやと、秀吉望れしかは、又指出たる事を申者哉と思召しか共、大河を越敵の地に有へきと望みぬる強気の程を感しおほされ、予も亦左様に思ひ寄し也と、御同心まし
〳〵て、藤吉郎艫の廻りし申さま、并に大志の程をほめ給ふて、帰し給ひける、かくて伊勢国に令
㆓出張
㆒、取出の要害をせさせ給ふへきと、永禄九年七月五日大小の長屋十ケ、槽十塀二千間、柵木五万本、来八月廿日以前に仕立候へと、作事奉行等に被
㆓仰出
㆒しに、日限より先て出来せしかは、老臣共をめされ、於
㆓勢州表
㆒取出の要害を拵んと思ふそ、然は国中の人数三分にして、一分は敵をゝさへ、二分は城の普請作事に掛候へし、今度は一きは果敢行やうに長臣何も可
㆑成
㆓其意
㆒とて、永禄九年九月朔日、北方の渡より土にをいて、
筏にくみ下さんと、悉く城具を川際へ持はこはせ積置しかは、山の如くに見えにけり、川に近き在々所々、加様の事に意得たる者を呼聚め、筏に組せ給ふ、九月四日小牧山へ勢を聚められ、五日の未明に北川之川上に着陣し、美濃地へ相越先城所に柵を付廻し、ひた
〳〵と城を拵むとし給ふに、井
口
〈後号㆓岐阜㆒〉より八千余騎之軍勢を段々にをし出し、城の普請をゝさへんとせしを信長卿見給ひ、敵は多勢なるそ、柵より外へ出へからす、弓鉄炮にて能防き候へ、かやうの時の手柄は、敵をは討す共唯要害の普請を、速に出来しぬるか本意なるそと下知し給ひけれは、敵を防者は防矢を射、普請の人々は夜を日に続て急き、七日八日
【 NDLJP:238】には大形城も出来、塀櫓をもをし立、其夜にぬり立長屋に至るまて残る所もなく、いよやかに見えしかは、敵も興をさましけるとそ聞えし、扨堀普請に悉く懸て急かせ給ひける程に、是も程なく出来しけれは、武具兵粮等入置れ、藤吉郎に番手の士共相添、すへ置給ふ、其制書に云、
定
一今度於㆓美濃地㆒番等無㆓油断㆒相勤め、勇功を励み候者共、浅深を記し付、可㆑令㆓注進㆒、随㆓其軽重㆒、或感状或恩賞の地を施し給ふへき事
一不寄㆓上下㆒討㆓捕雑兵之首㆒者には、為㆓褒美㆒料足百疋、士分之者の首には千疋、如㆑此の通は不㆑及㆓注進㆒、早速可㆓分与㆒之事
一鑓下又は太刀打の高名は、別に記し付可㆓差越㆒使事
一敵城仮令謀略を以攻取勿論、及㆓合戦㆒攻落にをいては、即其城主に可㆑被㆓仰付㆒之事
一�頭者は勇才兼備り、度量寛大にして、可㆑引㆓廻諸勢㆒器量者可㆓申附㆒の事
一其方第一之嗜は無㆓依怙贔負㆒、士卒に真実なる精を尽し候はゝ、諸勢も忠義実を可㆓相立㆒事
一正士は不㆑進佞人時を得たりかほなる事あらは、其方裁判不明にして私欲有と可㆑存之事
一普請等無㆓油断㆒可㆓申付㆒之事
一敵東を襲事あらは西を疑可㆑申之事
一敵之地にをいて能兵なと恨を含み、其国を去度存候者あらは、聞立呼取才覚可㆑然之事
一弓鉄炮武具以下用所あらは、村井所之助方迄可㆓申越㆒之事
一当坐〳〵褒美のため料足二千貫遣候、猶以用次第可㆓申越㆒之事
一火之用心等油断有ましき事
一諸勝負堅く可㆑令㆓停止㆒之事
一敵方之事告知する者には可㆑重㆓恩賞㆒事
一小事の儀に感する事多けれは、武勇の嗜迫く成物候間、其心持肝要候事
一敵付入之行有て働く時は、弱々と有㆑之物の事
右条々相㆓守此旨㆒可㆑勤㆓寛容大成之功㆒者也
評曰秀吉之生禀厳急なるに因て、ゆるやかに成功をつとめよと制し給ふを以、信長公才智の程を知へし、中々勇功のみにて、天下速成の功は成ましきにや、世人以武勇之達者とのみ知れり、噫同気にあらすんは相求めされ、秀吉八歳より流牢の身と成、こゝかしこにをいていとはれ追出されし事可㆑思㆑之、過たる才をは諸人多はいとひ捨る物なり、是古今不易の人情也、殊に秀吉は物にこえさし出たる人にて有しかは、世人ふかういなひつゝ吾党へ不㆑入事もけに理とそ覚えたる、然るを信長胸中甚大なるに因て、秀吉国噐の才を心にしめ、麁に入細に入知召、遂㆑月経㆑年に順て用出させ給ふは明君也、又秀吉も信長卿の武勇智謀は乾坤に独歩し、古今に傑出したるなるへしと、弥頼もしく骨髄に徹し存せられしかは、度々蒙㆓勘当㆒しか共、心にかけ給はす、寤寐俯仰忠を尽し見んと他念もなく心にかけて、公私の行衛を思はれしかは、積忠累功して、信長美濃国を御退治有て、先秀吉に三千貫の領知を賜り、其【 NDLJP:239】外与力の馬上をもあまた附給ひけり、歴々の大臣も多かめれと、他国を初て取給ふ物初めに、如㆑此行ひ給ひしかは、無㆓私意㆒御裁判なりし故、天下速成の治功有しとかや、
傍人云君臣之評無㆑当矣、予謂秀吉忠義之実、曽依㆑無㆓査滓㆒、天甚感而降㆓福祥㆒也、
藤吉殿に被㆑属ける番手之士五百人、都合其勢三千人なり、然共扶特方は五千人の分、米三千俵渡し給りつゝ、信長卿も御勢を打納給ふ、同二十四日従㆓井口㆒敵先騎兵を出し、いかにもよはよはと足軽をかけ引して、藤吉殿勢をおひき出し、付入に付捕むとそ謀ける、稲田大炊助是をみて、敵勢足軽之為㆑体心有仕様そ、柵より外へ一人も御出し有ましきにて候と諫めしかは、秀吉も常とは相替、聊かふきもし給はて、尤也と同し堅く制し給ひけり、其比の人々は、高きも卑も左様の行能意得たる事なれは、柵際を固め鉄炮をさへ打あはす、静り反て有けれは、敵案に相違し、時を挙て引たりけり、彼すつはの功者共評議しけるは、今日の返礼に今夜一てきは夜討をし、敵の機をおらては不㆑叶所也と云けれは、稲田大炊助蜂須賀小六加治田集人正、尤なりと同し、兼て賂を遣し置ける、敵方の在所へ、案内者を請はやとて、かくと云やりけれは、賄を事とし利に耽る者共なれは、即使者と打つれ来りぬ、大炊助彼者共に向て、今夜何の里へ成共夜討し、分取高名せんと思ふは如何有へきと問しかは、案内の者承り井口勢今日の働に困て見之し也、誠に能折節て社候へ、要害へ近き里々は終夜の用心甚以夥しく候、新山の北なる在々は用心を呼声なく、ゆるやかに有ける条、加様の所能候はんやと也、大炊助いや〳〵先近きあたりへ打候へし、其子細は一度も二度も夜討入なは、後は用心厳く致し候はんか、左様の時遠き在々の思ひもよらぬ所へ討てこそ大利も有へけれ、又おくたのもしき事もあれ、近き在所たとひ用心す共何程の事かあるへき、初はしのひ入やすかるへきと云けれは、秀吉も稲田か申所可㆑然と同心してけり、乍去付入にあはさるやうに相図を能卜て立出候へと、藤吉殿被㆓申渡㆒候処に、稲田申けるは、敵若付入の行有共、例の掟に任せ、敵を二三人も立入候程に門を御さし被㆑成よ、殿をは大炊助致し候はんとてぞ打出ける、秀吉も信長公左様の義を堅く制し給ひしに依て斯は云なり、少危き事をし侍らねは、大なるはかは行ぬ物也、我一人の命を嗇んて軍士を立出す事は有ましき程に、丈夫に思ひ夜討をつよくしてくれ候へと被㆑申しかは、心剛に手こわき者三十人、其道に心得たる下々五六人撰み出し、進退の大将は蜂須賀小六加治田隼人佐、諸手の勢百騎計其勢五六百人、此内弓鉄炮半せり、此大将は大炊助也、肴車ひし手楯等、其役人を相定め、案内者三人の内、人質の為にとやおほしけん、一人は止り候へ若敵つよくしたふ事あらは、其方を按内者にして助候はんと、藤吉殿被㆑申しかは、何心もなう止りにけり、夜半の比北に当て在家二三間焼出たり、鉄炮の音もせす、又人声もせさりけれべ、稲田申やう、今夜の仕合宜しく有へきと云し処に、事外物音さはかしく成出しかは、大炊助青山小助松明を以、迎に五六町も出けれは、夜討の者共いきほひ猛にして、首十三并分捕余多し来りたり、秀吉おとり上り悦つゝ、各苦労の至謝するに所なし、寔に死を軽し敵を擒にすへき士共なり、と、感声尤夥し、即信長卿へ働き宜しき者の内五人、首討捕し者十三人進上あり、其状に曰、
謹而奉㆓言上㆒ 昨日廿四日従㆓井口㆒卒㆓数千騎㆒令㆓出張㆒了、其行曽不㆑強付入之行無㆑所㆑疑【 NDLJP:240】之条、自㆑柵外へ一切不㆑可㆑出之旨堅制止之処、敵勢失㆓思所之図㆒、何無㆓仕出之事㆒引入之条、唱㆓凱歌㆒以㆓弓鉄炮㆒聊送而頓引帰申候、然処番卒之者共、昨夜於㆓敵之地㆒入㆓夜討㆒、致㆓手柄㆒候者五人并討捕首十三進上申候、可㆑然様御披露所㆑仰候、恐々謹言、
九月廿五日 木下藤吉郎秀吉
福富平左衛門尉殿
村井所之助殿
両人其旨披露有しかは、事外御機嫌能、藤吉郎物初よしとて、御持鎗御持筒の鉄炮を被㆑下、殊に旗をも御赦しなされけれは、秀吉年来の望を達し、被㆑遂㆓本懐㆒けり、夜討の者共にも御対面有て、御褒美とし米十石宛被㆑下、五人の者共には御土器を賜り、領知五十貫つゝ宛行給ふ、
或曰其比の十石は、寛永の比の百石ほとにもこへなんとなり、
稲田大炊助今度のさしつ等宜しき旨、御感有て被㆑成㆓御書㆒、御筒服被㆑下けり、
評曰、如此の感を国主は深く可㆑有㆓吟味㆒事也、信長公自身の下知達する事は不㆑及㆑申、其外万の奉行共の下知まても能達せし事は、不㆑可㆑進所をは不㆑進、可㆑逃所をは軽く逃(退イ)しを感し給ひしを以也、小事の感をは強てなし給はす唯大なる裁判并及㆓忠義㆒辞等をは殊に感し給へり、例へは義元合戦の時簗田出羽守能言を申上、得㆓大利㆒給ひしかは、即其場にて、沓懸村三千貫の地恩賜有て、義元の首を捕し毛利新介には、御褒美も出羽守よりはかろかりし也、此合戦は沓懸村の山にて有し故に、右之分なるへし、天正八年暮春の事なるに大坂麦なぎのため、諸勢を被㆑遺事有し時に、為㆓奉行㆒猪子兵助大津伝十郎諸勢を進退せしか、信長公おはしましつゝ、下知し給ひしに増劣も有ましき程に、各申あへりき、
一濃州宇留馬の城主は大沢次郎左衛門尉と云しを、秀吉調略を以御味方となし、其旨十二月十日信長公へ注進有しかば、我勇気の程に怖るゝ所にはあらし、其方謀略の長する所に在とて、御気色なり、漸今年も方々事繁きうちに暮て、世中(間イ)しつかにもあらされ共、秀吉は城王の身となり万歳をそ唱ふ、かくて秀吉陽春の御礼とし、正月五日清洲へ往給はんと思はれけるか、此次に大沢をも同道し、御礼申させ宜しからんと思惟し、其旨次郎左衛門尉へ申遣はされしかば即参けり、初ての御礼なれは其さまゆゝ敷見えたり、然て明日は御暇申上可㆓龍帰㆒との事なるに、其夜秀吉をめし、大沢は聞る剛の者也、若又心を変する事も有へし、所詮生害せさせんと被㆑仰けれは、秀吉奉り、於㆓敵之地㆒剛の者を御味方になし奉るは、大沢初にておはしまし候、然るを無下に害し給はゝ、重て左様の計略を以敵城を御味方に成事有ましく候間、是非々々御容被㆑成候へと、再三申上しか共御許容もなかりしかは、宿に帰て大沢を呼よせ、密かに云けるは、汝之身の上にをゐて聊無㆓心元㆒事侍る条、此上は我を人質に取、急退候へと丸腰に成て被㆑申しを、大沢心は剛なれ共不㆑知㆑道者なる故、意得たると云つゝ、常の人質のことくに、脇指をふもとにをしあて、其夜退にけり、
評曰、秀吉刀脇指をぬき出し、軽㆓一命㆒自人質に成給ふ上は、心本に脇指をさしあてす共の事なるを、情も知ぬ大沢かなと、後々まても口号にそしたりける、敵味方扱なとに、其比【 NDLJP:241】周く人の好みしは、丹羽五郎左衛門尉長秀木下藤吉郎秀吉とのみ云しなり、是信厚か故也、去は史記曰、夫人者止㆑信、無㆑信則国亡、家滅身死、甞聞斎桓公不㆑倍㆓柯之盟㆒、晋文公不㆑負㆓原之約㆒、而諸候親信㆑之、是全管仲舅犯之有㆑信故也、秦孝公雖㆘富㆑国并㆑地強上㆑兵、而商鞅倍㆓公子卯之旧恩㆒、詐㆓三軍之衆㆒、而身死車裂、此唯強而無㆑信故也、秀吉卿且雖㆑悖㆓君命㆒、専存㆑信欲㆑使㆔㆑君覇㆓于天下㆒之基也、嗟可㆑謂㆓敬㆑君知㆑道之忠臣㆒也、盖如㆓尾生之信㆒、斯即漢儒之中而巳、
秀吉を讒しけるを信長公用ゐ不㆑給事
将軍義昭公六条に御座有し時、三好か一党打囲み攻しか共、助の勢多して囲を出給ひし後、洛の二条に信長公城墎を構へ進せられ、御暇被
㆓仰上
㆒御帰陣有へきとの折節、公義よりの御好に、大臣にして武略の達者一人残し置れ候へと有しかは、信長公委細奉
㆑得
㆓其意
㆒と宣ひつゝ、誰をか残しをかれんと有し時、各推察し云けるは、大臣にも有、遠慮もふかゝりし人なれは、佐久間右衛門尉信盛にてあらんか、左もなくは柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門尉長秀にて有へきかなと思ひける処に、木下藤吉郎を残し置給へり、奮臣の恨と云、俗姓もおほつかなきと云、旁以案に相違したる御事と云あへる処に、佐久間か云、いや信長公御目きゝ相違の事何れにか在、かやうに大なる事にをひては必あたると覚ふ也、小智小見を以当否を論せされと、をとなしやかに云れしかば、満座言なかりき、夫以天下の政務は非
㆓大才
㆒不
㆑能
㆑治民、非
㆓武勇
㆒不
㆑能
㆑擒
㆑敵と云事なれは、秀吉に被
㆑定給ふか、誠武士の面目何事か如
㆑之乎、信長公御自筆にて制書を五ケ条記し付、秀吉に被
㆑下けるか、何事にや有けん、藤吉殿無
㆑限喜ひ給ふけしきなり、翌日はや義昭公の御舘へ参
掛
㆓御目
㆒度由、上野中務少輔なとに相談被
㆑申しかば、今日の御目見いかが有けんと申のべ侍りし体を、秀吉頓て察しつゝ、いや
〳〵急き御目見致し、直に御用をも奉
早速相叶へ、万はかも行侍るやうにおはしまさば、諸人存する所も宜しく候はんや、かく申も御為なりと重て望み被
㆑申しかば、御ゆるしを蒙り御目見致されけり御懇の御意なれは、秀吉忝被
㆑存、向後御用の儀御座候にをひては、被
㆓召寄
㆒被
㆓仰付
㆒候やうにと、御気色を伺ひ奉り、何事も無
㆓滞事
㆒裁判有しかば、其威勢弥増其聞之夥く、古より士に無
㆓賢不肖
㆒入
㆑朝見
㆑嫉と云伝ることく、旧臣多く忌嫉て
譖愬にさゝへしか共、信長公明君なれは少しも聞入給す、さし出とはかの行事并威を振事とは、兼て思ひまうけ残し置し事なれは、今更可
㆑改
㆑之に非す、運
㆓計策
㆒励
㆓武勇
㆒欲
㆑平
㆓治国家
㆒則朝暮無
㆓閑暇
㆒事、汝は不
㆑知
㆑之乎と白眼給へは、讒者及
㆓赤面
㆒退出せしより後は、飛馬の前に塵を除とそ見えし、斯て仰けるはかやうなる高職をは、同は旧功の輩に附与有度思ふ事、尤不
㆑浅也、去共奮臣に無
㆓其才智
㆒則豈論
㆓新旧
㆒乎、予は唯才智大勇の者を用て、国家の為にせんと思ふより外他なしと被
㆑仰しかば、旧臣の面々嫉心をのつから止つゝ、唯をのか身の上を省み出、弥恥る心弥増、信長公を恨奉る心露なく、心を琢き清忠を尽し見んとのみ思ひけり、依
㆑之今世に替り其比の風俗は武の道の真なる意味を専と嗜み、民の利を不
㆑侵、されは民は民士は士にして、訴と云事もなく刑獄の役人も信長公にはなかりしなり、大かた人もおろかに信に止て、才覚等を事とせし士
【 NDLJP:242】もなく、唯大やうに在し也、されは不
㆑察
㆓鶏豚
㆒不
㆑畜
㆓牛羊
㆒は、心もをのつから淳直にして、孟軻のすき給ひし以
㆑義為
㆑利に等しう、民も戸さしする事を忘れたり、