太閤記/巻七

目次
 
オープンアクセス NDLJP:295
 
太閤記 巻七
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○所司代之事
 
天正十年六月下旬於尾州清洲信長公家老中として、信忠卿御若君十五歳にならせられ候まオープンアクセス NDLJP:296て、洛中之義裁判可致との事により、柴田修理亮羽柴筑前守池田紀伊守丹羽五郎左衛門尉より、所司代一人つゝ出し置候しか共、秀吉卿之威日々月々に弥増行しかは、天正十二の正月より、池田丹羽か下代をは引侍り、今は秀吉卿之所司代のみて、威勢おひたゝしくそ成にける、
 
○金賦之事
 
秀吉公御蔵入領二百万石余有しかは、金銀米銭あつまりぬる事夥しき事なり、かやうに逐年財宝あつまり来たるを施さゞれは、慳貪くづれとやらんにあふよしなり、左もある事もやと、由己法眼に問給ふに、仰いと宜しく侍る旨申上しかは、さらは施してんよとて、天正十三年初秋の比、金子五千枚銀子三万枚諸侯大夫等に施し給へり、聚楽惣門南のかたにして、台にすへならへ、御賦有しか、朝より晩に至て事尽にけり、此後又其沙汰に及ひ給へり、京童見物して、興さめつゝ云やうは、活潑々地なる事かな、古今に傑出し給へる君なりとて感しあへりき、

評曰、両度の金賦薨し給ひし時の御遺物、何も子孫のためにして、民の為にあらす、大臣小臣によらす、金銀済々持し人々を、猶富し給ふ事、実々虚々之患而已、寔(尤)に急には周からすして、富るを継なり、金銀を多く分銅にし給ひし事も、只民をからくせめ取給ひしに因て也、然は民のために百分一も施し給はんこそ、聊道にもちかゝるべきに、何そ瓦礫に同しもて行、千枚分銅の数々を悦ひ、珍しき調度を翫て、身独をおほく楽み給ひつる、或回、民のためには何れの事か宜しからん、答曰、

宰相職を撰み、奉行所を清くし給ふへき事

万倹約を守り、下情に通せらるへき事

国家之安否を、心の明らかなる者を以聞届給ふへし、心盲なる横目を以聞給へは、却て邪悪弥増に成行物に侍る事

右のあらましを以、政を物し給はゝ、民の父母たるへし、又度々の施を諸侯大夫へさたし、或は大がらん等を多くいとなみ、或高麗をおひやかし、上下をくるしめ、あまたの金銀をつかひすて給はんよりは、国々の橋代々に依て成敗あり、然間五間十間、或一間或五尺三尺の橋をは、其国の守護人金銀を与へつかはし、石橋に掛可申旨被仰付候はゝ、民の為永代尽せぬ恩沢にて有へし、しかはあれと其費をいとひおほされなは、一年軍役をゆるし給ふてなり共、右を以掛給ひなは、いつを限の徳沢にて侍るへきに、心学くらきゆへ、心まかせに世を自由し侍りしに依て、秀頼公御代はかしき事もなふて、焼亡し給ひき、御遺物に名物の器并刀脇指金銀等恩賜有しも、秀頼公もしやの衰を救ひ侍るやうに、あらまほしくおほしよりての事なんめり、左もあるに大坂寅卯の急難に誰か秀頼を見続侍りし、下れる世のしるし、上下の義理おろそかに成し故にも侍らんか、去共大旨は秀吉公亡君信長公の御連枝に対し義理を違へ侍りて、又秀頼には諸臣義理を存、忠を奉れとや、かくあらまほしくおほされなは、信長公の厚恩を御子達に対し、何そ報謝し給はさる、かやうのオープンアクセス NDLJP:297事には闇くして、秀長秀次秀俊なとをは、甚しく取立給ひしか、何れか独御用に立給ひつる、噫されは異朝にも符節を合する事こそあれ、呂后の呂氏を取立て、呂禄呂産を大官に挙、高祖の子孫を蔑にし、王莽か王邑王尋を官爵に進め、光武の苗裔を亡せしも、卒に其身のあたとなり、氏族門葉皆絶ぬ、呂后劉氏を取立、王莽君孫を守立なは、我家門の繁栄も永く伝りなん物をと、今こそ思ひ合されけれ、凡て理に背き富なんとし栄えんとすれは、必す亡ひ果る物なり、斎藤山城守道三、松永弾正少弼久秀等も、右の悪徳に彷彿せり、故に跡かたなふ亡ひにけり、和漢合符之妙理、心あらむ人々は黙識し侍れかし、威勢富有兼全き人達の、心まかせに一旦おこりつゝ、ほしゐまゝに栄華をのみして、天意をはゝからされは、必しも天とかめ給ふと也、

 
○根来寺兵火千石堀之事
 
根来寺の開山は覚山上人なり、仏法修行の霊地、行法等厳密にして、殊勝に見えしか共、武道を専にし、不国司之下知、不文道、徒に空光陰、不師匠之鑑戒、動すれは乱国家下民之条為追伐、天正十三〈乙酉〉三月上旬、秀吉卒十万騎発向、副将は大和大納言秀長、羽柴中納言秀次なり、然は根来寺雑賀中として、岸和田の並千石堀、積善寺浜之城、三ケ所要害を相コシラヘへ、逸物の弓究竟之鉄炮をおほく籠置、軍勢往来之自由を妨けゝる、依千石堀の押へは秀次、積善寺の押へは長岡兵部大輔父子、蒲生忠三郎、浜の城をは中川藤兵衛尉、高山右近等おさへにけり、筒井順慶、長谷川藤五郎堀久太郎都合一万五千、三月廿日未明に根来寺さして打ける処に、千石堀より弓鉄炮の者五百人計出、彼勢を横あひに散々に射て、手負死人且出来し也、秀次是を斜に御覧し、千石堀の要害は俄に拵侍しかは、塀柵なともはかしうはよもあらし、いさあの弓鉄炮の者ともを、よこあひに馬を入乗わつて、千石堀へ不取入やうにせよ、ざるほとならい付入に攻込候へしと下知し給へは、秀次先手、田中久兵衛尉、渡瀬小次郎、佐藤隠岐守なと、三千許にて横あひに馬を可入の支度に見えて進けり、筒井長谷川堀なと是を見て、あの勢は用有りかほに見ゆるそ、千石堀の要害を攻捕事も有へきそとて、備を西に向て立直しけれは、早秀次の先備(手イ)噇と馬を入来て、五百人の弓鉄炮を、四方八方へ追散しかは、筒井堀長谷川か勢も同しく逃るを追て、千石堀へ付入にせよと喚叫て進みにけり、秀次の先備何れの勢よりもはやく、大手の門へひしと付、責入むとそモミ(揉イ)にける、即二之丸の柵を引破り、堀へ飛入攻上りけれは、弓鉄炮を以爰を専途と射殺し打倒し、味方の勢おほく討れ侍る処に、秀次我馬廻の者助よと下知し給へは、うれしくもウケタマハる物かなと、若武者共駆出進みけれは、先備是に力を得二之丸へ乗入、三百余首を捕て勝時を上、首をは旗本へ持せ奉り、其まゝ本丸の堀に望(臨イ)めは、ゲニも千石堀の名の甲斐も掲焉イチシルく、中々飛入へうもなく見えけれは、コヽの木かけ彼の物かけにしこり、跡よりの勢を待処に、城中より能射手共、さしつめ引詰打もし射もし、半時か程に千許手負死人出来したり、堀は深し橋は引たり、いかゝはせんと思ひ煩ひし処に、順慶か方より火矢を透間もなく射入、長屋を焼立しか、運こそ尽てあるらめ、鉄炮の薬箱に火入て、千雷の音して城中一時に恢燼と成オープンアクセス NDLJP:298て、千六百人余紀州におゐて勇士の誉有者共焼亡し及落城けり、残る二ケ所の出城より是を見て即明のき、根来寺さして落行けるを、秀吉仰けるは、千石堀にて労せし勢は休息せよとて、新手六万余をさし遣し、此競を以根来寺を攻破候へ、明日にもなるならは、支度を期すへきそと、黄しなひの騎兵あまた相添られしなり、各奉り実も今日など根来寺へ取掛んとはよも思ひ候まし、備々乱れざるやうに下知をなし、汗馬をはやめ打行は、漸申の刻に成たりけり、根来寺には剛勢なる溢れ者三千余撰み出し、千石堀の城同二ケ所の要害ヘ籠しかは、今寺には目出メテタキ老僧計そ残りける、然る処に多勢の旗首見ゆるそとて、支へみんとはせず唯人先に退なん事を急にして、其本尊は何れの箱に、此経巻は其所に有ぞ、誰々持よなと云しろふ内に、はや将軍の先勢根来寺門前に至て噇と鯨波を挙たれは、寺中の面々はやこしをぬかし度に迷ひ、十方にくれたる所へ攻入し故、老比丘児若衆上下の人々、年久しく住なれし寺院を打捨、蛛の子を散したるが如く、おのかさまなる形勢哀をとゝめにけり、かくて寺々に立入見れは、代々蓄(貯イ)置しかうかつ物共、其外金銀米銭山を積たる如く有しを、飽まて奪ひ取てけり、寔に俄に得人と成し者も多くありぬ、堂塔寺院一時の炊燼と成ぬる事は、方々にしてあまたたひ有し事多かりしか共、月日こそおほけれ、三月廿一日に亡ひし事、空海上人の御心に合ぬ所行有て、斯は亡果ぬよと、都鄙の取沙汰しはしは止ざりけり、

評曰、遇自業自得果之責事、此寺のみにしもあらさらめり、比叡ヒエイ山なとも理に背き、太師の教法を不用して、破滅之期を招き、又子として父母の心にカナハ(すイ)、臣としては主君の命を背き、自其罪に沈候事、甚以多し、孔子曰夫人必自アナドツテシテ後人侮之、家必自毀而後人毀之、国必自伐而後人伐之とかや、凡大小となく皆自業得果之責に遇と見えたり、

かくて雑賀表を可征と進発せられける処に、大田村に楯籠ぬる一揆共三千許張出、鉄炮を打かけ弓を射かけなとし、道を遮りにけり、秀吉卿宣ふは、此城は一旦に攻へからす、只水攻にすへしとて、三月廿三日四方に高く堤をつかせ、芳野川を関人給へは、四月朔日二日には湖水の波蕩々たり、牛馬鼬鼠やうの獣水上に浮出、哀なから一興を催しけり、城中より筏に乗て出降しけるは、楯籠所の年寄分之者百五十人余腹を致へきの条、其外悉く御憐愍を埀させ給ふやうにと歎しかは、御免有へき旨にて、一揆大将其外名をも知れたる侍共、百五十三人切腹し、城を渡し奉りぬ、即中村孫平次此城に有へきと也、熊野近辺の在々征し給はんと、御出勢有へき処に、新宮本宮の社人、神川カシノ谷々浦々の長百姓共降人と成て、御出勢にも及す、属幕下奉らんと、侘言ワヒコト申御礼に参けり、粤に至て熊野には関役所おほく有て、旅人苦しむ事おほく有つるとなり、今日より被御停止之条、関役所悉く除き可申旨、熊野山別当被に仰出けり、

評曰、信長公の時にさへ不随所を、斯廿日許の内に、根来寺雑賀熊野山中の一揆等悉く打なひけ給ふ、果敢決断の程よく勘弁し見るへし、又あらんや、関役所停止之事末代旅人の賜なり、智勇才果敢決断之名将なるへし、

 
○秀吉四国退治之事
 
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大正十三暦乙酉卯月廿四日、四国退治として木下美濃守秀長三好孫七郎秀次、此人々を副将と定、六万騎之勢を相添出船し給ふ、廿五日至阿波着船し、翌日長曽我部新右衛門尉か居城和気之城を秀次の先勢遠巻にしけるか、後はおしつめ幾重共なく打囲み、棲楼を上、鉄炮にて射すくめ、既に攻入むとひしめきあへる処に、戈を横たへ甲を脱て請一命之間、即城を請取新右衛門尉をは人質を渡し送りつかはしけり、元親か舎弟長曽我部親安か居城一の宮をは、秀長取巻貝鐘を鳴し攻つめ、頓て水の手を取仕寄を付、弓鉄炮隙透間もなく打入攻けれは、難抱や思ひけん降人と成幕下に属し、先駆の勢に加てけり、同国木津の城とて、地之利全き名城有、桑名左衛門督と云しもの、累代之居城なり、依之、秀長秀次の勢を合て取巻、持楯亀甲竹多把を付攻よせ、塀一重許に攻つめけれは、雨風はけしき夜を便り、忍ひ出、這々命計り退にけり、千石権兵衛尉は卒五千騎讃州八島之城へ推寄、町口を破らんと相戦、互に鎬を鎖り鍔を割切先より火炎を出し、込入れは突出し、終日戦ひ暮し候と云共、終に責破て歴々の勇士多く討捕、其まゝ付入に城を乗捕城主父子兄弟九人之首(頸イ)をは秀吉 (郷イ)ヘ進上してけり、此威雄に依て四国平均に打治め、七月中旬帰陣にこそ及ひけれ、 @iis(1) 評曰、三月上旬に出勢有て、七月中旬に四国を平均に治められし事、只秀吉公の才智有余より、はかの行事流水の如く有に依てなり、秀長秀次の思慮のみならは、中々かくはあらし、おもへは万事上一人に下は応する事、符節を合するよりも甚し、されはたひ云旧し事なんめれと、つゐてよろしけれは又、天正三年信長公長篠合戦の時、家中より三千挺のぬき鉄炮を、五月廿日の晩に請取、湯浅甚介猪子兵分なと四五人裁判し、廿一日の早朝より自由に進退し、鉄炮をうたせ侍るに、いと安くなん有し、今世弓鉄炮の者五十三十預り年をへてつかふさへ、長篠の鉄炮のやうにはあらし、是も信長公戦場にして、数十人面々に、とや有へき、かくやあらましと、さしつを請奉り、御返辞もしあへ給はぬほと急なるにも、其々に応し、とかうせよかくせよと、活々撥々地にして下知し給ふに、違ふ事なかりし故なるへきか、姉川合戦をは聊難義におほしつるや、其日の出立さま、気象物さひて見えし、其外の合戦はいかめしやかに有しよし、岡田助右衛門尉語り申しき、大坂虎(寅イ) 卯の戦に或国守へ、是はいかゝすへく候、かれは何とかあらんと、とへともいらへこと、したどにはかしくもあらさりしと、其臣語り侍りし、得ぬ芸にこそ、件の評渡辺勘兵衛尉いとふかう感し侍りき、惜乎此渡辺は武勇智謀且備り、今世まれなる士なれ共、故なき事に、志賀山人と成て、年を空くし侍りし事、

 
○関白職家臣之面々任官之事
 
大永之比より至天正年中家国分離し、朝威八荒に衰え、武命四維に軽く成て、公武之両家有名無実之為体、末世と云なから、かほとに有へきとは誰か知ん、あさましかりける折ふし、信長公出給ふて、興王道之衰、救万民之窮給ひき、王法も且古に立帰り、官職之実も且行るへきやうに諷しける処に、天正午夏為逆臣弑せられしかは、四方悪逆之徒党如雲霞蜂起し、上下不安しを、秀吉不期年平治し給ふ、去其天正十二年まては、残党を亡し給ふに御身をオープンアクセス NDLJP:300やつし、思ひを焦し給ひしか、翌年の春は世間も漸おだやかなりしなり、近年大甞会之政も打絶、百官之勤も有か無か計にあはれなりしを、大甞会取(執イ)をこなはれ、内裏の東に院御所を造進し、太平之御代と成にけり、因之秀吉にも官職推任し給ふへき旨、うちの御さたなりしを、秀吉卿且聞給ふて、折節摂家之内として、関白職之争おはしまして、闕職及両年〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉

万事晦盲せしにより、秀吉此職を望み給ふ、許し給はん事、内にもいかゝ有けんとおほし給へ共、大臣家より只許し給ふて可ならんと、諫を奉りしかは、即勅許なし給ふ、然間辱旨参内し給はんとなり、供奉之人々も頂戴口宜し任官せし人々には、

尾張内大臣平信雄 法名常真 駿河大納言源家康 大和権大納言豊臣秀長 秀吉御舎弟 近江権中納言豊臣秀次 備前参議豊臣秀家 浮田直家長子 加賀少将豊臣利家 加賀大納言 三河少将豊臣秀康 家康卿御息 丹波少将豊臣秀勝 秀次御舎弟 龍野侍従豊臣勝俊 後住霊山表法号長嘯 岐阜侍従豊臣照政 後為播磨大守 源五侍従豊臣長益 法名有楽 三吉侍従豊臣信秀 信長公御連枝 津侍従平信兼 信長公御舎弟織田上野介 越中侍従豊臣利勝 羽柴肥前守 京極侍従豊臣高次 後為若狭大守 井伊侍従藤原直政 童名満千世 金山侍従豊臣忠政 後為美作大守 伊賀侍従豊臣定次 筒井順慶息 豊後侍従豊臣義統 大友 曽禰侍従豊臣貞通 稲葉右京亮 松任侍従豊臣長重 二代丹羽五郎左衛門尉 土佐侍従秦元親 長曽我部 敦賀ツルガ侍従豊臣頼隆 蜂屋出羽守 河内侍従豊臣秀頼 毛利河内守 丹後侍従豊臣忠興 細川越中守 松島侍従豊臣氏郷 蒲生飛騨守 北庄侍従豊臣秀政 堀久太郎 東郷侍従豊臣秀一 長谷川藤五郎 左衛門侍従豊臣義康

此人々何も秀吉公参内之供奉せられけり、武家之面々任官せられし事、後には多任官受領せしもおほかめれと、当代にしては此人々初なり、

 
○五奉行之事
 
浅野弥兵衛尉は秀吉公の御台所と同しはらからにはあらねと、兄弟の因みなりけれは、毎事内外共に評諚之座にはつれさる者なり、玄以は信忠卿に事へ奉り、ときめき出たる才有、信忠卿は才勇兼備りし明将なりしかは、御見立あしくはあらしとて撰み出されしなり、長束は丹羽五郎左衛門尉につかへ、毎物モノコトの裁判やはらき滞事なき者なり、増田石田は江州北郡入部之時より、吾に労を尽せしなり、殊増田は万事損益に暁ふして、其性剛なり、石田は諫に付ては、吾気色を取す、諸事有姿スカタを好みし者なりとて、五奉行に定め給ふ、前田徳善院玄以、浅野弾正少弼、増田右衛門尉、石田治部少輔、長束大蔵大輔とそ申ける、如此五人一職に定置なは、毎事はか行ましきの条

徳善院僧正は所司代として、洛中洛外之出入、神社仏閣之義に至るまて、一人として裁判可オープンアクセス NDLJP:301申候事

長束は知行方其外万算用等之義、已之任として裁許可仕之事

三人は万端可然様に執行ひ、諸人不痛様に令分別尤候、大なる事相滞るにおゐては、五人として令相談、其宜に付て極可申、大体定りたる事をは、一人二人してもすまし可申候事

国々之取沙汰万出納之義、早速埓明候様に由断有間敷事

訴等之義に付ては、心を虚にし聞届可申候、富威兼備りたる者と、才勇不足にして殊貧者の公事は、不間迷有て不思も汚名可立之事

 
○宰相有司病之覚〈宰相ハ日本之摠奉行仕置者也有司ハ小奉行也〉
 

  第一私欲依怙贔負

  第二以私之宿意寇事をひそかに謀り、其趣を強て行ふ類

  第三金銀を蓄へ過、酒寡遊興外聞すき、女色美食等

右此病根は貪欲を為本とかや、此病根を愈し精しく取(執)行なは、音信等をも納へし、おかいあれと、ことを巧み、其所之儀に付て其利を望み、或代官等百姓と出入なと出来せんに、予めせし苞苴或寺社領或富家之譲なとの争に付ての音信は、小分たりと云共納へからされ、猶自他耻辱之道防へき事肝要候也、

評曰、奉行之内に取立之臣にあらて、他臣を両人交へ給ふは、奇妙に覚え侍るなり、異朝には宰相之才器を撰て、人におゐて親踈を不撰となり、是に依て東西のはての人と云共、才智さへ明らかなれは、異朝には宰相職に推任せしと也、然に因(依)て徳義をみかき出す人多かりしとかや、

 
○大仏殿之事
 
秀吉公聚楽におはしましけれは、弥洛中洛外にきはひ侍るやうに、あらまほしくおほしたまふて、東山に大仏殿を建立し給ふへき旨、五人之奉行共に被仰付にけり、昔は二十年に造畢せしとなん、今度は五年に成就し侍るやうに、工夫を廻し可相計之旨なりしかは、徳善院宿所に各打寄相議しけるか、先奈良之大仏師宗貞法印同弟宗印法眼、大仏棟梁之大工等を呼上せ、其品々なと委く尋究め、遅速損益之義会得せんとて、井上源五方へ如此之旨、五人之連状にて云遣はしけり、右之職人共奈良より悉く上京し、徳善院に至りしかは、各寄合て手廻しの宜しき事共、物に記しつけつゝ、五人之奉行共御前に出て、これかれ申上しか共、不御気色して被仰けるは、材木裁判之事先ならんか、仏師鍛冶等之事先にて侍らんかと問給へは、各尤左もおはすへき事にこそと及赤面けり、かくて材木を可取国々を記し付見るに、第一土佐第二九州第三信州之木曽、紀州熊野なと宜しかるへきにそ極りける、国々へつかはさるへき奉行二十人、大工二十人撰出し、御目にかけしかは御気色なり、大奉行は徳善院一人可然と定めらる、かく宣ふは五人之奉行に一々問尽さんとせは、事行ましきかとおほされての事也とかや、四国九国之人々は、土佐之田中へ分入て材木を出し、淀鳥羽へ可オープンアクセス NDLJP:302着船、勢尾濃三ケ国之人々は、木曽山之材木を出し河に流し入、勢州桑名に令着津、其より大船に積経南海大坂に至て徳善院に可相渡旨なりけり、

一 大仏地形之事

五畿内中国之人々は大仏之地形石垣築山等之普請可相勤旨被定にけり、地形之所は東山仏光寺なりけれは、徳善院普請之町場を渡し侍りぬ、二十一ケ国之人数を、地形と石垣築山三つに分被仰付しかとも、石垣大さうなる事に因て、後は何も石垣に加りぬ、重て北国勢をも加へさせ給ふ、

一 仏像之事

大仏を昔の様にからかねにて鋳奉らは、遅く出来なんとて木像に物し、膝膠シツクにてぬり彩色可申旨仰なり、震旦之仏像作り豊後に居たりしを呼よせ問けれは、異朝にて大像之仏をは木像にし、膝膠にてぬり立候へは、百年はこたへ侍由也けれは、即其旨将軍へ申上しかは、大仏を宗貞宗印に被仰付にけり、手伝人は寺西筑後守早川主馬首(頭イ)片桐東市正古田兵部少輔加須屋内膳正間島彦太郎也、堂の高さは廿丈、仏之高さは十六丈、昔より定法なれは今以増减なし、

一 膝膠之事

手伝人は池田備中守河尻肥前守上田主水正、奉行は堺之今井宗久也、仏像不出来已前、蠣殻一万俵取寄可申旨、唐人さしつに付て、勢州尾州へ取に下しけり、去共運々取聚めをかさる事なれは、頓かには難調となん、其比江州守山辺の者とかや、廿五六才の時よりかみおろしなとし、世をのかれて有しか、高野山の大伽藍共をあまた建立し、左様の事になん得たるよし聞召及れ、後は是を大仏建立の主となし給ふ、内々望所ては有、即仏光寺地形之内に、小庵を結ひ、常住の住居として急しかは、速成之便くはゝりぬ、殊高野山下法師共は、か様の事になれて、大伽藍の手伝なとに宜しき事共多かりけり、仏像大かた出来しかは、膝膠をぬり初ぬ、東方に築山をつかせ、虹梁なともつなを車にて廻し引上、毎事昔よりも自由なる事共多く有ぬ、千人許もして上なん虹梁を、百人許にて車を廻し引上にけり、

一 四方石垣之事

始は小なる石にてつかせ給へ共、仏法衰に及ては石をも小なるは盗み取に便も安かるへしとて、事外大なる石を以重て築直し給へり、蒲生飛騨守引し石は、二間に四間有しかは、多勢を以引侍りけり、石をどむすなとにてつゝみ、本やりのをんとう取、異形の出立に物し引けれは、見物の貴賤をしもわけられぬ許也、白川のおくより大仏に至る事及七貝興山上人手伝人毎日五千人宛請取、作事等につかひしか、日かす漸二千日に及にけり、此分さへに千万人か、殊棟木は木曽山飛駅山四国九国にもなかりしかは、富士山をみせしめ給ふに、可然大木あり、即大工の棟梁をつかはされ見せ給へは、棟木になるへき旨注進申上しかは、即家康卿へ被仰付きらせつゝ、熊野浦へ廻し大坂に着船あり、此木一本さへ五万人黄金千両の入用にて有しとかや、これよりして大仏成就し、鐘なと鋳給ふて、是かれの供養を遂させ給ふオープンアクセス NDLJP:303まての費をおしはかり見るに、中々言の葉の及へきにあらすと云て、眉をひそめにけり、

或老人曰、金銀之費万民之労をいとひもせす、心にまかせて万つ行ひし主を勘かへ見るに、異朝にては秦始皇、吾朝にしては秀吉将軍なるへし、行末いかゝ有へき(やイ)、始皇は二主にして後絶ぬ、呼大仏を建立し莫大の利益有やうに云をきし人をも、万民はうらめしく思ふらめ、いかほとか人をいたましめ、おのれ一人利益に預らんとや、吾党の好所とは、雲泥懸隔せりと云て、打しはふきつゝ、杖にたすけられ、竹のあみ戸したる所へ老人は入にけり、又或問、かやうの国病是のみにしもあらす、いかゝはして愈へしや、答曰、天下にも国々にも学校有て学道明らかならは、国病をもくなれよと願ふ共得へからす、必治するにも及へからすして愈なん、師道明らかなれは君道くらからす、君道不闇則豈国病不愈乎、

 
○北野大茶湯之事
 
天正十三年十月朔日、北野松原におゐて、茶の湯を御興行有て、都鄙数寄者共の気味、或風情或茶具等を、一覧なさるへきとなり、

 高札

来十月朔日於北野松原行茶湯候不于貴賤于貧富望之面々令来会可催一興、禁美麗倹約営可申候、秀吉数十年求置し諸道具、かさり立をくへきの条、望次第可見物者也、

  八月二日

之上下奈良堺にも立おかれしかは、侘すきの面々、是は目出メデタキ御代にあふて、価貴き道具をも拝見し、又侘すきの名誉をも達せんと悦ふも有、洛中のすきしやは名をも取、秀吉公の御感にも預り、堺のすき者共を一あて当て、常々の名人かほを汚さんと巧み侍るも有、

評曰、古しへより堺の南北には秀たる数寄者多く有て、洛中のすきをナミ〈[#ルビ「ナミ」は底本では「サミ」]〉し下し思ひし也、察するに洛中のすき者共は、得失暁し堺の町人は武士の風情にちかゝりし故か、又堺の数寄者共は京之数寄者之風情をも、よきともあしき共心にかけされは、おほとかに物し侍りぬ、連々すきを心かけ候者、又左はなけれとも諸侯大夫すきを致し宜しからん面々、近習御トギ之衆之内、其器をえらひ、三百五十人余へは、今度北野之茶湯に可罷出之旨、徳善院玄以千宗易うけ給てふれしなり、高札之旨に任て、遠国より上洛し、北野松原をウソフきつゝ、心あてに所を望み思ふ袖ふり、一入興して見えにけり、

    秀吉公御道具之目録

一青楓 一長そろり 一虚堂ノ墨蹟 一虚堂ノ墨蹟 一鏑無 一鐘の絵 一内赤の盆 一にたり 一紹鴎天目 一あらみ茶杓 一そろりの花入 一七つ台 一瓢簞 一珠徳茶杓 一紹鴎茄 一白天目 一尼崎台 一象牙茶杓 一ほうろく釜 一かねの蓋置 一芋頭 一紹鴎水翻 一柄杓立桃尻 一御釜こあられ 一縁桶 オープンアクセス NDLJP:304一五徳の蓋置 一胡桃口の柄杓立 一せんかう香炉 一朝山 一備前筒の花入 一四十石 一志賀 一新田肩衝 一めんはく四方盆に居 一をとこせ 一かめふたの水翻 一やせかけの天目 一折ための茶杓 一細クヒ 一井戸茶碗 一かねの水さし

右之御道具共を、あまた御座敷をしつらひ給ふて、かさり給ひしかは、あまねく見物をいたし目を悦はしむる輩多し、

    二番 千宗易利休居士 三千石被下

一烏丸香炉 一鴈の絵 一捨子葉茶壺 一ならしは 一尻フクラ 一せめひほ釜 一あかゝねのクリ 一塗天目 一高麗茶碗 一蛸壺の水翻 一竹の蓋置 一折ための茶杓

    三番 泉州堺津宗ギフ 三千石被下

一枯木 一撫子 一はつ花 一入道蜘釜 一尼子天目 一高麗茶碗 一折ため茶杓 一竹のふたをき

    四番 泉州堺津なやの宗久 三千石被下

一月の絵 一松花葉茶つぼ 一しき肩衝カタツキ 祖母ウバ口の釜 一ときん茶坑(碗) 一竹の盖置 一みしま茶垸(碗) 一折ため茶杓

経堂之四方之角々を、思ひにかこひなし、台子をかざりつゝ、はなやかにすきを出し、御気色をうかゞひ奉りけり、其外大木の下、松原などに、一入さびかへつて、かこふも有、又からかさ一本の下を楽しむも有、又になひ茶屋とやらんに、事よせしも有て、いろさまの興尽ぬ、誠に四五百人之すき者共、逸興もかなと思ひをこがし、工夫を費し侍る故、北野方一里は更に空所もなかりしなり、秀吉公御かこひは三ケ所、かるとし給ふて、諸(道) 具をかざり給ひつゝ、

一番(近衛)信輔公 日野輝資卿 家康卿 信雄卿 穴津待従信兼

二番に秀長卿 秀次卿 利家 氏郷 貞通 利休

三番に有楽 秀勝 頼隆 秀家 忠興

如此御手前にて御茶を被下てより、珍しきすきを御覧有へきとて、御小性衆一人許めしつれられ、先蜂屋出羽守さしきへ入せ給ふて、御茶を上り、立出給ひ、即蜂屋をも被召連、御相伴に加へられ、立入給ふ座敷にて、御機嫌なるに依、出羽守狂言綺語し侍れは、主悦あへりけり、今度集りし茶具めつらしき事共、言語の及へきにあらず、或数寄屋のかるき作意、或異風体に興せし有て、御機嫌事外にぞ見えける、寔人の心は各々、面のことしと云しも、けにむべにこそと思はれけれ、かやうの珍具、員を尽して見侍る事、秀吉公の御威光にあらずんはいかにそや、此度の数寄を見て、一きは心をみがき、数寄の誉を得んと思ふもあり、又価貴き肩衝を諸侯へめしをかれしかば、俄に徳人と成て弥此道に思ひ入侍るは、いとめておう見えオープンアクセス NDLJP:305けり、福原右馬助蒔田権佐中江式部大輔木下大膳亮宮木右京大夫、此五人すき者共之用所をかなふる奉行として、九月中旬より北野に在て、かこひの屋布(敷イ)望次第に渡しつゝ、諸事宜しく相計ひしかは、一として滞る事もなく調へ侍りし故、御気嫌宜しく有て御茶被下けり

 
 
 

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