太閤記/巻七


評曰、両度の金賦薨し給ひし時の御遺物、何も子孫のためにして、民の為にあらす、大臣小臣によらす、金銀済々持し人々を、猶富し給ふ事、実々虚々之患而已、寔(尤)に急には周からすして、富るを継なり、金銀を多く分銅にし給ひし事も、只民をからくせめ取給ひしに因て也、然は民のために百分一も施し給はんこそ、聊道にもちかゝるべきに、何そ瓦礫に同しもて行、千枚分銅の数々を悦ひ、珍しき調度を翫て、身独をおほく楽み給ひつる、或回、民のためには何れの事か宜しからん、答曰、
一宰相職を撰み、奉行所を清くし給ふへき事
一万倹約を守り、下情に通せらるへき事
一国家之安否を、心の明らかなる者を以聞届給ふへし、心盲なる横目を以聞給へは、却て邪悪弥増に成行物に侍る事
右のあらましを以、政を物し給はゝ、民の父母たるへし、又度々の施を諸侯大夫へさたし、或は大がらん等を多くいとなみ、或高麗をおひやかし、上下をくるしめ、あまたの金銀をつかひすて給はんよりは、国々の橋代々に依て成敗あり、然間五間十間、或一間或五尺三尺の橋をは、其国の守護人金銀を与へつかはし、石橋に掛可㆑申旨被㆓仰付㆒候はゝ、民の為永代尽せぬ恩沢にて有へし、しかはあれと其費をいとひおほされなは、一年軍役をゆるし給ふてなり共、右を以掛給ひなは、いつを限の徳沢にて侍るへきに、心学くらきゆへ、心まかせに世を自由し侍りしに依て、秀頼公御代はか〳〵しき事もなふて、焼亡し給ひき、御遺物に名物の器并刀脇指金銀等恩賜有しも、秀頼公もしやの衰を救ひ侍るやうに、あらまほしくおほしよりての事なんめり、左もあるに大坂寅卯の急難に誰か秀頼を見続侍りし、下れる世のしるし、上下の義理おろそかに成し故にも侍らんか、去共大旨は秀吉公亡君信長公の御連枝に対し義理を違へ侍りて、又秀頼には諸臣義理を存、忠を奉れとや、かくあらまほしくおほされなは、信長公の厚恩を御子達に対し、何そ報謝し給はさる、かやうの【 NDLJP:297】事には闇くして、秀長秀次秀俊なとをは、甚しく取立給ひしか、何れか独御用に立給ひつる、噫されは異朝にも符節を合する事こそあれ、呂后の呂氏を取立て、呂禄呂産を大官に挙、高祖の子孫を蔑にし、王莽か王邑王尋を官爵に進め、光武の苗裔を亡せしも、卒に其身のあたとなり、氏族門葉皆絶ぬ、呂后劉氏を取立、王莽君孫を守立なは、我家門の繁栄も永く伝りなん物をと、今こそ思ひ合されけれ、凡て理に背き富なんとし栄えんとすれは、必す亡ひ果る物なり、斎藤山城守道三、松永弾正少弼久秀等も、右の悪徳に彷彿せり、故に跡かたなふ亡ひにけり、和漢合符之妙理、心あらむ人々は黙識し侍れかし、威勢富有兼全き人達の、心まかせに一旦おこりつゝ、ほしゐまゝに栄華をのみして、天意をはゝからされは、必しも天とかめ給ふと也、

評曰、遇㆓自業自得果之責㆒事、此寺のみにしもあらさらめり、
かくて雑賀表を可㆑被㆑征と進発せられける処に、大田村に楯籠ぬる一揆共三千許張出、鉄炮を打かけ弓を射かけなとし、道を遮りにけり、秀吉卿宣ふは、此城は一旦に攻へからす、只水攻にすへしとて、三月廿三日四方に高く堤をつかせ、芳野川を関人給へは、四月朔日二日には湖水の波蕩々たり、牛馬鼬鼠やうの獣水上に浮出、哀なから一興を催しけり、城中より筏に乗て出降しけるは、楯籠所の年寄分之者百五十人余腹を致へきの条、其外悉く御憐愍を埀させ給ふやうにと歎しかは、御免有へき旨にて、一揆大将其外名をも知れたる侍共、百五十三人切腹し、城を渡し奉りぬ、即中村孫平次此城に有へきと也、熊野近辺の在々征し給はんと、御出勢有へき処に、新宮本宮の社人、
評曰、信長公の時にさへ不㆑随所を、斯廿日許の内に、根来寺雑賀熊野山中の一揆等悉く打なひけ給ふ、果敢決断の程よく勘弁し見るへし、又あらんや、関役所停止之事末代旅人の賜なり、智勇才果敢決断之名将なるへし、

大正十三暦乙酉卯月廿四日、四国退治として木下美濃守秀長三好孫七郎秀次、此人々を副将と定、六万騎之勢を相添出船し給ふ、廿五日至㆓阿波㆒着船し、翌日長曽我部新右衛門尉か居城和気之城を秀次の先勢遠巻にしけるか、後はおしつめ幾重共なく打囲み、棲楼を上、鉄炮にて射すくめ、既に攻入むとひしめきあへる処に、戈を横たへ甲を脱て請㆓一命㆒之間、即城を請取新右衛門尉をは人質を渡し送りつかはしけり、元親か舎弟長曽我部親安か居城一の宮をは、秀長取巻貝鐘を鳴し攻つめ、頓て水の手を取仕寄を付、弓鉄炮隙透間もなく打入〳〵攻けれは、難抱や思ひけん降人と成幕下に属し、先駆の勢に加てけり、同国木津の城とて、地之利全き名城有、桑名左衛門督と云しもの、累代之居城なり、依㆑之、秀長秀次の勢を合て取巻、持楯亀甲竹多把を付攻よせ、塀一重許に攻つめけれは、雨風はけしき夜を便り、忍ひ出、這々命計

万事晦盲せしにより、秀吉此職を望み給ふ、許し給はん事、内にもいかゝ有けんとおほし給へ共、大臣家より只許し給ふて可ならんと、諫を奉りしかは、即勅許なし給ふ、然間辱旨参内し給はんとなり、供奉之人々も頂㆓戴口宜㆒し任官せし人々には、
尾張内大臣平信雄 法名常真 駿河大納言源家康 大和権大納言豊臣秀長 秀吉御舎弟 近江権中納言豊臣秀次 備前参議豊臣秀家 浮田直家長子 加賀少将豊臣利家 加賀大納言
三河少将豊臣秀康 家康卿御息 丹波少将豊臣秀勝 秀次御舎弟
龍野侍従豊臣勝俊 後住霊山表法号長嘯 岐阜侍従豊臣照政 後為㆓播磨大守㆒
源五侍従豊臣長益 法名有楽 三吉侍従豊臣信秀 信長公御連枝
津侍従平信兼 信長公御舎弟織田上野介 越中侍従豊臣利勝 羽柴肥前守
京極侍従豊臣高次 後為若狭大守 井伊侍従藤原直政 童名満千世
金山侍従豊臣忠政 後為美作大守 伊賀侍従豊臣定次 筒井順慶息
豊後侍従豊臣義統 大友 曽禰侍従豊臣貞通 稲葉右京亮
松任侍従豊臣長重 二代丹羽五郎左衛門尉 土佐侍従秦元親 長曽我部
此人々何も秀吉公参内之供奉せられけり、武家之面々任官せられし事、後には多
一徳善院僧正は所司代として、洛中洛外之出入、神社仏閣之義に至るまて、一人として裁判可【 NDLJP:301】㆑申候事
一長束は知行方其外万算用等之義、已之任として裁許可㆑仕之事
一三人は万端可㆑然様に執行ひ、諸人不㆑痛様に令㆓分別㆒尤候、大なる事相滞るにおゐては、五人として令㆓相談㆒、其宜に付て極可㆑申、大体定りたる事をは、一人二人してもすまし可㆑申候事
一国々之取沙汰万
一訴等之義に付ては、心を虚にし聞届可㆑申候、富威兼備りたる者と、才勇不足にして殊
第一私欲依怙贔負
第二以㆓私之宿意㆒報㆑寇事をひそかに謀り、其趣を強て行ふ類
第三金銀を蓄へ過、酒寡遊興外聞すき、女色美食等
右此病根は貪欲を為本とかや、此病根を愈し精しく取(執)行なは、音信等をも納へし、おかいあれと、ことを巧み、其所之儀に付て其利を望み、或代官等百姓と出入なと出来せんに、予めせし苞苴或寺社領或富家之譲なとの争に付ての音信は、小分たりと云共納
評曰、奉行之内に取立之臣にあらて、他臣を両人交へ給ふは、奇妙に覚え侍るなり、異朝には宰相之才器を撰て、人におゐて親踈を不㆑撰となり、是に依て東西のはて〳〵の人と云共、才智さへ明らかなれは、異朝には宰相職に推任せしと也、然に因(依)て徳義をみかき出す人多かりしとかや、

一 大仏地形之事
五畿内中国之人々は大仏之地形石垣築山等之普請可㆓相勤㆒旨被㆑定にけり、地形之所は東山仏光寺なりけれは、徳善院普請之町場を渡し侍りぬ、二十一ケ国之人数を、地形と石垣築山三つに分被㆓仰付㆒しかとも、石垣大さうなる事に因て、後は何も石垣に加りぬ、重て北国勢をも加へさせ給ふ、
一 仏像之事
大仏を昔の様にからかねにて鋳奉らは、遅く出来なんとて木像に物し、
一 膝膠之事
手伝人は池田備中守河尻肥前守上田主水正、奉行は堺之今井宗久也、仏像不㆓出来㆒已前、蠣殻一万俵取寄可㆑申旨、唐人さしつに付て、勢州尾州へ取に下しけり、去共運々取聚めをかさる事なれは、頓かには難㆑調となん、其比江州守山辺の者とかや、廿五六才の時よりかみおろしなとし、世をのかれて有しか、高野山の大伽藍共をあまた建立し、左様の事になん得たるよし聞召及れ、後は是を大仏建立の主となし給ふ、内々望所ては有、即仏光寺地形之内に、小庵を結ひ、常住の住居として急
一 四方石垣之事
始は小なる石にてつかせ給へ共、仏法衰に及ては石をも小なるは盗み取に便も安かるへしとて、事外大なる石を以重て築直し給へり、蒲生飛騨守引し石は、二間に四間有しかは、多勢を以引侍りけり、石をどむすなとにてつゝみ、本やりのをんとう取、異形の出立に物し引けれは、見物の貴賤をしもわけられぬ許也、白川のおくより大仏に至る事及七貝興山上人手伝人毎日五千人宛請取、作事等につかひしか、日かす漸二千日に及にけり、此分さへに千万人か、殊 NDLJP:303】まての費をおしはかり見るに、中々言の葉の及へきにあらすと云て、眉をひそめにけり、
或老人曰、金銀之費万民之労をいとひもせす、心にまかせて万つ行ひし主を勘かへ見るに、異朝にては秦始皇、吾朝にしては秀吉将軍なるへし、行末いかゝ有へき(やイ)、始皇は二主にして後絶ぬ、呼大仏を建立し莫大の利益有やうに云をきし人をも、万民はうらめしく思ふらめ、いかほとか人をいたましめ、おのれ一人利益に預らんとや、吾党の好所とは、雲泥懸隔せりと云て、打しはふきつゝ、杖にたすけられ、竹のあみ戸したる所へ老人は入にけり、又或問、かやうの国病是のみにしもあらす、いかゝはして愈へしや、答曰、天下にも国々にも学校有て学道明らかならは、国病をもくなれよと願ふ共得へからす、必治するにも及へからすして愈なん、師道明らかなれは君道くらからす、君道不㆑闇則豈国病不㆑愈乎、
高札
来十月朔日於㆓北野松原㆒可㆑令㆑興㆓行茶湯㆒候不㆑寄㆓于貴賤㆒不㆑拘㆓于貧富㆒望之面々令㆓来会㆒可催㆓一興㆒、禁㆓美麗㆒好㆓倹約㆒営可㆑申候、秀吉数十年求置し諸道具、かさり立をくへきの条、望次第可㆓見物
八月二日
洛
評曰、古しへより堺の南北には秀たる数寄者多く有て、洛中のすきを
一青楓 一長そろり 一虚堂ノ墨蹟 一虚堂ノ墨蹟 一鏑無 一鐘の絵 一内赤の盆 一にたり 一紹鴎天目 一あらみ茶杓 一そろりの花入 一七つ台 一瓢簞 一珠徳茶杓 一紹鴎茄 一白天目 一尼 NDLJP:304】一五徳の蓋置 一胡桃口の柄杓立 一せんかう香炉 一朝山 一備前筒の花入 一四十石 一志賀 一新田肩衝 一めんはく四方盆に居 一をとこせ 一かめふたの水翻 一やせかけの天目 一折ための茶杓 一細
右之御道具共を、あまた御座敷をしつらひ給ふて、かさり給ひしかは、あまねく見物をいたし目を悦はしむる輩多し、
二番 千宗易利休居士 三千石被下一烏丸香炉 一鴈の絵 一捨子葉茶壺 一ならしは 一尻
一枯木 一撫子 一はつ花 一入道蜘釜 一尼子天目 一高麗茶碗 一折ため茶杓 一竹のふたをき
四番 泉州堺津なやの宗久 三千石被下一月の絵 一松花葉茶つぼ 一しき
経堂之四方之角々を、思ひ〳〵にかこひなし、台子をかざりつゝ、はなやかにすきを出し、御気色をうかゞひ奉りけり、其外大木の下、松原などに、一入さびかへつて、かこふも有、又からかさ一本の下を楽しむも有、又になひ茶屋とやらんに、事よせしも有て、いろ〳〵さま〳〵の興尽ぬ、誠に四五百人之すき者共、逸興もかなと思ひをこがし、工夫を費し侍る故、北野方一里は更に空所もなかりしなり、秀吉公御かこひは三ケ所、かる〳〵とし給ふて、諸(道) 具をかざり給ひつゝ、
一番(近衛)信輔公 日野輝資卿 家康卿 信雄卿 穴津待従信兼
二番に秀長卿 秀次卿 利家 氏郷 貞通 利休
三番に有楽 秀勝 頼隆 秀家 忠興
如此御手前にて御茶を被㆑下てより、珍しきすきを御覧有へきとて、御小性衆一人許めしつれられ、先蜂屋出羽守さしきへ入せ給ふて、御茶を上り、立出給ひ、即蜂屋をも被㆓召連㆒、御相伴に加へられ、立入給ふ座敷〳〵にて、御機嫌なるに依、出羽守狂言綺語し侍れは、主悦あへりけり、今度集りし茶具めつらしき事共、言語の及へきにあらず、或数寄屋のかるき作意、或異風体に興せし有て、御機嫌事外にぞ見えける、寔人の心は各々、面のことしと云しも、けにむべにこそと思はれけれ、かやうの珍具、員を尽して見侍る事、秀吉公の御威光にあらずんはいかにそや、此度の数寄を見て、一きは心をみがき、数寄の誉を得んと思ふもあり、又価貴き肩衝を諸侯へめしをかれしかば、俄に徳人と成て弥此道に思ひ入侍るは、いとめておう見え【 NDLJP:305】けり、福原右馬助蒔田権佐中江式部大輔木下大膳亮宮木右京大夫、此五人すき者共之用所をかなふる奉行として、九月中旬より北野に在て、かこひの屋布(敷イ)望次第に渡しつゝ、諸事宜しく相計ひしかは、一として滞る事もなく調へ侍りし故、御気嫌宜しく有て御茶被㆑下けり

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