太閤記/巻六


或曰、信長公御在世の時は、簗田柴田滝川丹羽等、かはる〳〵軍の前後を勤しか、今度も丹羽心かけ信篤かりし動きなり、
不破彦三佐久間久右衛門尉か陣へ、夜半より松明美濃路よりの海道峯々に夥しく見え、其とはなしに物さはかしく成出しかば、下々おきよ、其用意せよと声々しきりけれ共、昨日終日たゝかひ疲れ、爾々いらへ事をもせさりしなり、去共物になれたるは、此けしきはたゝ事にはあらざるべしと、其さま急なるも有、玄番允陣中も弥さはぎ立、退なんとひしめき立出しか共、甘日之夜、節所を窘歩し来たり、昼は終日戦ひ暮したり、目さす共知ぬよるのみち、小篠か上の露もろともに、おちまろひ、起てはたをれ倒れてはおき上り、急きしか、せめて月をよすかにせんとのゝしる内に、廿日の夜の月、山のはにほのかなりけれは、聊道しるへ有、南方の勢は兼て支度を調へ、敵のきなは、つかんと待得し事なれはいまた陣払ひもせさりし内に、はやひしと付て見えたりけり、原彦次郎安井近左も、取出之城をおさへ有けるか、やう〳〵仕払て一手になりし時、玄番今日の NDLJP:287】衛、長井五郎右衛門、豊島猪兵衛、鷲見源次郎、鷲津九蔵毛屋新内なと引返しては、突倒し突退けれは、敵もさつと引にけり、青木は其中にて行年おとりしほとに、跡をは吾にまかせよとて、二三度廿帰し鑓を合せ突退けしか、何も鑓を以たゝきあひけるに、青木計引ぬき〳〵突しか�、敵思ふ程には有さりけり、如此六七人之兵共帰し合せ、あまたゝひ戦ひし故、後は原か勢にはしたはさりしなり、柴田三左衛門尉は、三千余騎の勢を卒し、志津嵩の嶺筋なる堀きりを、前之日越つゝ、南に向て勢を備へ敵勢をおさへ有けるか、兄の玄番允一万五六千之勢を、やう〳〵にして、志津嵩の北なる山へ引上、余語之海辺よりおし上る勢を、おさへ有しか、三左衛門尉方へ我勢ははやなんなく引退きし也、急き是まて引取候へと、使者両度に及しかは、さらは玄番允と一手にならんとせし処に、秀吉卿は夜の明るを待兼、木の本をまたほのくらきにおし出し、志津嵩城の南に御旗を立させられ、弓鉄炮之かしら分共に、堀きりのこなたなる勢は、只今〈巳ノ時〉引取と見えしそ、急き走着うたせよ〳〵と使番母衣之者を以被㆓仰付㆒しかは、心得候と云もはてす、ひしと引附、堀切より引上候を、かけ渡しにねらひすましうたせしかは、時のまに手負二百人余りうち出しけり、敵は此手負をのけんとせしに、勢の次第も乱れ右往左往なるを、御旗本より御覧して、小姓共に法度をゆるすそ、引付て、手柄をせよや、〳〵と御身を捫下知し給ひしかは、相悦ひ真先に石川兵助なとすゝみ行けるに、福島市松加藤虎助同孫六平野権平脇坂甚内糟屋助右衛門尉片桐助作等我おとらしと引付し処に、玄番拝郷五左衛門尉を呼、先手危く見ゆるそ、能に計ひ候へと云しかは、可㆑引所をはひかずして、如㆑此成来り、今更計ひに成物かと思ひしか共、面もふらす引帰しけれは、浅井吉兵衛尉山路将監宿屋七左衛門尉も倶に帰し合せしが、拝郷真先に鑓を打こむと等しく、石河兵助と名乗出、鑓を合せ戦ひしが、共に討死してけり、渡辺勘兵衛尉浅井喜八郎浅野日向守は堀切を跡に見なし、嶺わきを追立行に、賀藤虎助同孫六彼十人計之小姓衆曳々声を上、すきまをあらせす、追立行にこそ、吉兵衛将監も余語の方なる谷へ心ざすやうに見えしと否
NDLJP:288】つく成行しを、北国勢のうらにひかへたる弱兵見おとろき、いろめき出しを、丹羽五郎左衛門尉長秀、すは〳〵時は今なり、摠かゝりにかゝれや者共と、金の馬しるしをふらせ噇とかゝりしにこそ、玄番允佐久間久右衛門か勢、惣敗軍には成にけれ、
有人曰、北国勢之内七本錯之衆と鑓を合せしと云しも多かりしとかや、此相手は拝郷浅井山路宿屋なりしか、三人は討死し、宿屋は退し也、玄番兄弟か勢廿町計鑓を以払ひ退にせし内に、小原新七宿屋七左衛門安彦弥五右衛門尉水野助三なと鑓を以はらひ退にしたりし間、廿町計の内に鑓もあふべきか、丹羽甚太郎は前日手を負し故、其鑓にははつれたる由甚太郎語し也

評曰、勝家至剛なるに依て、かく成はてゝ、府中之城を疑ふ心もなく立寄、誓約をゆるし侍る事神妙なり、又左衛門尉もをくらんと立出しも亦道なり、時により人によつて、勝家を討安堵を求めんか
勝家柳瀬表より卯月廿一日のくれ程に帰城し、柴田弥右衛門尉、小島若狭守、中村文荷斎、徳庵、中村与左衛門尉、松平甚五兵衛尉なとをめしよせ、今日之敗軍玄番允大利にほこり、早速不引取故、越度を取、某一代の功名を一時に亡し、無念なる次第とかう云に及れさる事共なり、よしそれも前世之因果なるへし、此上は急き丸々之人数其くはりをせよと云れしかは、其番之者共、其外心もあらん者は籠候へと、弥右衛門尉等廻文してけり、右之旨承覚悟を極め来たりしを、記し付侍るに、
一番佐久間十蔵十五歳、是は去春前田又左衛門尉聟になりし者なり、十蔵家来之者諫めけるは、いまた幼少の御身なれは、籠城し給はても苦しからさる事にて候、殊に利家は府中之城、【 NDLJP:290】居なりに安堵之由、奥村かたより申越候、急き府中へ忍はせ給ひ宣しからんと、達てとめし時、いやとよ父帯刀勝家へ背き、信長公直参となり、安土に在しか、喧嘩之座に連り果し事、汝等知所也、其比幼稚にありしを勝家よひ帰し、莫太之領地を給りし、其恩不㆑浅是一、利家緑者になり侍らすは、母へのかう〳〵に、とかう世をいとひてもみんか、又左衛門尉親子の因みを便り、一命をつかん事、取分汚らはしく覚ふなり是二、名字をけかしぬれは先祖に対し不孝あり是三、かた〳〵籠城すへきの理、こゝに在とて、終にこもりぬ、
二番松浦九兵衛尉是はつねに定番之内にして、城を預りし者なり、法華経信者にて、小菴を結ひ上人をすへをきしか、此上人現世之恩懇ふかゝりし事おひたゝし、来世にて報恩謝得し侍らんと籠城に赴しを、松浦達ていさめ止しかとも、是非同道せんとて籠りぬ、九兵衛郎等も二人供してけり、
或曰、松浦つねはあらましき者にて有しか、情を掛んと思ふ者には清く其さたありし者にて、家来も忝存せしか、果して両人追腹せしなり、
三番松平市左衛門尉
四番溝口半左衛門尉、是は養子伊賀守北庄之田屋守にし侍し故常に当庄に在し也、今世武名且香しき、亀田大隅守父これなり、勝家も爾は予か臣にも非す、急き出て命を全ふせよと有し時、いや左にはおはしまさす候、伊賀守不孝之罪を聊謝せんため、何れの櫓なり共請取奉らんと堅固に申つゝ果
五番玄久是は古しへ匠作になれむつひたる者にて有しか、痛手をおひ、奉公ならさる身と成ぬ、是に因て地下人になし、
六番山口一露斎 若大夫〈舞まひ〉 上坂大炊助〈右筆〉 児玉
七番小島新五郎病の床下に在し故、肩興に助られこもりし時、大手の門之
八番吉田藤兵衛尉息藤十郎、いまた廿にもみたさりし者なれは、父のけたく思ひ、再三出よと諫けれ共、是のみ父之命にそむきても、苦しからさる事なりとて、父之櫓に籠りにけり、籠城を心さし出ぬる折ふし、祖母母共に泣悲しみとめ侍りしを、父をともなひ帰らんと、ありありしく云しかは、必左もあれよとてつかはしぬ、忠孝を清め侍る者よとて、心ある人はうらやみ又は感しけり、
九番大屋長右衛門尉、是は柴田弥右衛門尉か子なりけり、父は宵に籠り帰らされは、母并兄弟共を山中へよきに送り、其後こもり、父に其旨云しかは、満足してけり、此外数十人つねつねやくらなとに在し者共、其所を守り果ぬ、しかあるに、定番之内おちて浮名をなかすも有、【 NDLJP:291】又世俗の口号侍し、文荷、徳庵、志摩守三人之法師武者と戯しか共、徳菴は利家之人質をぬすみ出、其便をまうけ侍りしか共、又左衛門尉義理を違へし者なりと思はれぬ、かゝるにや色外にあらはれ、其便もいたつらになり、のちは洛下に心ならす有しかとも、地下人さへあれは如㆑此之者よとて、諸人の舌頭にかゝり果しなり、中村与左衛門尉は、匠作同郷に生長し、弓馬之二道を嗜し者なれは、馬上之弓五十騎付侍りしなり、然るにより、よき射手をあまためしつれ射させつゝ、其功をあらはし切腹してけり、
評曰、その比まては、人心義あつて、歴々之切腹其名いと
秀吉すきまをあらせす追討にせよと下知し給へは、素より望所也、其日に府中辺まて討付たれは、漸日くれぬ、其夜は府中脇本辺立錐之地もなく、陣取にけり、
一北庄表被㆑寄㆑陣事
翌日廿二日北庄へおしよせらるゝ勢之次第、堀久太郎を先として、其次取出〳〵番手の次第に任せ打候へと、定め給ふ掟之事、
一
一濫妨すへからさる事、并酒家に入ましき事、
一まはらかけすましき事、
一勝利にほこるへからさる事、
一合戦を心に備へ夜討之用心有へき事、
右条々無㆓相違㆒可㆑相㆓守此旨㆒者也、
と五六十通調させ給ふて、夜半以前にふれ給ふ、鶏の声あきりけれは、堀久太郎はや立出北庄へおし行ぬ、其次たれ〳〵と如㆓御定㆒うち行 NDLJP:292】す袖のみ多し、見るもの栄衰日々にかはりぬるとは、かやうの事にこそとて痛も有て、因果の程を思ひ煩ひぬ、秀吉卿よきに計うへしと、山口甚兵衛尉、副田甚左衛門尉にそ預らる、両人請取宿所へ引入、小手をゆるし、行水をまいらせ帷子を前におけば、心あるかなとて着し侍りぬ、
評曰、秀吉勝家興亡之故を勘かへみるに、勝家は文道をさみし下し、武道をのみ専事し、或政道之損益をも不㆑問、或依怙贔負かちなる事多く、酒宴遊興に長し、世をみじかう思ひ取し故なり、因㆑之養子伊賀守が恨あり、伊州家督までこそなく共、玄番允兄弟ほどにも親愛あらば、何を父子の因みを変ぜんや、伊賀守理は有と云共無道には極るべし、秀吉卿の才智は世に勝れ、殊に気体実せしに依て、去年の春備中に至り出勢有しより以来、一日片時も休息のまもなく、遊興と云事をもよそに見、自他之労を尽されしにより、不㆑期㆓大利㆒而大利不意に至る事多かりしなり、此一労を能思へは、高麗まて達せしなり、殊に秀吉は明智を討亡し、亡君

さらぬだに打ぬる程もなつの夜のわかれをさそふほとゝきすかな 小谷御方
夏の夜の夢ぢはかなき跡の名を雲井に上よ山郭公 勝家
文荷斎節義に当て、不㆑変考なれは、同し道に侍らんとて、
ちきりあれやすゝしき道に友なひてのちのよまても事へつかえむ
となん詠めけれは、匠作たけき心も、それならす見えて、さらに袖をぞ湿されける、小谷御方其外かす〳〵の女房たち念誦称名之声、あはれをとゝめけり、若狭守、文荷斎、殿主の下に、こみ草を積をき、かねての用意残る所もなく、さたしをきしかば、心しづかに火を掛、半燃出るに及て、雑人原をは出し、さて勝家のおはしまし侍る、五重に上り、下はかく仕廻申候、御心しづかに、沙汰し給へと申土しかは、さすか最期はよかりけり、男女三十余人おなし煙と立上りぬ、勝家之気象つねにしも違ふ事なく、それ〳〵に感をなし、卯月廿四日申の刻にそ終りにける
○村上六左衛門尉裁判之事 上村経かたひらの出立にて、籠城せしかば、勝家曰扨も頼しく見えたり、去共汝は末森殿〈匠作之姉〉同息女、此行衛可㆑然やうに計ひ候へと有しかば、いやそれはともかくも成給ん間、いつれの御門なり共かため申さんと達て望しかとも、是非出てかの人々をよきに計ひ候へ、忠義たるへしと有しに依て、なみたと共に出て、末森殿へ参、いさゝせ給へ、一まづおち候て浮世のありさまをも御覧候へと諫つゝ、あやしけなるのり物に、二人の人々をのせまいらせ、椎谷のおくへと心ざしけるが、竹田と云里に至て思ふに、いや〳〵ふかく山に入なは、北庄之便もまれなるへし、是に一両日滞留し、よしあしの事を聞てんやとせし処に、廿四日申の刻に、北庄之殿主炎上とおほしくて、烟事外にそ見えにける、扨は匠作御切腹にこそと、上村思ひつゝ両人に向て、北庄もかく見え給ふ間、御覚悟なされ候へと云しかば、つね〳〵憑み給ひし、弥陀之名号に向て、心しつかに称名し給ひて、硯を引よせ、かくなん、
今こゝに、六そちあまりの日のかずをたゝ一ときにかへしぬるかな
息女も同し硯にて
思ひきや竹田の里の草のつゆはゝうへともに消ん物とは
末森殿南無阿弥陀仏〳〵と唱へつゝ、首をうけさせ給ふとひとしく、御くひは前へ落にけり、息女も名号にむかつて母上上品上生に導き給へ、勝家御父子玄番殿文荷斎、何れも同し蓮のうてなにむかへとらせ給へと、いとたうとく見えし処を、あへなくも六左衛門御首を打落しけり、かくてあたりなる僧を五六人請し、衣装なとあたへ、御菩提を憑み奉ると云置、草庵に火をかけ半 NDLJP:294】かうばしかりし者なる故、其名今に香し、
翌日廿五日には、焦土と成し城之掃地なと被㆓仰付㆒けり、毛受勝介無㆓比類㆒遂忠死たりと、再三御感有て、母妹などに堪忍領聊恩賜あり、
一賀州表御出勢之事
廿六日には加賀国御仕置のため下向有しか、五三日滞留し、利家に金沢之城に石川河北両郡を相添賜り、頓て引帰し、五月朔日至㆓北庄㆒、丹羽五郎左衛門尉長秀今度一かたならぬ忠節に因て、越前若狭賀州之内能美恵那二郡可㆑被㆓進退㆒之旨被㆓申渡㆒、即越前守に任せられ可㆑然おはさんやと戯れさせ給ひ、五月三日には江州坂本城に御帰陣有、
〈評曰、美濃国大柿之城を去卯月廿日に打立給ひ(至㆓今月朔日㆒十一日之日数にして、如㆑此大なるはか行し事、和漢に稀ならんか、又長秀利家とは去春まて牛角なるはうはいにて有し故、知行割等聊斟酌之儀有、〉
世中をめくりもはてぬ小車は火宅のかとを出るなりけり
中々色もかはらず、首をうけて終
賀藤虎助 後号㆓肥後守㆒、於㆓朝鮮㆒無㆓比類㆒有㆓武勇之誉㆒、其名香㆓于日域高麗震旦㆒也、領㆓肥後㆒、
賀藤孫六郎 後号㆓左馬助㆒、於㆓朝鮮㆒乗㆓取番船㆒武勇之佳名尤高して、香しき感状あり、後家康公に事へ奉り、寛永四年の春秀忠公為㆓恩賜㆒、自㆓伊予㆒移㆓会津㆒、領㆓五十万石㆒爪牙之臣となる、父三然は三州生国也、左馬助於㆓尾州㆒長
福島市松 後号㆓左衛門大夫㆒、領㆓於備後安芸㆒了、諸士を事外、さみし下し、諸臣の恨み多き人なり、小過を大になして行ひ、或牛割、或煎ころし、或刀脇指を取
脇坂甚内 後号㆓中務大輔㆒、領㆓淡路㆒、生国江州也、
糟屋助右衛門尉 後号㆓内膳正㆒、領㆓三万石㆒、
平野権平 後号㆓遠江守㆒、於㆓和州芳野㆒、領㆓五千石㆒其心猛くして、秀吉卿に背く事度々有しな【 NDLJP:295】り、因之領知少しとかや、生国尾州也、
片桐助作 後号㆓東市正㆒、慶長之末於㆓大坂㆒秀類公へ逆心有て、摂州茨木へ立のきしか、大坂を攻給ひし時、御母堂のおはします所をよく知て、大銕炮を打入、城をいたましむる事異㆑他なり、秀頼公を亡し、百日を過し侍らて令㆓病死㆒、億兆之指頭にかゝり、名を汚しけり、生国江州也、虎
右之七人を七本鑓と号して、感状有、其辞曰
今度信孝対㆑某及㆓鉾楯㆒、有㆘可㆑亡㆓子秀吉㆒企㆖、雖㆑為㆓前将軍信長公御連枝㆒、今也不㆑去㆓両葉㆒可㆑用㆓斧柯㆒事在㆓手裏㆒、殊柴田修理亮、滝川左近将監与被㆓仰合㆒之義決然也、依㆑之至㆓濃州大柿之城㆒令在滞、可㆑攻㆓伏岐阜之城㆒之処、柴田之先勢柳瀬表致㆓出張㆒之旨告来之条、不㆑移㆓時刻㆒走㆓帰于柳瀬㆒、決㆓勝負㆒之刻、尽㆓粉骨㆒合㆓於一番鑓㆒突㆓退群雄㆒、北国勢及㆓敗亡㆒事、偏在㆓爾之武功㆒矣、即加増領五千石令㆓宛行㆒者也依感状如件〈何も一通つゝ被㆑遺しとなり〉
天正十一年七日朔日 秀吉判
各五千石之一行を令㆓頂戴㆒、入部之規式尤勇勇布見えてけり、
評曰七人之面々、何も二百石之上下を領し有しか、頓かに五千石之地をしり侍りけれは、万之自由いといみし、肩をならへし傍輩之面々、なみをこえられぬる事を、腹黒に思ひ籠るもあり、又うらやみぬる心あさからぬも多かりけれは、諸卒励武勇之力日々に新しく、剛強に成て、度々之勝利を得給ひつゝ、異国まて退治し給ひき、
彼七人よりもはやきも有、又及へきもありしなり、桜井左吉伊木半七郎なとも
評曰、今世武名をはけみうらやみつゝ、其あたりまての鑓をと望みおもふは、

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。