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太閤記/巻十二

目次
 
オープンアクセス NDLJP:353
 
太閤記 巻十二
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○相模国小田原氏政家伝之事
 
抑北条左京大夫氏政か由来を委尋ぬるに、平相国之八男助盛の末裔、伊勢新九郎と云し人是其元祖也、於備中国本知三百貫之領主にて有しか、立身之励み尽思惟観侍れ共、事之行へき道もなし、其国之守護を可犯は理に非す、隣国謀をりみんは力乏をんとて、三貫之地を同姓の富家に売授け、路次のあしなとを求め、武略且備し士、三十余人召具し、康正三年之春関東さして武者修行に出けるか、天照大神先を奉頼はやと思ひ、至山田三七日誠を尽し祈念し了て立にけり、其比駿国之大守今川殿とて殷富なる人有、新九郎駿府に逗留し、国之仕置軍法等を聞侍るに、起るきへ家と覚えけれは、此大守に事へみんと思ひ、近習に使り臣たらん事を望しかは、即相調扈従之臣と成にけり、新九郎大器の程を大守見給ふて、三百人之勢を附給ふ、漸武勇之功も出きしかは、長禄二年十月伊豆国韮山之城主となしてけり、今川殿此節やう韮山近辺をのみ知給ひて、其外は他領也、毎物の制法等無私心さたし侍りけれは、民も親しみ士卒も四体の相随ふか如し、然るにや翌年豆州之大敵を亡し、一国平均に退治したりけり、即仮之守護職に補せられてより、飛龍在天か如く、佳運成しきて、今此氏オープンアクセス NDLJP:354直まては五代なり、新九郎万幸心のまゝなるに因て、才勇兼備りし士を撰挙ゐかは、羽翼成ぬ、七十にしてかみおろしし侍りて、早雲と申せしか、長子氏綱に家督有て、安閑無事之境界に住し終りき、氏綱之息氏康其子氏政其子氏直如此連続し、五代にして亡たり、氏政近年数国を押領し、振猛威朝恩武命、曽て諸侯の勤なかりしかは、秀吉公政道之衰たる、世を且々改めみまく欲し、津田隼人佐、富田左近将監を使者として差下し、令上京参内可然候はんや、あまたの国を領し、不君恩は人非人にこそと、理を尽し義を精し、度々諫給ひしか共、第一箱根山之節所を頼とし、第二遠国の事なれは、あしながに是まてはよも働しと思ひし故か、諫に順ふの名のみして実なく、又ひたすらのいなむにはあらて、たゝ武命に応不応之中を巧言にして、年月ををくりなは、其間に宜しき事も出来てんやと、百謀千慮し云けるは、昔も平氏の軍勢十万余騎、由井神原に陣を取て有しか、合戦の事は及もなく、剰水鳥の羽音にさはき立て逃上りしは、不知やなと云しろひ、只関白秀吉は大気者にて侍るよな、それは畿内辺の事にて有へし、当国なとにをゐては用ゐましき物をと、心のそこより存知し候故、何事もおろかに両使をもてなしけり、然間津田富田も其有増を推察し、帰り上りて右之旨言上しけり、秀吉公聞召、扨は昔平宗盛か、きせ川より逃上りたるやうに、某を心あてすよな、春は令進発其虚実を見せしめん物をと、怒りたほさるゝ行衛のほとこそおそろしけれ、
 
○来春関東陣御軍役之事
 

五畿内半役中国四人役四国同 坂より尾州に至て六人役  北国六人半役遠三駿甲信此五ケ国七人役

右任軍役之旨来春三月朔日令出陣平於小田原北条忠勤者也仍如件

  天正十七年己丑十月十日    秀吉御判

と書て国々へ廻文有之

 
○兵粮奉行之事
 
長束大蔵大輔を首として其下之小奉行十人被仰付、年内に代官かたより二十万石請取、来春早々より船に積、駿州江尻清水に令着船蔵を立、入置、惣軍勢に可相渡旨也、黄金壱万枚被相渡、勢尾三遠駿五ケ国にをゐて、兵粮を買調能に令沙汰、小田原近辺の船着へ可相届旨被仰出、何も十一月初旬より方々之催し急なりけり、諸卒路次中粮藉等なきやうにと奉行を出され、宿なともさしあはさるやうに制し給ひし故、寔廿六万余の多勢なれ共、軍法正しけれい聊の口論もなく、をたやかなりし事共なり、
 
○相州小田原御進発之事
 
去年十月小田原への御陣ふれ有し時は、多くの日数有様に覚えて、慥にも思はさりしか、天正十八年の正月も祝の紛に、はやくも日数立二月中の五日(二月中の五日一本ニ衣更着中ニ作ル)も漸々過けれは、驚き初て三月朔日之日限、頓なるやうに周障ぬる人多かりけり、五畿南海山陰山陽北陸江州濃州伊賀都合其勢廿二万騎、勢尾二州は信雄卿の兼領也、一万五千騎、甲信駿遠オープンアクセス NDLJP:355三は家康卿分国其勢二万五千騎、三月朔日に打立、其国々の便に随ひ宿陣し、泊々さし合事もなく、先陣は富士の根かた由井蒲原に充満せしかは、後陣は尾濃之間に扣てけり、毛利右馬頭輝元へ都御留守を預給ふ、即四万の軍勢にて聚楽御城を預り、洛中洛外御法度如御置目沙汰し在城たり、同家老吉川蔵人佐広家ヒロイヘをは、三州岡崎之城に、御陣中在番被仰付軍兵一万五千にて入城す、小早川左衛門尉隆景安国寺をは可召連旨にて、軍士二万にて、小田原供奉仕了、かくて秀吉公三月十九日都を立せ給ふ、其日の出立作りヒケにかね黒也、御太刀差添なとこと敷若やかに物し給ひし粧なれは、御伽衆御傍衆なとは云にも及す、異形なる出立中々言葉の可及も覚え侍らす、各善尽したる結構当りを撥し故、洛中の人々は申にや及ふ、奈良堺の津大坂なとより見物に上りつとひ、機敷を打て見物せしかは、秀吉公も御快けにみえにけり、日数程なく積来て、同廿八日ニハ伊豆の三島に着陣し給はんとの事にて、先陣之面々へ被仰出けるは、廿八日至三島参陣之条、諸侯大夫の人々、小姓五人六人召連、わかやかに出立御迎に出候へとの事なり、頓の事なれは何もかるかるしき異風体に取つくろひ出向ひつゝ、早速御着陣目出奉存之旨申上けり、
 
○従小田原頭分之士山中へ三人遣事
 

山中之城主として松田兵衛大夫数年有しか共、今度上方勢を可相防最初なるに因て、北条左衛門大夫間宮豊前守朝倉能登守を加勢として可差越之旨、従旧多之事にて有しかは、正月廿日三人をめし寄、右之趣氏政申渡し、数盃之後、左金吾に兼氏之刀、間宮に国吉之刀、朝倉に脇指を賜り、各数年積累之武功、今度山中籠城之一挙に在へしと也、取分間宮は老武者故にも在か、極忠死云やうは、何様にも可忠義之条、御心を安んし給へと、ふつゝかに申立たりしは、あつはれ其器に堪たりと満座噇と感し出ぬ、朝倉は反之広間に出て親しき方に付て云やうは、北条之家滅亡こゝに極ぬ、山中之城は普請等あさはかにして、多勢を請たもつへき城にあらす、然るに旧臣之者共を籠をき給はんは、無か如くにおほされての事になむ覚えたり、誠に命は因義軽しと云則又因事重くも有へしや、某は左金吾遂討死なは、其に相順うへし、当城十ケ年の政道を見るに、万事理に違ふ事のみ多かりし間、はかしき事は有まじきぞ、意得候へと云含つゝ別れにけり、

 
○小田原韮山両城押之御人数賦之事
 
秀吉公御陣屋へ入せ給ふて、御行水なとし給ひつゝ、御気色にて御清談あり、かくて箱根山韮山々中之絵図を見給ひ、とかうせしまに夜半の鐘声かすかなりしかば、福原右馬助をめして、明日は山中之城を仕寄を附可攻掛之条、家康卿御勢は小田原口へをし向られ、信雄卿之御勢細川越中守蒲生忠三郎中川藤兵衛尉森右近等をは、韮山之城のおさへとして残しをき、山中之城へは秀次卿を其日之大将とし、旧臣之面々其勢五万余騎を以可打囲之旨、ふれ可申と被仰付けり、
 
○間宮豊前守松田兵衛大夫事
 
間宮豊前守好高は、正月廿日の日の辞に、恥はかゝすまじきとて、孫一人ありしを、小田原へオープンアクセス NDLJP:356とく帰りて、名字を続でくれよと云含めし処に、祖父を見すて名字を清むる法や有とて、十五歳になりし彦次郎、固辞して行まじき旨達ていひしを、なんぢは不孝第一の者なりと、かたくいましめつゝ、熊坂か子十六歳になりしを付てつかはしけり、城守は松田兵衛大夫といひし者なりしが、わづかなりし身上にて有しにより、北条左衛門尉、彼是三人加勢したまひしなり、兵衛大夫籠城の事かねて可忠死に相究め、松田尾張守かたへ書簡を以て云けるは、某かすかなりし身上にておはしませば、多勢を引請運をひらくべきやうなく候、然といへ共、御名字をけがし来たる験に、可討死也、子孫相続の儀憑み入由、書簡有しは、寔に義士の道なるべし、兵衛大夫豊前守山中之城にての働き共、危き節を救ひ死を善道に守りしも、又類鮮き節義之士也、
 
○山中之城落去之事
 
秀吉卿三島之御陣屋へ御立寄もなされず、諸侯大夫を被召連、山中韮山より西の高山へ上せられ山中之程を能下墨給ひつゝ、明日より仕寄を付可相攻之条、三島辺其手寄に随ひ、左様之道具を取寄可申旨、御使番を以被仰付、又三枚橋へ御勢を被打納、翌日廿九日諸勢を催し出、亦彼山上せられ仕寄道具小屋具等、三島へ取に可差越旨に付て、各及其沙汰へり、巳之刻秀次卿備之上なる山へ攀登り御馬を立られ、中村式部少輔木下美作守をめし被仰けるは、此辺より見え渡りたる出丸までは、十町も有へきの条、今少陣をよせ仕寄のねごやに用ゐ可然旨仰しかば、式部少輔奉り御諚之趣御尤に候と申上立帰けれは、渡辺勘兵衛尉出向ひ、只今之仰は何事にておはしまし候そやと問しかば、如此之御諚にて有ぞ、いかゝして宜しからんとなり、渡辺とかく是よりは山峰多くへたゝり、不精之条某御さきへ参、見計ひ御左右可申上之条、一左右次第被仰付候はんやと云しかは、尤なり急き参見つもり候て、様子申越候へと有により、鳥毛の大半月之さし物をさし、七寸余りの大黒と云馬に打乗出しかば唯黒出がゆるぎ出たるやうになん見えしか立帰り見え渡りたる出丸の普請等、若あさはかにも有て攻破らるへうにも見えなば、まねき可申之条、御勢を寄られ候へと約し置、近く走寄みれば、遠く見しには相かはり、思之外普請等そさう也、去共今少しミネ々かさなり、しかとしたる注進は、いかゝと思ひ返し、亦つぶらを乗越見れば、出丸へは一町計有へきかと下墨候し処に、はり番に出て有し五六十人之鉄炮之者共、いかゝは思ひけん引て入しに因て、勘兵衛尉弥近う乗上しかは、其辺へ出はり有つる鉄炮共一度につるへ立、時を作り出たり、然共渡辺を追下さん共せざりしなり、かくて鉄炮煙のすきまより見れは、出丸崎のはゞやう三十間はかりなり、然はいかほと多勢でもあらばあれ、働かん勢は五六十人より外はならさるへしと思ひ、如此之儀に候条急き御勢をよせられ可然旨、使者を以も申入、又ざいを以もまねきしかば、一二之備を其備なりにおしつゝ、地煙を立七八町も有し所を、即時に式部少輔も走上りし間、渡辺使者を以早速御かけ着御尤之由申入しなり、かゝる処に勘兵衛取固し所へ、心かけなる者やう五六人来たり、誰々参りたるそと、渡辺に詞をかけしなり、勘兵衛式部少輔へ使者を以、もはや仕寄にも及す一旦せめに成へう覚候条、はオープンアクセス NDLJP:357やくかゝり候はんと申けれは、是非無用たるへしと、使者及三度達て被留しなり、然共他之勢攻かゝりなは、攻かゝるへし、能に計ひ候やうにと有しに因て、爰は我に任せおかれ候へと云すて、馬に打乗堀きはへ馳着と否堀へ飛入しかば、跡より十人計引つゝひて飛入しに、はや渡辺は又真先へ打上り、即先をさきに塀の上へ乗候へは、御本陣より鳥毛の大半月が振廻を見よやとのたまひつゝ、御尻をまくり打たゝき、はや大貝を立よと仰しかば、いかにも音ふとに吹出ぬ、勘兵衛あとを見かへり候へは、成合平左衛門尉高屋助八郎坂井兵右衛門吉田武左衛門尉渡辺新右衛門赤井久左衛門などもつゝいたり、出丸のはゝ三十間許長さ三町余有しを、敵に追すかひこみ入しが、さすがなる敵共にて、二三度帰し合せ戦んとせしを、渡辺大声を上すきまをあらせすをひ立、三之丸しをりきはまて追入しか共、他之勢は一人もまじへす、中村か勢のみなり、右之谷をみれは大母衣かけたる武者二騎走行しか、それにをしつゝきあまた搦手へ乗入、二人はやがて首とつて御本陣へ持参し、御目にかけ候へば物はじめよしとて、金銭之貫首をといて被下けり、其姓名を尋ぬれは青木新兵衛とかや、渡辺三之丸門かくしに相添て、上簀戸有しを付入にせまく欲し、見しか共、手前無人でもあり、又は向ふと左之塀より、多く鉄炮を打かけしかば、しばしためらひ候き、去共簀戸口へ相つきしをりをは此方へ取て、しばらく有之内に、走来り渡辺に詞をかはしける、其姓名を聞ば、坂井兵右衛門尉渡辺源七郎中川今平中村三次土方孫二郎吉田久左衛門尉等也痛、はしや此者共は鉄炮にあたり皆果たりけり、源七郎のみ手や浅かりけん、勘兵衛にはなれず跡をくろめしなり、此所鉄炮筋故時のまに五六十人手おひ死人出来しか共、それをも事とせず、大崎玄番允稲葉内記しづとあゆみ来り、勘兵衛出丸よりの仕形扨もうら山しき振廻なりとかんじけり、かゝる処に寄合勢之溢れ者共、搦目手へをしまはすよとみえしかば、二之丸塀裏にてうちし鉄炮共、からめ手を無心許や思ひ助行しやらん、今は鉄炮をさのみは不打により、渡辺真先にしをりの垣へのぼりこえ、廿間計も追立すゝみしかども、二之丸の門権丈夫に有て、乗入へきやうもなきにより、門之脇を打やぶりこみ入候へは、れきの兵共得道具提け来り防き戦ひしを、勘兵衛尉大音声を上、手之者引連一鑓参候はんと追立けれは、そこをも引て二之丸へつぼみ候処を、をしつゝきこみ入候に、三之丸と二之丸との間に、大なる水ほり波蕩々たり、是に十間あまりのはし有しを渡りすゝみ行時は、敵と打まじり追すかつて追入しゆへ、二之丸の門をは立させず付人に乗入見れは、よろひ武者所々にむらかり渡り有しかども、目をもかけず本丸を心かけすゝみ行みるに、大杉あまた有ける所より、鉄炮を少々うちかけ候へ共、大杉之本へはしりつき、矢切之上へ勘兵衛尉乗上り、内を見こみ候へはひろ間あり、人多く入こぞりせはくや有けん、大庭へなだれ出し武士二百余なからへ、めん得道具をもちて、此上はと思ひ入しありさま、神妙にそ見えにける、然る処へ渡辺飛ており、大声を上つきかゝりけれは、いぬいのすみの矢くらの段へ引上候に因て、息をもくれす引付こみ入しかば、其段も事外せばかりし故、右之方へ過半おちまろひ、残りたる兵共は高き段、渡辺はひきゝ所に在て、鑓を以てたゝきあひし内に、滝孫作渡辺藤右衛門尉オープンアクセス NDLJP:358等助来りしかば、手勢引つれ芝手を段々にをし上りみれは、又少し高段に敵百人余居たりしか、城主松田兵衛大夫、加勢の問宮豊前守、もはや成まじきとや思ひけん、切腹せしかば、弥渡辺手勢之あふれ者とも、得たりかしこしと唾と乗入てこそ、其丸も落去してけれ、かゝる処に黄母衣之衆三騎見え来り、渡辺に詞をかけ、今日出丸より本丸まてのはたらき誰先をあらそふともみえす、一人の手からさりとてはとかんじあへりき、此丸にては方々よりさしつどひ乗入し間、中村馬あるしを本丸のやくらにをし立、今日山中之城は式部少輔一人のみして乗とりしぞかしと、大なる声を以よはゝりし也、かくて式部少輔は渡辺手柄をつくし候故、莫太なる忠義を致したると悦ひ、其感声夥しく有し故、今に香しくそ聞えける、秀吉卿よりも式部少軸今日の大忠悦ひ思召との御使及両度、甚面目之至とかう申に不足也、式部少輔に咡るけるは、小田原にあたり、は山茂山打つゝき見え申候、今日之やうに城を攻破り諸卒つかれたる時、功者なる敵は夜討をうつ物のよし承及候、あの茂山につゝき広き平有と見え申候、此だいらに御はた立られ、勢を聚られ可然候はんやと云しかば、中村尤なりと同し、勘兵衛さしづの所に勢を揃へ、夜番大かゝり等油断なく見え、御本陣之用心も宜しきに因て、御とのゐに有し人々此旨申上しかは、古兵かなと御感有し也、

堀尾帯刀評曰、中村式部少輔駿河国を拝領せしは、豆州山中之城を中村一旦に攻取候し武功之故也、此いきほひ日之本迄達せしなり、誠其本在渡辺勘兵衛歟、然るに渡辺立去やうにせしは私心なるへし、予今為恩賜之地出雲隠岐を領し了、報国恩は高士を抱置に有へきなれは、渡辺を望み思ふ也、然は於雲州之内島根郡は宜しき地、湖水を南にし蒼海を北にし慰多き所なれは、是を可施与とて飛羽檄云遣しか共、伊予国へ先約有しに因て、雲州へは不参しなり、

 
○敵方所々人数賦之事
 
小田原にも城の内外普請等夥しき支度に見えて、伊豆相模武蔵上野下野安房上総下総之勢四万有余、人足三万人を以昼夜を分す急しかば、仲春には相調けり、去残臘の比より沙汰せしは、秀吉公卒二十五六万騎三月至当国発向といいひしか共、城内城外普請等きらよく出来はしつ、多勢ではあり、箱根山と云節所はかゝへつ、何か恐ろしからんとて曽て痛む気色もなく広言し、羽柴参陣にをゐては、勝負の軍して都へ可追上など訇声のみ多かりし、かゝる処に上方勢はや至駿河辺充満し侍る由聞えけれは、上下のをもはく事かはつて、周章騒ぎ役所を定、勢を賦きつかはしける所には、

宮城野口番手 松田尾張守、上田上野介、原式部大輔安房上総之国人都合其勢一万二千

湯本口 千葉新介其勢八千

竹浦口 北条陸奥守成田下総守、壬峰ミブ上総守皆川山城守都合其勢一万

右の如く三ケ所に役所を構へ上方勢を防き支る程ならば、いかゝして入来たらんや、羽あるものは、いざ不知とてゆるやかに見えてけり、かゝる処に山中之城落去之由云出、ひそめき渡りし処に、落人来てかくと申ければ、小田原之事は申にや及ふ、関八州悉く気を失ひ恐れオープンアクセス NDLJP:359わなゝき出、里よりは山中を心にくしと思ひ、財宝を送はこべは、山中よりは又渡辺さして便に順ひ、南去北来のいそがしさに、世のうきを取そへ、行末の事いかゝ有べしやと、思ふどちは打なけきけり、かゝる時のくせに、上方勢の夥しきをことしく云なす人情にや有けん、五十万騎野も山ケ節所共いはず、をし来たるよし、のゝしる声々、岐にみちて止さりけり、

評曰、世人は多くをのが威勢の、たくましきをのみ頼として無遠慮物なり、されは無遠慮則有近憂と云伝えしも、実にかやうの事なんめりと思ひ知れけり、氏政去冬の比いはれしは、秀吉是迄は、よも発向せし、縦左ありとも節所に引請、合戦を挑み追上せば、快き事成べしと、大に驕りし其害可見、

 
○小田原籠城之事
 
卯月下旬小田原より箱根山へ出し置し防之勢、かねてはことしく広言して、此節所を翼あるものゝ外何者か越来たらんやと、欺き笑もひ居たりしが、三所之役所を上方勢事ともせす、峰より嶺をつたひ、谷よりおかに出、二十六万騎之勢時の声を挙ひゝき渡て、平等に越けれ共、役所之勢一支も支へす、卯月朔日小田原へ逃入しかは、惣軍是はとのみ云しろひ、兼ての広言かひもなく、やう惣構之人数賦をそしける、秀次卿は家康卿の御勢よりは、あとにをし給へとの事なるを、いらつて先立給はんとせらしを、徳川殿より村越茂助を以敵城近う有しに、暮かけて下山には陣とらさる物のよし軍書に見え侍る条、今夜は是に御陣取可然おはさんやと諫被申けれは、即其義に応し、其夜は箱根山の半腹に備を固め給ひつゝ、大箱を焼せ用心きびしかりけり、卯月二日四方の攻口を定め、未明より、くると引巻、仕寄を付て昼夜を分ず、弓鉄炮を射入うち入鯨波地を動し、夜に入は火矢を四方より射入鉄炮を良角よりつるへ初めけるに、しはし有て子之方にてうち納れは、城中にもまけじとや思ひけん、つるへ返し時を合せしか共、多勢なるにやさのみ勝劣もなし、毎日持楯掻楯つきよせ攻寄、五月中旬之比は塀際にひしと着て物語などし侍る事ありけれは、城中群疑蜂起し痛みけるとなり、昼夜の廻番かずにあて、夜は挑灯の光鉄炮の火に、五月ヤミも名のみにて、城中の上下これからのすさまじさに、身はうつ蝉のやうになりはて、ひとこゝちもかすかなり、去ども心有人たちは、其気弥あらたに見え、諸勢をはげましけり、

長陣のくせに虚説を云出す事共は、家康卿信雄卿一味し給ふて、小田原城中と内通有やうに誰しかと云とはなしに、げに左も有つへう陣々云しろひ、次第に其説つのり侍るやうに有によつて、秀吉公へ忠節かほに知せまいらせし方も多かりしかば、いかゝおほしけん、信雄卿家康卿之陣所へ、秀吉公案内もなく、小姓五六人召具し不計フト行給ふて、いかにも打とけたる体に物し、きこしめし物なと御所望有つゝ、半日の客のふりして、二亭に終日を送立給ひしかば、此一挙にて陣中をだやかに静り反りしは、中々及ばれざる思慮たるへしと、其比をやみもなく諷しあへりき、今以珍し、又五月雨は日をかさね止もやらず、摠陣何共なうクタビれ果たるやうに、秀吉公ほの聞給ふて、早歌サウカをうたひ、おとりをかけ引つし給ひしかオープンアクセス NDLJP:360ば、上下の気うきやかに新しく成て、幾年を経る共いかでか労せんやと、こゝもかしこものゝしり出にけり、或時はすきやをあらましうかこひなし、橋立の御壺玉堂の御茶入をかさり、家康卿を請し入相客に細川玄旨斎、由古法橋、利休居士、或時は信雄卿忠沖氏卿景勝羽柴下総守なとに前波半入をくはへ、御茶を賜りしか、十六七歳二十計なるアヲ女房にきうしをせさせ、種々の名酒を以数興をつくし、右のわかきはらに杓をとらせつゝ、こうたを所望せよかしと宣ひしを、幸に半入さし出、一ふし望み侍りしに、声うるはしくうたひ出しかば、満座一入うきやかに、長陣の労を奪れたるやうに、われからなく見えしを、殿下見給ひ立ておとれよと仰しかは、四五人立つゝ手しておとり侍りければ、金の扇の匂ひいとけやけきを、十本計取出したひ給へは、一入其しな弥増座中薫し渡り、とんどろ、とゝろなるかまも、とゝろなる釜も、湯がたぎる、やたきるとうたひしが、御釜のふたも、わきかへり柏子を合するやうになん有し、寔に自然なるへしや、

評曰、秀吉公之格を大形之賢主よきとし似せ給はゝ、いかゝ拍子にあはんや、此人は勇甚たくましき素性にして、智之明も足しかば、何事をし侍りても、拍子に違ふ事なかりし也、如右之群疑を静め、諸勢を慰め如此浮やかにし給ひし才には、中々信長公も及ましきか、

 
○上州松枝之城主成降人事
 
去程に羽柴筑前守利家、同子息肥前守利長は、卒三万騎越後路を経て、至関東発向せんとすれは、残雪夥く余寒はけしう、通路自由ならさるに因て、二月十六日賀州を立濃州に出、木曽地を経て向ひけり、相随ふ人々には越後守上杉弾正忠景勝、信州之住毛利河内守、真田源五都合其勢三万五千、利家を大将とし上州松枝之城を打囲み、明日よりは仕寄を付可攻干との評議にて、軍法彼是利家申出されけり、城主大道寺駿河守、息新四郎も内々は上方勢寄来たらは、一軍ヲせんと待かけたれ共、案に相違し事外多勢なれば、なまじゐの事を仕出し、付入に成ては、いかゝ有へしと、城中を守固めにけり、去共始終難拘思ひ、甲を脱て降人と成、先駆之勢に加りなんと、其旨歎きければ、利家其可否を思慮し侍るに、此城を攻ほしなは、多くの日数を経へし、其上能兵をも亡しなん、所詮降するを幸に明日城を請取先駆の勢に加へ、八州城々之案内せさせ、悉攻落し、其旨小田原城中へ告知せは、成田下総守上田上野介等を初とし、大名共迷惑に及ひ、心も変しはかしき事あらし、然間城を請取可然らんに相極め、其かため精しく相調、人質を請取、翌日三月十日城を請取、先かけの勢に并せ案内を遂させけれは、一きはゝかも行、利家忠義のほともふかう成にけり、
 
○松山之城降参之事八王寺落城之事
 
松山之城主上田上野介は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、此四臣に城を預けをき其身は小田原に籠城し侍りけり、三月十日筑前守利家松枝之勢を案内者として、松山之城に推寄、遠巻にし先責具なと下々取につかはし、山をも里をも荒ししかは、難拘や思ひけん、彼四臣之者共利家之陣へ僧を以、降人となり、先駆之御勢に加り、可忠節オープンアクセス NDLJP:361条、被一命候へ、然るにをゐては本城二之丸をは渡し奉り、三之丸には諸士の妻子等を入をき、四人之者其は三千之着到にて可御先駆之旨申けれは、利家則令同心本丸二之丸已下請取、三之丸には四人之者望のことく妻子共を入置、先駆の勢にくはへ、案内者とし、十九日氏政舎弟北条安房守氏邦か居城、鉢形の城にをしよせ仕寄を付、弓鉄炮を打入、時の声天地もひゝく計なり、かわり、沼田之城主猪俣能登守も此城に在しか、近年於此辺挑みあひし合戦のテダテとは、上方勢の進退カケヒキはるかに越、よろしく覚ふそかし、困窮に迫り屈伏せは、後難も耻し、所詮降人と成宜しからんやと、五六人之家老に相議しけれは、尤然るへからんとて皆其義に同し、即松山之四臣難波田、木呂子等に付て侘しかは、是も城を請取先駆之勢に加へにけり、利家降しつる城々の勢をあはせけれは、五万騎計に成て、案内者は多し関八州を竪に横に相動き、在々所々悉く打なひけ、味方になし、数ケ所之城の降人をめしつれ、利家小田原に参陣し、此旨精しく申ける処に、秀吉公いかゝおほしけん、其感思之外微少なりしかば、利家今度之忠義は莫太の事になん覚え侍るに、反したる事さま、唯妬みおほさるゝにて有べきか、いかゝありし事にやと、親しき方に付て評しけり、其夜御前にして今度筑前守あまたの城々属味方ぬる事一かたならぬ忠義なり、雖然七八ケ所の城々、せめて一城は破却し撫切にし宜しからん物をと上左し給ふ、其旨利家親しきかたより告知せしかば、利家承りげに仰せ尤なり、八王子之城未極こそ幸なれ、頓て攻干悉撫切にし、首其可実検と思ひつゝ、同廿二日御暇申、本の陣へ帰にけり、秀吉公おほし給ふやう、今度利家、城々扱にのみさたし、一城も不責干由上左しつる事を承、帰たる気象なり、木村常陸介も令参陣よきに計ひ、無体をし侍る事あらば、諫とめよと、仰含つかはし給ふ、案の如く、利家我陣に着とひとしく、北陸道の衆井今度降人之城々へも、明日廿三日八王寺之城に可推寄旨触けるに依て、大道寺駿河守、上田上野介内、難波田木呂子金子山田小幡上総守等か勢都合一万五千、今度抽忠功、所領安堵せはやとおもひけれは、亥之刻より打立、丑之半に八王寺に参陣し、案内は知たり、即町を打破りしかども、夜深かりし故にや有けん、本城遠うして不知けれは、思ひのまゝに首捕てけり、陸奥守小田原人城之時、本城を横地監物、中之丸をは、中山勘解由助狩野一庵、山下之曲輪クルワをは近藤出羽介にそ預けをかれける、降人之勢山下之曲輪クルワへ押入けるに、近藤物具取合せ防戦ひ、しはしか程推つをされつ苦戦しつゝ、夫兵の道は名字の汚れん事をふかう恥る習なるそ、義を能守れは子孫の面を起し、及不義所所を、とかうのかれぬれは面を汚す事、和漢符節を合す、いかゝおもふそやと歴々の士に云つゝ、かしこに推諸此にひらき合せ戦て、近藤は終に討死してけり、かゝりしかば、夜も明四方弥さはき出ぬ、勘解由つねは組かけて一千余騎の小将たりしか、極連迫り来て、今は心有者二百余人下々百人計こたへたり、此等に向て云けるは、夫士之格は義を先とし名を宗とする物ぞかし、某数年奥州重恩に沃せられ、親族まて年久しく其沢を蒙りしかは、奥州小田原入城せられつる折節、生死は因時之宜用捨候、当城之事御心を安んし候へと約し侍りしかは、多勢を見て豈のかれんや、忠死今当然之理に中れり、若私意を容て其期をとかうせば、汚名なからん跡に絶す、先祖オープンアクセス NDLJP:362之名字を汚すべし、某はかく極めたるぞ、面々は老たる父母のため、のかれたき子細あらは、只今落よ恨を遺す事更になきぞと、再三云しか共、日来情やふかゝりけん、こは口惜事を承る物かなとて、心を動ぜす、皆々思ひ切たる形勢、遠くは義経之最期、近くは信忠公切腹之時、諸卒心を一致したるに等し、漸夜も明けれは、筑前守利家参陣有しに、大道寺なと山下を破却し、打捕し首三百五十余騎備一覧しかは、手柄に候と云もはてす、中之曲輪へ責かゝりけれは、勘解由助狩野一庵取しつめたる体にて、下知しけるは、弓鉄炮も敵を引付浮矢なきやうにと制しけれは、見るかうちに手負死人数百人に及へり、利長小性生年十六歳一番に乗入組討し首捕て、大音藤蔵と名乗事、再三に及ひぬ、又雨森彦太郎と云し者も大音にをしつゝき責上り、二番に首捕て利家父子之前へ持来たりしかは、一番首に記し付よと有しを、いや一番は大音藤蔵にて有し条、某は二番に記させ給へとて、一を辞したりけり、利家利長もいしくも云つる物かなと、雨森をふかみ給ひし気色なる故、一番首と付たるよりは、遥にこへて気味甚長せりと、皆人かんじしへりき、傍人曰、大音は其比利長に勘当せられて居たりしに因て、肥前守前へ披露ならざりしかば、せめて傍輩に知せんと思ひ再三名乗廻り、しはし有て利家へ持参せしとなり、

評曰、雨森か高名を一番首に付よと有しを、二に辞したる心中能おもふへし、寔義士なり、大坂虎卯の戦に首を捕し前後の争ひ、耻をもかへりみさりし事になむ有しもあり、我は先なりし、他は後なりしなと、のゝしる有さま雨森亡魂さぞをかしく侍るへし、或聊のはたらきを、ことしく云出、恥辱に及ふも有、或甲を拾ひ得ては、首に甲をきせ甲付の首と記されしも有て、いれこの某と、うしろ指をさゝれ侍りしも有しとなり、雨森がやうなる心中は、今世まれなり、吁くたれる世となりししるしかや、角て藤蔵をもめし直し、如前々近習に加え侍りき、

本丸に在し横地監物は、かゝる挙動におち、わななひて、一支もさゝへやらす落失ぬ、景勝の勢其をも不知して攻入けるに、一人もなかりけれは心安きさまにて、本丸に入にけり、中山勘解由狩野一庵は、あまたたひ突て出、鑓を合せ太刀打し、懸抜懸入かしこに露れ、こゝに隠れ、火を散してそ戦ひ、離合聚散数刻に及ひ、残りすくなにうちなされ、今は十五六人残りしかは、もはや人種を尽さん事も益なし、いさ腹きらんとて引入しが、其後はあつまり反て音もせず、解勘由助三百余人の者共を悉く用に立、自相当る事数十度に及ひ、又丸之内へ引入しを、利家高所より看得し、大道寺か家中にあの死くるひせし者と、知人はなきかと問給へは、金子紀伊守小岩井雅楽助承り、年久しく云かはせし者に候と申けれは、利家右之者は、いかなる者ぞと尋給へは、一人は中山勘解由助とて、武名勇功人の免し侍りし者に候、今一人は右筆にて有しか、数度先をかけ佳名重累せし故、小将の数に加りぬ、長子狩野主膳正に家督し、今は落髪の身となり一庵とぞ申ける、旧友之事御用はしおはしまさは、御使申さんと有し時、無類弓取と見えたり、願くは助たき事ぞかし、急き参て其沙汰に及候へと有しかは、両人承、是は願ふ所に有よとて、先あしはやなるかち立の者を以、此旨かくと申候へ、オープンアクセス NDLJP:363某も頓て参らんと云つかはしけり、此者中山か丸へ参、門を啓よと呼れ共答る者なし、金子も頓て馳行落たるにやと思ひ、門の脇をおし破り入みれは、勘解由か本妻数ケ所の疵を蒙り、よろぼひ出て、それに見ゆるは金子殿にておはしまし候や、よくも見え給ふ物かな、勘解由助は子共二人助六か妻一人さし殺し、ぬしも腹を切て侍るなり、みつからも其かすにておはしまし候しが、かくながらへて候、金子殿御手にかけてたび候へ、とく同し道に旅立申たきよし、なけきけれは、金子承、いやとよ勘解由助を助け候へとの御使に参たるに、自害のやうす一入残多存候、せめての事におかた助り給ひて、なき人たちの跡をも問まいらせよと、諫め止にけり、

或曰、横地監物は旧臣にてもなかりしか、陸奥守に近習し寵を街ひ、立身の便を尽し侍りし者也、其あらましに心を付、みし人の云けるは、奥州好むかたに付て、事をすゝめ、百姓をせたげては金銀を取、諸士をなやまし、浮利をすゝめ、美色珍玩を以機嫌をよくし、悪行あれ共諫め正さゝれは、逐月経年権威ことしくなり出、のちは小将の数に加り、執権之身となり、本城を預りしなり、武略の道は聊も不知、唯弁舌利口を事とせし者なりき、近藤中山狩野は、きらよき忠死をとげ、今此チヨ上かうはしく侍るに、横地は落人となり、二三日過て、一揆に首をとられ、子孫まての面を汚しけり、呼横地かやうなる小人は、国家を守る人のためには毒虫なり、此虫ときめき出、執権之座にあらは、何方も八王寺のやうにあらんか、小田原落城のゝち、中山か長子助六郎、一庵の子狩野主膳を、家康公よび取給ふて、如形之地を恩賜有、是則勇は子孫の面をおこしぬると云事、在中山狩野か、横地か子孫さぞうらやみ思ふへし、助六郎を改て、勘解由に成給ふ、其弟左助〈後号備前守〉水戸少将殿へ属まいらせられ、一万石給て後見となし給ひけり、忠義之至る所天感呼無カナ天心、八王寺之城を利家一旦に攻落し候故、家中之面々能働有しか共、何も辞しあひ謂ざりしに因て、略之、呼惜乎、

 
○武州鉢形之城之事
 
鉢形之城主は北条安房守と云しか、氏政之舎弟なるに因て、関東堺目遊軍のため、鉢形に有しを、筑前守利家謀計を廻し、御味方になしつゝ、勢は先駆に并せ、其身は山下之青龍寺にをゐて落髪の姿となし、其後賀州へこひ下し置しが、病に犯され失ぬ、
 
○小田原間者并忍之城事
 
忍之城主成田は常に連歌にすき侍りければ、毎年秀逸之句を記し付、紹巴法橋へ使者を上せ点を取にけり、将軍の右筆にて有ける山中山城守も、同しすきにて侍れは、兼て成書簡因み侍し事、秀吉公内々其あらましを知給ひしかば、山城守をめして宣ふは、忍之城主成田下総守、小田原籠居之由なり、ひそかに遺使札心を変し候やうに、計ひ可申旨仰す、山中奉り何とぞ才覚致しみんとて、成書簡其状曰、

一封寸志了、仍年々預温問事甚以恐悦之至、更以甚深候、就中関八州氏政家人之城々、七八ケ所或致落城或成降人、了、然者其御城涸魚之迫眼前候、貴翁先祖之家業絶不絶オープンアクセス NDLJP:364昌不昌在唯今之寸思、秀吉御前之義宜執申之条、可御心候、急被御意尤候、委曲使者可芳意之条、不禿台、恐惶謹言

 六月廿日            山中山城守

       成田下総守殿 人々御中

と書て密通之使者夜半に出しつかはしけれは、無恙成田か陣所へ参、此旨かくと云入しかば、成田使者に対面し、口上之趣承届、けに左もあらんとて、随此諫累祖之名字を相続し、祭先祖事不絶やうにせばやと思慮し、返書に曰、

御内状之趣忝次第難楮上、御前之様子宜様憑入外無他、委細之義マカスル御使者口上之条、止管城公、恐惶謹言

 季夏念日           成田下総守

            山中山城守殿  回章

山城守彼状を披露しけれは、関白殿事外御機色にて被仰けるは、小田原程有まじき計策是なりとて、家康卿をめし謀り給ふは、成田返簡を氏直かたへつかはし、八州之城々何も秀吉に対し、粗内通有と見えしなり、急降人と成続一命然之旨内通せられ候へ、中々成田に、かぎらず、何之城主も、降人となる密通有よし、ひそかに告知せられ候やうにと有しかば、頓て其沙汰に及ひけり、かくてより小田原城中群疑蜂起し、不和の岐と成て、兄は弟を疑ひ、弟は兄をヘダて出けるに因て、父子兄弟之間も不睦、况其余乎、成田か挙動氏政不審思はれ、登城候へ可相議事有とて使者を立けれ共、病に事よせ不参けり、使者及千三度後、其方事心を変し候由、敵方より告知之なり、然共可虚説と思ひ返、其実否可相尋ため度々使者をつかはし侍れ共、不来候間、今度は医師安清を相添被申けれは、成田奉り、仰之旨忝奉存候、忍之城以多勢打囲み攻詰候故、当城に籠申候諸卒共、其父母妻子攻殺れん事を歎き申により、何やうにも秀吉公御哀憐偏に奉憑由、山中山城方へ及返簡候旨有のまゝに申けり、然間成田下総か役所四方に堀をほり柵を付、氏政馬廻之組頭山上郷右衛門尉を奉行として、七八千の勢を引分番を付て置しかば、城中危き事月に添日に増急にそ成ける、

 
○岩付之城
 
武州岩付之城主、題日一本作岩付之落城之事北条十郎〈氏直舎弟〉は、本丸をは伊達与兵衛尉、三之丸をは媒尾セノヲ下総守片岡源大左衛門尉に預けをき、其身は卒三千余騎小田原へこもりにけり、彼城可攻平旨被仰出、打向ふ人々には、浅野弾正少弼木村常陸介本田中務大輔都合其勢一万余騎、六月廿三日之朝噇とをしよせしかは、町を破られじと、媒尾下総守片岡源大左衛門尉小将として張出戦ひし処に、本田平八郎〈中号美濃守後務長男也〉行年十六歳面も不振鑓を打入攻込しかば、媒尾片岡も無隠弓取なれは、一足も不引退鑓を合せ、推つ推れつ相戦、勝負まちなりし処に、跡より新手いさみに勇んてどつとこみ入ければ、痛はしや心は剛に進と云共、媒尾は平八郎にうたれにけり、片岡は痛手あまた所をふて果ぬ、此両人討死せしかば、こゝかしこにて防き戦ふ兵共、引色に見えにけり、味方利に乗て付入にをしこみ、赤座久兵衛尉手之者、首三十余討捕、秀吉オープンアクセス NDLJP:365公へ持せ進上しければ、御感之旨御書をなし給へり、二之丸を取て息をもくれすせめいらんとせし処に、伊達こらへかね笠を上降参を請、城を相渡し一命を助りぬ、小田原籠城せし者の父母妻子等、悉く三之丸に入番を付置にけり、

評曰、岩付之家にをゐて、春日河辺細谷とて三人之宿老有、何も小田原へめしつれ籠城有、伊達与兵衛は常出頭にて、十郎家を進退し、テウにほこり、威甚つよかりしか共、弱兵故事の急なるに及ては、色を変し、よはと本丸を渡しつるこそ、あさましけれ、此伊達は膾炙主口以寵快逹好所以得権て、おのれのみ楽み、衆を脳す、此小人ときめき出、十郎に恨ある諸卒のみ多く出来、毒虫とは成しなり、

八王寺落城に因て生捕共多く有しを、秀吉公御本陣へ被召寄にけり、陸奥守卒三千五百有余之勢、小田原籠城有し諸卒の父母妻子共、船五六艘にのせ、小田原の沖を通りけるに、海手の役所に備へしは、八王寺之勢と見えたり、暫く鉄炮を止て聞候へ、此船中に在し人々は、何も八王寺より来りたりしなり、一昨日廿三日落城に付て其城に籠り侍りし、某之父母某之妻子と二百人計の仮名実名を呼て、高声に名乗しか共、方便て呼ふにやと意得、更に請も付す、急き漕通れよと云て、鉄炮をうちかけにけり、しかは云て有つれ共、能似たる事共名乗し故、おぼつかなくさすが無心許思ひ、今少したしかに聞てん物をと千悔せし所に中山掃部助狩野一庵首を箱に入、僧二人に持せ中山助六郎狩野主膳は是に渡り候や、父に対面候へと呼りすてゝ河原に置て帰りしにこそ、扨は八王寺落去こさめれと、あきれつゝ籠城之諸卒、此一説に心もくれはて、父母妻子共を敵陣に生捕れ、重き罪にあはせては、役所之御番も得こそ勤まじけれとのゝしり出、此上御成敗に被仰付候はん共、父母を捨ては、生ても其甲斐なしと、しみと歎きつゝ、番等ゆるかせになり、奥州も小姓五六人之体にて、役所を固め居たりけり、如此城中さはぎ立しかば、中々籠城もつゝくましく思ふ所に、又岩付落城之由、葛原三右衛門尉と云者来て、北条十郎にマチカく寄て、岩村之城去廿五日落城し、御上は三之丸におしこめられおはしまし候、某の父母は何れの地、某妻子は三之丸之次に番を付られ有しなり、又誰々は討死、それは降人の衆なりと、籠城之者をよひつゝ云しを聞て、かなしむ者は多く、悦者は降人と成し親族のみそかし、即文共をとゝけ申候、御返事あらは、明日これへ出あひ候はん間、給り候へと云すて帰りにけり、十郎殿女中の文に、

一筆申まいらせ候そこほと日夜の御きつかひかろからぬ事にこそと存参らせ候、左候へはこのちの事おひたゝしき上勢むかひ来て、あやうく見えいかなるうき目にもあひなんやと、いぶかしく存候処に、としより共さいかくにて本丸二之丸を相わたし、みつからなとは三之丸にをしこめられある事候、まつ御心やすくおほされ候へ、され共いまたやすからぬ御事候は、そもし様いそき秀よし将くんへ、御みかたなされ候へ、左もあらぬほとならは、ことしき、せめにあはせ候て、そのゝちは、おもきつみに御しつめ侍らんとの事なりけれは、こよなふいたみ入存参らせ候、もしあはれにもおほされ候はゝ、義理とやらんのすちさへ、たかふ事なくおはしまさは、よきにはからひ給ふて、こゝもとの父母さいしオープンアクセス NDLJP:366なと、御たすけなされよろしく候はんや、くはしくは葛はら申上候はんまゝ、筆をとゝめ まいらせ候めてたくかしこ

 六月廿五日                岩付三之丸 小少将

       参る 十郎様にて人々申給へ

と書てそをくりける、かやうの文はあまた来たりしを、籠城のれき見侍り、心もよはく力おとろへ、あはれなるさまに見えけり、十郎つくと籠城之体ヲ思慮し、氏直に諫らるゝは、当地落城之日数憑みすくなう覚之候、唯家康卿之御陣へ走入て、城を渡し可進之条、籠城、之話卒御助なされ候やうに、秀吉公へ御取成頼入由、偏に御歎候て御覧あれかしと、理をせめおいらかに申けり、

 
○松田尾張守謀反之事
 
此尾張守は代々北条か長臣として、其勢五千有余、威蓋八州富甚洋溢し、子も多かりしが、長子笠原新六郎は国器之才有、二男松田左馬助は忠義之志篤く、三男弾三郎は学道暁し、左馬助容顔美麗世に勝れ、心もゆうに艶しかりしかば、氏直そばちかふ愛し侍りき、然間今以本丸に在て父之方へはタマ也、松田思やうは、当家滅亡之時至りぬと覚ゆる事は、数ケ所之城々皆関白殿に属し奉り、今小田原一城に迫しかば、落城幾程有べからず、其上秀吉公之計策は欺子房武勇は韓信ほどの名将なれば、中々運を開くへき行も思ひ絶たり、我一人義を守ても其詮なかるべし、堀久太郎方へ便り秀吉公へ降し見んと思慮し、六月八日其有増使札を以申入しかば、久太郎則其旨窺ひ申けれは、是天之与る所之幸也、然るにをゐては、伊豆相模永代可アテ之旨、能に計ひ可申由なるに因て、及返簡ぬ、

芳翰御使者口上之趣、即殿下令披露処、尤忠節之段悦思召候、然者伊豆相模永代可扶助旨候、弥被御分別重而誓紙等之義委御沙汰候而、頓可仰越候、恐惶謹言

 六月八日                   態互の名字なかりし也

松田返章を令披見安堵之思ひを成、翌朝二男左馬助を本城より呼寄、密に云やうは、近年氏政氏直某に対し差儀サセルにもあらざる事を、甚以不浅やうに被申掛候つる事内々其方も存知之儀候、然共不時して憤を推こめ過来たりし也、然間逆意を思ひ立之条令同心、我鬱憤を散しくれよとそ憑ける、左馬助承、涙をはらと流し申けるやう、御身は北条家代々長臣として、莫太之地を領し、政道をも掌り給ひ、一門一族其沢を蒙りし事、於関八州隠もおはしまさず候、仮令無拠御恨有と云共、此節は全義に非る所也、願は思召留られ可然らんと諫しかば、尾張守面目もなき次第、実に言の葉もなきぞ、此上は自害せんより外はなしとて脇差に手を掛し処を、左馬助れさへつゝ、其程に思召入給ひなば、不是非同心申候条、御心を安んし、おはしませと、十四日まては其義に同しけり、痛はしや左馬助此義に同しぬれは、主君への不忠、不同則父への不孝、とやせんかくやあらまし、身もかな二と昼夜思ひ煩ひし形勢を、尾張守も不審く思ひけり、同月十四日之晩、長子笠原新六郎二男松田左馬助三男弾次 (三)郎内藤左近大夫大田肥後守に饗応し了て、すきやへ呼入茶を沙汰し、其後此座中何も不オープンアクセス NDLJP:367遁心中と見及ぬれは、一入たのもしく思ふなりと、事新きさまに云出ぬ、粤にをゐて各是は如何なる事にや、角は被申けるよと思ふ処に、何も案して見候へ、此籠城之為体、三日は出ましきと思ふ也、其子細は成田下総守か挙動其外歴々之者共、皆をのか身之上のみを専にし、上下之心各隔に見え侍りぬ、是は搦手之大将羽柴筑前守利家謀計を以、数ケ所之城主を秀吉公之幕下に属し、又は武勇之功を励し、八王寺之城を攻平し故、今は当城涸漁之体に不異により、籠城之面々狐疑之心甚蜂起し、当家滅亡思外急なるへし、某一人忠義を守、一門一族之父母妻子共を一時に亡さん事も口惜、所詮逆意を企、彼等を救ひみんと思ふなり、明夜長岡越中守池田三左衛門尉堀久太郎か勢を、某丸へ可引入之行に極りたるそ、皆々其意得を成候へとなり、左馬助十五日之夜を延申度思ひ、此事始て談合有し日も八日、明日も亦不成就目にておはしまし候、願は明夜は御延有て宜しからんやと諫しかば、尾州同心し十七日之夜にぞ極ける、左馬助役所は肝要なる丸なれば帰りしか共、此者之心は忠義ふかゝりし故、何方へも不出やうに番之者共を多く付て、つかはしけり、左馬助具足甲本丸に在しを、取に遣しけれは来ぬ、即其具足櫃に入かはつて、十四日亥之刻に本丸へ忍入、氏政氏直に申上ぬるやうは、尾張守命を某に可下にをゐては、一大事之義を知せ参せ候はんと、堅く其約束を申定め、斯てさゝやきけるは、父逆意を企申候、事急に可御座之条、明朝是へ被召寄然候はんやとて、又をのか役所へ帰にけり、氏政より十五日之朝尾張守方へ可登城之旨使者を立しかば頓て参りしを、北条陸奥守江雪斎を使者として、敵方より其方事逆心を思ひ立、長岡池田堀、彼等三人か勢を汝か丸へ明後十七日之夜引入、某父子に切腹せさせんと有之由内通有しなり、其は何故かく思ひ立しそと尋られし時、答申やうは、其古しへ武田信玄当地へ働き申ける時、我逆意を企信玄と入魂有之由、敵方より間者を入密に云せつるを実と思召、某人質を被召置候き、其節も聊不存寄事候し、今以間者之云シワザなるへしと陳し申時、いや今度は左馬助忠義を正し知せたるそと、重て両使申せしにより、松田心服す、城中其外役所之固を日々夜々心を賦り、守持行と云とも、今は弥運を可開やうもなく見えしに因て、氏直思惟せしやうは、幾年を経共、堅固に有へきと頼し城々は、悉く殿下之幕下に属し、於当城服心の如く思ひし者共も、疑心上下之間を間今は涸魚之身と迫りぬ、所詮某降人と成て、籠城之上下を可相助と思慮を極め、七月六日之朝、尾張守に腹を切せ、頓て馬に打乗、山上郷右衛門計めしつれ、家康卿之御陣へ参、此由かくと申入しかは、尤之存分に候、然は羽柴下総守所へ相越、其旨被申宜しからんとの指図に任せて、参侍り、某降人と罷成出申候、父氏政其外籠城之上下一命を続せ給候へかし、即城を明日渡し奉るへき旨、被宣しかは、下総守頓て御前へ出窺候へは、きとくなる存分なりと感しをほされ、何やうにも其望を相叶へ、能に計ひ可遣旨、意得申せと有しに依、即氏直へ如此之趣におはします条、御心を安んし候へと申けれは、悦入旨にて、七日より九日に至て、小田原七口を開き、上下無異儀出しけり、落人をは威有方のくせとして、物ことあらまじく痛ましむる物そとて、脇坂淡路守片桐東市正を奉行とし附置、下々狼藉なき様にと、制せられしかは、悉安堵之思ひを成、をのかさまオープンアクセス NDLJP:368なり侍りし也、

 
○氏政氏照兄弟切腹之事
 
哀乎痛乎、盛者必衰之習、昨日七日まては、数万騎之主として有しか、今日は引かへ七月八日医師安清軒か宅に移り、浮世之日数迫り来て、時を待有さま、物に越て哀なり、関白殿仰けるは今度是まて数十万騎寄来りしも、北条家を可打果ためにて有そかし、然るに氏政以下悉く助なは、兼ての言葉も、空しきに似たり、氏政氏照には切腹させ、氏直兄弟は可相助旨、家康卿へ御相談ましませは、尤宜しき御事に奉存由に付て、検使をそ定られける、然るにより、十日之晩石川備前守蒔田権佐中江式部大輔佐々淡路守堀田若狭守、家康卿より榊原式部大輔検使として、安清軒か宅に来り、其有増を云出さんも痛はしく思ひ侍りし体を、氏照令推察行水之暇を芳情あれよと、いはれしかは、いかにもユル々と、御文なとも調られ候やうにと、何れも申けり、やかて行水をも沙汰しつゝ、かくそつゝけられける、

雨雲のおほへる月も胸の霧もはらひにけりな秋の夕風    北条左京大夫氏政

我身いま消とやいかにおもふへきクウより来りくうに帰れは  同

天地の清き中より生れ来てもとのすみかにかへるへらなり  舎弟陸奥守氏照

此侍りて切腹之形勢さすか、北条家代々相続有ししるしかなと思はれて、殊勝にも思はれ、又誰も衰に成んをは兼て知たき物にこそあれと、銘心腑けり、両人之面を秀吉公へ、家康卿御持参有しかは、不天命者の事なれは、洛之戻橋に掛置可申旨、石田治部少輔に被仰付にけり、

或曰、北条領八ケ国威甚以厚かりし事を按するに、氏政四人之兄弟、賢息もあまた有し故に、其器に当りし大臣も多く、一として不足なきを以なり、然るを秀吉公は反之、賢息ひとりもなく、連枝もなくして、百日にも不満して斯亡ほし給ふ事、秀才之故ならんか、傍人曰、北条近年驕超過し、不王威武命し行衛の程、能思ふへし

小田原之城を請取せ給ふ人々は、本田中務少輔井伊兵部少輔、榊原式部大輔也、かくて同廿日氏直高野山へ上り可申旨に因て、供し侍る人々、一門には北条美濃守同左衛門佐、家老には松田左馬助大道寺孫九郎内藤左近大夫塀予左兵衛尉余田大膳亮其外近侍之者共、三十人、下々三百人、道之賄警固等に至るまて、無残所仰付しなり、

評曰、供之者共五十人之内外たるへきと皆人思ひ侍りしに、如此ハ秀吉公大なる御心中察し思ふへし、

高野山にをゐて扶持方五百人、其外諸事可入其々之具、不残注文を以下行有しかは、氏直供之人々も、思之外なる君思かなと、昼夜此言の葉の露、一山をうるほすのみか、日域に満溢れ、今此楮上に残りにけり、時節に随ひ小袖かたひらなと、恩賜中々申もおろかにそ覚えけるとなり、かくて天正十九年弁十一月十日、高野山は事外寒つよき所なると痛はりおほしめし、天野山に至て慰可申、旨被御書に因て、下山し寒苦を忘れ、供之者共まて甚つゝ、名酒を愛し日を送けるか、供之下々少々暇を遣しけり、翌年三月天野より大坂へ被召寄、織田常真オープンアクセス NDLJP:369公之屋形に白米三千俵、其外十五種つみ並恩賜有しかは、昔の春に立帰りぬるこゝちし、千秋万歳を唱ふ声々、いとうるはしくそ聞えける、同しき臘月始て御城へ被召寄、御対面彼是忝御意之上に、来春於西国一ケ国可扶助旨被仰渡しなり、かくて少し程経て疱瘡を煩出し、三十三歳を期とし終り給ひし事、北条家之尽期、呼時有かな、

或曰、北条家之元祖早雲は、生国伊勢と云は虚説也、伊勢新九郎と号せしに因てか、松田生国は備前国、内藤は丹波、清水笠原は伯耆、大道寺は尾州生国なり、早雲備中より武者修行に立出し時、才勇兼備りし士を、かり催し侍りつると云伝えしか、実に左も有ぬへう覚えたり、

 
○奥州九戸(坪イ)之城堀尾茂助乗捕事
 
奥方之先カケは、蒲生忠三郎氏郷〈後号飛騨守〉等なり、堀尾は目代として相添給へは、日々安泰なる事のみにあふて、一入残多侍れは、いかなる幸にもあふて勇功の誉を得まく欲しけり、雖然毎日後陣にのみうちしかば、其望も徒に成なんとす、依之少しは無理をもしてみんと決し思へり、然処に飛騨守より明日は九戸(坪イ)表可発向之条、茂助殿も唯今出られ、被評議候へと使者あり、堀尾思ふやう、軍評諚之座につらなつて、先陣をあらそはん事、制法を背くにちかし、所詮虚病と号し、只今不出して明日は魁をし、九戸之城を攻捕んと思ひけり、然間飛州使者には対面もなく、聊病気なるよし云つゝ帰しけり、かくて八月二日夜半より出ておしけるに、飛騨守役所之前にて、今日之先陣も蒲生なり、誰にても候へ、さきへはえこそ通すましけれとて、飛騨守先手之面々あらましく詞たゝかひなとし侍るを、茂助かけ向て某今日先をかくへき旨御諚なり、をのれらはいかゞ知へきそ、只おして通れと大の眼に角を立下知してんけれは、とかうにも不及とをしけり、其より猶汁馬に鞭をはやめ、九戸へ辰之刻に参陣し、城に向て備へしかば、敵も弓鉄炮を張出し、あしかるをかけにけり、堀尾か先勢よはと会釈ひけれは、敵猶をしつゞき多勢を出し防き戦ひし所を、堀尾胴勢より噇と馬を入、二三百人討捕時を上、弥すゝみければ、三之丸へ引入ぬ、一旦に攻入んには地之利もよく、勇士多く弓鉄城も空矢を知ぬ上手共なるよし、兼て聞しかば、仕寄を付可攻に極めし処に、城中の評議には、今日よはと取巻しを、多勢を出し打払はんとせしかば噇と馬を入しなり、此行を以思へば、大略夜に入なば攻かゝるべし、いかゝして宜しからんと、ひそめき出、女童は十方にくれまとひぬ、然るにより加勢之者共たゞ無事の扱をかけよとて、笠を出しけり、味方是に気を得て、ゆひはしなど急にいとなみつゝ、夜攻にせんと云しろひければ、和睦のために出し使者、弥見おとろきけり、とかうせしまに暮ぬれは、溢れ者共三之丸へ乗入、時を作りかけおめきさけべは、狭き丸に人は多し、度にまよふ所を悉く撫伐にし、又は生捕にもしたりしを見て、本丸に在し弱兵共五人十人さまをくゞり出けるを、制し止るかとみれは、其者もおち、かれもれち、誰はかれはと、のゝしる内に落果にけり、三之丸へ乗入し勢、又二之丸へ攻入みれば、過半落て残りぬる者共は、死を極て見えにけり、茂助是をみて、最期を極めたる者共を、悉く打果さば、能勇士あまた打死せんぞ、唯本丸を捕て渡せよかし、オープンアクセス NDLJP:370左もあはらことく可助ぞと云せけれは、本丸之兵共は幸に落果て、人曽てなきを知ては有、さらは本丸を捕て可進之条、人質を御渡し候へと云し処に、其までもなし誓紙をつかはすへきに相極め、本丸を請取にけり、かくて二之丸に二三百人有し兵を、調略を以、一人宛めし出してはクビキリて首数七百五十、秀吉公へ丹羽甚太郎、下方新八郎を以進上しければ、事外褒美し給ふて御感状有、

今度奥州九戸之名城雖楯籠之剛兵数多、以其方一身之覚悟即時乗捕、首数七百五十到来悦思食候、今般陣中第一之手柄寔可日本無双之剛之者也、仍感状如件

 天正十八年八月四日   秀吉御判

         堀尾茂助殿

今度御退治之国々、検地為仰付、秀吉公至会津御動座て、浅野弾正少弼石田治部少輔大谷刑部少輔奉行として出されしか、漸検地も出来し侍りけれは、被、思賜之地、左の如し、

 
○知行割之事
 
一伊豆 相模 上野 下野 武蔵 上総 下総 大納言家康卿
一尾張北伊勢五郡 中納言秀次卿
一奥州十七郡 羽柴飛騨守氏郷
一同八郡 木村伊勢守
一三州内十五万石 羽柴三左衛門尉輝政
一同五万石 田中兵部大輔
一遠江内十二万石 堀尾帯刀先生吉晴
一同五万石 山内対馬守
一遠州内三万石 渡瀬左衛門佐
一駿河 中村式部少輔
一甲斐 加藤遠江守
一信州内小室城附五万石 千石権兵衛尉
一同小笠原郡 石川出雲守
一同伊奈郡 羽柴河内守元来ハ毛利也
一同木曽二郡 御蔵入御代官石川掃部助
一同諏訪郡 日根野織部

此各加増領給りつゝ、いかめしやかなる入部之体、いと目出見えにけり、

評曰、学に甚逆なる事あり、信長公二男北畠中将信雄卿をは、秋田へ遠流せられにけり、寔秀吉公わつかなりし人にて有しを、信長公取立給ひ数ケ国を恩賜有し事、人皆知所也、然間今度も加増領之国をもまいらせられ候はん事、尤順なるへきか、

 
 
 

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