太閤記/巻十四

思はさらめや光陰箭のことし、文禄元年もやうやく事しけき中にまきれくれ、都にての歳暮にはことかはり、目なれぬさま多かりけり、とかうのゝしる内に、鶏正旦の祝音をとなふ、う【 NDLJP:387】くひすも谷の戸出て、うゐ声めつらかなり、御前はいよ〳〵目出さの春にて、ことふきのかす〳〵に将しつかならす、折ふし城州八幡山の暮松新九郎、年頭之御祝儀申上候はんとて、なこやに至て下向せしかは、御気色にて、殿下みすから御能をも御けいこ有て、御心をものとめさせ給ひ、又は在陣之衆士をも慰めんと也、思ふとちへたてなく云かはしけるは、御年も漸耳順にちかからむ、ねかはくは止給ひなは、目出事になん侍らんと云も有、又笑をふくみてさみし侍るも過半せり、初の程は山里にして、御伽衆被㆓召連㆒御けいこ有しか、御
八摂家の 六事実に
九一跡も 七をきては
一近衛前 二左府高麗
【 NDLJP:388】 三下向のよし
十断絶の
四きこしめし
十一やうにては 五及はれ候
十二如何と
おほしめし候
申なへ留
られ候はゝ
可然候はんや
おとろき入せられ
筆をそめ
まいらせ候
あなかしこ
二月十日
大閤とのへ
勅書を将軍頂戴之事、冥加之至なり、宸襟を安んしおほされ候やうに、近衛殿をいさめまいらせ、高麗渡之義無㆑之やうに、いたし侍るへき旨、勅答ありけり、
○秀吉公憐於㆓夫婦之間㆒事薩州島津内、小野摂津守、ゆうにやさしかりし息女を持侍りしか、肥前龍造寺か家臣、瀬川采女正に嫁す、采女正高麗在陣之折ふし、彼妻あこかれし思ひのほとを、聊物にしるし付侍りしを、便の船にことつてをくりけり、折ふし難風、おびたゝしう吹来て、船はそんし、荷物博多の浦へ寄来るを、漁夫拾ひ上侍りしか、其内に渋そめやうの紙にて、能つゝみたる物あり、ひらいて見れは、文箱とおほしき物侍りしを、ほどきみれは、まきゑなともけたかくよのつねならぬ
たよりの舟をよろこひそゝろに取向ひまいらせ候、たゆるまもなく、なつかしみ思ひ侍る事も、おほかめれど、心をあはせかたらふへき人もなけれはねやさひひとり、かたしく袖の露、床は海、枕は山と立のほる、むねの煙はるゝまもなき、なみたの雨そゝぎ、いつをかきりの露の身の、きえやらぬほどもうらめしきそかし、そのあらましを、聊しらせまいらせさふらふ、そこほとは、世わたるわざのことあげにとりまきれ、もはやこゝほとの事は、おほし出さるゝ事もなみのをと、すさまじき御心とやなりぬらんと、思ひのたねむねの中に、しけりあひぬるまゝ、すゞりにむかひとりわづろふ筆のすみも、なみだのうみとやなる、
【 NDLJP:389】 行水にかずし(かイ)くよりもはかなきはおもはぬ人をおもふものかは
と、よみをく和歌のふることまても、わか身のうへに覚えて、其人の心の中をしはかり、すこしはなくさみぬ、思へは〳〵そひまいらせぬ、むかしも有つるに、こはなにのむくひにておはしますそや、あさましかりつる我心かな、とは思へとも、よきにとまらぬ心のくせとして、又こひしう思ひまいらせ、物のけも有やうに人もいひなし、我も又心のたゝしからぬ事をしれり、抑心は身にそふ物なれは、身のまゝになるへき物なるが、されは心のまゝに身はなる物とこそみえ侍れ、まことに心は身の主なりと、ふるき文に多く見えしか、けにも左も覚えぬ、いかなる神のむすひあはせにや、あさはかなるちきりとは成ぬらん、ある人ふかうかなしひあへりし事の有しを、いやそれははかなき事にて侍るなり、たゝ思ひすてさせたまへと、諫つることも有しか、かく我身のうへになりぬれは、そのしなくらうして、あやなきことをなん思ひこかるゝも、女の身なれはとて、又口おしからさらめや、心を心のまゝにせさらんも、なをあきらかならす、おほえ侍りぬ、たゝすの神の御
身はかくてさすらへぬとも君かあたりさらぬかゝみのかけははなれし
と、よみをく和歌のことく、是をかたみにとたゝうかみなから、残しをき給ひしを、まことに袖より外にもらすかたもなく、恨てはよみ、よみてはかこち、あさなゆふな詠めくらし侍りぬ、
思ひつゝぬれはや人の見えつらん夢としりせはさめさらましを
と、小町かよみしことのはも、けにさることそかし、
かきりとてわかるゝみちのかなしきにいかまほしきいいのちなりけり
まことにはかなき命なからへ、かゝる思ひもあさましくおほえ侍れとも、今一度見もし、見へもし、つもりぬることも、はらしまいらせたく候て、あだなる露の玉のをも、なかゝれとのみ祈る計にてこそ候へ、何事も〳〵あはれとおほしめし出され候はゝ、かす〳〵御うれしく思ひまいらせ候まゝ、申たきことゝもこよなうおはしまし候へとも、あはたゝしき出船の、いそぎにとりまきれ、いかゝ申候や、みゆるし候はゝ、めてれくかしこ
くり返し〳〵そのゝち、せうそこのをとつれもおはしまさす、御床しさのほと、たえかたく、あまりに人めもはづかしくこそ候へ、まことに出やらぬねやのうち、ふかき思ひのふ【 NDLJP:390】ちとなりまいらせ候
かくあらんゆくゑをしらてたのみつる我心をはたれにかこたん
是はみつからおもひよりにて、おはしまし候、御はつかしくこそ候へめてたく〳〵
五月九日
せ川うねめ殿にて 菊
人々申給へ
秀吉公山城守をして御らんなされ、憐なる事共也、然は龍造寺かたへ、此瀬川采女正を帰朝せさせよと、御内書有しかは、頓て肥州へ参たり、此妻かたしけなき趣を申上まく思ひ、采女にかくと問あかは、いそき名護屋へまいり御礼を申、よろしからんと采女言し時、さらは御身もいさゝせ給へとて、同船に物し、なこやへ参、尼かう蔵主を以、其趣を申上んと思ひ、便を求めうかゝひ候へは、安き事なりとて見参に入給ふ、彼妻かう蔵主に忝
物ことのあはれをめくむ天津神のこゝろにかはる君の正しさ
かう蔵主短冊を請取、心安くおはしませよ、ねむ比に執申さんとて立給ふを、ゝしとゝめ、寔に万人のかなしひを助んために、天より天下の君を立、民の父母となし給ふは、如㆑此君子の事にて侍らん、返々も忝思ひまいらせ候趣を、御ひろう頼まいせ候とそ申ける、かう蔵主其よしよきに執申候へは、即
評曰、此妻心正しく、物まめやかに、夫を思ふに偽なかりしかば、鬼神感をなし給ふに因て、彼玉章波にたゝよひくちはてなんを、秀吉公御一覧おはしまし候やうに、なり行し事、たゝ鬼神のわさより外いなし、天命の正しくあきらかなる事、黙して知べし、
態申遣候
一赤国木曽判官卒㆓数万騎㆒度々差出相㆓妨都表在陣之勢㆒与㆓釜山浦之通路㆒之由付而、長岡越中守、木村常陸守、(常陸介歟)長谷川藤五郎、其外大夫十余人、都合其勢三万余騎、到㆓赤国㆒可㆓攻平㆒之旨申付之処、即令㆓発向㆒雖㆓取囲㆒、彼城木曽勢還て倍せしにより、不㆑達㆓本意㆒退散之義、不㆑及㆓是非㆒候、左も有へきならは、兼て発向すましき事なるを、浅慮之義不㆓相届㆒者歟、不㆑交㆓於勝敗㆒非㆓良将㆒、是古人之明言なれは、令㆓赦免㆒之事
一今度は都表在陣之勢、不㆑残引払ひ、至㆓彼国㆒令進発、赤国を攻平げ、木曽か首を見せ可㆑被㆑申之事
一都表引払事、并赤国攻平くへき事、何も黒田如水軒、浅野弾正少弼次第進退可㆑有㆑之候、為㆑其両人差遣之事
右条々相㆓守此旨㆒、万事宜様に可㆑令㆓沙汰㆒者也
御朱印
【 NDLJP:391】 朝鮮国各在陣之衆中
黒田浅野御朱印を以都へ参陣に赴く朝、都に在之備前宰相殿三奉行衆などへ以㆓書状㆒云
態飛㆓羽檄㆒伸㆓ 上意㆒了
抑某南人参陣之事、其表御在陣衆悉く引払ひ、可㆑被㆔攻㆓平木曽城㆒之旨、御諚候、然者万端備前中納言殿御指図次第引払ひ、東萊表〈[#底本ルビ読取困難。「トクオキ」か]〉に至て、御帰陣尤候、頓て遂㆓而謁㆒可㆓申談㆒候へ共、諸事為㆓御意得㆒先以㆓飛札㆒申達候、恐々謹言
六月朔日 浅野弾正少弼 黒田如水軒
増田右衛門尉殿 石田治部少輔殿 大谷刑部少輔殿 各御中
此飛脚事外達者に有し故、十日路之所を三日に参着せしかは、各及披見、即其晩中納言殿へ参り、此旨かくと申達し、在陣之面々呼聚め、及㆓評議㆒明朝可㆓引払㆒に相極けり、帰陣之次第は、初備前宰相殿、其次三奉行、其次大夫衆、殿ひは輝元之先勢二万余騎、賀藤主計頭、黒田甲斐守、小西摂津守、かはり〳〵勤め候はんとの事なり、漸夜も白みあへりしかば、秀家を先退奉り、其次三奉行如㆑此段々に引払ひしか共、敵慕ふへき行もなけれは、ゆる〳〵と及帰陣けり、如水軒弾正少弼も、都三日路こなたまで参陣しけれは、都に在㆑之衆頓て是へ帰陣之由、聞及しに因て、某の県に待居たりけるに、如㆑案宰相殿見之給ふ間、即出向掛㆓御目㆒、御諚之趣申達し、其日は某の在所に宿陣し、各をそ待居ける、如水軒弾正少弼、某�地参陣之由三奉行之衆承及、以㆓飛力㆒今度御渡海之義、苦辛労力之由申入侍るなり、然間黒田浅野よりも、永々之在陣大義之由、使者有へきかと思ひ侍りしに、両人は碁を

或曰、三奉行衆、黒田浅野事をひそかに讒し、其上囲棋故をこかましき事を、天下に披露し侍る事を、子息浅野左京大夫、黒田甲斐守腹くろに思ひこめ、一たひ此鬱憤を散せん事を、根ふかく帯かたう忘すして有し、其程は朝鮮にをゐて、囲
釜山浦より左に付て、あかい国と云し守護は、木曽判官ちんしゆの城主たり、賀藤主計頭は、かあんたう、小西摂津守はべあん道表に在しか、あとは木曽か国より一揆蜂起し、釜山浦と都の間通路を妨けしかは、細川越中守三千余、長谷川藤五郎三千余、木村常陸介二千、小野木縫殿助牧村兵部大輔、糟屋内膳正、太田飛騨守、青山修理亮、岡本下野守、寄合組五千、都合其勢一万三千余、木曽判官ちんしゆの城を可㆓攻平㆒之旨、被㆓仰付㆒しかは、一日かはりに先手を定め、其日の下知は、其大将次第に、大かたは定りぬ、一番長岡越中守、かはり〳〵先を駆にけり、とくねきの城につゞきたる高山に、敵多く山取をして見えし処に、いざあれを先 NDLJP:393】大崎玄番允、玉井彦介、団覚兵衛尉、辻久次郎、下野長左衛門尉、同半左衛門尉をしつゝいて駆入ぬ、あはやと見る処に、勝三郎一番首を捕てさし上たり、残る六人も、城を心かけ退なんと立出る処へ掛向ひ、よき首捕てけり、其外追討に首百計討捕凱歌を唱ふ、かねて云定しことく、竹たはを付、西楼を堀際に上、城中を見下し、鉄炮にて射すくめ、六月十一日之早朝に結橋を、ひた〳〵と堀へ投入〳〵、時の声を挙、堀へ飛入〳〵結橋を打かけ、我をとらしとこみ合上りけれは、結橋多くは折て、半より
或曰、其表にをゐて一の働きなるへきと、感声しはしは、止さりけり、
結橋の制兼てなかりし故、悉損じ其日は乗得す、剰石垣より落て死し、弓鉄炮にあたり疵を蒙り死するも有しかは、弥小勢になりしなり、如㆑此にては久しく攻んも危事になん侍るへしや、先々陣を開き、重て行をかへ、可㆓相攻㆒とて、手負の人々をは先へのけ、打死せし者をは焼て取をき、六月十二日之未明に陣払をし、十町計退し比、疾風暴雨頓かに降来り、篠をつくか如くに有しかは、敵も送らんともせさりしに依て、安〳〵とちやはんに至て帰陣せしなり、
評曰、此度も八幡大菩薩、渡海し給ふて、守護神とならせ給ふかや、若大雨なかつせは、敵送りなん、左も侍らは危き事もや出来んかし、
右之趣秀吉公被聞召及、以外腹立し給ひつゝ、度々に蠅を払ふより安く、敵城を退治せしに、ちんしゆのことく堅固に籠城を遂ぬれは、命こそ全く侍れと思ひなんす、後日之患へなを有とて、都表之諸勢悉く引取、木曽か城を一旦に攻候へしと被㆑仰しがは、都より各とくねき表へ引取、しはし人馬の息を休めにけり、備前中納言殿へ六月廿一日之夜、何も寄集り、軍評諚有て、攻口を定めらる、木曽判官も其有増を承り、今度は於㆓日本㆒剛兵を撰聚め、寄来ると聞え是大事にて有へきと思惟し、唯籠城を堅くし、年月を送り見んとの支度なりしとかや、攻口は NDLJP:394】月廿七日堀へ着て、刁卯の方の石垣の角石を引落しけれは、櫓傾ぬ、城中より火を投、鉄をわかしかけなとし、打払〳〵せしかは、其日も空しく暮にけり、翌日又亀甲を弥増、同所の角石を抜と等く、櫓崩れしかは、其より主計頭か勢は込入けるに、一番に庄林隼人佑か旗、二番に森本儀大夫か馬験、飯田角兵衛、三番に黒田筑前守母衣の者後藤又兵衛、三人、倫をはなれて乗入ぬ、軍中の人々是を見、扨も見事なる物見かなと感しあへりにけり、小西か勢は石垣を乗て城に入、加藤か勢と入相つゝ、先を争ひし勝負しはしは不㆑決しか、後は主計先陣にそ極りける、木曽は能兵共多く引つれ、切て出戦ひしかとも、新手を入かへ〳〵攻しかは終に落去し、木曽は秀家卿之臣、岡本権之丞に討れぬ、其外小将勇士共こゝにては戦死し、かしこにては痛手をおひ、又は生とられ悉く討れにけり、凡て首数一万五千三百、或岩の上より落て死し、或大河にて溺死し、都合二万五千余人むなしく成しとかや、
翁 今春八郎 千歳振 大蔵六 さんはさ 大蔵亀蔵 もみ出し 大蔵平蔵 とうとり 幸五郎次郎
一番 高砂
大夫 今春八郎 わき 今春源左衛門尉 つれ 長命甚次郎 大皷 大蔵平蔵 小皷 幸五郎次郎 笛 長命吉右衛門尉 太皷 今春又次郎 あひ 大蔵弥右衛門尉 狂言 長命甚六大蔵亀蔵
二番 田村
大夫 今春八郎 わき 今春源左衛門尉 大つゝみ 樋口石見守 小皷 観世又次郎 笛 長命新右衛門 あひ 大蔵亀蔵 狂言はなとり大名 弥右衛門 相撲今参り 甚六
三番 松風
大夫 今春八郎 わき 今春源左衛門 つれ 竹俣和泉 大皷 樋口石見守 小皷 幸五郎次郎 笛 八幡助左衛門 あひ 長命甚六 狂言鉤きつね 祝弥三郎 あと 甚六
四番 部鄲
大夫 暮松新九郎 大臣 春藤六右衛門 大皷 かなや甚兵衛尉 小つゝみ いや石与二郎 笛 長命吉右衛門 狂言宗論 大蔵弥右衛門
五番 道成寺
大夫 今春八郎 わき 武俟和泉 大皷 大蔵平蔵 小皷 幸五郎次郎 笛 長命吉右衛門 狂言 弥右衛門
見物の諸侯大夫等へ折なと被㆑下、御土器めくり給ふ、大夫并座の者共御服被㆑下畢、八郎には唐織菊之御紋付たる御小袖二重なり、
六番 弓八幡
【 NDLJP:395】 大夫拝領之御小袖を着し罷出、御祝言を仕候也、
七番 三輪
大夫 今春八郎 わき 春藤六右衛門 大つゝみ 大蔵平蔵 小つゝみ 観世又次郎 笛 長命新右衛門 太鼓 今春又二郎
八番 金札
大夫 今春八郎 わき 今春源左衛門 大つゝみ 大蔵平蔵 小つゝみ 幸五郎次郎 笛 長命吉右衛門 太鼓 深谷金蔵
癸巳二月十一日、漢南之勢五十騎参陣し、都より西大河を便とし、要害を構へ、夜の中に塀の手を合せたり、多勢にも驕す静り反てそ見えにける、執固めなは手間も可㆑入之条、いさをしよせ打破り宜しからんと相談し、同十二日払暁に四方より押つめ、二之丸まて込入、火花を散し相戦、推つおされつ、爰にては組打し、かしこにては追詰、首を取もあり、捕るゝもあり、多勢にて心を一致にし、防き戦ひし故、落去之色もなく、日も西山にかたふきしかは、先虎口を甘けんとて引退き、都辺に陣を固めにけり、夜明ぬれは、又令㆓進発㆒山取をし、里より里を固め、塞々の陣の備へ宜きに合ひしを、大明勢看得し、小勢なりと云共、軍之法理にかなへり、始終難㆑拘とて、十三日之夜のきしか、寔に五十万騎の勢を、音もせす、いつ比退しやらんも知さりしかは、暁天に伊賀の忍ひの上手をつかし見せし処に、中々多勢の事は云にも及す一人もなし、掃除まてし侍りて退しと也、同三月六日、濃州岐阜中納言信秀卿、名護屋為㆓御見舞㆒御参陣有、供奉之人々には、寺西筑後守山田又右衛門尉百々越前守等なり、浅野左京大夫高麗渡海之事なれは、此新宅へ入申され、殊外なる御馳走共なり、此信秀卿は三位中将信忠卿之長子、信長公之嫡孫なれは、天下をも可㆑被㆓知召㆒人なり、
評曰、秀吉公此卿へ天下之家督を譲り給はゝ、徳子孫に伝はり、秀頼公も栄久に其名もかうはしからん物を、人欲と云くせ物にひかれて、秀次公へ譲り給ふ事、道にもあらす、あゝ損益のみにさとくし、道を知さるは、後世も皆如㆑此、子孫も絶名も清く侍らし、
同三月十一日丹波中納言秀勝、其勢五千之着到にて、名護屋御見廻とし有㆓参陣㆒、山口玄番允供なり、即本丸之内に置申され、親しき御振舞一かたならす見えし、此黄門は秀次公之御舎弟なれは、かく侍るもけに宜にこそ、
○豊後守護大友御折檻之事覚、御使者福原右馬助熊谷内蔵允
一先手之城々に有之者、及㆓難儀㆒之折節可㆓相救㆒ため、つなきの城々拵置
一秀吉若年之昔より此道に携と云共、終に吾勢越度を取事なかりし、是は殊に大明勢との合戦なれは、日本のためかた〳〵以一きは可㆑尽㆓粉骨㆒之処、武名にも不㆑耻、忠義之心もなかり【 NDLJP:396】し事、武士たる上絶㆓言語㆒事也、向後のため一命をも可㆑被㆑果之義なりと云共、頼朝卿より久しく伝りし家を、可㆑及㆓断絶㆒も聊道に違ふやうにも覚え侍るに因て、死罪を宥め畢、能武士之上を味吟し悔㆓前非㆒可㆑申事、
一天正半之比かとよ、島津と挑㆓合戦㆒勝負区々に付て、対㆑某請㆓加勢㆒更に可㆓相救㆒之因もなく、年来書音も無と云共、弓箭取身の習いなみ(ひイ)なんも士之格如何なれは、早速令㆓出勢㆒、彼凶徒等可㆓追散㆒之為、即令㆓出船㆒之処、此方一左右をも不㆓相待㆒及㆓合戦㆒、剰取㆓越度㆒之仕合、且浅智故、島津か謀計におとし入られ及㆓敗北㆒、且怯兵故戦ふましきを不㆓見得㆒して及㆓一戦㆒、大友先祖之耻を後代に残す事、其罪不㆑可㆑勝㆑計、誠に数年頼み置つる居城へも不㆓取入㆒、同国妙見龍王へ逃入候事、古今稀なる臆病、家之瑕瑾世尽ましき事、
一連々城を拵へ置候事は、大敵襲来之節、当座之患難を遁れんかため、又は大臣旧臣等謀反あらん時、暫楯籠り、其急難をのはさんかためなり、かやうの事をもかへりみす、居城之功を空布せし事、尤耻ケ敷事候、雖然国之義無㆓相違㆒立置し条、其寛徳にも耻、先祖之家業を顧み、一
一諸侯大夫升殿有し刻、大友家は古たる説々も有之由たれ共、某名字を所望之間、即応㆓其望㆒候き、勿論加階之義は五三人も除候ては高く侍りつる事、
一其身之事は安芸宰相所に預置候事、
一彼息事父同前に被㆓仰付㆒候はんすれ共、久々近習に在つると云、其身父には替り、暁き者と云、旁以令㆓赦免㆒候、武家を事とせは、父之耻
一大友堪忍分之義、重て可㆑被㆓仰付㆒候事、
一今度平壌表にて小西摂津守数度之苦戦、其手柄莫太にして忠義不㆑浅事、
右条々其国在陣衆として、彼父子に可㆑被㆓申渡㆒候、若某癖事於㆑有㆑之者可㆑承候、早速改㆓予之過㆒可㆑相㆓随于其宜㆒者也、
文禄二年五月朔日 秀吉在判
高麗陣衆各御中
一島津又太郎事、島津兵庫頭被㆑属㆓与力㆒上は、軍役已下兵庫頭次第たるへき事なるに、内心は一向不㆓許容㆒之由候、何之嫌ふ専
一船着を好み此中在陣之由、是は朝鮮表、味方失㆑利事あらは、先退散し己之居城を自由せんとの内存候か、何篇勇者之嫌ふ所にして、臆病者之所㆑好候事、
一先年九州令㆓出馬㆒之刻、何之忠節も無㆑之と云共、兵庫頭達て歎き申に付て、本知分令㆓安堵㆒畢、其上上方普請等、并関東陣被㆑成㆓御免㆒候之処、左様之高恩をも令㆓忘却㆒、剰野心を相含之仕立、不㆑及㆓是非㆒之事、
一其身之義は十人計之体にて、小西摂津守所に可㆑有㆑之候、堪忍分之義、追て可㆑被㆓仰付㆒之事、
【 NDLJP:397】一波多三河守事、鍋島加賀守与力被㆓仰付㆒上は、同前に可㆑令㆓出勢㆒之処、構㆓臆病㆒一こもかい口、舟着に隠居候事、怯者と云、無所存と云、旁以其罪甚深候事、
一名護屋は波多領知之処、今度旅舘に取立、令㆓居城㆒候間、別て左様之気遣をも仕、先手へ可㆓罷越㆒之処、還て船着を便り、若やの時節を相待候由、其聞え無㆑隠之事、
一此比都に在㆑之諸勢引取候砌、中途へ罷出補㆓其品㆒其輩に順せんと欲する由、弥以猛悪之義、諸人の見こらし、はた物にも掛させられ候はんすれとも、死罪をは令㆓免許㆒候、勿論知行分は被㆓召上㆒、家財等被㆓下置㆒候事、
一先年九州令㆓出馬㆒之刻、波多事可㆑及㆓改易㆒之処、立置被㆑下候様にと、鍋島束㆑手柔㆑面侘言申し付て、本知分令㆓安堵㆒畢、其上遠国之義不使に恩召、京都之普請并関東陣をも被㆑成㆓御免㆒候
一黒田甲斐守所に預置候条、可㆑成㆓其意㆒也、堪忍領之義、追て可㆑被㆓仰出㆒候事、
右両人之事も為㆑各可㆑被㆓申聞㆒之者也
文禄三年五月三日
朝鮮在陣衆参
評曰、大友侍従義統、島津又太郎、波多三河守事、理義に逆ひ、人欲に順ひ、己れを利せん事を、幽微の内にたくましう思ひこめ、外には士の格を街と云共、天命無㆑私に因て、かく秀吉公亡ほし給ふ、全く公の亡ほし給ふに非す、おのれ理に逆ふに因て、みつかつ亡ふるなり、天は理也とて、天
文禄二年六月廿三日之夜釜山浦へ打上り、体息せし処に、翌朝番船、こもかい浦に多く有由注進有けれは、毛利壱岐守所にて、彼表可㆓相働㆒との評議有、当城の番衆より美洒嘉肴なと送来しかは、是を便として、いみしき饗膳過了にけり、さらは互のおもはくを被仰候へと、九鬼申出しけれ共、何も辞し合て評議をそかりし処に、藤堂九鬼両人云けるは、明日も先物見の疾船共を出し、番船のやうす聞届、大船をおしよせ〳〵大筒石火矢を以うちすくめ、其後乗捕なは宜しく有へきかとなり、何も承り此義可㆑然候はんや、去共奉行衆はいかゝ思召候そと有しかは、是亦同事に宜しく侍らんとなり、然処に加藤左馬助進出、各一決して右之趣宜しからんと、同し給ふを、斯申せは、多分之評議に可㆓相随㆒との申定めを、違背のやうにおはしませ共、又存寄し事を申さねは、将軍の御ため疎かなり、如何あらんやと有し時、奉行衆被㆓聞届㆒、いや〳〵兼ての定めも宜を可㆑取ためにこそあれ、両人の存分にこへて宜しき事の無にしも有へからす、とく〳〵と被㆑申しなり、加藤さらは申みんとて、唐島に番船数百艘並居たる共、大船を揃へ大筒石火矢を以、なりこめんとせは、又其浦をも逃て往ぬへし、唯船軍を挑まんとの事にてあらは、中船を以会釈ひ、此方をよはけに見せ、宜しき図を計ひ噇と乗捕なは宜しく侍らんと也、満座是は猶一理有、何も左も有へからんと思はるゝ体も有、又我云出したるよりは増たれ共、あのこまたくゝりめに、中船にてあひしらはせなは、即時に乗捕へう覚え、い【 NDLJP:398】なむけしきも且見えつゝ、各いきはつんて言のはもなき処に、脇坂申けるはさやうにかたおもむきにしては、兼てのしめも益なし、いかゝあらんと也、此言に付て何も左馬助指図をいなむ気色多けれは、重てされは候、陸の勢ははや二ケ所にての手柄も有けるに、敵船を見る度毎に、大筒石火矢にておどしいなせば、将軍被㆓聞召㆒、船手之者共は、敵と戦ふ事はきらひにて有哉らん、敵船にあふてはおどしいなするを本意とするよと、御
NDLJP:399】し寄たらば、悉く可㆓乗捕㆒覚え候なりと、身を捫て謂けれ共、一人も同心の方なけれは不㆑及㆓了簡㆒、にが〳〵しき事かなと浮沈せし顔さか以外なり、あれに浮ひて敵あひ近う見ゆるは、正しく左馬助か小姓共と思ふは僻目か、其儀ならはつれて戻候へしと、各へやはら理りつゝ、類船をはなれにけり、賀藤心に思ふやう、目出度も方便類船をはなれたるよと悦あへりつゝ、櫓をはやめしかば、漸々団右衛門宮川か乗たる二艘の舟、二三町も有らんと思しき時、舟はりにつ
評曰、日域之剛兵は、窮鼠反て噬㆑猫之働きあり、朝鮮人引たる弓を、はなさゝるは、素性怯【 NDLJP:400】か、
筒勢にひかへたる大将共、左馬助働を見て、梶を直し櫓をはやめ、身を揉て、急けや〳〵と、のゝしる声夥し、奉行衆あの命不知の加藤か動きを見よやと、噇と高声に感しけれは、残る衆は心地あしけに見えてけり、左馬助は隙を明帰るとて、筒勢の面々に向て云けるは、あきたる番船たくさんにおはしますそ、急き乗捕給ふて大の忠節に、将軍へ御注進候へ、油断し給ふなと云けれ共、聞えさるやらん、とかむる声もなし、呼すさましかりしことゝもなり、
○加藤左馬助感状之事 唐島にをゐて、番船三百余艘之中へ、加藤か船只一艘乗入事、寔に古今に絶たる手柄を尽しゝかは、御感尤甚し、此外にも致㆓忠節㆒たるとの注進有しか共、将軍其淵底を尽され、左馬助のみに御感状有、其辞曰、其方事天正十一年夏於㆓江北㆒柴田合戦之刻、突㆓一番鑓㆒其働掲焉、為㆓御褒美㆒一廉令㆓加増㆒畢、今般亦於㆓朝鮮唐島㆒、番船数百艘之中、離㆓味方類船㆒乗入、乗㆓捕敵船㆒数多〈[#底本では直前に返り点「一」あり]〉之手柄、其勇功誰立㆓于上㆒乎、孰比㆓于下㆒乎、殊今度於㆓順天対山両城㆒可㆓引入㆒之旨、各雖㆑令㆓連判㆒、就㆑難㆓見捨於加藤主計頭等㆒、不㆑及㆓加判㆒之旨、神妙之至御感不㆑斜也、依㆑玆手前代官所有次第、三万七千石令㆓加増㆒畢、本知合十万石之内、壱万石者可㆑為㆓無役㆒、諸侯之内臆病者於㆑有㆑之者、可㆑被㆓御闕所㆒、猶以可㆑被㆑加㆓国守㆒之条、全㆑命可㆑抽㆓真忠㆒之状如件
文禄三年九月日 秀吉御朱印
加藤左馬助とのへ
評曰、左馬助番船三百余艘之中へ、只一艘乗入んとて、莫太之類船をはなれ行し心の剛、能々其身に代て思ひ知へし、将軍感状之辞は有余し、加増領之地は不足なるか、信長公之感は反㆑之、


評曰、加藤主計頭勇道之至剛、深く思ひ入て
此時

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