目次
【 NDLJP:274】
太閤記 巻五
小瀬甫庵道喜輯録
○秀吉卿与㆓柴田修理亮勝家㆒及㆓鉾楯㆒起之事
秀吉卿は天正十年十月十五日信長公被㆑相㆓勤於御葬礼㆒、爾来城南の宝寺を為㆓城墎㆒、棟㆓梁于幾内㆒、撫㆓育於万民㆒、而城介信忠卿之御若君は、信長公の嫡孫なれは、江州安土山に居奉り、北畠中将信雄卿を、若君十五歳にならせ給ふまて、為㆓御名代㆒諸事御計ひ有へしと、是も安土に置奉り尊敬す、頗君臣親愛之体魏然乎、可㆑謂㆓忠臣㆒矣、素秀吉卿は真小輩之人なるか、数ケ国を領するのみならす、若君を守立ると云名のみにて、実は天下之政務、此人に在しかは、故将軍の如く威逐月加り、禄逐㆑年増、是偏に離倫之才智、絶類之武勇に因てなり、然るを小智小見なる傍輩、是を妬み是を悪む事甚以浅からず、取分ふかう妬み思ふは勝家にそ極ける、京童、秀吉卿に便り幸いみしき者を、柴田方の町人うらやみつゝ、越前に至て、秀吉卿威勢之程を語りしかば、妬心日々に生し、怨憎日々に長ず、是寔に古今不易之同情也、因㆑之勝家与㆓滝川左近将監一益㆒縁者の事なれば、相議し謂けるは、秀吉今若君を安土にをき奉り、をのれ後見として、天下之裁判自由之至、不㆑及㆓是非㆒事共なり、贔負之者には其沙汰快し、我等などに便りぬる者には万疎かなりしとなり、今不㆑去㆓両葉㆒則後斧柯を用ゆへし、然間、織田三七信孝に此有増申上、秀吉をおし下さんとぞ計ける、かくて丹羽五郎左衛門尉長秀へ、此趣に与しくれ候へと御頼みなされ可㆑然候はん旨、滝川指図有により、信孝より三宅中記を以、委細に被㆑仰けれは、長秀奉り、仰御尤に候、然は若君を秀吉取立申を、いな【 NDLJP:275】みおほし給はゝ、まつ若君を岐阜へ御取もどしなされ、急度御後見之義なるへきと思召候いゝ、此御催し宜しくおはしまし候はんや、秀吉後見を嫌ひ誰やの人其沙汰に及候共、若君御幼稚之間は悪口両説絶申まじく候、能々御思惟可㆑然おはさんやと計にて、しかと与し可㆑申との返事はなし、長秀思ふやう天下之裁判は中々勇猛に達したる計にては、古今ならさる例和漢甚以多し、武勇以せは柴田方は、十に八九目出事こそおほ(多)かめれ、其をいかにと云に、第一柴田は信長公之老臣におひては武勇の長たり、殊に北国には前田又左衛門尉、佐々内蔵助不破彦三原彦次郎など云歴々の勇者多く有し、其上勝家甥にて侍る、佐久間玄番允舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎何れもたしかなる者にして况(矧)武備あり、是偏に柴田に対し肩を比ふへき人なき所瞭然たり、夫天下之器にあたる地位は、能人を知て、其用実有て、度量大やうにのひ、才智豊に、武勇に達しなから、武を以事とせす、賞罸両輪の如く用と云共、賞をは強く罰は弱く施し、何事も理の正にあたつて、せは〳〵しからす、法度之立へき本は、己を正しくし他を恵む事も大やうに、ひろく衆を愛し、民を撫育し、財宝を愛せす、専威之柄を能養ふ類ひに在、予久しく信孝勝家一益之行を窺ひ見るに、武勇を以事とし、其外は勝れす、是鳥にしていはゝ、羽翼かた〳〵有か如し、如何そ自由を得んや、秀吉卿勝家より勇功は少なけれ共、江北浅井父子を敵とし、小谷の城に向て対陣し、終に得㆓大利㆒、其後播州強敵の中に在国し、是亦程もなく、一国平均に治しなり、一国より六国を亡しつる秦威に似たり、殊に勇猛も且備り、才智は古今に独歩せし程にも見えしかは、秀吉天下を舒巻せん事掌握に覚ふなり、勝家得㆓大利㆒事有とも、若君を蔑加にし給ふへし、周公旦の心緒なるは昔さへまれなりき、今の世日本にしていかゝあらんそなれば、何れとてもはか〳〵しき事は有へがらす、おなしくはともかくもならはやと思ふなるよし、戸田半右衛門尉高木左吉坂井与右衛門尉なとに対し悲嘆之形勢尤ふかし、大かた秀吉は天下の器にあたれり、惜乎花麗に身を労し、自己之栄花こそ天下国家を知ての本意なれと思へり、又翫物喪志之癖も有、若此等之癖病なくは賢君にこそ有けめ、何としても天下の器にちかし、天下の器に当る才は天のなせる所也、天のなせる所を人道としていかゝ妨げんや、おもひもよらざる所也、信長公御連枝歴々多く大臣あまた侍りしか共、明智を討所は池田高山に在と云なから、秀吉着陣を待得てこそ合戦は始めけれ、然則主君之怨敵を亡せし実は在㆓秀吉卿㆒、其上故将軍御送葬莫太之費をもいとはず、勤侍る事も此人也、云㆑彼云㆑此忠義甚以夥し、天忠義を感し給ふ事眼前たり、秀吉は何も合㆓天心㆒所多くみゆ、いかてか天心に背かんや、吾は天理に随はんといとふかう思ふ也と、ひそかに老臣に評しけれは、各承り御遠慮尤宜しく奉㆑存候、是当家繁栄すべき金言にこそおはしませとて、無㆑限悦にけり、秀吉の権威春水之発生するか如く、弥増行を、柴田腹くろに思ひこめつゝ、きやつ任他我武威を以取消ん事は、卵を石に投せんよりも安かるへき物をと云つゝ、雪のおひたゝしく積りぬるを見ても腹立し、上方の説を聞てはため息をつき、雪の上を飛立計にいらてにけり、初冬之比滝川左近将監謀りけるは、勝家は若き時より腹のあしき事大かたならぬ人也、北国へ中冬より中春まて【 NDLJP:276】は雪ふかうして、心八長におもふ共上方への出勢も成ましき也、いざ年内は秀吉と和睦の調宜からんと思ひ、勝家へ其趣ひそかに云やりけれは、則応㆓其義㆒前田又左衛門尉不破彦三金森五郎八并養子伊賀守を以、秀吉へ入魂有へき趣云つかはすへきと思ひつゝ、勝家老臣に相議しけれは、何も宜く候はんと也、天正十年十月廿五日小島若狭守中村文荷斎を以、三人之衆へ右之旨頼人之条、京都へ上り候て、信長公如㆑此ならせ給ひ、今幾程もなく、傍輩と戦を挑まん事も口惜、たゝ和睦し、若君を取立、先君の御恩を可㆑奉存旨よきに計ひ給り候へと有しかは、何も左もこそ有へき事にて候へとて、十月廿八日北ノ庄を立、江州長浜に至て、伊賀守に此趣を語りけれは、尤可㆑然事に候、吾病の床に在と云共、肩輿に助られ上着し、此事を調見んと悦ひ、晦日長浜より同船し出にけり、十一月二日至㆓摂州宝寺㆒、四使、富田左近将監宿所へ尋行、此人を以、羽柴筑前守殿ヘ右之趣申述候へは、是は忝奉㆑存也、何様にも勝家御差図次第に御座有へし、信長公老臣之事なれは、何を以いなひ申候はんやとて、一両日饗膳よきに沙汰し、霜月四日四使を帰しけり、四人之衆、秀吉の御存分おもひの外かろくおはします也、雖㆑然そのあるしなくては遠路上りたるかひなしとおもひ、をし返し筑前守殿へ申入やうは、とてもの御事に盟のところいかゝ御座有へく候や、たかひの御誓紙も能候はんやと有けれは、我もかく存寄候、丹羽五郎左衛門尉池田勝入などゝも申談、宿老共不㆑残其かため宜くおはさんや、各へ其赴申つかはし是より一つ書を以申上候はん、其旨修理亮殿へ被㆓仰達㆒候へと有しかば、四人の衆けに左もあらん事なりと思ひ、重て不㆑及㆓右之沙汰㆒帰にけり、其赴勝家へ懇に以㆓使札㆒申入、各は少し在洛し、信長公御廟所へもまいり、五六日もすき候てくたるへきとなり、翌日五日大徳寺へ参詣し、亡君惣見院殿の廟前にいたり、落涙今さらのやうになん見えて新なり、四使在京のよし秀吉聞給ふて、種々の幣礼事つきにけれは、をの〳〵(各)忝事身にあまり侍ると云しは、かやうの事なるへしと、一入悦ひあへりぬ、久々親ひぬる京童温�し来り、昼夜を尽しての遊興、数年の労一時に消、帰路の思ひを亡すと云共、十一月八日都を立て大津より船に乗、其夜の明かたに至㆓長浜㆒着津し、すくに越府に着て、十日之晩北の庄へ参り秀吉よりの返事之趣、勝家へ委申けれは、寒天之節楚辛労力段、満足之通其謝尤ねん比(懇)也、柴田春は時の宜きに順ひなん物をと、笑を含み筑前守を方便りすましたるよと悦ひ思へり、かくて三人之衆は居城へ帰りにけり、
評曰、此和睦故北国には聊油断有しとかや、又三人之使者衆、去六月まては勝家と同しさまるな傍輩なりしなり、
筑前殿蜂須賀彦右衛門尉木村隼人に向て仰ける、今度柴田か方より四使を以和睦之事察し思ふに、中冬より中春まては、深雪なる故、上方へ出勢も不成之条、和談と称し吾に油断をさせ、春は雪消ると等しく大波を打せ、噇と攻上るへきとの謀也、抑予を方便らん物は、異朝にては子房我朝にて近きをいはゝ、楠多門兵衛等か所及にもあらんかし、柴田なとか愚意を以計みん事、蟷螂か斧なるへしと、嘲り笑ひにけり、此扱ひ有てより、秀吉は上方諸大名之心を取みんと、二六時中工夫を費し、方々への使者温問之品々、理にかなひ浅からさりし【 NDLJP:277】かば、国々之城主等秀吉の御用に立申度と望み思ふ事、勒(募)りもて行験しには、宝寺之門前、従㆓遠国㆒之使者飛脚捧物なと、みち〳〵にきはひぬる事、信長公之威にも及ひなんか、諸大名之心を大形取和け親しく成ぬ、かくて柴田縁者又は不浅知音をは、一向敵に極め、其国へ年内に令㆓出勢㆒一当あて、手なみの程をも見せ、其上腹あしき柴田に来春無理なる動をせさせ、思ふ図に引請可㆓打果㆒ためなりとて、十一月中旬卒㆓数万騎㆒、江州長浜近辺に着陣し、遠巻に打囲みしか、此城には秀吉久数住なれし間、攻ほす共安かるへし、然共伊賀守は柴田并玄番允に対し、恨ふかき事多し、子亦能知㆑之、所詮理を以攻討んには不㆑如とて、勝家伊賀守に相違之条子(数イ)を記し立、伊賀守老臣木下半右衛門尉大金藤八郎徳永石見守を呼寄及㆓其沙汰㆒けれは、各承、如㆓御存知㆒交子之間以外間隙多候、此趣伊賀守に申達し、御返事重て可㆓申土㆒と領掌し立帰、伊賀守に云しかば、内々恨み深く存知寄し事ては有、則同心せしなり、
評曰、運㆓籌于帷幕中㆒決勝于千里外とは、かやうの事なるへきか、此計策掌握於天下に治へき前表也、
伊賀守十一月廿二日之朝、組頭之者共を呼集め、勝家近年義理相違し、恨みの数々を、十七ケ条記し立、各披見し、此内予か非義之条子あらは諫め正し候へとて出しけれは、余義もなき事共に御座候と也、如此之上は親子義絶に及条、越前に父母妻子等有㆑之者は、急き円岡へ参候て、勝家へ奉公仕候へ、我に与せんと思ふ輩は、名之上に点を懸、明日可㆑致㆓誓紙㆒と巻物を出しけり、則点を掛るも有、又円岡にいまた父母なと有し輩は暇を申請別るゝも有、なるへき程父母を呼取みんとて、急き下るも有て、騒動以外なり、秀吉は丹羽五郎左衛門尉筒井順慶長岡越中守池田紀伊守蜂屋伯耆守其外畿内遠境之大名小名都合其勢五万余騎を引卒し、不㆑厭㆓於風雪㆒至㆓于濃州㆒令㆓進発㆒、大柿を本陣と定めらる、然て国中之城々之内不㆑属㆓味方㆒をは攻平け、脱㆑甲降する者をは令㆓入魂㆒、所領安堵之状を出し、幾程もなく、美濃一国大形成㆓味方㆒、岐阜一城に極め、頓ておしよせ、町を打破り袖城に成、則時に可㆓乗捕㆒之催し急也、痛しや信孝、心は剛に猛けれ共、国中之城主悉く心を変じ、敵に与する条力なし、此上は秀吉と和睦せんより外はなしとて、長秀方へ其趣被㆓仰遣㆒しかは、さすか信長公之御子息なれは痛しく奉㆑存、秀吉へ和与の事歎しかは、秀吉も其故を被㆑存、何様にも若君を取立、能に御計ひ被㆑成候へ、今度は勢を打納可㆑申候、又以来野心あらん者、信孝御心を伺ひ、敵対之思ひを可㆑成候、左様之ためにも御座候条、御老母を安土山におかせられ可㆑然候はんとて、即其沙汰に及へり、其上信忠卿御二男も、岐阜に御座候へは、おほつかなし、唯是をも御供致さんと、安土へ入まいらせけり、寔十五六日か間に濃州一国平均に相随へ、又長浜へ立帰り、北国おさへの城々普請等丈夫にいとなみ立、鉄炮之玉薬武具以下兵粮馬之飼に至るまてこめ置、来春は早々此表可㆑有㆓出勢㆒と約し、臘月廿三日帰陣に及ひ、其夜は安土に宿陣し、若君へ歳暮之御祝儀として、御小袖十重銀子二千両進上あり、其下つき〳〵の面々にも悉く其沙汰に及ひしかば、中々忠義正しき人なりと感しつゝ、用ぬる事いとおひたゝし、かくて廿六日至㆓山崎宝寺之城㆒令㆓帰陣㆒、越年之祝儀例年にこえ目出き事あり、廿八日には今度濃州表出勢之傍【 NDLJP:278】輩衆へ小袖井銀子百枚樽肴十荷宛井其家中之組首何も不㆑残小袖二重つゝ、使者を相添、今度寒天之節苦労之段、喜入趣、いとねん比につくされけり、
評曰、如㆑此武略兼備り、万はかの行事下坂の車のことくなるは、天下之大器なり、然共義士なる傍輩なれは、いまた君臣之義に及す、かく其労を謝する事、時を違す有しなり、不破彦三原彦次郎なと云けるは、佐久間玄番允か驕、今さへ不㆓大形㆒よとて、内々之腹立ふかゝりしとかや、
秀吉如㆑此諸人之労を報謝し、下民を憐み給ひしかは、一此人の為ならは、いかなる疲労をも物之数共せす、可抽大功と、思ひ籠さるはなかりけり
評曰、大志有人は、大人小人の心を取事身にかへてもつとむへき事也、秀吉卿は其身にかへてし給ふ故にや、諸人の心秀吉のために在て、其身にあらす、然るに因て忠功を抽んと思ふに実有て、毎事はかの行事水の流るゝか如し、
相順ふ人々の云けるは、今年いいかなるとしにて有しらやむ、春至㆓備中㆒参陣せしより爾来、一日片時も休息の間なし、かく有ては身も世もあられん物かと、大あくびをし年をこえむと、沐なとせし処へ、明日元旦飯後より播州姫地へ下向有へきの条、其用意油断有へからさる旨触にけり、各承悔けるは、せめて、元日をは安くあらせ給はん事なるに、是は急なる事なりと、つふやきつゝ其用意とせよかくせよとなり、
熟去し年うちの事共を思ふに、二月半木曽の深雪を凌ぎ、信忠卿甲信両国へ乱入し、武田勝頼父子を亡せしが、又夏は将軍御父子逆臣明智かために弑せられ給ひ、さま〳〵の事共うつりかはりつゝ、人の心も何となふ静かならす、世間の事さま、物さはかしう成て、上下安き事なかりし年も、夢の間にくれて、天正十一年元旦之祝義も物ことに改り、やう〳〵半日春のこゝちして、とやかくやとのゝしる内に、午後より姫地へ下向し給ふへきとあれは、猶今年は閙(忙イ)く有べき前表かなと思はれ、予め安き心なし、夜半計に姫地に着せ給ふて、二日は悉くゆるやかに有へしと、樽肴或銀子或米なと相添給てげり、左もなく共去し年中之労をも忘れ、慰まんに、是は目出き事にて、おはしますよとて、朝より夜半に及て、こゝもかしこも、うたふ声々ゆう〳〵として、万歳をよはふ、目出かりける年の始なり、秀吉は休息もし給す、還て心に労を尽し、右筆二三輩めして、たれかれ年々の恩禄、或馬太刀小袖或米馬之飼料等記し立見給へは、八百六十余人に及へり、即それ〳〵の奉行十人計被㆓仰付㆒、五ケ日之内に仕廻可㆑申旨急なりけり、其御隙二日の午時に明しかば、朝餉祝し給ひて休み給ふか、ゆりわか大臣軍にしつかれ、熟睡せられしにも越たり、傍人笑止に思ひ侍りて云、凡そ人のきこんもつゞく程こそ有べけれ、去ぬる年のうちは、終によるの隙さへ、をたやかならさりし、昨今の熟眠之体思ひやられて痛みにけり、三日之午後やう〳〵よろぼひ出給ひ、聊休息し侍りし験しにや、気力殊外付て、鬼共くみつへうそ覚えたれ、さらは年頭之礼を請候へしと、在㆓姫地㆒士計、今日中に仕廻(舞イ)候へと被㆑仰しかは、内々其望ては有、我さきにと進みしに因て、町より本城迄、せきあひおし分かたくして、時をうつせ共、御前は絶まもなく、【 NDLJP:279】拝謁にきはひにけり、四日五日は近国之衆或城主、或諸寺諸社之僧官神人、参つとひ其さまおひたゝし、朝には大名小名に対し尽親愛、夕には寵臣近習に向て、評㆓政道之損益㆒、天下太平之工夫、更に懈怠も無りけり、
○秀吉至㆓安土山㆒勤㆓朝礼㆒給事
安土には、若君御幼稚に付て、伯父信雄卿為㆓御名代㆒、元日之朝礼受させ給ふて賑ひし也、秀吉卿も中国之政務を沙汰し置、正月七日上洛し、年頭之参内を遂られ、摂家清花諸公家なとへも其さまいと厳重なり、翌朝至㆓大津㆒船に乗其夜安土に着船し、翌朝御両殿へ新正之御礼、其品を尽されし事、恰将軍御在山の如し、君臣之礼儀甚以不㆑軽とて、諸人之感声洋々乎として岐にみてり、
傍人曰、将軍取立之大臣多くありといへとも、秀吉卿のやうに、亡君之重恩を能勤らるゝは稀なり、行々興るへき人なりと、媚をなす輩尤多かりし也、其前表何となう此人は可㆑知㆓天下㆒也と諷しあへりぬ、是自然之通兆なり、
秀吉卿安土に五日滞留し給ふて、柳瀬表をかろ〳〵と見廻、取出之城々へ心を相添、又頓て此表可㆑令㆓出勢㆒と約し、正月中旬宝寺へ帰陣し給ふ、
○北伊勢表進発付柳瀬合戦之事
秀吉卿遠慮し給ふやうは、残雪深き中に、先滝川左近将監を推詰蟄居させ、其後美濃国に発向し、弥国中之人質等をかたく取しめ、三月よりは柴田に向ふへきとの議定なり、因
㆑之正月十一日諸国出陣之廻文有しは、来る十五日より廿日之間、遠近に随ひ日並を追て被
㆓立出
㆒、宿々不
㆓指合
㆒様に尤候、江州草津辺にして勢揃し、手をわけて勢州表可
㆓乱入
㆒候条、於
㆓彼地
㆒可
㆓相待
㆒候との廻文なり、各日限に先たつはあれ共遅参はなし、秀吉小姓馬廻弓鉄炮一万五千之着到にて、正月廿三日江南に着陣し、惣軍勢七万余騎を三手にわけ給ひ、土岐多羅口より乱入し給ふは、羽柴美濃守、筒井順慶、伊藤掃部助、氏家左京亮、稲葉伊予守、其勢二万五千也、君
畑越より押入勢は、三好孫七郎殿、中村孫平次、堀尾茂助、其勢二万余騎也、秀吉は三万余騎を引卒し、安楽越にかゝつて乱人し給ふに、岸がけもなきやうにみえしは、実乎猛勢に節所なしと云し事、滝川も上勢をさへの取出を、道筋に拵置可
㆓相防
㆒とかねての用意有しか共、其城は押への勢を置、わき道をうたせ給ふに因て、支度相違してけり、滝川も数度之戦に功有し人なれは、あの藤吉郎か手なみの程は知たり、節所を越来りし事、寔天の与ふる幸なり、能図を見て切かゝり、悉く撫切に伐捨るか、夜討にするか、何様大軍反て味方の利と成謀有へしと、実々しく云しかは、満座ゑつぼに入、左もあらんとそ楽ひける、多勢三手に成て乱入し、民屋悉く放火し、煙天に蔽ひ日を障、殊更秀吉卿は三万余騎を段々に備へ、桑名近辺にをしよせ、在々所々不
㆑残
㆓一宇
㆒放火し給ひにけり、滝川も三方の手あてに、六七千之勢を分てつかはし候しかば、心は剛に余ると云共、勢は不
㆑足、いはゝ病鶴の翅翎の短きか如し、因
㆑之桑名近辺を眼前に焼せ、まけ腹立て云やうは、あつはれ夜討して
頸をひろはん事は、今夜をは過すましき物をとて怒にけり、三方より分入し勢、在々所々に入亘て、堂社仏
【 NDLJP:280】閣ともいはす焼たて、鯨波をあけ引帰し、山取をして終夜大かゝりをたかせ、夜討の用心きひしかりし也、秀吉も桑名より五六里引退て、滝川は弓矢取ての明将なり、今日の狼藉さぞ無念に有へし、小勢にて鬱憤を散する事は、夜討にしくはなし、其意得をなし候へとて、軍中其制尤きひしく、夜寐の功者を
遠聞に出し、終夜大かがりを山の如く積上たかせしかは、いたはしや一益、夜うちのしたくも空しく成、却て如何なる行もやあらんかと、不審く思はれ、取出の城々へ用心油断有へからす、珍しき敵の行あらは可
㆓告知
㆒と云やり、還て自分の用心に労す、羽柴小一郎殿、三好孫七郎殿は、一益甥滝川義大夫か楯こもりぬる
嶺之城に押寄、幾重共なく打囲み攻にけり、又佐治新助かこもりし亀山之城をは、秀吉之先勢として取巻せ給ふ、摠かまへも柵逆茂木を引、用心きひしかりしと云共、閏正月廿六日之朝、をし詰柵を引破、塀を乗
、山下を焼払ひ、日々夜々に仕寄たゆみもなけれは、日を経て今は城中の旗の招と、味方のまねきとむすひ違ふ計にそ見えにける、夜に入は鉄炮をつるへ立、鯨波を上、攻皷をうち隙透間もなく攻、金堀を入、
坤の矢くらをほり崩、塀も倒れしかは、其より込入んとしころを傾け進め共、城中一命をすて防き戦ふに依て、其夜は空しく明にけり、哀乎似
㆔于轍跡之魚吻
㆓淤泥之水
㆒、此旨滝川聞及、佐治には方便て退候へと密通しけれは、即降人になり城を渡し、長島へ退にけり、かくて亀山之城をは信雄卿へ奉
㆑進
㆑之、峰城関地蔵之要害をは、塀柵を幾重共なく付廻し、鳥之外通ふ物とては、
嚅耎ことき物計なり、如
㆑此丈夫に被
㆓仰付
㆒、攻手之勢を相定め給ふ、まつ当国之国人、関安芸守入道万鉄斎、木村隼人正、前野勝右衛門尉、一柳市介、山岡美作守、青地四郎左衛門尉等に攻口を定
給ひ、制法厳重に調へをき、横目之士五人残し置、秀吉は至
㆓江北
㆒、柴田出張之旨注進あるに依て、二月八日、江州長浜に赴し也、柴田はいまた北庄に在と云共、佐久間玄番允為
㆓大将
㆒、卒
㆓ニ万余騎
㆒、天正十一年二月七日、木
本辺に至て、出張すへきとの用意なり、因
㆑之各諍
㆓先陣
㆒処に、前田孫四郎利長進み出、今度之先陣は、府中に在し者より、先を駆へきもの有へからす、不破彦三より我
行年抜群下なり、然はくし取にも及す、先陣之理某にあり、理をおして先をかけんと云者ならは、浮世に在てもかひなし、弓矢八幡も御ちけんあれ、先陣は吾なるへしと、各へ云理り、七日之払暁に立出、木
本さして出張す、つゝく勢には不破彦三、佐久間久右衛門尉、原彦次郎、金森五郎八なり、玄番大将なれは、跡に打しか、東野之城をおさへ、陣を備へてそ有ける、前後其勢一万五千、在々所々に分入て悉く放火し、凱歌を噇と上、即勢を打納、柳瀬辺に陣取ぬ、同十日天神山、木
本両城におさへの勢をおきつゝ、玄番允働きけり、今度も先手は孫四郎いたし候はんとて、一番に打て出けるか、此度は井口川を切て放火せんとの義定なれは、取出之城々におさへの勢あまた所に置て、焼はたらきの勢は、一万騎には過へからす、然共孫四郎若き人なれは深入して、関
原近辺まて悉放火し、勝ときを挙引取しなり、
○秀吉勢州表之仕置被㆓仰付㆒江北着陣之事、
去七日北国勢出張し、木本辺令㆓放火㆒之由、至㆓勢州㆒注進有しかば、秀吉も内々江北へ御出勢有へきとの事にては有、即翌日八日亀山之城より江北さして打せ給ふ、十日之暮ほとに長【 NDLJP:281】浜に着て、玉藤川井口近辺今日致放火つる由、聞給ふて、扨も残多事かな、今半日早く着陣せしかば、委く可㆓討留㆒物をと、あしすりをして千悔し給へとも甲斐なし、かくて翌朝志津岳近辺へおし出し、惣軍勢を十三段に備へにけり
一番堀久太郎 二番柴田伊賀守勢
三番木村小隼人佑、堀尾茂助、木下将監
四番前野勝右衛門尉、賀藤作内、浅野弥兵衛尉、一柳市介
五番生駒甚介、小寺官兵衛尉、明石与四郎、木下解勘由左衛門尉、大塩金右衛門尉、山内猪右衛門尉、黒田甚吉 六番三好孫七郎殿中村孫平次
七番羽柴小一郎殿 八番筒井順慶
九番赤松次郎、蜂須賀彦右衛門尉、伊藤掃部助
十番赤松弥三郎、神子田半左衛門尉 十一番長岡与一郎、高山右近大夫
十二番羽柴御次丸、千石権兵衛尉 十三番中川瀬兵衛尉
其次は秀吉小姓馬廻弓鉄炮、一万五千を三段に備へしか、十三段をは峰より嶺を伝へに、鶴翼に備へてけれは、北国方より察しみる事区々にして、十二万余騎と見るも有、又十万に及へしと云も有けるとなり、秀吉の先備八首は弓鉄炮也、敵味方先手之間十町に過へからす、鉄炮足軽のみにて其日は相引にしたりけり、敵合戦を挑まんならば、勝負まてこそなく共、はつれの合戦は有へき事なり、然るを敵不㆓取合㆒はおほつかなく、秀吉卿おほしめし、翌日未明に足軽にまぎれ、古老之者十騎計召連、峰に攀上て敵之屯を見給ふに、急に破りつへうも見えす、又敵より責かゝつて可㆓打果㆒やうにも見えされは、極る処は弥取出之城々普請等丈夫に拵へ、能兵共を猶加勢し、先惣人数をは打納宜しからんやと、老臣に相議しけれは、可㆑然おはさんとなり、因㆑之伊賀守勢を入置し、天神山之城は、聊出過益なしとて、十町計引のき本山に要害を拵へ給ふ、左禰山をも弥丈夫にこしらへ、堀久太郎を入置、志津岳之尾崎中川瀬兵衛尉、その尾七八町も隔て高山右近大夫、志津嵩(岳イ)之城には美濃守内、桑山、修理亮、田上山小一郎殿本陣として居城なり、遊軍は蜂須賀彦右衛門尉、生駒甚介、神子田半左衛門尉、赤松弥三郎、明石与四郎、小寺官兵衛尉、其勢一万五千なり、何れによらす弱き所へ可㆓助成㆒との事なれは、木本辺に宿陣してけり、海津口のおさへには丹羽五郎左衛門尉一万、長岡与一郎三千にてかためたり、去共長岡は帰陣有て海賊船を用意せられ、越前之浦々に着陣し、在々所々放火有へきとの事にて、三月初旬帰陣に及ぬ、筒井順慶なともまつ、帰陣有べしと使者有、秀吉も至㆓長浜㆒打納、人馬を可㆑休と卯月朔日引給ふ、柴田伊賀守病気逐㆑日重りもて行まゝ、上洛し侍りて、加㆓保養㆒可㆑然之旨にて、卯月十日上京あり、
○柴田伊賀守家来山路将監謀反露見之事
本山之要害に、心を変する者有由、誰共なしに云出しかは、木村小隼人佑を本丸へ入、大金藤八郎、木下半右衛門尉、山路将監を外輪へ出し、用心きひ敷見えし処に、山路卯月十三日之朝小隼人佑へ茶を申さんと約し、用意しきりなり、此企は木村を討て、柴田か勢を、本山へ引入
【 NDLJP:282】んとの隠謀とかや、然るを其夜之子刻計に木村か門を扣く者有、誰そと番之者共 けれは、御本陣より急用之事にて有そ、先門を啓候へ、と云しまゝ隼人に其旨告し処、大崎宇右衛門尉聞候へと有しかは、即出向ひ何用之御事そ承候へしと云し時、いや御本陣よりの御用には非す候、伊賀守具臣野村勝次郎是まて参たる由申候へと有に因て、大崎立帰り其由申けれは、さらは内へ入よとて、近習十人計野村か左右に随ひ、屋裏へ入しかは、野村刀脇差を大崎に渡し、密かに申上候はんと、やはら立寄さゝやきけるは、山路将監心変して候、明朝御茶を申すきやにて御辺を奉
㆑討、本山城へ柴田か勢を引入んとの事に相極たる由云けれは、木村実左もあらんと覚えたり、さらは只今逆寄によせ可
㆓討果
㆒と有しを野村承、先蒙気之由被
㆓仰遣
㆔被
㆓相延
㆒、明朝御仕懸候はゝ同類不
㆑残被
㆓打果
㆒候はんやと指図せしかは、尤なりとて、山路方へ、頓に虫さし出痛候間、明朝は参ましき旨使者を遣しけれは、扨は此事推量有し也、反忠を無
㆓心許
㆒思ひ密談之者共、誰かれと呼に、野村勝次郎そ居さりける、反忠此やつなんめり、時刻移なはあしかりなんと、長浜之宿所に、母や妻子共有しをは、山路か甥と旧臣二人つかはし、船にて早々退候へ、財宝等に少も相かまはす、片時もはやく退候へとて出し、其身は密談之同類三人同道し、鶏の声初で聞えし折節落にけり、将監か陣所ひそ
〳〵とさはき出たる由、野村か宿より告知せける間、即かくと隼人佑に申けれは、すは退たる物にこそとて、くる
〳〵と引家尋ぬれは、如
㆑案見之さりけり、在
㆓長浜
㆒母なとからめに、馬上五六騎つかはしみれは、はや舟にて忍ひたりとなん、番船之者も熟睡して有しを、山路将監か母の乗たる舟之権
(櫓疑艪)番舟の碇のつなにあたりしかは、十艘之番船一度にゆられ出、是はいか様舟かとをるにこそとて、声々にのゝしり出けれは、案の如く不
㆑知船見えつるに因て、追掛舟をとめ見れは、山路か母妻子共なり、彼是七人番船へ取入こきもとり、隼人佑使者共に渡し侍りけり、
評曰、悪逆無道なる者をは天にくみ給ふに因て、山路か母なとか乗たる船、番舟の睡をさましぬる事、天心厳なる事黙識すへし、吁恐しゐかな、
山路か母妻子其七人、秀吉へ上奉り、謀反之様子委木村申上しかは、見せしめのためなる条、急張付に掛て、将監めに見せよと、被㆑仰けれは、隼人いとゝ腹あしき人ては有、卯月十六日、柴田陣取ちかう逆張付にかけて、山路これを見よ〳〵と高声によはゝり、噇と鯨波を挙、とよめきにけり、いたはしや夢にも知ぬ事に、七人之者共に憂目を見せ、耻を与る事、後代万人の舌頭に絶さらん事も、ひとへに将監か無道故なり、能々勘かへみるに、謀反をし侍りて、行末のめてたきはまれなり、
○織田三七殿と秀吉及鉾楯事
信孝いかゝは思召けん、旧冬秀吉と和睦之契約を変せられ、柴田滝川と被
㆓仰合
㆒、敵之色を立、氏家内膳正、稲葉伊予守か分領之在々所々、少々放火有
㆑之由注進有しかは、秀吉卿旧冬岐阜を可
㆓攻平
㆒之処、信長公御厚恩を忘れかたく存知、及
㆓助宥
㆒候し、今又かく約変、自業得果なれは、不
㆑及
㆓思惟
㆒事なりとて、至
㆓濃州
㆒令
㆓出馬
㆒可
㆓打果
㆒と、卯月十七日暁天に長浜を立て、同日
【 NDLJP:283】亥之刻大柿に着陣し、翌日十八日の早天に、氏家稲葉か勢を以、信孝之御分領悉放火してけり、十九日には至
㆓岐阜
㆒おしよせ可
㆓攻干
㆒と支度にて侍りしか共、夜半より雨夥しく降出、をやみもなけれは、其日は止にけり、かゝる処に、廿日之午刻、佐久間玄番允兄弟、不破彦三、原彦次郎、徳ノ山五兵衛尉、上方取出
〳〵の要害をは丈夫におさへをき、余語之入海を左になし廻り来て、志津
嵩中川瀬兵衛尉か要害を打囲み、息をもくれす攻候旨、飛脚到来せしかは、秀吉驚もし給はて、扨は得
㆓大利
㆒事思之外はやかるへきぞ、かち立之士二百人之内、道に得たるを五十人撰出しつゝ、急長浜至て、廿人は松明を持せ出、我
行さき道
通山の嶺々に百姓共
〈[#「姓」は底本では「姪」]〉を追出し、ともし立させよ、三十人は長浜近辺の地下人共に酒食、馬の飼をこしらへ持出道の両辺にまたせよ、米銭の費倍々の算用をとけさせ、つかはすへき旨、能々申聞せ、早速持出候やうに、油断いたさゞれと被
㆓仰付
㆒けり、かくて弓鉄炮小姓馬廻、其組頭々へ柳瀬におひて大利を得る事出来たるそ、早々こしらへ出候へ、こし兵粮のみ、かる
〳〵と営ふて出よと、被
㆓仰触
㆒けり、堀尾茂助をめしてひそかに仰けるは、其方が一命を請事有そとよ、汝は当城に残り候て、若氏家内膳正心かはりなる色見えしかば、よきに計ひ候へと、しめやかに憑れしかは、堀尾御諚畏て奉りぬ、一命を進したく事は本より左もあらては不
㆑叶事なり、然共当城之主と申、時分からと云、某一人は、いかゝ侍らんや、それとても御指図次第にて御座候と申上けれは、其方好みの者十人ほと残したくへきそ、好み候へと仰けり、いや十人まても入不
㆑申候、たれかれ六七人御残し候へと申上、即堀尾は残りけり、
○山路将監進中入欲遂宿意企之事
同十九日之早朝に、将監佐久間玄番允に云やうは、羽柴筑前守一昨日至
㆓濃州
㆒令
㆓発向
㆒由候、其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召、秀吉に対し敵之色を立させられ、氏家稲葉か分領放火し給ふに依て、信孝を退治せんとの義なりとかや、然は信孝御心さしの程を救ひ給はては、不
㆑叶事にておはさんか、いかゝ思ひ給ふそやと云けれは、尤助成申度事は飛立計なりと云とも、大山を隔て、大敵其間にあれは、不
㆑及
㆓了簡
㆒事共なり、何とそ救ひ奉らん行もあらは承度こそ候へと云し時、山路さゝやきけるは、上方より北国勢をたさへ置し取出共の普請は、何も丈夫におはしまし候、余語之海のあなたなる、中川瀬兵衛尉か有し要害は、多くの取出之城共を隔て、敵あひの遠きを頼とし、普請以下かた計にこしらへ候しなり、是をうたんなとゝは、上方勢思ひもよらさる所に候、然は討
㆓不意
㆒に同し、討
㆓不意
㆒に利のなき事は稀なる事に候、秀吉卿濃州出勢は折を得たる幸候、いさゝせ給へと、あり
〳〵しく重てすゝめけれは、玄番いとゝ進みたき折ふしなれは、即同心し、さらは取出之城々おさへの勢を、勝家へ間奉り定めんとて、同日午刻匠作之陣所へ玄番久右衛門兄弟同参して、其旨相議あり、運のつきなん験しかや、勝家もいかゝあらんと不
㆑及
㆓思惟
㆒、行の事共を聞届、宜しからんと同し給へり、西の方二ケ所の城のおさへには、前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長志津嵩の押へには原彦次郎、安井左近大夫、堀久太郎取出をは、勝家おさへをくへき之条、心安く働き候へ、帰陣には海道を直に退候へ、必宿陣すへからす、今日中に引取候へしとて、廿日之早朝に暇
【 NDLJP:284】乞有しか、是そ最期の暇乞とは成にける、先陣は不破彦三徳山五兵衛尉佐久間久右衛門尉大将は玄番允都合其勢一万余騎余語之入海をつたひ、山路をたとり
〳〵急しかは、漸夜も白みあへりぬ、かゝる処に中川瀬兵衛尉者共馬をひやしに、入海さして来たりしを、おさへて取て、軍神の血祭にそしたりける、ともなひし者共逃帰て、味方の勢かとみし処に、大田平八、池田仙右衛門尉か馬取を四五人切て候、急御出合なくは危き事になるへく候也、とのゝしる、張番之士聞もあへす、鉄炮を以防戦ふ処に、志津嵩之要害より、中川瀬兵衛尉高山右近其勢六千おり下て三尺計高き土手を堺て、不破彦三、佐久間右衛門尉か勢と、揉に捫て防戦ふ、互に勝劣もなき武士なれは入も立す、込入事もならて、勝負区なりし事数刻に及へり、玄番允思ふやう、昔於
㆓三州長篠之地
㆒鳶巣山
〈奥平九八郎三州長篠に籠城し極運を開く時〉の陣屋を焼立しかは、武田か勢跡を焼立られ度に迷ひしなり、あの要害の麓へ廻り下小屋を焼候へ、さるほとならは敵跡を焼れ度を失て敗北せん事疑有へからす、急き徳山より勢を分つかはし、陣屋をやき候やうにと、云つかはしけれは、尤可
㆑然とて、神部兵右衛門尉に、一千余騎を引分相添、敵の下小屋を焼候へと申付しかは、神部其勢を二手に分て、手かるき者計撰出し、城の山下へ廻り下小屋を焼立よとて遣し、神部六七百ノ勢を左右に随へ、瀬兵衛か居城より、襲ふ事もやと待かけたり、彼勢下小屋に至てみれは、悉く打出人足之外、用に立へき者曽てなかりしかは、
頓て焼立時を噇と上しなり、中川高山も土手を
堺て汗水に成て防き戦ひけるか、下小屋を焼立たるに度を失ひ、退散せしを、引付て追行は、寔に蜘蛛の子を散したるか如く、おのかさま
〳〵なれ共、瀬兵衛尉は二三度引返、追払ては
�き
〳〵、下知しけるは、入城し堅固に可
㆑守とて、手廻の勢五六百にて終に居城へ籠りぬ、北国勢勝に乗て、息をもくれす攻上りしかは、瀬兵衛尉小舛馬廻五六十人にて突て出、防戦ふ形勢たとへていはんかたもなし、不破佐久間弥先立込入けるを、中川大音声を上、突て出、つき退け
〳〵する事、五六度に及へり、然共新手を入かへ
〳〵攻しかは、身もつかれはて、或うたれ、或いた手ををひ、残りすくなになり、叶しとや思ひけん、大手をはすて
詰之城へ引入ぬる処を、跡より中川殿きたなくも後を見せさせ給ふ物かな、引返し勝負あれかしとのゝある声に、まけ腹立て引返し、又鑓を合せ五六人突伏し処に、玄番允内近藤無一と名乗かけ散々に戦ひ、終に瀬兵衛を討捕首をさし上たり、かくて首共を集め実見に及ひけれは、漸日も西山に傾ぬ、瀬兵衛首を勝家へまいらせけれは、悦ひあへる事限りなし、昨夜山跡をたとり
〳〵来て、終日戦ひつかれ大利を得たるに、上下気ゆるまり、心気以外脱にけり、勝家本陣へ廻れは五六里、直に行ば一里にも不
㆑足也、玄番允是に可
㆑致
㆓在陣
㆒旨注進有けれは、急
引納候へし、此上大利にほこらされ、只片時もはやく引取、吾
陣旅を固くし、時と位を見るならは、旬内に天下掌握に帰すへしと、再三馬上之歴々をつかはし諫しか共、玄番勝に乗て聞も入す、勝家老してはや
〳〵分別も相違せりとて、下知をも用ゐす、使者五六度に及時は、しか
〳〵返辞をもせさりしなり、とやかくやせしまに日くれぬ、
評曰、織田備後殿、信長公へ遺戒之内、得大利其勢ひを能養ひぬれは、敵国は自然に亡る物なりと有しを、勝家能存知られし故、玄番允に急引取候へと、使者及㆓数度㆒しを、不㆑用ほこ【 NDLJP:285】りし行衛可㆑見、或曰、如㆑此玄番允下知不㆑用ば、勝家早々進み来て、玄番を引立同道し引取なば寔に宜しからんか、秀吉ならは、此沙汰に及へしと、心有人は悔にけり
○秀吉卿従美濃国柳瀬表出勢之事
〈癸未〉卯月廿日未之刻秀吉小姓馬廻弓鉄炮、都合其勢一万五千を卒し、濃州大柿を立、諸鐙を合せ急き給へる、其気象いかなる天魔破旬も、向ふへくも見えさりけり、良有て堀尾茂助は、氏家内膳か心を引みんと思ひ云やうは、秀吉難義の程いかゝ思召候や、又当城に御座候はんやと尋けれは、されは候岐阜への手あてをさたし置、某も秀吉卿の御跡をくろめ候はん、頓て参陣せんとて、貝を吹せ旗を出しひしめきあへりしかば、堀尾茂助も安堵し、六人之者共に云やうは、氏家もし心を変しなは、引付一着を極むへきと、心腑に銘し思ひしか、目出事こそ候へ、内膳も柳瀬へ唯今赴へきとなり、いさ内膳と引つれ参陣有べきと云けれは、各悦あへりつゝ、申
下刻に大柿を出、汗馬の鞭隙なく急きにけり、秀吉事外急き給へ共、多勢なれは思ふ程にははかも行さりしが、藤川辺にては、はや夕日山のはにちかく、次第に闇く成と等しく、地下人百姓共、手々に松明をともしつれ、御迎の者也と声々に名のりしかば、其名を覚る事はなるまじきぞ、某郡某
里と能覚候へ、一かどほうびすべきぞと、白も宣ひ、多は歩立の者を以仰けり、長浜近辺之町人百姓等、酒食赤飯馬の飼など持
出、一村々々備へをまうけさゝげしかば、餅を手つから取て褒美し給ひし事あまたたひなり、人馬力を得一きはいかめしやかに其勢甚以夥し、嶺より峰わきへ松明をともし立、万灯会も物かはなれは、秀吉卿当地参陣やらん、松明のかず莫太なりとて、敵陣ひそ
〳〵と云出、人声物かはりせり、又大柿より今何として参着あらんや、心つよく思ふべしと、さゝやく所も有て、陣中さはぎあへりぬ、かくて松明弥多く成、道を急く便快くし、秀吉卿志津嵩につき給ひ、取出
〳〵の城々へ唯今着陣候、夜明なんとせば、北国勢に引付て、弓鉄炮を以射すくめよ、明はなれてより合戦をは初むへし、得大利事掌をさすが如きぞと、被
㆓仰触
㆒、事外にぞ勇み給へり、
評曰、筑前守殿去年三月以来、こゝかしこはかをやり給ひし事の、聊不足なる事なきを能考へみすんい徹せし、諸人皆なみ〳〵の事に思へり、其人も亦倫々の心なるへきか、噫、宜乎非㆑蛇不㆑知㆓蛇道㆒と云置し事、