虎狩

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私は虎狩の話をしようと思ふ。虎狩といつてもタラスコンの英雄タルタラン氏の獅子狩のやうなふざけたものではない。正真正銘の虎狩だ。場所は朝鮮の、しかも京城から二十里位しか隔たつてゐない山の中、といふと、今時そんな所に虎が出てたまるものかと云つて笑はれさうだが、何しろ今から二十年程前迄は、京城というつても、その近郊東小門外の平山牧場の牛や馬がよく夜中にさらはれて行つたものだ。もつとも、これは虎ではなくて、ぬくてといふ狼の一種にとられるのであつたが、とにかく郊外の夜中の獨り歩きはまだ危険な頃だつた。次のやうな話さへある。東小門外の駐在所で、或る晩巡査が一人机に向つてゐると、急に恐しい音を立てゝガリガリと入口の硝子ガラス戸を引掻くものがある。びつくりして眼をあげると、それが、何と驚いたことに、虎だつたといふ。虎が――しかも二匹で、後肢うしろあしで立上り、前肢の爪で、しきりにガリガリやつてゐたのだ。巡査は顔色を失ひ、早速部屋の中にあつた丸太棒をかんぬきの代りに扉にあてがつたり、ありつたけの椅子や卓子を扉の内側に積み重ねて入口のつゝかひ棒にしたりして、自身は佩刀はいとうを抜いて身構へたまゝ生きた心地もなくぶるぶるふるへてゐたといふ。が、虎共は一時間ほど巡査のきもを冷させたのち、やつと諦めて何処どこかへ行つてしまつた、といふのである。此の話を京城日報で読んだ時、私はをかしくてをかしくて仕方がなかつた。ふだん、あんなに威張つてゐる巡査が――その頃の朝鮮は、まだ巡査の威張れる時代だつた。――どんなに其の時はうろたへて、椅子や卓子や、その他のありつたけのがらくたを大掃除の時のやうに扉の前に積み上げたかを考へると、少年の私はどうしても笑はずにはゐられなかつた。それに、そのやつて来た二匹連れの虎といふのが――後肢で立上つてガリガリやつて巡査をおどしつけた其の二匹の虎が、どうしても私には本物の虎のやうな気がしなくて、脅された当の巡査自身のやうに、サアベルをげ靴でもはき、ぴんと張つた八字髭でも撫上げならが、「オイ、コラ」とか何とか言ひさうな、稚気満々たるお伽話とぎばなしの国の虎のやうに思へてならなかつたのだ。


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さて、虎狩の話の前に、一人の友達のことを話して置かねばならぬ。その友達の名前は趙大煥といつた。名前でも分るとほり、彼は半島人だつた。彼の母親は内地人だと皆が云つてゐた。私はそれを彼の口から親しく聞いたやうな氣もするが、或ひは私自身が自分で勝手にさう考へて、きめこんでゐただけかも知れぬ。あれだけ親しく付合つてゐながら、ついぞ私は彼のお母さんを見たことがなかつた。兎に角、彼は日本語が非常に巧みだつた。それに、よく小説などを読んでゐたので、植民地あたりの少年達が聞いたこともないやうな江戸前の言葉さへ知ってゐた位だ。で、一見して彼を半島人と見破ることは誰にも出来なかつた。趙と私は小學校の五年の時から友達だつた。その五年の二学期に私が内地から龍山の小学校へ転校して行つたのだ。父親の仕事の都合か何かで幼い時に度々たびたび學校をかはつたことのある人は覚えてゐるだらう。ちがつた学校へはひつた初めのうちほどいやなものはない。ちがつた習慣、ちがつた規則、ちがつた発音、ちがつた讀本の読み方。それに理由もなく新來者をいぢめようとする意地の悪い沢山の眼。全く何一つするにも笑はれはしまいかと、おどおどするやうな萎縮した気持に追ひ立てられてしまふ。龍山の小学校へ転校してから二三日つたある日、その日も読方の時間に、「兒島高德」のところで、櫻の木に書きつけた詩の文句を私が讀み始めると、皆がどつと笑ひ出してしまつた。あかくなりながら一生懸命に讀み直せば讀み直すほど、みんなは笑ひくづれる。しまひには教師までが口のあたりに薄笑ひを浮かべる始末だ。私はすつかり厭な氣持になつて了つて、その時間が終ると大急ぎで教室を抜け出し、まだ一人も友達のゐない運動場の隅つこに立つたまま、泣出したい氣持でしよんぼり空を眺めた。今でも覺えてゐるが、その日は猛烈は砂埃すなぼこりが深い霧のやうにあたりに立罩たちこめ、太陽はすのうす濁つた砂の霧の奥から、月のやうなうす黄色い光をかすかに洩らしてゐた。あとで解つたのだけれども、朝鮮から滿洲にかけては一年に大抵一度位このやうな日がある。つまり蒙古のゴビ砂漠に風が立つて、その砂塵が遠く運ばれてくるのだ。その日、私は初めて見るその物すさまじい天候に呆気に取られて、運動場のさかひの、丈の高いポプラのこずえが、その白い埃の霧の中に消えてゐるあたりを眺めながら、直ぐにぢやりぢやりと砂の溜つてくる口から、絶えずペッペッと唾を吐き棄ててゐた。すると突然横合から、奇妙な、ひきつつた、ひやかすやうな笑ひと共に、「ヤアイ、恥づかしいもんだから、むやみと唾ばかり吐いてやがる。」といふ聲が聞えた。見ると、割に背の高い、痩せた、眼の細い、小鼻の張つた一人の少年が、惡意といふよりは嘲笑に充ちた笑ひを見せながら立つてゐた。成程なるほど、私が唾を吐くのは確かに空中の埃のせゐであつたが、さういはれて見ると、また先程の「天勾踐こうせんを空しうするなかれ」の恥づかしさや、一人ぼつちのの惡さ、などを紛らすために必要以上にペッペッと唾を吐いてゐたことも確かに事實のやうである。それを指摘された私は、更に先程の二倍も三倍もの恥づかしさを一時に感じて、カッとすると、前後の見境もなしに、その少年に向つてベソを掻きながら跳びかかつて行つた。正直にいふと、何も私はその少年に勝てると思つて跳びかかつて行つたわけではない。身體の小さい弱蟲の私は、それまで喧嘩をして勝つたためしがなかつた。だから、その時も、どうせ負ける覺悟で、そしてそれ故に、もう半分泣面をしながら跳びかかつて行つたのだ。所が、驚いたことに、私が散々叩きのめされるのを覺悟の上で目をつぶつて向つて行つた當の相手が案外弱いのだ。運動場の隅の機械體操の砂場に取組み合つて倒れたまゝ暫くみ合つてゐる中に、苦もなく私は彼を組敷くことが出來た。私は内心やや此の結果に驚きながら、まだ心を許す餘裕はなく、夢中で目をつぶつたまま相手の胸ぐらを小突きまはしてゐた。が、やがて、あまり相手が無抵抗なのに氣がついて、ひよいと目をあけて見ると、私の手の下から相手の細い目が、まじめなのか笑つてゐるのか解らないずるさうな表情を浮かべて見上げてゐる。私はふと何かしら侮辱を感じて急に手を緩めると、すぐに立上つて彼から離れた。すると彼も續いて起き上り、黑いラシャ服の砂を拂ひながら、私の方は見ずに、騒ぎを聞いて駈け付けて來た他の少年達に向つて、きまり惡そうに目尻をゆがめて見せるのだ、私はかえつて此方が負けでもしたやうなの惡さを覺えて、妙な氣持で教室に歸つて行つた。
それから二三日たつて、その少年と私とは學校の歸りに同じ道を歩いて行つた。その時彼は自分の名前が趙大煥であることを私に告げた。名前をいはれた時、私は思はず聞き返した。朝鮮へ來たくせに、自分と同じ級に半島人がゐるといふことは、全く考へてもゐなかつたし、それに又その少年の様子がどう見ても半島人とは思へなかつたからだ。何度か聞き返して、彼の名がどうしても趙であることを知つた時、私はくどくど聞き返して惡いことをしたと思つた。どうやらそこ頃私はませた少年だつたらしい。私は相手に、自分が半島人だといふ意識を持たせないやうに――これは此の時ばかりではなく、その後一緒に遊ぶやうになつてからもずつと――努めて氣をつかつたのだ。が、その心遣ひは無用であつたやうに見えた。といふのは、趙の方は自分で一向それを氣にしてゐないらしかつたからだ。現に自ら進んで私にその名を名乗つた所から見ても、彼がそれを氣に掛けてゐないことは解ると私は考へた。併し實際は、これは、私の思ひ違ひであつたことが解つた。趙は実は此の點を――自分が半島人であるといふことよりも、自分の友人達がそのことを何時も意識して、恩惠的に自分と遊んでくれてゐるのだ、といふことを非常に氣にしてゐたのだ。時には、彼はさういふ意識を持たせまいとする、教師や私達の心遣ひまでが、彼を救ひやうもなく不機嫌にした。つまり彼は自らの事にこだはつてゐるからこそ、逆に態度の上では、少しもそれに拘泥こうでいしてゐない様子を見せ、ことさらに自分の名を名乗つたりなどしたのだ。が、この事が私に解つたのは、もつとずつと後になつてからのことだ。
とにかく、さうして私達の間は結ばれた。二人は同時に小學校を出、同時に京城の中學校に入學し、毎朝一緒に龍山から電車で通學することになつた。

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その頃――といふのは小學校の終りの頃から中學校の初めにかけてのことだが、彼が一人の少女を慕つてゐるのを私は知つてゐる。小學校の私達の組は男女混合組で、その少女は副級長をしてゐた。(級長は男の方から選ぶのだ。)背の高い、色はあまり白くはないが、髪の豊かな、眼のきれの長く美しい娘だつた。組の誰彼が、少女俱樂部か何かの口繪の、華宵かしようとかいふ挿繪畫家の繪をよく此の少女と比較してゐるのを聞いたことがあつた。趙は小學校の頃から其の少女が好きだつたらしいのだが、やがてその少女もやはり龍山から電車で京城の女學校に通ふこととなり、往き歸りの電車の中でちよいちよい顔を合せるやうになつてから、更に氣持が昂じてきたのだつた。ある時、趙はまじめになつて私にその事を洩らしたことがあつた。はじめは自分もそれ程ではなかつたのだが、年上の友人の一人がその少女の美しさをめるのを聞いてから、急に堪らなく其の少女が貴く美しいものに思へてきたと、その時彼はそんなことを云つた。口に出さなかつたけれども、神經質な彼が此の事についても又、事新しく、半島人や内地人とかいふ問題にくよくよ心を惱ましたらうことは推察に難くない。私はまだはつきりと覺えてゐる。ある冬の朝、南大門驛の所で、偶然その少女に(全く先方もどうかしてゐて、ひよいとさうする氣になつたらしいのだが)正面から挨拶され、面喰めんくらつてそれに應じた彼の、寒さで鼻の先を赤くした顔つきを、それから又同じ頃やはり電車の中で、私達二人とその少女が乗合せた時のことを。その時、私達が少女の腰掛けてゐる前に立つてゐるうちに、脇の一人が席を立つたので、彼女が横へ寄つて趙の爲に(しかし、それは又同時に私のためとも取れないことはないのだが)席をあけてくれたのだが、その時の趙が、何といふ困つたやうな、又、うれしさうな顔付をしたことか。………私が何故こんなくだらない事をはつきりおぼえてゐるかといへば――いや、全く、こんなことはどうでもいゝことだが――それは勿論、私自身も亦、心ひそかに其の少女に切ない氣持を抱いてゐたからだつた。が、やがて、その彼の、いや私達のかなしい戀情は、月日が經て、私達の顔に次第に面皰にきびが殖えてくるに従つて、何處かへ消えて行つて了つた。私達の前に次から次へと飛出してくる生の不思議の前に、その姿を見失つて了つた、といふ方が、より本當であらう。この頃から私達は次第に、この奇怪にして魅力に富める人生の多くの事實について鋭い好奇の眼を光らせはじめた。二人が――勿論、大人に連れられてのことではあるが、――虎狩に出掛けたのは丁度其の頃のことだ。併しついでだから、順序は逆になるが、虎狩は後廻あとまはしにして、その後の彼について、もう少し話して置かうと思ふ。それから後の彼について思ひ出すことといへば、もう、ほんの二つ三つしか無いのだから。

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元來、彼は奇妙な事に興味を持つ男で、學校でやらせられる事には殆ど少しも熱心を示さなかつた。劍道の時間なども大抵は病氣と稱して見學し、眞面目に面をつけて竹刀しないを振廻してゐる私達の方を、例の細い眼で嘲笑を浮べながら見てゐるのだつたが、ある日の四時間目、劍道の時間が終つて、まだ面もらない私のそばへ來て、自分が昨日三越のギャラリイで熱帶の魚を見て來た話をした。大變昂奮した口調でその美しさを説き、是非私にも見に行くやうに、自分も一緒に、もう一度行くから、といふのだ。その日の放課後私達は本町通りの三越に寄つた。それは恐らく、日本で最も早い熱帶魚の紹介だつたらう。三階の陳列場の圍ひの中にはひると、周圍の窓際に、ずつと水槽を並べてあるので、場内は水族館の中のやうなほの靑い薄明りであつた。趙は私を先づ、窓際の中央にあつた一つの水槽の前に連れて行つた。そとの空を映して靑く透つた水の中には、五六本の水草の間を、薄い絹張り小團扇うちわのやうな美しい、非常にうすい平べつたい魚が二匹靜かに泳いでゐた。ちよつとかれいを――縱におこして泳がせたやうな恰好だ。それに、その胴體と殆ど同じ位の大きさの三角帆のやうなひれが如何にも見事だ。動く度に色を變へる玉蟲めいた灰白色の胴には、派手なネクタイの柄のやうに、赤紫色の太い縞が幾本か鮮かに引かれてゐる。
「どうだ!」と、熱心に見詰めてゐる私の傍で、趙が得意氣に言つた。
硝子の厚みのために綠色に見える氣泡の上昇する行列。底に敷かれた細かい白い砂。そこから生えてゐる巾の狹い水藻。その間に裝飾風の尾鰭を大切さうに靜に動かして泳いでゐる菱形の魚。かういふものをじつと眺めてゐる中に、私は何時いつの間にか覗き眼鏡で南洋の海底でも覗いてゐるやうな氣になつてしまつてゐた。しかし又、其の時、私には趙の感激の仕方が、あまり仰々しすぎると考へられた。彼の「異國的な美」に對する愛好は前からよく知つてはゐたけれども、此の場合の彼の感動には多くの誇張が含まれてゐることを私は見出し、そして、その誇張をくじいてやらうと考へた。で、一通り見終つてから三越を出、二人して本町通を下つて行つた時、私は彼にわざとかう云つてやつた。
――そりや綺麗でないことはないけれど、だけど、日本の金魚だつてあの位は美しいんだぜ。――
反應は直ぐに現れた。口をつぐんだまゝ正面から私を見返した彼の顔付は――その面皰のあとだらけな、例によつて眼のほそい、鼻翼の張つた、唇の厚い彼の顔は、私の、繊細な美を解しないことに對する憫笑や、又、それよりも、今の私の意地の惡いシニカルな態度に對する抗議や、そんなものの交りあつた複雑な表情でたちまち充たされて了つたのである。その後一週間程、彼は私に口をきかなかつたやうに憶えてゐる。

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彼と私との交際の間には、もつと重要なことが澤山あつたに相違ないのだが、それでも私はかうした小さな出來事ばかり馬鹿にはつきりと憶えてゐて、ほかの事は大抵忘れて了つてゐる。人間の記憶とは大體さういふ風に出來てゐるものらしい。で、この他に私のよく憶えてゐることといへば、――さう、あの三年生の時の、冬の演習の夜のことだ。
それは、たしか十一月も末の、風の冷たい日だつた。その日、三年以上の生徒は漢江南岸の{{ruby|永登浦|えいとうほ}]の近處で發火演習をおこなつた。斥候に出た時、小高い丘の疎林の間から下を眺めると、其處そこには白い砂原が遠く連なり、その中程あたりを鈍い刄物色めいた冬の川がさむざむと流れてゐる。そしてその遥か上の空には、何時も見慣れた北漢山のゴツゴツした山骨が靑紫色に空を劃つてゐたりする。さうした冬枯の景色の間を、背嚢はいのうの革や銃の油の匂、又は煙硝えんしようの匂などを嗅ぎながら、私達は一日中駈けずり廻つた。
その夜は漢江の岸の鷺梁津ろりやうしんの川原に天幕を張ることになつた。私達は疲れた足を引きずり、銃の重みを肩のあたりに痛く感じながら、歩きにくい川原の砂の上をザツクザツクと歩いて行つた。露營地へ着いたのは四時頃だつたらう。いよいよ天幕を張らうと用意にかかつた時、今まで晴れてゐた空が急に曇つて來たかと思ふと、バラバラと大粒なひようが烈しく落ちて來た。ひどく大粒な雹だつた。私達は痛さに堪へかねて、まだ張りもしないで砂の上に擴げてあつたテントの下へ、我先にともぐり込んだ。その耳許へ、テントの厚い布にあたる雹の音がはげしく鳴つた。雹は十分ばかりで止んだ。テントの下から首を出した私達は――その同じテントに七八人、首を突込んでゐたのだ。――互ひに顔を見合せて一度に笑つた。その時、私は趙大煥もやはり同じテントから今、首を抜き出した仲間であることを見出した。が、彼は笑つてゐなかつた。不安げな蒼ざめた顔色をして下を向いてゐた。側に五年生のNといふのが立つてゐて、何かけはしい顔をしながら彼をとがめてゐるのだ。一同があわててテントの下へもぐり込んだ時、趙がひじでもつて、その上級生を突飛ばして、眼鏡を叩き落したといふのらしかつた。元來私達の中學校では上級生が甚だしく威張る習慣があつた。みちで會つた時の敬禮はもとより、その他何事につけても上級生には絶對服従といふことになつてゐた。で、私は、その時も趙が大人しくあやまるだらうと思つてゐた。が、意外にも――あるひは私達がそばで見てゐたせゐもあるかも知れないが、――仲々素直にあやまらないのだ。彼は依怙地に默つたまゝ突立つてゐるばかりだつた。Nは暫く趙を懀さげに見下してゐたが、私達の方に一瞥をくれると、そのまゝぐるりと後を向いて立去つて了つた。
實をいふと、此の時ばかりでなく、趙は前々から上級生ににらまれてゐたのだ。第一、趙は彼等に充ちで逢つても、あまり敬禮をしないといふ。これは、趙が近眼でもあるにも拘らず眼鏡を掛けてゐないといふ事實にることが多いもののやうだつた。が、さうでなくても、元來年の割にませてゐて、彼等上級生達の思ひ上つた行爲に對しても時として憫笑を洩らしかねない彼のことだし、それにその頃から荷風の小説を耽讃する位で、硬派の彼等から見て、いささか軟派に過ぎても入たので、これは上級生達から睨まれるのも當然であつたらう。趙自身の話によると、何でも二度ばかり「生意氣だ。改めないと毆るぞ。」と云つて、おどかされたさうだ。殊に此の演習の二三日前などは學校裏の崇政殿といふ、昔の李王朝の宮殿址の前に引張られて、あはや毆られようとしたのを、折よく其處を生徒監が通りかゝつたために危く免れたのだといふ。趙は私にその話をしながら口のまはりには例の嘲笑の表情を浮かべてゐたが、その時、又、急にまじめになつてこんな事を云つた。自分は決して彼等を恐れてはゐないし、又、毆られることをこはいとも思つてゐないのだが、それにも拘らず、彼等の前に出ると顫へる。何を馬鹿な、とは思つても、自然に身體が小刻みに顫へ出してくるのだが、一體これはどうした事だらう、と其の時彼は眞面目な顔をして私に訊ねるのだつた。彼は何時も人を小馬鹿にしたやうな笑ひを浮かべ、人から見すかされまいと常に身構へしてゐるくせに、時として、ひよいとこんな正直な所を白状して見せるのだ。もつとも、さういふ正直な所をさらけ出して見せたあとでは、必ず、直ぐに今の行爲を後悔したやうな面持で、又もとの冷笑的な表情にかへるのではあつたが。
上級生との間に今云つたやうな經緯いきさつが前からあつたので、それで彼も、その時、素直にあやまれなかつたのであらう。其の夕方、天幕が張られてからも、彼はなほ不安な落著おちつかない面持をしてゐた。
幾十かの天幕が河原に張られ、内部にわらなどを敷いて用意が出來と、それぞれ中で火をおこしはじめた。初めの中は薪がいぶつて、とても中にはゐたたまれなかつた。やがて、その煙もしづまると、朝から背嚢の中でコチコチに固まつた握飯の食事が始まる。それが終ると、一度外へ出て人員點呼。それがすんでから各自の天幕へ歸つて、砂の上に敷いた藁の上で休むことになる。テントの外に立つ歩哨は一時間交代で、私の番はあけ方の四時から五時までだつたから、それまでゆつくり睡眠がとれるわけだつた。その同じ天幕の中には私達三年生が五人と(その中には趙も交つてゐた。)それに監督の意味で二人の四年生が加はつてゐた。誰も初めの中は仲々寢さうにもなかつた。眞中に砂を掘つてこしらへた急製の爐を圍み、火影に赤々と顔を火照ほてらせ、それでも外からと、下から沁みこんでくる寒さに外套のえりを立てて頸を縮めながら、私達は他愛もない雑談に耽つた。その日、私達の教練の教官、萬年少尉殿が危く落馬しかけた話や、行軍の途中民家の裏庭に踏入つて、其の家の農夫達と喧嘩したことや、斥候に出た四年生がずらかつて、祕かに懐中して來たポケット・ウヰスキイの壜を傾け、歸つてから、いゝ加減な報告をした、などといふ詰まらない自慢話や、そんな話をしてゐる中に、結局何時の間にか、少年らしい、今から考へれば實にあどけない猥談に移つて行つた。やはり一年の年長である四年生が主にさういふ話題の提供者だつた。私達は眼を輝かせて、經驗談かそれとも彼等の想像か分らない上級生の話に聞き入り、ほんの詰まらない事にもドツと娯しげな歡聲をあげた。たゞ、その中で趙大煥一人は大して面白くなささうな顔付をして默てゐた。趙とても、かういふ種類の話に興味が持てないわけではない。たゞ、彼は、上級生の一寸ちよつとした冗談をさも面白さうに笑つたりする私達の態度の中に「卑屈な追従」を見出して、それを苦々しく思つてゐたに違ひないのだ。
話にも飽き、晝間の疲れも出てくると、めいめい寒さを防ぐために互ひに身體をくつつけながら藁の上に横になつた。私も横になつたまゝ、毛のシャツを三枚と、その上にジャケツと上衣と外套とを重ねた上からなほひしひしと迫つてくる寒さに暫く顫へてゐたが、それでも何時の間にかうとうとと睡つて了つたものと見える。ひよいと何か高い聲を聞いたやうに思つて、眼を覺ましたのは、それから二三時間もたつた後だらうか、その途端に私は何かしら惡いことが起つたやうな感じがして、じつと聞耳を立てると、テントの外から、妙に疳高い聲が響いて来た。その聲がどうやら趙大煥らしいのだ。私ははつと思つて、宵に自分の隣に寐てゐた彼の姿をもとめた。趙はそこにゐなかつた。恐らくは歩哨の時間が來たので外へ出てゐるのだらう。が、妙におびやかされた聲は?と、その時、今度はハツキリと顫へを帶びた彼の聲が布一枚隔てた外から聞えてきた。――そんなに惡いとは思はんです。
――なに?惡いとは思はん?――と今度は別の太い聲がのしかかるやうに響いた。
――生意氣だぞ。貴様!
それと共に、明らかにピシヤリと平手打の音が、そして次に銃が砂の上に倒れるらしい音と、更にまた激しく身體を突いたやうな鈍い音が二三度、それに續いて聞えた。私は咄嗟とつさすべてを諒解した。私には惡い豫感があつたのだ。ふだんから懀まれてゐる趙のことではあり、それに晝間のやうな出來事があつたりしたので、或ひは今夜のやうな機會にやられるのではないかと、宵の中から私はそんな氣がしてゐた。それが今、ほんたうに行はれたらしいのだ。私は天幕の中で身を起したが、どうする譯にも行かず、たゞ胸をとどろかしたまま、暫くじつと外の様子を窺つてゐた。(ほかの友人達は皆よく眠つてゐた。)やがて外は、二三人の立ち去る氣配がしたあとはしいんとした靜けさにもどつた。私は身仕舞をして、そつと天幕テントを出て見た。外は思ひがけなく眞白な月夜だつた。さうしてテントから二間ほど離れた所に、月に照らされた眞白な砂原の上に、ポツンと黑く、小さな犬か何かのやうに一人の少年がしやがんだまま、じつと顔をせて動かないでゐる。銃は側の砂の上に倒れ、その劍先がきらきらと月に光つてゐた。私は傍に行つて彼を見下したまま「Nか?」と訊ねた。Nといふのは晝間彼といさかひをした五年生の名前だつた。趙は、しかし、下を向いたまま、それに答へなかつた。しばらくして、突然、ワツといふ聲を立てて身體を冷たい砂の上に投出すと、背中をふるはせながら、おうおうと聲をあげて赤ん坊のやうに泣き始めた。私はびつくりした。十米ほど距てて、隣の天幕の歩哨も見てゐるのだ。が、趙の、この、平生に似ない眞率な慟哭が私を動かした。私は彼をたすけ起さうとした。彼は仲々起きなかつた。やつと抱起すと、他の天幕の歩哨達に見られたくない心遣ひから、彼を引張つて流れの近くへ連れて行つた。十八九日あたりの月がラグビイの球に似た恰好をして寒空に冴えてゐた。眞白な砂原の上には三角形の天幕がずらりと立並び、その天幕の外には、いづれも七八つづつ銃劍が組合はされて立つてゐる。歩哨達は眞白な息を吐きながら、冷たさうに銃の臺尻を支へて立つてゐる。私達はそれらの天幕の群から離れて漢江の本流の方へと歩いて行つた。氣がついて見ると私は何時の間にか趙の銃を(砂の上に倒れてゐたのを拾つて)彼の代りにになつてゐた。趙は手袋をはめた兩手をだらりと垂らして下を向いて歩いて行つたが、その時、ポツンと――やはり顔をせたままで、こんなことを言出した。彼はまだ泣いてゐたので、その聲も嗚咽おえつのために時々とぎれるのであつたが。彼は言つた。あたかも私を咎めるやうな調子で。
――どういふことなんだらうなあ。一體、強いとか、弱いとか、いふことは。――
言葉があまり簡單なため、彼の言はうとしてゐることがハツキリ解らなかつたが、その調子が私を打つた。ふだんの彼らしい所は微塵みじんも出てゐなかつた。
――俺はね、(と、そこで一度彼は子供のやうに泣きじやくつて)俺はね、あんな奴等に毆られたつて、毆られることなんか負けたとは思ひやしないんだよ。ほんたうに。それなのに、やつぱり(ここでもう一度すすり上げて)やつぱり俺はくやしいんだ。それで、くやしいくせに向つて行けないんだ。こはくつて向つて行けないんだ。――
こゝ迄言つて言葉を切つた時、私は、ここで彼がもう一度大聲で泣出すのではないかと思つた。それ程聲の調子が迫つてゐた。が、彼は泣出さなかつた。私は彼のために適當な慰めの言葉が見付からないのを残念に思ひながら、默つて、砂の上に黑々と映つた私達の影を見て歩いて行つた。全く、小學校の庭で私と取組み合つた時以來、彼は弱蟲だつた。
――強いとか、弱いとかつて、どういふことなんだらう……なあ。全く。――と、その時、彼はもう一度その言葉を繰返した。私達はいつの間にか漢江の本流の岸まで來てゐた。岸に近い所は、もう一帶に薄い氷が張りつめ、中流の、汪洋おうようと流れてゐる部分にも、かなりな大きさの氷の塊が漂つてゐた。水の現れてゐる所は美しく月に輝いてゐるけれども、氷の張つてゐる部分は、月の光がすり硝子のやうに消されて了つてゐる。もう、ここ一週間の中にはすつかり氷結して了ふだらう、などと考へながら水面を眺めてゐた私は、その時、ひよいと彼の先刻さつき言つた言葉を思ひ出し、その隠れた意味を發見したやうに思つて、愕然とした。「強いとか弱いとかつて、一體どういふことだらうなあ」といふ趙の言葉は――と、その時私がハツと氣が付いたやうに思つた――たゞ現在の彼一個の場合についての感慨ばかりではないのではなからうか、と其の時、私はさう思つたのだ。勿論、今から考へて見ると、これは私の思ひすごしであつたかも知れない。早熟とはいへ、たかが中學三年生の言葉に、そんな意味まで考えへようとしたのは、どうやら彼を買被かいかぶりすぎてゐたやうにも思へる。が、常々自分の生れのことなどを氣にしないやうに見せながら、實は非常に氣にしてゐた趙のことではあり、又、上級生にいじめられる理由のの一部をもその點にみづから歸してゐたらしい彼を、よく知つてゐた私であつたから、私がその時そんな風に考えたのも、あながち無理ではなかつたのだ。さう考へて、さて、自分と並んだ趙のしをれた姿を見ると、さうでなくても慰めの言葉に窮してゐた私は、更に何と言葉をかけていいやら解らなくなり、ただ默つて水面を眺めるばかりだつた。が、それでも私は何かしら心の中で嬉しかつた。あの皮肉屋の、氣取屋の趙が、いつもの外出よそ行きをすつかり脱いで――前にも言つたやうに、これ迄に時として、さういふ事もないではなかつたが、今夜のやうな正直な激しさで私を驚かせたことはなかつた。――裸の、弱蟲の、そして内地人ではない、半島人の、彼の見せてくれたことが、私に滿足を與へたのだつた。私達はさうして暫く寒い河原に立つたまま、月に照らされた、對岸の龍山から纛村縣とくそんけん淸凉里せいりやうりへかけての白々とした夜景を眺めてゐた。…………
此の露營の夜の出來事のほかには、彼について思ひ出すことといつては別に無い。といふのは、それから間もなく(まだ私達が四年にならない前に)彼は突然、全く突然、私にさへ一言の豫告も與へないで、學校から姿を消して了つたからだ。いふまでもなく、私はすぐに彼の家へたづねて見た。彼の家族は勿論そこにゐた。ただ彼だけがゐないのだ。支那の方へ一寸行つたから、といふ彼の父親の不完全な日本語の返事の外には、何の手掛りも得られなかつた。私は全く腹を立てた。前に何とか一言(こと)ぐらゐ挨拶があつてもいゝ筈なのだ。私は、彼の失踪の原因を色々と考へて見ようとしたが、無駄だつた。あの露營の番の出來事が直接の動機になつたのだらうか。あのことだけで、学校を廢(や)めるほどの理由にならうとも思へなかつたが、やはり幾分は關係があるやうな氣もした。さう考へると、いよいよ、例の、彼の言つた「強い、弱い」云々の言葉が意味のあるものに思はれてくるのだつた。
やがて、彼に關する色々な噂が傳はつて來た。彼がある種の運動の一味に加はつて活躍してゐるといふ噂を一しきり私は聞いた。次には、彼が上海に行つて身を持崩してゐるといふやうな話も――これはやゝ後になつてではあるが――聞いた。その何れもがあり得ることに思へたし、又同時に、兩方とも根の無いことのやうに考へられもした。斯(こ)うして、中學を終へると直ぐに東京へ出て了つた私は、其の後、杳(えう)として彼の消息を聞かないのだ。

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虎狩の話をするなどと稱しながら、どうやら少し先走りしすぎたやうだ。さて、ここらで、愈々いよいよ本題に戾らねばならぬ。で、この虎狩の話といふのは、前にも述べたやうに、趙が行方をくらます二年程前の正月、つまり私と趙とが、例の、目の切れの長く美しい小學校の時に副級長を忘れるともなく次第に忘れて行かうとしてゐた頃のことだ。
ある日學校が終つて、いつもの樣に趙と二人で電車の停留所まで來ると、彼は私に、いい話があるから次の停留所まで歩かうと言つた。さうして、その時、歩きながら、私に虎狩に行きたくないかと言ひ出した。今度の土曜日に彼の父親が虎狩に行くのだが、その折、彼も連れて行つて貰ふことになつてゐるといふ。私なら、かねて名前も言つてあるので、彼の父親も許すに違ひないから、一緒に行かうぢやないか、といふのだ。私は、虎狩などといふことは今迄まるで考へて見たことがなかつただけに、その時暫く、驚いたやうな、彼の言葉が眞實であるかどうかを疑ふやうな眼付で彼を見返したものらしい。まつたく、虎などといふ代物しろものが、動物園か子供雑誌の挿繪以外に、自分の間近に、現實に――しかも自分が承知しさへすれば、ここ三四日の中に――現れてこようなどとは、それこそ夢にも考へられなかつたからだ。で、私は先づ、彼が私をかつがうとしてゐるのではないことを、再三、――彼がやや機嫌を惡くしたくらゐ――確かめてから、さて、其の場所や、同勢や費用などを尋ねたのだつた。さうして、その揚句あげく、彼の父親が承知したら、――といふよりも、是非頼むから、無理にも連れて行つて貰ひたいと、私が言出したのは言ふまでもない。趙の父親は元來昔からの家柄の紳士で、韓國時代には相當な官吏をしてゐたものらしい。さうして、職を辭した今も、いはるゆ兩班ヤンパンで、その經濟的に豊かなことは息子の服装からでも分つた。たゞ趙は――自分の家庭で半島人としての生活を見られたくなかつたのであらう。――自分の家へ遊びに來られるのを嫌つたので、私はつひぞ彼の家へ――その所在は知つてゐたが、行つたことはなく、従つて彼の父親も知らなかつた。何でも虎狩へは殆ど毎年行くのださうだが、趙大煥が連れて行かれるのは今年が始めてなのだといふ。だから、彼も興奮してゐた。その日、二人は電車を降りて別れるまで、この冒險の豫想を、殊に、どの程度まで自分達は危險に曝されるであらうかといふ點について色々と語り合つた。さて、彼に分れて家に歸り、父母の顔を見てから、私は迂闊うかつにも、始めて、此の冒險の最初に横たはる非常な障碍しようがいを發見しなければならなかつた。如何にすれば私は兩親の許可を得ることが出來ようか?困難はまづ其處にあつた。元來、私の家では、父などは自ら常に日鮮融和などといふことを口にしてゐたくせに、私が趙と親しくしてゐるのを餘り喜んでゐなかつた。まして虎狩などといふ危険な所へ、さういふ友達と一緒にやるなどとは、頭から許さないにきまつてゐる。色々考へあぐんだ末、私は次の樣な手段をとらうと決心した。中學校の近所の西大門に、私の親戚――私の従姉の嫁いでゐる先――がある。土曜日の午後、そこへ遊びに行くと稱して家を出て、その時、ひよつとしたら今晩は泊つてくるかも知れない、と言つて置く。私の家にもその親戚の家にも電話はなかつたし――少くとも、之でその晩だけは完全にごまかせる譯だ。勿論、あとになつてばれるにはきまつてゐるが、その時はどんなに叱られたつていい。とにかく其の晩だけ何とかごまかして行つてしまはうと、私は考へた。珍しい貴な經驗を得るためには親の叱言こごとぐらゐは意に介しない底の小享樂家だつたのである。
その翌朝、學校へ行つて、趙に、彼の父親が承諾を與へたか聞くと、彼は怒つたやうな顔付で「あたりまへさ」と答へた。その日から私達は課業のことなどまるで耳にはひらなかつた。趙は私が彼が父親から聞いた色々な話をして聞かせた。虎は夜でなければ餌をあさりに出掛けないこと、豹は木に登れるけれども虎は登れないこと、私達が行かうとしてゐる所は、虎ばかりでなくひようも出るかも知れないといふこと、その他、銃はレミントンを使ふのだとか、ウィンチェスタアにするのだとか、あたかも自分がとつくの昔から知つてゐたかのやうな調子で、種々の豫備智識を與へるのだつた。私もふだんなら「何だ、又聞またききのくせに」と一矢酬いる所なのだが、何しろ其の冒險の豫想で夢中に喜ばされてゐた際なので、嬉しがつて彼の知つたかぶりを傾聽した。
金曜日の放課後、私は一人で(これは趙にも内緒で)昌慶苑へ行つた。昌慶苑といふのは昔の李王の御苑で、今は動物園になつてゐる所だ。私は虎の檻の前に行つて、佇んだ。スティイムの通つてゐる檻の中で私から一米と隔たらない距離に、虎は前肢を行儀よく揃へて横たはり、眼を細くしてゐた。眠つてゐるのではないらしいが、側に近づいた私の方には一顧だに呉れようとしない。私は出來るだけ彼に近づいて、仔細に観察した。確かに仔牛ぐらゐはありさうな盛上つた背中の肉付。背中は濃く、腹部に向ふに從つて、うすくなつてゐる。その黄色の地色を、鮮やかに染抜いて流れる黑の縞。目の上や、耳の尖端に生えてゐる白毛。身體にふさはしい大きさで頑丈に作られたその頭と顎。それにはライオンに見られるやうな裝飾風な馬鹿々々しい大きさはなく、如何にも實用向きな獰猛どうもうさが感じられた。そのやうな獣が、やがて山の中で私の眼の前に踊り出してくるのだと思ふと、自然に胸がどきどきして來るのを禁ずることが出來なかつた。暫く観察してゐた私は今まで氣がつかないでゐた事を發見した。それは虎の頰と顎の下が白いといふことだ。それから又、彼の鼻の頭が眞黑で、猫のそれのやうに如何にも柔かさうで、一寸手を伸ばしていぢつて見たいやうに出來てゐることも私を喜ばせた。私はそれらの發見に滿足して立去らうとした。が、私が此處に佇んでゐた小一時間の間、この獣は私に一瞥さへ與へなかつたのだ。私は侮辱を受けたやうな氣がして、最後に、獣の唸るやうな聲を立てて、彼の注意を惹かうと試みた。併し無駄だつた。彼は、その細く閉ぢた眼をあけようとさへしなかつた。


いよいよ土曜日になつた。四時間目の數學が終るのを待ちかねて、私は急いで家へ歸つた。さうして晝飯をすますと、いつもより二枚餘計にシャツを着込み、頭巾ずきんやら耳當みみあてやら防寒の用意を充分にととのへてから、かねての計畫どほり「親戚の家に泊つてくるかも知れぬ」と言つて表へ出た。四時の汽車には少し早過ぎたけれども、家にじつと待つてゐられなかつたのだ。約束の南大門驛の一、二等待合室に行つて見ると、だが、もう趙は來てゐた。いつもの制服ではなく、スキイ服のやうな、上から下まで黑づくめの暖かさうな身輕ななりをしてゐる。彼の父親と、その友人もぢきに來る筈だといふ。二人がしばらく話をしてゐる中に、待合室の入口に、獵服にゲートルを巻き、大きな獵銃を肩に掛けた二人の紳士が現れた。それを見ると、趙は此方から一寸手を擧げ、彼等がそなへ來た時に、その背の高い、髭のない方に向つて、私を「中山君」と紹介した。それが初めて見る彼の父親だつた。五十には少し間のありさうな、立派な體格の、血色のいい。息子に似て眼の細い小父さんだつた。私が默つて頭を下げると、先方は微笑で以て之にこたへた。口をきかなかつたのは、息子の趙が前以て言つてゐたやうに、日本語があまり達者でないために違ひない。もう一人の、茶色の髭を伸ばした、これは一見して内地人ではないと解る方の男にも私は一寸頭を下げた。その男も默つたまま之に應じ、趙の朝鮮語での説明を聞きながら、私の顔を見下して微笑した。
發車は丁度四時。一行は私をいれて四人の他に、もう一人、これはどちらの下僕か知らないが、主人達の防寒具やら食糧やら弾藥やらを荷つた男がついて來た。
汽車に乗つてからも、並んで席を取つた趙と私とは二人きりで話しつづけ、大人達とは殆ど口を交へなかつた。趙は私の前であまり朝鮮語を使ふのを好まないやうであつた。時々向ひ側から與へられる父親の注意らしい言葉にも極く簡単に返事するだけだつた。
冬の日は汽車の中ですつかり暮れてしまつた。鐡道が山地にはひるに從つて、窓の外に雪の積つてゐるらしいのが分つた。汽車が目的の驛――それは沙里院の手前の何とかいふ驛だと思ふのだが、それが、今どうしても思ひ出せない。一つ一つの情景などは實にはつきり憶えてゐるのだが、妙なことに、肝腎の駅の名前は、ど忘れして了つてゐるのだ。――に着いた時には、もう七時を廻つてゐた。燈火の暗い、低い木造の、小さな驛におり立つた時、黑い空から雪の上を撫でてくる風が、思はず私達の頸をちぢめさせた。驛の前にも一向人家らしいものはない。吹晒しの野原の向ふに、月のない星空を黑々と山らしいものの影が聳えてゐるだけだ。一本道を二三町も行つた所で、私達は右手にポツンと一軒立つてゐた低い朝鮮家屋の前に立止つた。戸を叩くと、直ぐに中から開いて、黄色い光が雪の上に流れた。みんながはひつたので、私も低い入口から背をこごめて這入はいつた。家の中は全部油紙を敷詰めた慍突ヲンドルになつてゐて、急に慍い氣がむつと襲つた。中には七八人の朝鮮人が煙草を吸ひながら話し合つてゐたが、此方を向くと一薺に挨拶をした。と、その中から此の家の主人らしい赤髯の男が出て來て、暫く趙の父親と何やら話をしてから、奥へ引込んだ。話は前からしてあつたと見えて、やがてお茶を一杯飲むと、二人の本職の獵師と、五六人の勢子せこが――獵師と勢子とは同じやうな恰好をしてゐて、見分け難いのだが、私は趙の注意によつて、彼等の持つてゐる銃の大小でそれを區別することが出來た――私達について表へ出た。表には犬も四匹ほど待つてゐた。
雪明りの狹い田舎道を半里ばかり行くと、道はようやく山にさしかかつて來る。疎林の間を、まだ新しい雪を藁靴でキュッキュッと踏みしめながら勢子達が眞先に登つて行く。その前になつたり後になつたりしながら、犬が――雪明りで毛色ははつきり判らないが、あまり大型でない――脇道をしては、方々の木の根や岩角の匂を嗅ぎ嗅ぎ小走りに走つて行く。私達はそれから少し遅れて一かたまりになり、彼等の足跡の上を踏んで行く。今にも横から虎がとび出してきはしまいか、後からかかつて來たらどうしよう、などと胸をどきどきさせながら、私は、もう趙とも餘り話をせずに默つて歩き續けた。のぼるに從つて道は次第にひどくなる。しまひには、道がなくなつて、尖つた木の根や、突出た岩角を越えて上つて行くのだ。寒さはひどい。鼻の中が凍つて、突張つてくる。頭巾をかぶり耳には毛皮を當ててゐるのだが、やはり耳がちぎれさうに傷む。風が時々梢を鳴らす度に一々はつとする。見上げると、まばらな裸木の枝の間から星が鮮かに光つてゐる。かうした山道がおよそ三時間も續いたらうか。小山程の大きな巖の値を一廻りして、もう可成かなり疲れた私達は、其の時、林の中の一寸した空地に出て來た。すると、私達よりも少し前に其處に着いてゐた勢子達が、私達の姿を見て、手を擧げて合圖をするのだ。みんなはそちらへ駈出した。私もハツとして、おくれずに走つて行つた。彼等の一人の指す所を見ると、成程、雪の上にはつきりと、直徑七八寸もありさうな、猫んもそれにそつくりな足跡が印されてゐる。そして其の足跡は少しづつ間隔をおいて、私達の來た方角とは直角に空地を横ぎつて、林から林へと續いてゐる。しかも、勢子達の一人の言葉を趙が翻譯してくれた所によると、此の足跡はまだ非常に新しいといふのだ。趙も私も極度の昂奮と恐怖のために口もけなくなつて了つた。一行はしばらく其の足跡について、木立の中を、前後に怠りなく注意を配りながら進んで行つた。まもなく其の足跡が林間のもう一つの空地へ導いて行つた時、私達はその林のはづれに、多くの裸木に交つた二本の松の大木を見つけた。案内人達はしばらくその兩方を見比べてゐたが、やがて、そのくねくね曲つた方の一方にじのぼると、背中に負つて來た棒や板やむしろなどを、その枝と枝との間に打付けて、忽ち其處に即席の棧敷さじきをこしらへ上げて了つた。地面から四米ぐらゐの高さだつたらう。その中へ藁を敷詰めて、そこで私達は待つのだ。虎は往きに通つたみちを必ず歸りにも通るといふ。だから、その松の枝の間にさうして待つてゐて虎の歸りを迎へ撃たうといふのだ。三本の曲つた太い枝の間に張られた其の藁敷の棧敷は案外廣くて、前に言つた私達四人の他に、二人の獵師もそこへはひることが出來た。私はそこへ上つた時、もう、少くとも後から跳びかかられる心配はなくなつたと考へて、ほつとした。私達が上つてしまふと、勢子達は犬を連れ、各々銃を肩に、松明たいまつの用意をして、何處か林の奥に消えて了つた。
時は次第に經つ。雪の白さで土地の上はかなり明るく見える。私達の眼の下は五十坪ほどの空地で、その周圍にはずつと疎らな林が續いてゐる。葉の落ちてゐないのは、私達ののぼつてゐる木と、その隣の松の外には餘り見當らないやうだ。その裸木の幹が白い地上に黑々と交錯して見える。時々大きな風が吹いてくると林は一時に鳴りざはめき、やがて風が去るにつれて、その音も海の遠鳴のやうに次第にかすかになつて、寒い空の何處かへ消えて行つてしまふ。松の枝と葉の間から見上げる星の光は私達を威しつけるやうに鋭い。
さうした見張をしばらく續けてゐる中に、先程の恐怖は大分くなつて行つた。が、そのかはり今度は寒氣が容赦なく押寄せて來た。毛の靴下をはいた足の先から、冷たさとも痛さともつかない感覺が次第に上つてくる。大人達は大人達でしきりに話を交してゐるが、私には時々聞えてくるホランイといふ言葉のほかはまるで解らない。私も、無理に元氣をつけようと、キャラメルを頰張つて、ふるへながら趙と話を始めた。趙は私に、先年此の近所で虎に襲はれた朝鮮人の話をした。虎の前肢の一撃でその男の頭から顎へかけて顔の半分が抉えぐつたやうにぎとられて了つたさうである。明らかに父親からの受賣に違ひない此の話を、趙はまるで自分が眼の前で見て來たことのやうに昂奮して語つた。その調子は、あたかも彼が、そんな慘劇の今にも目の前で行はれるのを切望してゐるかのやうだつた。そして實は私もその話を聞きながら、自分に危険のない範圍で、そのやうな出來事が起ればいい、といふやうな期待をひそかに抱いたのであつた。
が、二時間待つても、三時間待つても、一向虎らしいものの氣配も見せぬ。もう二時間もすれば夜が明けてくるだらう。趙の父親の話によると、かうやつて虎狩に來ても、いきなり新しい足跡を見付けるなんぞといふのは餘程運がいい方で、大抵は二三日麓の農家に滯在させられるといふことだから、これはことによると、今晩は出て來ないのではないかな。さうすると、學校や家の都合で逗留できない私は、何にも見ないで歸らなければならないことになる。さうなつたら、趙は一體どうするだらう。父親と一緒に虎が出てくるまで此處へ何日でも殘るつもりだらうか。自分一人で歸るのは詰まらないな。…………そんな事を考へ出すと、宵のうちからの緊張も次第に弛んで來る。
趙はその時、持つて來た鞄の中からバナナを一房取出して私にも分けてくれた。その冷たいバナナを喰べながら、私は妙なことを考へついた。今から思ふと、實に笑ひ話だけれど、其の時の私はまじめになつて、此のバナナの皮を下に撒いておいて、虎を滑らしてやらうと考へたのだ。勿論私とても、屹度きつと虎がバナナの皮で滑つて、そのためにたやすく撃たれるに違ひないと確信したわけではなかつたが、しかし、そんな事も全然ありえないことではなからう位の期待を持つた。そして喰べただけのバナナの皮は、なるたけ遠く、虎が通るに違ひないと思はれた方へ投棄てた。さすがに笑はれると思つたので、此の考へは趙にも默つてはゐたが。
さて、バナナはくなつたが、虎は仲々出て來ぬ。期待の外れた失望と、緊張の弛緩とから、私はやや睡氣ねむけを催しはじめた。寒い風に顫へながら、それでも私はコクリコクリやりかけた。さうすると、趙一人おいて向ふにゐた趙の父親が私の肩先を輕く叩いて、覺束おぼつかない日本語で、笑ひながら、「虎よりも風邪の方がこはいよ」と注意してくれた。私はすぐに微笑を以てその注意にこたへた。が、また間もなく、ウトウトやつて了つたものらしい。さうして、それから、どの位時が經つたものか。私は夢の中で、さつき趙に聞いた話の、朝鮮人が虎に襲はれてゐる所を見てゐたやうだつた。…………


さて、それが、どのやうにして起つたか。私は不覺にもそれを知らない。ただ、鋭い恐怖の叫びを耳に貫かれてハツと我にかへつた時、私は見た。すぐ眼の下に、私達の松の枝から三十米とへだたらない所に、夢のなかのそれとそつくりな光景を見た。一匹の黑黄色の獣が私達にその側面を見せて雪の上に腰を低くして立つてゐる。そして其の前には、それから三四間程の間をおいて、一人の勢子らしい男が、側に銃をはふり出し、兩手を後につき、足を前方に出したまゝいざりのやうな恰好で倒れて、眼だけ放心したやうに虎の方を見据ゑてゐる。虎は――普通想像されるやうに、足をちゞめ揃へて、跳びかかるやうな姿勢ではなくて――猫がものにじやれる時のやうに、右の前肢をあげて、チヨツカイを出すやうな樣子で、前に進み出さうとしてゐる。私はハツとしながらも、まだ夢の續きでもあるやうな氣で、眼をこすつて、もう一度よく見なほさうとした。と、その時だ。私の耳もとからバンと烈しい銃聲が起り、更にバン・バン・バンと矢繼早やつぎばやに三つの銃聲がそれに續いた。鋭い烟硝えんしようの匂が急に鼻をいた。前へ進みかけた虎は、そのまゝ大きく口をあけてたけりながら後肢で一寸立上つたが、直ぐに、どうと倒れて了つた。それが、――私が眼を覺ましてから、銃聲が響き、虎が立上つて、又倒れるまでが、僅々十秒位の間の出來事であつたらう。私はただ呆氣に取られて、遠くのフィルムでも見てゐるやうな氣持で、ぼうつとして眺めてゐた。
すぐに大人達は木から下りて行つた。私達とそれについて下りた。雪の上では、獣もその前に倒れてゐる人間も共に動かない。私達ははじめ棒の先で、倒れてゐる虎の身體をつついて見た。動く氣色もないので、やつと安心して、皆その死骸に近寄つた。その近所は一面に雪の上を新しい血が眞赤に染めてゐた。顔を横に向けて倒れてゐる虎の永さは、胴だけで五尺以上はあつたらう。もう其の時は、空も次第に明けかけて、周圍の木々の梢の色もうつすらと見分けられる頃だつたから、雪の上に投出された黄色に黑の縞は、何とも言へず美しかつた。ただ背中のあたりの、思つたより黑いのが私を意外に思はせた。私と趙とは互ひに顔を見合せて、ホツと吐息をつき、もはや危險がないとは知りつゝも、まだビクビクしながら、今の今までどんな厚い皮でもたちどころに引裂くことの出來たその鋭い爪や、飼猫のそれとまるで同じな白い口髭などに、そつとさはつて見たりした。
一方、倒れてゐる人間の方はどうかといふと、これはただ恐怖のあまり氣を失つただけで、少しの怪我もなかつた。あとで聞くと、此の男はやはり勢子の一人で、虎を尋ねあぐんで私達の所へ歸つて來たのだが、あの空地の所で一寸用を足してゐる時に、ひよいと横合から虎が出て來たのだといふ。
私を驚かせたのはその時の趙大煥の態度だつた。彼は、その氣を失つて倒れてゐる男の所へ來ると、足で荒々しく其の身體を蹴返して見ながら私に言ふのだ。

――チヨツ!怪我もしてゐない。――

それが決して冗談に言つてゐるのではなく、いかにも此の男の無事なのを口惜しがる、つまり自分が前から期待してゐたやうな慘劇の犠牲者にならなかつたことを憤つてゐるやうに響くのだ。そして側で見てゐる彼の父親も、息子がその勢子を足でなぶるのをめようともしない。ふと私は、彼等の中を流れてゐる此の地の豪族の血を見たやうに思つた。そして趙大煥が氣絶した男をいまいましさうに見下してゐる、その眼と眼の間あたりに漂つてゐる刻薄こくはくな表情を眺めながら、私は、いつか講談か何かで讀んだことのある「終りを全うしない相」とは、かういふのを指すのではないか、と考へたことだつた。
やがて、他の勢子達も銃声を聞いて集つて來た。彼等は虎の四肢を二本づつ縛り上げ、それに太い棒を通し、さかさに吊して、もう明るくなつた山道を下りて行つた。停留場まで下りて來た私達は一休みして後――虎はあとから貨物で運ぶことにして――すぐに其の午前の汽車で京城に歸つた。期待に比べて結末があまりに簡単に終つてしまつたのが物足りなかつたけれども――ことに、うとうとしてゐて、虎の出て來る所を見損つたのが殘念だつたが、とにかく私は自分が一かどの冒險をしたのだ、といふ考へに滿足して家にもどつた。
一週間ほどして、西大門の親戚の所からして、私の嘘がばれた時、父から大眼玉を喰つたことは云ふまでもない。

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さて、これでやつと虎狩の話を終つたわけだ。で、此の虎狩から二年程經つて、例の發火演習の夜から間もなく、彼が私達友人の間から默つて姿を消して了つたのは、前にも言つたとほりだ。さうして、それからここに十五六年、まるで彼とは逢はないのだ。いや、さう云ふと嘘になる。實は私は彼に逢つたのだ。しかも、それがつい此の間のことだ。だからこそ、私もこんな話を始める氣になつたのだが、併し、その逢ひ方といふのがすこぶる奇妙なもので、果して、逢つたといへるか、どうか。その次第といふのはかうだ。
三日程前のひる過ぎ、友人に賴まれた或る本を探すために、本郷通りの古本屋を一通りあさつた私は、かなり眼の疲れを覺えながら、赤門前から三丁目の方へ向つて歩いてゐた。丁度晝休みの時間なので、大學生や高等學校の生徒や、その他の學生達の列が、通り一杯に溢れてゐた。私が三丁目の近くの、籔そばへ曲る横丁の所まで來た時、その人通りの波の中に、一人の背の高い――その群衆の間から一際、頭だけ抜出てゐるやうに見えた位だから、餘程高かつたに違ひない。――痩せた三十恰好の、ロイド眼鏡を掛けた男の、じつと突立つてゐるのが、私の目を惹いた。其の男は背が人並外れて高かつたばかりではなく、その風采が、また著しく人目を惹くに足るものだつた。古い羊羹ようかん色の縁の、ペロリと垂れた中折を阿彌陀にかぶつた下に、大きなロイド眼鏡――それも片方のつるが無くて、紐がその代用をしてゐる――を光らせ、汚點しみだらけの襟詰服はボタンが二つも取れてゐる。薄汚い長い顔には、白く乾いた唇のまはりに疎らな無精髭がしよぼしよぼ生えて、それが間の抜けた表情を與へてはゐるが、しかし、又、其の、間に迫つた眉のあたりには、何かしら油斷の出來ない感じをさせるものがあるやうだ。いつて見れば、田舎者の顔と、掏摸すりの顔とを一緒にしたやうな顔付だ。歩いて來た私は、五六間もさきから、すでに、群衆の中に、この長すぎる身體をもてあましてゐるやうな異樣な風體の男を發見して、それに眼を注いでゐた。すると、向ふもどうやら私の方を見てゐたらしかつたが、私がその一間ほど手前に來た時、その男の心持しかめてゐた眉の間から、何か一寸した表情の和らぎといつた風のものがあらはれた。そして、その、目に見えない位の滓かな和らぎが忽ち顔中に擴つたと思ふと、急に彼の眼が(勿論、微笑一つしないのだが)私に向つて、あたかも舊知を認める時のやうに、うなづいて見せたのだ。私はびつくりした。さうして、前後を見廻して、其のウインクが私に向つて發せられたものであることを確めると、私は私の記憶の隈々を大急ぎで探しはじめた。その間も、一方、眼の方は空いてからそらさず怪訝けげんさうな凝視を續けてゐたのだが、その中に、私の心のすみつこに、ハツキリとは解らないが何か非常に長い間忘れてゐたやうなあるものが見付かつたやうな氣がした。そして、その繪體えたいの知れない或る感じが見る見る擴がつて行つた時、私の眼は既に、彼の眼差に答へるための會釋えしやくをしてゐたのだ。その時にはもう私には、此の男が自分の舊知の一人であることは確かだつた。ただそれが誰かであつたかが疑問として殘つてに過ぎない。
相手は此方の會釋を見ると、此方も向ふを思ひ出したものと思つたらしく、私の方へ歩み寄つて來た。が、別に話をするでもなく、笑顔を見せるでもなく、默つて私と並んで、自分の今來た道を逆に歩き出した。私も亦默つたまゝ、彼が誰であるかを、しきりに思ひ出さうと努めてゐた。
五六歩あるいた時、その男は私にしわがれた聲で、――私の記憶の中には、どこにも、その樣な聲はなかつた――「煙草を一本くれ」と言ひ出した。私はポケットを探して、半分程空になつたバットの箱を彼の前に差出した。彼はそれを受取り、片方の手を自分のポケットに突込んだかと思ふと、急に妙な顔をして、そのバットの箱を眺め、それから私の顔を見た。暫くさうして馬鹿のやうな貌をして、バットと私とを見比べた後、彼は默つて、私が與へたバットの箱をそのまゝ私に返さうとした。私は默つてそれを受取りながらも、何だか狐につままれたやうな腑に落ちない氣持と、又、一寸、馬鹿にされたやうな腹立たしさの交つた氣持で、彼の顔を見上げた。すると、彼は、その時、初めて、薄笑ひらしいものを口の端に浮かべて斯う獨り言のやうに言つた。
――言葉で記憶してゐると、よくこんな間違をする。――
勿論、私には何の事が、のみこめなかつた。が、今度は彼は、極めて興味ある事柄を話すやうな、勢こんだせかせかした調子で、その説明を始めた。
それによると、彼が私からバットを受取つて、さて、燐寸マツチを取出すために右手をポケットに入れた時、彼はそこに矢張りゝ煙草の箱を探りあてたのだといふ。その時に、彼はハツとして、自分の求めてゐたものが煙草でなくて燐寸であつたことに氣がついた。そこで彼は、自分が何故、この馬鹿々々しい間違ひをしたかを考へて見た。單なる思ひ違ひと云つてしまへば、それまでだが、それならば、其の思ひ違ひは何處から來たか、それを色々と考へた末、彼はかう結論したのだ。つまり、それは彼の記憶がことごとく言葉によつたためであると。彼ははじめ自分に燐寸がないのを發見した時、誰かに逢つたら燐寸を貰はうと考へ、その考へを言葉として、「自分は他人ひとから燐寸を貰はねばならぬ」といふ言葉として、記憶の中にとつて置いた。燐寸がほんたうに欲しいといふ實際的な要求の氣持として、全身的欲求の感覺――へんな言葉だが、此の場合かう云へば、よく解るだらう、と彼はその時、さう附加へた。――として記憶の中に保存して置かなかつた。これが間違ひのもとなのだ。感覺とか感情ならば、うすれることはあつても混同することはないのだが、言葉や文字の記憶は性格なかはりに、どうかすると、とんでもない別の物に化けてゐることがある。彼の記憶の「燐寸」といふ言葉、もしくは文字は、何時の間にかそれと關係のある「煙草」といふ言葉、もしくは文字に置換へられて了つたのだ。……彼はさう説明した。それが、此の發見がいかにも面白くて堪らないといふやうな話ぶりで、おまけに最後に、かういふ習慣はすべて概念ばかりで物を考へるやうになつてゐる知識人の通弊だ、といふ思ひ掛けない結論まで添へた。實をいふと、私は、その間、彼自身は非常に興味を感じてゐるらしい此の問題の説明に、あまり耳を傾けてはゐなかつた。ただ、そのセカセカした早口なしやべり方を聞きながら、確かに、これは(聲こそ違へ)私の記憶の何處にある癖だ、と思ひ、しきりに、その誰であつたかを思ひ出さうとしてゐた。が、丁度、極めてやさしい字が仲々思ひ出せない時のやうに、もうすつかり解つて了つたやうな氣がしながら、渦巻の外側を流れるあくたの如く、ぐるぐる問題のまはりを廻つてばかりゐて、仲々その中心にとび込んで行けないのだ。
その中私達は本郷三丁目の停留所まで來た。彼がそこで立止たので、私もそれに倣つた。彼は電車に乗るつもりかも知れない。私達は並んで立つたまま、眺めるともなく、前の藥局の飾窓を眺めてゐた。彼はそこに何か見付けたらしく、大またに其の窓の前に歩いて行つた。私も彼について行つて覗いて見た。それは新發賣の性器具の廣告で、見本らしいものが黑い布の上に並べてゐた。彼はその前に立つて、微笑を浮かべて暫く覗いてゐた。その彼を、私は横に立つて眺めてゐた。と、その時、彼のそのニヤニヤした薄笑ひを横あひから覗き込んだ時、突然、私はすつかり思ひ出した。今まで私の頭の中で、渦巻のまはりの塵のやうにぐるぐる廻つてばかりゐた私の記憶が、その時、忽ち渦巻の中心に飛び込んだのだ。皮肉げに唇を曲げたあの薄笑ひ。眼鏡を掛けてゐるが、その奥からのぞいてゐる細い眼。お人良しと、猜疑とのまざりあつた其の眼付。――おお、それが彼以外の誰だらうか。虎に殺され損つた勢子を足で蹴返していまいましげに見下した彼以外の誰の眼付だらうか。その瞬間、一時に私は、虎狩や熱帶魚や發火演習などをごたごたと思ひ浮かべながら、これが彼であるのを見出すのに、どうしてこんなに手間を取つたらうか、と自分ながら呆れてしまつた。さうして私は今や心からの喜びを以て、後から彼の肩を打たうとした。所がその時、眞砂町から來た一臺の電車が停留所に停つた。それを見た彼は、私の手がまだ彼の高い肩に達しない前に、そして、私の動作に一向氣づきもしないで、あわただしく身をひるがえして、その電車の方へ走つて行つた。そして、ひらりと飛乗ると、車掌臺から此方を向いて右手を一寸擧げて私に會釋し、そのまゝ、長い身體を折るやうにして車内にはひつて了つた。電車はすぐに動き出した。かくして私は、十何年ぶりかで逢つた我が友、趙大煥を、――趙大煥としての一言ひとことも交さないで、再び、大東京の人混みの中に見失つて了つたのだ。

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。