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弟子



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べん游俠ゆうきょうの徒、仲由、字は子路という者が、近ごろ賢者の噂も高い学匠・陬人すうひと孔丘を辱めてくれようものと思い立った。似而非えせ賢者何ほどのことやあらんと、蓬頭突鬢ほうとうとつぴん・垂冠・短後の衣という服装いでたちで、左手に雄鶏、左手に牡豚を引っ提げ、勢い猛に、孔丘が家を指して出かける。鶏を揺り豚を奮い、かまびすしい唇吻しんぷんの音をもって、儒家絃歌げんか講誦こうしょうの声をみだそうというのである。
けたたましい動物の叫びとともに眼をいからして跳び込んで来た青年と圜冠句履えんかんこうり緩くけつを帯びて几にった温顔の孔子との間に、問答が始まる。
「汝、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣を好む。」青年は昂然として言い放つ。
孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、あまりにも稚気満々たる誇負を見たからである。血色のいい・眉の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。
「学はすなわち如何?」
「学、あに、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢い込んで、呶鳴どなるように答える。
学の権威について云々されては微笑ってばかりもいられない。孔子は諄々として学の必要を説き始める。人君にして諫臣がなければ正を失い、士にして教友がなければ聴を失う。樹もなわを受けて始めて直くなるのではないか。馬にむちが、弓にけいが必要なように、人にも、その放恣な性情をめる教学が、どうしても必要でなかろうぞ。ただおさめ磨いて、始めてものは有用の材となるのだ。
後世に残された語録の字面などからは到底想像も出来ぬ・きわめて説得的な弁舌を孔子はっていた。言葉の内容ばかりではなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、どうしても聴者を説得せずにおかないものがある。青年の態度からは次第に反抗の色が消えて、ようやく謹聴の様子に変わって来る。
「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する勇気を失わない。南山の丈はめずしておのずから直く、斬ってこれを用うれば犀革の厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?
孔子にとって、こんな幼稚な譬喩ひゆを打ち破るほどたやすいことはない。汝の云うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃を付けてこれをみがいたならば、ただ犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔をあからめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何かを考えている様子だったが、急に鶏と豚をほうりだし、頭を低れて、「謹んで教えを受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容を見、その最初の一言を聞いた時、直ちに鶏豚の場違いであることを感じ、己とあまりにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。
即日、子路は師弟の例を執って孔子の門に入った。

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このような人間を、子路は見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子にあるものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さがぜんぜん目立たないほど、過不及なく均衡のとれた豊かさは子路にとってまさしく始めて見るところのものであった。闊達自在、いささかの道学者臭もないのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。おかしいことに、子路の誇る武芸や膂力りょりょくにおいてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆どぎもを抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われるぐらい、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、きわめて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫なんだ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中にあった。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少なくとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門に入ってまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。
後年の孔子の長い放浪の艱苦かんくを通じて、子路ほど欣然として従った者はない。それは、孔子の弟子たることによって仕官のみちを求めようとするのでもなく、また、滑稽なことに、師の傍にあって己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまでかわらなかった・極端に求むるところのない・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引き留めたのである。かつて長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。
その時、四十而不惑にしてまどわずといった・その四十歳に孔子はまだ達していなかった。子路よりわずか九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢差をほとんど無限の距離に感じていた。
孔子は孔子で、この弟子の際立った馴らしがたさに驚いている。単に勇を好むとか柔を嫌うとかいうならばいくらでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑する男も珍しい。窮極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという道筋を容易に受けつけないのである。「礼と云い礼と云う。玉帛ぎょくはくを云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓を云わんや。」などというと大いによろこんで聞いているが、曲礼の細則を説く段になるとにわかにつまらなそうな顔をする。形式主義への・この本能的忌避と闘ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。もとがあって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本をいかにして養うかについての実際的な考慮が足りないとて、いつも孔子に叱られるのである。彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化に直ちに受けつけたかどうかは、また別のことに属する。
上智と下愚は移りがたいと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍ひょうかんな弟子の無頼の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間にあってはあまりにも稀なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないこともを孔子だけはよく知っていた。
師の言に従って己を抑え、とにもかくにもに就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚中の評判である。褒められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘ばかりついているような気がして仕方がないからである。我儘わがままを云って親をてこずらせていたころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親たちが少々情けなくも思われる。こまかい心理分析家ではないけれども、きわめて正直な人間だったので、こんなことにも気がつくのである。ずっと後年になって、ある時突然、親の老いたことに気がつき、己の幼かったころの両親の元気な姿を思い出したら、急に泪が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無頼の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄か孝行はこんな工合であった。

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ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二、三に出会った。無頼とは云えぬまでも放縦にして拘わるところのない遊侠の徒である。子路は立ち止ってしばらく話した。そのうちに彼らの一人が子路の服装をじろじろ見廻し、やあ、これが儒服という奴か?随分みすぼらしいなりだな、と言った。長剣が恋しくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞棄てのならぬことを言い出した。どうだい。あの孔丘という先生はなかなかの喰わせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもないことを誠しやかに説いていると、えらく甘い汁が吸えるものと見えるなあ。別に悪意があるわけではなく、心安立てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉を摑み、右手の拳をしたたか横面に飛ばした。二つ三つ続けざまに喰わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒れた。呆気に取られている他の連中に向っても子路は挑戦的な眼を向けたが、子路の剛勇を知る彼らは向って来ようともしない。殴られた男を左右からたすけ起し、捨て台詞一つ残さずにこそこそと立ち去った。
いつかこのことが孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬ所以ゆえんである。とかく小人は不遜をもって勇と見なしがちだが、君子の勇とは義を立つることのいいである云々。神妙に子路は聞いていた。
数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木陰で閑人たちの盛んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。―昔、昔、と何でも古を担ぎ出して今を貶す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言えるわけさ。しかし昔の道を杓子定規にそのままんで、それでうまく世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺たちにとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様の方が偉いということになるのさ。
下克上の世であった。政治の実権が魯侯からその大夫たる季孫氏の手に移り、それが今やさらに季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。
―ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。口では大層なことを言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信がないのだろうよ。あの手合いはね。
子路は背後うしろから人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味もなく子路の前に頭を下げてから人垣の背後うしろに身を隠した。まなじりを決した子路の形相があまりにすさまじかったのであろう。
その後しばらく、同じようなことが処々で起った。肩を怒らせ炯々けいけいと眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子をそしる口をつぐむようになった。
子路はこのことでたびたび師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言い分がないでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒ふんぬを感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少なくとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと・・・・・・。
一年ほど経ってから孔子が苦笑とともに嘆じた。由が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。

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ある時、子路が一室でしつしていた。
孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくして傍らなる冉有ぜんゆうに向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴厲ぼうれいの気がおのずから漲っているではないか。君子の音は温柔にして中におり、生育の気を養うものでなければならぬ。昔舜は五絃琴を弾じて南風の詩を作った。南風の薫ずるやもってわが民のいかりを解くべし。南風の時なるやもってわが民の財をいにすべしと。今由の音を聞くに、誠に殺伐激越、南音にあらずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴恣こうたいぼうしの心状をこれほど明かに映し出したものはない。―
後、冉有が子路のところへ行って夫子ふうしの言葉を告げた。
子路は元々自分に楽才の乏しいことを知っている。そしてみずからそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然として懼れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉じ籠り、静思して喰わず、もって骨立こつりつするに至った。数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、きわめて恐る恐る弾じた。その音を洩れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎めるような顔色も見えない。子貢しこうが子路のところへ行ってその旨を告げた。師の咎めがなかったと聞いて子路は嬉しげに笑った。
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明な子貢はちゃんと知っている。子路の奏でる音が依然として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎め給わぬのは、痩せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気をあわまれたために過ぎないことを。

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弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者はない。子路ほど遠慮なく師に反問する者もない。「請う。古の道をてて由の意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いて見たり、孔子に面と向ってずけずけと「これあるかな。子の迂なるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。それでいて、また、子路ほど全身的に孔子にりかかっている者もないのである。どしどし問い返すのは、心から納得出来ないものを表面うわべだけでうべなうことの出来ぬ性分だからだ。また、他の弟子たちのように、わらわれまい叱られまいと気を遣わないからである。
子路が他のところでは飽くまで人の下風に立つを潔しとしない独立不羈の男であり、一諾千金の快男児であるだけに、碌々たる凡弟子然として孔子の前にはんべっている姿は、人々に確かに奇異な感じを与えた。事実、彼には孔子の前にいる時だけは複雑な思索や重要な判断は一切師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽な傾向もないではない。母親の前では自分にできることまでも、してもらっている幼児と同じような工合である。退いて考えて見て、みずから苦笑することがあるくらいだ。
だが、これほど師になお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。ここばかりは譲れないというぎりぎり結着のところが。
すなわち子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生を論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠ける憾みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それを感じられるものが善きことであり、それを伴わないものが悪しきことだ。きわめてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑いを感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり開きがあるのだが、子路は師の教えの中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂り入れる。巧言令色足恭、怨ミヲかくシテソノ人ヲ友トスルハ、丘コレヲ恥ズとか、生ヲ求メテモッテ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテモッテ仁ヲナスアリとか、狂者ハ進ンデ取リ狷者ハナサザルトコロアリとかいうのが、それだ。孔子も初めはこの角を矯めようとしないではなかったが、後には諦めて止めてしまった。とにかく、これはこれで一匹の見事は牛には違いないのだから。むちを必要とする弟子もあれば、手綱を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニあたワザルヲ野トイイ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイウとか、信ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞などというのも、結局は個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格としての子路に向っての叱言こごとである場合が多かった。子路という特殊な個人にあってはかえって魅力となり得るものが、他の門生一般についてはおおむね害となることが多いからである。

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魏楡ぎゆの地で石がものを言ったという。民の怨嗟の声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。すでに衰微した周室はさらに二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈の止む時がない。侯の一人は臣下の妻に通じて夜ごとにその邸に忍び来るうちについにその夫にしいせられてしまう。では王族の一人が病臥中の王の頸をしめて位を奪う。では足頸を斬り取られた罪人どもが王を襲い、晋では二人の臣が互いに妻を交換し合う。このような世の中であった。
魯の昭公は上卿季平子を討とうとしてかえって国をわれ、亡命七年にして他国で窮死する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下どもが帰国後の己の運命を案じ公を引き留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫・孟孫三氏の天下から、さらに季氏の宰・陽虎のほしいままな手に操られて行く。
ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚してから、急にこの国の政界の風向きが変わった。思いがけなく、孔子が中都の宰として用いられることになる。公平な無私官吏や苛斂誅求かれんちゅうきゅうを事とせぬ政治家の皆無だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的な治績を挙げた。すっかり感嘆した主君の定公が問うた。汝の中都を治めしところの法をもって魯国を治むればすなわち如何?孔子が答えて言う。何ぞただ魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺とは縁の遠い孔子がすこぶる恭しい調子で澄ましてこうした壮語を弄したので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇だいしこうに進めて宰相のことをも兼ね摂らせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長というべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先に活動したことは言うまでもない。
孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力を持つ季・叔・孟・三桓の力を削がねばならぬ。三氏の私城にして百雉ひゃくち[# 1]を越えるものにはこう・費・成の三地がある。まずこれらをこぼつことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現われて来る、しかも今までの経験になかったほどの大きい規模で現われて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快に違いなかった。ことに、既成政治家の張り廻らした奸悪な組織や習慣を一つ一つ破砕して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生き甲斐を感じさせる。多年の抱負の実現に生き生きと忙しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼もしいものに映った。
費の城をこわしにかかった時、それに反抗して公山不狃こうざんうちゅうという者が費人を率い魯国の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍の矢が及ぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによってわずかに事なきを得た。子路はまた改めて師の実際家的手腕に敬服する。孔子の政治家としての手腕はよく知っているし、またその個人的な膂力りょりょくの強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、粗い現実の面と取っ組み合って生きて行く方がこの男の性に合っているようである。
斉との間の屈辱的講和のために、定公が孔子を随えて斉の景公と夾谷の地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼を咎めて、景公初め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとくふるえ上ったとある。子路をして心からの快哉を叫ばしめるに充分な出来事であったが、この時以来、強国斉は、隣国の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政の下に充実して行く魯の国力に懼れを抱き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代支那式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈るに、歌舞に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩かし定公と孔子の間を離間しようとしたのだ。ところで、さらに古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国反孔子派の策動と相俟って、あまりにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽ってもはやちょうに出なくなった。季桓子以下の大官連もこれに倣い出す。子路は真先に憤慨して衝突し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切りをつけず、なお尽くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞めてもらいたくて仕方がない。師が臣節を汚すのを懼れるのではなく、ただこの淫らな雰囲気の中に師を置いて眺めるのがたまらないのである。
孔子の粘り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従って欣んで魯の国を立ち退いた。
作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離とおざかり行く都城を顧みながら、歌う。
かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁には君子ももって死敗すべし。・・・・・・
かくて爾後永年にわたる孔子の遍歴が始まる。

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大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正がしいたげられるという・ありきたりの事実についてである。
この事実にぶつかるごとに子路は心からの悲憤を発しないではいられない。なぜだ?なぜそうなのだ?悪は一時栄えても結局はそのむくいを受けると人は云う。なるほどそういう例はあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が窮極の勝利を得たなどというためしは、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえない。なぜだ?なぜだ?大きな子供・子路にとって、こればかりはいくら憤慨し足りないのだ。彼は地団駄じだんだを踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟ひつきょう人間の間だけの仮の取決めに過ぎないのか?子路がこの問題で孔子のところへ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真のあり方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことの報いは、では結局、善をなしたという満足のほかにはないのか?師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えて見ると、やはりどうしても釈然としないところが残る。そんな無理に解釈して見たあげくの幸福なんかでは承知できない。誰が見ても文句のない・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。
天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうした不遇に甘んじなければならなぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いてから放浪の旅にでなければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥ほうちょう至らず。河、図を出さず。已んぬるかな。」と独り言に孔子がつぶやくのを聞いた説き、子路は思わず涙のあふれて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生てんかそうせいのためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。
この人と、この人をつ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決まっている。濁世のあらゆる侵害からこの人を守るたてとなること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引き受けること。僭越ながらこれが自分の務めだと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、一旦いったん事ある場合真先に夫子のために命をなげうって顧ぬのは誰よりも自分だと、彼はみずから深く信じていた。

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「ここに美玉あり。ひつおさめてかくさんか。善買ぜんこを求めてらんか。」と子貢が言った時、孔子は即座に、「これを沽らんかな。これを沽らんかな。我はあたいを持つものなり。」と答えた。
そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子たちも大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位にあって所信を断行する快さはすでに先ごろの経験で知ってはいるが、それには孔子を戴くという風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「かつ(粗衣)をて玉をいだく」という生き方が好ましい。生涯孔子の番犬に終ろうとも、いささかの悔いもない。世俗的な虚栄心がないわけではないが、なまじいの仕官はかえって己の本領たる磊落闊達らいらくかつたつを害するものだと思っている。
さまざまな連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有ぜんゆう。温厚の長者閔子騫びんしけん穿鑿せんさく好きな故実家の子夏。いささか詭弁派的な享受家宰予さいよ。気骨稜々たる慷慨こうがい家の公良孺こうりょうじゆ身長みのたけ九尺六寸といわれる長人孔子の半分ぐらいしかない短矮たんわいな愚直者子羔しこう。年齢から云っても貫禄から云っても、もちろん子路が彼らの宰領格である。
子路よりも二十二歳も年下であったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口をきわめてめる顔回がんかいよりも、むしろ子貢の方を子路としては推したい気持であった。孔子からその強靭きょうじんな生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路はあまり好まない。それは決して嫉妬しっとではない。(子貢子張輩は、顔淵に対する・師の桁外けたはずれの打込み方にどうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんなことにこだわらぬたちであったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑みこめないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けているところが気に入らない。そこへ行くと、多少軽薄ではあっても常に才気と活力とにちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気づかれるところだが、しかし、それは年齢というものだ。あまりの軽薄さに腹を立てて一喝いつかつを喰わせることもあるが、大体において、後世おそるべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。
ある時、子貢が二、三の朋輩ほうばいに向って次にような意味のことを述べた。―夫子は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過うますぎると思う。これは警戒を要する。宰予などの巧みさとはまるで違う。宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎるゆえ、聴者に楽しみを与え得ても、信頼は与え得ない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢りゅうちょうさの代りに、絶対に人に疑いを抱かせぬ重厚さを備え、諧謔かいぎゃくの代りに、含蓄に富む譬喩ひゆつその弁は、何人といえども逆らうことの出来ぬものだ。もちろん、夫子の云われるところは九分九厘まで常にあやまりなき真理だと思う。また夫子の行われるところは九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範とするべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘―絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理と必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられるおそれがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、あまり夫子に親しみ過ぎれ過ぎたための欲の云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人とあがめたところで、それは当然過ぎるぐらい当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現われるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだということだ。顔回のような夫子と似通った肌合はだあいの男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回をめられるのも、結局はこの肌合いのせいではないのか。・・・・・・
青二才の分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟ひつきょう顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦ばかにしきれないものを感じた。肌合いの相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。
おれたちは漠然ばくぜんとしか気づかれないものをハッキリ形に表す・妙な才能が、この生意気な若僧わかぞうにはあるらしいと、子路は感心と軽蔑けいべつとを同時に感じる。
子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや?はた知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂の滅不滅についての疑問である。孔子はまた妙な返辞をした。「死者の知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生を妨げてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子のその親を棄てて葬らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢ははなはだ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味はよく判っているが、飽くまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換えようとしたのである。
子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味はなかったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死についてたずねて見た。
「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答えであった。
全くだ!と子路は感心した。しかし、子貢はまたしても鮮やかに肩透しを喰らったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんなことではない。明かにそう言っている子貢の表情である。

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霊公はきわめて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言かんげんよりも甘い諂諛てんゆに欣ばされてしまう。衛の財政を左右するものはその後宮であった。
夫人南子はつとに淫奔いんぽんの噂が高い。まだの公女だったこと異母兄のちょうという有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じて、これと醜関係を続けている。すこぶる才走った女で、政治向きのことにまで容喙ようかいするが、霊公はこの夫人の言葉ならうなずかぬことはない。霊公にかれようとする者はまず南子に取り入るのが例であった。
孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公に謁したが、夫人のところへは別に挨拶あいさつに出なかった。南子が冠を曲げた。早速人をつかわして孔子に言わしめる。四方の君主、寡君かくんと兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。
孔子もやむを得ず挨拶に出た。南子は絺帷ちい(薄い葛布の垂れぎぬ)の後にあって孔子に引見する。孔子の北面稽首けいしゅの礼に対し、南子が再拝してこたえると、夫人の身につけた環佩かんばい璆然きゅうぜんとして鳴ったとある。
(南子としては、己にびようとしない孔子の傲慢ごうまんを咎める気持もある。有名な賢者とはどのような男であるかを見たいという好奇心もある。ところが実際は、たけのむやみに高い・あまり婦人の興味をかない容貌ようぼうの・そして先方でも此方の美貌にも地位にも才気にも一向無関心らしい・それでいて態度ばかりは莫迦に恭しい一人の老人を、目の前に見出しただけであった。)
孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風情の要求などは黙殺することを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦ようふにたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄であるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけですでに面白くない。美玉を愛蔵する者がそのたま表面おもてに不浄なるものの影の映るのさえ避けたいたぐいなのであろう。孔子はまた、子路の中で相当敏腕な実際家と隣り合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、おかしくもあり、困りもするのである。
一日、霊公のところから孔子へ使いが来た。車で一緒に都を一巡しながらいろいろ話を承ろうという。孔子は欣んで服を改め直ちに出かけた。
この丈の高いぶっきらぼうな爺さんを、霊公がむやみに賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡るなどとはもってのほかである。
孔子が公に謁し、さて表に出てともに車に乗ろうとすると、そこにはすでに盛装に凝らした南子夫人が乗り込んでいた。孔子の席がない。南子は意地の悪い微笑を含んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子をうかがう。霊公は面目なげに目をせ、しかし南子には何事も言えない。黙って孔子のために次の車を指さす。
二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢ごうしゃな馬車には霊公と並んで嬋妍せんけんたる南子夫人の姿が牡丹ぼたんの花のように輝く。後ろの見すぼらしい二輪の牛車には、寂しげな孔子の顔が端然と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがにひそやかな嘆声と顰蹙ひんしゅくとが起る。
群集の間に交じって子路もこの様子を見た。公からの使いを受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、はらわたの煮え返る思いがするのだ。何事か嬌声きょうせいろうしながら南子が目の前を進んで行く。思わずかつとなって、彼は拳を固め人々を押し分けて飛び出そうとする。背後うしろから引き留める者がある。振り切ろうと眼をいからせて後を向く。子若しじゃく子正しせいの二人である。必死に子路のそでを控えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振り上げた拳を下す。
翌日、孔子らの一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

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葉公子高しょうこうしこうは竜を好むことはなはだしい。居室にも竜を繍帳しゅうちょうにも竜を画き、日常竜の中に起臥きがしていた。これを聞いたほんものの天竜が大きに欣んで一日葉公の家にくだり己の愛好者をのぞき見た。まどに窺い尾は堂にくという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るやおそれわなないて逃げ走った。その魂魄こんぱくを失い五色主なし、という意気地なさであった。
諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子はあまりに
彼らには大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓として遇しようという国はある。孔子の弟子の幾人かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにもない。きょうでは暴民の凌辱りょうじょくを受けようとし、宋では姦臣かんしんの迫害にい、ではまた兇漢きょうかんの襲撃を受ける。諸侯の敬遠と御用学者の嫉視と政治家連の排斥とが孔子を待ち受けていたもののすべてである。
それでもなお、講誦を止めず切磋せつさを怠らず、孔子と弟子たちとはまずに国々への旅を続けた。「鳥よく木をえらぶ。木あに鳥を択ばんや。」などといたって気位は高いが、決して世をねたのではなく、飽くまで用いられんことを求めている。そして、己らの用いられようとするのは己がためにあらずして天下のため、道のためなのだと本気で―全く呆れたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望みを捨てない。誠に不思議な一行であった。
一行が招かれて楚の昭王のもとへ行こうとした時、ちんさいの大夫どもが相計りひそかに暴徒を集めて孔子らを途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることをおそれこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥った。糧道が絶たれ、一同火食せざること七日に及んだ。さすがに、え、疲れ、病者も続出する。弟子たちの困憊こんぱい恐惶きょうこうとの間にあって孔子は独り気力少しも衰えず、平生通り絃歌して輟まない。従者らの疲憊を見るに見かねた子路が、いささか色をなして、絃歌する孔子の側に行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃をあやつる手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。
「由よ。われ汝に告げん。君子楽を好むはおごるなきがためなり。小人楽を好むはおそるるなきがためなり。それが誰のこぞや。我を知らずして我に従う者は。」
子路は一瞬耳を疑った。この窮境にあってなお驕るなきがために楽をなすとや?しかし、すぐにその心に思い到ると途端に彼は嬉しくなり、覚えずほこを執って舞うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三たびめぐった。傍にある者またしばらくは飢えを忘れて疲れを忘れて、この武骨な即興の舞に興じ入るのであった。
同じ陳蔡の厄の時、まだ容易に囲みの解けそうにないのを見て、子路は言った。君子も窮することあるか?と。師の平生の説によれば、君子は窮することがないはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するのいいにあらずや。今、丘、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体つかるるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。ただ、小人は窮すればここにみだる。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔をあからめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色もない孔子の容を見ては、大勇なるかなと歎ぜざるを得ない。かつての自分の誇りであった・白刃前にまじわるも目まじろがざるていの勇が、何とも惨めにちっぽけなことかと思うのである。

十一

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きょからしょうへと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅れて畑中の路を歩いて行くと、あじかにのうた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈して、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立ち止まって、「夫子夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やら俺に分るわけがないではないか」と突堅貪つつけんどんに答え、子路の人態にんていをじろりと眺めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮らしている人らしいな。」とさげすむように笑う。それから傍の畑に入り此方を見返りもせずにせっせと草を取り始めた。隠者の一人に違いないと子路は思って一揖いちゆうし、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。すでに日が暮れかかっていたのである。老人は鶏をつぶしてきびかしいで、もてなし、二人の子にも子路を引き合わせた。食後、いささかの濁酒に酔いの廻った老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和してうたう。
湛々たんたんタル露アリ
陽ニアラザレバ
厭々えんえんトシテ夜飲ス
酔ワズンバ帰エルコトナシ
明かに貧しい生活くらしなのにもかかわらず、まことに融融たるゆたかさが家中に溢れている。なごやかにりた親子三人の顔つきの中に、時としてどこか知的なものがひらめくのも、見逃しがたい。
弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くのには車、水を行くには舟と昔から決ったもの。今陸を行くのに舟をもってすれば、如何?今の世に周の古法を施そうとするのは、ちょうど陸に舟をるがごときものとうべし。猨狙さるに周公の服を着せれば、驚いて引き裂き棄てるに決っている。云々・・・・・・子路は孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。老人はまた言う。「楽しみ全うして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕けんべんの謂ではない。」と。澹然たんぜん無極とでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学は始めてではない。長沮ちょうそ桀溺けつできの二人にもった。楚の接与せつよという佯狂ようきょうの男にも遭ったことがある。しかしこうして彼らの生活の中に入り一夜をともに過したことは、まだなかった。穏やかな老人の言葉と怡々いいたるその容に接しているうちに、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望せんぼうをさえ感じないではなかった。
しかし、彼も黙って相手の言葉に頷いてばかりいたわけではない。「世と断つのはもとより楽しかろうが、人の人たる所以ゆえんは楽しみを全うするところにあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫をみだるのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われないことぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし道なき世なればこそ、危険をおかしてもなお道を説く必要があるのではないか。」
翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とを並べて考えて見た。孔子の明察があの老人に劣るわけはない。孔子の欲があの老人よりも多いわけはない。それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に昨夜は一向に感じなかった憎悪ぞうおを、あの老人に対して覚え始めた。ひる近く、ようやく、はるか前方の真青な麦畠むぎばたけの中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然、何か胸をめつけられるような苦しさを感じた。

十二

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宋から陳へ出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論している。「十室のゆう、必ず忠信丘がごとき者あり。丘の学を好むにかざるなり。」という師の言葉を忠信に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大な完成はその先天的な素質の非凡さによるものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方があずかって大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子たちの能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子のっているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変るところはないという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、すでに先天的な非凡さの何よりの証拠ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸への本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。
何を言っているんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹のない奴らめ!今この舟がひっくり返りでもしたら奴らはどんな真蒼まつさおな顔をするだろう。何といっても一旦有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は聴を紊るという言葉を考え、ほこらかにわが胸中一片の冰心ひょうしんたのむのである。
子路にも、しかし、師への不満が必ずしもないわけではない。
陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けてちょうに立ち、それを見せびらかした時、泄冶せつやという臣がいさめて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋ねたことがある。 泄冶の正諫せいかんして殺されたのはいにしえの名臣比干ひかんの諫止と変わることがない。仁と称して良いであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王との場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、したがって己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤かいごするのを期待したわけだ。これは仁とうべきであろう。 泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにもあらず、位も一大夫に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身のほどをも計らず、区々たる一身をもって一国の婬婚を正そうとした。みずから無駄に命をてたものだ。仁どころの騒ぎではないと。
その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしても頷けない。早速、彼は口を出す。仁・不仁はしばらくく。しかしとにかく一身の危きを忘れて一国の紊乱びんらんを正そうとしたことの中には、智不智を超えた立派なものがあるのではなかろうか。むなしく命を捐つなどと言いきれないものが。たとえ結果はどうであろうとも。
「由よ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼について、それ以上はわららぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれをたすけ、国に道なければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはまだ判らぬと見える。詩にう。民僻よこしま多き時はみずからのりを立つることなかれと。けだし、泄冶の場合にあてはまるようだな。」
「では」と大分長い間考えた後で子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることにあるのか?身を捨てて義をなすことの中にはないのであろうか?一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生そうせいの安危ということよりも大切なのであろうか?というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙して身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう?まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言ってもはるかに意味があるのではないか。
「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としないところがある。身を殺して仁をなすべきことを言いながら、その一方は、どこかしら明哲保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子たちがこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼らの本能として、くっついているからだ。それを全ての根底こんていとした上での・仁であり義でなければ、彼らは危くて仕方がないに違いない。
子路が納得しがたげな顔色で立ち去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然しゅうぜんとして言った。くにに道ある時も直きこと矢のごとし。道なき時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚しぎょたぐいだな。おそらく、尋常な死に方はしないであろうと。
楚が呉をった時、工尹こういん商陽という者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄室きしつに「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射薨いたおした。しかしすぐに弓をかわぶくろに収めてしまった。再び促されてまた弓を取り出し、二人を薨したが、一人射るごとに目をおおうた。さて三人薨すと、「自分の今の身分ではこれくらいで充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。ことに「自分としては三人薨したぐらいで充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚よりも上に置く考え方があまりにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然ふつぜんとして孔子に喰ってかかる。「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶところを尽くし、死を而して後にむ。夫子何ぞ彼を善しとする?」孔子もさすがにこれには一言もない。笑いながら答える。
「しかり。汝の言のごとし。吾、ただその、人を殺すに忍びざる心あるを取るのみ。」

十三

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衛に出入すること四度、陳に留まること三年、曹・宋・蔡・葉・楚と、子路は孔子に従って歩いた。
孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今さら望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。世の溷濁こんだくと諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣焦燥ふんまんしょうそうを幾年か繰り返した後、ようやくこのころになって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分らの運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸ぼくたく」としての使命に目覚めかけて来た・積極的な命なりである。きょうの地で暴民に囲まれた時、昂然こうぜんとして孔子の言った。「天のいまだ斯文をほろぼさざるや匡人きょうひとそれわれを如何せんや」が、今は子路にも実によく解って来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の知恵の大きなも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直ぼくちょく子路の方が、その単純極まる師への愛情ゆえであろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。
放浪の年を重ねてるうちに、子路ももはや五十歳であった。圭角けいかくがとれたとは称しがたいながら、さずがに人間の重みも加わった。後世いわゆる「万鐘ばんしょう我において何をか加えん」の気骨も、炯々けいけいたるその眼光も、痩せ浪人のいたずらなる誇負から離れて、すでに堂々たる一家の風格を備えて来た。

十四

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孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿孔叔圉こうしゅくぎょらからわれるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国にむかえられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。
十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていた。まず公叔戌こうしゅくじゅという者が南子排斥を企てかえってそのざんに遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子蒯聵かいがいも義母南子を刺そうとして失敗し晋にはしる。太子欠位の中に霊公がしゅつする。やむを得ず亡命太子の子の幼いちょうを立てて後をがせる。出公しゅつこうがこれである。出奔した前太子蒯聵は晋の力を借りて衛の西部に潜入し虎視眈眈こしたんたんと衛公の位をうかがう。これを拒もうとする現衛侯出公は子。位を奪おうとねらう者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
子路の仕事は孔家のために宰としての地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫の誉れが高い。蒲は、先ごろ南子の讒に遭って亡命した公叔戌の旧領地で、したがって、主人をうた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。元々人気の荒い土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。
任地に立つ前、子路は孔子のところに行き、「むら壮士そうし多くて治めがたし」といわれる蒲の事情を述べて教えを乞うた。孔子が言う。「恭にして敬あればもって勇をおそれしむべく、寛にして正しからばもって強をなつくべく、温にして断ならばもってかんを抑うべし」と。子路再拝して謝し、欣然きんぜんとして任におもむいた。
蒲に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子らを呼び、これらと腹蔵なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う。「教えずして刑することの不可」を知るがゆえに、まず彼らに己の意のあるところを明かしたのである。気取りのない率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快闊達に推服した。それにこのころになると、すでに子路の名は孔門随一の快男児として天下に響いていた。「片言もって獄をさだむべきものは、それゆうか」などという孔子の推奨の辞までが、大げさな尾鰭おひれをつけてあまねく知れ渡っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。
三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内に入った時、「善いかな、由や、恭敬にして信なり」と言った。進んで邑に入った時、「善いかな、由や忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸に入るに及んで、「善いかな、由や、明察にして断なり」と言った。くつわを執っていた子貢が、いまだ子路を見ずしてこれを褒める理由を聞くと、孔子が答えた。すでにその領域に入れば田躊でんちゅうことごとく治まり草萊そうらいはなはだひら溝洫こうきょくは深く整っている。治者恭敬にして信なるがゆえに、民その力を尽くしたからである。その邑に入れば民家の牆屋しょうおくは完備し樹木は繁茂している。治者忠信にして寛なるがゆえに、民その営をゆるがせにしないからである。さていよいよその庭に至ればはなはだ清閑で従者僕童ぼくどう一人として命に違う者がない。治者の言、明察にして断なるがゆえに、その政がみだれないからである。いまだ由を見ずしてことごとくその政を知ったわけではないかと。

十五

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魯の哀公が西の方大野たいやに狩して麒麟を獲たころ、子路は一時衛から魯に帰っていた。その時小邾しょうちゅの大夫・えきという者が国にそむき魯に来奔した。子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめれば、我ちかうことなけん。」と言った。当時のならいとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安じて居つくことが出来るのだが、この小邾の大夫は「子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓いなどらぬ」というのである。諾を宿するなし、という子路の信と直とは、それほどに世に知られていたのだ。ところが、子路はこの頼みをにべもなく断った。ある人が言う。千乗の国の盟いを信ぜずして、ただ子一人の言を信じようという。男児の本懐これに過ぎたるはあるまいに、何ゆえこれを恥とするのかと。子路が答えた。魯国が小邾と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事のいかんを問わず欣んで応じよう。しかし射という男は国を売った不臣だ。もしその保証に立つとなれば、みずから売国奴を是認することになる。己に出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!
子路をよく知るほどの者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。あまりにも彼のしそうなこと、言いそうなことだったからである。
同じ年、斉の陳恒ちんこうがその君をしいした。孔子は斎戒さいかいすること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉を伐たんことを請うた。請うこと三度。斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。季孫に告げて事を計れと言う。季康子がこれに賛成するわけがないのだ。孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾、大夫のしりえに従うをもってなり。ゆえにあえて言わずんばあらず。」無駄とは知りつつも一応は言わねばならぬ己の地位だと言うのである。(当時孔子は国老の待遇を受けていた。)
子路はちょっと顔を曇らせた。夫子のしたことは、ただ形をまつとうするために過ぎなかったのか。形さえめば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?
教えを受けること四十年に近くして、なお、このみぞはどうしようもないのである。

十六

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子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱孔叔圉が死んだ。その未亡人で、亡命太子蒯聵の姉に当る伯姫はくきという女策士が政治の表面に出て来る。一子かいが父圉の後をいだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。伯姫から云えば、現衛侯輒はおい、位を窺う前太子は弟で、親しさには変りはないはずだが、愛情と利欲との複雑な経緯があって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後しきりに寵愛ちょうあいしている小姓上りの渾良夫こんりょうふなる美青年を使いとして、弟蒯聵との間を往復させ、ひそかに現衛侯逐出おいだしをたくらんでいる。
子路が再び衛に戻って見ると、衛侯父子の争いはさらに激化し、政変の機運の濃く漂っているのがどことなく感じられた。
周の昭王の四十年うるう十二月某日。夕方近くなって子路の家にあわただしくび込んで来た使いがあった。孔家の老・欒寧らんねいのところからである。「本日、前太子蒯聵都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫とともに当主孔悝を脅して己を衛侯に戴かしめた。大勢はすでに動かしがたい。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉じて魯に奔るところだ。後はよろしく頼む。」という口上である。
いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当る孔悝が捕えられ脅されたと聞いては、黙っているわけに行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈けつける。
外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。子羔しこうだ。孔門の後輩で、子路の推薦によってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもうしまってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行って見よう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。かえって難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声を荒げて言う。孔家の禄をむ身ではないか。何のために難を避ける?
子羔を振り切って内門のところまで来ると、はたして中から閉まっている。ドンドンとはげしくたたく。はいってはいけない!と中から叫ぶ。その声を聞き咎めて子路が呶鳴どなった。公孫敢こうそんかんだな、その声は。難を逃れんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患を救わねばならぬのだ。開けろ!開けろ!
ちょうど中から使いの者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。
見ると広庭一面の群集だ。孔悝の名において新衛侯擁立の宣言があるからて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕きょうがくと困惑との表情を浮かべ、向背に迷うもののごとく見える。庭に面した露台の上には、若い孔悝が母の伯姫と叔父の蒯聵とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、いられているかたちだ。
子路は群集の背後うしろから露台に向って大声で叫んだ。悝を捕えて何になるか!孔悝を離せ。孔悝一人を殺したとて正義派はほろびはせぬぞ!
子路としてはまず自分の主人を救い出したかったのだ。
さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振り向いたと知ると、今度は群集に向って煽動せんどうを始めた。太子は昔に聞えた臆病おくびょう者だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(悝)をゆるすに決っている。火をけようではないか。火を!
すでに薄暮のこととて庭の隅々すみずみ篝火かがりびが燃されている。それを指しながら子路が、「火を!火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者どもは火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
台の上の簒奪者さんだつしゃは大いにおそれ、石乞せききつ盂黶うえんの二剣士に命じて子路を討たしめた。
子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群衆は、この時、ようやく旗幟きしを明らかにした。罵声ばせいが子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体に当った。敵のほこ尖端さきほおかすめた。えい(冠の紐)がれて、冠が落ちかかる。左手でそれをささえようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血がほとばしり、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く
纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が最後の力を絞って絶叫する。
「見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
全身をなますのごとく切り刻まれて、子路は死んだ。
魯にあってはるかに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(子羔)や、それ帰らん。由や死なん。」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目ちょりつめいもくすることしばし、やがて潸然さんぜんとして涙下った。
子路のしかばねししびしおにされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後じご、醢は一切食膳しょくぜんに上さなかったということである。

注釈

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  1. 厚さ三丈(約9メートル)、高さ一丈(約3メートル)

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。