聖詠講話中編

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聖金口イオアン全集第五巻 聖詠講話原序[編集]

モイセイおよびそのこうしゃイイスス ナウィンのち所謂いはゆるイズライリの判官はんかんのちサウル イズライリじんおうとなり、そのはいさるるやかみ善行ぜんこうありてなるおう言者げんしゃおこせり、かれ聖神せいしん感応かんおうによりて、その生国しょうこくげん特有とくゆうにしてせいなることばもつしるされたる百五十ぺん聖詠書せいえいしょめり、しかして此書このしょ多様さまざま音声おんせい種々さまざまなるがくまいおよび附歌つけうたとも巧妙こうみょうなる調ちょうにてうたはれたるものなり。ダウィドみづかことたんじ、またその統御とうぎょもとしょう言者げんしゃ種々しゅじゅなるたいゆうせり、かれ言者げんしゃまじわりし人々ひとびとづけ、またときとしては言者げんしゃ子等こらともづけたり。かれ種々しゅじゅがくてり、あるいはつあるいふえあるいつづみあるいらっぱあるいこと線琴せんきんあるい牧笛ぼくてきとなへられしものをてり、またたいごとちょうあり、或者あるものは「アサフ」とづけられ、或者あるものは「イディフム」とづけられ、或者あるものコレイしょ或者あるものイズライリの「エファム」とづけられ、或者あるものかみモイセイもつしょうせられたり。くのごとダウィドたみ俘虜とりことなりしこと、あるいそのこくのこと、あるいとくじょうおしえあるいかみ照管しょうかんあるい主宰しゅさいハリストスのことをほうずるに精神せいしん興奮こうふんしたるときせいなるげんもつ聖詠せいえいつくれり、ゆえかく聖詠せいえいみな適当てきとうなる内容ないようゆうせり――ればみじか聖詠せいえいあり、なが聖詠せいえいあり――ダウィドはこれをあるたいさづけたり。かれ聖詠せいえい中間ちゅうかんとどまり、また聖詠せいえいつぎぶんたいこうすべきことしめしたるときは、聖詠せいえいくのごと継承けいしょうを『更調こうちょう』とづけたり。ればかれ聖詠せいえい中間ちゅうかんに、これ所謂いはゆる牧笛ぼくてきこうせんとほつしたるときこれを「オ デイ ディア プサルマトス」とづけたり、なんとなればふえ交々こもごも聖詠せいえいざんうたはじめたればなり〔聖詠九の十七詩篇九の十六[1]〕。此事このこときてらんとほつせば、歴代れきだいりゃくれいによりてることをべし、其中そのうちダウィド言者げんしゃアサフにて』此歌このうたうたふことを『さだめたり』〔歴代れきだいりゃく十六の七〕としるされたり。第一だいいちたいたい聖詠せいえいこうしたるのちつぎたいあるいかくしょうしゃ別々べつべつに、あるい皆偕みなともかい一致いっちして、あるしょうしゃ其組そのくみしょうしゃたいしてうたひ、またあるがく更々かわるがわるがくたいしてそうし、かん悦楽えつらくしてかみさん称揚しょうようするがため聖詠せいえいうたへり。此事このこときてはダウィドみづか約櫃やくひつ種族しゅぞくよりとりへして其前そのまえおどりたることよりして決定けっていすることをべし、しかしてそのつまメルホラ ダウィドめしときかれは『我主わがしゅまえがくそうしておどらん』〔第二列王記六の二十一サムエル記下六の二十一〕とこたへたり、かれただめざりしのみならず、これ一層いっそうだいなる熱心ねっしんもつさんとほつするこころがけ表言あらはせり。或者あるものこと順序じゅんじょ本質ほんしつじゅくせず、またこれれるものまなぶことをのぞまずして、これもつ譬喩ひゆなりとし、すべての聖詠せいえいダウィドさくにあらず、聖詠せいえいうちそのめいされある人々ひとびとさくなるがごとしとさへろんずるものあり。れどしゅ使徒等しとらあるしゃさくなりとははざりしなり。れば聴衆ちょうしゅう構造こうぞうきてあきらかえがかんがためダウィドするものとし、しかして其前そのまえみぎひだりたいあるものとしてえがかん。つぎ吾人われらかれしゅ経綸けいりんのこと、その人性じんせいによるくるしみ復活ふくかつことげんせる聖詠せいえいきてもはん、すなはしき種類しゅるい表言いひあらはし形式けいしきにより多種各様さまざまなるをあらはところ聖詠せいえいきてはん。かれまたたしかしゅ神性しんせいによりて永遠えいえんなること、かい造物主ぞうぶつしゅぜんかい革新者かくしんしゃたること、またかみ神啓しんけいぜん聖書せいしょ目的もくてきことげたり。イディフムたいコレイしょたいイズライリの「エファム」のたい、「アサフ」のたいおよかみひとモイセイたいは――ダウィド統御とうぎょもとにありて種々しゅじゅがくそうし、聖神せいしん感応かんおうしるされたる百五十ぺん聖詠せいえいいはたのしうたいてかみ讃栄さんえいせししょ言者げんしゃたいなり。

聖金口せいきんこうイオアン全集第五巻 聖詠講話中編

目次[編集]

第百十聖詠講話 / 1p

第百十一聖詠講話 / 25p

第百十二聖詠講話 / 46p

第百十三聖詠講話 / 56p

第百十四聖詠講話 / 80p

第百十五聖詠講話 / 89p

第百十六聖詠講話 / 107p

第百十七聖詠講話 / 108p

第百十九聖詠講話 / 130p

第百二十聖詠講話 / 142p

第百二十一聖詠講話 / 149p

第百二十二聖詠講話 / 157p

第百二十三聖詠講話 / 161p

第百二十四聖詠講話 / 169p

第百二十五聖詠講話 / 176p

第百二十六聖詠講話 / 182p

第百二十七聖詠講話 / 187p

第百二十八聖詠講話 / 201p

第百二十九聖詠講話 / 204p

第百三十聖詠講話 / 213p

第百三十一聖詠講話 / 217p

第百三十二聖詠講話 / 229p

第百三十三聖詠講話 / 232p

第百三十四聖詠講話 / 235p

第百三十五聖詠講話 / 262p

第百三十六聖詠講話 / 274p

第百三十七聖詠講話 / 280p

第百三十八聖詠講話 / 288p

第百三十九聖詠講話 / 307p

第百四十聖詠講話 / 324p

第百四十一聖詠講話 / 357p

第百四十二聖詠講話 / 368p

第百四十三聖詠講話 / 390p

第百四十四聖詠講話 / 407p

第百四十五聖詠講話 / 425p

第百四十六聖詠講話 / 432p

第百四十七聖詠講話 / 438p

第百四十八聖詠講話 / 451p

第百四十九聖詠講話 / 469p

第百五十聖詠講話 / 475p

豫言者ダウィドの説教 / 480p

人富を致す時爾懼るる勿れ / 509p

大なる週間に於て述べられたる講話 / 521p - 548p

目次/終わり

脚注[編集]

  1. 投稿者註:詩篇(9:16)の文末にある「ヒガヨン、セラ」についての解説と思われる。
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。