- 主よ、我が心驕らず、我が目高ぶらず、我大にして我が及ぶ能はざる事に入らざりき〔一節〕。
是れ何事なるか。パウェルは當然の場合に於ても自身を讃むるを無智と名づけて『我誇りて無智に至れり、爾等我に此を為さしめたり』〔コリンフ後書十二の十一〕といへり。然るに預言者は二三人或は十人の前ならで全世界の前に誇りつゝ而も我は謙遜なり、節制なり、極めて謙遜にして温柔なりと誇りつゝ而も自ら之を知らざりしか即ち『母の乳を断ちし兒の如し』〔二節〕てふ言はこれを示すなり。何故に彼はこれを為すか。此事は常に許すべきことにあらざるも、時としては必要なることあり、否吾人は誇るによりてにあらず、誇らざるによりて無智者となることさへあり。故にパウェルは『誇る者は主に由りて誇るべし』〔コリンフ後書十の十七〕といへり。然れば十字架を以て誇らざる者は何人よりも無智にして不正なり、信を以て誇らざる者は何人よりも軽蔑すべきなり、之を以て誇らず高ぶらざる者は必ず亡ぶ。視よ、何に由りて使徒は敢て『我に在りては、我等の主イイスス ハリストスの十字架の外に誇る所なし』〔ガラテヤ書六の十四〕といひしかを。イエレミヤも同じく『富める者はその富に誇ること勿れ、智慧ある者はその智慧に誇る勿れ、乃ち明哲にして主を識る事を以て誇るべし』〔イヱレミヤ記九の廿三、廿四〕といへり。誇りて悪しきは何れの時なるか。吾人がファリセイの如く行ふ時なり。爾は云はん、何故にパウェルは『我誇りて無智に至れり、爾等我に此を為さしめたり』〔コリンフ後書十二の十一〕といひしかと。言ふべき必要なき己が生活と行為とに就きて言ひしに由る。然れども彼は他の個所に於ては『我若し誇らんと欲せば無智なる者と為らず、蓋眞を言はん』〔コリンフ後書十二の六〕といへり。斯くの如く事情の要求に応じて眞を言ふ者は無智たらざるなり。故に豫言者誇るも無智たらず、眞を言へばなり。而して彼は何の為に己が説話を此問題に向けしか。悪より救はれし後、無智に帰らず、挃捁を解かれし後復び狂乱せず、他の俘擄となりて軛に遭遇せざる様聴衆を教へん為なり。彼は己の性質を物語りつゝ聴衆を悟らしむ、而も『我は驕れる此情慾を制せり』とは云はざりき、然らば何と言ひしか、『我が心驕らず』といへり、即ち此悪癖は我が霊に触るゝ事さへなかりきとなり。彼の心は諸悪の源たり、極端なる不虔の根たる悪癖の浪の侵入せず、動揺せざる港の如かりき。『主よ、我が心驕らず、我が目高ぶらず』とは何の意なるか。言ふ意は、我は眉を挙げざりき、頸を挙げざりきとなり。情慾の疾病は内部の泉より出でて外部にも顕れ、体をも内部の伝染毒と一致したる状態となす。『我大にして我が及ぶ能はざる事に入らざりき』。『大にして』とは何の意なるか。自負、驕傲、高慢なる人々、富める人々と偕にの意なり。爾は眞の謙遜を見るか。彼は啻に自ら此疾病より自由にされしのみならず、之を以て害されし者をも避け、甚く高慢を悪めるによりて斯かる集会を避けたり、彼は此悪癖を忌みて自ら之を避けしのみならず、己が心域を悪癖の入らざるものとなしゝのみならず、悪癖に従ふ者を遠ざけたり、是れ彼等より悪癖の伝染せざらん為なり。
自負を避け、驕傲を悪み、之を遠ざけ、之を蔑視するは重大なる事なり、是は善行の至大なる支柱なり、謙遜の至大なる墻壁なり。『我が及ぶ能はざる事に入らざりき』。『我豈に我が霊を鎮め之を安んずること、母の乳を断ちし兒の如くせざりしか、我が霊我の衷に於て乳を断ちし兒の如くなりき』〔二節〕。此は強き表現なり。言ふ意は、我若し己が母の懐にある子女の如く温柔ならずして其心傲慢ならば、神は我が霊に報いしなるべしとなり。彼の言の意味は左の如し、我は此悪癖即ち傲慢より潔かりしのみならず、又之を有する者より遠ざかりしのみならず、高き程度に於て之に反対なる善行、即ち謙遜、節制、傷咸を得たり。ハリストスも門徒等に『爾等若し転じて幼兒の如くならずば天国に入るを得ず』〔マトフェイ福音十八の三〕と誡めたり。預言者は曰く「我は母の懐にある子女の如き謙遜を得たり、子女が母に抱かれ、謙遜にして、凡ての傲慢を遠ざかり、質朴にして温柔なるが如く、我も亦神に関して常に神を抱けり」と。然れど彼が母の懐にある子女のことを述ぶるは理由なしとせず、乃ち己が憂愁、困難、欝悶、悪念の大なることを画かんと欲してなり。兒は乳より離されつゝも母より離れずして泣き悲み、哭き悶えて怒るとも母を抱きて離れざるが如く、我も亦悲哀、困難、及び無数なる不幸の中に於て神に従へり。我若し斯くの如き者ならざりせば、彼は我が霊に報ゆべし、即ち我が霊は非常なる罰に処せらるべしとなり。
『願はくはイズライリは主を恃みて今より世々に迄らん』〔三節〕。爾は我が初に於て信と教とを以て常に誇らざるべからず、而して之を誇らざる者は亡ぶと言ひしを知らん、又生活の行為に関しては事情の要求に応じて之を誇ることを辞すべからず。事情とは是れ如何なることなるか。多くの種々なる事情あるも、其中の一例は聴衆を教ふることなり。然れば豫言者も之を知りつゝ、及び豫言者が聴衆に向けしめんが為に己の善き性質に就きて言ふことを示さんと欲しつゝ『願はくはイズライリは主を恃みて今より世々に迄らん』と附加へたり。言ふ意は縦ひ不幸、悲哀、戦争に遇ひ、俘擄となり、意外の艱難の爾に及ぶとも、神に於ける希望を持し、神を恃め、然らば必ず善き終を得ん。神は爾を艱難より救ひて光栄権柄の世々に帰する主イイスス ハリストスに於て此善き望を爾に賜はん。アミン。
第百三十聖詠
- 登上の歌。ダワィドの作。
- 1 主よ、我が心驕らず、我が目高ぶらず、我大にして我が及ぶ能はざる事に入らざりき。
- 2 我豈に我が霊を鎮め、之を安んずること、母の乳を断ちし兒の如くせざりしか、我が霊我の衷に於て乳を断ちし兒の如くなりき。
- 3 願はくはイズライリは主を恃みて今より世世に迄らん。
詩篇第131篇(文語訳旧約聖書)
- 1 ヱホバよわが心おごらずわが目たかぶらず われは大なることと我におよばぬ奇しき事とをつとめざりき
- 2 われはわが霊魂をもださしめまた安からしめたり 乳をたちし嬰兒のその母にたよるごとく 我がたましひは乳をたちし嬰兒のごとくわれに恃れり
- 3 イスラエルよ今よりとこしへにヱホバにたよりて望をいだけ