- 主よ、我深き処より爾に呼ぶ、主よ、我が声を聴き給へ〔一節〕。
一。 『深き処より』とは何の意なるか。 単に口舌を以て呼ぶのみならず、乃ち非常なる注意と大なる熱心とを以て心の深所、霊の底よりの意なり。憂愁ある霊は斯くの如きものなり、即ち斯る霊は衷心よりする大なる傷咸を以て神を招ぎつゝ全く震撼さるゝなり、彼等の祈祷の聴き容れらるゝは之が為なり。斯る祈祷は仮令悪魔の大胆なる攻撃に遭遇すとも錯乱動揺せずして大なる力を有す。深く地中に根を張れる堅固なる樹木は暴風の打撃に反抗するも、其根深からざる樹木は微風によりて動揺し、稍々強風に遭へば直ちに根底より抜かれて地上に顛覆さるゝが如く、霊の懐より出で、霊の底に根を有する祈祷も亦堅固にして弱らざるものとなり、種々なる雑念悪魔の諸軍勢の襲来るとも動かざるなり、然れど口舌より出で、霊の深所より生ぜざる祈祷は、祈祷者の不注意によりて神に昇ることさへ能はず、何となれば最も小なる打撃は彼を乱し、諸の騒擾は祈祷より他にその心を転ぜしむればなり――縦ひその口は音を発すとも、心は空しく、智慧も亦楽まざるなり。聖人等は斯くの如く祈らざりき、乃ち全身をも傾注したる程の熱心を以て祷れり。福たるイリヤは祈祷せんとして先づ閑静なる場所を求め、次に首を膝の間に容れ大なる熱心を熾し、斯くして祈祷を行へり〔第三列王紀十八の四十二[1]〕。爾若し真直に祈祷に立てる者を見んと欲せば、彼が天に向ひて火の天より下りしが如く直立して祈祷せし時に於て復び彼を見よ〔第三列王紀十八の三十六〕。又彼が嫠婦の子を復活せしめんと欲したる時、吾人の如く放心せず、欠伸をなさず、乃ち切なる祈祷に熱衷し全力を注ぎて復活せしめたり。然れど彼は何の為にイリヤ及び他の諸聖人に就きて言ふか。
我は屡々不在の夫、或は病める子女の為に涙を注ぎ霊の深底より祷り、祈祷の目的を達したる婦人を見たり。婦人が子女の為め不在の夫の為に斯く熱心に祈祷すとも、もし其夫にして活気なく死せるが如き心を以て祈らば、彼は其罪を赦さるべきか。実に吾人は祈祷の後に屡々空しく〈聖堂を〉出づることあり。アンナが如何に衷心より祈りしか、如何に涙を流ししか、祈祷を以て如何に高上したるかを聞け〔第一列王紀一の十[2]〕。斯くの如く祈る者は願ひしものを受くるよりも、先づ祈祷によりて大なる幸福を受く、即ち凡ての情慾を鎮め、怒を柔げ、嫉妬を放逐し、肉慾を圧し、世の事物に対する愛を弱め、霊に大なる平安を得しめ、天に昇らしむるなり。雨の固き地に落ちて之を柔げ、火の鉄を軟かにするが如く、斯くの如き祈祷は情慾によりて頑固となりし霊を、火よりも強く、雨よりも善く柔げ之を湿すなり。霊は柔軟かにして感受性あるものなり、然れどもイストルの水は屡々寒冷によりて石の如く凝結するが如く、吾人の霊も亦罪と不注意とにより、凝結して石となるなり。然れば霊の硬化を柔ぐるには大なる熱心を要す。祈祷は殊に之を完成す。然れば爾祈祷する時は唯願ひしものを受くることのみならず、祈祷の際に己の霊を最も善きものと為さんことを慮れ、祈祷をも成就すればなり、斯くの如くにして祷る者は世の凡てのものゝ上に立ち、己の智慧を飛ばしめ、己の念慮を軽からしめ、如何なる情慾の為にも捕はれざるなり。『主よ、我深き処より爾に呼ぶ』。爰に預言者は『深き処より』及び『呼ぶ』てふ二つの表現を用ひたり『呼ぶ』とは声の音にあらず、霊の状態を云ふなり。『主よ、我が声を聴き給へ』。吾人は此言より二つの眞理を学ぶことを得。第一、吾人若し自ら當然のことをなさゞれば神より何物をも受くるを得ず、然れば預言者は前以て『深き処より呼べり』といひ、然る後『聴き給へ』といへり。第二、熱心なる祈祷傷咸の涙に充たされたる祈祷は神をして吾人の祈祷を受くるに傾けしむる程大なる力あり、然れば預言者は恰も或大なることをなし、及び自ら適當なることを為して祈祷するが如く『主よ、我が聲を聴き給へ、願はくは爾の耳は我が祷の聲を聴き納れん』〔二節〕と続けたり。彼は聴く才能を『耳』と名つけ、而して『声』の下に復び呼吸の音にあらず、叫声にあらず、乃ち霊の伸張せる状態を意味せり。
『主よ、若し爾不法を糾さば、主よ、孰か能く立たん』〔三節〕。何人か、我無数の悪に充されたり、如何で神に近寄り、神に祈祷し、神を呼ぶことを得んやと云はざらん為、斯る疑の無からしめん為に預言者は『主よ、若し爾不法を糾さば、主よ、孰か能く立たん』といへるなり。『孰か』てふ言は、爰に「何人も」の意なり、何となれば彼若し厳重に吾人の行為を穿鑿せば、何人も常に慈憐と仁愛とに堪へざればなり。
二。 吾人の之を云ふは、爾等の霊の不注意に渡されん為にあらず、乃ち失望に陥りし者を励さん為なり。『誰か我我が心を浄め、我が罪を潔められたりといひ得るや』〔箴言二十の九〕。然れども何の為に他人に就きて言ふか。我若しパウェルを引き出して彼より其行為に就きて厳重なる責任を要求しなば、彼も亦堅立することを得ざりしならん。実際に彼は何事を言ひ得るか。彼は勤勉にして諸預言者の書を学び、国法の熱心者にして行はれし休徴を見たるも、窘逐者となり異象に遭ひて畏るべき声を聞ける迄は騒乱破壊を是れ事とせり。然れども神は尚之にも拘はらず、彼を招ぎて大なる恩寵を授けたり。又至高のペートルは無数の奇蹟休徴を受け、預戒と商議とを與へられたる後、重き罪に陥いりしにあらずや。然れども主は之にも拘はらず、彼を立てゝ第一の使徒となせり。然れば主は『シモンよ、シモンよ、視よ、サタナ爾を麦の如く簸はんことを求めたり。然れども我爾の為に、爾の信の盡きざらんことを祷れり』〔ルカ福音二十二の三十一、三十二〕といへり。神若し容赦なく審判し、厳重なる責任を要求するに来りたらんには、衆人は必ず罪人として亡びたりしならん。然れば視よ、パウェルも『蓋我は内に省みて責むべきなしと雖も、之を以て義とせられず』〔コリンフ前書四の四〕といへり。『主よ、若し爾不法を糾さば、主よ』。預言者は空しく重複の言を用ひたるにあらず、主の大なる仁愛、其無限の威厳と、其恩寵の徴表に用ひたるなり。『孰か能く立たん』。彼は誰か避け得んやと云はずして、『孰か能く立たん』といへるは、堅立することすら能はずとの意なり。『然れども爾に赦あり』。此言は何を意味するか。罰を避け得るは吾人の善行に由るにあらず、爾の仁慈に由る、何となれば審判を免るゝは爾の仁慈に関すとの意なり。吾人若し此仁慈を受くるに堪へざれば吾人の行為は吾人の行為は吾人を未来の怒より救ふこと能はざるなり。
三。 神自ら之を解明しつゝ預言者を以て『我は爾の罪過を消さん』〔イサイヤ書四十三の二十五〕といへり、即ち此れ我が行事なり、我が慈善仁愛の作為なり、爾の行為にして我が仁愛を合せざれば爾を罰より救ふことを得ずとの意なり。彼は又我『爾等を負はん』〔イサイヤ書四十六の四〕といへり。『我爾の名の為に主を望み、我が霊主を望み、我彼の言を恃む』〔四節〕。或訳者は『爾の律法の為に』〔シムマフ〕となし、或訳者は『爾の言を知るが為に』〔訳者不明〕となせり。此等の言の意味は左の如し、爾〈神〉の仁愛の為爾の律法の為に我は救を待てり――何となれば我若し己が行為を見たらんには久しく望を失ひしならん、然れども今我爾の律法と爾の言に注意しつゝ善き望を養ふとなり。如何なる言に注意するか。仁愛の言に注意するなり、何となれば主は自ら『天の地より高きが如く、我が思は爾等の思よりも高く、我が道は爾等の道よりも遠し』〔イサイヤ書五十五の九〕といひ、預言者も亦『天の地より高きが如く、斯く主は彼を畏るゝ者に其憐を固めたり』といひ、又『東の西より遠きが如く、斯く主は我が不法を我等より遠ざけたり、』〔聖詠百二の十一、十二〕といひたればなり、即ち我は善行を行ひし者を救ひしのみならず、罪人をも憐み、又爾等の不法を行ふ間に我が保護と配慮とを爾に示せりとなり。或訳者は『爾が畏るべき者となり、我は主を待たん為に』〔訳者不明〕といへり。何人の為に畏るべき者となるか。敵の為、悪意ある者の為、我に対して敵害する者の為になり。『爾の名の為に』とは何の意なるか。言ふ意は、我縦ひ罪人にして無数の悪に充たされたりとも、爾は爾の名の辱められざらん為に吾人に亡ぶることを許し給はざるを知るとなり。然れば神は自らイエゼキイリ書の中に『我爾等の為に之を為すにあらず、我が名の異邦に於て汚されざる様我が名の為にするなり』〔イエゼキイリ書三十六の二十二〕といへり、即ち吾人は救贖に當らず、又己が行為の為に何等の善事をも待つこと能はず、乃ち爾の名の為に救贖を待たん、此救贖の希望は吾人に存せりとなり。或訳者は『我は畏の為に主を待てり』〔アキラ及フェオドチオン〕といひ、或訳者は我は『律法の為に主を待てり』〔シムマフ〕となし『我が霊は爾の言を恃む』〔訳者不明〕となす、即ち我は神の仁愛慈憐の預知及び固き約束を聖なる錨として有するが故に失望せずとなり。
『番人の旦を待つより甚し、願はくはイズライリは主を恃まん』〔五節〕、即ち全生涯に於て凡ての夜となく昼となく待つの意なり。失望に陥いりし者には常に主に向ひ主を望むが如く何ものも眞にかく救贖を得しむることを得ざるなり、是れ破壊すべからざる墻壁、乱すべからざる安全、勝たれざる城砦なり。是故に縦令事情は死を以て威し、或は危険或は全然たる亡滅を以て嚇すとも、神を望み神の救を恃むことを止むるなかれ、神の為に凡ては容易に且つ便利にして、彼は免るべからざる事情の中よりも吾人を救ひ得ればなり。啻に爾の行事の好運なる時に神の佑助を受くることを望むべきのみならず、特に暴風怒涛の時、非常なる危険の爾を威す時に神を恃むべし、斯る時は神殊に己が能力を顕し給へばなり。斯くの如く預言者の言の意味は、常に凡ての時、全生涯に於て神を恃まざるべからずとなり。
『蓋憐は主にあり、大なる贖も彼にあり、彼はイズライリを其悉くの不法より贖はん』〔六節〕。『蓋憐は主にあり』とは何の意なるか。爰に憐とは宝蔵と常に流るゝ仁愛の泉となり。仁愛のある所には救贖も亦存す、啻に救贖のみならず『多くの』救贖及び仁愛の無量なる深淵あり。然れば仮令罪は吾人を亡滅に渡すとも、吾人は元気を沮喪して失望すべからず。慈憐と仁愛とのある所には罪の為に厳重なる責を受けず、裁判者は其大なる慈憐と仁愛の処置によりて多くのものを赦すに由る。神は斯る裁判者にして常に憐みて赦免を與へんとす。『彼はイズライリを其悉くの不法より贖はん』。神若し斯くの如き者にして到処に其大なる仁愛を賜ふとせば、その民を救ひて罰より贖ふのみならず、罪よりも之を贖ふや疑なし。吾人は之を知りて神を呼び、神に願ひ何時も退かざらん、然らば吾人は或は受け、或は受けざらん。若し與ふることにして神の権内にあらば、與ふべきの時も亦其権内にあらん、彼は正しく與ふべき時を知る。然れば吾人は彼の慈憐と仁愛とを願ひ、祈り恃み、又何時も己の救贖に失望せずして吾人自ら適當なることをなさん、然らば神も亦疑なく為すべきことをなさん、蓋は光栄の父と聖神と偕に帰する吾人の主イイスス ハリストスの慈憐と仁愛とに由りて吾人が受くべき云ふべからざる慈惠と無量の仁慈とは悉く彼にあればなり。アミン。
第百二十九聖詠
- 1 主よ、我深き處より爾に呼ぶ。
- 2 主よ、我が聲を聴き給へ、願はくは爾の耳は我が祷の聲を聴き納れん。
- 3 主よ、若し爾不法を糾さば、孰か能く立たん。
- 4 然れども爾に赦あり、人の爾の前に敬まん爲なり。
- 5 我主を望み、我が霊主を望み、我彼の言を恃む。
- 6 我が霊主を待つこと、番人の旦を待ち、番人の旦を待つより甚し。
- 7 願はくはイズライリは主を恃まん、蓋憐は主にあり、大なる贖も彼にあり、
- 8 彼はイズライリを其悉くの不法より贖はん。
詩篇第130篇(文語訳旧約聖書)
- 1 ああヱホバよわれふかき淵より汝をよべり
- 2 主よねがはくはわが聲をきき汝のみみをわが懇求のこゑにかたぶけたまヘ
- 3 ヤハよ主よなんぢ若もろもろの不義に目をとめたまはば誰かよく立ことをえんや
- 4 されどなんぢに赦あれば人におそれかしこまれ給ふべし
- 5 我ヱホバを俟望む わが霊魂はまちのぞむ われはその聖言によりて望をいだく
- 6 わがたましひは衛士があしたを待にまさり 誠にゑじが旦をまつにまさりて主をまてり
- 7 イスラエルよヱホバによりて望をいだけ そはヱホバにあはれみあり またゆたかなる救贖あり
- 8 ヱホバはイスラエルをそのもろもろの邪曲よりあがなひたまはん
- ↑ 投稿者註:列王紀略上を指す。第三列王紀は正教会の呼び方。
- ↑ 投稿者註:サムエル前書を指す。第一列王紀は正教会の呼び方。