- 『主がシオンの擄を返しゝ時我等夢みるが如くなりき』。他の訳者は『我等夢みるが如くなりき』を『我等慰められたり』となす。
一。 『擄』てふ言は、其名称単純なれども多くの意味を有す。擄に善き擄ありパウェルは之に就きて『凡の意思を擄にしてハリストスに従はしめたり』〔コリンフ後書十の五〕といへり。悪しき擄あり、パウェルは之に就きて『彼等は罪に溺るゝ婦人を擄にす』〔テモフェイ後書三の六〕といへり、霊的擄あり、イサイヤは之に就きて『俘囚に解放をつげ』〔イサイヤ書六十一の一〕といへり、感情的擄あり、是れ敵よりす。然れど第一のものは、他のより難し。何人をか擄にせし者は戦法によりて屡々之を優待することあり、縦ひ彼等をして水を汲み、薪を割り、馬を追はしむるとは雖も、毫も彼等の霊を害せず、然れど罪の擄となりし者は彼を最も耻づべき行為に強ゆる所の残忍にして酷薄なる命令者を己に得たるなり。此暴君は容赦することなく憐憫むことをもせざるなり。例令ば彼は憐むべき不幸なるイウダを擄にして之を容赦せず、即ち盗聖者及び買主者となせるも、罪の決行されし後には彼をイウデヤ人の前に引出して観とし、彼の犯罪を暴露し、之に悔改を利用するを許さず、唯悔心を起さしめたるのみにて係蹄に導けり。罪は不幸なる命令を與へ、罪に服従する者を不虔に服せしむる残酷なる命令者なり。然れば吾人は爾等に訓戒す、吾人は大なる熱心を以て罪の権威を避け、之と戦ひ、何時も之と和せざらん、又罪より自由にせられて此自由の中に在らん。イウデヤ人若し異種族より解放せられて安慰を得たらんには、況て吾人罪より自由にせられたる者は歓喜大悦し、且つ永久に此喜悦を保存せざるべからず、否復び同一なる悪癖に陥いりて此喜悦を破らず之を穢さゞる様せざるべからず。『慰められたり』とは吾人が平安、喜悦、快楽に充たされしを云ふなり。
『其時我等の口は楽にて盈ち、我等の舌は喜にて〈一本には「歌にて」とあり〉満ちたり、其時諸民の中に云へるありき、主は彼等に大なる事を行へりと』〔二節三節〕。俘擄より自由にされし後の喜悦は少からず善事に変改するに助く。然れど爾は云はん、何人か此によりて喜ばざるかと。彼等の列祖がエギペトより自由にせられ、彼処に於ける奴隷の境遇を脱して自由にされし時其幸福の中にありて恩を忘れて甚く怨言し、憤り、不満を懐きて常に哭けり。然れど彼等は曰く、吾人は然らず、吾人は喜び楽めばなりと。彼等は喜の理由をも云ふて曰く、吾人の喜ぶは啻に艱難より自由にされしによりてのみならず、之に由りて衆人が神の吾人を照管し給ふことを認むるに由るなり『其時諸民の中に云へるありき、主は彼等に大なる事を行へり』。爰に此言を反復するは徒然ならず、乃ち彼等が有しゝ大なる喜を示さん為なり。或言は異邦人に属し、而して或言は彼等に属す。然れど見よ『彼等は吾人を救へり』或は『吾人を自由にせり』と云はずして『大なる事を行へり』と云へり、即ち此言を以て非常なること、――奇蹟に充されたる事を言ひ顕さんと欲したるなり。我が屡々言ひし如く、爾は此民の擄となり、及び其擄より還りしことが此民を以て全世界を教へしことなるを見るか。其還りしことは傳道者の代〈傳道者の代りに多くのことを傳ふるを云ふ〉なりき、何となれば彼等に就きての風評は神の仁愛を衆人に顕しつゝ到る処に弘布り、又彼等に行はれし奇蹟は眞に大にして且つ異常なりしに由る。彼等を支配せしキールは何人に願はれしにあらず、神は其霊を柔げたるによりて彼等を解放せり、而も単に之を解放せず、多くの賜を與へて解放せり。『我等喜べり。主よ、我等の擄を南方の流の如くに返し給へ』〔四節〕。何故に預言者は聖詠の始に『主がシオンの擄を返しゝ時』といひ而して爰には『返し給へ』といひしや。彼は将来に就きて云ふなり。此事に就きては『返しゝ時』と云はず『返さん時』といひしによりても知らるゝなり。而も此事は其時に始りて凡ては俄かに行はれしにあらず、乃ちイウデヤ人の移転は一度ならず三回ありしなり。
二。 然れば預言者は或は之を言ひ、或は全き救贖のあらんことを祈るなり。多くのイウデヤ人は異種族の国に止まらんことを欲したり、是に由りて彼は熱心に彼等の救はれんことを望みつゝ『我等の擄を南方の流の如くに返し給へ』といへり、即ち大なる進歩を以て、大なる力を以て興奮奨励して返し給へとの意なり。或訳者は此事を言ひ顕しつゝ『小河の如く』〔アキラ〕といひ、或訳者は『支流の如く』〔シムマフ〕といひ、或訳者は『水の低きに降るが如く』〔訳者不明〕といへり。
『涙を以て播く者は、喜を以て穫らん』〔五節〕。此はイウデヤ人に就きて述べられしことなれども、数々他の多くの場合にも応用することを得。善行は斯くの如きものなり、即ち善行は労働の代りに賞を受くるなり。是に由りて吾人は前以て労働疲労し、然る後安息を求めんことを要す。此等のことは数々世俗の事に於ても見ることを得。然れば預言者は其説話の中に播くことと穫ることゝを示せり。播く者は労働きて汗を流し寒気を忍耐せざるべからざるが如く、善行を修養する者も亦然りとす。安息は人の為に最も必要なり。故に神は安息の途を細く窄きものとなし、剰へ啻に善行のみならず、世俗の事をも困難と伴はせたり、而も後者は一層然りとす。播種者、建築者、旅行者、薪割人、職行、其他何人にまれ若し利益あることを得んと欲せば労働辛苦せざるべからず、而して種子の雨を要するが如く、吾人には涙を要す。地をば耕し、及び発掘するの要あるが如く、霊の為にも誘惑と憂愁とは鋤の代りに必要なり、是れ霊の雑草を生ぜざらん為――霊の残忍を柔げんが為、霊の傲慢せざらん為なり。地も注意して耕さずんば善きものを産せざるなり。然れば預言者の言の意味は左の如し、啻に帰りしことのみならず俘擄となりしことをも喜び、此等のことの為に神に感謝せざるべからず。此は播種にして其は収穫なり。種を播く者は労働の後果実を利用するが如く、爾等の俘擄となりし時は播種者の如く憂愁、労働、疲労、艱難を受け、不順の天気、戦争、雨露、寒気を忍耐して涙を流せり。雨は種子のために存するが如く、涙は労苦する者の為に存す。然れど視よ、預言者は言へり、彼等は此等の労働のために報賞を受けたりと。斯くの如く預言者が『泣きて種を携ふる者は歓びて其禾束を携へて帰らん』〔六節〕と言ひしは穀物のことにあらず、聴者をして苦難の中に憂悶せざるべきを勧めつゝ煩悶せざる如く、艱難に遇ふ者も縦ひ多くの悲むべきことに遇ふとも収穫を待ち苦難より生ずる結果を想像しつゝ煩悶すべからず。吾人は之を知りつゝ苦難の為にも安息の為にも主に感謝せん。縦ひ事情は異るとも凡ては同一にするも個々別々にするも播種と収穫との如く一の終結に向けらるゝなり、吾人も亦勇しく且つ感謝して艱難を忍耐し、讃美して安息を受けざるべからず、是れ吾人が光栄権柄の世々に帰する吾人の主イイスス ハリストスの恩寵と仁慈とを以て来世の福楽をも受くるに堪へん為なり。アミン。
第百二十五聖詠
- 登上の歌。
- 1 主がシオンの擄を返しし時、我等夢見るが如くなりき、
- 2 其時我等の口は楽にて盈ち、我等の舌は歌に満ちたり、其時諸民の中に云へるありき、主は彼等に大なる事を行へりと。
- 3 主は我等に大なる事を行へり、我等喜べり。
- 4 主よ、我等の擄を南方の流の如くに返し給へ。
- 5 涙を以て播く者は、喜を以て穫らん。
- 6 泣きて種を攜ふる者は歓びて其禾束を攜へて帰らん。
詩篇第126篇(文語訳旧約聖書)
- 京まうでの歌
- 1 ヱホバ、シオンの俘囚をかへしたまひし時 われらは夢みるもののごとくなりき
- 2 そのとき笑はわれらの口にみち歌はわれらの舌にみてり ヱホバかれらのために大なることを作たまへりといへる者もろもろの國のなかにありき
- 3 ヱホバわれらのために大なることをなしたまひたれば我儕はたのしめり
- 4 ヱホバよ願くはわれらの俘囚をみなみの川のごとくに歸したまへ
- 5 涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん
- 6 その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど禾束をたづさへ喜びてかへりきたらん