- 天に居る者よ、我目を挙げて爾を望む〔一節〕。
一。 爾は如何に囚擄の利益が到る処に顕れしを見るか。常に地に繋がれ、アッシリヤ人及びエギペト人を信用し、城壁と多くの財貨に依頼せし人々は、今や此等のものを離れて勝れぬ右手に趨り就き、此希望に向ひ、高尚なる思想を得、又地を棄て聖堂を奪はれて〈彼等の聖堂は破壊されたり〉終に天より神を招けり。神が天に在す者と名づけらるゝは場所を限られざるが為め、否萬有を覆ふに由るにあらず、乃ち神が特に人々の中にも住し、即ち『我彼等の中に居り、彼等の中に行かん』〔コリンフ後書六の十六〕と云へる如く、彼処の軍〈天使〉の中に住するに由りてなり。斯くの如くイウデヤ人は異種族の国に於て少なからぬ真理を学べり、即ち地より離るること及び彼等が神を呼ぶ時は神は何処に於ても速に注意することを会得せり。終に新生命の光線の顕れたるが故に預言者は場所を守ることに関する律法を漸々と及び暗に排斥しつゝ未来に関することを言ひ始む。
『視よ、僕の目主人の手を望み、婢の目主婦の手を望むが如く、我等の目は主我が神を望みて、其我等を憐むを俟つ』〔二節〕。視よ、爰に復びイウデヤ人の敬虔の如何に奮起せしかを、即ち彼等は唯暫時神に於ける希望を養ふのみならず、何時も希望に渡され、希望を以て固めらるゝなり。然ればイウデヤ人は比較を取りて僕婢が衣食及び凡ての給養を己の主人より受くる唯一の方法を有し、己の主人を視ることを止めずして受くるの時を待ち而して之を受くる時は恩を感ずる者となり、常に斯く行ふが如く、他の何人よりも自己に助力加勢を待たず、又他の何人にも目を向けざることを顕すなり。斯くの如く預言者が僕婢に就きて述ぶるは、イウデヤ人等が視て常に之を行ふこと、彼等が如何なる他の希望をも有せず、切に神の佑助を待つこと、之を不注意等閑にして聞ける者は、今や不幸に際して神より離るゝを欲せず、待ち務め及び彼に求め『其我等を憐むを待つ』程に如何に善良なる者となりしを。預言者は賞を與ふるは何れの時なるかとも云はず、或は報酬をなす何れの時かとも云はずして『憐むを待つ』といへり。然れば人よ、爾は受くると受けざるとに拘らず常に前進せよ、受けずとも退く勿れ、然らば必ず受けん。若し嫠婦の退かざりしことにして残忍なる首長を慈善に傾けしならば〔ルカ福音十八の五〕爾は斯く速に神より退き、憂ひ悶え且つ弱りつゝ如何にして赦されんや。爾は下婢が如何に心を他に触れず、視線をも曲げずして主人より退かざりしを見るか。爾も亦斯く行へ、一なる神に従ひ且つ一切を棄てゝ神の数に在れ、然らば必ず益を以て己の為に願ひし所を受けん。
『主よ、我等を憐み、我等を憐み給へ、蓋我等は侮に饜き足れり。我等の霊は甚だ饜き足れり』〔三節〕。爾は傷害されたる霊を見るか。イウデヤ人等は憐によりて彼等を救はんことを願ふものにあらず又憐を受け得るによりて願ふにあらず、乃ちダニイルも『我等は全地の諸民よりも貶されたり』〔ダニイル書三の三十七〕といへる如く、イウデヤ人が大なる罰を受けたるによりて願ふなり。彼等も亦其祈祷の中に於て同じく言ふなり、曰く吾人は非常なる艱難を受け、生国と自由とを奪はれ、異種族の奴隷となり、軽蔑せられ、飢渇迫害によりて衰弱し、唾せられ、常に足もて蹂躙けられたり、之が為に吾人を赦し且つ憐み給へと。『特に我が霊は饜き足れり』とは何を意味するか。言ふ意は、吾人の霊は大なる艱難によりて衰弱せり。多くの人々は縦し、艱難に遭遇したれども、多く之を忍耐せり、然るに吾人は之をも奪はれたり、吾人は艱難の時に憂悶痛傷すと。彼等は賜はられたる特点を當然に利用せざりしが故に、神は常に為し給ふが如く反対なることを以て彼等を矯正せり。然れば神はアダムが地堂に在ることを利用せざりしにより、地堂より放逐して之を矯正し、其妻が夫と同等の尊貴より極悪人となりしにより、神は服従すべきことと従属すべきこととを命じて之を改善せり。斯くの如く己の生国に於て自由と安寧とを受けながら極悪人となり、放縦なる者となり、不節制者となれる此等のイウデヤ人をも、神は其に反対なることを以て矯正するなり。
イウデヤ人等は憐に願ひて神に『我等の霊は驕る者の辱と誇る者の侮とに甚だ饜き足れり』〔四節〕といへり。他の訳者は『我が霊は平安に生活する者の非難と傲慢者の軽蔑とに甚だ饜き足れり』〔シムマフ〕となし、第三の訳者は『自負者の誹謗』〔アキラ〕となし、第四の訳者は『最も平安に生活する者の侮』〔訳者不明〕となせり。彼等は皆同一の意味を言ひ顕すなり、即ち『我が霊は侮に饜き足れり』てふ言をもつて艱難を嘆くなり、然れど今訳者は他のことを言へり、即ち此等のことがイウデヤ人に向はんが為、彼等自ら吾人の遭遇せしことを経験せんが為、彼等の自負傲慢を謙遜ならしめん為なり。数々斯くの如く行はるることあり、神が常に驕れる者を謙遜にし、誇れる者を下すは彼等を亡滅に至る途より避けしめん為なり、否何ものも傲慢より悪しきはなし。誘惑艱難のあり、死すべき体の與へられ、多くの不幸の遣はされ、苦痛及び疾病のあるは、軽率にして自負驕傲に至る霊を固く抑制せん為なり、然れば愛すべき者よ、誘惑に遭遇すとも心を乱す勿れ、乃ち預言者の『我が爾の律を学ばん為に苦みしは我の為に善なり』〔聖詠百十八の七十一〕てふ言を記憶しつゝ、治療の為に不幸を受け、誘惑を當然に利用せよ、然らば吾人が皆光栄権柄の世々に帰する吾人の主イイスス ハリストスの恩寵と仁愛とを以て受くべき至と大なる平安を受けん。アミン。
第百二十二聖詠
- 登上の歌。
- 1 天に居る者よ、我目を挙げて爾を望む。
- 2 視よ、僕の目主人の手を望み、婢の目主婦の手を望むが如く、我等の目は主我が神を望みて、其我等を憐むを俟つ。
- 3 主よ、我等を憐み、我等を憐み給へ、蓋我等は侮に饜き足れり。
- 4 我等の霊は驕る者の辱と誇る者の侮とに饜き足れり。
詩篇第123篇(文語訳旧約聖書)
- 1 天にいますものよ我なんぢにむかひて目をあぐ
- 2 みよ僕その主の手に目をそそぎ 婢女その主母の手に目をそそぐがごとく われらはわが神ヱホバに目をそそぎて そのわれを憐みたまはんことをまつ
- 3 ねがはくはわれらを憐みたまヘ ヱホバよわれらを憐みたまへ そはわれらに軽侮はみちあふれぬ
- 4 おもひわづらひなきものの凌辱と たかぶるものの軽侮とはわれらの霊魂にみちあふれぬ