Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2020年

提供:Wikisource

2020年1月[編集]

トンプソン・チェーン・レファレンス・バイブル - ノート[編集]

反対もないので削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年1月22日 (水) 03:34 (UTC)[返信]

ヴォルフハルト・パネンベルクにおける「近代成立史」の問題 - ノート[編集]

あきらかに著作権の消尽していないものであるため。 Kzhr (トーク) 2020年1月23日 (木) 05:15 (UTC)[返信]

2006年の研究発表ですから削除は当然だと思います。--村田ラジオ (トーク) 2020年2月1日 (土) 12:58 (UTC)[返信]
削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年2月1日 (土) 14:23 (UTC)[返信]

2020年3月[編集]

外務省告示第25号 - ノート[編集]

2020年4月[編集]

ドチリイナ・キリシタン[編集]

〔校本 どちりなきりしたん 昭和41年1月31日発行、福井国語学グループ研究叢刊 第2. 発行福井国語学グループ 編者 小島幸枝。〕notesにこのように底本の記述がありますが、国会図書館デジタルコレクションを見てみると(本文は見る事ができませんが、目録のみ見ることができます)、目録の内容が『校本どちりなきりしたん』(1966年)の目録とはだいぶ異なっています。別の底本を用いて投稿されているように思われます。--村田ラジオ (トーク) 2020年4月23日 (木) 18:24 (UTC)[返信]
    • (コメント)『校本どちりな』はてもとにあるので見られますが、それ以前の問題として、どちりなは文語体で書かれたものでこのような口語体ではあり得ないので、おまえはだれだという感じがします。振り仮名も近代文学ではないのでこうはならないので、その校本たる『校本どちりな』が——実際、そもそもの目的としてキリシタン版どちりなを4本並記する以上のことはしない本です——このような本文を有するはずがあろうもないのです。
    • よくよく見てみれば、第一節の初版第一行目に、「その教え真実肝要である旨を聴聞する事は専らなればその謂われを汝よく聴くか否か?の謂われを聴聞する事肝要であるその御掟ての事を聞く事が出来るか?」とあって、中途半端に翻訳してあることが分かります。つまり、これは、いつもの正信方氏のずさんなテキストです。
    • では、原文の箇所は『校本どちりな』を引き写したものであるのかというと、漢字が勝手に宛ててあり、仮名遣いも変えてあるので、引き写しではありません(とはいえ、よく読むと、この校本が4本の本文を並列したものであるという構成をまったく理解できずに作った本文であることも分って、ありていにいえば、げっそりします)。いわゆる校訂権がテキストの整定の独自性において発生するとするならば、校本どちりなはそもそも校訂性が低い(小島氏の判断は極力除外されている)ので、校訂権を認めるにしても議論が分かれるところ、本件は正信方氏がずさんなテキストを作っているがゆえにその制約から逃れているように思われます。ということで、個人的には著作権侵害の文脈で論ずる必要はないと思います。 Kzhr (トーク) 2020年4月24日 (金) 10:19 (UTC)[返信]
青空文庫での校訂者の著作権に関する議論、校訂者の権利に関する報告(1997年)を参考にして考えてみました。「校訂は、高い専門性と高度な判断、大きな努力を要する作業である。それゆえ、校訂には著作権、もしくは著作権に準ずる権利があると想定するべきである。よって、岩波文庫版を底本とした『風姿花伝』の青空文庫収録は、校訂者の許可なしには行えない」とする見解に対して、「こうした「校訂-編集」行為一般に著作権を認めるとすれば、該当出版物を編集して刊行した出版社に独立の権利を認めることとなり、文化的な所産の利用という側面に強くブレーキがかかってしまうだろう。」という考え方があります。しかし私は少なくともウィキソースに於いては校訂者の著作権を重視することが適当であると思います。そこで『校本どちりな』についてですが、小島氏の判断は極力除外されている事によりその校訂性が低いとしても、校訂のためにどれだけの高度な知識と努力が払われているかは判断できないもののように思われます。投稿された『ドチリイナ・キリシタン』に底本の編者として小島氏の名が明示された上で、投稿者のずさんな現代語訳のような文章に改変されてしまったことによって、小島幸枝さんの権利と名誉が著しく傷つけらていると判断して私は著作権侵害を強く主張したいと思います。これには実際の投稿にほかの底本が使用されていても同様であると思います。--村田ラジオ (トーク) 2020年4月26日 (日) 03:52 (UTC)[返信]
  • (削除には賛成。ただし、校訂者に著作権を認めようという主張には反対。)
削除賛成の理由は単純です。底本通りの翻刻になっていないからです。これでは資料としての価値はありません。
次に、校訂者に著作権を認めようという主張に反対である理由について。
校訂者を著作権法によって保護せよ、と主張する人たちがいることは確かです。青空文庫はその典型です。しかし、それは青空文庫の独自見解です。世間一般として認められているかというとそうでもありません。また、市井の1団体にすぎない青空文庫の見解に権威性を見出す理由もありません。
我々 (青空文庫も含めて) は法律の素人です。素人の議論はしばしば誤っています。一例として、平成18年の著作権侵害厳罰化の議員立法をあげておきます。著作権違反に対する罰則の著しい強化は著作権法の専門家から見ると、あまりに議論が粗雑で問題があるのだそうです。若干詳しいことが山田奨治『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』(人文書院) に書かれていますので、興味があればそちらをお読みください。
私は、校訂という行為に創作性があるのかどうか調べたことがあります。結果は以下のように否定的でした。


(i)日本の著作権法で保護されているのは著作物であり、「思想または感情を創作的に表現したもの」(同法第2条) が著作物の要件の1つです。しかし、青空文庫の「校訂者の権利に関する報告」でも書かれているように、日本の著作権法は、校訂という行為を同法で保護すべきだとは明示していません。少なくとも、法律的には校訂者は著作権法によって保護されるものではありません。


(ii)法律の条文として明確に書かれていなくても、判例的に権利が確立するということはあり得ます (例えば、肖像権とかプライバシー権の類)。そこで、判例があるのか調べてみました。使った資料は、『コンメンタール 著作権法 第2版』(勁草書房、2015年) (この本は、著作権法の各条文と、そこで用いられている法律概念について専門家向けに解説したもので、合わせて多くの判例も引用しています)。しかし、校訂の創作性に関連した判例がみつかりません。おそらく、校訂の創作性を巡って争われた裁判は日本にはないと思われます。そもそも、校訂に創作性はないというのが共通認識なので、裁判にすらならないのではないでしょうか。


(iii)その他、著作権の実務者向けの、典型的な事例を解説した解説書を2、3読んでみましたが、校訂に関する議論は現れませんでした。やはり、(ii)と同様に、校訂に創作性はないというのが共通認識であるからのように思われます。


上記のような結果から、「校訂という行為には創作性がある、だから校訂者に著作権を与えるべき」というのは世間のごく少数の主張でしかないと私は判断しました。したがって、wikisouceにおいては校訂者の権利を著作権法によって保護すべき、という意見に反対します。
なお、誤解のなきよう個人見解を最後に述べておきます。私は、校訂者の権利保護は不要、と言っているのではありません。権利保護は必要だが、校訂という行為に創作性がない以上、著作権 (著作財産権) によってではなく別種の権利として主張されるべき (例えば、民法の財産権とかで) だと言っているのです。また、素人が自分たちの見解によって独自ルールを定めるのは不適当であり、判例や専門書の一般的見解に従うのが合理的である、というのが私の意見です。--HinokisOfRoma (トーク) 2020年4月26日 (日) 14:49 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。時間をかけて調べてくださったようで感謝します。とてもわかりやすい説明でした。削除提案の理由として著作権侵害を理由とするのは不適当であることは理解できましたので、この部分は撤回させていただきます。--村田ラジオ (トーク) 2020年4月29日 (水) 16:17 (UTC)[返信]
以前に校訂者の著作権について議論しましたので一応意見を述べさせていただきますと、校訂を経た版をもとに口語化を行ったとすると、元の版に著作性が認められる場合には問題になる可能性があると思われます。ただ、校訂者に著作権が認められるかどうかはご指摘の通り判例がないためはっきりしません。したがって、Wikisourceでは校訂を経た著作物の利用について青空文庫の事例をもとに注意を喚起しているものの、そのこと自体が削除の要件を満たすとまではいえないと思われます。口語化に関しては、利用者による翻訳が認められているため、問題はないと思われますが、それについての説明が必要かと思います。--CES1596 (トーク) 2020年4月26日 (日) 17:56 (UTC)[返信]


投稿された『ドチリイナ・キリシタン』についてですが、底本として『校本どちりなきりしたん』(編者 小島幸枝)が明示された上で投稿者が自由に語尾を「である」調に口語化したり解説めいたルビをふる事は許されるのでしょうか? また、表題の「どちりなきりしたん」を「ドチリイナ・キリシタン」と改変することは問題ないのでしょうか? また、投稿された記事の目録と「校本どちりな」の目録をくらべると章立てが異なり、ひとつの章がなくなり、最後に「校本どちりな」の目録にはない章が新たに二つ加えられていますが、他の底本を元にしているのではないかという疑義を生むのではないでしょうか? これらの疑義から当方は、引き続き削除を希望します。
それからこの機会に質問をさせていただきたいのですが、国会図書館デジタルコレクションに切支丹宗教文学という著作が収録されています。この著作の中に解説と共に『コンテンプツスムンヂ』と『信心録 ヒイデスの経』と『サントスの御作業』の三つの作品が収録されています。出版は1932年で、編著者の姉崎正治氏は1949年に亡くなっております。ヘルプ:パブリックドメインによる判定では投稿できないことになっています。たとえばこの場合『信心録 ヒイデスの経』の本文の箇所をのみ底本として翻刻することは許されるのでしょうか? どなたでもけっこうですので御教示いただけたら幸いです。--村田ラジオ (トーク) 2020年4月29日 (水) 16:17 (UTC)(誤字修正)--村田ラジオ (トーク) 2020年4月29日 (水) 16:27 (UTC)[返信]


ご指摘ありがとうございます。あるいは宮脇白夜氏訳「現代語訳ドチリイナ・キリシタン~キリシタンの教え~」など、他の文献も参考にされているのかもしれません。詳細を確認する必要があると思われます。ちなみに、註釈についてはヘルプ:註釈の追加に以下の原則が定められています。
  1. 註釈のないオリジナル版がすでにWikisourceに存在していること。
  2. ページタイトルに、注釈付きであることが明記されていること。
また、「切支丹宗教文学」についてですが、本文が編著者の校訂を経ている場合、著作権上の問題が生じる可能性はあると思われます。--CES1596 (トーク) 2020年4月29日 (水) 17:18 (UTC)[返信]
ご返答ありがとう御座います。参考にさせていただきます。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月1日 (金) 12:59 (UTC)[返信]
  • 正信方:取り違えの目録の所は修正して正しくしました。そのあと諸々の所は修正して正しくしました。そんなに僕の言葉替えが大変おかしいでしょうか?……カトリックは復活する立派な(ハルナック先生も!?)人有り無しで、一概には言えません。~~~リシャルト・コウルヘンヘルトのように高ぶった、浮っつ付いた高ぶった説明で、辛抱して下さり、如何も済みません。御免なさい。大変有り難う御座います。
  • あと「編集は極力控えてください」と書いてありました。申し訳御座いませんでした。最初の版に戻して下さり、大変御手労を御掛けしました。有り難うございます。余計なことを書いたことを辛抱して下さり、有り難う御座います。済みませんでした。宗教者は独善的だと言われること有り、傲慢を悪いこととしているので、御免なさい、済みませんでした。自分の独善も?は進んで認めます。アァメン。まさのぶかた 2020年5月7日 (木) 21:55 (UTC)
@正信方さん 、確認させていただきたいのですが、『ドチリイナ・キリシタン』は小島幸枝氏の著作のみを参照されたのでしょうか?それとも宮脇白夜氏の『現代語訳ドチリイナ・キリシタン』なども参考にされたのでしょうか?後者の場合、その旨を明記いただく必要があると思います。--CES1596 (トーク) 2020年5月8日 (金) 15:02 (UTC)[返信]
(コメント)正信方さんは現在管理者により一時的に投稿ブロックされており、また無期限投稿ブロックへ切り替えることが提案されているため、1週間以上回答できない可能性があることをコメントします(Wikisource:井戸端参照)。--Monaneko (トーク) 2020年5月8日 (金) 16:25 (UTC)[返信]
やりとりの必要があるようなのでブロック範囲からProject名前空間を外しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月9日 (土) 06:10 (UTC)[返信]
  • 正信方:『ドチリイナ・キリシタン』とは宮脇白夜氏の翻訳本には、ローマ字原文の赴き趣向、校訂版「どちりな・きりしたん」の小島幸枝さんのローマ字本、ローマ側翻訳本の言葉遣いの赴き趣向を翻訳でも保っていますので、敬意のために表題だけ、「どちりいな・きりしたん」としたのです。長崎版「どちりな・きりしたん」は日本語主意なので、ローマ字本のローマ側翻訳からは離れて居るので、それはをは採用しませんでした。~~余計な言葉を御辛抱して下さり、済みませんでした。如何(どう)も失礼なことは、御辛抱を有り難う御座いました。まさのぶかた 2020年5月10日 (日) 23:44 (UTC)
了解しました。--CES1596 (トーク) 2020年5月11日 (月) 16:54 (UTC)[返信]
村田ラジオです。正信方さんの上記の言葉、『校訂版「どちりな・きりしたん」の小島幸枝さんのローマ字本、ローマ側翻訳本の言葉遣いの赴き趣向を翻訳でも保っていますので、敬意のために表題だけ、「どちりいな・きりしたん」としたのです。』というのは正信方さんの詭弁だと思います。小島氏の校訂本を底本として明示しているのだから、表題は「どちりな・きりしたん」とするべきです。著作者や校訂者に敬意を払う人は表題を改変したりしません。正信方さんは明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認でも『植村正久と其の時代. 補遺 索引』の第一章の表題「切支丹制禁の高礼撤去と岩倉特命全權大使一行の米歐囘覧」を自分の好みに合う「明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認」と改変しています。それに、このヘッダには著作者の佐波亘氏の名前さえありません。正信方さんが著作者に敬意を払う人ではないことは明らかです。だまされてはいけません。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月14日 (木) 13:50 (UTC)[返信]

削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:17 (UTC)[返信]

記録までにこのページの一部をなす第一 キリシタンと云うは如何いう事かも削除済みです。 Kzhr (トーク) 2020年5月31日 (日) 12:36 (UTC)[返信]

プティジャンからジラールへ宛てた書簡[編集]

信者の子孫自ら名乗り出づ[編集]

  • 同じような主題で間違えの無い言葉を書きたいと思いますので、少々の間、制限が掛かって居りますので、少々の間ご辛抱ください。国会図書館のデジタルコレクションで書きたいとも思います。前の制限は3ヶ月の間制限が掛かって居りました。使い捨て?みたいなことはしたく無いので、少々の間ご辛抱ください。辛抱を有り難う御座います。106.130.56.119 2020年5月12日 (火) 23:35 (UTC)[返信]

2020年5月[編集]

明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認[編集]

  • ヘッダの記述がずさんでわかりにくいのですが、文章は『植村正久と其の時代』からの引用のようです。この著作の初版は1938年となっており、著者の佐波亘の没年は1958年ですから、ヘルプ:パブリックドメインの判定方法によるとウィキソースに投稿できないことになります。
  • またこの文章は一つの文章としてのまとまりがなく、投稿者が選別した抜粋となっており、Wikisource:収録方針#先例により除外されるものの「抜粋」に相当するもであると思います。従ってこの投稿文はウィキソースに収録する価値がないと考えます。
  • 以上の理由からこの投稿文の削除を希望します。検討をよろしくお願いします。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月9日 (土) 16:21 (UTC)[返信]
  • この本の『植村正久とその時代』はウィキペディアでは1938年ですが、『~~~-補遺 索引』復刻版の初版は裏ページに書かれている所によりますと、昭和十六年八月十日、初版発行、A.D.1941年です。復刻再版の版は昭和五十一年九月二十日復刻再版となっています。1967年の版ではありません。国会図書館の年代は何か解かりません。『国会図書館デジタルコレクション』は見た所、現今は、A.D.1954年の戦後のエンデルレ書店版まで有効で公開されて居(お)ります。まさのぶかた 2020年5月10日 (日) 23:36 (UTC)
  • それから、この記事は書き途中であり、全体的に自分の説明を入れたいと思いますので、文章としてまとまりのあるものと成りそうです。「抜粋」に当たることには成らない予定です。今現今は制限されて、書入れ出来ません。まさのぶかた 2020年5月10日 (日) 23:36 (UTC)
  • 「キリスト教(世界)」は「イエス・キリスト」に最も大事な重要な方に違反、罪して「新約聖書」にも罪を犯してキリスト教世界は何しろ罪が重くて、「定、伴天連追放令」(も修正訂正しようとしましたが、何故(なにゆえ)か制限ブロックが入って仕舞いました?激発的な怒りは罪を犯すことがある、というか激発的な怒り自体が罪を犯して居ると)を先に書きました。「高札撤去」は何しろ頁数があるので、容易に書き入れ出来ません。「高札撤去」はルビも全体的に入れて、説明も[ぎょうせいとうきょく]とか(天皇の下(もと)に命ぜられた、最高政治行政当局者官)とか全体的に修正も訂正もして入れようとして居(お)りますが?まさのぶかた 2020年5月11日 (月) 00:20 (UTC)
  • 「1925年一月一日以降のものは現時点では投稿できません」その現時点とは1996年時点でのことでは無いでしょうか?1996年から現今は、計24年経(た)って居(お)りますが?『1925年一月一日(1996年)以前迄』は現今2020年では『1949年一月一日以前迄』では無いでしょうか。だから国会図書館のデジタル…戦後のエンデルレ書店…はA.D.1954年迄なのでは無いでしょうか。まさのぶかた 2020年5月11日 (月) 01:17 (UTC)--(議論の経過を正信方さんがかってに削除したので回復しました。議論の経過は残しておくべきだと思います。発言を撤回したい場合は<strike>と</strike>を使用してください。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月12日 (火) 20:06 (UTC)[返信]
      • 村田ラジオです。わかりました。あなたの言うとり『植村正久と其の時代. 補遺 索引』の初版発行は昭和十六年八月十日、1941年であるとしましょう。国立国会図書館の記述が誤っている可能性もありえますからね。人間のすることですから。そこで、この著作が1941年の発行であったとしてもヘルプ:パブリックドメインに「1925年一月一日以降のものは現時点では投稿できません」とあるように著者の佐波亘の没年が1958年ですから投稿することはできないのです。ここに書かれている現時点というのはヘルプ:パブリックドメインが作成された2015年から今現在2020年に至るまでの現在という意味です。文字通りの意味です。従って米国法の著作権によってパブリックドメインになっていないので投稿できないのです。私の理解するところでは、1941年に95年をたすと2036年ですから、2037年になるまでは投稿できないという事ではないでしょうか。ヘルプ:パブリックドメインの表の部分をよく読んでください。それから、たとえ仮に国立国会図書館デジタルコレクションに公開されていたとしても、ウィキソースは米国にサーバーを持っているために、投稿できるとは限りません。日本法と米国法の両方をクリアする必要があるからです。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月11日 (月) 13:38 (UTC)[返信]
  • あぁそういうことになりますか?解かりました。そうです、簡易版の上に書いてありました。確認(アーメン:確かにと)する。下げますのでお時間を下さい。(金曜日)迄投稿できない事に成っていますので。それか勝手に下げても良いですよ!!日本基督公>会<条例のように間違いがネットに散らばらなければ?日本基督公>会<条例は間違って居(お)りました。私が知ら無い内に勝手に~~とダビデも言って居りました。正しい事を守りたい者ですから。まさのぶかた 2020年5月11日 (月) 14:51 (UTC)
  • あと「黙認」とするところは、『黙許』とする方が善いのでは無いでしょうか?明治政府はも(幕府政府と同じように)キリスト教の『教義を「認」めていません。「黙認」の「認」では無いクリスチャンの境遇とかも知ら無いかも知れません(冒瀆出来無い:それするとモルタルの致命的な罪?死ののちは本当は知ら無いと言うのはカトリックも?だからキリストが身を殺してもその後何も出来無いと言った?:この世において生命を見出すことも在るが悪い女や境遇が茨のように塞(ふさ)ぐ事がある)聖霊のキリスト信者に対する顕わし顕われなんかも?』、『キリスト教(長崎の諸外国からの政府非難されているカトリックも外国人のプロテスタントも)の信仰する自由勝手の黙許』と宣教の布教を赦しただけなので信仰の内容の信条までは『認めて居無い』と言うかも『理解もして居無い』という所が本当では無いでしょうか?
  • あと『隠れ』(教会に帰って来ては居ない、それでもルターみたく無い…)も『潜伏』もキリシタンは『教皇さま』に「ルターみたく」叛逆も改革もしようとはして居無いというかその少しも『ルター、福音主義的信仰とは宗教改革者に顕著な全的堕落、信仰のみ(Sola,Fide):恩寵と人性趣向は少しも関係が無いと云うの(:自分はもツヴィングリの剣は全く使えられ無い信じられ無くは無いが。自分が全くはプロテスタンティズムでも無いのは(王国会館も再洗礼派主義の宗教?)全的堕落の予定説を信じ無いからだと。しかしアルミニウス主義の神学では…福音信仰…??例えばその人の信仰のみを看てとか?惟々(ただゝゞ)恩寵のみに頼る、信仰であるとか?)恩寵のみ?(Sola,Gratia)~?』はも~~『殆(ほとん)ど心ではも全くそうでは無い』~~[と感ずる]ので、『「カトリックだった」へーそう?(と信者はも聞く)』と言う『教会の教義説明を素直(そっちょく:すなお)に受け入れて居れば善い』のであればそれ自体で幸せだということであると云うこという~~。
  • アサマシイ奴はカトリック・一切合切をすべて受け入れろとか?自身ではも三位一体は理解出来無いと神に祈って真心で告白しても、ヱホバに反対したろ。とかアリウス主義やアルミニウス…をマウリッツみたいにいっつもイジメたけれど一時的?時が来れば過ぎ去るとか。自分はが残るのは罪は犯して居無いから?神に裁かれて居るとか?それが究極の裁きで。僧職者みたいな。証人に反対は最後の審判はそれの答えで終わりで。C-T-ラッセルの証人「信者を惨(むご)く扱う際の聖霊冒瀆の神学でもこの世は過ぎ去り一時的」。それでも聖霊冒瀆とは何か一回のものでは無くって、繰り返し戒められても頑固に悔い改め無い習わしにしている者でも一時的で過ぎ去ることである。この世一般は調和して、同じように振舞うが?)が罪を犯すので罪はどうしようもないから放置する事に成って仕舞うのでは無いでしょうか?その人の個人の罪は聖霊冒瀆(聖・書・の真・理・はルター的一般万民僧職者階級(プロテスタント)みたいに聖・霊・に・於・て・三位一体地獄を信・じ・る・?と主・張・することとか。僧職者階級は復活し・無・い・と・「全世界を掌手にしても儲けるとも……」イエズス会の標語でもあるとか。二つの別々の違ったソースの聖書読みの、聖書に現にそう書いてあるとの証言が一致する合致すること。聖書が最終言葉通帳でありそれ以降に従わなかったら生きては居ても最善でも惰性でモルタル(致命的な)罪科(とが)は最終状況で。そこからその運命から逃れられ無いとか?(ザマザマ)知ったこっちゃ無いってと。予定って悪いことなので、従って恩寵は予定され無いこと。僧職者のラッセルを拒絶したように一時的だけで。社会一般通念のこの世一般の為にキリストは償罪(しょくざい)、贖(あがな)いをされたのは聖霊冒瀆迄(まで)しては居無いので?ルターの95箇条までを突出するのは何かおかしいとまで言ったんだ。それは古神学を認める教皇さまとか使徒的主義の背教を抑制する教会の歴史でもあるから。キリスト教会に内在して居た聖書全巻のヴァチカン写本1227号。コード・ナンバー『B』。Aはアレクサンドレイア写本、Cはヱフライム・シルス書き写本、Dはテオドール・べーズの(ベザ)写本。あとヘブライ語写本は、レニングラード写本(コーデックス)、アレッポ(写本)コーデックス、カライ派のペンタチューク・コーデックス?などがある。馬鹿な奴は『アレッポ・コーデックス』はどんな聖書か知ら無いと知りたくも無いと別にそれで居ても善いとか。ただ自身が馬鹿を見るだけでとかや新約聖書-信仰も無くしてルターの大文字のHERRや欽定訳(オーソライズド・ヴァージョン:キングジェームズ・ヴァージョン)の大文字のLORDも無いと。『』の大文字表現が嫌いだと。最悪なのは黙示録で、底無しの穴に悪魔は入れられるから。予定の罪悪に底無し。だから自由意志で信仰をする。善業は予定運命じゃ無い。何かカトリックやエホバに悪い意志動機で裏があって宗教を遣っているって?でもマザーテレサは『無私の心で善業をし続けなさい』と言い続けて居ること。コンチリサンにも惟々(ただゝゞ)重(おも)い重大(じゅうだい)な罪のために痛悔しますと言っていること。致命的なモルタル(罪)科をカトリックはも認めていること。サドカイ人の信経も魂は死ののちに何の意識も無い何も残ら無いこと。不滅だ?とってカルヴァンみたいに一言も言及して居無いこと。日キ教会でも痛悔して居るのであって、何か自分の為に偶像崇拝などの日本キリスト教会で>教団<では無かった?教会って普遍的な?明治時代に横浜バンド日基>教会<ってカトリックを意味するんだとか押し付けじゃ無いかな?と思ったが押し付けじゃ無かった喜んでいた。ノア兄弟は改革派でも「ヱホバ」で問題視だった。だから押し付け?かと思った。再洗礼派みたく「教会であっても中立を保つのがヱホバの理想的な象・徴・汚・し・ちゃったんだけれども[格好(かっこう)英語:フォーム?だけでも]理想的に現実に現したかった」んだって『自分がツヴィングリって?プロテ…が悪かった。と認めるのは聖書のヱホバの信者だから。象・徴・表・象・物・も認めるヱホバの宗教は具体的には実際には再洗礼派だったとあの時=悔いを残す懺悔(ざんげ)!!この世の中にも居て解から無いことも在り。唯(たゞ)売春はしたく無い惟(たゞ)教会って改革派って教会って中立という。淫行の教会って再洗礼派でもあるでしょ?天皇も院(淫)政批判って聞く聞こえて来る名声(きこえ)が善いのはアリマタヤのヨセフ!のはも天皇はも神ヤオヨロズの俗政治最高神だから=偉い神聖で偉く無きゃイケナイだろ仏教淫政は悪い!卑しい卑弥呼でも占いの観得無い神に仕えた?看得無いものは永遠だって??良心は本当は神道の神の天皇の上皇の仏教妥協淫政は現今はしてい無いがイケナイとか神聖な神道の俗政府政治最高神のオランダからの情報も議会認め赦しはカトリックでも偉いんじゃ無いのか高価な天皇は神聖だ神を敬い穢(けが)すなキリスト教もそうあるべきだと進言に偉い納言(なごん)が耳打(みゝう)ちする歴史的天皇も独裁が御嫌(おきら)いで耳を傾けるとか実際には弱い天皇それ帥升(そっしょう)系の天皇はお強かったから大臣だけでも議会を作って?政治をすれば善いじゃ無いか?衆議院も宥(ゆる)せば善かったが?伊藤の政友会も自由党系の悔いが残ること残る事?懺悔(ざんげ)したい教会はも懺悔があって本当に真面目に宗教に帰依して懺悔する者ですが。カトリックも教会も本当に懺悔して偉く聖書主義の儀式であっても儀礼であっても懺悔無しは本当に悪い、儀式であっても儀礼であっても教会の懺悔(ざんげ)はしたいが。それ自身の真心で信(真)心告白で!!ルターは何でこんな事にして呉れたと思うよ』。日本キ教会繋(つな)がりで、自分と同じような境遇の女の子が居た。新興宗教の統一教会で、プロテス…にもカトリックにも属さないって言って居たが?偶像崇拝はしてい無いと思うとか。アルミニウス主義も一回全的堕落に落ちている、それでもアルミニウスの福音信仰のプロテ...もカトリックの宗教の木の根元の堕罪後の善き自由意志の部分がある残っていると言うことの信条を信じている、神の慈愛に答える善い意志を視て、可能性を視て、そこから灰の中から神が呼び掛けて取り上げて呉れる下さる。それ位、その位。以上全て-まさのぶかた 2020年5月11日 (月) 02:42 (UTC)。--(議論の経過を正信方さんがかってに削除したので回復しました。発言を撤回したい場合は<strike>と</strike>を使用してください。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月12日 (火) 20:06 (UTC)[返信]
  • 上記のこの挿入は村田ラジオさんの偽証です。僕が勝手に削除したものでは無くって、村田ラジオさんが削除したものと推測します。機械のコンピューターの履歴を見れば解かります。事を大きくしたくは無いので黙って居りましたが、偽証は村田ラジオさんが初めっから信用出来無い人物だという事が初めのドチリナ…の目録からも解かりましょう。罪を三回、行なうとこの世、世間一般では罪を何時いっつ何時いっつも何回も々々も繰り返し行なっている事に成ります。それ正しい。このまま村田ラジオさんを放置して居れば甚大な被害が出ると思われますのは、『少しの事に忠実な人は大きなことにも忠実であり、少しの事に不義な人は大きなことにも不義です』とルカ伝(16章10節)に書いてある通りです。私は正直な方です。『嘘は正直な環境では正しい環境では大きくなります、と言うのは嘘は罪で悪魔が喜ぶからです。嘘の証拠にまた別の嘘を吐き、またその証拠にまたその嘘を証拠立てるために別の嘘を吐くと言ったようなことは、嘘が悪魔が大きくなり、甚大な被害では無いでしょうか?『時の政府統治機構が廃止されることや、良き適切なことが違反されること、これは私たちの意図でも意志でも無い』、と再洗礼派の杖者派の信条(福音書に於ける非暴力、No._42、第四段落目)でも言われて居ります。『村田ラジオ』さんの「称名」ではなく、履歴のコンピューターのコードを見て、半永久的に、そのコンピューターが壊れるまで、コンピューター・コードが有効です。誰が排斥するのが正しく、誰だか解かる、本名も住所も解かる遣り方では無いでしょうか?ただ個人情報は明かせられ無い所が在るが、コンピューターのコードは、そのコンピューターの持ち主であることは間違いが無いでしょう。また携帯から投稿されたものでもあれば、その携帯の履歴のコードからも本名などとか住所も解かるかも知れません。またコンピューター・コードは勝手に色々その都度変えられるものでは無く、或る一定ですから、一定のコードは有効です。-まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 06:21 (UTC)
      • 村田ラジオです。このウィキソースというプロジェクトは理念とルールによって構築されています。Wikisource:ウィキソースとは何かWikisource:収録方針Wikisource:著作権ヘルプ:パブリックドメインWikisource:スタイルガイドなどのルールです。そしてルールを学んで活動に参加していれば、おのずとその理念のあらましが理解されてくるものだと思います。正信方さん、あなたはこれらのルールをないがしろにして、自分の知識と考え、自分の信条を吐露するために、このウィキソースを利用しています。自分中心的であり、知識自慢と信条の誇示が強く、前面にあらわれていて、ウィキソースの目的から逸脱しています。
      • それから、あなたの投稿態度は非常に不誠実です。この「明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認」という投稿文のヘッダの書き方にもそれが現れています。まず、ヘッダの作者の欄に著作名を書き込んでいます。それから著作の作者である佐波亘の名前がありません。出版年度の欄に高札撤去の太政官布告の明治6年と書き込んでいて、自分にとって都合のよい情報だけを書きこんでいます。この著作に「明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認」という章があるかと言えば、そのような見出しの章はありません。「切支丹制禁の高礼撤去と岩倉特命全權大使一行の米歐囘覧」という章の見出しがあるだけです。要するにあなたは章の見出しを改変して自分に都合のよい「明治政府による高札撤去と信仰の自由の黙認」という見出しに改変しているわけです。これらの事にあなたの自分中心的な態度がよく表れているのです。ひとことで言えば、謙虚さの欠けた、傲慢な態度ということです。私はあなたがこのままウィキソースで活動することは無理だと思うのです。
  • 解かりました。懺悔します。儀式であっても儀礼であっても懺悔したいです。教会の懺悔も米津玄師の「レモン」の教会も心からの内容から懺悔が出たものだと思います。カトリックのそうした懺悔は正しい?それ以上は書けませんが、控えて置きます。自己中心的な傲慢な態度は謝り削除しておきます。一言申し上げれば、「黙認」とは書かずに、「黙許」と書いた筈(はず)でしたが?如何(どう)でも善い事柄でしたが?「切支丹制禁の高札撤去と……米歐囘覧」はその通りです。まさのぶかた 2020年5月11日 (月) 15:36 (UTC)
  • 発言が許されるならそれで善いです。削除されても文句も言わないのは証拠の方法も立証の仕方も解ら無い立証出来たとしてもそこだけの話であとは非情に削除して遣られて、単に無視されている抗議となってしまうからで、キリストみたいに裁きをする方に終始ご自身を委ねた、と書いてあることにのみ辛抱するしか無いからです。誰も裁かない場合は最終的に神が裁く、ヱホバの証人とホロコーストみたいにブラックリストみたいにゲヘナで滅びているのは、自身の行ないが遺伝のアダム罪ではなく故意的に遣って、(故意の嘘もアダムの遺伝の罪ではありません。不滅の罪とは恐ろしい?)悪いとも思わずに痛悔もし無いからです。それ誰も裁きにも関与しないし、何か言う(何か神に馬鹿抗議も?冒瀆は全体のことを神は知っておられるから)のは聖霊に抵抗することになって仕舞うので。106.130.56.119 2020年5月13日 (水) 02:05 (UTC)[返信]
  • 計3回、村田ラジオさんは論議を削除と、ドチリナキリシタンの目録を見たとかそう言う、嘘みたいなことを言って居(お)られますが、神に告白自白して赦して貰おうとしても、あの時嘘を吐(つ)いたろ!とか(:私審判と言うのかも知れないが?)神に現体制からも裁かれる運命なのは仰有(おっしゃ)っていることが、それ現体制でも聖霊冒瀆的な者が赦されないのは悪いとも思わず懺悔もせず、神がちゃんと視ているからでは無いでしょうか。飽くまでも悔い改めず自分の主張(1回、目録を見たここと、勝手に正信方が削除したと言うこと、の2回取り下げ、削除しないと言うのは、)を取り下げないのは予定では無くって自身が絶滅かも知れないよ、普通はハデスに行くんだが唯々(ただゝゞ)憐れみで、神が絶滅の死の灰の中(ハデスもゲヘナも意識が無い)から贖って取り上げてくださるので。神の方に復活させる責務がある訳でも無い。しかるべき時に神が裁き、正すと信じています。自らの運命でも答えが解りただ絶滅、と言うことにもなりましょう。地獄ではも無くって。アデルファイン派も尊敬されていました。予定説と不滅性の生命の地獄は調和していて。地獄は神を辱(はずか)しめる、絶滅は神を聖なる者にする。「絶滅説」ウィキペディアでもあるよ。
  • あと神に赦されては居ても興味が無いとか言われてしまうのはアリスさんみたいに趣向がない人性で神の自覚が無いからなんでは無いでしょうか。それ位でしょうか、その位。106.130.56.119 2020年5月12日 (火) 23:34 (UTC)[返信]
      • 村田ラジオです。だいぶ、お怒りが有るようなので、お互いのために一応反論も、しておくべきかなと思いました。僕は自分が誠実な人間だなどと言うつもりはありませんが、少なくとも、ここでの議論は誠実に、かつ冷静にして来たつもりです。そこで、『校本 どちりなきりしたん』の目録ですが、[1] ここにあります。それから、あなたが議論の過程にあった自分の発言を削除した記録は

2020年5月11日 (月) 21:39時点における正信方 (トーク | 投稿記録)による版 ここに記録されています。たぶん、感情が高ぶっていて、忘れてしまったのでしょう。少しでも怒りを鎮めることに役立てばと思い、ここに挙げておきます。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月13日 (水) 07:31 (UTC)[返信]

  • 冗談の話しには乗れません。私の技術では、履歴とかそういうものが解かりません。如何(どう)出すのかも?それで、そう言う事は許して忘れるようにして居ります。ものみの塔で、正しいことを守る、間違いは間違いだと言うような事がされてはいますが?罪の報いは死ぬことで、地獄では無いことも。だから実際には罪を犯し過ぎると死ぬこと(致命的科モルタルとがとも?)に成って来ることです。聖霊を狙って冒瀆しようとすることも。聖霊冒瀆は神から見て、現体制でも赦されません。来るべき体制でも状況は同じです。自分が書いたものを敢えて消すことがあるでしょうか?誰でも一人を聖霊の故に否認すると誰でも同じに成って来ます。聖霊せいれいゆえでは誰でもあれはいや聖霊せいれいだ!となると、誰でも聖霊せいれいの故に否認ひにんしたくなります。だれでも聖霊せいれいゆえ一人ひとりあやめるとだれでもおなじになります。聖霊否認の理由はあるかも知れませんが。自分がまたあなたが偽証または聖霊否認の罪を犯して居ることは神の御前でも証明できますか?警察でも。神の御前では前科者で警察の前では偽証罪を偽証犯罪を行なうと書類送検で逮捕かです。一生前科者です。神の御前でも。犯罪すると逮捕は、それはどの国でも同じです。世界中の国に政府がありますから。偽証してでも警察に捕まりたいですか?神の御前で神に帰れなくなりその怒りを買って死ぬかまたは政府記録の一生前科者です。その為にローマ13章で俗権が規定されています。気違いの父の宗教は知りません、それ気違いでなければワザとかと迫っても知らない振りです。神が嘘つきは裁かれますので!悪魔が最初の嘘を吐いたので、現体制に成りました。嘘を吐き続ける者は悪魔の種です。悪魔の子孫ですが?悪魔自身は絶滅します。人間の子孫は早い所は死にます。悪魔自身が現今1914年頃から天の下に落とされエジプトのファラオみたいに存在が許されているのは、悪魔自身を用いて神の力を示すことです。悪魔を絶滅させて、神の正しさを示すことです。地獄ではありません、地獄は神を辱めますが。絶滅は神を神聖にします。そこは正しいです。罪を犯し続けると第二の死(永久の絶滅)に至る罪となりますが?それ位です、その位。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 09:44 (UTC)
      • 村田ラジオです。理解していただけなかったのが、残念です。履歴の見方は難しくないので、説明します。「Wikisource:削除依頼」の表題のその上に「議論」だとか「閲覧」、「編集」、「履歴表示」のタブが並んでいますね。その右端の「履歴表示」をクリックすると、編集された履歴の「日付と時間」がずらりと並んでいます。右側のスライダーを動かして、一番下まで移動します。そこにある「以前の50件」をクリックしてもよいのですが、何回もクリックしなければ出てこないので、その右の「250」の所をクリックします。そして「2020年5月11日 (月) 21:39」という時間を探してください。あるはずです。そこをクリックすれば、目的の履歴を見ることができます。めんどくさがらずに、お願いします。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月13日 (水) 09:13 (UTC)[返信]
  • 教えて頂き有り難う御座います。その節は、座談相談の所で、ものみの塔を擁護しましたが、他意は無かったので、信仰を擁護、勧めたい、戻って来て貰いたいとの他意はなかったので、その節は失礼もしました。罪もあり、死ねばなど罪でした?死ぬことは人はだれでも死ぬことは望まないので、自分も。誰も死ぬことは望まないので、誤解されませんように。私を含めて誰も死ぬことは望まないので、誤解はご容赦をくださいませ。間違いでした。人には間違いもあります。間違いはご容赦をお願いします。誰も離れることも望まないので、誤解して下さいませんように。誰も離れて、死ぬことを望みません。会衆から。会衆の集会から誰も離れることを望みません。そこを誤解されませんように。間違いは謝りますので。御免なさい。如何(どう)も済みませんでした。誰も離れることを望みませんでした。死ぬことも。その節は失礼しました。間違いは謝ります。済みません。済みません。御免なさい。離れませんように。それだけを願っています。会衆から離れませんように。御免なさい。それ位です、その位。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 10:45 (UTC)

削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:15 (UTC)[返信]

定:伴天連追放令[編集]

  • 著者の「三木露風」に問題がありました。没年と、著作年ですね。1996年かと思って居ましたので。2020年で、1925年なんですね。ウィキペディアでも本文があるので、今の箇所は取り下げて、永久投稿禁止に成ら無ければ、(金曜日)以降に、「定、伴天連追放令:本文」の資料としての「ウィキペディア」の本文を上げて、変えて置きたいと思います。——以上の署名の無いコメントは、正信方トーク履歴)さんによるものです。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 04:42 (UTC)責任の為一応。ヒョット忘れていました。まさのぶかた。[返信]
  • この投稿文は上記、正信方さんが述べておられるように、『日本カトリック教史』(三木露風著、第一書房、1929年発行)からの引用です。三木露風氏の没年は1964年となっていますから、ヘルプ:パブリックドメインによる判定方法によると投稿できないことになります。パブリックドメインと判定することに疑義が生じるので、削除が適当ではないかと思います。検討をお願いいたします。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月12日 (火) 19:02 (UTC)[返信]
    • (削除)依頼者票。出典が三木露風氏の『日本カトリック教史』であるのかどうか、実際のところ、よくわかりません。ウィキペディアのw:バテレン追放令の『吉利支丹伴天連追放令』原文と見くらべてみると、あちこちが異なっており、内容はひどいものです。w:バテレン追放令の最後の条文の「佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」の部分が「商人之儀不及申 何れにてもキリシタン国より往還善からず候条 可成御意事」となっていて、逆の意味になっています。全く誤っており削除が相当であると思います。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月23日 (土) 13:40 (UTC)[返信]

真実性に欠ける文書ということで削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:06 (UTC)[返信]

天正少年遣欧使節のローマ教皇さまへの献呈口上[編集]

  • 「三木露風」著作文なので、取り下げて置きます。それ以前でも、勝手に取り下げていいです。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 11:48 (UTC)ヒョット忘れていました。
  • ここに国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/1169257のコマ-108、p,198頁。にちょっとした訳文がありますが。1949年、という事が問題なんでしょうね。そこも取り上げられ無いと。解かりました。考えは他にもありましたが、、……辞めて置きますので、そう言う事で。——以上の署名の無いコメントは、正信方トーク履歴)さんによるものです。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 04:43 (UTC)責任の為一応。[返信]
  • この投稿文はヘッダのみが作成されていて、本文は作成されていませんが、上記正信方さんが述べておられるように、『日本カトリック教史』(三木露風著、第一書房、1929年発行)から引用して本文を作成する意図があったようです。投稿者本人がここに取りあげて削除に同意しているので、削除が適当であると思います。検討をお願いします。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月12日 (火) 19:25 (UTC)[返信]
  • 患難もこの世も一時的で過ぎ去ると言われて居ります。しかし「小学校の時の不滅の罪科インモータルとがは最(も)う解かったよ知ったこっちゃ無い、一言ひとことも言及し無いのは魂の不滅性ふめつせいなんかは知ったこっちゃ無いんだよとか!」が過ぎ去らないのはどうしてでしょうか?絶対にユージ君は正しいんだって?そんなことをここで聴いてもしょうがありませんが。まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 04:49 (UTC)
  • 村田ラジオさんが推測していることは正しいですが、如何して書いても居無いことにも口をはさむことが出来るのでしょうか?それは村田ラジオさんが推測することは真実ですが?それは僕の云いたい事で、村田ラジオさんが介入することは如何どうして出来るのでしょうか?村田ラジオさんは自分の云うことで嘘を割りと云うのに甘いのだが、僕の投稿することを予測迄して、そんなに厳しく成れるのか不思議です。自分の遣っていることは、以下の言葉です、~~『すべての人は、聞くことに速く、語ることに遅く、憤ることに遅くあるべきです』。(ヤコブ1:19)まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 06:14 (UTC)
  • だから「w:伴天連追放令」もウィキペディアから出して置く、と言う言葉も無視して削除に賛成とは如何してそのような非情ひじょうなことが出来るのでしょうか?まさのぶかた 2020年5月13日 (水) 06:09 (UTC)

削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:05 (UTC)[返信]

吉利支丹・カトリックの聖書に関係する諸教理と禁教時から信仰自由時代に於ける聖書研究の諸声明と諸説明 - ノート[編集]

名前空間としても問題がありますが、移したとしてもカテゴリとして恣意的にすぎ、有用性がありません。削除すべきではないかと思います。 Kzhr (トーク) 2020年5月21日 (木) 04:35 (UTC)[返信]

  • (削除票)一連の投稿から見て正信方氏による、可変IPの投稿であることは明らかです。無期限ブロック者のブロック破りによる投稿ですから、WS:CSD#全ての名前空間3に該当し、管理者の権限で削除できるケースであると思いますが、kzhrさんは承知の上で、意見を聞くためにここに挙げておられるものと思います。そこで私の意見ですが、このページは分類のための文献選択ページですから、簡潔で明快な分類が求められていると思います。このページの表題は長々しく、かつ主観的な意味合いを強くにじませており、利用者、読者の利便性に反するばかりでなく、表題の文言が独自研究的であるために、日本語版ウィキソースの品位を低下させる種類の表題となっていると考えます。「キリシタン・ローマカトリック教会関連文献」の分類があれば事足りるので、このような場違いな感すら与えるような分類ページは削除するべきだと思います。--村田ラジオ (トーク) 2020年5月21日 (木) 15:42 (UTC)--(下線部を追記)--村田ラジオ (トーク) 2020年5月21日 (木) 16:14 (UTC)[返信]

"聖書に関係"も"聖書研究"もは取り下げたいと思います。"吉利支丹・カトリックの諸教理と"...等に戻したいと思います。編集が出来れば...と思いますが?どうでしょうか?それ位、その位。106.130.56.164 2020年5月30日 (土) 02:26 (UTC)[返信]

ご自身の好きにできるウィキサイト(アットウィキなど)をご利用ください。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:01 (UTC)[返信]

削除しました。 Kzhr (トーク) 2020年5月30日 (土) 06:04 (UTC)[返信]

2020年7月[編集]

二百二十日Page:Nihyaku-hatsuka.pdf/1[編集]

2020年10月[編集]

アウクスブルク信仰告白 - ノート[編集]

日本基督教協議会文書事業部によって1955年に発表された翻訳物を底本としており、日本法ではPDだが、米国法では訳者の著作権が存続中のため。--ブルク警察 (トーク) 2020年10月7日 (水) 07:06 (UTC)[返信]

使徒信条 - ノート[編集]

日本基督教協議会文書事業部によって1955-57年に発表された翻訳物の復刻刊を底本としており、日本法ではPDだが、米国法では訳者の著作権が存続中のため。--ブルク警察 (トーク) 2020年10月7日 (水) 07:06 (UTC)[返信]

剣についてのサブページ群 - ノート[編集]

Plough Publishing Houseで公開されている英訳が底本とみられ、訳者の著作権が存続中のため。親ページはWikisource:管理者伝言板#全削除・版指定削除依頼にて全削除済み。--ブルク警察 (トーク) 2020年10月9日 (金) 08:10 (UTC)[返信]

2020年12月[編集]

吾妻鏡 - ノート[編集]

[2]のコピーアンドペースト。事実の列記とも考えられるいっぽう,年表の著作権はひろく認められており,すくなくともPD-Oldではない。 Kzhr (トーク) 2020年12月31日 (木) 01:21 (UTC)[返信]

内容の一致を確認しました。同意します。--CES1596 (トーク) 2020年12月31日 (木) 02:22 (UTC)[返信]