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  • 字に変換しているが、「毘」は底本のまま「毗」とする。   川中島合戦弁論 川中島合戦弁川中島年月考前の川中島合戦証文弘治二年三月廿五日の夜川中島合戦の証文後の川中島合戦の次第   【 NDLJP:246】   川中島合戦弁論     川中島合戦弁   有㆘客叩㆓吾鶏肋斎扉㆒来訊㆖焉。時十月幾〔既カ…
    665バイト (13,082 語) - 2023年11月26日 (日) 20:18
  • 大正五年 1916年 『上杉輝虎注進状』(うえすぎてるとらちゅうしんじょう)は、越後国の戦国大名 上杉謙信から大舘伊予守宛てで室町幕府将軍足利義輝に川中島合戦の次第を急ぎ上申した文書だが、後世の作とも言われる。 底本: 黒川真道 編『越後史集』天,越後史集刊行会,大正5.…
    723バイト (3,717 語) - 2023年11月26日 (日) 18:53
  •   北越耆談 信州川中島合戦聞書并上杉家遺老談筆記   【 NDLJP:137】   北越耆談     信州川中島合戦聞書并上杉家遺老談筆記   一、川中島五箇度の合戦の内、終の永禄四年九月十日の事は、別巻に記すが如し。先づ初めは天文廿二年霜月廿八日、川中島
    577バイト (13,576 語) - 2023年11月26日 (日) 19:05
  • 川中島合戦に、信玄の味方討死の死骸の中に、一匁玉の鉄炮を持ちながら切伏せられたる者あり。其持ちたる鉄炮の筒、二の目当りの所を、三分二切放ちあり。甲州方見て、疑もなく、謙信の竹股兼光にて候。切りたる所見事なりと、沙汰せしなり。希代の大業物なり。景勝代に、京都へ遣し拵へ、直に
    768バイト (20,470 語) - 2023年11月26日 (日) 18:25
  • を落し、皆々引き給ふ。森庄蔵も、早々引取る。六月、景勝信州へ打出で、川中島四郡の支配となる。同七月、北条氏直、五万五千の勢にて、信州へ打出で、奥〔真カ〕田安房守を旗下になし、川中島仕置を申され帰陣なり。其時景勝、五千の勢にて、川中島・雨宮渡を隔て、別手、一手の丸備を作り、北条を物の数とも【…
    3キロバイト (18,944 語) - 2024年3月24日 (日) 14:42
  • 田三楽憲政を押立て小田原表発向の事輝虎群臣と軍評定の事信州川中島合戦の事甘糟越後勢引取り帰国の事川中島味方備図の事   春日山日記 巻之六 川中島合戦以後再び一戦を遂くべき由謙信より信玄へ使者并信玄許容なく帰国の事川中島合戦評判色々の事川中島合戦に於て敵の首切捨と兼て謙信定置るゝ事和田喜兵衛自害に付…
    3キロバイト (30,964 語) - 2024年3月24日 (日) 13:39
  • 下(げ)車(しや)する驛(えき)は稻(いな)荷(り)山(やま) 次(つぎ)は篠(しのゝ)井(ゐ)停車(ていしや)塲(じよう) 信越線(しんゑつせん)の連絡點(れんらくてん) 川中島(かはなかじま)や善(ぜん)光(くわう)寺(じ) 巡(めぐ)る名(な)どころ數(かず)盡(つ)きて 又立歸(またたちかへ)る鹽尻(しほじり)の…
    22キロバイト (4,031 語) - 2022年10月23日 (日) 12:29
  • 、信長と謙信と、有無の合戦有べしと定らるゝに付其年十月、帰陣ありて、頓て謙信領分越後佐渡の事は申に及ばず飛弾、越中、加賀、能【 NDLJP:243】、東上州、或は庄内までも八ケ国中へ陣ふれに来年寅の三月十五日には越後を打ち立、都を心がけての出陣なり、但上野と庄内一郡半の内は半役にと定めらるゝ、か…
    297バイト (4,915 語) - 2024年2月2日 (金) 18:17
  • に信濃を攻取ったから、信濃の村上氏らは、越後に逃げて謙信に助けをたのんだ。 川中島の戦 謙信は、村上氏らのために、たびたび信濃に攻め入って、信玄と川中島で戦った。中でも、ある年の秋の戦に、謙信が、一万三千の兵を従へて川中島に陣を取っていると、信玄は、二万の大軍を率いてこれをはさみうちにしようとした…
    52キロバイト (16,129 語) - 2023年9月17日 (日) 12:48
  • 覚あり。是は委しき事承らず候。其子息は、本多内記殿に罷在り候。働の委細は、存ぜず候。 一、川中島合戦五度といふは、天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮にて合戦、是始めての合戦なり。天文廿三年八月十八日に、川中島にて一日の中、十八度の合戦、十一度は謙信の勝利、六度は信玄の勝利なり。犀川を信玄旗本にて、…
    3キロバイト (116,548 語) - 2024年2月3日 (土) 18:43
  • め乗かへたる時合戦負に成たらば中間ども捨てにげつらんにそれが輝虎よわきとは一段無穿鑿なる申やうかなと長坂長閑をあしく仰らるゝは三年めにきこゆる輝虎川中島合戦の時和田喜兵衛一騎供仕り退候に越後へ着、馬よりおりると同時に喜兵衛を謙信手討に致されたるを信玄公きこしめしさては謙信ほどの侍もをくれては、ちと…
    297バイト (14,719 語) - 2024年2月2日 (金) 18:09
  • しと云ふ。道中筋にても、余程目立ちしと云へり。                                              亀山家中中島登が母抜参りせしに、【悲劇】道にて婦人の三つ計りの子を負ひて、始終後や先に歩みしが、此婦人負ひし子を取られて、狂女となりぬ。又夫婦連にて当歳の子を抱…
    85バイト (29,962 語) - 2024年3月24日 (日) 09:04
  • 、武者修行に来りたる青柳新六郎、互に馬上にて名のり合ひ、組んで落ちて首を取る。新六、廿八歳の時なり。信州川中島青柳譜代筋の士なり。然る故、頓て信州へ帰参、後に青柳隼人といふ。 附天正十年、川中島を景勝の手に入れらるゝ頃は、新六郎は死に、其子二人あり。兄を新六郎といひ、弟を主馬といふ。筋目故に夏目舎…
    283バイト (23,605 語) - 2023年12月2日 (土) 18:38
  • れども家康分国に、沼田の替地になるべき処なし。以来給ふべき儘、唯渡し候へと重ねて仰せらる。真田申す様、左候はゞ、川中島四郡御手に付かず、景勝近年知行仕候。是を連々切捕り申すべき儘、川中島を可㆑被㆑下と申す。然れ共其頃秀吉とも敵なれば、上方の大敵を引請けて、北国の敵対も無益なり。唯明け渡し、上田計知…
    3キロバイト (70,791 語) - 2024年2月3日 (土) 11:08
  • 顕すに依り、次第に立身仕る。此者、隠なき算勘の上手なり。景勝公御代、四人御領分、勘定奉行下次右衛門は庄内、川村彦左衛門は佐渡国、窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後〔国イ〕御旗本に罷在り。其様子御仕置の作法、〈口伝。〉御一武道の助なり。今度、最上へ直江相働く節、やち・寒川江両城を、左内より…
    248バイト (17,421 語) - 2023年12月2日 (土) 18:51
  • 定めらる。秀吉事、古今類なき果報明発の人なり。匹夫より揚して、天下を一統す。然るに、某に対し和睦は、工夫才智を以て、某へ疎意なき様子なるは、名将の謙信公の迹を嗣ぎ、北条三郎を討亡して、越後を治め、信州へ発向しては、小勢を以て氏直を追払ひ、川中島四郡、其外佐久・小県へも手を懸け切治め、或は会津領の所…
    283バイト (36,322 語) - 2023年12月2日 (土) 18:48
  • 一酉の年春秀頼様伏見より御参内なり其時は肥前殿秀頼さまを御いだき候て御車に御乗候ての御供なり 一景勝国替を被仰付会津々被遣候佐渡島川中島は会津へ付申候御意には景勝事当年より三年の間上洛其外諸役等御免可被成との御意なり然るに大閤様御他界の後御所様より景勝被罷出候様にと被仰遣候処返事に…
    296キロバイト (74,642 語) - 2024年5月11日 (土) 11:51
  • 。晴信は沈着で智謀に富み、屢〓兵を信濃に出して諸族を降したが、小笠原村上の諸氏は遁れて越後に走り、上杉氏に賴つた。謙信はこれを援けて信濃に出兵し、川中島に進出して信玄と雌雄を爭つたが、勝敗は遂に決しなかつた。その後信玄は北條氏と戰つて駿河遠江を侵し、更に西上を策して三河の松平氏を破つたが、遂に元龜…
    681キロバイト (152,736 語) - 2024年1月27日 (土) 18:08