北越耆談

 
信州川中島合戦聞書上杉家遺老談筆記
 
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北越耆談
 
 
信州川中島合戦聞書上杉家遺老談筆記
 

一、川中島五箇度の合戦の内、終の永禄四年九月十日の事は、別巻に記すが如し。先づ初めは天文廿二年霜月廿八日、川中島の下米宮あめのみや〔雨官イ〕合戦。是れ第一箇度なり。此年謙信、初めて上洛。是は去年天文廿一年五月に、弾正少弼従五位下に任ぜし御礼なり。閏二月、景虎上洛、参内仕候処、昇殿を免され、玉顔を拝し奉り、天盃を下され、広橋権中納言国光に仰付けられ、御饗応を下され、勾当内侍に宣下せられ、禁中諸殿残らず景虎拝見せられ、公方義藤公へも拝謁。同五月、景虎、越後へ帰国の処に、其秋、村上義清・高梨政頼を始め、信州衆、武田信玄に仕負け、越後へ落ち来り、謙信を恃む故に、此合戦始まる。十一月十九日より、景虎、信玄と対陣。廿七日まで、毎日迫合あり。廿七日に、景虎より使者を信玄に遣し、明日決定の合戦と約束して、廿八日に、下米宮にて大合戦あり。信玄敗軍。謙信大利を得て、信玄方横田源財・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・染田三郎左衛門・帯兼刑部を始め、五千余を討取る。即此旨を京都へ言上。大館伊予守晴忠披露にて、公方義藤公へ註進。是れ初めの川中島合戦なり。其翌年、天文廿三年八月十日頃より、謙信、川中島へ出張、信玄と対陣。去年の合戦に手創して、信玄、陣を堅くして取合はず。村上義清・高梨政頼へ、謙信密に下知して、小室平九郎・安藤八郎兵衛といふ足軽大将を、朝待の如くに伏せ置きて、草刈・偽引をかけて、甲州方を誘ひ出し、夫より両方人数を出し、大合戦になり、互に懸けつ返しつ、終日十七度の合戦。六度は信玄方の勝利、十一度は謙信の勝なり。信玄旗本を以て、犀川を綱越にして、萱野の中の細道を幾筋もあるを伝へ、旗・指物を伏せて、思ひ懸もなき越後勢の後へ押出で、謙信旗本へ、無二無三に切懸け、紺地日の丸大四半を目にかけ、切つて入るに付、謙信旗本敗軍。信玄旗本、勝に乗つて追ひ来るを、上杉方渡辺越中守翔、七百余にて乗越えて、信玄旗本へ鎗を入れ候。宇佐美駿河守定行三千にて、大塚村に備へ候が、是も信玄旗本へ横鎗入れ、立挟んで信玄旗本を、御幣川へ追込み候。謙信旗本盛返して、信玄旗本を追討にする時、オープンアクセス NDLJP:138御幣川の中にて、謙信と信玄と、直の太刀打。信玄手負ひて引退き給ふ。信玄舎弟武田左馬助信繁を、謙信手がけ、直取に討取り、遂に芝居をふまへる。謙信は、次の日十九日に引取り、信玄は十八日の夜、引取り給ふ。甲州方を討取る事、三千二百余なり。〈此時越後大将分高梨源五郎討死。〉

一、武田左馬助信繁を、村上義清討取るといふは虚説なり。謙信自身に、左馬助を討取り、犀川の岸涯にて、典厩を川へ切落されしを、越後方梅津宗三といふ兵、典厩の首を取れるなり。此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝へ有之、異名を赤小豆粥と号すと云々。右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は、第一度なり。此年天文廿三年八月十八日の川中島合戦は、第二度目なり。此時謙信は、太刀にて切懸るを、信玄は軍配団扇にて受けらるといふ説あり。信玄も太刀にて勝負ありしや、謙信太刀に、切込の痕あり。其時目のあたりに見たる甲州衆又は越後方の兵共も、皆信玄は太刀にてありしと語る。軍配団扇の説、疑はしく不審。此合戦に、謙信方も三千余討死。

一、第三度目の川中島合戦は弘治二年三月廿五日夜なり。信玄は一万二千の軍兵を、戸神山より廻して、謙信陣所西条山を攻めさせ、謙信は勝負に構はず、川中島へ懸り除く処を、信玄は、原の町にて待受け、討取るべしと工み給ふを、謙信察して引違へ、夜半に筑摩川を渡して、信玄旗本を懸破る。板垣駿河守信春・一条六郎忠光・小笠原若狭守長貞以下、数百人討取る。然る時甲州勢は、戸神山を夜陰に押すに、春霞立覆ひ、路に蹈迷ふ中に、川中島の鉄炮の音、鬨を聞き、取つて返し、川中島へ志し、筑摩川を越えて越後勢の前後より挟攻に付、謙信方、犀川の方へ引退く。信玄方追ひ来るを、上杉家の車返といふてだてにて、信玄衆を引包んで、信玄方布施大和守・川田伊賀守を始め、剛兵数百人討取る故、信玄方引取る。謙信も、夜前廿五日の夜より、今日廿六日午の刻迄の合戦に、人数疲るゝ故、犀川を渡して引取る。

一、第四度目の川中島合戦は、弘治三年八月なり。信玄と謙信と十日余対陣。謙信頻に合戦を望めども、信玄取合はず。同月廿六日に、上野原へ、信玄引取り給ふを、謙信追詰め合戦。初めの合戦には、謙信先手打負け、皆敗軍するを、斎藤下野守朝信そなへに受止め、信玄方を喰止むる処へ、上杉方南雲治郎左衛門手勢にて横鎗を入るゝ処へ、越後方二の先長尾政景、三千にて懸付け、信玄先手を切崩す処を、宇佐美駿河守定行二千にて、山手より、信玄旗本を突崩す。是により信玄総敗軍なり。

オープンアクセス NDLJP:139 一、第五度終の川中島合戦は、永禄四年九月十日。此次第は、別巻に註する故之を略す。総じて近年、世上にて車懸といふ行を、川中島合戦に、謙信用ひ給ひ、幾廻目にて、旗本と敵の旗本と、打合するてだてなりといふ。是は当家上杉方にて、遂に聞かざる事なり。尤も家の法に、車懸といふそなへの懸りやうあり。是は敵が戦地に先立ちて隊を立固め、此方は行懸に押懸けつゝ、隊を立てんとする処を、敵は待受けて、此方備を立つる変を打たんと工む節に、此方の懸け様車懸といふ行にて懸れば、其功にて、備を立つる変を、敵が打たんと懸るが、却つて此方の大利になりて、遂に勝利を得る秘術なり。されども五度の川中島合戦に、謙信、右の車懸をせられたる事なし。但第三度目弘治二年三月廿六日、川中島合戦の除口のきぐちに、謙信車返といふ行にて、信玄方を引包み討取り、軍に勝ちたる事を聞誤りていひ伝ふか。

一、川中島合戦除口に、和田喜兵衛といふ侍を、謙信手討にせられたりといふ事、遂に当家にて聞かざることなり。和田を手打にせられたるは、上州高崎城下にての事なり。高崎は、昔は和田城といふなり。

一、納の川中島合戦に、謙信打勝ちて、信玄を追崩し、追討に、先手を土口とぐち・下米宮辺まで遣し、謙信は、川中島原の町に休み居て、兵糧をつかひ油断の処へ、信玄の嫡子武田太郎義信、八百余にて腰差を取隠し、旗幟を伏せて、物蔭より不意に仕懸けらるゝに付、謙信旗本敗軍。家老の志田源四郎義時・大川駿河守討死。其外数十人討取られ、謙信も、当家の重宝五挺鎗の内、第三番目の鍔鎗を、自身取つて防戦せらるゝ処へ、本庄越前守繁長・長尾遠江守藤景、二そなへにて懸付け、武田義信陣へ、切つて懸る。併る処へ、色部修理亮長実・宇佐美駿河守定行、両手にて鎗を入れ、義信を突崩す。謙信旗本も盛返し、義信を、広瀬といふ処まで追討にせらるゝ。此時武田義信の手柄、比類なき事なり。是を甲陽軍鑑の作者知らざるか、記し置かず。若武者の義信に逢ひて不覚を取る、一代の越度なりと、後々まで、無念に口惜がり申されつる由。

一、右に記す第二度目、天文廿三年八月十八日の川中島合戦の時は、謙信と信玄と太刀打なり。第五度目、永禄四年九月十日の川中島合戦の時は、信玄と、越後方荒川伊豆守詮治と太刀打。此時も信玄手を負ひ給ふ。荒川伊豆をば、信玄方へ討取り給ふ。信玄つよき大将故、自身の働此の如し。

オープンアクセス NDLJP:140 一、近年世間に出づる記録を見るに、当家にて嘗て聞かざる事多し。川中島合戦を、公方義輝公へ註進の状あり。皆後人の偽作なり。但天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮にて合戦の次第を、京都大館伊予守方へ、書付越し申され候書状は、真の状にて、本紙京都に有之。横田源助・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・染田三郎左衛門・帯兼刑部、并に駿河今川よりの加勢朝比奈左京進・武田飛騨守を始め、五千余討取るとの文言なり。此書状は、慥なる本書なり。其外に註進状は、皆佯と見え、信用なり難し。

一、謙信家に旗なし。紺地に朱の日の九四半一本、白地に黒町の字の四半一本、何れもいつの幅のかけなり。後、白地に無の字を書きたる四半を仕立てられ、自讚せられしに、城の意庵、謙信気に乖き、甲州へ走り込みて、武田の家人となり、白地に無の字を書きて、指物にする故、謙信大に怒りて、是非とも意庵を討つべしとて、合戦の度に下知す。それ故手前の無の字の旗は、停にする。景勝代に、秀吉公御意にて、上杉家に馬幟を仕るべしと、御直に仰付けられ、其座に、家康公御座あるにより、景勝申上ぐるは、左候はゞ、家康公、扇の御幟を申請けたく所望せらる。家康公御機嫌にて、左候はゞ、我が幟は金にて候間、色を替へ申さるべしとの御意にて、上杉は、浅黄の扇に致候。今に当家は、浅黄の扇の馬幟なり。

一、甘糟近江守〈大剛の兵なり。此子孫、只今の甘糟加賀右衛門・同安大夫〉は、小身なり。甘糟備後守清長は、上田より出で、鎗一本の身上なる者なれども、大剛の働、覚の者故登庸げられ、一手の大将になり、景勝、会津へ入部の時は、甘糟備後守は、二万三千石余にて、政宗領の境、大事の処なりとて、白石城に差置かるゝなり。登坂式部も、覚の者なり。されども関ヶ原御陣の節に、備後守、会津へ仮に行きたる跡にて、政宗に謀られ、逆心して、白石城を政宗へ渡す故、兄の備後守を、景勝、勘当同前に致し、目見悪しくなり候。家康様より、畠山下総守を御使にて、景勝目見悪しくば、上杉家を立退き候へ、五万石にて召出さるべしとの事にて、御上洛の時、下総守屋敷へ、甘糟備後を呼寄せ、申聞けられ候処に、備後守、忝く候へども、景勝は、譜代の主にて候へば、上意の通には罷成るまじきと申切る故、下総守、尤と申され、其事止むなり。右の仕合を、景勝聞付け、前方弟事にて、勘当半分に、前悪しく候上に、弥〻此度の事にて、景勝無興せられ、我が義絶不通の長門守〈下総守事なり〉方へ、忍びて参る事不届なりとて、詞も懸けず、弥〻疎み果て、備後死去の後は、子〈嫡子藤右衛門・二男帯刀〉は、跡目立てず、南部か津軽かへ浪人して行きし由。〈定勝代に召還す。只今甘糟五郎左衛門・同久三郎は、甘糟備後守が孫なり。〉

オープンアクセス NDLJP:141 一、藤田能登守は、一万四千石余を領知し、景勝より、津川の城に差遣され、朝鮮陣の砌、肥前の名護屋か、又芸州宮島か二処の内にて、家康公へ藤田心入にて、船を貸し参らせたることあり。それ故藤田には、家康公御懇なり。慶長五年正月、年頭の御礼に、藤田能登を差上げらる。家康公、能登守に御懇志にて、御脇差を下されなどして、仕合能し。其頃より会津には、神刺の原に新城を取り、名ある浪人を召抱へ、様子逆心と見ゆるに付、左様の事共にて、御内意ありたるか、其年三月十三日、謙信廿三年忌法華経万部の弔済みたる翌日、藤田能登守妻子共に上下三百余にて、会津を立除き、下野国那須野に移り、江戸へ入り、夫より上洛する。関原御一戦の後、烏山城一万八千石を、藤田に下され、後に大坂御陣御供。榊原遠江守康勝隊の軍奉行に仰付けられしに、五月六日、若江合戦の時、藤田指図を以て、大坂勢を討洩らしたる御咎にて、能登守流罪せしなり。能登守、会津を立除きたる追付に、栗田刑部〈知行八千五百石同心三千二百石〉 も、妻子従類百五十人にて、会津を立除く処を、南山口城主大国但馬守〈大国参河守養子なり。直江山城守弟なり。二万四千石〉 と、白川城主五百川修理石〈二石万〉と長沼城主島津月下斎〈一万二百石〉出合ひつゝ、栗田を境目にて押止め、景勝へ申上げ、腹を切らする。其年、関ヶ原陣なり。

一、荻田主馬は、童名孫十郎といふ。謙信小姓なり。後に与惣兵衛といふ。景勝の代に、旗本の武者奉行なり。文禄の頃、景勝へ不足をいひて立除き、結城宰相秀康卿へ召出され、後、越前へ御供して参るなり。此主馬事を、古傍輩の筋目なる故、城和泉守、駿府にて、様々執成を申上ぐる。大御所様聞召し、其方親の意庵こそ、越後に居たれ。其方は甲州にて生れ、上杉家中の事、何として知るべきや、途方なき事申候。総じて武辺の事は、其家に居て、見聞きたる人のいふが実なり。他国がけ・又伝またづて・又咄にては、疑事なりと御叱あり。其座に畠山入庵其子長門守居られ申候に付、上意には、荻田事は、入庵存ぜらるべく候間、語り申すべき旨なり。入庵承り、荻田は、我等組にて罷在候。孫十郎と申せし時、越中陣にて、敵・味方、堤・土手を抱へ睨み合ひ居る時、孫十郎一番に走り出で、鎗を打込み、合戦を始め候手柄と、三郎景虎と景勝取合の時、北条丹後守を鎗付け候と、両度武辺御座候。其外は、少しづつの事にて候由、憚らず申上げらるゝ由、大御所は、扨こそ和泉が申分と、うらはらに違ひたり。さり乍ら景勝家にて、口をも聞き候者にて有之に、左様に少身にては、人がそつになるに、越前の息子オープンアクセス NDLJP:142は、合点の行かぬ者なりと御意故、荻田主馬を、越前にて、一万石になされし由。

一、荻田主馬、当家を立除きて後、三股九兵衛・蓼沼日向守に、総の指麾さいはいを申付け、武者奉行に出す。三股は当家譜代、蓼沼は関東者。何れも覚ゆゝしき兵なり。越前の黄門秀康様、此両人を召抱へられたき由、畠山長門守を以て仰せらる。其段尋ね候へば、名染譜代の主にて候間、御免候へとて、両人共に参らず候由。〈三股九兵衛子孫は、只今三股清右衛門なり。只今五百石。〉

一、安田上総介順易としやす〈安田上総介は、大江千里が末にて、毛利氏なり。安田城主たるにより、安田と号す〉は、謙信以来数十度の手柄、軍功の侍大将、人数を廻し、度々の誉あり。されども毎度手疵を負ひ候。鉄上野介も、度々の武辺あれども、武勇にかさなく、将帥の量なし。杉原常陸介親憲・本庄越前守繁長は、武勇の大がさありて、将帥の器量、世に類多からざる程の大将なり。何れも謙信代より、先手を致したる者なり。直江山城守兼続は、文者にて、詩聯句の達者、連歌・歌道勝れ、口上弁舌能く、大音にて、公儀・座配無双なり。大男にて勿体よく、天下の御家老にしても、然るべき見事なる侍なりべしものにて、諸大臣と交り、石田三成・浅野弾正などと、牛角の座配。当家にて、卅二万石なり。大胆者にて、いひたき事をいひたる由、千坂対馬守も、弁舌明に才智ありて、男振人に勝れ、何方へ使者に遣しても、あつぱれなる武士なり。岩井備中守は、元来信州飯山城主にて、謙信小姓立、見事なる男にて、十八度の武辺、才智弁舌ありて名高く。其上千利休に茶道を学び、数寄上手なり。安田上総介は小男にて、手疵故少し足を堪く。眼振光ありて、面にも手足にも、第・太刀・矢・鉄炮の痕多し。何者が見ても、大剛の侍大将なりと、いはぬ人はなし。中々すすどく、気高き侍にて候ひつるなり。直江山城守、連歌の発句に、紹巴の褒美あまたあり。其中、聞覚えたるに、

     葉を重み夏は動かぬ柳かな

一、上杉家に、謙信代より、五本・七本のつゐの旗なし。番指物などとて、上方の如くに対にはせず、面々の思ひの指物、是はそなへが知れ、人数の多少が見えて、怪しさとある事なり。加藤式部大輔明成を御改易の時、公方大猷院様御前へ、上杉弾正大弼定勝を召し、式部が会津城を請取り、并に番手の人数を遣すべく、騎兵二百五十騎・鉄炮三百丁・旗三十本遣すべき旨上意なり。定勝謹んで、騎兵・鉄炮の儀は奉畏候。但私家に、旗は無御座候が、如何仕るべきと申上げられ、酒井雅楽頭忠治、其段承り及び候間、家風に致さるべき旨申渡さるゝに付、上松右オープンアクセス NDLJP:143馬助〈本名木曽主殿。是は当家譜代の士にあらず。弾正定勝代に抱へし新参なり。後長尾摂津守と号す。後上杉頼母と改む。只今の上杉権大夫父なり。〉・松木内匠を大将にて、侍二百五十騎・鉄炮三百丁を、江戸より一左右の日に、米沢を立たせ、会津へ遣し候なり。〈是れ寛永二十年五月十七日の事なり。〉

一、景勝は小男なれども、何様にも貌魂かほたましひ、何百人の中にても、無類なる大将なり。一代詞寡く、笑ひたる事なし。弾正定勝は、慈悲なる人にて、士卒を憐む故、家中上下思付く事浅からず。謙信・景勝両代に、家を立除き、又は死失せ、追放に逢うたる譜代の侍共の子孫を、大方呼返す故、諸人悦ぶなり。

一、永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満定行と、長尾越前守政景と、信州野尻城下の池に初めて生害の後、時々光物出で来、其上に、魚なくなりたり。慥なる事なれば、書き記すものなり。政景は、龍巌寺に葬る。憲徳院匠山道宗と号ず。定満は雲洞院に葬る。法名は養勇庵良勝儁公と号す。雲洞院は、代々宇佐美菩提所なり。駿河守一代、人数扱ひ、下知に持ちたる軍配団扇、并に宇佐美の系図を、雲洞院什物に納むる。寛永の初、雲洞院の僧、〔争カ〕論訴訟の事にて江戸へ来り、寺の什物を持参。公方大猷院様御耳に達す。宇佐美定満が軍配団扇を上覧なされ、武功名高き侍の持ちたる兵具なり。疎略に仕るべからざる旨上意にて、箱を仰付けられ、又越後の雲洞院へ、御返納成され候。其軍配団は練物にて、縁は金物あり。柄には、宇佐美駿河守藤原定行と鐫入れて有之由、酒井讚岐守忠勝・松平伊豆守信綱御物語ありと、上杉宮内少輔長貞の談なり。右越後の雲洞院は、曹洞派にて、五代目の管領上杉安房守憲実、応永廿七年の建立なり。

一、新発田因幡守治長、其子は源太治時、因幡が伯父道如斎といふ。上杉代々の家臣、殊に大身なり。信長公、此新発田を引付くる程ならば、景勝退治容易くあるべきと、了簡ありて、会津の領主葦名盛隆へ下知ありて、盛隆より、又赤名城主小田切参河守に通じ、夫より新発田へ内通ありて、囘忠のてだて成就する。天正十年三月、景勝の小舅武田勝頼を、信長公退治。夫より直に越後へ攻入らんとの議定故、其二月に、新発田一類叛逆して、新発田城・五十公野いそみのの城に楯籠る処に、信長公は、甲斐・信濃を打平げつゝ、直に帰洛ありて、越後へ攻入り給ふ事延引なる故、新発田色を失ふ処に、其六月、信長公御父子御切腹。新発田弥〻力を落す、景勝より人数を出し、附城を構へ攻めらる。葦名盛隆も、上気うはけは、景勝へ入魂の振にて、赤谷オープンアクセス NDLJP:144城を取次のつなぎにして、ひたと兵糧・玉薬・人数を継ぎて運送する故に、新発田六箇年支へて落城なし。六年目に、関白秀吉公の御扱あり。帝にも宸襟を悩まされ、青蓮院尊朝親王に仰付けられ、長谷の三位并に辻坊法眼を、越後へ下され、色々御教訓ありしかども、新発田曽て御受申上げず。六箇年目〈天正十五年〉十月三日に、新発田落城なり。五年此時も、会津よりの絆の城赤谷を攻落し、糧道を絶ちたるによりて、落城なり。新発田が妹は、色部修理亮が妻なり。新発田因幡守、色々に行を運らし、色部を語らひけれども、主君とは思替へ難ければ、色部少しも変らず、此度も先手致し、城を攻落す。因幡守も、遺恨浅からずして、他の手へは構はず、色部が旗を目掛けて乗込み、死狂に働き、遂に色部が陣中にて討死す。色部は、因幡守が首を取りて、景勝へ進、上。忠義無二の奉公せしなり。

一、初鹿伝右衛門、江戸にて、上杉弾正定勝へ申され候は、我等儀は、三十騎衆と申して、信玄近従にて候。川中島合戦の時、御幣川の中へ乗込み、合戦の砌、謙信乗込み、信玄と大刀打。信玄を畳みかけて切り給ふを、我等突かんと思へども、突き得ず。鎗の柄にて打ち候ひき。後、永禄四年の川中島合戦に、荒川伊豆守乗込み来りて、信玄と切結ぶ時は、大勢懸付け、荒川を討取り候と語られし由。

一、天文廿三年八月十八日、川中島合戦に、謙信直に乗込み、信玄と太刀打、二箇処まで切付けられ候を、甲州方にて、謙信にてはなし、荒川伊豆守なりと沙汰せし由を、伊豆守聞及んで、深く心底に挟み居りしが、納の川中島合戦に、真先に乗込みて、信玄を見付け、太刀打して、即ち討死せしなり。類稀なる大剛の兵なり。

一、慶長十九年霜月廿六日、大坂表信貴野合戦の節、穴沢主殿助盛秀、天下無双の長刀の名師なり。当家坂田采女、老武者なりしが、鎗を持ち、敗軍の大坂方を追ひ行く処に、大男、黒具足にて、長刀を杖につき、立跨りて控へたるが、坂田を見て、大坂方穴沢主殿助盛秀と名乗り、坂田鎗を突懸くれば、彼穴沢長刀にて刎ねて、手本へ入り来るを、坂田鎗を捨て、むづとんで転ぶ。上になり下になり、窪さ処へ転び落つる。穴沢大男故、上になるを、坂田下より脇差を抜き、二刀刺し、跳ね返して首を取る由。

一、当家中条与次郎は、越後にては中条城主、会津にては鮎具城主なり。此中条が家人落合清右衛門は、大剛の兵なり。天正十二年八月に、景勝出馬ありて、新発田城を攻めらるゝ時、オープンアクセス NDLJP:145八幡の砦より敵一騎、赤線かけ鹿毛の馬に乗りて駈出づる。内々城内へ禁裏より、扱の勅書来るを、通じたきことありて、何者にても生捕にせよ、其者に言含め、城中へ申遣すべしとある故、只今城より出でたる武者を、誰が生捕るべきといふ時、落合清右衛門、少しも思惟なく乗出で、彼敵と引扠んで、少しも働せず、生捕にして帰る。皆々舌を振ふ。其場に井筒女之助・井上三郎兵衛・宇佐美民部・恩田越前守・寺瀬対馬守・仁科孫三郎を始め、倔強の剛兵十騎余、馬を立双べ居たる中に、清右衛門一騎抽んでたる働、世の人感歎す。此清右衛門は、会津処替の節、浪人して、安藤右京進重仲方に奉公する由。

一、右の翌日八月十八日に、新発田因幡守、二千余にて切つて出づる。景勝先手直江山城守兼続・鮎川与五郎・春日右衛門・横田式部・篠野井弥七・鹿沼右衛門・川田玄蕃・穂村造酒允・壬生刑部左衛門・大岩新右衛門十頭の隊、先懸致しける処を、新発田に切立てられ、尽く敗軍。討たるゝ者数を知らず。然る処を畠山入庵、其時は上杉民部とて、二の先なるが、少し高き処へ旗を押立て、民部、采配を執りて横鎗を入れ、新発田を突崩す。八幡砦の涯佐々木川まで追討に致されける。敗軍の十頭の先手も立帰り、行懸に、八幡砦を攻落す最中、景勝も、旗本を押詰め、床机を立ち給ふ処へ、先手高名の輩、首を提げ、御目見に来る。爰に前の琵琶島城主宇佐美駿河守定行が子民部少輔勝行、父生害にて、本領没収せられ、浪人となり、景勝勘当せられ、小千谷五泉辺に匿れ居りしが、いかにもして景勝勘当を赦され、本領還住せんと志し、朱傘に金の短尺の指物、宿月毛さびつきげの馬に乗りて、新発田陣へ懸入り、倔強の敵二騎に懸合せ、一に切つて落し、一騎は引扠ひつくんで討取り、甲首二つ提げ、其身も馬も血になりて、景勝旗本へ馳せ来り、平林内蔵助〈平林十八歳にて小姓なり。〉を頼み、御勘当御免なされ、此高名の首を御実見に入れ、御目見仕度と望み候に付、此由を景勝へ申し上ぐるに、景勝気色俄に変り、眼の光炬たいまつの如く、平林をはつたと睨み、兎角の言なかりしかば、平林も頭を低れ、重ねて申上ぐるに及ばず。宇佐美民部も、討取りたる二つの首を捨て置き、泣々罷立ちて除きけり。景勝は、実父政景を殺したる宇佐美駿河が子なれば、父の仇の子たるを、何とて勘当を赦すべきとの事なり。此平林内蔵助は、長命にて、当家播磨守綱勝の傅に附けられ、近年まで存生し、直に物語せしなり。

一、慶長三年、会津へ景勝入部。蒲生家の浪人数百人召出す。栗生美濃守・外池甚五左衛門・オープンアクセス NDLJP:146岡野佐内・布施次郎右衛門・北川図書・高力図書・青木新兵衛・安田勘助・小田切所左衛門・横田大学・正木大膳・長井善左衛門佐野源太・堀源助等なり。関東浪人には、山上道及〈首供養三度までする由〉上泉主水〈武州深谷城主の上杉左兵憲盛の家老なり〉・車丹波守〈火車の指物〉等数十人、上方者には、水野藤兵衛・前田慶次郎・宇佐美弥五左衛門など数十人、召抱へらる。右の内前田慶次は、加賀利家卿の従弟なり。景勝へ初めて礼を申上ぐる時は、穀蔵院ひよつと斎と名乗る。其頃夏なりしが、高宮の二幅袖の惟子褊裰を着し、異形なる体なり。詩歌の達者なり。直江山城守兼続も学者故、仲好し。直江宅にて、慶次論語の講釈致し、又は源氏物語の講釈する。慶長五年九月、景勝名代にて、直江山城守四万余にて、最上へ出陣する砌、慶次は、黒具足に猩々緋の羽織、金のいらたか珠子を頭に懸くるに、珠子の房は金の瓢簞、背へ下るやうにかける。河原毛の野髪のがみ、大しだの馬に、金の兜巾ときんを冠らせて打乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子のうちかへに、干味噌ほしみそ乾糗ほしひを入れ、鞍坪に置き、種子たねが島二挺附けて、乗替に牽かする。最上除口に鎗を合せ、高名耳目を驚かす。水野藤兵衛・藤田森右衛門・韮塚理右衛門・宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人、一処に鎗をする。此時最上義光、伊達政宗加勢を一手に合せて、上杉勢の除口を附慕ふに付、中々大事に及び、杉原常陸介・溝口左馬助、種子島八百挺にて防ぎ戦ふと雖も、最上勢強く突立つる故、直江山城怒りて、味方押立てられ足を乱し、追ひ討に逢はん事、只今の中なり。扨も口惜し、腹を切らんといらでるを、前田慶次押止め、言語道断、左様に心弱くて、大将のなることにてなし。我に御任せ候へとて返し合せて、右の通水野・韮塚・藤田・宇佐美と慶次と、五人にて鎗を合せ、最上勢を突返し、能く引払ひ、何事なく引取るなり。関ヶ原御陣過ぎて、景勝、米沢へ移り給ふ時、慶次を諸方よりほしがり、高知にて呼べども、我主は、景勝より外はなしとて、一生妻子も持たず、寺住居の如くにて、在郷へ引込みて、弾正定勝の代に、病気するなり。連歌を慶次嗜み、紹巴の褒美の句あまたある内に、覚えたるを記す。

     賤が植うる田歌の声も都かな

一、青木新兵衛は、走の早き事、馬と同前なり。黒縨に鶏毛の棒の出をして、十文字の鎗、瓦毛の馬にて、瀬上松川にて、政宗と合戦の時分に、甘糟備後守組にて、手柄なる働あり。後は越前黄門様へ召抱へられ、其子孫加賀に奉公。栗生美濃守は、元の名、寺村半左衛門といふ。蒲生氏郷に奉公の時、秀吉公、筑前の巌石城を攻め給ふ時に、蒲生源左衛門と同じ一番のりオープンアクセス NDLJP:147て、秀吉公御感状下さる。素性うまれつき将帥の量ありて、先づ大男の大力、上杉家にて知行七千石なり。岡野左内、度々の軍功、世に名高し。瀬上合戦に、政宗と太刀打して、手負はせたる剛者なり。身上五千石なれども、福人にて、金銀夥しく持ち、国々に蔵あり。会津陣の時に、帳と貸金の手形を箱に入れ、我れ討死せば焼棄てよと申付け、諸傍輩にも、残らず陣用意の金を配り与へ、景勝へも一万両進上し、御事はかしまじけれども、私明日にも討死致せば、入り申さず候間、差上げ申すとて、上るなり。景勝、米沢へ移り給ふ時、暇出で浪人となる。政宗より、三万石呉るべしとて呼ぶ。左内申すは、蒲生家に名染候間、帰参仕候とて、政宗へ行かず。秀行〈氏郷の子〉へ帰参するなり。子の左衛門は、秀行へ出頭にて、並なき寵臣なり。秀行逝去の時に、追腹切る。左内は、宰相忠郷〈秀行の一男。御母は大御所株姫君〉の代に病死、常々御影にて蓄へ候とて、金三万両・正宗の太刀一腰、遣物に上る。中書忠知〈秀行二男〉へも、景光の刀・来国光の脇差・金子三千両差上げ、其外、知音・近付・出入の医者まで、五十両・百両・一一百両配り与へ、年来貸し置く金子の手形、箱に入れ焼き捨て死去なり。其子なく、孫の源五郎家督を続ぎ、左内に替らず、猪苗代主となる。忠郷逝去、男子なく、家断に付、源五郎浪人となり、大津の三井寺にて病死するとなり。

一、景勝・定勝代まで、直江山城守兼続一人にて、万事国の仕置・公事沙汰までする。訴論をば、山城守一人にて、傍の人を払ひ、刀を傍に置き、百姓・町人は、白沙へ呼び対決させ、侍をば座上へ呼びて様子を尋ね、何事にても、大方当座捌きに賞罰を行ふ。家中の訴訟も、手形証文の判形も、兼続一人にて事を済ます故、捗行くなり。直江、学文多智分別者故、順路なる事多し。元より謙信傍にて生立ち、武功も重る故、世の覚、人の用も厚く、秀吉公へも出頭し、大御所様・秀忠様へも出頭なり。会津にては三十二万石を領す。米沢へ景勝移り給ひて、六万石を賜はる。我身一万石を領し、五万石は、諸傍輩に配分。一万石の私領を、又五千石分けて、家中へ与へ、我身五千石なりしを、景勝より、新田を開き与へ、又一万石になり、死去なり。

一、関ヶ原御陣以後、直江山城守御誅伐なさるべしと、大御所様思召候へども、左候へば、他国にも其例に引く者多し。一人を赦して、天下の人の心を安んずる所なりと、御遠慮ありて、御助なされ、剰へ本多上野介正純が弟長五郎〈対馬守と号す安房守に任ず〉を、壻養子に直江に下され、御懇なり、治部方したる諸大名の家老共、是を見て、治部と心を合せ、謀叛の張本したる直江さへ、オープンアクセス NDLJP:148御免なさる。まして我々末々は、気遣なしとて、皆安堵する由。寛永五年十二月十九日に、直江山城守兼続死去。法名英豼院達三全智居士。

一、直江山城守兼続は、木曽殿四天王樋口次郎兼光が末なり。聚楽御城中にて、諸大名列座の中にて、伊達政宗、懐より金銭を取出し、直江山城を呼び、城州是を見候へ。昔なき事なり。斯様に金銀にて、銭を鋳る、見事なる物なりとて、直江に渡し見する。山城守、扇を抜き、少し披いて金銭を請けて、跳返し見て、実に珍物にて候といふ。政宗見られ、城州手に取りて見候へといはる。直江申すは、我等事、輝虎目金にて、用にも立つべき者と思はれ、景勝へ附けられ候。何時も采配を執り申す手にて、斯様のむさき器は、いろはぬ者にて候と申し、金銭を畳の上へ、扇より移したる故、政宗赤面せられ、一言の返答なかりし由。亦慶長三年、会津へ景勝移らるべき砌、横田式部といふ者、召仕の茶道坊主を斬罪。元来誤なき事なれば、坊主の親類大勢起りて、国改に京都より、前田徳善院玄以・石田治部少輔三成下向ある。此両人の方に訴ふる。玄以・三成、其段直江方へ申すべしと指図あるに付、直江方へ詰むる。兼続対面し、皆々申分尤なり。左候はゞ、主人横田式部に、詫言の為め、銀五十枚出さすべし、堪忍せよと扱ふ。彼の訴訟人共、中々怒りて帰る。又玄以・治部に訴ふれども、取合はず、是にて又山城守方へ詰むる。直江、左候はゞ、銀七十枚出さすべしと扱へども、彼輩七十枚が七百枚にても、死したる人が帰り候か。中々分もなきことを御申すとねだる。兼続、其時、札を一枚取寄せ、一筆書きて、直に持たせ出で、訴訟人共の内、張本人は幾人ありと尋ぬ。其坊主の兄と伯父と、是に候とて、両人出づる。山城守曰、何と扱ふ共、汝等ども承引せず。兎角此上は、彼坊主を再び今生へ呼還さずば、汝等が心に叶ふべからず。さり乍ら、誰にても呼に遣す使なければ、其者の兄と伯父と二人、迎に遣すべし。此高札を持つて、早々地獄へ参り、閻魔王に見せて、彼坊主を召連れ帰るべし。乃ち其文を聞けとて、山城守、高札を読まる。

御意、一筆申入候。然者横田式部召使之茶堂坊主、親類共呼戻申度、達付、即親類二人迎越申候。急度御返信可有候。恐々謹言。

  二月十日 直江山城守兼続

    閻魔大王殿

と書付け、読み聞かせ、彼張本二人、其場にて斬罪し、彼の高札を前に立て、二人の首を獄門オープンアクセス NDLJP:149に梟くる故、徒党蛛の子を散らすが如く逃失せ、国中嗷訴一人もなく、静謐するなり。

一、川中島合戦に、甲州方山本勘助討取りたること、弘治二年三月、廿五夜の事なりといふ 説と、永禄四年九月十日の事なりといふ説、両様あり。

一、当家に、西方院といふ真言宗の法師武者あり。数度の鎗をする故、異名を鎗坊主といふ。景勝より、皆朱の武具を免し給はる。一代四十余度の武辺に、遂に手疵を蒙らず。景勝より、六千石の知行を給はるに受けず。疋如するすみの身にて知行取りて、一つも入らずとて、蔵米五十石にて、越後より会津へ供する。遂に米沢にて病死するなり。

一、謙信、霊社・験仏へ願書を納められたるを見るに、信玄を戦地へ引出し、快き合戦を、仏力・神力にて仕りたし。何卒出合ふ様にとの祈なり。信玄は戸隠山を始め、方々寺社へ願文を納め給ふも、皆輝虎呪咀調伏の趣なり。信玄は、よほど謙信をうるさく思ひ給ひたる様子なり。

一、謙信は、大方具足を着ず、黒き木綿胴服にて、鉄の囘笠を着し、三尺程の青竹を馬上に持ち、人数を追廻し下知せらるゝ。中々摩利支天の再来ならんと、世挙つて恐るゝ由。永禄十二年、関東陣の砌、太田資政入道三楽、先陣に備ふる処に、北条方へ内通あるか、別心の色ある由申来る。諸人如何と存ずる処に、謙信只一騎、歩侍十人計りにて、急に三楽陣へ乗込み、三楽三男安房守、未だ十二三歳になりたるを、謙信ひしと手を取り、扱々好児にて候、輝虎養子にすべしとて、連れて帰らるゝに、三楽も軍兵共も、謙信の威勢に圧され、一言を出す事ならざる由。斯様の猛威の人なれども、詩歌に工に、優しき風雅あり、畠山入庵内室は、謙信姪なり。十一二歳の頃、殊の外愛せられ、関東陣の時は、児の出立にして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀・刀さゝせ、馬に乗りて、老女三人介錯に付きて、輝虎供に連れられたる由。此姪は、即ち畠山下総守義貞の御母儀なり。父は長尾政景、母は謙信妹。後には仙桃院と号す。永禄七年の秋、信州にて、政景を、宇佐美駿河守定行が殺したる時も、大方謙信の内意とある事、粗ぼ知れたる故、仙桃院は、謙信に向ひて、越前殿果てられ候は、偏に戦場にて御用に立ち候同意に候間、義景・景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨あるまじと、申されたる由。斯様の事にて、宇佐見駿河守遺跡は、強くつぶして、子の民能をも、深く二代まで勘当せられたるなり。今に至るまで、宇佐見駿河守事は、当家にては忌んて沙汰せず。先祖の讐たる故なり。オープンアクセス NDLJP:150 一、慶長十九年大坂御陣。霜月廿六日の朝、両御所様より、小栗又市・佐久間河内守御検使に下らるゝに付、景勝人数を出し、信貴野口の柵を攻め取り、井上五郎左衛門を討ち、渡辺内蔵助を城へ追込み、柵を取る時、烈しき合戦あり。上杉方多功豊後守・市川左衛門〈市川左衛門は会津にて八九千石余にて、一手の物主なり〉 ・北条清右衛門・上泉主水・桜囚獄・大股八左衛門・同彦六先陣に進み、勝れたる手柄あり。北条・上泉・桜・大股兄弟討死、多功豊後・坂田采女手柄高名、遂に柵を取敷く。景勝下知せられ、敵の出づべき道筋は構はず、大和川の堤を掘切り、柵をふり、鉄孫左衛門に、鉄炮二百挺付けて是を固むる。皆人、敵の出づべき処は構はず、一町も堤の脇の堤を取固むる事、如何と不審する。其日午の刻、大坂七組并に大野修理亮治長・竹田永翁押出し、当家一の木戸にて合戦。先手須田大炊助長義、此相隊石坂新左衛門、百挺鉄炮大将、一時計鉄炮軍あり。石坂新左衛門討死。組二十余人討死、須田大炊助押立てられ、三町余敗軍。二の先安田上総介順易手にて、横鎗を入れ、大坂勢を突崩す。島津玄蕃鎗を合せ高名、松本助兵衛・北村茂助、勝れたる高名なり。当家の一手の大将市川左衛門討死。関十兵衛・針生市之助・原庄兵衛・駒沢与五郎、晴なる手柄して討死。遂に景勝方打勝ちて、大坂勢を追崩す。岡村猪之助・小早川左兵衛・竹田兵庫を始め、三百余討取る。大坂方大和川を便たより、蹈みこたへ候を、初め掘切り、柵を附けたる処より、鉄孫左衛門、二百挺の鉄炮を打立て、横合に射悩ます故、大坂方遂に負けて、城中へ引入る。其日の合戦、景勝十分の勝になるなり。初に道筋を構はず、思懸もなき堤も掘切らせ、鉄孫左衛門を置かれたる思案、凡慮の及ぶ処にてなしと、景勝を生神の如くに、恐れ感ずるなり。須田大炊助長義、我隊の敗軍を恥ぢて、上下六七人にて、敵の中に残り、大炊自身太刀打高名、直取の首三つ、手疵二箇処、相従ふ家来五人、共に高名、首を取る。須田が隊にて、敗軍以後、大将大炊助見えぬに依りて、討死かと思ふ処、敵の中より、大炊助家来共に六人、皆首を提げて出で来る。手柄比類なし。〈将軍家より御感状・兼光の御腰物・御小袖添へ拝領。〉

一、杉原常陸介親憲は、佐竹義宣敗軍せらるゝ。今福堤へ、横合に百五十挺の鉄炮を打たせる故、木村長門守・後藤又兵衛、手勢打立てられ敗軍。常陸介手柄故、佐竹義宣、師場を取返す。佐竹義宣は、六百人の足軽に、頭四人ならでなし。今日鴨生堤にて、足軽隊乱れ、佐竹敗軍。木村長門・後藤又兵衛に追立てられ、田の中へ追込まれ、追打にせらるゝ。家老渋井内膳討死。義宣より、景勝へ加勢を乞ふ。杉原常陸介一手を遣す。常陸介も、高枝川の沼を危み、オープンアクセス NDLJP:151蓬沢安芸守を覘諜ものみに遣すに、敵の人数、足の入る程を見て、沼は浅く候といふに付、常陸介即ち押寄せ、大坂勢を打立て、数十人射倒し追返し、堅固に引取るなり。

一、此時景勝は、三百余にて、信貴野の横堤に、日の丸の旗・毗の字の旗・浅黄の扇の幟を押立て、城の方に向ひて、床机に腰を懸け、早天より晩の合戦の納るまで、城の方を守りて、脇目もふり給はず。三日余の軍長其、徳翼に備へてかしこまり、手を突いて仰き視る者なし。法令の厳重なること、陣の勢の強きこと、行儀の正しきこと、近代未聞なり。丹羽五郎左衛門尉長重は、此口の寄手なり。景勝、後に陣取り、合戦最中に、景勝陣へ見廻に行きて申合せ、先手へ押出し、上杉先手と押並べて、鉄炮を打たする。其時長重は、上杉隊の行儀の見る事なる事、法度の正しき事を、後々まで語られ感じ給ふ由。右の通り、景勝旗本三百余畏り居て、景勝を恐るゝ事、敵の矢・鉄炮よりも甚し。先手目の前にて、懸けつ返しつ、算を乱し合戦し、打つつ打たれつ勝負するに、少しも動かずして備へたるを見て、目を駭かさぬ者なし。

一、此度大坂表にて、佐竹義宣事、木村長門守・後藤又兵衛に追立てられ、景勝へ加勢を乞ひ、杉原常陸介親憲が横合を入れて、木村・後藤を追還したるにて、佐竹初めの師場を取還す。義宣の父義重も、武勇勝れず。天正元年に、宇都宮貞林に恃まれ、関宿城後詰に出でられ、謙信を恃みて、一処に陣取る時、謙信申さるゝは、我々一手になり、利根川を越え、関宿城へ後詰し、氏政を追払ひ候はんと、勧め申されたれども、氏政、大軍を惧れ、利根川を越す事を、義重肯ひ給はぬにより、謙信大に怒り、左候はゞ、我等人数を引分け働き、各別の弓箭に仕るべしと断りつゝ、輝虎八千にて小山を立ち、義氏様の御所古河御城、并に北条氏政持の栗橋城・館林城、其外敵城四五箇処を押通り、重ねて利根川を越え、寄別城・菖蒲城・岩槻城を始め、氏政領分を悉く焼き働せられ候に、日数四十日余の間、武州・上州を、横縦に働かるゝに、終に氏政も、関宿の陣城に四万ありと雖も、輝虎に恐れ、陣城の外へ一人も出合はず。其外の城々も、皆門戸を杜して、謙信に旗を合する敵なし。然る故に、閏霜月十九日に、輝虎、厩橋城へ人数を納め候。総じて北国・関東も、紺地に日の丸の旗を見ては、すはや輝虎とて、皆出合はず。佐竹義重は、遂に関宿の城を後詰すること叶はず。謙信も、義重の弓矢、未だ若く候と、嘲り申されたる由。関ヶ原陣の前も、景勝へ一味し、渋川内膳・戸村豊後守を二頭、棚倉にて加勢し乍ら、家康公御発向を聞き、人見主膳・緒貫大蔵を、路次まで使者に差上げ、表裏なる仕方、上杉家オープンアクセス NDLJP:152にては、佐竹をば一向に見下し居、此度大坂今福合戦に仕負け、木村長門守・後藤又兵衛に追立てられ、加勢を乞ひて、杉原常陸介が横矢にて、大坂方を退く。中々柔弱なる家なりとて、佐竹をば、当家にてはをかしく存候。

一、佐野天徳寺は、江戸御城にて、上杉弾正大弼定勝に向ひて、御祖父謙信の御武勇の威勢は、兎角申されず候。我等若き時分には、佐野は御旗下にて候ひき。輝虎、越後より、上州厩橋城へ御着、二三日人馬を休め、扨関東筋へ打つて出て、縦横に働き給ひ、或は五十日、或は七十日の間は、喩へば大雷して、夕立の降る如く、敵も城外へ出づる事叶はず。扨謙信は、働を仕廻ひ、厩橋へ帰城ありて、方々の仕置十日余ありて、越後へ帰陣せらるゝに、謙信は猿京さるがきやうを過ぎて、越後路に入り給ひたる一左右を聞きて、関東中の北条方・武田方等の敵城は申すに及ばず、上杉殿旗下の城々も、安堵の思をなし、最早心易しと悦び候ひき。輝虎越後より出陣と聞きしは、敵も味方も恐れて、安心なく候と語られ候。其座に酒井讚岐守忠勝・阿部対馬守重次を始め、列座の大名・小名之を聞き、感ぜられたる由。

一、謙信瘧を煩はれ、大方平癒。病中慰に、石坂検校に、平家を語らせ聞き給ふ。鶴を一句語り納むる。平家も、殊の外出来て聞く事なりしに、輝虎の顔色変り、両眼涙ぐみ給ひ、只今平家を聞くに付けても、口惜しく又心細き事かな。本朝は、神武天皇、武徳を以て治め給ひてより以来、相継いで、君にも臣にも勇者ありしに、世季になり、次第に武威衰へたる験は、彼の源三位頼政が一族八幡太郎陸奥守義家が時、当今堀河院御悩あり。義家を召して、妖怪を鎮められけるに、殿上の下口に伺候し、弓の弦音を三度鳴し、陸奥守鎮守府将軍源朝臣義家と高声に名乗りしに、妖怪忽に退き、再び来る事なし。帝の御悩御平癒なり。義家が武威甚だ盛なる事此の如し。然るに頼政は、怪鳥の真中を射通して、地に墜ちても、猪早太つと寄り、九刀刺して、やう怪鳥を平げたる事、何れも如何思ふぞ。頼政代と義家代と、相去る事僅か六十年なるに、武威の衰へたる験は、義家は弓の弦音にてさへ、妖怪恐れて立去りしに、頼政は射撃して、其上を、猪早太九刀刺して治まりたる事、武威の盛衰掲焉。頼政代より輝虎時代、既に四百余年。さてこそは武威も又衰へたらんと思へば、口惜しく又心細しとて、涙を流されける由。

一、文禄三年十月、景勝上洛、伏見にて、景勝亭へ、秀吉公御成。其日権中納言に任じ、従三オープンアクセス NDLJP:153位に叙せらる。上杉は、勧修寺の流なれば、向後清華に準ずる旨勅諚あり。上杉は、足利公方家の外戚、〈上杉掃部頭頼重の妹清子は、尊氏公の御母なり〉管領代々なり。謙信は、永禄二年四月上洛。六月廿六日に、公方義輝公より御内書・途輿・朱柄傘・菊桐の御紋・屋形の号・輝の一字御免。武衛・細川・畠山、三管領に準ぜらる。今又景勝は、先祖上杉氏始まりて以来、先例なき中納言に昇進せられ、清華に準ぜらるゝ事、当家の高運、面目なる事なれば、末代の為め之を記す。慶長五年九月廿九日、最上陣の除口に、山形義光二万余にて、上杉勢の跡を付けて、大事に及ぶ。杉原常陸介親憲・溝口左馬助、種子島八百挺にて、段々に打立ち、防除にする。其武者扱、中々見事なり。最上方には、鮭延越前守・東根常陸介・里見越後守・草刈備前守等、雲霞の如く追ひ来る。直江山城守兼続返し合せ、下知するに付、川田玄蕃允・宇佐美弥五左衛門・韮塚理右衛門・藤田森右衛門・水野藤兵衛・月岡八右衛門・友町大膳等殿にて、返し合せ防戦す。是れ皆上杉家の精兵なり。前田慶次、猩々緋羽織金の切団扇の腰差、烏黒の馬にて取つて返し、宇佐美民部は、黒線に銀の天衝の出、蒼黒の馬に乗り、其子兵左衛門、銀具足に黒烏毛の羽織、蹈雪の馬に乗り、取つて返し、殿の勢に馳せ加はる。大将方には、五百川修理・春月右衛門、采配を振つて下知する。今朝卯の刻より申の刻まで、一里半の間にて、廿八度の合戦。溝口左馬助大将分なるが、三間一尺の黒じなひ差し、洲川の橋爪にて立ちこたへ、鎗を合せ追ひ来る。最上勢、政宗勢を追ひ返し、遂に物離れして引取る。溝口、大事の深手負ひたるが、直江に向つて、夜陰に及んで引取る事、味方落度たるべし。あれに見えたるは、曼陀羅が鼻といふ山なり。あれより半里此方に、野陣を取り給へと申して、左馬は乃ち死す。然る処へ杉原常陸介乗り来りて、直江に向つての申分、陣場の処、山を阻つべき心持、溝口が言に違はず、皆感ずる由。此時、最上の大将分天童弥七郎を、景勝方二本松右京進義国討取る。此二本松右京が父も、右京進義継といふ。元来奥州管領畠山上野介高国が後胤なり。去る天正十三年十月八日に、宮森にて、伊達輝宗を生擒り、引立て除くとて、政宗に追付かれ、逢隈川弘中ぐちうの渡口権現屋地といふ処にて討死す。其子国王を、又二本松右京と号す。景勝抱へ置く。此度手柄を振ひ、天童弥七郎を討取る。只今の二本松外記と申すの先祖、又前田慶次・韮塚・水野・藤田と一所に、鎗を合せたる宇佐美弥五左衛門は、元来尾張宇佐美なり。上杉家より暇出で、越前の黄門様へ召出されて、落合美作守組になり、大坂両御陣にも手柄あり。オープンアクセス NDLJP:154其子供、近年井上河内守家に奉公する由。

一、天正二年八月、能登陣なり。七尾城を、九月十一日に、謙信攻め落す。同月十三日夜、明月なれば、七尾城にて詩歌の会あり。

謙信の作、

露満軍営秋気重 数行過雁月三更 越山併得能州景 任他家郷念遠征

又連歌の発句、

謙信

     月澄めばなほ静なり秋の海

其後、越前の細呂木ほそろぎにて、

謙信

     野伏する鎧の袖も楯の端も皆白妙の今朝の初雪

其以前、越中陣の時、魚津城にて、初雁を聞きて、

謙信

     武士の鎧の袖を片敷きて枕に近き初雁の声

右の外、一代の詩歌尤も多く。陣中にての作多し。剛将なれども風雅なる人にて、在京両度乍らに、一条関白兼冬・西園寺右大臣公朝の方へ、謙信出入り、三条大納言公光に、源氏物語・伊勢物語の講談を聴かれ、紹鴎が流の茶道を学ばれたる由。乱舞・猿楽も嗜み、自身能を致さる。笛・太鼓も、勤められけるとなり。

一、上杉弾正大弼定勝と、蒲生下野守忠郷〈会津宰相事なり〉は、無二の入魂にて、兄弟の契約あり。忠郷は、氏郷の為めには孫、秀行の嫡子にて、家康公の御外孫、会津六十万石の領主なり。定勝は、米沢三十二万石なり。互に百姓まで、両方申合せ、境目も睦じく往来す。南部信濃守利直も、忠郷とは、殊の外に懇なり。是は仙台と伊達政宗と三人の衆、仲悪しければ、何事も出で来らば、蒲生・上杉・南部三家言合せ、政宗を立挟みて打果すべしと、密々に堅く言合せなり。定勝・忠郷・利直三人同道にて、上野の天海大僧正へ、夜咄に行き給ひ、帰るとて、三人乍ら馬乗連れ給ひ、途にて南部殿、馬かんばり勇みければ、南部殿大音にて、忠郷・定勝へ呼懸け、相オープンアクセス NDLJP:155〈忠郷宰相〉・羽林、〈定勝左少将〉此馬の勇み候を御覧候へ。明日にも何事もあらば、此馬に乗り、御両人と申合せ、彼奴を立挟みて、打果すべしと申さる。忠郷・定勝も、からと笑ひ給ひ、仰せらるるにも及ばざる事なり。片目が頭は、我々が太刀の切先に懸けて、御覧に入れ候はんと宣ひければ、三家中の供の輩、皆之を聞きたることなり。忠郷は、寛永三年正月に、薨ぜらるゝに付、定勝中々愁歎にて、三十五日精進せられ、上杉家中の士卒は、申すに及ばず、米沢領内、十四日の間、殺生禁断せられ、追善の法事あり。

一、右にも記す如く、新発田因幡守治長・同道如斎・同源太治・五十公野采女申合せ、天正十年の春より、信長へ内通し、信濃口・越中口より、信長公攻め入り給はゞ、新発田・五十公野は、会津の蘆名盛隆を、胴勢にて、下越後より攻め上り、景勝を攻め亡すべしと、謀を定めしかども、其年、信長公生害ありて、てだて相違し、景勝人数を差向け、新発田を攻められ、度々の合戦、勝負区々まちなり。蘆名盛隆より、密に兵糧・玉薬を運送し、新発田に合力ある故に、六年まで持堪え相支ふ。会津より越後境津川城に、金上兵庫居住すれば、金上方より、赤谷城小田切参河守方を、絆の城にして、新発田へ加勢するを、景勝察し、天正十五年の秋に、新発田表を蹈越えて、赤谷城を攻め落し、小田切参河守を始め、八百余人討果たし、会津合力の通路を切り、直に新発田城へ、景勝向ひ給ふを、披露ありければ、新発田も、此度最期と覚悟しけるに、家人波多野忠右衛門といふ大力の剛の者申しけるは、最早合戦にては叶ふまじ。赤谷表より、新発田迄の道筋、三淵といふ大節処にて、伏蟠りて、景勝一騎打に通り給ふを引捉ひつくんで、下のがけより、大河の淵へ墜ちて、倶に死して、主の本意を達せんと議定して、三淵に出でて、景勝を待懸けたり。三淵と申す切処は、山の腹を切通して、一騎打の路なり。上は青山峙ちて苔むし、路より下は、数千丈の石壁劒の如く、屏風を立てたる如く、其下は、大河漲り流るゝ淵なり。其路鬐みちばたに岩穴あり。是に忠右衛門匿れ居て、景勝通り給ふを、跳り出でて引捉み、景勝を倶に、がけより下の淵へ飛墜ち、倶に死企せし処に、景勝赤谷を立ち、新発田へ推し給はんとせし砌、直路殊に近く候へば、三淵へ懸り推し給ふと、皆申しけるを、景勝思案して、大将は、危き処をば行かざるものなり。近路とて、切処を行き、必ず越度ある事多し。迂を以て直とし、患を以て利とする事、兵家用捨の大事なり。廻路まはりみちにても、足場善き方へ推さんとて、鶣鶝峠へ懸り、本道を推し行き、三淵へは懸り給はざる故、波多野がてだゝ相違して、本意を失ひける。オープンアクセス NDLJP:156景勝の智慮、凡人の及ぶ処にあらず。

一、景勝は、素性うまれつき詞寡く、一代笑顔を見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる。或時に、常々手馴れて飼ひ給ひける猿、景勝の脱ぎて措き給ひける頭巾を取り、樹の上へ昇り坐して、彼頭巾をかぶり、手をあざへて、座席の景勝へ向井ひて点頭うなづきたるを見て、莞爾につこわらひ給ひたるを、近習の者共、初めて見たるとなり。城下八幡小路を、のりものにて通り給ひけるに、陪臣の歩若党、だて染の帷子にて参り懸り、畏り居たるを、景勝見給ひ、好き若者なり、立つて歩むべし。男の振を見んと宣ひければ、彼者立上り、二反歩みて、又畏りたるに、景勝、俄に気色替り、大に怒りたる形勢ありさまにて、あの奴牽いて参れとて、歩侍に両手を牽張ひきはらせ、前へ引寄せ、己め、景勝を嘲哢せん事奇怪なり。屋形腹筋、いやといふ大紋を附けたりとて、抜打に誅し給ひける。帷衣の肩に、一手鏑矢を付け、腹に大筋を付け、裾に射捨てたる矢を紋に附けたりしを、見咎め給ひたるとなり。推前隊の時は勿論、或は上洛、或は江戸参府の時も、かごまはりは申すに及ばず、供の胴勢まで、小声咳声もせず、数百人の上下無言にて、足音計りにて過ぎ給ふ。行儀の正しき事、世に類なかりしなり。富士川の船渡にて、供人過分に乗りて、川中にて、舟沈まんとせし時、景勝怒りてつゑを振上げ給ふと均しく、川中へ皆々飛込み、游ぎ渡り、召舟恙なかりしなり。士卒共、景勝を恐るゝこと此の如し。長旅の途にても、馬に懸くる声の外は無言なり。大坂信貴野口にて、先手の支寄見物に、近習非番の輩、忍びて来りし迹より、景勝一騎にて、巡見に来り給ふを見て、咎められんかと惶て、鉄炮の降るほど来る竹盾の外へ出て匿れたり。敵よりは、景勝を恐れたるなり。

一、謙信代の七手組の大将は、加地安芸守春綱〈佐々木三郎盛綱末〉・新発田尾張守長敦・色部修理亮長実・本庄越前守繁長・竹股参河守朝綱〈佐々木なり〉中条藤資入道梅坡斎・柿崎和泉守景家なり。斎藤下野守朝信・北条安芸守房国・直江大和守実綱・本庄美作守慶秀・大国但馬守頼胤・宇佐美駿河守定満・安田上総介順易・上倉治部丞国清などは、越後に久しき名家にて、何れも大身、千・二千の大将なり。

一、我等先祖丸田左京進家輔も、上杉家にては、随分軍功を抽んで、謙信・景勝両代に働有之。景勝御代に浪人致し、会津へ供致さず。慶長五年八月に、景勝より御下知にて、斎藤三郎左衛門・長尾喜左衛門・只浦伝蔵を差下され、越後に残る浪人共旗を挙げ、堀丹後守直寄とオープンアクセス NDLJP:157合戦し、丸田左京討死致し、其子は米沢へ帰参致し、形計りの身上なれども、古を懐ふ情絶えず、聞伝へたる物語を筆記し了ぬ。

                        上杉家中

   寛文元年二月十三日              丸田左門友輔

 
北越耆談 大尾
 
 

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