『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
- Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:242】甲陽軍鑑品第五十四 巻第二十
一甲州御舘物怪の事 一謙信信長取合沙汰 一謙信他界の跡さだつ事 一勝頼公東上野御支配 一勝頼公氏政取合の事 一勝頼景勝入魂の事 一遠州高天神番替の事
品第五十五
一富士大宮物怪の事 一北条衆武田衆船軍 一勝頼公忠節侍衆御成敗 一勝頼公出頭衆耽㆓賄賂㆒事 一勝頼公北条を捨て家康に向事 一高天神より御番衆訴訟 一勝頼公出頭衆御後闇事
品第五十六
一勝頼公出頭衆臆病意見 一信長家作州後詰仕損ふ 一勝頼公東上州ぜんの城生膚にて攻給事 一北条家老勝頼公味方に成事 一勝頼公氏政対陣の事 一高天神家康に被㆑取給ふ事 一勝頼公衆家康に駿河とうめにて負る
品第五十七
一信長家老秀吉謀之事 一勝頼公申州新府中御取立付諸寺諸山御朱印 一信長人質御返之事 一穴山夫婦勝頼公へ御恨 一甲州くづれの事 一勝頼公御最後之事 一勝頼公御父子の御しるし信長実検之事
品第五十八
一信長甲州入仕置之事 一四ケ国割の事 一信長公威勢之事 一氏政信長切腹を慶ぶ事 一高坂弾正分別あたる事
品第五十九
一家康北条輿入之事 一勝頼公衆家康衆に成 一家康駿甲信仕置之事 付小姓井伊万千代大身になされ候事 一家康秀吉取合の事 一勝頼公被
㆑仰たる事
甲陽軍鑑品第五十四
天正六年戊寅正月十五日己の刻に、勝頼公御くつろけ所の小庭に馬の頸を二ツまで、顕してみゆる、勝頼是を御覧せられ土屋惣蔵に仰付られあれをみよとある時、惣蔵承り急ぎ御白洲へおり候と等しく二ツながらきへてみへず候、其年三月より高坂弾正膈を煩ひ存命不㆑定也、去に付是より以後は、弾正父方の甥春日惣二郎是をかき付るなり
越後謙信前年丑の九月、信長へ両使をもつて、申さるゝ来三月出て越前に於て、信長と謙信と、有無の合戦有べしと定らるゝに付其年十月、帰陣ありて、頓て謙信領分越後佐渡の事は申に及ばず飛弾、越中、加賀、能【 NDLJP:243】登、東上州、或は庄内までも八ケ国中へ陣ふれに来年寅の三月十五日には越後を打ち立、都を心がけての出陣なり、但上野と庄内一郡半の内は半役にと定めらるゝ、かくありて寅の三月九日に、謙信閑所にて煩出し五日煩、則五日目十三日に、謙信公四十九歳にて他界なり、辞世に詩を作り給ふ追相尋可㆑書㆑之者乎さる程に謙信、信玄、公に武道はさのみをとらぬ名大将と申候へ共、御分別の才智信玄公には抜群おとり給ふ故、他界の日十三日より居城国の越後噪ぎたつ其子細は、小田原北条氏康の子息氏政の舎弟三郎を、謙信養子になされ、景虎と名付又甥の喜平次をも、養子に定め謙信存生久しかるべきと、ひとかはに思案あり、すゑ〳〵国を沢山に治めば跡を二旗にと思召候へ共、人間不定世界の故、四十九歳にて、戊寅三月十三日に他界なり十四日十五日は喜平次と三郎と、謙信の跡をあらそひ、春日山城内にて、本城二のくるはと互に弓鉄炮のせり合あり、是を見て信長より、越後謙信の下につめてをき、上方へ御用あるためにとて、指をかるゝ使者、佐々権左衛門、謙信の御用をもつて、伊豆守に成つるにより、いつまでも我等は越後にまかりあるべきと申す、口展転して早々暇乞ひなしに馳上り謙信御他界うたがひなしと道より早飛脚を、信長へさし越、佐々伊豆もやがて、安土へつき、越後の躰申故信長大きによろこび、柴田右馬之丞と申者を、召寄越後を其方にとらすべきとある、書付を自筆にて出さるゝ、然れば越後にて喜平次と三郎と取合は諸国にかくれなし、謙信他界十日の内にきこへ、加賀、越中、能登衆、信長へ手をいるゝ故、加賀は信長被官佐久間玄番に給はる是も柴田修理甥なりときく、能登の国は前田又左衛門に給はる、越前は柴田修理に給はる越中は謙信他界をきゝ、神保運をひらき、かねてより信長内証にて、謙信へ楯をつくは、信長妹むこに神保なりたる故也、然れ共信長大形ならぬ表裡の大将故、すゑ〳〵神保をたやし候はんために、佐々内蔵介と云ふ、信長内にて柴田修理に、おとらぬ、剛の武士を神保かいぞへにさしこすと事よせて次第に神保をかすめ、越中は佐々内蔵介に、給はるとのもやうなれども、神保もいづかたへとたより申べきかたなければ、結句敵の謙信他界を悔む也とは後知れ候
右三郎殿景勝取合は、謙信他界の砌、景勝は春日山の城本城を謙信にゆつられたると云て即時に景勝本城へいる、三郎は此行に心つかず右より春日山の城、二のくるわに御入候、本城より景勝衆弓鉄炮にていかけ打懸仕る故、三郎殿たまらずして、越後の内府中のお館と云城へ取籠給ふ、春日山城より、御館の城へは上道一里半、東道九里なり、去るに付北条丹波守と云ふ謙信家老大剛の侍大将なり、居城は越後とちうと言ふ城なり、春日山よりとちうへ二日路あり、上州前橋の城も、此丹波守子息を置き、北条丹後守謙信跡のさだつをきゝ、急ぎとちうを打立春日山へ着、景勝に意見申仔細は謙信公御跡八ケ国のうち、東上野、佐渡越後、庄内四ケ所を、三郎殿へわたされ景勝、加賀、越中、能登、飛弾此四ケ国を支配あり、三郎殿と能仰あはせられ越前へ打出で御尤もに候、三郎殿と兄弟のうちは弓矢は必らず思召とゝまり給へ其いはれは、信長と云ふ大さに手だれなる大将、此人の仕形は五畿内の弓矢もいづれすへになりたるをば高声をしておどし段子のうちがい袋に米を入、五騎十騎にて都へかけつけ、五畿内中国の町人に相似たる侍ひ共或ひは一向坊主などをばいかにも信長は手がるにして武篇を仕るとおどしかけ弱敵の国共を沢山にとり武田信玄在世の時は、信長居城岐阜の三里ちかく迄とられても甲府へ切々音信仕り、信玄死してより六年巳来は、越後に人を付謙信公御機嫌を取り此方よりは取合と仰せこされ既に、越前にてやき働きあそばし候へども、それにもかまはず信長旗本の侍、佐々権左衛門を春日山に付置、謙信公御意には権左衛門是れに能く相詰候とて、佐々伊豆守に仰付られ、信長衆を越後にて受領御させ候事、只信長は謙信公御旗下のごとくにて候、佐々伊豆守も謙信公御他界をみて既に夜おちに仕り、瑕乞なく罷上るよしに候へば彼手だれの信長は、必ず越後のうち弓矢を慶び、此月来月の間に、加賀、越中、能登へ信長発向あり、三ケ国を手につけらるべき事うたがひなし、左様には此方へ手をいれたる信長に謙信公御辛労ありて取給ふ国をとられ給はんこと口惜き次第なり、と申せ共景勝取合ひやめ給はず候故、北条丹後守三郎をひき越後の善光寺に陣をとり、春日山喜平次景勝方へ丹後足軽をかけ数度のせり合に景勝負也、然れば景勝此年二十四歳なれども、弓箭に利発なる大将故、夜半に忍びて人数を出し善光寺後ろ、くわどりと云ふ所へ廻り暁つき、北条丹後陣所へかゝつて喜平次合戦をはじむるさすがに、大剛の北条丹後も思ひよらざる陣取の後ろよりかゝられ、殊に暁つきなればたまらずして三郎居城の府中へ迯候所を追懸景勝内の荻出主馬助、北条丹後を能見知り、追付て二鑓つく丹後そこをばきりはらひ、よくのき候へ共痛手なる故、一日ながらへ二日目に越後府中において死す、さるに付三郎殿既に、景勝に負給ふにより小田原北条氏政より、甲州勝頼公へ御使あり早々三郎殿をすけ景勝を退治被㆑成候へと、此方小田原より【 NDLJP:244】は江戸の遠山に富長、中条、常岡、太田大膳兼高、北条治部、都合人数一万五千三郎をすけ、景勝退治に差越候との、御一左右を聞召二万の人数をもよほし越後の内おいづまで喜平次退治に御馬を出さるゝ子細は勝頼公氏政の御妹聟に候三郎殿御ためにはあねむこにてまします故、如㆑件、去る程に景勝討死うたがひなしと申候により景勝分別いたされ、勝頼公にて両出頭、長坂長閑、跡部大炊慾をかまへ万事礼物をとり賄賂にて事をすます義聞及候故、勝頼公へ景勝手を入、長坂長閑、跡部大炊を、たのみ謙信の貯置かれたる金子共を取出し、長閑に二千両、大炊介に二千両くれ、勝頼公へ一万両進上申候、其上御縁者に被㆓仰付㆒候は、勝頼公御旗下に景勝罷成申べく候、殊に東上野少しも残らず勝頼公へ指上申候、とあるにつき長坂長閑、跡部大炊、勝頼公へ申あぐる、信玄公御他界の前、春中に天下へ趣き給ふとて御支度のため金子を御調へあるに、後家役、出家の妻帯役まで召あげらるゝといへども、漸〳〵七千両ばかりにて候、只今又是れは何事もなきに立所にて一万両の金子調ひ申候儀は、信玄公十双倍勝頼公御威光ましなさるゝ故如㆑件、其上景勝起請を仕り、御旗下に罷成尽未来御無沙汰申間敷と有儀也、さありて東上州御手にいれらるべき事、大なる御徳分にて候、景勝へは信玄公御在世の時、一向宗の長島へ御約束のお菊御料人をこしまいらせられ候へかし、一段然るべく候、又いかに御小舅にて御座候共三郎殿理運になされ候はゞ小田原の氏政大侫人にて、慾のふかき屋形に候へば、越後を取つゞき、後は勝頼公を退治なさるべき御たくみうたがひなしと、長坂長閑、跡部大炊介申により勝頼公其儀に御つき、喜平次と無事になされ小舅の三郎殿を此年中にころしまいらせられ候、武田殿は領分の衆侍の事は大小共に申に及ばず町人地下人長袖の出家衆まで是を聞とりざたに、武田の御家御滅亡うたがひなし、義理をちがへきたなき慾をかまへ金を取、比興なる仕形、何に付ても一ツとしてよきと申べき事なし、長坂長閑、跡部大炊両人ながら分別なくて礼を取、義理も恥もしらず末の考へもなく、をのれが欲得ばかりに耽り、ケ様の悪敷御意見申上るにそれを能と思召、それに徳なさるゝは勝頼公御滅亡の是れもとなりと、大小上下ともにさたいたす、他国の家にちがひたる、武田の家の作法にて、如㆑件、よその家には第一に武道をかざり候故、ばい頸を仕てもひいき〴〵にさた申てくるしからず候事は、心に心をはちずして、其者共其後は必らず味方うちを仕るなり、其外なき手柄をつくり、道理非のわけもなく、武士手がらのあさきふかきせんさくもなくよきひいきおほくもつ人を能と申、如㆑件よろづをさたして、ゑりもとにつき、足もとのよわきをはやく捨強き方へ付、軽薄なる故、大将の被㆑成し事をば何たる悪き儀をも、能事かなとほむるは、其家の大将ぶせんさくにて、如㆑件、武道ぶせんさくなれば、それにつれ万事ぶせんさくなり、武田の御家も前二十五代の事は久しき儀信虎公信玄公二代に武道のせんさくよくつよき故、今四郎殿御代にもせんさくつよし、さるにつき侍は弓矢道のせんさく肝要なり、武田の家、前代信玄公の時一入よきせんさくありつる故、当屋形勝頼公御代にも、悪き事をば味方の儀をも、うちわよりそしり、又越後輝虎の家も、為景と輝虎と、二代武道つよみの故、武田の家の如くなり、子細は信玄公の御時、永禄四年信州川中島合戦に、信玄公の御旗本五町ほどくづれ候へども信玄公は御中間衆二十人計りにて、おく近習には土屋平八十七歳、真田喜兵衛十八歳、長坂源五郎二十歳、初鹿野弥五郎十八歳、此若衆ばかりつき奉り、信玄公少しも、くづれ給はず候然れ共御手を二ケ所負給ふ、其上舎弟典厩討死なされ候、太郎義信六七町くづれ給ひて、是も御手二ケ所をはれ候所に、武田の先衆懸付、謙信衆を、東道五十里、追討に仕る、謙信は和田喜兵衛一騎供仕、山へかゞまりのき給ふ所といへ共、此合戦をも、武田方よりは大形信玄公御負か又は持合戦かとさた申候謙信又申さるゝは大なる我負也、子細は只二騎にて、わき道をのく或ひは越後勢三千あまり討とられ手負死人に八千あまり候、殊に甲州方大将わきの舎弟典厩などの頸を信玄衆に其場において取かへされ芝居をふまへられ候事、輝虎大なる負に究り候間、此合戦を仕り返し、其上にて信玄へ輝虎方より手を入、無事にと申さるゝも、弓矢つよき故、両方ともに我方より負とのさたなり、信玄公謙信公家の外よきせんさくの家ありといへども、一国をもゝたざる家中の事をば、他国にてさのみさたなし、さて又ぶせんさくにて万事かざる家中も、其大将果報つよくして、大身になる事あれども、其ごとくなる大将をば果報みなになると、一度に弓矢神より政道なされ、必らずきたなき死様ありて、跡の事は申に及ばず家中の大小上下共に、殊の外弓矢よわく、無案内にみゆるなり、是は偏へに大将の弓矢さのみつよくなくても果報にて大なる大身になりほまれ有家は、右の通り也、大将かざらずよきせんさくなれば跡までも強きはたらき有て、縦へ子息はちと武道かひなしといふとも、暫しも強きはたらき有は、前代にせんさくよき故なり其よきと云ふは、我心にて心をはぢ親子兄弟親類近付のうちはにて、互にあらそふ事、大将せんさ【 NDLJP:245】くよければ其下の衆、大小上下共に右の通り也、就㆑中越後にて長坂長閑、跡部大炊礼物を取り此年三十三歳に成給ふ若屋形勝頼公の御ためあしき儀を仕る故、甲府に長坂長閑、跡部大炊を題にして此年のくれに歌を二首よみて、三日市場とて日市の立辻に落書をたつる其うたに
無常やな国を寂滅する事は越後のかねの諸行なりけり
金故にまつきに恥は大炊助尻をすべても跡部なりけり
然れば北条家より、越後三郎殿への加勢、江戸の遠山は勝頼公喜平次と一ツに御成候をきゝ、早々引返し小田原へ帰り、氏政へ如㆑件の事を申故、北条家の衆大小上下共に勝頼公御比興なりと口惜がるは道理千万也、さありて高坂弾正戊寅月日病死するなり、天正七年己卯の歳より、小田原北条殿と甲州武田勝頼公御取合ある也仍如㆑件
長尾景勝より指上らるゝに付て、沼田前橋をはじめ東上野へ勝頼公御手を懸られ候、ようどの新左衛門北条此侍達、御礼各申さるゝ、勝頼公御領分になる、沼田城代に信州先方西条治部少輔をさしをかるゝなり
卯の年春、北条氏政公、勝頼公と御手ぎれのしるしに北条家より武蔵上野の堺目ひろき大仏に城をとり、はちかた、ちゝぶ新太郎殿衆を【広木
鉢形乃秩父新太郎】、さしをかるゝ是によつて勝頼公、沼田前橋へ発向なさる、勝頼公は前橋に御馬をたてられ、ひろき大仏筋を勝頼公より御破りあるべきとて、典厩大将分にてごかん衆【五感】、長根衆白倉衆先にして小幡上総守に仰付らるゝ、御旗本よりの警固に足軽大将には小幡豊後守、多田治郎左衛門御目付に、初鹿の伝右衛門、小山田八左衛門さし越給ふ、かくて先衆ひろきを破るべきと定めありて働きごかん長根衆先也、ひろき表に弓取二百丁ばかり其外雑兵七八百出たるを、ごかん長根衆みて右の方へまわり在郷働やきて通り旗本よりの警固足軽大将小幡豊後守、跡において是を見及び、小幡上総守に向つて申様は、ごかん長根衆働き申さるゝもやう、昨日御定めの儀に相違仕り、ひろき筋を何共さたなく仕ると相見へ申候、但しほど遠く候へば、敵の備へ様何様にいたして罷有もみへ申さず候先衆敵によつて後ろへ廻りて、勝負を始めらるゝか、さて又是へみゆるごとく当敵にかまはず、よの方へはたらかるゝか、其躰をそれがし参りよく見さだめて罷帰るべく候、是へみゆるごとくごがん長根衆ひろきにかまい申さず候其上総守殿御人数をもつて、ひろきを御やぶり御尤もか、其子細は敵ひろきの宿よりこなたへ、三町も罷出て備へ申間、かならず我等罷帰りて、上総守殿御備をよせらるべきと申て、豊後は先へ馬をはやめて行に、鉄炮衆を三人めしつれまいられ候、小幡左衛門見て上総守に申は同名豊後守、鉄炮を三丁つれてゆかれ候は、あれにてひろきの敵にうちかけ、其しほに馬をもつてのりこみ申べきもようと見付候御旗本よりの、けいごにて、ごかん長根の先衆、へりを取たるを見て、其跡へ物見に行、ひとて仕るべきと存ぜられたるとみへ申に同名豊後守をうたせては、上総守殿御比興になり申べきと、せんさくして、小幡左衛門、馬をはやめて、豊後に乗つけんといそぐ、上総守も人数をよせらるゝ左衛門につつゞきくまいどゝ【熊井戸】申上総守内衆剛の武士一騎すゝみてゆく、はたもとの警固足軽大将多田治部検使の初鹿の伝右衛門、小山田八左衛門馬をはやめてのりつけ申候、小幡左衛門見分の如く小幡豊後鉄炮を二ツうたせ三ツめにかたなをぬき敵の中へ乗込弓取二三人のりころばし三人の鉄炮足軽に三人ながらに高名させ申され候、豊後守具足の胸板に矢疵三ツ、くさずりに二ツあたり候へども、仏胴のためし具足なる故、きずになるほどうらへぬけず候、多田治部右衛門馬の平頸をつかれ馬よりおりて其つきたる敵をうち初鹿野伝右衛門も人をうち小幡左衛門手がらのはしりまはりあり、それにつゞきたる、くまいども手がらのはたらき仕る、さりながら其日は、小幡豊後守比類なき武勇なり、後ち小幡豊後事典厩上総守両侍ひ大将の御披露にて、勝頼公きこしめし、小幡豊後は総二郎と申時より数度の儀今にはじめざる事と勝頼公御幼少より、聞召及バれ候、さりながら今度のもやう、若きはたらきなり、小幡左衛門能見知り跡より懸付候へばこそ、何事なく候へ、さなくは豊後討死うたがひなしと仰られ、御ほうびの上にても勝頼公御立腹なり、如㆑件
同年秋甲州より、越後へ御輿いる、越後長尾喜平次、景勝は甲州武田勝頼公、御妹聟に成り給ふ也、此御料人お菊と申は甲州あぶら川腹にて、仁科五郎殿と一腹にてまし〳〵信玄公御在世の時より、信州仁科の名跡に五郎殿を、御定めあり、次男龍宝公は盲目にて御座候故、惣領には成り給はず信州海野殿名蹟に信玄公、御在世の時より、如㆑件六郎殿も葛山の名蹟に御定め、是れも信玄公の御時如㆑件
景勝より御曹司信勝公へ御音信に謙信もてあそび、城ぜめのあやつりからくり物、敵みかた二千ばかり【 NDLJP:246】の人数ある一間四方の城がたちを進上申され候