尋常小學國史


Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/1Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/2Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/3Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/4Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/5第一 天照大神

天皇陛下の御先祖を、天照大神と申しあげる。大神は御徳たいそう高い御方で、はじめて稲や麦などを田畑にうゑさせたり、蚕をかはせたりして、萬民をおめぐになつた。 大神の御弟に、素戔嗚尊といふ御方があつて、たびたびあらあらしい事をなさつた。それでも、大神は、いつも尊をおかはいがりになつて、少しもおとがめになることはなかつた。しかし、尊が大神の機屋をおかげしになつたので、大神は、とうとう天の岩屋に入り、岩戸を立てて御身をおかくしになつてしまつた。 大勢の神々は、たいそう御心配になつた。何とかして大神をお出し申さうと、岩戸の外に集つて、いろいろ御相談の上 、八坂瓊曲玉や八咫鏡などを榊の枝にかけて、神楽をおはじめになつた。その時、天鈿女命のまひの様子がいかにもをかしかつたので、神々はどつとお笑ひになつた。大神は何事が起つたかと、ふしぎにお思ひになり、すこしばかり岩戸をお開きになつた。すぐさま、神々は榊をおさし出しになつた。大神の御すがたが、その枝にかけた鏡にうつつた。大神は、ますますふしぎにお思ひなり、少し戸から出て、これを御らんにならうとした。すると、そばにかくれていた田力男命が、大神の御手を取つて、岩屋の中からお出し申し上げた。神々はうれしさのあまり、思はず聲をあげて、およろこびになつた。素戔嗚尊は、神々に追はれて、出雲におくだりになつた。さうして、簸川の川上で、八岐の大蛇をずたずたに斬つて、これまで苦しめられてゐた人々をおすくひになつたが、この時、大蛇の尾から一ふりの劔を得、これはたふとい劔であるとて、大神におさし上げになつた。これを天叢雲劔と申しあげる。素戔嗚尊は御子に、大国主命といふ御方があつた。命は、出雲をはじめ方々を平げられて、なかなか勢いが強かつたが、その他の地方は、まだまだまるものが大勢ゐて、さわがしかつた。大神は、御孫の瓊瓊杵尊にこの國を治めさせようとお考へになり、まづ御使を大國主命のところへやり、その地方をさし出すやうにおさとしになつた。命は、よろこんで大神のおほせに従つた。そこで、大神は、いよいよ瓊瓊杵尊をおくだしにならうとして、尊に向ひ、「この國は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。皇位の盛なること、天地と共にきはまりなかるべし。」とおほせになつた。萬世一系の天皇をいただいて、天地とともにいつの世までも動くことのないわが國體の基は、実にこの時に定まつたのである。 大神は、また八坂瓊曲玉・八咫鏡・天叢雲劔を瓊瓊杵尊にお授けになつた。これを三種の神器と申し上げる。尊は、この神器をささげ、大勢の神々を従へて、日向へおくだりになつた。これから神器は、御代々の天皇がおひきつぎになつて、皇位の御しるしとなさることになつた。 大神は、神器を尊にお授けになる時、この鏡をわれと思ひてつねにあがめまつれ。」とおほせになつた。それ故、この御鏡を御神體として、伊勢の皇大神宮に大神をおまつり申し、御代々の天皇をはじめ、國民すべてが深く御うやまひもうしあげてゐるのである。

天照大神ー天忍穂耳尊ー瓊瓊杵尊ー彦火々出見尊ー鵜葺草葺不合命ー神武天皇

第二 神武天皇

瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、御代々、日向においでになつて、わが國をお治めになつた。けれども、東の方は、なほわるものが大勢ゐて、たいへんさわがしかつた。それ故、天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、船軍をひきゐて、日向から大和へお向ひになつた。さうして、途中所所お立寄りになり、そのあたりを平げつゝ、長い間かゝつて難波におつきになつた。 天皇は河内から大和へお進みにならうとした。わるものどものかしらに長髄彦というものがゐて、地勢をりようして御軍をふせぐので、これをうち破つて大和へおはいりになることは、むづかしかつた。そこで、天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになることになつた。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かつたので、ひととほりのお苦しみではなかつた。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とう〃大和におはりになつた。 天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになつた。しかし、長髄彦の手下のものどもが、いつしやうけんめいに戦ふので、御軍もたやすく勝つことが出来なかつた。時に、空がにはかにかきくもり、雹が降出した。すると、どこからともなく、金色の鵄が飛んで来て、天皇のお持ちになつてゐる御弓のさきにとまつて、きらゝと強くかゞやいた。そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦うことが出来なくて、まけてしまつた。長髄彦も、まもなく殺された。 やがて、天皇は、宮を畝傍山の東南にあたる橿原にお建てになり、はじめて御即位の禮をお擧げになつた。この年をわが國の紀元元年としてゐる。さうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、國民はこぞつて、この日に紀元節のお祝いをするのである。 天皇は、また御孝心の深い御方で、御先祖の神々を鳥見山におまつりになつた。かやうに、天皇は、天照大神のお定めになつたわが帝國の基を、ます〃固めて、おかくれになつた。そのおかくれになつた日に毎年行はれる御祭は、四月三日の神武天皇祭である。


第三 日本武尊


神武天皇が大和におうつりになって後は、天皇の御威光はおひおひ四方にひろがっていった。けれども、都から遠くはなれた東西の国々には、なほわるものが大勢ゐて苦しめてゐた。 (熊襲をお平げになつた) 第十二代景行天皇の御代になつて、九州の南の方に住んでゐる熊襲がそむいたので、天皇は御子の小碓尊にこれをお討たせになつた。尊は、御生まれつきくわつばつで、その上御力もたいそう強い御方であつたから、この頃まだ十六の少年でいらつしやつたが、おほせを受けると、すぐ九州へお出かけになつた。熊襲のかしらの川上のたけるは、かうしたことがあらうとは夢にも知らず、大勢のものといつしよに酒を飲んで楽しんでゐた。尊は、御髪をとき、少女の御すがたになつて、たけるに近づき、劔をぬいてその胸をお刺しとほしになつた。不意をうたれたたけるは、たいへん驚いて、「何とお強いことでせう。あなたは実に日本一の強い御方です。これからは日本武と御名のりなされよ。」と申しあげて、息が絶えた。尊は、そこで御名をお改めになり、めでたく大和にお帰りになつた。(東国へお向ひになつた) その後、東の國の蝦夷がそむいたので、てんのうはまた尊に、これをお討たせになることになつた。尊は、いさみいさんで都をお立ちになり、まづ伊勢に行つて皇大神宮に参詣し、天叢雲劔をいたゞいて、東の國へお向ひになつた。 尊が駿河の國におつきになつた時、その地のわるものどもは鹿狩をするからと、尊をだまして、廣い野原におさそひした。さうして、急に草をやきたてて、尊をがいしようとはかつた。尊は、天叢雲劔をぬいてあたりの草を薙ぎはらひ、大いにおふせぎになつたので、わるものどもは、かへつて、自分のつけた火にやかれて、すつかりほろぼされてしまつた。 (草薙劔) これから、この御劔を草薙劔と申しあげることとなつた。 (蝦夷を平げになつた) 尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、蝦夷どもは、御勢に恐れて、弓矢を捨てて降参した。かやうにして、尊は國々をお平げになつたが、都へお帰りになる途中、御病のため、とうとうおなくなりになつた。 (尊の御てがら) 尊はたふとい御身でいらつしやるのに、つねづね兵士といつしよに難儀をおしのびになり、少年の御時から、西に東にわるものどもをお討ちになっつて、少しも御身をおやすめになるおひまがなかつた。さうして、天皇の御位にお即きにならぬうちに、おなくなりになつたのである。けれども、尊の御てがらにより、遠いところまで平いで、世の中はたいそうおだやかになつた。尊の御子が、後になつて、天皇の御位にお即きになつた。この御方を第十四代仲哀天皇と申しあげる。

第四 神功皇后

(熊襲をお討ちになつた) 仲哀天皇の皇后を、神功皇后と申し上げる。皇后は御生まれつきお賢く、またをゝしい御方であつた。天皇の御代に熊襲がまたそむいたので、天皇は皇后と御いつしよに九州へ下つて、これをお討ちになつたが、まだよくしづまらないうちに、おかくれになつた。 (新羅をお討ちになつた) この頃朝鮮には新羅・百済・高麗の三国があつて、これを(三韓) 三韓といつた。中でも、新羅は一番わが國に近くて、その勢いはたいそう強かつた。それで熊襲がたびたびそむくのは、新羅がこれを助けるためであるから、新羅を従へたなら、熊襲はしぜんと平ぐであらうと、皇后はお考へになり、武内宿禰と御相談になつて、御みづから兵をひきゐて新羅をお討ちになつた。時に紀元八百六十年である。 (三韓を従へなさつた) 皇后は船軍をひきゐて、対馬にお渡りになり、それから新羅におし寄せられた。軍船は海にみちみちて、その御勢はたいそう盛であつたから、新羅王は非常に恐れて、「われは、日頃東の方に日本という神国があつて、天皇と申す御方がいらつしやると聞いてゐる。 今攻めて来たのは、きつと日本の神兵にちがいひない。さうとすれば、どうしてふせぐことが出来よう。」といつて、すぐに白旗をあげて降参し、皇后の御前に来て、「たとひ太陽が西から出、川の水がさかさまに流れるやうなことがあつても、決して毎年の貢はおこたりません。」とおちかひ申しあげた。ほどなく皇后は御凱旋になつたが、その後、百済・高麗の二國もまたわが國に従つた。 (皇后の御てがら) これから、朝鮮も朝廷の御威徳によくなびいたので、熊襲もしぜんにしづまつた。また第十五代應神天皇の御代に、王仁といふ学者などの職人もつぎつぎに渡つて来て、これらの人々によつて、わが國はますます開けた。これは、全く神功皇后の御てがらによるものである。

第五 仁徳天皇 (人民をおはれみになつた) 第十六代仁徳天皇は、應神天皇の御子で、御なさけ深く、いつも人民をおあはれみになつた。天皇は、都を難波におさだめになつたが、皇居はいたつて質素な御つくりであつた。天皇は、ある日、高い御殿におのぼりになり、四方をおながめになると、村々から立ちのぼるかまどの煙が少なかつたので、これはきつと不作で食物が足らないためであらう。都に近いところでさへこんな有様であるから、都を遠くはなれた國々の人民はどんなに苦しんでゐることだらうと、ふびんにお思ひになり、三年の間は税ををさめなくてよいとおほせ出された。そのため、皇居はだんだんあれてきたが、天皇は少しも御気にもおかけにならず、御召しものさへ新しくおつくりになることもなかつたくらいである。 (人民がよろこんで皇居をお造り申した) そのうちに、豊年がつゞいて、村々の煙も盛に立ちのぼるやうになつた。天皇はこれを御らんになつて、「われは、もはやゆたかになつた。」とおほせられ、人民がゆたかになつたことを、この上なくおよろこびになつた。人民は、皇居がたいへんあれくづれてゐると伝え聞いて、もつたいなく思ひ、税ををさめ、また新しく皇居をお造り申しあげたいと願い出たが、天皇はお許しにならなかつた。けれども、人民は、なほ熱心にたびたびお願い申したので、その後三年たつて、やうやくお許しになつた。人民は、よろこびいさんで、我先に、とはせ集り、夜を日についで、いつしやうけんめい工事にはげんだので、皇居はわづかの間に美しく出来上つた。 (産業をおすすめになつた) 天皇は、なほ人民のためをおはかりになつて、堤を築かせたり、池を掘らせたりして、農業をおすすめになつた。それ故、人々は、皆深く天皇の御恩に感じて、それぞれ自分のつとめにはげんだので、よのなかがよく治つた。

第六 聖徳太子 (政治をおとりになつた) 仁徳天皇から御十八代めの天皇を第三十三代推古天皇と申しあげる。天皇は女帝でいらつしやつたから、御甥の (摂政) 聖徳太子を摂政として、政治をおまかせになつた。 (十七条の憲法をお定めになつた) 太子は御生まれつき人にすぐれてお賢く、一時に十人の訴をあやまりなくお聞き分けになつたとさへ伝へられてゐる。その上、朝鮮の学者について深く学問をおをさめになつたので、進んだ御考をおもちになり、朝鮮や支那のよいところを取入れて、いろいろ新しい政治をはじめになつた。さうして、遂には十七条の憲法を定めて、官吏も一般の人民も、皆つねに心得ておかねばならないことをお示しになつた。 (使を支那におやりになつた) 太子は、また使を支那にやつて、外国とのつきあひをおはじめになつた。その頃、支那は國の勢が強く、学問なども非常に進んでゐたから、日頃高ぶつて、他の国々を属国のやうに取りあつかつてゐた。けれども、太子は、少しもその勢いにお恐れになることなく、かの國に送られた国書にも、「日出処の天子、書を日没する処の天子にいたす。恙なきか。」とおかきになつて、どこまでも対等のおつきあひをなさつた。支那の国主は、これを見て腹を立てたが、ほどなく使をわが國に送つてきた。そこで、太子も、あらためて留学生をおつかはしになつた。その後、引つゞいて互にゆききをするやうになつたから、これまで朝鮮を通つてわが国に渡つて来た学問などは、これからは、すぐ支那から伝はることとなつた。 (仏教をおひろめになつた) さきに、太子の御祖父でいらつしやる第二十九代欽明天皇の御代に、仏教がはじめて百済から伝はつて来た。太子は、深くこれを信仰して、多くのお寺をお建てになつたり、またしたしく教をお説きになつたりして、熱心に御力をつくされたので、これから仏教はだんだん國内にひろまつた。かうして仏教がひろまるにつれて、建築やその他の技術なども目立つて進んだ。太子のお建てになつた寺の中で名高いのは、 (法隆寺) 大和の法隆寺で、そのおもな建築は、今も昔のまゝであるといはれ、わが國で一ばんふるい建物である。 (人々が太子をお惜しみ申した) かやうに、太子は、内に於ても、外に対しても、大いにわが國の利益をおはかりになつたが、まだ御位にお即きにならないうちに、御病のため、とうとうおなくなりになつた。この時、世の中の人々は、親を失つたやうに、皆なげきかなしんだ。


第七 天智天皇と藤原鎌足 蘇我氏の不忠 推古天皇の御代の前後に、最も勢があつたのは、蘇我氏である。蘇我氏は武内宿禰の子孫で、代々朝廷の政治にあづかつてゐたため、勢の盛なのにまかせ、しだいにわがまゝなふるまひが多くなつた。蘇我蝦夷は、推古・第三十四代舒明・第三十五代皇極の三天皇にお使へ申したが、たいへん心のおよからぬものであつたから、勝手に大勢の人民を使つて生前から自分たちの墓を作り、おそれ多くも、これを陵といつた。この時、聖徳太子の御女は、「天には二つ日なく、國には二人の君はない。しかるに、なぜかやうなわがまゝをするのか。」と、大いにこれをおしかりになつた。蝦夷の子入鹿は、父にもましてわがまゝなふるまひが多かつた。殊に、自分に縁のある皇族を御位にお即かせ申しあげようと、聖徳太子の御子孫をほろぼし、はては自分の家を宮、その子らを王子と呼ばせて、少しもはばかるところがなかつた。蝦夷父子のやうなものは、朝廷を恐れたてまつらぬ不忠の臣といはねばならぬ。 中大兄皇子鎌足と入鹿をお除きになつた

中臣鎌足は、この有様を見て、大いに怒り、朝廷の御ために、どうかして入鹿父子をほろぼさうと決心した。この頃、舒明天皇の御子中大兄皇子も、またかねてから蘇我氏のわがまゝなふるまひをおにくみになつてゐたので、鎌足は、何とかして自分の心を皇子にうちあけたいものと思つてゐた。ところが、ある時、皇子の蹴鞠の御遊にまゐりあひ、御そば近くにゐると、皇子の御靴がぬげた。これをとつてさし上げたのが縁となり、これから皇子にお親しみ申して、ひそかに、同じ志の人々といつしよに、謀をめぐらしてゐた。けれども、入鹿は、なかなか用心深くて、家のめぐりに池を掘つて城のやうにかため、出入の時には、大勢の人々を従へ、少しもゆだんをしなかつた。たまたま皇極天皇の御代に、三韓から貢物をさし上げることがあつて、大極殿で行はれる式に、入鹿も参列するから、その折をさいはひに、これをほろぼすこととなつた。皇子は、ご自身でほこをお持ちになり、鎌足らは、弓矢や劔などを持つて、御殿のわきにかくれてゐた。しかし、人々は、入鹿の勢に恐れて、ためらつてゐた。皇子はたまりかねて、をゝしくもまつさきにお進みになつた。そこで、人々もこれにつゞいて、とうとう入鹿を斬り殺してしまつた。皇子は、あらためて天皇の御前に進み、つゝしんで入鹿の不忠を申しあげられた。 蘇我氏がほろびた この時、蝦夷は家にゐたが、入鹿が殺されたことを聞くと、すぐに人々を呼集めて、皇子と戦はうとした。皇子は、さつそく人をやつて、わが國には昔から君臣の別があつて、これをみだすのは不忠であるわけを、ねんごろに説聞かせられたので、人々はちりぢりに逃去り、蝦夷も、家に火をつけて自害した。 武内宿禰ー蘇我石川・・・・・・・・馬子ー蝦夷ー入鹿

第八 天智天皇と藤原鎌足(つゞき) 大化の新政をおたすけになつた 皇極天皇は、ほどなく、御位を第三十六代孝徳天皇にお譲りになり、中大兄皇子は、皇太子にお立ちになつた。皇太子は、天皇をおたすけになつて大いに政治を改め、これまで勢いのあるものが、たくさんの土地をもつて、勝手に人民を使つてゐた習はしをやめさせ、これらの土地や人民をすつかり朝廷にをさめさせられた。この新しい政治を大化の新政といふのである。 年号の始 大化とは、この時お定めになつた年号である。これが年号の始で、その元年は紀元一千三百五年にあたつてゐる。 百済をおすくはせになつた 孝徳天皇がおかくれになると、皇極天皇がふたたび御位にお即きになつた。第三十七代斉明天皇と申しあげる。中大兄皇子は、なほ皇太子として、引きつゞいて政治にあづかつておいでになつた。この頃、支那は唐の代で、勢がたいへん盛であつたから、新羅はその助をかりて百済をほろぼさうとした。百済の人々は、朝廷にすくつていただきたいと願つてきた。皇太子は、天皇に従って、すぐ九州に下られたが、天皇が行宮でおかくれになったので、その御あとを受ついで、御位にお即きになつた。第三十八代天智天皇と申しあげる。天皇は、兵を出して百済をすくはさせられたが、運わるくわが軍が戦にまけたので、百済はやがてほろびてしまつた。そこで、天皇は、このまゝ、わが軍をながく海外にとゞめておいても、何の利益もないとお考へになつて、とうとうこれを引きあげさせられた。まもなく、高麗もまた唐にほろぼされたので、新羅がひとり勢をを振るふやうになり、これから朝鮮は、全くわが國からははなれてしまつたのである。けれども、唐とは、この後も、つきあひをやめるやうなことはなかつた。 国内の政治を改めなさつた これから、天皇は御心を一筋に國内の政治にお向けになり、まづ都を近江にうつされ、また鎌足にいひつけて、いろいろ新しい法令を定めさせられた。 大宝律令 この法令は、第四十二代文武天皇の大宝の御代になつて大いに改められ、大宝律令といつて、ながく政治の本となつたのである。 鎌足のてがら 中臣鎌足は、さきに蘇我氏をほろぼしてから、二十年余りの長い間、真心をこめて朝廷にお仕へ申しあげ、てがらが多かったので、天皇はいつも重くお用ひになつてゐた。鎌足が大病にかゝつた時には、おそれ多くも、その家に行幸をなさつて、したしく病気をおいたはりになり、「何でも望むことがあるなら遠慮なく申せ」とおほせられた。鎌足は、深く天皇の御恩に感激して、「私のやうなおろかな身に、何のお望み申しあげることがございませう。たゞ一つ、どうか私の葬儀をてあつくなさらないやう、お願ひ申しあげます。」とお答へもうしあげた。しかし、天皇は、やがて鎌足に最も高い位をお授けになり、また藤原という姓をお与へになつた。 藤原氏の始 後に栄えた藤原氏は、この時に始まったのである。鎌足は、大和の談山神社にまつられている。Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/25Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/26Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/27Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/28Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/29Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/30Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/31Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/32Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/33Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/34Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/35Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/36Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/37Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/38Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/39Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/40Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/41Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/42Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/43Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/44Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/45Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/46Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/47Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/48Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/49Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/50Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/51Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/52Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/53Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/54Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/55Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/56Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/57Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/58Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/59Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/60Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/61Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/62Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/63Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/64Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/65Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/66Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/67Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/68Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/69Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/70Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/71Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/72Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/73Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/74Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/75Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/76Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/77Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/78Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/79Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/80Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/81Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/82Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/83Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/84Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/85Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/86Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/87Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/88Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/89Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/90Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/91Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/92Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/93Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/94Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/95Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/96Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/97Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/98Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/99Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/100Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/101Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/102

第二十二 後醍醐天皇 天皇が政権を取り戻そうとなさった 弘安の役から40年ばかりたって、第96代 後醍醐天皇が御位にお即きになった。天皇は、後宇多天皇の御子で、聡明な御生まれつきであらせられたから、お小さい時から、御祖父の亀山上皇にたいそうかわいがられていらっしゃった。また学者を召して、広く学問をお修めになり、政治に御心をお用いになって、早くから鎌倉幕府のわがままなふるまいをお怒りになっていたから、後鳥羽上皇の御志をついで、政権を朝廷に取り戻そうとお考えになった。 北條高時 この頃、幕府では、北条時宗の孫の高時が政治を行っていたが、おろかな生まれつきで、昼となく夜となく宴会を催したり、数千匹の犬を集めて、そのかみ合いを見物したりして、少しも政治に力を入れなかったため、たいへん人望を失った。 天皇が笠置山に行幸をなさった そこで、天皇は、かねてからの御志をしとげるのはこの時であると、ひそかに武士をお召しになった。ところが、この事が、いつのまにか、鎌倉に漏れ聞こえたので、高時は大いに驚き、急に兵を京都へ上がらせて来た。天皇は、これをお避けになって、山城の笠置(かさぎ)山に行幸をなさった。 楠木正成が行在所にまいった 河内の国 金剛山の麓に住んでいた楠木正成は、天皇の御召によって、まっさきに笠置の行在所(あんざいしょ)にまいった。そうして、天皇に拝謁して、「賊軍がどんなに強くても、謀をめぐらせば、これをうち破ることは、さほどむづかしくはありせん。けれども、勝敗は軍の習(ならい)でありますから、たまには敗れることがあっても、決して御心配下さいますな。正成一人なお生きているとお聞きなさっている間は、御運はいつかお開けになるものと、御心を安らかにしていらっしゃるようお願い申します。」と力強く申し上げた。それから、河内に帰って赤坂に城を築き、天皇をお迎え申そうとした。が、まもなく賊軍が笠置をおとしいれてしまった。 天皇が隠岐におうつされになった 天皇は、藤原藤房(ふぢふさ)らを従がえられ、御徒歩(かち)で笠置をおのがれになったが、その途中の御難儀は、まことにおそれ多く、昼はかくれ、夜になると、あてもなくさまよわせられる御有様であった。お供の藤房らは、三日の間も、食事をしなかったため、身も心もすっかり疲れはてて、しばらく木かげに休んでいた。その時、こずえの露が落ちて、天皇の御衣をぬらしたので、天皇は、

さしてゆく 笠置の山を出でしより、 あめが下にはかくれがもなし。

とおよみになった。藤房は、もったいなさに、涙をおさえながら、

いかにせん 頼むかげとて立ち寄れば、 なほ袖ぬらす松のしたつゆ。

とお答え申し上げた。まもなく、天皇は、賊兵に捕らわれて、隠岐の島におうつされになった。 護良親王が吉野にたてこもられた 笠置が破れた後、賊軍は赤坂城を囲んで、とうとうこれをおとしいれてしまった。正成は、そこをのがれて、しばらく隠れていたが、ほどなく、ふたたび兵を集めて、城を金剛山の千早(ちはや)に築いた。天皇の御子 護良(もりなが)親王もまた、吉野にたてこもって、義兵を四方にお募りになった。けれども、すぐ賊の大群がおし寄せて来たので、吉野がまず陥った。この時、村上義光が親王の御鎧をいただき、これを着て、自ら親王と偽って自害したので、親王はやっと危ない難をおのがれになった。 正成が千早城にたてこもった 一方、正成は、わずかの兵を率いて千早城にたてこもり、さまざまに謀をめぐらして、たびたび賊軍を悩ました。この間に、国々では、親王の御命令を受けて、勤王の軍を起すものが多くなった。 天皇が伯耆に渡って名和長年をお召しになった 天皇は、この有様をお聞きになると、ひそかに隠岐から伯耆(ほうき・今の鳥取県西部)に渡って、その地の豪族 名和長年(なわながとし)をお召しになった。長年は、天皇の仰せを受けて大いに感激し、ただちに一族を呼び集めてこの事を伝えた。皆いずれも奮いたって、「この度、天皇の仰せをいただいたことは、この上もないわが家の名誉である。天皇の御ためには、たとい屍を戦場にさらしても、名を後の世に残さねばならない。急いでお迎えにまいろう。」といって、大急ぎで行宮を船上山(せんじょうさん)に造り、ここに天皇をお迎えして、兵を集めてお守り申し上げた。


足利尊氏らが六波羅をほろぼした そこで、天皇は、大勢の大将をやって、六波羅を攻めさせられた。高時は、これを聞いて大いに驚き、足利尊氏らにいいつけて、急いで兵を率いて京都へ上らせた。ところが、尊氏は源義家の子孫であるから、かねがね北條氏の下にいることを不平に思っていた。それ故、この時にわかに朝廷に従い、勤王の人々と力を合わせて、賊軍を討ち、とうとう六波羅をおとしいれた。よって、天皇は、さっそく船上山をお出ましになり、京都へお向いになった。 新田義貞が鎌倉をおとしいれた 新田義貞もまた、義家の子孫である。さきに、賊軍に従って千早城を攻めたが、前々から、朝廷にお味方しようと考えていた。そこで、ひそかに護良親王の御命令を受けると、病と偽って上野(こうつけ)に帰り、義兵を起した。そうして、進んで鎌倉を攻め、稲村崎(いなむらがさき)からうち入って、高時らを破って北條氏を滅ぼした。頼朝以来140年餘り続いた鎌倉幕府はここに滅びてしまった。 天皇が京都におかえりになった 船上山から京都へ向わせられた天皇が、兵庫にお着きになった時、義貞の使が来て、鎌倉を平げたことを申しあげた。正成も、また、部下を率いて兵庫に来た。天皇は、正成を御そば近くにお召しになって、大いにその手柄をお褒めになり、正成を前躯(ぜんく)として京都にお帰りになった。時に紀元1993年(元弘3年)であった。 建武の中興 これから、天皇は、御自ら天下の政治を行わせられることになった。そうして、護良親王は、その御手柄によって、征夷大将軍におなりになり、尊氏・義貞・正成・長年らも、皆それぞれあつく賞せられた。こうして、政権は再び昔のように朝廷にかえった。この時、年号が建武と改ったので、世にこれを建武の中興というのである。

第二十三 楠木正成(くすのきまさしげ) 尊氏の野心 鎌倉幕府が倒れて政権が朝廷にかえってから、朝廷の御威光は再び盛んになった。けれども、武士の中には、長い間幕府の政治になれていたため、君臣の大義を忘れ、朝廷の賞罰に不平を持ち、かえって武家の政治をよろこぶものが少なくなかった。足利尊氏は、かねがね将軍になりたいと望んでいたので、これら不平の武士を、ひそかに手なづけていた。 護良親王が害されなさった 護良(もりなが)親王は、早くも尊氏の野心をさとって、これを除こうとせられたが、かえって尊氏に讒言(ざんげん)させられ、これがために鎌倉に送られておしこめられたもうた。この頃、尊氏の弟の直義(ただよし)がその地を治めていたが、たまたま北條高時の子の時行(ときゆき)が兵を起して、鎌倉を取り戻そうとした。この戦に、直義は敗れて鎌倉を逃出したが、その時、おそれ多くも人をやって親王を害したてまつった。 鎌倉宮 親王の御年は、時にまだ二十八であった。鎌倉宮(かまくらのみや)は、親王をおまつり申し上げたお社(やしろ)である。 尊氏がそむいた 尊氏は、征夷大将軍となって東国を治めたいと、朝廷にお願い申したが、まだその御許しもないうちに、勝手に鎌倉に下って時行をうち破り、まもなく、その地に拠って朝廷にそむいた。天皇は、義貞をやって、これをお討たせになった。ところが、官軍は竹下(たけのした)や箱根の戦に敗れて退いたので、尊氏は、直義と共に、京都へ攻上って来た。天皇は、これを避けて、しばし比叡山にお出ましになった。けれども、この頃、天皇の御子 義良(のりなが)親王をいただいて奥州を守っていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)も、また朝廷の御命令を受け、親王のお供をして、兵をひきいて京都へ上って来た。 尊氏兄弟が九州に走った そうして、正成や義貞らと力を合わせて大いに賊軍を破り、尊氏や直義を西国へ走らせたので、天皇はふたたび京都におかえりになった。 尊氏兄弟が京都に攻上って来た 尊氏は、九州にいて勢いを盛り返し、直義と共に海陸両軍をひきいて、京都へ攻上って来た。そこで、義貞がこれを兵庫で防ごうとしたが、賊の勢がたいへん盛なので、天皇は、正成をやって、義貞を助けさせられることになった。この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰えるのを待って、一度にうち滅ぼそうという謀を建てたが、用いられなかった。それ故、正成は、おほせに従って、ただちに京都を立った。 正成が桜井の駅で正行をさとした 途中、桜井の駅に着いた時、かねて天皇からいただいていた菊水(きくすい)の刀を、かたみとして子の正行(まさつら)に与え、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代わって忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。それから、進んで湊川(みなとがわ)に陣を取り、直義の陸軍と戦ったが、その間に、尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかって来た。正成は大いに奮戦した。けれども、小勢(こぜい)で、かように前後(まえうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に11個所の傷を受けた。 正成が湊川で戦死した そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいって自害しようとした。この時、正成は弟の正季(まさすえ)に向って、「最期にのぞんで、何か願うことはないか。」とたずねた。正季は、ただちに「七度(ななたび)人間に生まれかわって、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答えた。正成は、いかにも満足そうににっこり笑い、「自分もそう思っているぞ。」と言って、兄弟 互いに刺しあって死んだ。時に、正成は年四十三であった。 湊川神社 今、正成をまつった神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には、徳川光圀(とくがわみつくに)の建てた「嗚呼 忠臣 楠子之墓」(ああ ちゅうしん なんしのはか )としるした碑がある。


古今 忠臣のかがみ 実に正成は古今忠臣の鏡である。わが国民は、皆、正成のような真心を以て、大いに御国のためにつくさねばならぬ。


第二十四 新田義貞(にったよしさだ) 名和長利が戦死した 湊川の戦に、新田義貞も敗れて京都に退いたので、天皇は再び比叡山へ行幸をなされ、尊氏は進んで京都に入った。官軍は、これを取り返そうとしたが、失敗して、名和長利らは戦死した。長年は、今、伯耆(ほうき)の名和神社にまつってある。 後醍醐天皇が吉野に行宮をお定めになった 尊氏は京都に入ると、賊の名をさけるために、豊仁(とよひと)親王を立てて天皇と申し上げていた。けれども、ほどなく、偽って朝廷に従うように見せかけ、後醍醐天皇に京都へおかえりなさるようにお願い申し上げた。天皇は、かりにその願をお許しになって、京都におかえりになったが、まもなく神器を御身にそえて、ひそかに吉野に行幸をなされ、行宮をここにお定めになった。 義貞が北国に向った さきに、天皇は、比叡山の行宮で、義貞を召して、北国におもむいて回復をはかるよう、おぼせつけになった。義貞 涙を流して感激し、すぐ一族のものと一緒に、皇太子 恒良(つねなが)親王と皇子 尊良(たかなが)親王とをいただいて、北国に向かった。途中、木目峠(きのめとうげ)を越えたが、折あしく吹雪がはげしくて行軍(こうぐん)の苦しみは非常なものであった。取分け、河野(こうの)の一族は、にわかに敵に出あったので、戦おうとしたが、馬は雪にこごえて進まず、兵士は指をおとして弓を引くことが出来ず、進退きわまって、主従三百人余り、一人も残らず討死(うちじに)した。 義貞はやうやう越前の敦賀(つるが)に着き、金崎城(かねがさきじょう)にたてこもった。ところが、ここもほどなく賊軍に囲まれて、城が危なくなったので、子の義顕(よしあき)を残して城を守らせ、自分は杣山(そまやま)に行って兵を募った。けれども、その間に、兵糧がなくなって、城がおちいり、尊良親王は義顕らと共に御自害なさった。皇太子は、捕らわれて京都へ送られなさったが、とうとう尊氏のために害せられたもうた。 義貞が藤島で戦死した 義貞は、こういう不幸せにあっても、少しもくじけず、杣山から奮いたって、たびたび賊軍と戦ってこれを破った。その後、藤島の戦に賊の勢が強くて、官軍は今にも敗れそうになってきたので、わづかに五十騎を従えて、急いでこれを救いに行った。途中、三百騎の敵兵に出あい、大いに奮戦したが、乗っていた馬が、矢にあたって泥田の中に倒れたので、義貞はすぐ起きあがろうとすると、その時、運わるく、飛んで来た一筋の矢が額にあたった。さすがの義貞も、もはやこれまでと覚悟して、自ら首をはねて、いさぎよく死んだ。時に、年三十八であった。これから、北国の官軍は、中心とたのむ大将を失って、全く衰えてしまった。今、福井の藤島神社には、義貞がまつられている。


第二十五 北畠親房と楠木正行 北畠顕家が戦死した 新田義貞が戦死する少し前に、北畠顕家(きたばたけあきいえ)もまた戦死した。さきに、顕家は、尊氏を九州に走らせてから後、ふたたび義良(のりよし)親王をいただいて陸奥に下り、霊山城(りょうぜんじょう)にたてこもっていたが、天皇が吉野に行幸をなさったことを知ると、また親王をいただいて京都へ向かい、所々で戦って敵を破った。けれども、その兵は、たびたびの戦にたいへん疲れて、都に攻め入ることが出来ず、顕家は和泉(いづみ)の石津(いしづ)で戦死したのである。時に、年ようやく二十一であった。 親房らが海路で東国へ向かった こういうように、顕家や義貞らの忠臣がつぎつぎに戦死したが、後醍醐天皇は、御志いよいよ堅く、顕家の父 親房(ちかふさ)らにいいつけて、また義良親王をいただいて陸奥に下らせ、官軍の勢を取り戻させようとおはかりになった。親房らは、伊勢から海路で東へ向ったが、途中で大風にあい、親房の船は常陸に着き、親王の御船は伊勢に吹き戻されたので、親王はそのまま吉野へお帰りになった。 後醍醐天皇がおかくれになった たまたま、天皇は御病におかかりになった。この時、まだ国々に朝敵がはびこって、世の中が騒がしいので、これをたいそう残念にお思いになりながら、とうとう行宮でおかくれになった。そこで、義良親王が御位をおうけつぎになった。第97代 後村上天皇と申し上げる。 親房が神皇正統記をあらわした その頃、東国の武士はたいてい賊に味方していたので、親房は陸奥に進むことが出来ず、常陸の関城(せきじょう)で賊兵に囲まれた。親房は、昼夜 賊を討つ謀をめぐらしながら、そのひまひまに、神皇正統記(じんのうしょうとうき)をあらわし、「天照大神から後村上天皇に至るまでの御血統の由来を述べて、君臣の大義を明らかにした。そのうち、まもなく城も落ち着いたので、親房はのがれて吉野に帰り、これから楠木正行らと力を合わせて、ともどもに天皇をお助け申し上げた。 楠木正行が四條畷(しじょうなわて)で戦死した 正行(まさつら)は、さきに十一歳の時、桜井の駅で父に別れ、国に帰ってからは、よく父の遺言を守って、つねづね朝敵を滅ぼそうと心がけて、一生懸命に励んだ。ようやく成人してから後村上天皇にお仕えして、たびたび賊軍と戦って、これをうち破った。取分け、摂津の瓜生野(うりゅうの)の戦では、賊兵が大いに敗れ、先を争って逃げる時、あわてて川に落ちて流れるものが五百人余りもあった。正行は、これを見てたいへん気の毒に思い、部下の者にいいつけて、これを救わせ、一々親切にいたわって送りかえした。こういう有様で、官軍の勢はますます強くなって、今にも京都へ迫ろうとした。尊氏は大いに恐れ、高師直(こうのもろなお)にいいつけて、急ぎ大兵を率いて正行に当らせた。そこで、正行は、ただちに一族 百四十人ばかりを連れて、吉野にまいって天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞(いとまごい)を申し、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじと かねて思へば梓弓、なき数にいる 名をぞとどむる。

という歌をしるし、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四條畷で戦った。この時、正行はどうかして師直を討ち取ろうと考え、たびたびその陣に迫ったが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、とうとう弟の正時と刺しちがえて死んだ。時に、正行は年ようやく二十三であった。 正行の忠孝両全(両全とは、君主への忠義と両親への孝行をどちらも果たすこと) 前年、正行に救われた賊兵は、深くその恩に感じ、正行に従ってこの戦でことごとく討死した。実に正行のような人こそ、勇も仁もある立派な武士で、忠孝の道を全うした人といわねばならぬ。こうして、楠木氏は正行の死んだ後も、その一族は、皆、真心こめて長い間、朝廷の御ためにはたらいた。今は、四條畷神社に正行をまつってある。

親房がなくなった この後は、親房がひとり官軍の中心となって、大いに忠義を尽くしたが、まもなく病にかかってなくなったので、これから官軍の勢はいよいよ衰えるようになった。摂津の安倍野神社や岩代の霊山神社に、親房父子をまつってある。

第二十六 菊池武光(きくちたけみつ) 肥後の菊池氏 朝廷では、たのみにしていた正行(まさつら)や親房(ちかふさ)のような忠臣がつぎつぎに亡くなったばかりでなく、国々の官軍もまた、たいてい衰えたが、ひとり九州では、官軍の勢いがなお盛であった。先に弘安の役に武勇の誉をあげた菊池武房(たけふさ)の孫の武時(たけとき)は、元弘3年、国々に勤王の軍が起こった時、早くも義兵を肥後に起し、わづかな兵を率いて博多の賊を討ち、はなばなしい戦死をとげた。これが九州で起った勤王の軍のさきがけで、その後、武時の子らも、皆よく父の志を受けついて忠義を尽くした。 武光が懐良親王をお迎え申した 時に、後村上天皇の御弟 懐良(かねなが)親王は、西国の官軍を統(す)べられるために、九州へお下りになった。武時の子の武光は、これを肥後にお迎え申し、親王をいただいて、たびたび賊軍と戦い、その勢がおいおい盛になった。尊氏はそのなりゆきを心配して、自ら武光を討とうとしたが、まだ出かけない中に、病にかかってにわかに死んだ。


筑後川の戦 菊池氏の勢いはいよいよ強くなり、武光は親王をいただいて兵を筑後に進め、賊の大将 少弐頼尚(しょうによりひさ)の軍と筑後川をはさんで陣を取った。武光は川を渡って戦をしかけたが、頼尚は陣を堅うして、なかなか戦おうとしなかった。そこで、武光は、さっそく兵を分けて攻めることとし、自分は親王といっしょに、敵の中堅(ちゅうけん)をめざして突き進んだ。この戦は大変激しく、親王は御身に三箇所までも傷を負われたほどであった。武光は、馬が傷ついた上に、冑(かぶと)がさけたので、敵を斬ってその馬と冑を奪い、死を決してめざましく戦った。そのため、さすがの敵もささえきれずに敗れ退き、頼尚は本国筑前に逃げ帰った。世にこれを筑後川の戦というのである。 子孫つぎつぎに朝廷の御ためにつくした 武光は、なおも親王をいただいて筑前に進み、頼尚を走らせて大宰府に入り、さらに京都へ向かおうとしていたが、その後まもなく、亡くなった。せっかく勢づいてきた九州の官軍は、これからだんだん衰えていった。けれども、武光の子孫はなお長い間朝廷の御ために力を尽くした。肥後の菊池神社は、この菊池氏一族の忠臣をまつったお社(やしろ)である。


第二十七 足利氏の僣上(せんじょう) 尊氏の無道 尊氏は、さきに後醍醐天皇からお手厚い恩賞をいただきながら、その御恩を忘れて、朝廷にそむき、忠義な人々を殺し、おそれ多くも皇族を害し申すようなことさえした。かような無道の行が多かった上に、自分の家をもよく治めることが出来ず、兄弟互いに憎みあい、はては弟の直義を毒殺してしまった。部下の将士もたびたびそむき、また互に争っていたので、いつも騒ぎが絶えなかった。その間に、足利氏は、尊氏の子 義詮(よしあきら)から孫の義満(よしみつ)の代となった。 細川頼之が義満をたすけた 義満が年ようやく十歳の時、父 義詮は重い病にかかって、もはや回復の望がなくなったので、日頃 信頼している細川頼之(ほそかわよりゆき)に遺言して、義満をたすけ導かせることにした。頼之は、足利市の一族であるが、いたってつつしみ深い人であったから、義満のそばに仕えている人々には、常におごりを戒め、またわがままな大名をおさえるなど、真心こめてその主をたすけた。それ故、これから足利氏の基はだんだん固くなった。 後亀山天皇が京都におかえりになった 義満は、やがて使を吉野にさしあげて、天皇に、京都へおかえりなさるようにお願いした。後村上天皇の御子 第九十九代 後亀山天皇は、かねがね、長い間の戦乱で、万民が苦しんでいることを不憫(ふびん)に思っていらっしゃったので、ただちにその願をお許しなさって、京都におかえりになり、神器を第百代 後小松天皇にお伝えになった。時に紀元2052年(元中9年)、後醍醐天皇が吉野へ行幸をなさってから、およそ60年ばかり経っていた。今までたいへん乱れていた世の中も、これから、やっと静まった。けれども、義満は征夷大将軍となって、大いに勢を振るうようになり、ふたたび武家政治の世となった。 義満がおごりをきわめた 義満は、まもなく将軍職を子の義持に譲ったが、自分は太政大臣になりたいと望んだ。武人で太政大臣に任ぜられたことは、平清盛から後 全く例がなかったのである。それにもかかわらず、義満はたびたび朝廷にお願いして、とうとう望をとげた。 金閣 このように、義満のわがままは次第につのり、はてはおごりの生活にふけるようになった。その室町(むろまち)の邸は、この上ない立派なもので、庭には美しい花がたくさん植えてあったから、人々はこれを花の御所といった。義満はまた、京都の北山(きたやま)に別荘を造り、庭に三層の楼閣(ろうかく)を建てて、壁といわず、戸と言わず、すべて金箔(きんぱく)で張りつめた。その美しさは、言葉にも、筆にもつくせないほどで、人々は、これを金閣と呼んだ。義満は髪をそってここに住み、なほ政治をとっていたので、朝廷の官吏も、皆 義満の威勢に恐れて、この別荘に来てその命令を受けるという有様であった。 義満の僣上(僣上とは、身分をわきまえない、さしでた行為をすること) 義満は、勢の盛なのにまかせて、臣下の分をわきまえぬわがままな行が、いよいよ多くなった。かつて比叡山に登った時などは、関白以下の公卿を従えて、おそれ多くも上皇の御幸(みゆき)の御儀式にまねたほどであった。 義満が國體をかろんじた この頃、支那は、元がほろびて明の時代となっていた。義満は使を明にやって交際をはじめたが、明主(みんしゅ)が義満を指して日本国王といっても、義満は別にはばかる様子もなく、自分からも進んで日本国王と名のって、書を送った。わが国には、天皇の外にまた国王があろうか。義満の行は、実にわが國體(こくたい)をかろんじたものというべきである。


第二十八 足利氏の衰微(すいび) 義政が政治に怠った 義満から四代たって、義政の代となった。義政はわづかに9歳で家をつぎ、ほどなく将軍となったが、少しも政治に心を入れなかった。たまたま大風や洪水があって、五穀がみのらない上に、悪病が流行って、人民が非常に困っているのに、義政は一向 憐みの心がなかった。かえって大金をかけて盛に室町の邸の普請(ふしん)などをしたので、第百二代 御花園(ごはなぞの)天皇は、たいそうご心配になって、これを戒められた。さすがの義政もこれにおそれいって、いったん工事をやめさせたが、なほたびたび花見の宴などを開いて、おごりにふけっていた。それ故、費用が足らず、人民からたくさんの税を取立てたので、人々の苦しみはますますつのり、世の中はいよいよ騒がしくなった。 足利家の相続争 義政は、三十歳ぐらいになると、はや政治に飽いてきた。けれども、まだ子がなかったので、弟の義視(よしみ)を養子とした。そうして、義視に将軍職を譲ろうと考え、細川勝元にこれを助けさせた。この時、義政は、この後たとい子が生まれても、けっして義視を退けるようなことはしないと堅く約束した。ところが、まもなく実子の義尚が生まれると、その母は、どうかして義尚を立てようと考え、山名宗全が勝元におとらない勢があるのを見て、これに義尚をたのんだ。 細川勝元と山名宗全とが対立した 足利家の相続の争は、そこで、細川氏と山名氏との争となったのである。

応仁の乱 紀元2127年、第103代 後土御門(ごつちみかど)天皇の応仁元年に、勝元も、宗全も、めいめい味方の大軍を京都に呼び集めた。そうして、勝元は、室町の幕府に入ってここに陣を取り、その兵はおよそ16万、宗全の陣はその西にあって、その兵はおよそ11万であった。これから、両軍は11年の長い間、戦ったが、その間に、宗全や勝元は続いて病死し、後には、両軍の将士らも戦争に飽いて、次第に国々に引き上げていった。京都の騒ぎは、そこで初めて静まった。世にこれを応仁の乱というのである。 大乱の後の京都の有様 この乱のために、幕府をはじめ、名高い社や寺、その他たくさんの建物は、たいてい焼けてしまって、花の都もあわれ焼野(やけの)の原となった。ある人が、この変りはてた有様を嘆いて、

汝(なれ)や知る 都は野べの 夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見ても 落つる涙は。

と詠んだ。 銀閣 こういう大乱の中でも、義政はなほおごりをやめないで、後に、京都の東山(ひがしやま)に別荘を造り、義満の金閣にならって、庭の中に銀閣を建て、茶の湯などの遊にふけり、むだに月日を送っていた。 幕府が衰えた それで、幕府の財政はますます苦しくなり、将軍の命令は、ほとんど行われないようになった。


第二十九 北條氏康(ほうじょううぢやす) 戦国時代 応仁の乱がやんだ後、多くの大将は、めいめい自分の国に引きあげて、なほ互いに争っていたが、将軍の威勢が衰えているので、これを抑えることが出来なかった。この間に、英雄が四方にきそい起こり、およそ百年の間、国々に戦乱は、ほとんど絶え間がなかった。世にこの時代を戦国時代というのである。 北條早雲が起った こういう時勢に、まず起こったのは、北條早雲(そううん)である。早雲は、平氏で、はじめ伊勢にいたので伊勢新九郎(いせしんくろう)といった。生まれつきすばしこい人であるから、早くから時勢を見ぬいて、家を興そうと考へ、六人の勇士をひきつれて駿河に下って来たが、その頃 東国がたいへん乱れていたのにつけいって、急に奮いおこり、伊豆を取って北條にいた。そうして、惜しげなく金銀をまいて人望をあつめ、また北條氏の子孫ととなえて、ますます士民をなつけた。早雲は、続いて相模を取ろうと考え、使を小田原(おだわら)城にやって、鹿狩といつわって箱根山を借りうけ、大勢の兵士を猟師の姿にかえて山に入りこませ、不意に小田原城に攻め寄せた。城主は大いに驚き、あわてて逃げ去ったので、早雲は、やすやすと城を奪つてここに移った。それからおいおいに相模を従えて、勢を東国に振るうようになった。 氏康の修養 早雲の子の氏綱(うぢつな)は、父に似て勇武な人で、兵を武蔵(むさし)に集め、上杉氏を破って、江戸や川越などの城をおとしいれた。氏綱の子の氏康は、十二歳の頃まではたいへん臆病であった。後、これを深く恥じ、大いにいくさのことを習って、とうとう勇気のある立派な人となり、父の後をついで、ますます勢を盛にした。

川越の戦 この頃、上杉朝定(ともさだ)や憲政(のりまさ)らが、川越城を取り返そうとして、八万の大軍をひきいて攻め寄せた。北條氏の将は、固く城を守って、半年も持ちこたえたが、そのうち、城中の兵糧がだんだん乏しくなった。そこで、氏康は、自ら小田原から助けに行ったが、その兵はわずかに八千ぐらいいの小勢であったので、敵の大軍には到底手向かうことが出来なかった。そこで、わざと仲直りを申し込んで、敵に油断をさせ、夜中に急に攻め寄せて、大いにこれをうち破った。この時、朝定は戦死した。憲政は、いったん上野に逃げかえったが、ほどなくまた氏康に攻められて、越後へ走った。 氏康はよく国を治めた これから後、氏康はますます他の国々を攻めて、大いに領地を広めた。氏康は、戦が上手なばかりでなく、国を治めることもすぐれていて、つねづね部下をかわいがり、よく領内の人々をめぐんだ。それ故、人々は、皆 氏康になつき、他の国々からもその政治をしたって、われ先にと小田原に集って来る者が多かったということである。早雲が起ってからおよそ六十年ばかりで、その領地は、伊豆をはじめ、相模・武蔵・上野などの国々にまで広まった。


第三十 上杉謙信と武田信玄 謙信の生い立ち 北條氏と肩を並べて勢いを争っていたのは、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)である。謙信は、もと長尾氏で、平氏の出であるが、その家は、代々 上杉氏に仕えて越後にいた。父を長尾為景(ためかげ)といい、謙信はその二男である。うまれつき大胆で、たいそう勇気があった。幼い時に、父が戦死して、兄の晴景(はるかげ)が家をついだが、柔弱であるため、とかく部下に軽んぜられて、国中がたいへん乱れた。そこで、謙信は、僧となって、他の国々を見て歩き、やがて越後に帰って兄に代り、国内の乱を平げて、進んで近国をも従へ、その勢はなかなか盛になった。後、上杉憲政(のりまさ)が北條氏康に追われて謙信をたよって来た時、その家名をくれたので、長尾氏を改めて上杉氏を名のることになったのである。 小田原に迫った これから、謙信は、憲政のために、たびたび兵を関東に出して北條氏と戦った。ある時など、はるばる小田原の城下近くまで攻め寄せたことがあったが、敵は謙信の武勇に恐れいって、途中一人として防ぐものもなく、まるで無人の原を行くような有様であった。 信玄の生い立ち この頃、甲斐に武田信玄(たけだしんげん)がいた。その家は、新羅三郎義光から出て、代々甲斐の領主であった。信玄は、幼い時から謀にすぐれていた。十六歳の時、父の信虎(のぶとら)に従って信濃に攻入った。信虎は八千の兵を率いて攻めたが、敵は堅く城を守ってなかなか屈服しなかった。 信濃を取った ところが、信玄は、わづかに三百の小勢で謀をめぐらし、不意打をして城をおとしいれた。ほどなく父に代って、よくその国を治め、またしだいに信濃を攻取ったから、信濃の村上氏らは、越後に逃げて謙信に助けをたのんだ。 川中島の戦 謙信は、村上氏らのために、たびたび信濃に攻め入って、信玄と川中島で戦った。中でも、ある年の秋の戦に、謙信が、一万三千の兵を従へて川中島に陣を取っていると、信玄は、二万の大軍を率いてこれをはさみうちにしようとした。謙信は、ただちにその謀をさとって、不意に信玄の陣に攻め入り、みづから太刀を振るって信玄めがけて切りつけた。信玄は軍配団扇(ぐんばいうちわ)でこれを防いで、やっと危いところを逃れることが出来た。

謙信が敵に塩を送った かようにして、長い間その勝敗は決まらなかった。謙信は、信玄とこれほど激しく戦っていても、甲斐の人民が塩が不足して苦しんでいることを聞くと、たいへん気の毒に思い、越後からわざわざ塩を遅らせた。人々はその義理のあついのに、深く感心した。 信玄は望をとげないで死んだ 信玄と謙信は、めいめい、折さえあれば京都に上って、天下に号令しようと望んでいた。そのため、信玄は、盛に近国を攻め取り、はては駿河を合わせ、遠江(とおとうみ)に進み、さらに三河(みかわ)に入ったが、たまたま病にかかって、国に帰る途中で死んだ。謙信は、これを聞いて、よい相手を失ったといって、たいそう惜しんだということである。 謙信も目的を果たさないで死んだ 謙信もまた、越中や能登などの国々を取り、大兵を率いていよいよ京都へ向おうとした。ところが、出発まぎわになって、急病で死んだので、とうとうその目的を果たすことが出来なかった。


第三十一 毛利元就(もうりもとなり) 東国で、北條・上杉・武田の三氏が互に勢をはりあっていた時、西国では、毛利元就がだんだん勢力を増していた。 元就の生い立ち 元就は大江匡房(おおえのまさふさ)の子孫で、その家は代々 安藝(あき)にあった。元就は、幼い頃から大きな志をいだいていた。十二歳の時、厳島神社に参詣したが、従者(じゅうしゃ)が何ごとか一心に祈ったのを見て、「何を祈っていたのか。」と尋ねた。従者は、「若君に、中国を平げさせていただきますようにと、祈りました。」と答えた。すると、元就は、「お前はなぜ天下を平げさせていただくようにと、祈らなかったか。天下を平げようと志しても、やっと中国ぐらいしか取れない。中国を平げようと志したのでは、どうして中国を取ることが出来るか。」といって、大いに戒めたということである。元就は、成人するにつれて、智力も勇気もともにすぐれ、またたいそう部下をかわいがったので、人々は、皆、心からなついた。 大内氏の乱れ これより前に、長い間 中国で勢を振るっていたのは、周防の大内氏であった。大内義興(よしおき)は、数箇国を領して、たいへん富強であって、その城下の山口は、京都をしのぐほどにぎわった。これに引きかえ、その頃の京都は、大いに衰えていて、朝廷でも御費用が足らないので、第百五代 後奈良天皇は、久しく御即位の礼をお挙げになることも出来ないような、おそれ多い御有様であった。この時、義興の子の義隆(よしたか)は、その御費用をさし上げて、忠義をつくした。けれども、義隆は富強をたのんで、しだいにおごりにふけり、軍備を怠ったので、しまいには、その家臣である陶晴賢(すえはるかた)に害された。 厳島の戦 この頃、元就は義隆の部下であった。そこで、すぐ義兵を起して晴賢の大軍を厳島におびきだし、風雨の夜にまぎれて島におし渡り、不意にその陣に攻入って、とうとう晴賢をほろぼしてしまった。世にこれを厳島の戦といっている。

元就の勢がよくなった 元就は、その勢でたちまち周防(すおう)や長門(ながと)などの国々を取って大内氏に代わったが、また兵を出雲に出して尼子(あまこ)氏と争い、七年の間も富田(とだ)の城を囲んで、とうとうこれを従えた。そこで、毛利氏は、中国や九州で十箇国餘りを領することになり、大内氏よりもはるかに強くなった。 御即位の費用をさし上げた けれども、元就は少しもおごる心がなく、よく大義をわきまえて、第百六代 正親町(おほぎまち)天皇が御即位の礼を行わせられる時には、その御費用をさし上げて、忠励をはげんだ。 三人の子を戒めた またある時、その子 毛利隆元(たかもと)・吉川元春(きつかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の三人に、互に仲よく助けあって毛利家を守ってゆくようにと、ねんごろに言い聞かせた。隆元は父にさきだって死んだので、その子の輝元(てるもと)が家をついだ。元春・隆景の二人は、心を一にしてこれを助けたので、毛利氏は元就の死んだ後でも、その勢は少しも衰えなかった。

第三十二 後奈良天皇(ごならてんのう) 公卿の苦しみ 戦国時代には、北條・武田・上杉・毛利の四氏の外にも、豪族が所々にたてこもって、互いに土地を奪いあい、いつも戦争が絶えなかった。それ故、国々にある公卿の領地はいうまでもなく、皇室の御料地でさえ、いつのまにか、勢力のある豪族におかされるという有様であった。ところが、幕府も貧しくて、皇室の御費用をさし上げることが出来なかったので、公卿のうちでも、縁をたよって地方に下るものが多く、京都に残ったものは、衣食にも事かくほどであった。ある時、身分のある公卿に面会を申しこんだ人があった。その人は、「この寒い時候に、夏の着物では面目ないから。」と、ことわられたので「いや、それで結構です。」といって、会ってみると、公卿は、素肌に蚊帳(かや)をまとっていたそうである。当時の公卿が、どんなにあわれな暮らしをしていたかは、この話からでも、おほかた知ることが出来よう。 朝廷が衰えられた 後奈良天皇の御代には、朝廷は取分け衰えていられたので、御所の築地(ついぢ)が破れても、これをつくろうことが出来ず、賢所(かしこどころ)の御(み)あかしの光は、遠く三條の橋から見えたといわれている。こういう御有様であるから、おそれ多くも、天皇の毎日の御用さえ御不自由なことが、たびたびであったという。 天皇は御儀式を御再興なさった けれども、天皇は、このように乏しい御費用の中からもなほ御倹約をなさって、長い間すたれていた朝廷の御儀式を御再興になった。それのみか、伊勢神宮の御建物がたいそうあれていたので、これをお造りしようとお考えになった。けれども、御心のようにならなかったので、いたしかたなく伊勢には奉幣使(ほうへいし)をさし向けて、そのわけをことわらせられた。殊に、天皇は、御あわれみの御心の深い御方であった。それ故、たまたま少しの貢でもさし上げるものがあると、これをすぐ皇族や公卿に、お分ちになった。 天皇の御仁徳 また、日頃 大御心(おおみごころ)を萬民の上におそそぎなさることも、ひととおりでなかった。ある年、長雨が降り続いた上に、悪病がはやり、そのために大勢の人が死んだ。天皇は、これを深く御心配になって、御みづから経文を写して国々にお下しになり、そのわざわいがとれるように祈らしめられた。天皇が、御身のお苦しみを少しも御心にかけられず、ただ一心に萬民をおめぐみくださった御仁徳のかたじけなさには、一人でも感泣(かんきゅう)しないものがあろうか。

第三十三 織田信長 戦国時代に諸国に起った英雄は、だれも、われこそ京都に上って天下に号令しようと望んでいたが、一人としてそれをしとげるものがなかった。ところが、織田信長が出て、はじめて、その目的を達し、取分け朝廷を尊んで、大いに忠勤をはげんだ。 信長の生い立ち 信長は、平重盛の子孫だといわれている。その家は、代々、尾張(おわり)にあったが、父の信秀(のぶひで)は勇武な人で、しきりに近国と戦って、領地を広めた。信長は幼い時から非常な乱暴者で、荒々しいふるまいが多く、家をついでからも、武術ばかりはげんで、少しも政治をみなかった。家臣の平手政秀(ひらでまさひで)は、たいそう心配して、たびたび諫めたが、どうしても聞入れないないので、とうとう書置(かきおき)して自殺した。時に、信長は二十歳であったが、その忠義に深く感激して、これから全く心を改め、行をつつしむようになった。後に、信長は政秀寺(せいしゅうじ)を建てて、手厚く政秀をとむらって、その忠節にむくいた。 桶狭間の戦 この頃、駿河に今川義元がいた。義元は、前々から信秀と争っていたが、遠江(とおとうみ)と三河(みかわ)との二国を従えたので、この上は、織田氏を滅ぼして京都に上ろうと思い、三国の兵 四万五千を率いて尾張に攻め入った。たまたま、信長は清洲(きよす)の城中で、家臣たちと夜話にふけっていたが、このしらせを受けても顔色さえ変えず、落ち着きはらって、そのまま笑い興じていた。しかし、翌朝、味方の砦(とりで)が危ないと聞くと、すぐさま馬を走らせて、打って出た。ところが、義元は、はや諸城を攻め取って気がおごり、桶狭間(おけはざま)に陣取って、将士といっしょに、酒宴を開いて楽しんでいた。信長の兵は、わづか二千に足らぬ小勢であったが、折からの暴風雨につけこんで、不意に義元の本陣にうち入り、敵兵が上を下へとうろたえ騒いでいる間に、目ざす義元を斬った。その時、義元は四十二歳、信長は二十七歳の血気ざかりであった。信長の威名(いめい)は、これから、たちまち四方に広がっていった。 正親町天皇のおほせを受けた 第百六代 正親町(おほぎまち)天皇は、日頃 朝廷の衰えたのをおなげきになり、どうかして天下の乱を鎮めたいと、お考えになっていらっしゃった。はるかに信長の武名をお聞きになると、わざわざ勅使(ちょくし)をお遣わしになって、古今にならびない名将とお褒めになり、御料地の回復をおほせつけられた。もともと、信長は勤王の心が深いので、天皇のおほせを受けると感涙にむせび、一身をささげて御心をおやすめ申さねばならぬと、堅く決心した。 京都に入って朝廷の御為に盡くした 時に、幕府もまた勢が衰えるばかりで、その命令はほとんど行われなくなり、将軍 義輝(よしてる)は部下に殺され、弟 義昭(よしあき)は助を信長にたのんで来た。そこで、信長は、義昭をいただいて京都に入り、朝廷に申しあげて、義昭を将軍の職につかせた。これから、信長は、皇居をつくろい、御費用をさし上げて、一心に朝廷の御為に盡くしたので、長い間絶えていた御儀式もはじまり、諸国に逃げていた公卿も、おいおいに帰ってきて、京都は、やっと、もとの有様に立ちかえるようになった。

足利将軍が滅んだ それから後、信長は、しだいに近畿(きんき)の諸国を平げ、士民をあわれんで、よい政治をしたので、その名はますます高くなった。義昭は、これを見て快く思わず、しまいには将軍の職も奪われるのではないかと心配して、信長を除こうとたくらんだ。信長は大いに怒って、義昭を追出したので、足利将軍は全く滅びてしまった。時に、紀元二千二百三十三年(天正元年)で、義満(よしみつ)が将軍となってから、およそ百八十年餘りたっていた。 安土城を築いた やがて、信長は、城を近江(おうみ)の安土(あづち)に築いた。城は琵琶湖に臨み、七重の天守閣(てんしゅかく)は高く雲間にそびえて、人目を驚かした。信長はここを根拠(こんきょ)として、四方を治めようと考え、まず羽柴秀吉(はしばひでよし)を中国(ちゅうごく)にやって、毛利輝元(もうりてるもと)を攻めさせた。そのうちに、秀吉から援兵を求めて来たので、信長は自ら中国に向おうとし、明智光秀(あけちみつひで)らを先発させ、自分は京都に入って本能寺(ほんのうじ)に宿をとった。 本能寺の変 ところが、光秀は、かねてから、その主のきびしい仕打(しうち)を怨んでいたので、本能寺の警戒が手薄いのにつけこんで、にわかにそむいて攻めかかった。信長は、自ら森蘭丸(もりらんまる)らと共に、必死に防いだが、かなわず、とうとう寺に火をつけて自殺した。時は天正十年、歳は四十九歳であった。 信長の手柄 信長は、さきに天皇のおほせを受けて以来、早く天下を平げて、御心をおやすめ申そうとつとめ、今ひといきでその大事業を成しとげようとしていたのに、たちまち逆臣(ぎゃくしん)の手にかかって倒れたのは、まことに惜しいことである。朝廷では、その手柄をお褒めになって、特に太政大臣従一位をお贈りになった。京都の建勲(たけいさお)神社は、信長を祀ったお社である。

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