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国史概説

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我が國體大日本帝國は、萬世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美德を發揮する。これ卽ち我が國體の精華である.國史は各時代に於いて、常に推移變遷の諸相を呈するにも拘らず、それらを一貫して、肇國の精神を顯現してゐる。國史の神髓は、この精神によつて貫ぬかれたる大なる生命であり、國史の成跡は、國體を核心とする國家發展の姿である。かくの如くして、宏遠なる太古に肇まり、不易の國體を中心として、撓むことなき生命を創造發展せしめつゝある國家は、世界廣しと雖も獨り我が國あるのみである。他の國にあつては、建國の精神は必ずしも明確ならず、而もそれは革命や衰亡によつて屢〓中斷消滅し、國家の生命は終焉して新たに異なる歷史が發生する。從つて建緒論 緒論二國の精神が、古今を通じて不變に繼續するが如きことはない。これ外國は個人の集團を以て國を形成し、君主は智·德·武等を標準としてそれらの力の優れたるものが位につき、これを失へば位を逐はれることがあり、或は民衆が主權者となり、多數の力によつて政治が行はれる。而してその據りどころとするこれらの力は極めて相對的であつて、消長汚隆や衝突を繰返すものであるから、人民をして屢〓不幸なる渦中に投ぜしめる。かくて他の諸國は歷史を貫ぬく不動の永遠性を有せず、所謂革命の國柄を爲してゐる。我が國家はこれと異なる。天皇は皇祖皇宗を祭らせられ、これと御一體にあらせられて神ながらに御代治しめし、宏大無邊なる聖德を具へさせられ、國土·國民の生成發展の本源にましまず。國民は天皇の聖德を仰ぎ、淳美なる良俗に啓培せられ、神皇一體·君民一致の國家を形成してゐる。不動の國體を基幹とし、日に新たなる創造が展開されるのであつて、革命はあり得ない。國家の進展が特に顯著なるときには所謂維新の鴻業が行はれるが、それは同時に復古であり、從つて復古的維新ともいふべきものであつて、國體を特に著しく發揚せしめる政治改革である。國史は國體を基底とするが故に、各時代の諸事實の中には、時にこれに副はない事件が起り、稀には亂臣賊子といはれる者が出たことがあつても、これらは結局に於いて根本に存する大義によつて克服せられるのである。國土我が國土はアジアの東部にあり、東は太平洋を隔てて遙かにアメリカ大陸に相對し、西と北にはアジア大陸を控へ、南ば南洋の諸島を望んでゐる.而して太平洋の暖流は南洋に起り、その海域の島々を廻つて我が國土の海岸を洗ひ、更に東流して北アメリカの西岸に至つてゐる。我が國土の中樞部は古來大八洲と呼ばれた四面に海を環らせる島々である。そのために我が國はアジア大陸、南洋の諸島及び近時はアメリカとの文化的關係を有する機緣に惠まれ、また陸地を以て境する國々とは異なつて、他國との政治的·軍事的衝突を比較的少くした。而して古來獨自の文化圈を構成しながら、世界各國の文化を攝取し、また國民の協同和合を齋してよく自主的なる國家發展を遂げ、今日の大東亞建設の基礎に培ひ來つたのは、國民精神の旺盛なるによるが、また敍上の如き國土の地理的環境に負ふところも大であると考へられる。緒論三 〓論四我が國土は緯度及び海流の關係によつて、〓ね氣候溫和にして四季の變化があり、P.まる山東諸本に言みとれらば國め生生を意かにしての西脇を吐盛ならし尤も時々天災地變が起るけれども、しかもそれは國民をして自然の威壓を感ぜしめるよりも、むしろその試煉に堪へて奮起努力せしめる原因となつてゐる。國土の地理的景觀は、山川の美に富み、草木豐かに繁り、風光極めて秀麗である。國土生成に關する傳承によれば、大八洲は何れも伊弉諾尊·伊弉冉尊の生み給へるものであつて、地上の森羅萬象及び靑人草と共に齊しく同胞の關係にある。これ卽ち神及び國土·人民の一體融合であり、かゝる一體融合の精神は史書や歌文の內容に永く生かされてゐる。國土を「瑞穗の國」と讚へた古人の心には農作が豐かに稔るといふ客觀的觀察と併せて、國土と一體となる生業の喜びが含められてゐる.事實、農に從ふ人々が國土や季節に應和する精神は頗る强く、祭祀を中心とする年中行事や、衣食住に至るまで、國土、殊に風土との密接な關係が示されてゐる。我國內がお神神の所生でるそしい傳傳ははた人がガズ鼻のドに大和なする國柄として生成發展することを現はしてゐる。さうして國土が常に神々の鎭'伊め護らせ給ふ安らけき國であるために。浦安の國の頗語となつてゐ國土は隅々まで皇土に非ざるはないとの思想は國史を通じて存し、大化改新の公地制、明治維新に於ける版籍奉還などの政治改革は、何れもこの精神のもとに行はれたものである。國土の中樞が大八洲であることは古來變るところがないが、皇威は旣に古代より大陸の一部及び四圍の島々に輝き、それらの民も皇化に浴してゐた。このことは明治以後に於いて特に顯著となり、八紘爲宇の宏謨は愈、著しく展開せられつゝある。國民我が國民はもと皇別·神別の民として旣に太古よりこの國土に安住し、以て四方に發展しつゝあつた。それと共に、この固有の日本人のみならず、この國土に居住せる蝦夷もその數多く、その他皇化の下には早くも諸蕃の民が包含されてゐた。卽ち大陸との交渉が頻繁となつてより、三韓や支那の歸化人が天皇の聖德を仰ぎ、我が平和な國土を憧憬して集團的に多數移住し來つた。然るにそれらの生活は早く我が社會制度や風習に同化し、固有の民の間に混つて渾然たる日本國民となつたのである。かくて天皇に歸一し奉る精神、萬民の親和融合の思想は單に觀念的な問題ではなく、日本國民の成立の上に現實に生かされてゐる。緒論五 緒論六國民生活は歸一融合の精神を基礎に置いてゐる.上世には氏族制度があり、氏の人々は相倚り相扶けて共同生活を營みつゝ、皇室を宗家と仰ぎ、その分業分掌を以て仕ヘ奉り一大家族國家を構成した。また氏族は氏の祖先を氏神として祭り、その祭しかしてし奉るのである。氏族制度が國家政治の表面から消えてからもその精神は永く國史に生かされ、家族制度は勿論、里·郡·國や、國家全體の機能の中にもそれが見られる。中世·近世に於いては、武家の氏神崇敬、一門主從の結合、系圖の尊重等は氏族的乃至大家族的精神の發現であつた。卽ち氏や家を重んずる思想の根據も、より大なるものを通じて生きることにあり、窮極には大君に仕へ奉る事に歸するのである。忠孝一本が我が國民道德の根本たる所以はこゝにある。以上のやうに、國民の生活は大君に歸一し奉るものであるが、しかもその生活の實踐は我が國固有の家に於いてなされる。我が國の家は西洋の如く夫婦といふ横の關係を基とするものとは大いに意味を異にし實に祖先と子孫との無限の連鎖に續くところの生命である。卽ちそれは親子の縱の結合を基として近親相倚り、家長の下に渾然融合し、以て祖先を祭り、その遺風を顯彰するのであつて、この狀態は子々孫孫不斷に連續する。我が家族制度に於いては個人の生命を超えて家督の連續があり、これが家長によつて永く相續されるのである。而してかゝる生活を通じて各〓君國につくすことが家の名を擧げる所以であることも、古來渝らないものである。國民性我が國民性は國體に基づく歷史的傳統に培はれたものであるが、それと共に我が風土の特性が歷史的傳統を助けて國民性を陶冶し來つたことも尠くない。既に述べた如く、天皇は御親ら皇祖皇宗の神靈及び諸神を祭らせられ神を祭り給ふ大御心を以て民を治しめし、國民も亦神々を崇め祭り、皇室を宗家と仰ぎ、祖孫一體となつて現御神にまします天皇に歸一し奉る。これ卽ち古今を通じて渝らざる我が國家生活であると共に、更に〓土の生活には必ず氏神があつて國民は聚落の融合一體を實現する。これらに見られる國民の敬神の念は實に國民性の基礎をなすものである。かゝる敬神の念は我が國にあつては特に報本反始の誠を致す國民精神として顯〓論七 緒論入現する。この精神が卽ち忠孝の德の根原となり、また天地萬物に對する敬虔感謝や愛護の心ともなるのである。神に仕へる心は、また身心一切の穢を去り、純一無雜の心意に歸する〓明心であつて、これは古來まことの精神として特に尙ばれてゐる。宣命に於いて〓き明き正しき直き心と宣はせられたのはこれを示されたものであり、禊祓の傳統も亦この精神に發するものと考へられる。更にこの〓明心を實現せんとするところに、實踐を重んじ、和を愛し、武を尙ぶ精神がある。神々や國民と共に國土山川草木等の一切をも天神が生み給うたものであるといふ神代の傳承の示す如く、我が國民の傳統的精神は自然に對して崇高なるものを感じつゝ、自然と親和し、これと共に生きんとすることにある。而して氣候溫和風風秀麗にして四季の變化に富み、山幸·海幸に惠まれた風土の特性が、またかゝる性情を陶冶することになつた。外國に於いては敢へて自然に抗し、或はこれを怖れる傾向があり、そのために空想的な自然觀や、怪奇に興じ殘忍を辭せざる性質を導いてゐるが、我が國民はこれと異なり、自然に親しみ、自然と一體となつて共に生きんとするものである。樂天的·素樸的といはれる國民性や、抽象的なる理論に偏しない現實的なる國民性も亦これに出づる。更に自然との調和から次第に發達した情操は「もののあはれ」とか「さび」わび等の境地となつて、我が獨自の心的傾向が養はれた。和歌·俳句その他の文藝、繪畫·彫刻·建築等にはこれらの國民性の特色がよく現はれてゐる。中心歸一·君民一體を實現し、天地自然と親和する敍上の精神は、同時に沒我·包容の國民性をなすものである。古來國民が我が無比の國體に高い誇りを有しつゝ、それと共に進んで優れた外國文化を攝取醇化し、常に獨自の國民文化を築き上げた事實や、多數の歸化人を渾然同化して來た事實などはこの國民性の著しい顯現である。而してこれらの事例はまた我が國民能力としての創造力同化力が偉大なることを示すものである。文化我が國の文化は國體に基づいて展開し、國體の永遠性と共に、連綿性を保有してゐる。卽ち古今を通じて、學問·宗〓·藝術等は沒我歸一の精神と眞摯なる求道の精神に立脚し、やがて皇運扶翼を以てその任務としてゐる。かくの如き文化の特質と、これに基づく連綿性は世界に比類なきものである。〓論九 緒論-1我が文化の連綿性を具體的に理解せしめる事實は、我が國はよく古きものを保ち、新しき意義をそれ自體に發見しつゝ創造を重ねることである。復古が維新の力であり、創造が囘顧と一であるのは國史に徵して極めて明白である。また卑近なる事物に古代の姿がよく保存せられてゐることも外國人の齊しく驚異とするところであるが、これも決して偶然ではなく、我が文化の特性から當然歸結されるのである。我が國の文化は國民能力の優秀性と外來文化との交渉によつて不斷に向上發展を遂げた。外來文化は、いふまでもなくそのまゝの形では移植せられず、我が國はこれを國體に合致し、國民の性情に適應するものに醇化し、渾然たる日本文化たらしめて生活の中に生かして來たのである。例へば儒〓が我が國に入るに際し、易姓革命の思想は採られず、我が固有の淳美なる國民性に適合するもののみが實踐的に受容せられ、完全な日本文化として發達した。佛〓も亦我が國民精神の中に批判的に受容せられ、我が學問·藝術を豐かにし、國民の人生觀を深めた。或は造寺·造佛·誦經等も國家的精神の下に攝取せられ、更に極めて國民的な諸宗派の興隆を見たのである。かくて我が國は固有の文化內容に加ふるに、全アジアの諸文化の精粹を保存し、近時は歐米の科學文化をも廣く攝取した。今やかゝる日本文化は國民精神を通じて不斷に昂められ、眞の世界文化に生成發展しつゝあるのである。國史の時代區分國史は上述せる如く、古今を通じて一貫せる國體の顯現であるが故に、諸外國に於けるが如き國家の興亡·隆替による時代區分を立て得ない.併しながら我が國は、國體を基幹として特殊的なる諸樣相を現はしつゝ具體的に生成發展するのであり、國史はかゝる樣相の推移を示すものである。而してこの樣相なるものは、政治·社會·經濟·文化等の諸般の部門に於いて各、獨立·遊離せる狀態を示すものではなくて、相互に渾然たる全體的關聯を保ちつゝ特殊的に顯現するものである。かゝる樣相の推移によつて時代が劃せられ、國史全體について時代區分が行はれる。然るに、實際問題として前後の時代の間には過渡的な樣相がかなり長い期間に亙つて存在するのを常とし、從つて或る時を以て截然と前後に分つことは不可能である。この意味に於いて所謂時代區分は嚴密には困難であるといはねばならない。併しながら比較的明確に時代を分ち得るものは政治的變遷による方法である。蓋〓論 〓論三し政治的事件は社會的·文化的な環境に負ふ所が尠くないが、逆に政治的事件が社會及び文化の方向を決定する意味は特に大である。こゝに於いて極めて表面的な政治の變遷に基づくが如く見える時代區分にも實はもつと根本的な歷史の發展が流れてゐるのを知らねばならない。以上の立場に於いて本書は國史を先づ四大區分してゐる。第一はこれを上世として、遙遠なる肇國より平氏の滅亡に及び、第二は中世として源氏の興起より足利氏滅亡に至り、第三は近世として織田氏の興起に始まつて江戶幕府の大政奉還に終り、第四は最近世としてその後を包括せしめる。その夫々の特徴については、本文中の〓觀の項にこれを述べる.これらは更に細分して若干の時代となすことが出來る。卽ち上世は一肇國に始まり內治が振興して國威が四方に進展し、文化的には固有文化を基調として、海外文化を盛んに採擇しつゝあつた崇峻天皇の御代まで(紀元一二五二年迄)、二聖德太子による文化の向上、國家思想の發展から大化改新によつて政治改革が行はれ、官司制度が整うて元明天皇の奈良遷都に至るまで紀元一二五二年-一三七〇年)、三奈良奠都によつて前代の政治が優れた成果を發揮し、絢爛たる文化の隆盛を來たした奈良時代(紀元一三七〇年-一四五四年)(四桓武天皇が平安京に奠都せられ、中央では貴族政治が行はれ、地方には武士が擡頭するに至り、文化的には漸次所謂國風文化の發達が促された平安時代(紀元一四五四年-一八四五年)とに分たれる。中世は、一地方的·庶民的な環境から源氏が擡頭し、鎌倉に武家の幕府が開かれ、文化的には素樸にして力强いものの興つた鎌倉時代(紀元一八四五年-一九九三年三三皇親政の精神が堅持せられ、忠勇義烈の至誠に燃えた勤皇諸臣の活躍があつた建武中興及び吉野時代(紀元一九九三年-二〇五二年)三足利氏によつて京都室町に幕府が存しつゝも、政治的·社會的には分裂的傾向が盛んとなり、文化的には幽玄枯淡なるものを展開した室町時代(紀元二〇五二年-二二二九年)とに分たれる。)近世は、一織田氏による亂世の統一的傾向に始まり、豐臣氏によつてこれが完成され、社會には新しい封建的秩序が樹立せられ、あらゆる方面に豪華雄大なる精神の橫溢した安土桃山時代(紀元一一二二九年-二二六0年)、〕德川氏によつて前代の封建制度が繼承强化せられ、泰平の世を齎し、極めて爛熟した國民文化が築かれまた諸學が振〓論一三 〓論四興して尊皇思想が澎湃として漲るに至つた江戶時代(紀元二二六〇年-二五二七年)とに分たれる。最近世は、一王政復古に始まり、西洋の制度·文物を取容れ、國威が宣揚せられた明治時代(紀元二五二七年-二五七二年)、二これを繼いでよく發展せしめた大正時代(紀元二五七二年-二五八六年)、三大東亞新秩序を建設し、國威が世界に光被しつゝある現代とにこれを分つのである。

第一編上世〓觀國史は宏遠なる肇國の大精神に基づいて展開する。皇祖天照大神の天壤無窮の神勅により萬世一系搖ぎなき國家の丕基が定められ、神代の數々の古傳と共に國體の大本が示されてゐる。實に皇祖肇國の宏謨は連綿として國史を貫ぬき、未來永遠に國家の生命として生成發展するのである。上世史はかゝる意義を有する神代の傳承に始まる。皇孫瓊瓊杵尊は日向の襲の高千穗峯に降臨あらせられ、皇國の經綸は先づ南九州に於いて開かれたのであるが、日本奉金產登訴武天皇は御神社あらせられてて學候並の中心地えもひ、橿原奠都の大詔に八紘爲宇の宏猷を宣べさせられた。次いで始めて天皇として〓觀一五 第一編上世一六登極し給ひ、爾來皇統連綿、列聖相承けて皇位を紹がせられ、皇祖の大御心のまにまに政治をみそなはすのである。上世は天皇が親しく諸般の政治を行はせられた時代である。時に權臣が出たことがあり、また攝政關白が置かれ、院政が行はれた時代もあるが、かゝる場合と雖もその精神にはなんら變りがない。この點は中世·近世に於いて武家が獨自の機構を有して政柄を握つたのとは著しく異なるものである。大化改新に至るまでの上世の前期は、また氏族制度時代ともいはれる。この時代には多數の氏族があつて氏上を長とし、一族たる氏人と共に氏神を祭り、その祖先代代が皇室に仕へまつれる事蹟を永く子々孫々に語り傳へた。而して氏上は氏人と共に或は中央の朝政に或は地方の行政に當らしめられ、またその部民と共に所定の職業を以て皇室に奉仕した。この間に我が固有の文化は次第に發展を遂げ、大陸文化を受容攝取するに及んで、漸くその面目を新たにしたが、同時に氏族制度の弊害も大いに現はれた。この時出で給うたのが聖德太子であつて、太子は我が國家の本然の姿を闡明せられ、また自主積極の立場に於いて、文化の向上を圖られた。太子の御理想はその後政治の指導精神として重んぜられたが、蘇我氏等の有力なる氏族の擅恣は益〓募るに至つたので、遂に中大兄皇子によつて大化改新が斷行せられたのである.大化改新は氏族の土地人民を私することを止め、公地公民の確立を以て根本とし、中央集權的郡縣制度を樹てるなど、諸般の改革を行つたものである。これは國史未曾有の大革新であつてその基づくところは復古の精神であり、神ながらの道に復歸することが宣べられた。新政の制度は唐のそれを參酌して定められ、これが敷衍せられて律令の制定となり、その成果は次第に擧つて圓滑なる運用を見るに至つた。かくして奈良の盛世が展開せられ、中央の政令はよく地方に徹底して郡縣制度の運用宜しきを得、また政治上に嘉瑞を尙び、慈悲を垂れる精神が重んぜられた。それと共に國家的自覺は昂揚せられて種々の國家的事業が成されたのを始め、海外の文化が前代に引續いて包容攝取せられて、よくその精粹を發揮した。しかしその末期に於いては中央權臣の擅恣、僧侶の綱紀紊亂等があり、遂に朝政の刷新が要望せられるに至つた。〓觀七 第一編上世一八桓武天皇の平安遷都によつて朝政は大いに振肅し、天皇親政の實が擧り、また皇威は東北の奧地にまで輝いた。しかしやがて中央では藤原氏一門に權勢が集まるに至り、攝政關白が置かれて政柄を握り、地方では王臣家や古代の氏族の子孫が人心を集めて各地に勢力を張り、中央の政令を奉じない場合も尠くなかつた。かくして公地制を始めとして令制は漸く弛廢に向かひ、各地に莊園が簇生した。而して地方の治安を維持し、土地を保全するがためには武力の必要があつたため、地方豪族はまた武士としての性格を具へて來た。しかしかゝる地方的勢力も中央から完全に離れたものでなく、夫々中央の院·宮·權門·社寺等を莊園の本所領領と仰いで從屬關係を保ち、武士はその下に。莊官としての地位を求めた。かくして朝廷の財政を始め、貴族社寺はなほ莫大なる經濟力を有したのである。武士はその後時代の降ると共に漸くその地位を昂め、武士間の主從關係も擴大强化せられて遂に源平兩氏の對立となつた。その結果は一旦平氏の勝利となつて權勢を擅にするに至つたが、平氏は公卿の風に化して榮華に驕つたため、質樸剛健なる坂東武士を背景として起つた源賴朝の擡頭によつて遂に滅ぼされたのである。平安中期から多數發生した地方的勢力の中に於いて、古代氏族制度に通ずる慣習が復活してゐることは注目すべきであるが、文化的にも大陸の影響から脫却して我が獨自の展開を遂げる傾向があり、文化創造の力を遺憾なく發揮した。卽ち優美典雅にして情趣の豐かな點に於いて世界に稀に見る高次なる文化が展開せられ、後世に永くその影響を遺したのである。一元〓觀


第一編上世÷第一章肇國第一節肇國の宏遠神代の傳承我が國は、悠遠なる太古より國家活動及び國民生活の源泉として、獨特の神話を有してゐる。これは國家の起原に關する傳承であると共に古今を通じて常に現實に生きてゐるものである。卽ち神代の傳承は、國體の眞義を示し、且つ永遠に國史を貫ぬいて生成發展する國家生命の源泉である.これ他の國々の神話が單に古代人の自然觀人生觀等を反映する物語たるに過ぎないのに比して、その本質を異にするものである。從つて我が神話を見るに當つては、これを過去の歷史的事象として考察すると共に、その尊嚴にして且つ悠久なる精神的意義を把握し、以てこれが國史の生命として展開せることを明らかにすべきである。天地開關我が肇國の大本は、皇祖天照大神が皇孫瓊瓊杵尊をこの國土に降臨せしめ給うたことに存し天壤無窮なる國體の丕基がこゝに定まるのであるが、更にそれの基づく數多くの語事が傳へられて肇國の意義が闡明せられてある、天地開闢·修理固成の傳承は卽ちこれであつて、古事記·日本書紀何れもそれを說いてゐる。なか ぬし古事記にはその卷頭に「天地の初發の時、高天原に成りませる神の名は、天之中式神、次に高御產巢日神、次に神產巢日神、この三柱の神はみな獨神成りまして身を隱したまひき「」とあり、また日本書紀には「天先成而地後定、然後神聖生其中焉故曰、開闢之初、ふ便化爲神、號國常立尊、」洲戰浮漂臂猶游魚之浮水上也子時天地之中生一物狀如業牙、とある。而して兩書共に國常立尊を始めとする神世七代を擧げてゐるがその中の終りの二柱の神が伊外諾尊伊弉冉尊にましますのである、修理固成伊弉諾尊と伊弉冉尊は國土を修理固成あらせられたと傳へられる.卽ち古事記によれば「是に天神諸の命以ちて、伊弉那岐命伊弉那美命二柱の神に、このかため な靈ニニ國を信却リ同成せと語るともて天河予を賜ひててとよしたま天浮橋之上共計曰底下豈無國數、延以天之〓日本書紀に據れば「伊弉諸尊·伊弉冉尊立於の二도瓊矛指下而探之」とある。nかくてそのしたゝる鹽によつて發取慮島が皮り、二神はこ三第一章肇國第一節肇國の宏遠 第一編上世三れに天降りまして、次々に大八洲の島々を生み給うた。程〓これ大日本豐秋津洲卽ち本州を始め、淡路·四國·九州·阪岐·佐渡·壹岐·對馬その他の島々であつて、これらは何れも神として考へられてゐる。更に二神は山川草木其の他の神々を生み給うたと傳へられる.、卽ち國土や萬物が皆一體となり、祖を同じうして生成發展するといふ實に雄大なる國家觀が示されてゐる。天照大神伊弉諾尊·伊弉冉尊は多くの神々を生ませられた後に、一切を統一あらせられる至高の神たる天照大神を生ませ給ひ、續いて月讀尊素戔鳴尊を生み給うた。골:天照大神は日本書紀に據れば「光華明彩、照徹於六合之內」とあり大神の御稜威が宏大無邊であつて、萬物を化育し、生成發展せしめ給ふことを貴くも拜するのである。して祭政及び生業に關する諸事は、その大御心大御業によつて定まれることが數多く語り、傅へられてゐる。卽ち國土が永遠にその御子孫によつて統治せられる事、神祭が嚴修せられる事、諸氏族が皇室に奉仕する事などを明らかにし給ひ、また農事を重んじて特に稻穗を授け給ひ、機織の道をも〓へ給へる如きがそれである.實に歷代天皇の大御心·大御業の根原は皇祖天照大神に出でさせられるのである。國土の奉獻天照大神はその大御心大御業を窮まりなく彌榮えに榮えしめんとして、皇孫瓊瓊杵尊を原中國卽ち我が國土に降さんとし給うたがこのとき國土は大神の御弟素戔鳴尊の御子孫たる大國主神によつてうしはかれてゐた。大國主神ぼおはまた一に國作大己ハ命所進天下大神大穴持命などと中上げることによつても知られるが如く、大八洲の島の崎々まで巡行せられ、少彥名命の協力を得て、國土の經營に力を盡くされたが、なほ荒ぶる神々が尠くなかつたと傳へられる。よつて大神は國土奉獻の大命を大國主神に傳へしめ給うたが、使者は久しく復奏しなかつたので、大國主神はその御子事代主更に經津主神·武甕槌神をして、出雲國に遣はし給うた。神と共に直ちに大命を奉じて恭順し、國土を獻じ、その子等をして天神の御尾前となつて仕へまつらしめんと答へられた。よつて大神は大國主神のために壯麗な宮居を造營せられた。これ卽ち杯集宮であつて今もなほ出雲大社として祭祀せられてゐる。輔弼翼賛の大道はこゝに語られ、君臣の大義はかゝる傳承によつても既に明らかである。皇孫降臨こゝに於いて、天照大神は皇孫瓊瓊杵尊を豐葦原の瑞穗國に降臨せし三第一章肇國第一節肇國の宏遠 第一編上世二四め給うた。大神はこのとき、皇孫に勅して豐葦原千五百秋之瑞穂、四、늘〓上:是吾子孫可王之地也、宜爾皇孫就而治焉、4/4行矣、寶祚之隆當與天壤無窮者矣と宣らせ給うた。天照大神の御子孫がこの國土に君臨あらせられ、その御位の隆えまさんこと天壤と共に窮まりなき皇國の基はこゝに昭示せられ、而してこの大義は永遠に國史に展開して萬世に亙つて貫ぬかれるのである。これと同時に天照大神は三種の神器を皇孫に授け給うた。これは天岩戶の前に於いて大神に捧げられた八咫鏡·八坂瓊曲玉と素戔鳴尊が大神に進められた天叢雲劒のち日本武尊の東夷征伐のとき、名を草薙劒と改む)とである。爾來御歷代は皇位の御しるしとしてこれらの神器を承けさせ給ひまた神器を通じて皇祖の大御心をそのまゝに繼がせられるのである。〓たま しろ神器の中、特に神鏡は天照大神の御靈代として齋き奉られる.而してその淵源は皇祖の神勅にあり、古事記に據れば、此の鏡は專ら我が御魂として吾が前を拜くが如くいつきまつれ。」と仰せられてゐる。畏くも皇大神宮及び賢所の奉齋せられる根原はこゝに存する。ま瓊瓊杵尊は降臨に際して五部神を從へさせられた.卽ち中臣連の祖天兒屋命、いし こり忌部首の祖太玉命、援女君の祖天鋼女命、鏡作連の祖石凝姥命、玉祖連の祖玉屋命である.なほ外に大伴連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命は靭·大刀弓矢を携へ、御前に立つて仕へ奉つた。これらの神々は代々祭政·工藝及び武事等の各部門を司どつて皇室に奉仕した主要なる氏族の祖神である。而してあらゆる氏族が御歷代に仕へ奉る關係の根原は、この五部神の隨從に語られるものである。かくして瓊瓊杵尊は皇祖の神勅を體し、三種の神器を奉じ、五部神を從へさせられたな くもしわけて、稜威の道別にちわきて、筑紫の日向て、天磐座をおしはなち、天八重棚雲をおの襲の高千穗峯に天降らせ給うたと傳へられる。尊は後に笠狭之碕に宮居を造り給ひ、その御子彥火火出見尊は高千穗宮に、更にその御子鷓鵝草葺不合尊も日向にましました。瓊項作尊產火火出見尊蟲爲軍資不合尊の御三代はひたすら正を養ひ、慶を積み、暉を重ね給うてこの間に多くの歲月を經させられた。第一章肇國第一節肇國の宏遠二五 第一編上世二六第二節神武天皇の天業恢弘御東征鸕鵝草葺不合尊の御子神日本磐余彦尊、卽ち神武天皇は御資性英適にま줄Kしまし、東方の美地に天業を恢弘せんと思召され、彼地必當足以恢弘天業光宅天下、蓋六合之中心乎」と宣はせられ、皇兄五瀨命を始め諸皇子に議つて東征の御事を決し給うた、天皇は御親ら舟師を率るて海路日向を發せられ、遵吸之門を過ぎて菟狹(字佐)に寄られ、次に筑紫の崗。水門に入られ、更に安藝の%宮(多祁理宮)に進み給うた。みや たそれより吉備に幸して高嶋宮にましまし、年を重ねて舟楫と兵食とを整へさせられた。かくて天皇は皇師を率ゐて舳艫相接して難波之碕に到られ、河內の草香邑の靑雲白肩津:に上陸せられ、膽駒山を越えて大和に入らんとせられた。たこの時大和の鳥見に髓彥なる賊長があつて、皇軍を河內の孔舍衛坂に遮つたので、五瀨命は流矢に傷つかれ、皇軍は苦戰に陷つた。天皇は日に向かつて虜を征するは天の道に反すると思召され、軍を旋して海路紀伊に進まれた。この間五瀨命の薨去や、種々の苦難に遭遇せられたが、遂に熊野の荒坂津に上陸し給うた。こゝから大和への御進擊は山岳重疊したか くらじ起る因雖であつたが形態の商合下が細蟴の勧創本あり天いてて馬鳥ゐらせ、やがて大和に入らせられた。これらは何れも天照大神の神助によるものであり、聖業は天皇が皇祖と御一體となつて成し給ふものであつた。かくして天皇は大和の菟田に達せられ、土豪弟猾を從者とし、兄猾を誅せられた。これより北にはなほまつろはぬ者共が尠くなかつたが、天神の垂〓のまゝに、天神地祇を丹生川上に祭り給うてのち、國見丘に八十梟師を斬つてその餘黨を平げ、更に弟海こゝに於いて主なる賊は先に皇軍を遮つた長磯城を從へ、兄磯城を討たせられた。퓨 A髓彥のみとなつた。長髓彥は天神の子饒速日命を奉じて皇軍に抗し、容易に降らなかつたが金色の靈鵄が來つて皇弓の弭に止りその光輝は賊を眩ましめた。饒速日命はもとより順逆の理を知り、長髓彥を誅し、衆を率ゐて歸順した。天皇はその忠誠を嘉せられ、恩寵を加へられた。饒速日命は卽ち物部氏の祖であつて、爾來代々武事を以て仕へ、朝廷に重きをなした。第一章肇國第二節神武天皇の天業恢弘二七 第一編上世二八奠都の大詔と卽位かくして大和平定の業成り、卽位前二年三月、天皇は次の大詔を下し給うた。日其主症於於尖外野大丈夫人國國就就試驗證土未消途缺向置甲事業く風呂就世伏臨年理想今大進即不應民地業民心非素基撰大告信備催夫隆制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造、且當披拂山林經營宮室、而恭臨實位以鐵元元、上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心、然後兼六合以開都、掩八紘而爲字、不亦可乎觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺區乎可治之、卽ち中洲の平定、治民の大道、奠都の聖旨等について宣布し給へるものである。而してこの大詔には皇祖皇宗の授國の御德と養正の御心に答へ、これを弘めようとの聖旨が貫ぬかれ、更に皇化を治く天下に及ぼさんとの八紘爲宇の雄大なる御理想が示されてあるのであつて御歴代の承がせ給ふ大御業の根本精神は實にこゝに存するのである。天皇はかくて辛酉年正月朔日、橿原宮に御位に卽かせ給ふ。この年を以て天皇の元年とする。後に明治天皇の聖旨によつてこれが紀元元年と定められ、國史の年紀を數へる基準とするのである。肇國の宏謨は旣に皇祖の神勅に示され、天皇は更にこれを奠都の大詔に明らかにし給うたが、今や中洲に天業を恢弘せられ、衆賊を平定して國基を奠められたので、天皇を「始馭天下之大皇」と申し奉るのである。この時ま6 tあた前年正妃とせられた媛蹈鞴五十鈴媛命を皇后に册立せられた。御治績天皇御東征のとき、大和に至る各地には多くの土豪があつて、夫々邑縣に割據してゐたが、あるものは皇軍に抗して誅せられ、あるものは歸順して免された。卽位の後、天皇は論功行賞あらせられ、軍功のあつた大伴連の祖、道臣命以下に地を與へへれる上其に師順さも主臺も夫々所を得しられ第卅を近田縣まぁ城縣主に任ぜられ、なほ國造に任ぜられたものもあつて、地方制度の起原はこの時に存する。而して皇后に册立せられた五十鈴媛命は或は事代主神の御女といひ、或は大三輪の神の御女とも稱せられ、何れにするも出雲の神の御系統である。これらの事例は皇威が種々の勢力をよく包容·同化せられることを意味し、雄大なる皇國精神を語るものである。御敬神と祭政一致四年二月天皇は靈時を鳥見山中に立てて皇祖天神を祭り給第一章肇國第二節神武天皇の天業恢弘二九 第一編上世三ひ、詔して「我皇祖之靈也、自天降鑒光助映男、今諸虜已不、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也、」と仰せられた。天皇は御親らの大御業を以て、皇祖の天業を恢弘するものに外ならずとせられ、報本反始の大御心を以て皇祖の祭祀を行ひ、大孝を致させ給うたのである。歷代天皇は、何れもその御代しろしめす御事どもが、悉く皇祖皇宗に出でさせられるものであるとの御信念を懷かせ給ふ。換言すれば皇祖皇宗の御精神は常に天皇の御統治を通じて永遠に生き給うてゐるのである。歷代天皇は親しく皇祖皇宗の神靈を祭らせられ、恆例臨時の祭祀を嚴肅に行はせられ、皇祖皇宗の大御心のまゝに大政をみそなはすのである。故に祭祀と政治の御精神は共に皇祖皇宗に歸一するのであつて、祭政一致の根本義はこゝに存する。皇祖皇宗の宏大無邊なる神德が直ちに天皇の御稜威であり、神ながらの道が常に現實であるのも、この根本義によるのである。後代の欽仰神武天皇の御事は、歷代天皇の御心とし給ふところであつた。例へば繼體天皇は神武天皇が道臣命を用ひ給うた故事を偲ばせられて、廉節の士を擧げんことを宣べさせられ、天武天皇は神武天皇の山陵に奉幣せられたことなどがあつた。降つて幕末に於いては神武天皇の大業が深く欽仰せられ、王政復古の大號令には「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」と宣はせられ、これが明治維新の指導精神となつた。明治五年には神武天皇卽位の年を紀元と定められ、同六年には紀元元年正月朔日の天皇卽位の日を太陽曆に換算し、二月十一日を以て紀元節と定められた。同二十二年には橿原宮の聖地をトして社殿が營まれ、特に京都御所の內侍所·神嘉殿を賜はつて神殿とせられ、翌年橿原神宮が創立せられ、官幣大社に列せられた.また宮崎神宮の地には古くより天皇を奉祀する社があつたが、明治十八年官幣大社に列せられ、大正二年宮崎神宮と稱せられた。昭和十五年に紀元二千六百年を迎へるや、その紀元節には畏くも詔書を下し給うて、宜しく思ひを神武天皇の創業に騁せ、國威の昂揚に勗め、祖宗の神靈に對へ奉るべき事を諭し給うた。その秋には嚴肅にして盛大なる式典が擧げられ、また御聖蹟の顯彰その他諸種の奉祝事業が行はれた。悠久なる國史の成跡を囘顧すると共に、天皇を欽仰し奉ることは今日更に新たなるものがある。第一章肇國第二節神武天皇の天業恢弘 第一編上世三第二章皇威の發展第一節神祇の崇敬皇大神宮の鎭座我が國は神國にして、天神地祇こゝに鎭座せられ、神の御心のままに天皇が現御神として御代治しめす國である。されば祭祀は國家の大事として重要なる地位を占めてゐる。祭祀の淵源は邈かにして遠く、皇孫降臨に際して神鏡奉齋の神勅があり、また天兒屋命と太玉命とに對して、皇孫のために神を奉齋すべき神勅が下され、その子孫たる中臣·急部の兩氏は代々永く祭祀を以て朝廷に奉仕した。神武天皇が卽位せられるに當つて特に大御心を致されたのも皇祖の祭祀であつた。而して歴代天皇は、大殿の內に、御親ら天照大神を祭らせられたが、崇神天皇の六年(五六九)天皇は神威を畏み、皇女豐鍛入姬命をして、大神を大和の笠縫邑に遷し祀らしめあごられると共に、宮中にはうつしの神鏡を大神の御靈代として齋き祀り給うた。次の垂仁天皇は神祇を祭り給ふこと篤く、皇女倭命をして更に天照大神御鎭座の地を求めしめられた。命は大和を出でて、近江·美濃の國々を廻り、遂に伊勢に到られたが、天皇の二十五年(六五六)大神の神〓に基づいて五十鈴川上を御鎭座の地と定められたこれ皇大神宮にまします。その後雄略天皇の二十二年(一一三八)五穀の神たるわた ちひ豐受大神を丹波より伊勢度會の山田原に迎へて奉祀せられた。世に皇大神宮を內宮、豐受大神宮を外宮と稱し奉る。崇神天皇はまた三輪君の祖たる大田日根子をして、大三輪の神を天社·國社の制祭らしめられ、或は盾·矛を獻げて墨坂神·大坂神を祭らせられるなど、大御心を神祇のかむ どころか崇敬に致され、以て國內の平安を期し給うたが、中にも、大社·國社の制を定め、神地神戶を置いて神々を祭らしめられたことは注目すべきである。天神を祭るを天社、地祇を祭るを國社といひ神地は神祇祭祀の御料地、神戶は神祇に奉仕する民である。次いで垂仁天皇も諸神のために神地·神戶を定め、時を以て祭らしめられた。これらの事實によつて廣く諸社が國家の祭祀を受けたことが知られ、天社·國社の制は、後世の官社制度の起原をなすものと見ることが出來る。第二章皇威の發展第一節神祇の崇敬 第一編上世三四熱田神宮の鎭座景行天皇の御代、東夷の叛亂があり、天皇は勅を皇子日本武尊に下してこれを討たしめられた。尊は天皇に對して、嘗て皇靈の威に賴つて熊襲を擊ち、今また神祇の靈に賴り、天皇の威のもとに德〓を示さんと奏せられ先づ伊勢の神宮を拜せられた時に神宮に奉仕されてゐた御叔母倭姫命は天叢雲劒(草薙劒)を尊に託して、慎みて怠るなかれと仰せられた。尊はやがてその神威によつて賊を平定ぼせられ、歸路尾張に入り、神劒を當簀媛に託し、その後伊勢の能褒野に薨去せられた。よつて宮簀媛は社殿を營んで神劒を祀り、後世尾張氏が代々これに奉仕した。これ熱田神宮の始である。神威の赫耀神功皇后の征韓は、神祇の崇敬と神威の發揚とを以て、大いに國威をかし大陸に輝かした著しい出來事であつた。皇后は先づ筑紫の樞日(香椎)行宮に於いて天照大神·事代主神及び住吉三神等の神〓を得られ、仲哀天皇崩御の後には大祓を行はれ、敦く天神地祇を祭つて軍を進め給うた。この時皇后は更に皇軍守護の神〓を得られ、神人和合して、非常な勢を以て、新羅國に迫つた。こゝに於いて新羅王はそのま区にれれ罰問東方神國語日本有理王新大兵必武之之兵之神我也豈直ひ、叩頭して皇后の軍に降つたと傳へられる.されば新羅服屬の後、皇后は住吉大神あらみたまの荒魂を牛島に鎻祭せられ以て國の守りとせしめられた。皇后は還御の後に、また神〓によつて新たに神祇を鎭祭せしめられた。卽ち先づ住吉三神の荒魂を穴門の山田邑に鎭め、次いで天照大神の荒魂を廣田に、稚日女尊を新活田長峡に、事代主神を長田に、住吉大神の和魂を大津渟中倉之長峽に、夫々鎭めしめられ、神〓に答へ給うた。穴門は長門であり、その他は今の神戶·大阪附近に當る。氏神皇室を中心とする神祇崇敬に竝んで、國民も亦神々を祭つたが、殊に氏族には夫々氏神があつてこれを崇敬してゐた。卽ち杵築大社と出雲臣太玉命神社といそのかみ忌部氏、石上神宮と物部連、倭大國魂神と大倭直、大三輪の神と三輪君といふが如く、各氏族は夫々特定の神社を氏神として仰ぎ、その祭祀を鄭重にしてこれに報本反始の誠を捧げた。而してこれらは氏族の祖先の神であるか、或は氏族との特別な關係によつて早くから祖先神と考へられた神々であつた。氏神は氏族生活の中心をなして、氏族の統制を始め、諸般の行動について垂示し、加護せられるものと信ぜられた。第二章皇威の發展第一節神祇の崇敬三五 第一編上世三六第二節內治の振興崇神天皇·垂仁天皇の治世神武天皇が大和を平定あらせられ、天業を恢弘せられてより、皇化は次第に擴まつたが地方の豪族中にはなほ皇化に浴せざるものがあり崇神天皇の御代に至るも、荒俗騒動ぐこと未だ止まずといふ狀態にあつた。よつて天皇はこれらを〓化し、國內の統治を進め給はんとして、その十年(五七三)皇族を將軍として四道に差遣せられた。卽ち大彥命を北陸に、武渟服務命を東海に、吉備津彥含ままた後に皇子豊城入彦命を遣はま命を西道に、丹波道主命を丹波地方に遺はされた。して東國を治めしめられた。これらの將軍の子孫にして、長く地方に土着するものもあり、皇化を敷くと共に、その地方を開拓し勢力をこゝに扶植して、皇威の發展に重大なる使命を果した。かくして異俗歸服し、〓化普く行はれ、衆庶業を樂しみ、國內が安靜となつたために天皇は更に人民の數を校せしめ、長幼の次第を立てて新たに調役を定められた。れを男の弧調、女の手末調と稱する.その制度は詳かでないが、稅法に關する古史の記載はこれを最初とする。天皇はまた大御心を農業に注がれ、詔して「農天下之大本也、民所恃以生也」と仰せられ、池溝を營み、農事を勸めて、大いに民業を擴められた.天皇の御代は先に述べた如き神祇崇敬と共に祭政の制度よく整ひ、大いに治績が擧つたので、天皇をまた御肇國天皇と稱へ奉る。崇神天皇の御子垂仁天皇も民政に大御心を用ひ給ひ、諸國に多くの池溝を掘つて農業を勸められ、また慈愛の御意を垂れて殉死を禁じ給うた。かくて國富み民榮え、天下はよく治まつた。熊襲の歸順當時九州地方には多くの土豪があつて、中には支那と交通してゐたものもあつた。それらの狀態は、魏志の倭人傳によつても知られるものがある。た九州南部には熊襲が割據して特に勢力あり、性剽悍にして未だ皇化に浴しない狀態にあつた。四道及び東國に對しては、旣に崇神天皇の御代に皇族の派遣を見たが九州地方の平定は景行天皇の御代に行はれた。天皇は先づ熊襲討伐のために、その十二年(七四第二章皇威の發展第二節內治の振興三七 三八第一編上世二)御親ら軍を率ゐて九州に向かはせられ、遂に日向に至り給うた。時に熊襲には二人の渠帥があつて八十梟帥を率ゐ、その勢當るべからざるものがあつた。天皇は先づその渠帥を誅せられ次いで八十梟帥を悉く平定せられた。かくして熊襲は歸順したので、天皇は九州を廣く御巡幸の後、大和に還御あらせられた。然るにその後熊襲は再び動搖したために、天皇は二十七年、皇子日本武尊を遣はしてこれを討たしめられた。尊は弟彥等を從へて熊襲の地に向かはれ、先づその魁帥川上梟帥を殺し、次いでその殘黨を平げ、海路大和に還られて、熊襲の平定を天皇に奏上せられた。熊襲は邊陲の地にあつてこの後も屢、動搖し、殊に仲哀天皇の御代、その叛亂が傳へられた。その時國々を巡幸して紀伊國にいました天皇は、これが征討を決せられ、御親ら海路を進み給ひ、神功皇后は越前の笥飯(氣比)宮を發し給ひ、穴門の豐浦宮に會せられた。天皇と皇后は暫くこゝに御滯在の後、筑紫に向かはせられるや、筑紫北部の諸族は天皇を迎へ奉つて寶物を獻げた。かくして天皇の八年八五九)橿日宮を行宮とせられ、熊襲を討たせられたが、未だ成らずして天皇は翌年橿日宮に崩御あらせられた。次いで皇后は熊製を討平せしめられ、次いで山門縣に於いて女曾田油津媛を誅せられた。以上の如くして、叛服常なく長く西陲を騷がした熊襲は、この時以來漸く歸順して、皇化に浴するに至つたのである。東國の鎭定東國には先に豐城入彥命·大彥命·武渟川別命等が遣はされ、その子孫もまたその地方に居てこれを鎭めてゐたが、東國は土地廣大、山岳險阻であつて、これを平定することは極めて困難であつた。中にも蝦夷はその性剽悍であつて、叛服常なく、邊境の患をなした。景行天皇は早く武內宿禰を北陸及び東方の國々に遺はして、その狀態を視察せしめられ、宿禰は歸つて「東夷之中、有日高見國、其國人、男女並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷、亦土地沃壤而曠之」と奏上してゐる。この頃熊襲の叛亂によつて、日本武尊を遣はされたために、蝦夷の問題は暫く放任されたがその後東國の動搖甚だしく、天皇は四十年(七七〇)再び日本武尊を遣はして、これを平定せしめられることとなつた。この時天皇は尊に蝦夷の野蠻にして道德を辨へず、邊境を犯し、農桑人民を掠め、その討伐の困難なることを詳かに〓へ給うた。第二章皇威の發展第二節內治の振興三九 第一編上世四尊は勅を拜して征途に向かはれ、先づ伊勢の神宮を拜して神劒を受けられた後、尾張より駿河に出でこの地に賊徒の謀略を斥けて、これを討平せられた。それより尊は相模に進み、上總に渡らんとせられたとき、海中俄かに荒れ、御船が危難に瀕したが、尊の妃、弟橘媛は身を以て、海神の恚を解かれたので、尊は無事對岸に着かれた。より更に陸奥國に進んで、海路蝦夷の境卽ち日高見國に入り、その地方の蝦夷を平定せられた。これより歸路を甲斐に取られたが、信濃·越の國々には未だ皇化に浴しないものがあつたために途を旋して上野を通りそれより吉備武彥を越に遣はされ、自らは信濃國に進まれた。次いでこれと美濃に會し、尊は尾張の宮簀媛の許に留まり給ひ、それより膽吹山に賊を征して遂に病を獲られ伊勢の能褒野に薨ぜられた。つて吉備武彥が代つて東夷の平定を奏上した。et〓の後天東は尊を何が始ぐって國國を然辛せられまだ豐城入念のああ東山道十五國の都督に任ぜられたが、王は赴任の途中病歿せられたために、その子御諸別王をして代つて東國を治めしめられ、これより東邊は漸く無事なるを得た。諸皇子の分封と屯倉の設置景行天皇には多くの御子がましましたが、〓ね或は國造、或は册として國郡に封ぜられ、その子孫は土着して地方の豪族となつた。てこれらは御歷代の御子孫たる多數の氏族と共に益〓地方に發展し、朝廷と地方との天皇はまた諸國に屯倉田部を興さしめられたが、このことも同關係を緊密にした。樣の意義を有してゐる。屯倉の訓義は本來は官家の意味であるが、轉じてその官家が管理する土地卽ち皇室の直轄領を指すものであり、田部はこれを耕作する農民である。屯倉は畿內地方には早くより設けられたが、いまやこれを諸國に置かれたのであり、且つこの後益〓その增加を見た。地方制度の刷新國々に對する朝廷の統治が强化せられ、新たに皇別氏族が地方に擡頭すると共に、地方制度刷新の機運がこゝに熟し、景行天皇に次いで成務天皇卽位あらせられるや、特に御心をこれに用ひさせられた。卽ち天皇は「自今以後國郡立縣、王稻置等山河の形勢に應じて國縣を分も、道路の縦横に從つて邑里を定め國造·縣を置いて、その區域を治めしめられた。かくして地方制度は整頓し、國郡に君長なく、縣邑に首渠なしといはれた地方にも、夫々首長が立てられて、普く皇化を布かしめら第二章皇威の發展第二節內治の振興四 第一編上世四二れた.仁德天皇の御仁政應神天皇の御代には三韓歸服して國威大いに輝き、國力も亦充實した。次いで仁德天皇は都を難波に遷して積極進取の政策を進め給うた。た都に澤地多きため堀江を掘り、河流の氾濫に備へて堤を築かしめられ、それと共に各地に廣大な新田を開いて民生の安らかならんことを圖り給うた。天皇は御仁慈深くましまし、民の竈の賑はしからざるを御覽じて課役を免じ、宮殿服御の御料を缺かせられた御事も傳へられてゐる.と三藏の分立朝廷の藏には古くより齋藏があつて、神物官物を共に納め、忌部氏をしてこれを掌らしめられたが、國富み民榮え、國用大いに充實するに及んで、履中天皇は齋藏の傍に新たに內藏を建てて官物を分ち納め阿知使主王仁等の歸化人をしてその出納を記さしめられた.然るにその後產業の發達によつて國富增進し、諸國の質調年と共に增し、內藏は狭隘を告げたので、雄略天皇の御代には更に大藏を建て、同2じく歸化族である秦氏をしてその出納を掌らしめられた。同時に別に蘇我滿智宿輛をして三藏を檢校せしめられた.蘇我氏は武內宿禰の子孫であるが、かくの如く深く財政に參與し、また早く歸化族と結んで、その勢力に新たなる立場を加へたのである.第三節半島諸國の歸服半島交通の起原我が國と朝鮮半島との間には、悠遠なる太古より密接な關係があつたことは、遺物の上にも明らかであるが、殊に出雲地方·九州北部と半島南部とは、早くより海路によつて交通が開かれてゐた。卽ち素戔鳴尊が、出雲に渡られるに先立つて、先づ御子五十猛神を帥ゐて半島に赴かれ、曾尸茂梨を都とせられたと傳へられる事、また韓〓の島はこれ金銀あり、吾が兒の御す國に浮寶なかるべからずと稱せられ、浮寶卽ち船を造るために、杉·樟等を植ゑしめられたと傳へられる事は、この間の消息を物語るものであらう。また半島からも我が國に渡來するものがあり、例へばぎ種の多王子天日於は日本N地点あり上間に表式がによ化と本が日本に記されてゐる。更に魏志に據れば、倭人は半島の南端たる弁韓の南に居住し、また第二章皇威の發展第三節半島諸國の歸服四三 第一編上世四四韓や滅額と共に鐵を採つてゐるといふ記載がある。これ我が國民が古くより半島の南部に發展してゐたことを示すものである。高句麗の發展と百濟新羅の興起朝鮮半島の北部には、古く支那から箕氏が來り、やがて同じく衞氏が來つてその後を承けた。これらは漢人を中心とする國家であるが、漢の武帝は衞氏を滅ぼし、その地を分ち、朝鮮北部から滿洲東南部にかけて樂浪·臨屯·眞番·玄菟の四郡を置いた.然るにやがて東滿洲の地に滿洲族の中から高句麗が興ると共に、四郡の政治に變化が起り、樂浪郡のみが唯一の大郡として半島北部に存し、高句麗と對峙する形勢を示した而して後漢末期に至り樂浪郡は二分せられ、その南半には帶方郡が置かれた。半島南部は古來韓人の居住地である.もと多數の部落的國家を成し、漢魏時代には馬韓·弁韓·辰韓の三大部に分れてゐた。然るにその後馬韓の地より百濟が興り、辰韓の地より新羅が興り弁韓はなほ多くの國々による聯合組織を維持し、獨立の狀態を續けてゐた。そして高句麗は樂浪郡を覆滅して半島の北部を占有するに至り、百濟は北に進んで帶方の故地を奪つた.かくて半島は高句麗·百濟·新羅の三國互に境を接し、新羅の南には任那を盟主とする弁韓があり、四國對立の狀態を呈した.任那の求援崇神天皇の御代、任那は我が國に朝貢し、新羅に攻められる狀を訴へて、援けを我に乞うた。任那は弁韓の一國で大加羅國ともいひ、金海地方に勢力を振るつてゐたが、時には更に廣く弁韓の國々を含めて指す場合もあつた。而して我が國民は古くより南鮮地方に居住し、任那と親密な關係を保つてゐた。されば任那が新羅に侵されるに及んで、援けを我に求めるのは極めて當然である。崇神天皇はこれに對して、鹽乘津彥を遣はしてこれを治めしめられた。神功皇后の征韓我が國民の半島進出、任那の救援に次いで、やがて半島全體に皇威が赫耀するに至つた。卽ち仲哀天皇が橿日宮に於いて崩御あらせられた後、神功皇后は新羅征討の軍を起されることとなつた。かくして皇后は「若事就者群臣共有功、事不就者吾獨有罪、」仰仰せられ、親ら舟師を帥ゐて對馬の和坪津を發し、順風に乘じて新羅に向かはせられた。舟師海に滿ち、旌旗日に耀くといふ勢に、新羅王は遂に皇軍の威武に屈し、内官家として長く朝貢を怠ることなきを誓ひ、圖籍·實物等を獻じた.次いで高句麗·百濟の二國も、これを聞き、風を望んで我に來降した。また任那に於い第二章皇威の發展第三節半島諸國の歸服四五 第一編上世四六てはこの頃旣に日本府が設けられた.半島に於ける我が國の威勢はこれより大いに振るひ、任那を本據として新羅を抑へ、百濟·高句麗にまで支配力を及ぼすに至つた。半島の形勢かくして半島の諸國は何れも我が國に服屬したが、その後の形勢は極めて複雜であつた。應神天皇の御代、高句麗の使者が來朝したが、その上表に無禮七の言語があつたの大不支道徳郎子は怒つててれを發業せられたととあ後もその朝貢は比較的に稀であつた。而してその廣開土王(好太王)は國土を擴張し、百濟を侵して威を振るひ、半島の我が軍に抗した。新羅も亦高句麗と結んで百濟を攻め、任那を侵し、我に朝貢を怠ることも珍しくなかつた。しかし百濟は終始我に恭順であり、我が國の援助を得て、高句麗·新羅の侵寇に備へることを望んだ。かくの如き半島の形勢によつて我が國は再三半島に出兵し、百濟を援けて新羅を討つた。た廣開土王の碑文によれば、我が軍は新羅·百濟を徇へ、大擧して高句麗を討ち、帶方の境に迫つたことが記されてゐる。なほこの間に我が國と吳、卽ち南支那との交通が開かれてゐることも注目すべきである。日本府の消長初め我が國は任那を根據として半島を治め、仁德天皇の御代には、丸和宿調を百済に達はして國郡の願を分長さきに親士の愛めを錄せとがあり、大いに治績を擧げた。然るに雄略天皇の御代には、任那國司吉備田狭が新羅と結んで叛逆するの不臣を犯し、この後日本府の勢力は昔日の如くでなくなつた。ついで顯宗天皇の御代に任那駐屯の將、紀生磐宿禰は恣に韓土に王たらんとして、徒らに事を百濟と構へ、一時これを破つたが、遂に兵を失ひ、力盡きて任那から歸つて來た。かくの如く半島の形勢が渾沌たるとき、これた拍車をかけたものは大連大伴金村の失政であつた。卽ち高句麗のために北方の國士を失つた百濟は、南に伸びんとして、繼體天皇の六年(一一七二)任那の四縣を賜はらん事を我が國に請うたのに對し、金村はこれに賛同し、遂に任那の地を割いて百濟に與へたために、任那は我が國を恨むに至つたのである。この後、近江毛野臣が任那に渡つて、その統治に當つたが、失政多くして一層任那の信賴を失ひ、任那は我が國から離反し、援けを新羅百濟の二國に求めることさへ起つた。豫てより任那の併呑を策してゐた新羅は、却つてこれに乘ぜんとしたので、任那は愈。窮地に陷つた。

第二章皇威の發展第三節半島諸國の歸服四七 第一編上世四八こゝに於いて宣化天皇は筑紫國が外交上·國防上の要地たることを慮らせ給ひ、その元年(一一九六)官家を那津の口卽ち今の博多附近に設け、諸方の穀物をこゝに集めて、非常の場合に備へしめられると共に、翌二年新羅が任那に寇したため、天皇は大伴金村に命じ、その子等をして任那を援けしめ給うた。しかし任那は新羅に壓迫せられて次第に衰微に向かつた。次いで欽明天皇は百濟に詔書を下して任那の復興を圖らしめ給うた。百濟の聖明王は詔を拜し、日本府及び任那諸國と協力して新羅を討たんとしたが、日本府及び任那諸國の態度に一致を缺き、事は容易に運ばず、新羅はこれに乘じて高句麗と結び、百濟·任那を滅ぼさんと計つた。こゝに於いて天皇の十五年(一二一四)朝廷では遂に百濟の求めに應じて援軍を送られ、百濟の軍と合して新羅を討つてよくその軍を破つた然るに新羅では國中の兵を發して大いに攻勢をとり、百濟軍を破つたので、聖明王は戰歿し、王子餘昌は圍みの一端を突いて纔かに逃れた。これより新羅の勢愈盛んとなり、同二十三年(一二二二)には遂に任那を攻め滅ぼした。朝廷はこの後も、百濟を援けて任那の再興を計られたが遂に成らず、こゝに於いて半島に於ける我が據しかしこの年朝廷は大伴狹手参をして高句麗を討たしめられ、狹手點が失はれた。彥はその都を陷れ、これより高句麗の朝貢は漸く頻繁となつだ。一方新羅も時々我に朝貢する狀態であり日本府は亡んだが我が國と半島諸國との間には依然として舊來の關係が續けられたのである.歸化人の移住神功皇后の征韓以後、大陸との交渉が密接となるに伴なつて、多數の歸化人が我が國土に渡來し、我が國民及び文化の上に關係を有するに至つた。歸化人は主として朝鮮半島から渡來したものであるがその中には漢人の子孫も多かつた.卽ち半島には早くより漢人の移住があつたが、漢の四郡設置の時代に入って特に著しく、優れた漢文化が齎されてゐた.半島の西北部たる樂浪郡地方に多數遣された漢人の墳墓やその出土品によつてもその一斑を察することが出來る.然るにその後高句麗の勢力が發展し、百濟·新羅が勃興して、半島の情勢が動搖するに至つたところへ、我が國威がこゝに伸長したのでこれらの漢人及び半島南部の韓人等は平和な我が國土を憧憬して移住を始めたのである。かくて應神天皇の御代阿智王卽ち阿知使主は十七縣の民を率ゐて歸化し、倭漢直の祖となつた。その後第二章皇威の發展第三節半島諸國の歸服四九 第一編上世五〇裔たる坂上苅田麻呂が延曆四年(一四四五)に奉つた上奏文によれば、阿智王は後漢靈帝の曾孫であり、帶方郡に移住したが、東に聖王ありと聞き、一族及び七姓氏を率ゐて我が國に歸化し、更にその故地に殘された漢人等が高句麗·百濟の間にあつて去就に迷へるのを召致する聽許を得て、悉くその渡來となつたといふ.同じく應神天皇の御代にはまた秦の始皇帝の裔と稱する融通王卽ち弓月君が百二十縣の民を率ゐて百濟より渡來し、秦氏の祖となり、その子孫は秦氏の統率の下に全國に廣く分布せしめられた。その後も半島より歸化するものが尠からず、その記錄に現はれてゐるだけでも、枚擧に遑なき程である.朝廷はこれら歸化人に土地を與へて生計を立てしめ、或ば官途に就かしめてその技能を用ひられた。また半島諸國より學者·工人を貢進し、或は朝廷より半島または吳國に使を遣はしてこれを求められることもあつた。平安時代の初め、朝廷で姓氏を糺すために、畿內に住する各氏族の系統を記錄せらしん せんしやうじ〓れた新撰姓氏錄に據れば、諸蕃の氏族が非常に多いが、この事實は如何に歸化人が多く移住してよく皇化に浴してゐたかを示すものである.第四節氏族制度氏族の構成大化の改新以前に於ける我が國の社會組織は皇室に仕へまつる大小多數の氏族によつて構成されてゐたので、これを氏族制度と呼ぶ.卽ち血緣關係によつて結ばれた集團が、氏なる一の組織を構成して社會組織の單位をなし、その氏族が分裂して宗支の關係を生じた場合には、多く宗族が支族を統べ、これら大小の氏族が夫々世襲の職に就いて、皇室に奉仕し、國家全體を以て一大氏族國家を構成したのである。氏族は同一血族の發展した形態であり、その內部に多くの家を包括したノ古代に遡つてこの家の組織を明確にすることは困難であるが、降つて奈良時代の戶籍の殘存せるものに就いてその大樣を察することが出來る。それによれば、一戶の人員は平均二十數人であり、多きものは百人以上に達するものも見られる.尤も令に五十戶一〓とある規定に制約せられて、戶の實態を傳へない場合も考慮せねばならないが、ともかく大家族制度であることを否み得ない。これらの家族は、必ずしも第二章皇威の發展第四節氏族制度五一 第一編上世五二同居したものではなく一戶の中に幾つかの分家があつてこれを房戶と稱し、家生活の一つの單位をなしてゐる。而してこれら若干の房戶を含み一人の戶長によつて支配される戶全體は一にまた〓戶と呼ばれる。恐らく古代に於いてもかゝる大家族制度であつて、かくの如き大家族の戶が、同一血族の關係によつて多數結合し以て氏族の組織を構成してゐたと考へられる.氏族は氏上と稱する一人の尊長によつて統率せられた。氏上は氏族を率ゐて朝廷に奉仕すると共に、また氏神の祭祀を主宰し、氏族內部の諸般の問題を裁斷したこの氏上は大化以後の例によれば氏の內部に於いて定め、朝廷へ屆け出ることを必要としたが、多くは宗家の長がこれに當つた.そしてこの氏上によつて統率される氏族の人々は一般に氏人と呼ばれた。氏族は始めは一つの部落を構成し、或は同一地方に分布したものであらうが、その發展に伴なひ、多くの氏族に分裂して移住も行はれた。例へば忌部氏はその一族が全國各地に分住して紀伊出雲·阿波·安房·讃岐等の忌部氏となり、宗家の氏上はもとこられらの諸氏を率ゐて朝廷に仕へ、また武內宿禰の子孫は紀氏.平群氏·蘇我氏·巨勢氏島,城氏等に分れて何れも錚々たる氏族となつた。かくして氏族は次第にその數を增して來たのであるが、普通は宗支の關係には同時に支配關係が見られるのを常とした。氏族には部なるものが從つてゐた。: ~ :部民而して部は部曲·民部·家部などとも呼ばれた。これらの部民は農民たることに於いて性質を齊しくするが、氏族に從つて夫々特殊の仕事に從事し、それによつて朝廷に奉仕するものである.部の名は氏族とその名稱を同じくするのが普通であつて、例へば蘇我部は蘇我氏の部民であり、中臣部は中臣氏の部民であり、忌部·物部は夫々忌部氏·物部氏の部民である。14時には阿曇氏が海部を率ゐ、大伴氏が久米部を率ゐるが如く、必ずしもその名稱が一致しない場合も存した.外に部の名稱には、更に特殊の職業名によるもの、地名によるもの、その他種々の場合があつた。殊に職業名を帶びるものは、皇孫降臨に從つた五部神の神々についても見られ、弓〓削部·矢作部·土師部·鍛冶部その他極めて多くの例がある。これら同業者より成る職飛ばははと稱しての所屬は族族の私民といよりは多くは朝鮮に高原第二章皇威の發展第四節氏族制度五三 第一編上世五四にあり、これを管理するものは伴〓或は伴造などと呼ばれ、普通の氏上とは性質を異にする。たゞ朝廷に直接に屬する部と、朝廷との關係が間接的なる部との限界は、明確でない場合が尠くなく、一〓に論じ得ないものがある。卽ち朝廷直屬の部民が伴造に率ゐられる代々その職を世襲する間に、伴造を氏上とする氏族の民であるかの如き性質を與へられる場合もあり、或は逆に氏上がその私民を率ゐて朝廷に奉仕する間に、氏上が伴造の地位となることもあつたと考へられる。しかし、何れにしても總べての氏族が多くの部民を伴なつて、夫々直接或は間接の關係に於いて朝廷に奉仕してゐたことに變るところがない。而してこれらの部民は必ずしも一つの血緣關係によつて結ばれた集團ではなかつたが時代の經過する中に、氏族との間に同祖の觀念を生ずるのが常であつて、同族精神によつてその團結が强められた。御子代部·御名代部皇威の發展に伴なひ、田部·屯倉の增設を見たことについては、先に述べたが、これと相竝んで、天皇·皇后·皇族等の御名を後世に傳へんがために設けられる御子代部·御名代部なるものがあつた。例へば景行天皇は、日本武尊の功名をuseおほやまと ね傳へへがかめめ武武部を定められ清寒大果はま事事に據式は自覺天げたが、御子在しまさざるが故に白髪部を定められた如きこれである。かゝる部は御子または御名の象徵として傳へられ、主として諸國に散在する屯倉を以て充てられたと考へられるが、時に氏族所屬の部民を獻上せしめられることもあつた.姓の制度以上の如き組織を持つ大小の氏族が發生すると共に、氏族はまたその出自身分等を意味する姓を使用した。姓の名稱には、公·別·臣·連·直·造·首等があり、國造·縣主·稻置·史の如きも、始めは官職を示したものであるが、その官職が世襲される間に、姓の性質を帶びて來た。これらの中、公·別·臣は天皇及び皇子の子孫にして臣下の列に入りたる皇別氏族の稱する姓であり、連は神々の子孫たる神別諸氏の姓であり、直·造·首等は出自による區別がなくまた歸化人に著しい姓としては、吉士村主史等があつた。姓は初め必ずしも地位の上下を意味するものではなかつたが、おほよそは臣·連等の地位は直·造首等の上にあり、次第に上下尊卑の觀念が明確となつて來た。殊に朝廷に大臣·大連の職が置かれるに及んで大臣は臣姓より、大連は連姓より出で、共に宰相の地位にあつて國政の樞機に參與した。なほ姓は獨り氏上がこれを稱するのみならず、その一族のものは等しくこれを稱するのを常とした。第二章皇威の發展第四節氏族制度五五 第一編上世五六2後の大化改新によつて姓はその重要性を失つた.更に天武天皇の御代には、眞人.朝臣·宿禰·忌寸·道師·臣·連稻置の八姓を定め、以て姓氏の紊亂を糺されたが、この時の姓は全く出自官職と離れ、たゞその氏族の上下の差別を表はす爵位の如き性質に變つてゐる。氏族の奉仕氏族制度時代の政治組織は皇室を中心として中央の氏族をして朝廷の政務や諸事に參與せしめ、地方の氏族をして地方行政に當らしめた。卽ち臣·連は主として朝政に、伴造は各〓特殊の職業に、國造は地方に、夫々の任務を掌ることによつて代々朝廷に仕へ、以て國家の政治組織を構成した。かくして、皇室は凡ての氏族の宗家として、絕對であるから、皇室には氏がなく、またその必要もないのである。氏族はまた皇室に對して勞役に奉仕し、調賦を納めた。大化元年の詔に「及進調賦時、其臣連伴造等先自收歛、然後分進、修治宮殿、築造園陵、各率己民、隨事而作、」とあるが、これによつて臣·連·伴造等は朝廷にその調賦を進め、またその部民を率ゐて、朝廷の諸役に奉仕してゐたことが知られる。殊に一旦事ある場合には、氏族はその部民を率ゐて軍事に參加した。これは軍事を以て仕へた大伴·物部の兩氏に限らなかつたのであつて、例へば崇峻天皇の御代、任那の再興を計られた時には、紀·巨勢·大伴葛城の諸氏から大將軍を任ぜられ、氏々の臣·連を率ゐてこれを部將となし、二萬餘の軍を催して筑紫に待機せしめられた。以上の如く、凡ての氏族は各〓その本分を以て朝廷に仕へ奉つた。そして各氏族は祖先代々が皇室に仕へまつれるさまを、子々孫々に語り傳へた.かくて古代の我が國は皇室中心の氏族制度のもとにその發展を遂げたのである。第五節文化の黎明と發達祭祀と傳承我が國には早くより皇室の御祖神を始め奉り八百萬の神々が國土の隅々まで祭られてゐた。それらの中、國民生活と最も密接に繫がれる神々は、聚落結合の中心となつた氏族の祖神、卽ち氏神であり、殊には國家國民の祖神と仰がれた皇祖皇宗の神々であつた.國民はこれらの神々を現實の生活と不離の關係に於いて考へ、その祭祀を通じて祖神に歸一し、報本反始の心を養ひ、國家的結合を鞏固にし、第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達五七 第一編上世五八また村落の融和を保つた。かゝる祖孫一體の祭祀の精神のもとに、古代人はまた具體的な傳承を有した。卽ち氏々に於いては、親より子へと國家と祖先の物語が傳へられ、祖先が皇室に仕へ奉つた功績が語り繼がれ、この傳承の中に於いて旣に道德學問等の萌芽が含まれてゐた。我が太古には道德の學的體系としての文獻を殘さなくとも、その實踐が旣にあつた所以である.祭祀が初め如何なる形で行はれたかは、神話にこれを見ることが出來る。例へば、天照大神の岩戶隱れの神事では、八咫鏡·八坂瓊曲玉が特に作られて、これを書和幣白白の和幣と共に榊の校に懸けて大神の御前に捧げ多くの神々集ひまして、神前に祝詞·神樂を奏し、以て神意を慰めたのであつて、これは古代の祭祀の典型と見ることが出來る.觀調宣命の內内は國史全法側の編纂される時代に入って始めてとれとが出來るのであるがその起原は實に古きものであり、祭祀と共に存するものである.工藝及び歌舞·音樂等も亦祭祀との關係を保ちつゝ發達したのである.祭祀に關聯して、古代には種々の行法があつた。例へば、太占と稱する占ひがあり、これは鹿の骨を燒き、その裂罅によつて神意を窺ふことであつて、支那の龜トと異なり、我が國獨自のものといはれてゐる。或は心の正しきを誓ひまたは事の成否を判< Mぜんとするとき、神に現象の示顯を祈る祈(祈誓)も盛んに行はれた。盟神探湯による裁判も亦一種の祈請であつた。その他禊祓の行事があり、これによつて罪として忌まれた汚穢·犯罪を除き去つて心身を〓淨にし、また神に近づく方法とした。傳承は家々にも傳へられたが、特に皇室にはこれを職とする語部があつてその伴造に率ゐられて朝廷に仕へた。語部は文字が用ひられるやうになつた後も永く存せしめられ、大嘗會には古詞を奏する例となつてゐた。語部の傳誦した物語は、恐らく皇祖の神德や、氏々の祖先の功績などを、その豐かな詞によつて語つたものと考へられ、從つて古事記日本書紀の傳承の母胎をなしたものであることは否み得ない。歌、謠古代人は種々の機會に歌を謠ひ、また歌を作つてその情操を養つた。古事記·日本書紀に載せられてあるものが約二百首に及ぶことによつても、古人の生活が如何に歌謠と密接な關係にあつたかを知ると共に、その內容によつて古人の心の姿を率直に理會することが出來る.「やすみししわが大君」高光る日の御子」と天皇を讚へまつる語句が屢〓出でまた一坏の神酒に「この神酒は吾が神酒ならず、やまとなす第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達五九 第一編上世*〇大物主の釀みし神酒、幾久々々」と神の惠みに生活を託した感動などが歌はれた。の語調も初めは大體五音を繰返すのを基準としつゝも、必ずしもそれに據らないも3のを交へ、これがまた五七調を導くと共に、長歌·旋頭歌·短歌の形もその母胎がこゝに求められる。かゝる歌調は素樸にして、しかも强く心に迫るの感を響かせ、歌詞の率直さ平明さと相俟つて我が獨自の國民精神を表出してゐる。歌はたゞ日常の平和な生活に於いてのみでなく、戰爭の際に軍士を激勵し、士氣を振起する場合にも行はれた。殊に神武天皇が中洲平定のとき詠ませられた御製は記紀にその八首が載せられてゐるが、これらは來目歌と稱せられ、これに伴なふ舞と共に、後世永く宮廷の舞樂として行はれた。古代の歌謠は、曲を附して謠はれ、音樂と舞踊とを伴なふのを常とした。樂器としては琴·笛·鈴等が用ひられ、舞踊は詞曲と共に夫々の地方に土風の歌舞があつて、地方的にもその發達を遂げた、殊に大和吉野の國栖人は大嘗會を始め、節會の度ごとに參內して土風の歌笛を奏し、御贄を奉獻する例であつた。歌舞はまた山上·市頭等に於いて村人の男女等相集まつてこれを行ふ風習があつた.これを歌垣と稱する.また饗宴にも歌舞が行はれ、宮廷に於いては時に酒樂豊唐明等の饗宴が催された。以上を通じても見られる樣に、古代人は樂天的·光明的なる人生觀を有し、人の心を素直に解し、事物の暗黑面に捉はれず、現實に喜悅と希望とを感じつゝその生活を送つたのである。生業古代人の主なる生業は農業であつて、瑞穗國といふ我が國名は農作の豊饒を象徴してゐる.また天照大神が皇孫降臨に際し、以吾高天原所御齋庭之穂亦當御於吾兒」と仰せられて稻穗を授けられた古傳には、御歷代の農を重んじ給ふ御精神と、農事の神聖とが示されてゐる。神々の中には農業神も尠くなく、祈年新嘗水神風神等の祭も主として農業に關するものである。而して御歷代の御政治に於いて勸農は祭祀·軍事と共に重要な地位を占め、國民をオホミタカラと稱するのは大御田族の意とも解せられる。農事に關するものとしては古事記には蠶·稻·栗小豆·麥·大豆等の存在が語られ、日本書紀には牛馬·栗·蠶·稗·稻·麥·大豆等が現はれ、水田·陸田のあつたことも明らかである。或は農耕石器や籾粒の痕跡を有する土器等の出土は、住居址よ第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達六一 第一編上世六二り發見される炭化米粒などと相俟つて、古代人の農業生活を物語るものである。農業に次いでは狩獵·漁業等がある.古傳には海幸山幸の物語があり、今日隨所に發見される貝塚を始め銛·釣針その他骨角器の發見はそれらの生活を察せしめる.その間にあつて、既に手工業の發達も見られる。崇神天皇の定められた弱調·手末調は男は狩獵に、女は手工業に從事してゐた狀態を物語つてゐる.殊に手工業の名を帶びた職業部が多數に存在したことは、各種の工藝品が盛んに生產されてゐた事實を示すものである.中には歸化人によつて新たに開かれた工藝技術も尠くないが、多くは古くより我が國民の間に傳へられたものであつた。古傳には天照大神が機織を授けられたことを傳へ、また任那の來貢に對して垂仁天皇は赤絹一百疋を賜はつたことがある.更に魏志倭人傳に據れば、邪馬臺國より倭錦·帛布弓矢等を魏に贈遣してゐることが記され、優秀な手工業が既に我が國で發達してゐたことを思はしめる.物資の交易も古くより發達し、これが市に於いて盛んに行はれてゐた。市の名も日本書紀に屢、現はれ、大和には輕市海石榴市、河内には餌香市があつた。魏志倭人傳(形 甕)器土式文繩鐸銅(文水流)鐸銅(形壺)器土式生彌(文襷装袈) 埴輪(子男裝武) (形角衝)胄(甲短)甲(椎頭)刀太と埴輪(子女裳著)には國々に市があつて有無を交易し、また壹岐對馬の島人が船に乘つて南北に交市してゐたことが記されてゐる。石器·土器各種の工作品の中で現存する最も古いものは石器及び一部に行はれた骨角器等の利器と、容器として用ひられた土器とである。石器の古いものは石斧石鏃·石鎗·石七など日常生活に必要な類であつて、打製品が多いが、時代の進むと共に磨製品も作られて、石庖丁右劔·石棒など製作の精巧な器を見受ける。土器の最古のものは純文式土器であつて、これは赤黑い色の燒成度の低いものであるが表面に繩蓆を印し、また曲線からなる複雜な文樣を以て飾つた點に特色があり、その形狀も簡單な鉢·Ⅲ·壺の類から瓶·発·注口土器·香爐形など種々の形に亙つて頗る變化に富み、その文樣と相俟つて原始的な容器として世界に多くその比を見ないものである。の分布は全國的であるが、東日本に特に密である。繩文式土器に次いで發生し、且つ時代の稍、後まで行はれたのは彌生式土器である。この土器は赤褐色をなして燒成熱度はかなり高く、製作に簡單な轆轤を用ひて、その形は前者の如く複雜でないが、實際的なものが多く、文樣も單純な線文に限られ、これを缺くものも多い。その分布は第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達六三 第一編上世六四西日本を主とし、この系統が土師の土器に續くものと考へられる。而して容器としI表二一進進んだものはさくは國と稱ぜられ加盟部士遂であつててれは硬質の器で、後代の陶磁器の祖型をなしてゐる。銅器石器·土器に續いて現はれた金屬の工作品は靑銅器であつて、初めは雙方が併用された。その最初に見られる靑銅器は銅劔·銅鉾及び銅鐸を主として、外に銅鏃等もある。銅劒·銅鉾は北九州を中心として西日本に分布し、細形銳利なものと魔鋒や平型の大きなものとが存し、後者の類に屬する鑄型は北九州で發見せられる。銅鐸は我が國特有の遺品であつて、畿內を中心として中部日本に分布し、その形狀は稍〓扁平な鐘狀をなし小型厚手のものから大型薄手のものへと發達のあとが認め;まられその國文は前者に流水文が多く核者は專も製裟棒文である、而してこれらの中に古代人の生活を窺ふべき種々の線畫の鑄出されたもののあることが注意せられる。鏡は各地の古墳より夥しく出土する.中に支那で製作されて我が國に舶載せられたことの明らかなものも尠くないが、これと共に石凝姥命の古傳や鏡作部の存在によつて示されてゐる如く、我が國で作られたものも多い。これらの背面の圖文は支那鏡を模したものに於いても、彼に較べて軟味を帶びてゐる.更に我が獨自の意匠を施したものに、古代人の愛用した直弧文やその時代の狩獵の狀況、家屋等を表はしたものが見受けられまた鏡の緣に數個の鈴を附した鈴鏡が多數に作られてゐる。これらは何れも古代人の精神とその生活のよき表現である。鐵器鐵器の著しいものは刀劒·甲冑等の武具であるが、また各種工具·農具等も作られてゐる。劒の作りは割合に短いが、刀はすべて直刀で、長大なるものが多い今日遺存する古墳の發掘品は旣に朽損したものが多いが、その科學的〓究によつて當時鍛鍊が重ねられ、銳利且つ精巧なるものであつたことが判る.後に海外にまで喧傳される日本刀の優秀さの萌芽は旣にこゝに認められるのである.これらの裝具は直弧文を施した鹿角製のものを主とするが、後には豪華な金銀の環頭を附したつものや、頭椎を加へた類が見受けられ、これに華麗な彫刻を施したものが多い.次に田で胃中に短甲と甚甲が竝び行はれ、胃では衝角形と眉此の二つの形式が存してthe何れも優れた技巧を示し、古代人の尙武の精神の一面を反映するものがある。第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達六五 第一編上世六六勾玉その他の裝身具裝身具の最も主なるものは玉である。玉は形狀によつて勾たま くだだま王管女王家に分けられ何れも繋いで首師なるとに無用したものであその材料には硬玉·碧玉·水晶·瑪瑙·滑石·蠟石·琥珀·硝子等が用ひられてゐる。玉の中で我が獨自の發達を遂げたものとして特に注目すべきは勾玉である.これは獸牙狀をなし、その滑かな曲線は少しも尖銳感を與へず古人の優美な情操を偲ぶに十分である。而してその材料には現在我が國土に產出を見ない俗に翡翠と呼ばれる硬玉が尠くなく、この極めて硬度の高い鑛石を自由に〓磨して精巧な形狀となし、且つ細孔を穿つた技術などに感嘆すべきものがある。同じ類は本土と、早くより我が文化の及んだ朝鮮半島との外に未だ出土例がなく、我が玉作部によつて作られたものとせられてゐる.玉に次いでは耳飾りや釧卽ち腕輪等も尠くない。殊に耳飾りは金を被せた銅環が多く、また時に黃金製の精緻な垂飾りを有するものもある。その他金銅で作つたあぶみきやうえふ ば表冠〓き見出されてをり馬直もし教機線を塞島舞なと極やく情方なも:충住宅近時の考古學的〓究による原始住居は、地面を角丸の方形或は圓形に掘り凹めた所謂堅穴であつてその一部に柱穴や竈址などが存し、また底部に石を敷いたものなどがある。これらの遺構から推考すると、その上に營んだ架構は恐らく地上に木神材を互に交叉し、屋根形に作つて棟木を架し、草を以て葺い明たもので、卽ち工匠家の所謂天地根元造の如きものであつたであらう。これに對して多くの柱を使用して屋根を高造く上げ、床を設けることも早く發達したが、この場合もなほ礎石を使用せず、柱の下端を土中に埋めたものであつて、屋根を堅魚木で押へ、棟の兩端には千木を高く伸ばして、一種の洗煉されたものとなつてゐたことが、埴輪の家その他か大ら認められる。神社建築にはこれらの遺風を今日に傳へ社るものがある。伊勢の神宮出雲大社等にこれを拜するこ造とが出來るのであつて夫々の類型を神明造·大社造と稱し、ゆ2前者は平入、後者は妻入であるのを特色とする。以上の如第三章皇威の發展第五節文化の黎明と發達六七 第一編上世六八き我が國固有の建築は簡素なる中にも森嚴なる優美さを有し、その構造も技術上極めて秀れたものである。なほ一部に重層建築の行はれてゐたことも埴輪の家屋から推される。皇陵及び墳墓墳墓は祖先を尊ぶ風習から大なるものが營まれた。それらは土を盛つて外形をなしうちに遺骸を葬り、刀劒·鏡鑑·勾玉等の副葬品を副へたものであるこの封土の中には濠を繞らし、外堤を築き、また周圍に埴輪を連ね樹てたものがある。而して歴代天皇の御陵はその規模特に宏大でぁ高野街道Dへまうよりごずもつて、これによって一般の墳墓の形式の推移などを辿り陵中原耳鳥舌百得るのである。古代墳墓の形は圓形·方形などの普通のものの外に、前方後圓墳なる他國に類似のない形式があひさつづか くるまづかる。これは古くは瓢塚、車塚なとと呼ばれ、墳墓の最も發達した時代に行はれたものである。應神天皇·仁德天皇の御陵等はこの前方後圓形の著しい例である。殊に仁德天皇みゝはらのなかのみさ~ぎの百舌鳥耳原中陵(和泉)は前後の徑二百六十一間前方部の幅百六十五間、高さ十八間、その外側に三重の濠を繞らし、兆域の總面積は十四萬坪に達する。實に我が國最大のものたるのみならず、兆域の廣さに於いては世界第一である。外形に對して、遺作られるに至り、その形に割竹形·船形·長持形·家形等が存し、よく古代に於ける技術の發達を示してゐる。而してこれらの棺の外柳として巨石を以て營んだ石柳の築造がまた盛んであつた。大和島ノ庄の石舞臺と稱する石柳の如きはその封土を失つてゐるが、營造の巨大なることはこの種の石室として世界を通じて稀有なるものである。埴輪古墳の封土には、埴輪の樹てられてゐる場合が尠くない。この埴輪の起原に就いては、日本書紀に垂仁天皇が殉死を憐んでそれを禁ぜられ、新たに野見宿禰の議に依り、埴土を以て人馬の形を造り、墳墓に立てて殉死に代へしめられたことが記されてゐる。埴輪偶人はかゝる意味に於いて用ひられたものと考へられるが、その形式を發生的に見れば、もと玉垣乃至墳墓の土留めとして用ひられた圓筒形の土製品があり、それから形象埴輪に發達したものと思はれる。この形象埴輪には人馬第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達六九 第一編上世七〇を始めとして、鷄·牛·家屋家具等種々のものがあり、當時の生活の樣式風俗等を示す點ノで貴重な資料である。同時にその技術は固有の原始的造型として、素樸なる中に極めて印象的な表現形式を取り、時には單純な色彩を施したものもあつて、古代國民の趣好を窺ひ得るものがある。なほ北九州の一部にては土製埴輪と同じ形の石人·石馬等が作られた。海外との文化的交渉我が國土と大陸及び南方との交渉は、計り知ることが出來ない程遠い昔に淵源する。我が國土は大海によつて他と隔てられてゐても、舟楫による交通が早く開けてゐて、その間に文化の交流があつたことを考へねばならない。殊に朝鮮半島とは深い關係があり、應神天皇の御代、皇威がこゝに光被するに及んで、大陸との文化的交渉は愈。密接となり、また多數の歸化人の移住とその國風化とは新たに齎された異種的文化を日本文化として發達せしめる機會をなした。かくして蠶業·醸造·書算等に至るまで新しい方法が傳へられたが、その著しいものは工藝の發達と漢學の傳來とであつた。工藝の發達歸化人の渡來によつて進步した工藝に、先づ織物がある。弓月君の率ゐた秦人は朝廷のために蠶を養ひ、絹を織り、その質が柔かであつたと傳へられ、或はその貢進は朝廷に積み充つること山の如くであつたといふ。更に漢人も同樣であつて漢織は卽ちその織るところであり專門の部も成立した。また百濟から縫衣みの工女が貢進せられ來目衣縫と稱する部の祖となつた。その他、應神天皇は歸化人阿知使主を吳に遣はして縫工女·織工女を求めしめられたことがあり、かゝる事例はその後も引續いて見られる、歸化人によるその他の工藝品の例を擧げれば、略略天皇の御代來朝したものに陶器·馬具等を製作した漢人があり、また百濟人には鍛工に用ひられるものもあり、奈良時代中央官衙に屬して工作に從事した雜戶にその跡を留めてゐる。總じて大陸より技能者の渡來するとき、朝廷では新たに部を置いて、夫々專門の製作に從事せしめられ、我が國古來の工藝もこれらによつて發達を遂げた。漢學の傳來漢學は應神天皇の御代阿直岐·王仁等が百濟から歸化してその經典を齎してより我が國に傳來し、太子菟道稚郞子は王仁を師としてこれを學ばれた。降つて繼體天皇の御代百濟王は五經博士段楊爾を貢し、欽明天皇の御代には、百濟よ第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達七一 第一編上世七二り醫博士·易博士·曆博士等が來朝し、また五經博士王柳貴が來り、この頃より漸く諸般の學問勃興の機運が到來した。學問に附隨して、しかも當時に於いて一層重大な意味を持つたものは、記錄の發達である。漢字は、古く鏡·錢貨等の遺物についても見られ、少くとも一部の間には、漢との交通によつて旣に使用せられてゐたと考へられるが、このことは應神天皇の御代以後愈〓顯著となつた。而して歸化人の中からは、記錄の道を以て朝廷に仕へるものも現はれ、阿知使主の子孫たる東文氏、王仁の子孫たる更之ははののななのでありその他史の姓を稀ずるものも文ては一たかくして旣に履中天皇の四年(一〇六三)には、始めて諸國に國史を置くことがあり、記錄を掌るものが國々にも配置せられた。佛〓の傳來海外文化がかくして漸く盛んに攝取されるに至つた頃、我が國に傳來したものに佛〓がある。歸化人の中には早くよりこれを信ずるものがあつたが、欽明天皇の十三年(一二一二)に、百濟の聖明王は佛像·幡蓋·經論等を朝廷に獻じ、佛〓の殊勝の法である所以を述べた。天皇ば諸臣に佛をまつるべきや否やを問はしめられたところ、大臣蘇我稻目はこれを尊信せんとしたのに對し、大連物部尾興は、我が國には古來天神地祇があつて、朝廷は四時これを祭られるのに、今改めて蕃神を禮拜する事あらば、必ずや我が國神の怒に觸れるであらうと主張してこれを排斥した。ここに於いて、後に述べる如く、蘇我·物部兩氏抗爭の端が開かれ、その反目はこの後三十餘年に亙つて繼續し、その結果は物部氏の敗亡に歸して、佛〓興隆の時代に移つて行つたのである。元來佛〓は印度に興つて、ガンダーラから北は葱嶺(パミール)を越え、今の新疆の地方を經て次第に東流し、東晉末から六朝にかけて、支那に於いても大いに普及するに至つた。しかもその間には遠くギリシヤ·シリヤ·ペルシヤ等西方文化の要素をも交へ、支那に於いては漢民族の文化と混合するに至り、特に佛〓美術に於いてこの事が著しい、我が國に於ける佛〓受容は、かゝる多彩なる要素を含める文化を攝取し、これらを博大なる國民文化として發展せしめるにあつたのである。第二章皇威の發展第五節文化の黎明と發達七三 第一編上世七四第三章飛鳥時代と大化改新第一節聖德太子の攝政大臣·大連の擅恣皇威の發展に伴なひ、朝政輔翼の道が擴充される結果、氏族の中おほむらじには特に高き地位を與へられるものが生じた。その著しいものは大臣·大連である。既に垂仁天皇の御代には物部十千根大連があり、成務天皇の御代には武內宿禰を以て大臣とせられたが、大臣·大連が朝廷に於ける常置の官の如くなつたのは雄略天皇の頃からであつて、しかもこれに任ぜられる氏族も古き傳統のまゝに略〓固定して來たことが注目せられる。卽ち大臣の任に當る氏族は、何れも武內宿禰の後裔たる平群氏·巨勢氏·蘇我氏等であり、大連は大伴·物部の兩氏に限られてゐる。多くの臣·連の中にあつて、これらの氏族は特に巨大なる勢力を擁し、その地位が固定すると其に、漸く擅恣の振舞をなすに至つた。この中、大伴氏は半島に對する大伴金村の失政によつて、その後勢力を失ひ、平群·巨勢の兩氏も蘇我氏のために壓せられ、欽明天皇の御代から、蘇我·物部兩氏の對立が次第に顯著になつた。この時偶、佛〓の傳來があり、新文化を取容れんとする傾向と傳統を尊重する傾向との對立ともなり、兩氏の抗爭は表面に現はれ、爾來世の煩ひとなつた。卽ち佛〓傳來の始め、蘇我稻目は佛をまつるべしとし、物部尾與はこれに反對し、天皇は佛像を稻目に賜はつて、試みにこれを禮拜せ稻目は〓原の家を淨めて寺となし、佛像をこゝに安置したが、間もなくにしめられた。疫病が流行したので、尾輿の奏上によつて向原寺は燒き拂はれ、佛像は難波の堀江にLほち投ぜられた、次いで敏達天皇の御代稻日の子蘇我馬子は石川に積會を造り司馬達等をして信見を西方に求めしもたが可び疾病が流む右石組の手物部屋によつて燒き拂はれ、兩氏の反目はかくして次第に激化した。次いで用明天皇の御代となるや、馬子及び守屋は皇恩に狎れて擅恣の行爲が多く、延いては皇位繼承の問題にまで立ち至り、天皇崩御の後、馬子は遂に守屋の討伐を圖つてその一族を攻め殺し、物部氏はこゝに滅亡した。やがて崇峻天皇が卽位あらせられたが、馬子は益〓權勢に驕り、不臣を敢へてするに至つた。かくの如き狀態の中に推古天皇卽位あらせ第三章飛鳥時代と大化改新第一節聖德太子の攝政七五 第一編上世七六うまやどのられ、次いで天皇は、用明天皇の皇子厩戶豐聰、耳皇子を皇太子に立て、同時に攝政となして萬機を委ね給うた。これ卽ち聖德太子にあらせられ、庶政刷新の曙光がこゝに現はれるに至つた。新羅の發展と隋の統一さきに欽明天皇の御代任那は新羅に侵略せられて遂に滅亡した。當時新羅では、法興王眞興王等が相次いでよく內政を整へ、文化の興隆を圖り、外は頻りに版圖を擴めて、國勢大いに發展した。卽ち法興王の時には、法制を定め、百官の服を制し、佛〓を迎へてこれを盛んならしめると共に、年號を建てて建元とするなど、國の面目を一新し、次の眞興王は、新羅史の編纂を行ひ、また屢、高句麗と戰つてその領土を咸鏡南道の地域にまで擴めた。任那の滅亡したのもこの王の時であつて、かくして新羅の國力は著しく充實した。一方支那では諸國の興亡相次ぎ、南北兩朝の對立となつたが、その後漸く統一の機運が熱し、我が敏達天皇の十年(一二四一)北周の楊堅は自立して國を隋と號し、續いて崇峻天皇の二年(一二四九)には南朝の陳を滅ぼして、遂に統一の業を遂げた。かくして隋は更に勢力を四隣に振るひ、推古天皇の六年(一二五八)には東方に對して高句麗征伐の大軍を動かした。太子の攝政推古天皇が聖德太子を攝政となし給うた頃の內外の情勢は以上の如きものであつた。こゝに國運の將來を擔はれた太子は、大別して三つの問題に力を致された。その一は國體を明らかにし、國內の制度を刷新して、氏族制度の病根を芟除せられることであつた。冠位及び憲法の制定、國史の編纂などは何れもこれに出づるものである。二は外交關係を調整せられることであつて、新羅征討、隋との修交などがこれである。三は東亞の大勢を察知し、大陸の文化を攝取して、大いに國運の發展を圖られたことで、佛〓·學問の興隆、美術工藝の發達等の機運を釀成せられたことが數へられる。太子の鴻業はその後に於ける國史の發展を導く上に大いなる意義を有するものであつて、その御業績は長く歷史の上に輝いてゐる。冠位の制定太子の內政刷新は先づ冠位の制定に顯はれた。卽ち推古天皇の十一年(一二六三)太子は冠位十二階を定めて、翌十二年正月これを諸臣に授與せられたのである。十二階とは、大德·小德·大仁·小仁·大禮·小禮·大信·小信·大義·小義·大智·小智であつて、その冠は夫々所定の色の純を以て縫はしめられた。これまで朝廷に於ける氏第三章飛鳥時代と大化改新第一節聖德太子の攝政七七 第一編上世七八族の地位はその姓によつて決定され、代々これを傳へたのであるが、新たに制定された冠位は、個人の動功に應ずるものであるから。昇階することが出來るけれども、子孫には傳へられるものでなかつた。從つて姓とは全く異なつた觀念の上に立脚するものであつて、期するところは門閥の弊を打破し、人材を登庸するにあつた。位階は古く支那に於いて見られ、半島諸國にてもこれに倣ふものがあつたが、太子の冠位は、實に當時の政治的·社會的な必要に應じて制定せられたものである。·卽ち太子はこれを以て單に朝儀を修飾せられたのみでなく新たなる秩序を確立し以て氏族の擅權を押へんとせられたものである。その名稱に先づ德を立てて、次に五常の德目を上の如く配列せられた意味には、我が傳統的國民精神を重んぜられる太子の御態度が窺はれ、同時に時代の機運を偲ばしめるものがある。冠位はこの後屢〓改められ、やがて大寶令の官位制度に及ぶのであるがその基はこの太子の新政に發してゐる事を注目しなければならない。憲法の制定太子は冠位の授與と同じ年にまた親ら憲法十七條を作定せられた。この憲法は直接には群臣百寮を戒められたものであるが、內容は廣く國體を明らかにし、臣民の道を諭されたものである。先づ第一條には「以和爲貴、無忤爲宗、」とあり、上下相和して事を論ずるにかなはば何事か成らざらんと〓へられてゐる。第二條には「篤敬三寶」とあつて、佛〓歸依を說かれ、「其不歸三寶何以直枉、」と結ばれてゐる。第三條は我が國體の根本を示されたものであつて「「承詔必謹、君則天之、臣則地之、天覆地載、四時順行、萬氣得通、地欲覆天、則致壞耳、と仰せられ、君臣の大義を明らかにせられてゐる。卽ち君は詔を下し給ひ、臣は必ずこれを謹んで承るものであるから、若しこの關係が轉倒すれば、國家は壞るるのみであるとの御諭しである。更にこれが敷衍せられて、第十二條には「國靡二君、民無兩主.率土兆民以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公賦歛百姓、」とあり、國司·國造等、臣たるものが民を私する時弊を糺斷して、一君萬民の關係を昭示せられてゐる。かゝる國家體制はやがて大化改新に於いて制度として徹底するに至るのである。また第四條には「群卿百寮、以禮爲本、」とあり、第十五條には「背私向公、是臣之道矣、」とあるなど、全文何れも臣として朝廷に仕へ、或は民に臨む道について具體的にして詳細な心得を示されてゐる。而してこれらの條項を通じて儒〓の典籍と同じ語句が見第三章飛鳥時代と大化改新第一節聖德太子の攝政七九 第一編上世八〇られるのを始めとして、種々の思想が取容れられてゐるが、その一貫して立脚するところは我が國體であり、固有の道德である。要するに、太子は當時大陸から傳へられた儒〓·佛〓について、我が自主的立場よりこれを批判攝取して、一君萬民の國體を明示せられ、臣の道を諭して時弊を匡救し、以て國運の將來を打開せんとせられたのであつて、憲法に見られるこの精神は直接には大化改新を導く原動力となつた。しかのみならず、太子の憲法は後世に於いては永く我が國法典の基となり、また國民道德の實踐規範と仰がれるに至つた。國史の編纂推古天皇の二十八年(一二八〇)太子は蘇我馬子と議つて天皇記、國記、臣·連·伴造·國造·百八十部竝びに公民等の本記を編纂せられた。不幸にしてこの書は早く失はれ、その性質を明瞭にすることは出來ないが、太子の新政と照合するに、太子は國體の由來を明らかにし、國家的自覺を喚起するために國史の編纂を行はれたものと考へられ、冠位の制定、憲法の作定と同じ精神に基づくものであることが察せられる。しかもそれは我が國に於ける最初の歷史編纂であり、古事記·日本書紀の先驅をなす點に於いても重大な意義を有する。佛〓の興隆太子は三寶を敬ひ給ふこと篤き用明天皇の皇子にましまし、また佛〓傳來の時この法を聞召した欽明天皇の御孫に當らせられる。從つて早くより佛〓に接せられ、その英邁なる御資性を以てこの新來の文化に對する理解を深められた。佛〓興隆の機運は實に太子によつて進められたのである。卽ち太子攝政の初め、推古天皇の二年(一二五四)には、改めて太子及び馬子に佛〓興隆の詔が下り、これより臣·連等は君及び親の恩のため皆競つて佛舍を建立したといふ。佛〓はその後次第に隆盛となつて、天皇の三十二年(一二八四)には、寺院の數四十六、僧尼の數一千三百八十五に及んだ。太子は佛典を高句麗の僧惠茲に漢學を博士覺都に學ばれ、天皇の十四年には天皇の仰せによつて勝鬘經及び法華經の講說を行はれた。太子は更に勝鬘經·維摩經及び法華經について、親しく夫々の義疏を著はされたのであつて、これには佛〓を日本的に攝取せられた太子の叡智と、支那に於ける註釋を批判せられた果斷な御性格とがよく示されてゐる。日本佛〓はかくして旣に太子の中に育まれつゝあつたのである、三經の義疏は當時我が國佛〓の權威を示す大作であつたのみならず惠慈は高句第三章飛鳥時代と大化改新第一節聖德太子の攝政入 第一編上世八二麗に歸るとき、これをその國に齋したといはれ後には支那にまで傳へられ、唐僧にしてその私鈔を作るものもあつた。かくの如くして、太子によつて日本佛〓は早くも世界的なるものとなり、次の時代に於ける隆盛の基を開くことになつた。民政太子は御心を民政に注がれ、憲法の第十六條には「使民以時、古之良典故冬月有間、以可使民、從春至秋、農桑之節、不可使民、其不農何食、不桑何服、」と勸農の事が示されてゐる。かくて池溝を開鑿して農業の便を圖られ、或は力を醫藥の道に用ひられて藥草を採集せしめられた。また難波の四天王寺に施藥院·療病院·悲田院敬田院を置いて病者·窮民を救恤せられたと傳へられる。かくの如く太子は民利に御心を用ひさせられたために、その薨去に際しては、諸王臣以下天下の百姓に至るまで、長老は愛兒を失ふが如く、少幼なる者は慈父母を亡ふが如く泣き悲しみ、働哭の聲行路に溢れ、惠慈の如きは故國に在つて太子のために設齋し「恭敬三寶救黎元之厄、是實大聖也、今太子旣薨之、我雖異國心在斷金、某獨生之、有何益哉、」とその御德を讃嘆したことが日本書紀に傳へられてゐる。第二節外交の刷新新羅征討敏達天皇は欽明天皇の遺詔により、新羅に壓せられた任那の復興を圖り給ひ、我が國人にして百濟に仕へ、智者として聞えた日羅を召してその方法を問はしめられた。日羅は先づ內政に力を致され、食足り民悅ぶを待つて、大いに兵船を整へ、威を半島に輝かし給ふべきことを奉答した。やがて推古天皇卽位あらせられるや、間もなく新羅征討が決行せられた。卽ち天皇の八年一二六○)任那を救はんとし、境部臣を大將軍、穂積臣を副將軍となし、萬餘の軍を授けて新羅を討たしめられた。我が軍は渡海して大いに新羅を破り、忽ちその五城を陷れたので、新羅王は懼れをなして將軍の麾下に降り六城を割いて歸服を乞ひ、歲毎の朝貢を誓つた。天皇はこれを許し給ひ、軍を半島から撤收せしめられた。然るに新羅は誓約を實行せず、却つて任那の地を侵すに至つた。こゝに於いて新羅再征の議が起り、同十年太子の御弟來目皇子を擊新羅將軍となし、二萬五千の軍をこれに授けられた。よつて皇子は筑紫第三章飛鳥時代と大化改新第二節外交の刷新八三 第一編上世八四に至つてその準備を進められたが、病を獲られて翌十一年筑紫に薨去せられ、新羅再征の擧はこゝに一頓挫を來たし、任那再興の望みは空しくなつた。併しながらこの後、新羅は屢〓我が國に朝貢し、我が國またこれを納れて彼我の交通が續けられた。高句麗との修交隋の勃興に伴なつて、その壓力は遂に高句麗に及んだ。卽ち我が推古天皇の六年(一二五八)隋は大軍を起して高句麗を征し、更に同十九年にはその再征を行つたが、却つて敗北した。隋と高句麗とのかゝる關係は自ら高句麗をして我が國に接近せしめることとなつて、政治的にも岐壹文化的にも、彼我の交涉は深くなつた。卽ち圖要島半鮮朝推古天皇三年(一二五五)には、彼の國の僧惠慈高羅耽江村州島州濟風が渡來して、爾來聖德太子の師となり、同十三年には天皇誓願を發して、丈六の佛像を造らせられるに當り、高句麗は黄金三百兩を貢し、同十八年には僧曇徵等が來朝した。殊に同二十六年には高句麗王は使を遣はして、方物を貢し、隋軍大敗の狀を奏すると共に、その俘虜及び戰利品の類を我が朝廷に獻上した。かゝる間に、我が國の對外的關心は半島から支那へと伸長し、また我が國の國際的地位も自覺せられ、こゝに於いて太子は使を隋に遣はされるに至つたのである。遣隋使の派遣推古天皇十五年(一二六七)朝廷は小野妹子を隋に遣はされ、我が國と隋との修交がこゝに開始されたが、このことは我が國の歷史にとつて極めて重大な意味を持つものである。隋書によれば、この時妹子が齎した國書には「日出處天子、致書日沒處天子、無恙、」とあつたので、煬帝はこれを悅ばず、蠻夷の書無禮なるものありと言つたと傳へられてゐる。卽ち支那は古來四隣の國々を蠻夷として取扱つたが、太子は我が國の自主的立場に於いて、對等の禮を以て國交を修められ國書の文辭に至つてはそれ以上であつて、この御態度はこの後も長く我が外交方針となれるものである。而して妹子の歸國に際して、煬帝は裴世〓を使者として伴行せしめ我に答禮した。我はまた禮を盡くし、儀容を整へてこの萬里の客を迎へ、翌十六年、その歸國に當つては、再び小野妹子を大使として隋に遣はされた。日本書紀に據れば、この時の國書には「東天皇敬白西皇帝」の辭句があり、よく我が國の威嚴を示されてゐる。な第三章飛鳥時代と大化改新第二節外交の刷新八五 第一編上世八六ほしの船には八人の留學生方從まその申には治治文化に寄れ文し商旻·南淵請安·惠隱等も加はつてゐた。妹子は翌十七年使命を果して歸國したが、同二十二年には犬上御田鍬·矢田部造等を使節として、またも遣隋使を派遣せられた。かくの如く御一代の間に三囘に亙つた遺使によつて、國交を敦くせられ、且つ大陸文化の攝取に努められたことは、日本文化に新たなる機運を導くものとなつた。唐の勃興と遣唐使隋の場帝は高句麗に遠征して大敗を喫し、この後漸く內外に對する威望を失ひ、群雄各地に蜂起して、收拾し得ない狀態に陷つた。この時李淵なるもの、その子世民の勸めによつて太原に兵を擧げ、遂に長安に入り、場帝の孫恭帝を立てたが、次いで李淵は恭帝の禪を受けて帝位に卽いた。これ唐の高祖であつて、時に我が推古天皇の二十六年(一二七八)であつた。これより唐は群雄を平定し、その經略を進めたが、殊に高祖に次いで世民卽ち太宗が位に卽くに及び、外は西域諸國を降し、内は制度を整へ、文物大いに榮え、世に貞觀の治と謳はれた。我が國は使を唐に遣はして、隋以來の國交を繼續した。卽ち嘗て隋に使した犬上御田鍬は、舒明天皇の二年(一二九〇)卽ち太宗の貞觀四年に始めて遣唐使として渡唐し、御田鍬の歸國に際しては、唐は高表仁を我に遣はしてこれを送らしめた。この後孝德天皇の白雉四年(一三一三)、同五年、齊明天皇の五年(一三一九)等、引續き遣唐使を派遣し、留學生·留學僧の送られるものも漸く多くなつた。百濟·高句麗の減亡唐の發展は朝鮮半島にも多大の影響を及ぼし政治的關係に於いて特にそれが著しかつた。卽ち新羅は新たに唐と結んで百濟を侵し、百濟は援けを我が國に求めると共に、高句麗と提携してよく新羅に當つた。こゝに於いて、唐の太宗は新羅を援けて屢〓軍を起して高句麗を攻めたが、高句麗はよく防いで降らなかつた。太宗に次いで立つた高宗も亦これを討つたが、その計畫は容易に成功しなえ〓かつた。その頃新羅では武烈王が名將軍全順信を用ひ半島不定の策を講し店力を得て先づ百濟を攻めた。卽ち唐の將軍蘇定方等は新羅の軍と共に百濟の王城に迫つたために、百濟王は終に敵の軍門に降り唐國に拉致されて、百濟はこゝに滅亡の運命に陷つた。時に我が齊明天皇の六年(一三二〇)である。この時百濟の遺臣鬼室福信等は祖國の再興を圖つて、新羅の軍を破り、我が朝廷に對して援けを乞ふと共第三章飛鳥時代と大化改新第二節外交の刷新八七 第一編上世八八に、我が國に在留せる百濟の王子豐を迎へて百濟に王たらしめんことを請うた。朝廷はその衷情を憐んで乞を許し、百濟救援のために大規模なる軍備を整へられ、天皇御親ら筑紫に下つて軍政をみそなはされたが、間もなく御病を獲られて朝倉橘廣庭宮に崩御あらせられ遠征の計畫に障礙が横たはつた。次いで天智天皇はその元年(一三二二)阿曇比邏夫をして軍師を率ゐ、豐を百濟に送つて王位を繼がしめられ、翌二年には我が軍は新羅を討つてその城を拔いた。然るにこの時百濟に內訌があつて福信は斬られ、我が軍は唐の水軍と白村江に戰つて利なく、豊は僅かに身を以て高句麗に逃れたので、百濟再興の企圖は遂に水泡に歸した。次いで高句麗も同七年、唐將李勣のために滅ぼされた。唐は安東都護府を平壤に置いて、高句麗·百濟の故地を支配した。半島撤兵と唐·新羅との復交當時我が國は大化改新の後を承けて、主力を內政の整理と振興に用ひる必要に迫られてゐたために、半島に大なる力を用ひるのは頗る不利であつた。よつて天智天皇は外征の鵬翼を收めるに如かずとなし給ひ、半島より撤兵して內國の防備を固くせしめられた。卽ちその三年(一三二四)には對馬·壹岐·:熱等等の地をの地に助人をあし痒久を證次特集集第には水域を集きこに二城を築いて西海の防衞に備へ、次いで同六年には大和に高安城、讃岐に屋島城、對馬に金田城を築き、以て國防の完備を期した。かくの如く天智天皇の御代には唐及び新羅に對して警戒を怠らなかつたが、半島に支配力を及ぼした唐は、やがて頻りに我が國に使を送つて國交の囘復を求めたので、我が國もこれに應じて使を遣はし、一たび斷絕した國交はともかくこゝに囘復した。新羅の使節もまたこの間に屢、來朝し、略、舊來の關係に復歸した。第三節大化改新蘇我氏の僭上とその誅伐聖德太子は憲法に於いて、一君萬民の精神を顯揚せられ、君臣の分、公私の別を明らかにせられた。蘇我馬子は大臣として朝政の樞機に參與し、太子を助けて新文化の攝取に努めたのではあるが、權勢に驕つた結果、その振舞は憲法の精神と矛盾するところがあり、殊に太子薨去の後はその私を逞しくするに第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新八九 第一編上世九〇至つた。例へば馬子は皇室御領として由〓深き大和葛城縣を己れに賜はらんことを請ひ奉つたことがあり、この時推古天皇は蘇我氏が後世に不忠の名を遺すべきこ入とを戒められ、これを聽許せられなかつた。馬子に次いでその子東夷大大ととなるや、その子の入鹿と共に、不臣の行動は一層甚だしく、推古天皇の後には皇位の繼承について、聖德太子の御子山背大兄王を斥け奉つた。更に皇極天皇の元年(一三〇二)には、蘇我氏の祖廟を葛城の高宮に建て、また豫め蝦夷父子の墓を營み、聖德太子の御領であつた。上官孔部の民をこれに役使したの で上部。大娘姬王は「天無二日國無二王何かみつみやのみ由任意悉役封民」と、蘇我氏の專橫と無禮とを歎き憤られた。しかも翌二年入鹿は山背大兄王を襲ひ奉り王は斑鳩寺に於いて悲壯な御最期を遂げられた。これより蘇雲代はその僧上專極さって遂に朝夫又子の家甘持にて二のあを上がみ門といひ、入鹿の家を谷宮門と稱し、その子を王子と呼んだ。且つ城柵を營み、兵備を整へ、蘇我氏に侍る氏族も尠くないといふ狀態であつた。かゝる蘇我氏の非行は聖德太子以來の精神に照らしても、そのまゝ放任せられるはずがなかつた。時に皇極天皇の皇子に中大兄皇子ましまし、時弊を明察せられ、これが革新の雄圖を抱かれたが、偶〓意圖を同じくする中臣鎌足を見出して籌策を運らされた。かくして蘇我氏の一族にして、入鹿に快くなかつた蘇我倉山田石川麻呂等もこれに加はり、皇極天皇の四年(一三〇五)六月、三韓進貢の日を以て、遂に入鹿は殿上に誅殺せられた。この時蘇我氏に心を寄せるものは武裝して蝦夷の家に集まつたが、中大兄皇子は將軍を遣はして「天地開闢、君臣始有、」と君臣の理を說かしめられたので、賊徒退散し、蝦夷も誅に服した。長き禍をなした蘇我氏の權勢はこゝに瓦解し、新政の第一步は踏み出された。新政の根本精神蘇我氏の誅せられるや同月皇極天皇は御位を皇弟に當らせられる孝德天皇に讓り給うた。孝德天皇は中大兄皇子を立てて皇太子となし、阿倍內麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、中臣鎌足を內臣に任じ、また嘗て留學生として隋唐に學んだ僧旻·高向玄理を國博士として、新政の陣容を整へられ、更に始めて年號を制して大化とせられた。この時天皇は皇祖母尊(皇極天皇)及び皇太子と共に、大槻樹の下に群臣を召し集め、天神地祇に告げて、天覆ひ地載せ帝道唯一なれば、君臣の序を濫るものを誅殄したのである、今よりは心血を瀝いで君臣一致政道に第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新九 第一編上世九二赤誠を捧げんとの誓盟が行はれた。卽ち君臣の分を明らかにし、その道を匡されたのである。閥族の權勢を否定し、一君萬民の政治を行ふことは旣に聖德太子の憲法に於いて見られ、新政はこれに基づいて政治及び社會の革新を實行せんとするものであつて、その根柢には歷史に基づく國家意識があり、殊に皇統の神聖に對する自覺が存してゐる。而して新政が中央集權的な官制を整備して展開するためには、唐の制度及び儒〓の政治思想等の大陸文化が大いに參考とせられたのである。されば新政を貫ぬくものは我が肇國の精神であつてそれは大化元年(一三〇五)七月、蘇我石川麻呂が「先以祭鎭神祇然後應議政事」と奏上したことによつても窺はれる。殊に大÷化三年正月、詔して「惟神我子應治故寄、是以與天地之初、君臨之國也、自始治國皇祖之むな時天下大同郡無彼此著也上我ボボ東の多を買いつれ今は隨在天神にとを仰せられたのは、新政の根本精神として尊ぶべきである。これ大化改新が唐制模倣といふことのみを以て律し得ない所以である。新政の發端大化元年八月、東國等の國司を任ぜられ、先づこれらに詔して、各〓その所管について、戶籍を作り田畝を校する事、國司等が國に在つて擅に罪を斷じ、或は貨賄を取つて民を貧苦に致さしめない事、各地に兵庫を營み、國郡の兵器をこれに收むべき事などを命ぜられた。同時に朝廷に鐘と匱とを設け、訴訟の方法を示して、訴狀を匱に納め、或は鐘を撞かしめ、以て民意を上達する道を開かれた。次いで九月には臣·連·伴造·國造等、各、己が民を置いて、情のまゝにこれを驅使し、土地を己が財となし、互に相爭ふ弊を戒められ土地の賣買と人民の兼併とを禁ぜられた。かくして新政はSE노〓着々とその歩を進めた。更にその十二月には都を難波の長柄豐筒に遷して來るべき大改革に備へられた。大化二年の大詔以上の準備が成つて、大化二年(一三〇六)正月には、愈〓改新の大詔が渙發せられた。この大詔には改新の眼目ともいふべき四箇條の要項が含まれ、これによつて新政の全貌は漸く天下に示された。その第一は土地人民を悉く國家に直屬せしめることである。卽ち古より天皇の立て給うた御子代の民處々の屯倉、及び臣·連·伴造·國造等各氏族が私して來た部曲の둘ぶ民、處々の田莊等は悉くこれを廢止する。そしてこれに代へるに大夫以上には食封を與へ、以下の官人·百姓には布帛を與へることが定められた。食封とは封祿として第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新九三 第一編上世九四給せられる課戶を稱し、後の令の制度にては、その戶に課せられた調·庸の全部と租の半分とを給主に賜はる規定になつてゐるが、この制度は旣にこの際に定められたものであらう。氏族が土地·人民を私することはかくして否定せられ、公地公民の原則は新政が據つて立つところの極めて重大な條項であつた。第二は行政區劃を設定し、その制度を樹立することである。卽ち始めて京師を脩め、これを區割して坊を設け、坊每に長一人を、四坊に令一人を置くと共に、畿內を制してその地域を定め、更に地方の行政區劃として國郡の制度を確立し、國には國司を置き、郡には大領·少領等の郡司を置くことを定められた。なほこの箇條に於いては、また關塞·斥候·防人等を置いて國防及び治安に備へ、驛馬·傳馬を置いて全國的な交通の便に資することなども、國郡制度に關聯して定められた。第三は戶籍·計帳を造り班田收授の法を行ふことである。これによつて田地は縱三十間、横十二間、卽ち三百六十步を以て段とし、田租を段別二束二把と定め、また五十戶を里となし、里每に長を置き、里長をして戶口の調査、賦役の督促以下の民政に與らしめた。これらは民政上極めて重要なる條項をなすものであつた。第四は調·庸等の各種稅法の規定である。卽ち調には田の調、戶別の調、調の副物等の區別があり、田の調は絹·純·絲·綿等各〓土の生產物を納め、戶別の調は布を、調の副物は同じく〓土の出すところに隨つて納めることになつた。次に庸は夫役に代へてaめ各戶に課せられる布米等であつて、これを以て仕丁·来女を貢進する粮とする。その他官馬·兵士を徴する方法も規定せられた。かくて定められた新しい稅法は、田租と相俟つて新たなる國家財政の基礎を確立せんとするものであつた。この二年正月の大詔は劃一的制度を樹てて中央集權を確立し、氏族制度の因襲を打破し、新たなる國家活動に備へんとせられたものである。制度の外觀に於いては唐制を參酌した點も尠くないが、同時に當時の社會事情をよく考慮して能ふべくんば舊來の慣習を生かし徒らなる衝擊を避けんとして、細心の注意が拂はれてゐる事も看取せられる。例へば氏族の土地·人民は直接國家に屬せしめるが、食封布帛を以てこれに代へ、氏族優遇の方法が講ぜられた。郡の大領少領には、地方の豪族である國造の性識〓廉にして才幹ある者を任ぜられた事、郡には大中小の三等を設け、これを構成する里の數に四十里から三里までの著しい差異を認めた事などは、何れも新第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新九五 第一編上世九六制が實際に卽して考慮されたことを示してゐる。而して改新の綱目は直ちに實施に着手せられ、置郡の如きは旣に大化·白雉の頃に相次いでなされたことが常陸風土記に明らかであり、班田も白雉三年(一三一二)に終つたことが日本書紀に記されてゐる。官制の發布と冠位の制定大化二年八月には卿·大夫を始め、臣·連·伴造等に對して、舊來の官職を廢して、新たに百官を設け、位階を制し、その官位を以て敍せんことを仰せられた。これによつて翌三年には先づ冠位の制度を立てて七色十三階とし五年には改めて十九階とし、またこの年僧旻·高向玄理等に詔して始めて八省百官を置かしめられた。この八省百官の制は、中央の行政機關が完成したことを意味するものであつて、恐らく國博士等をして廣く唐制を參酌せしめ、これを我が國情に照らし、歲月を費してこゝに始めてその制定を見たものであらう。律令時代の官制はこれにその基礎を置くものであり、同時にこの官制の發布を以て、改新の政治は一段落を告げた觀があつた。習俗の刷新以上は主として社會制度及び政治組織の改革であるが、新政にはまた習俗刷新にも努力が注がれ、大化二年三月、その詔が下された。卽ち從來諸氏の間に行はれて來た厚葬の風は、財を浪費し、民の煩ひをなすものとしてこれを改めしめ、新たに墳墓·葬祭等に關する制規を定め、皇族以下夫々の身分·冠位等による等級を設けて、墓域の廣さ、役夫の人數等を制限せられた。同時に殉死その他葬祭に伴なふ舊俗を改めて、これを犯すものはその族を罪すべきことを定められた。この詔は更に婚姻その他についての弊風の矯正、風〓の刷新にも及び、總じて時代の新機運に副ふことを主眼とせられた。天智天皇の治政皇太子中大兄皇子は終始改新政治の中心としてその畫策に當られた。先づ改新の大詔が實施に着手せられるや、皇子は「天無雙日、國無二王是故兼〓天下可使萬民、唯天皇耳、と仰せられて、率先して私有の部民と屯倉とを獻上せられ、新政の實現に努力せられた。而して改新の制度に關する發令は大化五年(一三〇九)を以て一段落を告げてゐるが、その圓滑なる施行は中々困難であつて皇子の御苦心には一方ならぬものがあつたと拜せられる。かくして皇子はよく孝德天皇を輔けられたが、天皇は白雉五年(一三一四)崩御あらせられた。中大兄皇子は天位を繼ぎ給第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新九七 第一編上世九八ふべきであつたが、依然皇太子の地位に立たれ御母君皇極天皇の重祚となつた。これ齊明天皇にあらせられる。齊明天皇の御代には、旣に述べた如く、半島の情勢が急迫し、對外的に多事であつて、天皇は遂に御親ら西征の途に就かせられたが、その〓に於いて七年(一三二一)七月、筑紫に崩御あらせられた。中大兄皇子卽ち天智天皇は半島から撤兵して國防の充實を圖られると共に、內政の整理に軫念あらせられた。その著しきものを擧げるに、天皇の三年(一三二四)二月には冠位十九階の制を改めて二十六階とし、氏族については大化の制を緩和して民部·家部を許され、氏上にはその氏族の大小によつて大刀·小刀等を賜はり、これを以て夫々の標識とせしめられた。次いで六年三月、都を近江に遷され、七年正月にはこの大津宮に於いて典禮を整へて卽位の式を擧げ給うた。大化以來の新しい制度の大成たる近江令二十二卷が完成公布せられたのは大津宮に於ける御事蹟の最も主なるものであつた。これは今日に傳はらないが、大化以來次々に下された詔の内容を整頓し、唐令を參酌して、新政の準據とすべく編纂せられたものと考へられ、我が國最初の完備せる法典であり、この後繼續される律令編纂の先驅をなすものである。これと關聯して九年には、戶籍が作製せられた。當時の戶籍は今日のそれと異なつて、班田の基準となり、戶口に對する課役の前提となるものであつて、從つて早くその調査が行はれたが、天皇の作製せしごめられた戶籍は庚午年精と稱し、特に後世に傳へられ、姓氏を糺正する憑據とせられるに至つた。その他天皇は學問·技術等の向上發展に留意せられ、それらの諸制度も整ふに至つたが、十年十二月大津宮に崩御あらせられた。天皇はかくてその御生涯を新政の確立に終始せられ、その成果は著しく擧つた。さればその後御歷代におかせられては天皇を欽仰し給ふこと厚きものがあり、卽位の詔にはその立て給へる法のまゝに受け行ひ給ふ意を宣べさせられまた天皇を葬五り奉る山城の山科陵が常に鄭重なる奉幣を受けさせられることが、共に例となつてゐたのである。天武天呈の御改革天智天皇の御弟天武天皇は先づ都を大和の飛鳥淨御原に遷され、大化以後の情勢を顧みて、新政の進むべき方向を定められ、よくその治績を擧げ給うた。天皇は我が國本來の姿を重んじ給ふと共に、またこの立場に基づいて新文化の發展に努められたのであつて、その御方針はあらゆる方面に展開せられた。卽第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新九九 第一編上世一〇〇ち先づ神祇を厚く崇敬し給ひ、卽位の年には伊勢の齋宮を再興して大大皇女をこれに當らしめられたことを始め、畿內及び諸國に詔して天神地祇の社を修理せしめられ、奉幣を行はれるなど特に大御心を神祇の崇敬に致させ給うた。しかも一方には佛〓興隆に努め給ひ、その四年(一三三六)には使を四方の國々に遺はし護國の經典でにん わうある金光明經·仁王經等を說かしめられた。またこの前後に營まれた寺院も尠くなく、殊に十三年には諸國をして家毎に佛舍を作り、佛像及び經を置いて禮拜供養せしめる詔が下された。佛〓はこゝに於いて國民生活と渾然融合する途が開かれた。次に天皇は國史について「斯乃邦家之經緯、王化之鴻基爲、」古古記序)と宣べさせられ、親しく帝皇の日繼及び先代の舊辭を稗田阿禮に授けられて、後に古事記の編まれる월なが文文て徐使更に川島里子歌歌皇子等をして市紀及び上古の諸事た。天皇はまた氏族の傳統的意義を顧みられ、その弊を除いてその精神を尊重し、これが保存を計られた。さきに天智天皇の御代にもこのことがあつたが、天武天皇は更に整頓の步を進められ、先づ九年·十年と、再度に亙つて諸氏に氏上の決定を督促せられ、十二年には、諸氏の舊姓を改めて、眞人·朝臣·宿禰·忌寸·道師·臣·連·稻置の諸姓、卽ち八色の姓を制せられ、これを諸氏に賜はつて、氏族の地位を明らかにせられた。これは單に形式的賜與に止まらずして、仕官に當つてはその族姓をも考慮せられたのである.天皇はまた新政の發展を期する數々の英斷を示されたが、中にも著しいものは公地公民方針の徹底であつた。卽ち三年には、先に天智天皇の御代諸氏に賜うた部曲を廢し、皇族より諸臣諸寺に至るまで嘗て賜はつた山澤林野を悉く收公せられ、更に十年には、大化改新に際し、部曲や田莊に代へしめられた親王以下諸氏の食封を一旦返上せしめて、公地公民の實を擧げられた。長く新政の煩ひとして殘つたこれらの困難な問題を解決されたことは、新政の著しい進展を意味するものでなければならない。その他天皇は朝儀の刷新を圖られ、從來の冠位の制を廢止して爵位を定められ、諸王以上には十二階を、諸臣には四十八階を規定して、朝廷に於ける列序を正され、また禁式九十二條を制定せられた。中にも所謂淨御原律令の制定はこの御代に於ける御業績の綜合的なる成果であつた。制度はこゝに完備し、國力は充實し、文化は發達して、國威は大いに輝くに至つた。第三章飛鳥時代と大化改新第三節大化改新-〇一 第一編上世一〇二第四節律令の制定律令の沿革大化改新の詔勅に基づいて新政の伸張するに伴なひ、詳細なる法律を制定し、施政の準據を明らかにすることは極めて必要であつた。この要求に應じて隋唐の法を參考しつゝ相次いで制定せられたものが卽ち律令格式である。律は刑罰の制法であり、令は主として行政に關する諸制度を規定するものであり、格は時に應じて律令を追加し或は修正する臨時の法であり、式は律令施行の細則である。而して弘仁格式序に「律以懲肅爲宗、令以勸誠爲本、云々とある如く、その根本精神は道義を立て、〓化を進むるにあり、この精神は旣に憲法十七條に見られるもので、我が國法の特質をなすものである。格式の編纂は平安時代に入つて始めて行はれたが、律令は早くより編纂せられ、殊に令は大化新政の直接の延長をなすものであるから、旣に天智天皇の御代に制定せられた。卽ち中臣鎌足をして編纂せしめられた所謂近江令二十二卷がこれである。續いて天武天皇は更に近江令を修正せられ同時に律の編纂をも行はしめられたのであつて、これは飛鳥淨御原律令と呼ばれる。而して時勢の進運は更に律令の修正を必要とし、文武天皇は天皇の四年(一三六〇)忍壁親王·藤原不比等·栗田眞人以下に詔して律令の撰定を行はしめ給ひ、翌大寶元年に至つて完成したので、次いでこれを天下に公布せしめられた。これ大寶律令であつて、律は六卷、令は十一卷より成る。而して律令といへば後世長く大寶律令の名が人口に膾炙してゐるが、今日に傳はる律令は、實は必ずしも大寶律令そのまゝのものではない。卽ちそれは元正天皇の養老二年(一三七八)藤原不比等に勅して更にこれを修正せしめ、律令各〓十卷とされた養老律令をいふのであるが、この時の修正は僅かに編序の整頓、或は字句の變更等に止まり、內容の上には著しい變更が加へられてゐない。しかもこの養老律令が施行せられたのは、孝謙天皇の御代、天平勝寶九年(一四一七)からであつた。律令の制度以上の如くして、大寶·養老の律令は大化新政の成果をなすものであり、後世長く政治の基準として重大な意味を有した。次の奈良時代に於ける國力の發展は、この法典に示された制度の實施と不可分の關係にあるものであり、殊に新政第三章飛鳥時代と大化改新第四節律令の制定一〇三 第一編上世一〇四の目標とした郡縣制度の完成もこの制度の顯現であつた。以下これについてその大綱を述べる.中央官制中央には神祇·太政の二官が置かれて、國家諸般の祭政を總括する.先づ神祇官はその機構は必ずしも大でなく、職員の官位も高くはないが、神祇を重んずる我が固有の傳統によつて特に上位に置かれ、伯を長官とし、國家の祭祀に從ふと共に神社の行政を掌る。太政官には最高の官として太政大臣があり、國內に範たるべき人物を以てこれにた任じ、無無人則闕」の規定によつて則闕の官と稱せられる。太政大臣の下には常置の官として左大臣·右大臣があり、以上を三公と稱して政務を總判せしめる。次に大納言があつてこれを輔けその下には少納言·左辨官·右辨官の三局がある。少納言局は宮中の事を掌り、左辨官局は中務·式部·治部·民部の四省の事務を、右辨官局は兵部·刑部·大藏·宮内の四省の事務を統轄する。各省は卿を長官として庶政を夫々分擔するが、今日の省に比してその地位が低い。中務省は侍從·詔勅·位記·記錄·上表等の事を掌り、式部省は朝儀文官の進退と祿賜·學校等の事を治部省は貴族の身分と吉凶·外交等の事を、民部省は戶籍·賦役·優賞·田地·山澤等の民政一般を、兵部省は武官の進退と兵士·兵器·儀仗等の事を、刑部省は斷罪·行刑等の事を、大藏省は調庸の出納と鑄錢·度量物價等の事を、宮内省は供御官田等の事を掌る。各省には更に職〓司などと稱する被管の官司が屬して、夫々專門の職掌を有する。以上二官·八省の外に彈正臺があつて、これは尹を長官とし、風俗を肅〓し、非違を彈奏する事を以てその任とするものであるが、特に官吏をも對象とする點に於いて重きをなした。地方制度地方は畿內及び七道に分けられてゐるが、行政の區劃は國·郡·里の三段階の組織から成り、國には國司、郡には郡司、里には里長を置いてこれを治めしめる。國司は多く守介塚·目の四等官よりなり、祠社·戶口·租稅·訴訟等、管內の一切の政務を掌り、その廳所は國衙と稱せられ、その所在地を國府または府中といつた。郡司には大領·少領以下があつて地方の人士をこれに充て、主として國造の性識〓廉であつて才幹あるものを採る。里は五十戶から成り、里長には里の中から優れた人士を充てるのを原則とする。第三章飛鳥時代と大化改新第四節律令の制定一〇五 第一編上世一〇六また樞要の地である京·難波·九州等には特殊の官衙が設けられた。京は帝都として特別の重要性を有するが故に、左右兩京に夫々左京職·右京職を置き難波は舊都であつて、しかも京師の關門に位する要津なるが故に、こゝには特に攝津職を置き、何れも大夫を以て長官とする。九州は外交上·國防上の要地なるが故に、大宰府が設けられ、西海道の諸國を總管すると共に、對外的には歸化·蕃客·國防等の事を掌る。ts帥を以かむつかさて長官とし、別に祭祀を掌る主神が置かれてゐる。なほ大宰府は後世「太宰府」の文字が慣用せられるに至つた。さくわん官位封祿官司には長官夫官判官主典の四等官を置く事を原回としての任官には勅任·奏任·判任·判補の區別がある。而して官職に任ずるには位階を本とし、宮と位とを相當らしめる。位階は親王には一品より四品に至る四階、諸王諸臣には正一位より少初位下に至る三十階三位以上の正從六階と、四位以下八位までの正從上下二十階と、初位の大少上下四階)がある。但し、右の中諸王は五位以上に限定せられてゐる。これらの位階にもまた勅授·奏授·判授の三等の區別がある。位は特に重き意味を有し、位に應じて種々の待遇が與へられた。封祿は官職及び位階の二重の關係によつて規定される。官職に應ずるものとしては職封·職分田があり、位階に應ずるものとしては祿食封·位田等がある。また特に功勞あるものに對しては功封·功田等を賜はる場合がある。學制官吏の養成を目的として、京には大學、諸國には國學が置かれる。大學には博士·助〓等があり、經書に明らかで且つ師たるに堪へるものがこれに當り、また音博士·書博士·算博士があつて、夫々字音·書道·算道を〓へる。大學生は主として明經を專攻し、その數四百人であるが、別に算生三十人がある。學生は五位以上の子孫及び東西史部の子から採り八八以上の子は特に請願して聽される。國學には國博士あり、これ亦經書の學を主とする。學生は國の大小によつてその定員を異にし、最高五十人、最低二十人とし、郡司の子弟から採るのを原則とする。大學國學共に學生には所定の手續を經て官吏任用の試驗を課し、その成績に應じて位に敍し官に任ずる。田制田制の基本をなすものは班田の制度であつて、六歳以上のものには一定の口分田が班給せられ、一身を限つてこれを用益する事が許される。口分田の面積は男は二段、女はその三分の二とする。その班給は六年毎に行はれ、その度に編まれ第三章飛鳥時代と大化改新第四節律令の制定一〇七 第一編上世一〇八る戶籍によつて、六歲以上に達したものには新たに授け、死亡したものの分はこれを收公する。田には口分田の外、職分田·位田·功田或は賜田の類があり、また未だ何人にも支給されてゐない餘剩の田地を剩田といふ。剩田はまた公田とも稱せられ、一年を限り地子を取つて耕作せしめるが故に、輸地子田とも呼ばれる。この公田に對し、口分田·職分田等旣に支給されてゐる田は一に私田とも呼ばれることがある。稅制稅には租·調·のの種種がある。租は田租であつて田に課せられるものであり、その率は一段につき稻二東二把で、收穫の約二十分の一前後となる。かくの如く輸租の義務を課せられた田は輸租田と稱せられ、口分田以下多くはこれに屬するのであるが、中には神田·寺田の如くこの義務を免除される土地があり、これを不輸租田と呼んでゐる。調は正丁(仁計十以下왜壯秋·次丁(ロス射千曲線했社T大〓び五(株)·邦男(計七七號 以上)に課せられ、絹·純·絲·綿布等を一定の率に從ひ、〓土の出すところに隨つて納めしめ、外に調の副物として若干の雜物を納めしめる。正丁·次丁にはまた徭役と稱し、夫々一定の期間國家の勞役に服する義務を課せられる。この勞役は布を以て代へることがあり、この場合には庸と呼んでゐる。そして調·庸の義務を負擔する男子を課口と稱し、これを負擔しない者(〓〓〓〓)〓少( (大四歯威(以上)黄(死に)の男子、女子の全部、廢疾篤疾のものは不課口と呼ばれる。兵制京師には衞門·左右衞士·左右兵衞の五衞府があつて、京師及び宮闕の警備儀仗等の事に當り、諸國には軍團があつて凡そ四郡を以て一軍團を組織せるものの如く、地方の警備に當る。兵士は徴兵制度であつて、正丁の三分の一を徵し、番を以て&定定間間動務せしあるのでもるがその一部は衝士とし上上京しまた陲に派遣される。兵士に對しては徭役を免ぜられ、衞士·防人に對しては課役の全部を免ぜられる。司法及び刑法司法は各行政官司の職掌の一つに屬し、機關の上では行政と司法の分立がなく、すべての廳所が皆同時に司法事務を掌る。但し、審級制度が定められ、郡司が第一審、京職·國司は第二審、太政官は中央裁判所ともいふべきもので、更に天皇は御親判及び非常の斷に當らせられる。刑には管杖徒流死の五刑があり、就中、流死第三章飛鳥時代と大化改新第四節律令の制定一〇九 第一編上世二一の二刑は特に審議の愼重を期し、太政官に於いて裁決せられる。これらの刑罰はその事情に應じ、贖·加杖·留住役等を以て代へることを得る。贖とは一定の贖銅を課することであり、加杖とは杖を加へて徒·流に代へること、留住役とは徒を以て流に換へることである。なほ官吏·僧尼等に對しては、或はその官位を褫奪し、或は還俗せしめるなど、特殊の刑罰が課せられる場合がある。犯罪の中でも、特に重く扱はれたものは八虐である。卽ち謀反·謀大逆·謀叛·惡逆·不道·大不敬·不孝·不義の犯罪であつて、天皇に對して反逆を行ふもの、山陵·宮闕·神社等を毀たんとするもの、國に叛くもの、父母·尊族師師等に對して罪を犯すものがこれである。八虐を犯すものは恩赦にも浴せしめられず、中には近親をして連坐せしめる場合もある。唐制との比較律令の制度はこれを大觀すれば以上の如くである。その形態は唐制に負ふところが多いとはいふものの、旣に大化の新政について見られたのと同じく、我が國情に基づいて制定せられたために、唐のそれとは大いに異なる點がある。例へば唐制に於いては禮部の被管たる祠部に相當する職掌を我が國では神祇官として獨立せしめ、太政官と竝列せしめた如きその著しきものであつてこのことは祭祀の地位を重んじて我が國本來の政治の面目を發揮したものである。また太政官の組織を見るも、唐の官制の繁編を斥けて、簡潔明確ならしめ、且つ官廳官職その他の名稱も獨自のものを用ひ、以て我が實情に副はしめた。地方制度に於ける行政組織なども亦同樣の意味を持つてゐる。その他親族〓家族等の問題については、古來の習俗を尠からず尊重し、殊に班田に於いて老幼病疾による差等のないことも唐制とは著しく異なるところである。而して我が律は唐律との間に著しい類似を示してゐるが、唐律に比して刑罰は一般に寬大であり、これを幾分輕くしてゐる點などは注目すべきである。第五節飛鳥時代の文化神祇の崇敬飛鳥時代には佛〓の興隆が顯著であるが、これと共に我が國固有の文化も大いに發達を遂げた。殊に神祇崇敬には注目すべきものがあり、しかもそれは國威の赫耀と深く關聯してゐる。例へば敏達天皇の御代蝦夷は皇化に浴し、子々第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化一一一 第一編上世一二一孫々〓明心を以て天闕に事へ奉らんといひ、更に「臣等若違盟者、天地諸神及天皇靈絕滅臣種」と盟つた。天皇が天神と御一體の關係にあらせられることは、國史を一貫する國體觀念に出づるものであるが、蝦夷もこの觀念の下に皇化に浴したのである。また欽明天皇の十三年(一二一二)百濟の使者が我が國に來り、新羅の壓迫に對して我が救援を乞うたとき、日本書紀には「必蒙上天擁護之福、亦賴可畏天皇之靈也、」と記してゐる。上天とはこゝに於いては皇祖と同樣の意味に解せられ、從つてまた天皇と御一體の關係にあらせられる。次いで同十六年朝廷は百濟に建邦の神を屈請し、神靈を奉祭すべきを諭し、建邦の神とは天地の判れしとき降來して國家を造立せられた神であると〓へられた。恐らくこゝには皇祖皇宗の神々が指稱せられたとすべきである。或はその後推古天皇の八年(一二六〇)新羅が降服したとき上表して「天上有神、地有天皇」といへる天上の神も亦右と同樣の意義を有するものと考へられる。以上の數例はまた神祇崇敬によつて皇化が四圍に遍く及びつゝあつたことを語つてゐる。推古天皇は佛〓を重んぜられると共に、神祇を厚く祭祀し給うた。卽ち十五年(一二六七)二月、詔して「開聞之、曩者我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇」といはれ、「今當朕世祭祀神祇、豈有怠乎、故群臣共爲竭心、宜拜神祇」と宣はせられ、よつて聖德太子は百官を率ゐて神祇を祭拜せられた。卽ち遠く皇祖皇宗の御代が追想せられ、古來のまゝに群臣と共に敬神の怠りなきことを仰せられたのである。大化改新の指導精神として惟神の道が意識せられた事、令制に神祇官が置かれて神祇の崇重せられた事などについては旣に述べたが、これらは祭政一致の精神によつて古來の神事を重んぜられる政治體制を繼承せられたものに外ならない。殊に天皇卽位の盛典はその最も重きものであつた。卽ち群臣拜朝のもとに、中臣1が天文神の壽詞を委し受使い評議を奉上し大学園地して豈頭からし傳へられた天日嗣を神ながら御代治しめす旨を宣べさせられるのが例であつた。神祇崇敬を祖業繼述の精神と分ち得ない所以はこゝに明白である。佛〓の攝取佛〓はもと海外より渡來したものであるが、これは當初より古來の國民精神に卽して受容せられた。用明天皇は佛〓を篤く信じ給ひ、皇子聖德太子は幼き頃よりこれを信じ、その〓究を行はせられ、人心の混沌たる時に際し、これによつ第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化一一三 第一編上世一一四て思想の統一を期せられた。卽ち推古天皇二年(一二五四)三寶興隆の詔が下り、よつて諸、の臣·連等各〓君親の恩のために競うて佛舍を作り、これを寺と謂ふと書紀に記されてゐる。卽ち天皇及び父祖の恩澤に報ずる精神こそは、我が古來のものであつて、佛〓が固有の國民生活の方向に攝取されつゝあつたことを示してゐる。太子が法華經を重んじて、その講讚を行はれ、法華義疏を著はして獨自の見解を樹てられたことは旣に述べたが、太子は法華經が國家守護の經典たる點に早くより注目せられたものと拜せられる。太子の後も、朝廷では御歷代佛〓の興隆に努められ、天武天皇は使を諸國に遣はして金光明經·仁王經等を說かしめられたが、何れも國家守護の意義を有した。寺院の草創を始め、この時代に於ける佛〓が總べて國家の事業や制度として行はれたことも同樣の意義を有してゐる。なほ著名な寺院としては推古天皇の御代に法興寺·法隆寺·四天王寺等があり、天武天皇の御代には大官大寺藥師寺等が營まれた。佛〓の〓義は大陸の僧侶によつて續々と傳へられ、我が僧尼にして大陸に學ぶものも尠くなかつた。早く崇峻天皇の御代、司馬達等の女善信尼は出家の道は戒を以금天法壽別紙使號各越し通華國の中道曼〓義年單月豪畝酒污事茶あ出世し大量疏羅お昼に二世国果和凉超〓花花番目三老永同云大池利用电力性花故いの群雄性居威話外回文明多羅經美 像尊三師藥寺習藥景全寺隆法像尊三迦釋寺隆法塔東寺師藥子厨蟲玉 多くこの宗派を學んだ。めた。にし事罪して法相の学家先歸類して我が國情〓次の祖となりものの學匠であつたと傳へられ、三十三年には高句麗より惠灌が來朝して三論の〓義を弘源流をこの時代に發し推古天皇十年(一二六二)に百濟より來朝せる觀勒は三論宗の無耳第三章これまり稍ぼつて多後天皇自知県四年二二二三に渡唐せる道昭は通飛鳥時代と大化改新亭天皇陵德天皇腔天址山連岡S與本宮地御祭宮地豆天武天皇の御代渡唐せる道光は律宗を學んで歸つたが、そ李元天童慶圖第五節而宣化天皇陵前老我大大社神坐島飛古丸층椿弘元址害策照卍石ブタイ츄福飛鳥時代の文化而陸皇皇天天天持隨武觀圖方地鳥飛られる。一一五なほ奈良時代の南都六宗は〓ねそのによる無量壽經の講讚などによつて知尊像光背銘、中宮寺の天壽國曼茶羅、惠隱合しつゝあつたことは、法隆寺の釋迦三また淨土の思想が早くも現實生活に結得る如く、〓義の〓究も大いに進んだ。聖德太子の頃には太子の御業績に窺ひて本となすとて百濟に戒法を學んだが、畫壁堂金寺隆法え 第一編上世一一六の普及は奈良時代に於ける唐僧鑑眞に負ふものである。學問の興隆佛〓〓義の攝取と關聯を有するものは學問の興隆である。聖德太子は儒〓や老莊の學をも學ばれ、また天文·地理の道に明らかであらせられたと傳へられる。これらの學問は早く半島から渡來してゐたがこの時代に入つて著しく興つた。卽ち推古天皇の御代に渡來した百濟の僧觀勒は曆本及び天文·地理の書などを獻上したので、特に學生を選び、これらの學を分ち學ばしめられた。また高句麗より來朝した曇徴は繪畫の外に五經の學に精しく、その影響も尠くなかつたと考へられる。殊に漢字·漢文の使用が大いに熟したことは、憲法十七條の作製、國史の編纂、三經義疏の御著述等によつても知られ、また金石文も多く作られ、今日に遺品を傳へるものもある。殊に大化改新前後には遣唐使に從つた多數の留學生が學問を傳へ、新政にも貢獻し、大化元年(一三〇五)には國博士が置かれ、天智天皇の御代には大學が創設せられるに至り、學問の興隆著しきものがあつた。歌謠と歌舞の發達國民生活の眞情を吐露した文學は、前代と同じく主に歌謠として行はれた。歌謠は次第に形が整ひ、短歌及び五七調の長歌が發達し、次代に大成される萬葉集には、この時代のものが尠からず收載せられてゐる。殊に柿本人麻呂はこの時代の末に出た大歌人であつた。その歌風については次章に述べる。民間には俚謠が流行し時局を諷刺した歌も行はれた。日本書紀にその事例が尠くない。舞は歌謠に伴なふものとして節會や饗宴等に行はれた。天智天皇の十年(一三三た一)大津京に於ける賜宴には田〓が奏せられてゐるが、田〓とは我が固有の舞と考へられる。また天武天皇は天下を齊和し靜かならしめるには禮と樂とを重んずべきことを神ながらに思ひ給ひ、五節舞を始めさせられ、爾來相繼がれたことが續日本紀に載せられてゐる。且つ天皇は三年(一三四九)近畿の諸國に勅してよく歌ふ男女や伎藝に巧みなものを貢上すべきを命ぜられたが、これ亦古來の歌舞を重んじ給ふ御心と拜せられる。一方大陸傳來の音樂も盛んに行はれた。欽明天皇の御代佛〓渡來の直後、百濟は樂人を獻上し、推古天皇の御代には百濟の歸化人にして呉の伎樂を傳へるものがあり、少年をしてその樂舞を學習せしめ、法會に際してこれを行はしめられた。また高第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化一一七 第一編上世一一八句麗·百濟·新羅·唐等海外の樂が引續き傳來した。令制にては雅樂寮が置かれ、歌師·舞師·笛師以下多數の歌女·舞生等があり、海外の諸樂も加へられた。而して海外樂が流行すると共に、固有の樂との調和もその間に見られつゝあつた。宮殿建築の發達宮殿はこの時代に入つて愈〓壯大となつた。皇極天皇の宮居の周圍には十二門があり、その中には大極殿も營まれ、後世の大規模な內裏に近きものが旣に現はれてゐた。續いて孝德天皇の難波長柄豐碕宮は遷都後造營七年にして白雉三年(一三一二)九月に成り、其の宮殿の狀悉く論ずべからずといはれるほどの壯觀であつた。その離宮には味經官があり二千百餘傳をこゝに集めて一切經を讀ましめ、二千七百餘燈を庭内に點じて盛んな法要の行はれた一事にもその壯麗さが偲ばれる。次の齊明天皇の飛鳥岡本宮にては盛んなる土工が興され、田身嶺(多武峯)に垣を廻らし、嶺上に高殿が造られてこれを天宮と稱した。大津宮にも內裏が營まれて多くの宮殿官廳が建てられ、持統天皇の藤原宮の造營は萬葉集にもその大工事が歌はれ、遺構·遺物からもその壯大さが知られる。かくて次には平城京の建設となつて大內裏の完成が見られるに至るのである.歩美術工藝美術工藝は主として佛〓關係について注目すべきものがあり、大陸に發達せる方法が盛んに圖置配藍伽寺隆法攝取せられ、その國風化も見られた。先づ寺院は多く門大南平地上に所謂七堂伽藍が整然と配置せられその外側圖に僧房が營まれた。七堂伽藍の配置は矩形に歩廊を歩繞らし、南の正面の中央に中門を、北の中央に講堂を設け、その中間に金堂と塔とを左右に竝列せしめる方法と、同じく周圍に歩廊を繞らし、中門·圖置配藍伽寺王天四塔·金堂·講堂を中央の一直線上に置く方法と講中圖門大南がある。前者は法隆寺の配置に代表的に見られ、我が國獨特の樣式であつて、大陸に行は步れた左右均齊の法則を破つたものである。これに對して後者は大陸から傳へられたもので、四天王寺の堂宇にその配置法が遺第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化一一九 第一編上世一二〇されてゐる。寺院の建築は大陸の手法を取容れて豪壯なものが營まれ、自然の中に屹立するこれらの人工は、一般の時代人にとつて慥かに一驚異であつたが、早くも大陸の複雜重厚なると異なり、木造を以て〓楚な形式を有することを特徴とした。その建築を今日に留めるものもあり法隆寺の金堂·五重塔·中門及び歩廊の一部、法輪寺·法起寺·藥師寺の塔などがこれであつて、何れも木造建築として世界最古を誇るものである。中にも法隆寺は最も著名であつて、用明天皇の御願を繼いで推古天皇の御代に創建せられたもので、今日に遺る右の諸建築に就いて再建、非再建の議論があるが、何れにするも原初の樣式がかなりよく傳へられてゐることは一般に認められてゐる。寺院の建立と共にこれには多くの佛像が安置せられた。初め佛像は半島諸國より獻上されたが、早くも海外より渡來せる佛工や我が國人によつて盛んに造られた。半島に於いては早く北方支那の佛〓文化が傳へられ、百濟はその外に南朝の梁と通交して南方の文化を迎へ、我が國はこれら兩系統の文化を受容したが佛像は半島に於けると同じく北魏の樣式の影響を著しく受けてゐる、推古天皇の御代、大仁の位長けられた軟化鳥正利ほ含代第)の佛師として問えこの時期の代表法隆寺金堂の釋迦三尊像は、その銘文によれば鳥佛師の敬造になるものであつた。その他同じく法隆寺の藥師如來座像を始め、この頃の製作は尠からず遺つてゐる。總じて推古天皇の御代を中心とする所謂飛鳥期のものは北魏の樣式の直譯的傾向が濃厚であつて、技術は象徵的で且つ硬直感が著しいが、それだけにまた〓楚なる精神性に富むものであるしかしその中にあつて、優美性を具へ、我が國民の情操によく投合するものも見られた。法隆寺夢殿觀音·同寺百濟觀音及び中宮寺の如意輪觀音像(寺稱)の如きがそれである。而して時代が更に降つて來ると、佛像の樣式は總じて大なる進歩を示し、豐かにして自由なる姿態となり、關達なる氣宇を表出するに至つた。所謂白鳳期のものがこれである。白鳳とは天武天皇の御代をいふのであるが、美術史上はこれを以て凡そ大化改新の頃より奈良時代に入るまでの時期を包括せしめるのである。白鳳期の佛像は半島を經由して傳へられた飛鳥期の樣式と異なり、その手法に直接隋唐の影響を受けたものであつて、その中には遠く西域·印度の要素も加はつてゐるが、旣に我第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化 第一編上世が國民的審美感に基づいて、渾然として溶融せられるものとなつた。この期の遺作は數多く殘つてゐるが特に藥師寺の諸佛は大いに圓熟雄渾の境地に入り、次の奈良時代の樣式に著しく接近してゐる。繪畫は佛〓傳來の後に於いてその發達著しきものがあつた。卽ち推古天皇の十二年(一二六四)黄書畫師·山背畫師が定められ、同十八年高句麗より歸化せる曇徴はよく彩色及び紙·墨を作り、繪畫に長じてゐたと傳へられる。この時期の繪畫は遺品に乏しいが、法隆寺玉蟲厨子の扉や臺座に畫かれた漆繪はその代表作である。これは半島を通じて傳來した支那六朝の樣式に類似し、更に遡つては漢代の畫風に通ずるものがある。殊に臺座に畫かれた釋迦前生譚の描寫は後世我が國に發達する物語繪卷物の先蹤として甚だ示唆的である。白風期に入つては繪畫も佛像と同樣の精神を表はすに至り、豐かな線が用ひられ、美しい色彩が施され、生命の脈動を感ぜしめるものとなつた。阿佐太子筆と傳へられる聖德太子御影、法隆寺の橘夫人念持佛厨子繪等はその著名なものである。而してこの時期の終りを飾るものは、奈良時代への過渡期に作られたと考へられる法隆寺金堂の壁畫である。これは稀世の大作であつて四佛の淨土及び諸菩薩を四方の大小十二壁面に畫き、その姿態の描寫と色彩は實に優麗であつて、その技巧讚嘆すべきものがある。しかもその圖樣に於いて、或はまた人物の面貌に於いて、遠く西方アジア及び中印度の美術と關聯せる西域傳來の手法が見られることは注目すべきである。卽ち當時我が國が廣くアジア全體の文化を攝取包容して、これを優美なる國民精神に同化せしめたことは、この偉作を通じて遺憾なく窺はれるのである。工藝は調度·佛具·織物等に若干の遺品があり、法隆寺の玉蟲厨子、中宮寺の天壽國曼茶羅、法隆寺金堂內の天蓋及び御物金銅幡(法隆寺獻納)等はその著しいものである。玉蟲厨子はもと推古天皇の御物であつたと傳へられ、殿宇形の主部と臺座とから成り、檜製黑漆塗であつて繪畫を以てこれを裝飾し、周緣には玉蟲の翅を敷き、その上に唐草等の文樣を透彫にした鍍金の金具を有してゐる。手法の精巧、形狀の美は共に驚嘆すべきものである。天壽國曼茶羅は今はその一部分を遺せるに過ぎないが、聖德太子の往生せられた淨土の圖樣であつて、下繪した上を五彩の色糸を以て刺繡したものであり、佛畫的な意味を持つものである。法隆寺の天蓋は木製であつて、彩色第三章飛鳥時代と大化改新第五節飛鳥時代の文化 第一編上世二一四の裝飾を施し、軒端には天人の彫刻や鍍金の透金物を配し、腰廻りには鳳凰の彫刻を懸け竝べ、下には珠網を垂れて、技術の粹を盡くしてゐる。御物金銅幡は天井より釣り下げる樣に製作せられ、頂上は屋蓋形をなしてこれに網形の美しい裝飾を垂れ、中央の長い幡は板狀に作られ、諸菩薩·草花·雲形その他を透彫にしてゐる。これらの工藝は繪畫に於けると同じく、支那は勿論、印度及び西方アジアの要素を含み廣大なアジアの文化が如何に廣く包容され、混融されたかを示してゐる。第四章奈良時代第一節平城京の建設大化改新と都城の制皇威の發展に伴なひ、政治の中心地としての皇都の意義は益〓重きを加へて來たが大化改新に至るまでは未だ都城としての建設を見ることなく、古來の風習に從ひ、皇居は御代每に新しい場所に造營せられるといふ狀態にあつた.しももその發國は大和平縣鉄中もの南部たるの商市南高域磯域の諸域に〓ね限定せられてゐた。然るにこの間、飛鳥時代に入るや、隋唐の文化の刺戟その他の事情により、一は官民の生活樣式に變化が見られ、一は新たに中央の諸官衙が設けられんとし、皇都の規模を擴大する必要が起りつゝあつた。而して大化改新に公地公民制を斷行し、官司制度を確立し、中央集權的郡縣制度を施行するに當つて、中央の意義は一段とその重要性を加へるに至つた。されば改新の大詔に於いては都第四章奈良時代第一節平城京の建設一二五 淨見原宮を經て、持統天皇によつて藤原京が建設されるに及び、次の文武天皇は引續大和に還られ、飛鳥岡本宮を營み給うた。波長柄豐碕宮を中心に營まれたと考へられてゐる。城の制が定められたのであつて、この制度による最初の都城は、時の皇居であつた難難い。北に通ずる朱雀大路によつて左右兩京に分ち、東西に走る大路によつて九條に區劃的意義を加へたが、元正天皇を經て、聖武天皇の御代には再び遷都の議が起り、天平十諸制度が完備した當時の情勢に相應ずるものであつた。言を容れさせ給ひ、地相よき平城の地をトし、水陸の便を計つて新たに都城を建設せには至らなかつた。きこゝを都とせられ、都城の制は完備したが、遷都の風習はなほこれを以て終熄するとは、古來の因襲その他種々の事情によつて困難であつた。陵皇天正元而光明皇后陵而二年(一四〇しめられ、同三年に遷都を行はせられた。陵皇天明元平城遷都·隆皇天德稱北路南路條正倉院·山華旅大內囊法第一編第四章豆·皇天武聖條大極服址陵北西大寺不しかも從來長く皇居の營まれて來た大和を去つて、都を難波に維持されるこ권大も堂月七堂月三路大條- -佛○)より、山城の恭仁、近江の紫香樂、攝津の難波等が相次いで選定せられた右左佐卍殿春日山路大條三上奈良時代社神日春併しながらこの難波の都は、未だ都城の完成を意味するものとはなしsi保路大條四提招京川世京新藥節寺路大條五次いで元明天皇卽位あらせられるや、和銅元年(一三六八)群臣の路大條六第一節路大條t大路條八1平城京の建設路大條九四坊大路四三坊大路抗大药郡山城大路朱雀大路=坊大路二坊大路三坊大路坊大路= = /圖京城平町、南北約四十五町の規模を有し、中央を南加へて營まれたものである。都制を斟酌し、これに我が國獨自の工夫をたといふべきである。設の理想は、平城京に於いて始めて實現しのである。まで、御歷代の皇都としての繁榮を誇つた元明天皇より桓武天皇の長岡遷都に至る都を平城に復せられた。その規模の宏大であることは嘗て比なく、その後天智天皇の大津宮、天武天皇の飛鳥のことであつて、僅か五年にして同十七年ので、平城京の地位は一時動搖した觀があつた。平城京の規模一二七平城京は唐の長安の實に大化改新に於ける都城建併しながらこれらは何れも一時的こゝに於いて皇都は固定されば齊明天皇は再び一二六東西約四十されば平城京は 第一編上世一二八し、更に南北に走る大路によつて左右兩京の各條を四坊宛に分つた。從つて一坊は方約五町であつて、各坊はまた十六の坪に區劃される。宮城は都城の中央北部に南面して營まれ、その地域は四坊卽ち約十町四方を占め、內裏はその正面に位し、朝堂院卽ち正廳はその東南に置かれた。東西市都城の内部には、宮城の外に貴族その他官人の住宅が營まれ、また多くの庶民の居住も許された。且つ聖武天皇の御代には、五位以上の官人は勿論、庶民の家と雖も營むに堪へ得るものは、瓦を葺き、丹白を塗ることを命ぜられた。靑丹よし奈良の都はかくして政治の中心地として美觀を整へたが、更にこゝには東市西市が設けられた。元來市は交易の場所として古く各地に發生したのであるが、藤原京が建設されるに及び、大寶三年(一三六三)そこに東西兩市が設けられ、平城京に於いても亦同樣であつた。而して東西兩市には各、市正以下市司の官人があつてこれを管理し、開場の時刻は正午であつて、日沒前鼓を擊つて閉鎖される。かくして衆庶こゝに群集し、地方民も來つて交易を行ひ、平城京は一層その殷賑を加へたのである寺院の建立この時代の前後に見られる著しい現象は、國家擁護の意味を以て盛んに寺院の建立が行はれたことである。殊に平城京は壯大なる多くの伽藍の營まれたことによつて、佛都の如き觀を呈した。先づ奠都と共に、嘗て飛鳥の地方に榮えあぐがきれ何都内内外にさされたのであって両廳寺大安寺蘇師等はの著しきものであつた。元正天皇の養老四年(一三八〇)右大臣藤原不比等の病が篤かつた時に、都下の四十八寺をして一日一夜藥師經を讀ましめられたが、このことに徵しても、如何に多數の寺院があつたかを知るであらう。この後、更に東大寺·西大寺今業手新選師守唐指提ざるの續き平城京を中心として大寺が坐立ち競ひ立つて、一層皇都の偉容を整へた。第二節國運の隆昌中央集權の政治一君萬民の精神を基調として郡縣制度を全國劃一的に施行することは、聖德太子以來、政治の眼目となつて、遂に大化改新を導き、次いで律令の制定となり、以てこの時代に及んだ。この間諸般の改革は唐の制度を參酌しつゝ、常に我第四章奈良時代第二節國運の隆昌一二九 第一編上世一三〇が國體觀念に立脚して行はれて來た。かくして奈良時代に於いてはそれら改革の成果が熟し、朝廷の政令はよく地方に徹底し、上下太平を歡び、嘉瑞を尙ぶ精神は朝野に充ちたのである。歷代天皇におかせられては御心を深く民生に注がせ給ひ、產業を奬勵せられ、飢饉·疾疫に對しては、或は貢租を免じ、或は賑恤を加へさせられた。卽位の大典その他の佳節には、詔して天下に大赦を行ひ、或は民の負債を免じ給ふことも屢〓あつた。中央の政治機構もよく整ひ時に權臣が出でて綱紀を紊したが、政治の運用には殆ど支障もなかつた。人材の登庸大化改新の精神は豪族擅權の弊を斥けることにもあり、從つて令制にては官吏の身分を正すために官職世襲の陋習を打破し、人材の登庸に注目せられた。卽ち官吏たるには先づ大學國學に入學し、所定の學課を修めて考試に合格する必要があり、その成績によつて、任用にも差等があつた。然るに人材登庸にも自ら限界があつて、主として身分のよいものが大學·國學への入學を許されたことは、前章にも述べた如くである。殊に蔭位の制度と稱して五位以上のものの子、三位以上のものの子と孫とは考試を經ずして官吏に任用される途も開かれてゐた。また功臣に賜はる功田·功封等は子孫に傳へられるものもあつた。權勢家發生の機運は既にこれらに存したといふべきである。藤原氏の擡頭かくて權勢家の相次いで擡頭したことは、奈良時代の著しい特色をなした。さきに中臣鎌足は大化改新に大功があり、その危篤に際しては大織冠と內大臣とを授けられ、藤原の姓を賜はつたが、その子不比等もまた數朝に歷仕して重きをなし、元正天皇の養老四年(一三八〇)正二位右大臣にして薨ずるまで、或は律令の撰定に、或は平城の遷都によく輔翼の任を果した。その間不比等は皇恩に浴するこ+と深くその女宮子は文武天皇の後宮に上つて聖武天皇の御生母となり、同じく安宿媛(光明皇后)は聖武天皇の皇后に册立せられた。臣下の出より皇后を立て給ふこときま2かはこれを以て最初とする。また不比等の四子、武智麻昌房前字合麻呂は、夫々南家北家式家京家を起し各〓その威勢を張り、藤原氏の一族は著しく繁榮するに至つた。權勢の推移然るに聖武天皇の天平九年(一三九七)疫病の流行により、不比等の四子はみな相前後して歿し、藤原氏の勢力はそのために一頓挫を來たした。こゝに、光第四章奈良時代第二節國運の隆昌一二一 第一編上世一三二3)〓明皇后の異父兄たる橘諸兄は翌十年擧げられて右大臣となり、後には左大臣に進み、孝謙天皇の天平勝寶八年(一四一六)職を辭するまで長く大政に參與した。しかもこきの間、一時吉備眞備僧玄昉が宮廷に勢力を振るつたので政權から遠ざかつた藤原氏は大いに勢力の挽囘を策した。かくて天平十二年(一四OO)には、宇合の子、大宰少貳藤原廣嗣は、眞備·玄昉の二人を除くべきことを上表したが、容れられずして遂に兵を擧げ、やがて誅に服し、同十七年玄昉も筑紫に貶せられた。次に孝謙天皇の御代に入つて、武智麻呂の子藤原仲麻呂は厚き御信任を得、やがて淳仁天皇卽位し給ふや惠美押勝の名を賜はつて、權を擅にした。然るにその後、僧道鏡の榮達が日に盛んとなるに及び押勝は兵を擧げんとして誅せられ天皇は退位あらせられて淡路に遷らせ給うた。僧侶と政治こゝに於いて孝謙天皇は重祚あらせられて、稱德天皇の御代となつたが、天皇は道鏡を重んじて大臣禪師から太政大臣禪師に進め給ひ、天平神護二年(一四二六)には更に法王を授けられ、その腹心の圓興禪師には法臣を、基眞禪師には法參議大律師の官を授けられて、夫々政治に參與せしめられた。これより政〓混同の弊害が現はれ、その窮まるところ、道鏡は遂に字佐八幡宮の託宣と稱し、皇位覬覦の怪事を起すに至つた。こゝに於いて和氣〓麻呂は勅命を奉じて西下し、宇佐八幡宮に於いて「我國家開闢以來、君臣定矣、以臣爲君、未之有也、天之日嗣必立皇緒、無道之人宜早掃除、の神託を蒙り、聊かも屈することなく、堂々これを復奏して道鏡の野望を挫いた。やがて光仁天皇卽位あらせられるや、寶龜元年(一四三〇)道鏡を貶せられると共に、凡ての政治に肅正を行はれ、政〓混同の弊は一掃された。而して藤原永手·同良繼同百川等はこの間よく輔翼の功があつて治績大いに擧り、こゝに新時代への轉換が兆したのである。土地の開發大化以來の土地制度たる班田制はこの時代にはよく實施せられ、國力發展の基礎をなした。これには隱田の取締、戶籍の調査、土地の班給、田租の徵收等極めて煩雜なる事務を伴なつたから、朝廷では國郡司を督勵して、銳意實施の徹底を期せられた。而して班田制を繼續するには幾多の障礙があつた中にも、人口の增加に從つて、班給すべき田地が不足するといふことは大なる問題であつた。こゝに於いて、朝廷は墾田の開發を奬勵せられ、養老六年(一三八二)には一百萬町の良田を開墾第四章奈良時代第二節國運の隆昌 第一編上置一三四する方針を示して、これを國郡司の任務とせられると共に、一般の百姓に對しても賞を以て荒野·閑地の開墾を奬勵せられた。更に翌七年には、開墾奬勵のため三世一身の法を定められた。卽ち新たに溝池を營み開墾を行ふ者には、その多少を問はず、三世に傳へることを許し、舊溝池によるものは、一身を限つてこれを給與するといふ制度である.然るになほ三世一身の制限のために、返還の期に近づくと農夫が怠倦して土地を荒廢せしめる虞れがあり、この方法の效果が疑はれるに至つた。よつて天平十五年(一四〇三)にはこの法を廢し、墾田の永年私有を許されたのであつて、土地私有制度の復活はこゝに胚胎した。この後墾田の開發は種々の弊害を生じ、社寺權門勢家に集中して行はれる傾向があり、却つて百姓の苦しみを增す場合も起つたために、これを禁止せられたこともあつたが、その禁令も長くは行はれなかつた。墾田私有の公認は人民の土地私有の欲望に投じたものであつて、延いて班田制の崩壞を促し、莊園制の發達を導く重大な原因をなすものであるが、一面これによつて廣大な土地が開發せられ、經濟生活の發展に多大の貢獻をなした效果は認めなければならない.なほこの時代、朝廷が陸田の開發と麥栗等の雜穀の生產とを頻りに奬勵せられたことも著しい事實であつた。鑛業の發達と錢貨の鑄造この時代に於いては、諸國に金銀その他の鑛物が續々として發掘貢上せられ、これが朝野の關心に上つて、國運の隆昌を象徴するものとせられた。例へばさきに文武天皇の御代には、對馬島より金を貢したので大寶と建元せられたが、元明天皇の和銅の年號は武藏國秩父郡より和銅を獻じたことに因んで定められた。また聖武天皇の天平二十一年(一四〇九)には陸奧國よりその產出せる黄金を貢したので、天平感寶と改元あり、次いで孝謙天皇の卽位により天平勝寶と改元「天皇の御代榮えむとあづまなる陸奥山に黃金花咲く」との聖代の讃美はみちの くやせられた。かここの時大伴家持によつて歌はれたものであつた、而してこの時代に於ける種々の鑛物への關心の背後には、鑛物の增產と製鍊法の發達とが示されてゐる。鑛業の發達はまた工藝美術の向上に資するところが大であつて、殊に東大寺大佛の完成は我が國の卓越せる鑄金技術を證するに足るものである。鑛業の發達と共に、中央集權の確立、經濟生活の發達に應じて、新たに錢貨の鑄造が行はれた。既に持統天皇·文武天皇の兩朝に於いて、鑄錢司の名が見えてゐるが次い第四章奈良時代第二節國運の隆昌二三五 第一編上世一三六で元明天皇の和銅元年(一三六八)には、催鑄錢司を置き、銀錢及び銅錢の「和同開珎」が鑄造せられた。この後度々新貨の鑄造が行はれ、金·銀·銅の錢貨が市場に流通するに至つた。併しながら當時一般にはなほ米布帛等を以て交換の媒介としてゐたために、國民は容易に錢貨の使用に熟せず、朝廷にては頻りにこれを尊重する念を養ふことに努められた。かくして少くとも京畿地方に於いては、錢貨が流通するに至り、聊かながらも經濟生活の發達に貢獻しつゝあつた。國分寺の建立この時代に於いては、國運の隆昌と佛〓の興隆とは渾然一體をなすものと考へられた。豫てより國家の事業として佛〓興隆が行はれ、國々に建てられる寺院も尠くなかつたが、いまや行政機構に相應ずるものとして、國分寺の建立を見るに至つた。卽ち聖武天皇は神龜五年(一三八八)金光明經を諸國に頒ち、天平九年(一三九七)には國每に釋迦佛を造らしめ、同十二年には法華經を備へ、七重塔を建てしめる詔を發し給ひ、翌十三年重ねて國毎に僧寺及び尼寺を造らしめる詔を下され、國分寺建立の御趣旨を明らかに示し給うた。卽ち各〓七重塔一區を作り、竝びに金光明最勝王經·妙法蓮華經各十部を寫し、別に宸筆の金光明最勝王經一部を塔ごとに置かしめられ、これらを以て聖法を天地と與に永くつたへ、擁護の恩の恆に滿たん事を冀はれ、其造塔之寺、兼爲國華、」と宣べさせられた。僧寺は正しくは金光明四天王護國寺といび、尼寺は法華滅罪寺といふのであるが、普通これを國分寺國分尼寺と稱した。こゝに備へられる右の經典は何れも國土守護の妙典とせられ、これによつて國々の安泰を望ませられたものであつた。この國分寺はもとより一朝にして成つたものでなく、この後も屢。使を諸道に遣はしてその完成を督勵せしめられた。そして特に大和國に建立されたその兩寺が卽ち東大寺及び法華寺で、これは同時に國土全體の國分寺たる意義を有し當代の中央集權的政治組織と類型を同じうするものである。大佛の鑄造國分寺の建立の詔に續いて、天平十五年(一四〇三)聖武天皇は法恩を普く天下に行き互らしめ、乾坤ゆたかに萬代の福業を修め、動植ともに榮えんことを思ひ給ひ、盧舍那佛の金銅大像を造らんとせられた。盧舍那佛は光明遍照とも譯され、梵網經の所說によれば、蓮華臺藏世界の本身たるもので、化して無數の釋迦と世界とを現はすといはれてゐる。天皇はその造像と造堂のために「盡國銅而鎔象、削大山以構堂」との宏大な祈願を捧げ給ひ、また天下の富と勢とを以て此の尊像を造らんと第四章奈良時代第二節國運の隆昌一三七 第一編上世一三八仰せられた。その時天皇は恭仁京にましましたが、紫香樂の甲賀寺にこれを造立せんとし給ひ、一時は都を紫香樂の地に遷し、盛大な儀式を行つて、その鑄造に着手せしめられた。然るに間もなく天平十七年(一四〇五)都が平城に復したために、甲賀寺に於ける大佛の鑄造は中止せられ、新たに大和國添上郡山金里を佛地と定められて、事業はこの地に移された。併しながら未だ曾てなきこの大像の造立には種々の困難が伴なつて、一時はその成就をさへ疑はれたが遂にこれを克服して、天平勝寶元年(一四〇九)には、略〓その鑄造を畢ることが出來た。この年天皇は皇女孝謙天皇に御讓位あり、天平勝寶四年(一四一二)になつて、極めて盛大なる大佛開眼の供養が行はれた。天皇·太上天皇·皇太后親しく臨ませ給ひ、文武の百官これに從ひ奉り、一萬の僧侶相會して讀經を行ひ、海外の僧もこれに加はり、儀式の莊嚴なることは佛法東流以來未だ曾てない盛事といはれた。なほ後世に至り、大佛は殿宇と共に兩度の火災にあひ今日のは江戶時代に修復せられたものであるが蓮臺及び膝部は奈良時代のまゝを遺してゐる。蝦夷地の經略蝦夷の一部は早くより歸化し、大伴氏配下の佐伯部はこれを以て構成せられ、勇武の氣象に富み、武を以て朝廷に仕へてゐた。しかしなほ奥羽地方には未だ皇化に浴せざるもの多く、大化以前に於いては、陸奥の菊多白河の兩關を設けて北方に備へ、蝦夷地との境界となした。然るに大化改新の後、國力發展の勢はこの蝦夷地に及んで、大いに皇威が輝くに至つた。卽ち大化三年(一三〇七)には、越後に渟足柵を、翌四年には更に北に進洋船古んで磐舟柵を設け、越·信濃の民陸奧暖武同をこゝに移して柵戶とし、以て10.0羽蝦夷順撫の根據とした。城(臺奧出田秋秋)羽要齊明天皇の四年(一三一八)には、第18川物殖阿倍比羅夫をして更に奧地に圖日本遠征を行はしめられ、比羅夫は海舟師を率ゐて北に進み、齶田(秋田>湾代(能代)の蝦夷を降し、津輕を定め、渡島の蝦夷をも歸順せしめた。1/4この後比羅夫は更に二囘に互つて遠征を行ひ後方羊蹄に郡領を設け、遠く肅愼を討つた。肅愼は第四章奈良時代第二節國運の隆昌一三九 第一編上世in.滿洲方面に住した靺鞨族であるが、大陸から樺太·北海道の地方に移住し來り、蝦夷と雜居してゐたものと考へられる。蝦夷地の經略は、これらの遠征によつて大いに進んだが、その頃朝鮮半島の情勢の切迫により、暫くこれを中絕せしめるの已むなき狀態となつた。然るに奈良時代に至り内外に對する大化以來の懸案が着々解決し、國威輝き亙ると共に、再び蝦夷地の經營が行はれるに至つた。卽ち和銅元年(一三六八)には新たに出羽郡を置いて越後國の一郡とし、ついで出羽柵を造つて磐舟柵に代へ、同五年には出羽國を置き、また度々諸國の民戶を割いてこれに配するなど、頻りに日本海方面に於ける蝦夷の同化に努められた。陸奥方面に對しては、靈龜元年(一三七五)相模上總·常陸·上野·下野·武藏六國の富民一千戶を移住せしめたことを始め、早くその拓殖が進められた。またこの國には陸奥鎭所が置かれ、養老六年(一三八二)には諸國に令して柵戶一千戶をこれに配し、非常の場合に備へつゝ、蝦夷の順撫が行はれた。かくの如く蝦夷地の經營が進められたが、蝦夷の蜂起はなほ跡を斷たなかつたので、朝廷は幾度も將軍を遣はしてその征討を行はしめられた。中にも神龜元年(一三八四)の蝦夷の亂は、その勢猖獗を極めたため、朝延では藤原宇合を持節大將軍に任じ、坂東九箇國の兵三萬を動員し、大規模なる征討を行つてこれを鎭定せしめられた。かくして國威次第に奧地に輝き、天平五年(一三九三)には出羽柵を秋田に移し進め、同九年には大野男人等の奏により多賀城と出羽柵とを結ぶ直通路を開いて略〓完成した。その後陸奥には桃生·伊治の二城、出羽には雄勝城が築かれ、同時に諸國の民をこれらに移してその拓殖を進めると共に、蝦夷の同化に努められた。隼人の歸順と南島の內附隼人は古く九州南部に蟠居し、早くより皇化に浴し、その中には召されて宮門の警護を勤め、或は隼人舞と稱する特殊の歌舞を奉仕するものもあつた。然るになほ時々叛亂を企てるものも尠くなかつたために、大寶二年(一三六二)には、柵を造り、兵を配して、これに備へしめられた。而してこの時代に入つて養老四年(一三八〇)には、再び隼人が動搖し、大隅國守を殺害したために、朝廷は中納言大伴施人を往隼人持節大將軍に任七犬いにこれを膺殘せしめられた。これより彼等は漸く歸順の意を表し、天平十二年(一四〇○)の藤原廣嗣の叛亂には、これに應ずるも第四章奈良時代第二節國運の隆昌一四、 第一編上世一四二のもあつたが、その後は勢力を失つて、全く平靜に歸した。隼人の歸順と共に、南島の經略も進められた。本來南島は本土と人種文化を同じくするものであるが、政治的交渉は稀であつた。p然るに推古天皇の御代〓玖(屋久島)の人民來朝して以來、漸く南島に意を注がれ、文武天皇の御代には、使を遣はして南島一人の來朝を求められたので、多〓(種子島)·抜玖·奄美(大島)·度感(德之島か)等の人々は來つて方物を獻じ、爾來朝貢が絕えなかつた。この時代には、元明天皇の和銅七年(一三七四)信覺(石垣島か)·球美(久米島か)の人々までも來朝し、皇威は遠く南島にまで輝いたのである。第三節海外との交通海外の情勢當時我が國と交通した海外諸國は、唐·新羅·渤海等であつた。唐は建國以來、大いに內治外征に努め、諸般の制度が完備すると共に、更に東は新羅と結んで百濟·高句麗を滅ぼし、北は東突厥を討ち、西は西突厥·同総·吐谷渾·吐蕃等を降して大食らcmええ天竺と境を接する空前の大版圖を實現した。かくて天山南北路は全く唐の支配に歸したために、大食·天竺との陸上交通が發新■平塩達し、また海路も幾分開け、東西の交通が自由となつた。これによつて西方の宗〓〓美道路唐口座又術風俗等は盛んに東に移り來り、支那の文東南東化は未曾有の盛觀を呈するに至つた。而渾して我が奈良時代の初め、唐では武章專制吐テ)亜の後を承けて玄宗が卽位し、政治に勵精し蕃たために、國力大いに充實し、文運の興隆著天圖しきものがあつた。葱朝鮮半島に於いては、新羅は唐と結んで大さきに百濟と高句麗とを滅ぼしたが、唐は食(ヤビラア) a百濟の故地に熊津都督府を、高句麗の故都平壤に安東都護府を置いて半島に支配力第四章奈良時代第三節海外との交通一四三 第一編上世一四百を及ぼしたために、新羅は唐に對して安からず、百濟の故地を侵して熊津都督府を倒し、また高句麗の遺臣の叛亂を助けて唐兵と衝突した。その後、唐は遂に兵を收め、我が天武天皇の御代、安東都護府を遼東に移した。こゝに始めて新羅は大同江以南を統一し、ついで唐との關係を囘復し、頻りに使を送り、その制度·文物を移入することに努めたため、半島の文化も亦未曾有の盛觀を呈した。さきに高句麗の亡ぶやその餘類には南滿洲の營州地方に移されたものがあり、後その中から大祚榮なるものが現はれ、部下を率ゐて牡丹江上流の地域に據つてゐたが、我が文武天皇の御代に獨立して震國と稱した。奈良時代の初めに至り、唐は遂にこれを承認して祚榮を渤海郡王に封じた。この後渤海は益〓その版圖を擴め、滿洲の大半と北鮮とを併せ、南は新羅と境を接し、西は遼東に及んで唐の勢力と相接し、東は日本海に面するに至り、その制度·文物にも見るべきものがあつた。日唐交通天智天皇の御代、我が國と唐との間に使節の往來があつたが、その後我が國は內政に力を注ぎ、對外的には消極的な態度を取つてゐた。然るに文武天皇の御代に至り、從來中斷狀態にあつた唐との國交を修めんとする議が起り、大寶元年(一三六一)粟田眞人を遣唐執節使に任じ、大使以下これに隨行して翌年出發した。この後、元正天皇の養老元年(一三七七)、聖武天皇の天平五年(一三九三)、孝謙天皇の天平勝寶四年(一四一二)、光仁天皇の寶龜八年(一四三七)と夫々遣唐使の派遣があり、その度に多くの留學生もこれに從ひ、彼我の文化的交渉を深くした。その中養老元年(一三七七)には、阿倍仲麻呂·吉備眞備·僧玄防等が渡唐し、眞備·玄昉は滯唐約二十年次の大使と共に歸朝したが、仲麻呂はその機を失し、唐に仕へて名を朝衡と改め、位從三品に至り、遂に彼の地に歿した。遣唐使の派遣はまた外國僧の渡來する機會ともなつた。中にも天平八年(一三九こだに南南成の僧督撲控告由由ま無の信佛無常置道避等が創使のでし、天平勝寶五年(一四一三)には、副使大伴古麻呂·吉備眞備等が唐僧鑑眞その他を伴なつて翌年に歸着した。この時代を通じて僅か四囘の遣使であつたが、その文化的意義は重大なるものがあつた。遣唐使の一行は、時によつてその人員を異にしたが、養老元年のときは凡て五百五十七人、船四艘に分乘し天不五年も亦船は四艘であつて、一行五百九十四人であつた。第四章奈良時代第三節海外との交通一四五 第一編上世一四六これらの船は往々にして風浪に漂ひ、或は難破し、その渡航には尠からざる困難を伴なつた。航路には南北二路があり、北路は壹岐·對馬を經由し、朝鮮半島の西岸を北上して渤海灣に出で、山東の登州或は萊州に上陸するものであり、南路は東支那海を橫斷して蘇州·揚州等に向かふものであつた。古くは半島の西岸を迂囘する北路によつたが、この時代には新羅の情勢が不穩であつたために、多く南路を取り、東支那海を橫斷した。我が遣唐使に對して、唐は屢〓使を遣はして我に答禮し、平和な國交を繼續した。新、羅との關係我が國はさきに百濟救援のため新羅と衝突したが、新羅はその後依然として連年進調の使を遣はし、また歷代天皇の大喪にはこれを弔ひ、登極にはこれを賀した。然るにその勢力次第に振るふに至つて古來の藩屬入貢を潔しとせず、通聘の式によらんとしたために、我が朝廷では常にその無禮を責められた。淳仁天皇の御代に至り惠美押勝(藤原仲麻呂)の主張によつて遂に新羅膺懲の計畫が大規模に進められた。卽ち天平寶字三年(一四一九諸國に課して軍船五百艘を建造せしめ、同五年には美濃武藏の少年各二十人を選んで新羅語を學ばしめ、東海·南海·西海の三道に夫々節度使を任じ、所管の國々をして多數の船舶·兵士·水手等を準備せしめ、軍裝を整へると共に諸社に奉幣して征新羅の事を告げしめられるなど、國を擧げて緊張した。併しながら間もなく押勝は失脚し、朝議變更してこの計畫は決行されることなくして終つた。そして光仁天皇の寶龜十年(一四三九)を限りとして新羅の朝貢は止み、公の通交はこゝに斷絕した。渤海の來貢渤海が始めて我が國に來貢したのは、聖武天皇の神龜四年(一三八七)であつた。國書·方物を獻じ、その國書には「復高麗之舊居、有扶餘之遺俗」とあり、臣禮を取つて隣交を請ふものであつたために、天皇はこれを嘉せられ、厚く遇してその使を歸らしめられた。これより彼我に使節の往復が續き、新羅との關係の險惡なりしに反し、渤海は常に恭順であり、時に禮を缺くことがあつても、責めれば改めるといふ狀態であつて、親善なる關係は次の平安初期にまで及んでゐる。渤海の來貢は唐·新羅に對抗せんとする政治的な意圖から出たやうであるが、後には貿易を主としてをり、從つて一行の人員も次第に多くなり、光仁天皇の寶龜二年一四三一)には三百二十五人、船十七艘に乘じて來朝した。航路は彼の國の南海府(威鏡第四章奈良時代第三節海外との交通一四七 一四八第一編上世北道鏡城)から發し、日本海を橫斷して出羽·北陸の海岸に着くのを常とした。渤海の首都上京龍泉府(滿洲國社丹江省事安御東京植)の道蹟は近年發掘せられて、唐文化との審接なる交渉を考へしめると共に、また我が文化を移入したことを示す史料も發見されてゐる。國家意識の發揚支那は古來中國と稱し、四圍の國々を以て蠻夷としたが、我が國は唐に對して常に自主的態度を保つた。殊に我が使節が國書を携行しなかつたことは唐の外交に例を見ないことであり、唐使の來朝は我が朝廷ではこれを朝貢と見做された。唐では我が國を君子國として尊び、文武天皇の御代に渡唐した使節粟田眞人等を見るや、唐人は海東有大倭國、謂之君子國、人民豐樂、禮義敦行、今看使人儀容太淨、豈不信乎、」と讚へた。孝謙天皇の御代、大使藤原〓河が渡唐したときも、玄宗は我が國を君子國と稱したことが傳へられてゐる。新羅に對しては、朝廷は常に恩威竝び施す態度を示され、古來の朝貢に據らしめられた。ささばば新羅の國勢が盛んとなつて、動もすれば獨立的なる國交を示すに及び、朝廷は常にこれを譴責せられた。渤海國も高句麗國の後身として我に朝貢したので朝廷はその來朝を嘉せられた。從つて若し渤海にして禮を失することあらば、勅書を國王に賜うて違例を責め給ひ、或は使節を追返された。かくしてこの時代に於いては、宏大なる氣宇の下に國家的自覺が發揚せられ、我が國の威嚴はよく海外に示されたのである。第四節奈良時代の文化¥神代の同想「大君の遠の朝庭とあり通ふ島門を見れば神代し念ほゆ」これは柿本人麻呂が筑紫に下れるときに詠んだ歌であるが、萬葉集を繙けば、奈良時代を中心として、如何に遠い神代の囘想が昂まり、その莊嚴な姿が人心を誘つたかを知る。天地初めの時、神々がなりまして國土が生成し、皇孫降臨によつて、皇國の基が開かれるとの傳承に基づく皇統及び國家の神聖な姿は、時人をして遠く懷ひを神代に馳せしめたのである。しかも神代の神聖を現實の國家に顯現し給ふのは天皇にましますが故に「おほきみは神にしませば」或は「吾が皇神の命の」と現御神たる天皇の御事が盛ん第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一四九 第一編上世一五〇に萬葉集の歌人によつて歌はれてゐる。またこの時代には漢文體の詔勅と共に國とほ すめろぎ立憲の宣命が行はれてるがあること宣言もも道大里の御社の御代の昔が囘想せられると共に、天皇は現御神と神ながら御世治しめすことが宣べられ、我が國體の尊嚴が示されてゐる。かくの如き國家的自覺の橫溢は、時代の背景たる中央集權的政治組織の完成、國力の發展等と密接な關係を有するものとすべく、み民吾生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく念へば」との萬葉の歌は皇民としての自覺と、この時運に生まれた限りなき喜びとを歌つたものである。神祇の崇敬この時代には佛〓が興隆し、儒〓もまた攝取せられ、行政上の官制には大陸の影響が著しかつたにも拘らず、朝廷は我が國固有の神祇崇敬について、特にこれを重んじ給ふところがあつた。先づ神祇制度を見れば既に令制について述べた如く、中央には神祇官が置かれ、伯以下の職員が祭祀·ト兆を始め、神祇に關する諸般の事務を掌り、地方では國の長官たる國守が第一の務として祠社を掌り、大宰府にあつては、その長官たる帥がこれに當る外に、主神があつて祭祀を掌つてゐた。次に官社の制度が確立したのも亦この時代である。官社とは神祇官の神名帳に登載せられ、祈年祭その他の祭に神祇官の奉幣に預る神社をいふ。古來行はれて來た天神地祇に對する祭祀はこゝに我が獨自の傳統のもとに制度として確立せられた。祭祀は政治と不可分の關係にあつて、國家に大事あれば必ず神祇を祭られた。例へばこの時代に險惡であつた新羅との關係について屢〓諸社に奉幣してその狀を告げられたことなどはその現はれである。記紀と風土記聖德太子の撰せられた國史は早く失はれたがなほ家々には帝紀及び舊辭の傳へられるものがあり、これによつて國家の歷史が語られた。しかしそれらの間には異同が著しく、正實を得ることが出來ないといふ狀態にあつたので、さきに天武天皇はこれを憂へさせられ、稗田阿禮を召して勅語の帝紀·舊辭を誦習せしめられると共に、一方には詔を川島皇子·忍壁皇子等十二人に下して、國史の撰修に着手せしめられた。ついで元明天皇は天武天皇の御遺志を繼承せられ、和銅四年(一三七一)詔を太安麻呂に下し、さきに稗田阿禮が誦むところの舊辭を撰錄せしめられた。安麻呂は詔を拜して直ちに事に從ひ、翌五年の初め業を終へてこれを上つた。これが今日傳へられる古事記三卷であつて、内容は神代肇國のことに始まり、御歷代の順第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一三一 第一編上世一五二に推古天皇の御代に終つてゐる。またその記述方法は漢字を用ひて、しかも漢文の體をなさず、古今獨特の文體を以て國語の表現を行つてゐる。日本書紀の編纂もこの御代に行はれた。和銅七年(一三七四)元明天皇は國史撰修の詔を下し給ひ、六年の後、元正天皇の養老四年(一三八○)舍人親王によつて日本書紀三十卷、系圖一卷が撰上せられた。文體は漢文を用ひ、その內容は第一·二卷が神代に充てられ、第三卷以下は編年體で、神武天皇から持統天皇までの紀である。その編修には種々の所傳をも「一書曰」として併せ錄する方法が採られ、從來の修史事業は本書によつて集大成されたといふべきである。なほ書紀はその後連綿として〓究が續けられ、古寫本も多數に傳へられてゐる。殊にその神代卷は國體の基づく所を示すものなるが故に、古來特に重んぜられ、その註釋書も尠からず著作せられた。要するに、この古事記·日本書紀の編纂は、國史の正實を傳へると共に、また我が國の由來を明らかにし、皇化の鴻基を示されたものであり、それはもとより國家的自覺と相俟つところの歷史的反省によるものであつた。日本書紀の編纂に先立つて、元明天皇は和銅六年(一三七三)諸國に詔して、〓土所出の產物、山川原野の名の由〓、古老の傳へる舊聞異事等を併せて記し、これを上るべきことを命ぜられた。これによつて撰述されたものが風土記である。これは史書が國家の淵源とその展開とを明らかにせんとするのに對して、地理的に國土の姿を明らかにせんとするものであると共に、また地方に傳はる神代の故事、歷史的な多くの說話をも收錄し、記紀の編纂と相應ずる性格が觀られる、今日傳はる常陸·出雲·播磨·肥前·豊後の五風土記は何れもこの時代の撰修にかゝるものである、その他諸書に引用されてゐる風土記の逸文を加へると、すべて四十餘箇國に上り、殆ど全國からこれが撰進せられたことが考へられる。和歌の隆盛和歌は前代の隆盛をそのまゝに繼ぎ、素樸·雄大にして眞情を吐露せる歌風が行はれて百花競ひ咲くの觀を呈し、その集錄や撰集も行はれ遂に萬葉集として大成されるに至つた。その記錄の方法は漢字の音訓を巧みに併せ用ひて國語を表はしたものである、かゝる方法は旣に古事記の撰錄に當つて採用せられ、祝詞·宣命等に於いて一層洗煉されてゐるが、萬葉集については文字の用法が極めて自由であつて、大いに獨自の工夫が凝らされてゐる。第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一五三 第一編上世一五四萬葉集は收むるところ短歌·長歌·旋頭歌併せて四千四百九十六首、作者の範圍も極めて廣くしてあらゆる身分を網羅し、時代の明らかなものは仁德天皇の御代に始まつて淳仁天皇の天平寶字三年(一四一九)に終つてゐるが、その大部分は持統天皇以後の御代に屬してゐる。主なる歌人としては持統天皇·文武天皇の御代に活躍した柿本人麻呂が先づ擧げられ、長歌·短歌共に雄渾にして莊重なる歌を詠み、萬葉の歌風を最もよく代表し、永く後世に歌聖と仰がれた。次に山上憶良·大伴旅人があつて共に大宰府地方で詠んだ歌が多く現はれ、また山邊赤人は自然詩人として珠玉の如き佳作を遺し、最後に大伴家持には忠誠の眞心を歌つたものが多い、その間には額田王·大伴坂上女 笠郞女等の女流歌人も尠からず交つて、紅紫樣々の觀が示されてゐる。萬葉集はたゞに量の厖大なるのならず、その歌詠に於いて皇國意識に基づける純忠愛國の誠を高唱し、或は潮の如く昂騰する感動を現はし、或は可憐な人情に咽ぶ至純なる心を點じ、夜明けの如き新鮮さの中に伸び行く國民の情操を詠める特徴は他に類を求め得ないものである。卽ちそれに見られる精神の基本をなすものは古來の傳統的精神であつて、儒佛·老莊等の思想の影響は極めて薄い。この意味に於いて萬葉集はまたこの時代の國民精神を考察する上に一つの觀點を示すものといふべきである。編者に就いては古來大伴家持說が有力であるが、必ずしも明確ではない文化意識の勃興この時代には國力が充實してあらゆる方面に活動的機運が漲り、文化意識の上にも著しい向上が促された。殊にそれは海外との交通とこれに伴なふ外來文化との深い接觸によつて一層刺戟せられたのであつて、外來文化を適宜に取捨選擇し、これを包容同化することはこの時代に課せられた重大なる使命となつた。當時萬里の波濤を凌ぎ多大の犠牲を忍んで數囘に亙つて遣唐使が派遣せられ、多數の留學生が赴いたことは主としてこの文化的使命の自覺にかゝるものであつた。されば文化の視野は著しく擴大せられ、その上新羅人·渤海人のみならず、更にペルシヤ人·印度人·安南人にして我が國に渡來するものがあり、これ亦國民の文化意識を刺戟するものとなつた。かくて國民は傳統に生きつゝも、その中に全東洋の文化をよく攝取融合せしめ、平城京を中心に我が國未曾有の文化を顯現することとなつた。佛〓の興隆佛〓は當時東亞諸國に於いて廣く普及してゐた。我が國は旣に前第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一五五 第一編上世一五六代に國家的文化としてこれを受容したが、奈良時代にはそれが益〓隆盛となるに至つた。先づ〓理について見れば、當時各種の經典が我が國に齎され、その書寫による流둘布と相俟つて諸寺院に於ける佛〓研究もまた盛んに行はれた宗派には三論宗成成j實宗法相宗倶舍宗華嚴宗律宗の六宗がある。その中三論宗は前代に於いて非常に盛んであつたが、この時代には法相宗と華嚴宗とが主たるものとなつた法相宗にはこの時代の初め義淵が出で、學德兼ね備はり、その一門大いに榮え、行基玄昉等の高足が輩出した。行基は遍く都鄙を周遊して民衆を〓化し、各地に寺院を建て、或は交通·水利等の土木事業を起して、民利民福の增進に大なる業績を遺し、後には聖武天皇の御信任を得、天平十七年(一四〇五)我が國最初の大僧正に任ぜられた。玄昉は在唐すること約二十年、歸朝して後、一時宮廷に信望が篤く、その門下にも學僧が多かつた。華嚴宗には天平の頃良辨が出た。良辨は義淵に就いて法相宗をも學んだが、唐の渡來僧道琥に就いて華嚴宗を學び、宗義の興隆に貢獻し、聖武天皇の御信任を得て東大寺の建立に功績を遺した。海外の名僧が佛〓の發展に寄與すること尠くなかつた中に、鑑眞の渡來は特に注目すべきである。當時僧尼の日常生活について種々の問題を起してゐるが、これは我が國に未だ戒律の正統を傳へたものがないことに由るとし、戒師を唐から迎へる企が熟した。かくして天平勝寶六年(一四一四)に鑑眞の渡來を見るに至つた。鑑眞は唐に於いて旣に高僧の聲譽高く、我が國に來朝するや、先づ東大寺に入り、始めてここに成壇を開き、爾來大僧たらんものの必ず登つて受戒すべき場所となつた。後に唐招提寺を建立して律宗の開祖となり、その流派を弘めた。佛〓の國家的受容佛〓は前代より我が國古來の精神に立脚して攝取せられたが、この時代に於いてはその國家的意識が益〓强められた。朝廷では佛法が國家を擁護し、これによつて國家が榮えるといふ思想の下に熱心にその興隆を圖られた。而してこの思想に根據を與へるものは法華經·金光明最勝王經·仁王經等に見られる內容であつて、延いてはこれらの經典そのものが大いに重んぜられ、諸國に流布せられて頻りにその轉讀が行はれた。それと共に造寺·造佛を通じて、國家の隆昌が期せられるとの思想も盛んであつて、諸國國分寺及び東大寺等はこの意味を以て國家行政と關聯して建立せられたのである。かくの如く佛法が現實的なる國力の發展と結第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一五七 第一編上世一五八合し、國家擁護の形に於いて興隆したことはこの時代の佛〓について見逃すことの出來ない特徵である。その他僧侶が單なる修行にのみ傾注せず、廣く民衆の化導に心を用ひた事、或は土木事業を起して民利の增進に努めた事なども共に佛〓の極めて現實的な受容方法の顯現と見るべきであらう。たゞその半面に於いて僧侶が世事に耽り、或は政治に關與し、或は紀綱を紊すことなどがあり、やがて弊害は尠からず現はれるに至つた。儒學と漢文學前代に盛んに渡來した儒學は朝廷の御奬勵及び制度の完備に伴なつて漸く國民道德に攝取せられるに至つた。官吏養成機關たる大學國學に於ける學科は主として經學であつた。大學に於ける經書は孝經·論語を必修とし、周易·尙書·周禮·儀禮·毛詩·春秋左氏傳等を選擇するものであつた。されば儒學は官吏の〓養として重きをなすと共に、國民の〓化にも大なる影響を與へた、卽ち國司は厚く五常の道を以て百姓を諭し、百姓にして德聞あるものはこれを部內に表彰しなければならなかつた、中にも孝は百行の本として普く奬勵せられ、孝謙天皇の天平寶字元年(一四一七)には天下の家毎に孝經一本を藏せしめ、これを精勤誦習することを勸められた。經學と共に漢詩文も發達に向かつた。令の學制には未だ紀傳文章などの學科別は現はれてゐないが、官吏の登庸には文選·爾雅を讀ましめる試驗もあつた。而しての時代に至つてはるの學制に改變が加へへれ支意道は凝固の學とし經道と對立した。この學制の改變は詩文の地位の向上を示すものであつて、朝廷は學藝に秀づる士に優賞を加へられたり、朝野の道俗をして詩賦を上らしめられることなどがあつた。かゝる狀態であつたから、多くの文人がこの間に輩出し、中にも粟田眞人·阿倍仲麻呂·吉備眞備·石上宅嗣淡海三船等はその學才文藻一世に秀で、文名遠く海外に響くものもあつた。なほ石上宅嗣は己が舊宅を寺となし、その一隅に事院を營み經史詩文等の書を藏めて好學の徒の閱覽に供した。これ我が國に於ける圖書館の始といはれてゐる。かくの如く詩文の道が開け、多くの學者·文人が輩出すると共に、漢詩文を集錄することも行はれた。中にも懷風藻は現存の中、最古の詩集であつて、天平勝寶三年(一四一一)に成り、大友皇子(弘文天皇)及び文武天皇を始め奉り、他に六十二人の詩を收め、總第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一五九 第一編上世一六〇べて百二十篇に及んでゐる。編者は古くより淡海三船といはれてゐる。美術工藝の發達美術工藝は當代の博大なる精神を最も具體的に示し、その發達著しきものがあつた。前代の白鳳期に唐の文化と接觸して以來、大陸の各地に於ける種々の表現樣式は、我が國民の藝術的意欲を通じて渾然として攝取せられ、廣大なる全アジアの文化は我が古來の傳統の中に溶融し、こゝに世界に誇るに足る優れたる文化が創造せられたのである。聖武天皇の御代の年號に因み、美術史上奈良時代を總稱して天平時代と呼ぶ。建築にあつては、神社は古來の敬神の精神に基づき外來文化の影響を蒙らず、依然として古代の傳統を守つてゐた。宮殿建築は平城京の建設と共に未曾有の發達を遂げた。現存の唐招提寺講堂は平城宮朝堂院中の一堂を施入せられたものであつて、これは大陸風の建築であるが、内裏の常の御殿は固有の方法を守つて瓦を用ひず、よく傳統が生かされてゐたと考へられる。佛寺は前代と同じく多くは七堂伽藍の形式を以て營まれ、國分寺の遺蹟などが諸國に存してこれを示してゐる。建物としては壯大比類なき東大寺大佛殿が造營せられ我が建築技能の雄大さを示してゐた(天目廣)像王天四院壇戒寺大東唐招提寺金像薩菩光月堂華法寺大東堂 令時太子心自合言我令日食一麻一米乃至七日食一麻米身形消瘦有若柑木浦村普行委滿六年不淂解脱故知非道不過如昔在〓浮樹下所去(彫條)瓣蓮佛大寺大東恩惟法雅歌宇靜現是家真正令我若渡此氣身石車道者在被諸外道當言自鐵因是般涅槃回我令罪果渡節即有那羅廷力赤不以此而取道果我經當受食案鴻成道生是合巴即促坐起至屋速祥河入水洗浴洗浴乳率身體發痛不餘自出天神來下者會稱◆HI K〓賣監熟曜 正金雙彩倉銅花院繪形御合子局箱物が平安末期に平氏の兵火に.燒失した。現存の大佛殿は元祿時代に興されたもので、規模は當初のより小さくなつてゐるが、なほ木造建築としては世界最大である。而して千二百年の星霜をよく凌いで現存せる建築物には先づ唐招提寺金堂があつて、最もよく天平建築の精粹を遺し、法隆寺夢殿東大寺法華掌同轉害門等にもその遺構が見られ、何れも莊重なる樣式を留めてゐる。東大寺の正倉院も亦當代の建造に係り、聖武天皇御遺愛品を納めた勅封藏である。その構造は校倉造と稱し、三角形の長材を組んで四面を作つたもので、內部の通風·防濕の目的によく適つた建築樣式といふべきである。寺院の建築と共に、そこに安置せられる佛像も數多く製作せられ、東大寺大佛の如き古今に比類を見ない大造功も行はれた。この時代の佛像の技巧は白鳳期の過渡的な段階を經過して正に圓熟の境地に達し、姿態の表現は自然の妙を盡くして力と生命とを與へつゝしかも永遠を求める高き精神をその中に表出してゐる。かくて大陸模倣の彫法は漸く克服せられ、國民の創造力の偉大さがよく象徵せられた。遺作の多き中に、東大寺法華堂の諸佛像、同戒壇院の四天王像、唐招提寺の諸佛像等はそ第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一六、 第一編上世一六二の代表作とすべきである。また鑑眞和上像などの肖像彫刻の現はれたのもこの時代の新傾向として注目せられる。なほ前代までは金銅像が多く、木彫これに次いだが、この時代には新たに塑像と乾漆像が興つてこれが主たるものとなつた。繪畫は他の美術工藝に比して遺品が僅少である。その中に藥師寺の吉祥天畫像、正倉院の樹下美人圖等は小形ながら天平時代の繪畫の代表作といふべく、殊に前者は用筆色彩共に精巧であり、相貌豐滿であつてよく華麗を喜ぶ時代の好尙と卓越せる技術とを示してゐる。次に過去現在因果經は經卷の上半部に釋迦一生の行業を圖示したもので、後世の繪卷物の濫觴として特に注意すべきである。なほ東大寺大佛の蓮瓣一帶に殘された條彫は繪畫としても見逃すべからざるものであつて、當代の繪畫的構想の如何に雄大であつたかを物語つてゐる。工藝は前代の發達を承けてその精巧優美目をみはらしめるものとなつた。それらの多數が今日なほ正倉院に藏せられ、當時のまゝの〓雅な姿を保つて天平藝術の粹を傳へてゐることは、これが古來勅封たりしによるものであつて、洵に畏き限りである。正倉院の御物は光明皇后が聖武天皇の御追善のために東大寺に施入せられた天皇御遺愛の品々を主とし今に存するものは服飾·調度·楽器·武具·工作具等三千餘點に及んでゐる。材料及び技術としては染織·漆·金石·陶磁·玻璃等があつてその意匠は精妙を極め、鍍金·象嵌·毛彫等の優れた技巧も用ひられ、今人の心をして遙かにこの時代に馳せしめるものがある。しかもその樣式には鳥獸·草木·風俗等に於いて、多量にペルシヤ·印度その他西方の要素が取容れられ、この時代の文化が包容する地理的廣大さを偲ばしめるものである。この時代にはまた雅樂寮の制度が整ひ、固有樂外來樂共に隆盛となれるに伴なうて種々の樂器や舞樂面が製作せられ、その遺品の存するものも尠くない。なほ印刷術の萌芽も見られ、稱德天皇は神護最雲四年(一四三〇)三重小塔百萬基を造立して、これを十大寺に分置せられたが、その一部は法隆寺に傳へられ、この小塔に納められた陀羅尼は現存する世界最古の印刷物である.第四章奈良時代第四節奈良時代の文化一六三 第一編上世一六四第五章平安時代第一節平安遷都遷都の理由奈良時代には平城京の繁榮が謳はれたが、その末期に於いては相次ぐ權臣の擅恣によつて中央の綱紀は紊亂し、殊に僧侶は政〓混同の時勢に驕つて、その弊害著しきものがあつた。而して光仁天皇の卽位と共に、早くも庶政の刷新、財政の緊縮等新しい時代への推移が兆したが、天皇は既に御高齡にあらせられたので、後事は桓武天皇の繼述し給ふところとなつた。桓武天皇は、天應元年(一四四一)に卽位あらせられ、その後間もなく遷都の計畫が起されたのである。これには種々の理由が考へられるが、その主なるものは、奈良時代の政弊を反省すると共に旣に發現しつつある一新の政治を擴充することにあつた。さきに光仁天皇は卽位に當つて群臣に詔を下し、天日嗣高御座の業は、天神地祇の扶けによつて平安であり賢能を得て世の安きを保つものなるが故に、各〓淨き明き心と正しく直き言とを以て仕へまつり、天下の民を惠み治むべきことを諭し給うた。これは卽ち我が國本來の政治の姿を示されたものであるが、更に桓武天皇は卽位の年冗官を解却し、內外の官人を戒められて、庶使激濁揚〓、變澆俗於當年、憂國撫民、追淳風於往古、と仰せられた。卽ち一新の大政は復古の御精神によつて行はれるのであつて、近き世の澆惡を去らんとの叡慮こそは、平城京を去つて、新たに都を營み給ふ所以のものであつた。長岡京の經營新たに皇都たるべき地は、舊來の因緣が錯綜してゐた平城京から遠ざかると共に、要害の形勢を備へ、しかも水陸の便に惠まれるのを必要とした。かおと くにくして天皇は御信任厚かりし藤原種繼の建議を容れさせられて、先づ山背國乙訓郡長岡の地を選び給ひ、延曆三年(一四四四)種繼を造長岡宮使に任じてこゝに新京の經營が行はれた。ついで同年天皇はこの長岡宮に移らせられたが、この後長岡京には數々の不祥事が續出した。卽ち同四年には、主としてその造營に當つてゐた種繼が横死し、皇太子早良親王は廢せられ給ひ、その後の造營極めて遲々たる中に、同八年には皇太后、九年には皇后が崩ぜられ、長岡京の前途は早くも不吉の陰に包まれた。か第五章平安時代第一節平安遷都一六五 あり、朝堂院の西には、節會·饗宴等の行はれる豐樂院があり、これらを中心として、八省·目的は〓ね達成した。の內部には正面に國家の儀式の行はれる朝堂院があり、その北には皇居たる內裏がられた。用ひられたので、國費は十分でなかつた。所所事事與造作也停比率害妊安之みの藤原京講の譲をみれて宣言職稱せられた。城、因斯形勢、可制新號」と宣べ給ひ、爾來山背國を改めて山城國となし、新京を平安京と告げさせられた。平安京の造營は、その後なほ長く繼續されたがこの頃蝦夷の經營に多大の努力が曆十二年(一四五三)には早くも新京の造營に着手し、またこれを伊勢·賀茂等の神々に憂ひ、山背國葛野郡宇太村への遷都を奏上した。つたが、長岡京の經營十年にしてその功未だ成らず、徒らに費用を重ねるのみなるをつて入京し、本位に復ぜしめられた。道鏡の非望を斥け、一時大隅國に流されたが、光仁天皇が踐祚あらせられるや、勅によかる事情によつて、間もなく再遷都の議が起つて來たのである。寺和仁권社神野北平安遷都大條第五章路路大門御土大內雲所第一編路大門御中成法これは必ずしも平安京の完成を意味するものではなかつたが、旣に造都の末路大條條平安時代寺路成腐右弘左上大條この時遷都の議を奏したものは和氣〓麻呂であつた。市都京大條四路世六波羅密存ついで翌十三年には新京に遷幸あらせられ、「此國山河襟帶、自然作堀京京路大條五第一節具빈路條六24八路大せ條條條卍〓平安遷都路大八5 JV城羅専권古院智慧變擦路大九大、木東大西東大大西朱雀大路大東西京大辻大路道祖大路L大大洞洞京·小路極路宮路宮路院路院路殊に桓武天皇の御信任を辱うして從三位に陞圖京安平分ち、これを東西の大路によつて左右共し、更にその規模を擴大したものであつよつて延曆二十四年(一四六五)には「方今天た。待賢門等の所謂十二門が開かれた。には正面の朱雀門を始め、皇嘉門·美福門·內裏は都城の正北に位して南面し、周圍めから置かれた點が異なつてゐる。るが、たゞ一條には更に半條の北邊が始つてゐるなど、平城京の場合と同樣であに九條に劃し、各條は左右四坊宛から成卽ち朱雀大路によつて左右兩京に平安京の都制は、大體に平城京を路襲をに天皇はこれを御嘉納あらせられ、延一六七一六六そ大〓麻呂は嘗て 第一編上世一六八諸寮司等が置かれた。この平安京は東西約四十二町、南北約四十九町であつて、これに土垣と堀とを以て羅城を廻らした。併しながらその規模廣大に過ぎたため、人家は地勢のよい左京に集中し、右京の大部は旣にこの時代の初期から荒廢してゐた。しかも東方に對しては羅城を越えて發展する傾向が早くより見られ、賀茂川東の白川の地には社寺·山莊等多く集まり、後世、京·白川と併稱してその繁華が謳はれた桓武天皇の新政新京の經營が續けられると共に、天皇は淳風を往古に追はれる一新の政治を進められたが、その中先づ第一に擧ぐべきことは地方政治の刷新であ地方官は直接に民庶と接觸してその福祉を增進する立場にあるにも拘らず、或る。は權力を恃んで民庶を虐げ、或は公を忘れて私利を貪り、民力ために凋喪するといふ場合も尠くなかつた。天皇は深くこれを軫念あらせられ、或は巡察使を遣はして政をられ、以て國司の不正を糺斷せられた.殊に延曆五年(一四四六)には、積習漸く久しく、弊をなす事已に深しと宣べさせられ、國司·郡司等の守るべき條例を定められた、れは要するに令の精神の弛緩に省みて、その正しき方向を明らかにせられたものであつて、この條例に照らして官吏を拔擢し、或は黜陟して、地方政治の刷新を圖られ、以て民庶の生活の安定を期せられたのであるまた天皇は問民苦使を地方に遣はして、その實情を問はしめられた。その他班田制の實施に努められると共に、租稅を減じ、徭役の負擔を輕くし大いに民力の恢復を圖られた。地方政治に次いで御心を注がせられたのは佛〓の刷新である。前代に於ける佛〓興隆の結果、その末期に至つて種々の餘弊を生じたが、その間に寺院はまた土地の兼併を行ひ、利殖の道を事として、人民を苦しめる場合も尠くなかつた。僧侶の戒律も失はれ、中には邪法を說いて人民を惑はすものもあつたので、朝廷は屢〓これを戒められ、寺院の淨化と共に、その弊風を矯めることに努められた。天台宗眞眞宗等の新佛〓興隆の素地も亦この間に培はれて來た。蝦夷の平定蝦夷は光仁天皇の御代より再び邊境を騷がし容易に鎭まらなかつた。桓武天皇は從來征討の功の擧らざる所以は兵士の劣弱にありとせられ、延曆二年(一四四三)には先づ坂東八國に勅して、有位者の子、郡司の子弟や浮浪人等にして、兵第五章平安時代第一節平安遷都一六九 第一編上世〓〓〓士たるに堪へ得るものを選ばしめ、これを訓練し、兵士の素質の向上を計られた。かまくして同七年、紀古佐美を征東大使と爲し、その發するに臨み、天皇はこれを殿上に召させられ、「坂東安危在此一擧將將宜勉之」の勅書を賜うてこれを激勵せられた。やがて翌八年、古佐美は大軍を率ゐて蝦夷地に進み膽澤を本據とする賊を討つたが、官軍嘉利あらず、遂にその目的を達し得なかつた。よつて再度の征討が計畫せられ、同十年には大伴弟麻呂を征夷大使、坂上田村麻呂を副使と爲し、同十三年には大軍を授けて蝦夷地に向かはしめられた。この度は多大の效果を收め、翌十四年の初めに弟麻呂は凱旋したが、これを以てしてもなほ蝦夷の患を根絕せしめるに至らなかつた。よどつてこの後、朝廷は坂上田村麻呂を陸奥出羽按察使兼陸奥守に任じ、鎭守府將軍を兼ねしめて蝦夷に備へしめ、更にまた征夷大將軍とせられた。田村麻呂は周到な用意を整へて、同二十年に蝦夷地に進み、大いに賊軍を破つた。こゝに至つて長く賊の本據であつた膽澤の地は全く鎭定したので、田村麻呂は新たに膽澤城を築造し、ついで更に進んで志波城を築いた。同じ頃出羽方面の經營も進み、同二十三年には秋田城を廢してこゝに郡制を布いた。蝦夷の經略はなほ續けられたが、天皇は天下の勞苦を思召されて遂にその征討を停め給うた併しながらこの時以來、蝦夷の患は漸く遠ざかり、更に嵯峨天皇の御代xはえ。軍綿臨昌がとれを討つつての經營を進むの大代の御代はは男蜂起して秋田城を襲つたが、藤原保則·小野春風等これを平定し、殊に保則は善政を布いてよく、これを懷けた。また蝦夷の同化政策についても、歷朝その意を用ひられ、蝦夷を夷俘·俘囚等と稱して諸國に配置し、土地の開發に努めしめ國々の費用を以てその生活を安固にせられた。後にはかゝる差別も撤廢せられ、彼等は皇民として全く同化するに至つたのである。第二節政治の變遷藏人所·檢非違使廳の設置桓武天皇新政の御精神は、その後、歷代天皇の繼承し給ふところとなつた。それに伴なつて前代のまゝの律令による官制にも改廢が加へら。§び檢非違使廳の新設である。れて來たが、先づその著しいものは藏人所及元來令の第五章平安時代第二節政治の變遷一七一 第一編上世一七二制度は時代の經過の中に必ずしも實情に卽しないものも生じたため、これが運用に當つては多少の改變を必要としたん令に規定のみい實即る外官も設かくて早くも前代に中納言·參議の如き重要な令外官が設置せられたが、更に政治の情勢を異にして來たこの時代に於いて、その必要は一層加はつたといふべきである。偶〓、平城天皇に次いで、皇弟嵯峨天皇卽位あらせられるや、種繼の子、藤原仲成及び藥子の兄妹は密かに平城上皇の重祚を謀つたのでこれの對應策が原因となつて、朝廷の樞機に與る機關として大同五年(一四七〇)始めて藏人所を置かれた。藏人は御物の出納等を掌る側近の職に由來するものであるが、こゝにその機能を擴充し、少納言及び中務省等に於いて執つてゐた手續に代つて詔勅の傳宣その他重要文書に關する機務を掌ることになりその後、藏入所はその組織を整へるに至つた。卽ちその長官には別當があつて左右大臣または大納言の一人がこれを兼ね、次に頭と稱して四位の殿上大二大がありうる(入は耕百かも)人は征面府から選ばれそ將などと稱したその下に五位·六位の藏人及び非藏人等があつて、側近の諸般の事務を掌り、才幹ある名門の子弟が多くこれらに補せられたかくして藏人所の權勢は漸く高くなつた。檢非違使はその起原を審がにしないが、同じく嵯峨天皇の御代に設けられてをり、京都內外に於ける治安維持を目的とした。初めは左右衞門府に屬したが、淳和天皇の天長元年(一四八四)獨立して左右檢非違使廳が設けられ、更に仁明天皇の承和元年(一四九四)には始めて文屋秋津を別當に任じて、その組織を完備した。この廳は監察司法·警察等の事を掌り、時宜に適した施設であつたために、この後益〓發展し、從來刑部有御正事章豫間等等に分散してゐた事務が自らことに統一せられる職員としては、長官に別當一人あり、以下に佐·尉·志等があり、多く衞門府の官人をしてこれを兼ねしめた。かくの如く檢非違使の職は重要なものとなつて來たが、この後地方に於いてもこれに倣ひ、國司に屬して國々の檢非違使が置かれ、當時漸く弛みつゝあつた地方の治安に備へしめられた。藤原氏の權勢嵯峨天皇·淳和天皇·仁明天皇の御三代は官職によくその人を得、臣下の權勢は未だ一門に集まることがなかつた。卽ち、藤原氏には北家に內麻呂·冬嗣第五章平安時代第二節政治の變遷一七三 第一編上世一七四の父子があり、式家に百川の子、〓嗣があり、南家は藥子の變により勢力を失つたが、な:)ほ三守があつて右大臣にまで進んだ。橘氏は嘗て奈良麻呂が惠美押勝を除かんとして失敗し、爾來權勢が衰へたが、その所出たる嘉智子が嵯峨天皇の皇后に册立せられ、その弟氏公は右大臣に進み、橘氏の勢力は再び振るつた。その他新たに臣下として立てられた源·良岑〓原の諸氏も夫々大臣·納言等の樞要に列した。然るに冬嗣の子に才略優れたる良房が出づるに及び、大いに一門の權勢を張るに至つた。朝廷の顯要なる地位が後世までも久しく藤原氏北家の一門によつて占められる源はこゝに起るのである。仁明天皇は天長十年(一四九三)卽位あらせられ、淳和上皇の皇子恆貞親王が皇太子に立たれたが、その後承和九年(一五〇二)に至り、親王は太子を辭せられたので、天皇の皇子道康親王が皇太子に立たれた。親王は卽ち文德天皇にあらせらる。文德天皇卽位あらせられるや、皇子惟仁親王が皇太子に立たれ、親王の御生母は良달房の女であつたので、良房は威權大なるものがあり、天安元年(一五一七)遂に太政大臣の極官に隆り源信が左大区に良房の弟良相が右大区に任ぜられた。しみ翌年、天皇崩御あらせられ、惟仁親王は御幼少にして卽位あらせられた。これ〓和天皇にましまし、良房は大政を輔佐し奉つた。貞觀八年(一五二六)應天門に火災起り、伴善男が源信を陷れんとして放火したことが明らかとなつて、伴氏·紀氏の一族これに坐するもの尠くなく、かくして藤原氏を除いて古來の名族は相次いで沒落した。同じく貞觀八年、天皇は良房に天下の政を攝行せしめられる詔を下し給ひ、こゝにその任が公のものとなつた。人臣にして攝政となつたのは良房を以て始とする。關白の始良房の歿後、〓和天皇は親しく政をみそなはした。天皇はその後數年にして御位を皇子にあらせられる陽成天皇に讓られ、同時に良房の甥にして養嗣子たる右大臣藤原基經を攝政とする詔が下された。この後、基經は太政大臣に任ぜられ、その權勢良房にも優るものがあつた。殊に陽成天皇に次いで、元慶八年(一五四四)光孝天皇卽位あらせられるや、天皇は詔して太政大臣基經の功績を賞せられ、また今より基經が萬政を領行して、奏すべき事と下すべき事とを先づ諮禀すべき旨を仰せ下された。これには未だ關白の語が用ひられてゐないが、實質上は關白の例がこゝに開かれ、基經の威望は盛んなるものがあつた。第五章平安時代第二節政治の變遷一七五 第一編上世一七六光孝天皇は在位僅か三年にして崩ぜられ、仁和三年(一五四七)字多天皇が卽位あらせられた。天皇は改めて詔して萬機巨細となく皆太政大臣に關白し、然る後奏し、或は下すこと舊の如くせよと宣はせられた。基經は時の儀禮として一旦これを畏み拜辭したので、天皇は左大辨橘廣相をしてその拜辭を許さざる勅を起草せしめ、これを基經に賜はつた。然るにその中に「宜以阿衡之任爲卿之任」との句があり、基經と親近なる紀傳博士藤原佐世は、阿衡は位高きも職掌なしと基經に告げたために、種々の論議が起り、基經は政務を聽かざること半歳に及んだ。天皇は畏くも再び勅を下して、基經を慰諭せられ、廣相の參朝を一時停められ、漸く事態の落着となつた。この經緯に於いて爲政者や學者が内紛を暴露して議論の紛糾を釀したことは、基經が深く宸襟を惱まし奉つたことと共に誠に恐懼に堪へないところである。宇多天皇の御政治天皇は藤原氏擅權の弊を叡慮に留められ、よつて基經の歿後は關白を置かずして御親ら政を行はせられ、同時に菅原道眞を起用せられた。道眞は參議菅原是善の子として生まれ、詩歌學問の道に於いて譽れが高かつたのみならず、治道の才あり、さきに阿衡の紛議に際しては、一書を基經に呈し、直言して憚るところがなかつた。よつて天皇は頻りに道眞を拔擢せられ、御讓位に先立つて基經の子時平を大納言に、道眞を權大納言に任ぜられ、この二人を竝び立たしめられた。かくして藤原氏の擅權を抑へられると共に、また特に御意を地方政治に注がせられて、弛廢した綱紀を囘復し、國用の充實を圖らせ給うた。後世この御代を寬平の治と稱へまつつてゐる。宇多天皇は御在位十年にして寬平九年(一五五七)御位を皇太子敦仁親王に讓らせられた。親王は卽ち醍醐天皇にまします。同時に上皇は一書を天皇に進められ、治道の要を傳へ給うた。世にいふ寬平御遺誠がこれであつて、その中にはまた時平道眞等の人物を評せられ中にも道眞に就いては新君の功臣である所以を說いて、特に信任を加へられんことを望ませられた。延喜·天曆の治醍醐天皇は上皇の御遺誠を守り給ひ、深く道眞を信任せられ、卽位の翌々年には、時平を左大臣に、道眞を右大臣に進められた。天皇は更に道眞に萬機を內覽せしめんとし、その内諭を下し給ふに至つた。身を儒林に起して大臣に陛つたものは先に吉備眞備あるのみであつて、しかもこの間には時勢の相違があり、藤原第五章平安時代第二節政治の變遷二七 第一編上世一七八氏の勢威大なる中に於ける道眞の榮進は異數のものであつた。されば遂に時平を中心に源光·藤原定國·同菅根等は道眞排斥の計畫を進め、これを讒奏したために、道眞だ ざいのごんのそちは日泰四年二五六二突如として大事權師に取せられ配所に送られたかくして右大臣には源光が任ぜられ、左大臣時平と共に新たなる政治の體制が整へられた。やがて延喜九年(一五六九)には時平歿し、旣に寶算二十五歲にあらせられた天皇は、左大臣をも任じ給はず御親ら日夜政治にいそしまれた。殊に御仁慈深くましまし、寒夜に御衣を脫がせられて人民の苦を偲ばせ給うたことなども傳へられてゐる。實に當時政治の病根として御歷代の軫念あらせられたものは、中央に於いては藤原氏の擅權であり、地方に於いては國司の不正·怠慢と權門·社寺の土地兼併とであつた。然るに、こゝに天皇の親裁は實現し、莊園の整理班田の實施、墾田開發の奬勵等を行つて、民力の恢復と地方の安定とを圖り給うた。格式の編纂はまたこの御代に於ける著しい業績である。律令は大寶養老の昔に於いて完成せられ、これと竝び施行さるべき格式は隨時發布されてゐたが、その編纂は平安時代に入つて行はれ、先づ嵯峨天皇の弘仁十一年(一四八〇)格十卷式四十卷の完成を見た。弘仁格·弘仁式が卽ちこれである。この後更に〓和天皇の御代、貞觀十一年(一五二九)には格十卷·臨時格二卷を、同十三年には式二十卷を編纂せしめられ、これを貞觀格·貞觀式と稱した。この二代の後を紹いで醍醐天皇は重ねてその編纂を行はしめられ、格は臨時を合せて十二卷、式は五十卷より成つて、最も整備せるものとなつた。これを延喜格·延喜式と稱する。この編纂には藤原時平同忠平以下が從事せしめられ、格は延喜七年(一五六七)に奏進されたが、式は延長五年(一五八七)に至つて漸く完成した。なほこの御代には文華が絢爛として咲き亂れ學問上にも多くの業績が殘されてゐる。而して天皇は聖德高くましまして、親政よく行はれ、儀式典禮また備はつたので、後世に延喜の聖代と稱へられた。醍醐天皇に次いで延長八年(一五九〇)朱雀天皇卽位あらせられ、時平の弟忠平が攝政として天皇を輔け奉つたが、後に關白とせられ、藤原氏榮華の基礎を固くした。然るに次に卽位あらせられた村上天皇は、天曆三年(一六〇九)忠平歿して後、關白を置かれず、その子實賴·師輔を左右大臣として親政を行はせられた。この御代も朝威振る第五章平安時代第二節政治の變遷一七九 第一編上世一〇〇ひ、文華榮え、天曆の聖代と稱せられる。かくの如く延喜·天曆の御代は、親政の盛時として謳はれ、殊に中世政道の理想はこの御代にかけられ、建武中興の親政もこれを理想とせられた。しかし、實はこの頃社會の實狀には種々の禍根が發生する大勢にあつた。延喜十四年(一五七四)に三善〓行の上つた意見封事十二箇條は卽ちこの點を指摘したものであつて令制の頽廢もこれによつて窺はれるものがある。殊に地方の宿弊は容易に斷たれず、朱雀天皇の御代には平將門·藤原純友の叛亂を見るに至つた。攝關の常置攝政は良房以來、臣下たる藤原氏がこれに任じ關白の例は基經から開かれたが、攝政·關白は未だ常置のものと考へられてゐなかつた。然るに延喜·天曆の御代を經過し、冷泉天皇卽位し給ひ、藤原實賴を關白とせられて以來攝政·關白は殆ど常置の狀態となり、天皇御幼少の御時には攝政を置かれ、長ぜられては關白を置かれる事が慣例となり、しかもこの攝政關白は專ら藤原氏を以て充てられる例となつた。而してそれと共に、攝關政治の組織も亦漸く明瞭となつた觀がある。卽ち國家の政務は便宜上攝關家の所に於いても執られ、政所の家司には人材を集め、辨官や檢非違使の人々をしてこれを兼ねしめる場合も珍しくなかつた。而して中央の政:令として太政官符や官宣旨なども屢、出されたが、攝關家の政所、下文や御〓まも政治上重要なる意味を有し、これによつて攝關の威望が大いに募ることとなつた。當時貴族が權勢を得るには、皇室の御外戚となつて大政を輔弼しまゐらすことが第一の手段と考へられてゐた。從つて貴族の執着は主にこの點にかけられ、これにたかあきらよつて權勢の隆替も繰返された。先づ冷泉天皇の御代には、左大臣源高明が左遷せられ、圓融天皇の御代からは、藤原氏の內部に於いて勢力爭を起し、兼通が權勢を得て弟兼家を斥け、次いで一族の賴忠勢力を得て花山天皇の御代に及んだ。花山天皇の御代には新立の莊園が整理せられるなど、朝政大いに振肅したが、天皇は御在位僅かに二年にして皇太子懷仁親王に讓位あらせられた。卽ち一條天皇にまします。一條天皇の卽位と共に御外祖に當る兼家は攝政となり、三公の上に位して政權を擅にした。兼家は攝政たること數年にして歿したが、その子、道隆·道兼·道綱·道長等はin何れも樞要を占めた。先づ長子道隆が父の後を繼ぎ、道隆はその子の伊周が次の關白たらんことを望んでゐた。然るに道隆の薨去に際し、天皇は道兼を關白となし給第五章平安時代第二節政治の變遷一八一 第一編上世一八二うた。道兼は關白たること句日にして病に殪れ、後には伊周と道長との間に爭が起つた。天皇は內覽の宣旨を道長に下し給ひ、道長の權勢は愈、盛んとなつた。その後の一條天皇の御代と、三條天皇·後一條天皇の御代は正に道長の榮華の極まれる時代であつた。後三條天皇の御政治後一條天皇の萬壽四年(一六八七)道長は歿し、その子賴通が後一條天皇·後朱雀天皇·後冷泉天皇の御三代に亙つて權勢を振るつた。一條天皇以來御五代七十餘年間に亙る道長一門の榮耀は實に華々しいものがあつた。併しながらその半面に於いてこの頃中央政治の綱紀は益〓〓廢しし地方政治は亂脈に向かひ、班田の制は崩壞して莊園の激增を見つゝあつた。後冷泉天皇の後を承けさせられた後三條天皇は、深くこの狀態を軫念あらせられ、時弊の基づく所の一は攝關政治にるととと痛感し絵い新にに源師多俊房の冬ポ原あ等の人介を披換ま÷起用せられ、綱紀を振肅して萬機を親裁せられる道を開かせられた。この時賴通は旣に宇治に隱退し、その弟〓通が關白であつたが、藤原氏の權勢は旣に昔日の面影を失つた觀があつた。かくして天皇は諸般の改革を進め給ひ、中にも特に莊園の整理に力を用ひさせられた。蓋し莊園の簇生は朝政の不振、地方の亂離等、總じて中央集權の萎微を導く重大な原因をなすものであつて、その弊害を除くことはこれまでも屢。企てられたところである。この頃皇室の御料は勿論、貴族の財政は主としてこの莊園に根據を置くものであつたが、天皇はこれが是正に努め給ふこととなり、先づ卽位の翌年たる延久元年(一七二九)に莊園整理の勅を下された。卽ち後冷泉天皇卽位の年たる寛德二年(一七〇五)以後の莊園を一切停止する事、またその以前のものと雖も、所據の文書不明なるものはこれを停廢する事を令せられた。次いで記錄所を太政官朝所に設け、莊園の文書を提出せしめ、これを調査してその整理に着手せられた。藤原氏の莊園たりとも、この手續を免れなかつたのであるが、賴通は宇治に在つてなほ隱然たる權勢を有し、文書を提出せず、ひとり賴通の莊園のみは除外して許されたといはれる。莊園の整理はこれを進めるに當つては、その他色々の困難に逢着したことは後に述べる如くである.天皇は延久四年(一七三二)御在位僅かに四年にして白河天皇に讓位あらせられ、時弊刷新のため上皇としてなほ政治を聽かんとの叡慮を懷き給うた第五章平安時代第二節政治の變遷一八三 第一編上世一八四ともいはれてゐるが、間もなく崩御あらせられた。白河上皇の院政白河天皇は御在位十四年にして應德三年(一七四六)皇子にまします堀河天皇に讓位あらせられると共に、院中にあつて政を聽かせ給うた。これ院政の始である。白河上皇は大治四年(一七八九)まで堀河天皇·鳥羽天皇·崇德天皇の御三代四十三年間院政を行はれ、次いで鳥羽上皇は崇德天皇近衞天皇·後白河天皇の御三代二十七年間、後白河上皇は二條天皇·六條天皇高倉天皇·安德天皇·後鳥羽天皇の御五代三十四年間に亙り院政を行はせられたために、攝政·關白は藤原氏代々その員に備はるのみであつて、著しくその權勢を失つた。上皇に奉仕する官司の組織は院廳と稱せられ、院廳には別當以下の院司が置かれまた北面の武士があつてその警固の任に當つた。而して朝廷の國務機關も亦政治の決裁を上皇に仰ぎ奉るに至つた。かくて院廳の權威は完全に攝關家の政所を壓倒し、中央の政令として院宣·院廳下文等が出づることになり太政官符や官宣旨等も院政を總べさせられる上皇の御意によつて發せられるに至つた。かくの如くして攝關家の政務は院に移り、これによつて臣下の手に委ねられた政權を皇室に收められたが、政治の成果は必ずしも庶幾された如くには擧らず、一面却つて政局を複雜ならしめ、遂に保元·平治の亂を生じ、武門の擡頭となつてその擅權の時代へ移ることとなつた。第三節海外との關係唐との通交唐に對する外交はこの時代の初期に於いてはなほ前代と著しい相違が見られなかつた桓武天皇卽位の初めは遺唐使の派遣もなかつたが、延曆二十年(一四六一)に至つてその議が起り。藤原葛野麻呂を大使に任じ、同二十三年に出發せしめられた。葛野麻呂は長安に入城し、唐の德宗に見えたが、唐は旣に昔日の隆盛を失ひ、藩鎭の跋扈、吐蕃の侵寇等によつて、その威令は國內に行はれない狀態にあつた。葛野麻呂は翌二十四年歸朝して具さに唐の國情を奏上した。平城天皇-嵯峨天皇·淳和天皇の御三代は朝政振興し、文運興隆の時代であつて、自主的機運の盛んとなれるに對し、唐は戰亂に苦しみつゝあつたので、遂に遺唐使派遣の第五章平安時代第三節海外との關係一八五 第一編上世一八六事はなかつた。次いで仁明天皇卽位あらせられるや、葛野麻呂の派遣以來三十年目たる承和元年(一四九四)藤原常嗣を大使とし、遣唐使派遣の準備が行はれ、同三年發船した。多くの留學生もこれに從ひ、人員は六百人以上に及んだが、一行は風波の難に遭つて阻止せられる事二度、同五年漸く渡航することを得た。大使の一行は往復共に難航を續けたが、遂に使命を果して、翌六年歸朝した。この時代にはまた唐の商人にして我が國に渡來して貿易を行ふものが尠くなかつた。その船が我が國に到れば、大宰府は彼等を博多にあつた鴻臚館に宿泊せしめてこれを京都に報じ、京都から派遣される交易唐物使の到着を待ち、かくして先づ朝廷との間に交易が行はれ、然る後に一般の交易が許される規定であつた。然るに唐物を珍重する當時の風潮は、屢〓この制規を破り權貴富豪等が價を顧慮せず、先を爭つてこれを求めたので、朝廷は禁令を繰返してこれを制止せられた。遣唐使の廢止と唐の滅亡承和の後、遣唐使の議は久しく起らなかつたが、この間求法の僧は商舶に便乘して渡唐すること尠からず、また唐商の來航するものもあつたので、唐の國情はその時々に我が國に傳へられた。就中宇多天皇の御代在唐の僧中瓘は書を唐商に託し、その國內が混亂に陷つてゐる旨を傳へた。然るに朝廷にては、同じ御代の寬平六年(」五五四)久しく中斷した遣唐使を任命せられ、菅原道眞を大使に、紀長谷雄を副使とせられた。道眞は中瓘が報ずるところの唐の國情と多大の犠牲を必要とする渡航の困難とを擧げ、遣唐の問題を再議せられん事を奏請し、よつて發遺に至らなかつた。その後再び使節を遣はされる機を得ることなく、結果より見れば、遂に承和の派遣を最後として、遣唐使は廢止せられたのである。聖德太子が始めて小野妹子を隋に遣はされて以來、寬平六年に至るまで二百八十七年である。遣唐使の廢止された寬平年間は唐に於いては昭宗の世に當る。この頃唐國の動搖は遂に收拾すること能はず、後に昭宗は汴(開封)の節度使朱全忠のために弑せられ、全忠は哀帝を立てたが、間もなく帝位を簒奪し汴に都して國を後梁と號した。時に我が醍醐天皇の延喜七年(一五六七)であつて、一時はさしも盛んであつた唐はこゝに至つて滅亡した。新羅との關係この時代に於いても我が國の新羅に臨む態度は前代同樣であつた。たゞ前代に屢〓問題となつた新羅の無禮のために、公の通交は遂に囘復されずし第五章平安時代第三節海外との關係一八七 第一編上世一八八て終つた。併しながら新羅人が時に我に歸化し、或は貿易を目的として來航するときは、我が國はこれらに種々の恩惠を與へ、むしろ保護を加へる態度をとつた。新羅の豪商にして政治的にも活躍した張寶高は、仁明天皇の御代承和七年(一五〇〇)使を我が國に遣はし、方物を獻じて貿易を求めたが我はこれに人臣境外の交なしと稱して方物を斥け、物資の交易を許し、使者には路糧を給して還らしめた。この頃新羅には內亂があり、その動搖は我が邊境を騷がしめる虞れを生じた。よつて同九年、大宰大志原衞は新無人は事を賣さに託して我が同情人気はんとすもももて、その入境を一切禁斷せん事を上奏した。これに對して朝廷は入境を禁斷するは事不仁に似たりと稱して、化を以てこれに臨む態度を放棄されなかつた。然るに新羅の不逞の輩はその國内の混亂に乘じて屢〓我が沿海に出沒した卽ち〓和天皇の貞觀十一年(一五二九)には、新羅の賊船が博多津に來り、掠奪を行つて逃走し、宇多天皇の寬平五年(一五五三)には、同じく肥前國を侵し、民家を燒いて逃走した。殊に翌六年には、四十五艘の賊船が對馬に來寇したが、對馬守文室善友はよく戰つて大いにこれを破つた。その後新羅は國內益〓混亂して收拾すべからざる狀態に陷り、遂に後百濟·高麗等の獨立を見るに至つた。殊に高麗は王建の創めた國で、次第に勢力を得、我が朱雀天皇の承平五年一一五九五)には、新羅を滅ぼし、翌年には半島を統一した。渤海との關係渤海はこの時代に至るも奈良時代と同樣の態度を以て我が國に朝貢した。桓武天皇の延曆十七年(一四五八)には、六年一貢の制を定められたが、渤海は六年一貢はその遲きを憚ると稱し、期間を短縮せられん事を請うたので、天皇はこれを許し、その期間を問はれなかつた。然るに淳和天皇の天長元年(一四八四)再びこれを制限し、改めて一紀一貢、卽ち十二年に一度の制を定められた。これ渤海の來朝は、實は貿易を目的とするものであるから、その使者を隣客或は國賓として迎へることによつて、國力を費すのは愚であると云ふ藤原〓嗣の意見を容れさせられたものであつた。渤海はこの後も必ずしも一紀一貢の制に從はないこともあつたが朝延は所定の態度を持し、期に相違する場合にはこれを責められた。なほ使節は鴻臚館に招かれ、詩人·文人と交驩をなし、時には豐樂殿朝集堂に宴を賜はることもあつた。かくの如く渤海は、遣唐使廢止の後、我と國交を修める唯一の國となり親善なる關係を續けてゐたが、唐の滅亡後間もなく、我が醍翻天皇の延長五年(一五八七)に、新たに第五章平安時代第三節海外との關係一八九 第一編上世一九〇勃興した契丹の耶律阿保機に滅ぼされた。阿保機は渤海の故地を東丹國と改め、その長子倍を封じて東丹王とした。宋高麗との通交この時代の中期に至り唐·渤海·新羅等相次いで亡び、東亞の形勢はこゝに一變したが、我が國は旣に消極的な外交方針を取つてゐたために、この變動も我に著しい影響を及ぼさなかつた。支那は唐亡びて後、五代の世となり、暫く亂離の狀態を續けたが、我が村上天皇の天德四年(一六二〇)宋の太祖が位に卽いて國內統一の基を確立した。この時北方に於いては契丹の勢力が盛んとなり、國を遼と號し、頻りに南進して宋と境を接し、互に相對峙する形勢を示した。この形勢は暫く繼續しただその移我が平家未想にしりすのの配肥によろこた女良の労カがこれを統合するに及び、國號を金と稱し、遼軍と戰つて大いにこれを破つた。かくて金の勃興は目覺ましきものがあつたので、宋は新たに金と結んで遼を挾擊する策を立て、以て遼の壓迫から免れんとした。遼は遂に金のために滅亡したが、やがて金は宋に壓力を加へ、頻りにこれを破るに至つたので、我が崇德天皇の大治二年(一七八七)宋は遂に汴京を捨てて都を杭州に遷した。これ所謂宋室の南遷である。かくの如く支那は政治的には不安な狀態を續けてゐたが、海路の交通は發達して、南海貿易も盛んに行はれ、宋·遼·金·高麗等は互に通商し、宋の文化は四方の國々に及んだのである。この時期に於ける海外使者の來朝を見るに、醍翻天皇の御代には、先づ後百濟の使者が來つて方物を獻じ次いで東丹王の使者も來朝し、朱雀天皇の御代には、江南に國を建てた吳越王の使者が頻りに來朝して通交を請ひ、また高麗の使者も始めて來朝した。かくして外交は漸く多事ならんとしたが、我が國はその何れに對しても修交を許さず、在來の封鎖的態度を維持した。然るに後一條天皇の寬仁三年(一六七九)に至り、我が國は突如として未曾有の外寇を受けた。卽ち刀伊の賊船約五十艘が我が近海に現はれ、對馬·壹岐の島々を焚掠し、進んで博多灣に入り、民家を燒き、狂暴を擅にしたのである。この時藤原隆家は大宰權帥として九州にあり事を京都に報ずると共に府兵を發し、地方の豪族を促し、善く戰つて賊を破つた。この後、賊は肥前の沿岸を劫掠したがまたも破られ、我が兵船の追擊を逃れて高麗の東海岸に退いた。後に高麗の使者は刀伊に劫掠された我が國の男女二百餘人を護送して來たので、此の時第五章平安時代第三節海外との關係一九 第一編上世一九二始めて刀伊といふのは女眞に外ならないことが判明した。宋船の渡來は旣に花山天皇の御代に始まつてゐる。その後頻りにその渡來が報ぜられ、我が國はこれに衣糧を給し、交易を許すなど、唐商人に對すると同樣であつたが、あまりに頻繁であつたために、これを制限する方針を取つた。併しながら宋との關係はこの後も密接の度を加へ、殊に白河天皇の御代、宋の神宗は錦·經卷等を我が朝廷に獻じたので、我が國も遂にこれに答へ、遣唐使廢止の後約百八十年にして支那との國交が再開せられた。たゞこの時の國交は專ら宋船の便によつて行はれ、我よりの遣船を第一義とした遣唐使の場合とは著しくその趣を異にするものであつた。而して宋との國交を囘復した平安末期には、また高麗との間にも盛んに通商が行はれ、時には我が商船の海外に進出するものもあつて、香料·藥品·陶器·錦典籍·什器等が多く我が國に輸入されたのである。第四節社會狀態及び經濟生活班田制の崩壞班田制度は、郡縣制による中央集權の基礎を固くするものであつたが、これを實施するには、戶口調査とそれによる賦課の徵集等、事務の煩雜があり、或は班給すべき田地が不足するなど、種々の問題が伴なつて來た。而してこの困難に乘じて擡頭したものは過去の土地私有意識の活動であつて、そのためにこの制度の前途には既に不安の陰が兆してゐたが、この時代に至つて、その傾向は一層著しくなつた。桓武天皇以來、朝廷では銳意班田の實施に努められたが、社會の實情は次第にこれが繼續を困難ならしめた。卽ち制度としては、依然六年一班、或は一紀一班と稱せられて、六年又は十二年毎に班田收授をなすべきであつたが、これを實際に徵するに、弘仁元年(一四七〇)班給を行つて後、次の班年は十八年後の天長五年(一四八八)であつた。これより十六年を經過して、承和十一年(一五〇四)には田地の調査が行はれたが、未だ班給せられるに至らず、實に天長五年より五十三年後に當る元慶五年(一五四一)に至つて漸く班給が行はれた。その次は延喜二年(一五六二)班田を行ふべき令が出され、この間また二十一年を經過してゐる。しかも班田不足のため既に延曆十一年(一四五二)に於いて、男の口分は令制の如く二段とするが、女の口分はその餘分を充第五章平安時代第四節社會狀態及び經濟生活一九三 第一編上世一九四て、奴婢は班給の限りでないとせられ、天長の班給には女は三十歩となり、承和にはそれが二十步と規定せられ、元慶に至つては京戶の女に對する班給を全く停止した。これ當時畿內男子の口分田は僅かに一段百歩を出ることが出來ず、以てその勞苦に酬いるに足らないと云ふ理由によつて、男子に加給せんがためであつた。以上は畿內の場合であるが、地方に於いては、或は五十年、或は六十年にしてなほ班田を行ふことなく、不課の戶多く田地を領し、正丁に對しても口分田を授け得ないといふ狀態にあつた。かくてこの制度は延喜の御代を最後として、その後實施された形跡がなく、遂に全く崩壞に終つた。莊園の發達令の土地制度は土地の公有を原則としたものである。卽ち口分田の受給者は一定の租稅を朝廷に納める義務があり、一代を限つて使用收益する權利を認められるが、これを處分することを得ないのであつて、かゝる口分田の性質は令の土地制度の基礎をなすものであつたといふべきである。然るに班田制度の實施に當つて、第一に逢着する困難は、一般人民の土地私有の欲望によつて班田收授の圓滑が妨げられ、班給すべき田地が不足することであつた。その結果墾田の開發が奬勵せられたが、その墾田も次第に制約を脫し、旣に前代に於いて永代所有が公認せられたのである。然るに墾田私有の公認に伴なひ、權門勢家は百姓を驅使して頻りに土地の開發に努め、百姓はために自らの生業を失ふことも尠くなかつた。その上この墾田は早くより處分權を認められ、私有地としての性格を有したが故に、その廣大となると共に、或は土地制度の上に、或は社會組織の上に、大なる變化が導かれ、こゝに莊園制の發達となつたのである。莊園はその意義を簡明にし難いものがあるが、要するに公地に對して私有地として立てられた地域であつて、元來は國司の行政圈外に獨立したものではなかつた。而して社寺·權門勢家はその力を以て宏大な土地を開發し、或は百姓の土地を買得し、その他種々の關係によつて、各地の田園を次第にその勢力の下に併せてこれを莊園に加へる傾向を生じて來た。しかもそれらの莊園の中には官省符の莊と稱し、太政官或は民部省の保證を得て租稅を免除されるものがあり、後にその裁量が國司の手に委ねられるに及び免免の莊園は激增するのみであつた。更に國司不入と稱し、一切國司の干渉を受けない莊園をも生じた。かくの如くして莊園の增加は國用の不第五章平安時代第四節社會狀態及び經濟生活一九五 第一編上世一九六足を齎す重大な原因をなすものであつたから旣に述べた如く、朝廷は常にこの莊園の整理に力を注がれてゐたのである。然るに莊園の整理はこれを結果から見れば、却つて地方官をしてその權力を濫用せしめ、私利を貪らしめる機會をなした場合があつた。また地方の土豪は治安の紊亂によつて所領を侵されることがあり、かゝる禍から免れんがためにその土地を中央の有力なる權門·社寺の名に託して莊園に加へ、自己は權門·社寺の保護下に立つ傾向が顯著となつた。これによつて莊園は次第に增大し、その組織は愈。、雜雜になつて來た。かくして、莊園の組織はこれを一樣に論じ得ないが、本來の土地所有者は地主·領主などと呼ばれ、或は自ら莊官·莊司の地位となることも多く、その保護者の地位にある諸院·諸宮·貴族·社寺等は本所(本家)或は領家と呼ばれる。而して領主·地主·莊司等はこの本所領領に對して、毎年所定の年貢を納めなければならなかつた。從つて本所·領家は所屬の莊園に對し。此所所を置き、また莊司·莊官或は沙汰人等と呼ばれる吏員を置いて、その管理に當らしめた。なほ莊園には多くの莊民があり、莊民の中にも階層關係があつた。而して班田の制度が頽廢して來たことに對應して見られるかくの如き莊園の發達は、社會組織の變化を齋すものとして、歷史上實に重大な意味を持つも〓のといふべきである。しかも一方公地は國衙領または公領と稱せられ、次第に蠶食せられる狀態にあり、これを治める國司は多く遙任といつて國衙に赴任せず、國衙は留守所と稱して在廳官人が支配し、公領の實態は國司の領地たるの觀を呈するに至つた。貴族の生活貴族發生の契機は旣に令制の中に孕まれてゐたが、この時代に藤原氏一門は異常に發展し顯要の地位が漸く固定すると共に、また權門勢家として頻りに莊園を吸收することに努め、こゝに經濟的根據を求めた。かくして公卿等は朝政に參與すると共に、自ら多數の莊園を領して大なる經濟力を有したために、その權勢は愈。安定を加へるに至つた。貴族の生活はその邸宅と社寺とを中心として展開せられた。殊に攝關の常置せられる時代となれば、攝關家は政務を執る場所ともなり、その邸宅は益、宏壯を極め、兼通の堀河の邸宅、兼家の東三條の邸宅、道長の土御門の邸宅等は最も著しいものであつた。これらの邸宅には時にその出であらせられる中宮や女御が皇子と共に起居第五章平安時代第四節社會狀態及び經濟生活一九七 第一編上世一九八せられることがあつた。天皇も内裏の炎上、或は方達の風習等によつて、貴族の邸宅に遷御あらぜられることもあつて、これを里內裏と稱した。社寺もまた神事·佛事の盛んとなるに伴なひ、貴族の生活と一層深き關係を保つに至つた。當時の年中行事の多くは神佛に關するものであつて、石〓水八幡宮·賀茂兩音社·春日神社·平野神社等は、貴族の生活と特に深い關係があつた。寺院にあつては東寺·西寺·延曆寺等の寺々が奈良の諸大寺と共に貴族の生活と密接な交渉を有するに至り、また貴族の發願によつて京都を中心に多くの寺々が新たに建立せられたのである。卽ち忠平の法性寺、兼家の法興院、道長の法成寺賴通の平等院等はその主なものであつて、これらの寺院は一面貴族の別業としての意義を有し、貴族の生活はこれらの中に於いても展開せられた。要するにこの時代の文化はかくの如き貴族生活を母胎として發展したのである。生產の增進農業技術の發達は、土地の開墾と相俟つて著しく生活資源を豊かにした。朝廷は殊に農業政策に留意せられ、天長六年(一四八九)には諸國に詔して水車を作り、以て灌漑の便に備へしめられ、承和八年(一五〇一)には稻の乾燥を早くし、腐損12を免れしめんがために、稻機の利用を國々に奬勵せられた。而して池·溝·堤防の修理には特に力を注がれ、國々に修理池溝料を設けてこれを助成せられた。また僧侶のには百姓の腦利增進のあに公益事業を行うこものが動くくん町岐國堤防修理は空海がこれを督するに及んで始めて完成したと傳へられてゐる。水田が古く發達したのに對し、陸田の利用は未だ十分に行はれなかつた。朝廷は前代以來頻りに桑·漆·麥粟等の栽培を奬勵せられ、中にも特に麥は飢饉に備へるものとして大いにその增產を圖られた。棉·茶の試植も行はれたが、これらは未だ廣く普及するには至らなかつた。かくの如くこの時代の前期には、勸農の政治が行はれ、その結果は農業生產の增加となり、これが私有地の發達による富豪の發生と相俟つて、また手工業の發達を促し、國民の生活程度は向上した。手工業が早く普及した狀態は、令の制度に於ける調·庸の中に絹·純·絲·綿·布·紙その他種々の手工的生產品のある事實にも徵せられるが、延喜には一同多くの品目が発行とれ市にも難該修士王辭南勢のが加へへことが注目せられる。また令の制度に依れば諸官廳に於いても、これらの工藝品の第五章平安時代第四節社會狀態及び經濟生活一九九 第一編上世二〇〇生產が行はれ、或る期間これに奉仕する民として、品部·雜戶が存在したが、この時代になると、僅かにその一部を雜色人として殘すに過ぎず、品部·雜戶の多くは解放せられて、專ら地方生活を送ることになり、自然莊園に流入する情勢にあつた。かくして莊園の發達は自給自足經濟に一つの組織を與へたものといふべく、かかも生活の向上は專門技能者の發生を促し、その優秀な工藝品によつて貴族や富豪の生活は修飾せられたのである。商業の發達生產の增進はまた商業の發達を促した。その中心は平城京の場合しの如く、京都に於ける東西兩市であつて、こゝには各、品目を異にする多くの市隰があり、市人がその販賣に從事した。初めは東西兩市を竝び立たしめる方針が取られたが、市街は地勢上東に發展したので、兩市の間に市勢の變化が見られた。延喜式に據れば、東市には五十一躍西市には三十三隱あり羅錦·筆擧藥兵具等は東市のみに置き、錦標主象季節半等は西市のみに置き越庭交御許東米業集子小心生魚にこれを置いた。そして兩市の開市は每月十五日以前は東市、十六日以後は西市と、交互に行はれたのである。なほ地方では各地に市の立つことは在來と同樣であつて、當時京都に聞えてゐた:あとしては夫和の区山椒市飛鳥の郵便の市攝境の飾磨の市ときがげられる。また交通の發達に伴なひ、その要衝には都市の成立も見られるやうになつた。就中、淀川の要津である蟹島·神崎·江口·河陽淀等の地は、商賈軒を竝べ、船船相連なつて、屢〓その股賑が謳はれてをり、博多·敦賀等は海外交通の關門として後世に永くその繁榮を繼續した。そしてこれら水陸の要衝には新たに津屋なる商業機關の發達を見た。津屋とは手數料·倉敷料を取つて貨物を保管し或はこれを販賣する機關であつた。貨幣の流通貨幣の流通は必ずしも隆盛とはならず、その鑄造高も多くなかつたが、新鑄は屢〓行はれてゐる。卽ち桓武天皇は當時私鑄錢が多く世に行はれて混亂を來たしてゐる狀態に鑑み給ひ、延曆十五年(一四五六)隆平永寶を鑄造せられ、これより村上天皇の乾元大寶に至るまでこの時代を通じて九種の錢貨が造られた。京都·畿內地方にあつては幾分貨幣の使用に熟し、その利便を感じつゝあつたが、地方は容易にこれに慣れず、徒らに死藏されて用をなさない狀態にあつた。よつて朝廷は蓄錢第五章平安時代第四節社會狀態及び經濟生活二〇一 第一編上世二〇二を奬勵して錢貨尊重の念を養はんとせられた從來の方針を改め、むしろこれを畿内に集めて貨幣の不足を補はんとせられ、延曆十七年(一四五八)には諸國吏民の錢を蓄へる事を禁じてこれを朝廷に納めしめ、同十九年には蓄錢によつて位を授ける法を廢せられた。その後も屢〓同樣の禁令を繰返されたが、その間に次第に蓄錢の風習も改まり、米穀·布帛を仲介とする賣買·交易の盛んなる中にも貨幣の流通は畿內から次第に地方にまで及びつゝあつた事が窺はれる。然るにこの時代の中頃からは、貨幣の普及が十分ならざる上に、中央集權の衰微によつて、錢貨の鑄造は村上天皇の御代を最後としてその後行はれなくなつた。しかも錢貨は長くこれを使用する間に缺損し、或は磨滅して、その價値が低下するので、世人は皆その使用を嫌ふに至つた。たゞ宋との通商の盛んになるに及び、新たに品質よき宋錢が多數渡來して民間に行はれ、商業の發達を助けつゝあつたことは注目しなければならない。第五節武門の興起豪族の發生大化改新は氏族の權勢を打破することに一つの重點が置かれ、律令もこの精神を重んじたが、令制實施の後も、古來の地方氏族の勢力は種々の形に於いて保存せられた。卽ち國司は新たに中央から派遣されたけれども、郡司は才用同じくば先づ國造を取れとあつて、多く地方氏族の有力者が採用されたのである。これらが平安時代に於ける土地制度の變遷に乘じ新たに莊園の領主となり、地方の豪族として現はれるに至つた。その上、中央の權勢家が氏族的に固定して來たため、志を得ざる諸王·諸臣及びその子弟は京都を出でて地方に走り、庶民の間に交つて人望を集めるに至り、これ亦地方の豪族となる風潮を生じた。朝廷では地方混亂の原因はかゝる事情によるとして、王臣諸氏の畿外に出づる事に對し、旣に平安初期に於いて度々禁制を加へられた。併しながら禁制の效果は十分に擧らず、中央の威權は綱紀の弛緩によつて振るはなくなり、豪族は地方の治安を維持するために武力を必要とし、ために武士としての性格を具へるに至つた。かくして新たなる地方豪族の發生は、武士の興起として、特に重大な意味を持つのである。同樣の事實はまた國司等の地方官一般に就いても見られる。國司が在職中その第五章平安時代第五節武門の興起二〇三 第一編上世二〇四權力を私して多くの墾田を營み、解任の後もその國に留住して私利に沒頭する傾向は、旣にこの時代の初めから存してゐた。彼等は更に郡司等と婚姻を結んで地方に根强い勢力を扶植し、これ亦土着して地方の豪族となるものが尠くなかつた。兵制の頽廢中央政令の不徹底は、また浮浪民の發生と群盜の蜂起とを促し、これによつて百姓の憂は絕えなかつたが、當時令の兵制は旣に頽廢して、治安を保ち得なくなつでゐた。こゝに於いて桓武天皇は延曆十一年(一四五二)兵制の改革を行はせられ、大宰府管內·陸奧·出羽·佐渡等の邊要の國々を除いて、他は徴兵制度を止め、軍團をこんでい廢し、兵士に代へるに郡司の子弟を以てせられた。これを健兒と呼ぶ。併しながらこの時の健兒の數は凡て三千餘人であつて、如何に精兵たりとも、その力は微々たるものであつたといはねばならない。然るにその後國々の健兒も次第にその性能を失つたので、〓和天皇の貞觀八年(一五二六)には國司に對してよくその人を選んで試練を加ふべきことが令せられた。一方大宰府に於いては淳和天皇の天長三年(一四八六)兵士を廢して選士を置き、精兵主義を採つたが、その效果は擧らず貞觀年間新羅の賊船を追討するに當つて、選士はその無力を暴露した。かくてこの時代の中期以後にもなれば、兵制は頽廢その極に達し、國々の治安を保ち得ないのみでなく、非常の備へとするにも當らない狀態となつた。それ故に地方に亂が起るときは、主としてつゐぶ有力なる地方武王が追捕使神領使等を拜してての鎖定に當るを例とかくして地方の治安は同じく地方の豪族に憑んでこれを維持する外なきこととなつた。莊園の武裝地方官の中にはまたその權力を私し、百姓に誅求を擅にするものも尠くなかつた。一條天皇の永祚元年(一六四九)尾張國の郡司·百姓が國守藤原元命のげ非行三十一箇條を擧げて愁訴してゐるが如きは、その著しい例である。卽ちこの解ごんぐんは國中の不在台商業家業会費の不傾不幸の證くられある子弟郎至るまで、夷狄·豺狼の如きものであるとして、朝廷に裁斷方を陳訴してゐる。この頃には國司の外にまた奸濫の輩が徒黨を組んで横行することがあり、莊園の領主は土地·莊民の保全のために武力を養ひ、且つそれと共に中央の權門勢家社寺に對して從屬の關係を結んで、自己の勢力に背景を求めることも必要であつた。かくして地方の領主は次第に武士として現はれ、同時にその武士は主從の結合を固くしてその組織を擴大强化した。第五章平安時代第五節武門の興起二〇五 第一編上世二〇六源平兩氏武士の組織が擴大すると共に、これを率ゐる武門として先づ擡頭したものは源平兩氏であつた。源平兩氏は、何れもこの時代の初期に皇族から新たに臣下に降つて賜姓されたものの流れであるがその系統は一樣ではない。その中には藤原氏に相伍して大臣納言の顯官に昇るものもあつたが、早く方向を轉じ、地方に下つてその勢力を養ふものも尠くなかつた。先づ平氏は桓武天皇の皇子葛原親王の流れを汲み、その一族は早く東國に勢力を扶植してゐたが、その間からは朱雀天皇の御代たる承平天慶の頃に將門の擡頭があつた。將門は頻りに地方の豪族と戰ひ、伯父平國香を殺し、下總·常陸を席卷して、その勢當るべからざるものがあり、遂に坂東八國を攻略して謀叛の旗幟を明らかにした。一方西海には海賊橫行し、前伊豫掾藤原純友がこれを率ゐ、その勢侮り難きものがあつた。かくて東國·西海同時に動搖し、事態は容易ならざる形勢となつたために、天慶三年(一六〇〇)朝廷は遂に東海東山·山陽三道に追捕使を任じ、また參議藤原忠文を征東大將軍となし、夫々その任に赴かしめられた。然るに忠文等の到着するに先立つて、將門は下野押領使藤原秀〓及び國香の子平貞盛によつて殺され、東國はこゝに平定した。純友に對する追捕使は小野好古を長官とし、源經基を次官としたが、なほ純友は四國·九州に亙つて暴威を逞しくしたので、翌年更に藤原忠文を征西大將軍に任ぜられた。然るに忠文の發向するに先立つて好古等は大いに賊を破り、遂にこれを平定するに至つた。この兩亂は、大事に至らずして鎭定したけれども、地方亂離の表面化を示せる事件として重大であり、東國西海に扶植された地方豪族の勢力は、これを機會に朝野の關心事となつた。而してこの叛亂鎭定に功のあつた源經基·平貞盛の勢力はそれより大となつて、源平兩氏勃興の端はこゝに開かれた。源經基は〓和天皇の皇子貞純親王の子と傳へられ、武藏介として在任してゐたが、將門が事を起すに及び、京都に上つてその狀を告げ、叛亂鎭定の後は大宰權少貳に任ぜられ、西國の經營に當つた。經基の子には滿仲があり、左馬助として京都にあつたが、偶〓冷泉天皇の御代、源高明が謀反を圖るや、滿仲はこれを內〓して朝廷より賞せられ、これより源氏は藤原氏とも結ぶことになり、その名大いに顯はれた。滿仲はその後諸國の國守に歷任し、晩年を攝津の多田庄に送つたが、その子賴光·賴信に至つて中央との關係は一層緊密となつた。殊に賴信は長元三年(一六九〇)關東にて叛した平第五章平安時代第五節武門の興起二〇七 第一編上世二〇八忠常追討の勅を拜し、子賴義と共にこれを討つて大いにその功を賞せられた。關東にては將門が誅せられて後も、平氏一族の勢威はなほ大なるものあり忠常はこれに驕つて暴逆を事としたが、その平定せられて後平氏の勢力は漸く衰頽して、賴信·賴義の威信がこれに代り、源氏の勢力は爾來東國に扶植されるやうになつた。奧羽の兩役東國に於ける源氏の勢力は、前九年·後三年の兩役によつて更に發展することとなつた。さきに陽成天皇の御代藤原保則·小野春風が出羽の蝦夷を皇化に懷けて以來、蝦夷の問題は殆ど終熄し、東北はそれより無事であつたが、その間に俘囚の長として、出羽方面には〓原氏、陸奥方面には安倍氏の勢力が擡頭してゐた。殊に後冷泉天皇の御代、安倍賴時は朝命を奉じなかつたので、永承六年(一七一一)源賴義を陸奥守兼鎮守府將軍に任じてこれを討たしめられた。賴時は賴義の威名に恐れて一時降つたが、再び叛してやがて誅せられ、長子貞任がその殘黨を率ゐて猖獗を極め、その鎭定は容易でなかつた。然るに賴義は康平五年(一七二二)に至り、出羽の〓原光賴·同武則等の援けを得て勢漸く振るひ、衣川·鳥海等の諸柵を陷れ、遂に厨川柵に迫つて貞任を誅し、その弟宗任·正任等を降した。朝廷は賴義及びその子義家の功を賞せられ、〓原武則を鎭守府將軍に任ぜられた。世にこれを前九年の役と稱する。〓原武則は鎭守府將軍に任ぜられるや、安倍氏の舊領六郡を傾して威勢大いに揚つた。然るにその後〓原氏の一族に內訌あり、源義家が白河天皇の永保三年(一七四三)陸奥守に任ぜられて入國するや、武力を用ひてその內訌を斷たしめた。然るにやがてまた〓原氏の内部に於いて〓原家衡·藤原〓衡の對立を生じ、應德三年(一七四六)家衡は兵を發して〓衡を攻めたので、〓衡は走つてこれを義家に訴へ、その援助を仰ぎわいだ。義家は家衡を攻めたが、家衡は叔父武衡と共に金澤柵に據つて頑强に戰つた。併しながら堀河天皇の寛治元年(一七四七)に至り、柵遂に陷り、武衡·家衡は誅せられ、〓原氏の滅亡となつて、戰亂は漸く止んだ。世にこれを後三年の役といふ。この役の後、藤原〓衡は〓原氏に代つて鎭守府將軍に任ぜられ、六郡を領して、新たに館を平泉に營み、基衡·秀衡の三代に亙つて京都の文化を取容れ、その富强を誇つた。後三年の役は朝廷に於いて私闘と見做されたが、前九年·後三年の兩役によつて、中央の文化が遠く奧羽の北部に及ぶ端〓が開かれると共に、源氏の恩威は廣く東國武士の間に浸潤し、後に源賴朝によつて開かれる鎌倉幕府の地盤はこゝに固められた第五章平安時代第五節武門の興起二〇九 第一編노世二二のである。源氏の勢力がかくの如く發展したのに對し、平氏は忠常の亂後振るはず、その東國に於ける根據は源氏によつて侵され、畿內の勢力に於いては甚だ微々たるものであつた。しかし、その間にあつて貞盛の子維衡あり、その子孫が一門の中心となつて榮華を極めるに至るのである。寺院と儈兵源平兩氏が武門として興起しつゝある時、これに關聯して、寺院を中心として僧兵の活動が現はれたことも注目せられる。元來寺院は、宏大な莊園を擁する點に於いて、權門勢家や豪族と同樣の性格を有した。さればその勢力維持に武力を必要としたが、他方には宗門上の爭に備へて武を養ひ、法城守護のためと稱した。また寺院の經濟的發展と共に、僧侶の數が次第に增加し、同時に寺院內部の生活も著しく紊れて來たことが注目せられる。醍醐天皇の御代の三善〓行意見封事に據れば、當時諸寺の得度者は年に二三百人に及び、その半數以上は皆邪濫の輩であるといひ、或は課役を免れんがために自ら髪を切つて法服を着けた百姓が非常に多く、かくの如き輩は皆家に妻子を蓄へ、口に腥羶を啖ひ形は沙門に似て、心は屠兒の如しといつてゐる.かゝる趨勢であつたから、寺院に於いても、兵仗を帶び武を辨へる僧侶が現はれるに至つたのであつて、これが卽ち僧兵である。僧兵は時には地方官や武士と戰ひ、または寺院相互間に、或は寺院內部に黨派をなして相鬪ひ、次第にその兵力を發展せしめた。所謂南都北嶺の僧兵と稱する中にも延曆寺と興福寺のそれは特に有名であつて、屢〓神輿·神木等を奉じて朝廷に嗷訴し、或は朝臣を呪咀するなど、狂暴の限りを盡くした。僧兵のかゝる狂暴に備へるために、朝廷は武士の力を用ひて、京都の治安を維持せしめられた。かくて僧兵の亂行は武士を京都に導き、朝廷或は院のもとに參ぜしめる一原因をなした。保元の亂武士の興起は更に歷史の轉換を導く機會を相次いで生ぜしめた。その最初のものは保元の亂である。保元の亂の原因は朝廷及び藤原氏の各〓の內部に於ける勢力の對立に兆したものである。殊に藤原氏の內部に於いては、忠實とその子忠通、忠通とその弟賴長との間に不和がありそれが遂に權勢の爭奪を中心として爆發したのである。而してこの問題を解決するためには武力を必要とし、これに誘はれたのが源平の武士であつた。武士は貴族の手先たる地位にありながら、政權の第五章平安時代第五節武門の興起二一一 第一編上世二一二歸趨を決する主動力となつたのである。源氏は義家の後、その子義親·義國は罪を得、その中義親は鳥羽天皇の嘉承三年(一七六八)追討使平正盛のために誅せられた。また一族の間にも內訌があり、義親の子爲義が家を繼いでゐたが、その威望は旣に義家時代の隆盛を見ることが出來なかつた。平氏はこれに反し、正盛が出づるに及んで、白河上皇の御信任を得、義親追討の功を賞せられて、漸く勃興の機運に向かつた。次いでその子忠盛は才略に富み、白河上皇鳥羽上皇に重用せられ屢、功を立ててその武名を謳はれ、また特に鳥羽上皇の御願になる得長壽院を建てた功によつて內昇殿を許され、正四位上刑部卿にまで進んだ。而して正盛·忠盛二代に亙り、平氏は西海方面の海賊討伐を命ぜられ、これによつてその勢力を西國に扶植するに至つた。かくして忠盛の子〓盛のときに至つて、平氏の威望は遙かに源氏を凌いでその全盛時代を現出したのである。後白河天皇の保元元年(一八一六)鳥羽上皇崩御あらせられるや、公卿內部に於ける對立は遂に暴露した。鳥羽上皇の御信任厚かりし關白忠通は平〓盛以下の武士を召し、崇德上皇の御信任ある左大臣賴長は源爲義以下の武士を召した。源平兩氏も各〓内部に於いて分れ、爲義の二子賴賢·爲朝は父に從つたが、長子義朝は〓盛と行動を共にし、平氏にては〓盛の叔父忠正は爲義の側に參じた。骨肉相食むこの醜き爭は忠通方の勝利となつて賴長方は敗れた。賴長は大和に逃れんとしたが流矢に中つて奈良坂にて歿し、崇德上皇は讚岐に遷り給ひ、爲義·賴賢忠正等は斬罪に處せられ、爲朝は伊豆大島に流された。同時に朝廷は賞を行つて〓盛を播磨守に、義朝を左馬頭に任ぜられた。平治の亂この亂の後、後白河天皇は親政を行はせられ、藤原通憲(信西)を用ひて、或は記錄所を設け、或は大內裏を造營し、その他朝儀を再興せられるなど皇威の恢弘を圖らせられた。保元三年(一八一八)二條天皇卽位あらせられ、後白河上皇は院に於いて政をみそなはし、同時に忠通も關白を罷めてその子基實がこれに代つた。この頃上皇の近臣に藤原信賴あり、信西のために官職の昇進を妨げられたのを恨んだ。また義朝は平〓盛の威勢日に盛んであつて、その子重盛までも殿上人の列に加はれる時世に快からず、源氏の再興を圖らんとしたが、同じくこれを妨げた信西に怨みを抱いてゐた。よつて信賴は義朝と結び、平治元年(一八一九)〓盛父子の熊野詣の不在に二一三第五章平安時代第五節武門の興起 第一編上世二一四乘じて遽かに軍を起し內裏に於いて任官の儀を請ひ奉り、信賴は大將となり、義朝は播磨守となつた。信西は逃れたが、發見されて自害した。一方〓盛は往詣の途にこの變を聞いて歸洛し、先づ天皇·上皇を內裏より六波羅の私邸に迎へ奉り、次に信賴·義朝を攻め、六條河原の戰に於いて大いにこれを破つた。かくして信賴は斬られ、義朝は東國に落延びんとして尾張にて殺され、その子賴朝以下一族夫々捕へられて罪に服した。源氏の勢力はこゝに一掃せられ、平氏は愈〓時を得るに至つた。〓盛の榮達と擅恣後白河上皇は〓盛の妻の妹滋子を名させられ、淫子は憲仁親딸王を生みまゐらせた。〓盛はついで仁安元年(一八二六)內大臣に進み翌二年には從一位太政大臣に陞つたが間もなく病のために辭任し、入道して淨海と號した。併しながら〓盛の榮華はこれを以て終つたのではなく、同三年憲仁親王卽ち高倉天皇の卽位せられるに及び、〓盛の女德子は入內して中宮となつた。at而して治承二年(一八三八)中宮が言仁親王を生ませられるや、親王は皇太子に立たれ、同四年皇位に卽かせられた。卽ち安德天皇にまします。また平氏の一門は夫々要路を占めて、愈。藤原氏に代るべき地位に上つた。この頃政治は院に於いて行はれてゐたが、平氏の權勢は遂に院政の前途を脅かさんとする氣配に進んで行つた.後白河上皇の側近等は〓盛の擅恣を抑へんとし治承元年には藤原成親等が洛東鹿ケ谷に會合して密謀を運らしたけれども、事露はれて夫々罪に處せられた。これより〓盛は愈〓狂暴を恣にし、殊に同三年には重盛らの死に伴なつて、所領の問題から院及び藤原氏と確執を生じ、武士を率ゐて福原より上洛し、朝廷に迫つて藤原基房の關白を解き、太政大臣藤原師長以下の官を褫つた。續いて上皇を鳥羽殿に移し奉り、京中の動搖を後にして福原に引上げた。こゝに於いて後白河上皇の院政は廢せられた。〓盛のかゝる擅恣と不臣の行動とは、平氏に對する世の反感を激發し、やがて久しからずして沒落する原、因を自ら招いたのである。平氏の沒落平氏討伐は、源賴政の密謀によつてその端〓が開かれた。賴政は〓和源氏の流れを汲み、〓盛の推擧を受けて三位にまで進んでゐたが、密かに心を源氏の再興に致した。〓盛の專横極まつて、世の反感彼に集まるを見るや、擧兵の計畫を또進め、治承四年(一八四〇)四月、後白河上皇の皇子以仁王を奉じ、平氏追討の令旨を請う노てこれを諸國の源氏に傳達した。圍城寺與福寺の染徒も亦これに應じたが、事破れ第五章平安時代第五節武門の興起二一五 第一編上世二一六て王は園城寺に逃れ、更に賴政と共に南都に向かはれる途中、賴政は宇治平等院に戰死し、王は山城の井手に薨ぜられた。しかし南北の衆徒は益、動搖し、諸國に源氏の蜂起が傳へられ、平氏の前途は漸く多事ならんとした。この時〓盛が早くより別業を營んでゐた福原への遷都が突如として行はれた。福原は瀨戶內海の咽喉を扼する要津であるから、平氏はこゝを據點にしてその勢力を維持せんとしたのである。然るに福原遷都は、却つて世の動搖を惹起し、これまで沈默してゐた延曆寺の衆徒までもこれに反對して、還幸を奏請する情勢であつたために、僅か半歲にして、十一月已むなく都を京都に復された。これより先、以仁王の令旨によつて諸國の源氏が蜂起した中にも、特に注目を惹いたものは、平治の亂によつて伊豆に移された賴朝の擧兵であつた。賴朝は關東在住の累代の家人を糾合し、附近の國々を靡かせてその勢力侮るべからざるものとなつた。こゝに於いて平氏は賴朝追討の宣旨を請ひ奉り、平維盛を大將として軍を東國に遣はした。賴朝はこの頃鎌倉に入つたが、陣を駿河に進め十月富士川を挾んで相會するや、平氏の軍は戰はずして潰走し、維盛以下なんら爲すところなくして京都に歸つた.しかもこの頃、信濃には源義仲の擧兵があり、南都及び園城寺の衆徒は平氏に反抗する氣勢を示して動搖熄まず、平氏の賴める延曆寺もその勢力分裂し諸國の形勢は甚だ平氏に非なるものがあつた。かゝる情勢に焦慮した〓盛は、この年の暮、先づ園城寺を燒き拂ひ、次いで平重衡を南都に派遣し衆徒と戰つて東大·興福の兩寺を燒拂つた。然るに平氏の頽勢は覆ふべくもなく、翌五年正月には高倉上皇崩御あらせられて後白河上皇の院政が復活し、次いで閏二月〓盛歿し、平氏の運命はその子宗盛に託された。ま壽永二年(一八四三)五月義仲は平氏の軍勢を越中の礪波山に破り、七月進んで近江に入り、比叡山に陣して京都を睥睨した。また義仲と行動を共にした源行家は分れて伊賀より大和に出で、共に京都に攻め入る情勢となつたので、同月宗盛は急ぎ都落を決し、安德天皇を奉じて西國に向かつた。よつて義仲·行家は相次いで京都に入つた。然るに義仲及びその軍勢は京都に於いて狼藉の振舞を重ねたので上皇は漸く義仲を厭はせられ、追討の旨を鎌倉にゐた賴朝に傳へられた。賴朝はこゝに於いて第五章平安時代第五節武門の興起二一七 第一編上世二一八二弟範賴義經をして軍を率ゐて西上せしめた。兩人は三年正月、義仲の軍を各地に破つて入京し、義仲は北陸に逃れんとして範賴の軍と會戰し、近江の粟津に敗死した。次いで範賴·義經は西下して平氏を攝津一ノ谷に襲ひ、これを西海に走らしめた。その後義經は更に讚岐の屋島を衝いて平氏の軍を破つた。平氏は遂に長門に落延びたが義經の追擊銳く平平盛等必死の防戰もその效なく、遂に壇ノ浦に滅亡した。時に壽永四年(一八四五)三月であつた。第六節平安時代の文化神祇の祭祀固有文化の傳統に對する自覺は連綿として保たれた中にも、先づ注目すべきは神祇の祭祀が重んぜられたことである。桓武天皇は淳風を往古に追はんとの聖旨を宣はせられ、親政を行はれると共に神祇制度を振肅して祭祀を嚴修し、以て天下の治平を冀求あらせられた。また延曆十七年(一四五八)には祈年祭に幣帛を奉られる制に就いて、その遠隔の地にある神社には夫々その國の物を以て幣帛となすことを許し、以て國幣の制を開かせられた。この後も御歷代は神を敬ひ給ふこと敦く、諸國の主なる神社に或は神階を授け、或は官社に列せられることが盛んに行はれた。また仁明天皇は「敬神如在、視民如子、」と宣はせられて諸國の神社に修造を加へることを命じ給ひ、〓和天皇も同樣諸社の修造を仰せ下された。祭祀の制度はかくて益、完備に向かひ、延喜式にはこれに就いて詳細なる規定が擧げられてゐる。卽ち延喜式に據れば、官社として祈年の奉幣に預る神社は凡て三千百三十二座あり、うち大社が四百九十二座であつて、他の二千六百四十座は小社である。これらの官社はまた官幣に預る社と國幣に預る社とに分れ、前者は京都·畿內の神社全部及び諸道の重要なる神社であつて直接神祇官の頒幣を受け後者はその他の諸社であつて神祇官に代り國司が奉幣するものである。就中官幣に預る大社は相邻のの月。天天新音等の紀もも期待に預り特に親ばのあんぜられた。官幣·國幣に預る大小の官社は何れも神祇官の神名帳に登載せられこれが延喜式にも收められてゐるが故に、當時の官社を一に式內社とも呼ぶ。かくの如く恆例の祭祀に奉幣される官社は國々に遍く行き互つたがなほ恆例の第五章平安時代第六節平安時代の文化二一九 第一編上世二二〇祭祀以外にも、國家の大事や天變地異に際しては屢〓〓臨時の奉幣が行はれた。そしてかゝる奉幣の行はれる間に、伊勢の神宮を始め特に厚き朝眷に浴する若干の神社が自ら固定するに至り、この時代の後期に入つて遂に二十二社の制を見ることとなつらた。卽ちそれは伊勢の神宮及び石〓水·賀茂·松尾·平野·稻荷·春日·大原野大石上·大和·廣瀨·龍田·住吉日-吉梅宮古田·廣田·祇園·北野丹生川上貴布禰の諸社であつて、その地域は京都·畿內及びその近國に限られてゐる。また既に外來の諸文化を完全に同化包容した國民精神は、この時代に於いて神祇觀念に新しい境地を開いた。就中著しいものは神佛の習合であつて、その萌芽は旣に奈良時代に見られるが、平安中期頃より盛んに本地垂迹說が唱道せられるに至つた。これは卽ち個々の神に就いて、その本地としての佛·菩薩等が垂迹してその神に化現するとなすものであつて、神佛を同一體とする思想である。この本地垂迹說は中世に入つて益、發展し思想界に重要なる地歩を占めるに至るのである。國史の撰修奈良時代に於いては我が國家の由來を究めんとする國家的自覺のもとに古事記·日本書紀が編纂せられたが、この時代に於いても古い時代を省みる意識が强くまた前代を繼述して官撰の史書が相次いで撰修せられた。先づ國家の由來に對する關心は日本書紀の講究に見られる。書紀の講筵はさきに書紀の撰修せられるや一度行はれたが、その後久しく廢絕してゐたのを、嵯峨天皇の弘仁四年(一四七三)に至つて復活せられ、それより世々の慣例となつて屢〓行はれた。その講草の一部は日本紀私記と稱して今日に傳へられてゐる。氏族には各〓、皇室及び氏の祖先に關する傳承があつたが、齋部廣成は自家の所傳中、國史に洩れたるものを錄して平城天皇の大同二年(一四六七)これを上つた。この書は古語拾遺と稱せられ、肇國以來の歷史の中に於いて、齋部(忌部)氏の祖太玉命以來その代々が皇室に仕へ奉つた事蹟を敍べたもので、古史の〓究に貴重なる文獻である。また嵯峨天皇は桓武天皇の御遺志を繼がせられ、當時紊れがちであつた姓氏の由來を正さんとして、萬多親王以下に命じ、京都及び五畿内の諸氏姓について夫々の出自を記さしめられた。これによつて撰上せられたものが、新撰姓氏錄三十卷である。この時代の初期にはまた日本書紀の後を承けて國史が相次いで撰述せられた。令制によれば中務省の任掌に國史の監修が數へられてゐるが、これを撰錄して奏進第五章平安時代第六節平安時代の文化二工一 第一編上世することは勅命を俟つて時々に行はれた。旣に前の時代に於いて書紀の末尾を繼いで國史を撰述する計畫があつたが、未だ完成せずして桓武天皇の御代に及んだ。天皇は菅野眞道等に勅してその事業を進行せしめ給ひ、延曆十六年(一四五七)に續日本紀四十卷が撰上せられた。その內容は文武天皇の御代より桓武天皇の延曆十年に至つてゐる。その後、仁明天皇の承和七年(一五〇〇)に日本後紀四十卷が奏進せられ、これは延曆十一年に始まり、淳和天皇の御讓位に終るものである。更に〓和天皇の貞觀十一年(一五二九)には、仁明天皇の御一代紀たる續日本後紀二十卷が撰修せられた。次いで陽成天皇の元慶三年(一五三九)には、日本文德天皇實錄十卷が奉られて文德天皇御一代紀が成り、更に延喜元年(一五六一)には、日本三代實錄五十卷が撰せられて〓和天皇·陽成天皇·光孝天皇の御三代紀が完成した。日本書紀と右の五書とを併せて六國史と稱する。別に菅原道眞は宇多天皇の勅を奉じ、國史記載の各〓の內容を事項別に分類したものを編纂した。これ卽ち類聚國史である。かくの如く國史編纂の業は奈良時代及び平安初期を通じて繼續せられ、神代より光孝天皇に至るまでの悠久な國史の姿はその形を整へた。六國史の撰述は實に當時の朝威の伸張と國家意識の昂揚とを反映せるものといふべく、その後は遂に繼續を見なくなつたが、官撰の史書に代つて私撰の史書が簇出するに至り、歷史意識は却つて旺盛なるものがあつた。私撰の史書は假名の使用が盛んとなると共に國文で記されるものが出で、先づ大鏡が著作せられた。本書は文德天皇より後一條天皇までの間の歷代天皇及び藤原氏の主なる公卿のことに就いて物語風に記したもので、その編次の體裁が紀傳體をなせることは注目に價する。その後平安時代の終末期に今鏡が出て、大鏡のあとを繼いで高倉天皇の御代に及び、更に鎌倉時代への過渡期には水鏡が著はされて神代より仁明天皇までの御歷代の事を記し、大鏡のさきを補つた。しかしそれらの體裁は必ずしも一樣ではない。なほ私撰の漢文體の史書としてはこの時代の中期に日本紀略があり、末期には藤原通憲が諸種の日記記錄を參照して本朝世紀を草し、僧皇圓は扶桑略記を編んだ。何れも編年體の史書である。佛〓新宗派の興起前代には佛〓興隆に伴なうて政〓混同の餘弊を生じ、僧侶の綱紀もとかく紊れ易かつたが、光仁天皇はこれが肅正に努め給ひ、この時代に入つて第五章平安時代第六節平安時代の文化 第一編上世二二四桓武天皇は更にその徹底を圖り給うた。こゝに於いて佛〓界には新機運が漲り、最澄による天台宗、及び空海による眞言宗の興起が促された。而してこれら兩宗は何れも大陸の比較的に單一なる宗義に對し、よく複合的なるものとして大成され、殊に皇城守護·國家鎭護を以てその使命とした。また前代までの佛寺が都市或はその附近に多く營まれたのに反して、主として山岳に於いて興されてゐるがこれは僧徒をして俗塵を避けて修業に專念せしめんとする意圖に出でたもので、嚴肅を尙ぶ時代精神を反映してゐる。我が國に於ける天台宗の開祖最澄は、初め南都に學び、次いで比叡山に登り、延曆七年(一四四八)こゝに一乘止觀院を建てて比叡山寺と稱した。早く心を天台宗に寄せ、同二十三年遣唐使に從つて渡唐し、天台の深義を究め、また密〓を學んで翌年歸朝した。天台宗は法華經を所依の經典とする宗派であつて、これを組織大成したものは隋の天台大師智顗であつた。然るに最澄はこれに新たに戒·密·禪を加へ、日本天台宗としての組織を整へたのである。而して法華經は古來國家守護の妙典とせられたが、我が天台宗に於いてはこの點が特に重んぜられた。最澄はまた當時僧侶たるものの登壇受戒すべき場所として最も權威を有した東大寺戒壇を以て小乘戒壇とな·し、比叡山に大乘戒壇の設置を奏請した。奈良の諸寺はこれに激しく反對したので、最澄は顯戒論を著はしてこれに應じ、盛んな論爭を展開した。かくして戒壇設置の事は實現せざる中に最澄は嵯峨天皇の弘仁十三年(一四八二)を以て歿した。天皇は直ちにこれを勅許あらせられて、最澄の遺志を遂げしめられ、その後五年にしてその設立を見た。比叡山寺もまた弘仁十四年(一四八三)勅額を賜はり、爾來延曆寺と號し、た。その後、〓和天皇は貞觀八年(一五二六)最澄に對して傳〓大師の諡號を賜はつたが、これ我が國に於ける大師號の嚆矢である。最澄の後、その高弟には義眞圓圓等があり、義眞の門には圓珍出で、その後にも多數の名僧が輩出して何れも天台宗の發展に盡くし、比叡山は長く日本佛〓發展の一中心をなした。但し、この時代の中期頃から圓仁(慈覺大師)の門流と圓珍(智證大師)の門流とが延曆寺と園城寺とに分れて相爭ひ、遂には屢次の攻戰を見るに至つたことは宗門史上の汚點といふべきである。天台宗と竝んでこの時代に榮えたものは空海によつて始められた眞言宗である。第五章平安時代第六節平安時代の文化二二五 第一編上世二二六さん がうしい空海は少にして三〓指歸を著はし、儒·佛·道の三〓を論じて佛〓に歸結し、これに護國の道を發見した。それより心を密〓に傾け、延曆二十三年(一四六四)最澄と共に渡唐けい くわし、長安靑龍寺の惠果に學んで秘密眞言の奥義に通じ、多數の經典·圖像法具等を携へ、平城天皇の大同元年(一四六六)歸朝して眞言宗を開いた。眞言宗は大日經·金剛頂經等を所依の經典とするもので、加持祈禱に重きを置く宗派である。眞言の字義は大日如來の眞實語言の意であり、如來の眞言は深密秘密なりとせられて一に密〓とも稱せられた。尤も密〓は眞言宗のみに限らず、日本天台宗も密〓を加へたので、これを台密といつた。15ご空度は此朝の長高地の神迷さにろこたが高野山を開いてるの果をし東寺を賜はつて〓王護國寺と稱した。仁明天皇の承和元年(一四九四)には宮中に眞)じのちやうじや國際を向くととを許されこ にて毎年正月八日より七日間軍寺長者のちのみなぬかのみ御安奉を祈り奉る後七日御修法を行はしめられることになつた。かくて空海は布〓に從事すること多年普く朝野の信仰を集めたが、承和二年(一四九五)高野山に歿し、のち醍醐天皇より弘法大師の諡號を賜はつた。じつ空海の後にはその門下に眞雅實慧眞濟等があり、その宗旨は朝廷及び貴族の生活と密接なる關係を保ち、廣く諸國に弘通するに至つた。更に平城天皇の皇子、眞如親王(高丘親王)は佛〓を〓鑽せられ、特に空海に就いて密〓を學ばれ、碩德の譽が高かつたが、佛〓の奥義を究めんがため御高齡の御身を以て貞觀四年(一五二二)渡唐せられた。しかしなほ慊らずして更に天竺に渡らんとして、同七年廣州を發し、海路南に向かはれたが、遂に羅越國に薨ぜられた。羅越國は今のマライ半島南端附近と考へられてゐる。朝廷と佛〓この時代、朝廷では宮中に事ある每に高僧を召して加持祈禱を行はれるのが常であり、また佛〓の國風化と共に、上皇·女院等が佛〓に歸信せられて諸山·諸寺へ往詣あらせられることも屢〓あつた。殊に天皇·上皇等の御願によつて佛寺の創建せられるものが尠くなく、宇多天皇の仁和寺、醍醐天皇の醍醐寺、平安末期に御歷代によつて相次いで京都東郊に營まれた六勝寺(法勝寺·尊勝寺·圓勝寺最勝寺·成勝寺·延勝寺)などはその著名なるものであり、子院の建立に至つてはその數極めて多かつた。また天皇の御讓位後、法體とならせられることなども屢〓あつて、皇室と佛〓との關係第五章平安時代第六節平安時代の文化二二七 第一編上世二二八は深きものがあつた。淨土〓の發達我が古來の現實的人生觀に對して、佛〓の齋した思想變動の著しいものは、前生及び來生を考へることであつた。中でも、淨土〓殊に阿彌陀佛を〓主とする西方淨土の信仰は平安中期以後著しく普及するに至つた。卽ち天曆の頃空也上人出でて遍く諸國を廻り、巷間にあつて廣く民庶に彌陀の名號を稱へる念佛を勸め、或は興趣ある踊念佛を弘めた。これに續いて淨土〓に組織を立て、〓理の發達に一時期を劃したものは慧心院僧都源信である。源信は早く比叡山に學び、顯密を兼ねた學僧として、名聲が一世に高かつたが、その心は淨土の〓に向かひ、常に觀想·口稱の念佛を怠らなかつた。かくて花山天皇の寬和元年(一六四五)往生要集を著はし、淨土往生が末世の凡夫に遺された唯一の易行道たることを示して頻りに念佛を勸めた。この後、淨土信仰は當時の紊れがちな社會狀態の實相と末法到來の佛〓思想とによつて、益〓この時代の人心を吸收し、社會を風靡するに至つた。殊に貴族は理想世界としての淨土の欣求に誘はれるとき、造寺造佛殊に佛堂の莊嚴にその姿相を表現せんとして、こゝに極めて華やかな所謂淨土〓文化を現出した。降つて鳥羽天皇の御代、良忍は融通念佛を唱へ、一人一行の念佛は一切人一切行に相通ずるとして廣く上下に勸說し、淨土〓はこゝに始めて宗派的な形をとるに至つた。而してこの時代の末より鎌倉時代への過渡期にかけて源空卽ち法然上人が出で、人心は翕然としてこれに蒐まり、淨土宗の成立となつた。法然は初め比叡山に學び、更に寺々を廻り、長き彷徨の後、唐の善導の〓學によつて彌陀の淨土〓に悟入したと傳へられる。實に法然の出現は次の時代に於ける新佛〓興隆の先驅をなすものであつた。陰陽道の盛行陰陽道は元來支那に發生したもので陵陽五行英天橋の運行等によつて人事を自然との關係に於いて說明し、更に息災·增益を目的としたものである。我が國へは旣に推古天皇の御代に輸入せられ、令の制度にては中務省に屬して陰陽寮が設けられ、博士·陰陽師を置いて天文·暦數·ト筆·相地等の事を掌り、同時に學生を容れてそれらの學問を〓授した。この學問が卽ち陰陽道として發達を遂げ、平安中期には宮廷生活の各方面に重んぜられ、更に廣く地方にも普及したのである。卽ち何らかの異變があれば、神祇官陰陽寮をして占ひを竝び行はしめるのを常とし、その他何事を行ふにもその日時·方位等の吉凶が占はれ、不吉を避けるためには物忌·方違等第五章平安時代第六節平安時代の文化三三九 第一編上世二三〇を行ふ風習があつた。ト占の外、陰陽道に基づく祭·祓·呪禁等の方術もこの時代には特に盛んであつた。かくて陰陽道は天文·暦數等に於いて自然に對する科學的〓究に培ふ素地を有したが人人を拘束する消極的な思想を多分に含んでこれが深く日常生活に浸潤してその弊害も尠くなく、神祇の祭祀や神佛習合の思想にも影響を及ぼした。陰陽家としては安倍晴明が殊に有名であり、大江匡房·藤原通憲等もその道に通じてゐた。修驗道の成立我が國には古來山神を崇拜する風があり、呪術的な種々の行法もあつたが、これが佛〓の山林修業の風習、道〓の神仙思想、陰陽道の方術等に結合してk修驗道が成立した。修驗道は或は深山に籠り、或は險阻を越えて修行をなし、六根〓淨となり、呪法を持して靈驗を得るといふ一種獨特の宗〓であつて、その起原は旣に前代に見られる。卽ち文武天皇の御代、小角は大和葛城山に住して鬼神を使役したといはれ、呪術を以て聞え、後世修驗道の祖と稱せられた。次いで奈良時代には山林に籠居し、呪術を得たりとして人心を惑はしめるものが多く、これを禁止せられた。然るに平安時代に入つて天台·眞言兩宗が共に山岳佛〓の性質を具へ、密〓の加持祈禱等が尊ばれるに及んで、修驗の思想·行法がこれと結合し、こゝに修驗道は公的に發達するに至つた。殊に寛平延喜の頃、屋言宗に聖賣出てて吉野金平山より大峰にかけて修行場とし、その末流はのち醍醐寺三寶院を支配の中心として發達した。それと共に天台宗の園城寺にも亦修驗者が多く、熊野に道場を開き、のち末寺の聖護院が支配の中心となつた。而して修驗道の發達につれて修行の道場は大峰·熊野等に限단らず、加賀の白山、出羽の羽黑山、豐前の彥山その他諸國に散在するに至つた。かく修驗者は深山幽谷に苦行を積むと共に、宮廷·貴族等に出入して安產·治病の祈禱を行ひ、また僧俗貴賤の熊野詣などもこの時代の中期以後には盛んに行はれた。學館設立の流行この時代の初期には大學は益〓その組織を整へ、貴族の子弟をしてこゝに就學せしめることが奬勵せられると共に、また多くの學館が各氏族によつて競つて營まれた。和氣氏の弘文院、藤原氏の勸學院、橘氏の學館院在原氏の奬學院等がこれである。弘文院は和氣廣世が父〓麻呂の遺志を遂げんがために、大學の南邊に私宅を以て造つたものであり、內外の典籍數千卷を藏し、墾田四十町を永くその學料に充てた。勸學院は藤原冬嗣が一族子弟のために建立したもので、冬嗣の食封第五章平安時代第六節平安時代の文化三 第一編上世二三一一千戶をその學料に充てた。また學館院は橘氏より出られた嵯峨天皇の皇后が、第橘氏公と議つて開院せられたもので、子弟に經書を講習せしめることを目的とした。最後に奬學院は稍〓遲れて陽成天皇の御代、在原行平が勸學院に倣ひ、一族諸生のために建てたものである。外に菅原〓公が朝廷に奏請して大學寮の一隅に創設した文章院がある。これは私營でなく國費を以て經營され、東西の曹司に分れ、西は菅家、東沈は江家の徒を收容した。なほ空海は淳和天皇天長の初年に綜藝種智院を開いて庶民講學の便を計つたが、その歿後維持の困難に陷つて間もなく廢絕した。かくの如く學校の整備によつて、諸氏の子弟は多くこれに學び、大いにその〓養を高めた。而して大學は勿論、私學も學者の養成を目的として設けられたものではなかつたが、この間から學問的精神の昂揚が促され、多くの學者を輩出し、殊に漢學關係の學問は著しく勃興した。但し平安中期以後には大學私學共に衰微を來たし、學問は家統によつて世襲せられる傾向が現はれた。學問と漢詩文の發達學問は前代に引續いて隆盛に赴いた。先づ明經道にあつては大學の〓科に若干の改變が加へられ、唐の新制が參酌せられた。また歷代天皇の御〓學の程も畏く、〓和天皇陽成天皇宇多天皇何れも大學の博士に就いて經學を學び給うた御事蹟が傳へられてゐる。●律令を攻究する明法道もこの時代には一科として存した、律令は明法學者の間に於いてその解釋に多くの異同を生じたので、これを施行するに當つて大なる支障を來たす場合があつた。淳和天皇はこれら學說の不同を統一し、解釋を定めんと計.り給ひ、〓原夏野に命じ、その編纂を行はしめられた。令義解十卷が卽ちこれであつて、天長十年(一四九三)に奏進せられ、これより義解は令の解釋の權興をなした。更に令令部の成果として特筆するな元處に相頃の明徳傳士機宗が観為し解である。集解は當時存した古註釋書二十餘種を引用しこの時代に於ける令の解釋を集大成したものとして重要な意義を有する。文章道は明經道の地位に代つて最も重んぜられ、且つ盛んとなつた。卽ち文章は人倫及び萬物の性理を論ずるものとして必要とせられ、詩文の流行は時代の風潮となつた。これに伴なつて勅撰の詩集が相次いで出で、嵯峨天皇の御代には凌雲集と文華秀麗集とが、仁明天皇の御代には經國集が勅によつて撰せられた。第五章平安時代第六節平安時代の文化 第一編上世一三三四勅撰詩集はこゝに止まつたが、詩文は平安の前半期を通じて大いに流行し、後世までその名を謳はれたものも尠くない。卽ち弘仁から承和の頃までには嵯峨天皇及び皇女有智子內親王を始め奉り、僧空海·菅原〓公小野篁等があり、貞觀以後には菅原是善·橘廣相·都良香·菅原道眞·紀長谷雄·三善〓行等がその著しいものである。當時の詩文は勅撰詩集のみならず、單獨または集錄された詩文として、また家集として傳へられるものが尠くない。外に詩文の方法に關する論書も現はれ、空海は文鏡秘府論を著はした。なほこの時代初期の學問的關心の偉大さを示す業績として、秘府略一千卷の編纂がある。これは淳和天皇の天長八年(一四九一)滋野貞主が勅を奉じて諸儒と共に古今の文章を事物別に類聚したもので、一千卷の類書は當時として東西に殆どその比類を見ない。●その他理數方面の學問にも注目すべきものがある。大學には算道の科目もあり、加減乘除を始め、開平·開立·級數や圓理を算生に學ばしめ、〓して實用に卽するものを重んじた。天文·暦の二道は陰陽寮の掌るところであり、天體を觀測し、日月の盈虧を推算し、精細に季節を定めるもので、大いに科學的要素に富んでゐるがこれを災異その他社會上の人事關係と結合せしめる點に於いて迷信的なる色彩を有し、そのため學問としての發達が阻害せられるに至つた。醫術は內藥司及び典藥寮の下にその發達を遂げ、一般の醫術の外、針灸·按摩等も行はれ、藥草の栽培にも意が用ひられた。平城天皇は我が古來の醫法を保存せんがため大同三年(一四六八)諸所に傳來する藥方を獻上せしめて、大同類聚方一百卷を撰せしめ給ひ、その後御歷代何れも醫藥の道に御意を注がせられ、圓融天皇は丹波康賴に勅して醫心方三十卷を撰せしめ給うた。かくて醫學の著述も相次いで現はれたが、治病に醫藥のみを賴らず、この時代の中期より特に呪術的方法が盛んとなつたことは、醫學の發達を妨げるものであつた。和歌和文の隆盛漢字の音または訓を取つて國語を記錄する方法は、奈良時代に大いに發達したが、平安時代に入ると共に漢字を簡略にした片假名·平假名の發生が見られ、しかもその使用は早くも練熟して、優美なる和文の發達を導いた。殊にこの時代の中期より大學の衰微、學問の世襲化に伴なひ、漢詩文は迫力を失ふに至つて、新たなる生命を擔ふものは和歌·和文となつた。而してあらゆる方面に國民文化を展第五章平安時代第六節平安時代の文化二三五 第一編上世二三六開した時代の風潮と相俟つて、和文は紅紫とりどりの盛觀を呈するやうになつた。和歌はこの時代の初期には漢詩文に壓倒された觀があつたが、中期からは貴族社會に重要な地位を占め或は殿上に於いて、或は貴族の邸宅に於いて、歌合も頻りに行はれ、歌人として名をなすものが續出する狀態となつた。殊に醍醐天皇の御代、延喜五年(一五六五)には紀貫之同友則以下が勅を奉じて古今和歌集二十卷を撰してこれを奏進し、勅撰和歌集の始をなした。その後、村上天皇の天曆五年(一六一一)には後撰和歌集を撰ばしめられ次いで一條天皇の頃に撰ばれたものに拾遺和歌集があり、これを繼げる後拾遺和歌集は應德三年(一七四六)白河天皇の勅に依つて撰進せられた。更に崇德天皇の大治二年(一七八七)には、金葉和歌集、近衞天皇の仁平の頃には、詞華和歌集が撰進せられた。以上の六集に、次の時代の始めに撰ばれる千載和歌集新古今和歌集を加へて八代集と呼ぶ。歌人としては先づ貞觀寛平の頃、世にいはゆる六歌仙(僧正遍昭·在原業平·小野小町·文屋康秀.喜撰法師·大友黑主)が出で、次いで紀貫之以下代々の勅撰に與つたものは皆一代の宗匠であつた。その間、一條天皇の御代には當時第一の歌人と謳はれた藤原公任があり、同じ頃革新的な歌風を開いたものに曾禰好忠があり、更に平安時代の最11:後を飾る歌人としては藤原俊成と西行法師とが擧げられる。女流歌人もまたこの間に多く現はれ、殊に一條天皇の御代には、和泉式部·清少納言·業式部·赤染衞門等の才媛が輩出した。かくの如く和歌の隆盛は著しきものがあつたが、歌風は素樸にして直情的な萬葉集の風から漸く遠ざかつて來た。情趣的であると共に機智的となり、技巧は益、洗煉されてゐるけれども、その半面には次第に迫力を失つて、遊〓的となつた觀があり、この時代の末に至れば、殆ど行詰つて、革新的な歌風さへも現はれた。またこの時代には歌論の勃興があり、上記の歌人の中には歌論を以て聞えた人々も尠くない。中にも公任の新撰髓腦は歌論書の始をなすものとして知られてゐる。さ6なほどの時代に認はれた歌として訴擧催馬場がありとれらは代一般m歌風·精神を異にし、素樸の中に眞情の溢れてゐるものが多い。中期以降には朗詠今樣なども歌謠として多く行はれた。和文としては物語·日記紀行·障筆等がある。物語は紫式部の源氏物語を最高とす第五章平安時代第六節平安時代の文化二三七 第一編上世二三八がその以前に屬するもめに付收物語伊物物業本和物語字律他物藩のある。竹取物語はかぐや姫を中心とした傳奇物語で古來物語の祖といはれてゐる。伊勢物語は在原業平に擬せられる在五中將を主人公とした歌物語とも歌日記ともいふべきものであり、次の大和物語と共に、和歌から物語への發達の段階に位する形態を示してをり、宇津保物語は漸く寫實物語としての性格を表はしてゐる。源氏物語は五十四帖から成り、その構想は光源氏の一生を中心として展開される貴族生活に求められ、その表現は艶麗·流暢にして豐かな情趣を含み、自然と人生どの觀照は精緻を極め、もものあはれ」の精神を以て全篇を貫ぬいてゐる。實に世界に誇るべき我が國文學の偉作であり後世に遺した影響は極めて大きい。領氏物ののには狹我物語積核中曽代的諸理申納言物語等かるのが僅物語の餘流を汲むに過ぎない。源氏物語の後にはむしろ大鏡·榮華物語等の歷史物語が發達した。殊に榮華物語は古來赤染衞門の作と傳へられ道道一代の榮華を描寫することに主眼を置き、榮枯盛衰の時の流れに明滅する歴史事象を追懷して、人の世のあはれを語るものである。いま一つ趣を異にするものに說話集がある.代のめち次文をしても日本電氣記の出た水來あにそつて利波波は印で亙つて多くの說話を和文にて集錄した今昔物語集が現はれ、この前後流行する說話文學の一頂點をなしてゐる。次に日記·紀行としては先づ紀貫之の土佐日記があり、女流の日記には藤原兼家のたか すゑ妻が記した蜻蛉日記を始め、和泉式部日記、紫式部日記、菅原孝標の女の更科日記、また讚岐典侍日記等がある。當時男子は主として漢文を以て文章を記したのに對し、女子は自由に和文を驅使し、その日記は單なる雜錄ではなく、自らの身邊を描寫した物語の如き性格を備へ、文學として重く評價されるものである。隨筆には〓少納言の枕草子があり、文章の輕妙なると共にその觀察の銳敏にして機智的なる點に於いて古今獨步と稱せられてゐる。美術工藝の特色この時代の美術工藝は漸次前代以來の大陸の影響を脫却して自主的發展を遂げるに至つた。その發達からいへば、時代の歷史的諸事象と同じく延喜の頃を分岐點として前後の二期に區分され、美術史上前期を弘仁時代貞觀時代などと稱し、後期を藤原時代と稱してゐる。その特徴を觀るに、前期は天台眞言兩宗第五章平安時代第六節平安時代の文化二三九 第一編上世二四〇の興起に應じて密〓美術の擡頭が著しく、その表現は神秘性に富み、嚴肅にして雄勁なるものであり、後期は淨土信仰の發展に伴なつて、これを反映した美術が多く見られ、その表現は優麗織細を極めたものである。また總じて佛〓的色彩が文化全般に濃厚であり、そのため從來殆ど外來文化の影響を受けなかつた神社建築にも佛寺的要素が加へられるに至つた。建築先づ神社建築にあつては、古來の方式によるものの外に、その手法に曲線を用ひることも行はれ、社殿に彩色を施し、廻廊を設け、樓門を備へるものも出た。春日準流造などと稱する形式はこの時代の創始と考へられる。併しながら內裏は連綿として古來の和風建築を維持し、幾度もの火災に拘らず、その度に舊規模によつて復活せられた。次に佛寺建築にあつては、前期には密〓伽藍の出現がある。それらは主として深山幽谷に營まれたため、自ら從來の左右均齊の七堂伽藍の構造が不可能となり、堂塔の方向·配置等が極めて自由となつた。後期の建築は優麗溫雅な風尚を示して、壁面に佛畫や裝飾文樣を加へ、また寺院に阿彌陀堂の建てられるものも多く、共に淨土〓の隆盛に相應じた。藤原賴通の營んだ宇治平等院の鳳凰堂、日野法界像來如迦釋寺生室〓書女4F唐繼 露光量違いの為重複撮影(河竹)卷繪語物氏源像來如陀彌阿堂風鳳院等平(品王嚴)經納家平堂凰鳳院等平 露光量違いの為重複撮影(河竹)卷繪語物氏源像來如陀編阿堂風鳳院等平(品王嚴)經納家平堂風風院等平 風云雪雪白天萌ふ減灌之自由春春披シ閣之如掲雪霧英惠上記妙门頂戴俊辣面四私家雜地ウェインタインタインター道面之間佛う和空首舞松相次期清洁河水寨指〓搬藤陸命瞭攀彼府限マク忽蒙朝原海孔石雅东面々思5我金蘭雖踪達之輩一行及宇山集舍一雷星商仏筆為礼有美來脂成法大的困好〓建活憧れ筆賑しく當不し三合仏恩依聖心悸煩警誓蹟蹟隆こ相药らん洋赴此院批发,寿るーね空茶状上し高音运向日不九月十百おそうさん諸くんどる東嶺金筒佳子依法尔列〓车頓泰寺の阿彌陀堂、奧羽藤原氏の建てた平泉中尊寺の金色堂の如きその例である。なほ住宅建築としては寢殿造が發達した。寢殿造は主部の建物として、寢殿卽ち正殿を契5置き必要に應じてその北或は東西に渡殿を以て連絡する對屋を建てて左右の均齊を保ち、寢殿の正面に庭園を設け、これに泉水を掘り、敷地の周圍を築地で圍ふものであつて、當代貴族の趣味をよく現はしたものである。彫刻佛像彫刻に於いては木彫が益、發達して、世界に比類なき我が木彫技術を確立した。先づ前期にては主要部分は一木を以て丸彫する一木造を特色とし彫法は飜波式と稱して同似の褶襞の繰返しを特色とし、技術は粗野であるが立體的觀照に富み、極めて雄勁なる感を與へてゐる。大和室生寺の諸佛像、京都東寺講堂の五大明王像、河內觀心寺の如意輪觀音像、近江渡岸寺の十一面觀音像、奈良法華寺の十一面觀音像等はその著しいものである。これに對して後期の佛像も多くは木彫である俺が、一木造に代つて胎內を空洞にした寄木造が發達し、彫法も整ふに至り、流麗にして寫實的な性格を示した。かゝる技術は佛師定朝によつて大成され、折柄の淨土〓の發達に伴なつて、鳳凰堂及び法界寺等の阿彌陀佛がその手によつて作られた。また第五章平安時代第六節平安時代の文化一四、 第一編上世二四二この期に盛んに製作せられた觀音·普賢·地藏等の諸菩薩その他の佛像も時代の好尙をよく現はして優美な姿態を具へ、華麗なる彩色を有するものが多い。なほ平安時代の彫刻に於いて特に注目すべきは、佛〓の影響を受けて始めて神像が作られ、これを神體となすものが現はれたことである。松尾神社の男神女神像、藥師寺の僧形八幡·神功皇后女神の諸像等はその早き製作に係るものである。神像は神を人格神として崇敬する思想に應じて肖像的性質を帶び、それ自體の美術的價値も大いに顧みらるべきであり、また各時代の風俗描寫としても有職故實の〓究に資:する所が多い。繪畫佛畫は前期にては密〓關係に注目すべきものがあり、東寺の眞言七祖像中、龍猛·龍智の二像、神護寺の兩界曼茶羅、西大寺十二天像、高野山の明王院の不動明王像等は傑作として擧げられ、稀に見る强き神秘性を表現してるる。後期には密〓の外に法華信仰や淨土〓が主として天台宗の系統から榮えるに至つてこれが佛畫にも反映すると共に、時代傾向の情〓化、優美化が加へられて新境地を展開した。その遺品としては、帝室博物館所藏の普賢菩薩像、高野山の阿彌陀如來二十五菩薩來迎圖及び佛涅槃圖、四天王寺の扇面古寫經の繪畫、東寺の十二天畫像、山城長法寺の釋迦金棺出現圖等は有名である。また鳳凰堂には精細な扉畫が遺されてゐるが、この時期の堂塔には壁及び扉に佛畫を畫いたものが尠くなかつた。佛畫の外には、繪卷物·繪屏風·繪障子等の繪畫があつた。それらの畫家として前期に百濟河成·巨勢金岡等の名手が出て山川·草木鳥獸等を描いたといはれるが、作品の傳はれるものがない。金岡の子孫は代々繪畫に從事して後世巨勢派と稱せられたが、後期に入るや、新たに託磨派·土佐派·春日派等が興り、大和繪の畫風が大いに勃興した。大和繪の遺品としては土佐派の名手藤原隆能の筆と稱せられる源氏物語繪卷が先づ擧げられる。これは極めて優美にして纖細なる畫風を有し、この後盛んとなる繪卷物の先驅をなすものであつて、現存する繪卷物の中、最も古くしかも最も誇るべき偉作である。次には平家納經が注目せられる。これは〓盛以下平氏一門のものが各、願文を添へて嚴島神社に納めた經卷で、凡て三十三卷あり、各卷全體に繪畫的技巧の粹を盡くし、裝飾華美を極め、納宮と共にその時代の工藝美術の非凡を示すものである。第五章平安時代第六節平安時代の文化二四三 第一編上世二四四エ藝佛堂の裝飾は豪華絢爛を極め、殊に後期に於いては淨土の莊嚴をこの世に觀んとする貴族の憧れを表はしたものが多い。藤原道長の法成寺は今は見るよしもないが、鳳凰堂·金色堂等の內部にはなほその面影が殘されてゐる。卽ち或は彫刻·箔押·象嵌等が行はれ或は鏡·實石·七寶·螺鈿等が使用せられて、建築と工藝とは密接に結合してゐる。刀劒の聲價は支那の文獻にも見られ、その形態地刃も我が國振りに發達を遂げ、從來の直刀は鎬造の彎刀に代つた。その他調度·衣裳等は生活の向上や、時代の風棚を反映して高貴な趣味が求められぞの發達を促したが、殆ど失はれて今日に多く遺らない。書道書道に就いていへば、書は大學の一科としても發達したもので、前代以來唐風を多く受け、硬くして緻密なる筆蹟が記錄寫經等に遺されてゐるが、この時代には次第に模倣的書風から脫却しつゝあつた。前期にあつては先づ嵯峨天皇が大いに書道に優れさせられ僧空海·橋逸勢も名筆を以て聞え、雄渾なる書風を特色とし、併ふちかぜせて世に三筆と稱せられる。延喜の頃には小野道風が和樣を多分に加へて雅馴なまつ:00る後期書風の先驅をなし、次いで藤原佐理·藤原行成が出づるに及んで和樣を顯著にした。三筆に對して道風以下を三蹟と呼ぶ。またこの頃より繁縟を斥け、優美を尙jぶ國民精神をよく表現した流麗な草假名の發達があつて、和歌·物語等を書寫する風が流行するに至つた。草假名は和漢書道の結晶とも見るべく、殊に行成はその名手であつた。平安文化の日本的樣相我が國の文化は、從來大陸文化の刺戟を受け廣くこれを攝取しつゝ、その獨步の發達を續けて來た。殊に佛〓的文化の渡來は一はアジアのみならず、西洋文化との交渉を意味するものであつて、これを包容することによつて、我が國の文化史は新たなる方向を展開したのである。而して奈良時代までは、所謂外來文化が、たとひ我が國人によつて受容され、製作されるものであつても、その環境には我が古來の精神と完全に融合せざるものが殘つてゐた。かゝる事實はこの時代の初期に就いても見ることが出來る。然るにこの時代の中頃に至つて、我が國は唐文化の刺戟を克服して獨自の豐かな餘裕を以て文化活動を始めた。これは要するに、外來文化の模倣を去つて國民精神にかなふところの和樣への自らなる動きで第五章平安時代第六節平安時代の文化二三五 第一編上世二四六あつた。かくして和文の發達は導かれ、大和繪の各派が勃興し、風俗は獨自のものとなり、佛〓に於いては時代人の性情をよく反映した淨土〓の發達が見られた。而してこの間に現出せる文化の精神は高貴にして典雅なる氣品と、纖細にして豐艶なる情趣とを有するものであつて、實に世界にも類例稀なる高次なるものといふべきである。かくの如き文化を養成した中心はもとより貴族社會であつたとはいへ、その根柢には一貫した日本の傳統があり、且つこの後に至つてもこの時代は長く憧憬の對象とせられ、我が國文化の發展に影響を及ぼしたこれらの意味に於いても平安時代の文化は日本的樣相を示すものといはなければならない第二編中世〓觀中世は近世と共に武家が政治及び社會の機構に於いて顯著な地步を占めた時代であるが、天皇が國家の中心であらせられることは不易である。朝廷はその御委任の政治たる限りに於いて武家による幕府政治を認められた。併しながら幕府がその権力を利して屢、朝政に矛盾背馳する態度を取つたことはこれを責めねばならぬ。幕府は源賴朝によつて統制せられた武士卽ち家人の勢力を支配の對象とし、全國各地に政治力を及ぼした。國々には守護が置かれてその管する國內に於ける治安と家人の指令とを掌り、また各地には地頭が置かれてその治安維持に當り中央の院·宮·權門·社寺に莊園の年貢を進濟すると共に、自己の得分を收納し、幕府に對する諸役概觀二四七 第二編中世二三八を負擔した。土地制度は大體に於いて前代以來の莊園制が踏襲せられ、公領も存してゐたが、國司の所領たるが如き觀を呈した。朝廷·貴族の財政は主として莊園·公領の收納に依存し、幕府も既成の莊園制を利用し、守護·地頭を通じて政治的·經濟的にその勢力を保有したのである。以上は鎌倉時代及び室町時代の政治的性格であるが、兩者の中間に建武中興及び吉野時代が存する。これは短い期間ではあつたが、武家政治が廢せられて、天皇親政が行はれ、國體の眞義が發揚せられた時代である。中世の文化は實際的·意志的にして雄渾なることを特徴とする。たゞその末期には文化の樣相が變化するに至るが、これも簡素の美を尙ぶものであつて、平安時代及び近世の華美織細を特徵とするのとは異なるものである。中世史の推移を〓觀するに、先づ鎌倉時代は源氏の平氏追討に始まる。賴朝はこれによつて武家の棟梁たる地位を確保し、更に全國に守護·地頭を設置する聽許を得、また右近衞大將に任ぜられて鎌倉に政廳を開き、續いて征夷大將軍の宣下を蒙つた。實に武家政治の使命は武家がその武力によつて世の亂離を鎭め、天下匡救の實を擧げたことにあり、その存在は當然一時の權宜たるべきものであつた。さればやがて源氏が斷絕するや、後鳥羽上皇は幕府の政權を收めんとせられたが北條義時等はその存續を畫策して朝命を奉じなかつたので、遂に承久の變となつた。然るに官軍は遂に敗れ、爾後北條氏は武家の中心たる地位を確保したが、やがて朝廷に奏して皇族將軍を奉戴するに至つた。かくて幕府は形式上皇室の藩屏たる體裁を整へながら、實は益〓權力に驕つたのである。幕府の家人統制はこの間に於いてもその成果が擧り、幕政の見るべきものもあつた。元寇はかゝる時期に起つたが、朝廷及び幕府の斷乎たる方策宜しきを得て、擧國一致よくこれを擊攘した。而してこれを契機として我が國が神國であり、皇室中心の國家であるといふ自覺が大いに昂揚し、一方幕府では元寇以來家人の疲弊が招來せられ、延いて幕府衰頽の兆が現はれるに至つた。この時英邁なる後醍醐天皇が卽位あらせられ、親政を復せられた。天皇は上世の聖代への復古を念とし給ひ、斷乎として幕府討伐の軍を起され、御親ら艱苦を嘗めさ〓觀二四九 第二編中世三五〇せられたが、遂に勤皇諸將の活躍によつて北條氏滅亡となり、建武中興の大業が成就せられた。建武中興は復古的精神に基づく萬機親裁を根本とし、中央及び地方の政治には公卿·武士を列び與らしめられた。天皇は更に大內裏を營んで政治機關を整備せんとせられた。然るに中興の新政が漸く緒に就かんとするとき、足利尊氏は野望を懷いて背き奉り、恩賞を以て愚蒙の輩を集め、武家政治を始めた。中興翼賛の至誠に燃ゆる將士は一身一家を全く省みずして皇事に勤めたが、大勢を如何ともする能はず、相次いで戰死した。後醍醐天皇は京都を去つて吉野に遷らせられ、御歷代よくこゝに於いてその宏猷を繼述し給ひ、勤皇諸將の兄弟子孫も亦相承けて盡忠の誠を捧げ奉り、五十餘年間に亙つてよくその餘勢が支へられた。吉野の遺芳はその後長く國民の間に語られて人心を惹き、殊に近世に入つてこれを顯彰する機運が盛んとなり、遂に明治維新を興す原動力ともなり、こゝに中興はその完全なる結實を見ることとなつた。室町時代は後龜山天皇が吉野から京都に還幸せられてより展開する。足利氏が擅に設けた幕府はこゝに自ら認められたのであるが、その標榜するところは鎌倉幕府の後身たることにあり、從つて幕政機關も鎌倉幕府のそれと略〓同じであつた。但し室町幕府は京都に開かれたため、將軍の公卿化を免れず、前代の質實なる精神は自ら喪失せられた。しかも幕府成立の最初より總じてその統制力が脆弱であつたため、この時代には爭亂の絕える間がなかつた。殊に室町末期に入つては諸國の守護は恣に自家勢力の擴大を圖り、管內の土地の完全なる領有を目指して莊園を押領し、商工業の如きもこれを自己の保護下に置く傾向があつた。かくしてもと莊園を領有し、商工業の座を支配してゐた貴族·社寺は衰微し、代るに守護の領國制が見られ、近世に於ける大名制の地盤が築かれつゝあつた。それと共に將軍家及び諸家に相續爭や家臣の分裂等が頻發し、應仁の亂はこれらの抗爭の顯著な現はれであつたが、この亂は直ちに戰國亂麻の時代へと移行し、下剋上の世相と群雄攻伐の情勢を誘致した。しかもその中に群雄は領內の完全なる統治と富國强兵を策してその治績の見るべきもの尠からず、且つ尊皇の忠誠を捧げるものも相次いで出たのであつて、かゝる動向の進展するところ、延いては次の安土桃山時代の大統一が導かれることとなつた。〓觀二五一 第二編中世二五二文化の推移については鎌倉時代には總じて雄渾にして實際的な武士的氣〓が尙ばれ、武士道も發達した。佛〓では國民の實際生活に投じた新宗派が相次いで起り、美術工藝では個性的寫實的にして力强い感のあるものが多く作られ、文學學問では明截にしてしかも深遠なる傾向が加へられた。室町時代にはこれらの文化が大いに洗煉せられて素樸な强さは失はれたが、その末期に於いては幽幻枯淡の境地が尙ばれ、繪畫·建築庭園·能樂茶道等にこれがよく窺はれる。而してこの期の生活樣式にして今日の國民生活に連なるものが多いことは見逃し得ない事實である。第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治朝政の推移朝廷の權威鎌倉時代は世に武家政治の時代と稱せられ、鎌倉に開かれた幕府によつて凡ての國政が遂行せられた如く考へられ易いが、朝廷の權威は儼然として變ることなく、國政の樞機は朝裁を經て行はれ、敍位·任官·補職殊に國家としての神祇の祭祀はすべて朝權から出た。加ふるに、朝廷は諸院·諸宮社寺·權門等の諸國に散在せる多數の莊園に對しては、在來通りに政治上經濟上の支配を行はれた。次に朝廷に於ける典禮儀式も依然として古來のまゝに保たれ、皇祖皇宗の祭祀以下恆例の年中行事及び臨時の祭祀も前代同樣に行はれた。令制は大方弛廢の傾向第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二五三 第二編中世二五四にあつたが、官制の重要なる部分は長く存續し、政務遂行の機關とせられた。卽ち令制のまゝに則闕の官として時々太政大臣が任ぜられ、左右大臣·内大臣以下、納言·辨官等も常に置かれ、攝政·關白がその上に置かれることは前代と同樣であつた。地方制度にては諸國に國衙があり、國司は前代以來國衙領の領主の如き觀を呈しつゝも、朝廷より任ぜられるものであることに變りがなかつた。院政の繼續前代末期に始まる白河上皇以來の院政は、この時代に於いても同樣に行はれ、後醍醐天皇によつて親政の復せられるまでは大體に繼續せられた。而してこの時代には天皇上皇何れにても、御親ら政をみそなはす御方を治世の君、治天の君などと申上げる例となつてゐた。この時代の初めは後鳥羽天皇の御代であつて、後白河上皇の院政が行はれ、その院政は建久三年(一八五二)に上皇が崩御あらせられるまで續いた。この間に上皇は源賴朝をして平氏を追討せしめられ、守護·地頭設置の奏請を容れられた。但しその將軍補任の希望に對しては聽許がなかつたが、崩御の後、關白九條兼實の斡旋によつて、賴朝は征夷大將軍に補せられた。上皇の崩御によつて後鳥羽天皇は親政あらせられたが、建久九年(一八五八)御位を退き給ひ、爾來土御門天皇順德天皇·仲恭天皇の御三代二十三年餘に亙つて院政を行はせられた。英邁にまします後鳥羽上皇は深く政道に御意を注がせられ、文武兩道を重んじ給ひ、また幕政廢止の叡慮を懷かせられた。然るに幕府は朝威を畏まずして自己の政權維持に努めたので、上皇は遂に承久三年(一八八一)討幕の軍を起し給うた。しかしその御企は空しくなり、後鳥羽上皇·順德上皇·土御門上皇は畏くも夫々邊境の國々に遷らせ給うた。かくして後堀河天皇が卽位せられ、その御父君たる守貞親王が政務をとらせられた。後高倉院と稱し奉る。幕府は變後、後鳥羽上皇の舊御領を院に返上し、爾來朝幕關係は舊に復した。院の崩御の後、後堀河天皇は親政を行はせられたが、貞永元年(一八九二)皇子にまします四條天皇に讓位せられて院政を行はせられた。然るに後堀河上皇は間もなく崩ぜられ、四條天皇も仁治三年(一九〇二)御壽十二歳の御幼少を以て崩ぜられ、皇子·御兄弟共にいまさなかつたので、朝廷では幕府に御諮問の結果、その奏請を容れられて第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二五五 第二編中世二五六土御門上皇の皇子が皇位に立たせられた。これ後嵯峨天皇にあらせられる。幕府はこの間、源家と血緣深き公卿たる九條道家や西園寺公經などと連絡を保つて、常に朝政に容喙し奉つてゐた。五攝家の成立攝政關白は藤原氏の獨占するところであつたが、前代の末に基實·兼實兄弟が出でて夫々近衞家〓九家家の祖となつた。この時代の初め、源賴朝の武力に希望をかけた九條兼實は才略大いに優れ、近衞基實の子基通の次に關白を拜した。これより攝關は近衞九條の兩家から擇ばれたが、兼實の孫九條道家に至り、道家が將軍賴經の父であつた關係から、鎌倉との深き結託によつてその權勢著しきものがあり、近衞家にも兼經が出でて道家の後に勢力を張つた。九條道家の三子〓實良實實經は各、攝關となつて、九條·二條·一條の三家に分れ、一方近衞兼經の後を承けて攝關となつた弟兼平も鷹司家の祖となり、こゝに所謂五攝家の成立となつた。爾後江戶時代の末に至るまで攝政·關白の職は五攝家が交、拜する慣例となつた。兩統迭立後嵯峨天皇は御在位僅か四年にして御退位あらせられ、中宮姞子(大宮院)の生ませられた後深草天皇〓龜山天皇が相次いで登極し給ひ、後嵯峨上皇はその間二十六年に亙つて院政をみそなはし、常に御意を民草の安穩に注がせられた。この頃幕府にては、北條時賴が一門の會議を開いて朝政を翼賛し奉るべきを決議し、御領地を進獻し、上皇はまた幕府の奏請を容れて院政に改革を加へさせられ、政務遂行のため評定衆を置かれることなどがあつた。文永九年(一九三二)上皇崩御に際しては、遺詔を以て御領を處分あらせられたが、治世の君については幕府の奏薦に御委任あらせられた。こゝに於いて幕府は、この重大な問題の專決を避け、大宮院に上皇の御素意を伺ひ奉り、その結果龜山天皇の親政となつたが、同十一年、天皇は皇太子にあらせられる世仁親王卽ち後宇多天皇に讓位せられて、爾來院政をみそなはした。この御事によつて後深草上皇は龜山上皇の御長兄にあらせられながら、その御子孫の皇位繼承及び御親らの院政を斷念し給ふの外なき情勢となつた。北條時宗はこの御樣子を拜して龜山上皇に奏上するところがあり、建治元年(一九三五)後深草上皇の皇子熙仁親王が皇太子に立たせられた。これより皇位の繼承はこの兩統より迭立せられる御事が暫く續くのである。なほ後深草上皇は持明院にいましたのでその御子孫を世に持明院統と申上げ、龜山上皇の御子孫は後宇多天皇が御退位の後大覺寺第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二五七 第二編中世二五八にいましたことに因んで大覺寺統と申上げる.後宇多天皇は弘安十年(一九四七讓位せられて皇太子熙仁親王が卽位あらせられた卽ち伏見天皇にまします。天皇には萬民安全國家泰平の祈請を伊勢の神宮に籠めさせられたのを始め奉り、忝き御事蹟の數々が傳へられてゐる。而して御父君すの無駄生長は院或を有はせ給ま東本には大皇の學字胤仁聖ドボ文たそのため持明院統より引續いて登極あらせられることになつたが、やがて胤仁親王卽ち後伏見天皇の踐祚と共に、大覺寺統より後宇多上皇の皇子邦治親王が皇太子に立たせられた。親王は卽ち後二條天皇にあらせられ、その卽位と共に後宇多上皇が院政を行はせられた。上皇は遠く上世の御遺業を繼述あらせられて多くの寺院を興し給ひ、大覺寺に於いて密〓の御〓究にいそしまれ、國家鎭護·民俗撫育に軫念あらせられた。時に後伏見上皇·後二條天皇共に未だ皇子ましまさず、後二條天皇の御弟尊治親王と後伏見上皇の御弟富仁親王との何れが儲君に立たれるべきかについて朝臣の間に二派の策動が激化したが、遂に富仁親王の立太子となつた。そして德治三年(一九六八)後二條天皇の崩御と共に花園天皇の踐祚となり、尊治親王は皇太子に立たせられた。この間幕府は常に立太子及び踐祚について奏薦してゐた。花園天皇の治世かくの如く、皇位繼承の御事が煩はしい樣相を示すに至つた間に於いても、列聖におかせられては常に大御心を國家の興隆、蒼生の撫育に垂れさせられ、また佛〓その他の學問にも御精進あらせられたことは畏き極みである。殊に花園天皇は御資性英明國史及び制度に關する學問を〓鑽あらせられ、儒佛の學にも御造詣深くましまし、且つ治民の道に御意を注がせられた。正和二年(一九七三)に陰雨晴れずして慘禍相次いで起るや、民に代つて御命を棄て給はんとの御意の御製の詩を以て內侍所に祈請あらせられた御事があり、聖德の數々はその浩澣な宸記に窺ひ奉ることが出來る。天皇の御代には伏見上皇·後伏見上皇が相次いで院政を行はせられた。後醍醐天皇の卽位文保二年(一九七八)花園天皇は退位あらせられて後醍醐天皇寶祚を嗣がせられ、皇太子には後二條天皇の皇子邦良親王が立たせられた。·後醍醐天皇は御資性豪毅英邁にましました。卽位の初めは舊例に從つて御父君後宇多上皇が院政をみそなはしたが、上皇は三箇年の後、元亨元年(一九八一)院政を廢第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二五九 第二編中世二七〇し給ひ、こゝに天皇親政が實現した。白河上皇の院政以來二百三十餘年、その間時に院政のないこともあつたが、それは天皇の御父祖に當らせ給ふ上皇のおはしまさぬ場合に限られてゐた。然るに後醍醐天皇の親政は實に天皇及び上皇が我が國本來の政治の姿に復せんとの叡慮に出でさせられた御英斷であつた。それより天皇は人材を登庸して大いに朝政を刷新して御治績を擧げさせられ、學問の興隆を圖り給うた。天皇はまた兩統迭立の弊を一掃せんとの叡慮を懷かせられた。更に幕府を廢して政道を國體の本義に復歸せられることは、後鳥羽上皇の御企以來、御歷代の御心とし給うたところであつたが、いまや天皇はこれが貫徹に邁進あらせられ、勤皇の公卿·武將等と共に御親ら幾多の辛酸を嘗めさせられた結果、幕府は遂に滅亡して建武中興の實現となり、政治上の宿弊は悉く一掃せられた。これらの御事蹟は次章に於いて詳かにするところである。=武家政治の開始武家政治の意義前代に於いて郡縣制度による中央集權的政治の實が失はれるに伴なつて、莊園を基礎とする土地私有形態と地方的勢力の簇生とを見たが、かゝる事態の醸成及び激化と相關して見るべきものは武力の伸展であり、武士の興起である。武士は最初は大なる集團力を示さず、各地暴动王520に小勢力を張るに過ぎなかつたが、時代の降る序のの在在所時ははと共に若干の武門に統合されるに至り、遂にそ鎌れが源賴朝によつて統一せられ、幕府による武倉家政治と封建的秩序の成立となつたのである。要武士は前代にあつては大體に於いて中央の貴族に仕へてその頤使に甘んじてゐた。保元圖の亂までは武士はその實力を重んぜられたが、なほ貴族の隷下たる意味を脫せず、平治の亂によつて漸く獨自の立場を持するに至つた。然るに朝廷に對してのみはこれと異なり、飽くまで尊崇の誠を披瀝して仕へ奉つた。されば武家は大事の處理には先づ奏請して勅許を蒙り、朝命を奉ずることを忘れな第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二六一 第二編中世二六、かつたのである。源賴朝による鎌倉開府もかゝる形式を整へたものであつて開府の前提となつた守護·地頭の設置は勅許によるものであり、幕政の據りどころである征夷大將軍の職も亦同樣であつた。かくの如く征夷大將軍の宣下は天皇の大權にある。家人も亦天皇より官位に任ぜられ、朝廷に奉仕する身分を得ることを誇りとした。しかし鎌倉時代にあつては、武人には特に高い官位を與へられず、源實朝の正二位右大臣の如きは異例であつた。たゞ室町時代になつて足利義滿は從一位太政大臣に陞り、その後代々の將軍は何れも高位高官を拜する例となつたが、これ亦家門の榮譽としたところで武家の國體觀念の表明とも見られる。また鎌倉幕府の執權や室町幕府の管領は重職であるが、朝廷より拜受する位階は執權が四位、管領が三位を普通とし、且つ彼等は國司に任ぜられることを競望した。かくて將軍や幕僚の地位は大義名分に於いては朝廷の行政機構に參畫する官吏たる身分に過ぎないことになる。武家政治の越權賴朝による武家政治出現の使命は、平安末期以來の亂離に際してよく武力を以て爭亂を鎭め、社會を安定せしめることにあり、北畠親房はその著、神皇正統記に於いて、この時賴朝がゐなかつたら我が國は如何になつたであらうかとの意を述べてゐる。朝廷が武家に政治を委ねられたのは武家が社會の安定勢力たるの威望を有し、公卿政治の弊を改めて天下匡救の實を擧げ得たからである。然るに武家はその實力に任せて、朝權に對立する勢力たるの觀を呈し、武力による威勢を驅つて、無道にも朝威を懼れないことさへ尠くなかつた。卽ち鎌倉幕府が承久の變に官軍に抗し奉り、或は皇位繼承の御事に容喙しまゐらせ、更に元弘の變に於いて北條高時が後醍醐天皇の聖慮に背き奉つた如きは、何れも皇恩に狎れて不臣無道極まる重罪を犯せるものといふべきである。源賴朝の經略平治の亂後伊豆の北條に遷された賴朝は、家名興隆と平氏追討の念を聊かも忘れなかつた。安德天皇の治承四年(一八四〇)賴朝は以仁王の令旨を拜受するや、關東在住の諸氏に檄を傳へ、三浦義澄一族と合せんとして相模に進出し、同國目代大庭景親と石橋山に戰つて敗れたが、南關東諸國を廻つて累代恩顧の諸士を糾合し、同年十月要害の地たる相模鎌倉に入つてこゝを根據とした。鎌倉には祖先第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二六三 第二編中世二六百によつて創建された鶴岡八幡宮があり、亡父義朝の舊跡もあつた。賴朝がこの地によつて累代恩顧の家人の心を收攬したのは、卽千ち源氏の傳統に立脚せるものである。總東賴朝が鎌倉に居を定めた頃、平維盛等の追討軍の東進があつたので賴朝は麾下の軍を率ゐ武東て鎌倉を發し、富士川を挾んでこれと對陣した横 相が、その威力は戰はずして平氏の軍を潰走せし寓國相めた。要一方信濃には源義仲が兵を擧げ、信濃·上野を圖豆徇へて越後に出で、益〓その勢力を加へ、壽永二年(一八四三)北陸道を風靡して長驅京都に迫つた。總帥平宗盛は急ぎ都落を決し、安德天皇を奉じて內海を西に走つた。かくて義仲は先づ京都に入つたが、却つて秩序を紊してその兵と共に濫行を重ね、大いに京人を苦しめたので、後白河上皇はその横暴を惡み給ひ、賴朝の上洛を促されるに至つた。賴朝はこゝに於いて二弟範賴·義經をして軍を率ゐて西上せしめた。範賴·義經は壽永三年(一八四四)正月、義仲の軍を各地に破つて入京し、義仲は粟津原にはかなき最期を遂げた。次いで範賴·義經は平氏追討の任を授けられて西下し、一ノ谷にこれを破つた。その後義經は暫く京都を守護し、後白河上皇の御殊遇を忝うして敍位·任官の御沙汰を拜した。賴朝は範賴をして更に平氏追討のために西下せしめたが、その失敗するや、再び義經を起用した。義經は壽永四年(一八四五)二月、長驅屋島に平氏の軍を衝いてこれを追ひ、三月壇ノ浦にて遂に平氏を滅ぼした。賴朝の家人統制策かくの如く賴朝擧兵の結果は極めて順調な進展を遂げ、平氏討伐の目的を達することを得た。これは賴朝が時勢に惠まれたためであることはいふまでもないが、主としてその家人統制策が適切であつたからである。卽ち賴朝は祖先以來の傳統に生き、飽くまで關東の擁護者を以てその任となし武士の統制とその保護とによつて封建的主從關係を固くすることにひたすら邁進し、平氏の如く貴族化することを努めて斥けた。而してこの政策がよく成功したのは、謀臣や武將第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二六五 第二編中世二六六にその人を得、殊に京都指紳家の不遇なる賢良を迎へてよくその獻策を用ひたことによるさきに富士川の對陣に平氏が潰走した時、賴朝は直ちにこれを追擊せんとしたが、千葉常胤·三浦義澄等の諸將はその事を諫止して東國に根據を確立するの急務なるを說き、賴朝をして首肯せしめたことがあつた。賴朝がこの時關東に於いて源氏勢力の根原に培はんと考へたことは、その後幕府の鐵則として遵守される大方針となつた。卽ちこの後、賴朝は後白河上皇より上洛を促されたのを始め、屢〓上洛の機會と口實とがあつたに拘らず、自らは敢へて鎌倉に留まつてゐた。これ賴朝が關東を地盤として家人の統制に意を用ひ、鞏固なる主從關係を醸成せんとしてゐたがためである。從つて賴朝はその家人政策に於いて、家人が直接公卿等に接近することを極力警戒した。尤も武士は朝廷より官位を拜受するのを光榮としたので、賴朝も亦朝廷と武士との間に立つてこれを斡旋し、家人に對する恩賞となした。併しながら若し家人にして賴朝の推擧を經ずして直接官位を拜受することがあれば、それは家人が武家の封建的秩序から離れる可能性の生ずることを意味するが故に、嚴にこれを戒めたのである。然るに義經は壽永三年(一八四四)八月、賴朝の推擧なくして左衞門少尉に任ぜられ、且つ檢非違使を拜した。賴朝はこの事を大いに不滿としたが、未だ平氏の討伐を終へなかつたので暫く隱忍し、その擊滅後に至つて愈。義經擴斥の鋒錐を現はしたのである。義經追討と守護地頭の設置賴朝はかくして平氏討伐に最も大なる功勞のあつた義經に對して迫害の手段を押進めるに至つた。義經は蹶然賴朝に當ることを決し、後白河上皇に奏請して賴朝追討の宣旨を拜した。然るに義經は多くの將士を麾下に集めることが出來なかつたので、豫て失意の源行家と共に鎭西に走つて頽勢の挽囘を圖らんとし、院廳下文を以て九州·西國の地頭職に補せられ、西下の途についた。賴朝はこの報によつて義經追討の令を諸方に發し、次いで自らも東國の家人を率ゐて征途につき、上皇から義經·行家追捕の院宣を得て駿河に進駐した。30方西下せんとした我經行家はぐもも諸源氏の製範に通ひ續集人お待浮んで西海を指したが風浪に妨げられてその將卒は離散し、義經は僅かに數人の郞第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二六七 第二編中世二六八從と共に行方を晦ましたので、朝廷は義經の官を解任せられた。賴朝は義經等の沒落と共に鎌倉に引返したが、大江廣元はこの機會に朝廷の聽許を得て國衙領·莊園の何れを問はず、諸國一律に守護·地頭を設置すべきことを賴朝に進言した。その趣旨は東海方面は靜謐となつたが、恐らく諸國ではその亂離を斷ち得ないために、この機會に全國に家人を配置して治安を確保せんといふにあつた。賴朝はこの獻策を容れ、直ちに北條時政を京都に遣はしてこの希望を奏請せしめたところ。その裁可を得たので、これに基づいて全國に守護·地頭を設置することとなつた。時に後鳥羽天皇の文治元年(一八四五)十一月であつた。實に守護·地頭の設置は幕府が政治上·經濟上の權限を全國に普く伸長せしめる基礎をなせるものであり、武家政治の地盤はこゝに存するのである。義經の末路と奥羽の平定賴朝はそれより義經捕縛のために諸國に探索の手を伸ばしたが、義經は近畿諸國を轉々として逃竄しその所在を顯はさなかつた。しかし追求の手は次第に嚴しくなつたので、義經は遂に遠く身を潜めることとなり、幼時の緣故を辿つて陸奥の藤原秀衡の許に投じ、その保護を受けた。さきに源賴義·義家等に從屬した陸奥藤原氏は源氏勢力の失墜後、愈。豪强となつて奥羽に雄視し、賴朝擧兵後も地理上からむしろその背後を脅かすの〓があつた。しかも秀衡は義經を鞠養して一廉の人物たらしめた程であつたから、義經の賴り來るや欣然これを迎へた。然るに秀衡は間もなく病み、文治三年(一八四七)十月、その子泰衡等に義經推戴を遺命して平泉の館に歿した。一方賴朝は義經の行方を探知し、朝廷に奏して義經追討の宣旨を泰衡に下されんことを請ひ、且つ藤原氏壓迫の步を進めた。泰衡はこの形勢に恐れて文治五年(一八四九)閏四月、父の遺命に背き、義經を衣川館に襲つた。義經は持佛堂に入つて自害し、その首級は鎌倉に齎された。かくして賴朝の義經を討伐せんとした目的は達せられたが、賴朝は更にこの機會に藤原氏をも滅ぼして奥羽平定の業を遂げんとし、泰衡追討を度々奏請して漸く聽許を得た。同年七月、賴朝は本軍及び東海·北陸の別軍を編成し、自ら本軍を統率して中路を進擊した。藤原氏は極めて堅固な前衞を構へて防いだが、士氣頗る旺盛なる攻擊軍のために忽ち潰え、泰衡は敗走した。賴朝方の諸軍は破竹の勢を以て平泉に入つたので、泰衡はその居館を第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二六九 第二編中世三七〇焚いて北走し、九月その家臣のために弑せられた。藤原氏こゝに滅び、三代の榮華は一朝の夢と化し、たゞ中尊寺金色堂などにその名殘りを留めるのみとなつた。かくて賴朝は奧羽五十四郡をその勢力の下に併せ、これをその家人に分與し、諸政先例に遵ふべきことを布告し、奧羽奉行を置いてこれを管せしめたが、このごとは卽ち源氏による政治的統一が擴大せられたことを示すものに外ならない。征夷大將軍の補任賴朝はこゝに東西平定の業を成就し、始めて上京することとなつた。卽ち文治五年(一八四九)十一月、公文所別當大江廣元を先づ出發せしめて諸般の準備を講ぜしめ、翌建久元年十月行裝嚴めしく鎌倉を發し、十一月入京した。先づ參內·參院の儀禮を遂げた後、豫て肝膽相照らした關白九條兼實と共に大政の輔翼に關して意見の交換を行ひ、天皇なほ御幼少にして御壽豊かにましますが故に、賴朝に運があれば、政道を淳素に歸せしめたいとの旨趣を談じた。賴朝はまた兼實に斡旋を依賴して、同月大納言に任ぜられたが、更に朝廷武官の極官を望み、右近衞大將を兼ねしめられた。武家政治の本領を固執する賴朝がかく朝官を希望した理由は、武家政治に權威を具へるためには京都指紳に伍するに足る地位を必要としたからであるが、しかもなほ公卿としては特に顯要といへない地位に滿足したことは武家政治の格式が必ずしも高いものでないことを物語つてゐる.賴朝は一度この兩職を拜したことを光榮とし鎌倉に歸るに際してこれを辭したが、建久二年(一八五一)正月、京都權門の例に倣つて前右大將家として多くの職員を補し、組織的な政廳を開いた。賴朝は豫てより征夷大將軍の職を望んでゐたが、朝廷ではこれを許し給はなかつた。然るに建久三年(一八五二)三月、後白河上皇崩御あらせられるや、兼實の斡旋により賴朝積年の希望は達せられた。卽ち賴朝は同年七月の臨時除目に征夷大將軍に補せられ、特に勅使下向して除書を傳達せられるといふ光榮を荷なひこゝに於いて武家政治は形式·實質共に備はるに至つた。元來征夷大將軍は蝦夷鎭定のため臨時に設けられたもので、桓武天皇の御代朝野の信望を集めた坂上田村麻呂がこれに補せられ、大功を擧げて盛名があつたため、後世武人渴仰の職と考へられるに至つたのである。而して賴朝以後、征夷大將軍の職は武家政治の總帥者に授けられる例となり、その政廳は大將·將軍の陣營を意味する唐名に因んで、後世これを幕府と稱するの第一章鎌倉時代第一節朝廷と武家政治二七一 第二編中世二七二である。第二節鎌倉幕府の政治ー幕府の職制家職の擴大鎌倉幕府はもと賴朝が家務を遂行し、家人を統御するために設けた家政機關の延長せられたものであつて、その家政機關は當時權門諸家に置かれてゐたものと同じ組織を有する。かゝる家職の制度は淵源を大寶令中の家令職員令に發するが、平安時代にはその組織·機能に於いて令とは餘程變化したものとなつた。平安時代の家職には政所·侍所等の機關があり、政所は庶政を處理し、侍所は家臣が宿直侍衞して家政の雜事を取扱ひ、夫々その長を別當といふ。而して侍とは本來伺候者を意味するが、廣く武士の意味に用ひるのはこの原義から轉化したものである。賴朝の設けた幕府の職制も亦かくの如き家政機關に起り、賴朝の勢力が發展するに伴なひ、事務の範圍は次第に廣汎となり、事務の性質も變化し、家政の限界を越えて、遂に武家政治の機關にまで進展したのである。かくの如く、幕府の機關は賴朝の勢力の擴大に應じて漸次に成立したのであつて、何時完成したかといふことは明瞭になし得る性質のものではない。しかも幕政機關が整備した後に於いても、幕府は令制を基礎とする當時の政治體系に聊かの變革をも加へんとするものではなかつた。たゞ幕府政治の擴大强化が自ら舊來の政治を一層形式化せしめたことは、これを否定することが出來ない。侍所·政所·問注所鎌倉の政務機關として最初に組織されたのは侍所である。侍所は賴朝が根據を鎌倉に定めて新第を營んだ時、家人の宿直侍衞の場所として設けたものがその始である。やがてこの機能が擴大されて軍事·警察及び家人の進退等を掌ることとなり、治承四年(一八四〇)十一月、和田義盛をこの別當に補した。侍所別當の地位は大いに重くその威權盛んなるものがあつた。しかし建曆三年(一八七三)和田氏一族の滅亡してより、北條氏代々の執權がその別當を兼ね、〓ねその權を收めたので、政廳としての實質を著しく喪失した。侍所に次いで成立したものは公文所である。その組織は壽永三年(一八四四)十月第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二七三 第二編中世二十四〓に定まり、大江廣元が別當に、中原親能等數人が寄人となつた。やがて賴朝が公卿の列に加へられたため、公卿家の例に倣ひ、これを政所と改稱した。その職務は幕府の政務一般を掌ることにあり、別當の威權は大であつたので、これを執權ともいふ。建仁三年(一八六三)北條時政が別當となつてからは、北條氏が代々これを繼いだ。問注所は公文所の開所に續き、同じ月に賴朝の邸内の一部を宛てて設けられたことに創まり、その機構は後に次第に擴大せられ、三善康信を執事とした。問注とは訴訟の關係者を訊問してその問答を記すことであるが、かくの如き手續は權門の政所に於いても旣に行はれてゐたものである。然るに賴朝が特に訴訟の處理のために一所を開設した所以は、家人組織の擴大によつて土地關係の訴訟が輻湊したことと、幕府が裁判を重要視し、その公正を旨としてゐたことによる。政所や問注所はその政務に練達の人を必要としたので、賴朝は法家の名門として經驗に富む大江廣元·三善康信等を起用して京都より招き、その統理の任に當らしめた。その上重要政務の處理に當つては右の三所の長を含む幕府重臣の合議が早くより行はれ、更に後年になつて評定衆や引付衆が設置されてより、政務の主なるものは〓ねこれに移されるに至つた。京都守護さきに義仲追討のために範賴·義經が上京してより、賴朝は朝廷に接觸を有するに至つたが、自身は鎌倉に在つたため、京都に幕府の連絡機關が置かれることとなつた。これは幕府に代つて朝廷との交渉、京都の治安維持、家人の訴訟等諸般のことに當るものである。賴朝は始め義經をしてその任務を執行せしめたが、やがて彼を疎んじ、その後暫く北條時政をしてこれに當らしめ、次いで賴朝の妹婿なる一條能保を京都守護とした。能保は政治的手腕に優れ、よく亂後を處理して幕府の威望を高めた。その後承久の變により京都守護は滅ぼされたので、幕府はこれに替へるに新たに六波羅探題を設けてその權限を擴大し、北條氏一族をこれに充てた。鎭西奉行始め平氏の餘黨を鎭定するため賴朝は家人を九州に遺はしたが、文治二年(一八四六)天野遠景を以て鎭西九國奉行人とし、建久二年(一八五一)正月、改めて鎭西奉行に命じた。これは九州が關東より遠きことと、その傳統的な特異性を有することに鑑みたためであつて、奉行の任務は九州に於ける軍事-警察及び家人に關することを掌るにある。その後少貳大友兩氏世襲して鎭西奉行となり、一に鎭西守護と第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二七五 第二編中世二七六もいつた。建治以來元寇に備へて九州防衞のため北條氏一族交る交る下向し、後これが九州探題と稱せられて機務を掌つたので奉行は自ら有名無實となつて遂に廢せられるに至つた。奧羽奉行奥羽地方に隱然たる勢力を擁した藤原氏が滅んで、その家臣等が賴朝さに服從するや、賴朝は西〓重をして陸奥在住家人の奉行人とし、武士をしてその下に從はしめた。これが奧羽奉行の始である。次いで伊澤家景を陸奥國留守職に補し、國政を執らしめた。それより兩者相竝んで各〓その子孫が世襲して國事を管掌し、鎌倉幕府の滅亡に至るまで存續した。守護諸國及び莊園·公領に普く置かれたものとしては守護·地頭がある。既に述べた如く、この兩者は文治元年(一八四五)十一月、義經·行家兩人追捕に際して賴朝が奏請して聽許を蒙つたものであるが、これが恆久的な地方政治の機關となつた。守護は原則として國每に置かれ、前代に於ける追捕使と類似の性質を持つものであつて、檢斷卽ち警察裁判·刑罰を主なる職掌とし、時代の經過と共にその制度を明確にしてゐる。卽ち後に定められた貞永式目によれば、守護の職掌は大番役の催促と謀叛·殺害人·夜討·强盜·山賊·海賊の追捕とであつた。この中大番役とは諸國の武士が交代に京都に上つて內裏及び京都の警護を勤仕することであつて、その交代は守護が幕命を受けて指令するものであつた。なほ守護は從來の國司と共に竝び置かれたものであるが、國司が幕府の家人なる場合には、これが守護を兼ねてゐた。地頭地頭はもと莊園の領主が置いた莊官職の一種であつて、その土地に臨んで莊園の經營を行ひ、收納の一部を自ら取得するのである。一般に莊官が各〓の莊園に占める職權及び收入は大なるものがあつたから、賴朝はこれを自己の家人に收めんとし、彼等を地頭として全國の莊園·公領に配置し、一はこれを家人に對する恩賞となし、一は以て家人組織の强化を企圖した。卽ち地頭制度は舊來の莊園や、公領の機構をそのまゝに認めながら、地頭を通じて幕府の權力を伸張し、經濟力を確保せんとするものである。後節にも述べる如く我が國の中世を一に封建制度時代と稱するのは、將軍と地頭とのかゝる關係をいふのであつて、國家社會全體の機構が封建制度であるとはいひ得ないのである。かくて地頭は管內の租稅の徵集、警察の事等を掌第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二七七 第二編中世二大り、領家や國司に對しては所定の年貢を納附し段別五升宛の兵糧米を百姓から徴收する權を有した。賴朝の家人ならざる莊官のゐた莊園にまで地頭が置かれることは、本所·領家にとつて迷惑なことであつたから、地頭設置聽許の後、反對運動の陳訴が絕えなかつた。よつて賴朝はやがて地頭設置の地域を平氏沒官領や謀叛人の現はれる場所等に限定することとし、これを朝廷に奏上し、文治二年(一八四六)十月、朝廷はこれを聽された。こゝに於いて諸國の莊園·公領平均に地頭を置く方針は、一年ならずして一應撤囘されたわけであるが、この停止令の實際的效果は疑問であつて、地頭としての源氏家人の勢力は次第に諸國に浸潤して行つたのである。=幕政の推移賴家の補職と幕政の改革賴朝は源氏の嫡統として幕府政治を創始し、その家人を統制することを以て政治の眼目として來たが土御門天皇の建久十年(一八五九)正月遂に歿した。その後を嗣いだものは嫡子賴家であつたが、年少のため諸將を統制する力に缺け、賴家の岳父比企能目が代つて幕府の實權を握る形勢となつた。然るに賴家の母政子は才略あり、己が父北條時政等と謀り、建久十年(一八五九)四月、賴家の幕政裁決を暫く停止し、これを時政·義時父子及び廣元等十三人の親族者宿の群議に依つて行ふこととした。これは卽ち中心の喪失と諸將併立の狀態とを意味し、これより諸將相互の關係は次第に圓滑を缺くに至つた。賴家は建仁二年(一八六二)七月、征夷大將軍に補せられたが、將軍の威望は旣に失墜した。こゝに於いて時政は幕府存立の安全と自家の地位の確保とを圖り、賴家を抑へ、幕府の權を二分せしめる方策を講じた。卽ち建仁三年(一八六三)賴家の病を口實に、その遺跡を處分して、關西三十八箇國の地頭職を弟千幡(實朝)に讓り、關東二十八箇國の地頭職と總守護職とを賴家の嫡子一幡に繼承させる計畫を立てたのである。て賴家の岳父比企能員と千幡の外祖時政との對立が激化し、能員は北條氏を除かんとして却つて敗死し、時政の權勢は愈、强大となつた。實朝の補職こゝに於いて北條氏は賴家に迫つて出家隱退せしめ、弟千幡を擁立第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二十九 第二編中世二八〇した。朝廷では同年九月、千幡に實朝の諱を賜ひ、征夷大將軍に補せられた。その後賴家は伊豆の修禪寺に移され、遂に悲慘なる最期を遂げた。かくて幕府に於ける時政の勢威は比肩すべきものなく、執權と稱せられて幕府の機務を掌ることとなり、時政の歿後北條氏は代々その職に就き、將軍を輔佐して幕政を握つた。實朝は叡智に富み、資性溫雅で文學を好み、公家の風尙を喜んで和歌·蹴鞠等を嗜み、朝廷に對しては恭順の誠を捧げ、盡忠の志が篤かつた。されば北條氏に壓せられて源氏の家運も久しからざるを察するや、顯官を拜して家名を擧げんとして、いたく官位の榮達を望んだので朝廷はこれに高位高官を授けられた。義時·廣元等は實朝を諷諫したが、實朝はこれを容れなかつた。この頃幕府の主なる政務は政子·義時·廣元等によつて行はれ、實朝は著しく掣肘を受けてゐた。しかも實朝には實子がなかつたので、政子と北條氏は次の將軍について秘かに朝廷に運動を試み、幕府の存在を安全にする計畫を廻らして皇族を奉戴せんとした。一方實朝はなほも官位の昇進を望み、順德天皇の建保六年(一八七八)十二月、遂に右大臣を拜した。しかし翌七年正月、右大臣拜賀の儀を鶴岡八幡宮に於いて行つた時、その宮の別當にして賴家の遺子たる公曉は、夜陰に乘じ、父の仇と稱して實朝を刺殺した。源氏の正統はこゝに於いて賴朝以來僅かに三代にして絕えたのである。もとより將軍補職のことは朝權にあり、源氏の嫡流に限られるわけではないが、既にその例となつてゐたので、源氏正統の斷絕は爾後將軍職の宣下を拜し得ぬこととなる恐れがあつた。而してそれは幕府の存立と從來育成され來つた武家の封建的秩序とにとつて大なる脅威であつた。されば鎌倉ではその善後策を敏速に處理すべく、使を京都に派し、年來の希望に基づき後鳥羽上皇の皇子を皇族將軍として奉戴せんことを奏請した。九條賴經の東下しかし朝廷の武家政治に對する御態度は否定的であつて、この奏請を聽許あらせられず、皇族將軍の實現は全くその望みがなかつた。鎌倉ではその主を急速に決定する必要から、やむなく時の左大臣九條道家が賴朝の遠緣に當るのを理由として、その子の年齒僅かに二歲なる賴經を迎へることの聽許を蒙つたが、勿論將軍職の宣下はなかつた。賴經は承久元年(一八七九)七月鎌倉に着き、こゝに鎌倉ではその主を得、執權義時は武家政治の實權を握るに至つた。かくて源氏の將軍第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二八一 第二編中世二八二を中心として成立した幕府は政子の權勢を握つた時期を經て北條氏の專權へと移り行き、源氏の家人は執權の命に服することとなつた。しかも首腦者のかゝる變遷にも拘らず、武家政治が依然として維持せられたのは、鎌倉を中心とする武士の封建的組織が旣に完成してゐたからであり、また執權政治が常に賴朝の遺した方針を繼承せんとしたことによるのである。三承久の變後鳥羽上皇の院政鎌倉幕府は、旣に述べた如く、令制を根幹とする朝政に變革を加へようとして開設せられたものではないが新しい封建的組織を基底として地方政治に著しい變化を齋すこととなつた。而して幕府開設の前、後白河上皇の院廳では必ずしも賴朝の武家政治に好意を有せられず、更にその後朝指に源通親出でて朝威の更張を圖り、御英邁なる後鳥羽上皇が親しく院政をみそなはすに及び、對幕政策は漸く活潑となつた。而してその背後には貴族全般の武家に對する優越感があり、これが武家政治否認を導く機運を漲らせたのである。後鳥羽上皇は幕府抑制の御抱負を實現せられるため、深く政道に御意を注がせられ、殊に朝臣に對しては身心の鍛鍊を勵まし給ひ、文武兩道を奬めさせられ、御親ら率先範を垂れ給うた。卽ち上皇が政道の實際に御熱心であり、國體の明徴に御心を注がせられたことは、おく山のおどろが下もふみ分けて道ある世ぞと人にしらせんの御製を拜しても肯かれるところであるが、また屢〓内內の諸司を戒筋して政務に勵ましめられ、神人·僧侶の濫行を停めて治安を嚴にし、華奢を禁じて剛健の風尙を振起せられた。また從來院に伺候せる北面の武士の外に新たに西面の武士を置き武力の充實を圖らせられたことが注目せられる。また特に朝儀の肅正に努めさせられ、公卿の紀綱を振肅せられ、祭政の嚴正については深く御心を注がせられた。上皇及び順德天皇には共に有職故實に關する御撰があり、當時の衰頽せる朝儀を上代の盛世に復し給はんとの御理想が拜せられる。上皇はまた武藝を奬勵して士氣を鼓舞せられ、御親ら御鍛冶をさへ試み給ひ、北面·西面の武士の外に殿上人等も召されて、その武藝を競はしめられた。第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二八三 第二編中世二八四承久の變幕府は賴朝の歿後、勢威頓に衰へ、動もすれば內爭を醸し、更に將軍實朝の遭難によつて源家は斷絕したので、朝廷では兵馬の權は奉還さるべきものであると思惟せられた。されば上皇は鎌倉より皇族將軍推戴の奏請があつても、これを聽許し給はず、また賴經の鎌倉下向の後もこれに將軍職を宣下せられなかつたのみならず、攝津國の兩莊に於ける地頭罷免のことを北條義時に仰せ下された。然るに鎌倉では將軍を缺いてゐるにも拘らず、執權義時は大いに不遜不臣の度を加へ、幕府の存在をなほも繼續せんとしたので上皇は順德天皇と共に朝權恢弘の御素志の實現を圖り給ひ討幕の御計畫に出でさせられたのである。ま立ち粗のの車車伐の御計畫には我鳥羽主義の皇子雅度豪主報仁栗ををめては坊門忠信(實朝夫人の兄)同信成·高.倉範茂·一條信能·葉室光親·源有雅中御門宗行、武家にては藤原秀康·同秀澄等の北面の武士が與り、その他神官·僧侶も多く加はり、士氣大いに振るつた。旣に承久三年(一八八一)正月以來、奉幣·祈禱等の御事が相續き、諸社寺また御旨を奉じて頻りに關東調伏の祈禱を行つてゐたが、四月に入り、順德天皇は討幕計畫に專念し給ふべく、突如御幼少なる仲恭天皇に御讓位あらせられた。この御儀はまたかゝる御計畫が天皇御親らの叡慮に出でさせられることを避け給はんとの畏き御思召にもよるものと拜せられる。ついで五月、後鳥羽上皇は鳥羽の城南寺の流鏑馬揃に託して諸國の兵を徵され、鎌倉の恩顧を受ける武士にもこれに加はるものがあつた。續いて五月十五日遂に義時追討の宣旨が五畿·七道に發せられた。その要旨は、天下を亂し皇憲を忘れたる北條義時を除くと共に、爾後諸國莊園の守護地頭を朝廷の下に置くべきことを仰せ出されたもので、宣旨一度發せられるに於いては、北條氏は直ちに恐懼政權を返上し奉るべきであつた。然るにこの御計畫が鎌倉に傳へられるや、政子·義時等は家人等がその統制に服せざるかを最も虞れ、直ちに將士を集め、巧みなる言辭を以て、卽座に去就を決せよと脅かし、一同をして局に當るべきことを誓はしめた。こゝに於いて大江廣元の建議により、直ちに軍兵を東海·東山·北陸の三道に分ち、泰時·時房等をしてこれを率ゐて出動せしめた。京都ではこの報に上下大いに震駭し、急遽部署を定め、賊軍を北陸道及び美濃路に於いて邀擊した。しかし官軍は寡兵で且つ統制を缺き、騎虎の勢を以て西上した坂東武士には抗し難く、何れも利を得ずして潰えた。第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二八五 第二編中世二八六北條氏の暴戾關東の軍は旣にして京都を犯し、後鳥羽上皇の遠大なる御計畫は惜しくも挫折することとなつた。泰時·時房等は京都六波羅の南北の居館に駐まり、强ひて宣下を請ひ奉り朝臣範茂·信能·光親·有雅·宗行等を召捕へ、鎌倉へ護送すると稱して途上に斬つた。なほ幕府恩顧の家人にして官軍に參じた武士後藤基〓·五條有範等は、弓馬の道に悖る者であるとなして京都市中でこれを斬り、家人統制の素意を明らかにした。北條氏はまた恣に後鳥羽上皇の院政を停められんことを奏請し、上皇の御兄守貞親王(行助法親王)が政務を統べられ、次いで仲恭天皇は御讓位あつて茂仁王(守貞親王第三皇子)が踐祚せられた。卽ち後堀河天皇にあらせられる。更に北條氏は保元の先例を引いて畏くも後鳥羽上皇を始め奉り、順德上皇·雅成親王·賴仁親王の御遷移を奏上し、後鳥羽上皇は隱岐へ、順德上皇は佐渡へ御幸あらせられ、兩親王は夫々但馬·備前に遷られた。また土御門上皇はこの變には御關係あらせられず、武家もまたなんら奏請するところがなかつたが、御孝心深く、獨り都に留まり給ふに忍びずとて、御心に任せて土佐に幸せられたが、のち阿波に遷らせられた。後鳥羽上皇は隱岐にて佗しく十八年を過し給ひ延應元年(一八九九)二月崩御あらせられ、土御門上皇は寛喜三年(一八九一)十月阿波にて、順德上皇は仁治三年(一九〇二)九月佐渡にて崩御ましました。三上皇の御事は國史上空前絕後の大異變であつて、北條氏の僭上無道はこゝに極まれるものといふべきである。幕政の强化この變後、武家は更に官軍方勤皇の朝臣·武士の所領三千餘箇所を沒收してその經濟力を削り、公卿側に一層大なる打擊を與へた。しかもこれらの所領ぼには武家側となつて働いた將士を思賞として地頭に補置した。從前の所謂本補地頭に對してこれを新補地頭といふ。こゝに於いて地頭を補置する地域は著しく擴大され、從つて幕府勢力の擴充となつた。また武家は京都の守備を一層堅くせんとし、變後泰時·時房はそのまゝ六波羅に留まつて南北兩六波羅探題を開いた。これは從來の京都守護を擴大したものと見るべきであつて、京都を警備すると共に、三河以西の諸國の統轄に當り、幕府と連絡しつつ庶務を執り、小事を專行するものである。爾來常に北條氏の一族がその探題職となり、幕府の耳目として執權に次ぐ重職となつた。こゝに於いて武家政治の根柢と第二章鎌倉時代第二節鐵倉幕府の政治二八七 第二編中世二八八家人の統制は北條氏を中心として益〓固くなつた.四北條氏の執權政治と貞永式目の制定執權政治承久の變に暴戾の限りをつくした北條氏の權勢はその後愈、强化した。變後三四年の間に三善康信·北條義時·大江廣元·政子等幕府の創業に參與せる主要な人々が相次いで歿したが、幕府の動搖は少く、執權北條泰時の地位は頗る安定を加へ、北條氏執權政治を確立せしめるに至つた。泰時は家人統制のため、質素儉約を旨として庶政の裁斷に公正を期し、幕政の治績を擧げることに努めた。しかも北條氏による執權政治の樹立はたゞに政權の推移を示すものたるに止まらず、政治體制の上にも劃期的變化を來たさしめた。執權を中心として評定衆引付衆による合議制の開始及び政治の準據としての貞永式目の制定がそれである。評定衆引付衆の設置泰時は北條氏の身分と地位とに鑑み、獨斷專制の弊を去るべく、在來行はれ來つた合議制を制度化することとし、後堀河天皇の嘉祿元年(一八八五)評定衆を設けた。評定衆は幕府の老臣及び幕政機關の職員十餘人を以て構成し、諸政の評議訴訟の裁決に與るものであつて、執權もその員に加はり理非を決斷した。而して泰時が專權に陷らなかつたことは北條氏の執權政治を維持せしめるものでもあつた。泰時の孫時賴が執權となるに及び、後深草天皇の建長元年(一九〇九)更に引付衆の制度が設けられた。これは評定衆を輔けて訴訟文書を審理し、訴論人を對決せしめることなどを掌り、裁判の敏速と公平とを期するものである。これら評定衆·引付衆の制度によつて幕政が公正に運用せられ、社會秩序がよく維持せられることになり、武家政治の基は愈。鞏固となつた。貞永式目幕府は實際的なる施政を旨とし、訴訟の裁決にも律令の如き形式整然たる規定に依らず、機に臨んで理非曲直を決し來つたのであつて、强ひて基準を求めれば、それは賴朝の先例及び道理に置かれてゐた。しかし承久の變後、武士の勢力の·伸張に伴なひ、訴訟事件が激增したので、泰時はこゝに成文法を明示する必要を認め、自ら評定衆三善康連等と立案の任に當つた。吾妻鏡に「是關東諸人訴論事、兼日被定こ法不幾之間、於時緯互兩段、儀不一揆、依之固其法爲斷濫訴之所起也、」とあり、その制定の第一章鎌倉時代第二節鎌倉幕府の政治二八九 第二編中世二六七事情をよく示してゐる。かくて評定衆の議に附して、後堀河天皇の貞永元年(一八九二)八月、五十一箇條から成る貞永式目が定められた。當時これを關東御成敗式目と稱した。この式目は律令の如く法規の形式的具備を求めるものでなく、法治の實際的效果を收めることを以て主眼となし、武家政治の特色が躍如たるものである。また律令が唐の制度を參考して定められたものなるに反し、これは賴朝以來の幕府政治の慣例と武士生活の經驗とに基づいて編せられ、幕府の行政より民事·刑事·訴訟等の法令に至るまでその大綱を備へ、しかもその根本に深く德義を重んずることを志してゐる。而してその施行せられる範圍は幕府の勢力圈內のみに限られ、これに關係のない訴訟はこれを受理せざる態度を明らかにした。式目は古來の神祇崇敬を重んずる精神を表はして、先づ第一條に、神社を修理し、祭祀を專らとすべき規定があり、「神者依入之敬增威、人者依神之德添運、」と神人の相依を現實的な立場から考へてゐる。第二條は寺塔の修造と勤行とを重んずべき規定であつて、寺寺雖異崇敬是同、」と神佛延いて社寺の同異に關する時代思想を窺はしめてゐる。次は守護·地頭の職權と義務に關する諸規定が載せられ(第三-五條)實際に遭遇する諸般の事項を扱つてゐる。他は家人全般としての身分や財產に關する規定であるが、中にも當時訴訟問題として最も繁く起れる所領に關する事項が多きを占め、種々の場合についてこれが處置を規定してゐる。その中にも家人が代々の將軍より恩給せられた所領は本來の私領と區別して最も重んぜられ(第七條)、その賣買を禁じたること(第四十八條)などが注目せられる。また主從·親子の關係に關する規定も尠くなく嚴格なる主從關係が强く示され、親權が著しく認められてゐる。殊に女性の地位は律令がこれを輕んずるのに反して、式目では「男女之號雖異、父母之恩惟同、(第十八條)といひ、女人が所領を相續して家人たり得るのみならず、父の死後は母がこれに代つて親權を行ひ、或は女人が養子をなすことをも認めた。これらのことは上世以來の地方民衆生活に存續し來つた習慣を重んじたものであらう。式目は當時實際問題として緊急適切なる事項のみを規定したのであるから、泰時の書狀にも「これに漏れたる事候はゞ、追て加ふべきにて候なり。」とある如く、將來補足せられるべきことが豫想されてゐた。さればやがて條文の不備や不足が發見される度に新令を以て追加せられた。これを式目追加と呼ぶ。なほ貞永式目は後世ま第一章鎌倉時代第一節鎌倉幕府の政治二九一 第二編中世二九二で武家法制の規範と仰がれ、室町幕府がこれを繼承したのみでなく、室町末期の諸將もその施政にこの式目の精神を採つたのである。皇族將軍の擁立執權政治の確立に伴なひ、幕府の主たる將軍は名義上これを推戴するに止まるに至つた。さきに承久元年(一八七九)鎌倉に迎へられた九條賴經は嘉祿二年(一八八六)に至り、征夷大將軍の宣下を蒙つたから、久しく缺いた將軍を復することを得たが、寬元二年(一九〇四)賴經は職を辭し、その子賴嗣が將軍職に補せられた。一方執權は泰時の歿後は經時·時賴が相次いでこれに當つた。時賴は祖父泰時の遺風を慕ひ、日常勤儉を以て家人を率ゐ、風俗を正し、文弱を戒めた。また幕府の存在を權威あらしむべく豫て希望せる皇族將軍の實現を圖り、建長四年(一九一二)勅許を得て遂に後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を將軍として迎へ奉つた。實に皇族將軍を迎へることは、在來よりも明白に幕府が朝廷の政治機關たる意義を進めたものである。卽ち朝廷は幕府を皇室の藩屏たらしめられ、幕府はまたこれを光榮とするのであるが、親王に對し奉る北條氏の態度は賴經·賴嗣の攝家將軍に對すると同樣で、時に極めて不遜なるものがあつた。皇族將軍は宗尊親王の御子惟康親王、後深草天皇の皇子久明親王を經て、その御子守邦親王に繼がれたが、やがて幕府の滅亡となつた。第三節元寇·國家意識の昂揚元寇蒙古の興起我が國と大陸との關係を見るに、平安末期に宋との通交が行はれ、彼我の間に商人·僧侶等の往復も多くなり、これが鎌倉初期には益〓盛んとなつて、禪宗その他文化の輸入に貢獻するところが尠くなかつた。前代に於いて今の滿洲地方に遼·金等の强國が相次いで興つたことは旣に述べたが、更に我が士御門天皇の御代、金の治下の蒙古族に鐵木眞が現はれ、内外蒙古を統一〓して蒙古國を建て成吉思汗と號した。その後、蒙古は頻りに四方を攻略し、高麗を侵し、遂に金を滅ぼして支那北部の地を併せ、更に雲南·西藏及び安南地方を平定し、西は遠くヨーロツパに侵入してモスコーハンガリー·ポーランド等の地方まで蹂躪し、空2.ら前の大國を形成した。かくて龜山天皇の御代、第五代忽必烈(世祖)が大汗の位に卽い第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚二九三 第二編中世二九四てからは都を大都(北京)に奠め、やがて世祖一代の企圖として、進んで東海の我が國を服屬せしめんとするに至つた。蒙古の來牒忽必烈の我が國に對する謀略は文永五年(一九二八)に至つて現はれ元た。卽ち蒙古に征服せられた高麗國の使國節が同年正月太宰府に來り、蒙古の國書と疆それに副へた自國の書とを齎した。蒙古の國書は我が國との修好を要望しつゝ、な域ほ兵威によつて我を從屬せしめんとする圖もので、その文辭甚だ不遜であつた。太宰府にゐた鎭西奉行は事態の重大なるを認め、鎌倉へ〓末を報じた。幕府は事苟も國家に關する重大事なれば、專斷獨行すべき發順至心食腐一心鹽桶諸大葉版尊室神咒功應威力法藥疾最威克倍增重拾神威上皇帝弱子大勢席豫威德之忌怖高岡隆代背鰭を德天上此下龜山議法喜神創意文白開願祈安慧敵国降伏天康主安家皇調經圓向宸上來越後#重入天路筆內發生意をして〓踊子店候四海轉道下目店퇴炭蒸消滅十方三甘して告廣彦門産廖行敏若随罪文人三五百特開白 古蒙襲來繪詞に非ずとなし、後嵯峨上皇にこれを奏上してその御裁決を仰いだところ、朝議は返牒を不可とせられた。それと同時に幕府は蒙古の威嚇に對して斷乎としてこれを斥くべく、しかもこれによつて當然起るべき敵國の侵寇に對し、國土の安泰を保つことは負荷の任務なりとなし、萬全の籌策を立てることを決意した。かくて幕府は國防方策を樹て、同年二月家人に令を下して不時の變に應じ得る準備を整へしめ、且つ朝命を奉じて高麗國使にはなんらの囘答をも與へず、要求拒否の意を示した。その三月年齒十八歲の北條時宗が政村に代つて執權となり、年少氣鏡の意氣を以て未曾有の國難に當ることとなつた。次いで文永六年(一九二九)九月、蒙古の使者は中書省の牒書を帶して來朝した。朝廷は菅原長成をしてその要求を拒む强硬なる返牒を起草せしめられたが、幕府の意見によつてこれをも停められた。よつて蒙古は更に文永八年(一九三一)九月、女眞人趙良弼等の一行を國使として遣はし、我に通聘を促すと共に、用兵の意圖を示して威嚇し來つた。良弼は從來の使と異なり、京都に入つて自ら蒙古の國書を上らんとしたが許されなかつた。この時朝廷ーでは先に長成の撰した返牒案に修正を加へ、これを使に與へて拒絕せんとの議もあ第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚二九五 第二編中世二九六つたが、同答を要しないとの幕府の意見によつて、日良弼はその希望を達し得ず、空しく追返された。本海肥元この年十一月蒙古は國號を立てて元と稱し、翌九寇年再び良弼を來朝せしめた。良弼は年餘に亙つ要て滯在し、種々交渉を試みたが、前囘と同樣に效な圖く、元に歸つて我が國情民俗を世祖に復命した。かくして日元の衝突は避くべからざる情勢となZつた。戰役の準備これより先、文永八年(一九三一)八月に幕府は高麗から蒙古軍侵寇の警告を受元〓寇領したので、九月九州の守護·地頭に令して邊防現要に備へしめ、鎌倉在住の九州の家人を〓國に歸曇石海圖現らしめ、更に四國·中國の家人をも順次西下せし〓zめた。旣に我が國は數度に亙つて元使を却け〓土たのであるから、元とは交戰狀態に入つたと見做し、幕府は將士に對して國防の重大なる所以を說き、朝廷また諸社寺に敵國調伏の祈禱を行はしめられ、擧國一致の實を擧げることに努められた。文永の役この間文永十一年(一九三四)正月、龜山天皇は後宇多天皇に御讓位あつて院政を聽き給ひ、我が國は上下を擧げて緊張裡に戰備を整へた。果して同年十月に至り、蒙古人·漢人·高麗人の軍三萬餘人は蒙古·高麗の聯合船隊九百餘艘に分乘して合浦(今の鎭海灣馬山浦)を發し、對馬·壹岐を襲ひ、肥前松浦郡を侵した後、筑前博多灣に迫つて來た。九州の武士は檄に應じて急ぎ博多に集中し、少貳經資が全軍を督して沿岸の守備に當り、島津久經は箱崎を警備した。敵の作戰は先づ我が太宰府を占據せんとするにあり、十月十九日敵の一部は今津に上陸し、海陸呼應して東進したので、我が軍は二十日これを博多に邀へ、激戰が展開せられた。蒙古の兵は極めて剽悍で殊に野戰に長じ、集團的戰法を以て向かつて來たから、我が將士の得意とする一騎討の戰法もその效果を十分に發揮し得ず、その上敵は毒矢·火器等の如き我が國には目新しい武器を使用したため、形勢は始めは我に不利であつた。しかし我が軍はよく第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚二九七 第二編中世二六八敵の戰法に慣れたので敵は漸く不利に陷り、夕暮迫るに及んで船中に退いた。その夜偶〓吹き起つた颶風に賊船は或は覆沒し、或は大破して死者算なく、生き殘れる軍はそのまゝ半島に向かつて還つたので、文永の役は忽ち結末を告げた。再寇に對する方策敵軍來襲の急報に接したとき、幕府は家人以外の武士をも徵募して兵力の充實を圖つてゐたが、遂にその必要を見るに至らずして敵軍は潰滅した。併しながら敵國はこれによつて致命的な打擊を受けたわけでなくその再擧が豫想せられた。されば幕府は西國の家人·非家人を交代に動かして不斷に北九州及び長門の海岸を警備せしめ、更に九州地方の統制を完全にするため、北條實政を特派して總帥に當らしめ、また度々令を下して士氣の振作に努めた。敵軍防禦の方法については、先づ海岸の防衞施設を堅くして敵軍の上陸を阻むのを根本方針とし、博多灣の沿岸その他に石壘·土壘等の防壘を建造し、以て味方の掩護物たると共に敵軍上陸の障礙たらしめた。この工事は諸將士に工役等を一齊に課し、實に五年の歳月を費して完成し得たのである。かくの如く防備を嚴にすると共に、幕府は攻擊的態勢に轉ずべき用意をも廻らし、我より進んで大陸征伐のことを計畫した。卽ち建治元年(一九三五)十二月、幕府は山陰·山陽·南海·西海の守護に令して兵船と水手との準備を命じ、更に九州一圓に令して外征の軍に加はらんとする勇士を募つた。この企により國民の戰意は大いに揚り、憂國の熱情溢るゝところ、老者も奮つて兵仗を執り、婦女もまた子弟を激勵するなどあり、幾多の美談が傳へられてゐる。元の再寇計畫文永の役は一夜にして忽必烈の計略を挫折せしめたが、忽必烈はなほ日本侵略の野望を捨てなかつた。かくてこの役の翌年四月、元使杜世忠等は國情視察を兼ねて長門の室津に來着したが、幕府は我が決意の鞏固なることを示すべく前例を破つてこれを鎌倉に護送させ、龍ノ口に斬つた。次いで弘安二年(一九三九)七月に來た元使周福等をも亦博多で斬り、國民の敵愾心をいやが上にも高めた。の間にも元は四圍に對して侵略の步を進め、同年餘命を保つてゐた南宋を滅ぼし、國威愈、熾んなるものがあつた。かくする中に元は日本再寇の計畫を進め、文永の役の失敗に鑑みて水軍の補强に重きを置き、更に征收日本行中書省(日本行省)と稱する特別の機關を設けて、前役に數倍する出動計畫をなし、萬般の準備を完了した。第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚二九九 第二編中世三〇〇弘安の役かくして弘安四年(一九四一)范文虎·所都·洪茶丘等の率ゐる蒙古人·漢人·高麗人からなる十四萬の兵は、江南東路の兩軍に分れ、四千四百艘の兵船に分乘して我が國に發向することとなり、東路軍は同年五月、四萬の兵を以て朝鮮の合浦を發船し、江南軍は六月十萬の主力を率ゐて慶元(寧波)より出動した。かくて東路軍は對馬·壹岐を侵した後、玄海灘を南下して、六月博多灣頭に迫り、一旦志賀島に據つた。最初の計畫では東路軍は壹岐にて江南軍の到るまで待機する豫定であつたが、これを待ちきれず、その期に先立つて南下したのである。我が軍は少貳景資指揮の下に大友·島津·松浦·菊池氏その他九州の將士は、鎌倉から馳せ參じた關東の武士と共に、豫て設けた防壘によつて奮戰して敵の上陸を阻止し且つ交〓志賀島に押し渡つて敵兵を擊破した。中にも熱烈な闘志に燃ゆる竹崎季長·大矢野種保·河野通有等は兵船を馳らせて敵船に乘込み、敵將を捕へ、船を燒き、大いに敵の心膽を寒からしめた。されば東路軍は遂に志賀島から退却して壹岐に逃れた。その頃高麗の兵船の一部が筑前宗條の海上に現はれやがて長同を候したが直ちに擊退せられた、やがて江南軍は期に遲れて平戶島に到着し、東路軍も壹岐からこゝに來り合し、七月の末全軍大擧して博多灣に迫り、鷹島に集結し、進んで太宰府を衝かんとする態勢を示した。これより先、我が軍は壹岐に進んで敵を襲つたが、この大敵を見て益、意氣軒昂敵を呑むの〓があつた。そこへ同月晦日より閏七月朔日にかけ、玄海灘に神風烈しく捲き起り、賊船は殆ど皆漂蕩覆沒して、溺死算なく、慘憺たる光景を呈し、范文虎等は辛うじて逃れ去つた殘存せる敵軍はなほ鷹島に據つたが、我が軍はこれをも掃蕩して數千人を捕虜とし、こゝに戰鬪は終結した。大捷の情報は相次いで京都に飛び、更に諸國に報ぜられ、上下歡喜し、御稜威の宏大と神鑒のいやちこなるに感激した。これを弘安の役といふ。役後の情勢この後、元は執拗にも我が國を侵略せんとする宿望を捨てず、捲土重來の計畫を運らしてゐたので、我は依然戰時體制を弛めなかつた。卽ち幕府は家人を動かして益〓西國の守備を嚴にし、これを統べるために下向した北條氏の一族は九州探題と稱せられて恆久的な機關となるに至つた。而して我が國防が眞に充實したのはむしろ弘安の役後のことといふべく、長期に亙る國民の努力は尋常ではなく、殊に西國將士は國防の重要性をよく認識してその職責を全うした。一方元は第三第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚三〇一 第二編中世三〇二囘の侵寇準備を整へる中に國內動亂の徵が現はれ、遂に我が國に對する出師の計畫を放棄するに至つた。幕府がこの間外敵擊攘のため終始强硬なる對外方針を改めす、國體に目覺めてよく事を處斷し、國防に全力を傾注したことは、國民が國家的自覺を昂め、上下一致の實を擧げたことと共に、國史上の一大美事といはねばならない。ニ國家意識の昂揚國家的自覺の甦生元寇の國難とその勝利とは、國民をして强く國家的精神を喚起せしめた。もとより國家的精神は遠く太古に淵源し、記紀の所傳を始め、國史の展開に遺憾なく示されてをり、しかもこの自覺は本來神國意識に結合するものである。神國意識は、皇祖國を肇め給ひ、歷代天皇が神ながらに御代治しめすといふ歷史的自覺の所產であつて、平安時代には屢〓、國國の語が用ひられ、更にこの時代にはそれが神道論の發達に進んだのである。その主なるものは伊勢外宮の神官の唱へた所謂伊勢神道であつて、この神道思想には陰陽說や、儒〓〓佛〓の影響が見られることは否定出來ないが、その根本精神は神ながらの道の自主性の主張である。しかしかくの如く國史を貫ぬく國家的自覺は、疑もなく蒙古の威嚇を機會として愈、明瞭に顯現し、昂揚されて來たのである。元寇と神國意識の顯揚文永七年(一九三〇)正月朝廷の命により菅原長成の草した菜古のの超趣年の中に片自大坂坐大神舞天然百本今皇家な当調査屬左廟右稷之靈、得一無二之盟、百王之鎭護孔昭、四夷之修靖無紊、故以皇土永號神國非可以智競、非可以力爭、」とあり、神國思想が最も明らかに、且つ要領を得て敍べられてゐる.而して國難を控へて著しく興つたものは神が國家を護り給ふといふ確信と、外國に對する我が國體の優越性についての自覺とであつた。京都正傳寺の東巖慧安(宏覺禪師)が石〓水八幡宮の寶前に祈禱した敬白文にも、我が國は神國として一切の神祇が集まつて王宮を擁護せられることを說き、且つその末尾の紙背に細字にてすへのよの末の末までわが國はよろづのくにゝすぐれたる國と記して、神國たる皇國の永遠性と絕對性とを叫んだ。春日若宮の神主中臣祐春が西の國よせくるなみもこゝろせよ神のまもれるやまと島根ぞ第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚三〇三 第二編中世三〇四と詠じ、また增鏡が、神風について「なほ吾國に神のおはします事、あらたに侍りけるにこそ。」と記したのは、何れも神が我が國を護り給ふといふ信念であつた。西大寺叡尊(興正菩薩)が弘安四年石〓水八幡宮に國難を祈禳し「日本則神末葉也」とて蒙古とは貴賤著しく相別れるものとなしたと傳へられてゐるが、これ神國思想より出づる我が國の他國に對する優越性をいへるものである。國民の各〓によつて愛國の熱情が捧げられた意味はすべてかくの如き思想より出たものであつた。しかも未曾有の國難をよく擊攘し得たのは、天皇を中心と仰ぎ奉つて、學國一致の結集力が發揮されたからであつた。畏くも龜山上皇は諸陵に宸書を納めて國土の無異を祈念し給ひ、宮崎宮の再建せられたときにも「敵國降伏」の宸書を神殿の礎石に籠めさせられた。また弘安四年(一九四一)再度の來襲に當つては宸筆の願文を神宮に奉り給ひ、御身を以て國難に代らんと祈らせられた。世のために身をば惜まぬ心とも荒ぶる神は照し覽るらん明らけき神の國なるをす國と賴む心はくもらぬものをの御製は洵に宸衷の畏さを拜察せしめるものがある。更に執權時宗は戰鬪準備に忙しい中にも、深く國運の安危を憂へ、自ら諸經を血書して敵國降伏と國土安泰とを祈つたが、家人等も齊しく同じ心であつた。されば幕府が逆襲の方略を立てて異國征伐の號令を發し、遠征軍を募つたときには、九州の勇士は惡戰を經來れるにも拘らず、士氣旺盛、奮つて奉公の誠を致さんとした。肥後の家人井芹秀重は八十五の頽齡にて歩行に堪へないからその嫡子等を出征せしめんとし、しかもその嫡子は六十五歳の老齡であつた。また尼眞阿はか弱い寡婦であつたが、その最愛の子息と女婿とを擧げて征討に從はしめんとした。これらは當時老若男女が如何に奮起し勇躍せるかを想はしめるもので、憂國の至情は溢れ出て止まるところを知らない。平素幕府の支配とは無關係であつた社寺·權門も、この國家的危急に當つては片々たる私情を捨て、幕府の計畫を助けて兵站の準備にも從ひ、また支配下のものの動員にも應じた。かくて動もすれば對立する觀のあつた諸勢力も悉く結合し、神國意識を中心として擧國一致の實を擧げ、以て敵國をして一指をも我が國に染めさせなかつたのである。國家意識の展開また元寇を機として培はれた國體觀念は更に勤皇精神を育く第一章鎌倉時代第三節元寇·國家意識の昂揚三〇五 第二編中世三〇六み、建武中興の成立を導く原動力ともなつた。鎌倉末期、禪僧虎關師鍊はその著元亨釋書に於いて我が國を外國と比較して「我國雖小、開基之神也、傳器之靈也、不可同日而語矣」と論じた如き高邁なる歴史觀の展開を見た。また平安中期以來盛んであつた末法思想もこの頃には次第に力を失ひ、また末法思想と共に信ぜられてゐた百王說についても、ト部懷賢はこれを認めず、その著釋日本紀に「百王誠數之衆多也」といひ、後〓に北畠親房は「百王ましますべしと申める、十々の百には非ざるべし。極り無きを百と云へり。」と稱し、極り有るべからざるは我國を傳ふる寶祚也。仰ぎて貴び奉るべきは日嗣を受け給ふすべらぎになんおはします。」といつて、萬古不易の國體を高唱した。外國との紛爭の起つた場合、我が國民は常に國家意識を昂め、必ず擧國一致してこれに對抗し、朝廷の御稜威はいや高く輝かせ給ふ。而して國家意識の昂揚と不可分の關係に於いて尊皇の思想も亦特に著しく顯現する。國民の精神的歸〓が元寇の後次第に幕府を離れて皇室に集まるやうになつたのは當然である。また元を敗退させたことによつて、國民は支那大陸との交通·貿易に關し、自主的進取的な精神を著しく展開した。その結果國民にして海外經略に關心を懷くものがあり、この後小船に乘じて支那·朝鮮の沿岸に渡航し、或は貿易を營み、或は大いに武威を輝かすものが漸く多くなつたことも注目すべきである。第四節武士社會·武士道及び經濟狀態武士社會封建的土地制度鎌倉時代には前代以來の中央の權門·社寺等を本所·領家とする莊園制度が依然として存續し、それと共にこれを利用しつゝ武士の封建的關係が同時に併立せるものといひ得る。卽ち前代に公地制が頽廢してより殆ど全國を覆ふに至つた多數の莊園は本所·領家の下に複雜なる階層的支配關係を有するものであり、武士は莊園にては莊官であるのを常としたが、鎌倉時代にはこれらは多く同時に幕府の家人でもあつた。また前代公地制の名殘りたる國術領も、この時代にはなほ尠からず殘存してゐたが、國司を最高領主とする莊園と敢へて異ならないものとなつた。たゞ元來中央の權門·社寺の莊園が割合に少かつた關東が幕府勢力の主たる第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三〇七 第二編中世三〇八地盤であることは注目すべきであり、これによつて相模·武藏·伊豆·駿河上總·下總·信濃·越後及び豐後の國々は關東の分國と稱せられ、その國司は幕府の家人が任命せられて國衙領を領有し、國內に存する中央の莊園にも幕府の政治支配が及びつゝあつた。鎌倉時代の初め、賴朝が全國一律に莊園·公領を問はず、守護·地頭設置の聽許を得たことは、卽ち在來の莊園制度の中に賴朝を中心とする封建的關係が成立することを意味するものであつた。地頭は個々の莊園·公領に置かれてその經營と治安維持とに當り、年貢を領家に送り、所定の得分を取得し、その中より幕府家人として米穀·財物等の公事を納め、大番役その他の諸役を勤めた。而して地頭職は本來は莊官なるに拘らず、その管理する土地自體が權益視せられこれを所領領所·領地などと稱した。次に守護は國每に置かれて幕命を奉行し、管內の武士に大番役を催促し、公事や諸役を課し、國內の治安·警察に當つた。右の制度は旣に述べた如く、莊園の本所·領家の反對運動によつて一旦地頭設置地域を限定したが、その後漸次に擴大し、殊に承久の變後、京都方に奉仕したものの莊園三千餘箇所に一齊に新補地頭が置かれるに及んで、賴朝が最初に意圖した形態に近きものとなつた。地頭制の運用而してかゝる封建制度は時代の經過と共に圓滑なる運用を見るに至り、關東に於ける幕府の大規模な開墾·治水を始め、全國各地に於ける土地の開發が地頭の指導、地頭間の協力によつて行はれた。殊に元寇の國難に際し我が國がよくその大軍を擊攘し得たのは、幕府の守護·地頭に對する下令がよく徹底し、沿岸の警備、防壘の築造、兵糧·兵員の徵發等に家人組織の活用が適切に行はれたことにもよるのである。地頭が莊園に於いて漸く確乎たる地步を占めるに及び、莊園の本所領領家の中には土地の管理、年貢の徵集等を地頭に委任するのみでなく、經營の一切から收納額の多寡までこれに一任し、自らは地頭と豫て契約せる一定の年貢を受けるに止まるもの)頭請所といふ。好も現はれた。かゝる莊園を地また莊園に於ける地頭得分は給田の收納や段別に課する加徵米を主なるものとして、その他種々の雜收入があり、かなりの多額に達するが、地頭が自己の得分を分取する點について領家との間に收納上の紛爭を生ずる場合が屢〓あつた。その結果かゝる紛爭を永く斷たんとして莊園を折第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三〇九 第二編中世三一〇半して領家分と地頭分とに分ち、領家分には地頭の關與を止めて土地の經營及び管理を自ら行ひ、地頭分は地頭の自由支配の莊園とするものを生じた。これを下地中分といふ。かゝる方法はこの時代の中期頃より漸く行はれ、末期から吉野時代にも至れば大多數の莊園に及んだ。我が封建制度の特質かくの如くして鎌倉時代には中央の院宮·權門·社寺がなほ勢力を維持すると共に、一方鎌倉幕府を中心として守護·地頭及びその被管等の封建的關係があり、時代の社會は二重の組織のもとに存在した。而してこの兩者の上に天皇がましましたのである。この儼然たる事實は我が封建制度を見る上に特に重要なる點である。支那の古代や歐洲の中世に於いて封建制度と呼ぶものは、國王が同時に封建君主であつて、封建制度は國家の全機構を決定してゐたのであるが、我が國に於いてはこの事はなく、天皇の臣たる將軍を中心として成立せるものである。卽ち我が國の封建制度は武家のそれであつた。その存在の根據は守護地頭兩職補置の勅許、征夷大將軍の補任にあり、いはば朝廷より委任せられた封建制度ともいひ得るのである。これは蓋し我が國體の然らしむるところといはねばならない。鎌倉時代の封建制度はやがて武士がその實力によつて土地の蠶食を助長する傾向を促した。卽ち吉野時代より莊園制は漸く崩壞に向かひ武士が莊園所職を以て所領とする慣習から土地自體を領有する下地知行への移行が顯著となり、同時に守護の管轄する分國が封建所領に變化する過程が見られ、室町末期にはこれが殆ど完成して、大名領地としての封建制度が構成せられ、安土桃山時代に於いてこれが公然たる制度となり、かくて封建制度の名に最も適應せる近世封建制度の展開となるのである。一門主従の關係中世武門に於ける一門主從の關係は正に古代氏族制度の形態の延長とも見らるべきものである。武家の一門はその規模が大家族的であつて、一族の長を惣領といひ、惣領に對しては多くの分家のものを庶子といひ、氏族制度の氏上·氏人の關係に比せられる。公事や軍役等は惣領に對して課せられ、惣領はこれを一族に割當てるのである。また血緣關係を有しない從者はこれを家人家來·郞黨·郞從·被管人·所從等と稱し、これらは氏族の部民に比せられる。氏族制度は大化改新によつて社會構成の表面から消えてからも、なほ根强い潜勢力を有し、地方にては氏族第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三一 第二編中世三一二的團結が保持され、氏神の祭祀は續けられ、氏上氏人等は郡司や郷長として地方政治を掌り、以て平安時代に及んだ而して中央の威權が漸く地方に徹底せざるに及んで、遂に亂離の世相を呈し、地方豪族の擡頭が見られたが、それらの豪族には中央から下つて來た王臣諸氏の末裔の外に、古來の氏族の有力者も多數に存し源平諸氏を稱したものの中にも古來土着せる勢力家が尠からずあつたと考へられる。こゝに於いて、地方豪族の一門主從關係が古代より一貫せる氏族的乃至大家族的結合の精神及び慣習に直ちに連なり行く所以が理會せられるのであるなほ家人の語などにもかゝる關聯が考へられる卽ちこの語は或は奈良時代主家に仕へた賤民の一種たる家人に由來すると說かれ、或は廣く豪族の從者を家人と稱したことに由るといはれてゐるが、何れにしても古い用語であることが注目せられる。主從關係の慣習については、主は主君·主人などと稱し、特に幕府の棟梁として尊稱するときは鎌倉殿といつた。新たに家來の關係をとるものは吉日を選んで主人に謁し各海を呈上して初參の儀禮を行ふので、これを見參に入る」といつたもとより將軍の場合の如く、家來が一々見參に入ることの到底行はるべくもないときは、名を列れた名都卽る交名を將軍に注進して主従開係を結皮することもあその關係は主從相互の個人的信賴を基礎としたので將軍の代替りには家來の謁見を行ひ、家來の相續には本領安堵の下文を頂くのが例であつて、かゝる慣習は江戶時代には最も明瞭であつた。このことは主從關係の形式的な更新乃至確認を意味するものであるが、精神的にはその關係を子々孫々に不斷に傳へんとするものであつた。ニ武士道武士道の淵源武士の勃興を契機として、その生活の中に於いては自ら特色ある道德が育成され、發達を遂げた。後世これを武士道といふ。併しながらこの武士道は實に我が國民道德の一顯現に外ならないのであり、從つてその淵源は遠く古代に遡るものである。卽ち我が國では肇國以來天皇を中心に仰ぎ、君臣の分明らかに、敬神崇祖の念深く、孝悌の心に篤く、一族間には相扶けあふ精神が鞏固である。かゝることは古代の氏族制度に於いて極めて明瞭であるが、降つて中央集權的な郡縣制度の時代に入つても、一君萬民の國家體制や、祖孫の情義、地方の結合に於いて變ること第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三一三 第一類中世三一四がなく、而してそれが武士社會に於いては、主從の關係を中心に武士の行動·修練として發揚せられたのである。中世以降の武士道的精神として著しく光彩を放つた忠節·武勇の思想は古くより現はれ、旣に奈良時代に大伴家持は、「海行かば水づく屍、山行かば草むす屍、大君の邊にこそ死なめ、顧みはせじ、」と大伴家傳來の精神を敍べ、また所重東はは特に忠誠更武の精神るよしなに細には前は之とさとも有はつて君を一心に護るものと讚へられた。かゝる上世の國民精神は地方生活の傳統を尙ぶ精神によつて、地方に多く維持せられた。またその特質には、武勇を重んずる精神と共に、質素·勤勉·正直等の美德が數へられる。平安中期以後著しく擡頭した武士社會は正にかくの如き地方生活を母胎として發達して來たのであることが注目せられる。而して武士社會の地位が時代と共に向上するに伴なひ、武勇の士は特色ある道德を具へるに至り、平安末期より鎌倉時代に入るに從つてそれが明確なる道德觀念となり、これが武士道となつた。更に武士生活には、儒〓·佛〓の威化や學問·文藝等の〓養が溶融せられて武士道精神は益〓深められた。同時にまたこの道は男子のみでなく、女子にも及び、武人の母として、また妻としてこれを體現すべきものとせられた。かくして武士道の精神は更に一般社會に至るまで次第に感化を及ぼすことになつたのである。主從の義-武士生活の特徵は行動的·實際的であるが故に、武士道の精神も武士の日常生活の上に明瞭に顯現するものである。武士の主從の間に發生せる義理の念は、主に對して身命を捨て服從を誓ふ精神と、主が從者に對して力を盡くして愛護する精神との堅い結合によつて發揮される。從者の立場よりすれば主の扶助·保護·慈愛等に對しては深き恩義を感じ、これに報ゆるものとして絕對的な忠勤を勵むのである。卽ち主のために戰場に於いて死を鴻毛の輕きに比することは、武士最高の道義であつた。一方主の立場よりすれば、從者を以て自己の股肱としてこれを愛護するのである。而して武士生活は大家族的結合を有し、家長の下に一族郞黨が率ゐられ、家の精神の下にその團結を鞏固にしたので、主從關係の根本も親子關係と離れて考へられるものではなかつた。また事實に徴しても主が從者を多年鞠養して猶子となすこと第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三一五 第二編中世三一六も尠くなく、これらは實子と同じく所領を分與せられて一族となるのが常であつた。親子の情義次に親子の情義についていへば、それは大いに厚く、且つ嚴格に保たれた。子は親に對して孝養を盡くし服從を致し、親は恩愛を垂れて子を育成することはいふまでもないがこれが武士社會にあつては封建的節度と分つべからざるものと考へられ、親子關係はまた主從の關係でもあつた。されば子が親の〓に從はぬとき、これを不孝といひ、不孝の子は義絕(勘當ともいふ)を行つて指彈するのを例とした。これらのことは同時に一家一門の名譽を重んずる思想であり、家名尊重の觀念は武士に於いて特に發達した。而して家名を擧げることは父祖に對する本分であり、それは主君に忠誠を盡くすことによつて果されるとせられた。戰陣に臨み、祖先以來の勳功を竝べて名乘をあげることは、その精神の發露であり、敵味方の前で卑怯の振舞なきは、祖先の名を汚さぬためでもあつた。或は氏神を崇め、その祭祀を厚くすることも一族が皆等しく負ふところであつた。以上の如く主に對し、また親に對する道は武士の根本精神であつて、賴朝は率先してその範を示したが、貞永式目の精神も從者は主に忠誠を盡くし、子は親に孝を致し、妻は夫に從ふことを眼目とし武士社會の秩序の基礎はこの道義觀念の確立に求めその他の德目その他、武士は相互の間にあつては、信賴を旨とし、團結の力が强かつた。また大いに節義を重んじ禮讓を尙び、たとひ敵と味方に分れるともよく義理を辨へた。個人の德性としては〓廉·堅忍等が重んぜられた賴朝は日常質素な生活を送り、嚴に利欲の念に拘はることなきやうに戒め、華奢の風をなす者を懲らし執權北條泰時も無欲を以て政治の要諦となし、時賴も亦簡素を旨とした。武士一般の日常生活も衣食その他頗る質素で、このことは自ら堅忍持久の精神を養ひ延いては武人の集團力をも强くするものとなつた。武士が戰陣に於いて必勝を期し生死の大事を決するには、非常な勇氣を涵養しなければならない。賴朝はそのため、屢、那須の篠原、富士の裾野等に卷狩を催し、常に笠: ge聽欲的人獲物等の我技を後課せしただでで、開催の武勇気の爲風を武士の〓養また當時の武士には剛勇の中にも文雅の道を辨へ風流の逸話を殘〓した者が尠くない。梶原景季が平氏追討の際、梅が枝を箙に插し添へて芳名を攝津第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三一七 第二編中世三一八生田の森に留め、また奧州征伐に白河關を過ぎて「秋風に草木の露を拂はせて君が越ゆれば關守も無し」と、能因法師の秋風の歌に事寄せて大將賴朝の旗風を讃へた如きは、武弁風流の一端を示したものであらう。或は激鬪死生の間に處して風懷を敍べ、政務の繁劇に小閑を得て吟詠をものし、或は甲冑·刀劒その他服飾·調度の類に簡素の美を點じて情操の涵養に資した。殊に將軍實朝は萬葉集の古調を汲んで秀歌の數數を殘し、その歌想の壯烈はよくますらをぶりを現はした。更に宗〓生活に於いては、鎌倉武士の信仰といへば、何人も禪宗の信仰を指摘するほど、兩者には緊密なる關聯がある。それは武士の精神が禪宗の〓義と相通ずるものがあり、禪の氣魄が武士の氣風に投合したからである。禪の趣旨とするところは、抽象的な理論よりも自力を基調とする不屈不撓の精神力の工夫鍛鍊であり、これによつて自己の心に悟道の眼を開き、また死生一如の境地に達することにある。もとより武士の信仰生活は禪宗のみではなく、この時代を中心に興隆した淨土〓がまた武士の間に弘通したことも明らかに認められる。淨土〓が武士社會に迎へられたのは、その行業が極めて簡易であり、且つ時に敢へて殺生をなし、或は命を捨てねばならぬ武士生活に、淨土往生の道を〓へて安心を得しめた點に存する。武藏の武士甘糟太郞忠綱が弓箭の業をも捨てずして往生の素意を遂ぐる道を法然に問うた時、上人は、たとひ軍陣に戰ひ命を失ふとも、念佛せば本願に乘じ來迎に預るべしといつて念佛を勸めたので、忠綱は安んじて戰場に赴いたといふ。かゝる事例は極めて多く、淨土〓は現實の武士生活との關聯に於いて信仰せられてゐた。武士道の歷史的意義しかしこの時代の武士道は、最初に述べた如く國民道德たるの要素を具へてゐるものの、一面に武家本位の道德たるの性格を持ち、直ちに國民道德の最高規範たり得ぬものを藏してゐた。卽ちその主從觀念が多くの場合單に武士主從の情義に止まり、根本的な大義の自覺に缺けがちであつたことがこれである。承久の變に鎌倉武士が去就を誤つた事、北條氏滅亡の際、鎌倉·六波羅等にて多數の郞從が殉死した事などは、かゝる缺陷が生んだ悲劇とも見られる。たゞかゝる主從觀念も、大君のため國家のため、一命を捧げるといふ大義に進む素因を含んでゐることは否定出來ない。而して元寇に於ける將士の奮闘や、建武中興·吉野時代に於ける勤皇諸將の忠誠に於いては、武士の國家的精神が遺憾なく發揮せられたことも忘第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三一九 第二編中世三二〇れられてはならない。鎌倉初期の時代を中心に鍊成せられた武士道は、連綿維持せられて江戶時代に於ける理論的發達の基となり、更に江戶末期から明治時代に入つて、國家意識が昂揚し、國體の本義が明徴にされると共に、高き國民道德たる意義を有するに至り、勤皇愛國を根本とする日本武士道として精彩を放つに至つた。要するに武士亡びてなほ武士道が今日まで鼓吹されるのは、それが單に武士だけの道德たるべきものでなく、國民精神の傳統に培へるからであり、殊に武士が心身の鍛鍊に示した眞摯な實踐的態度に學ぶべきものが多いからである。〓經濟狀態產業平安時代に於いて地方の生產力は漸次增大し農業·手工業·商業等の發達が見られたが、鎌倉時代に入つては更にそれが向上の一途を辿つた。但し前代までの朝廷の政策と異なつて、幕府の國家的見地に立てる施策は殆どこれを見ることが出來ない。先づ農業は鎌倉を中心に幕府の分國內たる關東地方の荒蕪地開墾や治水事業が行はれ、その他の地方では莊園にて夫々開墾が進められて耕作面積は次第に擴大されて行つた。米の外に麥を作る二毛作もこの時代の中頃より漸く普及したが、これは耕作者の所得に歸するものであつたために、農民の生活はそれだけ霑ふに至つた。漁業はもとは瀨戶內海を中心として發達したが、この時代には土佐·紀伊·伊勢等の沿岸や越前·若狭等の海岸も水產物の供給地として著しきものとなつた。鑛業も益〓發達に向かひ、國民生活の向上、輸出貿易の振興と相俟つて產額を增加した。刀劒·甲冑·農具等の鐵器や、佛具·家具その他の銅器の製造及び使用が盛んであつたことは鑛業の隆盛を反映してゐる。而して鐵は中國山脈の脊梁地より出づる砂鐵を主とし、銅も同じ地域に產出し、全國各地の鑛山からは金·銀等の產出も多かつた。工業の發達も著しきものがあり、高級なる工藝技術の進歩が見られると共に、一般の需要に應ずる生活用品の製作も盛んとなり從來の副業的生產に對して專門の職人が增加して來たことも注目すべきである。その結果、夫々の地方に特殊物產の發達が見られ、中でも阿波の絹、美濃の八丈、常陸の綾、但馬の紙、和泉の櫛、播磨の針、備中の第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三二一 第二編中世三二二刀、武藏の鎧、能登の釜、河内の鍋等は人口に膾炙した。交通·運輸地方物產の發達は同時にこれを輸送する通運と、これを賣捌く商業の隆盛とを示すものである。先づ陸上の通運にあつては、幕府は夙に東海道に宿驛·渡ばしやく船·駄馬等を整へた。これには政治的な意義もあつたが、馬借と稱する運送業者も著しく現はれてゐる。しかし輸送の方法としては、陸上より水上が便利であることはいふまでもなく、可及的に水運が利用せられ、莊園の年貢を始め、手工業その他商品のじ輸送のために、產地に近い港灣を積出地とした。またかゝる港灣には間(問丸)が發達した。問は前代に莊園の委託を受けて貢納物を販賣した津屋の發展せるものであり、後世の問屋に連續してゐる。航路は上世には瀨戶內海の航路、北陸道の沿岸から琵琶湖を經て京都に入る通路などがあつたがこの時代には東海道の航路も發達し、また北陸道の航路も遠く津輕·北海道まで延びた。併しながら舟運の最も盛んであつたのは畿內附近と鎌倉附近とであつて、兵庫淀·大津及び鎌倉の和賀江等の港が殊に知られてゐた。かく交通·運輸の發達すると共に、領主が收益の目的を以て港灣や道路の要所に關所を設けることも行はれた。關所はそこを通過する人馬·貨物より關錢を徴するものであつて、莊園と同じく收納の對象として重きをなした。座の發達この時代の手工業を主とする生產品は多く商品として取扱はれ、生產の增加は商業の發達を意味した。而して商人や工人の各種の營業には同業組合ともいふべき座の組織があるのを常とし、多數の座が都市を始め各地の莊園に成立した。座の語の起原については、或は神社に奉仕する氏子の結合たる宮座に因むとなし、或は市場に於ける座席より起るとなし、その他種々の說があつて一定しないが、その發生は上世に遡るものであつて、記錄の上では平安後期に始めてこれを見る。座は外に對しては販賣の獨占を確保して同種の營業者の出現や他の座の侵入を妨げ、內に向かつては相互の競爭を防止して協和の實を擧げ、以て共存共榮を圖ることを目的とするものである。さればとて座は純粹な自治體ではなく、社寺權門に所屬してこれを本所と仰ぎ、その保護を得ると共になんらかの義務を負擔した。かゝる座は商工業の殆どあらゆる部門に亙つて各地に多數の發生を見たが、その最も大なるものとして有名なのは、石〓水八幡宮を本所とする大山崎離宮八幡宮の油座である。第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態 第二編中世三二四この座はその神人が石〓水八幡宮内殿の燈油を供進することに起り油の原料たる大荏胡麻及び製品の賣買に關して諸國に廣く獨占權を有し、諸國の油商人もその神人となつて始めて營業に從事し得るのである。その特典は公武雙方からも保護せられ、その支援の下に獨占權を强化し、營業地域を擴大した。その義務としては石〓水八幡宮に對して燈油を奉獻する外、巨額の金銭を納めてゐた。市の發達市は古代より存したが、この時代にはその狀態の漸く明らかなるものがあり、その多くは月に三日乃至六日を劃して定期的に開かれ、市人や一般の民がこれに集まつて賣買交易を行ひ、座人が市人として席を占めることも多かつた。今に四日市八日市などといふ地名の殘つてゐるものが尠くないが、何れも中世の市場の跡を示すものである。これらの市には社寺の緣日にその門前に開かれるものも多數あり、やがて門前町の成立を促すやうになつた。市場が固定の店鋪に進むことは室町末期に都市の發達する頃から著しく現はれるものである。しかし京都や鎌倉などの政治都市では旣に店鋪營業が盛んであり、社寺や幕府がこれに種々の保護や制限を加へることがあり、それと共に富裕なる商人も興つた。店鋪も同業者間に座の組織を有するのが常であり、京都祇園社を本所とし、市中に居宅を有した綿座などが主なるものである。鎌倉では幕府は商人の居住地域とその數を制限して、その營業の維持繼續に努めしめた。外國貿易の盛況國內商業の隆盛と共に外國貿易も活潑となつた。この時代に我が國より輸出した物資は金·水銀·硫黄·刀劍·漆器·扇·木材·米穀等であつた。金は當時我が國の產額が夥しかつたのに對して支那にては少く、硫黄や良材は專ら我が國の供給するところであり、支那はその輸入の圓滑化に種々苦心した。扇は我が獨創になるもので、その意匠の秀拔·精巧共に宋人の好尙に投じた。これに對し、我が國への輸入品は、典籍·織物·香料·薬品·陶器等であつたがその額は大でなかつた。從つて我が國は輸出超過となり、多量の宋錢が滔々として流入し來つた。宋では錢貨の積出を禁じ、船舶の出發に際し官吏をして嚴重なる捜索を行はしめることとしたが、錢貨流出の大勢は止むべくもなかつた。貨幣の普及奈良時代及び平安初期に於いて朝廷では度々錢貨の鑄造を行はせられたが、依然として米絹·布等を媒介とする賣買交易が主として行はれた。然るに第一章鎌倉時代第四節武士社會·武士道及び經濟狀態三二五 第二編中世三二六經濟の發達に伴なひ、自ら錢貨の必要に迫られ、平安末期より宋錢が頻りに流入するに及んで、その貨幣としての流通が漸く盛んとなつた。朝廷にては宋錢の國內通用を禁ずべきや否やについてこれを問題とせられたが、朝議決せず、後鳥羽天皇の建久四年(一八五三)に至つて漸く停止令を公布せられた。しかし宋錢取引はなほ隱密の間に行はれ、國民もその利便を感じてゐたので後堀河天皇の嘉祿二年(一八八六)その取引が公認せられ、爾後貨幣經濟は益〓普及するに至つた。金融業貨幣の流通に應じて莊園貢租の錢納化も漸く著しくなり、一方遠隔地間の商品流通も益〓進んで來た。こゝに於いてこの時代の中頃には爲替の發生を見るに至つた。而して爲替の活用により商人は多額の資本を携帶せずして地方に出で物資の買付に廻ることが出來たのである。かしあげ經濟の發達に伴なうて金融業者も多く現はれた。當時これを借上と稱し、米の貸付をも行つた。借上は單なる金融業者たるに止まらず、時に地頭に融資を行つて莊園に種々の權利を獲得したり、地頭代として莊園の經營に當るものも出た。また質とs屋を營む土倉もあつたが、これは室町時代に一層進展を遂げるのである。第五節鎌倉時代の文化ー文化の特質鎌倉文化の根原鎌倉時代の文化は大局的に觀て二つの面を持つてゐる、それは京都を中心とする公卿的な文化と鎌倉を中心とする武家的な文化とである。前者は平安時代以來中央の公卿等の間に培はれた纖細にして情趣的なものであり、後者は地方の武士生活を基礎とする素樸にして意志的なものであつてこの兩者の相關及び對立の中に時代の文化が展開した。而して鎌倉時代全般を大觀すれば、前代の華麗な文化の意義が薄らぎ、代るに力强い現實生活から生まれ、實踐的に育てられて來た新しい文化卽ち武家的なものが極めて濃厚であつた。かゝる時代文化の轉換は實に武士の政治的社會的進出に負ふところが大であり、この武士精神の特色はまた我が上世の庶民生活のそれと相通ずるものがあつた。事實、武士は上世の庶民的環境から擡頭し、上世文化の素樸と平明とを强調して、前代の優れた遺產たる「もの第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三二七 第一編中世三人のあはれ」の精神を堅實なるものに發展せしめた。例へば文藝として優れた源實朝の作歌は公卿的〓養の攝取から生まれたものであるが、その歌風は雄渾にして純素なる萬葉集の風格を有し、また貞永式目の內容が律令の形式の整然さを離れて極めて素樸であり實際的であることは、古代生活からの脈絡が貫通せることを示すものである。併しながらまた鎌倉時代の文化の特質は古き傳統に基づくのみではなく、時代の進むと共に國民の內省により一層思想を深くしたことを見逃し得ない。殊に元寇の體驗によつて起された國民的自覺や、或は神本佛迹說に於いてその顯現を見るのである。文化の普及次に文化の普及といふ點から考へるに、この時代の文化は多く國民の實際生活に根ざせるために、幕府が鎌倉に開かれた事、僧侶布〓の流行した事などと相俟つて、地方的にも普及する端緒が開かれ國民的文化の形成に培つた。また支那との頻繁なる交通によつて、大陸の文化に轉機を劃した宋代文化は我が國にも傳はつたが、これも國民化する機緣に惠まれた。卽ち前代に於いて遣唐使による日唐交通は貴族的文化に寄與することが大であつたが、この時代には庶民にして潑刺たる進取的精神に促されて宋に渡航するもの多く、商舶に身を託して往來した渡宋僧もあつて、何れも文化の庶民化に寄與した。また歸化僧の齎した文化も渾然として我が文化に溶融されて公卿·武家のみならず、廣く國民一般の好尙に投じつゝあつたのである。=神祇崇敬と神道神祇の崇敬神祇の祭祀は前代の延喜式に於いて整備し、その後制度的には著しく變化するに至らなかつた。而して治國の本義は神祇の崇敬にありとする古來の信念ば鎌倉時代に於いても聊かの動搖もなく敬神の風は極めて朝野に敦かつた。後鳥羽天皇は建久二年(一八五一)宣旨を以て「國之大事莫過祭祀」と仰せられ、諸社の祭祀を勤仕すべき旨を仰せ出され、歷代天皇何れも同じ大御心にあらせられた。卽ち順德天皇は建曆二年(一八七二)重ねて宣旨を以て諸社の祭祀を嚴にすべきを誠め給いまた御答特移御抄は公路にに所所とむれ式鉄中作集先御事故他其第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三二九 第二編中世三三〇之叡慮無懈怠白地以神宮〓內侍所方不爲御跡」と記させ給うた。ついで後堀河天皇龜山天皇は度々新制を定め給うたが、何れも先づ祭祀を興すべきことを揭げさせられた。幕府に於いても代々の將軍は敬神の念深く、賴朝は治承四年(一八四〇)以仁王の令旨を受けたとき、先づ氏神石〓水八幡宮を遙拜して後、これを披閱し、同年鎌倉に本據を定めるや、先づ鶴岡八幡宮を改築して恭敬の誠を捧げた。伊多神宮に對する朝朝の普業は特高く顯文を搾げ神物を奉來東東のを安堵し、または寄進し奉つた。幕府が祭祀を重んずる精神はその後引續き見られ、また貞永式目第一條には特にこのことが擧げられてゐる。廣く一般國民の生活にも神祇崇敬は重んぜられ、國民は祖神や產土神等の祭祀を通じて報本反始の誠を捧げた。殊に弓矢の道を重んずる武士の生活に於いて敬神の念は敦きものがあり、石〓水·宇佐·熟田·阿蘇·三島等の神社は武士の崇敬によつて社壇大いに隆んとなつた。神道思想國體を明らかにし、我が自主的な立場を顯揚せんとする精神は、元寇に際して著しく發揮せられたが、それは單にこの國難によつて最も具體的なる顯現を見たのに過ぎず、實は時代を一貫せる傾向であつて、旣に早くかゝる精神を基調とする神道思想が興つてゐた。卽ち山城國笠置寺の員慶解脫)は天照大神に本地佛を認まめず、日本を以て本位とする說を樹てて從來の本地垂迹說を斥け、禪宗の榮西も日本を世界に於ける最も勝れた國家となした。また敵國調伏に熱烈なる祈禱を捧げた禪僧慧安は萬國をして我が神道の下に屈伏せしめんとしたが、かゝる自覺こそ佛を本地とする垂迹說に慊らずして、日本の神こそ本地であり、印度の佛は我が神々の垂迹に過ぎないといふ神本佛迹說を導くものであつた。神本佛迹の思想は國民の神祇に對する觀念から早くより存したのであるが、この後の時代に至つて益、伸展する思想であつた。それと共に神道を純粹の姿に高めんとする自覺も現はれた。伊勢外宮の神官度會代々によつて唱へられた所謂伊勢雄のかたであつてに外各神遺度などと稱せられる。その說によれば、萬有は陰陽五行の展開に基づくものとし、心は神明の主、心神は天地の本基であるとし、心を重んずる立場が採られてゐる。その思第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三一 第二編中世想には儒〓佛〓·道〓殊に陰陽思想の要素が加はつてゐるけれども、旣に神道として統合されてをり、しかもその基づく所は皇統連綿たる我が國體に存するものである。卽ち内外兩宮の尊嚴を說いて、我が國は神國であり、神の加護によつて國家の安全を得、また逆に國家の尊嚴によつて神明の威を增すといふ相互一體の關係を說いてゐる。その思想を窺ふべきものは神道五部書である。これは五種の著作から成るもので、何れも古代の作に假託してゐるが、實は鎌倉初期前後に成つたものと考へられ、その成立は同時に伊勢神道の樹立でもあつた。降つてこの時代の末には度會家行が類聚神祇本源を著はして、伊勢神道を大成した。これは從來必ずしも組織的な思想として著はされなかつた神道五部書その他の說を綜合して神道說の體系を樹て、固有の神祇の道を强調したものである。三佛〓新宗派の興起舊宗派の新機運この時代の政治·社會一般の新機運に伴なつて佛〓界にも亦〓新なる動向が漲つて來た。卽ち一方では舊來の佛〓諸宗派の覺醒があり、他方では新宗派が相次いで勃興した。奈良の諸宗にては長らく沈滯した後を受けて、高僧碩學相次いで出で法燈再び明塩るさを增した感がある。卽ち華嚴宗の高辨明惠)は洛西の栂尾に高山寺を營んで宗風を振肅し、法相宗の貞慶解解)は持戒極めて嚴重で、當時の僧侶が多く名利を求むるに汲々たるに慊らず、奈良興福寺を去り、山城笠置寺に籠つて修行した。律宗の俊芿は戒律を〓鑽し、宋より歸國後は洛東泉涌寺を中興した。同宗の西大寺叡尊は戒律思想の宣布を圖り、殊に元寇の國難に際して敵國降伏の熱騰を捧げ、殘後興正菩薩の諡號を勅賜せられた。天台宗ではその根本道場たる比叡山延曆寺が前代と同じく朝廷及び貴族と密接な關係を保ち、慈圓の如き名僧が出たが、宗〓としての興隆は遂に現はれなかつた。また眞言宗には高野山金剛峯寺を中心として學匠が輩出し、中inヒでも結城は前代末期に新設定を聞いた登録の餘をあげて紀伊國根本山と對立するに至つた。新宗派の成立かくして舊宗派には〓新の氣風が漲つたけれども、時勢は單に舊宗派の刷新のみを以て滿足せず、遂に平安中期から勃興しつゝあつた淨土〓の發展第一章錄倉時代第五節鎌倉時代の文化 第二編中世를四を始め、時代に適應する新しき諸宗派の成立を見るに至つた。卽ち淨土〓では源空じ しゆう(法然)の開いた淨土宗、親鸞の開いた眞宗(一向宗)及び智眞(一遍)の開いた時宗等があり、別に日蓮は日蓮宗(法華宗)を開き、支那から傳來したものには榮西の傳へた臨濟宗とさ13道の開聞いた夢洞家とありまりますが奉出して新宗波を遇したとと代の偉觀である。なほこの時代の法語類に和文體の書が多く現はれるのは、佛〓が國民一般の生活に深く滲透しつゝあつたことを示すものである。淨土宗阿彌陀佛の慈悲によつて來世には淨土に往生するといふ淨土〓信仰は、平安時代に空也·源信·良忍等により頻りに唱へられ、當時頗る流通したが、鎌倉時代への過渡期に法然が專修念佛を唱道してから、人心多くこれに歸〓し、淨土〓の獨立に一時期を劃したことは前章に敍述したところである。法然が九條兼實の需により建久九年(一八五八)に著はした選。体本願念傳集は、その宗義を最も明らかに表はしたきものである。卽ちその要旨は自力難行の聖道門の諸宗を措いて他力易行の淨土門に師し更に雜行を捨てて再土社生を遂ぐんき正行を取りその中でも名金佛を正定業としこれを以て往生の行とするものである。而して法然は戒律に精しかつたが、信ずるに易く、行ふに易き〓旨を弘める必要から、他の諸宗が特に重んずる持戒の點に於いてこれを重要なる條件としなかつた。こゝに於いて人心が翕然として法然の宗旨に趨くに至つたので、南都北嶺の諸宗はこれを見て頻りに誹謗し、その流通の禁止を朝廷に迫つた。更にまたその門弟中には世の疑惑を招く者もあり、念佛に對する讒謗は益〓加はり、遂に承元元年(一八六七)法然は土佐國に配流された。法然は流謫の間にも邊土〓化に努め、盛んに地方の布〓に專念し、のち赦されるや歸京し、洛東大谷にて往生を遂げた。淨土宗は武士や庶民の間にその信仰が大いに弘まり、公卿にも多くの歸依者を得て、時代社會を風靡せる觀があつた。眞宗法然の弟子親鸞は師の祖述者を以て自任したが、獨自の信仰の境地を開き、眞宗の開祖となつた。親鸞は承元の法難に際し師に連坐して越後に流されたと傳へられ、北陸及び東國地方を巡つて〓化に從事し、地方民衆の間に歸信せられるに至つた。その說くところは、特に信心を重んじ、凡夫の生活をそのまゝに認め入信以後の念佛を以て阿彌陀佛に對する報謝の業とするにあり、肉食妻帶を自ら實踐して非僧非俗と稱した。かくて前後三十年に近く諸國を巡遊してその布〓に努めたが、第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三三五 第二編中世三三六のち京都に入り著作に親しんだ。〓行信證六卷は親鸞の著述の最も主要なるものである。その弟子は主として東國に於いて〓旨を傳へ、始めはその勢力徵々たるものであつたが、地方民心に與へた〓化力は次第に發展し、室町末期に至つて大なる勢力を擁するに至るのである。時宗鎌倉時代の中期に入り智眞(一遍)によつて同じく他力の〓である時宗が創められ、民衆〓化の運動として著しく現はれた、一遍は遊行上人ともいはれ、念佛を廣く民衆に弘めんことを發願して全國を廻り、更に紀州熊野本宮に於いて神託を受け、一切のものは思辨を離れた念佛に歸一するといふ趣旨を以て遊行し、その足跡の至らぬ所なしといはれた。時宗の名稱は平常と臨終との差別を認めず、平時も臨終時の覺悟で念佛するといふ意味から起つたものである。且つ時宗の〓義には神祇を重んずる點があり、これは時代の敬神思想との調和を示すものといひ得る。禪宗かく他力易行の〓が社會を風靡すると共に、一方には禪宗が渡來した。禪は早く奈良時代に道琥が支那よりこれを傳へ、また最澄が天台宗の〓義の中に含めたものであつた。然るに鎌倉時代となつて武士の間に精神修養の氣風が興るに及び、禪は新たなる系統の下に宗派として獨立するに至つた。卽ち初め天台宗を學んだ榮西は再度渡宋して建久二年一八五一)に歸朝し、平戶や博多を中心として盛んに臨濟禪を唱へたが、比叡山よりの奏狀により新たに達磨の宗を立つるものとして停止せられるや、興禪護國論を著はしてその〓義を說き、佛法の至極が禪であることを强調した。然るにその後、南都·北嶺のために愈。激しい妨害を受けたので、遂に關東に下り、將軍賴家の保護の下にその宗旨の弘通を圖つた。しかし天台宗の壓迫はその後も停止することがなく、榮西も遂にその態度を緩和し、建仁二年一八六二)には洛東に建仁寺を建てたがそれは延曆寺の末寺としての道場であつた。しかし、榮西が禪を獨自の立場に於いて我が國のものとして說いたことは注目すべきことである。而して禪宗は直指人ふと思い性成佛といひ、不立文字·教別傳と稱して坐禪によつて悟道を開かんとする〓旨を有し、武士的精神に適合したために、次第に隆盛となるに至つた。臨濟禪に次いで曹洞禪が道元によつて宋から傳へられた。これは榮西の場合と異なつて、旣に機緣も熱し、また禪宗としては一層日本化し、支那禪の特色を脫してゐ第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三三七 第二編中世三三八る.道元は承久の變後間もなく渡宋して、禪宗の一派たる曹洞禪に悟達し、安貞元年(一八八七)歸朝し、洛外深草に庵を結んでゐたが後に招請せられて越前に永平寺を建立し、これに住した。そして深山幽谷に眞乎求道の士を養ひ、性來名聞を好まず、執權時賴に招かれて鎌倉に下つたけれども、やがて永平寺に歸り、敢へて世俗に拘らなかつた。卽ちその唱へるところは出家主義佛〓であり、易行道を排斥して嚴格なる修行に精進し、坐禪によつて萬法を攝し、佛祖の大道を行取することにあつた。なほ道元の著として止法眼藏があり、彼の獨自の思想を說いたものとして名高い。榮西·道元共に優れた法嗣があり、この後臨濟宗は上流社會に行はれたのに對し、曹洞宗は廣く民間に行はれるに至つた。而して禪宗が國民精神に同化すると共に、宋元文化一般もこれと不可離の關係に於いて受容せられ、我が文化に對する影響は頗る大であつた。禪僧の來化と渡宋この時代、宋では禪宗が盛んであつたが、宋が蒙古に侵略せられるに及んで、その兵亂を避け、或は蒙古の治下に入るを潔しとせざる僧侶が多數來化して我が禪宗の發達に貢獻した。それと同時に我が僧侶にして身を商舶に託し、渡宋して禪を學ぶ者も多數に上つた。その中でも注意すべきは、渡宋の圓爾辨圓(聖ち一國師と來化の蘭溪道隆(大覺禪師とであらう。辨圓はもと天台宗を學んだが、仁治二年(一九〇一)宋より歸朝の後は筑前に於いて臨濟宗を唱へ、關白九條道家の招請に應じて京都に上り、道家の建立に係る東福寺に住した。その後、北條時賴に招かれて一時鎌倉に赴いたが、主として京畿に於いて朝指の間に禪の地位を確立するに努め、その弟子無關普門は龜山上皇の御歸信を得て南禪寺を創めた。道隆は支那西蜀の人で寬元四年(一九〇六)來朝し、初め京都にゐたが、のち時賴の招きによつて鎌倉に下つた。建長五年(一九一三)時賴は道隆を開山として鎌倉に建長寺を創立し、その伽藍の規模、寺內の紀綱等悉く宋の制に準じ、こゝに鎌倉の地に最初の禪寺が營まれた。次いで北條時宗は宋より無學祖元を迎へ、彼のために圓覺寺を建立した。時宗は參禪工夫に親しみ、その毅然たる態度はこれに負ふところが尠くなかつた。日蓮宗かく淨土〓の諸宗と禪宗とが時勢の動向に應じて信仰界を風靡する間に、なほ鎌倉に日蓮宗が日蓮によつて開立せられた。日蓮宗は天台宗と同じく法華經を所依の經典とするものであるが、これを本迹二門に分つて獨自の說を展開し、第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三三九 第二編中世三四〇また法華經は眞理自體であつて、一切經中の眞實〓であると說くものである。日蓮は建長五年(一九一三)〓里安房の〓澄山に法華題目を唱へて一宗開立の基を定め、爾來度々の法難にも届せずして〓義の宣布に從事した。卽ち先づ鎌倉に入つて法華の題目を唱へつゝ盛んに熱烈なる辻說法を行ひ、正嘉年間鎌倉地方に起つた天災地を横として守護國家論なにと更に安國ををばしていとい葉と正にてなければ他國の侵略を受けるべきことを論じ、これを幕府に進めた。幕府はその說が餘りにも過激であり、治安を紊すものとして日蓮を伊豆に配流した。日蓮は後に赦されたが、偶〓文永五年(一九二八)蒙古の來牒に及んで、その豫言が正に適中せるは法華經の感應なりとし、この經典の功德を以て國家を鎭護すべきことを幕府に建言し、念佛眞眞·禪·律の諸宗を激しく排擊した。こゝに於いて文永八年(一九三一)またも捕へられて佐渡に配流せられたが、その信念は變るところがなかつた。後再び赦されて鎌倉に歸り、やがて甲斐の身延山に法華の道場を營んだ。かくて關東北國地方には漸く法華題目の聲が盛んとなり、ついで日蓮の法孫日像の時に至つて、京畿地方にもその布〓の基礎が開かれるに至つた。時代精神と新宗派我が國にて古くより確立されてゐた佛〓受容の自主的態度は、鎌倉時代に於いても明確であり、佛〓は國民精神によく適應した宗〓となつた。殊に右に述べた新宗派は國民生活と密接に結合し、且つ國家的精神の昂揚に資するところが多かつた。先づ淨土の諸宗は他力的·絕對的なる信仰に最高價値を置いたものでその發端は旣に古いが、特に簡易を趣旨とするその〓旨は鎌倉時代の精神に適應した。殊に武士が淨土〓を信仰したことは、戰場に馳驅する自己を造惡·無常の身と觀ずる悲しみに對する救濟の道であり、また彌陀の本願に絕對的に歸入する態度には、主從觀念に相通ずるものが見られる。また禪宗の自力鍛鍊と坐禪工夫による大悟徹底は、果斷·直截を本旨とする武士の精神修養によく適合するものである。更に日蓮宗の〓旨と布〓態度とには、時代の氣魄を尙び、國を憂ふる精神が强く反映してゐる。總じて新興の諸宗は何れも現實に生きんとする實行的精神に富むものであつた。新興の各宗派は〓してまた庶民的であつた。さきに眞言宗等の舊宗派は先づ朝延の信仰を得て、然る後下々に弘まつたが、新興の諸宗は舊宗派の激しい妨害を受け第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三四一 第二編中世三四二ながら、大體に於いて最初から庶民の間にその地步を固めたのであり、その〓旨や布〓方法に舊宗派と異なるものがあつた。しかも新宗派の僧侶が諸國に配流されて邊境の國民を〓化し、或は全國に遊行してその足跡を留め、或は街頭に立つて盛んに行人に說法するなど、何れも庶民的なる面目をよく示してゐる。四學問·文學學問の興隆我が國古來の傳統に對する自覺は各時代を通じて展開せる中にも、この時代には特に顯著に自主的な國家意識と神道思想とが勃興したことを旣に述べたが、學問の興隆も亦これと一聯の關係をなすものである。有職故實學問の中、先づ注目すべきは有職故實卽ち朝儀百般に關する〓究である。この學は平安中期以來次第に發達する勢にあつたが、鎌倉初期に於いて特にその興隆を見るに至つた。その動機は武家政治に對して典禮を振肅して朝政を更張せんとの機運が著しく昂まつたことによる。後鳥羽上皇は畏くも大御心をこの點に注がせられ、屢〓、朝臣を召して論議·習禮を行はしめ給ひ、親しく世俗淺深秘抄を著はして禁中の儀式、朝官の作法の故事先例に背いたところを考證是正あらせられた。順德天皇はまた禁秘御抄を著はされ、禁中の作法·故實の古く正しきものについて詳記し給うた。古典の〓究前代以來宮廷に於いて屢〓行行れて來た日本書紀講筵の傳統は、この時代に於ける神道思想の發達に伴なうて活潑なる〓究的態度を喚起した。殊に京都のト部氏は古典〓究の家統として知られ、文永年間にト部兼文は古事記に註を加へ、續いてその子懷賢(兼方)は日本書紀に關する家傳の解釋を大成して釋日本紀を著はした。釋日本紀は書紀の字句について註解を加へたもので、それには我が國體の本質を明らかにしようとする主張が見られ、聊かも儒佛による俗說の影響を蒙らず、皇國の純粹なる姿を見出さんとしてゐる點に時代の機運を看取することが出來る。史學かゝる動向に沿うて歷史意識も濃厚なるものがあり、多くの史書が著作せられた。前代からこの時代への過渡期に水鏡が著はされて大鏡·今鏡に先立つ時ぐくわんせうぐら初ひ相依つて一勝00文國史の皮立を見てるるが更に承久の兼實の弟にして天台座主となつた僧慈圓によつて著はされた。愚管抄は國史の全第一章錄倉時代第五節鎌倉時代の文化三四三 第二編中世三四四時代について世態の推移、人心の動向等を深く考察し、これに夫々理法の存することを考へ、道理の語を以てこれを說明してゐる。佛〓的影響の存するものではあるが、なほよくこれを克服した點があり、古今の史書中、歷史哲學的色彩の最も濃厚なるものである。幕府には日記體の記錄として吾妻鏡がある。これは漢文體であるが、十分日本化した文章を以て綴られ、賴朝擧兵より將軍宗尊親王辭職歸京にまで及び、幕府の施設、家人の生活等を窺ふべき貴重な史料である。またこの時代の末期には禪僧虎關師鍊が元亨釋書を編んだ。これは日本佛〓史とも見るべき內容を有するが、透徹せる國體論を展開せることは特に注目すべきである。宋學儒學は我が國に於いても古來漢唐訓詁の學が行はれ、儒家の學統は多くこれを踏襲してこの時代に及んだ。然るにかゝる傳統的な儒學に對して一方宋學が禪宗と共に新たに渡來するに至つた。宋學は佛〓や道〓の〓理を取容れた儒學の一派であつて、支那宋代の程明道·程伊川·朱熹等によつて唱へられたので、程朱學·朱子學とも呼ばれる。その特色は訓詁を斥けて理氣心性の探求を主とし、格物致知を說き、具體的なる生活に卽して人のあるがまゝなる本性を究め、人倫の使命に邁進することを重んずるにある。從つて宋學は人倫としての大義名分を明らかにし、知行合一的なる性格を有するのである。心性を究めることを重んじ、氣節を尙ぶ宋學の精神は禪宗の特徵に合致し、支那に於いて旣に禪儒一致の風潮があり、禪僧は何れも宋學にも造詣が深かつた。從つて我が國に於ける禪宗の隆盛と共に、來化または渡宋の禪僧が宋學を傳へたのは當然の道程であつた。宋學の精神は殊に鎌倉武士の風尙に適ひ、修養を重んじ氣〓を旨とする彼等の間に於いて獨自の發達を遂げた。更に後醍醐天皇はこの學を親しく御〓鑽あらせられると共に、朝臣にもこれを奬勵せられた。因襲に狎れたる延中の氣風は天皇の御代に全く一新せられるに至つたが、それには宋學の與るところが尠くなかつた。文學研究文學を研究する機運はこの時代に入ると共に大いに昂まつた。畏くも順德天皇は八雲御抄を著述あらせられて、詠歌の法式、歌詞の意義出典を說かれ、また歌風の歷史的推移について評價を加へさせられた。藤原定家は歌論の書を多く著はして、歌は古今集を模範とすべきを說き、諸種の歌集を校勘して定本を作り、また第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三重五 第二編中世三四六それらの註釋書を著はした。關東にては實朝が萬葉集を愛好してよりその〓究が盛んとなり、僧仙覺はその校訂と註釋に貢獻するところが大であつた。なほ定家の弟子源光行及びその子親行は源氏物語の校合を行ひ、その註釋書として水原抄が著はされた。この時代には單に文學書のみならず、記紀の〓究が行はれ、その成果の擧つたことは旣に述べたところである。文學の特色鎌倉時代の新興精神に應じて、文學も自ら簡動直截な特色を示しつつあつた。しかも一方に前代からの傳統的な傾向はこの時代にも文學の背景としてなほ大きく存してゐる點に、この時代の文學の特色がある。軍記物この時代の文學に特に異彩を放つて新しい趣きを加へたのは軍記物である。これは時代獨特の雄勁な思想と簡潔な敍述とによりつゝ、なほ朗々誦すべき前代の華麗さの面影を殘し、加ふるに前代末期から特に著しい佛〓的無常觀を滲透せしめてゐるのを特色とする。軍記物の主なるものは保元物語·平治物語·平家物語·源平盛衰記等であり、これらの內容は何れも源平以來の治亂興亡を題材として如實に戰鬪の有樣を寫したものであるが、時代の好尙に應じて冗漫の弊を避け、巧みに漢語·佛語を交へた明快な假名混り文を用ひたことは、正しくこの時代の創意とすべく、また生別離苦の哀傷を佛〓的色彩を以て敍べてゐることも時代精神の反映を思はしめる。中でも平家物語は情〓濃やかな筆致を以て美しくも儚ない平家一門の榮華と沒落とを描き、その中に諸行無常·盛者必衰の理を敍べたものである。これはまた琵琶に彈じて語られ、世人にもてはやされた。平家の沒落といふ一大悲劇を內容としながら、その詞章の間に溢れた一種の諧調のために深刻なる陰慘の氣分を與へないことは、時代の背景たる武家的な素樸性を感ぜしめると共に、また平安時代の文學傾向たる敍述の華麗さの遺存を思はしめるものである。和歌和歌は京都·鎌倉を中心として盛んに行はれた。殊に後鳥羽天皇及び皇女式子內親王は和歌に優れさせ給ひ、同じく鎌倉初期には藤原定家や藤原家隆·僧慈圓·藤原良經·源實朝等の著名な歌人が輩出した。定家は歌學を大成し、また家隆と共に勅を奉じて新古今和歌集二十卷を撰した。この歌集は歌調が流麗であり、歌想が巧緻なる點に於いて實に勅撰和歌集中に重きをなした。また實朝の詠が古雅にし第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三四七 第二編中世三四八て雄渾なるなど、何れも當代初期の盛況を偲ぶに足るものである、されど後にはその作風は花鳥風月に、戀愛情調に、およそ前代以來の範疇を出ないものとなつた。しかのみならず、同じ題の下に多數の指紳が歌を作る所謂題詠が流行して、かゝる弊害は著しく現はれ、類型に墮し形式に流れ、個性的特色は失はれるに至つた。一方新興の武士の間にも和歌は嗜まれたが、その歌には武人たる特質も獨自の生活環境も十分表現されなかつた。かくして總じて和歌には創造的意義を認め得なくなり、むしろこの後は連歌によつて新しい境地が開拓されんとしつゝあつた。說話集と紀行文·隨筆前代に起れる說話集はこの時代に益〓多く現はれ、行住坐臥の間に道を求め、見聞を廣めんとする士民にとつて心の糧となつた。これらの多くは倫理的·宗〓的意味を含めてゐるが、また文學としても見られるものである。十訓サ抄·沙石集等は特に〓訓的色彩に富み、宇治拾遺物語·古今著聞集等は話柄豐かに興味深く、總じて寓意の興趣表現の平明を以て人心に投じた。なほ京都鎌倉間の往來の漸く繁くなつたことが契機となつて海道記東關紀行·十六夜日記等の紀行文が生まれたことも注意に價する。隨筆としてはこの時代の初めに鴨長明の方丈記があり、無常觀を中心として自己の生活心情を敍べてゐる。また時代は稍〓降るが、次の吉野時代に吉田兼好の徒然草がある。これは現實生活の中から事物の表裏·明暗を衝いて自己の人生觀や自然觀を巧みな筆のすさびに表現してゐる。學問の地方傳播この時代の學問は歷史的傳統のまゝに京都を中心とし、地方の學問は〓して京都に育まれたものを享受するに止まつた。鎌倉では將軍實朝及びその後京都より將軍の下向するに至る頃から漸く京都の文化が浸潤し始め、延いてはこゝから關東諸國に移植された。元來武士は武藝に長ずるを本分とし、多くは學問に努めなかつたが、幕府が學問を保護奬勵するに至つて次第に發達し、武藏の金澤文庫、下野の足利學校等が開設されるに至つた。金澤文庫は北條泰時の甥實時がその別業たる金澤の稱々石に文庫を營み、家藏圖書を收めて一族の〓究に資したのに始まる。その子顯時·孫貞顯また父祖の風を繼いで好學の人であつた。足利學校の創設事情は明確を缺くが、恐らくこの時代に足利氏一族の學問所が設立せられ、それが室町時代に上杉憲實によつて足利學校として中興されたものであつて、禪僧が〓第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三四九 導の師となつて宋學を講じた。べきものを生かし、更に奈良時代の樣式から〓楚にして力强いものを復活せしめ、こき事項を多く載せ、これによつて知識を涵養せしめると共に、兼ねて習字の手本とし種の往來物などが讀習された。したのである。れに廣く大陸樣式の採るべきものを加へて、新時代の風格を現はした新樣式を育成共に、かゝる傾向を更新せんとする機運が自ら起るに至り、前時代の傳統から生かすて貴族生活の表現であり、優美纖細に過ぎた觀があつた。たものである。簡素で、時代による變化が少いのであるが、前代以來これにも自ら宮殿や佛寺建築に建時代の新傾向築第二編神社建築は由來佛寺建築と異なり、古い傳統がよく守られ、構造上極めて中五世前代の美術工藝は幾多の優秀な作品を遺したが、それらは主とし美術工藝門大南寺大東往來物は書翰の文例を主として當時の常識たるべなほ鎌倉時代には寺院に於ける庶民〓育が起り、諸從つて鎌倉時代に入ると三五〇殿利舍寺覺圓 事件中华中国有利大学玉中T v〓卷繪起緣神天野北 源賴朝畫像於いて練られた手法が影響した。その盛んに用ひられたものは流造の形式であつたが、また大規模なものも見られるに至つた。今日に遺れるものとしては、寢殿造の形式が應用せられた嚴島神社攝社客神社本殿の如き、その最も大なるものである。單に簡素を旨とした前代までの神社建築に對比して一つの進展と見なければならない。寺院建築は平安時代に於いては技巧美に偏し建築本來の構造や意匠になんらの發展をも見せなかつたのに對し、この時代に入ると、新時代の風潮に應じて巧緻纖細の技よりも、雄渾豪壯な建築構造の持つ力の美しさを表現するに至つた。而して平安時代以來の傳統的樣式には和樣建築があり石山寺多寳塔·京都蓮華王院本堂(三十三間堂)等がその例であるが、しかも時代の好尙に應じて簡素雄偉の美を示してゐる。新樣式として第一に注意せられるのは天竺樣であつて、これは俊乘坊重源が平氏の兵火に燒失した東大寺大佛殿以下の伽藍を復興するに際して始めて用ひた樣式である。この樣式は支那宋代に源流を有し、その特色は要部の構造が簡單でしかも大規模な建築を構架し得る點にある。その遺構としては東大寺南大門や播磨の淨土第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三五一 第二編中世三五二寺淨土堂等が擧げられる。第二には新興の禪宗伽藍に見られる唐樣建築がある。これは完成された樣式として支那からそのまゝ移入せられ、先づ時賴の起した建長寺伽藍の建築に用ひられ、次いで時宗の營んだ圓覺寺伽藍に於いて大成せられ、その後鎌倉·京都を二大中心として次第に地方にまで擴まつた。圓覺寺舍利殿は當時のまゝの建築を今日に遺してゐる。これは前代以來の堂塔と異なつて白木で造られ、質實なる禪の精神を現はしてゐる。更に第三には前代以來の和樣建築に天竺樣と唐樣とを加味した折衷式建築がある。その遺構にはこの時代に續く建武年間に出來た河內の觀心寺本堂がある。以上の諸樣式は始めは夫々の特徵を明らかに示してゐたが、時代の降ると共に本來の特徴を失ひ、和樣を中心として綜合されるのである。住宅建築ではこの時代に武家造が創始せられた。武家造とは鎌倉に於ける武士の間に營まれた住宅形式で、從來の寢殿造系統の建築を基礎に幾多の新味を適宜に加へたものである。卽ち寢殿造の如き、左右均齊に一棟づつ廊下を以て連續するものでなく、一棟の主殿を夫々利便によつて數室に分ち、正面に玄關を設け、屋根を板葺とするもので、實際を重んずる武士生活のよき表象である。彫刻平安後期に於ける彫刻は〓ね婉麗典雅に偏し、潑刺たる生氣に乏しかつたが、この時代にはかゝる樣式·手法を脫し、雄渾關達にして多樣なる表現を示し、時代の新興機運を現はすと共に、更に遡つて奈良時代の優れた彫法に通ずるものを潜ましめた。もとよりこの時代の精神は文化全般に復古的なものとなつてゐるが、これがいみじくも彫刻に見られるのは、偶〓平氏の兵燹に罹つた奈良の東大寺·興福寺の復興に際して、そこに殘された遺品に接した佛工が自己の創作心に投合するものをこれに感じたことにもよる。しかもよく現實に生き、眞率を尙ぶ時代精神を反映して、寫實的表現や、個性の表現が重んぜられた。作者としては名匠運產が優れた天東を示してこの時代の初めに信罪思慶、弟子快慶等がその後を承けて一門繁榮した。運慶快慶の合作たる東大寺南大門の金剛力士像はその代表的作品で、雄渾な彫法を以て巧みに躍動感を橫溢せしめてゐる。その他同門の康勝の作たる京都六波羅密寺藏の空也上人像は念佛を唱へる行脚僧の姿を如實に現はし、東大寺の重源像、興福寺の世親·無著像は鎌倉明月院の上第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三五三 第二編中世三四日杉重房像と共に肖像彫刻に新生面を開いた代表作である。繪畫鎌倉時代の繪畫は、時勢の推移と共に前代の唯美主義的傾向から開放され、躍動的·現實的となりまた在來の類型的なものから個性的·說明的なものへと進んだ。繪畫の中、最も多數に見られるのは佛畫であつて、前代の靜的にして色彩の調和を重んじたのに對して圖樣は豐富となり、動的にして力强き描線が用ひられ、且つ一般に說明的なものが多い。それと共に我が國本來の時間的連鎖を重んずる精神が具體性を尙ぶ時代精神に結合して、繪卷物が益、盛んとなり、題材の豐富描寫の多樣性が見られ、遺存の作品も尠くない。卽ち平安時代の繪卷物が抒情的な物語文學を主題としたのに對し、この時代は多く軍記物文學社寺の緣起、高僧の傳記等から採擇され、詞書とも關聯して劇的進行の表現に重きを置き、時代人心の嗜好に投じて盛んに製作せられた。旣に前代末には源氏物語繪卷その他の名作が生まれてその發展を示唆したが、この時代に入つて平治物語繪卷·豪古襲來繪詞等の戰爭繪卷、北野天神緣起·春日權現驗記繪卷等の社寺緣起、法然上人繪傳·一遍上人繪傳等の高僧傳、三十六歌仙の肖像繪卷等が續々と現はれてゐる。またこの時代には個性的なるものの尊重から個人の特徴を寫す似繪が生まれ、隆信·信實父子の名手を出した。肖像を描きまたは彫刻することは旣に古くからあつたのであるが、個性描寫を意識的に行ふのはこの時代から著しくなつた。隆信筆と傳へられる京都神護寺藏平重盛源賴朝等の肖像畫は大幅の名品として代表作に數へられる。なほ禪宗の渡來に伴なうて宋元風の新しい畫題と畫趣とが入り來り我が國の繪畫界に轉換を齎さんとしつゝあつたが、この新傾向は室町時代に水墨畫となつて立派に結實するのである。書道書道に於いては、鎌倉時代に入る頃から上代樣に對して雄勁にして銳敏なる書法が興り、世を風靡するに至つた。畏くも後宇多天皇·花園天皇·後醍醐天皇の御書は、殊に御筆力俊秀·高邁にして、御運筆暢達にましまし、眞に長敬すべき神韻が拜せられる。また伏見天皇·後伏見天皇は雅馴な上代樣の御書をものし給ひ、稀なる御名手と拜せられる。伏見天皇の皇子、尊圓親王は實にこの二流の書法を大成せられ、優美·豊潤な御書風を開かせられ、永く後世に書道の模範と仰がれ給うた。後に江戶時代になつて一般に行はれた御家流と稱するものは親王の御筆法を承けたもの で第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三五五 第二編中世三五六ある。なほ支那との間に禪僧の往復が繁くなるに伴なつて宋元の力强い書風が專ら禪僧や武士の間に取容れられ、榮西·道元を始め、泉涌寺の中興開山俊芿は能書家として名高く、また歸化僧は何れも書に秀でてゐた。工藝時代を貫ぬく尙武の風尙と武士の需要とに應じ、甲冑·刀劍等武具の製作技術は大いに進み、武士社會を背景として著しい特徴を示した。甲冑は前代末期に我が國獨特の大鎧が製作されるに至つたが、この時代の初期に明珍が出て明珍家の始祖となり、精巧なる製作によつて名を擧げ、永く子孫に及んだ。刀劒についてはその盛名は旣に支那にても讚へられたが、この時代になつて更に獨特の發達を遂げ、名品を多く遺してゐる。;殊に後鳥羽上皇は御親ら菊御作を鍛へ給ひ、また諸國の刀工を召し、月別に御番鍛冶を定めて鍛鍊に從事せしめられた。てその技は益〓進み、鎌倉時代末期には京都に粟田口吉光、鎌倉に岡崎正宗、越中に〓義弘等の名工が現はれた。金工にはなほ精巧にして氣品ある佛具類が多く作られ、漆器にも蒔繪螺鈿等を施した名作を出したがなほ見逃し得ないものに陶器がある。陶器は古代より發達を遂げてゐたが、この時代になつて宋の製陶法の優れたるものを採用して革新的な發展を見た。例へば加藤景正は道元に從ひ渡宋して陶法を修め、歸朝して尾張の瀨戶に窯を築き、その子藤四郞は黄色の釉藥を發明して黃瀨戶を製した。その他各地に窯業の發達があり、後世名物として愛玩されるものにはこの時代の遺作が尠くない。かくして鎌倉時代の美術工藝は、古來の傳統を生かしつゝ、雄渾にして卽實的なる精神を發揮し、更にその中に宋元文化の攝るべきものをよく溶融し、優れたる國民文化として發達したのである。正に日本文化の特質たる傳統性·包容性と、これに加ふるに獨創性とを最もよく顯現したものといふべきである。第一章鎌倉時代第五節鎌倉時代の文化三五七 第二編中世三五八第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神後醍醐天皇の親政と北條氏の滅亡院政の廢止後醍醐天皇は文保二年(一九七八)寶算三十一を以て御位に卽かせられた。旣に十分なる御年をめされ、且つ天稟英邁にして、進取的な御氣性にましました。御父君後宇多上皇は慣例のまゝに院政を行はせられたが、英明なる後醍醐天皇に御望を囑せられ、天皇卽位の後、三年にして院政を廢し、天皇親政の御代となし給うた。こゝに於いて朝政は本然の姿に復したのである。北畠親房はこれを以て「天下こぞりて是をあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそと、高きもいやしきも兼てうたひ侍りき。」と神皇正統記に讚へ奉つてゐる。かくて天皇は記錄所を復活して政務に精勵あらせられ、裁判の公正にして私なきを期し、官職を授くるにその人を選び、學術の興隆を圖り給うた。併しながら兵馬の實權はなほ鎌倉幕府の壟斷せるものなるが故に、幕府の存續する限り如何に政治上の御改革をなし給ふとも、それは不徹底たるを免れない。されば天皇は平安時代親政の行はれた醍醐天皇の聖代、延いては肇國の御精神に復つて政治を刷新せんとの御志を懷かせられた。天皇の御研學天皇の御修養には洵に景仰し奉るべきものが多かつた。天皇は夙に吉田定房·五條良枝等に就いて御學問にいそしまれ、また和歌の道にも秀でさせられた。神皇正統記には天皇の御學問について「後宇多の帝こそゆゝしき稽古の君にましまししに、その御跡をば能く嗣ぎ申させ給へり。剩へ諸々の道を好み知らせ給ふこと、有りがたき程の御事なりけんかし。」と讚へ、凡て和漢の道にかね明かなる御事は、中頃よりの代々には超えさせましましけるにや。」と頌し奉つてゐる。增鏡にも「御歲もいとはしたなうものしたまへば、萬の事くもりなかんめり。三史五經の御論議などもひまなし。」と記し奉つてゐる。而してその御學問の中にも理氣を重んずる宋學第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三五九 第二編中世三六七卽ち程朱の學を深く勵み給うた。從來の朝廷の學問は大江家·菅原家などによつて傳へられてゐたが、天皇は更に僧玄惠などを召して宋學に御精進あそばされたのである。なほ天皇は神道及び國史にも御造詣深くましまし、佛〓では密〓の御修行にも勵み給ひ、或は僧疎石妙超等に參禪せられて悟道に入り給うた。かくて〓新にして活潑なる學風が宮中に興され、朝臣また何れも學問·修行に精進し、大義を明らかにして氣節を振起し、忠誠の精神を鼓舞して政道を興さんとするに至つた。人材の拔擢以上の如く、叡明なる天皇の下に積極進取の人材が雲集し、朝廷には大いに活氣が漲つたが、それはまた天皇が人材拔擢に御意を注がれ、適材あれば門閥ISの高下を問はず用ひ給うた結果でもあつた。北畠親房萬里小路宣房吉田定房の所謂三房が重用せられたのを始め、日野資朝も人物俊秀なるによつて參議に列せられ、また同じ日野氏の末流日野俊基が三十歲餘で五位の藏人に補せられ何れも御知遇に感激して、政道の刷新に輔翼の誠を捧げた。花園上皇はその宸記に、天皇の御政について「近日政道歸淳素君已爲聖主,臣又多人歟」と記し給ひ、天皇の下に人材多きを讚へられた。されば一方北條氏の越權と失政が相續くとき、朝政の振肅が討幕計畫ヘと進展するのは當然であつた。幕府の失政後鳥羽上皇の討幕の御雄圖が挫折してより、幕府は益〓權勢に驕り、北條氏の越權は皇位繼承の御事にまで干與するに至つた。而して長い歲月に亘つて兩統の迭立があり、朝臣は自ら黨を分つの情勢にあつたが、その惡弊が次第に反省されるに至ると共に、武家政治が國體に悖るものなることが痛感されて來た。然るに幕府はなんら反省するところなく、たゞ賴朝以來の舊慣を固執せんとし、且つ不遜にも朝廷に對峙する意識を濃厚にした。而して幕府が內部に對して信望を失墜するに至つたものに財政問題がある。文永弘安の役後、家人の財政は漸く困難となつたに拘らず、幕府は戰後の處置について恩賞授與の方策を講じ得ず、家人の窮乏が日に加はつたので、その救濟に腐心し、遂に永仁五年(一九五七)所謂德政令を發して、賣却質入せる土地を無償にて返却せしめ、金錢及び貸借に關する訴訟を受理しないこととした。然るにこのことは却つて經濟を混亂せしめ、家人は米錢の融通を阻止され、その後愈。窮地に陷つた。かゝる際に北條高時が執權となつたが、彼は弱年にして性來暗愚、幕政統率の器で第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三六一 第二編中世三六二なく、家臣長崎高資に實權を握られ、嘉曆元年(一九八六)二十四歲にして執權職を退いて出家した。爾來內訌續出して幕府の威信は地を拂ひ、北條氏衰頽の兆は愈〓明らかとなつた。正中の變こゝに於いて後醍醐天皇は正中元年(一九八四)御近臣の日野資朝·同俊基等をして勤皇の武士を諸國に募らしめられ討幕の事を企て給うたが、やがてこのことが六波羅探題に洩れるや、幕府は兵を發して計畫に與つた武士を殺し、資朝·俊基等を捕へた。よつて萬里小路宣房は勅命を拜して鎌倉に下向し、事なきに努めたため、幕府は資朝を佐渡に流したのみで事件が落着した。世にこれを正中の變といふ。元弘の變天皇は一旦の御蹉跌にも屈し給はず、再び討幕の御企を進めさせられ、皇子護良親王を始め、俊基·法勝寺圓觀·醍醐寺又觀等の公卿·僧侶をしてこれに參畫せしめられた。或は親しく南都·北嶺に行幸あらせられてその關係を緊密にし給ひ、また護良親王を天台座主として延曆寺に遣はされ、一山の僧徒が勤皇の誠を致す基を固くせられた。近畿の武士の間にも朝臣等勸說の效があつて天皇に忠誠を捧げんとする者が次第に現はれた。然るにこの隱密の計畫も機の未だ熟せざる中に元弘元年(一九九一)再び幕府の知るところとなり、御雄圖の貫徹は前途の多難なるを思はしめた。幕府は討幕の秘策が叡慮に出でさせられしを察知するや、事態容易城ならずとなし、六波羅をして兵を發天剛金して皇居に迫りまゐらしめんとし皇淀近不こゝに於いて同年八月、天皇は河赤교天下た。瓜內旅店요(大)生卍等金畿畏くも神器を奉じて京都を出で給攝阪剛和紀寺住堺津杜神吉泉川要ひ、叡山行幸と見せて花山院師賢を波これに遺はし、實は山城の驚峯山金兵圖胎寺に幸し、次いで笠置山に行幸せられ、こゝを根據として近畿の諸國播磨に勤皇の兵を募らせられた。河內加古の豪族楠木正成が御前に馳せ參じ、第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三六三 第二編中世三六百感激に咽びつゝ聖運の開かせ給ふべき旨を奏上したのはこの時のことである。幕府は同年九月擅に後伏見上皇の皇子量仁親王(光嚴院)を奉じ、且つ諸將をして行在所を侵しまゐらせた。笠置山の天嶮も賊の大軍を支へ切れず、天皇は神器を奉じて河內の赤坂城に向かはれたが、遂に賊兵を避け給ふこと能はず、六波羅に移御あらせられることとなつた。その翌元弘二年三月、幕府は無道にも承久の故例を奏し、天皇は盛りの花をあとにして都を發輦あらせられ、海路はるけく隱岐の孤島に遷り給うた。幕府は事に參畫した資朝·俊基を斬り、文觀·圓觀を遠流に處した。勤皇諸臣の活躍これより先、笠置山の未だ陷らざる時、正成は護良親王を迎へて、その館なる赤坂城に兵を擧げ、雲集し來れる賊の大軍をよく防いでこれを惱ました。しかし衆寡敵せずして落城の餘儀なきに至り、護良親王の御行方と正成の所在は賊軍には不明となつた。この間、親王は近畿各方面を往來せられ、令旨を諸國に發して勤皇の士を召され、正成も再擧の畫策を進めた。故に赤坂落城後も京畿の動搖は熄まず、正成は再び赤坂城を奪還し、また攝津に出でて六波羅の兵を破り更に金剛山の中腹に千早城を築いてこれに據り、護良親王は吉野に據つてよく賊軍を防がれた。天皇は隱岐に遷らせられて後も、朝威の囘復に御心を傾け給ひ、護良親王との御連絡もとらせられてゐた。一方正成は如何にもして宸襟を安んじ奉らんとし、寡兵を率ゐて大敵重圍の千早城を守り、智謀を盡くして雲霞の如き賊軍を惱まし、よく孤城を支へて官軍のために萬丈の氣焰を擧げた。されば諸國の武士にして大義を辨へたものは、何れも菊水の旗風に誘はれ、各〓その〓國に於いて勤皇の軍を起すに至つた.諸國に蹶起した勤皇武將の主なるものは、肥後の菊池武時、伊豫の土居通增得能通綱、播磨の赤松則村(圓心)等であつた。就中、菊池武時は肥後の豪族であつて、累代武勇の家に生まれ、有力なる勤皇武將として義兵を擧げたが、元弘三年(一九九三)三月、博多の九州探題を攻め、惜しくも櫛田濱の戰に壯烈な忠死を遂げた。しかしその後には嫡子武重以下多數の一族があり、その勢力は侮り難いものがあつた。北條氏の減亡隱岐にまします天皇は官軍が諸國に振起せる報を得させられるsや、元弘三年閏二月、千種忠顯を從へられ、玉體を一葉の舟に託して伯耆に向かはれ、名和長年の奉迎を受けさせられて船上山の要害に移り給うた。かくて官軍の勢は愈、振るひ、三月天皇は綸旨を杵築社(出雲大社)に下して王道の再興を祈らしめられ、やが第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三六五 第二編中世三六六て忠顯は軍士を率ゐて伯耆を發し、赤松則村と合して京都六波羅に迫つた。一方幕P府は大軍を伯耆に送らんとし、足利高氏名越高家を將として西上せしめたが、高家は忠顯·則村等と山城に戰つて敗死した。然るに高氏は豫てより幕府に對し異圖を懷いてゐたので、丹波に入るや忽ち歸順し、馬首を返して忠顯·則村等の軍と共に六波羅を攻めて同年五月これを陷れた。こゝに於いて近畿の大勢定まり、賊軍は多く歸服した。この頃關東にては、新田義貞が護良親王の令旨を奉じ、その一族を率ゐて上野に兵を擧げ、進んで武藏に出て鎌倉に迫つた。結城宗廣を始めとしてこの勤皇軍に馳せ參ずる者多く、同じく五月遂に鎌倉を陷れた。高時以下一族郞黨多數自害し、北條氏はこゝに滅んだ。鎌倉幕府は賴朝の開設以來百四十餘年にして倒れたのである。天皇は官軍の勝敗を氣遣はせ給ひつゝ、京都還幸の途に就かせられ、路次に續々と捷報を聞召されながら五月の末兵庫福嚴寺に着御、六月初め同地を御發輦、正成その先驅を承り、巡狩還幸の御儀を以て龍顏麗しく京都に歸らせられた。承久の變以來百十餘年、後鳥羽上皇の御理想はこゝに於いて實現せられ、これより建武中興の宏謨が展開せられることになつたのである。=建武中興の精神建武中興は後醍醐天皇の聖慮に出で、護良親王を始め翼賛の誠を致した公卿將士の忠勤によつて實現したものであつて、我が國體本然の姿たる萬機親裁の政治を恢弘あらせられた大業である。まことに萬機親裁は建武中興の精神の根幹をなすものである。後醍醐天皇の親政は旣に以前より行はれたが、いまや幕府討伐の業成り、その政權を收められて治く親政の實が擧つたのである。天皇は中興政治を樹立せられるに當り、「今の例は昔の新儀なり、朕の新儀は未來の先例たるべし。」との御抱負を示させられ、日々維れ新たなる政治によつて皇祖肇國の大精神を示させられた。而して親政の御精神は具體的には次の三項を通じて顯現せられたのである.天皇の御代には先に院政が廢せられたが、院政を復活し給はぬことは同時に建武中興の御精神でもあつた。卽ち平安末期に院政が始まつたことは、攝政關白の政務代行を斥けて皇室に政務を復せしめられた點に重大な意義があるが、天皇親政こそ第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三六七 第二編中世三六八我が國本來の政治たることはいふまでもない。かくて天皇は國體本然の姿に於いて親政を行ひ給ひ、且つ御臨終までは御讓位の御儀がなかつたのである。次にこのことに關聯して、天皇は中興に際し關白を置かれず、萬機を親裁あらせられた。攝政·關白は平安中期頃より常置せられるに至つたもので、大命を奉じて政治を行ふものであるが、屢。聖旨に背いて天皇統治の根本義に悖る不臣の行爲が尠くなかつた。從つて後醍醐天皇が斷然これを廢止せられ、政治の正しかりし古き世に復せられたことは、中興精神として重要なるものであつた。次に北條氏を討伐して賴朝以來百數十年に互る武家の專斷、殊に承久以來大政に容喙した無道なる執權政治を斷乎として除き上世の盛世に復し給うたことは、同時に國家政治最大の障礙たる幕府政治の拂拭を意味するのである。而してその政權を親政の下に收め給ひ、萬民皆その所を得る政治を布かせられることは中興精神の主たるものであつたが社會の因襲久しきため施政の具體的な方法については特に大御心を注がせ給ふところがあつた。天皇は中興の御政治に當つて政治上の要職に多くの武家を任用し給ひ、宏大なる皇謨を示させられたが、武家人材の拔擢起用は斷じて武家政治の容認を意味するものではない。卽ちそれは明治維新の官武一途の精神と相通じ、歷史を貫ぬく肇國の精神に歸するものである。併しながら既成の莊園制度や、その地盤の上に立つた地頭制等はそのまゝに認められ、これを改廢せずして一、統の政治を實現せんとせられた。義良親王を陸奥に、成良親王を鎌倉に遣はし給ひ、征夷大將軍の職もなほこれを置かれて皇子護良親王を以て補せられたことは、文武一統の大義を顯示し給へるものである。而して以上を通じて見られるものは復古的精神である。このことは上に述べたことによつて自ら明らかであるが、更に他の二三の例にも具體的に顯現せられてゐる。卽ち天皇は親しく年中行事を撰せられて朝儀の復興を圖り給ひ、また中興政治の劈頭に大內裏の造營を始められて朝政を復興せんとせられた。天皇はまた貨幣制度の上にも復古的改革を意圖せられ、この頃盛んに流通してゐた貨幣が何れも支那の錢貨であることを思召されて、建武元年(一九九四)三月、詔して乾坤通寶の鑄造を始めんとせられた。これは平安時代、村上天皇の御代以來斷絕したものの復活であつて、その結果を詳かにしないが、國家的精神殊に復古意識の發揚が窺はれ、中興精神第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三六九 第二編中世포·t)の一端と拜せられる。要するに建武中興は國體の本義に照らし、復古卽維新の精神の下に展開せられ、政治の時弊を革め、以て皇道政治の顯揚を期せられたものであつて、先の大化改新、後の明治維新と相通じて一貫する肇國精神の輝かしき發露であつた。三中興の新政中興の政治機關中興政治の施設として最も重きものは、京都還幸の後に復せられた記錄所である。これは先に後宇多上皇の院政廢止によつて置かれたものよりも權限が擴大され、政務を總攬すべき中樞の機關とせられた。次に雜訴決斷所を新設して、記錄所にて取扱はない雜多な事項を處理せしめられ、公卿及び明法道の人々を寄人としてその裁決に當らしめられた。建武新政の實行に際し先づ當面すべき障礙は土地に關する問題であり、しかもそれらの關係が複雜を極めた時であるから、この政廳の特設を必要としたのである。またこれに關聯して時局收拾の第一步である恩賞の事を取扱ふために恩賞方が設けられ、その機關の重要性に鑑みてこれにその他武者所を置き、新田義貞を頭人と出仕する人々を中興功臣中から選ばれた。して専ら武士をして京都を警衞せしめられた。諸國に於いては國司と守護とを併置せられた。鎌倉時代は國毎に公家衆を國司、幕府の武士を守護として補任し、武士が國司たる場合のみ守護を兼ねる例であつたが、中興政治にては國司と守護とを竝立して補任せられ、しかも國司を公家衆に限らず、守護を武家に限らず共に同樣に任ぜられたので、この點にも文武一統の精神が示されてゐる。而して奥羽と關東は遠く京都を離れ、且つ幕府勢力の根據地であつたから、特にその鎭撫に御意を用ひさせられた。卽ち皇子義良親王を奧羽に下して多賀國府に居らしめ、北畠顯家を陸奥守に任じて輔けしめ、また皇子成良親王を鎌倉に는下し、足利直義を相模守に任じて皇子を輔けしめられたのである。新政運用の困難天皇は以上の如き中興の政治機關を整へ給ふと共に、元弘四年(一九九四)正月、建武と改元して親政の輝かしき發足とせられた。併しながら新政運用の實績は急速には擧らず、前途は頗る困難であつた。卽ち中央官衙の重臣は文武一統の精神によつて公卿·武家雙方の功臣から補任せられたが、庶幾に反してその間第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三七一 第二編中世Withに屢〓利害の背反も見られ、また政務に慣れずして庶政の處理に澁滯を來たすことが尠くなかつた。しかも重臣が〓ね種々の職を兼任せしめられたことは御苦心の存するところであつたが同時にその職掌權限の不明瞭なるものがあり直ちに整然たる官職制度の實施に進み得なかつた。殊に地方には中興の精神を體せざる舊態依然たる勢力が蟠居して大業は容易に實現しなかつた。もとより中興の精神は武士の存在を否認せられるものではなく、臣民各,その分を以て天皇親政を翼賛し奉るにあり、恰も上世の氏族制度に於いて各氏が夫々に傳はる職業に從つて天皇に奉仕した關係に通ずるものであつた。しかしこの時代に於ける現實の問題として永年の武士主從の關係及びこれを基礎とする土地領有形態は、因襲的に根强いものがあり、公家衆の國司·守護は武家に壓倒せられて吏務は名ばかりとなり、一統政治の成果は容易に擧らなかつた。尤もこれは草創の際とて運用上未だ確乎たる具體性の樹立する暇のなかつたことを意味するものであつて、その成果は實に將來に俟つべきものであつた。恩賞の困難中興政治の始めに當つて、政務の運用と共に處置の困難なのは恩賞の問題であつた。北條氏の運命窮まると見て多數の幕府家人が歸順した事情は、多くの場合、畢竟父祖傳來の土地を保持し、且つ恩賞に與つて功名利達を遂げんがためであつた。されば中興政治は忠勤を抽んでた多數の武士や社寺に對し、先づ在來の領地を安堵し、更に功を論じて賞を行ふべきであつた。かくて天皇の京都還幸の翌月たる元弘三年七月、朝廷では北條氏に黨與した者を除いて、その所領を舊の如く安堵せしめることを諸國に仰せ出された。卽ち平安時代以來數百年の傳統を有する莊園制と、鎌倉幕府の所領安堵の慣行とはそのまゝこれを認められ、所領の知行に關してはなんら手を觸れられなかつたのである。しかし恩賞の公正を期するには非常な難問題が横たはつてゐた。元來當代の土地制度そのものが複雜なるために、所領問題の處理も煩瑣なるものがあり、これを適切に處理すると共に、多數の將士に對して恩賞を公平に行ふものは、武人にしてしかも練達の士たることが必要であつた。中興政治に先づ雜訴決斷所·恩賞方等を置き、主要なる武將等を擧用して參與せしめられたのは、この問題を解決するためであつて、その裁斷が政治の中心であるかの如く思はれたのも已むを得ぬことであつた。第二章建武中興と吉野時代第一節建武中興とその精神三七三 第二編中世三七四しかもなほその成果が擧らないため不評の聲が起らんとしたが、この時野望を懷ける足利尊氏(高氏)は新政の未熟に乘じて反旗を飜し、恩賞を以て愚蒙なる不平の輩を傘下に參ぜしめるに至つたのである。大義の晦迷また鎌倉幕府の討滅、建武中興の成就についても公卿·武家等にして互にその功を誇り、我執を捨てないことも尠くなかつた。卽ち公卿の一部は徒らに武家政治開始以前の榮華を追想し、或は武士に對する傳統的な高位·高官を誇り、武士はまた討幕の功績を己れに歸して公卿を侮る風があつた。公武兩者の悉くが眞に大義に徹し、よく和衷協同して大政輔翼の至誠を捧げたならば、中興政治は輝かしき成果を收め得たであらう。また地方武士の大多數は先に北條氏の政治を惡むか、またはその頽勢の挽囘すべからざるを見て、始めて官軍に從つたのであるから、眞の中興精神に透徹するものは少く、武家政治そのものについて敢へて疑義を挾まなかつた。むしろ彼等の心は長い間行はれて來た武家政治に慣れ、全國多數の舊幕府の家人は幕府の復興を求めた。而してこの弱點に乘じて足利尊氏は幕府の再興を標榜し、好餌を以て鎌倉重代の家人を招き、更に多くの公卿をも靡かしめ、以て大義を紊すに至つたのである。第二節吉野時代ー足利尊氏の叛逆尊氏の野望建武中興に當り、討幕の御事に勳功殊に多くあらせられた護良親王が征夷大將軍に補せられ給ふや、新田·楠木·名和の諸將は皆その下にあつたが、足利尊氏は源氏の流として鎌倉時代から名望高く、後醍醐天皇が特に眷顧を加へさせられたのに狎れて、獨り中興政治に隱然たる勢威を示し、祖先以來の野望を遂げるはこの時なりとして、護良親王に拮抗する風があつた。こゝに於いて親王は尊氏の心中を察し給うて新政の前途を憂慮せられ、密に尊氏排擊の策を運らされた。尊氏は親王の御態度に脅威を感じ策謀を廻らして親王を讒しまゐらせた。建武元年(一九九四)十一月、親王は鎌倉に遷され給ひ、翌二年七月、尊氏の弟直義のためにいたましき御最期を遂げさせられた。第三家建武中興と吉野時代第二節吉野時代三七五 第二編中世三七八北條時行の亂と尊氏の東下北條氏滅亡の後、その殘黨は隱微の間に再擧の機會を窺つて蠢動し、新政の進展を妨げてゐた。建武二年(一九九五)七月北條高時の遺子時行が鎌倉に侵入した所謂中先代の亂はその最も大なるものであつた足利氏は高時以前を先代と見做し時行のことを中先代といひ、尊氏以後を後代と稱してゐるが、これは尊氏自らが鎌倉幕府の後繼者を以て任じてゐたことを示すものである。時行は信濃に兵を擧げ、その兵力侮るべからざるものがあり、遂に鎌倉に迫つたので、足利直義は鎌倉を捨て、成良親王を奉じて西走した。この時尊氏は京都にあつたが、この亂を利用して非望を遂げんとし、時行征討と征夷大將軍諸國總追捕使の拜命とを奏請した。朝廷では旣に尊氏の野望を知り給ひ、幕府政治を復活するが如き職に補任することを許されなかつた。然るに尊氏は勅許を待たずして東下し、時行の兵を破つて鎌倉に入り、新邸を營んでこれに居り、敢へて朝命を奉ぜず、叛逆の色を漸く露骨に示した。かくして護良親王の薨後、朝廷に於ける武家の棟梁と認められてゐた義貞を敵視し、遂にその地盤を覆へすべく、義貞以下を討つを名として檄を遠近に飛ばすに至つた。尊氏兄弟の西走建武二年(一九九五)十一月、天皇は尊氏討伐のため皇子尊良親王を上將軍とし、義貞以下を副へて東下せしめられ、且つ陸奥の北畠顯家をして背後より鎌倉を襲はしめられたが、義貞は箱根竹ノ下の戰で敗れ、尊氏·直義兄弟はこれを追うて西上した。翌延元元年正月、天皇は延曆寺に行幸あらせられたが、やがて顯家の軍が到るに及んで官軍の兵勢大いに振るひ、義貞·正成〓長年等は奮戰して洛北の戰に尊氏兄弟を破り、賊軍を九州に走らしめた。尊氏は備後の鞆に到つた時、醍醐寺三寶院賢俊の斡旋によつて光嚴院より院旨を賜ひこれより持明院統を奉じて賊名を避けんとした。惡逆極まる足利氏が後に武家としての制覇に略、成功したのは專ら皇統を奉じたとなせるによるのである。i州州に於ける官軍の雄菊池武故は對重事の中落として両森權直上擊し、必死の抗戰を試みたが、同年三月、筑前多々良濱の一戰に惜しくも敗れた。尊氏は勝に乘じて九州の主なる豪族をその麾下に從へ、太宰府に入つて上洛の用意を整へた。楠木正成の戰死この間、京都に於いては尊氏の東上に備へる方策も着々進めら第一級建武中興と吉野時代第二節吉野時代三七七 第二編中世三大れた。卽ち顯家をして再び義良親王を奉じて陸奥に下向せしめられ、また一方には義貞を西下せしめて銳意中國の賊軍を擊破せしめられた。義貞は先に尊氏に應じて叛いた赤松則村を播磨白旗城に攻めたので則村は城を死守しつゝ急を尊氏に告げ、その速かなる東上を促した。よつて尊氏は少貳·大友の諸氏を從へ、同年四月太宰府を發し、備後の鞆に至り、直義は陸路より、尊氏は海路より水陸呼應して進み、その兵力極めて大であつた。されば義貞は一旦白旗城の圍を解いて兵庫に還り、直ちに事態を京都に報じた。朝廷では廷議が開かれ、楠木正成は一旦賊軍を京都に入れて後、これを挾擊すべきことを獻策したが一同に容れられず、急ぎ兵庫に下り義貞を援くべきことを命ぜられた。正成は朝命を長み、生還を期せざる覺悟を以て軍を兵庫に進め、主將義貞と力を協せ、海陸より迫る雲霞の大軍を邀へてよくこれを防いだ。然るに衆寡敵せず官軍終に敗れて義貞は纔に身を以て逃れたが、正成は力戰苦鬪の後、弟正季と七生報國の誓を遺し、一族郞等六十餘人と共に惜しくも湊川の露と消えた。時に延元元年(一九九六)五月二十五日であつた。叡山行幸湊川の敗報は京都の上下を震駭せしめ、天皇は賊兵の東上を避けて叡山に行幸あらせられ、義貞等が扈從し奉つた。續いて六月京都は合戰の巷となり、叡山の戰に千種忠顯は忠死し、また洛中の戰に官軍潰えて名和長年も壯烈なる戰死を遂げた。天皇は叡山より勅を諸國に下して勤皇の軍を募り給うた。これより先、尊氏はス立を前に山域八幡東茶葉に光嚴院及び部の三仁へ(八が八月も豐仁親王卽ち光明院を奉戴し、これによつて叛賊の名を免れんとした。且つその後、尊氏は光明院より征夷大將軍に補せられるといふ形式をとつて幕府を開いたが、これらの事は大義名分上認めらるべきでないことはいふまでもない。この年十月、尊氏は叡山にましました天皇に京都還幸を奏請した。天皇は官軍の不振を憂へ給ひ、他日を期して徐ろに再擧を圖らんと思召され、官軍の柱石新田義貞をして皇太子恆良親王及び尊良親王を奉じて北國に下らしめられ、四條隆資をして護良親王の御子興良親王を奉じて河內に、北畠親房をして尊澄法親王宗良親王)を奉じて伊勢に赴かしめられた。これらの御事が實に天皇の深謀遠慮に出でさせ給ふところであることは申すまでもない。かくて天皇は尊氏の奏請を許容せられて京第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三七九 第二編中世三八〇都花山院家の邸に入り給うたが、尊氏は畏れ多くも部下の武士をして天皇を警固せしめ奉つた。=吉野朝廷と勤皇諸臣の活動吉野皇宮天皇は尊氏の不遜をみそなはし、遂に同年十二月、密に花山院家の邸を出でまして吉野山に入らせられ、これよりこの地に皇居を定めて朝政を聽しめされた。爾來、後龜山天皇の京都還幸まで五十七年に亙つて、朝廷は〓ね吉野山にあつたので、この間を吉野時代といふ。吉野は深山幽谷を擁する天然の大城郭である。卽ち大和·紀伊·伊勢三國の山地の中心を占め、守り易く攻め難い要害である。殊に東の伊勢は北畠親房の子親能が國司としてその勢力を扶植せる國であつて、大湊などの港灣を控へ、西南の紀伊は水軍諸將の根據地で、海上交通の便があり、北には大和の平野が展開し、西に聳える葛城·金剛の連峰及び河內は楠木氏の扼するところである。されば吉野山に據られることは、規模頗る雄大なる御計畫であらせられたのである。新田義貞·北畠顯家の戰死天皇は吉野山に皇居を定められると共に、先づ東國·北國·西國等の將士をして東西より進んで京都を囘復せしめんことを圖り給ひ、更に諸皇子を諸國に派遣して各地方に官軍の中心を作らしめられた。北國にては義貞が1/3恆良親王·尊良親王を奉じて越前金ヶ崎に據り子義顯、弟脇屋義助、その子義治を從へて力戰したけれども、尊氏は主力を以てこれを攻擊したので、延元二年(一九九七)三月、城終に陷り、兩親王はいたましくも薨ぜられ、義貞も同三年閏七月、萬策の效空しく、越前藤島に戰死した。また陸奥の顯家は義良親王を奉じて、同二年八月西上の途に就き、弟顯信や結城宗廣と共に至るところに賊軍を擊破し、京都の囘復近きにあるを思はしめたが、相次ぐ激戰に力盡き、翌三年五月、和泉の石津に於ける一戰に惜しくも敗れ、二十一歲を以てたけ ひと皇事に仆れた。しかし九州にては官軍大いに振るひ、菊池武-工·武光兄弟は屢〓少貳·一色の軍と戰つてこれを破つた。諸親王の御下向と諸國の忠臣吉野朝廷にては顯家·義貞相次いで陣歿し、落莫の秋が訪れたが、少しも屈し給ふことなく、北畠親房等が樞機に參じて一意大勢の挽囘を第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三八一 第二編中世三八二圖つた。天皇は再び諸親王を諸方に下し給ふこととなり、この年九月義良親王は親#房〓顯信父子及び結城宗廣等に奉ぜられて陸奥に、宗良親王は遠江に、良親王は五條賴元を從へて先づ伊豫に到り給ふこととなつた。然るに義良親王·宗良親王の御一行が、伊勢大湊より船を艤して出發せられるや、間もなく激しい風波が起り、船隊は離散した。卽ち義良親王は顯信·宗廣と共に辛うじて伊勢に還られ、親王は再び吉野に入らせられた。宗良親王は遠江に着かせられてお5井伊谷城に入り給ひ、三河の足助重治遠江の井伊道政等の諸士が忠勤を致した。親房は常陸に着いて筑波山麓の小田城に據り、東國に於ける勤皇軍の中心となり、遙に九州の菊池阿蘇氏とも聲息を通じた。また伊豫に入り給ひし懷良親王は更に九州に下つて南九州の賊を平げられ、菊池武光は親王を奉じ、諸道の官軍中最も有力なるまみちたか くつな勢力となつた。四國では土居通治·得能通言等早く義兵を擧げ後には河野通堯·忽那義範等も伊豫に起つて懷良親王を奉じた。三後村上天皇の卽位後醍醐天皇の崩御然るに延元四年(一九九九)八月、天皇には御惱あり、同月十五日、先に伊勢より吉野に還啓せられた皇太子義良親王に御讓位あらせられ、翌十六日御劒を按じ給ひつゝ吉野の皇宮に崩御あらせられた。寶算五十有二。天皇は波瀾重疊の世運によく中興の聖業を遂げ給ひ、やがて足利尊氏の叛するに及び、更にこれが討伐を圖つて種々御畫策あらせられたが、御雄志未だ成らざるに神去り給うたのである。義良親王は卽ち後村上天皇にましまし、先皇の御精神·御遺業をよく繼述あらせられ、聊かも屈し給ふことがなかつた。北畠親房と神皇正統記常陸の小田城に在つて勤皇の士心を鼓舞してゐた北畠親房は、後醍醐天皇崩御の悲報に驚き、直ちに吉野に歸つて後村上天皇を輔け奉らんとしたが、東北の形勢はこれを許さなかつた。親房が兵馬倥偬の間に神皇正統記·職原抄の二書を著はして朝政輔翼の誠を陳べたのはこの時のことであつた。神皇正統記はその冒頭に「大日本は神國なり。天祖はじめて基をひらき日神ながく統を傳へ給ふ。我が國のみ此の事あり、異朝には其のたぐひなし。」と我が國の神國たる所以を明確に敍べてゐる。而して皇祖天照大神の授け給ふ神器による皇位繼承の第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三八三 第二編中世三八四正しく永遠なる所以を述べて大義を明らかにし、神器に具はる御德によつて天皇が君德を體現し給ふべきを進言し奉つた。その内容は皇位の繼承を中心として國史を〓觀したものであるが、特に政治の得失に論及して、その鑑戒となるべきものを重んじ、以て政道の振興せられんことを望んだものである。實にこの書は親房が忠誠を披瀝し、赤心を吐露せる血淚の結晶であつて、國體を明徵にせる點に於いて千古不滅の史書といふべきである。親房はその後、關·大寶の二城に據つて皇事に努めてゐたが、興國四年(二〇〇三)城遂に陷るに及び、吉野に歸り、朝廷の柱石となつて、四條隆資等と共に天皇を輔佐し奉つた。親房は東國の諸族を招致して義兵を擧げしめまた紀伊を始め、中國·四國の水軍をして皇事に勤めしめたので、官軍の勢力は著しく挽囘した。楠木正行の忠烈その頃楠木正成の子正行は、よく父の遺志を體して、南河內を中心にその力を養ひ、近畿官軍の柱石となつて勤皇の軍を起し、北河內その他諸處に轉戰し、度々賊軍を破つて京都を囘復せんとした。尊氏はこれを恐れ、正平三年(二〇〇八)正月、大軍を高師直·師泰兄弟に授けて河內に向かはしめたので、正行は決死の覺悟を以て吉野皇宮に參り、天皇に訣別申上げ、五日四條畷に賊軍を邀へ擊つた。初め正行の軍は優勢であつたが、終に敗れて壯烈な最期を遂げ、一族多くこれに殉じた。政數は書軍にとつて大なる打撃となり天東は、時吉町山を出て大和に行幸あらせられたが、賊軍は吉野皇宮に到り火を放つてこれを燒くの惡逆をも敢へてした。足利氏の內訌と勤皇諸臣足利氏一族は始めより名分に晦く、利害關係によつてその勢力を集めたのみであつて、その結合力は極めて脆弱であつた。されば正平の初年に早くも內部に對立を生じ、尊氏·直義兄弟及び高師直·師泰兄弟等が相爭ひ、諸將の結束も亦紊れた。そのため直義は先づ正平五年(二〇一〇)官軍に降つて尊氏と爭つたが、翌六年に一時和睦して師直·師泰を殺した。同年尊氏兄弟はまた不和となり、次いで尊氏が官軍に降つたので、吉野朝廷は一時京都を收められるに至つた。然るに翌七年、尊氏は直義を鎌倉に殺すや再び叛し、次いで尊氏直冬父子相爭つて直冬は官軍に歸順した。それより賊軍はまたも跳梁し、官軍は八年及び九年には夫々一時京都を囘復したが、何れも間もなく奪還された。行宮も時に賀名生や河內金剛寺·同第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三八五 第二編中世三八六觀心寺·攝津住吉神社等に遷される有樣となり朝廷の柱石たりし親房は正平九年(二○一四)四月、賀名生に薨じた。しかし、足利氏も同十三年尊氏死して內訌は愈〓激しく、同十六年官軍は一時京都を手中に收めることを得、その勢力を囘復しつゝあつた。この頃九州にあらせられた征西大將軍懷良親王は菊池武光·武朝等を從へて征戰に當り給ひ、正平十四年(二〇一九)八月、筑後川の戰に賊將少貳賴尙の軍を破つて勢益~振るひ、九州に威武を輝かされた。しかし長慶天皇の文中二年(二〇三三)武光卒し、弘和三年(二〇四三)親王薨去せられ、その後官軍は次第に振るはなくなつた。またこれより先、東國に於いては新田義貞の子義興が宗良親王の下に東國の經營に當つてゐたが、終に武運拙く、正平十三年(二〇一八)武藏の矢口に戰死し、東國の官軍は漸く勢力を失ふに至つた。四長慶天皇の卽位と後龜山天皇の京都還幸長慶天皇の卽位正平二十三年(二〇二八)三月十一日、後村上天皇は攝津住吉の行宮に崩御あらせられた。天皇は御幼少の頃から御身を軍事に投じ給ひ先には遠く東北に官軍を督せられ卽位の後は先皇の遺勅に從ひ、中興繼述の御精神を懷かせられて、ひたすら皇威の伸長に叡慮を用ひ給ひ、あらゆる艱難を親しく嘗めさせられた。然るに今や御雄圖半ばにして神去りましたのである。長慶天皇は御父後村上天皇を嗣がせられ、御祖父後醍醐天皇以來の御素志を達せらるべく叡慮を廻らし給うた。河內·和泉の楠木·和田·橋本氏等忠臣の子孫にして、よく父祖の遺志を繼承したものがあつたのを始め、諸國に義兵を擧げるものも尠くなかつたが、その勢力は何れも大なるものでなかつた。天皇は畏くも苦難を嘗めさせられつゝ大和榮山寺に行宮を遷し給うたこともあつた。後龜山天皇の京都還幸弘和三年(二〇四三)長慶天皇は皇弟後龜山天皇に御讓位あらせられた。顧みれば吉野山に朝廷が遷されてから旣に五十餘年を經過し、吉野朝廷のために忠誠を抽んでた人々も多くは空しき枯骨となつた。足利氏は尊氏の後、義詮を經て義滿の代となり、細川賴之の輔佐によつて漸く部下の諸將を統御し得るやうになつた。然るに持明院統には正しき神器が傳へられてゐないため、足利氏其其くぐ敵るの得名を乗ることを恐れてな元市九生二二五三羅藩は第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三八七 外ならない。的な自覺によつて昂揚されたものであり、天皇親政·文武一統の大業を紹述して、これ賛し奉つた忠烈の諸臣竝びにその子孫も多くは節に殉じた。月京都に還幸あらせられた。念あらせられて、義滿の奏請を聽許し給ひ、行幸の御儀を以て吉野山を出御、同年関十して、後龜山天皇の京都還幸を奏請した。ゐるのみならず、永へに皇基を固くする礎となつた。歴史には國史の精華が凝り固まり、その精神は永く後代の國民に深き感銘を與へてより足利氏の室町幕府も亦自ら認められることとなつた。に當らせられる後小松天皇に神器を授けられた。北京の世界をえびできながらーめる吉野時代の精神は中興精神そのものを根本として、これを繼述せんとするものに中興精神の顯揚第二編出来るも中卽ちそれは國體の本義に發し、神道の〓究宋學の攝取等に基づく實踐五やみあげ世孤吉野時代の精神後醍醐天皇の建武申興の大業は、かくて長く繼續せず、聖業を翼齢無料理想要素食潘き焼肉してきかくて御讓位の御儀によつて、後伏見天皇の御玄孫に車成功週末な事項圖田三角五一四杏一)天皇は多年の戰亂による國民の憂苦を軫빠高崎市南町田園¥■電話番号の天使艦出生物質量自由多年の戰亂はこゝに鎭まり、これ番お前の下げ品上まで水戸内の水果をしかし、この數十年のお子様や高齢者を有する三八八新たな老 歲百紀令風我者開東西走出入當舟生好こ實業十二護〓〓〓この〓〓〓〓楠良碑依の始要日も御一之八その店の事實の木王や事家一同じ儀で入正樣夢日之而是人御成祈三生意志の實代御はひはく後はゆえれ願書狀祈停事文光局被下狀人やしょう羽 おこの殺云載子青苔鴨御亭·高く漬百廿三七度京親して清公金を輝かしく發揚せんとするものである。吉野朝廷御歴代の天皇及び後醍醐天皇の諸皇子はよく中興の聖旨を體せられ、その御行實は勤皇精神を鼓舞する根原となつた。而して勤皇の諸將士は國家のため、また中典翼賛のため、全く一身一家の利害を棄ててよく孤忠を捧げ奉り、その多くは祖孫見弟相承けて遺志を繼ぎ、如何なる逆境に臨んでも毫も節義を變ぜずして皇事に殉じ以て數十年の間頽勢を支へたのである。而してこれら吉野時代の君臣の精神を察するに足るものが數々ある中に、殊に文學に於いては注目すべきものがある。文學を通じての精神吉野時代は幾多忠臣の事蹟を通じて見られるが如く、烈々たる尊皇の至誠が披瀝せられ、痛憤の悲淚が流された時代であるだけに、それらが凝つて文學の表現となつたものも尠くない。增鏡·太平記·新葉和歌集等が卽ちその主なるものである。增鏡は建武中興後間もない頃の述作と考へられ、大鏡などの系統に屬する歷史物語である。その内容は治承四年(一八四〇)後鳥羽天皇の御降誕より元弘三年(一九九三)後醍醐天皇の京都還幸まで御十五代凡そ百五十年のことを記してゐる。その立第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三八九 第二編中世三六七場には武家政治の非道を痛憤する態度が取られ、賴朝が總追捕使となつたのを「この日本國の衰ふるはじめはこれよりなるべし。」と記し、更に承久の變に於ける北條氏の僭上無道と、後鳥羽上皇の新島守の御歎きを具さに記してゐる。降つて後醍醐天皇の御討幕を述べ、最後にめでたく京都に還幸あらせられ、流された人々も都に上り、「枯れにし木草の春にあへる心地す。」と喜びの眉を開いたことを以て本書の結びとしてゐる。その著者は明らかでないが、後醍醐天皇に奉仕した朝臣であると考へられてゐる。古今の戰記文學の數ある中にも、別けて讀者に最も深き感銘を與へるものは太平記である。太平記は後醍醐天皇卽位の文保二年(一九七八)から後村上天皇の正平二十二年(二〇二七)に至る五十年間の時代を吉野朝廷の立場に於いて敍したものである。平家物語の如き佛〓的無常觀を去つて特に現實的色彩に富み、全篇を一貫して皇室尊崇の思想が流れ勤皇諸將の勇戰奮闘と忠誠精神とが遺憾なく表出せられてゐる。而してその間史論を點じ、和漢の故事を引用し隨所に流麗なる行文を點綴し、朗々誦するによきものである。後世國民が吉野の悲史に涙を濺ぎ、忠勇義烈の精神を興起する源泉は本書に負ふところ最も大であり、その意味に於いて本書が國民精神の昂揚に貢獻し來れる功績は蓋し甚大であるといはねばならない。新葉和歌集は後醍醐天皇の皇子宗良親王の撰せられたものである。親王は中務卿征東將軍宮として、或は關東に、或は越後に、或は東海に、殆ど吉野朝廷の全時代を終始してひたすら中興の御事に努められた。親王は和歌の道に優れさせられ、吉野の君臣の歌詠が徒らに朽ち果てることを惜しまれ、弘和元年(二〇四一)にこの歌集二十卷を編んで長慶天皇に奏進せられた。その内容は後醍醐天皇から御三代の數多くの御製を始め、吉野朝廷の君臣のみから選ばれて千四百二十餘首を收め、年代は總べて元弘以後に限られてゐる。それらの歌詠は形式上は時代一般に見られる類型的束縛を受けながらも、尋常の風流韻事と異なる嚴肅なる氣持に溢れ、憂國勤皇の至情や悲壯激越なる心情の吐露されたものが尠くない。殊に親王が武藏國小手指ヶ原の戰に詠まれたる君のため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせばとの雄々しい三十一文字にはこの時代の精神が凝り固つてゐる。第二章建武中興と吉野時代第二節吉野時代三九一 第二編中世三九二而してこの精神のよつて來る根原には君臣の間に强く懐かれた正統の信念があこの歌集の御序に「ちはやぶる神代より國を傳ふるしるしとなれる三種の寶をる。も承け傳へましまし」と述べられたのは、最後の後村上天皇の御製に四つの海浪もをさまるしるしとて三つの寶を身にぞ傳ふると詠ませられたのと相應じて、その尊嚴さに胸打たれるものである。吉野精神の復活吉野時代に發揮せられた皇國精神及び勤皇の行動は、その後永く國民の精神に生かされるものとなつた。卽ち室町時代には太平記によつて人心をひき、江戶時代には德川光圀をして楠木氏を顯彰せしめ、また大日本史を編纂して、吉野朝廷の正統を主張し、且つ廣く勤皇諸臣の功績を錄せしめ、降つては賴山陽をして日本外史に筆を執らせて楠木氏を稱揚し、吉野山萬朶の櫻を讚へしめた。承久の變に破れ、元弘·建武に一旦成るも遂に挫折した復古維新の精神と勤皇諸臣の忠誠は、かくして幕末の志士をして奮起せしめる源泉となり、明治維新に至つて遂に王政復古の大業を完遂せしめる基となつたのである。吉野の忠臣の骨肉は朽ちたりと雖も、その氣魄は磅礴として國民の心に現實に活きてゐるのである。第三章室町時代第一節室町幕府の政治室町幕府の特質及び職制幕府の特質室町幕府の名は足利義滿が京都室町に政廳を開いたことから出てゐる。今その政治上の特質を通觀するに、その威權は最初から大でなく、〓して鎌倉幕府の如き質實剛健な政治力に缺けてゐることが見られる。將軍やその幕僚は、織細にして洗煉された文化の傳統を持つ京都に生活し、公卿と接觸したことなどによつて、その〓養は〓められたが、それは武家の本質からは遠ざかつたものであつた。元來足利尊氏は名分を紊しつゝ利を以て部下を懷柔する方策に出たのであつて、源賴朝の場合と異なり、武家の棟梁としての權威に缺け、主從恩義の關係も必ずしも鞏第三章室町時代第一節室町幕府の政治三六三 第二編中世三九四固であつたとはいへない。されば幕僚の恣なる行動に對してこれを抑へるだけの實力がなく、この弱點は遂に後々までも長く殘り、時に消長はあつたにしても、室町幕府は內部の爭亂を斷つことが出來なかつた。その上、地方の諸豪族も夫々の地盤を固め、領土の擴張を圖る狀態であつたから、足利氏は常にこれが操縱に苦心せねばならなかつた。またこの時代は諸氏に相續に關する係爭が頻發し、その度に將軍はこれに干渉し、その爭に乘じて威權を擴張せんとした。しかしそれは成功しなかつたのみならず、足利氏自身も屢〓相續問題に惱まされ、これが却つて諸氏に跋扈の機會を與へることになつた。京都開府初め足利尊氏は賴朝と同じく鎌倉に幕府を開くことを考へたが、當時の京都に於ける事情から遠く關東に去ることが出來ず、且つ尊氏は賴朝と異なつて、西國の諸國に大なる勢力を有し、その勢力から遠く離れることが不利であつたので、京都に於いて恣に幕府を開いたのである。よつて鎌倉には關東管領を置き、鎌倉時代に於ける六波羅探題と幕府との所在地を交換せるが如き形とした。その後義滿に至り、後龜山天皇が後小松天皇へ御讓位あらせられたことによつて、幕府政治が自ら認められることになつたのである。而して室町幕府は鎌倉幕府の後繼を以てむな任じ、その法律は貞永式目を用ひ、尊氏以來の式目追加は、武以來追加と呼ばれる。幕府の職制幕府の職制は大體に於いて鎌倉幕府に類似してゐる。先づ前代の執權の如く將軍を輔佐して幕政の大綱を握るものに管領がある。管領とは本來は5職名でなく、長として管轄する意であるが、始め執事と稱して高師直一六賴、細川〓氏が相次いで就職した後を、斯波義將が繼ぐに及んで管領と稱し、爾來職名となつた。この職に就くものは、足利氏の一族にして威權大なりし斯波·細川·畠山の三氏に限られてゐたので、これを三管領といふ。廳所としては鎌倉幕府と同じく政所·侍所·問注所があるが、その機能は何れも前代より著しく減少してゐる。卽ち政所は本來は重要機關たるべきものであるが、主たる政務は管領が見たので、この廳は財政を掌りまた將軍家の家政を沙汰するに止まつた。侍所は武士の進退、洛中洛外の警備、刑の執行を掌る。その長官を所司といひ、赤松·山名·京極·一色の四氏が交代にこれを世襲したので、この四氏を四職といふ。問注所は領地關係その他諸種の裁判事務を掌るものであるが、直接裁決の事には當ら第三章室町時代第一節室町幕府の政治三九五 第二編中世三九六なかつた。更に評定衆や引付衆が置かれたことも鎌倉幕府と同樣である。評定衆は前代武家政治の中樞をなしたが、この時代には形式的な評定機關たる意味が濃厚となつた。引付衆は訴訟·恩賞·所領社寺貿易等の事を決し、政治上の實力を有した。右の職制を〓括するに將軍の下に管領があり、管領の下に評定衆と政所·侍所·問注所があり、評定衆の下に引付衆がある。更にまた各種の奉行が多數置かれて政務を分掌し、その職を世襲する場合も多かつた。以上の中、管領及び侍所の所司は最も重職であり、これを數家に分つて世襲せしめたことは權臣が幕政を壟斷する弊害を絕たんとの留意に出たものとも考へられるが、實は幕府勢力が分裂して相爭ふ原因を導いた。地方の職制地方の職制については鎌倉に關東管領が置かれた。さきに尊氏は鎌倉に下つて北條時行の亂を平定し、留まつて征夷大將軍、關東八箇國の管領と稱し、關東の政治を始めた。その後正平四年(二〇〇九)尊氏の次男基氏が鎌倉に下つて關東管領となり、これより氏滿·滿兼·持氏と子々世襲して非常な勢力を有し、宛ら幕府に對立するが如き觀があつた。その職制は大體室町幕府を模し、幕府の管領に相當するものを執事といひ上杉氏代々がこれに當つた。而して將軍が公方と稱するや、關東管領もこれに倣つて關東公方と稱し、執事上杉氏が關東管領と稱するに至つた。足利氏の關東公方は持氏の時に一旦亡び、その後、遺子成氏が復したが、上杉氏と爭つて下總古河に逃れ、古河公方と呼ばれた。よつて上杉氏は京都より足利氏の一族を伊豆堀越に迎入て推戴した。これを堀越公方といふ。やがて戰國の世となつて兩公方共に北條氏に滅ぼされた。九州は吉野時代の戰亂に際し、征西大將軍懷良親王を中心として官軍が長く勢力を張つた所であつたから、足利氏は殊にその地の維持·經營に意を用ひた。且つ九州は我が西海の鎭めとしても重要なる地位を有することには、古來變りがなかつた。よつて吉野時代の末、足利氏は今川貞世(了俊)を派遣して九州探題たらしめ、その後、澁川氏がこれに代つた。九州探題は關東管領と共に幕府の兩翼をなしたが、後に幕府はその統御に苦しむに至つた。諸國に守護·地頭が設置されてゐることは前代と變りがなく、その機能も同樣たる第三章室町時代第一節室町幕府の政治三九七 第二編中世三九八べきであつた。たゞこの時代の守護は次に述べる如く、政治的·經濟的に勢力が增大して幕府の政令を奉ぜざるものが多くなり、幕府はその統制に苦しんだ。地頭も多くは莊園の領有に努めると共に、守護の家臣となる傾向があつた=守護權力の擴大と莊園の崩壞統制力の紊亂足利氏は武家政治を復しても、家人に對して强力なる統制力を發揮することが出來なかつた。從つて家人の放縱は次第に募つたため、尊氏は守護·地頭を戒筋して先代以來の法規に遵はしめるやうに努め、武力に任せて土地を押領し、或は地頭職を管領して己が家人に給與することを禁じた。かゝる制令はその後も屢〓繰繰されたが、何れもその效なく、打續く戰亂は却つて守護をしてその勢力を擴大せしめる機會を與へた。守護は本來その國內の治安維持と家人統制とを以てその任務とするものであるに拘らず、その有する武力を利して本所領家の莊園や地頭の收入を侵害し、これを恣に處分する傾向を生じ、地頭も亦屢〓本所〓領家に對する貢納を押領し、或は他の武士の所領を侵すに至つた。たん せんまた幕府は守護に命じて諸國に段錢·棟別錢等、臨時の課役を徵收督促せしめることが多かつたが、幕政の不振は動もすれば守護が職權を濫用して課役を私用のために徵收する機會を與へた。足利氏の恩賞政策尊氏が武力を掌握した時の事情は、賴朝が幕府を開いた時とは頗る異なるものが存する。賴朝擧兵の際、これに味方した者は何れも源氏の復興といふ熱烈なる精神に燃えてゐたが、それと共に、後に賴朝が部下に與へ得た恩賞地は平家からの沒收地や奥羽五十四郡等甚だ潤澤なるものがあつた。然るに尊氏の場合はこれと異なり、建武の新政に叛逆して足利氏に味方した武士に多くの恩賞を與へて、その望をつなぐ必要に迫られてゐたに拘らず、尊氏には新たに收むべき土地が少かつた。よつて尊氏はこれが對策として兵亂に藉口して武士をして諸莊園·國衙領の得分の半分を兵粮料として割取せしめた。これを半濟と呼ぶ。これは元來は臨時の措置として武士を賞する方法であつたが、守護や地頭は一度この好資源を得るや、幕命の有無に拘らず、種々の口實を設けてその徵收を連年繼續するのを常とした。かくて本所·領家の多くはその收益の半分を失ふ形となつたが、實際は更に甚だしくして、種々の課役を徵せられ、ために社寺權門の勢力は漸次衰微した。なほ幕第三章室町時代第一節室町幕府の政治三九九 第二編中世四〇〇府は思賞政策の一として國衙領の貢租の徵收を守護に請負はしめたが、これも守護の勢力が國術領を侵す原因となつた。守護權力の擴大かくの如くして室町時代の守護は、法制上の權限に於いて鎌倉時代の守護と同樣であるべきに拘らず、その實力に於いては著しく强大となつて來卽ち吉野時代五十餘年の兵亂は守護の權力を擴大せしめる機緣となり、室町末た。期にもなればこれが益、助長せられて、守護はその管轄する國を知行國として領有するといふ意識を明白にした。こゝに於いて國內の地頭·莊官等は守護の家來の武士となり、守護の分封に與るものとなる形勢を馴致した。この間にあつて守護の地位は世襲となり、山名·大内細川島津氏等は何れも數國の守護として大いに勢威を張つまた國司の管する國術領の莊園化は旣に平安時代から見られ、國司の私領たるた。が如くなつてゐたが、この時代にはその收益を全く守護に奪はれてしまつた。て守護はその權力愈。擴大し、やがて起つた應仁の亂後は諸國に割據する狀態となり、傾内には幕府の法制に擬したものを施行して宛かも各、獨立するかの如き形勢を示すに至つた。こゝに於いて、守護の名稱は何時か消え、群雄は國主大名諸侯等の名を以て呼ばれ、所謂戰國時代の世相を導くに至つた.莊園制の崩壊守護權力の擴大する過程は、これと表裏をなすものとして莊園制の崩壞過程を意味する。この事は旣に敍べたことによって自ら明らかであるが、特に應仁の大亂を契機として諸國に於ける莊園は更に破綻の步を速めた。莊園の本所領家たりし諸社寺や權門勢家には年貢が納められなくなり、莊園は殆ど皆大名領地に加へられた。南都·北嶺の經濟力が衰〓、公卿指紳の生活が窮迫するに至つたのは、主として莊園の崩壞によるものである。かくして安主桃山時代に入つて天下統一に向かふや、土地の知行制度が樹立せられ、諸大名以下に夫々領地が宛てがはれて社會は安定した。こゝに於いて近世の封建制度は完成し、莊園制は全く消失したのである。三幕政の推移義滿義持の公卿化とその榮華足利義滿は父義詮の死により正平二十三年(二〇二八)十一歳を以てその後を嗣いだが、管領細川賴之を始め側近の者の輔佐により、足利第三章室町時代第一節室町幕府の政治四〇一 第二編中世四〇二氏の勢威は漸く盛んとなつた。義滿は長ずるに及んで源賴朝以來幕府の傳統たる質機の風を忘れ、摺紳に近づいて公卿的な生活に馴れ漸く足利氏の公卿化が見られた。卽ち義滿は弘和二年(二〇四二)左大臣を稱し、同時に源氏公卿の筆頭たりし久我氏が繼ぎ來れる淳和·奬學兩院別當及び源氏の長者を手中に收めた。このことは爾後江戶時代の末まで征夷大將軍が大臣の顯官を拜し兩院別當竝びに源氏の長者を兼ねる例を開く所以となつた。ついで後龜山天皇京都還幸の翌々年卽ち應永元年(二〇五四)征夷大將軍を辭し、同時に平〓盛以來武家には嘗て先例のなかつた太政大臣に任ぜられた。翌年にはこれを拜辭し、出家して天山道義と號し、洛北に北山第を營んでこれに移つたが、なほ朝廷及び幕府の政務に干與した。公卿として榮達した義滿は遂に僭上の振舞が多くなり、且つ奢侈を事とし、遊樂に耽るに至つた。義滿の長子義持は父の辭職の後を承けて將軍に補せられたが、義滿の在世中は政治の實權がなほ義滿にあつた。義滿の死後自ら政を視るに至つたが、彼も亦遊樂に耽り、或は不臣の行爲が尠くなかつた。なほ弟義嗣は父義滿の愛によつて後嗣たらんとして果さなかつたので兄の態度に不平を懷き、義滿の歿するや吉野勤皇の遺臣が活動を始めたのを機會にこれに應ぜんとし幕府のために抑へられた。しかし、應永二十三年(二〇七六)關東管領足利持氏の執事上杉氏憲(禪秀)が持氏に叛いたのを機として、義嗣はまた氏憲と通じて大亂を起すに至つたが、これ亦失敗し、捕へられて自刃した。これより幕府の爭亂は絕える時なく繼續した。將軍織嗣問題と義〓義持は應永三十年(二〇八三)退隱し、子義量が將軍に補せられたが、同三十二年義量は若くして歿した。義持には他に子なく弟は皆僧侶であつたため、後嗣を定めないで幕政を執つてゐたが、同三十五年義持も歿した。よつて管えま風出演家は出名時味を言陰滿演算よ講し我符の弟先先天古座主であ圓を還俗せしめて後嗣とした。これ將軍義〓である。義〓はその性格が嚴正であつたから、よく幕政を振肅し、幕府の威權を保つことに努めた。これより先、關東管領足利持氏は嘗て義持の猶子となつたので、義持の嗣たらんことを期してゐたが、その希望が叶はなかつたため、持氏は義〓に快からず、よつて幕命を奉じなかつた。執事よ上杉憲實は常にこれを諫めたが、持氏は肯かずして益〓反抗の氣勢を逞しくした。四〇三第三章室町時代第一節室町幕府の政治 第二編中世四〇四つて幕府は大軍を發して持氏を攻め、永享十一年(二〇九九)これを減ぼした。これを永享の亂といふ。かくて幕威は大いに擧つたが、義〓の嚴格にして高壓的孝政策は一部の幕臣の不評を招き、義〓を惡むこと甚だしかつた赤松滿祐は、嘉吉元年(二一〇.一)六月、京都の自邸に義〓を招き、急に起つてこれを害し、領國播磨に赴き、自旗城に據つて叛した。こゝに於いて嫡子義勝は八歲の幼少で家督を繼ぎ、山名持擧等の武將をして滿祐の亂を平定せしめた。世にこれを嘉吉の亂といふ。義勝はついで將軍職に補せられたが早逝した。豪族の勢力はかゝる間に漸く增大し、幕政は次第に混亂の狀態となつた。室町時代には將軍家にも諸將の家にも相續爭が相次いで起つた。これは卽ち家臣の對立を反映するものであり、延いて主從關係の破壞を導き、下位の勢力はこの爭に乘じて增大して行つた。義持義嗣の爭を最初の例として、右の永享の亂、次の應仁の亂等何れも將軍家繼嗣問題の紛糾が表面化したものであつて、諸勢力の分裂的傾向は十分これに看取せられる。義政の失政と諸將の分裂義勝に次いでその弟義政家を継ぎ、文安六年(二一〇九)將軍に補せられた。義政はその前半の政治に稍〓見るべきものがあつたが、長ずるに及び、財用の不足せるにも拘らず、祖父義滿に倣うて次第に奢侈に流れ、重課を徴して上下の怨を買つた。この頃豪族の勢力は次第に增大し、且つその對立的傾向は助長され、就中、管領細川勝元と赤松氏討伐に功のあつた山名持豐とが何れも數箇國の守護として大なる權勢を有して相反目してゐた。時に義政は子のないため、寛正五年(二一二四)弟の僧義尋を還俗させ、名を義視と改めしめて後嗣と定め、勝元をして後見せしめたが、その翌年實子義尙が生まれたので、その生母富子はこれを後嗣たらしめんとして持豐に事を託し、これより細川·山名兩氏の對立が激化した。且つこの頃管領家たる畠山氏·斯波氏も各、相續爭を起し、黨を立てて爭つた。これらの對立が遂に應仁の大亂を導く直接の原因となつたのである。應仁の亂應仁の亂は諸勢力の分裂·抗爭が激化した結果として起つた戰亂であよし なりる。その發端は文正二年(二一二七)正月、畠山政長が一族畠山義就と京都上御靈社に陣して相爭つたことにあり、この爭により細川勝元·山名持豐各、一族與黨の分國の兵を京都に招き、諸國の將士相分れて戰ひ、その戰亂は十一箇年の久しきに亘つた。勝第三章室町時代第一節室町幕府の政治四〇五 第二編中世四〇六元方に從つたものは畠山政長·斯波義敏以下二十四箇國十六萬人の軍であり、持豐方に從つたものは畠山義就·斯波義廉以下凡そ二十箇國九萬人の軍であつた。京都の東西に陣を分つて相爭つたので、前者を東軍といひ、後者を西軍と稱する。戰は主として京都に於いて行はれたが、もとより武士勢力の根據は地方に存した。從つて兵亂はその進行につれて地方に波及し、所領の爭奪戰となるべきは當然の過程であつた。こゝに於いて戰局の前途は全く混沌たるものとなつたので、數年にして主將勝元と持豐の間に和議の希望が起つたが、事は容易に運ばず、持豊は和議の成立しないことについて大いに心痛し、勝元も養子勝久と共に剃髪した。ついで文明五年(二一三三)には持豐·勝元相次いで歿したが、戰亂はなほ停止しなかつた。しかし同九年頃諸將漸く戰に倦んで領國に引上げるに至り、應仁の亂は漸く終局となつた。この間義政は一旦後嗣とした義視を斥けて、義尙をして繼がしめたので、義政·義視の間に不和を生じたが、十年七月和議が成つた。この戰亂の間、京都は平安京の名も空しく、日夜兩軍相鬪ひ、兵火相次いで起り、無賴の徒はこれに乘じて横行し、殺傷〓掠奪を逞しうした。市中は焦土と化し内裏·仙洞を始め奉り、洛中洛外の貴顯の邸宅や寺院などは多く燒亡し、諸家の重寶や記錄の烏有に歸したものも莫大であつた。群雄割據への移行かくじて應仁の亂は局を結んだが、この大亂はそのまゝに所謂群雄割據の時代へ移行し、全國を擧げて亂麻の如き狀態となつた。應仁の亂に東西兩軍に分れて戰つた武將等は、皆歸國して地方の完全なる領有に力を集中し、他の武將とその封疆を爭ふに至つた。所謂戰國時代は應仁の亂より直ちに連なるものであつて、この亂世は織田信長及び豐臣秀吉が天下統一の業を成就するまで百箇年に及ぶのである。幕府の衰勢文明五年(二一三三)應仁の亂の最中に義政の子義尙は幼にして將軍に補せられ、義政が依然として政治を視、義政の妻富子も常に政治的干涉を試みた。而して義政·義尙父子の關係も後には善からず、亂後の幕政は益〓頽廢に向かつた。よつて義政は世の爭亂に對して遂に逃避的となり、盛んに土木工事を起し、殊に京都東山に山莊を營んで、こゝに悠々自適の生活を送つた。義尙は資性明敏であつて、その長ずるに及び、衰運を辿れる幕府勢力の囘復を圖つ第三章室町時代第一節室町幕府の政治四〇七 第二編中世四〇八た。卽ち當時幕府の威令の及ぶ所は僅かに山城一國內に止まり、近國には豪族が多數の關所を作つて交通の障礙をなすといふ狀態にあり、京都の生活も物資の缺乏にゑた惱まされた。その上近江の六角高賴は壽命を奉ぜず延居寺その他の莊園を侵して勢威を振るつたので、義尙は先づこれが討伐に向かつた。しかし將士の士氣は弛廢して、最初より戰意に缺け、討伐の效果は擧らず、住苒日を曠しくする中に義尙は近江もよし たねで病歿した。ついで義視の子義材(義植)が將軍に補せられ、また六角氏を伐つたが、その成果を收め得なかつた。これより幕政は愈、亂れ、その治績の見るべきものもなくなつた。その後の將軍は全く政治力を失ひ、その居所さへ定まらずして近國に走ること多く、各地の豪族の自立的態度は益〓募り、幾多の政治的·經濟的中心が發生した。しかしこの間にも將軍は形式的ながらなほ存續し、義稙から義澄を經て義稙の復任となり、にいたに前請森趣參奉をててはじまり織田恒長の男勇が大となるに(二二三三)將軍の廢絕に至るのである。第二節經濟生活及び社會狀態ー產業農業室町時代には〓して社會狀態の動搖不安が甚だしかつたけれどもその間に於いても國民の生活は向上し、經濟は次第に發展しつゝあつた。農業は鎌倉幕府や莊園領主によつて開墾が進められた後を承け、前代ほどの活氣が見られないが、なほ新田開發は行はれ且つ耕作法の改良が普及して收穫は增加しつゝあつた。殊にこの時代の末期に群雄割據の狀態となるや各大名は何れも領內の富强を圖り、民利に心を注いだため、農業も大いに進歩した。農產物の中、最も重要なものは米であるが、米作は水田耕作が盛んであつて、耕作法も進歩した。裏作としての麥の栽培は益〓普及し、その他栗··黍豆等も多く生產せられた。養蠶は上世にかなりの發達を遂げたがその後振るはず、絹織物や眞綿等も各地に第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四〇九 第二編中世四一〇生產せられたが、支那より多量の輸入を仰いでゐた。棉は上世に一時輸入されたが、この時代に至つて草棉の名で近畿地方に栽培せられ、江戶時代初期までに廣く全國に普及した。その他絹に次いでの重要な被服原料たる麻·芋は主として東北地方の寒地に栽培され、燈油または食用としての胡麻荏胡麻や染料としての藍等は各地に栽培された。また茶は早くよりあつたが、未だ普及してゐなかつた。然るにこの時代には喫茶の流行に應じて多くの茶園が開かれ、山城·大和はその主產地であつて、宇治茶の名は旣に喧傳せられるに至つた。その他甲州の葡萄、紀州の蜜柑等の特殊物產もこの時代に起つた。農業技術については農具の改良が徐々に行はれ、また牛馬の使用が普及した。そのため牛市や馬市その他の市場が至る所に立てられて盛況を呈した。灌漑は水車による技術が特に發達し、永享年間來朝した朝鮮使節はその方法の優秀なるに驚き、水車を朝鮮に輸入しようと圖つたほどである。治水事業は諸國の領主が特に意を用ひたところであつて堤防や池溝の修築に力を盡くした。林業林業は主たる需要地に近い關係から、丹波·近江伊賀·南大和等に盛んであり、土佐·安藝の良材も聞え、また木曾山を中心とする檜材も珍重された。かくて京都や鎌倉には殷賑なる材木市場が成立するに至つた。更にこの時代の末には各大名が山林保護のため、禁制を出してその濫伐を防がしめた。水產業漁業は國民の生業として古くから盛んであつたが、商業の發達と共に水產物も商品としての意味を持ち、各地に魚市場が成立した。この時代の漁業は主として海岸近くや河川等で行はれる網漁·釣漁等であつたが、時には西海の漁民が南朝鮮に出漁するなど、稍〓遠海の漁業もあつた。製鹽業は瀨戶內海を中心として發達し、多量の鹽が製造せられて各地に販賣せられた。その製法も上世に行はれた藻鹽を燒く方法から進んで、鹽田を開き大規模に製造するに至り、瀨戶內海沿岸の產地より兵庫·淀·堺に輸送せられる鹽船は多數に上つた。鑛業鑛業もこの時代には更に發達して、鐵·銅·金·銀等の產額は漸次增加し、露頭採集から進んで掘鑿が盛んに行はれ、海外よりの需要は一層その增產を促進した。殊にこの時代の末期に、諸大名がその領內の富國强兵策を講じ、貨幣及び武器の原料としての鑛物生產に注目し、鑛山の開發に努力するに至つて、斯業は急激な發達を遂第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四一一 第二編中世四一二げた。されば佐渡の金銀山が上杉氏により、石見·但馬の銀山が大内·尼子·毛利の諸氏により、甲斐の金山が武田氏によつて開發されるなど、鑛山の經營が各地に行はれた。精鍊法もこれに伴なつて發達し海外にも誇るべきものとなつた。工業國民一般の生活程度の向上と共に、この時代には日用品の種目と量が增加した。これに應じて手工業の分化發達が促され、諸種の職人が多數生じた。これらの職人は從來主として朝廷·社寺等の需要によつて生計を立て、その附近に居住したが、この時代には工業の地方化につれて諸大名の保護の下に城下町にも集中した。しかしなほ傳統のまゝに朝廷·社寺等の免許を受けなければならない職業も尠くなかつた。工業の代表的なものは建築·鍛冶·鑄物·織物·製紙·酸造等であるが、これらの中特に盛んであつたのは鍛冶·鑄物の金屬工業と絹織·麻織等の織物工業とであつた。鍛冶は刀鍛冶や農具の製作などがあつたが、殊に刀劍については日明貿易に際して足利氏の貿易品として送られた數量は夥しいものがあり、群雄割據の時代となつてその製造は各地に興つた。鑄物は京都三條の鑄物師が最も早く現はれてゐたが、諸大名が諸國に割據してより、大いに地方的發達が促された。織物は各地に精巧なものが生產された。殊に貿易地たる博多·堺·山口等にては明の職人の渡來によつてその發達が促され、金襴···子縮緬等が製出されるに至り、京都ではこの時代の末に西陣織物業の礎地が開かれた。而してこの時代の手工業は需要者の註文によつて製作する以外に市場生產が盛んとなり、各種の手工業生產品が夥しく商品として現はれるに至つた。二貨幣の流通と金融貨幣の流通前代以來盛んに流通した貨幣は、この時代に於ける商業取引の擴大につれて益〓普及した。貨幣は依然として官鑄せられることなく、宋錢明錢がこれに充てられてゐた。殊にこの時代の日明貿易の主たる目的は銅錢を得ることにあつたといはれるほどで、その結果洪武通寶·永樂通寶·宣德通寶等が多數に輸入せられて大いに流通するに至つた。錢貨の普及に伴なひ、民間私鑄錢もまた增加し、劣等錢が尠からず混在するに至つたので、この惡錢を排除する手段として取引の際に撰錢が行はれ、またその限度を指示するために屢。撰錢令が出た。貢納もまたこの時代には第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四一三 第二編中世四一四錢貨を以てすることが多くなり、從つて所領を測定するに上納額を意味する貫高を以て土地を呼ぶことも行はれた。而して錢貨の中でも永樂錢が標準貨と認められたので、貫高に代ふるに永高なる用語も生じた。また戰國諸將には金銀の形態·重量等を整へ、これを貨幣としてその領內に流通せしめるものがあつた。金融業經濟の發達に從つて金融業も亦盛んとなつた。鎌倉時代に金融業者を借上といつたが、室町時代にはその名稱はなくなり、酒屋·土倉が金融業に從事した。土倉の主なるものは幕府の財用を預ることもあり、公卿や大名の財務を引受け、遣明貿易船の金融に關與する者もあつた。また前代に見られた爲替も次第に發達し、これが後に兩替となり、今日の銀行業に進む過程を辿るのである。三商業市の發達諸產業の進歩と增產及び貨幣の普及は、一面に於いて商業が發展〓擴大せることを意味する。中世商業の中心たる市場や座はこの時代に著しい發達を遂げ廣汎な流通經濟も見られた。市場(市庭)は在來定期市として多く開かれ、室町時代になつて愈、普及すると共に、一方には固定的設備を有して常時營業する市場も各地に發達した。就中、京都の四條·五條邊りは殷賑な商業地區を構成し、地方の小都市にも同樣の店鋪が發達した。殊に各地の社寺の門前には祭禮日の市が開かれたが、定着せる商店となるものもあつて、これが所謂門前町として全國各地に尠からず發生した。またこの時代の末期には大都市やその附近に特產物の取引に從ふ特殊市場も開かれた。京都の米場、淀の魚市の如きがそれである。この米場は米商人によつて組織された米場座によつて管理せられ、近江路から送られる米穀を一手に取扱ひ、その運搬に當る馬借も組合的な集團をなした。後世の大阪堂島や近江大津の米市場はこの米場を發端とするものであり、淀の魚市は海產物の集散市場として繁榮し、ば近世に於ける大阪雜喉場の魚南に繫がるのである。座座は前代のあとを承けて商工業の各部門に發達が見られた。京都附近ではが上京の四府(益枯疑藝術師に屬する駕輿。Tg座、下京の祇園社に屬する吳服座·綿座等の諸座を始め、北野社の酒麴座大山崎の離宮八幡宮の油座等多數の座が存し中には廣く近隣の諸國に亙つて營業權を占め、座外のものの同種營業を妨げるものもあつた。ま第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四一五 第二編中世四一六た各地の市場には多くの座が夫々の席を占め、奈良南市には魚屋絹屋等三十餘の座があり、大阪四天王寺門前の濱市にも布座·紙座·莚座等十九座があつた。また有力なる社寺には多數の座の本所となるものもあり例へば興福寺大乘院の支配下にある座はその種類六十餘を數へた。樂市樂座かくの如く座はその全盛を見たが、この時代の末期に入り、一部の大名は領内に於ける商業の發展を企圖して座の有する特權を認めず、或は市場の營業を何人にも開放し、或は座を撤廢して自由に商業することを認め更に營業に對する課これを樂市樂" 1/2늘役を免除するに至つた。座と呼ぶ。戰國大名が樂市·樂座の政策をとつたことは、また市座の舊來依存して來た社寺·權門の勢力を一掃し、これを自己の統制下に置かんがためであつて、莊園を打破して領國の知行を完成せんとずる政策と同樣に、商工業にも統一的支配を成し遂げんとする意圖に出たものである。樂市樂座はその後信長秀吉を始め、諸大名によつて各地に及ぼされ、商人の新たなる進出にあらゆる便宜が與へられるに至り、近世商工業發達の素地が築かれることとなるのである。四交通交通の狀態吉野時代以來打續いた戰亂によつて地方の治安は紊れ易く山賊海賊等の横行が尠くなかつたが、商業の發達都市の物興に伴なつて交通は海陸共にその量を增した。近江を始め諸國の各地には行商人が起つて村々の各戶や市場を渡り行きまた庶民の間には伊勢の神宮、その他諸社·諸寺への參詣、或は三十三所觀音靈場の巡禮等も盛んとなつた。海上では沿海の航路が何處にも發達し、北陸道と北海道方面との連絡もあつた。關所の濫設その上に、前代以來公卿·社寺その他各地の領主は水陸交通の要衝に關所を設け、入港の船舶、通過の人馬·貨物から關錢を徴收してゐた。卽ち關所は港や河川はもとより、道路の各所、殊に都市の入口などに盛んに設けられその關錢は交通施設の改善に用ひられるものではなくて、純然たる收益本位のものであつた。この種の關は旣に建武中興に一旦その撤廢が圖られたが、室町時代になつて益、濫設せられて交通の妨害となつてゐた。されば商人等によつて關錢免除や關所撤廢の運動第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四一七 第二編中世四一八が屢〓、起つた。而してこの時代の末、諸大名は地方的統一を遂げるに及び、關所が障礙となることを感じ、軍事的なもの以外を漸次廢止するに至つた。後に信長·秀吉も國內統一の進むと共に、その政策を推し及ぼし、收益を目的とする關所は遂に影を沒するのである。五都市の發達都市發達の曙光この時代に於ける國民の經濟生活の進展、殊に末期に於ける諸大名の領內富强政策は各地に都市の發展を顯著に導くに至つた。平安時代にあつては都市は政治的な意義を有し、中央には平安京があり、地方にては國衙の所在地卽ち國府が小都市をなしたが國衙の實權が衰へて莊園制が發達するにつれて國府は衰へ、莊司の所在地が纔かに小都市化した。また陸上交通の發達啻につれて街道に點在する驛家卽ち宿も漸次都市化し、東海道三島の宿の如きが現はれた。また河海の岸にあつた港は前代にては難波·兵庫等を除いては多くは村落に過ぎなかつたが、この時代には物資の保管·輸送等が益〓輻湊し、他の商工業者も集まつて和泉の堺の如き都市が現はれた。更に參詣者の蝟集する大社·大寺の所在地にはヒままに構成した。かくして村落から都市への發展膨脹は顯著となつた。京都京都は帝都として引續いて大都市であつた。先づ皇居は平安末期より屢〓里內裏を以て充てられ、その位置は固定しなかつたが、吉野時代の初めから京都御所は今の地に定まるに至つた。右京は平安初期以來大部分は田園のまゝであり、市街地は左京に發達し、皇居と公卿の邸宅もこゝに存し、賀茂川の東には公卿の山莊が點在してゐた。御所の西北方室町に幕府が開かれてより、將軍·幕僚等武家の居宅がこの方面に集まり、市街は北方へも擴がり、町屋もこれに伴なつて東と北とに多く立ち竝んだ。且つ東山を中心として多數の寺院が點在し、禪宗五山も多く郊外に興され、京都は寺院都市としての色彩をも濃厚にした。應仁の大亂起るや、兵燹に罹つて一時は荒廢したけれども、やがて復舊して生產都市への道程を辿り、工藝や織物業等が盛んとなつた。奈良奈良は舊都となつて久しき歲月を閱し、昔日の俤は見られなくなつたが、第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四一九 第二編中世트二〇春日神社·興福寺等の厖大な財力を持つ社寺を中心として都市が形成された。そこには神官·僧侶の外商工業者が多く集まり、門前の聚落が發達した。然るに室町末期に入つてこれらの社寺は頓に頽勢に傾いたために、主として社寺に依存してゐた工人等はこれより一般庶民を顧客とし、金工·彫刻織物等にその優れた傳統の技術を誇つた。こゝに奈良もまた生產都市たる性質を明らかにした。鎌倉鎌倉は賴朝の開府以來發達した都市であつて地形の關係上、その區域は自ら限定せられてゐるが、種々の意味に於いて關東第一の都市を形成した。卽ち單に政治的都市たるのみならず、また文化的にも鎌倉五山等があり、これを通じて優れた文化が關東諸國に傳播して行つた。人口の詳細は明らかでないが、鎌倉時代の正嘉年間の大飢饉には死者二萬人と傳へ、その後永仁年間の大地震にはこれまた死者二萬三千人と傳へられ、その大都市たるを思はしめる。從つてまた經濟的にも關東の中心をなし、多くの物資を呑吐し、商業も盛んであつた。室町時代には足利氏の最も重んじた地方的要衝として關東管領の所在地となり、依然としてその繁榮を保つた。然るにこの末期に上杉氏が鎌倉を去り、更に小田原に居城した北條氏がこれを領有してよりその重要性が失はれ、鎌倉の富と文化は小田原に吸收されるに至つた。小田原小田原は應仁の亂後、北條早雲が城郭を構へてから城下町として俄かに發展した。北條氏は諸國の商人をこゝに迎へ、その殷賑は京都·鎌倉に劣らずと稱せられ、遠く支那から明人の來住する者もあつた。後に、德川家康は江戶を經營するに、當り、小田原の町人を江戶に移住せしめた。堺港灣都市としては和泉の堺が最も顯著なる發達を遂げた。既に吉野時代に堺は四國中國の武將等が畿內に出入する門戶となり、また物資輸送の要衝であつた。よつて和泉守護となつた山名氏〓の築城するところとなつてその繁榮の基礎が作られ、次いで大內氏の領となつた。應永六年(二〇五九)大內義弘はこゝに亂を起して敗死し、その時兵燹に罹つた民家が一萬餘と傳へられてゐる。その後、管領細川氏の領地となつて繁榮を囘復し、商港として益、都市的發展をなし、遣明船の解纜することもあつた。町家には富商が多く、組合を作つて細川氏のために貿易船をも仕立てたが、遂に市民は富力によつて市の行政方面をも掌中に入れ、自衞の手段として武力を要することから武士の浪人を傭ひ入れる場合もあつた。堺の文化は初めは明第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四二一 第二編中世四二二文化の色彩が濃厚であつたが、後には遠く西洋文化を受容し、異國的な情調を漲らせた。なほ次の時代に於ける大阪の經營には堺の市民が多く移住してその中樞となつた。兵庫兵庫は平〓盛以來港灣の修築が行はれ、瀨戶內海に於ける重要な海關であつた。而して興福寺東大寺等がその權利を握り、入津料の收納は大なるものがあつた。また對明貿易の起點としても船舶の往來が頻繁であつたが、堺が貿易の中心となつてより、衰兆を來たすに至つた。博多山口筑前博多の津は太宰府の門戶に當り、北九州の物資を瀨戶內海を經て京都へ輸送する起點であり、また北と西は海を隔てて大陸に對する第一の港である。されば早くより宋船の往來があり、宋人も來住し、室町時代の中頃には大內氏の所領となり、對明交通の要衝として著しく發展を遂げた。而してこの博多を領して貿易上の勢力を持つた大內氏の城下は周防の山口であつた。山口は防府を外港として博多を經て明と通商し、且つ堺との往來も頻繁であり、また京都との關係も密接であり、戰國の爭亂を避けて來た公卿·僧侶を迎へた。されば山口は一時西都と呼ばれ、富裕を以て聞え、外人も來住して文化が著しく發展した。都市は商工業の躍進、大名の城下町經營策等によつて、近世に入つて顯著なる發展を遂げるのであるが、その要因はすべてこの時代に見られる。六庶民の擡頭庶民の擡頭と德政國民の經濟生活の進展殊に貨幣の流通、商業の發達は商人の擡頭を來たし、また都市の繁榮を導く所以となつた。かゝる社會の新事態はまた種種の社會問題を生むに至つた。その中最も注意すべきものは德政である。德政は旣に敍べた如く、鎌倉時代の末期に幕府が家人の窮乏を救ふために發した政令であるが、それは旣に富が一部の庶民に集中しつゝあつた事實を反映してゐた。德政令の效果は期待された如くでなく、むしろ經濟界の混亂を來たし金融梗塞して家人は却つて苦しみ、庶民擡頭の趨勢は依然として助長された。庶民の集團運動室町時代に入つて商人が富裕となる傾向は强くなつたが、一方庶民一般も集團的勢力として擡頭して來た。卽ち借錢契約の無效を强請する運動第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四二三 第二編中世四百四がやがて庶民卽ち當時所謂士民によつて屢、集團運動として起された。これを德政一揆·土一揆などと稱する。尤も農民の集團運動は旣に前代にも存したが、所謂土一揆として知られてゐる最初の顯著なるものは正長元年(二〇八八)飢饉による民衆の生活難を契機として起つた一揆である。これは近江より京都に米を運ぶことを業とした坂本の馬借によつて起されたものであるが、他の民衆もこれに加はり、大擧して酒屋·土倉·寺院等金融を業とせるものを襲つて借用證文を破棄し、質物を奪ひ取つた。一揆の暴動は京都に止まらず、更に近畿諸國に波及して各地に起り、播磨では守護と戰ひ、山城の一揆は奈良に侵入し、年貢の免除を要求して社寺をしてこれを認めしめた。この時の一揆は幕府に對して德政の發布を要求しなかつたが、その後嘉吉元年(二一〇一)に起れる一揆はこれを要求してその目的を達した。かくてこの時代を通じてこの種の運動は屢、繰返された。この時代の土一揆には農民のみならず、商人·手工業者等各種の身分の者も加はるのを常とし、寛正·文正年間には在京大名の下級の家臣にもこれに加はつた者があつた。また嘉吉年間の土一揆の如き、借財のない庶民にして公卿·武家等の困窮に同情して蜂起したものもあつたといはれてゐる。統治力の頽廢かゝる土一揆は政治が紊れた結果、貧困なる者が生計に窮乏し、衆を恃むの擧に出たものであつて、多くは大飢饉·天災等の後に起つてゐる。しかも幕府は旣に治安維持の根本的對策についての力と熱意とに缺けて、當座の手段のみを考へ、足利義政の如きは一代に數十囘も德政令を出し、これによつて幕府の債務を破棄した。元來酒屋·土倉等への課稅は、幕府の重要な財源であり、土倉の組合は幕府の財務を掌つてゐたから幕府としては酒屋·土倉を保護せねばならぬ立場にあつたが、德政令は逆にこれらを苦しめることとなつた。また德政令のため土倉が廢業して金融梗塞を來たし、そのため一層高い利率を貪る日錢屋が簇生したことも、時代の世相をよく物語る一端である。また地方農村に於いては領主の苛歛誅求に對して積極的な一揆によらない反抗運動をなすものもあつた。卽ち敢へて年貢の未進や嗷訴をなし、或は最後の手段と()して擧村逃亡の手段に出づる逃散も時に行はれた。また世情の不安によつて村落にては相依相助の精神村內結合の傾向が促され、共同して利權を確保することに努第三章室町時代第二節經濟生活及び社會狀態四三五 第二編中世四三大力するに至つた。これは後に爭亂が、鎭まると共に農村自治組織の母胎ともなるものである.かくの如くして室町時代には、國民生活の樣相に變化が齎されると共に、この間に土地經濟を主とした時代から、貨幣經濟の進展する時代へ推移し、國民の經濟生活の動向は次第に近世的なるものへの展開を示唆するに至つた。第三節對外關係ー國民の海外發展八幡船の活躍さきに文永弘安の外寇によつて、國民の海外進出への意欲は著しく誘發せられた。殊に航海に慣れたる勇敢なる海邊の住民は大いに大陸方面へ雄飛するに至り、その活躍は吉野·室町時代に入ると共に益〓隆盛となつた。卽ち九州及び瀨戶內海沿岸の住民等は、船に八幡大菩薩の旗幟を揭げ、よく千里の波濤を凌ぎ、支那·朝鮮·南洋方面等の沿岸に航して交易に從ひまた時にその勇猛當るべからざる勢を以て、抵抗者を蹴散らし、所在に威名を轟かした。彼地ではこれを倭寇といひ、船を八幡船と稱して大いに恐れ、私に貿易することを許さず、これを擊攘せんとしたが、何れもその效果は擧らなかつた。よつて高麗では正平二十二年(二〇二七)使節を我が國に送つてその禁壓を乞うたが、我が國はこれに應じなかつた。また支那では元が同二十三年に亡び、明の太祖朱元璋が國內を統一し、翌二十四年使節を我が國に送り、日當時太宰府に居られた征西大將本種軍懷良親王に國書を示して海寇達坊息子商を禁ぜられんことを請うたが、親海外王は國書の文辭が無禮なるを責南發めて直ちにこれを却けられた。那ネ展その後も明はなほ使を遣はし、入海圖明東寇を以て我を威嚇したが、親王はこれを引見せられ、我が國が聊かも明の威を恐れざることを說い第三章室町時代第三節對外關係四二七 第二編中世四人八て我が國威を示し給うた。琉球民の活動また琉球の民は暹羅を始め、東印度諸島及び印度等に活躍して貿易に從事した。卽ちそれら南方諸國の特產物たる蘇木·胡椒等を齋して明及び高麗と通商し、中繼貿易による利を收めた。而して琉球貿易の背後には南九州に雄視せる島津氏があり、薩摩の商舶は盛んに琉球に往復して南海の物資を我が本土に將來し、諸國との貿易に從事するものも尠くなかつた。かくて室町時代東亞海上を縱橫に活躍した琉球船の姿は、本土の民の雄飛と相俟つて、我が國民の海外發展の隆盛を示すものであつた。朝鮮との關係朝鮮にてはその海外活躍に顯著なるものなく主として我が本土の國民の進出に對する問題が中心をなした。平安中期以來半島は高麗の統治するところであつて、我が本土との關係が深く、殊に西海の民は盛んにこれに赴いて通商を行つた。元寇の際高麗は元に與して入寇したので、我が國民は屢〓武威をかざして半島の沿岸に活躍し、また南鮮及び濟州島の經濟力は殆ど我が國民によつて占められるに至つた。高麗はこれを退けんとしたが成功せず、財政は疲弊して遂に內亂が起り、元中九年(二、〇五二)李成桂は高麗を滅ぼし、ついで朝鮮を開いた。李氏は我が邊民の難を免るべく、〓〓足利氏及び中國·九州の諸大名に使節を遣はして修好を請うたので、彼我の間に平和な國交と通商とが囘復された。然るにやがて朝鮮は對馬との關係が善からず、應永二十六年(二〇七九)六月、遂に兵船二百餘艘を以て對馬へ大擧來襲した。これを應永の外寇といふ。この外寇は一時京都を驚かしたが、宗氏はよくこれを防ぎ、九州諸將の援助を得て擊退した。その後朝鮮は再び我に修好を望み來つたので、九州探題ではこれに應じて九州方面より朝鮮に通商せんとするものには探題の書契を持參せしめることとし、宗氏も亦對馬の島民の通商には書契を携帶せしめることとした。その外に朝鮮では勘合印を以て通商の證とす而してこの頃、貿易港として釜山浦春浦(電話)の三角形川)〓〓(蔚山)の三浦る制度をも始めた。が開かれ、京城及び三浦には我が使節接待及び交易のため倭館が設けられた。かくの如く朝鮮は我が國のため大いに修好的な貿易の途を開いたので、我が邊民の私貿易に苦しむことが稀になつた。この時代に諸國の大名にして朝鮮と修好し、貿易の利を收めるものが極めて多か第三章室町時代第三節對外關係四二九 第二編中世四三〇つたが、就中宗氏は特殊の關係を有し、年々五十艘の歲遺船を送る外、我が大名及び商人の朝鮮貿易も殆どその手を介して行はれた。しかし後には宗氏は朝鮮との間に屢〓衝突を惹起し、彼我の修好及び貿易も亦斷絕するに至つた。=足利氏の對明外交と貿易足利氏の對明外交懷良親王が明に對して斷乎たる御態度を示された後、足利氏は單なる利得の目的の下に對明外交と貿易とを開いた。卽ち足利義滿は應永八年(二〇六一)使節を明に遣はし、且つ通商を求めしめた。翌年使節が明使を伴なうて歸朝せる際携へたる明の惠帝の國書は無禮なものであつたが、義滿はこれを受理し、且つ朝廷にはこれを奏上しなかつた。而してその後も勅裁を得ずして恣に使節を交換すること數囘に及びたゞ貿易の利を收めるに汲々として大義を顧みず、その後代代の將軍も略〓義滿に倣つて對明外交を行つた。更に幕府は盛んに明の貨幣を輸入して國內に通用せしめ國家的自覺の缺如を暴露した。幕府の勘合貿易さきに足利尊氏は後醍翻天皇を弔ひ奉つて京都に天龍寺を建て、その費用を補はんがために造天龍寺船を元に遣はして貿易を行はしめたが、義滿以後の貿易もこの先蹤に倣つたものである。遣明貿易船は三艘乃至十艘より成り、幕府の公船たる證として明より豫て交附せる勘合符を携帶した。これを勘合船と呼ぶ。かゝる勘合制度は公船と私船との區別を明らかにし、以て我が邊民の私貿易を警戒する手段であつたが、事實は我が邊民が頻りに大陸沿岸に渡航して私貿易を營んでゐたことは旣に述べた如くである。勘合貿易船が往復に積載した貿易品は驚くべき莫大な量目を數へた。我が積載品は硫黄銅等の鑛產物刀劍·鎗等の武器、扇子·屏風·蒔繪等の調度品が主なるものであり、我が工藝技術の優秀さによつて大いに明人に珍重せられた。殊に日本刀は多數輸出せられ、極めて高價に買はれた。また我が國への積載品は銅錢を主とし、これに次いでは生絲·絹織物·藥品·書畫·骨董の類があり、一般に唐物と稱して愛玩せられた。勘合貿易船の容積は千石內外のものを主とし九州の門司·平戶·博多·坊津、瀨戶內海の赤間關·尾道·鞆·兵庫·尼崎·大阪·堺等がその發着港であつた。一艘の乘組は平均百人でやくぞくの船は北九州の國家にて長夜の準備を變(五島泰留浦に第三章室町時代第三節對外關係四三一 第二編中世四三二出帆した。もとより支那海に於ける季節風の關係から、航路の變更されることもあつたが、多くは寧波に向かつた。載貨の交易は主として北京にて行はれ、將軍の貿易品のみは錢と物と半分宛にして交易されたが、明は我が商人の貨物については物々交換と定め、貨幣の海外流出を防がんとした。なほこの勘合貿易船には常に禪僧が使節として、また商人の代表として派遣せられ、貿易船編成の企畫にも與つてゐた。もとより遺明船は宗〓的使命を有するものではないが、禪僧は支那的な〓養に富んで文筆に長じ、彼の地の事情に通じ、且つ將軍や幕臣に親近してゐたから、外交に重用せられたのである。かくして禪僧によつて明の文化が齎されて、室町時代文化の發達に寄與したのであるが、また一方明人は我が工藝品の優れた製作技術の傳授を求めてこれを習得せんとし、我が國の文化が彼の國に及ぼした影響も尠くない。大內氏の對明貿易諸國の大名·社寺·商人等の中には幕府より勘合符を受け、通商を行つてその富裕を圖るものが多かつた。諸大名の中、特に注目すべきは周防の大內氏の占めた特異の地步である。大內氏はその領地が彼我交通の要路に當つてゐたため、もとより盛んに通商を行つてゐたが、應仁の亂の頃からは幕府の委託を受けて勘合符のことを專管するに至つた。かくして幕府が衰へると共に、明との通商を殆ど獨占して富强を極め、その城下の山口は貿易品の商業地となり、頗る繁榮した都市となつた。しかし戰國時代の末に大內氏が滅亡してより勘合貿易は自ら絕えるに至つた。かくて室町時代を通じて對明貿易は盛んに行はれたが、幕府の態度はとかく實利のみに偏して國家の體面を顧みなかつたのみならず、また一部國民の潑刺たる海外發展の機運を適切に指導し得なかつた。されば室町時代の對外關係に於いてはその成果が十分には發揮されなかつたが、やがて豐臣秀吉によつて天下統一が成らんとするや、海外發展の傳統的潜勢力は新たなる秩序を以て展開することとなつた。三ヨーロツパ人の渡來東西交通の發展ヨーロツパ人の我が國への渡來は室町末期たる戰國の時代に始まる。國民はこゝに始めてヨーロツパ人に接し、その齎せる文物·宗〓に觸れた。第三章室町時代第三節對外關係四三三 第二編中世四三四而してこれによつて全世界に對する視野を擴め、延いてまた國家的自覺を新たにするに至つた。東西兩洋の交通については、古來東洋の絹絲·絹織物麻布陶磁器·金銀細工·薰物·香料等が西洋に輸出せられ、相互の交通は次第に盛んとなつてゐた。然るに我が鎌倉末期にトルコが小アジアに興り、更に後花園天皇の御代には東西交通の要衝たるコンスタンチノープルを占領し、その領土が亞歐に跨がるに至つたので、これまでの東洋貿易の通路は殆どトルコのために遮斷せられた。こゝに於いて西ヨーロツパでは直接東洋との海路通商を開くべき必要が切實に感じられて來た。これより先、元の忽必烈に用ひられてゐたものにイタリヤ人マルコ=ポーロがあつたが、彼の歸國後に著はした東方見聞記は、その內容の珍奇なるため各國語に譯出せられ、多くの讀者を得てゐた。而してこの書中には我が國をジパングと稱し、金銀珠玉に富める國であるとの傳聞が紹介されたため、ヨーロツパ人の間に日本渡航の憧憬が昂まるに至り、遂に我が後土御門天皇の明應元年(二一五二)コロンブスは日本に到らんとして西に航海し、偶然にもアメリカに到着した。この頃ヨーロツパでは航海に羅針盤を用ひ、且つ天文學を應用して大洋に航することが既に行はれ、海外進出の機運は非常に顯著となつて來た。中にもポルトガルは地理上の關係よりしても東方發展に惠まれ、明應七年(二一五八)バスコーダ"ガマは始めて印度に達した。次いで後柏原天皇の永正七年(二一七〇)ポルトガル人は印度のゴア(臥亞)を占領し、その後更に東進して明國よりマカオ(阿媽港)居住を許されるに至り、これらを根據として盛んに印度·支那と貿易を始めた。かゝる情勢であつたから、我が國を訪れた最初の歐洲人がポルトガル人であつたことも決して偶然ではなかつた。ヨーロツパ人の來航と火器の傳來後奈良天皇の天文十二年(二二〇三)一艘のポルトガル商船が大隅國種子島に來着した。島主種子島時堯はその船に同乘してゐた明人の說明によつて漂着の事情を漸く知つたが、その時ポルトガル人の携帶した小銃は島民をして驚異の眼をみはらしめた。先に文永弘安の役に際し、蒙古人は火器を使用し、その後我が國でも一部に用ひられたやうであるが、その方法は未だ廣く行はれなかつた。されば時堯はポルトガル人から二挺の小銃を購ひ、家臣に火藥の製法を習得せしめると共に、鐵砲を製作せしめたところ、我が優れたる技術によつて早第三章室町時代第三節對外關係四三五 第二編中世四三六くも極めて精巧なるものの製出に成功し、火器普及の端〓が開かれた。世にこれらの小銃を種子島と呼ぶ。次いで堺の商人にて種子島に來てその製法を學ぶものがあり、その製造が各地に行はれると共に、戰國の時勢に乘じて忽ち近畿地方に擴がり、やがて關東にも傳へられて實戰に利用せられた。これによつて從來の戰法は一新せられるに至り、一騎討よりも集團的行動が重んぜられ、騎馬による戰は自ら鐵砲を用ひる步兵戰に移行した。また鐵砲に對する防禦として鐵札の鎧や、所謂南蠻鐵の甲冑等が珍重せられ、築城術も變化して幅廣き濠を廻らし、石垣を築き壁面の厚い宏壯な樓閣を營むに至り、天守閣を有する近世的城郭が出現することとなつた。ポルトガル·イスパニヤとの貿易ポルトガル商船が種子島に漂着したことはまた彼我の貿易が開始せられる端緒となつた。ポルトガル船は島津氏の領內たる薩摩の鹿兒島·山川·坊津、大友氏の居城豐後の府內、松浦氏の肥前平戶等に來航して盛んに通商を行ひ、諸大名も亦その利を知つて大いにこれを歡迎した。降つて元龜二年(二二三一)には大村純忠によつて長崎が開港せられ、爾來長崎は貿易の中心地となつた。一方イスパニヤ人も大いに植民に努め、太平洋を横斷してフイリツピン群島に來り、天正年間よりは我が國とも貿易を營んだ。當時、これらのヨーロツパ人が總て南方より來たことから、これを南蠻人と呼び、その船を南蠻船と稱した。南蠻貿易に於ける輸出品は銀が最も多く、次に銅·刀劍·漆器等であり、輸入品は生絲·絹織物等を主として陶磁器·藥種等があり大部分は支那製の商品であるが、印度支那·マライ·印度等の產物や、當時の國民にとつて珍奇なるヨーロツバの製品も齎された。基督〓の傳來ポルトガル人の渡來後數年にして、基督〓が始めて我が國に傳來した。當時ヨーロツパの基督〓界では新〓の隆盛につれてその反動が現はれ、イスパニヤ人イグナチオ=ロヨラは同志と共に舊〓の一派として耶蘇會を起し、嚴肅なる規律を重んじた。その創立者の一人フランシスコ=ザビエルは基督〓の未だ及ばない東亞への宣〓を志し、アア及びマラツカに傳道してゐた。時にマラツカからゴアの耶蘇會に來た一日本人があり、ザビエルはこれに我が國の事情を聞いてその布〓を思ひ立つた。かくて遂に一行を率ゐてゴアを發し、天文十八年(二二〇九)鹿兒島に着き、領主島津貴久の許可を得て始めて基督〓の布〓を行つたのである。これ基督第三章室町時代第三節對外關係四三七 第二編中世四三八〓が傳來した最初である。,この〓は我が國に於いては當時吉利支丹宗または、提宇子〓と稱し、後に天主〓または切支丹宗と呼ばれた。ザビエルは更に京都に上り中央にて全國布〓の道を開かんとし、やがて平戶·山口を經て京都に入つた。然るに京都は時恰も戰亂の際であり、布〓の自由も得られず、やむなく堺を經て平戶に引返した。後また山口に赴き、領主大内義隆の許可を得てこの地方に布〓し、大いにその效果を擧げ、また豐後の府內にも赴き、領主大友義鎭(宗麟)の優遇を受けて傳道を行つた。かくてザビエルは各地に布〓の基礎を作り、二年三箇月の日本滯在を名殘りに同二十年十月、ポルトガル船に乘つて印度に去つた。基督〓の傳道ザビエルは日本人が聰明にして學識に富み、道理をよく辨ずることを知り、布〓について辛勞多きことを感じたが、同時に將來の普及を確信した。さればザビエルに隨つて來朝したものにトレス及びフエルナンデス等があつたが、この兩人はザビエルの去つた後も我が國に留まつて布〓に努め、その後も引續いて人物の優れた宣〓師が我が國に派遣された。こゝに於いて九州中國等では基督〓の隆盛を見、大村領長崎の如きは永祿年間に信徒一千五百人を數へ、一佛寺を毀つて〓會堂が建てられた。而してその宣〓に諸大名の保護があつたことはいふまでもなく、中にはこれに歸信して洗禮を受けた大名もあり、大友義鎮大村純忠等はその最も著しいものであつた。基督〓は安土桃山時代に入ると共に益〓普及することとなるのである。基督〓が我が國內に尠からぬ信徒を速かに獲得した理由は、國民が外國文化に對する感受性に敏であつたことによるのであるが、また當時の戰國諸大名が武力と財力とを擴充する手段として基督〓を保護したことにもよる。卽ち南蠻人の齋せる武器と火藥とは武備を强化するのに必要であり、また南蠻船の積載せる珍奇な商品の輸入は利益を收める所以であり、これらの目的を達するためには貿易と離すべからざる關係にあつた布〓に便宜を與へなければならなかつたのである。なほ當時渡來した宣〓師は特に學德あるものが擇ばれ何れも信仰と布〓のために獻身的に精進し、且つ〓育や慈善事業にも盡力したことなども、人心を收める所以となつたのである。第三章室町時代第三節對外關係四三九 第二編中世四四〇第四節室町時代の文化神祇崇敬·神道及び和學神祇の崇敬建武中興に於いては上世聖代への復歸が意圖せられ、從つて祭祀に於いても舊制を興し、恆例·臨時の神事を闘怠なく執り行はんとせられた。從つて吉野朝廷におかせられても殊に神事を重んじ給ひ、また天下靜謐のために屢〓諸社に祈願を籠めさせられ、祭祀の嚴修と社壇の紹隆とを望ませられた。されば伊勢の神宮·石〓水八幡宮·住吉神社阿蘇神社·熊野三社等の大社の神官より尊皇の至誠を捧げるものが多く出たことは當然であつた。續いて室町時代に入つて、朝廷は御財政に於いて十分とはいひ得ない狀態にあらせられながら、歷代天皇は上世の盛時のまゝに朝儀を行ひ給はんとの叡慮を懷かせられ、古來のまゝに恆例·臨時の祭祀が行はれた。但しこれを鎌倉時代以前に比較すれば、その規模が小さくなる傾向にあつたのは已むを得ないことであつた。足利氏に於いては尊氏は晩年自己の所業に省みて罪障の輕からざるを察し、諸寺院を建立すると共に神社を崇敬することが篤かつた。またその子孫代々は源氏のゑこ支流として氏神たる八幡宮を尊崇し、石〓水八幡宮·六條左女牛八幡宮等に奉幣を重くし、社領を寄進し、また祇園·北野その他の諸社も武家によつて崇敬せられた。庶民もこの間に伊勢の神宮を始め諸社に參拜する風が盛んとなり、氏神の祭祀を通じて村落の自治的結合を固くした。伊勢神道神道說の中、先づ伊勢神道は元寇以來喚起された旺盛なる神國思想によつて大いに發達を遂げたけれども、室町時代に於いてはその顯著なる展開を見てゐない。しかしその間にあつて、建武中興及び吉野時代に於ける度會常昌の勤皇事蹟、同家行の戰場裡に於ける武勳は、よく伊勢神道の精神とその燃ゆるが如き信念を發揮したものといふべきである。また吉野朝廷の柱石北畠親房は家行との交涉が深く、神皇正統記の神祇觀念も伊勢神道に負ふところが多い。殊に伊勢神道の〓淨·正直と心神とを重んずる精神は親房の思想を通じて强く示され、日常天皇に仕へ奉る生活態度にも體現せられた。なほ吉野時代の初め、僧慈遍は伊勢神道の流れを汲第三章室町時代第四節室町時代の文化四四一 第二編中世四四二んだが、獨自の說を展開し、國民は悉く神風の〓卽ち天照大神の示し給へる皇道の德化を知るべきであると唱へた。同時に神佛の關係についても神は佛の本源なりとし、佛法はもと種子たる神より出で、一度西方に進み、やがて落花結實するや、再び我が國に歸來したものであると說いた。これは旣に見られた神本佛迹說の展開であり、ceついで吉田兼倶によつて唱へられる思想の前驅となつた。吉田神道の創唱その後室町末期に至つて、新たに吉田神道(唯一神道)が吉田兼倶によつて創唱された。吉田家の本姓はト部氏であつて、累代神祇官竝びに京都吉田神社に奉仕してゐたが、兼倶は神道を〓鑽してト部家所傳の神道は萬法の根原なりとし元本宗源神道と稱した。)これを一に唯一神道、また吉田神道ともいふ。その說くところは、神は天地の根元であるから、有心無心一切は神道に歸するとし、我が國は萬國の根本、諸神は一切精靈の元神であるとなした。また日本の國は神國道は神道、國王は神皇、祖は天照大神であり、一神の威光百億の世界を照らし、一神の附屬永く萬乘の王道を傳へ、天に二日なく國に二王なきものであるとて、神道と國體との關係を明らかにし、以て皇道の尊嚴を說いた。而して神·儒·佛の關係については、神道は根幹、儒〓は枝葉、佛〓は花實なりといひ、儒佛を神道に攝取し、さきに慈遍の唱へた神本佛迹說に通ずる說を樹てた。兼倶はかゝる神道思想を唱道すると共に、國民の敬神觀念に投じて文明十六年(二一四四)吉田神社の南に齋場所を設け、これを神道根本の道場と稱し、その中心に太-元宮を置き、これを圍んで日本國中の大小神祇三千百餘座を祀り、また祈禱や祓を行つた。久しく兩部習合に慣らされた國民に對して、兼倶が我が國を根本とする神道說を唱へたことは思想史上大なる意義を有する。庶民の敬神この時代庶民の間には雜多な俗信が行はれ、それは種々な方面に示された。しかしかゝる風潮にも拘らず、古來の神祇に對する崇敬が昂まり、伊勢の神宮の參詣が盛んとなつたことは特に注目すべきである。元來伊勢の神宮は餘社と異なり、私の奉幣を禁ぜられ、また嚴に佛〓を忌んで僧尼の參詣が許されなかつた。然るに、鎌倉時代頃より僧俗共に神宮に參詣することが認められ、廻國の巡禮者や、僧侶に連れられた多數同行者の參宮が行はれるに至つた。それと共に神宮にても參非おろ他便る方女は講ぎわれ然數者に對山崎順々越を行ふ御座的神が生じた。參宮の風は室町時代に入つて益〓盛んとなり、御師と地方との連繫も緊密第三章室町時代第四節室町時代の文化四四三 第二編中世四四四となつた。またこの時代には村々に於いて毎年一部の村民が代表して神宮に參詣することも行はれ、各地に伊勢講が發達した。有職故實の〓究和學には先づ有職故實に關する著作が多く現はれたことが注目せられる。後醍醐天皇の御撰になる建武年中行事·日中行事は、朝廷にて行はせられる御儀式や、禁中の日々の御作法を書かせられたもので、室町時代に於いても大いに重んぜられ、畏くも歷代天皇が宸筆を以て書寫あらせられる場合も尠くなかつた。ついで吉野時代には北畠親房の職原抄が著はされて官職〓究に重きをなし、室町時とさん ない代には一條兼良の公事根源、三條西實隆の三內口訣等が名高く、殊に兼良は有職故實について當代第一の學者であつた。有職故實の〓究は古來の節度を保たんとする精神と、復古的思想とを根柢とするものであつて、朝儀を振肅せんとする運動でもあつた。國史の研究國史の〓究も亦同樣の思想を基調として起つた。鎌倉時代以來の國家意識の昂揚に伴なひ、日本中心の思想は神道の發展と深く關聯しつゝ國史への反省を導き、吉野時代には北畠親房の高邁なる識見によつて神皇正統記が述作せられたが、また室町時代には僧周鳳によつて日本外交史ともいふべき善隣國寶記が著はされた。古典に對する關心としては特に日本書紀の〓究が盛んとなり、傳寫の諸本を纏めて校合を行ひ、その原形を保存しようとする努力も見られた。書紀全體についての註釋書は著はされなかつたが、その神代卷は神聖なる我が國體の淵源を說いた重要部分として格別に重んぜられ、忌部正通の神代卷口訣、一條兼良の日本書紀纂疏、吉田兼倶の日本書紀抄等が相次いで現はれた。これらはまたたゞに註釋書たるのみでなく、有力な神道說をなしてゐる點にその重要性が認められる。上世文學の研究次に上世の文學に關する〓究について見るに先づ萬葉集〓究は前代に仙覺の殘したやうな名著は見られないが、一條兼良·三條西實隆や宗祇は萬葉集を重んじ、これを古典として〓究する機運が見られた。しかもこの時代には古今集を慕ふ心は大いに熾烈であつて、註釋書の如きも親房の古今和歌集註に次いで兼良の古今集童蒙抄が出で、また諸藝に秘事口傳の盛んであつた風潮に伴なひ、これにも所謂古今傳授の奥儀が神秘的觀念を以て傳へられた、次に伊勢物語と源氏物第三章室町時代第四節室町時代の文化四三五 第二編中世四三六語とは大いに普及してその註釋書も多く著はされた。殊に源氏物語については、吉野時代に長慶天皇は御親らこれを〓究あらせられて仙源抄の御撰があり、室町中期以後にはその〓究が益、盛んとなつた。就中一條兼良の花鳥餘情はその態度に文意と文章とを味ははんとする面を有することが注意せられ、宗祇·實隆またその〓究を以て聞えた。かくてこれらの古典のやがて武士·庶民の間にも廣く親しまれるに至る素地が築かれつゝあつたのである。=佛〓の普及舊佛〓の動向南都·北嶺や高野山等は元弘·建武以來の爭亂に武力獲得の手段として著しく政治的に利用せられたが、宗〓的にはなんら見るべきものが現はれなかつた。その中にあつて延曆寺は依然として〓界至高の地位と世俗的勢力とを保ち、興福寺は武力的には諸將を凌ぐ勢威を誇り、その衆徒からは筒井氏の如き豪族が出た。また眞言宗では醍醐寺三寶院の賢俊や滿濟が足利氏に重んぜられて政治の機務に與り、その地步を確立した。而してこれらの舊宗派は古い傳統に誇つて前代以來新興の諸宗派に對して時々露骨な壓迫を加へたが、戰國の爭亂と共にその傳統的勢力を失墜した。淨土宗の發展淨土宗は法然の弟子より旣に多くの派に分れやがてそれが更に流派を生じ、互に消長があつた吉野時代から室町時代にかけて東國地方に根强い普及があり、殊に聖岡(了譽)は學識博く、淨土の〓說に神道との調和を發見し、その〓義の宣布に努めた關東に於ける宗勢の興隆は彼及びその弟子聖聰に負ふところが多い。またこの時代を通じて、淨土宗は朝廷の御歸依を忝うし、その權威を加へた。眞宗の發展眞宗は宗祖親鸞の後、東國諸國の〓線は次第に擴大したが、纏まつた組織を有せず、僅かに親鸞の廟所たる京都東山大谷の本願寺と、親鸞の弟子眞佛の系統が住した下野高田專修寺とが著はれてゐた。本願寺では吉野時代の頃、覺如·存覺の父子が出で、宗旨勃興の素地が固められつゝあつたが、その著しい發展は應仁の頃兼壽(蓮如)によつて行はれ、同時に一宗の中心的勢力を確保した。眞宗に對する他宗の迫害は早くから加へられてゐたが、蓮如の時になつて遂に比叡山の衆徒が大谷の本願寺を破却するや、蓮如は京都を逃れ、蹶然起つて傳道に邁進し、應仁文明の亂世の第三章室町時代第四節室町時代の文化四四七 第二編中世四四八さなかに大いに〓線の擴張に努めた。卽ち主として北國·近畿地方を巡錫して人心を化導し、先づその根據として一大城郭の觀ある越前吉崎坊を建立し續いて壯大なる山科本願寺を營んでこれに祖影を安置し、諸國には支城的な意味を有する道場を多數に設け、晩年には大阪に石山坊を建設し、その宗勢は一代の間に頓に高まつた。まその傳道は所謂御文章によつて平易に〓義を說くと共に、各地に講へ中を組織し、その寄合を通じて相互の信仰を深め、これを以て宗勢を確保する手段とした。かくして不安動搖を續ける當時の社會に於いて、他宗による信仰上の妨害や武力による生活上の壓迫が加へられるとき、集團運動を以てこれに對抗し、時には武器を執つて戰ふこともあつた。これを一向一揆と呼ぶ。蓮如の後、天文元年(二一九二)比叡山の衆徒は日蓮宗一揆や近江の六角氏と聯合して山科本願寺を攻め、これを燒き拂つたので、それより大阪の石山は本願寺となり、一宗の根據として愈〓その防備を堅固にした。石山本願寺はまた殷賑なる寺內町を有し、諸國の道場·門徒と連絡を保つて戰國の群雄にも比すべき勢力を築き上げた。日蓮宗の盛衰日蓮宗は日蓮の歿後、やがてその門下に〓義上の相違が起つて多くの分派を生じ、激しい論爭を展開したが、全體としての宗勢は次第に向上した。吉野時代には日像が京畿方面に活動して、朝廷及び足利氏の保護を得、その後、諸派各地に活躍して寺院を建立し、益〓庶民〓化の運動を盛んにした。蓮如と略〓同じ頃、日親が出で、爭亂疾疾·凶作相續いて人民苦惱せる時勢を慨嘆し、日蓮に倣つて立正治國論を著はして日蓮以來の信念を一層强く主張し、迫害に對して聊かも屈しなかつた。それと共に宗勢も大いに盛んとなり、その一揆の力は侮り難いものがあつて、天文元年(二一九二)には山科本願寺の攻略に加はつた。しかし同五年には比叡山の衆徒と衝突して敗れ、京都に於ける二十一本山は徹底的に破却せられたため、一時京都に於ける勢力は衰へた。但し關東における勢力はなほ依然として盛んなるものがあつた。禪宗の消長禪宗の中、臨濟宗は吉野時代からその中心が京都に移り、朝廷·武家の厚き保護を受けた。宋僧祖元の法系を引ける夢窻國師疎石は後醍翻天皇の御召によつて鎌倉より入洛し京都南禪寺の住持となつたが、後には足利氏の歸依を受け、そ向門に者眞妙絶柩演中非盡層何等の名爲が出し解原を就吹すと共其振興した。疎石と併稱された大燈國師妙超は花園天皇後醍醐天皇の御信任を忝う第三章室町時代第四節室町時代の文化四四九 四五五第二編中世し、大德寺に住した。また足利尊氏·直義等は一國一寺一塔の方針の下に全國に安國とど利生塔とを答ス阪済家をしての事にはしも且つ登氏は死者の動後醍醐天皇の御菩提を弔ひ奉り、兼ねて陣歿の靈を慰めんとして天龍寺を創建した。かくして臨濟宗は足利氏代々と深く結合するに至つたのである。なほ旣に鎌倉時代に主なる禪寺の格式として五山の稱が起つたが、吉野時代には京都及び鎌倉の夫々に五山の制が定められた。卽ちそれは五山の上、南禪寺と京都のク市南相国寺建仁寺市志ヲ萬書き鎌合の此寺寺間愛寺寺庭寺神智つた。五山以外にも著名な禪刹が京都を始め全國に多く建てられ、宗勢は次第に盛んとなつた。元來禪宗は鍛鍊と工夫とを重んずるものであつて、吉野時代に於いても勤皇の忠臣や足利氏の幕僚には眞摯な修練を行つた武將も尠くなかつた。しかし室町時代に入ると共に、禪僧は朝廷幕幕の厚き庇護に狎れて漸くその本來の面目を失ひ、好んで政治に接近し、殊に外交·貿易の事を管掌するに至つた。かくして宗〓的使命から次第に遠ざかり、應仁の亂の前後にもなれば、詩文·繪畫等の餘技に耽り權門に出入して談論交交を事とする風も見られるに至つた。この時大德寺に一休宗。純があつてかゝる狀態を慨嘆し、禪徒に一點菩提心なしと嘲り、また妙心寺の雪江宗深は大いに)宗風の振肅と宣揚とに努めた。曹洞宗は祖師道元が山中に幽棲して坐禪工夫に專念した遺風をよく傳へて中央の權門と接觸することが少かつた。しかも宗門にその人多く、各地に法燈を揭げて宗風を宣揚した。中にも紹瑾は鎌倉末期に出でて宗風大いに擧り、その弟子紹碩も等亦傑出し、共に地方〓化に貢獻した。降つて應仁の亂以降には廢れた寺院が興されるなど、次第に庶民の間に擴がる傾向を示した。三儒學の發展とその普及京都の學統京都に於ける紀傳·明經兩道の儒學は、陰陽道などと共に時代を負荷する使命を失つてより旣に久しきものがあるが、しかも〓原·中原·菅原大江小槻等の諸氏は古來のまゝに世傳の學統を傳へて來た。その中にあつて〓原宣賢は一代の碩儒と謳はれ、和漢の學に精しかつた。また一條兼良·三條西實隆等は和學に優れた第三章室町時代第四節室町時代の文化四五一 第二編中世四五二る外、朱子學をも究め、時代有數の學者であつた。儒學の發展室町時代に行はれた儒學の主なるものは依然朱子學であり、禪宗の僧侶によつて著しく發展せしめられた。而して儒學が禪僧の〓養として重んぜられることは一般的風潮となり、殊に疎石の門下に出た多くの俊髦は何れも儒學に造詣深く、その一人たる義堂周信は義滿の信賴を受け、將軍や幕僚に四書·五經を學ぶことを勸めた。また東福寺の岐陽方秀は禪儒一致を唱へて講書に力を致し、訓點法をし改やく西書生許に利動を施し 種筆良はるの門に學び靜道と米子學みた。その他多數の禪僧は朱子學のために盡くし、近世朱子學興隆の素地をなした。五山文學奈良時代及び平安初期に興隆した漢詩文は、平安中期以後次第に衰へたが、鎌倉時代に至り、禪宗·宋學等の影響によつて、漢文學にも再び見るべきものが現はれて來た。殊に吉野時代からは漸く禪僧獨特の卓出せる漢詩文を作ることが流行して盛況を呈し、中巖圓月·義堂周信·絕海中津等はその名一世に響いた。當時の禪僧の漢詩文は少くとも表現の形式に於いて元明人の文草と殆ど異なることがないが、その風格は我が國の文學としては特異の存在であつた。かゝる漢詩文は京都の五山を中心として發達したので、これを五山文學といふ。五山文學は禪僧の朱子學と密接な關係を以て發達を遂げ、京都の文化を飾つてゐたが、この時代の末期に於ける禪僧の地方進出によつて廣く地方にも普及した。儒學の普及この時代にはまた儒學の地方普及が禪僧によつてなされた。殊に應仁の亂後、群雄割據の狀態となつてより、諸大名の中には好んで禪僧を聘して修養に努め、治政の道を聽き或は〓化事業に盡力せしめたものが尠くない。文明の頃、禪ふ世紀最高樹は肥後の菊池良かな薩摩の島津氏に相次いて瑞ぜられそ於いて儒學興隆の根柢を培養した。特に薩摩にては文明十三年(二一四一)大學章句を刊行したが、これ我が國に於ける朱子新注の書の最初の上梓である。また南村梅軒は天文年間土佐に赴き、朱子學を提唱して節義を鼓吹した。土佐は早くより五山禪僧の感化があつたが、梅軒以後こゝに所謂南學が起つたのである。その他戰國の時代に諸國に逃れた禪僧は儒學を以て夫々の地方に〓學を哺育した。中にも周防の大内氏は對明貿易の利を占めて大いに富强を誇り、學問にも意を用ひたので、著名の僧侶が來つて領内の〓化が進み、またその許へは兵亂を避けて來た多くの公卿學第三章室町時代第四節室町時代の文化四五三 第二編中世四五四者が迎へられたので、京都の貴族文化は一時山口に移植された觀を呈した。殊に大內義興は五山の禪僧景徐周麟について儒佛を學ぶと共に、學問を奬勵したので、明應八年(二一五九)正平版論語が家臣によつて飜刻され、また典籍の出版や輸入が盛んに行はれ、その子義隆に至つて大內氏の文〓は最盛期を現出した。大內氏の後を繼いだ毛利氏も文〓に力を注ぎ、小早川隆景は禪僧を聘して學生の〓授に當らしめた。なほ永享から文安頃にかけて上杉憲實は、鎌倉圓覺寺の僧快元を請じて下野の足利學校を中興せしめ、內容を整備充實すると共に、爾來專ら新古兩注の儒學を講ぜしめた。而して全國から多數の學徒こゝに集まり、〓を受けたものはまた諸方に學問を傳播し、文化の地方普及に貢獻した。なほ庶民〓育については、前代より僧侶が寺院に於いて士庶の幼少なる子弟を〓育する風習があつたがこの時代にはそれが益〓普及した。その修得する所は讀書·作文習字及び經典の讀誦等であり、殊に習字は重んぜられた。〓科書としては往來物類や實語〓などが用ひられた。四新興の國文學和歌の沈滯と連歌の興隆和歌は吉野時代に於いて新葉和歌集その他芳山の餘薰を傳へるものがあつたが、室町時代の歌風は鎌倉時代以來の風を承けて、傳統の殻に籠る傾向があり、題詠が益〓盛盛ととつつ沈沈滯の色は蔽ひ難くなつた。勅撰の歌集も後花園天皇の御代、永享十年(二〇九八)に奏覽を遂げた新續古今和歌集を以てその跡を絕つた。しかし歌詠の趣味はこの後に於いても士民の間に普及しつゝあつた。和歌が傳統にのみ囚はれてゐたのに對し、この時代の特異性を示す文學は連歌である。連歌はもとは和歌の上の句と下の句と、或は下の句と上の句とを二人で唱和し、合せて一首の和歌とする卽興的なものに源流があり、かゝる方法は旣に平安時代から行はれたが、それは和歌の餘技に過ぎず、獨立の文學とは考へられなかつた。然るに鎌倉時代から五十韻·百韻と連續させる長篇連歌が行はれて次第に獨立の文學ばとなる形態を整へ、吉野時代に二條良基等が始めて菟玖波集なる連歌集を編したことは連歌興隆の基をなした。次いでこの時代に宗祇は連歌の發達を頂點に達せし第三章室町時代第四節室町時代の文化四五五 第二編中世四五六め、その撰せる新撰菟玖波集は勅撰に準ぜられた。連歌は詩想の獨自にして自由なるを特色とし、連歌會を催して詩興をほしいまゝにするものであつて、類型化した和歌の桎梏を脫し、〓新な感覺を躍動せしめた。;なほこの時代の末に山崎宗鑑が出でてより俳諧の連歌が流行し、文藝の世界に一つの分野を占めるものとなつた。謠曲·狂言歌舞を中心とする猿樂田樂の類は、從來は極めて卑俗または素樸なもくわんあのが多かつたが、この時代に觀阿彌·世阿彌等がこれらを猿樂の能として集大成したかく大成せられた能樂は室町時代の代表的新興藝術であり、且つ近世演劇の源流ともなつた。その劇文學は卽ち謠曲狂言である。謠曲は比較的短い敍事詩的劇曲であつて、幾多の先行文學や民間傳承等に題材を求め、その種目は多岐に分れてゐる。その文辭は所々に古歌·古詩や戰記等から佳句を引用し、華麗な韻文的口誦をなしてゐる。而して謠曲が通じてその特色とするものは、古來の國民精神を基調として、神韻漂渺たる情趣の中に幽玄なる表現を尙ぶことにあり、佛〓的色彩が殊に濃厚である。狂言は謠曲を能樂として演ずる間に行はれるもので、その演技は滑稽にして輕妙であり、原始的猿樂に通ずるものがある。謠曲の嚴肅にして重厚なるに對して、その詞は時代の口語を用ひ、その內容は時代の世相をよく捉へて、通俗的であり、明朗である。而して謠曲·狂言等が單なる感傷詠嘆の抒情文學に代つて所作の文學として興隆したことには、時人が藝能を愛好し、且つ重んじたことが反映されてゐる。御伽草子室町時代の中期以降に數多く現はれて普及した物語的作品に御伽草子類がある。これらは童蒙の讀物として作られた通俗的な短篇であり、各〓の規模が小さく、描寫もまた低俗の感を免れないが、取材の範圍は多く各種の物語·傳說等に求められ、鳥獸·蟲魚·草木を擬人化した童話も見られる。それらの說話は、よく世相を反映して、民衆に適切な散文學を提供しようとしたところに、新興文學として見るべき價値がある。この時代の國文學を大觀すると、潑剌たる生氣に富んだものも興つたが、〓して沈滯の狀態を示した。しかし從來貴族を中心とする一部の人々の文化に過ぎなかつたものが、一般に廣く普及する端〓が見られ、これがやがて江戶時代に於ける百花撩亂たる國民文學を展開せしめる苗床となつたことが考へられる。第三章室町時代第四節室町時代の文化四五七 第二編中世四五八五美術工藝とその風尙繪畫の新傾向平安後期より鎌倉時代を通じて發展した大和繪は、吉野時代に入る頃から次第に衰へ、繪卷物は氣魄を失つた.佛畫は多數に畫かれ、明兆の如き名家も出たが、この時代を特色づけるものは肖像畫及び水墨畫であつて、共に禪宗に關聯して勃興し、時代の好尙に投じて大いに發達した。肖像畫は禪僧の像が多く作られた。禪宗では師を尊ぶ精神からその肖像卽ち頂さ)相を重んずるために禪宗の降盛と共にこれが益。盛んに晝かれた。肖像畫はまたこの時代の個性を重んずる傾向と一致して廣く普及し、武人その他の畫像も描かれるに至つた。鎌倉時代には朱·元の繪畫が流傳し、その畫風も受容せられたが、室町時代にはその間から特に水墨畫の發達が見られる。水墨畫は色彩を用ひずして墨色を基本とし、簡單雄勁なる筆致を用ひて對象の精神を畫くことを特色とし、華美·織細を斥けて主觀性を重んじ、描寫に著しい捨象を行つて、深い精神の含蓄を尙ぶものである。〓* E第〓城串艸 画焉岩井夷圖÷る水墨畫は禪宗の精神に適ひ、幽幻·枯淡を尙ぶ時代精神に合致して、大いに流行し、優れた作家を相次いで生むに至つた。前代に於いて旣にその萌芽が見られたが室町時代には如拙周文等が出て水墨畫の境地は著しく進んだ、而してそれらの畫家は畫題を多く支那の風物に借りたが、やがて古今獨步の畫才を現はした雪舟によつて淡彩を主とする日本的山水畫が渾成せられ、我が國民精神たる自然に對する親和の情感がよく表現された。その一門またよく師風を繼ぎ、水墨畫の隆盛が導かれた。次に室町時代末期に、雪舟の畫風に源流を發しつゝ、しかも日本畫と宋·元の水墨畫とをよく綜合せる一大系統を組織し、新しき旗幟を樹てたのは、狩野元信によつて開かれた狩野派である。元信は將軍義政の繪師たる正信の子で、夙に宋元畫を學んだが、また大和繪の素養をも積んだ。從つてその表現は水墨畫の筆致を主とせる中に、よく日本的情趣を漂はせ、また具體的·說明的な構圖にその特質を示し、よく國民の好尙に投じたので、こゝに狩野派の傳統が永く維持せられる基が開かれた。新興の彫刻この時代に普及した鎌倉時代新興の諸宗派は總じて佛像を重視せず、舊佛〓も衰微に向かつたので、佛像彫刻には特に見るべき特色もなくなつた。第三章室町時代第四節室町時代の文化四五九 第二編中世四六七かしその間にあつて、鎌倉時代から能面彫刻が行はれ、能の發達に伴なうて益〓盛んとなつたことは注目すべきである。能面は能樂の象徵的性質に支配せられて、普通の彫刻技術を以て律すべからざるものがあり、それは一見無表情であり靜的であるが、しかも深き含蓄を藏し、いはば複雜なる表情を一瞬に凝固せしめたる象徴主義の藝術ともいふべく、よく幽玄の美を湛へてゐる。建築の樣式神社建築に於いては前代に比して急激な變化を見ないが、佛寺的手法が在來よりも多く加へられるに至つた。流造の社殿は最も普及し、各地にこの時代の構造を留めてゐる。佛寺建築は今日に遺るものが尠くないが、禪宗寺院に注目すべきものがある。禪宗建築は鎌倉時代以來の所謂唐樣が行はれたが、更に各種の手法を融合して新味を出した。應永年間の造營にかゝる京都東福寺三門の如きはその代表的なものである。住宅建築の遺構は乏しいが、京都にてはなほ寢殿造が多く營まれ、鎌倉その他の地方では武家造が漸次普及しつゝあつた。またこの時代には書院造が行はれた。れは禪宗寺院の書院卽ち書見の場所や、住持の居間たる方丈等を中心として發達したものであつて、多くの部屋を自由に連絡せしめ、玄關を設け、部屋に疊を敷き、襖·障子を具へ、床·違棚等を作るのを特色とする。かくの如き書院造は日本住宅建築として、現代に連絡を有する意味に於いて重要なるものである。なほ茶室もこの時代に書院造の中に作られることがあり、やがてこれが獨立して茶室建築となるのである。室町時代の建造物中、代表的遺構は京都鹿苑金閣と慈照寺銀閣とである。鹿苑寺は應永年間に義滿が北山第に建てたものであつて、禪宗寺院であるが住宅建築ともいふべく、その金閣は形造三層の樓閣をなし、建築樣式として獨創的意匠に富み、その形狀は輕快酒脫、周圍の山水自然によく調和してゐる。慈照寺はそれより約八十年後れて文明年中に義政が東山に營んだもので、その中の銀閣は寶形造二層をなし東求堂と共によく當時の建築を存し、枯淡なる庭園と相應じて見るべきところが尠くない。工藝の發達工藝品についてはこの時代に於ける生活の向上に伴なつて、座右の日用器物にまでも技巧が重んぜられ、殊に漆工蒔繪等の技法は大いに進んで優美精巧となり、大陸の技術を凌いだ。刀劒裝具の目貫小柄等には大いに技巧が凝らされ、第三章室町時代第四節室町時代の文化四六一 第二編中世四六二後藤祐乘とその系統とが彫金に重きをなし、甲冑には鎌倉時代以來の明珍家が著名であつた。また茶道の流行につれて、茶の湯の釜が多く作られ、筑前蘆屋釜等が世に更に陶工の發達はこの時代の特色となり、近江信樂燒·備前燒が隆盛珍重せられた。となつたのを始め、各種の陶窯が生じて素樸な趣味が尙ばれ、我が國陶藝に於ける一大進展を示した。これを要するに工藝もまた他の美術と同樣に日常生活に深い關係を有しつゝ、その技術が次第に普及するに至つたことが注意せられる。六東山 文化文化の特色足利義政は應仁の亂後文明十二年(二一四〇)京都東山の山莊に銀閣を建て、爾來數奇風流の生活に耽つた。義政のこの東山生活を中心として、室町末期には在來から兆しつゝあつた文化が、亂世をよそに上流人士によつて大いに洗煉せられ、特殊なる發達を遂げた。よつてこの時代を一に東山時代と呼び、その文化を東山文化といふ。東山文化の特質は、我が國古來の風雅を尙ぶ精神に、前代以來攝取醇化せられた禪の精神を加へてこれが渾然たるものに醸成せられた點にあり、殊に幽幻·枯淡の境地を以て著しい特色とする.かゝる境地はまた世の煩はしい爭亂を避け、財政困乏の中に見出した安慰の心でもあつた。而して東山文化は上流社會に起りながら、やがてその樣式は民衆の間に擴がる萌芽を示し、後の時代には廣く普及して現代生活と密接な關係を結ぶに至るのである。茶道と作庭東山文化の特色は茶の湯に於いて最もよく窺はれる。茶を喫する風は旣に鎌倉時代以來盛んとなつてゐたが、東山時代に始めて茶道が興り、喫茶の愼しみ深く街はない行法を通じて、幽玄なる佗の境地を感得することを旨とするに至つた。義政は東山の閑居に藝阿彌·相阿彌と相會して茶を喫し、更に奈良の僧珠光を召して茶會を催し、こゝに茶道の成立が見られた。その後、茶道の精神と行法とは珠光の門流に出でた武野紹鷗その他多くの茶人によつて次第に發展せしめられ、桃山時代に千利休によつて大成され、江戶時代には朝措·武家は勿論、庶民生活の作法としても普及し、以て今日に及んだ。また茶の湯に伴なつて京都六角堂の專慶が花を立てる技術を工夫し、次第に生花の道が發達した。香道もこの時代に一層洗煉されてよく時代文化の風尙を示した。作庭の術はこの頃特に發達し、林泉の調和、木石の配第三章室町時代第四節室町時代の文化四六三 第二編中世四六百置に妙を極めて閑寂の風趣を現はし、狹小なる庭園に於いて廣大な山水を感得せしめ、四疊半裡に人生を悉すといふ茶室建築に相應ずるものとなつた。京都の銀閣·龍安寺等の庭園はその代表的なものである。書畫名器の愛玩この時代にはまた書畫名器を鑑賞する趣味が大いに盛んとなつた。卽ち義政が支那から盛んにこれらを輸入して多數の名器を藏し、その愛玩に耽つたのを始め、上流の人士一般に骨董を喜ぶ風が興つたのである。元來鎌倉時代以來宋·元との交通によつて舶載された繪畫や器物は、唐物と呼んで珍重せられてゐたが、この時代にはその傳存の由來が重んぜられると共に、禪的〓養を通じて鑑賞する風が尙ばれ、またこれを蒐集することも流行した。君臺觀左右帳記は義政の蒐藏品の目錄として有名であるが、これに美術批評の現はれてゐる點は特に注目される。かくて書畫·骨董を愛玩する風はやがて一般庶民にも流行して一種の〓養と考へられるに至るのであるが、それは東山時代に築かれたものの普及に外ならないのである.鹿慈照苑寺寺東金求閣堂 後奈〓天·패宸〓筆抑〓製露光量違いの為重複撮影第五節群雄の割據ー戰國の群雄戦國の世相室町幕府は旣に述べた如く最初より道義性に缺け、大義の貫ぬけるものがなかつた。されば幕政の中心たるべき將軍に統率力がなく、幕府の權臣、地方の豪族が愈〓跋扈するに至つて、遂に應仁の大亂となつた。それより將軍は全く無力を暴露してたゞ虚位を擁するに止まり、その實權は管領細川氏に、細川氏の權は更に執事三好氏に、三好氏の權はその臣松永氏にと次第に推移して權力下向の大勢を示し、やがて松永久秀らは將軍義輝を弑するに至り、幕府存立の實は全く失はれた。かゝる下剋上は時代の風潮をなして全國に漲り、守護はその權臣に勢力を奪はれることも尠からず、且つ政爭の進展に伴なつて大名の配置は屢、變じて勢力の均衡が破れた。かくて上下の秩序は亂れ、諸國の大名は互に割據して侵略を事とし所謂群雄割據の形勢を呈した。よつて應仁の亂後室町末期の百餘年間を世に戰國時代と第三章室町時代第五節群雄の割據四六五 後奈〓〓패宸筆峯若心經露光量違いの為重複撮影第五節群雄の割據-戰國の群雄戰國の世相室町幕府は旣に述べた如く最初より道義性に缺け、大義の貫ぬけるものがなかつた。されば幕政の中心たるべき將軍に統率力がなく、幕府の權臣、地方の豪族が愈〓跋扈するに至つて、遂に應仁の大亂となつた。それより將軍は全く無力を暴露してたゞ虛位を擁するに止まり、その實權は管領細川氏に、細川氏の權は更に執事三好氏に、三好氏の權はその臣松永氏にと次第に推移して權力下向の大勢を示し、やがて松永久秀らは將軍義輝を弑するに至り、幕府存立の實は全く失はれた。かゝる下剋上は時代の風潮をなして全國に漲り、守護はその權臣に勢力を奪はれることも尠からず、且つ政爭の進展に伴なつて大名の配置は屢。變じて勢力の均衡が破れた。かくて上下の秩序は亂れ、諸國の大名は互に割據して侵略を事とし、所謂群雄割據の形勢を呈した。よつて應仁の亂後室町末期の百餘年間を世に戰國時代と第三章室町時代第五節群雄の割據四五五 第二編中世四六六もいふ。この時期が亂離の世相を呈したことは否み得ないが、これを地方的に見れば、群雄は何れもその領內の政治·經濟等に完全なる支配力を發揮し、更に民政に治績を擧げ、商工業を振興して財力を富裕にせんことを圖つた。それと共に、かゝる領內に對する統一的精神を擴充して、海內統一の雄志を懷くものも尠くなかつた。されば極めて無秩序なる如く見える抗爭の中にも、次に來るべき天下統一の萌芽が既に含まれてゐたといふべきである。しかも道義地を拂つたといはれる戰國の時世に於いてさへ、群雄は何れも皇室を中心と仰ぎ、忠誠を捧げる精神を懷いてゐたのであつて、國民一般も亦同樣であつた。天下を統一し、天下に號令するためには、先づ京都に上り、天皇の大命を奉じなければならないと考へられたのは、卽ち我が國本來の皇室中心思想の顯現である.關東の形勢戰國の世相が全國に展開した中に、先づ關東にあつては關東公方の二家對立と權力の下向があつた。さきに永享の亂に足利持氏が將軍義〓のために滅ぼされてより、その實權は執事上杉氏の握るところとなつた。上杉氏は後に持氏の遺子成氏を擁立したが、成氏は上杉氏の勢力の盛んなるを忌み、これと爭つて鎌倉を逃れ、下總の古河に移つた。こゝに於いて將軍義政の弟政知が上杉氏に迎へられ、伊豆の堀越に居た。かくて關東にては古河·堀越兩公方が對立したが、何れも大なる勢力はなくむしろ上杉氏の實力が大であつた。上杉氏も鎌倉にて山内·扇谷の兩家に分れてゐたが、扇谷上杉氏はその家臣太田持資がよく軍政を修め、新たに江戶城を築くに及んで、勢威甚だ盛んとなつた。しかし、山內上杉氏の讒によつて持資は暗殺せられたため、扇谷上杉氏の武威は大いに衰へた。その後兩上杉氏の間に抗爭が起り、爾來交戰多年に亙り互互その實力を消耗した。北條氏の興起かゝる東國の騷亂に漁夫の利を占めたものは風雲に乘じて起つた北條早雲である。早雲はもと伊勢長氏といひ、性豪邁で覇氣に富み、先づ駿河に下つて今川氏に寄食しつゝ、徐ろに形勢を察して古河公方に通じ、密かに堀越公方を窺つてゐたが、偶〓生じた堀越家の內訌に乘じ、俄かに襲うてこれを滅ぼし遂に伊豆を略15一五して韮山城に據つた.こゝに於いて氏を北條と改め、入道して早雲寺宗瑞といひ次いで關東に入つて小田原城を奪ひ、遂に相模を徇へた。その子氏綱、孫氏康も智勇に第三章室町時代第五節群雄の割據四六七 第二編中世四六八優れ、頻りに近隣を併せ大永四年(二一八四)には扇谷上杉氏の據れる江戶城を陷れて、これを川越に走らせ、天文六年(二一九七)には川越城をも取り、更に翌七年には房總地方に兵威を振るへる里見氏と下總國府臺に會戰してこれを破り、その地方に勢力を及ぼした。その後兩上杉氏共に衰へ、古河公方も亦滅亡するに至つたので、北條氏は全關東の覇權を握り、その居城小田原は非常な繁榮を呈した。武田上杉兩氏の爭覇山内の上杉憲政は天文二十一年(二二一二)北條氏康に逐はれて越後に走り、その家臣であつた長尾景虎に賴つた。景虎は生來勇敢で用兵の術に優れ、春日山城を根據として早くも國內を平定し、武威を隣國に輝かしてゐた。されば憲政が來り投ずるに及んで、屢、兵を關東に出して北條氏と爭ひ、長驅小田原城門を包圍したこともあつた。かくて景虎は憲政の家格を尊び、その讓りを受けて上杉氏を稱し、のち薙髪して謙信と號した。謙信と覇を爭つた名將は甲斐の武田晴信(信玄)である。晴信は沈着で智謀に富み、屢〓兵を信濃に出して諸族を降したが、小笠原村上の諸氏は遁れて越後に走り、上杉氏に賴つた。謙信はこれを援けて信濃に出兵し、川中島に進出して信玄と雌雄を爭つたが、勝敗は遂に決しなかつた。その後信玄は北條氏と戰つて駿河遠江を侵し、更に西上を策して三河の松平氏を破つたが、遂に元龜四年(二二三三)四月、病歿して目的を果さなかつた。東北の豪族東北地方の豪族には陸奥の伊達名·南部、出羽の秋田·最上等の諸氏があつて互に封疆を爭つた。中でも伊達氏は岩代の北部より起り、種宗·晴宗が出でて四隣を侵略し、最も優勢となつたが、土地が中央から遠隔であるため天下の大勢に關係がなかつた。織田氏の崛起本州の中部に在つて、他日飛躍を遂げるに至つたのは、尾張の織田氏である。尾張はもと管領斯波氏の領國であつて、その守護代に織田氏があり信長の祖先は更にその庶流であつたが、信秀に至つて尾張に雄視し、豐沃の平野を占めて實力を蓄へ、その子信長をして活躍せしめる基礎を築いた。時に駿河の名族今川氏は勢力甚だ盛んで既に遠江を略し、更に版圖を三河に擴め、松平氏を服した。その後今川義元は更に信長の勢力を併呑せんとして、正親町天皇の永祿三年(二二二〇)五月、駿·遠·參三國の大兵を率ゐて尾張に侵入した。信長は寡兵を以てこれを桶狹間に邀第三章室町時代第五節群雄の割據四六九 第二編千世四·七擊し、風雨に乘じて奇襲を試み、忽ちにして義元を殪した。信長の威名はこゝに於いて遠近に轟いた。中國の形勢轉じて中國の方面を見るに、出雲の尼子、周防の大內の兩氏が最も顯はれた。尼子氏は室町幕府の重職京極氏の支族として累代出雲の守護代であつたが、戰國のさなかに經久が出てより、大いに家を興して屢〓大内義興と戰ひ、晴久に至つて益〓强大となり、伯耆·因幡を侵した。大內氏は周防の舊族で外國貿易の利を收めて財力も豐かであつたが義興に至つて遣明船の事を管掌して益、富强となり、また近國の侵入をよく斥けた。然るに義興の子義隆は富强を恃んで驕奢に流れ、文雅に耽つ1/8て武事を輕んじたため國政大いに亂れ、遂に天文二十年(二二一一)老臣陶晴賢に弑せられた。その頃安藝にては、義隆の部將毛利元就が吉田の小城より起り、頻りに領土を擴めた。元就は元春隆景の二子をして夫々吉川·小早川兩家を嗣がしめ、それらの勢力を合して愈、强大となつたが、天文二十四年(二二一五)晴賢簒奪の罪を鳴らして嚴島にその大軍を襲ひ、一擧にこれを滅ぼして大內氏に代つた。その後尼子氏を滅ぼしてその領土をも併せたので、毛利氏の版圖は中國より九州四國に跨る十餘箇國に及んだ。四國·九州の諸雄四國では管領細川氏漸く衰へ、戰國の末期に長曾我部元親が土佐より起つて諸族を平げ、遂に四國に雄視した。九州では少貳氏に代つて家臣龍造寺隆信が肥前に起り、豐後には大友義鎭が出で、薩摩の島津氏は南九州を占め、三者鼎立の觀があつた。就中、島津氏は古來南九州に雄視せる豪族であつて、戰國の末に義久が出て最も優勢であつたが、その地西南に偏せるため、中央の大勢に關係するところが少かつた。=群雄の地方政治群雄の施政この時代、地方に割據した群雄は各、兵戈を交へて日もこれ足らざる間にも、領內の統治については大いに心を用ひ積極進取の經營を行ふのを常とした。もとよりこれらの武將が莊園制を破壞して地域的統一を成し、或は武斷的政治を行ふためには、それに伴なふ犠牲も尠くなかつたが、結局はこれによつて富國强兵の實が擧げられ、民福の增進に向かふことになつた。また群雄の中には一般の領民に臨第三章室町時代第五節群雄の割據四七一 第二編中世四·三むに家來に對すると同じく、武士主從の情義を以てしたものがあつた。例へば北條早雲は針を倉に積む程の勤儉であつたが、しかも玉を碎いて惜しまずといはるゝばかり士民を愛撫し、孫氏康もまた父祖を繼いで政治を整へたので、領民は皆よく心服した。武田信玄は鑛山の採掘を始め一般產業を奬勵すると共に、領民の賦稅を輕減してひたすら民力の涵養を圖つたため、人心の歸〓を得、甲斐の國人は永くこれを德とした。群雄の施政の中、特に重きをなすものは農民及び商人に對する政策であつた。室町時代の農村は相次ぐ戰亂によつて總じて激しい誅求を受け、その上凶年·飢饉等には甚だしく窮乏して、一揆や逃散が屢〓起つた。然るに强力な武將が出づるに及んで、領內を組織的に支配すると共に、農民の保護についても深く意を用ひた。卽ち地頭が年貢を抑留することを戒め、百姓の年貢不納や、他領への逃散を禁じ故意に隱蔽せる隱田を取締り、また土地の開墾、治水事業に努めた。商業は領內の財力を富裕ならしめる基礎として重んぜられ、商人に對しては市座の覊絆を解いて自由賣買を許し、その城下に商人の集まることを奬勵し、その營業に種々の便宜を與へるものもあつた。かゝる政策は織田·豊臣兩氏によつても繼承せられ、近世の產業界に躍進を來たさしめる一要因となつたものである。群雄の法制上世の律令は中世に入つて官制に關する法として殘つたけれども、一般には鎌倉幕府の實踐的な法制が社會を指導するものとなつた。室町幕府も鎌倉幕府の法制を繼承したが、戰國の諸雄によつて破られ、代るに地方的な法制が出現した。かゝる群雄の法制は古くより存する家法の系統を引く性質のものであつて、家法が大名の領內全般に及ぶものに進展したとも見られる。それらが多數存するゑ中に、大內氏の大內壁書今川氏の今川かな目六、北條氏の早雲二十一箇修、伊達氏の塵芥集、武田氏の信玄百箇條、長曾我部氏の百箇條等はその主なるものである。何れも道義性を重んずる我が古來の法制精神をよく示し、武士の平時竝びに戰時に於ける覺悟、主や親に對する服從などを强調し、また中には學問·〓育に關心を寄せて、文武兼備を主張せるものもある。これらの法制に見られる規定の中特に注目すべきものを拾ふに、先づ家臣の統制を嚴にし、團結を鞏固にせんとするものがある。卽ち大名は家臣の進退について特第三章室町時代第五節群雄の割據四·三 第二編中世四七四に深き關心を拂つて上下の關係を緊密にすることに努め、婚姻の如きもその許可を受けしめた.また物頭.組頭の制を設けて武士相互間の秩序を正し、新たに加はつた武士を寄子とし、寄子の支配者を寄親といつて、その間に父子の如き關係を結ばしめた。所領については、その處分を著しく制限して賣却を禁じた。その他總じて規律を重んじ、刑律を嚴重にせることが特徴として擧げられる。た喧嘩兩成敗と稱し、二者相爭へば理非を論ぜず當事者雙方を罰する事も、この時代に盛んに行はれたものであつて、これは訴訟裁判の簡捷を期すると共に、部下の團結に破綻を生ずることを戒めるための方策である。緣坐法もこの時代に著しく擴大せられ、時に犯罪者の主從·緣者のみならず郷村全體を處罰することもあつた。第六節皇室と國民皇位の相承と列聖の御仁慈皇位の相承元中九年(二〇五二)後龜山天皇の京都還幸と共に、後小松天皇は神器を受け給うた。後小松天皇は御天資英邁にましまし、朝儀の復興には特に御意を注がせられ、和漢の學にも御造詣深くましました.應永十九年(二、〇七二)皇子にまします稱光天皇に御讓位あらせられたが、後小松上皇は天皇が御年少且つ御底弱にわたらせられたため、常に御親ら諸事を攝行あらせられた。正長元年(二〇八八)天皇崩御あらせられ、伏見宮貞成親王の御子彥仁王が上皇の御猶子となつて踐祚あらせられた。卽ち後花園天皇にまします。天皇は和漢の學を始め、書道·繪畫·詩歌その他の道に秀でさせ給うた。朝政の振興については特に御意を注がせられたが、時勢は漸く亂世に向かひ、三十六年の長き御在位の後、寬正五年(二一二四)七月、皇子後土御門天皇に御讓位あらせられた。同年十二月、仙洞に催された御會に「八紘歸聖猷」の題にて七言絕句をものし給ひ、御〓化多年にして功ならずとせられ、皇家古に復せんことを望ませられしは洵に畏き極みである。後土御門天皇も同じ大御心にあらせられ、まつりごとその古にのこりなくたちこそかへれ百敷のうちと詠ませ給ひ、應仁の亂以來の亂離及び御料の窮乏の中にあつてよく朝儀の維持に努め給うた。明應九年(二一六〇)天皇崩御あらせられ、皇子にまします後柏原天皇が第三章室町時代第六節皇室と國民四七五 第二編中世四十六踐祚あらせられ、治世を思はせ給ふ御製の數々をものし給うた。大永六年(二一八六)天皇崩御によつて皇子後奈良天皇が踐祚あらせられた。天皇の御代は天文年間を中心として戰國の爭亂最も甚だしく、そのために畏くも朝儀の闘怠することを深く慨かせられ「公道行はれず、賢聖有德の人無く、下克上の心盛にして暴惡の凶族所を得たり。」と仰せられた。併しながら次に正親町天皇が立たせ給うて後世は漸く前途に輝かしき曙光を仰ぐに至つた。天皇は織田信長に對して入洛を促し給ひ、信長は聖旨を奉戴し、深き感激を以て海內統一の業に邁進したのである。御財政の式微室町時代莊園制が崩壞に向かふと共に、禁裏御料の收納は次第に減じた。卽ち當時御料地についてはその事務を總括するため朝臣中から御料所奉おれか命ぜられその下に對御料地の壯務に當る未来が區かれてたかのために御料地の莊務が妨げられ、從つて皇室の御財政は畏くも御意に適はなくなつて來たのである。かゝる傾向は室町初期より見られ、戰國の亂れとなつて益、激しかつたが、幕府はその力の足らないため、御用度の進獻はおろか、禁裏の守護も十分出來なかつた。されば遂に恆例の儀式も時に閾かせられ、卽位の大禮さへ長年に亙つて滯らせ給ふに至つた。皇室の御仁慈かくの如く御財政の式微にも拘らず、列聖は常に民草の上に大御心を垂れ給ひ、仁慈の聖德は何時の世にも變らせられなかつた。寬正元年(二一二〇)より飢僅疾疫相續き、死者算なく、京都の內外酸鼻を極めるや、後花園天皇は畏くも民草の安穩を一途に祈念あらせられた。然るにこの時足利義政は聊かも民苦を顧みざるのみならず、或は遊樂に耽り、或は土木事業を興してその費用を民に課したため天皇は「殘民爭採首陽薇處々閉爐鎖竹扉、詩興吟酸春二月、滿城紅綠爲誰肥」と御製の詩を義政に賜うてこれを戒められた。また後土御門天皇御製うれへなき民の心と聞くからにいまぞ我が身のたのしみとせむ後柏原天皇御製をさめしるわが世いかにと波風の八十島かけてゆく心かな等を拜する時、御軫念の程深く心に銘しまつるのである。後奈良天皇は天文年間飢饉疫病にて民の苦しむのを憂へさせられ、御親ら般若心經を金泥にて書寫し給ひそ第三章室町時代第六節皇室と國民四七七 第二編中世四大八の御奧書に「朕爲民父母、德不能覆、甚自痛焉、」と仰せられ、また同じく紺紙金泥の般若心經を諸國に下して萬民の福利を祈らしめられた。洵に仰ぐも畏き極みである。=國民の忠誠國民の尊皇皇室の尊嚴は何時の代にも渝ることがないのはいふまでもない。而して室町末期に於いては、國民は幕府に權威を感じないやうになり直接に皇室の尊嚴を拜し、御歷代の御仁慈に浴して感激すること切なるものがあつた。殊に幕府指令下にあつた地方豪族は、直ちに皇室から官爵を拜受してこれに無上の榮譽を感じ、或は親しく勅諚を傳へられて感奮興起したのである。周防の大內義隆、安藝の毛利元就、尾張の織田信秀を始め、駿河の今川義元相模の北條氏綱、越前の朝倉孝景、越後の長尾景虎や眞宗の本山たる石山本願寺など何れも卽位大禮の御料皇居修理の御用等を奉獻した。また近江の六角高賴や尾張の織田信秀等は相前後して神宮御造營の費用を奉納した。また伊勢の慶光院〓順尼は後奈良天皇の勅許を得て諸國を行脚し、廣く寄進を募つて遂に外宮を造營し奉つた。この時代、主に莊園の喪失によつて、公卿等が財政窮乏に陷つたことは實に甚だしかつたが、何れも貧苦を顧みず奉公の赤誠を捧げた。中でも三條西實隆·山科言繼等は地方に赴き、諸豪族に說いて御用度の獻納、御料地の復興等につき率先皇事に勤むべきを勸めた。實隆は後土御門天皇以後御三代五十餘年に亙つて仕へ、朝に在つては天皇に學問を講じ奉り、出でては遠近の豪族に勤皇を說いた。言繼は老軀を以て地方豪族に遊說して皇事に盡くすところが多く、曾て岐阜に使し、途中大雪に惱まされながら、「すべらぎのみことのりには武士もしたがはしめよ天地の神」と詠じた。た正親町天皇の御代、京都の町人にて折々供御を上り、内裏の御垣の修理に力を盡くすなど、忠誠を致すものもあつた。而して古來國民が最も光榮とせる官爵は、幕府の手を經ずして直接朝廷より拜戴するに至り、四方の群雄は何れも天皇を奉戴して天下に號令せんとした。皇室の尊嚴かくて朝廷の尊嚴は亂世の中にも儼然として輝いた。地方豪族や一般人民は天日の輝かしき光を仰ぐ如く、天皇の御稜威を高く拜し、尊皇の精神を振起した。而してこのことは群雄が皇室を拜して天下統一を翹望する時運を導いて、第三章室町時代第六節皇室と國民四七九 第二編中世四八〇次の安土桃山時代が展開されるのである。昭和十八年一月十八日印刷昭和十八年一月二十日發行文部省編纂內閣印刷局印刷發行販賣所內閣印刷局發行課東京市麴町區大手町電話丸ノ内23三五一-三五九振替東京一九〇〇〇全國各地官報販賣所全國各地主要書店定價三 ロ

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