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上杉将士書上

 
上杉家将御尋に付書上 慶長二十年寛文九 年
 
オープンアクセス NDLJP:70
 
上杉将士書上
 
 
上杉家将御尋に付書上 慶長二十年寛文九 年
 

上杉家、天文廿二年癸丑十一月廿八日、信州川中島に於て、甲陽の武田大膳大夫晴信、信玄と、京都将軍義輝公へ註進状、家臣御尋に付、両書差上申候。

一、​関東管領上杉弾正大弼藤原謙信次将​​長尾越前守藤原政景​  廿五将

右謙信の姉壻にて、右先年北国関東、或は相州の北条等と一戦、一通の取の節は、先は大先手仕候。其内にも六ケしき一戦と、謙信被存候時は、浮勢に代り申し、軍功所々にて有之候。嫡子長尾喜兵衛次景勝は、謙信の養子に相成候。後中納言景勝前書記し申上候。

一、宇佐美駿河守藤原定行

上杉家にて、別して老功古実の侍にて、其一代の軍功多く候。武勇智謀の誉、一代に数十度の手柄ありて、管領上杉顕定并に上杉定実。謙信判形の感状を数多取り候。永正六年に、長尾信濃守為景、逆心仕り、主君上杉顕定・其弟上杉房能を討亡し、越後を押領せし時、定行廿一歳、若輩なれども、主君の仇を討取らんと、為景と取合ひ、大永元年まで合戦。柏崎より沖野まで、片浜十五里切随へ、為景に随はず、十三年、其間攻め戦ひ候。其時の管領上杉憲房と越後の屋形定実の扱になり候由。天文七年四月、為景、越中へ発向の節、定行手勢にて、松倉の城を夜乗に攻め取り、城主山下左馬助を始め、四百余討取る。則ち松倉に陣取り候。為景は、奥郡へ働き、放生津の城を攻め落し、徳大寺大納言実景を始め、公家九人・軍兵六百人討ち候処へ、畠山植長の留守神保良衡・椎名泰種・遊佐弾正・江波五郎、五千にて後巻し、仙檀野といふ所にて合戦し、為景討死、越勢総敗軍になり候を、定行一手にて、松倉より打つて出で、敵を追退け、越後衆を悉く引取らせ、其上に松倉城に、十一日蹈留り、猶も手負雑人の除後れたるを尋ね出で引取らせ、十二日目同廿二日に、松倉を引払ひ、越後へ備陣仕候。此時の手柄、北国・関東に隠れなく、其後、為景が寵臣黒田和泉守・金津伊豆逆心し、越後の国中大に乱れ、御内長尾晴景オープンアクセス NDLJP:71と、弟の謙信と取合になり候時に、謙信十八歳なり。謙信十三歳より、本庄美作守慶秀が介抱にて橡尾に居られ候に、美作守招きて、駿河守定行、謙信へ一味し、軍法を指南し取立て、本庄美作守・大熊備前守朝秀・庄野新左衛門実為等申し合せ、謙信を大将として、晴景を討ちて、謙信に越後を領知として、越後の屋形上杉定実は、謙信の姉壻にて男なし。則ち謙信に越後を譲り与へ候。定行が軍功は、本庄慶秀と同じく、忠功莫大なり。定行が先祖宇佐美三郎祐義、抜群の軍忠により、右大将頼朝公より、伊豆の本領宇佐美・須見・河津、其他数箇所の荘園地頭職を給はり、代々公方家直参にて、定行が祖父宇佐美能登入道道盛まで、十六代領知す。道盛が嫡子宇佐美越中守孝忠代に、越後琵琶島の城に移り、上杉家の下知に随ひ、尤も大身なり。越中守が嫡子は、則ち駿河守定行なり。此宇佐美は、古き家、久しき名字にて、右大将家頼朝より、下文御直判の御事、最明寺時頼卿の状、尊氏・将軍義詮の御内書、新田義貞の御書、楠・畠山殿の書状多く有之。駿河守は、永禄七年七月五日、信州野尻の池にて、長尾越前守政景と一所に生害す。是には仔細有之候に付、跡目立たず、嫡子民部十五歳牢人致候。駿河守一代の軍功甚だ多し。駿河守は、十九歳より、精進持斎にて、女犯を断ち、五十七歳まで、清浄潔斎なりし。久しき名字断絶せん事は如何と、達て謙信意見にて、定行五十七歳より、妾を置き、翌年に左太郎定勝といふ嫡男出生。其後次男民部出生す。其時、妾をば宇野与四郎妻に遣し、六十二歳より、又精進持斎にて、七十六歳の生害なり。出家同意なり。嫡子左太郎は、後宇佐美造酒之助定勝と号し、永禄五年七月十日、武州上尾にて、十七歳にて討死して、次男民部勝行、嫡子に立つと雖も、父駿河守生害にて、跡目立たず、牢人となりけり。大忠節の定行が子故、民部、下越後へ引込み居り候へども、謙信構もなく候。民部事、父駿河守に劣らざる武勇の剛者にて、謙信・景勝代にも、忍んで軍陣の供仕候。度々高名仕候。帰参願ひ候。目見を望み申候。就中天正十年に、新発田の城に、新発田尾張守楯籠り候に付、景勝直ちに馬を出し、直江山城守・中条越前守・上条の上杉義春など先手にて、佐々木放生橋にて合戦の時、宇佐美民部高名仕候。甲首二つ提げて、景勝本陣へ参り、平林内蔵助を頼み、目見を望み候へども、景勝も、亡父政景の事にて許容なく、目見叶ひ申さず。後民部は、方々へ参り、上方へ登り奉公仕り、高麗陣にて手柄仕り、秀吉公・家康公御判形の御感状頂戴仕候由。関ヶ原御陣の砌は、会津へ籠り、五百川縫殿・島津月下斎が手に働有之候。此子孫上杉オープンアクセス NDLJP:72家絶え申候。

駿河守定行、自分の意趣にて、長尾越前守と、池尻にて倶に死を遂げ候に非ず。謙信幼年の頃、政景と取合あり。其故は、政景姉壻ながら、謙信の幼君の内、領知を押領せんとの取合起り、去りながら謙信十三歳より、世に勝れ候故、中々不承知にて、此後和談にて、事済み候へども、後々まで之に依る。密々に定行が内意は、和談の節より、残り居り候事に候て、山口駿河守忠死色々有之候へども、繁多故之を略す。口伝有之候。

一、新津丹波守源義門  廿五将

清和源氏にて、平賀左兵衛尉盛義の後胤平賀三郎信資より、越後の新津の保を領知す。新津の先は、木津左衛門尉資直といふ。其後は、新津小次郎資義なり。新津・金津は、越後にて久しき名家なり。新津丹波守は、彦次郎と申候時より謙信に仕へ、麾を握り、軍功有之、誠に能き大将の仁を守り、珍しき仁人にて候。唯今新津将監と申候。

一、石川備後守源為元  廿五将の外

上杉家代々四家老の一なり。長尾・石川・千坂・斎藤是なり。度々場数ありと承り候へども、委度々場数ありと承り候へども、委しき事は承らず候。唯今は子孫無之候。尤も謙信、幼年より永禄年中までは、勤功の由に候。先祖石川賢道は、上杉家にて、名高き忠臣なり。和久氏も、上杉家にて名臣なり。是も只今無之候。

一、金津新兵衛尉源義旧

平賀の一家にて、越後にて久しく侍にて、謙信七歳の時、出家の筈にて、春日山林泉寺天宝和尚の弟子になられ候へども、出家を嫌ひ、男になり申さるゝに付、父為景下知にて、越後の大名加地安芸守春綱が養子と定め候へども、謙信承知仕らず。為景大に怒り、謙信八歳にて、下越後橡尾の浄安寺へ置かれ候砌、此金津新兵衛、乳母夫にて候故、脊に負うて、浄安寺へ供仕候。忠節仕候後には、吉江中務・本庄美作守と、越後の春日山の城主として留主居仕候。

一、北条丹後守平長国  廿四将

父安芸守と申し、武勇勝れて、武辺場数甚だ多し。謙信先手度々、謙信をも何れも侮り申候程の武勇。指物に白鮨一幅の小四半に、黒き六寸の熊蟻を紋に仕り、腰に差し申候。丹後守も、此通り仕候。謙信見咎め申され、中の柄余り少くと申され候時、丹後守申候は、三幅懸にオープンアクセス NDLJP:73大紋を書かせ申すべしと、返答申候。併し私の指物は、中少くとも、右の三幅懸の大指物より、敵方へ能く見え申候。仔細何時も、敵陣へ近く乗付け候に付、中少□髪まで見え候と申候へば、謙信機嫌直り申され候。斯の如き弓取に候。川中島大戦武勇詳。其外所々の一戦に有之候。

一、本庄美作守源慶秀  廿四将

武勇・智謀・大力の男にて候由、元来軽き者に候へども謙信馬廻にて、度々手柄仕り、心も剛に候故、本庄に致され、一手の大将になり申候。橡尾の城に差置き申され候。謙信十三歳の時、黒田和泉守逆心致し候時、謙信兄の長尾半蔵景康、其次左平次景房討たれ候て、総領長尾弥六郎晴景は、首城郡へ落ち申され候。謙信をも、討手の兵共、追々来り候を、春日山の城二の丸の番士小島勘左衛門・山峯六助、板敷を放し、其下へ隠し奉り、夜に入り、林泉寺へ落し申候折節、橡木の浄安寺門察和尚上り祭り居られ、林泉寺の群僧評定して、則ち謙信を門察同道し、夜に紛れ、橡尾へ下向致し、本庄美作守を頼み候。慶秀急ぎ迎へ奉り、門察の忠義を感ず。謙信、暫く本庄が方にありて、世の変を窺はるゝに、世人聊か之を知らず。美作守謀に、琵琶島の城主宇佐美駿河守定行は、武勇の者、殊に大身なれば、是に内通す。宇佐美大に悦びて、謙信を取上げ、旗を上げんとす。逆心黒田和泉守は、府内を除きて、蒲原郡へ引籠る。屋形上杉定実并に長尾弥六郎晴景、府内へ帰城。天文十二年夏、謙信十四歳にて、廻国の聖と同道、敵地数箇所を凌ぎ、府内へ上り、密に兄晴景と評定し、逆心の黒田和泉守・金津伊豆・胎田将監・森備前・山下・瀬良田・野本・篠塚・蔵王堂・森岡・八条・五十嵐・風間を退治し、逆徒の大将長尾平六郎を亡すべく談合し、夫より加賀・越中・能登まで、廻国の聖と同道巡見し、十月末に、橡尾へ還られ、本庄美作守忠義を尽し、宇佐美定行と同じく、義兵を起すに付、府内より長尾弥六郎晴景進発して、橡尾へ下向これあり。謙信大に悦び、軍兵を召すに、只見次郎右衛門・島倉内匠・長野与三・村山与七・上野源六・鬼小島弥太郎・山吉丹波守・山吉弥右衛門・平子源太・斎藤八郎・安田治部・菅名・松本・水原・小中・和田・山本軍兵等、謙信へ馳加はる。同十三年甲辰正月に至りて、逆徒長尾平六・黒田和泉、一万五千にて、橡尾城へ帰り来らんと欲するに付、上田城主長尾房景其子越前守政景より、謙信へ加勢の為め、栗林肥前守・金子・桶口・斎木等三百にて橡尾へ来る。晴景・謙信、大に力を得、本庄美作守慶秀・宇佐美駿河守定行・大熊備前守朝秀・庄新左衛門オープンアクセス NDLJP:74尉実為、四手に分け、大手口へは、大熊朝秀・庄実為押出し、長尾平六が先手八条・風間・五十嵐と戦ふ。搦手へは、黒田六千にて、又外に戸谷・佐貫・松尾を先手へ取詰むる。是へは謙信自分に向はれ候に、本庄・宇佐美先手仕候。頃は正月廿三日、寒気甚だ烈しく、謙信床机に腰を懸け居られ候所へ、黒田六千余、蔵王堂の前より、鉦・太鼓を打ちて勇み来り、川を渡らんとす。本庄・宇佐美急ぎ軍兵を出し、安否を一戦に決せんとす。依りて謙信止めて曰、各は老将たりと雖も、誤りたり。今懸る時節に非ず。暫く来鋭を待ちて、突いて出づべしと下知す。本庄・宇佐美、微笑の気色ありて、謙信聡明、世に超えたりと雖も、大敵を見て、臆れ給ふと思ひ、顔色あるを、謙信見て、大きに憤るに付、慶秀・定行も、其下知に随ふ。果して敵の旗色替るを見て、謙信団扇を取りて、兵士を差招き、是れ一戦の時なりと、早々進めと下知せられける。本庄・宇佐美急度見て、士卒を勇め、先登に進みて、一文字に突懸り、即時に打勝ち、大敵を追散らし、戸谷大炊助・松尾五郎を始め、八百余討取り、搦手の敵、悉く三条へ引退く。大手より、長尾平六・風間・五十嵐・八条等八千人余と、庄新左衛門と、大熊備前千余、挑み戦ふ処へ、謙信搦手より出で、押廻し進まれ候。敵の大将長尾平六勇猛を振ひ、自身防戦して、謙信の先手の大将長尾与三を討取る所へ、本庄・宇佐美二手に分れて、左右より進み、平六を討取り大利を得。敵軍悉く敗軍仕り、謙信運を開き候。然れども黒田和泉守、三条・黒滝両城に引籠り、合戦を遂げて、逆乱止まず。本庄・中条・加地・色部・黒川・新発田・竹股・五十公野・鮎川・大川等の諸大将、所々に於て挑み戦ふ。山浦源五郎景国・山本寺伊予守は、上杉定実公の下知に依りて、根元不動山要害に築きて、能登の畠山義忠并に越中椎名・神保・江波・唐人・遊佐等と戦ふ。天文十六年の夏より、晴景と謙信不和。是は晴景病者にして、仕置に懈怠あり。国中是を憤り、晴景を退けて、謙信を立てんと欲す。天文十八年五月に、安田・村松の要害を攻め落す。是は黒田和泉が残党の守る所なり。宇佐美・本庄相談して、新発田尾張守長敦を大将にて、敵の与党野本大膳等并に篠塚宇左衛門を討取る。村松に於て、小越平左衛門忠功を励み、黒田和泉・金津伊豆、次第に衰へて、新山・黒滝両城に引籠る。去々年夏、晴景と謙信取合ひ起り、晴景大軍にて、橡尾退治として、柿崎の下浜に陣取り、謙信は宇佐美定行・本庄慶秀を先手にして押寄せ一戦に及び、定行先陣に進み切懸り、慶秀を脇より廻し切懸りしかば、晴景敗軍して、米山に懸り、府内へ落ちられける。此時、城織部・吉江中務・鬼小島弥太郎、殊に軍功を致し、宇佐美・本庄先をオープンアクセス NDLJP:75進め、米山坂下まで追討ち、謙信、爰にて追止り、晴景大軍、米山峠を越ゆる時分を積り、謙信俄に追懸り、晴景大軍を、亀破坂より追落し、直ちに府内へ取懸りしに、晴景叶はずして、和平の扱になりしを、本庄美作一人是を用ひずして、晴景切腹、時に四十五。今年謙信十八歳、家督を継ぎ申され、屋形上杉定実は、謙信を引付け、国の仕置、皆是を相議す。天文十九年二月、定実の命を請け、古志郡へ出張し、新発田長敦・本庄慶秀・中条藤資・直江・酒椿・黒川備前守大手へ向ひ、搦手は、長尾秀景大将にて、新津彦次郎・平賀久七・桃井清七郎・高梨源三郎、二の手は、本庄美作守大将にて、高松・唐崎等攻懸り、遂に三条の城を攻め落し、黒田和泉兵威衰へ、新山城に籠る。本庄美作押寄せ、向城を取立て帰る。同年二月廿六日、上杉兵庫頭定実逝去。永徳院天中玄清大居士と号す。是は上杉左近将監憲栄の後胤、代々越後の上条の上杉なり。永正七年六月、管領上杉顕定、妻有の庄長森原にて討死の節、定実も上条に墊居せらるゝを、為景和談ありて、府中へ迎へ奉り、屋形と号し、主君と仰ぐ。今既に逝去に付、謙信弥〻威勢盛になり、同四月、公方光源院義藤公より、謙信へ御内書并に白き傘袋・毛氈の鞍覆を免し給ふ。大覚寺御門主御書、大館左衛門尉晴光の書到来す。謙信遂に越後の国主となり申さる。天文二十年五月朔日、高梨源三郎一手にて、新山城攻め落し、逆心黒田和泉守を始め、城兵悉く撫切にし、手柄莫大なり。五月廿六日に、本庄慶秀・宇佐美定行両手にて、黒滝城を攻め落し、金津伊豆守を討取り、国中一統する事は、数年本庄美作が忠功莫大に依りて、其子清七郎武辺覚も度々の事に候由、父子共後名あり、

一、本庄弥次郎繁長 〈後大和守後越後守〉  廿五将

〈二字欠〉〕越後守と申候。父は大和守房長が子なり。脇腹にて父の房長に離れ、十三歳にて、一族の小川紀八郎・鮎川因幡守が逆心せしを、討取り申候。幼少よりの気象剛強、無双の兵なり。謙信に七つの年劣なり。天文十三年八月十八日、信州川中島にて、謙信と武田信玄と合戦の時も、繁長十九歳にて、謙信の先手致し、武田が陣を突崩し、勝ちたる手柄の誉あり。其外越後の逆心の輩黒田・金津・胎田一類を、謙信より退治の時も、繁長が戦功勝れたり。故に越後にては、元亀天正年中よりは、本庄繁長・新発田因幡守治長をば、鬼神の如く申され候。永禄四年九月十日、川中島にて謙信一番の軍に勝ち、休み居られ候時、武田太郎義信、七八百の人数にて、旗を伏せ、腰物などをも引隠して、急に御懸合ふ時、越後勢、不意の急に合ひ、防ぎ兼ね、上オープンアクセス NDLJP:76杉勢過半敗軍。謙信も自身に鍔鎗といふ家の重実を執りて、防ぎ戦ひ申され、家老志田源四郎義時討死。大川駿河守高重も討死。既に大事に及ぶ時、色部修理亮長実五百計りと、宇佐美定行千計りにて駈付け、立狭みて鎗を入れ、武田義信を、広瀬と申す辺まで追討ち申す。此時繁長も、自身の太刀打、中々勝れたる働あり。されども廿六歳、若気にて遠慮なく、謙信武功少き故油断せられ、義信に暫く推着を見せられたりとて、色々に誹り申したる故、夫より謙信気に背き、大事に及ばんとするを、幸にして永禄十一年の秋、繁長逆心致し、本庄の城に引籠りて居候。謙信大に怒り、直ちに出張せられ、本庄を攻め申され候。上条の上杉弥五郎義春先手にて、飼付川にて嶮しき合戦あり。三の手は、上田衆栗村次郎左衛門・鉄上野介・宮島参河守手にて千曳といふ方便を致し、繁長を突崩し、已に上杉弥五郎自身乗付け、繁長と詞を交し候へども、大剛の繁長にて、中々討取る事思も寄らず、城へ入りて、一旦に攻め落す事なり難き故、謙信も附城を構へ遠攻にして、馬を納めらる。其後も度々出張ありて攻められ候に、堅く防戦す。然れども謙信、武勇に対し、繁長始終叶ふべき様なくて、降参の時法体して、雲林斎と申候。是も雲林と申す名、謙信の気に背き、後に雨順斎と申候。されども繁長、世に類なき勇将なるに依りて、謙信後には懇に致され、以前の如く奉公せし由。謙信逝去ありて、上杉三郎と景勝と、家督争の取合ありし時、繁長一廉働き候故に、上杉十郎憲景が、三郎一味にて討死仕候跡を、本庄繁長に、申付けられ候へども、上杉をば名乗り申さず候。上杉の家紋所竹の丸飛雀計り今に用ひ、其後羽州庄内大宝寺義興が方へ、繁長の二男を養子に越し候事に付きて、義興と既に弓矢を起し、色部惣三郎・中条越前守・荒川主膳・黒川備前などを語らひて、義興を討ちて、二男千勝丸を、大宝寺出羽守になして、秀吉公へ御礼等宮仕候儀、景勝も不届に存ぜられ、様子悪しく之ある故、繁長越後を立退き、京都に暫し居り候。後に景勝会津へ移され候時、帰参して、森山の城に居る。後に仙台の政宗、福島へ出張の時より、福島の城に居りて死去仕候。繁長一代の働莫大なれば、詳ならず。分けて慶長年中、最上義光と、与梨草刈備前越間者に入り、庄内の屋形光安を討亡す。其跡大浦城に、東禅寺右馬頭・中山玄蕃を入置きしを、景勝より謀を以て、庄内の百姓共を引付け、囘忠の族数百人出来りしかば、本庄繁長、五千余騎にて発向あり。大浦城中の者、必定叶ふまじきを計り知り、城中より、加勢を最上へ乞ふに付き、草岡虎之助千余にて、大浦へ来り籠る。されども庄内オープンアクセス NDLJP:77の百姓皆一味して、景勝へ内通するを聞きて、城中の妻子共を、中山玄蕃頭引具して、路頭の一揆を切払ひ、月山城を最上へ引取る。東禅寺右馬頭と草岡虎之助と三千余にて、大浦城を出で、千安の十五里原といふ所まで逆寄して、本庄を待懸くる。繁長、庄内の兵を合せて、一万にて押寄せ、合戦を始むる。巳の刻より申の刻まで、十六度の戦に、最上勢残り少に討たる。大将草岡虎之助、勇を振ひ、切つて廻る。上杉方、数多討たるゝと雖も、繁長下知して、荒手を入替へ、遂に虎之助を討取り、首を実検に〔〈脱字アルカ〉〕、此上は東禅寺が首を見ん事疑なしと、悦び勇む。右馬頭は、数箇度の戦に、余多手負ひしが、首一つ取りて提げ、血刀を振りかたげ、高名仕候間、大将本庄殿へ御目見せんと、味方のふりして、上杉勢の中へ入る。時に上杉勢にて咎むる者あり。東禅寺答へて、越後黒川の者にて候といふ。上杉勢誠と心得て、馬上にて、霜色の扇披き遣ひ申され候武者こそは、大将繁長にて候と教へければ、東禅寺馬を乗寄せ、敵の大将東禅寺右馬頭を討取ると申し乍ら、歩ませ近づく。繁長実にもと振廻す所へ、持首を、繁長の顔へ打付け、正宗の刀にて、繁長が甲の錣のはづれを切付くる。繁長が鞠吹返を切割り、左の小耳へ切付くる。繁長心得たりと抜合せ切結ぶを、越後勢大勢馳せ重り、遂に東禅寺は、繁長に討取られ候。其刀を取り、首を見れば、東禅寺右馬頭なり。則ち首に刀を添へて、景勝へ進上す。刀は繁長に返し給はる。正宗作にて、殊に大業物なれば、右馬頭と実名を付け、秘蔵せしが、文禄の末、伏見御城御普請、天下の諸大名働きしに、景勝より、人数普請奉行を差登せ、本庄繁長も其中にて、在伏見なりしが、自ら金銀を遣ひ尽し難儀にて、彼の正宗を払ひに出したるを、本阿弥見て、出来恰好、正宗の作には、天下第一なりと申上げ、家康公へ、判金廿五枚に召上げらる。本庄正宗と号し、御秘蔵遊ばれ、紀州大納言頼宣卿、未だ常陸介殿と申し奉りたる時進ぜらる。御重宝の第一に遊ばされ候由。本庄の名字、代々相継ぐ。只今の本庄出羽守先祖にて御座候。

一、色部修理亮藤原長実  廿五将

武勇の将にて、一代に数個度高名仕り、謙信・景勝の感状数通持ち候。天文十三年正月廿三日、越後橡尾陣より始めて、長尾平六・黒田和泉守・与党河西・黒滝・新山・刈羽・村松・安田・大臣名、新潟等の城々を、謙信攻められ候六箇年の中、其後、川中島五箇度大戦に、沼田陣・厩橋・古河城攻め、小田原発向。其外度々の陣にて、本庄美作慶秀・宇佐美駿河守定行・島倉内匠助能遠・オープンアクセス NDLJP:78只見左衛門尉家国抔と同前に、軍功あり。永禄四年九月十日、川中島にて一戦に、柿崎和泉守景家、備危く相見え候所へ、色部日の丸の小旗を伏せて、間近くなる時押立て、先手中程に横合を入れて、柿崎を討たせず。殊に色部手の勢、討死多しと雖も、討取る首多く候故、軍忠厚くなり候由。長実は其後家来にも、両人まで、此時謙信の判形取りたる者有之候。一人は北目某、一人某。謙信、如何なる強き敵を請け候ても、又籠城するとも、汚き軍道一生仕らず候。勿論軍を囘す事、我同様に致す者は長実と、兼ねて申さる。謙信十三歳より、大将軍の職を守り候に、敵の旗を見、善悪とも旗返し候事、一生無之候。長実、三郎と景勝と取合の時、忠功之あり。又、新発田因幡〔〈守脱字カ〉〕治時、五十公野を語らひて逆心の時、色部は、新発田が妹壻に候処、色々申候へども、景勝を見継ぎ、新発田因幡守治時が落城の時も、治時が首、色部手へ取り候故、景勝も頼もしく存ぜられ候。其後仙北陣の時も、此長実を以て討随ひ候由、本庄繁長、庄内の大宝寺義興と戦の時は、長実死去仕り、忰長門守幼少故、家来の戸屋常陸と申す者、名代に参り候。会津へ、越後より所替の時は、米沢の金山と申す所の城に、長門寺を置かれ候。只今の色部又四郎と申す者の先祖にて候。

一、甘糟備後守平清長  廿五将

元は、上杉の譜代の将士にも非ずと雖も、越後の上田より出で、長柄の者抱へ候処、至つて度度の高名誉之あり、軍道古実覚の士故、謙信若年の時より、次第に立身、一手の士大将になり候。謙信・景勝二代の士大将。永禄の頃、川中島大戦の時、武田家の士大将馬場美濃守信房・山県三郎兵衛昌景二手の大将、辰の刻より未の下刻迄、千五百の勢にて、三千六百の勢を引請け戦ひ候へども、終に取堅め、牛角の戦を遂げ候。武田家にも、強将多しと雖も、此両将は、引請け取合の節は、謙信、心よしと申さる。其故は、味方此両将に則軍は心根恥しからずと申され候。其外、謙信北国筋出陣の刻、軍功述べ難し。近年の事共、有増あらまし書上げ申候。景勝、会津へ移され候。甘糟備後守二万三千三百石にて、白石城に置かれ候。政宗領の境目、大事の所故、右大剛の者なりとて、此の如き関を守らせ候。関ヶ原一戦の砌、政宗は、家康公御内意にて、相馬領へ懸り、岩手沢へ帰城するに、其内に簗川城主須田大炊介長義、人数を出し、政宗家の片倉小十郎、柴田、小平治と、大枝といふ所にて、六月廿二日、鉄炮矢合あり。是れ政宗と上杉の手切初なり。政宗は、七月二十日頃に、忍びて帰城を、備後知らずして、会津にて、年頃の妻オープンアクセス NDLJP:79女病死したる註進あるに付、幼少の小供、心元なく存じ、景勝手前を忍びつゝ、白石城には、甥の登坂式部を城代として、密に会津へ馳せ帰り、妻女の葬礼しけるを、政宗方へ告知らする者あり。金山城主石川大和守昭光、之を取次ぎて註進す。政宗夜通に人数を出し、白石城を急に攻むる。備後守留守登坂・鹿子田等堅く防ぎ守るを、政宗方より矢文を射て、登坂式部三万石、則ち白石城を遣し候約束する。登坂逆心して、政宗人数を引入るゝ故、白石落城なり。此註進を景勝聞きて、甘糟に忍びて、会津懸り居るを聞きて、以の外立腹せられ、既に切腹をも申付けらるべく候へども、大忠節の備後故、閉門申さるゝに付、暫く勘気なり。後は福島城へ加勢等越し申さる。本庄出羽守・杉原常陸守などは、瀬上・上松川合戦に手柄あり。景勝、米沢へ移り、三十万石に身上減じ候に付、備後守も、総並に小身になり、唯三千石にて、奉公致候。白石を、政宗へ攻め取られたる遺恨にて、景勝、遂に詞を懸けず。其後景勝供して、在京せし砌、家康公、畠山下総守義真を御使として、御旗本へ参り、御奉公申仮へ、一万石下さるべしと、密々に御内意あり。是は大剛の兵なるを、聞召し及ばれ候に依つてなり。甘糟涙を流し、上意忝き仕合に奉存候。台命に応じ申度く候へども、景勝は、成染の主に候へば、拾て難く候間、御免なし下され候へとて、遂に上意に随はず。景勝は、家中違の畠山と、密に上使にても出合ひたる事、曲事に存ぜられ、弥〻不快なり。後病死。備後守嫡子藤左衛門次男帯刀暇出し、牢人する所、定勝代に召返し奉公仕候。唯今甘糟五郎左衛門・同久三郎は其子孫なり。甘糟遠江守とは同氏にて、親類にては無之候。

一、杉原常陸介源親憲  廿五将

父は大関阿波守といひ、始め弥七郎と号す。杉原壱岐守憲永が養子となり、杉原壱岐守家督になり候て、常陸介と号す。謙信、勝軍の時はひつにて言なく、旗色靡き候節は大言にて、天が下敵と存ずる者なし。嵐の塵などと大言にて、永禄の川中島・関東筋の大戦に、初年より一生押付を見せ申さず候と、常に謙信物語り申され候。大将号免され候時より、一時其仁を専らすといふ事、無之由に候。度々の軍功は、上杉家の留日記に有之候に付、大方計り書上げ候。或時常陸介事、景勝の気に違ひ、牢人して会津へ行き、糸立の指物なし、度々高名有之候由、後越後へ帰参、景勝へ奉公、数度の手柄之あり。慶長五年九月、直江山城守大将にて、其勢四万にて、最上へ出陣の節、先陣春日右衛門尉宗貞、二陣は五百川修理亮なり。三陣上オープンアクセス NDLJP:80泉主水祐憲村・軍奉行板原常陸介なり。九月十三日、幡尾城攻め落し、江口五兵衛を討取り、長谷堂城へ押寄せ、最上義光と直江対陣し、十月朔日、小洲川の退口の一戦まで、十九日の間、日々の取合に、常陸介戦功度々なり。其後摂州御陣にて、十一月廿六日、志貴野合戦に、常陸介戦功之あり。将軍家秀忠公より、御感状下さる。其時、上杉家中須田大炊介長義・島津玄蕃元久・峯鉄孫左衛門此三人も、御感状拝受、何れも頂戴して、其儘御前を罷立ち、常陸介は上包を開き、切封を解き、御感状を拝見、元の如くに巻納めて頂戴して、本田佐渡守に向ひて、御感状御文言、残る所なく、忝き仕合と申上げ、御前を罷立ち候に付、秀忠公甚だ御感あり、天下の称美となり候由。初め慶長年中に、越後より会津へ景勝入部の時、此常陸介一万四千石にて、猪苗代城に置かれ候。上杉家中、大身小身へ親疎なく、相応に見廻り、且つ武功ありて、主君の用に立つべき人へは、〔〈脱字アルカ〉〕少身なる侍へは恩信を通し、慇懃に交り候故、戦場にて常陸介下知をば、士卒能く聞きて、手の廻る事、余の大将に過ぎたり。さる程に常陸介武者扱、数千の兵も、一人を使ふ如しと沙汰致し候由。景勝米沢へ移られ、摂州御陣の後、常陸介八十歳余にて死去。其子弥七郎は、父の跡目の事にて、景勝へ不足申し、米沢を立退き、牢人して、上方へ越し、後景勝薨ぜられ、嫡子弾正大弼定勝の時、忠功の常陸介が遺跡断絶せし事を、深く痛み思召され、名字を取立て、杉原五郎左衛門と号し、定勝へ奉公仕り、只今杉原一左衛門と申すは、其忰にて候。右常陸介は、風流なる者にて、乱舞・連歌・茶湯にも数寄て、人の語り伝へ多き武士なり。景勝は、天性言少く、中々権威高き主君にて、誰も前へ出でては、汗を流す程の猛将なるに、常陸介少しも構はず、酒宴の折柄は、常陸介、顔に紅白粉を塗り、赤き頭巾を冠り、棕梠箒にかみ手切かけがたく〔かたげてカ〕て、次の間より、景勝前へ舞出て、氷室の曲舞などを舞ひて、景勝も興に入られたる事、節々なり。馬上にて路を行くにも、下人に咄させ、大笑して通行する事あり。難波の御陣、将軍家御感状を拝受し、□共又は侍皆に向ひて、謙信・景勝の時、北国・関東にて、烈しく合戦に逢ひ候事、数度にて、今死ぬるかと思ふ程の嶮しき時にさへ、御感状を取らず。今度摂州表、遊山同前なる心安き陣にて頂戴。子孫の宝とする事と申候。

伝に、杉原常陸介親憲、慶長十九年、米沢表出立候時、詮議して云、先祖相伝の鎧、一領ならではなし。数度の陣に、差廻したる物具なり。国方の坪軍にて苦しからず。御両将軍様、オープンアクセス NDLJP:81此度伏見に御在城にて、京着の軍兵は、皆野路・篠原・石部・坂本より物具して、京入する風聞なり。ばくたる鎧見苦しかるべし、如何せんと談合する。一手のさへ、喜しき差替なく、鎧一領なり。田舎風なれば、外に借るべき鎧なし。常陸介は興ある者にて、よし分別こそあれとて、猿楽の装束能法被を、具足の上に着て、摂州へ罷立つ故、大御所様御諚ありて、上杉古き家なれば、常陸は武具立見事なり。紺地の錦の鎧直垂を着たり。皆々後学に見置けと、上意なりし由、天下の沙汰となる。誠に可笑しき儀に奉存候。

一、鬼小島弥太郎平一忠  廿五将の外にて候

異名には、慶之助と申候。謙信幼少の時分より、奉公仕候。天文十一年に、十四歳にて、廻国修行の時、四人の供の中なり。謙信十八歳の時、兄長尾弥六郎晴景と、姉崎の下浜にて合戦の時も、吉江織部・城織部と一所に鎗を合せ、手柄したる兵なり。其後、徒武者大将になり、天文廿二年、謙信上洛の時、三一門策にて、謙信に乙度を取らせんとして、長曽我部元親より、公方義輝公へ進上せし猛き猿の事、伝記に有之候。又信州にて、武田信玄と対陣の時、鬼小島を使に遣さる。信玄謀にて、甲斐・信濃一番の人喰の獅子と名付けたる猛犬を、縁の下に隠し置き、一忠来りて、縁桁に手を懸け、口上をいふ所を、犬綱を放しければ、一忠が右の脛に喰付きたるを、一忠動かず、右の手を縁の下へ入れ、犬の觜を握りたり。手は前の如く、其儘縁の上に置き、口上を申達し、又、信玄の返事を聞き、其中に犬の觜を握り拉ぎ、立つて帰り去る時、広庭に抛げたるに、犬は目口鼻耳より血流れ、足をはたついて死したり。一忠帰りて、此旨申上ぐれば、謙信機嫌悦び候。溝川にて橋落ちて、謙信馬飛越ゆる事、叶はざりし時、三間計りの板を捧げて川へつかり、橋の如く持ち、謙信を馬にて渡させ申候。少しも危からずとなり。景勝代に牢人致し申候。

伝に曰、天文廿二年春、土州長曽我部元親は、公家へ献上仕候猿あり。世に稀なる猛獣にて、檻に入れ、鉄を以て、檻を包みたり。景虎出仕の節、是を檻より出し、路頭に絆ぎ置く。右は謙信、景虎の勇力を試みんと之ある。此猿、行道の人を見て、必ず牙を鳴らし候て躍上り、叫声すさまじき事なりければ、皆々景虎出仕の日を待ちて見物す。景虎は、洛中に間諜置きければ、此事品々聞付け候間、近習の侍故、弥太郎に下知なされ候。右に付、一忠順礼の形にて、路中へ罷越し、猿の得喰を持たせ、彼の檻の涯へ遣し候所、一忠往来の人に交り、オープンアクセス NDLJP:82番所へ追付き、件の猿に近付き候に、一忠を見て牙を鳴らし、喚き叫び候処を、鬼小島食を出し候に、猿悦びて静まりける時、又得喰を檻の外に置き候処に、猿見て手を出し、食を取らんとす。一忠無双の大力にて、猿の手をむづと捉へ、格子の角木に押当て、暫が程押付け候へば、猿は涙を流し、苦痛致し、一忠手を放さず半時計り痛め、猿弱り、地に臥して泣く。其時一忠放し、旅宿に帰り申し、翌日景虎出仕の時節、一忠、側に供仕り候。貴賤、景虎の猿に逢ひたる剛臆を見んとて、群集仕候。公方家の諸士も、謙信の出仕の体、又猿の有様見んと、皆々集りし所、景虎、猿の前を静に通り候に、猿は一忠を見知る故、恐伏して地に臥し候由。依りて公方・管領家も、感心の由に候。此一将の儀は、廿五将の外に候へども、斯様の興有之候に付、書上げ申候。

一、斎藤下野守藤原朝信  廿五将

武至りて、工夫案内の深き者にて、謀の名人と承り候。先祖利仁将軍にて、斎藤の苗胤、代々越後の赤田の保地頭にて、大身なり。上杉の四家老の其一なり。謙信はいつにても、武田家と或は北条氏康と合戦の時に、手強き方と存ぜられ候方へは、必ず朝信を向け申され候由に候。天文年中、謙信若年の時より、先手を此朝信に申付けられ、度々の手柄高名、勝げて計ふべからず。五十箇度の川中島合戦にも、朝信先手を勤め、遂に敵に押付を見せず候由。信玄の先手追立て申候後、景勝代にも、三郎と取合の内にも、朝信謀を以て、本意を遂げ候。景勝も、誓詞を二度取替して、深く頼まれ候由。越後にて童の戦にも、越後の斎藤鬼と申したると承り候。此朝信、天性忠義・仁愛の情深く、士卒を憐み、百姓を撫で候故、万人の思付く事、嬰児の母を慕ふが如く、朝信、戦を得ては、士卒に施し、人馬を蓄へ、兵具を調へて、城普請・境目の砦・陣城の作事、怠る間なし。朝信、自身鍬を取り、士卒も百姓も力を尽し、労苦を厭はず、景虎より金銀米銭、又は加増領を得ても、少しも身の欲に仕らず候。士卒に配り与へ、其身至つて貧なり。朝信が貧なるを見ては、組子・手勢の士卒、乞はざるに合力を致し、扶助する事怠なし。朝信、義信の志、至つて厚き故、謙信敵城を攻め取る度に、先づ朝信を城に納れずといふ事なし。されば大敵に攻囲まれ、遂に城を開き渡したる事なし。一代の軍功、自身手を下したる手柄・高名、都べて百九度に及ぶ。攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝つ。三国の韓信が風に似たり。謙信・景勝二代に、少しも別心なし。忠勇の者にて、世に少しと、古人申伝へ候。唯オープンアクセス NDLJP:83今斎藤市之進と申す者の先祖にて候。

一、安田上総介源順易  廿五将

本名毛利にて大江氏。謙信代より、若年にて大将仁となり、数度の戦功、川中島以来。小男にて、面にも手足手疵の跡あり。琪跛なり。眼差光ありて、何者見候ても、大剛の侍大将と見え、すゝどく気高き武将なり。永禄年中の武功、具に記し申上げず候。摂州御陣、信貴野合戦の勝は、上総介横鎗を入れたる故なれば、直江山城と仲悪しき故、上聞に達せず。須田大炊・杉原常陸介・島津玄蕃允同様に、御感状下さるべき筈の者にて候処、右の訳にて、頂戴仕らず候。之に依りて順易、景勝前にて、常陸介・大炊介に向ひて、皆々は仕合能く上聞に達し、将軍家の御感状拝領。自分などは、上聞に達し呉れ候人、之なしと存候。数度の合戦、昔より外の大将には越え候へども、越され候事は覚え申さず候。去り乍ら、屋形様への御奉公に仕り候へば、将軍家へは、仕へず候へども、同様の戦功に、不分明の上聞へ申上げ様かな。上杉家の武辺に、疵付き候と申候時、直江も、言の事申し得ず赤面、景勝も気の毒に存候。此上総介は、隠れなき武道功者に付、関ヶ原御陣の前、両将軍家、白河口へ御寄せあるべしとの時節、上杉家より選み出され、白河表草籠原にて、一番合戦は安田上総介、二番合戦、島津月下斎と定め申し候。

一、高梨源三郎源頼包  廿五将

清和源氏にて、伊予守頼義の弟井上掃部頭頼秀が孫、高梨七郎盛光俊胤なり。此源三郎、大剛の大将にて、十三歳より大将の仁になり、北国筋謙信大戦の時節、十三歳より、敵に押付見せ申さず候。天文二十年正月朔日、源三郎十八歳、手勢計りにて、新山城を乗取り、黒田和泉守を始め、城中の兵八百余討取りて、手柄を顕し、謙信の感状判形を取り、其後度々の軍功ありて、対馬守に任ず。景勝代には果して死去。慶長年中には見え申さず候。唯今は高梨源四郎と申す者の先祖にて候。

一、柿崎和泉守源景家  廿五将

剛強なる大将にて、手柄有之候。然りと雖も、謙信如何存ぜられ候か、斎藤下野守程には、存ぜられざる由。謙信も、和泉守に分別あらば、越後七郡に、合ふ者はあるまじきと申されしとなり。向ふ所、鉄をも通すべしと、存ずる程の者にて候由。総じて奇妙なる者にて、或オープンアクセス NDLJP:84る時、善光寺門前を通るとて、説経者に行逢うたるに、柿崎が馬、繋の長柄の傘に驚く事、度度なり。和泉守、彼者が姦人たる事を察し候て、馬の前にて誅戮し、説経者の傘の柄を破り候て見る。謙信より数通の謀之あり。上杉家中村山美作守隠謀にて、武田家に内通の事、露顕する故、謙信より村上を誅せらるゝの時、柿崎が功者を、世間にて褒美しける。斯様なる者にて御座候。

一、千坂対馬守源清胤  廿五将

上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。忰二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守才覚にて、千坂が家人満願寺千右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の頃、名を改め、千坂対馬になる。則ち今の千坂兵部が父なり。

一、直江大和守源実綱  廿五将

直江入道酒椿が子にて、童名神五郎といふ。天文二十年に、飯沼頼清出仕之なきに付、謙信より直江を遣し、頼清を退治し、其旧領を神五郎に給はり、大和守と号す。幼少の時より、謙信左右にありて、度々の事にあひたる者に候。川田豊前守・吉江紀四郎・直江大和、出頭人の由に候。景勝代に、毛利名左衛門と申す者意恨を、誠に是非の語なし。春日山城槿の間と申す所にて、直江闇討にせられ候。其時、専柳斎と申す儒者も、毛利に討たれ、名左衛門をば、登坂角内と申す侍、討止め申候。大和守、子之なきにより、越後三坂の城主桶口与三左衛門が二男与六と申す者に、一跡を申さるゝに付、直江山城守兼継と申すは是なり。山城守は、高き大将に候へども、謙信代を勤め申さず候に付、廿五将を除き申候。此兼継は、木曽義仲の四天王桶口次郎兼光が末孫なり。直江は、越後に久しき名字にて候。

一、竹股参河守源頼綱  廿五将

父は筑後守春光と申候。永禄四年、川中島合戦以前より、北国・関東大戦に、一生押付を見せ申さず、清名の大将の由に候。中にも川中島後度の戦に、馬に放れ、長刀を以て働き候由。其時は大方手を砕き、采配を、胸板の宮内に入れ、手柄仕候。景勝代に、越中魚津の城に籠り、信長公を押へ、佐々成政・柴田勝家と、二年の間戦ひ、兵糧尽き、天正十年六月二日、魚津城落城オープンアクセス NDLJP:85の砌、城中に自害、残念の至。中にも此竹股、忠義を励まし、名を末代に残す。只今の竹股三十郎・同権左衛門・同平左衛門・同政右衛門と申す者の先祖にて候。此竹股朝綱秘蔵の刀に、名誉の霊劒あり。謙信へ進上、殊の外秘蔵なり。作は備前兼光なれば、実名に竹股兼光と号す。弘治二年三月廿五日夜、川中島合戦に、信玄の味方討死の死骸の中に、一匁玉の鉄炮を持ちながら切伏せられたる者あり。其持ちたる鉄炮の筒、二の目当りの所を、三分二切放ちあり。甲州方見て、疑もなく、謙信の竹股兼光にて候。切りたる所見事なりと、沙汰せしなり。希代の大業物なり。景勝代に、京都へ遣し拵へ、直に登せ、一年程出来して、越後へ来る。景勝輒ち諸臣をして披説あるに、二代目の竹股参河守見て、是は似せ物にて候。元の兼光にてなしと申す。景勝、其仔細を尋ね給ふ。参河守申上ぐるは、元の兼光は、脛巾金一寸五分あがりの鎬に、指表より指裏へ、髪条の通る程の穴ありしが、今此刀になしと申すに付、京都へ使を登せ、石田治部少輔へ内証を申し、吟味穿鑿するに、清水坂の刀商人盗みて、其代に新身を以て、景勝へ進上せしとなり。同類廿二人露顕し、秀吉公仰付けられ罪し給ふ。元よりの正直の竹股兼光の刀、景勝へ戻し、竹股持参して、件の穴へ、馬の毛を一筋通し候て、御目に懸くる故、景勝も、希代の事に存ぜられ、弥〻秘蔵し給ふ。後、殿下秀吉公の御所望ありて、景勝献上。二尺九寸ありて、丈夫なる刀なれば、秀吉公御秘蔵ありて、秀頼公へ御譲り、摂州落城の時、和泉・河内の中へ持ちて落ちたりと、沙汰に付、秀忠公御尋の所、若し持出で候者之あらば、黄金三百枚下さるべしと、仰出され候へども、出で申さず候由。

一、大熊備前守平朝秀  廿五将外〈此大将武勇は、世に□れ候へども、忠孝の道薄き故、謙信も一通りの将と存候。〉

越後にて名家なり。殊に謙信幼少にて、橡尾籠城合戦の砌、本庄美作・宇佐美駿河同前に、忠戦軍功あり。城織部資家も、余五将軍維茂の末、越後にて名家なり。是も謙信幼少の時、軍忠あり。後には両人とも越後を立退き、甲州へ奉公。大将にては剛将なり。

一、岩井備中守源経俊  廿五将

信州飯山の城主なり。謙信の小姓立にて、見事なる男にて、尋常の大将にあらず。気高く度度武辺、世人に称せられたる将、殊に智才分別ありて、名高き将なれども、謙信下知、度々もどき候程の将なり。其上数寄者にて、茶湯達仁なり。景勝代にも、度々軍忠あり。唯今岩井大学と申す者の先祖にて候。

オープンアクセス NDLJP:86 一、中条越前守平藤資  廿五将

法名梅坡斎と申候。是も大身にて、度々事に合ひたる者にて候。是は久しき名字にて候。右大将頼朝公・義仲・尊氏、其外良将の御感状之あり。古き家にて候。梅坡が働、委しくは存ぜず候。嫡子越前守景資は、謙信以来軍功。景勝代には、越中魚津城に入置き申され、信長公を圧へられ候。天正十年六月二日、佐々内蔵助成正・柴田勝家・前田利家に攻められ、魚津落城。中条越前守・山本寺勝蔵孝長・竹股参河守朝綱・安部右衛門・吉江喜四郎・石江采女・川田豊前守長親と一所に、討死仕候。其越前が嫡子与次郎と申すは、会津へ所替の時は、米沢鮎貝城に入置かれ、唯今の中条兵四郎と申す者の先祖にて候。

一、山本寺勝蔵藤原孝長  廿五将

父は伊予守常高といふ。代々越後不動山城主なり。度々勇功あり。殊に高家にて候。上杉家の礼式にも、第一武田主馬頭信玄二男龍室勝道の子孫なり。二番は、上条弥五郎・上杉入庵嫡子にて、畠山下総守義直兄なり。只今畠山備前守曽祖父なり。三番、山本寺勝蔵と定あり。此勝蔵は、天正十年六月二日、越中魚津城にて自害仕る。唯今勝蔵と申す者の先祖にて候。

一、長尾権四郎藤原景秋  廿五将

上州白井の住人、上杉の家老の随一なり。先祖より度々の戦功、忠節の誉之あり。委しき事は存ぜず候。天文年中、川中島以来、所々軍功之あり。右より長尾・石川・千坂・斎藤は、上杉家の四家老にて、和久・石川は、唯今之なく候。

一、吉江中務丞源定仲  廿五将

上杉家代々の旧臣なり。先祖吉江小四郎政房事は、上杉民部大輔憲顕の家将なり。観応二年二月廿六日、摂州武庫川の堤にて、高越後守師泰を鎗にて突落し、首を取りたる事、太平記廿九巻に見えたり。吉江織部は、天文十六年に、長尾晴景と謙信、柿崎の下浜にて合戦の節、城織部・鬼小島弥太郎と一所に鎗を合せ、敵軍を突崩し、手柄あり。其外軍忠度々なり。唯今吉江監物と申す者の先祖にて候。


一、志田修理亮源義分  廿五将

六条判官為義の三男志田三郎先祖義憲後胤なり。越後にて代々の勇功の誉あり。父源四郎義時は、川中島大戦に討死仕候。嫡子志田修理亮、景勝、会津へ移られける時、出羽国大宝寺オープンアクセス NDLJP:87と申す城の城主。此修理亮も、度々手柄、場数の大将にて候。唯今志田助十郎と申す者の先祖にて御座候。

一、大国修理亮源頼久  廿五将

越後にて久しき家なり。源三位頼政の弟源蔵人頼行が孫にて、三郎頼連、初めての越後大国保を領知し、代々相伝す。武功の家なりと申伝へ候。此修理亮は、謙信幼年の時より、軍忠之あり、場数の大将にて、一生押付を人に見せ申さず候。頼久が嫡子参河守、男子之なく、直江山城守弟を、名跡に申付けられ候。此参河守も勇将なり。去り乍ら短命にて、山城守名跡、大国但馬守と申候。会津にては、南山の城主二万四千石の城主にて候。後、兄山城守と不和にて、立退き申候。定勝代になり、但馬守縁の者を呼出し、名字取立てらる。只今大国左門と申す子孫有之候。

一、加地安芸守源春綱  廿五将

下越後を領し、上杉家代々の軍功あり。先祖は宇多源氏にて、佐々木三郎盛綱より出で、鎌倉右大将家より、軍忠に依りて、越後の加地の庄を給はり、春綱に至りて、武命尤も高し。春綱男子之なきに付、天文年号の時、初め上杉定実の御下知にて、長尾為景の末子にて候謙信を、加地の養子に定められ候へども、謙信合点なし。後春綱男子出生、家督相続す。久しき家にて候。頼朝公・新田義貞・尊氏公、其時の良将の御直判の御書、数多之あり。春綱、謙信の代、軍功所々に於て、伸べ尽し難しと申す事に候。謙信幼年の時に候。嫡子の加地但馬守秀綱、是又強将。謙信代に、軍功場数之あり。謙信逝去の後、景勝と三郎景虎と家督争ひの時、景虎に一味して討死。夫故に断絶の所、逝去の後嫡子弾正大弼定勝、天性仁徳深き大将にて、家久しき功臣の子孫、牢人となり、他国へ行きたるを召帰して、再び上杉家人と仕度き旨申すに付、加地家は越後にて、久しき名家なれば、何卒子孫を尋返したくと、畠山下総守義真へ相談あり。義真色々才覚ありて、尋ねらるゝに、関ヶ原御陣の前、越後にて、一揆を起し、堀丹羽守直寄と合戦し、討たれたる加地右馬介景綱が子、山伏になり候て、越後に居たるを、義真が跡〔〈脱字アルカ〉〕出し、吟味仕候処、加地安芸守が子孫に、疑なきにより、其由を米沢へ申遣し候に付、定勝悦び、召仕へらるべきになり、髪をはやし申候内に、正保二年九月十日、定勝四十二歳にて逝去。依りて彼山伏、殊の外力を落し、又越後へ帰り申候。此故に、加地の家名断絶オープンアクセス NDLJP:88仕候。

一、直江山城守兼続

木曽義仲卿の四天王桶口次郎兼光の末なり。天正五年丁丑五月、直江大和守実綱、喧嘩にて相果て、男子之なきに付、越後与坂の城主桶口三左衛門一子与六郎、其頃は謙信の出頭の小姓なるを、直江与六郎に改め、大和守壻養子申付けられ、実綱が一跡相続。後山城守兼続になり、景勝・定勝代まで、万事国の仕置・公事沙汰・訴訟論まで、山城守一人にて、侍の人払刀を侍に置き、百姓・町人は、白洲に呼び対決させ、侍をば座土に置き、物和らかに尋ね、何事にても大方当に捌き、賞罰を行ひ、家中の訴訟も、手形証文の判形も、兼続一人にて事済み申候。山城守、学文多智分別者故、順路に候事、元より兼続の側にて生立ち、武功も重なり候故、世の覚え、人の用も厚く、秀吉公へ出頭し、大御所様・秀忠公出頭。或時聚楽御城中に於て、諸大名列座の中にて、伊達政宗、懐中より金銭を取出し、直江に見せらる。之を見給ひ、城州黄なき事、斯様に金銭にて銭をひ候事、見事に候事かなと、山城守へ渡し見する。山城守扇子を抜き、少し開き、金銭を請けて、はね返し見て、実に珍しき物にて候と申さる。政宗見られ、城州手に取りて見候へといはるゝ時、山城守申し候は、私事、輝虎目金にて、用にも立つべしと思はれ、景勝へ附けられ候。何時も采配を執り申す手にて、斯様のむさき器は、拾ひ申す者にて之なしと申し、金銭を、畳の上へ、扇より移したる故、政宗赤面せられ、一言の返答なかりし由。武辺場の事は、諸事に見え申候故、荒増あらまし書上げ申候。永禄年中は、幼年故、謙信の陣中には、軍功に出で申さず。景勝代に、戦功多き故、輝虎の備大将の内、廿四将除き申候。右廿四将は、謙信専ら弓矢の盛の頃、用ひ候将を書上げ、此外諸大将・物頭大勢有之候へども、誠に勝れ候大将を廿四将、別紙に書上げ候。此兼続は、当御両公様にも、御覚の仁、殊に種々噂有之候仁故、一紙に書上げ申候。

伝に、兼続幼少の時、謙信姉景勝母公仙桃院殿に、小姓にて、奉公仕候由。会津にて三十二万石を領し、五万石をば、諸侍輩に配分、一万石の私領を、又五千石分けて、家中へ与へ、身分五千石なり。

一、景勝

小男にて、月代をびんぐしなりに差し、面豊にして、両眼勢人を凌ぐなり。生得大剛、一大将オープンアクセス NDLJP:89軍なり。先年既に敵に喰付き、鉄炮矢叫・鬨の声、天地を響す。諸人片唾を呑んで、手に汗を握る時、幕の内にて休み居て、高鼾かき、何とも存ぜず、臥せられ候様なる大勇なり。素性言葉少き大将にて、一代笑顔を見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる。或時は、常に手馴れて飼ひ給ふ猿、景勝の悦びて置き給ひける頭巾を取り、樹の上へ昇り座して、彼頭巾を冠り、手を扠へて、座席の景勝へ向ひて、黙頭したるを見て、莞爾と笑ひたるを、近習の者共見たるとなり。推前隊の時は勿論、或は上洛、或は江戸参府の時も、籃廻りは申すに及ばず、供の同勢までも、小声咳声せず、数百人の上下無言にして、足音計りにて通り給ふ。行儀正しき事、世に稀なる将に候。富士川の船渡にて、供人過分に乗りて、川中にて船沈まんとせし時、景勝怒りて、節を振上げ給ふと等しく、川中へ皆飛込み游ぎ渡り、召船恙かりしとなり。士卒共景勝を恐る。威勢此の如く、長旅の途までも、馬に乗る声の外無之候。信貴野口にて支寄り、見物に、近習非番の輩忍びて来りし跡より、景勝一騎にて巡見に来り給ふ。見て咎められんと思ひ恐れて、鉄炮のふる程来る竹楯の外へ出で、隠れたる由に候。敵より、景勝を恐れる事に候。大御所様家康公も、昔より謙信を御尊敬にて、大給の松平和泉守家来を御使にて、度々謙信へ仰通はさる。輝虎も、家康公を大切に存ぜられて、一廉用に立てらるべき覚悟なりしが故、景勝へも御懇志、殊に律儀者と思召し、殊の外御懇なり。景勝、会津へ所替の時も、鉄炮五十挺・羅紗二十間・樽肴添へて、御祝遣され、急度ならせられたる御使者なり。天下御一統の後も、景勝出仕の砌は、御老中迎に御出候。其上景勝は、人多き事が嫌なりとて、殿上の間に屏風を立て、其内に罷在らせらるべしとの上意、御礼も中壇にて、殊の外御尊敬。途中にて景勝御目見せられけるには、定めて御籃に居り、御下乗ある事度々にて候。管領家とある事なる由。景勝も、家康公・秀忠公を、中々大切に被存候。御影にても、あだには不奉申、事々しく崇敬仕候なり。其前秀吉公御前にて、景勝と加賀利家と御礼の次第相談、既に刺違へらるべき所を、堅く中へ入り取扱ひ、秀吉公上意にて、景勝前官の中納言なれば、御礼を一番致され、事済む。其時景勝、甚だ不興に候。利家は菅家にて、儒林の家なり。景勝は上杉にて、勧修寺の末孫名家なり、管領家なり。秀吉公へ上覧に入るべしとて、上杉の系図并に代々の宣旨・院宣・公方御内書抔、国元へ取りに遣さるとなり。秀吉公兎角の上意なく、翌年利家を、大納言に任ぜらるとなり。

オープンアクセス NDLJP:90一、近年世間に出で候記録、上杉家にて、曽て存ぜざる事多し。右川中島大戦、公方家義輝公へ註進状申上候、当時、世上にて、上杉家、甲州と一戦の儀、大きに相違仕候。川中島一戦の初め所は、別書に詳に申上げ候通に候。

一、信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏にて、伊予守頼義の舎弟陸奥守頼清の嫡子白河院蔵人顕清、始めて信州に住居。顕清四代の孫蔵人為国、其嫡子村上判官代基国の後胤なり。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の舎弟井上掃部頭頼季三代の孫、高梨一統須田相模守親満も、同一家なり。島津左京進親久は、頼朝公御子島津忠久が後胤、何れも信州の豪家なり。右の輩、甲州武田大膳大夫晴信に討負け、皆越後へ落ち来り、長尾景虎を頼み申候。中にも、村上義清は、多年武田晴信と取合ひ、遂に打負け、天文廿二年六月、越後へ落ち来り、景虎を頼み、本領坂本へ還城本意の事望まれ、景虎、此年五月、勅使・将軍使ありて、景虎を弾正少弼従五位下に任ぜられ、依りて御礼として上洛なり。景虎、則ち参内仕候。昇殿を免され、忝くも玉顔を拝し奉り、天盃。又公方義輝公へ御目見、種々御懇情ありて、五月帰国候処、六月、村上義清落ち来り、景虎を頼み候。彼の高梨政頼・井上清政・須田親満・島津親久・栗田清野以下、追々越後を、加勢合力乞ひ候に付、十月十二日、田浜にて勢揃。時に村上左衛門尉義清四十三歳、景虎十八歳、武田晴信廿七歳。之に依りて謙信、両眼に涙を浮べ、若年の某御頼み承知。〔〈以下欠字〉

一、川中島一の合戦場、謙信と武田晴信大戦は、以上五度なり。天文廿三年癸丑十一月廿八日、下米宮合戦、次に天文廿三甲寅年八月十八日、原町合戦、同八月廿六日上野原の戦、次に永禄四年辛酉九月十日原合戦、是以上五度の合戦を、一箇度に混雑して、沙汰仕候。

一、川中島五度の合戦、先づ初めは、天文廿二年十一月廿八日、川島中の下米宮合戦、是第一箇度なり。此年謙信、初めての上洛。是は去年天文廿一年五月に、弾正少殉従五位下に任ぜられし御礼なり。上洛は、天文廿二年丑二月景虎越後発駕。同年五月帰国。二月、参内仕候。昇殿免され、玉顔拝し奉る。天盃を下置かれ、広橋中納言国光に仰付けられ候て、御饗応下され、勾当内侍宣下せられ、禁中諸殿、残らず景虎、拝見せらる。公方義晴公へも拝謁。五月、景虎、越後へ還国の処に、前書の通り、義晴を初め、信州衆武田信玄に討負け、越後へ落ち来り頼む。此故に、初めて、天文廿二年癸丑十一月十九日より、景虎、信玄と対陣、廿七日まオープンアクセス NDLJP:91で迫合ありて、廿七日、景虎より使者、其趣、景虎身不肖に候処、先祖より関東の管領職、世以て諸将の知る処なり。然るに保元・平治より此方、強きは弱きを取り、或は逆心、一日片時合戦の止む時なし。是皆私義の致す所、讐にあらず、国郡を取らんのみなり。此度武田と一戦に及ぶ所、是非にあらず。村上義清を始め、越後へ落ち来り頼み候に依りて、一戦なり。殊に武田家は、村上・島津を始め、皆一体より分り候家なり。何れも他家にあらず候へば、互に合力こそあらめ。同家として国郡の争、何方に非義ありての意趣は存ぜず候。先づは私の存立と心得候。然し弱を捨て候も、武辺の恥づる所なり。依つて一戦に候へば、明廿八日、決定の一戦と申遣し候。武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・保田三郎左衛門・帯兼刑部を始め、五十余を討取り、則ち此旨を京都へ言上。大館伊予守晴忠披露にて、公方義藤公へ註進。是れ初めての川中島合戦なり。其翌年、天文廿三年甲寅八月十日より、謙信川中島へ出張、信玄と対陣。去年の合戦にて見え候に付、堅く守りて対陣仕り候。此時謙信と信玄と直の太刀打、信玄、手を負ひ申候。御幣川の中へ、景虎乗込み候ての太刀打に候。世上にては、信玄、床机に腰懸け居り候所へ、謙信乗付け候を、信玄、太刀抜き候隙なく、信玄、軍配にて請けられ候と、沙汰有之候。大きに相違仕候。信玄、古今の名将、殊に廿八歳、盛の大将、中々左様なるうつけの大将にて無之候。誠に左程に取込には無之候。太刀にて、両将の太刀打にて候。然る所、弟の武田左馬助信繁来りて押へて、信玄、御幣川乗切り、味方へ乗込み申され候。景虎は、左馬助信繁を手に懸け、討取り申候。遂に芝居去り申さず候。甲州方討取り候事、凡そ三千二百なり。此時、越後方大将分高梨源五郎討死。世上にて、武田左馬助信繁を、村上義清討取ると之あり。大きに虚説なり。謙信自身に、左馬助を犀川の岸際にて、典厩を押詰め、川へ切落されしを、越後方梅津宗三といふ者、典厩の首を取るなり。むさしといふ途なり。此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸、赤銅作りに候。只今当家に相伝有之候。異名を赤小豆粥あかあづききうりと号し候。是れ天文廿三年甲寅八月十八日なり。謙信太刀に、切込跡有之候。景虎も三千余討死。

一、第三度目川中島合戦は、弘治二年丙辰三月廿五日夜なり。

一、第四度目の川中島合戦、弘治三年丁巳八月なり。信玄と景虎、十日余対陣。頻に謙信、合戦を望めども取合はず。同月十六日には、上野原へ信玄引取る。

オープンアクセス NDLJP:92 一、第五度目終の川中島合戦は、永禄四年辛酉八月初、信州へ謙信出張、西条山に陣を取り、西条山と筑摩川との間、細道一筋之ある由。是は貝津と下米宮の通路ともいふ。越後勢、西条山に陣取り居り候故、通路は切れ候由。又西条山の下に、赤坂山と申す所之あり、是は貝津の方へ出づる所と承り候。赤坂の下西条山の後より、水流を堰上げて、堀の如くに広く掘らせて、貝津の西条山を攻め候時、防ぎ候便りに仕候由。

一、酉八月廿九日、信玄、下米宮より、貝津へ御移りなり。

一、天文廿三年甲寅八月十八日卯の刻より、終日十七度の合戦なり。信玄方二万六千の内、手負二千八百五十九人なり。討死三千二百十人なり。

一、越後方、手負千九百七十九人、討死三千百十人なり。

一、十七度の合戦、十一度は越後方勝軍、六度は甲州方の勝軍なり。謙信旗本を破られ候へども追返し、元の芝居を張り候は、越後方に候。

一、永禄二年己未四月に、謙信上洛、并に公方義輝公へ拝謁。一字下され、景虎を改め、輝虎と号し、網代の塗輿・御紋御免、并に文の裏書まで御免、還国なり。管領職は辞退。朱柄の傘・屋形号御免、三管領に準ぜられ候。此時謙信より、武田家へ、上洛に付、謙信帰国までは、弓矢例儀相延し給ふ様の、御頼み遣され候処、武田家にも、尤の由にて、御承知ありて、使者帰り候処。何と致し候や、謙信の発駕間もなく、武田の御出陣に候。委しき事は、別書の通り、川中島大戦に記上候に付、日張のみ書上げ候。

一、謙信上洛帰国以後、武田家と大戦、八度有之候処、将軍家へ註進無之候。

一、先年より五度の大合戦、天文廿二年十一月より、永禄七年まで十二年。其中毎年に、輝虎、川中島へ出張、晴信と対陣度々なり。

                         上杉弾正少弼内

                              清野助次郎

  慶長二十年寅時に元和元年三月十三日

                              井上隼人正

右両将一冊は、当家中古人共書置きし所、此度就御尋、写し申候て、差上候以上。

右は先年、弘文院春斎被仰付、日本通鑑御精撰被遊候に付、則酒井雅楽頭忠清奉にて、上杉家より被差上候。

  寛文九年五月七日 千賀源右衛門

オープンアクセス NDLJP:93 一、千賀源右衛門は、酒井修理大夫家来にて、弘文院春斎の門弟なり。千賀語りて曰、

一、江戸に於て、学士弘文院春斎、一日酒井匠作宅へ参られ、物語申されしは、本朝通鑑撰び申候に付、追つて成就致すべく候。夫に就き、信州川中島に於て、信玄と謙信合戦の次第、上杉家へ御尋ね候処、上杉家より記録差上げられ候。其旨趣説と甲陽軍鑑と、年号月日・合戦の体も、大きに格別相違之あるに付、何と事載せ申すへく候や、否、上へ伺ひ申すべく候。彼是相談の節、御旗本歴々も、信玄家来筋目の衆之ありて、我等に申され候は、上杉家書出の通りに任せ、通鑑に記され候はゞ、日本流布の甲陽軍鑑偽になるのみに非ず、甲州衆の軍法の瑕にもなるべき軍鑑を編立て候者は、近代の偽撰にてもあり、高坂弾正と之ある文意まで、虚言の様に成行き候へば、年久しく並置きし甲州流の軍法、徒事に罷成り候。同甲陽軍鑑の廃せざる様にと、何れも申され、其段も上聴に達す。之に依りて、甲陽軍鑑の旨趣と、上杉家書出の旨趣を並記する由、春斎語られ候。

一、南光坊大僧正天海御物語に、此頃甲陽軍鑑といふ書物を板行に付、之を見るに、川中島合戦に、信玄と謙信と、太刀打の年号月日、時場所、大に相違、其上信玄、団扇にて請け候と之あり、大なる虚説なり。其時分我等は、会津の不動院に住し、信玄の祈祷師たり。天文廿三年八月、甲州へ檀那廻り行く所に、信玄は川中島にて、謙信と対陣と聞き、直に川中島へ見廻りに行く。則ち八月十七日なり。信玄に対面し、遠方見廻に参られ、喜悦仕候。但一両日に、輝虎と合戦之あるべく候。貴僧は早々に帰られ、来春甲州へ、緩々と参らるべしとあるに付、我等は帰路にて思ひ候は、大檀那の、近日大事の合戦に、取詰と申定められては、如何にも我出家の身分にも、聞捨にして帰るは、道理に叶はずと了簡し、夜通しに立帰り、下米宮に一宿し、翌十八日の合戦を、山へ上り、目の下に見物する。御幣川の中へ、両大将乗込みて、輝虎も太刀、信玄も太刀にて、暫く戦ひ候へども、敵味方押隔てられ候。其夜信玄小屋へ、我れ見廻り候へば、信玄驚き、御坊は帰られ候かと存候処、立帰り申されしと、殊の外の褒美なり。其時信玄は、手を負ひて寄懸り居られ候。我等申候は、源平両家の戦以来、大将と太刀打ある事、古今承らず候。扨々御手柄と誉め候へば、信玄俄に顔色替り、機嫌悪しく、謙信と太刀打は、我等に非ず。鎧甲一ほさせ候。信玄真似の法師武者なり。知らぬ人は、信玄と見申すべく候。中々我等にて之なく、必ず奥州伊達、又は会津佐竹にても、左様の事語る事、無用とオープンアクセス NDLJP:94申され候、さり乍ら我れ山の上より、近々と見たりと申され候。中々見違之なしと仰せらるるなり。

一、其後、江戸御城にて、横田甚右衛門咄に、謙信は、太刀にて切懸けられ候に、信玄は床机に居て、団扇にて請けられ候と語る。慈眼大師、横田を御呵ありて、甚五郎は、未生以前の事を何とて存ずべく候。我等は直に見たるに、御幣川へ乗込み、馬上にて、謙信・信玄共に太刀打なり。其節、我等四十五歳にて、慥に見候と、仰せられ候由。

一、伝に曰、天海大僧正慈眼大師は、足利公方法住院義澄公の御末子、母は会津葦名盛高の娘。永正七年に誕生。御父義澄公薨逝に付、母と同道、会津へ下向。外祖父の日円寂、百三十四年なり。

一、佐野天徳寺は、江戸御城にて、上杉弾正大弼定勝に向ひ、御祖父謙信の御武勇の威勢は、とても申されず候。我等若き時分に、佐野は御旗下にて候。輝虎越後より、上州厩橋へ御着、二三日人馬を休め、扨関東衆へ打つて出て、堅横に働き給ひ、或は五十日或は七十日の間は、大雷夕立の如く、敵も城外へ出づる事叶はず。扨謙信は、働を仕舞ひ候て、厩橋へ帰城候と、方々の仕置、十日余ありて、越後帰陣せらるゝと、謙信は猿原を過ぎて、越後へ入り給ひたる由の、一左右を聞きて、関東の北条方・武田等の敵城は、申すに及ばず、上杉家旗下の城々も、安堵の思をなし、最早心安しと悦び候。輝虎、越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れ、安き心なしと語られ候。其座に、酒井讚岐守忠勝・阿部対馬守重次を始め、列座の大名之を聞き、感ぜられたる由。

一、相応大将仁守り候家臣 木戸元斎

元来鎌倉御所持氏卿の御代、木戸駿河守が末孫なり。久しく武州四尾城に差置かれ、忍の成田長泰、手柄ありとは雖も、委しき事は承らず候。只今、木戸監物と申す者の先祖にて候。近年永井信濃守尚政家人佐川田喜六郎は、昌俊と申候は、此元斎が小姓立にて候。

一、一万四千石領知仕候 泉沢河内守年親

越後にて、久しき家にて、謙信時代手柄之ありと承り候。委しき事は存ぜず候。会津にて景会津にて景勝代在城の時、此の如くに候。

一、一万四千石領知 清野助次郎

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一、一万千七百石領知 栗田刑部少輔

皆信州先手なり。栗田は慶長五年の春、会津を立退き申候。清野が末は、只今清野甚兵衛と申候。

一、九千石領知市川左衛門尉慶長十九年十一月廿六日、摂州表信貴野合戦に討死仕候。只今市川孫次郎と申す者の先祖只今市川孫次郎と申す者の先祖にて候。其外軍功有之候由に候へども、荒増あらまし申土候。

一、新発田尾張守長敦

是も越後に久しき名字にて候。死去時分、嫡子無之故、弟因幡守治時に、一跡を申付けられ候。此因幡守、剛強第一の兵にて、一代の武功十度あり。小田原へ謙信働かれ候節、明日此表を引払ふべしとの備定を、因幡守十六歳にて之を見て、備配宜しからずと申候。謙信以の外不興し、散々に叱り候へば、因幡守少しも屈せず、左候はゞ、御暇を下され候。小田原へ入り、北条氏康人数を連れ候て、越後の跡を付け申すべく候。此御備にては、私討勝ち、酒勾川より此方にて、屋形を討止むべしと申す故、謙信機嫌直り、因幡守了簡の如くに、備配仕直し、治時殿を申付けられ候処に、中々手柄なる殿の仕様と申伝へ候。天正十年より、景勝に対し、逆心仕り、道和斎と共に、五十公野・新発田両城に籠り罷在候。退治の為め、天正十一年十月十五日、景勝出馬致され候。先手黒川備前守・大国但馬守・長井丹後守・市川左衛門・新津丹波高梨摂津・木戸監物・須田相模・千坂対馬三千余、新発田に切立てられ、於生格と申す所まで、敗軍仕候。景勝旗本まで、因幡守乗懸け、大軍に及ぶ所を、上条義春は、景勝前備に立ち候。景勝に於ては、日の丸を取り、三十間程先へ押出し、上条手廻の侍共下馬仕らせ、鎗を取り、膝上に乗り、芝居に下り敷きて、備を立て候に付、因幡引返し、引取り候を、追討に仕候。景勝先手、何れも立帰り、五十公野下まで追討仕候。次年八月十八日にも、景勝出馬にて、直江、謙信先手を仕候処、新発田切懸り、先手敗軍仕候を、上条義春、二の先手にて□軍の時、少し高き所へ旗を押立て、横合を入れ崩し、佐々木の川向八幡といふ所へ、治時を追討ち仕候。因幡守合戦の度々、景勝先手を切崩し、猛勇を振ふ事、鬼神の如し。五箇年取合ふ。天正十五年、五十公野并に新発田落城。其時も因幡守備前、兼光三尺三寸の太刀を抜き、染月毛の馬に乗り、精兵七八百にて、景勝先手を数度切立て、遂に色部修理が備へ乗込み討死。色部手へ、因幡守オープンアクセス NDLJP:96首を取り候。但因幡守弟に、小知を申付けられ、其末孫を、上家にて新保と申候。

一、山谷孫次郎親章

世上にて、鬼山谷と申候。謙信近習にて、出頭仕候由、幼少の時より、心入人に替り、絶たる者にて、謙信も、末々は能き者ならば、武功の者になるべしと申され候由、川中島五箇度の内にて、永禄四年の軍にも、脇備を、年若にて仕候。唯今、山谷治兵衛と申す者の先祖なり。北条氏康、氏政と和し、謙信へ申越され候事、此山谷所へ申来り候。余多状有之。孫次郎、後玄蕃允と申候。

一、村上義清

上杉家にて、さして働も承らず候。其嫡子源五郎国清、謙信代・景勝代迄、上杉家に御入り候。米沢へ景勝移られ候節、牢人になり、難波御陣の時も、牢人にて、京都御入り候。其娘子を道楽と申す。只今は、水戸御家に有之候と申候。村上は、信州の屋形殿にて候へども、上杉家にて、側を御勤に付加へ申候。

一、大川駿河守

相応の勤仕り候由。五箇度の川中島の戦に討死仕り候。

一、鉄上野介安則

元越後上田の者にて、長尾政景死去、景勝幼少の内は、栗林肥前守・宮島参河守・上野介三人して、上田を引廻し、度々働あり。景勝、春日山城へ移り、謙信家督を継がれ候ては、上田衆も府内へ参上。上杉譜代の馬廻衆と、同前に候。上野介に男子なき故、島倉内匠を、名跡に申付けられ、内匠が子鉄孫左衛門と申候。志貴野合戦に走廻りありて、直江山城守執奏仕り、秀忠公将軍の御感状下され候。只今鉄孫左衛門と申す者の先祖なり。上野介を、安芸守とも兵部とも申候。

一、島津左京進勝久

信州の侍、法明月下斎と申候。武勇の者にて、度々働あり。歌道の名ありて、能き侍と承り候。月下斎は、左京進と申し、佐渡陣に討死仕候。此月下斎は、新発田陣に、因幡方へ使など仕り、関ヶ原の陣・前会津陣の節、家康公、白河口より御寄と申す時、一番合戦は、安田上総介、二番合戦は、島津月下斎と定められ候。唯今の島津玄蕃先祖にて候。

オープンアクセス NDLJP:97 一、鮎川摂津守

本庄が一族、家来の如くなる者にて候。本庄房長と申す者、死去仕候て、繁長誕生仕り、幼少に候故、鮎川逆心仕候。繁長十三歳にして、鮎川と合戦仕られ候由申伝へ候。繁長の五番目の子を鮎川になし申候。只今、鮎川孫大夫と申候。

一、下条駿河守

一、安田治部

如何なる働に候や、会津へ所替の時は、二本松の城に置かれ候。只今下条治部左衛門と申候。安田は平民にて、謙信先祖より奉公仕候。度々軍功を顕し、大剛の兵なり。永禄四年九月十日、川中島合戦にも働き勝れ、謙信感状取り申候。只今安田新六郎と申候。

一、長尾遠江守藤景

武功の者に候。是も謙信を、度々もどき申候程、事共申すに付、気に背き申候。家康公より、御内通有之。秋葉山叶坊・熊谷小次郎を御使にて、召すべしと仰せられ候へども、辞退仕候。是れ謙信より御家への御使には、村上源五国清・川田豊前守長親二人より相勤め申候。御家よりは、松平和泉守家乗・石川日向守家成、或は御書相勤め申され候。唯今川田玄蕃は、長親が同名の一類に候。

一、川田軍兵衛

後摂津守と号す。是も江州森山の者なり。謙信に奉公、数十度の戦功ありて、大身に取立てらる。景勝代になり、弥〻軍功ありて、実に出頭なりしを、秀吉公より、木村弥一右衛門を以て、越後を引切り、京都へ越え、奉公致候はゞ、古郷に候へば、江州半国を与へんと、度々御内意にてあり。之に依りて、上杉家の恩を忘れ、御誓約申候により、景勝聞届け、天正十四年五月廿一日、初めて秀吉公へ御礼として上洛に、態と川田摂津守を供に召連れらるべしと申され候所、秀吉公より、木村弥一右衛門迎として、越後まで遣され候。又加州まで、石田治部少輔三成を遣され、宿々の御馳走斜ならず候。摂津守は与力手前騎兵四十騎、鬼葦毛といふ名馬に乗りて、供致し候所、越前国敦賀の禅寺に一宿ありて、京都より観世大夫を下され、大谷刑部少輔馳走あり。見物の場にて、直江大和守兼継承り、鵜枝九右衛門を以て、川田摂津方を討取り申すべき旨、川田豊前守長親に申付けられ、勇士十五人にて立挟み切懸け候。摂津オープンアクセス NDLJP:98守も、死狂に切つて廻り、三人切伏せ、其身十三箇所手負ひ、遂に討たれ申候。

一、西条治部

謙信・景勝代、共に働有之候。久しき家にて候。志貴野にて、景勝事仕寄場にて、景勝出で給ひ、此方も仕寄を付くべし、先発なる溝橋懸けよと、下知して帰られ、直江を始め、ぬるき人かなと、橋をも懸けず候。又景勝出てて、何とて橋を懸けぬと叱らる。西条申候は、只今にても、橋懸け候べしとて、即時に懸くる。橋を懸け畢へて、本の仕寄をば差置き、脇に土俵を置き、鉄炮を懸け候て、貝の次第に、土俵持来れと下知せられ、城方始めは、用心しけれども、此体を身て、上杉家は軍をすべきを知らずと、はかしき事はあらんと油断し、防ぐ人数を引入る。景勝、侮りて候処を見済し、貝を吹立つると、即時に本の仕寄場へ、土俵をひたと持寄するを、即時に付け、前の土俵を置き候所は、仕寄跡になる。翌日城方仕寄防ぎに出で、之を見て肝を消し申候。何れ謙信時代の将は、一くせづつ之あり。誠に御先君の御時代の将士将卒まで、能き御同類の様に奉存候。只今西条舎人と申候。

一、島津玄蕃允

島津月下斎が子なり。志貴野合戦に、敵三人と鎗を合せ、深田の中へ突落され起上り、又三人を突立て追返す。頻に麾を振切る計りに攻懸り、敵方大剛軍なり。依つて大御所様御感状下され候。玄蕃と申候。

一、荻田主馬

童名孫十郎と申候。謙信小姓立なり。後与惣兵衛と申候。景勝代に於て、本武者奉行なり。文禄の頃、景勝へ不足を申候て立退き、結城宰相秀康卿へ召出され、後越後へ御供仕候。主馬事、古侍輩の筋目なる故、城和泉、駿府にて様々執成を申上候。大御所様聞召し、其方親の意安こそ、越後に居たれ。其方は甲州にて生れ、上杉家中の事、何として知るべきなりと、詮方なき事申候。総て武辺の事は、其家に居て、見聞きたる人のいふが実なり。他国の事を又伝へて、又味方の事咄にては、疑はしき事なりと御叱あり。其座に畠山入庵・其子長門守居られ候に付、上意に、主馬事は、入庵存ぜらるべく候間、語り申さるべき旨なり。入庵承り、荻田は私組にて候。右は孫十郎と申せし時、越中陣にて、敵味方堤土手を抱へ、睨合ひ居り候時、一番に走り出で鎗を入れ、合戦を始め、手柄あり。三郎景虎と景勝と取合の時、北条丹波オープンアクセス NDLJP:99守程の武勇の将を、鎗付け候と、両度の武辺、其外は少しづつの事に候と申す。此時大御所様、扨こそ和泉が申分と、裏腹に違ひたり。さり乍ら景勝家にて、口を聞き候者にて之あるに、左様に小身にては、人がそつになり候に、越前の息子は、合点の行かぬ者共と、上意にて候故、荻田主馬に、越前にて、一万石下され候。

一、中条与次郎

越後にては、中条の城主、会津にては、鮎貝の城主なり。此中条家は、代々武功に候。此家中に、落合清右衛門と申すは、大剛の兵なり。天正十五年六月、景勝、新発田の城を攻めらるゝ時、八幡の岩より、敵一騎、赤縄懸け、鹿毛の馬に乗りて、馳せ出づる内に、城内へ、禁裏より扱の勅使書来るを、通じたくありて、何者にても生捕にせよ。其者に言含め、城中へ申遣すべき事ありといふ。誰が生捕申すべしと之ある時、落合、少しも思なく押来り出で、彼武者と引組みて、少しも働せず、生捕にして帰りける。皆々舌を振ひける。其場に、井筒女之助、井上三郎兵衛・宇佐美民部・川瀬対馬守・仁科孫三郎を始め、強将の兵十騎余り、馬を並べ居り候。清右衛門一騎抽んでたる働、世人感美す。此子孫、安藤右京進重仲方に有之候。

一、坂田采女

謙信より景勝まで、戦場相勤め申候。慶長十九年十一月廿六日、志貴野合戦の節、麾を胸板のくわんに納め、鎗を提げ、敗軍を追行く所に、城兵穴沢主殿助盛秀は、天下無双の長刀の名師なり。黒具足にて、長刀を杖に突立て、跨りて控へたり。坂田を見て、城兵穴沢盛秀と名乗り、坂田鎗を捨て、むづと組みて転び、上になり下になり、窪き所へ転び落つる。穴沢大男故、上になるを、坂田下より脇差抜き、二刀刺せば、刎返りて首を取り申候。謙信・景勝まで、戦場勤め、麾握り申候。家臣五十一人、并に所々城或は砦等に遣し置く。

一、越後本城春日山、信州・上野・下野・佐渡・美濃・尾張・関東の越後持分。加賀・能登・越中、是等の城々は、別けて弓矢の功者の家臣、見立て遣し置き候旨承り候。大城々にて働き候は、繁多に候間、書上げ申さず。姓名計り書上げ候。

一、松川大隅守・須賀摂津守・神藤出羽介・柏崎日向守・石坂与五郎・丸田左京亮・三股九兵衛・朝日隼人・庄瀬新蔵・戸狩権之進・大崎筑前守・矢尾田伊勢守・唐崎左馬助・満願寺隼人・長井丹後守・飯森摂津守・白杵□兵衛・諏訪部次郎右衛門・田原左衛門・小田切治部・清川十郎・元井日向守・庄オープンアクセス NDLJP:100新左衛門・上野源六郎・石坂采女正・平子孫太郎・菅谷大炊助・小中八郎・和田加兵衛・長野与三・寺島六蔵・亀田小三郎・若林九郎左衛門。右三十人は、謙信代の軍功多し。

一、西方院と申す真言宗の法師武者あり、度々の鎗を突き候故、〔異カ〕名を鎗坊主といひ候由。景勝より、皆朱の武具免され、一代に、四十余度の武辺に、遂に手疵を蒙らず候。六千石の知行請けず、一身は、蔵米五十石にて足り候由申し、戦場を楽みに仕候事に奉存候。

一、慶長三年、会津五十万石へ、景勝所替に付、所々手置き候節、謙信此方、武功の家臣等も病死に付、手薄に有之候間、蒲生家の牢人召出し候。

一、栗生美濃守  外野池甚五左衛門  岡野左内  布施次郎右衛門  北川図書  高木丹下  青木新兵衛  高木図書  安田勘助  小田切新左衛門  横田大学  正木大膳  武倉隼人  長井善左衛門  深尾市左衛門  堀源助

一、関東牢人 山上道及〈首供養度度仕候由〉  上泉主水〈武州深谷城主上杉左兵衛尉憲盛の老臣〉  東丹波守〈火車の指物〉

一、上方牢人 水野藤兵衛  宇佐美弥五右衛門  前田慶次郎

右の外数十人抱へ候へども、並々の者に付、除き申候。

右の内、此慶次郎、加賀利家の従弟に候。景勝へ始めて礼の節、穀蔵院ひつと斎と名乗る。其時夏なりしが、高宮の二幅袖の帷子に、褊裰を着し、異形なる体なり。詩歌の達者なり。直江山城守兼継も学者故、仲好し。山城守宅にて、最上へ出陣の節、慶次郎は、黒具足に、猩々緋の陣羽織、金のひら高の珠数を首に懸けて、珠数の房、金の瓢簞、背へ下るやうに懸けて、河原毛の野髪大したの馬、金の兜巾を冠らせて打乗り、三寸計りの黒馬に、緞子の〔〈二字欠〉〕にて、味噌・乾精を入れ、鞍坪に置き、種子島二挺付けて、乗替に付けさする。最上陣の退口に鎗を合せ、高名誠に目を驚かす。異形の風情なるも、□て敵味方感じけり。此時の姓名は、一番ひつと斎・水野藤兵衛・藤田森右衛門・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門、以上五人、一所に合する。此時に、最上義光、伊達政宗を一手に合せ、上杉勢の退を附慕ふに付、中々大事の退口にて、杉原常陸・溝口左馬助、種子島八百挺にて、防ぎ戦ふと雖も、最上勢、強く突立つる故、直江怒りて、味方押立てられ、足を乱し、追討に逢はん事、唯今の事なり。扨も口惜し。腹を切らんといひけるを、慶次郎押留め、言語道断、左程の心弱くて、大将のなす事にてなし。心せはしき人かな。少し待〔〈二子欠〉〕我等に御任せ候へとて、返し合せて、右の通り五人にて鎗を合せ、オープンアクセス NDLJP:101最上勢を突返し、能く引払ひ申候。後関ヶ原一戦、景勝、米沢へ移り候節、諸家にて招き候へども、望なしと申して、妻子も持たず、寺住持の如く、在郷へ引込み、弾正大弼定勝の代に病死仕候。連歌を嗜み、紹巴の褒美の句、数多く有之候。此一句も、褒美の句に候。

      賤が植うる田歌の声も都かな ひつと斎

謙信、

      霜満軍営秋気清  数行過雁月三更  越山併得能州景

      任他家郷念遠征

      月澄めばなほ静かなり秋の海

其後、越前細路木にて、

      野伏する鎧の袖も楯の端も皆白妙の今朝の初霜

越中の陣、魚津の城にて、初雁を聞きて、

      武士の鎧の袖を片敷きて枕にちかき初雁の声

右の外、一代詩歌最も多し。陣中にて、作多く候由。剛将にて候へども、風雅なる人にて、在京両度ながら、一条関白兼冬・西園寺右大臣公朝の方へ出入り、三条大納言公光に、源氏・伊勢物語、講釈聞かれ候由。千宗易に、茶道等御学びなされ候由。乱舞・猿楽も嗜み、自身、能・笛・太鼓も勤め候由に候。

 不識院殿権大僧都法印謙信心光宗直大阿闍梨

  天正六戊寅年三月十三日

      四十九年一睡夢  一朝栄華一盃酒

      嗚呼柳緑花紅

右事繁多奉存候に付、荒増申上候以上。

                    上杉弾正大弼内   慶長二十年三月十三日               清野助次郎

                           井上隼人正

  寛文九年五月七日〔本ノマヽ〕

右は両度御尋に付、書上げ申候以上。

 
上杉将士書上 大尾
 
 

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