甲陽軍鑑/品第卅九

 
オープンアクセス NDLJP:152甲陽軍鑑品第卅九目録 巻第十二

一身延山江御使者被立事并家康より輝虎江使者  一輝虎河中島江出馬  一遠州三河絵図并備定  一味方原合戦の事  一高坂弾正異見の事  一信長より織田掃部刑部をさかべ迄被差越事  一信長と御手ぎれの事  一氏政より御使札の事  一公方義昭公より御使者  一人質取替の事  一信玄公オープンアクセス NDLJP:153御馬入の事付秋山伯耆と信長縁辺之事  一信玄 公方江御返状  一信長 公方江申状事  一東美濃江御出馬之事  一信玄公御他界之事付御遺言の事  一信玄公御一代敵合作法三ケ条  一信玄公人の御仕被成様  一同御家中武士手柄事  一同御家中城取極意  一高坂弾正申候事  一信玄公御家中諸侍礼  一同国法背たるをも人により免給ふ事  一同御家中音信定の事

元亀三壬申年、初の正月廿一日に信玄公法華宗身延へ御使をつかはされ候子細は、去年庚未庚未ハ辛未ノ誤ナルベシに織田信長叡山をやくにより身延を叡山になさるべく候間、身延山を御所望あり、其代には、なか野長野に寺を立、今の身延より大きに、御普請仰付られ、可相渡と被仰、身延山各出家衆御返事に、日蓮聖人御影の前にて鬮をとり其後尤と可申上とて鬮を三度五度七度までとれ共合点の図をりず、其上山の変らざる祈念とて壱万部の法華経をよむ、不思議なり日蓮聖人の御告多くありたるとのさたなり、それをば信玄公御存知なくて、以来は是非身延を、東の叡山になさるべきと、御内存定候つる、出家に悪くあたらぬ物とは、次年酉の四月十二日に思あたりて候なり全集ニハ希庵和尚ノ事ヲ附記シテ関山派希庵如尚美濃国より甲府へ御呼候へ共承引なしとて秋山伯耆に仰付られ同年十一月 六日殺し候其透波には伊奈乃松沢源五郎小田切与助林甚助三人也此者共五十日の内に狂気をし或はてんかんをかれ落馬にて死る信玄公も翌年四月十二日西他界也出家にあしくあたらぬ物とは其時思ひ当りて候也トアリ

同年閏正月中旬家康は、かなや筋、小笠原はいらう筋、大井川をこして河原迄はたらき、そくじ引取なり

同閏正月廿八日に越中椎名肥前守方より注進申上る子細は去年去年トアルハ未ノ誤ナルベシの九月徳川家康越後輝虎へ両使をもつて起請を被仕頼申候間、謙信も是をよろこび家康に無沙汰有間敷と誓言被成候由たしかに承候家康より謙信公へ進物は、からのかしら一頭輝虎公御返札に月毛つきけ馬一疋被進候、定て家康信長はかりは頼すくなきと存候故とて輝虎のよろこび家康を旗下にする北国の事は申に及ばず都まても信長の威光ふるはるゝ国々へ謙信の弓箭強ければこそ信長一味の家康の遠き輝虎を頼むと批判有べきと長尾家の衆申候、さ候はゝ当年は謙信信州へ被罷出こと御座候はんとの注進なり

同年四月初めに輝虎信州河中島へ馬を被出、さりながら在々の儀焼事もなく候、伊奈の四郎勝頼公是を御聞あり夜を日につき懸付給ひ輝虎一万斗りの人数に、勝頼公千不足の備をもつて打ちむかひ被成候へば、謙信搆ひなく、早々引き取り、馬を入らるゝなり、其後信玄公明高山まで御はたらき被成候先衆はそれより奥へおし付候へ共、謙信取りあひなく候故、信玄公やがて御馬を、かいづへうつされ候て其年霜月師趨次の年二三月迄の様子被仰付御馬を入給ふなり

同年申の夏秋、遠州三河の絵図をもつて両国嶮難の地或は大河小河の出様一村一里に渡し、いくつ有、ふけ、たまり、池、万を遠州三河牢人衆にさたさせ、原隼人、内藤修理両侍大将能聞、両使ハ加納房并同人聟熊谷小次郎ナリ信玄公御前において申上、せんさく被成て後、御備先衆七手は、山県三郎兵衛、内藤修理、小山田兵衛尉、小幡上総守、真田源太左衛門、高坂弾正、馬場美濃守、七人なり、山県くみ共に九百八十騎の内、大熊三十騎遠州小山の定番、相木八十騎御跡備残て八百七十騎也、内藤組八頭そへて六百騎組衆半役にして百七十五騎、内藤手前も五十騎、簔輪に置残りて三一百七十五騎なり、高坂は手勢組共に千廿七騎を手前にて五十騎組にて百七十騎跡に残して八百騎小幡は留主居いつこの衆三百騎あまり持故、御役帳に有ごとく五百騎つれて御とも申べきのよし申上候、又二の手は勝頼公、典厩武田左衛門佐殿、穴山殿、土屋殿、望月殿、跡部大炊介、脇備は小山田備中、小宮山丹後、栗原左兵衛、今福丹波、左は原隼人、相木市兵衛、安中左近、駒井右京、御後者逍遥軒組衆そへて六頭合て百九十騎、一条右衛門太夫殿組添て四頭合て百七十騎、海野衆仁科衆御旗本組は、市川宮内、小山田大学、下会根、長坂長閑、もろが入道、三枝勘解由左衛門、真田喜兵衛、曽根内匠助諸牢人衆弐百騎あまり、兵庫殿御組頭にて御国境目御留主居上野定番に永井豊前、小幡、三川、和田此衆に信州うきせはうきせはハうき勢ナルベシ、千貫百騎の衆を、本役にして五頭、簔輪の城に置又五頭を秋山伯耆にそへ、伊奈の御留主に伊奈、秋山伯耆組の衆、下条は三河足助の城に残りて四頭、蘆田下野と一所にして是は落城御抱への地に御番の勢のため也道作りは新衆を千五百是は御中間頭十人二十人衆頭に、五百付らるゝ、駿河御留守武田上野殿、田中に板垣殿、しみづに舟手衆土屋備前、向井、間宮兄弟に、小浜、伊丹、大隅、小山城、に大熊備前甲府の御留守、御蔵前衆御曹司衆御料人衆御しやうだう衆御聖道衆、四衆合百廿八騎、御蔵前衆の内にて五騎は駿州むきの代官衆御扶持方万の為めに御供也甘利衆は小荷駄の奉行也、大形夏秋の御定かくの分也後は様子により少しちがひ申事も有之也

同壬申年十月中旬に山県三郎兵衛、信州いなへ打越夫より東三河へ出て信玄公遠州おもてへ御発向をきゝ合罷在内、せり合など有之なり信玄公十月中旬に甲府を御立あり遠州たゝら、飯田両城落て御仕置あり、いぬい天野宮内右衛門に遠州の定番の儀能様に被仰付久野の城御見廻の時家康衆随分の侍大将、三オープンアクセス NDLJP:154かの川をきり四千余の人数にて打出る信玄公あれをのがさゞる様に打ちとれと被仰付家康衆引あぐる也甲州武田勢はくいとむるなり浜松衆既に大事とある時家康内の侍大将内藤三左衛門と申者家康八千の惣人数は五千、是迄出て信玄と云名大将のしかも三万余の大軍と家康出給はぬに合戦仕りまくるは必定なり是にて各負候はゞ家康御手前ばかりを以て何とて信玄と合戦成申べく候爰をば先引とり候て浜松へ帰り重ねて一戦をとげ候はゝ其時は又信長御加勢を被成に付てはそれを同勢して三河武者八千をもつて無二の防戦を遂られ候へ但かくはいひながら人数あぐる儀は是程取むすびての上三左衛門は成まじきと申候、そこにて本多平八郎其歳廿五歳なれ共家康したにおいて度々の誉有よし、内々武田の家へも聞ゆる様なりつるが彼平八郎かぶとにくろきかの角を立身命をおしまず敵味方の間へのり入引たる様子は甲州にてむかしの足軽大将原美濃守、横田備中、小幡山城、多田淡路、山本勘介此五人以来は信玄上公の御家にも多なき人に相似たり、家康少身の家に過たる平八郎也、其上三河武者十人が七八人は唐の頭をかけて出る是も過たりと小杉右近助と申、信玄公御旗本の近習歌によみてみつけ坂にたつる其歌は家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八とよむ其後、ふたまたの城二㑨城攻〈[#「㑨」は底本では「俟」]〉へ取詰、せめらるゝに四郎勝頼公典厩穴山殿三人の大将にしてふたまたをせめ給ふ中にも勝頼公は紺紙金泥の法花経の母衣を被成差物にして御精をいれらるゝ右三頭の内にても四郎殿を諸人しつし奉るは信玄公の御養ある其歳六ツに成給ふを、惣領にと有て太郎信勝と申御曹司の御親父なる故、勝頼公を副将軍と定られ典厩穴山勝頼三人に惣人数を渡しふたまた中根平左衛門をせめらるゝ家康後詰のおさへに馬場美濃守手勢組そへて雑兵七百余り小田原氏政衆千、合千七百余り次は御旗本組そへて四千余り是は浜松のおさへ也然ば家康八千の人数をもつて後詰とみへつるが川をうち越早々引上る、馬場美濃守信玄公御前へ参り申さるゝは天龍わたり内々絵図をもつて、ならしの時沙汰仕候へども浅き深きは更に見及ばざる所に家康越たるを能みて候へば一段浅く相みへ申、若武者ゆへ川を渡りてみせたりと申上らるゝは尤の儀也扨日々生捕を仕り、侍大将衆聞届申され候に付、平八郎事も、三左衛門申たる事も家康ふたまた後詰の批判も能聞ゆるなり扨又中根平左衛門ふたまたの城水の手をとられ降参仕り城を渡し浜松へのき候、水の手に付信玄公御工夫いくつもあり殊に二俣御番勢に信州先方侍大将蘆田下総一本ニ蘆田下野トアリを被差置候さ有て程なく極月廿二日に浜松味方が原までおし詰被成る其日御一戦有べしとて廿二日の朝信玄公いくさ神へ被進とて、あそばすとて御歌に

 たゞたのめたのむやはたの神風に浜松が之はたをれざらめや

とかくあれども、合戦はなさるまじきと有子細は、海道一番の弓取とはいへども、吾朝に若手の武士に、家康一人にとゞめたり、其上信長加勢を九頭まで仕るに加勢九頭ハ平手、佐久間右衛門 大垣卜全、林佐渡、安藤伊賀、弟安藤与兵衛、遠藤九左衛門、毛利河内、滝川伊予、しかも岡崎、山中、吉田、しらすかまで取つゞけて、信長被官ども居たるときく殊更家康伯父水野下野も半途にひかへたるはさだめて家康と合戦をとげ勝利を得たると云とも、敵大軍をもつて草臥たる味方へかゝられ候はば疑なく信玄をくれを取べく候敵の居城ぎはへ深くはたらき、まけたるに付ては大河大坂を越て退のく事ならず一騎一人と残る事なくうちとられ候へば若き時よりをくれをとらず、信玄勝利のほまれみな水に成て年寄の分別ちがふはかばねの上の恥辱ちじよく末代まつだいまでの悪名と被仰馬場美濃と勝頼と山県と三人にあへしらはせ今日は山際まで引とり候へと被仰付候所に小山田兵衛尉内の上原能登守味方が原左へ乗おろしさいが谷の方より家康人数をみてあれば九手に備たど一かはなり信長加勢のものどもは人数多しと雖もはた色すみやかにしてしかもはやく敗軍の色付たり、はやく帰りて此儀を兵衛尉に申候へば則ら馬場美濃守にかたる馬場美濃と小山田とうちつれ信玄公へ此事を申上信玄仰らるゝは、いくさに勝べきとの、ふまへ所はと仰らるゝに小山田申上るは敵の人数たゞひとへがはに候て味方五分一と申す、信玄公仰らるゝは証拠ある申様也さらば旗本の物見番功者の人、今日はたそと御尋ありもろが入道にて候と申、もろが入道を召、上原能登に指添重てみせ給へば上原がみやう一段理究りくつ相済申候間今日の御防戦疑なく御勝と、もろが入道はしり帰りて申上候故小山田兵衛尉に合戦始を被下候時申の刻に成て合戦始まるは種々御遠慮の故也家康衆流石の名を得たる、弓取の家中とおぼしくて九手が八手にて鑓をあはせ候中にも山県三郎兵衛手へは家康旗本をもつてかゝつて三町余リしさらする、三川山家三方衆は日来家康衆の手なみを存たる故三郎兵衛がさきから四町程あしなみにて迯かゝる家康おばむこの酒井左衛門尉も山県手へかゝる全集ニ△馬場美濃守は小笠原与八郎と取りさり相戦ふが小笠原衆乃中に杉野原十郎兵衛は金の制札の差物を落合市尾見て此敵をバ我討取べしと味方にことはる岡部治部は金の提灯指たる武士を討べしと断り両人ながら毛付をし殊に落合は蒲原にて左の手損ずれバ片手にて討取馬場にハ見せず落合は治部を尋ね治部は落合を尋見せ合たり是は両人共に信玄公乃御意に背き馬場が備をかりいての事なり山県が左りには云々トアリ左には小山田衆三町程追ちらされ馬場美濃もりかへし事故なく勝たり、扨山県日来にちがひ大くづれなるべきを勝頼公大文字の小旗を押立横すぢかひに入たて家康をきりくずしなされ候故、山県オープンアクセス NDLJP:155衆もすゝみ酒井左衛門尉手へかゝる時、信玄公御諚をもつて、小荷駄奉行の甘利衆横鑓と仰らるゝにより甘利衆米倉丹後、小荷駄を捨てかゝるを見て、左衛門尉くづれ候ゆへ、酒井か衆斗鑓をあはせず崩れたり信玄公御旗本、脇備、後備、少もはたらかず、見物のごとくなれば終に家康をくれをとり、敗軍なり此合戦は先手二の手、合て十四くみ斗にての、信玄公御勝利なれば定て信長たばかりて、今ぎれのあたりに罷在二の合戦仕べしと被、仰脇備を先へくり、後備をわきにくり、すてかゝりをたき本笧をもちひなさるれども敵かゝる事なし、一の御さき、五千の人数をもつて仕る、山県手へ頸十三ならで討とらざるに二の手の勝頼公、手不足たらさるの備に六十三くびをとる元亀三年壬申極月廿二日遠州みかたが原の御一戦是なり法性院信玄公五十二歳の御時如

廿三日の朝浜松より味方が原へ出る足軽衆、くなぐりと云所へ、家康人数を少いだす其日穴山殿おさへ番にあたりなされ候故、穴山殿衆ありずみ大学、はさか常陸、同弟掃部、馬足軽をかけ候へは、敵少もたまらずにげちる、三騎の侍に歩者四五人踏ころばされて、頸をとらるゝなり、如此に候と有儀をもつて穴山殿、四郎殿、典厩、逍遥軒、家老衆には馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理、小山田兵衛尉、小幡、真田を始め浜松の城御せめなされ尤といさめ申上る、高坂弾正申は各 勿体なき事を申上られ候者かな、信長と家康と内談候し浜松より美濃岐阜の間に信長衆打続き陣取たる事必定なれば只今浜松を御せめ有、はやき分にて廿日もかゝり候はゝ其間に信長後詰をいたされ、本坂へ五万ばかり、今きれすぢを三万もはたらき申へく候、先信長領分つもり候に、美濃、尾張、伊勢、近江、山城、大和、河内、摂津国、丹波、播磨、若狭丹後、家康持の三河、遠州そへて十四ケ国の敵なり、信長十二ケ国の内三ケ国は他国のおさへに置、残りて九ケ国の人数美濃、尾張には一国に一万八千積りなれ共十二ケ国の内小国もあり、或は信長手に不入所もあり是を考へ遠き陣の役儀を引はらひ、一国に八千積りにしてみれば七万二千なれども、美濃尾張両国のせいは積りより結句多勢ならんと存するいはれは此方を以てたくらべ候に、信州上野衆の多勢はよその積りに抜群ばつくんおほかるべく候又家康持分遠州はあらそひの国三河一国なるが是は武篇の国なる故五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候間三十日には浜松の落城有まじく候其間に八万に及大軍を引つれ信長後詰候はゞ浜松をまきほぐし定めて大敵にむかひ被成べく候、さありてもはじみて参会の大敵へむたと懸て一戦もなさるまじく候によりあなたよりはとても一戦はする事ならずして御対陣久しくは此味方が原に長陣をはり、人馬のつゞき不自由なるうちに越後の輝虎去年九月より、家康と内通なれば謙信又上野が信州へはたらき出る事うたがひなし其時は氏政の表裡人いかに人質出され候てもふりをし給はゝ此所を引いれなされずは叶はざる儀なり、其後信長帰陣して、信玄を追はらひたるといんげん申べく候上方武士はかちの頸を一ツ取ては侍の頸を十も取たるやうに針ほどの事を棒程に過言を申と山本勘介がはなしをきゝ候如く有べき也、縦ひ左様なく共敵を奥深く此方よりあてがひ有て、信玄公御弓箭誉のたかき御名少も越度なきごとくにと高坂弾正申上候に付廿四日には遠州おさかべえ御馬をよせられ御越年なり、浜松おもてを引あげ刑部おさかべへ御陣帰らるゝとき高坂弾正しんがり被仰付候に信玄公御人数あつかひを家康みられて命ながらへ信玄のごとく人数をまはし候はゞ此世の名聞是に過まじく候敵とはいひながら、武田法性院を鴆毒をもつてころしたくは思はぬと申なされたる儀を、生捕の足軽侍大将衆に申候此事を馬場美濃、信玄公御前において師走廿八日に申上て次に家康当ヰ三十一歳なれ共日本国中に越後の輝虎三州の家康両人ならで剛の大将御座有間敷候、此度味方が原御合戦にうち死の三河武者下々迄勝負を仕らざるは一人もなく候、其証拠はむくろ此方へころびたるはうつむきになり浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候、たけき武篇の家、和朝に上杉謙信徳川家康なり惣別五年以前駿河始めて御出陣の時遠州一国を無相違家康次第と被仰、御入魂の上御縁者などにあそばし和睦の儀有て家康御先を仕り候はゞ当年などは大方中国九国までも信玄公御手にたつ人なくして五三年の間に日本も大略物いひ御座有間敷物をと馬場美濃守信玄公へ申上候以上

織田信長へ平手が頸をもたせをくりなされ信長と御無事之儀御手ぎれなる信長より織田掃部を刑部まで御越候て申さるゝは家康わかげの故相違の事あるに付ては、あつかひ候へとて、一本ニ又武藤弥平兵衛ハ我等馬廻に候此者合戦場より戦初ざる前に罷帰り様子を申候故即時に所知を与へ候ノ一項アリ我等者共さしつかひ候所に合戦仕り、御成敗の儀尤候間信玄公へ対し奉り信長御無沙汰なき通りには、御成敗の我等者共跡を立申まじく候と其外十五ケ条書立候て家康相届かざる事家康と中を違ひ申べき事子息城介殿御むこに被或被下候様にとの事人質をも信玄公御のそみのごとく進ずべしなとゝあるかきたてながきゆへ其理究りくつばかり如此候以上

オープンアクセス NDLJP:156信玄公重ねて信長へ御手切の御書は一書申達候然者信長種々理を以で信玄と縁者に罷成度申さるゝに付無拠其儀にまかせ所望を叶て貴国当方入魂の上、近年家康讒言在之は信長邪欲を存ぜられ賊心やがてあらはれ逆儀の事、縦へば蜜裡に砒礵ひさうあるがごとし錦に毒石をつゝむに相にたる物かな就中信長弓箭を取て其名を得、和朝当時戦国の最中にも輝虎信長は四人と無之様に仕り殊更信長若輩なりといへども信長生国、都近き故か果報ゆゝしき故か公方義秋公致御供上洛の後武名をもつて天下に雷動するは眼前にみへたり然共きたなき慾ありて表裡のことはざ、みな累年とりきたる弓箭のほまれ、捨置、よこさまの思ひにふけり、聖賢の政りごとを夢にもしらずんば天道にはなたれ、軍神の御罰忽ちに蒙り結句手がひの犬におのれが肉をかみひしがれ身命をむなしく矢なひ末代の悪名信長うたがひ有間敷候向後はそれがし信玄と信長と二度不申通者也  正月十七日 大僧正信玄

     織田上総守どのへ

天正元年正月三日に小田原北条氏政御使札あり其御状には人数一万成りとも二万成りとも進上可申候又氏政に罷出候へと有共御一左右次弟出陣申べしとの儀也書状は長く候故書に不及候

正月七日に公方義昭公より上野中務御使になされ信玄公と信長との御あつかひあり、其御書に信長家康と和睦これありて国々物いひなきやうに被仕尤に被思召候信玄老万事老体役に堪忍せられ於同心者御祝着に御おぼえ可成候猶中務可申候恐惶謹言  御書真名にて候へどもかなになをしうつし置けり

  正月朔日 義昭

 法性院殿

天正元年正月七日に信玄公遠州刑部を御立有本坂を打越し同月十一日三河野田の城へ取詰せめ給ふに家康より信長へ小栗大六と云者を使にして後詰の有やうにと頼申され候へ共信長不出候二度の使にても信長出る事なき間に菅沼新八郎降参いたし野田の城をあけわたし山県三郎兵衛に新八郎御預け被成新八郎方より家康へ申越し奥平美作守人質家康に在之と菅沼新八郎と取替奥平人質信玄公へ家康より進上申され菅沼新八郎を家康へ渡しあり其取引三州長篠の馬場において在之事二月十五日也其後信玄公御わづらひ悪く御座候て二月十六日に御馬入家康家、信長家、誰人のさたに信玄公野田の城をせむるとて鉄炮にあたり死に給ふと沙汰仕るみな虚言也惣別武士の取あひによはき方よりかならずうそを申候越後輝虎と御取合に敵味方共にうそ申たる沙汰終に無之縦ひ鉄炮に信玄公御あたり候ともそれが弓箭の瑕になる事なし長尾謙信は武州忍の城において堀のはたに馬をたてゐられたるを城の内衆輝虎とみて鉄炮をよせ、いかほどうちつれど終にあたらず候其鉄炮に謙信あたり候はゞ結句つよき大将とほめはするとも悪くは申間敷候既に信玄公信州河中島において謙信に勝給ふ時謙信名馬放生月毛を乗すてられ候つるを長坂長閑取て乗、流石の謙信も馬をすてられ候と長閑申候へば信玄公大きにいかりなされ馬草臥ばのりかへてこそ有らめ乗かへたる時合戦負に成たらば中間ども捨てにげつらんにそれが輝虎よわきとは一段無穿鑿なる申やうかなと長坂長閑をあしく仰らるゝは三年めにきこゆる輝虎川中島合戦の時和田喜兵衛一騎供仕り退候に越後へ着、馬よりおりると同時に喜兵衛を謙信手討に致されたるを信玄公きこしめしさては謙信ほどの侍もをくれては、ちととりあはてたる事こそ有つらめ武士はほむるもそしるもふまへ所をもつてさたするものなりと信玄公仰らるゝなり

信玄公癸酉みづのとゝり二月中旬に御馬入四花の灸をなされ御養性に種々御薬まいり大形御病気平癒被成候酉の二月下旬に信長伯母子、美濃国岩村殿後家を信州伊奈秋山伯耆内方に織田掃部肝煎を以て祝言あり但し是は信長そこ意は存せられ、うはげはしらざる様なれ共此方家老衆各出頭衆内々申上信玄公御存知也其後織出掃部信長子息御坊を甲府へ同道仕り信玄公へ進上申候此人質故先づ信長とは御無事の様なり御坊のめのとに五十君いそぎみ久助と申者きたる宿は春芳珪琳番にかはり宿を仕り候以上

    信玄  公方江之御返状

参両国信長家康等、押神社仏閣諸寺物民事利慾恣振逆威之条前代未聞次第也、然而於信玄一挙之義兵大軍之令シムル発向之処彼与党等馳集所々相支懸川二㑨其外数ケ所之要害、大半令破却残党悉責伏之刻寛遁御教書候 上意雖黙止彼等積悪不勝計之条、御請難申者歟、所詮誅伐信長家康巳下逆徒請静天下、旨趣謹言上抑信長家康企逆乱山上オープンアクセス NDLJP:157山下焼亡諸仏物洛執、巳厳私用栄花諸人閉口顰眉之仕立偏仏法王法破滅相、天魔変化也、就中不勅許シテ昇殿高官尊躰咎無遁所其罪一、不巳匹夫血月卿雲客猥シテ言、侮権門、無礼之咎不浅其罪二、洛中洛外令シテ徘徊懸徳分課役領残党財宝之咎其罪三、累年錯乱以来或成敵或成身方族在之然而一度令赦免後、高槻今中城高宮以下、士卒忽行死罪併殺籠鳥同何以為実、何以為頼哉、誰不其罪四、去永禄十二年、至坂本義景与信長魚鱗鶴翼之連陣、决雌雄之刻掛恭勅命同以御下知数通之起請文和睦、自他下国畢、然而翌年七月、令上洛神社仏閣成灰炉 勅命御下知云、天罰云、旁以悪逆無道之咎其罪五、右五逆在千古未聞也况於末代哉、若逆徒等此節、被宥置者、纔臣破国窮鼠却而嚙猫闘雀不人却而成怨敵国有企此条隠雖上聞諸国者普所知也、若行猶予者、可然賜誅戮御下知時日彼舘馳向軽身命立亡凶党尸曝軍門首掛獄門者、万人開愁眉安寧歟、苟信玄尽正義策帷幄之内四海逆浪台嶺之諸伽藍七社之零藍遂建立再成顕察兼学霊地現世安穏日月余光天下静謐之功旨、宜公聞信玄、誠惶誠恐謹言  大僧正法性院

 正月七日 徳栄軒

     上野中務大輔殿

信玄公信長家康と御無事の儀、公方御あつかひの御返札に無事仕間敷と御返事被成候へ共信長より様々手を入無事にと申され候て、公方様へは信玄公の儀悪く申され目安をさし上られ候事大坂御坊又は信長にしづめらるゝ五畿内の侍衆書付を以て信長の儀甲府へ申越し候然も公方様へ信長の目安是なり

   公方江申状 信長

抑武田入道信玄纔訴をかまへ五ケ条を捧 上聞に達するの族粗其聞へあり於事実者誠に狂言綺語といつゝべきをや其濫觴は三好左京の太夫が逆心あつて忽に光源院殿御自害を被成上、直枉の輩大半討死候て御当家一度御退転に及の処に当御所ひそかに南都を御出行有て伊賀甲賀路をへ江州矢島へ御座をうつさるゝの処に佐々木承禎義賢曩祖の遺言をそむき主従の道を忘れ情なく追出申の間越前へ御下向被成畢朝倉事元来其者にあらずといへども彼父上意をかすめ御相伴に任ずるの次巳ついでが国において雅意の振舞によつて御帰洛の事前代未聞の次第也然而 公方御了簡なく岐阜へ御座を被成たのみ思召旨被仰出候間信長尫弱の儀たりと雖ども公儀請用是に過んをや併天下草創の忠功いたさんとほつし国家の為一命をかろんじ御供申罷上候処に至江州佐々木所々に相さゝゆといへども忽に攻崩し罷上候処に畿内の逆党数ケ所の要墎をかまへ相支ゆ所も不残十四日の内にせめくづし畿内の事は申に及ばず四国中国遠島遠路に至るまでみな御味方に馳参征夷大将軍にそなへ奉り御参内をとげらるゝの事偏に信長武功にあらずや

信玄事父信虎巳に及八十老父を追放せしめ京田舎に迷惑し街に餓る風情前代未聞の次第也

嫡子太郎いはれなき籠舎に行ひ剰へ鴆毒を以てころすこと法にすぐ父を追放し息をころし其外親類数多めし失ふ事一年来の眷属一戦をはげまし疵をかうふる者数輩一所へ追入焼殺す段大悪行の最たり誰かかれに随順たるべきをや、殊に信玄与力浅井は対信長相似妻女として某が妹をつかはし候その上江北一円に扶助せしむる所に何の故に信長金崎へ発向の後詰め前代未聞の次第也

信玄剃髪染衣の姿として人の国を貪り民を害し内には破戒の業をなし外には五常を背のみ縦ば売子まいすの僧のごとく就中比叡山伝教大師、桓武天皇、国家護持の霊場の所に衆徒等近年不覚の所行をあらはし結戒を破り牛馬の糞尿を伽藍仏前にをかし魚鳥を服用する天道時刻到来して山上山下悉くもへくさとなる更に信長断行にあらず自業自得果の道理也信玄時節をうかゞひ支那震旦大俗の身として大僧正号の事其例をきかず

駿河の今川氏真は為信玄甥なり彼家老を相付甥の国をのつとる事前代末聞の次第なり

関東の北条氏政は信玄ために聟なり然所に関東へ乱入剰へ氏政が門外まで焼はらひ北条縁類郎等尽切捨、むこに天下のはぢをあたふる事前代未聞の次第也、殊更諏訪の頼茂がむすめを信玄妾と定め末子たオープンアクセス NDLJP:158りといへども彼腹に四郎勝頼をもちながら頼茂をたばかり甲府へ請待せしめ馳走のために猿楽をあつめ舞楽を興行し心をなだめさせ近習の者に申付頼茂をうたする事前代未聞の次第なり、右の悪逆千古に無之扨末代に有がたし如此無道の儀仏神の憎みうる故か信玄国を十と知行せず信長は五常をまつとう存るに付て禁中をおもんじ公方を仰奉り民をあはれむ心ざし天道につうじ天下を仕置被仰付国家を興隆し子孫を栄茂せんとする事いのらずとても仏神に叶ふ故也信玄皆偽の儀もし御承引においては天下破れなるべし古語に云君侫人をもちうるときんば必禍殃を受と云々讒臣の訴大乱の基たるべき旨宜しく上聞に達せらるべし信長誠惶誠恐謹言

  天正元癸酉年正月廿七日 右大臣信長

             上野中務大輔殿

天正元年三月九日に信玄公御煩ひ能くまして御主殿迄御出被成御庭つき山に桜の漸ひらきたるを御覧なされ広縁に御立有り古歌を吟じ給ふ其うたは太山木みやまきの其梢とはみへざりき桜は花にあらはれにけりと次に都近き人は申置事、仕置遠国迄かくれなし夷狄之有君不諸夏亡也と被仰御陣ぶれ早々仕れと有事也次の日伊勢三瀬の御所より、とやなう石見鳥屋尾石見御使にて早々御上洛奉待候、さるに付ては御船をいかほども勢州国司家より三河吉田まで進上申べきと注進也、中島一向坊主達よりも如此也大坂越前方々より信玄公御上洛奉待と申来る使者多し少身の侍大将衆よりは、いかほども有つれど際限なし不しるすに扨又東美濃御働き御備定は美濃の内御治め、きりが城御手に入候はゞ秋山伯耆守組共に三百五十騎信長おさへのために岩村の城に指置、かんの大寺或は瀬戸信濃をきり岩村の城あたり悉仕置あそばして三河の吉田を攻をとす、刑部近辺今きれなどによき地を見たて馬場美濃に蠅ばりをさせ其城出来次第小田原氏政人数を壱万よび穴山か典厩か条いづれも一家衆の内一人さし置其後勢州へ使をこし舟をよび長島へあがり片時もはやく天下に旗をたて公方へ御礼申上参内をとげ玉躰を拝し申べく候是は手間取時の談合なり三河遠州の侍家康をすて当家へ帰伏するに付ては陸をのぼるとも家康さへ滅却仕候はゞ信長には百日と手間は取まじ尾州より都迄の弓矢形義に勝てからいきほいつよく後れてから、めり口はやく義理も作法もしらず主が被官になり我身さへたすかるならばとがもなき親類傍輩をもきつて出し縄を懸られてもはぢとおもはざる様子と聞へてあり一入つくる事肝要なり一度かちたるにつきては手間取事あるまじと家康は味方が原合戦にまけて其夜又夜合戦に出べき支度を専仕たるに家老の酒井左衛門尉石川伯耆両人すつぱをいだしみせつれば当方脇備をさきへくり跡備をわきへくりまはし合戦仕たる先衆を両方へおしのけ一手ごとに旗本一本ニ旗本ヲ捨本ントセリかゞりを用ひ二度めの軍もちたるをみて夜軍にに出さず候され共大久保七郎右衛門と云ふ者鉄炮衆をつれて出うちかけたると申候石川伯耆は信長へ加勢として近江の国迄行つるが帰りて味方が原へすぐにきて首尾にあふ時土岐家の侍浅岡と云ふ者に弓法知たる人有り是に向ひ信玄と軍ありてうち死したる時せんさく強き敵なれば尸の上までみられ候んずるに軍陣ゆがけの緒とめ様はいかゞと申候是ほど弓箭に念をいるゝは家康が武道をせんさくするに付如此也おくれを取て後も家康武士は命さへあらば一合戦も二合戦も手づよに仕るべく候上方武士の初めてあふより今とても家康者共にゆだん仕るべからず候と被仰定候也以上

天正元年癸酉三月十五日辰刻に美濃国岩村へ取つめせめ給ふ信長一万あまりの人数をつれ大物見のごとく出らるゝ馬場美濃守雑兵共に八百あまり人数をもつてかゝるを見て信長引ちらしあしに引とらるゝ馬場美濃守くみ、先備越中衆三十騎飛弾衆三十騎岡部次郎右衛門五十騎此百十騎の内よりすぢをひく若者共三十四五人引ちらして追懸信長の人数かちもの共、くたびれてさがりたるを二十七人くびをとりて帰る是にもかまはず足なみにて岐阜へにげこまるゝなり其後岩村の城落て岩村地衆は降参申候信長直参加勢にをかれたる三十五騎の武者皆頸をとられ候さありて秋山伯耆くみ衆ともに岩村在城なり土岐遠山の御仕置なされ全集ニハ三月十六日岩付落城トス又此城代に定め置るゝ信長四番日の子息御坊八歳に成を生捕候へ共信長ハ織田掃部赤沢七郎右衛門佐々権左衛門三人の使者に段子五十巻持せ彼御坊を人質に進上仕とて右の掃部甲府へ同道申松本桂林所を宿に定て与る但春芳桂林番替也御坊のめ乃と五十君久助眼に入鬼二ツ有之也佐々と赤沢は岩付に詰て信長への返事を承とて罷在其趣は家康を岐阜へ呼異見可申候哉又家康と入魂相止可申候設と有義なり信玄御返事には此方へハ左様に有て家棄へ金子千故合力候証矇は家康より大左文字ト左文字やげん藤四郡長光が言如此刀四腰脇差一腰の質物戻し候ハ合力ならず候也か様の侫人不義と散々の御返事にも不搆して懇意ぶり也トアリ三月すへに三州宝来寺おもてへ御馬をうつされ、牛窪長沢まで御手つかひの御はたらきあり岡崎筋へ向ひて上道四里こなた宮崎にとりでを被仰付東美濃降参の侍衆山家三方衆家中の者卅騎に信州浦野を被仰付宮崎のとりでに置給ふ足助の下条伯耆組故岩村へ参り其跡へ伊奈はるちか五人衆平屋玄蕃、波相備前、こまんば丹波、きどころ高尾、孕石主水、由井市の丞、由井弥兵衛、小林正琳、郡内の安左衛門上下合せて七十六騎、此警固御旗本足軽大将小幡又兵衛差おかるゝなり、かくありて三河の吉田へ取つめらるべきとある時各侍大将衆申上るは小田原御人数壱万御よびなされオープンアクセス NDLJP:159浜松おもてに差をかれ家康をおさへられ吉田を御せめ有やうにとの儀なり、信玄公仰らるゝ、さやうにありては肝要の事きはまる所、北条家をかたらひたるとさたあれば少は弓箭の手柄不手際に候間家康手宛には四郎、穴山、典厩、三人図取にさせ、とりあたりたる者を、大将にして人数壱万預けて家康をおさへ相残る人数をもつて吉田の城を無理せめに申付、はたもとは、くみ共に吉田の在郷山一本ニ四郷山ニ作ルに備をたて馬場美濃守、内藤修理、小山田兵衛尉、三頭を旗本の先に相定、山県三郎兵衛を警固して、上野信濃駿河にて、五十騎百騎の備共に、山県くみ共に合せ八千余りをもつて吉田をがぜめにと被仰付馬場美濃申は、只今夏に罷成越後のおさへ御座候により冬の御陣よりは御人数四千あまり是にひけ申候へども敵去る極月をくれ申候間大事御座有まじきかと存候、ちとあやしき儀は、各ひと精出し候はゞやがて御利運なりと馬場美濃申上也以上

四月十一日未の刻より信玄公御気相あしく御座候て御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出来御歯五ツ六ツぬげそれより次第によはり給ふ、既に死脉うち申候につき、信玄公御分別あり各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給ふ人々悉く被召寄信玄公被仰は、六年先き駿河出陣まへ板坂法印申候はかくと云煩なりといひつる、此わづらひは工夫積て心草臥くたひれ候へば如此の煩ひ有と聞、然ば信玄若き時より、弓矢を取、恐くは当時日本一番にすぐれ候子細は国持衆弓矢の儀何れもほまれ有と雖ども皆人は他家の大将をたがひに頼み両旗両大将をもつて利運に仕侍もあり或は剛強を専にしてつよきはたらきを用ひてほまれ有侍ちあり或は国を沢山に治め大身なるといへ共よその手がらをきゝては恐怖末子を人質に出すべきと用意する侍もありときくなり、先北条氏康は太田三楽、上杉則政、輝虎各敵にしてかなはさればそれがし信玄を頼み、松山陣其外一両度我馬を引出し申され候今河義元も氏康と取合の時某罷出富士のしもがたにおいて北条家をしづめ其後今川義元、北条氏康無事に成は、悉皆信玄がすけたる故也毛利元就中国を大形治め四国九国まで威をふるひ元就におぢてしたはのように、仕るといへども、信長を聞き及び四郎と云ふ子を信長へ奉公にやるべきと支度仕たると聞き、扨又長尾謙信輝虎は、武勇をもつて日本へ名を発し上杉管領に経あがり候処に、某信玄に負、すでに我等家の侍大将高坂弾正に申付、信玄馬の出てざるに、弾正ばかりをもつて越後の内へ度々はたらき候へば越後より甲州の内へはたらくべき事は夢にも不存此比は信州の内さへ然々しかと出たる事なし其上越中において大将なき者共に相逢てをくれを取、敵におしつけをみせ尤翌年に仕りかへし、加賀の尾山までおし付たるとあれ共、先謙信もまけたる事数度あり、扨信長家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ利運に互に仕りすでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし味方を捨退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして家康なくば成間敷候本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国九国にも毛利元就程なるはなし日本国中に右の大将衆程の誉れの侍今は大唐にもなきと聞ゆる然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなしまきたる城をまきほぐしたる事一度もなし味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく屋敷がまへにて罷在或人の云ふ信玄公御歌に

  人は城人は石垣人は堀、なさけは味方讎は敵なり

敵の国へはたらき、五十日に及び、味方の地へ人の通路もなくやき廻り小田原まで押入もどりに一戦をとげ、しかも勝利を得て候、去年味方が原の砌も、信長家康申合十四ケ国に取つゝきたる所へおしかけ二三里近くの二俣ふたまたをせめ取其上合戦にかち遠州三州の間刑部おさかべに極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長様々降参のうへ我等被官秋山伯耆守を信長を、ばむこにして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に信玄方より破りて、信長居城の六里近く迄やき詰、一万余の人数にて信長出たるに馬場美濃守千にたらぬ備をもつて上道一里あまりおしつけ候へば跡もみず岐阜へにげこみて岩村の城を此方へせめをとすさて信玄武勇の事は人をたよらず只今にいたりても氏政加勢に可罷出と被申候へ共無用と申候、武篇の手柄は如此也又信玄分別の事は、惣別五年巳来より此煩ひ大事と思ひ判をすへ置く紙八百枚にあまり可之と被仰御長櫃より取出させ各へ渡し給ひて、仰らるゝは諸方より使札くれ候はば返札を此紙にかき信玄は煩ひなれ共未だ存生ときゝたらは他国より当家の国々へ手をかくる者有ましく候それがしの国取べきとは夢にも不存信玄に国とられぬ用心ばかりと、何れも仕候へば三年の間我死たるを隠して国をしづめ候へ跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり其間は陣代を四郎勝頼と申付候但し武田の旗はもたする事無用なりまして我そんしのはた孫子の旗、将軍地蔵オープンアクセス NDLJP:160の旗八幡大菩薩の小旗何も一せつ持すべからず太郎信勝十六歳にて家督初陣の時尊師尊師ハ孫子ナルヘシの旗斗り残しよの旗は何も出すべきなり勝頼は如前大文字の小旗にて勝頼差物法華経の幌をば典厩にゆづり候へ諏訪法性のかぶとは勝頼着候て其後是を信勝に譲り候へ、典厩穴山両人頼候間四郎を屋形のごとくしつしてくれられ候へ勝頼がせがれ信勝当年七歳成を信玄ごとくに馳走候て十六歳の時家督になをし候へ又それがしとぶいひは無用にして諏訪の海へ具足をきせて今より三年目の亥の四月十二日に沈め候へ信玄望みは天下に旗をたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々はん成時分に相果たるより只今しゝて信玄存命ならば都へのほり申べきものをと諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長家康、果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり其子細は、縦へをとるに矢勢やせい盛には射ぬく者也、矢勢過る時分には浅く立、矢勢過ては巳と落る其ごとく人の果報も久しく無之候果報の過時分をまたずして盛に取合を始め天道よりおしおとさるゝ也、信玄が信長家康と武篇対々ならば是程早く命は縮るまじけれ共弓矢には信長家康両人懸りても信玄には更になり難き故天道果報をひきし給へば天より信玄をころし給ふ其印には輝虎三年の間に病死仕るべく候信玄次には輝虎より外信長をふみつくる者有間敷候と被仰、次に勝頼弓矢の取様輝虎と無事を仕り候へ謙信はたけき武士なれば四郎わかき者に、こめみする事有間敷候其上申合せてより頼むとさへいへば首尾違ふ間敷候信玄おとなげなく輝虎を頼と云ふ事申さず候故、終に無事に成事なし必勝頼謙信を執して頼と申べく候さように申くるしからざる謙信也、次に信長とは切所せつじよをかまへ対陣をながくはり候はゝ、あなたは大軍遠き陣ならば五畿内近江伊勢人数草臥無理成働き仕る時分、一しほのけ候はゝ、立なをす事有まじく候家康は信玄死したると聞候はゝ駿河迄もはたらき申べく候間駿河の国中へ入たて討取申べく候小田原をば無理にかゝつておしつぶし候とも手間は取まじく候氏政定て信玄死したると聞候はゝ人質をも、すてふりを可仕候間其心得候へと各御一家衆侍大将衆へ被仰渡舎弟逍遥軒今夜甲府へ使に行と申し心安き小者四人つれ出るふりにて物共をば土屋右衛門尉所に預け此暁き籠輿に逍遥軒をのせ信玄公御煩に付て甲府へ御帰陣也と申候はゝ我等と逍遥軒と見わくる者有まじく候累年見るに信玄が面を各をはじめしかとみる者なく候と相みへ候へば逍遥軒を見て信玄は存命なりと申べきは必定なりかまへて四郎合戦数寄仕るべからず、并信長家康果報の過るを相待事肝要なり、果報に年をよらする物は身をかざり、ゑやうにふけり、おごり是三ケ条也、初め申候信玄が信長家康果報の過るをまつべき物を、といひつるは、勝頼に心をつけと云ふ事也其ととはりは信玄に信長は十三の年おとりなり、家康は二十一をとる謙信は九ツ氏政は十七おとりなれば、あなたが信玄すへをまちうけたり、又勝頼は謙信に十六信長に十二氏政に八ツ家康に四ツいづれも年ましの者共にまけぬ様に仕り今信玄取て渡したる国々あぶなげもなきように仕置をつゝしみ候所に各より無理成働き仕候はゞもちの内へ入たて有無の一戦可仕候其時は我つかひ入たる、大身小身下々迄一精出し候はゞ信長家康氏政三人ひとつになりても、此方勝利はうたがひ有まじく候、輝虎みなとひとつになり四郎にこめをみする事有間数候信玄死してより、弓矢は謙信也、天下をもちたる信長果報のすへ輝虎が武勇両人のすへをまちうけ申べく候、信玄よろづ工夫思案遠慮十双倍気遣い致し候へと被仰但其方を敵あなづり候は 甲斐国迄も入たて、かんにん仕りてのち合戦をとぐると存候はゝ大き成からになるべく候卒爾そつし成はたらきさすべからずと、馬場美濃、内藤、山県にくわしく被仰付其次に信玄生たる間は、我等に国をとられぬやうにと、氏康父子も謙信も信長家康共に用心候へ共、北条方は深沢、足柄、家康方は二㑨、三河、宮崎、野田、信長方は岩村、かんの、大寺、瀬戸、信濃迄とる謙信ばかり越後の内を此方へ少も取事なけれども高坂弾正人数斗をもつて越後へ、はたらき、輝虎居城春日山へ東道六十里近所へ焼詰濫妨に女童部わらんべを取て子細なくかへるなれば是とても、我等にかたをならぶる弓矢とは申がたし信玄わづらひなりといふ共、生て居たる間は我持の国々へ、手さす者は有間敷候、三年の間ふかく謹しめとありて御めをふさぎ給ふが又、山県三郎兵衛をめし明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるゝは御心みだれて如此然共少有て御めを開き仰らるゝは大底肌骨キニ紅粉風流とありて、御年五十三歳にして、おしむべし、おしかるべしあしたの露ときへさせ給ふをの御遺言のごとく仕候へども家老衆談合のうへ諏訪のうみへしづめ申事ばかり不仕三年め四月十二日長篠合戦一月前に七仏事の御とふらひ仕り候信玄公御一代の御武勇御勝利、三十八年の間一度も敵におしつけみせ給ふ事なし、仍如

    信玄公御一代敵合の作法三ケ条者

オープンアクセス NDLJP:161敵のつよきよはきのせんさくあり又は其国の大河大坂或は分限の摸様其家中諸人の行儀作法剛の武士大身小身とも多少の事味方物頭衆によく其様子をしらせなさるゝ事

信玄公被仰は弓矢の儀勝負の事十分六分七分のかちは十分のかちなりと御さだめ被成候中にも大合戦は殊更右の通り肝要也、子細は八分の勝はあやうし九分十分のかち味方大負の下作り也との義也

信玄公被仰は、弓矢の儀とり様の事、四十歳より内は勝様に、四十歳より後はまけざる様にと有儀なり但し二十歳の内外にても我より小身なる敵にはまけぬ様にして勝過すべからず大敵には猶もつて右の通りなりおしつめてよく思案工夫を以てくらゐづめに仕り心ながく有て後途の勝を肝要に仕るべきとの儀なり

    信玄公人の御つかひなされやう

第一にうしろぐらくなきようにとの儀也、諸人後ぐらきは御恩を被下様、上中下のせんさくもなく、忠節忠功の走り廻りもなき人々に所領を下され候へば手がらなき人はかならず軽薄をもつてつくろひて立身仕る故忠節忠功の人をそねみ、悪口してをのれが党の者をほめ臆意は主君の御為も思はず、うしろぐらく候て意地むさぼりてへつらひまわりたる心故うしろぐらきなり、

信玄公忠節忠功の武士には大身小身によらず尊き卑にもよらず其身の手柄次第に御感状又御恩も被下候故人の贔負、とりなしも少として不叶故諸人後ぐらき事少もなく候なり

    御感之事

上には其方走迴諸軍にすぐれて神妙なり、又人数もたざる小身の人上の手柄には其方一身の走迴をもつて御本意をとげられ候、又人の同心被官の境目などにおいて、御馬出さるゝに我主、寄親ばかりの、せりあひに上の手がらには其方一身の走迴をもつて数千の味方を相助け候となり、其者につゞきたる、走迴仕る手柄の武士には右の人にさのみをとらざる走迴神妙なりと下され候、若主、寄親贔負の批判にて中や下の走迴をよく申たて上の手がらの人うづもれて有之をば二十人頭、御中間頭衆をもつて御ふれなさるゝは諸家中衆勝負の手柄に付申上度事これあらば直目安をもつて申上候へと御ふれ故下々にてわたくしなる事ならざるは諸人のうしろぐらき事是なきもとこれなり

    武田信玄公御家中武士の手柄は

第一に鑓を合せ第二に鑓下の高名同馬上より組て落て又高名第三に二番鑓或は鑓脇是三色みついろよきほまれなり但我ゐたる備より抜出、人さきにかゝり候はゞ敵つかへずして鑓合すといふ共一番鑓程の誉れ也同深入して引のく時抜出候て跡にさがり神妙にのくは一番鑓はどの心ばせなり猶以味方手負たるに引かけてのき又は死したる味方を敵にうたせずして、頸をあげて引のくはおほきなる心ばせなり追頸は一の下なり但人うたざるにはまし也、さりながらわかき武士などの心たけくし、よき者をうつべきと存人にうちはくるゝ事もこれあるべく候、さる程に合戦せりあひの時何者にても敵ならば先可討也あしき頸と思はゝ頸帳にのす間敷者也

門のこぐちをおしこみたる人或は城を乗取たる時手柄の上中下、堀あさくせばく無堅固なる所をはやく乗たる人を一番の手柄と云ふ子細は門口、また無堅固なる所には人数多し弓鉄砲おほき故如此の御さため信玄公御家中のせんさくこれなり

五千とも人数をもちたる大将をうつは、弓矢の冥加の侍也必らず尊ぶべし、さて又其下の物頭さいはいを手にかけたる頸とつたる人も冥加の武士なり尊ぶべしとの御定なり

    信玄公御家中城取の極意五ツは

一辻の馬出し、二にしとみのくるわ、しとみの土居、三にかざしの土居、屏四ツに重々のくるは屏たけ土居みせ、五に武者はしり、三色はがんぎあいさか、かさなる坂、いづれも所によりて如此なり

    信玄公十六歳より五十三歳迄三十八年の間御武勇、又はなされやう御手がら十三ケ条之事

全集ニハ廿一ケ条トシテ末ノ八ケ条ハ切レテ見エストアリ 一父信虎鬼神のごとくに近国他国迄ひゞき給ふ大将の八千の人数にて不叶要害を十六歳の御時雑兵三百余りの人数を以て乗取給ふ事

一他国の大将今川義元北条氏康に頼れて、御旗を出し給へど北条氏康をも今川義元をも終に引出し給はず候事

一信玄公御一代敵におしつけを見せ、おひうちにみかたをうたせ給ふこと一度もなき事

一信玄公御一代の内甲州四郡の内に城墎をかまへず堀一重の御たてに御座候事但し御舘廿町斗りかさオープンアクセス NDLJP:162に石水寺の要害とて山城一ツ有之是とてもむかしのごとく屏もかけず候へ共先此城本城の様なる者なりさるに付信玄公御前にての取沙汰を石水寺物がたりとかき申候此石水寺も御普請なくてこもられ候事なしさるほどに城は一ツもなく候是も敵に御用心なき故なり

一信玄公御一代の間敵に屋敷城を一ツせめとられ給ふ事なし

一天下の仕置仕らるゝ信長をばむこに、信玄公御家老秋山伯耆守罷成候事

一同信長の子息御坊と申を甲州へ御取候事

一北条氏康御他界の後とは申なから氏政より舎弟助五助を甲州へ人質に御とり候事

一信長家康申あはせられ候へ共家康の国は遠州半国三河一郡半信長の国は東美濃二郡御手に入られ候事然も信長の居城美濃岐阜なるに右の分の事

一飛弾半国の江間常陸越中三ケ一の主、椎名降参申候武蔵の内もちたる小幡三河帰伏申候或は相州酒井深沢、足柄迄御手に入らるゝ間、信玄公より知行高多く大身衆居城信長の岐阜を初めいづれも上道五里六里近くまで取よせ給へど信玄公御在世の間御持の内へ手かくる侍一人もなし但し越後の謙信ばかり国はとられ給はね共是とてもあらそひの信州をばこなたへ御取候其上信玄公御馬の出ざるに高坂弾正越後の内東道二十里余り働申候是ひとへに信玄公御威光を以ての事なり

一国をへだてたる侍大将衆東にて会津安房宇都宮こがね両酒井、多賀谷、各御音信申、上方にては佐々木殿、浅井備前守赤井悪右衛門皆々信玄公御旗下と申越御音信被申候事

一よその国よりは信玄公を承及御奉公に参候へ共よそへ御家中よりかけおちの人壱人もなし当家より御扶持はなされたる人他国へ参候得共さなき人のかけおち終にこれなき事

一御館堀ごみあげ普請の時御旗本足軽衆と一条右衛門太夫殿衆双方二千ばかりの人々喧嘩を仕、ときのこゑをあげ鉄砲をうち申候事、しかも大庭にての儀なり折節御屋敷に駿河観世太夫大蔵太夫立相の御のう之右の喧嘩せばきほり、一重隔て物すさまじく有つれ共芝居の衆奉公人は不申地下人迄も少もさはがす罷在儀信玄公御仕置兼々能被仰付候御威光のゆへなり

    是は恐々高坂弾正申候事

一信玄公国法軍法を物にたとへ候へば御大将は大工にてまし候其下の侍大将足軽大将一切の物頭はくさびくぎなり大将の御口まね仕る、出頭衆或は夫を承はつて御使にはしりめぐる衆はさい槌、鉄鎚なり諸奉行はてうのかんなのみのこぎりきり挼錐もみきりなり、御目付横目の二十人衆頭、御中間頭は京、上野砥などのごとく道具のはもの、まくれ候へば砥を以て刃を付申候、扨又惣人数は材木なり、備は家也然るによき御大将の分別と申は番匠箱より思案工天と云、つぼかねを取出し、古今にさかへ、おとろへたる家の備に引合せ御覧候所に材木くさりたる家の柱をぬきかへあたらしき柱なり共、やがておれさう成をば、つかはずして火にくべ候ごとく随分御つかひ候て御覧有国法軍法に背き心むさく善悪の弁もなく後ろぐらくして諸傍輩善悪の儀わるく証拠もなきにそしり能き証拠もなきにほめ、人の足本をまもり、軽薄なる奉公人の役にたゝざる者をば戯者たわけものはらひに被成候は御道理至極なり必主君の国法軍法そむく輩は臆病成人也、子細は主君より所領を被下渇命を繋ぎながら其家の仕置をそむくは恩をしらす恩をしらねば義理をしらず義理をしらねば届くことなし届事なければ慈悲をしらず慈悲をしらねば善悪をわきまへず善悪をわきまへなき時は理非にくらし理非くらき人は恥を不知恥を知らざる者は大事なきと申す軍中にてにげても大事なし万に大事なきと申人は未練なる侍にては無之候哉、諸人御分別肝要なり仍如

    信玄公御家中諸侍の礼三ケ条之事

に諸人武運のために護摩被仰付修し給ふ事

に能き忠節の武士死たるに吊被仰付そとはなど立給ふ事

に御家中討死の衆に七月十四日十五日には御主殿にたなをかざり御回向ゑかうあそばす事

    信玄公国法背きたる者をも人によりて、二度までは御免なされ候事、五ケ条は

に諸牢人衆又は降参の衆なり先方をば少も免し給はず候

に忠節忠功の武士子孫ならば御成敗あるべきをも命をたすけ坂をこさせ、改易の科をば寺入に仰つけられ候

に出家の妻帯をば其役銭をいださせ御免の事

オープンアクセス NDLJP:163に町人百姓の喧嘩過銭をもつて御免の事

に非公事をも過銭をもつてゆるし給ふ事巳上

    信玄公御家中音信之定

に大身者巻物一巻多くして二巻板物多く共二端此外堅く御法度也

に小身の衆は矢三手或は五手火縄三筋或は五筋

に足軽衆は一蓮寺団扇一本、花との御定なり、是は諸人詮なき事に物を入武具疎畧にありて悪き事なるとの儀にて如

  天正四丙子年正月吉日 高坂弾正記