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管窺武鑑/上之下第三巻

 
 

永井家の事

夏目舎人助定吉の事

三浦義為以来武功の事

 

 
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管窺武鑑上之下第三巻 舎諺集
 
 
 
永井家の事
 

一、永井右近大夫直勝・同信濃守尚政、御奉公箇条第一、永井右近大夫直勝、〈初名長田伝八郎、〉永禄六年癸亥、三州大浜邑に生る。祖父を長田喜八郎と号す。広忠君に仕へ、三州岡崎にて奉公。権現様稚き御時、今川義元へ仰せられて、喜八郎になされ、所領を賜はる。義元の証文判形あり。父を長田平右衛門尉重元と号す。御当家に奉仕、天正十年六月、織田信長公御生害の時、権現様、泉州堺より伊賀地を御越え、三州大浜へ御座なさる。重元御迎に出で、則ち重元が館にて御膳を上げ、御供の衆をも饗応す。

第二、直勝若年の時は、三郎信康君へ奉公仕り、信康君御逝去以後、遠州浜松に於て、権現様召出され、長田氏は、義朝へ逆臣の苗氏なる間、永井氏になり候へと仰せられ、長田は平姓なり。永井は大江姓なり。大江の家紋、一文字に三星をも、直勝に御免なされ、御譜代阿波伊オープンアクセス NDLJP:81予守〈備中守正次の父〉の壻に仰付けらるゝなり。

大江氏は、頼朝卿の時、因幡守大江広元の二男、永井時広より相続くなり。

長田入道が兄親致は、義朝に逆意なき故、恙なくして子孫相続ぎ、長田を名乗るなり。

第三、天正十二年甲申春、羽柴秀吉公、織田信雄公の家老岡田助三郎・津川玄蕃・浅井丹宮・滝川三郎兵衛の四人へ、摂州大坂にて、密に計つて申さるゝは、信雄公天下を知る器なし。各〻我に帰服せば、二十万石宛給ふべしとある故、何れも尤もと同心する故に、誓紙を書かせ、信雄公を計れとて、勢州長島へ遣さるゝ所に、滝川三郎兵衛反忠して、信雄公へ告ぐる故、信雄公残り三人を、長島城へ召して誅戮し給ふなり。 〈附三郎兵衛、後に下総守と号す。秀吉公と信雄公和平の後秀吉公、件の下総反忠する事主君へ頼もしき義なりとて、勢州神戸にて九万石給はり、羽柴氏を免し、羽柴下総守と改められ候事、秀吉公、奥意ありて斯くの如し。〉秀吉公・信雄公矛盾、信雄公より権現様へ、御援兵を頼み給ふ。信長公の因を思召し、御同心なり。此節、北条、御縁者なりと雖も、表裏測り難く、御跡の御気遣旁にて、御留守に御人数壱万六千余残し置かれ、漸く一万五千計り召連れ、三月より十一月迄九箇月の間、十一度の攻合々戦に、秀吉公、一度も勝利なし。就中、四月九日長久手の戦、権現様大御勝利なり。其様子荒増は、秀吉公十五万の人数にて、尾州犬山に備へ給ふ。信雄公・権現様、同国小牧山に備へ給うて御対陣なり。秀吉公方の積に、三州の留守へ味方より働かば、留守勢少くして討つ事なるまじ。家康、三州へ帰らるれば、信雄を滅す事易からんと評議を決し、三好孫七郎秀次を大将とし、池田勝入子息紀伊守・森武蔵守・堀久太郎等、三州表へ発向す。権現様御工夫を以て、御備を出でさせられ、長久手に於て御勝利、此時、敵の魁将池田勝入を、直勝鑓付け首を取る故、備混乱し、勝入子息紀伊守・森武蔵守も討死して、敵大崩なり。直勝廿二歳なり。勝入帯く所篠の雪といふ刀なり。権現様より直勝に之を下され、大に御褒美なり。権現様、其年の御武勇に依つて、自ら秀吉公、種種手を入れ、御妹壻にとあつて御和平、天正十四年九月権現様御上洛なさるゝ儀は、秀吉公より御誓紙の上、御母儀を人質に進められて斯くの如し。扨天正十八年、小田原落居の時、秀吉公より、信雄公を奥州へ遣さるゝとて、宇都宮にて改易し、下野の奈須へ追籠め、頭を剃らせ給ふに依つて、それより常真と号するなり。

第四、権現様関東御入国の時、永井直勝御知行五千石拝領。

第五、文禄四年三月廿日、従五位下右近大夫に叙任、豊臣直勝綸旨を頂戴す。是れ権現様オープンアクセス NDLJP:82へ、太閤より仰せられて斯くの如し。

第六、慶長五年、関原御陣の時、武頭に仰付けられ、御旗本に居らるゝ故、戦功は之なしと雖も、組の差引作法宜しき故、御帰陣以後、江戸に於て御加増二千石下され、外四千五十五石余、三河にて寄子給を拝領なり。

第七、大坂両度の御陣の時、六千の将にて御供なり。此時も御旗本備故、軍功はなけれども、御先手、其外、諸備へ御使に参られ、下知を加へ、或は敵の色を見積り、両御所様御分別の御相手になり、前後の思案工夫宜しき故、御帰陣以後、諸備の御穿鑿之ありと雖も、右近組中は、右近吟味次第にすべしと、権現様仰出されて御僉議なし。直勝武名の故なり。

第八、元和二年権現様薨御以後、秀忠君へ奉仕。同三年、常陸笠間城主仰付けられ、御加増拝領、合せて三万二千石になし下さる。

第九、同五年、福島左衛門大夫正則御改易に付いて、上使として芸州広島へ遣さる。其武備戦に向ふが如く安芸・備後の両城を請取らる。其仕様宜しき故、旁以ての儀に付きて、同年柿岡土浦領にて御加増二万石拝領、都合五万二千石なり。

第十、同八年、最上源五郎御改易の時、上使として最上へ遣はさる。留守堅固に残置き、総騎馬百九十五騎にて参られ、自然城を渡す事異義に及び候はゞ、踏破り候へとの議にて斯くの如し。無難に城を請取り、鳥井左京亮へ引渡して帰らる。同年笠間所替あつて、総州古河城主に仰付けられ、御加増二万石下され、合せて七万二千石なり。

第十一、寛永二年乙丑十二月廿九日卒去、六十三歳。古河永井寺に葬る。当寺開基永井寺殿前親衛月丹大居士と号す。御息

 一、信濃守尚政〈初伝八郎と号す。〉

 二、日向守直清

 三、豊前守直貞

第一、永井信濃守尚政、十四歳の時、慶長五年小山・関原へ父直勝と同じく出陣。同七年、十六歳の時より台徳院君に仕ふ。

第二、慶長九年、常州貝原塚に於て、知行千石拝領。

第三、同十年、台徳院君御上洛、将軍宣下の時、尚政十九歳従五位下に叙せらる。

オープンアクセス NDLJP:83第四、大坂両度御陣に御供仕り、五月七日、御先手へ御使に参られ、高名一つ、舎弟直清も高名一つ仕らる。

第五、元和二年、武蔵の菖蒲・近江志賀郡にて、御加増四千石拝領。

第六、同五年、上総にて御加増一万石。

第七、同九年、遠〔間イ〕にて御加増五千石、尚政自分の知行を合せて二万四千石、但し内四千石は、改出して拝領なり。

第八、父直勝七万二千石の内、子息へ配分、六万三千二百十三石余を、嫡子尚政へ譲らる。尚政自身の知行二万四千石、其外総州鴻巣領千九百石余、都合八万九千百十三石余を領し、父の跡を継ぎて古河に居城なり。

第九、信濃守尚政、台徳院君に奉仕、左右の近臣となつて、執権職に列して、共に天下の政令を承る。台徳君、寛永九年薨御以後、大樹に奉仕、翌十年癸酉四月、御加増一万石下され、古河を改替あつて、畿内枢要の地淀城主仰付けられ、弟日向守も采地を増し、都合二万石になし下され、同国長岡邑を領す。正保元年甲申冬十一月廿三日、尚政従四位下に叙せらる。慶安二年己丑七月四日、日向守、長岡邑を改替、摂州高槻城主に仰付けられ、御加増一万六千石、先領共に三万六千石、兄尚政と同じく帝都警衛をなす。

右尚政の妻は、御譜代内藤修理正息女なり。尚政の子息、

一、右近大夫尚徳〈初め大膳と号す、〉慶長十八年癸丑武州江戸に生れ、元和七年九歳、両御所へ御目見、寛永五年十六歳、台徳君へ奉仕、同七年十八歳、従五位下に叙せらる。妻は毛利宰相甲斐守秀元卿の女、嫡男永井大膳と号す。寛永十四年丁丑生る。

二、大和守尚保、〈初め右衛門と号す〉寛永六年十二歳、両御所へ御目見、同七年、大樹へ奉仕、同年十二月廿八日、従五位下に叙せらる。

三、大学尚庸、寛永八年辛未生る。幼年より大納言家綱君に奉仕。

尚政息女五人、

一、高力左近妻、早世。

二、米津〔内イ〕蔵助妻。

三、立花左近将監妻。

オープンアクセス NDLJP:84四、松平因幡守妻。〈因州死後、其弟数馬へ再嫁して卒す。〉

五、松平能登守妻。

別腹子息二人。

一、八十郎尚利、寛永十一年甲戌山州淀に生る。

二、五郎八尚春、同年同所に生る。

寛永十四年丁丑十二月廿九日、月丹居士十三回忌に当る。茲に因り日向守直清、悲田院の旧廃を興し、之を泉涌寺の山中に移し、再び永井庵を造り、月丹居士の碑を刻す。

二、直勝君碑銘石表辞

右近大夫永井月丹居士碑銘 民部卿法印夕顔巷道春誌

居士姓大江、氏永井、諱直勝、産于参州。時永禄六年癸亥之歳也。自幼筮仕東照大神君、経歴遠参二州閒。天正十年夏五月、大神君到江州安土、謁織田信長公。公甚欣賞之、治具尽礼、特請家臣数輩子別席膳、公自以箸配肴蔌。居士在其列。既而大神君入洛。公亦到洛在本能寺。公勧大神君覧泉堺。六月、公、為其下明智光秀弑、京師大乱。大神君聞驚、慮道梗不_利而欲東帰。乃発泉堺、経木津伊州、自勢州舟、而入参州岡崎城。是行也、往還居士不左右。過旬後、光秀伏誅。十二年春三月、信長之子信雄、在尾州清洲城、与豊臣秀吉公隙。秀吉将之。信雄請援兵。大神君、以信長旧好故許之。秀吉、遣其将池田勝入、以突騎尾州犬山城。大神君、率兵救尾州、与信雄同屯小牧山。居士従行焉。秀吉、引大軍犬山。夏四月、秀吉謀、密使勝入自閒道参州。大神君聞之、潜出小牧山勝入于長久手。居士執𥎄奮撃縦勝入其首、敵大敗走。時居士年二十二、人皆服其勇。勝入者、世所謂驍将也。居士之功、於是為多矣。冬十月、秀吉、畏大神君遂与信雄和平而去。其後、大神君之家臣若干、勅授従五位。居士亦在其中。其他列国老、叙位者鮮矣。文禄元年、秀吉撃三韓、集群国兵于肥州名護屋。大神君往会焉。一日、秀吉、詣大神君軍営居士曰、彼何為者。衆曰、永井右近者也。秀吉曰、取勝入頭者是乎。衆曰、然。日嘻壮士也。聞者皆歆美之。慶長三年秋八月、秀吉公薨。闔国兵馬之権、入大神君之掌握。五年之秋、石田三成叛。大神君自将討之、使諸将大戦于濃州関原、戮三成等。時居士列于隊頭。逮大神君之開幕府也、遣居士幽斎細川玄旨、尋前代柳営之礼義故事。蓋是欲損益随_オープンアクセス NDLJP:85也。十九年之冬、大坂之役、居士亦為隊頭。明年夏五月、大坂城陥、豊臣氏殲矣。凱旋之時有旨𤖔否群士、沙汰諸隊。功過已証、賞罰固当、而独属居士者進止、唯随其意而定之、君命令論焉。居士之名、於是藉甚矣。元和二年夏四月、大神君即世。居士自駿城江戸、仕台徳院殿大相国。乃賜常州笠閒城〔加イ〕封戸。五年夏、大相国在伏見城。福島正則留滞江戸。以其違国法築広島塁、命山陽・南海両道牧守、以其衆安芸・備後二州。時遣対州大守安藤重信与居士、往諭正則家人留守広島・三原。其行装所謂受降如敵也。留守懼而従命。乃取両城二州。雖正則罪不_原、而思関原軍功、減一等于越之後州。八年、以羽州最上郡鳥居氏。然旧刺史之士卒、猶守山方城。時遣上州別駕・本多正純及居士往諭之。鳥井氏既入山方城。会正純有罪。於是単使二人騁来、密告居士及鳥居氏、以命旨正純罪状、左遷于由利。是年、命居士笠閒総州古河城、弥〻増采地。然常侍江府、有棠陰聴_訟則居士預会焉。功成名遂恩眷尤深。寛永二年乙丑季冬二十九日、嬰病不禄。時年六十三。大相国甚哀惜、時時及此焉。世人亦多悲慕之。葬于古河永井寺。長子信州大守尚政嗣封、益〻揚家声、預聞国政。十年春三月、今大君幕下、更改古河城州淀城、復益其禄、且以城州長岡、賜尚政之弟日州大守直清以為食邑。直清久事幕下、夙夜不懈、常被親近、眷遇日厚。是其恩賜之栄盛而、居士之余慶也。嗚呼懿哉。今玆臘月者、居士之十三回忌也。其追遠之情不言也。唯恐。居士威名勇功、雖於当世於無窮。故欲楽石而遺芳蹟。於是求余蕪詞。余曽識居士久矣。又於日州韓也、故不固辞、遂為之辞之以銘。銘曰、

永井家譜 大江之後 赳々武夫 君左右 弱冠撃 長久手
短兵急接 勝入授 富父摏 関羽斬 昔人称 今復見
関原之役 大坂戦場 隊有 之紀之綱 笠閒・古河 食禄数万
于一方 賜以鉄券 偉哉将種 天使滋蔓 亀趺戴 百世伝

   居士卒後十三回寛永十四年冬十二月二十九日

                  従五位日向守永井直清立

尚政聞宇治山有道元和尚開基之霊〔跡イ〕、慶安二年己丑再建興聖寺。夫興聖寺者、本朝曹洞オープンアクセス NDLJP:86門之初祖道元禅師、自朱帰朝而草創之、高挙示西来之密旨、大振揚東漸之仏法。平副帥時頼、数招不就。乃往越之前州精舎、名曰永平禅寺。爾後此地為陳迹。然尚政、為賢父月丹大居士、興廃地造之、屈請万安和尚之、号興聖寺、居士霊廟之側、立月丹之石表

 右近大夫永井月丹居士石表辞

                    民部卿法印夕顔巷林道春撰篆額

居士大江姓、永井氏、直勝其諱也。以永禄六年癸亥之歳于参州大浜邑。祖広正、嘗通志于贈亜相源君広忠公。故食大浜邑上宮社田。考曰直吉嗣焉。居士、少仕東照大神君、経歴参遠二州間。天正十年仲夏、大神君、赴江州安土平信長公。公甚悦慰〔享イ〕之、特請従者数輩子別席食之。公手自執箸配肴葅。居士在其列。既而大神君入洛、公亦到洛、勧大神君覧泉南。翌日明智光秀弑公、京師騒乱。大神君聞之、欲光秀、而聴家臣諫時不可、而発泉堺伊賀。聞路多群盗、而自伊勢舟、著参州大浜。直吉以舟迎之。即入其宅。因献膳、且令従者憩休焉。大神君嘉之、直入岡崎城。是行、居士不其左右。夾旬後光秀被戮。十二年季春、信長子信雄、与豊臣秀吉公難。秀吉将之。信雄拠尾州清洲城援兵。大神君、以信長旧交故之。秀吉、使其将池田勝入以逞兵、攻尾州犬山城。大神君、引軍救之、与信雄共在小牧山。居士従行。秀吉、既入犬山。孟夏九日、密遣勝入間行襲参州。大神君聞之、即出小牧山勝入、戦於長久手。居士、提槍突出刺勝入其首、敵大敗北。時居士、年僅二十二、人皆尚其勇。勝入者、秀吉之驍将也。以勝入所帯劔曰篠雪居士。其劔、今猶在焉。居士之居功矣。孟冬、秀吉、憚大神君、遂与信雄講解而去。其後、大神君之家臣若干、勅授従五位。居士亦在其中。若他列国老、叙位者罕矣。文禄元年、秀吉、撃朝鮮兵于肥州名護屋。大神君往会。一日、秀吉、詣大神君営居士曰、彼何人哉。左右対曰、永井右近者也。秀吉曰、取勝入頭者是乎。僉曰然。日嘻壮士也。聞者皆美之。慶長三年仲秋、秀吉公捐館。闔国兵政、悉入大神君之掌内。五年秋、石田三成作乱。大神君自将伐之、使先駆、大戦于濃州関原、三成等就擒。時居士列于隊長。逮於大神君之制聞外也、令居士尋訪前代柳営之儀式故事于細川玄旨。乃繕写呈上。是為其随オープンアクセス NDLJP:87時宜沿革故也。十九年冬、大坂之役、居士亦為隊頭。明年仲夏、大坂城陥、豊臣族滅矣。凱旋時、有戒命汰衆隊、賞功罪法。而其士之属居士者、任其進止以定功罪、官令論。居士之名弥〻藉甚。元和二年初夏、大神君棄群臣矣。居士、自駿府江戸仕台徳院大相国。乃賜常州笠閒城、以増食邑。五年夏、大相国在伏見城。福島正則拘留江戸。以其違制修築広島塁故、令山陽・南海両道牧司収安芸・備後二州。時遺対馬守安藤重信与居士、往諭示正則家臣留守広島・三原、其軍装雖于前、然有不虞也。留守恐而伏従。乃取両城二州而還。、正則罪所赦。然以関原軍労故、減一等於越之後州。八年、賜羽州最上郡子鳥居氏。其旧刺史之士卒、猶守山方城。時遣上野介本多正純及居士往諭之。鳥居氏既入山方城。会〻正純有罪。時単使二人、持符馳来、密告居士及鳥居氏、以旨督過正純、左降于由利。是年、命居士笠閒、賜総州古河城、益加采地。然常侍江戸、毎訟於庁、居士預聴。功名愈〻顕恩遇尤渥。寛永二年乙丑季冬二十九日、病卒、時年六十三、大相国甚哀惜、人亦悲慕之。葬于古河永井寺。嫡男従五位下信濃守尚政、嗣封益〻揚家声、預聞政事年矣。十年季春、今大君幕下、更改古河城州淀城。所増其庚維億。尚政弟曰直清。叙従五位下日向守、賜城州長岡邑、以加其禄。次曰直貞。任豊前守、次曰直重。共叙従五位下。信州長子尚征、承乃祖号右近大夫。次曰尚保、共授従五位下。次曰尚庸。幼奉仕大納言家、好聚群籍且読兵書。尚政往還武州・城州之閒、或連年或閒歳、皆莫旨。正保元年仲冬二十三日、授従四位下、且賜暇。拝之辱〔ナシイ〕而還淀城。慶安二年孟秋四日、改直清長岡更賜摂州高槻城、愈〻増封戸、且令長岡屋宅於高槻。余嘗応日州求、而作居士碑銘、其雄偉之盛、雖著于世、而猶欲其智名勇功伝于不朽也。今復依信州請、而作石表詞亦庶幾乎。昔唐韓愈、誌太原王公墓、而又作神道碑文、宋蘇軾書司馬温公行状、而又製碑銘。余素雖其万一、然居士之名也無涯而吾筆也有涯。以涯之筆涯之名、雖韓蘇奈何耳。而今所刻石堅而不磷、可以無_涯。遂系之以辞。辞曰、

惟昔社田所賜、 先志之無_弐。 彼中流之一壺、 幸大浜之所呬、
小牧之役獲雋、 刀槍鳴子鉄騎 関原軍・大坂役、 隊長其類
笠閒隍・古河塁、 共拠金湯之要地 懿哉孝子友弟、 〔禄イ〕封爵以継嗣。
其忠勤之不巳、 淀城而登四位 既殿于此一邦 況経之以五常
常憶安不戦、 倉廩実而多利器 嗚呼積善之家慶、 世々縄々有戒備

慶安二年龍輯己丑十月廿九日 従四位下永井信濃守尚政立

オープンアクセス NDLJP:88  永井尚政家

、大馬証 茜四田町よぬの半四方、〈但し少し長がみあり〉正文字白竿先鳥毛、〈但し毛を植うる所一尺許り。〉

小馬証 猩々皮の𩮝かむろなり。三尺程竿下二田町四方、ののれんに黒く一文字三ッ星。

指物  紫地に白く丸あり。其丸の内に、紫にて一文字に三星。

役旗  赤地に白く一文字三。星、竿の先に鳥毛の出しあり。

月丹居士

、腰差  初は金団扇に、八幡の梵字黒く、後は切菱のみせなり。

大馬証は、皮巻の胴黒くして、白く左巻あり。

小馬証は、右の猩々皮の髻にて、最前の腰差を、小馬印と用ひらるゝ時も之ありつる由。

総旗は、紺白く段々の長のぼり、麾きを赤くして、白く一文字に三星なり。

 
夏目舎人助定吉の事
 

第一、源姓夏目氏、舎人権助定吉は、永禄十二年二月十五日巳刻生る。紋七曜、又角折敷一文字。

村上天皇十八代赤松次郎入道円心嫡男、左衛門尉範資、其長男光範二男有田肥前守朝則、其嫡子赤松掃部頭親則は、京家の公方に仕ふ。親則が弟有田越前大目定朝は、関東鎌倉の公方に仕へて、武・上両州の内、二郡の司となり、上野藤岡といふ所に、戸根川をかたどり、城を構へて住す。其後、軍功に依つて食邑を増し、従四位上に叙せらるゝの由証文あり。定朝より五代大舎人少属正五位下定景なり。此時、永享十二年庚申、京の公方〈[#「公方」は底本では「公家」。後文に倣い修正]〉義教公より、鎌倉の公方時氏公を滅さるゝ事は、持氏公の下、両上杉、京家へ心を通ぜらるゝ故なり。定景忠勤を存ずと雖も、一身の智術にさり難き故、持氏公の末子を盗取り、済家の禅どんほう和尚を頼み隠し置く。然るに、其翌年嘉吉元年六月廿四日、京の公方義教公、赤松満祐の為めに弑せオープンアクセス NDLJP:89られ給ふ。三年公方家闕職。文安二年乙丑、義教公の嫡子義勝公、将軍に任じ給ふ。定景、時を得て種々智略を廻し、彼此相語らひ、右持氏公の御末子を取立て、文安三年丙寅、古河に城を構へて仕へ奉る。左兵衛督盛氏公是なり。持氏公御滅亡の七年目なり。両上杉色々降参ある故、又前々の如く古河の公方の下にて執権なり。上杉の心に、盛氏公へ背きなば、持氏公への悪意も、弥〻顕はれ、当公方へ心を寄する大名もあらば、事六ヶしと思ひ、降参なりと雖も、公方をば具物そなへものにして、万編の政合、両上杉より出づる。定景、無念に存ずと雖も、上杉の権威に、関東衆服従する故、愁の事を仕出しては、一身は免も角も、公方の為め如何と、思案して年月を送る。成氏公、古河に御なをりの文安三年より、廿二年の後、京都細川・山名の争にて、応仁の乱出来る。此時、定景、上野藤岡より切つて出で、成氏公を後楯に仕り、所々を打靡くと雖も、上杉威勢に恐れて、定景に一味する衆少き故、本意を遂げず、切取りたる所を相違なく取りしき、先領に三倍の主となり、文明元年己丑七月五日卒す。六十五歳。定景が子を、豊後権椽定基といふ。上杉家威光強く、関東はいふに及ばず、奥州・北国迄も支配にて、背く事ならざる故、定基が領上野藤岡城を、武州八幡山雉岡〔雉子イ〕〈[#「雉」は底本では「雍/子」]〉へ引き、領地を増し預けらる。定基有田氏を改め、夏目氏と称す。明応元年壬子二月廿四日卒。四十一歳。定基三子あり。一男は右馬頭則定、古河公方に仕へ、赤松を名乗り、〔正イ〕五位上に叙せらる。嗣なし。二男を夏目豊後権守定盛といひ、父の跡を継ぐ。三男は岡庭左近将監忠房といひ、深谷の上杉三宿老の内、岡庭が養子となる。定盛が嫡子を、左衛門尉定国といふ。是夏目舎人助定吉が父なり。定国、後に定虎と改むる事は、長尾家へ参り、輝虎公の虎の字を給はる時、数代相続の定の字を、上に置き候へとの義にて斯の如しと、愚父舎人、某軍八に申聞け候。

第二、舎人助定吉が祖父夏目豊後守定盛は、文明七年乙未三月廿日、上野藤岡に生る。妻は上杉代々の家老大石刑部少輔の妹なり。定盛、父定基代より、武州八幡山〈雉ヶ岡ともいふ〉に居城す。定基卒して、定盛、其跡を継ぎて、八幡山に在城し、其後、相州長尾に城を築いて在城する事は、其時、北条氏綱切蔓り給ふに付いて、其抑の為め斯くの如し。

氏綱の息氏康の代になりて、武州を南方より治むる。就中、氏康の子息北条安房守氏邦、藤田右衛門佐養子になりて、鉢形に在城、雉ヶ岡へは、荒川を隔てゝ、上道五里許りある故、氏邦領知の内になるに付き、雉ヶ岡には、氏綱家老横路左近将監在城なり。夫より年経て後、オープンアクセス NDLJP:90太閤秀吉公、関東御陣の砌、雉ヶ岡を破却して、氏邦と一所に鉢形城に横路〔本ノマヽ〕籠るなり。

第三、相州長尾城は、武・甲・相三ヶ国枢要の地なり。殊に武州より相州への海道、小仏越の堅の為めに、定盛在城す。北条氏綱より、年中に二三度・四五度手遣し給ふと雖も、定盛防戦し、毎度勝利を得る故、長尾近辺へは寄来る事漸く中絶に及ぶ所、永正十〔七カ〕年庚辰七月廿日といひ伝ふるに、氏綱、一万の人数にて長尾へ取詰めらるゝを、定盛、聞いて五百騎の兵を以て防戦ふ。其備は、

一、城内には新巻刑部・天貝雅楽允、百騎を二備にして残置く。

二、寄合衆六十騎余、此頃常州窂人小山右近を、西の山手に隠し置く。

三、小仏筋の山手に、地下人を集め、仮の大将を付けて置き〔上せイ〕、相図を定め隠し置く。

四、定盛自分三百五十騎を七隊にして、二手宛四手は陰陽の備、旗本三手は、一手の如くにして鋒矢に立つ。是は敵の真実を考へて、をとやの勢、其度を外すまじき為めなり。

斯くの如く作法を定め、堀涯の防戦を心懸け、城より出張つて待ち備ふる所に、北条家の先手荒川・山角雨手進来つて備を設くる。定盛、先手右の方甲斐庄兵衛左衛門手先より、足軽を懸けて取くさる。北条衆、之を互と懸来つて合戦、互に入乱れて、雌雄分らざる時、城内に残りたる天貝雅楽允五十騎、東の虎口より突いて出で、北条衆の先手と旗本の間を、横より切懸つて、縦横無碍に懸靡くる。新巻刑部は、城を堅固に申付け、虎口前なれば、小備をも奥深く見せて、この合戦を待つて見えつ見えずに相備ふる。北条衆、大軍なれば手〔数イ〕の備あつて、夫々に請取つて備ふる故敗気なし。定景、之を見て采配を採つて、敵味方の戦を右に見捨て、我が旗本を以て、氏綱の旗本へ猶予なく切懸る故、天貝に向ふ敵も、先手と戦ふ敵も、氏綱の旗本を気遣ふ跡へ、心ある故戦少め〔本ノマヽ〕てなされ、旗色速かになる所、西の山手より小山右近、人数を下し、尤も味方の後勢山手を取りしきて、際限なきやうに見せ、一手切に下して、北条衆へ、切懸るべき模様の武略をなし、右近は、是も敵味方の防戦に構はずして、左の方より氏綱の旗本へ、静かに懸る故、味方は弥〻盛んに、敵は気後れて、北条衆の先手敗軍して、氏綱の旗本迄混乱す。其様子を見て、小山右近、真先に進みて切入る故、北条衆悉く敗軍なり。定盛は逃ぐる敵をば、小山に渡して追はせ、我が旗本は引揚げて、乱れたる味方を、打まとめて備を立つる。此時、大道寺が甥宮内、金の三つ輪ぬけの腰差にて、一騎乗下り、殿をして、引揚オープンアクセス NDLJP:91げたる武者振見事なり。それを味方信州窂人にて、武者修行に来りたる青柳新六郎、互に馬上にて名のり合ひ、組んで落ちて首を取る。新六、廿八歳の時なり。信州川中島青柳譜代筋の士なり。然る故、頓て信州へ帰参、後に青柳隼人といふ。

天正十年、川中島を景勝の手に入れらるゝ頃は、新六郎は死に、其子二人あり。兄を新六郎といひ、弟を主馬といふ。筋目故に夏目舎人を尋来て、右の様子を委しく話し聞かせ候。

右の時、氏綱、采配を取りて、旗本許りにてなりとも、守反もりかへして、敵を切崩すべしとある時、何れも制し止むる事は、小仏筋山々に隠し置きたる地下人共、城内より相図を見て、紙旗或は明衣手巾等を立て、武州よりの加勢、木立を動来ると見ゆる故、氏綱引取られ、定盛凱旋して城へ入り、首実検して武名を揚ぐる故、此後、定盛在世中五年の間は、北条家より長尾近辺へ働来る事なし。

右に記す天貝雅楽允の子を、治部左衛門といふ。北条右近所にあつて武名あり。北条右近は、謙信公御死去の節、沼田城に居て、北条家へ随身なり。後には景勝公へ帰参候は、一旦は北条の権に依つて、随身仕り候へども、譜代の主君なりとて、伯父の北条安芸守をも動きけれども、同心なき故、右近許り佗言仕り、上杉家へ帰参なり。右の治部左衛門も、其砌より右近跡に居て、家老を致し、右近死後に沼田へ引込み居り申候。先年の筋目を以て、孫を一人、舎人助にくれ候て、今罷在り天貝太左衛門といふ。又右の小山右近は、定盛死後に常陸へ行き、佐竹殿へ出づる。其子を右衛門といひ、右衛門の子を与左衛門といふ。佐竹義宣、秋田へ所替の時、暇を乞ひ、水戸に留り居申し候。是も昔の由緒を以て、与左衛門子を舎人にくれ候。今の小山太兵衛是なり。

豊後守定盛、大永四年甲申三月十五日卒す。男子三人の内、二人は早世、女子一人は、深沢城主刑部少輔妻となる。末子虎千代定国、九歳にて父定盛が迹を継ぐなり。

第四、夏目虎千代丸定国、永正十三年丙子五月廿七日、相州長尾に生る。〈後、左衛門尉定虎と改む。〉父定盛死し、定国幼き故、北条氏綱、又長尾へ手遣あり。然れども、被官に歴々武功の者ある故、定盛在世に違はず、防守つて城を堅固に持つ。されども、若年の定国、行末迄の儀、大事を遂げ難きの所に候へば、余人を差置かるゝか。扨は武功の衆を、介添に加へられ下され候へと、上杉殿へ頻に訴訟仕ると雖も、其儀延引の内、北条衆、長尾へ三度迄働くと雖も、能く防戦してオープンアクセス NDLJP:92城を持ち堅むる所に、四度目大永七年十月、氏綱、一万二千余の人数を持つて、五月より十一月三日迄攻めらる。味方に後攻はなし。敵は早相州一偏に切随へ、伊豆と二ヶ国、其外、隣国へも少々手を懸け、猛威甚し。虎千代は、当年十二歳なり。今迄四年の内は、能き家来の者、二心なく忠義仕りたる事なれど、今度に於ては、城を持忍ぶべき様なし。されども、十二歳の虎千代、自身槍を取つて突いて出で、敵を追払ひ、夫より直に小仏峠へ懸り、武州へ落行きて、上杉殿の居城、上野平井へ恙なく引取る事、乳子の矢部軍吉・佐竹帯刀といふ両人の者、供仕る故なり。残の者は城を持堅め、虎千代落延びたる時刻を考へ、夜に入り一防仕つて後、城に火を懸けて、思々に切腹、尤も討死仕りたる者も多し。右の段々、上杉殿へ虎千代申上げ候へども、上杉義綱公、善悪の批判もなく、跡目の沙汰もなし。平井に詰居て仰せ出さるるを相待つ所、義綱公、享禄三年の春病死。御息則政公の世になり、政道悪しくなり、虎千代の事など、目に懸け給はざる故、享禄四年、虎千代十六歳の時、平井を引払ひ、藤田右衛門佐跡へ行き、備を借り罷在り候。同年霜月廿三日、北条氏康、九千余の兵にて、武州所沢へ働出でらる。上杉衆打集り、一万五千計りにて一戦あり。則政公は御出馬なきなり。其時、藤田右衛門佐先手にて、北条の魁陣多目衆を、突立て追崩し、多目が二男山城守を討取るなり。此時、虎千代は、左衛門尉と名を改め、一番鎗を致し、其相手を突伏せ、鑓下にて首を取る所へ敵来り、定国が槍を奪ひ、取直して突いて懸るを、定国見て、取りたる首を投捨て、首取脇差を以て渡合ひ、終に切留めて高名二つ仕る。一時一場にて三度の誉なり。藤田衆、各〻進んで多目を三町余追討にする所、敵大道寺は、上杉家の見田を切立て勝利なり。殊に氏康、旗本を以て助来つて悉く突崩し給ふ。上杉方は大将なくして、我が意地々々の働にて、評議調はず不実なれば、終に敗軍なる故に、藤田も備を引揚ぐる。氏康凱歌なり。

右帰陣して、夏目左衛門尉定国、訴状を認め、則政公へ差上げ置きて、藤田右衛門手前を忍出で、国々を武者修行仕り、一家中にて一両度事に逢ひ、褒美を得、感状を請はる。甲州にては、内藤修理備を借り、今川・佐竹・会津・千葉・宇都宮・結城にては、水谷伊勢中備を借り、西国にては、安芸の毛利家の吉川、島津家にては二いろ〔新納〕、上方にては土岐衆、信長家にては、青山備を借りて斯くの如し。其以後、永禄三年庚申の八月、上杉謙信公へ罷出で、足を止め候。仔細は上野廏橋城主長尾弾正入道謙忠を頼み参り候。折節、謙信公、西上野へ御発向、沼田御著陣オープンアクセス NDLJP:93故、謙忠使者を以て、左衛門事申上げられ候へば、即ち柿崎備を御借りなさるべしと仰出され候。其翌日、前橋に御著、左衛門尉定国を召出され、一々の様子、委しく聞召し、殊の外、御褒美あつて、当分の入用とて、金子を下され候。其方事、当年四十六歳と申せば、年も能き頃なるに、身上をも堅めざる事如何なり。身命を惜まず、武功を尽しても、名字を継ぐべき子孫なければ、先祖への不幸なり。武者修行などは、軽々しく候間、我が下に身上を堅めらるべく候。謙忠が介添武者、横目に付置く伊田山城守といふ者は、我が家無類の武功の士なる故に、此者の娘を、河田伯耆守に遣し、伯耆守に沼田城を預置く。山城が娘、今一人あり。其方へ縁組申付け、寄騎六十騎付くべし。沼田は大事の地なり。河田と一所に居て、能相給へと仰せらる。左衛門辞退仕り候へば、謙信の仰せらるゝは、其方元来、上杉家にて三代迄忠孝の士なれば、某譜代と同じ故、斯くの如く申付くるなりと、再三仰付けらるゝを以て、御請を申す故、河田伯耆守介副になり、上沼領・下沼領・こゝふなましななどゝいふ所にて、所領拝領し、組六十騎、其小頭二人は、下沼田図書・〈下招田豊前伯父〉庁品主水〈深沢城主刑部少輔の従弟〉を附けらるゝなり。

前橋城主長尾謙忠を、後に謙信公御成敗あつて以後、北城安芸守を前橋城に差置かれ候。謙忠御成敗の仔細は、中武蔵江戸城主太田三楽入道、謙信公の幕下に属して支配仕り、同国松山の城には、則政公脇腹の庶子上杉友貞に預け置き、三楽は友貞の被官の如く、之を守り立つると号して、近隣を招き集むるを以て、北条氏康聞き給ひ、武田信玄公を加勢に頼み出し、両旗を以て、松山の城を攻めらるゝ故、友貞降参して、城を北条へ渡さるゝ事、永禄五年壬戌三月なり。此時、三楽、松山の後攻仕るべきを、武田・北条両家、五万許りの大軍なる故、三楽一身にて叶はざるに依つて、謙信公へ後攻を頼み、謙信公御著陣遅々の内、友貞降参して、右の通なり。落城の翌日、謙信公廏橋城に著き給ふ。三楽も江戸城には、太田氏広〔武庵イ〕を残し、留守丈夫に申付け廏橋へ出向ふ。

三楽は、道灌より四代の後胤。武庵は、道灌弟より四代の苗裔にて、三楽妹壻たりし由、武庵総領娘おか〔ちイ〕殿と申して、権現様御側奉公、頃日の永松院殿と申すは是なり。水戸頼房卿の御継母に御定なされ、永松院殿の弟太田新六を、権現様召出され、五百石下され候。新六の子は、今浜松城主太田備中守資〔宗イ〕なり。謙信公へ、三楽御目に懸る時、謙信公大に怒り給ひ、後攻を頼み、某を引出し、著陣迄待たずして、城を渡す臆病者の友貞を見知らざるは、三楽武オープンアクセス NDLJP:94道の誤なり。敵方に、謙信たぎらす後攻なりと、嘲らせん為めに引出したるならば、其方逆意なりと仰せらる。三楽、全く左様の儀にて之なくとて、友貞が人質、其外、城に籠りたる者の人数帳迄持出し、誤なき通を申し披く。謙信公、即ち其人質を成敗仰付けられ、機嫌を直し、其翌日、北条持の山の根の城へ、東道三十里程之れあるを攻め落さんとて、氏康・信玄へ使を立てられ、仰遣されけるは、松山後攻に出張を致し候へども、友貞臆病の奴にて、待兼ね城を渡し候儀、是非なく候。其返報に、山の根の城を攻むべき間、御妨げ候へと申断り、翌日辰刻許りに、廏橋を立て、三楽に案内をさせ、越後勢七千余騎・三楽手勢六百許り、合せて八千足らずの人数にて、刀根川二本木の渡を越えて、斯くの如し。敵は両家四万八千余、殊に松山城を取つて、猛威甚しき大軍の陣取の前を、静に押通り、山の根の城へ取懸り、其日の夜より攻め、翌寅の刻に乗破り、敵二千三百余、雑兵共に攻め殺し、城に火を懸け焼崩し、其儘引返し、刀根川を後に当てゝ船橋を切流し、北条・武田両家へ対して、備を立設け、山根城兵の首共を持たせ、使を遣さる。口上には、此度若輩の謙信、推参がましく小勢にて、心緒の働仕るを、奇特と思召しての故か。後攻之なきを以て、容易に山の根の城を攻め落し、引取り候事、両大将の御志故なり。其返礼に、切取りたる首共差遣し候。志を違へず討死仕りたる忠勤の首に候へば、供養せらるゝ尤に候。某儀、之を手柄に仕り、早速帰陣致すべく候へども、右の様子無下にも思召すべき儀も、之あるべくと存じ、対陣致し候。御合戦なさるべく候はば、両家へ対し、一入精を出し申すべく候と、憎げなる使を立てゝ、其場を去らず、陣所の外張に、堤を一つ用ひ逗留なり。両大将、謙信を相手にして、勝つも手柄にあらず、負けては弓矢の瑕瑾なりとて、合戦はいふに及ばず、足軽一人をも、謙信の陣所の堤の内へ手遣なし。謙信、又使を立て、御一戦なさるまじき体に相見え候間、明日、此表引取り越中へ働き候。せめて跡より御慕ひ候へと断りて、備を引揚げ、越中へ発向あつて、治め残りたる所々を平均して、夫より能登へ働き、城攻・攻合あつて、方々御手に属せられ、年八月末、春日山へ馬を納れらるゝなり。

去々年上洛の時、義輝公より賜はりたる輝の字を、此年の暮より用ひ、政虎を改めて輝虎と号し給ふ事、御心持あつての儀なり。此年謙信公三十三歳なり。右廏橋城主長尾謙忠は、北条・武田、松山城を攻めらるゝ様子を、見ぬ振を仕り、逆意顕はるゝ故、謙忠夫婦・男子二人・オープンアクセス NDLJP:95女子一人、以上五人、山の根より御帰陣あつて、御成敗仰付けられ、其跡廏橋城を、北城丹後守に御預け、丹後守を改めて、安芸守になされ、其子弥五郎を、丹後守になされ、謙忠が被官寄騎を、弥五郎に預け下され、或は御旗本組に仰付けらるゝも、之あるなり。

謙忠介副伊田山城守・〈舎人助外祖、〉安芸守子丹後守介副になり、其儘、廏橋城に罷在り、三年過ぎて、永禄七年二月廿日病死仕る。其子伊田若狭守は、旗本使番にて罷在るを、山城守になされ、寄騎八十騎・足軽六十、其外、跡目の様子、少しも替らず仰付けられ、父が如く丹後守介副に、前橋に差置かるべしと仰付けられ候へども、達て御断り申候。若狭守は、天文九年庚子の生にて、永禄七年には廿五歳なり。十五歳より父と連れて、数度心緒を仕り、父をもどく程の武道、はたばりのある若者なる故、御選抜なされ、御使番十四人の内なり。若狭守御断り申上ぐるは、若輩の某、介副仕る儀、御家に人もなげなる批判如何、其上、廏橋に許り罷在り候ては、軍功を励む様御座なく候。御旗本に召置かれ、似合の忠勤をも仕り、存命にて少し分別も出でたる時分は、如何様にも仰付け下さる事、御慈悲にて御座候と、逹て申上ぐる。謙信公聞召し届けられ、武道に心懸け、忠勤の為めの訴訟なれば、下知違背仕る自余の引懸には、ならざる事なりとて、春日山へ御呼び、先手の足軽大将七人の内になされ候。夫より武道の誉重く、御感状九通所持仕りたる由なり。其後、天正五年、加州松任城を攻めらるゝ時、本城衆の備へ、介副の検使に、我が組を連れて参り、采配を取つて下知仕り、本城衆を、一番に城へ乗入らせ、我が組をも纏めて乗移り、直に本丸を乗〔〈取脱カ〉〕る時、城主の長と伊田山城槍組み、山城は屏蓋の上、敵の長は武者走に立て、長が仰ぐ所を、山城槍を、長が内甲へ突入れ、山城は左の脇引より長に突かれ候。然れども飛んで下りて、鑓を抜かずに、長が首を取らせ候。山城は其手痛み、翌日巳刻に死に候と承り候。此山城は、柴田因幡妹壻にて候へども、子なくして跡絶ゆる。是に依りて、因幡守が伯父の刑部左衛門に、山城が寄騎足軽残らず御預なり。景勝公の代に、因幡と一味仕り、のつたりの城に罷在り、御成敗に逢ひたる柴田刑部左衛門が事なり。

右夏目左衛門事、廏橋にて召出さるゝ時、謙信公、戸根川を渡り、西上野へ御発向あれども、敵出でざる故、植田をこね、或は放火の時、小攻合あつて、西上野の地、少々御手に入れ、宗社と申す所に要害を構へ、御同名の長尾平太夫を差置かるゝは、西上野へ御手遣の為めとて斯オープンアクセス NDLJP:96くの如し。後迄、宗社の長尾といふは是れなり。此御陣に、夏目左衛門達て御断を申し、一騎役にて御供仕り、柿崎和泉備先にて小攻合の時、心操を致し、御褒美、虎の字を下さる。左衛門尉辞退申し上ぐるは、某数代、定の字を上に用来り候へば、先祖の為めに下し置く事如何、又御字を下に置く事は、甚恐ありと申し上ぐる。謙信公仰せらるゝは、家伝の定を、下に置く事勿体なし。少しも苦しからざる間、虎の字を下に置き候へと、再三仰せらるゝ故、左衛門尉定国を改めて、定虎に罷成り候。其帰陣より左衛門尉、沼田へ参り罷在り、戦国最中なれば、武田・北条家の衆に対し、戦術之あり候へども、委しく承はらず候故、之を記さず候。左衛門尉相壻の河田伯耆守、病気にて訴訟仕り、天正二年甲戌沼田城代赦され、関根の寄居へ引込み、年月を経て病死なり。沼田城代は、本丸を上野中務大輔に仰付けらる。是は譜代の士大将なり。此時、謙信公より夏目左衛門尉定虎方へ、鰺岡太郎兵衛を御使者として下され候御状、左の如し。

急度一筆申送候。河田伯就病気旁、沼田城代訴訟之趣聞届、関根へ遣之条、其跡、上野中書に申付候。如前々万端令相談、加指南給候。頼入候。河田発足之已後、上中著城前、貴殿本城へ被移尤に候。将又宗舎之長尾、敵地切取武略之儀、其方以工夫指南之由、遂承聞感悦寔に多幸々々。依之川巴領一跡令加恩者也。猶使者鰺岡太郎兵衛可演説候。恐々謹言。

  天正二戌五月三日    輝虎御すへ判

追而、近々、信州へ欲馬之間、往還之砌、いづれに可馬寄候。其内互之吉左右珍重々々。

 夏目左衛門尉殿

某軍八、先祖代々の感状数多之あり候へども、父舎人窂人、上野の内、まう原といふ所に居り候時、慶長二年酉三月廿一日、自火にて焼失、此御状一通残り候。父舎人助定吉、幼稚にて左衛門尉定虎に離れ候故、父の物語を委しく承届けず候由、別人の語伝を聞覚え候と雖も、首尾合はず。不実なる事は書留めず候。

景勝公より舎人定吉に給はりたる直判の御感状・御状共に五通、直江よりの状・うけたまはりの感状、或は藤田感状・添感状、或は水原常陸・大関弥七と申したる時、奉の御感状一通・安田〔上イ〕総介よオープンアクセス NDLJP:97りの状一通、合せて十三通所持致し候所に、是も右の時、焼失仕りたるもあり。又其後、両度の類火に焼亡。残りて之あるは、景勝公直の御感状二通・藤田感状一通、合せて三通許りなり。天の照覧私なく候。

夏目左衛門尉定虎、天正四年丙子九月廿五日、上州沼田に卒す。六十一歳。観樹院道栄日侃居士と号す。

子二人、

 一男、夏目新七郎定包、〈中頃軍八定吉、後舎人助を改む、〉後上州沼田に生る。

 次男、夏目九兵衛尉定継。

直江山城守所にて、近習廿五騎の頭を仕り、数度誉之あり、越後を窂人以後、本国沼田へ引籠り、正保四年丁亥十月廿二日病死。七十七歳。

 右の母は、伊田山城守娘なり。慶長三年戊戌十月九日、舎人助方にて病死なり。

第五、新七郎定包、八歳の時、父に離れ候所に、謙信公より跡目相違なく仰付けられ、組子六十騎も、其儘之を附けられ、小頭片品主水・下沼田図書両人の者、新七を守立て候様に、扨又、御旗本より小中彦兵衛といふ老功の使番を差副へられ、三人相談差引仕り候へと仰付けらるゝなり。謙信公御逝去の後、沼田城、北条家の持になつて、用土新左衛門信連居城なり。新七郎が親・祖父の事を、信連能く存ぜらるゝ故に、新七郎を介抱あつて、北条家へ申達し、先知を給はる。新左衛門死去の後、弟の用土弥六郎相違なく、沼田在城故に、新七も其儘属従す。其後、弥六郎、甲州へ随身の時も、其通にて罷在り、甲州家にて弥六郎、藤田能登守と改めらる。〈前書之を記す。〉天正十年、藤田能登守、越後へ参らる。新七郎十四歳の時なり。景勝公は、古主の筋目なれば、一入悦び、藤田に随つて越後へ参り候。天正十二年、藤田、景勝公の軍代として、佐渡へ働かるゝ時、新七郎十六歳にて随行き、河原田表一戦に、誉の働を仕る。其時、藤田信吉の吉字を給はり、父定虎は、謙信公より虎の字を給はり、定の字は、先祖よりの字なれば、虎の字を、下に用ひたる例を以て、吉の字をも下に用ふべしとて、其時、軍八定吉と改め候。佐渡より帰陣あつて、景勝公へ御目見致させ、旧緑を申達せられ候故、領知を下され、佐州の働に依つて、寄騎の内、廿五騎の小頭を、景勝公より軍八に仰付けられ候。此時十八歳なり。小林安芸守といふ小頭死去の跡なり。但し軍の時は、本間治部といふ武功の士を、オープンアクセス NDLJP:98軍八が介副に仰付けられ候。同十八年、秀吉公小田原陣の時、景勝公、越後より御出勢、藤田寄騎五十騎の大頭を、軍八に仰付けられ候時、軍八の名は広く聞ゆる間、公より御感状頂戴仕り候。天正十四年十二月朔日、藤田五十騎の舎人権助と改め候へとあつて、景勝公御前へ召出され、御自筆に遊ばされ、御判形致し頂戴候。越後家の古き衆は、何れも存じ候。其翌天正十九年の極月、藤田能登守壻に仰付けられ候。

舎人助、上杉家へ参り、似合の心操仕り、或は高麗陣迄の働、其後、越後を窂人仕り候事、此末の巻に之を記す。

大坂冬の御陣の時は、窂人にて、上野の内、ゴンタ三の蔵の入に居申し候。御陣前七月より、日発ひおこりの瘧病存命不定故、志を無二に仕り候。翌年、夏の御陣にも、本復仕らず候へども藤田を慕ひ、木曽路を罷上り候所、贄川より瘧病再発仕り候を、押へて六里半福島迄参り候へば、弥〻重り十死一生の体故、彼の地に逗留、三月下旬より四月末迄養生致し、少々快くなり、四月廿九日、福島を立ち候へども、病気故漸く五月七日の暁、伏見へ参著仕り候。大坂落城の火の手相見え候。偏に本意なき儀なり。夜通に大坂へ下り候。翌八日午刻許りに、秀頼公、御切腹なされ候由を聞いて、伏見へ帰り、同十日、藤田能登、伏見の側三柄といふ所に陣取り居られ候間、其へ参り、家老の今村二郎右衛門といふ者を以て、能州へ申入れ候へば、則ち対面あつて、志の程、感じ入り候とて落涙し、今度若江表にての様子、去冬御陣の儀迄、委しく物語り申され、其方、未だ病気本復と相見えず候。上りたるを幸に、京都にて養生を遂げ、国へ帰り候へと申され、金子・小袖など給ひ、夫より京へ参り、五六十日保養致し、上野へ罷帰り候。其年の暮に、藤田、江戸を開申され候故、舎人、善光寺へ参り附居り候て翌年、能州、高野山へ引籠るとて、彼の地発足の時、舎人助には残り候へと、頻に留められ候へども、せめて道中許りなりとも、送届け申すべく候。世に御出で候はゞ、恨は元の怨になり、斯様の時節、私の恨を申すは、無道なりとて、供仕り参り候へば、信州の内、奈良井にて藤田病死、〈前にあり、〉遺骨を拾ひ、高野山へ参り、奥の院に納め、又在所へ引籠り居候なり。

舎人助、越後を窂人仕り、上州へ引込み居り候内、諸大名衆より召抱へらるべしとあれども、罷出でられず候所、酒井雅楽頭殿、先づ我が方に堪忍にて罷在り候へ。其方、武功の様子、折を得て上聞に達し、連々を以て、御直に召出さるゝ様に、なされ給ふべしと仰せらるゝ故、雅オープンアクセス NDLJP:99楽頭殿へ罷出で候へば、藤田能州、雅楽頭殿へ断を申され候故、亦上野へ引込み居り候。 〈下の下巻に之を記す。〉此様子、土井大炊頭殿御存知、前方も舎人に御懇志にて、舎人助壻をも召し出され候。藤田能州死後、中三年を経て、元和六年の暮、上野を出で、大炊殿へ参り、兼々御存知の儀に候へば、雅楽頭殿と仰談ぜられ、一人御扶持なりとも、上より拝領仕る様に、なし下され候へと、下総の佐倉へ行き、壻の用土彦兵衛尉方に居て、江戸へ通ひ或は家老衆を頼む。寛永二年迄六年なり。其内、大炊頭殿仰せらるゝは、事多く取紛れ候間、書付を仕り候へとの儀に付き、荒増を書付け差上置いて願ひ候故、脇々の大名衆より仰せられ候へども、聞入れず候。然る所に、永井右近太夫直勝公、之を聞き給ひ、関主馬殿へ御頼み候。主馬亮殿は、今御旗本に居られ、兵部少輔殿の父なり。関長門守殿の舎弟なり。長門守殿跡絶ゆる故、主馬殿御旗本へ召出され候様にと、大炊殿を頼みて、大炊殿に懸り居られ候に付いて、直勝公、此主馬殿へ種種仰せられ、舎人助より大炊殿へ差上げ候書付を、御覧ありたしと御所望なされ候。其趣を舎人に、主馬殿申され候。辞退の遠慮を申し候へども、頻に御申し候故、是非なく、大炊殿へ上げ置き候草案を見せ候へば、主馬殿より直勝の御内、荒木孫七郎迄遣され候。其時、主馬殿より孫七方への本書、某軍八、今に所持仕る。文言左の如し。〈此の状折紙なり。〉

返々、斯様の仁、今時何方を尋ね申候とても、御座有間敷候。自然御訴訟不相調候へば、其方の為にも、如何に候間、千万をしき事に御座候。大炊頭へも少し物語可申候。何卒御談合可有御座候儀と奉存候。以上。

其以後、書状にても不申入候。無音之至非本意候。其元右近様、御無事に被御座候哉。此中者打続、御公家衆御下向之由に候間、万事御開敷迄に御座候半と奉察候。随而内々被聞召及候、夏目舎人助と申す浪人之事、脇々より御大名衆あなたこなたより被召抱度之由、申来り候へ共、御公儀への御訴訟を存定候之間、一人扶持成とも、御旗本に而拝領仕度心中に御座候とて、何方へも不罷出候。大炊頭方をひしと頼被居候間、右近様御内意之通も不申出候。大炊頭方へ相渡し被申候場数働の書付さへ、色々申談候へども、御公儀へ上げ申候下書を、余方へちらし候ては、他念も有之様に而、如何候間、罷成間敷との事に候を、とやかくと申、我等一人披見仕筈に申定、無理に取候て参候間、持せ進之候。誠に無類千万成事驚入存候。乍去御公儀は御事多儀に御座候間、埓明兼オープンアクセス NDLJP:100申候条、其内右近様、御預り被候候様に仕度と奉存候。御家と申人すきをも被遊儀に御座候間、此窂人抔を脇へ遣申事は、近頃をしき事に奉存候へ共、一筋に御旗本をと、舎人助被存詰候条、無是非事に候。されども、大炊頭方との御相談も可御座事に候哉。委細ふと参上仕可申上候間、不具候。御隙と不存候間、貴殿迄申入候。御次手之時分、可仰上候。先々御沙汰有之間敷候。恐惶謹言。

  五月六日 関主馬

    荒木孫七様

右大炊頭殿へ差上げ置き候書付の留書。

    覚

一、天正十一未の八月、景勝、柴田へ出馬の時、同廿一日、杉原の敵城より人数を出す。藤田能登守、一備を以て之を追崩す。侍大将の細越将監を、藤田自身の高名の時、細越が寄騎の士助来る。其者を、我等抑へて鑓組み心緒の事、古来よりの上杉衆、手寄りたる者共は、何れも存じ候。我等年十五の時なり。

一、天正十二申の年、景勝軍代として、藤田能登守佐渡へ渡海仕り、同七月七日、河原田表に於て一戦、味方勝利なり。其節、某十六歳の時、一番槍を仕り候。其槍相手は、本間孫太郎と申す覚の者なり。景勝衆年寄りたる者共は、何れも存じ候事。

一、同十一日、右の宿城踏破り申す時、虎口前に於て、我等一番に槍を合せ、殊に宿城へ抽んでゝ押込み、敵の立直る際にて、小反の武者を、一騎討取り候。其場に於て高名したる者は、某一人の事、是も右同前の事。

一、天正十三酉の年、景勝、柴田へ出馬在陣中、同六月廿四日、柴田の城より馬草働に出づる。藤田、人数を以て追散らす時、我等、浜野弥右衛門と申す覚の者を毛付して、采配を添へ高名を致し候。景勝衆何れも存じ候。就中唯今、松平仙千代殿に罷在る荻田主馬も、此様子能く存じ候事。

一、天正十四年戌九月、景勝、会津より取出で、赤谷へ馬を向けられ、同十日、落城の時、某本丸へ一番に乗〔〈入脱カ〉〕り、城主赤谷左衛門佐を討取り、采配を添へ高名仕るなり。越後家の各〻存じ候。今に上杉弾正所に罷在り候鉄孫左衛門も能く存じ候事。オープンアクセス NDLJP:101一、赤谷より直に、景勝〔蒲イ〕原郡へ馬を寄せられ在陣中、同月廿七日の夜働に仕り、今泉と中ず柴田の取出とりでを、藤田乗崩す時、我等も並の高名一つ致し候。并に今泉より藤田備を打入れ候時、敵、跡を慕ふ。其刻、我等、殿を仕り、両度迄返合心操仕り候事、上杉衆各〻存ずる。殊に真田伊豆守殿所に罷在る矢沢但馬存じ候事。

一、神原郡伊地峯より景勝帰陣、同十月廿八日に敵付慕ひ候時、我等、小反一番の鑓初仕り候。并に伊地峰の城際にて、追首の験を一つ討取り申す。是れも右同前の事。

一、天正十五年、景勝柴田表へ出勢、同九月十三日、池の端の城へ、藤田能登、一備を以て取懸る。敵、突いて出で攻合の時、我等、組の者共を随へ、真先に懸り、それを越えて、自身虎御前にて、一番に槍を合する。其場に於て、二度目の攻合の時、又高名一つ仕る。尤も組の者にも残らず、手に合せ申し候事、越後衆年寄りたる者共、何れも存じ候事。

一、同九月廿日の暁、伊地峰の城へ竹束を以て付寄り候時、我等、組をば介副に付けられ候本間治部と申す者に預け、阿久沢助十郎といふ者を、一騎連れ、竹束の表へ物見に出で、城の様子を窺ひ候時、敵、竹束を引倒さんとて、大勢罷出で候を、右二人にて突崩し追退け候事、并に同廿三日、伊地峯落城の時、自身二の丸にて、高名一つ致し候事。上杉衆古き者共存じ候。右の鉄孫左衛門も能く存じ候事。

一、同廿四日より柴田城へ、景勝取詰められ、廿五日、二の丸迄攻め破られ候時、外曲輪の敵、本城へ引入り候を、我等組を下知仕り、諸手を越えて進懸り候刻、一番に反合せたる鈴木と申す者を、自身討取り候。其外の敵共、多く組の者に討たせ申し候。外二の丸にて、又高名一つ致し候。同廿八日、本城を乗崩す時、塀際へ一番に附きて、我等の組残らず引付け候事、其外、心操の様子迄、右の矢沢但馬存じ候事、我等十九歳の時なり。

一、天正十六子年、景勝、佐渡へ発向の時、先勢として各〻渡海仕り、六月六日、吉井の城近くへ放火働に、藤田能登・安田上総等備を出す。敵出でゝ、安田備に向つて攻め合ひ候。此所へ、我等使に参り、安田手先にて組打を仕る。然れども采配を添へて高名を致し候。越後の者年寄の面々は、何れも存じ候事。

一、同六月十六日、景勝佐渡平均の時、我等の組を以て、吉岡と申す城の九戸張の一構を乗破る。此時、自身高名一つ致し候。上杉衆何れも存じ候。殊に右の荻田主馬、能く存じオープンアクセス NDLJP:102候事。

一、天正十八年寅年、関東陣の時、景勝出勢、松枝の城を取巻き申さるゝ内、我等武略を以て、小幡の取出宮崎城を、同三月十七日に攻め落す事。ゝに同日、宮崎の者共退敷候時、自身高名二つ仕り候。上杉衆何れも存じ候。只今駿河中納言殿に召置かれ候小野寺刑部、并に鳥井左京所に罷在る神保隠岐も存じ候事。

一、同六月廿三日、武蔵八王子城攻め落さるゝ刻、我等組を以て、本丸へ一番に取詰め候。其時、城内より突いて出づる内尾谷と申す者、真先に進み候を、則ち我等、槍を合せ、其者を計取り、悉く出でたる敵を追入れ、剰、我等の組を蹴纏ひ付入に仕るを以て、難なく乗破り候事、右の神保・小野寺も、其場に来り、我等と詞を替はし候。其外上杉衆古き者共、何れになりとも、御尋ねなさるべく候事。

一、小田原落城以後、検地の為め、羽州へ景勝を遣され候時分、一揆蜂起致し候。仙卜の増田表に於て、同十月十四日、一揆に対し攻合の刻、我等、組を下知仕り、備を脇へ押廻し、懸つて切崩し候。并に一揆の内にて、殿の武者を自身討取り、団扇を添へて高名仕り候事、此陣へ罷立ちたる上杉家の者共は、何れも存じ候事。

右者、景勝下に、藤田能登守罷在候時、拙者も能登手に属して、斯くの如くに御座候。其に就て、景勝より直に領知を給はり、後々は藤田に付置かれ候、寄騎五十騎の侍大将を申付けられ候。殊に藤田壻に、我等罷成り候儀も、景勝申付けられての事に御座候。扨又、某相当の働心緒の儀共、其外数多御座候へども、先づ荒増許り書付け差上げ申し候。万端委細の儀、或は親・祖父の様子は、連々を以て御直に申上ぐべく候。兼々も粗〻尊意を得奉り候。斯くの如くにて御座候間、如何様にも然るべき様、偏に頼上げ存じ奉り候。以上。

   九月日 夏目舎人助謹上

  亥年は、元和九年なり。附某軍八覚書、

一、右天正十二年、佐渡河原田表にて、舎人助一番鑓の時、仔細あつて、藤田旗本へ敵切懸り候故、藤田先手の備、敵の先衆を追崩し、其を捨てゝ、旗本へ助加はらんと引揚げ候時、崩れたる敵勢、又取つて返し、味方の先衆を慕ひ候。此時、舎人助小殿を仕る。殊に味方の取落したる道具二色迄、拾つて帰る事、景勝衆に知らざる者之なく候。扨又、藤田、敵をオープンアクセス NDLJP:103重ねて切崩し、全く勝利を握る様子、中の中巻に之を記す。

二、天正十三、浜野弥右衛門を討取り候刻、同場に於て其前進際にて、舎人助、敵を一騎突伏せ、荻野右京と申す者に、首を取らせ候事の様子は、中の下巻に委しく之を記す。

三、此前、同年の春三月二日、春日山の町屋に於て、取籠者之ある時、舎人助召捕り候心操の様子、同巻に之を書す。

四、天正十四戌三月、景勝公御上洛の時、越前敦賀にて、川田軍兵衛御成敗、其被官迄斯くの如し。其時、佐沼十兵衛といふ川田内覚の者を、舎人助斬留め、又一人歩者を斬留め、一人をば生捕り候様子、同巻中之下に之を記す。

五、天正十五年亥年、景勝公、柴田表御在陣の内、八月廿九日、会津盛高より柴田へ加勢来る時、伏兵となりて之を遮る時、舎人も入数を受取り、其の巻尾を合する様子、同巻に之を記す。

六、天正十六子年、景勝公、佐渡御平均の時、舎人助、組を下知して鴻の河を真先に乗越え、川向にて、自身敵を一騎槍付けて、甘〔糟イ〕近江守児小姓猪熊求馬に、首を取らする様子、下の上巻に之を記す。

七、天正十八年、景勝公、上野松枝城を取巻き、御在陣の内、永井右衛門大夫殿を、同国三ッ山へ、藤田本意致させ候時、平豊後と申す者野心に付き、藤田、三ッ山にて四月朔日成敗申付くる砌、舎人助心緒の様子、同巻に之を書す。

八、同年、鉢形を遠巻にして、景勝公、奈摩の山に御旗を立てらるゝ時、五月廿二日の朝、乗込みに働来らんとする氏国衆を、藤田備にて待受け、追散らして追討に仕る時、舎人助も、我が組を率ゐて心緒の験を一つ討取り候事、下の中巻に之を記す。

九、景勝公、羽州仙卜の増田表にて、藤田自身、高名を致され候時、舎人助心緒、扨又、舎人助高名の時、敵助け来るを、其に対して攻合の様子、同巻に之を記す。

十、伏見小幡山御城普請中、文禄四未年、舎人助組下の吉岡与一郎・小玉造酒允両人、藤田持鑓かつぎの内、重岡三蔵・諸谷与七郎と申す者を語らひ、以上四人立退いて、若狭侍従殿へ罷出で候を、舎人助、京都へ行きて、四人ながら召捕らせて帰り候様子、同巻に之を記す。

十一、舎人助窂人中、慶長七寅の年六月廿日、上野の八つ崎といふ所にて、石関兵庫といオープンアクセス NDLJP:104ふ覚の者と、喧嘩を致し投殺し候。其首尾、下の下巻に之を記す。

、右舎人助書付、直勝公御覧候て、家老佐川田喜六昌俊・荒木孫七郎両使にて、証文の所々へ持参、尋聞き候所に、少しも相違なきに付いて、弥〻召抱へられたしとて、色々関主馬殿へ之を仰せられたる由、然る故、主馬殿を初め、何れも舎人へ申され候は、御旗本へ召出さるゝ儀如何。大炊殿御取持にても、早速調ひ難かるべく候。仔細は主馬殿は、一身の働といひ、其上、御舎兄長門守殿、御当家へ御忠節の仁に候へども、主馬殿訴訟さへ、埒明きかね、今に於て延々に候。其方、武道の働は、無類の様子に候へども、其一偏の申立て許りにて、其外には、御当家へ召出されずして、叶はざる儀之なく候間、長引候て、存ぜらるゝ様に之あるまじく候。其内、右近殿へ参られ、窂人分にて堪忍を致され、永く大炊殿・雅楽殿を頼み、尤も右近殿へも、申達せられ候はゞ、道の右近殿なれば、結句精を出し、取持給はるべく候。然れば公儀への御訴訟の儀、今より早く埓明く事も、之あるべしと、各〻申され候。其内大炊殿へ、右近殿直に仰せらるゝは、夏目舎人儀、行々御旗本へ御出しなされ候はゞ、其内、我等預り申したしと仰せられ候へば、御返答に、我等手前に、先づ置き申し候間、如何と仰せられ候へども、右近殿達て仰せらるゝ故、左候はゞ、其内預け申候とて、舎人へ大炊殿、其趣仰せ聞けられ、訴訟の儀聊疎意なく候間、其内、先づ右近殿方へ参られ候へと、仰せられ候故、領掌仕り候は、寛永二年五月廿六日なり。永く窂人にて、手前不如意、剰へ其内、自火・類火共に三度迄、火災に逢ひ候故、斯くの如きなり。

、右近殿より御使杉浦七兵衛を以て、其方事、大炊殿、主馬方申さるゝに付いて、御訴訟相叶ふの内、我等所へ引越さるべきの由、満足せしめ候。祝儀として遣し候とて、樽・肴・銀子、舎人助に之を給ふ。礼を仕り候日、米塩噌薪并に一世帯道具等迄、荒木孫七を以て之を給ふ。重陽前日には、長田覚左衛門を御使にて、御拝領の御鷹の鴈、并に呉服・羽織・銀子等之を給はり候。其外、諸事こまかなる御心入御厚情の段、直勝公に対し、何の忠勤を抽んで候事も、之れなく候所、斯くの如きの様子、感洞心服仕り罷在り候所、同年極月廿九日、直勝公御逝去、是非に、及ばず候。三日前廿六日、舎人助を召され、御寝所より二間抱出され給ひ、舎人へ仰せらるる様は、我等わづらひ此通に候間、大方程なく死去せしむべく候。暇乞として其方に逢ひ候とて、御盃を給ひ、其上にて、又仰せらるゝは、其方御訴訟の儀、我等存生の内相叶はず、残多く候。オープンアクセス NDLJP:105此上ながら、弥〻無沙汰仕らず、大炊殿と相談致し、能き様に仕り候へと、信濃守に委しく申置くべく候。定めて御訴訟目出たく首尾を致すべく候。左ありとも、信濃守儀、若き者に候へば、別して等閑なく、武道の指南あつて給はるべく候。頼入ると仰せられ、御手を合はされ候。其時、舎人助、感涙を催し、袖を湿して申上げ候は、公儀へ御訴訟の儀、向後早く差置かるべく候。仔細は、永井の家へ某、何の忠を励みたる儀も、御座なく候所、頃日、何かに付いての御厚志に預るのみならず、今又御手を合はされ、仰せ聞けらるゝ御一言の通に候へば一度尚政公へ対し、報謝の忠を抽んでず候はゞ、如何様の身上に罷りなるとも、顧み申すまじく候と申し、落涙を抑へながら、漸く其座を立退き候。今に存生の永井勘右衛門・荒木孫七御側にて、之を見之を聞き候。佐川田喜六・杉浦七兵衛は、次の座に罷在り之を承る。舎人助、次の間に罷在り候所へ、跡より直勝公の御末子長八殿〈今の式部殿〉を、御使杉浦・荒木を差副へられ、黄金三枚下され、御口上に、我等相果て候はゞ、信濃守を初め、何れも忘却して心付くまじとて、斯くの如しと仰下され、御厚情心肝に銘じ候。

右の永井勘右衛門、仔細あつて、当尚政の御代窂人仕り候。近年御舎弟日向守殿呼取り申さる。只今高槻に罷在る内藤素斎事なり。

三、右の通に候故、当尚政公、縦ひ如何様の御擬作なりとも、忠義を抽んずべしと、存定め罷在り候所、尚政公弥〻相替らず、舎人助儀は、諸人に違ひ、客人分になされ、御悃志浅からず候へば、一入永井御家を立去る事、仕るまじと心を留め罷在り候。

右近大夫直勝公、夜話のついでに、灯下に筆を染め、若き者共御教訓の俗歌を、十五首遊ばされ置き候。

    若殿原心付狂歌 直勝

奉公は車を坂に出す如く油断をすればあとへしりぞく

世のなかに負くべきものは主親と物の奉行と時の出頭

ほれにすね雨には風のそふものと能く思案して奉公をせよ

述懐の起る心のあるならば身のはふけとは兼ねて知るべし

武夫のかたりを常に聞くならば我が身の上の功となるべし

万芸を嗜むはたゞおのづから物のつかさとなるとこそきけ

オープンアクセス NDLJP:106主のため奉公するとおもふなよ我が身のためと能く思ひ知れ

日に三たび我が身を省るならばくやしき事はすくなかるべし

人のためよかれと思ふ心こそ我が身のためとなるはほどなし

気をしづめいふべきことを控へつゝ人の心をやぶるべからず

時の間も我が身の程をわするなよ上を見ずして下を見るべし

慇懃をきらひて随意を好むこそ我が身のうへの悪事なるべし

先づ忠を忘れて奉公稼ぐべし当忠々となるはよの中

人はたゞ蒸悲正直のあるならば神や仏も猶や守らん

欲に耽りこすき心のあるならば人の恨は限あるまじ

右ざれ歌、ことば正しからずとも、理のみにしたがはゞ、若からん輩は、身を修め家を保つもとゝせんものなり。

第六、夏目舎人権助定吉子供の事

一、定俊、早世。

二、夏目長四郎定景、慶長四年己亥生る。後に吉江藤左衛門尉と改む。

三、女子、慶長七年壬寅生る。

 右は舎人助先妻の腹なり。

四、岡本八郎右衛門尉元成、元和二年丙辰生る。是れは岡本兵右衛門尉元重の子なり。元重死後、其妻舎人助に再嫁す。然る故、舎人助が継子なり。某軍八定房の母なり。

五、夏目伊右衛門尉定清、元和八年壬戌生る。是れは又別腹なり。

六、夏目軍八定房、寛永四年丁卯、十一月十二日巳刻、武州江戸に生る。岡本八郎右衛門と一腹なり。

七、夏目軍平定則、寛永八年辛未生る。四歳にて卒す。

八、夏目右馬助定泰、寛永十年癸酉生る。

右、夏目長四郎定景が母は、吉江喜四郎信景が娘にて、舎人助定吉が先妻なり。吉江喜四郎は、上杉謙信公御家にて、越後長島城を預けられ、武功の侍大将なり。天正十年六月三日、越中魚津の城にて討死仕る。此後室を、景勝公より、藤田能登守に縁組仰付けられ、吉江へ跡オープンアクセス NDLJP:107を給はるなり。此後室は、越中先方武功の士大将、益木中務少輔が娘なるを、謙信公、越中を御手に入れらるゝ時、中務の娘を御貰ひなされ、吉江喜四郎に妻はさる。喜四郎が嫡子を吉江長満といふ。天正七年の生なり。喜四郎死に候時は、四歳なり。後家を、藤田に再嫁仰付けらるゝ故、長満十五歳迄、藤田、守立て候へとの儀にて、藤田手前にて養育故、藤田は、吉江長満軍代の如し。然る所、天正廿年は、文禄元年景勝公、高麗陣に御発向、御帰陣測り難しとて、頸城郡の内にて、藤田知行の外、喜四郎信景跡目程相違なく、吉江長満に宛行はる。其時長満、十四歳なり。景勝公仰付けられ、長満を改め父が名喜四郎になされ、勝の御字を下され、吉江喜四郎勝信と名乗り候。十九歳の時、慶長二年、山城伏見にて病死故、吉江の家断絶なり。此勝信姉を、夏目舎人助定吉妻に仕り候へと、景勝公より藤田能登守に仰せられて、此前の如し。喜四郎信景が後室、後まで存生、藤田能登守にも離れて、舎人助に申さるゝは、吉江の家絶果て、娘の孫は長四郎一人なり。吉江を名乗らせ給ひ候へとの儀にて、吉江の紋三頭の左巴、宇都宮弥三郎朝綱よりの家伝にて斯くの如し。

此長四郎、後に藤左衛門尉と号す。水戸頼房卿の下に蟄居し、寛永十九年壬午二月十四日、四十四歳にて卒す。其子吉江左衛門尉信定、今に相変らず罷在るなり。

舎人助先妻の女、〈吉江長四郎の妹、〉用土彦兵衛尉信次に嫁す。此彦兵衛、父は越中の侍益木薩摩守子、柳瀬弥八郎といふ、彦兵衛母は、藤田能登守の兄用土新左衛門信連の娘にて、藤田姪なり。藤田妻は、益木薩摩守の妹にて、柳瀬弥八郎は、藤田妻の甥なる故、藤田、呼取りて我が姪の信連娘と一所に致し、景勝公より領知を給はり、藤田手前に差置き候。此弥八郎の子、母の苗氏を名乗り、用土彦兵衛といひ、土井遠江守利隆の所に罷在り、其子用土佐治右衛門信〔〈脱字アルカ〉〕に至るなり。

某、同母兄岡本八郎右衛門尉元成は、実父岡本兵衛門尉元重、元和四年戊午七月廿七日卒して後、其後室、愚父舎人助に再嫁、八郎右衛門四歳にて、母と共に舎人助所へ来り養育す。母は吉江喜四郎信景が娘なり。〈前に之を記す。〉岡本家紋、丸の内に二ツ引なり。此岡本氏の事、源家義家の後胤、安房国里見上野介義通の弟三人あり。一人は左衛門尉実喜、二人目は下総守実倫、

〈此間に女三人、〉三人目は房州岡本城主岡本豊前守氏元養子になりて、岡本左京亮通輔と号す。此末なり。先づ里見の様子をいへば、右上野介義通より五代相続す。

オープンアクセス NDLJP:108 一、刑部大夫義尭、上総久留利居城、此代武威盛にして、本国安房はいふに及ばず、上総・下総まで切取り、武蔵・相模の内も、少々手に属す。武州浅草の観音堂は、此義尭の再興なり。

二、左馬頭義弘、上総佐貫居城、永禄七年甲子正月八日、下総国府台にて、北条氏康と合戦、朝合戦には打勝ち、夕合戦に負け給ひ、氏康鋒先強くなつて、下総を切平ぐ。其外、里見家に属したる相模・武蔵の内も、北条に属する故、安房・上総両国許り、里見家の支配なり。

三、左馬頭義頼、房州岡本に居城、大閤秀吉公小田原陣に、少し遅く出向はるゝを以て、北条と一味なるべしとて、上総を没収され、安房一国許りになる。

四、安房守義康、房州館山に居城、慶長五年、石田三成反逆の筋、結城宰相秀康卿と一所に常州へ越え、景勝を抑へ居られ、忠勤なりとて、家康公より、常陸の内なる鹿島郡三万石御加増なり。

五、安房守忠義、同所居城、大久保忠隣御改易、緑座に依つて、慶長十九年寅九月、伯耆へ流罪。〈前書に之を記す。〉

右岡本左京亮通輔の子を、安泰といふは、房州妙覚寺の住日〔健イ〕とて出家なりしが、還俗して、父通輔の跡を継ぎ、岡本随脇斎安泰と号す。此安泰の子を、岡本左京亮頼元といふ。弘治二年丙辰の生なり。頼元十六歳の時、元亀二年辛未の春、里見義弘衆と、北条氏政衆と、伊豆の三崎表にて船軍あり。頼元父随脇斎と連立たれ、一の手の船は、房州海賊衆なり。二の手の船は随脇斎なり。攻合ふ半、随縁斎、一の手の船へ助け加はる。頼元は父の船を離れ、小船に乗移り、供船一艘相随へ、船飾をかなぐつて、相印の重符に用ひ、唯二艘にて、敵船の内、船飾宜しく見ゆる大船に漕近づき、鎌熊手を以て引寄せ、一度に飛乗り敵を切殺し、或は海中へ押落し、我が乗つて来りし船をば捨て、水主楫取の其船に乗移らせ、敵の船印を引入れて、味方の重符にしたる船印を押立て、四方へ乗付け相働く内、味方の助船もかさむ。一の手の船軍も、此仕様宜しき故、敵おくれを取り、漕逃ぐるを頻に追詰められ、船を棄てゝ陸へ逃上る故、敵船十五艘奪取る比類なき働、岡本左京亮頼元なり。此故、義弘より貴殿一身の猛威、諸軍の働に抽んずる故、数年積懐の遺恨を散ずるとの御感状、御召料具足を添へて給はる事、里見家に於て、其隠なく候。其後、上総亀山城主本吉三郎兵衛、北条へ心を通じ、逆意の企ある故、左京亮廿四歳、天正七年乙卯五月、義弘の軍権を承り上総へ向ふ。亀山の近所なれオープンアクセス NDLJP:109ば、先づ久留利の城代両人、山本弾正・秋元勘解由左衛門、〈上野の子なり。山梨孫九郎死去の後、久留利の城代二人の内なり。〉并に秋元が先領小糸の城、里見兵部に預けらる。其こいと・窪田・みねかみ衆各〻を相催して、敵城へ押寄する。本吉、斯様に急に手遣に及ぶべしとは、思設けざる事なれば、城を持堅めても、勝利あるまじと思ひ切り、一戦して討死致すべしとて、城を払つて突いて出で切懸る。岡本、我が手勢或は房州組五十騎の備を以て、敵の右の手先を突退け、其敵を追捨て、我が備を以て、本吉が旗本へ切懸る。本吉、真先に進出で、鞍がさに立上り、某、逆心の企顕はれ、各〻此地へ向はれ、当城用意不足に付いて、御馳走の為め出向ひ候。我と覚しき人あらぼ、本吉を討つて、恩賞に預り給へと名乗る所に、左京亮乗寄せて、其方、謀反に依つて、討手の権代を承り参りたり。御馳走とある上は、客振を見せ申さんとて、互に戯言をいひかはして、暫く槍を組むと見えけるが、双方馬を乗違へ、槍を投げ捨て組んで落つるや否や、本吉が首を取つて立上る。是れより弥〻乱入つて、相戦ふと雖も、本吉討死故、敵散乱して味方勝利、義弘御感あつて、左京亮に恩禄を加給はり、亀山城は破却なり。左京亮頼元、寛永元年甲子六十九歳、正月廿六日病死。頼元の子、岡本兵右衛門元重は、父に先立ち、五年前元和七年死去。其子岡本八郎右衛門元成、九歳の時祖父頼元死去なり。

右岡本左京亮頼元、二子あり。嫡子は四郎兵衛頼重、二男は右の岡本兵右衛門元重なり。

右四郎兵衛尉頼重事、母方の祖父千葉の一家、佐野正哲養子になつて佐野を名乗る。妻は里見一家の里見右馬助が妹なり。

此妻、里見忠義出頭家老印藤采女妻に給はる所に、仔細あつて、堀江四郎左衛門尉といふ家老の妹壻に、采女を申付けらるゝ故、采女前妻を、佐野四郎兵衛に改給はり、采女壻分にと之あり。此妻の腹に、采女子あつて、印藤助之進といふ。今は印藤弥市右衛門と改め、本多能登守殿所に罷在り。岡本四郎兵衛子は、此腹に二人あり。兄は洞家の道人是尊、弟は岡本次郎兵衛、松平藤松殿所に罷在るなり。

右四郎兵衛頼重三十二歳の時、慶長十六年亥六月十三日、館山より知行所の保田ほたという所へ、急用の事あつて行く時、勝山にて乱波共廿余人、喧嘩を仕懸け候。種々取繕ひ申候へども、堪忍ならざる様子に成来り候故、馬より下り様に、先づ一人斬伏せ、渡合はする廿人余の者、抜連れて切懸るを、又四人斬倒し、三人に手を負はする。四郎兵衛忍んで参る事なれば、内オープンアクセス NDLJP:110の者共をば先へ遣し、仲間小者許り召連れ候故、皆逃失す。佐々甚右衛門といふ歩士一人残つて一人斬殺す。是れ共に死人六人なり。猶乱波者共と、四郎兵衛一人にて働き、廿三箇所手負ひ、剰へ、刀の目釘折れて飛び候故、脇差を抜合うて働くと雖も、終に斬伏せ、ころび様に脇差を投打に致し、其脇差、逢手の腹を打抜て其儘死す。以上七人、其場にて死し、外に三人手負あり。此内に、勝山の秋元衆、又は岡本左京亮、居館仙台より懸付けて、手負の者共、或はうろたへ廻る者共を召捕り、吟味仕り候へば、忠義公の歩行衆なり。忠義聞召し、方々へ追手を懸け搦捕り、十五人成敗仰付けられ候事は、非義を以て言合する乱波者の業なり。諸人の戒なりとあつて、御成敗なり。家の作法にて、喧嘩は跡を立てず候へども、喧嘩にては之なく、慮外を仕懸けられ、拠なく武道を立つる士、能く仕たりとて、嫡子熊之助洞家の道人是尊四歳の時、四郎兵衛頼重跡目相違なく給はる二男次郎兵衛は、其時二歳なり。

四郎兵衛弟岡本兵右衛門尉元重、父岡本左京亮頼元が跡目に、忠義申付けられ候。父岡本頼元は、忠義、伯州へ左遷の供に参り候所、種々断りといひ、公儀より御掟なれば、三年目に罷帰る。其内、兵右衛門は、永井左近殿へ罷出で候。左京亮、伯州より帰り候へば、又直勝召出され、父子供に永井家に罷在る所に、永井直政、台命を奉じて、江戸より大坂へいそぎの上使にて上らるゝ時、大井川、二三日前より大風雨水漲り、瀬枕打つてすさまじと雖も、滞留を為すべきにあらずとて、尚政、馬を打入れんとし給ふ時、岡本兵右衛門、馬の口に取付き軽々しき御事なり。川の案内を知つてこそ、渡もなさるべけれ。勿体なく候。某瀬踏仕るべき間、其様子次第に、御渡しなされよと申し、残る衆に御馬の口放つなと申捨てゝ、一騎、川へ乗入れ、過半越しける時、大石流れ懸つて、馬蹄打折れ、馬共に押流されて死去仕る。三十五歳なり。元和六年庚申十月廿八日の事なり。尚政、此様子を御覧あつても、猶川を越えらるべしとあるを、家老衆諫め、瀬踏仕る岡本押流さる。御あやまち候ては、江戸より別に、上使遣さるべく候へば、公用遅々仕るべし。今日中、御待然るべしと制止し候故、其日暮方に、難なく渡らるゝなり。岡本、瀬踏して川の難易を知らせ奉る事、忠死ならずや。

兵右衛門死後に、其妻、舎人助に再嫁前に記す如し。兵右衛門の子、岡本八郎右衛門元成、舎人助養育し、実子の如し。某軍八同母異父兄なり。

某母は、平姓三浦氏なり。三浦氏の由来は、桓武帝四代高望親王、始めて平姓を賜はり、上総オープンアクセス NDLJP:111介に補せらる。其御子十二人の内、良望を常陸大掾征夷大将軍と号す。国香は良望の弟、良将の子を相馬小次郎と号す。将門、伯父国香を殺し、下総国相馬郡に都を建て、自ら平親王と号す。国香の弟を、鎮守府将軍良文と号す。良文の子を陸奥守忠頼と号す。忠頼四人の子あり。

一、上総介忠常は、千葉の祖なり。

二、武蔵権介中村太郎将常は、秩父の祖なり。

三、忠光と号す。将門逆乱の時、一味の疑ありて、常陸国信太島に配せらる。常陸中将と号す。逆意なきの旨申啓く故、赦免を蒙り、相州三浦郡并に安房一国を領し、村岡四郎忠光と号す。三浦に館を築きて是に居る。

四、末子悪禅師忠尊、其子恒遠なり。

忠光の嫡子三浦平太夫為通は、三浦の元祖なり。二男村岡五郎忠通は、長尾・梶原・大庭・長江の先祖なり。

右三浦平太夫為通は、義家、高宗任・安部貞任を退治の時、豪兵随一英雄の軍将なりと褒せらるゝ筆蹟之ある由、此為通より相続は、三浦平太郎為継・六郎庄司義継、其子三浦大介義明なり。義明の二男三浦次郎別当介義澄、義澄の嫡子駿河守義村、義村の一男尾張権介知村より、三浦相模守義為に至りて十一代、

一、義為、本覚寺殿と号す。

二、三浦下野守為成、一如院と号す。

三、同右馬頭成長、父死後下野守と改む。〈文禄四年乙未七月十三日卒す。八十六歳。妙見院道貞と号す。〉

四、同右馬助良俊、中頃下野守と号す。後仔細ありて、太郎左衛門尉と改む。永禄四年辛酉五月三日生る。家紋丸の内に三引スソ黒に飛雀、妻は里見代々の家老岩井戸主計頭の女、 〈後の主計姉なり。〉忠義より之を給ふ。

右の太郎左衛門尉良俊、子三人あり。

一、女、文禄二年癸巳四月十四日生る。舎人助定吉後妻、某軍八母なり。蓮珠院英〔室イ〕妙香と号す。

二、三浦新左衛門尉義包、寛永九年壬申三十三歳にて卒す。

オープンアクセス NDLJP:112三、同助之允良明、寛永七年庚午廿七歳にて卒す。

右二人共に、阿部備中守殿・同修理亮殿御父子へ召出され、身上仕らるゝは、父良俊、備中守殿へ出入仕り、御懇意故、子供両人共に召出さるゝなり。御次界対馬守殿は、三浦監物殿の養子になり、三浦山城守殿と申し候により、両人共に、三浦を正木と改め、村岡と改め候なり。

 
三浦義為以来武功の事
 

第一、三浦相模守義為、父義益に譲られたる相州三浦郡を、漸く三ヶ二領すると雖も、武功を以て、三浦一郡を程なく切平げ、愛甲・高座の二郡をも過半打靡け、武州も少々手をかけ、人数を催し、房州へ渡海にては、川名・はざま・白浜などといふ所迄、切取つて支配仕るなり。

第二、三浦下野守為成、父義為に離れ、若代になる時節、安房の屋形義尭、政道正しく武威盛んにて、里見家中興の武将なり。又小田原北条氏綱、相州をも過半切靡け、武威を輝し給ふを以て、為成、我が後楯の為めに、里見義尭へ、房州の内、切取つて持ちたる所を差上げて、随心仕り加勢を乞ひ、又は加勢を遣し、三浦に住して北条と敵対す。氏綱死去、義尭も死去の後、北条氏康・里見義弘、両虎比龍の争となる。氏康、五十歳老功といひ、十三年以前、上杉を追崩して、六箇国に及んで支配なれば、人数三万八千許りを師ゐ、下総国を望みて出張なり。義弘は、四十五歳、人数彼此合せて一万二千許り、武蔵国を望みて出張なり。然る故、武総両国の堺、市川を隔てゝ対陣し、永禄七年甲子正月八日、一日両度の合戦なり。初の一戦は、里見衆河を越え懸つて大に勝ち、此芝居をふまへ凱歌し、国府台へ退いて、義弘、敵の首実検し給ふ。然るに氏康、却つて負けたるを吉事なりとて、諸軍を勇めて、又河を隔てゝ備を立てらる。里見衆、初度の戦に勝ちて敵を侮り、敵より河を越えて、懸る事はあるまじ。縦ひ越来るとも、半途を討つべし。先づ兵糧を使ひ、草臥を休めよとて、油断の様子なり。氏康、手配宜しくして、川を越えんとせらるゝ所に、里見一味の下総先方衆、初の戦に、安房・上総譜代衆を以て勝利なれば、先方衆めいけをし、敵重ねて出でたるこそ幸なれと申合せて、川を越えて切懸る。北条衆、初の軍に敵に川を越されて、負けたるを悔いて、心を定め備を堅くして待受くる所へ、下総衆、我が意地々々にて、妄りに懸つて悉く切立てられて、数多討オープンアクセス NDLJP:113取られ、或は川に溺れて死し、這々の体にて逃上るを、氏康、下知して之を追ひ、市川の渡、からめきの瀬を渡して勇進む。義弘、備を立設け、一戦に及ばると雖も、下総衆散々に崩れ、味方の内へ逃入る故、房州家の備混乱す。氏政、人数三二を帥ゐて、からめきの遥なる下の瀬を渡り、敵の左へ押廻し、後を取包まんとするを、里見衆見て、備色めく時、氏康、旗本を下知して、敵の右へ備を廻し、自身槍を取つて先に進む。是れ初の負けたる反報なり。之を仕損ずるならば、本国に帰るまじと押入るゝ故、北条衆の大軍、競争うて敵を突立てするを以て、里見義弘敗軍なり。

氏康、初度の敗軍の衆を集め、二度目の戦の時、氏政に遺言は、味方又後れば、我れ一足も去らず討死すべし。其時、其方は、早々退き命を全うして、弔合戦を仕らるゝ時節を見合せ、里見家を亡し、其験を霊前に具へば、孝行なるべしと、申されたる由なり。

下総先方衆不覚にて、後度の軍に、里見家負なる故、里見家へ随身面目なしとて、北条家へ心を通ずるを以て、下総一国、北条治むる間、氏康、弥〻威光盛にならるゝ。然れば、三浦為成、北条同国に居て、房州より三浦へ陸地は遠し。加勢もたふとなりがたければ、其所を思案し、義弘へ伺ひ、三浦を捨てて房州へ行く。其節、義弘、上総の佐貫城に居られたるに、房州岡本城へ移られ、佐貫城をば、三浦下野守為成に預けらるゝ故、為成の孫良俊代迄、佐貫在陣なり。

岡本前城主随縁斎は、房州仙台といふ所に、城を構へて移るなり。

第三、三浦右馬頭成良、後は下野守と号す。右国府台合戦、為成・成良父子共に、三浦より出勢す。房州の旗本より、板倉土佐守といふ武功の士を、検使に申請け戦ひ、我が内の大庭帯刀・佐原主計を差副へ、三浦城を預け、留守に人数を過半残して、六十騎連れて罷立つ。然るに、義弘、上総の天羽・市原両郡衆の備大将を、右馬頭成良に申附けられて、先手に組合はさる。父為成、悦限なし。父為成も、尤も先手なれども、小勢なれば父子一備にして、申合せ下知仕れと、命ぜらるゝを以て、別手を一手に、勿論内にて手分して、右の手先に備ふ。中三備は、堀江・板倉・正木なり。左の手先は、岡本随縁斎先手合せて五備なり。先手、川を渡さむと打臨む。北条衆、之を見て、河端近く備を取詰むる所に、氏康旗本より、武者二騎来つて、其場を見移り、味方の備を引揚げさするは、備の前をくつろげて、敵、河を越え、備しどろになる処オープンアクセス NDLJP:114を、突いて懸れと、采配を取つて下知する武者振見事なり。後に聞けば、一人は氏康の武者奉行安西出羽守・一人は愛甲弥吉とて、元来は今川家の士、其頃は氏康旗本の足軽大将なりと、右の様子を成良見て、諸卒を下知し、真先に進んで乗入る。諸卒我れ劣らじと川を渡す。残四手の先衆も、続いて川を渡す。三浦父子、馬弱なる武者・歩者をば、川下に立て、互に槍を取合ひ、力を添へて渡しければ、一番に押上りて備を定め、足並を揃へて切懸る。残る先衆も、川を押上り切懸る。味方勇み、敵の備不実色を、里見の旗本見て、川を越え備を立設くる。里見中の備の先手堀江、左の先〔〈手脱カ〉〕岡本が二備、敵の中を突割り、其敵を味方の二の見へ渡して、氏康の旗本へ無滞むたいに突いて懸る。此様子を義弘見て、旗本の左備秋元上野介が手を、堀江・岡本両備の加勢に差越さる。秋元、敵の左手を押廻し、堀江・岡本が後を守つて、備を設けて詰寄する故、敵の先衆、後を気遣ひ、戦少しめてになる、三浦父子、弥〻競進んで相戦ふ内に、三浦成良、北条家の先手富永と、互に馬上にて名乗り、組んで落ちて首を取り、立揚る所を、富永が内、谷川といふ士、助来つて名乗りかけ、成良が右の肩先綿嚙を切落し、深々と切付くる所を、成良が児小姓峯上新太郎、谷川を突伏せて首を取る。敵先手一備の将富永討死して、其備敗軍する故、残る備もむらなる故、味方、利を得て切懸る。扨又、氏康先手の内、遠山直宗と名乗りしを、正木手へ討取り、岡本・堀江二備、氏康旗本組の備を追行く時、北条家二騎の士乗下り、采配を取つて、乱るゝ味方を、押纏むる様子見事なるを、味方旗本より、岡本・堀江備の検使町野卜意が子甲斐守、あれを討取らんと、毛付をして乗出す。岡本随縁斎之を見て、検使を討たせては越度なりとて、〔印イ〕藤越後・村戸主膳に、我が備を立堅めさせて、足軽大将岡庭八郎左衛門が一組を、我が跡に引付けて、町野甲斐守に乗続くる。甲斐守、彼の一騎士と槍組み槍付けて、馬上より突落しけるに、其身も馬よりあまりて落るを、今一騎の武者反合す。其敵は馬上、甲斐守は歩立にて槍組む処を、随縁斎乗付けて、其敵を突落し、被官の宍戸源右衛門に、首を取らする。甲斐守が討取りたるは、氏康の近習組頭北条三左衛門といふ者、随縁斎が槍付けて討たせたるは、三左衛門が片相手、大山修理といふ覚の士なりと、後に相聞き候。其より悉く敵を追散らし、川端より七町許り追討ち、早々国府台へ引揚げて、凱歌を揚ぐる事、敵敗すると雖も、大軍なる故、遠慮を以て斯くの如し。右初度の戦、勝利件の如し。

オープンアクセス NDLJP:115右町野甲斐守が父といふは、義弘近習の侍大将武功の人にて、三浦右馬頭成良が舅なり。此甲斐守手柄の儀に付いて、不思議の咄あり。其年の元旦、三浦成良が女房のうしろに立置きたる仮粧間の屏風の上に、我が弟の甲斐守が首現れ、血筋、屏風に流懸り、につこと笑つて、失せもやらでありける様子、前の鏡にうつり見えたり。女房、少しも騒がず、側なるうがひ水にて手を洗ひ、其首を拝み、今度の御陣に、弟の甲斐守に高名させて給ひ候へと、心静に観念する。暫くあつて其首消失する。其八日の一戦に、無類の働之あり。殊に岡本備へ使に参り、毛付の高名なるを以て、義弘より御感状給はる事、里見家にて隠なきなり。

第四、三浦右馬助良俊、父成良死後に、下野守と号す。相替らず佐貫に居城仕る。然るに、天正三年乙亥九月三日、上総国蟻の木城主椎津中務少輔を、義弘御成敗の様子は、是れも北条より計策に乗り、里見へ逆意を挿み、相州衆を上総へ引入れ、切取らせんとする事顕はれ、佐貫城主三浦下野守成良其子右馬助良俊父子を士大将として、こいとの城主秋元上野介・久留利城代山本弾正・山梨孫九郎・大多喜の正木大膳衆押向ひ蟻の木城を取巻き攻むる。城兵、身命を惜しまず之を妨ぐと雖も、大軍なれば終に乗取らる。此時、佐貫衆真先に城へ付き、良俊一番に屏へ乗り、諸勢を招き勇気を進むるを見て、味方の面々、大将の子息を討たせては瑕瑾なり。幼少の良俊に越されたりとて、喚叫んで〔攻カ〕寄する。三浦家の者共は、猶以てひたひたと屏を乗り、右馬助が矢面に、立塞つて競入る故、二の廓迄乗移る。敵椎津中務は、死期の働を快くして、冥途の旅の物語にせんとて、本丸より突いて出づる。大多喜衆も続いて乗入る。良俊、采拝を取つて下知して、出づる敵を幸と、本丸へ付入れよとて、勇み懸る鎧の袖を引切り、槍を提げ椎津中務が弟椎津帯刀と、槍を合せて突倒し、我が被官の佐垣次郎九郎に首を取らせ、諸卒に下知して、門内迄押入れ、爰にて又、攻合之ありて、敵味方、手負死人多し。良俊も敵三人、我れ一人にて突合ひ、右の股を突抜く。味方差続ぐ故、深手なれども死せずして、三人共に被官共之を討取る。其内、本丸後虎口より万喜衆乗入れ、敵三浦衆と攻合烈しき故、後虎口を堅むる兵少く、終に本丸も破られ、三涌衆も城を踏破る故、椎津中務は、櫓へ上り火を懸けて、腹かき切り、猛火の中へ入りて死にたり。良俊此働に因つて、義弘御感状、父が所領の外、別に所領を賜ふなり。

翌天正四年丙子の夏、北条衆と里見衆と、伊豆三崎表にて又船軍、三浦父子とも出帆せしめ、オープンアクセス NDLJP:116三浦手へ大船三艘・小船四艘乗取る。其砌、良俊十六歳なれども、弓矢の術賢く、尤も剛強なる故、大船三艘の内二艘は、良俊一箇の下知にて乗取る。二艘目の船に乗る時、良俊自身、敵船へ乗移り切つて廻り、四五人に手を負はせ、殊に其船大将梶原図書助といふ中老の者と、引組みながら海中へ落ち、良俊、鎧通を抜きて敵を刺し、首を取つて浮揚り、味方の船に助け乗せられて、難儀なく無類の働なり。右馬助も、左の脇腹に、上皮をぬうたる手疵ありたるを、某軍八も見覚え候。水中にて図書に突かれたる疵なり。扨此時の軍は、勝負なく相引と申伝ふるは、船数は里見方へ多く取り候へども、敵を陸へ追揚げずして、海中の攻合許りにて候故に、勝と申さず候事、船軍の作法なりと、里見家有体の咄なり。

大多喜の城主正木古大膳も、仔細あつて御成敗の時、久留利衆佐貫の三浦父子、其外近辺の上総衆、又は房州の旗本よりも、大多喜へ押寄する刻、良俊父の助言を受けず、一身の采拝を以て、人数を使ひ、敵城外廓を一番に乗取る。其内、里見家よりの計策を以て、正木被官の佐々木休三、主の大膳を討つて出す故に、降参する者は命を助けられ、逃ぐる者をば搦取られ、命を軽んずる者四五十人切死に候。

近年の正木大膳は、里見安房守忠義の叔父なり。父義康の弟なるを以て、正木氏を継がせ大膳になさる。古風奥深し。心持之あるか。

天正十八年、小田原陣の後、里見義頼、上総国を没収せられ、上総衆房州一国につぼむ。其時は、房州堀米といふ所に、居館を築きで居住なり。義頼の子義康、御当家へ出仕ある故、下野守成良太郎左衛門尉と名を改め候は、下野守忠吉卿の御名を憚つてなり。寛永十二年乙亥十一月十日卒す。此良俊は、某軍八定房母方の祖父なり。

 
管窺武鑑上之下第三巻 舎諺集
 
 

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