上杉三代日記

 
景勝大坂へ出陣の事上杉謙信景虎諸士系図人信州士、謙信を頼み越後へ引越し候分上杉謙信日記
 
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上杉三代日記 一云上杉軍記
 

一、越後の国は、代々上杉の領地なり。足利公方義満公の御時、上杉憲秋の末子憲義、出家するに依り応安元年、越後家老長尾高景、関東に来り、憲義兄憲方の御息龍命丸を乞ひ、越後の府内の城に移し、上杉民部大輔房方と申し、長尾高景家臣となる。其子郡景、其子益景、其子義景、其子信景、其子利景、代々国の仕置を仕る。是は三条の城にあり。并に高景の二男長尾信濃守朝景、息重景、其子好景、息長尾六郎為景、子息謙信輝虎、姉壻正景、息喜平次景勝、右十二代相続。上杉系図、上杉憲義、息房方、息朝方、息房朝、子房定、息房能、息憲方の息、上杉の家を継ぎ、息房実、息定実、上条の領主なり。府中、上杉房能在城なり。

一、永正六年三月、為景逆意あり。八千にて府内を攻落し、上杉房能、松の山六十六村雨みぞといふ所へ落ち給ふ。追懸け討ち奉る。山中に出島あり。其近辺、今に墓あり。他家に越オープンアクセス NDLJP:12中とあるは偽なり。此時越後二ッはん為景と、上杉宇佐美越中守家臣うさみ、永正四年二月、五十七歳にて孝只死なれば、息駿河守定行十七歳、屋方上杉定実と一所に、為景と合戦度々に及ぶ。房義兄関東管領上野国平井の大将上杉秋定の子息憲房一万五千、総人数二万三千余騎、越州へ打入り、上条上杉定実と軍評議ありて、市振といふ所にて相戦ふ。為景背敗して、越中西浜へ落行き、上杉秋定は、府内へ入り給ふ。憲房は椎屋へ在陣、西浜へ落ち行き、人馬を休めある処に、松倉・神保・江浪心替して、為景の陣へ討ち懸る。為景叶はずして、数百人討たれ、佐渡国へ落行く。右の国は、為景の従兄弟なれば、頼あるに付、亦、信濃国高梨は、壻なれば内通あり。

一、永正七年六月、七千余騎、密に出船ありて、蒲原へ上り、椎屋の上杉秋定と相戦ふ。秋定俄の事なれば、敗軍ありて、上杉へ引き給ふ所を、高梨正頼、大軍にて打出で、越後と信濃の境妻有の庄長森原にて、為景と後前に取込み、秋定を討取る。御年五十なり。宇佐美定行、上杉定実一味なれば、為景を討つべしとある所を、為景より様々扱ありて、定実を壻となし、府内へ入れ申し、屋形と定め、国中平治となる処に、秋定息定憲、大軍にて宇佐美一類・同八条左衛門尉・上田長尾越前守房景と、六日市にて合戦ある所に、為景後なれども、宇佐美・八条、粉骨を尽し、合戦毎に勝たずといふ事なし。為景、謀を転じ、柿崎弥五郎景家を味方に頼み、柿崎裏切あるに依り、定憲敗軍、討死なり。為景主君定能・同上杉秋定・子息定憲三人を討ち、大に利を得、国中治まる。弥五郎は柿崎和泉守景家と名乗り、宇佐美定行は大軍を切抜け、松山の城に籠る。為景、様々扱を入れ、宇佐美定行と和睦あり。両人味方となす。国中静になりしかば、越中は恨ある国なればとて〔〈以下欠字〉

一、天文七年四月、越中に出馬あり。松倉の城唐人兵庫介・山下左馬助を切落し、大将を始め、四百余騎討取る。放生津城畠山種長を攻落し、神保良平・江浪五郎・松岡・千檀野・神保、落穴を設け、其上に芝を懸け、空負して引く所を、為景追懸け、落穴に入り給ふ所を、神保取つて返し、為景を討取り、越後勢数百余騎討たる。宇佐美定行返し合せ、自ら働き、騎を追落す。松倉に十日留り、人馬を休め、松倉の兵糧を取出し、町人境川まで送りけり。定行敗軍、士卒帰国せん事なり難き処を、松倉の町人・百姓、宇佐美が仁あり情ある事を感じ、境川まで送りけるこそ頼もしけれ。

オープンアクセス NDLJP:13 一、為景一男弾正左衛門尉晴景、次男平蔵景康、三男上田左平治景房、四女高梨摂津守正頼室、息は源三郎真頼、二男源五郎頼治、五女加持安芸守室、六女上杉兵庫頭室、七女上田の城主長尾越前守正景室、八男虎千代景虎、謙信輝虎の事なり。

一、天文五年丙申正月、虎千代殿七歳の時、春日山林泉寺へ入りて学問あり。されども法師になるべき事あらず、為景へ返し奉る。

一、天文六丁酉年、八歳、下越後三条の城主長尾平六利景処へ、追放し給ふ時、米山薬師堂に休み、山々・府内・村々・里々見下し、我れ生長致し、本懐を遂げば、此処は能き陣場なりと宣ふ。御供の人々興覚し、只人にあらず、行末頼もしく思ひけり。同七年戊戌四月十一日、為景、越中にて討死の時、三条より府内へ帰り給ふ。同年五の間、府内に居住ありて、天文十一壬子、十三歳三条長尾平六利景、逆心あるに付、為景出頭人胎田常陸介一男黒田和泉守・二男金津伊豆守逆心あり。府内へ攻め入る。舎兄晴景叶はず、首城郡へ引退き給ふ。二男平蔵景康・左平次景房二人は討死。景虎は、二の丸の番士、板敷の下に隠し置き、夜に入り、林泉寺へ送届け、其後、橡尾の城へ落行き、本庄美作守義秀・柿崎・琶崎野・宇佐美駿河守定行を語らひ、義兵を挙げんと謀る。宇佐美を師となし、軍配を学び、是より宇佐美無二の臣となる。

一、天文十二年卯、十四歳三月、春易といふ廻国徒を頼み、城を急に出で、髪を剃り、腰に柄杓を差し申し、府内へ来り申されけるは、越中の椎名・神保は、亡父の仇、胎田父子三人は、舎兄二人の讐なり。早々義兵を挙げ、仇を報ぜんと約束ありて、能登・加賀・越中・越前を走廻り、人数懸引き、首城郡の劒山・野間川林を絵図に印し、甲斐・信濃・飛騨・陸奥・出羽を打廻り、城々原奥平兵の手挑を心中に納め、十月末に帰城なり。此節供の士には、戸倉与八・秋山源蔵・曽根平兵衛・鬼小島弥太郎四人、皆髪を剃り御供申すなり。

一、天文十三年辰、十五歳、胎田父子三人相議あり。長尾平六・黒田和泉・金津伊豆大将にて、一万二千押来り、本庄・宇佐美、景虎の下知を守り、打出で、搦手の黒田・金津討負け敗軍。大手の大将長尾平六と兄秋景と相戦ふ処に、後より景虎切懸け、平六を討取る。

一、天文十四年巳年、十六歳、国中逆徒起り、騒動に付、京都へ使者を上せ、逆心退治の御綸旨申請け給ひて、同〔十五カ〕年午、十六〔十七カ〕歳、柿崎弥次郎、胎田将監を討取り、晴景と力を合す。

一、天文十六未、十八歳、兄晴景、女色に嗜み多病にして、家中思はざるに付、屋形上杉定実も、オープンアクセス NDLJP:14景虎に意を寄せ給ふ故、国中二つに分れ、兄晴景は、景虎を討たんと計る。之に依つて、四月、一万余騎米山を越えて、柿崎・下浜に備を建て給ふ処に、景虎、兄に向ひて合戦なるまじき間、自害あらんとし給ふ。宇佐美・本庄、国民の為め、兄を討つ事其例多し。切懸け大軍を追散らし、亀割坂より、大勢落重り討たるゝ者数知らず。晴景、内府へ入り、自害あり。景虎、屋形定実公へ御目見申上げ、橡尾へ帰陣あり。

一、天文十七申、十九歳、新山・三条へ出馬ある。合戦度々あり、勝利なり。天文十八酉、二十歳、五月七日、定実、御下知を受け、柴田尾張守を以て、安田・村松両城を攻落し、野本大膳・篠塚惣左衛門を討取り、同八月、定実の命并に国中の諸臣届け申すに付、橡尾より、景虎府内へ入り給ふ。

一、天文十九年庚戌、廿一歳、二月、古郡へ出陣あり。三条の城を攻落し、胎田常陸介を討取り、同月、上杉兵庫頭定実死去。

一、天文二十年辛亥、廿二歳、正月朔日、甥の高梨源三郎直頼を以て、新山の城を攻落し、黒田和泉守秀忠、余党二千計り討取る。此和泉守は、越前牢人なるを、為景、美童なるにより小姓になし、黒田が名跡を継ぎ、大身に成り、親胎田も大身となる。二男伊豆守、金津の跡を下され、重恩なるに、為景討死の以来逆意あり。殊に和泉守は、景虎の兄平蔵景康・同三男左平治景房を殺し申す。其間十年計りありて亡びける。天〔罰カ〕の程こそ恐しけれ。同五月廿六日、宇佐美駿河守、黒滝の城を攻落し、同八月、上田の城主長尾越前守正景廿六歳、景虎の姉壻となる。

一、天文廿一年、廿三歳、此時仔細ありて、出家となり、謙信と改め、高野山へ志し、関山まで出で給ふ。国中騒ぎ、追ひ来り止め申す。謙信、其儀ならば、我が下知に随ふべし、誓紙聞止まるべしとあり。諸臣、人質を出し、誓紙を差上ぐる。謙信、関山より国府へ御帰あり。五月、京都より、上杉弾正少弼、従五位下になる。公方より御内書并に備前国光の刀を下さる。同七月、上杉正憲召に依りて、宇佐美駿河守、三千にて関東へ出陣、武州滝山の城を攻落す。大将遠山甲斐守始め、千余討取る。管領より宇佐美に感状下さる。

一、天文廿二年、廿四歳、二月、上洛ありて参内。天盃頂戴。同じく公方へ御礼を申上げ、帰国なり。同十一月廿八日、信玄公と川中島表雨宮に大合戦。甲州勢二千計り討取る。同三月、オープンアクセス NDLJP:15能州へ出馬、能登の屋形畠山義則と和睦あり。舎弟弥五郎義春を人質に取り、帰陣なり。

一、天文廿三年寅、廿五歳、八月十八日、武田信玄と川中島御幣川にて合戦あり。信玄と直の太刀討ある。武田取越後方高梨源五郎頼治討死。其外二千七百余討死す。

一、弘治元年乙卯、廿六歳、信州に出馬。旭山の城向城を取立て給ふ所に、今川義元より扱あるに付、向城破却あり。帰陣ある所に、信玄、越後方村上美作守を語らひ、謀あるに付、村上顕〔〈脱字アルカ〉〕殺さる。又弓箭取合あり。

一、同二年辰、廿七歳、三月廿日、一万五千、川中島へ出で対陣なり。同廿五日の夜合戦、越後方より懸り、信玄敗軍。板垣駿河守・小笠原美作守・一条六郎、数万人討取り、越後へ帰陣。

一、弘治三年丁巳、廿八歳、四月、信州高井郡出馬。五月十日、小菅山元隆寺へ参詣、川中島へ出で対陣を張り、合戦はなし。八月廿三日、景虎、上野原合戦、西方数百人討たれ、双方相引なり。

一、永禄元年午、廿九歳、三月、越中へ出馬、大利あり。公方義昭より御扱あり、和睦。同年十二月、二万八千、関東に出馬、前橋・同名和・平井・白井・矢沢の城に籠りたるを、真田・沼田の城を攻落し帰陣ある。

一、永禄二年己未、三十歳、四月、上洛あり。五月朔日参内、天盃頂戴。公方義輝公より御使者、御内書来り、輝の字并に網代輿を御免ありけれども堅く辞退あり、御礼計り申上ぐる。三好家来と松永弾正家来両人、洛中にて乗打す。不礼なるに付、輝虎家来、下知して討捨てける。三好・松永も、一言に及ばず。同年八月、大坂・天王寺・住吉・堺の津、見物に御出ある。旅宿の町主皮足袋はき、目見に出づるは不礼なりとて、手打になる。堺の町人、数百人旅宿を取囲む。則ち家に火を懸け、切つて出で追散らす。其火、大火になり、堺の津数千間焼失する。九月、江州守山川田九郎左衛門子岩鶴丸、美童たるにより、乞ひ受けて小姓になさる。後に川田豊前守長親と名乗り、越中魚津の城主たり。同廿六日、越後へ帰城。

一、永禄三年庚申、三十一歳、二月、信州野尻へ出張。信玄、川中島塩崎に陣あり、綱島・市村にて合戦あり。同三月、屋代・雨宮放火帰陣あり。五月、上州へ出馬、和田の城を攻落す。七月、信州野尻口にて、栗田淡路守国持と、宇佐美定行が子宇佐美造酒介定勝と、野尻にて度々迫合ひ、栗田、打負け引退く。宇佐美、善光寺へ押寄せ、如来を分捕して帰る。其後、栗田色々申オープンアクセス NDLJP:16して云、某八百貫の知行と如来を取替へ申さんとありけれども、宇佐美用ひず。再三申すに、より、如来を返し奉る。同九月、二万にて上野へ出馬あり、北条氏康と合戦ある。氏康方千八百討たる。北条敗軍なり。上杉憲政、後詰として越後を立ち、前橋へ着、本城に居給ふ。景虎、二の丸に居給ふ。其年は、前橋にて越年なり。

一、永禄四年酉、三十二歳、正月、関東大名衆、輝虎へ御礼申す。同月廿三日、義氏御所古川の城を攻落す。同年三月、小田原へ働き、鶴岡八幡宮社参の時、成田下総守長康、馬上にて待ちけるに依りて、輝虎怒り、下知して馬より引落す。成田も立腹して引退く。関東の士、大方暇取り、引取り返る。輝虎二万計りの勢、鎌倉を立ちて、武州府中へ志しける。成田三千、小田原勢一万五千、柿崎和泉守が後勢数百人討取り、兵具・糧米引落し逃げ行くを、宇佐美・斎藤下野守両手返し合せ、成田方を追返す。輝虎、平井に在りて、成田を攻むれども、成田も打出で合戦す。度々に及び、平井には上杉憲政を差置き、四月、帰陣なり。輝虎を背きたる大名衆、憲政平井にあるを、氏康に背くに付き、平井を攻むる。憲政叶はず、越後へ引き給ふ。同年酉八月、一万三千、信州西条山に陣取る。其下赤坂といふ処の下に、後より水流あるを堰止め、堀となし、信玄は廿六日、雨宮に着、陣を張る。廿九日、海津の城に入り給ふ。謙信、九月九日夜の海津の火気を見、騎朝駈あるを考へ、其夜に川中島へ諸勢を渡す。〔西カ〕条山には、村上左衛門尉義清・高梨摂津守政頼・井上播磨守清政・沢田相模守・島津左京親久、二千の勢を残し置き、先手は、斎藤下野守朝親・長尾政景・柿崎和泉守、二番備は、北条丹後守・本庄美作守、左脇備は長尾遠江守、右脇は山吉惣次郎、備四町下りて宇佐美定行中条なり。直江山城守は、五町下りて備へたり。長尾正景・柿崎・北条丹後守、二番備なり。亦海津より出づる横鎗を攻むる為めに、本庄弥次郎・柴田尾張守・大河駿河守・色部修理亮・鮎川摂津守、越後方より切懸り、武田太郎義信を切崩す。義信、負け給ひ、信玄の本陣へ突懸る。信玄も二箇所手疵を負ひ、倉利へ総敗軍し給ふなり。武田方三千計り討死。其内、初鹿源五郎・諸角豊後守・山本勘介、討死なり。越後方は志田源四郎討死。輝虎十一日迄、野陣を張り、十一日の朝、〔西カ〕条山の陣を焼払ひ、善光寺に三日滞留ありて、人馬を休め給ひ、越後へ引取り給ふ。同年十一月、加賀へ出馬、府有焼払ひ帰陣なり。

一、永禄五年壬戌、三十三歳、二月、北条阿波守氏邦、二万の勢にて、上州前橋へ出馬ある。城オープンアクセス NDLJP:17主は為景の弟、越後長岡の城主為景の子長尾弾正忠景、其時、宇佐美定行子息造酒之介定勝十七歳、二男民部少輔正勝、行年十五歳、父子三人利根川を越し、一戦に打勝つ。同月、輝虎、関東へ打出で、所々に合戦あり、皆勝利を得る。鴻巣・桶川・上尾に働あり。宇佐美造酒之介討死なり。六月、越後へ帰陣なり。同七月、国分寺五知如来堂再興ある。十二月五日、義輝公より上使御内書、大和兵部少輔清長、越後へ下り、関東管領職を給はる。永禄年中より、管領職御免ありけれども、是を辞し、受け給はず。此度は辞し難く御受あり。同年、越中神保方より、高木佐伝次といふ牢人を小姓に仕立て、謙信へ奉公に出し、謙信を刺殺し、其身は果つるとも、父の高木五兵衛を、大身に取立つべきと約束し、越後へ行く。謙信召抱へ給はず。其仔細は、神保が謀を推量ありてなり。名将の御鏡、明なるかなと、諸人感じ申す。

一、永禄六年亥、三十四歳、持戒ありて真言秘密を受け、大僧正となり、精進の身となり給ふ。同年三月、上州へ出馬あり。伊勢崎の城を攻め落す。同八月、一万五千の勢にて、越中松倉・小出二箇所の城を攻め落す。放生津へ打出で、神保長平椎名康種・江浪参河守一頼、大将分首十六を切りて、天文九年三月十一日、千槽野にて討たれ給ふ。亡父為景の為めに、千槽野に懸並べ、多年の本懐を達し給ひ、九月、帰国なり。

一、永禄七年子、三十五歳、常州小田中務大輔氏治、別心あるに依りて、正月、謙信出馬。小田が城を攻め落し、方々へ働あり。同五月、北条氏康・同氏政、四万の勢と相戦ふ。北条二千討たれ敗軍す。同月十三日、越後へ帰り給ふ。同六月、謙信姉壻上田正景事に付、大江の斎藤下野守・色部修理亮を召し、密談あり。信州野尻宇佐美定行と内談あり。定行居城、柿崎琵琶島へ行き、五六日逗留。野尻へ帰り、飛脚を以て、野尻にて漁舟遊山あるべき由申遣す。長尾越前守正景父子三人、七月、野尻へ越し給ふ。同五日、舟にても、柿崎より池に出づる。舟底に穴を明け、のみを差入れ、池の中にてのみを抜き、舟に水入り沈む。正景組付き、水中に溺死す。残る人々、船櫂に取付き上るもあり、救舟来りて救ふもあり。正景三十九歳、定行七十六歳。正景の家来共、宇佐美が勢に切懸り相戦ふ。定行が家老戸股主膳、正景の子息右京亮義景・二男喜平次景勝を奪ひ取り、本城に籠る間、正景家来是非なく静まり、早馬にて、右の趣越後へ註進申す。高梨政頼・芋川縫之助・島津左京進・岩井備中守、走り来り、西方の間を切静める。定行、書置一通あるにより、越後へ差越す。謙信見給ひ、新発田播磨守を召し、野尻へオープンアクセス NDLJP:18差越され、正景仕合了簡なし、跡の儀は姉上、子供は姪甥のことなれば、疎略あるべからずとて、上田へ返し給ふ。定行が子息民部少輔勝行家臣塚田・会根・泉沢・戸股、越後へ召寄せられ、野尻・同琵琶島本領を召上げられ、勝行牢人なり。民部十五歳、野尻には松川大炊・山岸宮内を差置く。

一、伝に云、宇佐美、応安元年戊申、上杉龍命丸・長尾筑前守、越後へ入部の時、宇佐美高景御供申し、琵琶島の城主となり、永禄七年まで、百七十余年にて、家絶ゆること悲しかりけり。

一、謙信、内々正景を亡さんと謀あるを以て、此の如くなり。定行、上田の家来衆起り、国の騒動となるべきを思ひ、正景を斯く計らひける。忠臣末代にあるべからず、戦中にて討死は、家の為め、子孫の為め、討死尤なり。唯今の儀は悪命を取り、甥民部勝行方へ扶持米・金銀忍び忍びに遣すは、輝虎軍配の師匠故なり。

一、永禄八年乙丑、三十六歳、五月、上洛ある。三好左京大輔義継・松永弾正逆心あり。義輝公御生害。七年以前永禄二年、上洛の砌、三好・松永逆意ある色、謙信察し、密に義輝公へ、三好・

一、松永逆意ある色察し申す間、御油断あるべからず。御退治あらば、討ち申すべき旨、申上げらる。されども御承引なし。名将の察、若し逆意あるに於ては、早速罷上り、退治仕るべき旨、御請合ありて、越後へ下り給ふ。

一、永禄九年丙寅、三十七歳、七月、村上義清病死す。子息源五郎国清、越後にあり。同月、上田の城主宇佐美正景の息義景病死。二男喜平次景勝跡を継ぐ。

一、永禄十年卯、三十八歳、四月、上野新田由良信濃守を攻め、領内の作を刈捨て、方々放火して、越後へ帰り給ふ。

一、永禄十一年辰、三十九歳、正月五日、常州へ出馬。小田氏治を攻め給ふ時、里見一万にて打出で、里見打負け引入る。謙信、前橋へ御馬を入れられ、四月、本庄越前守重長、逆心ありて引籠る。是は川中島合戦に、謙信を誹りたるとて、謙信怒り給ふに依り、逆心ある。同七月、信州深志の城主小笠原大膳大夫長時、越後に来り、細川大夫晴元を頼み、牢人分にて罷在候処に、三好・松永逆意に付、上方に仕へ難く候故、謙信を頼み入り申すなり。謙信、長時・同息次郎貞慶・直義二人を客分にて、越後に逗留。天正六年三月、謙信死去に付、金津へ越え、星野味庵が処に旅宿、三年ある処に、長時の妾に、家来坂西と心を合せ、長時を殺し申す。其時、家オープンアクセス NDLJP:19人の三崎・坂西を討つて退きけり。長時、上方へ牢人の時、信玄より、長時弟信定と申し、深志の城主となし給ふ。勝頼亡びて後に、次郎直義、深志の城にあり。其子息兵部大輔秀正、家康公の御子岡崎参河守信康壻となる。信濃守忠正の父是なり。

一、永禄十二年己巳、四十歳、正月、関東出馬。忍の城取詰め、松枝・安中・深谷、馳せ加はり、一万五千、忍の領分を攻め、放火して、武州羽生の城攻め落し、上州山上藤九郎が城攻め落し、越後に帰陣。同八月、能州国主畠山修理大輔義則家老共逆心ありて、義則を追払ふにより、謙信家老共、謙信へ対し難くなり、義則子息義高を、主君に立て申すに付、謙信帰国なり。

一、元亀元年庚午、四十一歳、正月、上州佐野太郎は、越後より差置きけるを、氏政、四万にて出張る。謙信之を聞き、正月十一日、越後を立ちて、十九日、佐野へ入り、氏政と合戦ある。千三百北条方を討取り、謙信それより、飯盛の城攻め懸け八百余人討取る。同二月、氏康川越へ出で、合戦止む事なし。氏康父子より、富田大中寺和尚扱により、三月、氏康、七男三郎殿に、遠山左衛門・近藤治部左衛門・神田右衛門・上山又六を差添へ、越後へ遣さる。輝虎養子となし、上杉三郎景虎と名乗り、景勝の妹塔なり。之に依りて、上杉と北条と弓矢静まる。

一、元亀二年未、四十二歳、三月、謙信、二万八千、越中魚津城攻め落す。其跡を川田豊前守に給ふ。同八月、越中に働き、栂尾城攻め落す。帰陣。

一、元亀三年壬申、四十三歳、謙信、三万にて越中へ出馬、方々仕置ありて帰国なり。

一、天正元年酉、四十四歳、甲州信玄、参州へ出張。松平与市郎籠りたる野田の城を攻め落し、大将を生捕る。然れども信玄、鉄炮疵を受く。四月十二日、参州と信州との境、波合にて死去。されども隠し、病気と称し引取る。同五月七日、北条氏政より使者来る。信玄の死去、謙信に知らせ申す。輝虎、さて世に稀なる英勇の大将なり、惜しき事かなと悲しみ給ふ。同年、関東へ出馬、方々放火。其上迫合、岩着の城を焼払ひ、四十日計りにて帰国。

一、天正二年甲戌、四十五歳、三月、信玄公両使を以て、洛中・洛外の図を書きたる屏風一双・源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳筆なり。是を謙信へ贈り給ふ。同七月、越中へ打入り、神保籠りたる木船の城を攻め落す。今の金沢なり。同小山の城を攻め落し、男女打伏す。同九月十一日、七尾の城を攻め、長野対馬守・同九郎左衛門、侍大将十一人討取る。七尾の城は、畠山本国なればとて、畠山譜代の士馳せ集る者二十余人、上杉弥五郎力を合せ、世に出づべオープンアクセス NDLJP:20しと悦びけり。九月十三日、名月なれば諸大将和歌会あり。謙信も一首成れり。十四日に七尾を立ちて帰陣あり。

一、天正三年乙亥、四十六歳、二月、本庄越前守重長、永禄十一年より逆心ありて、本城に籠りけるが、降参あるにより、御捨免あり。重長は、雲林斎と法名改め、春日山に出仕ある程なり。謙信に背き幽かなる体にて罷在る。同八月、謙信、加賀・越中に働き、松とうの城を攻め落し、帰陣なり。

一、天正四年丙子、四十七歳、越中へ出馬、栃名を討取り、飛騨国に打入り、江馬常陸守を攻め落す。飛騨一国は越後仕置となる。

一、天正五年丁丑、四十八歳、十一月七日、柿崎和泉守父子四人の討手に、平賀惣右衛門・吉江中務・本庄越前守、七千押寄せ、柿崎八百余切つて出で、火花を散らし戦ふ。敵も大勢討取り討死す。柿崎、如何なる故と聞けば、天正三年、良馬一匹、上方へ売りに遺す。信長、高直に買取り、自筆にて、能き馬差上げられ候段、喜び入り候。北国は馬の名物たり。重ねて良馬候はゞ、頼み入るの由なり。之に依りて、柿崎、鷹一差上げらる。謙信聞召し、若し柿崎、信長と内通逆心あると察量し、討手向け給ふ。柿崎は、夢々野心なき事なり。謙信、いきもなく討ちたる事を悔い、和泉守が弟三四郎を召出し、小地を下さる。上杉家に今にあり。其後、柿崎の亡魂、度々出で、謙信の目に見えて、恨を申す。怒る事三四度に及ぶ。是より気疲れ、病気付き給ふ。

一、天正五年、春日山にて、毛利名左衛門、直江大和守に遺恨ありて切殺す。亦謙信を心懸け、奥へ切入る処を、登坂角内、名左衛門を討留むる。大和守は、代々直江の城主なり。子なき故、樋口六郎兼継大和守となし、直江与六郎と申す。木曽の樋口次郎兼平孫なり。後に直江山城守と申す是なり。

一、天正六年、四十九歳、謙信、上洛の用意あり。加賀・能登・越中・信濃・飛騨・上野・越後・佐渡八箇国の勢を召集むる所に、三月九日、中風を煩ひ出で給ふ。同十三日、御死去なり。其時辞に云、

     四十九年一睡夢  一朝栄華一杯酒

     柳は緑花は紅

オープンアクセス NDLJP:21と吟じ畢ぬ。

一、天正六年寅三月、謙信煩ひ給ふにより、直江山城守・本庄越前守・長尾権四郎内談あり。上田長尾喜平次景勝の許へ、上条民部少輔義春使として、景勝を密に呼寄せ、本丸へ入れ置く。上田家臣黒田上野介・宮島参河守・栗林肥前守、本丸・追手・搦手の門を堅め、三郎景虎を本丸へ入れざる様手使あり。景虎は景勝の妹壻なれども、景勝、本丸に忍び入りたるをば、夢にも知らず。十三日、謙信死去。林泉寺にて煙となし、各涙にくれてぞ帰りける。

 上杉謙信代日記なり。

一、上杉弾正景勝と三郎景虎と不和の事。

一、景勝主君を討ち奉り、憲政入道の事。

一、景虎子息道万丸・同妹殺す事。

一、上杉三郎景虎は、上杉隠居憲政入道へ内談あるは、我は謙信の家督を継ぐ約束なれば、本丸へ移し申さんとあれども、上杉家老共同意せず。景虎を立退くと思ふ方もあり。又景勝を退くと思ふ方もあり。家中二つに分れ、景勝は、五月、謙信の紺地に、日の丸の大四半の旗、本丸へ押立てて、丸を目下に見下し、大鉄炮を打懸け攻むる。景虎、二の丸に怺へ兼ね、子息道万丸八歳、内室、隠居上杉憲政の御館城へ二里半ある処へ、五月十三日、落行き給ふ。景虎へ走付の衆、上杉十郎憲景・北条丹後守長国・本庄美作守義秀・平束主水・長尾播磨守、其外都合一万余騎馳せ集り、愛宕山を乗取り、春日山本丸・二の丸を見下し、合戦日々迫合なり。三郎方より、北条へ飛脚を立て、後詰を乞ひ、氏政より遠山丹後守・富長三郎左衛門・中条出羽守・太田大膳、北条治部大輔一万八千余騎、小田原を打立ち、武田勝頼は、氏政の妹壻なる故、一万余騎、越後の老津に陣を張り、小田原勢の一左右を待つ所に、上条家老赤田の城主斎藤下野守、謀を以て、芋川縫之介・島津丹下斎使者として、勝頼へ黄金一万両、長坂・跡部へ二千両宛差越し、東上州半国遣し、其上旗下に罷成り、勝頼の妹婿となし、武田・上杉一家となり申さんとの趣なり。長坂・跡部佞なる故、景勝と向後縁を結び給ふは、始終御為め宜しと、再三諫め申す間、勝頼も然るべしと思ひ、使者対面ありて、互に誓紙を取替し、老津より甲州へ、勝頼は帰陣なり。其時、

      無常やな国を寂滅することは越後の金の修行なりけり

オープンアクセス NDLJP:22      金故に松木に恥を大炊どの尻を居上ても跡部なるかな

斯くて北条治部少輔、猿が京まで来り給ふ所に、勝頼別心あるに付、猿が京より引返し、三郎景虎が落しけれども、越後代々家老北条丹後守・本庄美作守・子息清七郎、日夜合戦止む事なし。其年も暮れにけり。

一、天正七年卯、去年関東より加勢来り、景勝危き所を、斎藤下野守朝信謀を以て、武田と和睦調ひ、景勝難を除き給ふ故、斎藤が子孫末代疎略あるまじき趣、起請文自筆遣され、景勝謀ありて、坂戸の城を攻むべき風聞致すに付、景虎、坂戸へ大将分を、夜毎に宿番を差越し、夜明には御館に帰る。爰に荻田主馬、与惣兵衛と申す時、津波木与兵衛二人、坂戸の城と御館の城との間、蓮池といふ所に、明方に待つ。北条丹後守宿番を勤め、御館へ帰る所、橋下より出で、二人鎗を突きたり。丹後守振返り、小忰めと白眼み馳せ通る。二月廿九日朝、御館にて煙となす。本庄美作守八十二歳にて、同月病死。上杉十郎は、三月朔日に討死。三月上旬より、林泉寺・浄安寺扱あり。景虎と景勝と和睦調ひ、憲政は主君なり、景虎は妹婿なり。憲政入道、立山黒衣にて、景虎子息道万丸九歳、景虎廿四歳、内室を召連れ、四つ屋の附城御出あり。御妹并に道万丸を、景勝へ入質に渡し、御支度あるべきなり。霧沢左京進、聞き誤りたる体にて、憲政・若君・御娘討ち奉るは、景勝むごき仕方なり。左京進、右の和睦聞き誤りたるとて、左京を押込めけれども、本意にあらざる仕方なり。三郎景虎は、家老共或は討たれ、或は病死、子息道万丸は殺され、是非なく御館を落ち、飯盛摂津守・片貝民部が籠りたる鮫尾城へ入り、上条義春、大勢にて攻め懸る。片貝逆心して、景虎へ攻め懸る。三郎叶はず、三月廿四日御切腹なり。御首は、上条家来毛蓑与十郎討取る。景勝廿五歳、同年十月二十日、勝頼の妹於菊殿越後へ送り給ひ、両家一門となり。越後平均となる。

一、慶長八年、千徳誕生。後に上杉弾正定勝と申す。景勝生付、幼少より、笑顔を近習人見たる事なし。常に太刀に手を懸け居給ふ。或時牛飼の猿、景勝の頭巾を取り、木の上へ登り、頭巾を冠り、景勝を見てうなづきたるを、景勝見給ひ、初めて笑ひ給ふ。近習衆、初めて見たる計りなり。

一、天正八年庚辰、景勝、越後・佐渡を治め、東上州をば、武田勝頼へ送られ、加賀・能登・飛騨は、信長に降り申す。同年十一月、信長公より、柴田勝家、加賀の国上杉方の地士を討ち申すなり。

オープンアクセス NDLJP:23一、天正九年巳、景勝廿七歳、越中に出馬あり、信長公方府峠の城主毛利九郎兵衛は、佐久間玄蕃盛政の家老を攻め落し、馬を引入れ給ふに、佐々内蔵助・神保長継押来れども、景勝引入り給ふにより空引。

一、天正十年午、廿八歳、越中魚津の城主寺島六蔵・亀田小三郎・若林九郎左衛門・治賀門介を大将にて、川田豊前守・安部右門・中条越前守・竹股参河守・山本寺勝蔵・吉江喜四郎・石口妻女〔采カ〕正を籠め置き給ふに、信長公より、柴田勝家・佐々内蔵助・前田又左衛門利家・佐久間玄蕃丞・徳山五兵衛計りにて打つて出づ。其節景勝は、関山太田切の城に在陣なり。信長公、信州出馬ありて、越後へ押し来る所を持ち給ふ処に、越中表の事を聞召し、春日山へ御帰り。四月二十日、五十余騎にて、越中へ御出あり。天神山大厳寺陣あり、日々迫合あり。同五月〔〈一時脱〉〕旬より、魚津の城兵糧尽き、大敵を防ぎ難き由申来る。景勝自筆を以て、食乏しきに付、敵方へ和睦を入れ城を渡し、越後へ引払ふべしと、直判にて、岩井源蔵・庄野瀬八左衛門を以て魚津へ行き、此書を相渡す。大将分、此状を見て、諸議一同定まり、敵に降を乞ひ城を渡し、命を助けし事、末代までの恥辱とて、大将物頭十三人居、再び末期の酒盛あり。竹股参河守、蠟燭を明し申しけるは、兵糧・矢・玉薬等も尽きたるは、我々が極運なり。古より歴々の名将達自害、城に火を懸け、其上面を焼損じ、誰が首と知らぬ事、計り給ふ。是は本意にあらずとて、木札に、各名字を書き、同時に腹を切り、残る郎党、敵に懸合ひ、残らず討死す。其後、柴田・佐々・前田、城に入り駈廻り、自害の体を見、景勝の自筆を見て、扨々上杉家の士程、義士前代未聞なりとて、感じける。涙を流し退散する。六月二日未明に落城なり。此時に当り、京都にて、明智が為めに、信長御生害あり。今四五日も存へば、運は開くべきに、残念なる次第なり。此竹股は、宇多源氏にて、上杉七手組なり。天正十年春、信長公、武田勝頼を亡し、甲州・信州・上州平均する。森勝蔵長可・毛利河内守、松城に在りて、五千の勢にて、越後二本木まで焼働く。景勝妹壻上条民部少輔頼春、七百余騎にて打出で合戦あり。越中へ、早馬にて申遣す。景勝帰陣ありて、信長御生害の由申来る。越中表の人々も、之を聞き力を落し、皆々引き給ふ。森庄蔵も、早々引取る。六月、景勝信州へ打出で、川中島四郡の支配となる。同七月、北条氏直、五万五千の勢にて、信州へ打出で、〔真カ〕田安房守を旗下になし、川中島仕置を申され帰陣なり。其時景勝、五千の勢にて、川中島・雨宮渡を隔て、別手、一手の丸備を作り、北条を物の数ともオープンアクセス NDLJP:24せず備へたり。氏直の諸臣申しけるは、今日景勝と戦ひ、日数過ぎ候はゞ、家康公逗留を窺ひ出馬ならば、関東如何ならんと申す。真田・小幡は、景勝・景虎の敵なり。目前に置き乍ら、一戦と申しける。景勝は、北条大勢の備不行なるを見て、明方雨宮を渡り、欧七月十六日、北条へ打懸る。氏直油断の所を、備を立ち難くなり総敗軍。討取る者数知らず。其時、雨宮の表に、

    氏名をも流しにけるな筑摩川瀬よりも早く落つる北条

氏直、甲州へ打出で給ふ由、景勝は、海津の城に、上倉治部少輔を差置かれ、飯山の城、岩井備前守・坂本村上源五郎国清差置き、越後帰陣なり。武田勝頼、此春、亡び給ふにより、信玄公の二男龍宝丸、盲目にて、清野の家を継ぎけるが、此人を初め、景勝は姉壻なる故、越後へ落行き、景勝を頼み居給ふ。

一、天正十年壬午三月、勝頼亡ぶ。同年六月、織田信長亡び給ふに付、同八月、信州上田真田安房守、和〔本イ〕の小笠原・海津高坂源五郎、御味方に参る。景勝四千余騎にて、信州飯山に出馬。右四人、飯山まで参上、目見申上ぐ。景勝、海津へ入り給ふ所に、北条氏直大軍にて、川中島・犀川・善光寺まで、人数を立切り屯ある所に、景勝小勢なる故、右四人心を翻し、景勝を討取り、北条へ出で、旗下にならんと謀る所に、景勝の忍の者、是を聞き帰り、右の由を語り申すにより、高坂源五郎を生捕り、海津表に磔に懸くる。其一門十一人首を切り、氏直へ贈る。時の使者は、川田軍兵衛、後に摂津守と申す。大関弥七なり。氏直人数を引取らんとし給ふ其を見切り、川田大関、跡より追懸け討取る。景勝押し来り給へば、敵はやう引取る。海津の城には、村上源五国清差置かる。同加番に浅野左衛門尉・寺尾伝兵衛尉・西条治部少輔・保梨左近将監・綱島豊後守・大室源次郎、右六人相添へ、越後へ御馬入れ給ふ。村上国清、会稽の恥辱を雪ぎ、信州川中島総大将となる事、大悦尤の事なり。右矢代より南は、真田知行と定め、矢代より北は松城分、越後より定め給ふ。景勝、信州持城は、海津は村上国清、青柳は春日源太左衛門、尾味は同左兵衛、市川の城は市川対馬守、龍王の城は清野左衛門尉・小市小田切安芸守、是は元来越後家来。春日の城春日右衛門、真木島芋川越前守、元より越後家来なり。綱島は綱島豊前守、矢代は矢代左衛門、三百貫の知行なり。家来は塩江太郎左衛門・子太郎兵衛、矢代の気に背き、越後へ落行き、春日山へ勤ある。父太郎左衛門矢代の家を潰す。オープンアクセス NDLJP:25其由来は、矢代左衛門は信玄へ頼り、逆心申すに依り、越後より打手向ひ討取る。

一、西条治部少輔。一、東条左近進。一、清野左衛門。一、寺尾、同伝左衛門。一、大室、同源次郎。一、福島源太左衛門、是は市川の城を下さる。

一、保梨、同左近将監。一、板屋、同修理。

一、善光寺は栗田寿永。築川より東北は長治組。

一、長沼、島津淡路守。元来家来なり。

一、飯山城、岩井備前守。元より家来なり。

一、葛山城、落合備中守。元より家来なり。此組合の衆、栗田・北江・松本・桂林。

一、大峯、落合九郎兵衛。旭日山、落合治郎兵衛。

一、甘糟近江守。〈是は時々越後より来り仕置する。〉

一、天正十一年未、廿九歳。此春より、秀吉公、柴田勝家と相戦ふ。四月廿一日、志津が嵩合戦に、勝家敗軍。切腹ありて、加賀・能登・越中、秀吉の御手に入る。景勝も、越中境姉川を越え、一振といふ所まで打出で給ふ処に、四月廿七日、秀吉公、木村市左衛門尉御使者にて、柴田勝家退治候由御状、并に国光の御刀・瓦毛馬一匹・綸子五十巻・白銀二百枚来る。景勝よりも、矢尾坂伊豆守使者にて、今度御勝利御祝儀申上ぐる。其秋、景勝の妹壻上条民部少輔義春の三男弥三郎義直五歳、甥なれども、人質に差越し申され、此上万事疎略致し申すまじきの御使者なり。新発田因幡守治長、意地の峯五十公野いそこうの道如斎居城へ引籠り候を攻め落し、上洛之れあるべき事。

一、天正十二年申、景勝三十歳。新発田因幡守、八月十二日、二千の勢にて打出で、景勝出合ひ、合戦度々に及ぶ所に、宇佐美駿河守・子息民部少輔勝行、小子屋をしや五泉に牢人致し、合戦に出で、一騎は切落す。一騎は組みて首を取る。平林内蔵助を頼み、景勝へ勘当を捨免願ひ申す。景勝、父の仇の子なり、御捨免なし。信州矢代越中守忠輝・真田安房守昌幸、家康方になる。芋川・飯山、長治放火し、働あるにより、景勝新発田表を引き、川中島へ出馬あり。海津城に上条義春に、芋川織部介・岩井備中守・高梨栗田刑部少輔・島津・月下斎、其外信州の衆、義春の旗下になるなり。樫井・体申の城は、矢代方なるより、義春取懸り攻め落す。百騎計り討取る。

一、天正十三年乙酉、三十一歳。信州福島の城主須田左衛門尉・真田安房守と申合せ、景勝へオープンアクセス NDLJP:26逆心あるに付、景勝召せども、病気とて参らず。海津の城主〔上カ〕条義春謀ありて、士四五人相連れ、病気見舞の由にて行き、半日計り、酒宴して帰る。其後返礼に、須田左衛門七百騎にて、海津へ来る所を、義春二千余騎にて、道に待受け、須田を始め三百十一人討取る。此義春は、能登の国主畠山修理大輔義忠末子、幼少より、謙信に人質に参り候を、十四歳より召仕へ、一手の大将になる。殊に景勝の妹壻になり、武功度々に及ぶ。殊に鮫川尻にて、三郎景虎に腹を切らせ、後を景勝に取らせ、新発田両度の合戦に、比類なき働ある。森庄蔵、越後二本木まで働の時も、庄蔵を引受け利を得たり。其外場数十八度の手柄あり。同年八月、越中の佐々内蔵助退治として、秀吉公八万余騎、越中へ御出馬。景勝八千の勢にて、黒部まで打出で、御下知次第に相働くべき旨、申上げらるゝ。されども内蔵助降参ある故、秀吉公御捨免あり、帰陣あり。秀吉より、真田安房守味方となる。上田の城に籠り候に付、家康公より二万の勢、信州へ攻め入り、合戦度々あり。真田が後詰頼あるべく、飛脚来るに付、上条民部義春大将にて、芋川・岩井・高梨・島津・栗田・井上・落合・清野・信州士三千計りなり。川中島へ加勢として、手白塚に陣を取り、家康公も諸勢を引入れ給ふ。

一、天正十三年、秀吉公、越中表へ御働あり。佐々内蔵助、攻め干し給ふ。越中堺堕〔水カ〕城須賀修理亮籠りたる町屋に御一宿あり。其時の御供衆石田三成・森屋市右衛門、上下三十八人迄御出。森弥市右衛門を御使者として、堕水の城へ申越され候は、須賀殿へ対面なされたき御意なり。修理亮、町屋へ罷出で、御目に懸る。秀吉公仰せけるは、景勝へ申したき直段の隠密の事あり。春日山へ早馬を立て、景勝、此地へ早々出馬あるやう頼入候。修理承り、身不肖に候へども、斯様の為めに、当城に罷在候へば、何なりとも、仰付けらるべく、是より申通ふとの由申す。秀吉公、いや貴殿に申すべき程の事ならば、使者を以て此方より申す事に候なり。直段ならでは叶ひ難しとの御意なり。景勝は、糸井川の城主丸田伊豆守処に、八千六百の手勢にて御座ありけるが、修理亮方より、右の旨申遣す。秀吉公をば、三日の間様々馳走し奉る。景勝は、諸臣と相談あり。諸臣申すは、秀吉公籠の鳥の如し。唯今切腹致すべき由、殊に天の与へたる所と随ひ申す。景勝仰には、秀吉公、景勝武勇、士の道ある事を御存知ありて、近〔〈一字脱〉〕少々にては御入る処に、景勝、疎略あるまじき義理を御存じ御出なり、其義理を知らず、討ち申す事は、天下義家の悪名除き難し。御望の如く対面の上、和睦申すか、又は弓矢オープンアクセス NDLJP:27にて勝負仕るか、変に依るべしとの御意。直江山城守・藤田能登守・泉沢河内守、其外三十五人、堕水へ御出ありて、秀吉公へ御対面ある。景勝は、直治を召連れ、秀吉公、石田一人にて、堕水の奥間にて、二時計りの御相談なり。秀吉公、福山へ御帰あり、右の御相談の趣、其後承り候へば、家康公と景勝と、諸事御示合ひあらば、天下の事、御心に叶ふべしとの思召により、直々の和睦あり。御内意ある故、景勝と、別して御隠密と承る。

一、天正十四年丙戌、三十二歳、景勝、五月二十日、国を立ちて、六月七日、上洛あり。亦大坂へ下り、参河守を討取る。同十月、新発田因幡守道如斎二人、天正十年より逆心あり。新発田家を討亡し、絶ゆるに依りて、因幡守を召出され、小知を下され、新保申、景勝出羽国仙福前田薩摩守を攻め給ふ。前田叶はずして降参す。帰陣なり。同年、景勝内室を、秀吉公へ送り、先年人質に出さる、三郎義直と、取代へ申されけり。

一、天正十六年、三十四歳、信州海津上条民部義春を召寄せ、籠に入れ、番を附け置く。是は直江山城守讒言云、義春、信州の士と一味あり、景勝へ逆心ある由、度々申すにより、其実否も改めず、義春を斯くなす事。情なき事なり。其後七月三日、籠を義春忍び出で、上方へ登り、秀吉公へ、右の趣を申上ぐる。義春遁落に付、内室・子息弥五郎・二男源四郎を座敷籠へ入れ置き、黒金上野に預け置く。義春は、秀吉公不便に思召し、米千石御扶持下さる。其後、石田治部少輔に仰付けられ、義春、景勝と和睦仕るべき由、御意あり。石田は、直江と申合せたる事あれば、畏り候由にて、打捨て構はず。慶長元年より九年目に、秀吉公上意にて、妹甥とを籠より出す。

一、慶長三年、秀吉公御上意にて、景勝会津へ、百万石にて国替ある。上条弥五郎、畠山と名乗る。源四郎は、弥五郎と一所にあり。義直は、秀吉公へ人質に出づる。

一、慶長五年、石田義春に申す様、貴殿は、北国筋へ手仕ひ能ければ、味方の者を手引あるべし。勝利を得ば、本領能登・越中参らすべし。上条聞きて、我は、家康と申合せたる事あれば、御免あれと、小山へ罷越し、家康の味方になる。

一、慶長六年七月、家康公より、景勝へ、義春の妻子を、義春方へ返すべき由、御意あり。景勝返答に、弥五郎は上条の筋目、弥三郎は、我が養子なり。妹は、老母離され申すまじ。源四郎を差返すべくと申さるゝ。

オープンアクセス NDLJP:28一、慶長八年、景勝男子誕生。千徳丸と申す。後上杉弾正定勝と申す。上条義春申さるゝは、源四郎・弥三郎、家康公へ御奉公申したき由、申上ぐるに付、上意にて、二人召出され、御旗本となる。義春は、畠山と名乗り、入道して畠山入庵と申す。弥三郎は、畠山左近と申し、後に長門守と号す。

一、天正十七年、三十五歳、昔より佐渡国は、下尾佐渡守諸家・本間山城守利忠・羽茂参河守高持・佐原与左衛門利国、六人の領分なり。下尾佐渡守・本間山城守は、天正十五年七月、謙信に亡され、天正十七年、沢根・片上・羽持・佐原、逆心あるにより、景勝七千にて出船し攻め給ふ。沢根・片上は降を乞ひ下る。羽茂・高持は、四五度戦ひ討死す。

一、天正十八年庚寅、三十六歳、三月、秀吉公、小田原北条退治御出馬あるにより、景勝、前田利家・真田安房守・毛利河内守と、上州搦手より、松伏・安中・和田・前橋の城を攻め落し、武州へ打入り、北条陸奥守氏照、八王寺の城を攻め落し、小田原表へ着陣あり。秀吉公より、浅黄の扇・馬印を下さるゝ。同十一年、北条氏政・同氏照切腹。氏直は高野山へ入り給ふ。北条領分、家康公へ給はる。夫より奥州白河まで御働き、会津十七郡、蒲生飛騨守に下さる。境・大崎六十一万石、森市右衛門下さる。境・大崎是より牢人す。

一、天正十九年卯三月、三十七歳、正月、景勝参内ある。同月八日、公方景勝館へ御成。

一、文禄元年壬辰、三十八歳、秀吉公、朝鮮御出馬に付、肥前名護屋まで出陣ある。

一、文禄二年巳、三十九歳、九月帰陣なり。

一、文禄三年午、四十歳、九月上洛。同十月、景勝館へ秀吉公御成。

一、文禄四年未、四十一歳、三月帰国。

一、慶長元年丙申、四十二歳、二月参内。

一、慶長二年丁酉、四十三歳、小早川筑前守中納言死去に付、景勝、五人の家老の内に入り給ふ。

一、慶長三年戌、四十四歳、三月、会津百五十万石給はり入部。其後、蒲生秀行家中、仔細ありて二つに分れ、騒論に付、秀行は、宇都宮十八万石にて遣され、其迹へ景勝入府。越後は、貞治五年二月、上杉民部大夫憲輝入部より、慶長三年まで、二百三十五年、越後国領知し給ふなれども、是非なし。同年八月十八日、秀吉公御死去。九月十二日、景勝上洛あり。

オープンアクセス NDLJP:29一、慶長四年己巳、四十五歳、家康公、利家・秀家・輝元・景勝五と騒論あり。景勝、同年神刺原新地を立ち諸牢人を抱へ、諸将を入れ置かる。

一、慶長五年庚子、四十六歳、三月十三日、謙信廿三囘忌法事あり。三月二十日、栗田刑部少輔、会津を立ち退き候を、人数差越し討取る。是より景勝、関東へ逆心の由、風聞あるにより、家康公より、伊奈図書を使者にて、景勝御登りあるべき上意なり。景勝登る間敷くとあり。領地を竹木を切払ひ、籠城の支度あり。家康公、御馬を待ち給ふ。六月廿二日、家康公より御使者遣され、新城取立つる。諸牢人を抱へ候儀、御不審あり。景勝は、新城の儀、直江山城守上へ御断を申上候へば、申すべき品御座なく候。御出馬之あらば、一戦申すべしと、諸家中召集め、此度、天下勢向るれば、雲霞の如くなるべきなり。我は討死すと思ひ定むるなり。此中にて退くと思ふ方は、唯今にて、早々退くべしと宣へば、諸家中一同に、口惜き御事かな。今此に至り、一人も退くべき者御座無所一個、命を限りに戦ひ討死、御供仕るべしと申すに付、景勝悦び、諸々手分を定め、諸大将・物頭、持口請取り、西御所御出馬待ち居る。川田豊前守景勝を背き、会津を立退き、西御所参上。直江山城守、石田三成と心を合せ、景勝を勧め、逆心の由申上ぐる。家康公、御馬を出さんと、御所は伏見を五六千にて御立ち、大津に御休ありて、石部に御宿り、石田家臣島左近、石田を勧め申す様、今夜家康公、石部に御宿りなり。御供の衆百騎計りには、過ぎ申すまじく候。今夜押寄せ、討ち申すべしとて、八百余騎総勢三千人、大船二十艘取乗り押寄せければ、家康公御気遣ありて、宵に旅宿を御立あり。水口の城主長束大蔵大輔正家が館へ、御立寄りあるべきの由、御使者ありけれども、石部をだに御立あれば、水口へは立寄るまじと、御使者遣され、水口へ寄り給へば、力士を五十人隠し置き、討ち申すべき仕度なるに、此難の御遁れある御運の程こそ目出度けれ。石田は、石部へ押寄せけれども、家康公御立なれば、是非なく引返しける。同年七月朔日、江府に御着。同十九日、黄門君・大将結城宰相秀康・松平薩摩守忠吉・加〔地カ〕庄三郎・同下野守・本多中務大輔・伊井兵部大輔・榊原式部大輔、都合六万九千三百余騎、榊原先陣にて、会津表へ攻め向ひ、六月廿二日より、伊達政宗と境目にて迫合度々なり。同七月廿三日、秀忠公、宇都宮に御本陣。家康公、小山御着ある処に、七月廿四日、石田三成逆心ありて、諸方より軍勢起り集り、伏見を攻め落す。関東へ打出で、両御所を討ち申すべしとの由、申し来るより、黄門君は、北山に御入りなさオープンアクセス NDLJP:30れ、大御所に御対面あり。御評議区々まちなり、定め難き所に、榊原申上ぐるは、会津御差置き、石田御退治あるべしと、申すにより、結城宰相秀康大将にて、蒲生飛騨守秀行・里見阿波守義康・佐野修理大夫信吉・水谷伊勢守・多賀屋左近・山川民部・那須七党二万八千余騎、宇都宮に残し置き、景勝を押へたり。伊達政宗、上意により、白石の攻口を引き、居城にありて、景勝を討ち、登らば跡より追懸け、両方より引包み、討たんとの儀なり。佐竹義宣は、景勝一味を離れ、関東方へ出づる。

一、石田三成は、伏見の城鳥居彦右衛門籠りたる十万余騎にて、夜昼の堺なく攻め戦ひ、鳥居も討たれ落城なり。伏見方には、松平主殿・松平五左衛門・内藤弥次右衛門・子息小市、何れも能く働き戦死す。

一、慶長五年、家康公江府を御出馬あり。秀忠公は、宇都宮御立ありて、東海道・東山道、二手に分れ登り給ふ。勢州あの津富田信濃守信高、関東方籠るを、石田方安芸宰相秀元・吉川広家・宍戸備前・長束大蔵大輔・長曽我部宮内少輔・松浦大輔、八月廿三日、津の城を取囲み攻め戦ひ、二三丸攻め落し、城兵残少く討死す。信濃守信高、本丸・木戸口に引退き、防ぎ戦ふ処に、城中より若武者緋縅の鎧に、手鎗を以て、富田が前に懸け塞り、敵を突払ひ、中川清右衛門初め五六人突伏せ、大勢に手を負はせ、残る者共追払ふ。信高驚き、之を見れば妻女なり。薄化粧にかね黒にて、莞爾と笑ふ。信高討死と承り、我も一所に討死し、死出の山にて追付き申さんと思ひしに、討たれ給はず、相見る事の嬉しやと、互に手を取り本丸に入る。此女房は、宇喜多安心の娘なり。石田方より扱を入るゝに付、本丸を相渡す。信高、同国一心田専守院に引籠る。其後、高野山に入道してある所を、家康公より召出され、伊予国宇和島にて、十万石下さる。

一、景勝、白石の城には、甘糟備後守清長差置かるゝ所に、清長妻女死去により、清長、会津へ忍び引く所を、政宗へ知らする者あり。政宗、白石へ押寄せ相戦ふ。家老豊野又兵衛・清長が甥登坂式部二百余騎打出で戦ふ故、政宗矢文を以て計りて云、今度我に従ひ給はゞ、白石の城に五百石を相添へ、進らすべき由なり。之に依りて伊達勢、二の丸へ引入る。豊野又兵衛〔〈一字脱〉〕打出で、火花を散らし戦ひ、百七十一人討取る。政宗方も、千討たる。白石落城。豊野三千石にて、郡右衛門に預けらる。斯くて越後は、代々上杉の領地、恩を蒙りたる国なれオープンアクセス NDLJP:31ば、宇佐美民部少輔勝行、諸牢人を召集め、八月二日、堀久太郎秀治が家老小倉主膳籠りたる下倉の城を攻め落し、主膳を討取り、方々にて合戦あり。討勝ち、四万計りになりて、最上へ打出で、最上出羽守義光と戦ひ、終に城を攻め落し、方々へ趨り行き、廿一箇所城を攻め落す。最上出羽守、二千余騎にて打出で、稲荷山に陣を取り、日々迫合ひ相戦ふ。景勝も最上へ打出で相戦ふ。諸軍を引取り給ふ所を、最上方懸け参りて合戦あり。両方討たるゝ者数知らず。

一、慶長六年丑、四十七歳、二月七日、政宗一万五千にて打出で、福島の城主本庄出羽介・幼□ 甚左衛門・小田切所左衛門馳せ向ひ、伊達方郡左衛門・伊達上野介と戦ひ切崩し、四百計り、政宗方へ討取り、政宗方には、石川大和守・片倉小十郎、上杉方を追立つる。其後、日々夜々合戦迫合ひ度々。大熊川合戦に、上杉方本陣へ切懸け、竹に雀の幕・九星外幕、上杉方へ取付く。政宗怒り、合戦止む事なし。其後上意にて、本多佐渡守政真・結城宰相秀康、取次ぎて和睦あり。景勝、廿七日、会津を立ちて上洛あり。家康公より、本多佐渡守を以て、今度直江山城守、石田と心を合せ、景勝別心なき所に、諸牢人を抱へ、佐竹・伊達合戦致し候事、是非なし。士の習なればとて御捨免あり。百五十万石を召上げられ、直江が本領三十二万石下さるゝなり。八月、米沢へ所替仰付けられ、直江・石田心を合せ、一味しけれども、御捨免あり。其外石田一味の大名・小名御免なり。皆御礼を申上ぐる。太平の世となる。

一、慶長七年寅の四月、四十八歳。蒲生飛騨守は、六十万石にて、会津へ所替なり。

一、慶長八年卯、四十九歳。江戸桜田にて、屋敷を下さる。同年十月七日、秀忠公御成ある。


一、慶長十九年甲辰五十歳。伏見にて、景勝の人質に出で給ふ御前、死去なり。武田勝頼の妹なり。法名香固大姉と号す。

一、慶長十三年乙巳、五十一歳。慶長十八年五十九歳が間、天下静に付、別儀なし。慶長十八年五十九歳が間、天下静に付、別儀なし。

 
景勝大坂へ出陣の事
 
一、慶長十九年、寅六十歳、十一月十五日、大坂表へ出陣ある。同廿三日、鴫野口に着陣あり。家康より、鳴野口堅めたる渡部勘〔〈脱字アルカ〉〕・早川左衛・井上五郎左衛門、持口を攻め申すべきの由、上意ある。同廿六日、須田大炊介・安田上総介・杉原常陸介、鴫口へ取懸る。小早川・井上・竹田兵庫介、岡村猿之助と相戦ひ、右の大将分四人を討取り、柵にて堅め、大坂方を追入れ、上杉オープンアクセス NDLJP:32方北条清右衛門・上泉主水・大股八左衛門・同彦六討死なり。同日午の刻なり。大野修理・竹田永翁斎・渡辺内蔵助、并に七手組には、真野豊後守・伊藤丹後守・青木民部少輔・速見甲斐守・中島式部少輔・大野主馬、其勢一万計り出張ありて、上杉方須田大炊助が先方を追崩し、鉄炮大将石坂新左衛門を始め三十騎計り討取り、寄手を追立てする所に、景勝二の目に、安田上総介横鎗を入れ、大坂方を大和川迄追散らす。上杉方市川左衛門・関十兵衛・針生市之助・原庄兵衛・駒沢与五郎、廿六日討死す。城より大筒打懸け、両方鉄炮迫合、天地を動かし相戦ふ。家康公より堀尾山城守入替り申すべし。早々引払ふべきの由の御使者を以て上意なり。景勝御上意なればとて、合戦最中なるに、攻口を引き、堀尾殿へは、渡し申難く候と、仰上げられよとて、□攻懸り、大和川の此方に掘切らせ、柵を築き、黒金孫左衛門、八十挺の種ヶ島を懸け置き、横合に打立てければ、大坂勢叶はず引入り候。景勝入詰め備へ給へば、家康より抜群の働とて、御褒美ある。其外、東西南北の持口にて、目を驚かす攻合あり。然る所に、御扱ありて、大坂・関東御和睦なされ、大坂の外堀を埋め、家康公、御勢引取り給ふ。同年十二月廿四日、家康公より、景勝家来杉原常陸介・須田大炊助・島津月下斎・子息玄蕃頭・黒金孫左衛門右四人、御前へ召出され、此度の働、諸人に越えたるにより、御感状下され、常陸介一人は、上包を開き読み終りて、元の如くに包み、本多佐渡守に向ひて、御感状頂戴、御礼申上げ罷立つ。古より、上よりの御感状、御前にて開く事、前代未聞、其例を聞かず。御感状若し文悪しく候はゞ、頂戴仕るまじき覚悟なり、杉原、米沢を打立つ時、田舎具足古きは、上方にて、人々笑ふべしとて、製作、大正をとしたるとなり。家康公御悦あつて、常陸介出立は見事なりと、殊に紺地の錦鎧下垂を着たりと、御笑ひ、御褒美なさる。大坂表鴫口の合戦、身命を惜まず働き、敵数十人討取り、高名ありけれども、直江山城守と仲悪しき故、上聞に達せず、御感状申請けざる事、残念の至りと、諸人直江が佞を譏りけり。

一、元和元年乙卯、六十一歳、三月、大坂と関東と手切ありて、両御所出馬ある。景勝も、京都に着陣なり。古田織部政重、逆心あるに付、家康公上意に付、五月二日より十一日まで、八幡山に陣取り、京都を押し申す故、大坂にては、働なきなり。

 
上杉謙信景虎諸士系図人
 
オープンアクセス NDLJP:33

一、加地安芸守春綱は、佐々木三郎盛綱の末葉。頼朝公より、下越後加地の庄を給はる。

一、新津丹羽守義門、清和源氏平賀左衛門盛義孫なり。

一、石川備後守為元、上杉四家老第一なり。長尾・石川・千坂・斎藤、右四人なり。

一、宇佐美五代祖左衛門尉政豊、寛政三年、畠山衙内、河内国全胎寺に籠りたるを、政豊先陣ありて高名ありし。依りて公方義政公より、肥前長光の太刀を下さるゝ。代々相伝仕りたるを、上杉定実へ進上申す。定実、宇佐美長光は、御秘〔歳カ〕ありけるが、伊達政宗へ縁者故遣す。伊達家の重宝となる。宇佐美は平氏なり。宇佐美駿河守定行は、越後〔琵琶カ〕島の城主なり、信州野尻にあり。武田へ押の為めなり。本庄美作守と心を合せ、謙信を越後の国主としたる人なり。永禄七年、謙信の内意に付、長尾越前守義景鵜を、野尻の池にて討ち、我身も生害致し、忠臣の人なり。子息民部定勝・二男勝行牢人となる。慶長五年、景勝、石田と一味ありて、奥州にて合戦あるを聞きて、越後一国の諸牢人を召集め、関東に来り、景勝勘当御赦免ある。

一、今津新兵衛、平賀より出でたり。謙信の乳人子、春日山留守大将なり。

一、太田修理亮、源三位頼政の末葉なり。

一、本庄越前守茂長、十九歳の時、天文二十年、信州川中島合戦。同廿四年、同所の合戦に、武田方を突崩し高名ある。後謙信を背き、合戦度々に及び、和睦赦免ある。

一、山本寺勝蔵は、越後不動山の城主、源氏なり。

一、色部修理亮長実、新発田因幡守が姉壻なり。新発田退治の時、新発田が首を取りたり。

一、杉原常陸介、下越後杉原の城主、謙信・景勝二代に仕へ、須田大炊介・安田上総介、上杉の三介と、諸人褒美す。武勇の人なり。

一、木戸元斎、鎌倉御所持氏の御代、木戸駿河守末葉なり。

一、泉沢河内守年親、会津にて四千石領す。

一、柿崎和泉守景家、一方の大将なり。或時、信州善光寺南門にて沙門に行逢ふ。彼の者長柄の傘に、馬度々驚き、景家、其傘を取り、柄を破り見れば、上杉家中村上美作守方へ、信玄より内通書札あり。国に帰り、村上を召取り殺害す。景家、信長公馬を買ひ申し、逆心ありとて、謙信より討手を遣され、父子三人生害す。

一、直江山城守実綱、大将分の人なり。毛利名左衛門と申す者、意趣ありて直江を討つ。之オープンアクセス NDLJP:34に依りて、桶口惣左衛門が子を養子となす。是は木曽の樋口次郎が末葉なり。

一、新発田〈因幡守下越後国〉城主なり。十六歳の時は、謙信、小田原陣の時、備立悪しと見、立直し然るべき由申上ぐる。殊に殿払を致し、手柄あり。老勇に優りたると褒美したる人なり。謙信死去の後、天正十年、謙信の小姓いちみね甚五郎道寿斎と申す時、因幡守と一味ありて、景勝へ逆心ありて、六年目に合戦に及ぶ。色部に〔首カ〕を討たる。蒲原郡井池峯の城主なり。

一、本庄美作守義秀、橡尾城主に差置かれ候の名士なり。三郎景虎の味方を仕る、病死す。子息清七郎、景虎亡の後牢人す。

一、鉄上野介安則、越後上田長尾政景の一方の大将、大剛の者なり。

一、鬼小島弥太郎一忠、十四歳の時、謙信廻国の供仕りたる四人の内なり。信州にて、信玄公と対陣の時、鬼小島使に、獅子と云ふ喫犬を口上申上ぐる時、縁の下より、縄を解放ち懸る。弥太郎が右の脚をしたゝかに喫付きたり。口上申上げ乍ら、犬の口を取り、ひねり殺し、信玄の広間へ投入れ、帰りたる大力なり。

一、鮎川摂津守、大功の人なり。讒言に逢ひて謙信に殺さる。

一、竹股参河守朝綱、永禄七年、川中島合戦の時、長刀を以て、大勢を切落し、手柄ある。景勝代に、天正十年六月二日、越中魚津の城にて自害を致す。此家に名劒あり。越後の老津の百姓市へ出で、大豆を買ひ、袋に入れ帰る。袋の破却より大豆落つる。腰の刀に当る。鞘破れ出でたるに当り、二つになりたるとなり。竹股是を聞き、買ひ取る。作は肥前兼光、二尺九寸。謙信度々御所望により、進上仕る。謙信上方へ拵に遣さる。二年計りありて来る。竹股朝綱が息是を見て、是は似せ物と申すにより、石田治部少輔方へ内意あり。吟味ある所に顕れ、盗人同類十二人召出し、秀吉公より磔に懸くる。木作は景勝へ帰る。其時、竹股はゞき元一寸五分、上□の表へ、髪筋の通る程の穴あり。是へ毛一筋通し、御目に懸くる。景勝も諸臣も、奇異の思をなし、其後太閤秀吉公より、御懇望に付、差上げらる。秀頼公へ御譲り給ふ。大坂落城の時、秀忠公より、和泉・河内・摂津に、右太刀持出づる者は、黄金三百枚下さるべく、士たる者には、高地を下さるべしと、仰なれども出でず。

一、安田治部少輔は、平氏。永禄七年、川中島にて勝れたる働あり。

一、長尾越前守政景、上田戸坂の城主。謙信従弟にて姉妹なり。野尻の池にて死す。

オープンアクセス NDLJP:35一、大熊備前守朝秀、謙信を背き、武田へ出づる。

一、長尾伊賀、武辺の人なり。政景と同氏なり。

一、川田豊前守長親、江州森山の者、謙信、上洛の時召抱へ、越後栃名安種が一跡六万貫の地下され、魚津にて自害す。

一、川田軍兵衛、後に摂津守と申す。秀吉公より、江州半国下さるべき由、木村弥市右衛門を以て、御内意あるに付、景勝、天正十四年五月、上洛の時、越前〔鶴カ〕賀禅寺に一宿あり。直江山城守に仰付けられ、五人立挟まり打懸る。長袴にて、殊に九寸五分、短劒にて、三人を切伏せ、残る二人に手を負はせ討死す。

一、千坂対馬守清種、上杉四家老の内なり。

一、吉村中務正定信、先祖は、吉江小四郎正房・高野越後守、究めて落首を取りたる事、太平記廿二巻にあり。代々上杉の家臣なり。

一、甘糟近江守、越後・上田長塚の者、謙信取立なり。景勝、会津へ国替の時、白石の城に差置かれ、伊達政宗押へる。

一、甘糟備後守、会津にて、景勝、米沢へ国替の時、家康公より、畠山下総守を以て、関東へ奉公仕らば、大名になされ下さるべき内意ありけれども、景勝は恩の主なり。見捨て難く候間、御免あるべしと、上意に随はざる士なり。子息右衛門・二男帯刀牢人す。

一、志田修理亮、源為義三男志田三郎先生義則の末葉。川中島合戦の時、能き働あり。父源四郎義時、川中島にて討死。

一、安田上総介、本名は毛利大江氏なり。慶長年中、関ヶ原合戦前、家康公、白川口より御寄の時も、安田上総介、一番鎗仕る。二番鎗は、島津月下斎なり。慶長十九年、大坂十一月陣にも、上総介横鎗を入れたる故、景勝利を得給ふ。

一、荻田主馬、孫十郎の時、謙信小姓を勤め、与惣兵衛の時、景勝旗下武者奉行なり。三郎景虎と景勝取合ひの時、北条丹後守坂戸の城より、朝帰を待ち、北条を二鎗突く。丹後は其夜死す。夫より前、謙信越中陣の時、一番に鎗を入る。謙信勝利を得給ふ。文禄年中、景勝へ不足を申し立退き、結城宰相秀康公へ奉公す。其後越後へ御供申し、一万石下され、荻田主馬と申す。

オープンアクセス NDLJP:36一、荒川伊豆守、天文廿三年八月十八日、川中島合戦の時、御幣川にて謙信・信玄と太刀討の時、武田方は、荒川伊豆守なりと、見誤る者多し。さるに依り、荒川残念に存じ、永禄四年九月十日の合戦、信玄の本陣へ、荒川切入り、信玄に切付け、其場にて討死す。

一、中条与次郎、越後中条の城主。金津は鮎貝城主。

一、穴沢主馬、天下無双の長刀の名人なり。慶長十九年十一月廿六日、鴫野口にて、坂田采女と鎗を合せ、坂田が館をはね落し、手本へ入り、坂田・穴沢と組合ひ、坂田下になるを、二刀刺し、坂田首を取る。

一、青木新兵衛、元は蒲生家牢人なり。走り早き事、馬も及ばざる程の早業なり。景勝、瀬上松川にて合戦の時、政宗方討取り、高名の士なり。会津にて七千石給はる。

一、岡野左内、蒲生家牢人なり。瀬上松川合戦に、政宗と太刀討し、手負ひたる者なり。会津にて千石領す。景勝、米沢所替の時、金一万両差上げ牢人す。政宗より三万石給はるべしとあれども、蒲生家になし。御免下さるべしとて、蒲生秀行へ行き、小地にて居る。

一、景勝御咄衆に、西方院とて、真言宗の法師武者あり。六千石領下さるべしとあり。坊主は、知行入らずとて請けず。五十石頂戴申す。皆年鎧御赦免ありて、一代武辺四十四度、一生疵を受けず。出陣の時は御供、如何なる剛陣へも、鎗を入れ、勝たずといふ事なし。去るに依りて、鎗坊主と申しけり。

一、山吉玄蕃頭、三条の城主、謙信近臣なり。鬼山吉と呼ばれたる武辺の士なり。

一、北条丹後守、上杉第一大将分、三郎景虎に一味あり。荻田与惣兵衛に突かる。

一、中条越前守内蔵助は、越中魚津の城にて切腹す。

一、大内駿河守、大剛の者なり。度々武辺あり。川中島合戦に死す。

一、川田対馬守。一、松川大和守。須賀摂津守。一、柏崎日向守。一、石坂与五郎石坂与五郎

一、三股九兵衛。一、朝日隼人。一、大島筑後守。一、鹿島左馬助。一、神藤出羽守。一、丸田左京進。一、庄瀬新蔵。八尾崎坂伊予守。一、長井丹後守。一、飯森摂津守。 〈元来家来なり。〉一、藤田能登守。​武田牢人なり​​上野兵衛​​同​​跡部甚内​。一、​同​​佐藤一補斎​。一、​同​​春日源五郎​。一、​同​​小幡下野​〈右の五人景勝を頼み旗本組となる。〉一、蒲原郡の内、篠岡の城主酒井左衛門。一、新潟、柴田刑部左衛門。〈是柴田因幡守が伯父なり〉。一、梶城主築地右京進。一、築地の城主中条越前守。一、長野与次郎。オープンアクセス NDLJP:37一、刈瀬城主安田惣八。一、黒滝の城主岸宇右衛門。一、垣島城主和泉弥五郎。一、長島城主吉江喜四郎。一、糸魚川城主丸田伊豆守。一、越中堕水城主須賀修理亮。一、魚津の城主吉江織部。

此衆は、越後家来士なり。

一、畠山入庵の内室は、謙信姪なり。十二三の時、陣中へ児の出立に、小具足を着し、太刀を帯き、馬上にて、老衆を三人相添ふ。是は畠山下総守母なり。

一、謙信軍陣に、鎧は大方着ず、三尺計りの青竹を、馬上に持ち、人数を追廻し、下知せらるる荒き大将なり。永禄十三年、太田助政入道三楽、先陣に備へたる所へ、士十人計りにて乗込み、三楽が末子、十三歳の少年、手を取込み、我養子にせんと懐き帰る。太田入道三楽、北条家へ、別心の気を留めけり。

 
信州士、謙信を頼み越後へ引越し候分
 

一、村上左衛門尉義清、川中鳥小形郡坂本葛尾城主、村上源氏なり。子息義国、景勝の代、海津に移る。景勝、会津へ所替の時、牢人致し、甥道楽御供申す。

一、清野助次郎、会津にて、一万四千石領知す。源氏なり。

一、栗田刑部、会津にて二万千石。慶長五年、景勝を背き立退きける。追駈け討取る。

一、西条治部少輔。一、東条右衛門大夫。一、尾饌野施彦左衛門。一、大室勘左衛門。一、川田摂津守。一、矢代左衛門。一、小市小田切安芸守。一、篠野井弥七。〈最上陣大将、手柄あり〉一、栗田永寿。〈如来役人なり。〉一、平林内蔵助。一、高梨摂津守。〈源氏なり。〉一、須田相模守。〈高井郡東谷の城主なり。〉

一、島津丹下斎〈長治の城主なり。〉子息玄蕃、大坂鴨野口にて武辺あり。家康公より御感状下さる。

 
上杉謙信日記
 

       信州川中島五箇度の合戦の事

一、天文廿一年、村上義清・高梨摂津守政頼、武田信玄に打負け、越後へ落行き、謙信を頼み申さるゝに付、天文廿二年癸丑十一月十九日より、廿七日まで、川中島対陣を張る。互に初めての取合ひなれば、位を見合せ懸らず。廿八日、越後方より懸りて、合戦始まる。信玄敗軍なオープンアクセス NDLJP:38り。雨宮合戦場なり。此時、横田兵助・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・同善四郎・須田三郎右衛門・帯兼刑部少輔を始め武田方討死。第二番の合戦は、天文廿三年甲寅八月十日、信玄、川中島へ打出で、原町に備を立て給ふ。武田、去年より合戦に手懲して懸らず。其時村上・高梨謀を以て、小室九郎兵衛・安藤八郎兵衛に示し合せ、兵を伏せ置き、草を刈りかけ、甲州方を引出す。同十八日朝合戦。初め上杉方切勝ち、信玄を追立つる所、真田弾正・保科弾正・清野常陸守・市川和泉守、二の目より突出し、謙信方を追立て討取る所に、上杉方川田対馬守・石川備後守・新発田因幡守・子息播磨守・杉原壱岐守二千計りにて、横合より突懸る。武田方敗軍。真田・保科・清野・市川返し合せ、信州方を突崩し追討つ所に、村上義清・石川・杉原・新発田・本庄入乱れ、組みつほぐれつ、火花を散らし戦ひ給ふ内に、武田方を切落す。真田弾正引く所を、高梨源五郎、押懸け組伏せ、真田を二刀刺す。保科弾正返し合せ、真田を討たすな者共と、鎗にて突懸る。真田家臣細屋彦助落合せ、高梨を討取り、真田を助け引退く。此時より、保科弾正鎗弾正、真田弾正逃弾正と呼びたり。保科弾正も、討たれんと見る所に、浅野・望月・禰津弥四郎左衛門・須田・川田・井上返し合せ、越後方を本陣まで追返す所に、柿崎和泉守・斎藤下野守・北条安芸守・木村常陸介・大関阿波守突出し、討つつ討たれつ、原町にて相戦ふ。此方疲れ、相引に引くなり。信玄は筑摩川を渡る。旗・指物を伏せ、謙信本陣へ、紺地に日の丸、白地毗字の旗目に切懸る。謙信敗軍なり。越後方大塚村へ備へたる宇佐美駿河守、二千にて、信玄の後より突懸り、御幣川まで追立つる。両方討たるゝ者数知らず。謙信追懸け、信玄を二刀切付くる。信玄と太刀打あり、武田方謙信、を取籠め、討たんと戦ふ。謙信、武田方の士を十九人切落し引退く。鬼神の様に、諸人申しけり。武田左馬頭信茂と謙信と、御幣川にて太刀打あり。信茂、左の股を切落され、川へ流れ給ふを、梅津宗三、首を討取る。

一、評に云、永禄四年九月十日、川中島合戦に、武田信茂討死。甲陽軍に書きたる事、高坂の誤なり。天文廿三年八月十八日、御幣川・筑摩川の端、赤坂の渡にて討死なり。死骸は、筑摩川へ流し、水沢といふ所にて揚る。今に塚あり。水沢村に典厩寺と承る。上杉家日記違ひ、信玄敗軍川を渡り、吉村迄引き給ふ。其外、倉利生刈村迄引きたる方もあり。右此合戦は、八月十日より十八日まで、十七度の合戦なり。内六度は武田方勝ち、十七度は上杉方勝ち、武田方三千計り討取る。

オープンアクセス NDLJP:39 一、三番合戦は、弘治二年丙辰八月廿五日夜、謙信、妻女山に本陣を居ゑ給ふ。信玄、一万二千余騎、戸神山へ、夜に入り人数廻し、謙信の本陣を攻めさせば、上杉、川中島に出づべし。原町にて待請け、引包み討つべきとの謀にて、信州士保科弾正・市川和泉守・栗田淡路守・清野常陸守・太田切刑部少輔・布施大和守・川田伊賀守十一頭、差置かるゝ処、越後方より、間者、海津より来り申上ぐる。謙信聞きて、其夜筑摩川を渡し、武田の本陣へ切懸け突崩し、板垣駿河守・小笠原若狭守・一条六郎始め数百人、武田を討取り、戸神山へ廻しゝ者共、夜闇に路に迷ふ所に、弓・鉄炮の音に驚き、取つて還し、越後勢の後より攻め懸る謙信、両方敵を防ぎ兼ね、犀川の方へ敗軍す。甲州勢追懸くる。上杉流の車返し、三行先よりくるりと引廻す。大返に返し合する人々、布施大和守・川田伊豆守落合ひ、太田切を始め、数百人、武田方を討取る。甲陽軍に、永禄四年九月の合戦、車懸りに謙信懸り給ふと、書きたるは、合戦の場を取違ひたるか知らず。此合戦は、三月廿五日夜、寅の刻に戦始まり、廿六日の卯の刻迄、七度の戦なり。夜の内に三度、明けて四度の戦、武田方四百九十一人の首を取り、手負は数知れず。上杉方三百六十五人討死、千計り手負ひ、上杉方早返に返す衆、新発田尾張守・本庄弥次郎、三百騎にて、高坂弾正備を突崩す。其勢にて、犀川を渡し引取る。武田方大勢を追ひ来り、宇佐美駿河守、市村の渡口に備を立つるに依りて、武田方夫より引返す。謙信方も、諸勢、善光寺平林城に入り、人馬を休め、越後へ帰る。

一、弘治二年八月廿三日、謙信、川中島へ打出で給ふ。信玄、二万五千にて向ふ所に、越後の陣に、薪木を多く積み重ねたるを、間者見て、信玄へ申上ぐる。信玄、越後の陣、今夜必ず火事あるべし。一人も出づべからずと申されけり。案の如く、謙信の陣所に、廿三日の夜、火事あり。然れども武田方、人一人も出合はず。夜明けて間者申すは、上杉方六千計り、二行に備へ、二の手は謙信、後は松木大学・中条越前守、十備にて段々備へたり。武田方手便に乗らば、大勢討たるべしと、皆々舌を巻きけり。亦甲州方、兵を伏せ置き、越後方陣所へ、馬の縄を切放す。上杉の陣へ放し懸け、若士百騎計り、馬を慕ひ走り出でけれども、謙信方一人も出し給はず。されば大小共に、名将たる故、謀りけれども、謀に乗らず。

一、第四番の合戦、弘治三年八月十六日より廿五日まで、信玄対陣なり。越後方懸かれども、信玄取合はず。廿六日、信玄岩野原へ引取る。謙信追懸け合戦始まる。越後先手は、討負オープンアクセス NDLJP:40くる所に、斎藤下野守、武田を支へ相戦ふ所に、南雲治部左衛門横鎗を入る。長尾政景、三千にて、信玄先手を切崩す。卯の刻より未の下刻迄、五度の迫合、一番合戦、越後方負け、二番目、武田方負け、三番目、信玄方勝ち、合せて五度の内三度目は、越州方勝ち、二度は甲州方勝ち、武田方千十三人の首を取上げ、上杉方八百余人討死す。

一、第五度目、永禄四年辛酉八月、謙信、川中島へ出で、妻女山に本陣を備へ、山の後より流るゝ水を堰止め堀となし、信玄、八月廿六日、雨宮に着き給ふ。同廿九日、信玄、海津の城へ移り給ふ。九月九日夜、越後の夜盗帰り、海津の様子を申上ぐ。謙信も、其夜川を渡し、原町に忍び出で、赤坂口へ、村上義清・高梨・井上兵庫・須田相模守・島津月下斎二千計り、備を立て給ふ所に、武田より、間者度々に十七人出でたるを、一人も残さず討取る故、謙信、川を渡したる事を武田知り給はず、越後方先手は、斎藤下野守・柿崎和泉守、二の手は北条丹後守、右備は本庄美濃守、左は長尾遠江守藤景・山吉弥次郎、中の手は謙信、後備は中条梅坡斎、遊兵は宇佐美駿河守・直江山城守実綱、是は引下りて備を立つる。筑摩川・海津城の押には、本庄弥次郎重長・新発田尾張守・色部修理亮・鮎川摂津守・下条薩摩守・大川駿河守、川辺に、手分け備へる。夜中に、敵、海津を出づるを押へん為めなり。合戦何にありても救ふ為め、千組備なり。十一日朝、相色も定かならぬ時分、信玄旗本油断の所へ突懸る。信玄切立てらる。然れども流石の信玄故、旗本を以て、柿崎和泉守を突崩す所に、色部修理亮横合に鎗を入れ、武田方を崩す。謙信は、信玄旗本へ切つて懸る。謙信の士大将荒川伊豆守、信玄と太刀打、切付くる。甲陽軍には、謙信と太刀打ありと書きたるは偽なり。荒川を謙信と見違ひたると覚ゆ。信玄と謙信と太刀打ありて、二刀迄信玄を切り、二箇所手を負ふ事は、天文廿三年八月廿八日、御幣川にて合戦の時なり。是は隠れなき証拠ある事なり。

一、武田太郎義信、信玄筑摩川へ引き給ふ所を、上杉方追懸け戦ふ所を、義信、越後勢跡を慕ひ給ふにより、中条梅坡斎、返し合せ戦へども、義信、勝色になる所を、宇佐美駿河守、横鎗を入れ突崩す。義信も疲れ引き給ふ。直江山城守・甘糟近江守・安田治部正、倉利まで追討ち申候。謙信、原田町に食事を認め中、油断の所へ、武田義信返し合せ、旗を巻き腰指を取隠し、刈野を忍び寄り、七八百人、謙信の旗本へ切懸るにより、皆騒動し、馬乗負け追立てられ候所を、海津押に置かれし本庄弥次郎・新発田尾張守・色部修理亮・鮎川摂津守・下条薩摩守・大川駿オープンアクセス NDLJP:41河守二千計りにて、義信を四方より突崩す。謙信返し合せ、上杉の重宝五本の鎗の内、つば鎗にて自身働き、義信敗軍、広瀬まで追討つ。其後謙信、犀川を後に当て陣を取る。其夜宇佐美駿河守、広瀬の川辺備、海津より夜討を防ぐ為めなり。十一日朝、雨宮を渡り、妻女山に備へたる直江山城守・甘糟・堀江隼人に申付け、妻女山陣所を焼払ひ、犀川渡し、善光寺三日逗留、人馬を休め、越後へ帰る。

一、伝曰、甲陽軍に、妻女山に向ひたる武田衆、後より懸り、謙信敗軍あり。和田喜兵衛が馬に乗替へ、一人にて川東高梨に懸り、越後へ引き給ふ。和田喜兵衛手討になさると、書きたるは、高坂不審の事なり。一国の大将敗軍なればとて、一人にて退き給ふ事、あるまじきことなり。殊勝の軍なり。喜兵衛手討の事は、三四年後、上州出馬の時、御意に背き切腹なり。

一、評に曰、此合戦、新発田・色部・鮎川・下条・大川、類なき働、御感状下され、本庄弥次郎茂長、国利太刀にて、敵三騎切落し、我身も手負ふ。此度武田義信敗軍、筑摩川を渡し、芝高畑へ引き給ふ。此時、越後守・大川駿河守・安田源次郎、深入りして討たるゝ。信玄の手には、山本道鬼・初鹿源五郎・諸角豊後守、其外手負死人、敵味方に大勢あり。其後謙信、御機嫌能き折々、諸臣に向ひ、信州原合戦に、武田の小忰目に仕付けられ、皆々見苦しき事、無念今に晴れず、と御咄ある。其後義信、信玄へ不義ある故、切腹あり。謙信、聞き給ひ、信玄了簡違ひ、惜しき大将を殺し、勝頼に家を継がせし事、悲しき事と仰せらる。此合戦の批判、長尾遠江守・藤原同右衛門尉景治、謙信を誹りたるを聞召し、御立腹あるに付、二人の者註進を企て、居城に引籠る。本庄弥次郎に仰付けられ、討取る。弥次郎も謙信を背きたり。

一、天文廿二年十一月より、永禄七年まで、謙信、信州へ十八度出馬。大合戦五箇度、中合戦大合戦五箇度、中合戦八箇度、小迫合は数に及ばず。

一、永禄七年子七月、謙信、川中島へ出陣、信玄も出張。双方より足軽を入れ、小迫合ある所に、同月京都より上使なり。御書趣は、上杉・北条・武田三家、日々度々弓箭の論、止む事なし。御憑に思召され、叡聞に達し奉り、右三家和睦ありて、合戦相止め、各国境を定め、弓箭に及ぶべからずとの上使下り、右の三家、公方御内書の上使なり。三家皆御請申候に付、義昭公より上使は、伊勢左京亮定一、越後に下着ありて、謙信・信玄、近年合戦止む事なき儀、難儀に思召され、武田・上杉、右の旨なり。両家上使の趣、畏入り候と、御請あれば、上使御帰。

オープンアクセス NDLJP:42 一、同七月廿六日、謙信・信玄、川中島へ打出で、互に使番を以て、公方御上意にて和睦あり。境目を定めありと仰なり。八月十一日、信玄より使番来る趣は、両方より一人宛出し、組討させ、勝負次第に、川中島を何方へか納むべしと相定め、武田方より、安田彦六といふ大力を、則ち使者として送らる。謙信尤と申され、上杉方より長谷川与五左衛門、八月十一日午刻、川中島両陣の間に乗出し、両方静に見物なり。馬上にて乗違ひ、むづと組んで落ち、初めは彦六上になり、与五左衛門組伏せ候時、武田方声上げ悦びける所に、与五左衛門組みほぐし、上になり、安田が首差上ぐる。越後方覚えず、したりと一同にどよみけり。武田方無念に思ひ、若士百騎計り、木戸を開きて打出づる。信玄怒り、元より組勝負と定めたり。味方の運は知れたり。川中島四郡、謙信の支配たるべしとありて、同十二日信玄帰城なり。村上義清・高梨摂津守政頼、信州本領へ帰り、武田・上杉取合は、是より止みにけり。謙信、海津にありて、川中島仕置を申付けられ、八月下旬帰陣。其序に、戸隠山参詣、諸国より祈祷願書数百通ある中に、武田より、謙信調伏の願書あり。輝虎之を披見ありて、弓箭にて勝負決し難く、呪咀ある事と笑ひ給ふ。

一、寛文年中、公方様より、上杉へ仰付けられ、軍日記御尋あり。是に依りて、井上隼人正・清野助次郎二人共に、慶長十九年三月三日と書印したる日記手写し、公方様へ差上ぐる。須賀五平次・堀内権之進、書置き候日記も、右同前此の如し。

一、寛文元年西五月七日、公方様より、弘文院林春斎に仰付けられ、日本通鑑記数十冊出来申候由、弘文院林春斎・酒井雅楽頭殿へ入来申されけるは、甲陽軍記合戦場勝負の甲乙、日月の違これあり、如何仕らんと申さる。其時、信玄家臣の末葉役人ありて申しけるは、上杉家より上られ候通り、日本通鑑記に印し候は、甲陽軍は偽と罷成り、武田流の軍法は、徒事と罷成るべき由、申さるゝに付、甲陽軍と、上杉家の軍日記と両書を並べて書き申す由、承り及び候とあり。景勝方へ御返状あり。南光坊儈正御物語・甲陽軍、相違あり。我れ天文七年八月、檀那迎に、川中島へ行懸り、赤坂口の山に登り、謙信・信玄、太刀打ありしは、八月十八日なり。我れ山へ登りて見物し、軍終りて、信玄の陣へ見舞ひ、信玄、手疵二箇所、我れ慥に見たりと申さる。其後御城にて、横田甚右衛門咄に、謙信は太刀、信玄は床机に居ながら、団扇にて請け給ふと咄す。南光坊聞召され、知らざる事を申す者かな。甲陽軍を読みたる計りにて、知るべきにオープンアクセス NDLJP:43あらず。其戦、我れ直に見たり。互に太刀なりと仰せらる。此僧正、元会津に居給ひ、後東都へ御出ある。寛永十九年壬午十二月二日、百三十四歳御死去なり。右御成にて、横田を御嘖ありし事、僧正直の御咄を、上杉の家来井上隼人承り候を、爰に書留め畢ぬ。

右上杉軍記は、松平左仲殿御所持有之。元禄年中、森正直写書す。時元文三戊午正月、高橋実重乞請之記畢。行年七十二歳。末葉に為見可申と若此候。

 要門末寺融道剛弼 石坂吉左衛門景亭

 
上杉三代日記 
 
 

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