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浅井三代記/第四

目次
 
オープンアクセス NDLJP:36
 
浅井三代記 第四
 
 
上平へ今浜落城注進江北の面々重て御請申上る事
 

去程に上坂八郎右衛門尉浅見新八郎二人密談して申けるは上坂の城を敵方へ渡し又今浜の城も今朝亮政か為に焼失せし事無念たくひなき事なり泰舜泰信の体を見るに両将共に亮政を討程の事は可成とも不覚いたつらに日を送り敵方へ人数を富せなはいかに悔とも益あらし所詮上平殿へ参上して家老の面々をすゝめ京極入道環山寺殿御病気にて御出馬被成かたく候はゝ御息高峰卿を大将に取立なは江北の旗頭共御先駆に可罷出なりまからは浅井をやすと可討取いさ上平へ参上すへしとて泰舜泰信には不及申傍輩共にもしらせすしてひそかに尾上を罷立上平へ参扣して大津弾正かもとへたより今浜落城に付我々も泰舜の供いたし尾上へ落行彼城より参扣せし旨かたりけれは弾正聞て大に怒て申けるは治部大輔兵庫頭両人の人々こそいひかひなき大将なりとも俊孝軒上坂掃部頭信濃守三人の衆は何とてかくは老耄し給ふそと申けれは二人の者共こたへけるは信濃守は今朝討死仕候俊孝掃部頭両人は居城に休息いたし今浜に在合不申といひけれは信濃守討死こそをしう候へ残る二人の休息は天運のつくる処なり後悔先にたゝすとつふやきてこそ居たりけれかくて弾正は二人を我屋に残し置て高清御病中とは申せとも下にて相計ふ事如何なりとて今浜の城は亮政か為に焼失し其上上坂信濃入道父子討死泰舜泰信尾上へ落給ふ旨申上けれは高清卿病中なから起上らせ給ひて尾上より来る二人の者共召せとあり八郎右衛門尉新八郎御前に参扣す高オープンアクセス NDLJP:37清卿今浜の軍の次第御尋被成二人の者共軍の始終委く申上れば高清卿宣ひけるは兵庫頭といひし上気者か上坂の城を彼乗取又治部大輔は我子なから泰貞斎か家をつき入道相果て今幾程の年月も経さるに浅井の若著に度々の合戦に不得勝利両城共に被追立討死も得せすして俊孝かもとへ落行事前代未聞の次第なり信濃守父子は討死の場所をあり討れけるこそ不便なれ俊孝軒掃部頭は数度の戦ひに功あるものなりしか敵を眼前に置なから休息なとゝいふ事はとかく老耄したると見えたり治部大輔兵庫頭両人は京極の家にはかなふましといからせ給ふ弾正やゝ有て申上けるは両人の者共御息高峰卿の御出馬御迎に罷越候と申けれは我病中にてかなひかたし時日移してかなふまし急き亮政を可討取旨高峰卿はからひ給ふへしと有けれは高峰家老の面々を召れけれは加州宗愚黒田甚四郎尾木修理亮多賀新右衛門尉若宮兵助大津弾正右六人の者共寄集り軍評議をしたりけり中にも多賀新右衛門尉年老なりけれは進み出て申けるは浅井亮政此比度々の合戦に討勝剰両城を乗取亮政勢は勇み上坂今浜勢は気を敵に奪はるへし此砌に御座候得は江北の諸士浅井に心をかよはし二心ある武士多かるへし先日の御触状の如く御廻文御廻し被成御請判を御覧せらるへしと申けれは此儀尤可然とて高清高峰父子の御判を被仰出ける斯て高島郡犬上郡愛知郡坂田郡浅井郡伊香郡六郡の諸将御意いかてかそむかんとて何れも御請判をそ出しける先一番に堀能登守頼貞樋口四郎左衛門尉兼益今井肥前守頼弘新庄駿河守基昭磯野伊予守員吉同右衛門太夫員詮宮沢平三郎井の口宮内少輔〈後改弾正忠義氏〉西野丹波守家澄同与八郎氏常阿閉三河守貞義安養寺河内守勝光野村伯耆守直定同肥後守定元横山掃部頭家盛〈後改大和守〉同肥後守信家千田伯耆守有義東野左馬助行成舎弟平野佐兵衛赤尾筑後守清成同与四郎国清西山三郎左衛門尉田井前権三郎森勘解由八木与藤次渡部監物伊吹内匠助高宮三河守頼勝久徳左近大夫錦織周防守義忠同図書同壱岐守加納弥八郎大宇右近大夫山崎源八郎中山五郎左衛門雨森主計香鳥庄助高野瀬修理亮今西熊谷弥次郎直光〈後政内蔵助〉同新次郎信直〈後改志摩守〉塩津熊谷忠兵衛同主殿助早崎吉兵衛海津長門守同信濃守新庄法泉坊同玉林坊宮部世上坊小室隼人笠原松島若狭守景亮田那部式部義明長沢入道宗琢神田孫八郎〈後改修理亮〉下坂甚太郎相撲平八郎尾山彦右衛門田部助七細江甚七郎大炊新左衛門尉今井孫左衛門尉同十兵衛今村掃部頭国平片桐馬之丞草野何某千種宇兵衛尉土田兵助脇坂左近兵衛土肥次郎左衛門尉実遠大木左太右衛門百々隠岐守盛実富田新七小蘆宮内大輔月ケ瀬新六郎小松市松木戸庄六四木三右衛門其外御請判の人々不可勝計彼等を宗徒の初として江北方の諸士屋形よりの御一左右次第に可馳参旨申上けれは京極父子不斜悦ひ給ひて浅井にくみせし小名少々有といふとも此多勢を以て討取らん事何の子細か有へきとて上平の家臣上下さゝめいて悦ひけるか高清卿の御病日に添おもらせ給へは御出陣の沙汰は取置御養生の沙汰のみなり

右の侍共常は己か領知する所に小城をかまへて居るも有又屋敷形はかりにて居るも有月替に上平へ相詰けるか去る永正六年より上坂治部大輔へ京極の御名代を御ゆつり被成候より此内三つにわり替り今浜に相詰る惣して大名分は出仕はかりに出常は不オープンアクセス NDLJP:38罷出候然れとも何にとも事有時は狼煙を上る其煙立とひとしく馳参し御役を達するなり遠境は大名たりといへとも当番をかゝさす屋形へ相詰るされとも大形の小せり合には不来候其所に物見を置合図の山々候ひてのろしを揚る事なり継飛脚なとより早く用を達するとそ

 
亮政浅井郡小谷山に城を取建上坂の城今浜の城破却の事
 
機井新三郎亮政今浜の城を攻取上坂の城に循籠りけるか京極入道環山寺殿病気甚しくして子息高峰卿を初め家老の面々浅井を可討事はさて置ぬ療治の相談のみして種々の医術をつくされける江北の諸士替る上平へ参機嫌のよしあしを窺のみにて軍評定はかつてなし心有人々は眼前に敵を置なから徒に日を送る事後日の大事なるへしとて案し煩ひける又高清卿の御煩ひをさしおきて浅井退治の沙汰可然といふ人も多かりけりしかはあれと大将おもむかせ給はねは誰有て討手に可向といふ者もなかりけり斯て亮政謀叛を企て両大将追立上坂の城に楯籠るといへとも江北の諸士上平殿下知にや恐れけん味方に参る武士一人もなかりけれは心苦敷く思ひ三田村左衛門大夫大野木土佐守大橋善次郎伊部清兵衛尉四人の者共を近付相談し宣ひけるは上坂今浜の両城攻取事智謀毫髪も不違先当両月の内に人数をもそこなはす早速手に入事天のあたふる幸なりとは申せとも上平殿よりの御廻文に江北中の諸侍御請判を申上味方に一人も不来事は追付当城へ押寄可攻との事なるへしさあらんに於ひては此城も今浜も平城にしてつまりもなし多勢七重八重に取巻なは味方可防方便なし伊部殿の領内小谷山に城を拵へ楯籠るへきと存するなり我若年の時より見立るに思ふまゝに普請せは百万騎の勢を以て取囲といふともあつはれ一年二年の籠城は心やすかるへしとかく上平殿病中に取紛て御旗不向先に彼山を取立へしと宣ひけれは善次郎例のがさつを出し亮政殿の仰は尤らしくは候へとも誰有て軍の法を下知すへきや五七年以前まて武士の手を置し人々も皆老耄したると見えたり此比度々の戦に俊孝といはれし人もよく逃こそしたまへ我々を討事は中々俊孝の手に余ると見えたり貴殿御方便を以て我々に仰付られなは取巻れ候とも敵をことく追払ひ申へしとそ申ける亮政聞給ひて其方の宣ふことく尤すゝしく候へとも勝ていさます負ておくれすと云事あり是良将の金言なりと宣ひけれは大野木も三田村も尤なりと同じ小谷山に普請可然と相談一図に決定して九月二十八日より領分の人数を出し小谷山に普請を初められけり敵人足を追立へきかとの押へに大橋善次郎伊部清兵衛尉両人は小谷山の麓に人数を立置浅井新次郎教政同新助政信尾山彦右衛門尉三人は尊照寺村に備を立る三田村左衛門太夫は小谷山つゝき雲雀山に備を立る浅井亮政は浮武者に成て普請の指図をし給ふ大野木土佐守に寄勢相添て上坂の城に置くかくて小谷山三方に人数を立をき昼夜のさかひもなく普請を怠きたまふ雇処の工匠に下行米過分にあたへ給へは四方八方より馳集りける程に十日計の間にはや惣構堀土手出来すれは亮政大に悦ひて上坂の城より夜な兵粮米を小谷の小屋場へかよはしけるに上平殿御病気に付敵一人も不寄来十月二十日迄に大形城のかたち出来候故亮政大野木か許へ宣ひつかはされけるは当城小谷オープンアクセス NDLJP:39普請大形出来候条其方兵粮米武具等不残当城へ運び候はゝ今浜城跡并に上坂城を自焼し悉破却被致小谷の城へ籠り給ふへき旨被仰付大野木は上坂の城より小谷まて二里はかりか間各味方の領分なれは雑物悉く小谷へはこはせ今浜の土手を切崩し堀を埋め上坂の城をも十月二十二日の夜城中一宇も不残放火して両城共に破却し我身も小谷へ引取にけり後沙汰して申けるは泰貞斎死して幾程の日数もへさるに江北の諸侍中間​ヘタイ​​隔絶​​ ​にして亮教心安く小谷を取立給ふを近辺の旗頭共其まゝ相かまはす徒にさゝへさる事泰舜泰信江北の仕置の器量にあたらさる故なり又亮政小身なりとは申せとも行々此人は江北の武士の棟梁となるへき人と思案して皆所々旗頭共の様体を聞合せゐたる故小谷の普請指をさゝんとする者なき故なりとそ申ける
 
上坂泰舜今浜へ立帰城を拵事
 
去間上坂治部大輔泰舜は浅井新三郎亮政今浜上坂両城を破却して小谷山へ引籠りけれは上坂掃部頭同修理亮に今浜へ立帰り城を可築のよし下知す俊孝軒も上平殿御病気重るに付上平に在合せ此旨を聞俊孝治部大輔にむかひ今浜の城御取立の儀何の為に候や城を取立る手間にて浅井小谷の城を首尾せさる先に人数を被催今途中にて一戦せらるへし其子細は屋形病中なりとは申せとも国中の諸士義を重し彼亮政に組するもの一人もなし彼等身のたゝすみなりかたきにより小谷へ引籠るとみえたり小谷普請半に責入は浅井は早速討取可給間高峰卿へ被仰上一時もいそき小谷へ押寄給へと有けれは治部大輔も家の子等も俊孝の宣ふ旨尤なれ共先足たまりを拵へ其上の合戦こそ心つよくも有へけれ我居所を定めすして一戦をとけん事如何候らんと申けれは俊孝重て申けるは此中も小谷へれしよせ給ふへき旨申入度候へとも高清卿御病気以の外なれは御父子の間の事物まきらはしく思召屋形のとかめもいかゝとおもひひかへて遠慮申なり今又今浜を城郭に取立給ふ物ならは同しくは其手間にて浅井を攻給ふへしかく延々に被成候事敵城へ兵粮を籠るかことし是非一戦とのそめとも終に同心なかりけれは俊孝余りに堪かねて高峰卿へ右の旨申上けれとも父の病中に取紛れ給へは浅井鉄城を築(拵イ)とも江北の諸卒を以て攻むならは何そ浅井に働かすへき先重て可為評定とて御同心なかりけれは達て申上る事もいかゝなれは其分に指置ける中にも大津弾正若宮兵助なとは俊孝申処は尤なり一刻もいそき御人数を被出浅井退治可然と申上けれともつゐにおもむかせ給はねは俊孝も心せき先御いとま申上尾上の城へ帰りけりそれより今浜の城近在の人夫をよせ二たひ城をそ拵ける
 
真読大般若附口論の事
 
去程に京極入道環山寺殿病気次第におもらせ給へは御息高峰卿家老の面々に宣ひけるは延暦寺竹生鳥氏寺の観音寺三ケ寺において病気平復の祈祷の為真読大般若可令修行の旨沙汰せられけれは御詫尤なりとて延暦寺経奉行には高野瀬修理舎弟外記錦織図書に彼仰付竹生島へは加州宗愚甥加州又八郎島求馬に被仰付観音寺は則所なりけれは黒田甚四郎にそ被仰付ける永正十三年十月十一日より経読誦初りけれは観音寺へは高峰卿も毎日参籠し給ひけオープンアクセス NDLJP:40るかくて延暦寺へ被仰付し高野瀬外記錦織図書は同十五日読経半に口論仕出し互に色を立しを山の僧衆二人か間に入互に引分け中和をいたされけるか終に遺恨やはれさりけん翌日指ちかへて果たりける後子細相尋ぬるにある坊の児色深き少童なれは彼か為に歴々の侍二人相果けるとそ聞えし其日に当て竹生島へ被仰村し又八郎求馬両人か侍共早崎吉兵衛尉許へ彼地賄の役にさゝれて越けるか早崎村にして喧嘩を仕出し互に深手を負たりける誠に延暦寺竹生島両寺ともに祈祷の場にて時日不違人損害に及ふ事環山寺殿逝去の後国大に乱れなん悪相なりとは後にそ思ひしれらける
 
浅井大津の浦より塩を買取事
 
かくて敵寄来らされは十一月中旬まてに小谷城中堀塀柵不残丈夫に拵へ味方領分の年貢米等納取城中へこめられ粮沢山なり其上上坂の城より武具馬備等まて悉く運ひ取けれは一年二年籠城せしむとも兵粮米珠等にとほしき事あらしと悦ひたまひけるか是に難儀せしは塩城中に不足なりいかゝ有へきと僉議せられて宣ひしは宮川左治兵衛筧助左衛門尉は両人して今浜近辺にて売人近付可有之間才覚いたすへしと宣ひけれは両人今浜の商人に賄をつかはし頼可申畏候とて大津の浦へ行塩二三百俵買取候へとも着岸の便おたやかならされは此塩は何方へうり申なとゝとかめられてはいかゝと思ひ右の塩を箱に入替へ呉服櫃に事よせ小舟五六艘に取乗舟長に心を合せ中浜といふ所へつけそれより川船にのせ馬渡川を心さし丁野村へ可着と相巧み川舟二十艘はかりにつみ川を上りに引処に二の枝村に笠原杢といひし者居たりけるか折節川端へ出て殺生して遊ひし前を舟二十艘計引通りけれは是は何者の舟にて候そや又いかやうなる物をつみ候とゝかめられ商人申けるは我々は今浜商人にて御座候舟につみたる物は国中の百姓共の方へ売申候衣類農具にて御座候と答けれとも杢猶もあやしくや思ひけん供の侍に下知して荷物開きて見よとありけれは商人とやせんかくやあらんと陳するに言葉なくして既に川中へ飛込んとせしかと天運是たすくる所か前舟の櫃に筧助左衛門尉宮川左次兵衛尉か家来下々共かあつらへ物にて衣類を入たる櫃二つあり其櫃に手をかくれは商人それより色を直し切ほとかれて御覧候へと申皆農具衣類にて御座候少もいつはり不申と申けれは侍共櫃のふたを取見て有に皆衣類なれはゆるして其場を通しける誠にあやうき命をたすかり丁野川原へ付則助左衛門尉左治兵衛尉両人小谷に籠りゐる故此旨注進したりけれは夜の間に小谷へ運ひ入る右次第両人の者共委申上れは商人を御前に召れ汝か忠義不浅候追付運を開きなは随分恩賞行ふへし先当分の褒美として五百被引けれは商人不斜悦ひ自今以後何にても被仰付候へ少も違背申ましきと申上げる此商人後浅井代に成今浜より中浜まての海​ 以下欠文​​川口   ​​ ​
 
京条高清入道病死の事
 
去程京極高清入道環山寺殿病悩次第におもらせ給へは京都より良医替る召下し医術をつくすといへとも其甲斐更になくして永正十四年二月十六日御年五十八歳にして終にはかなくなり給ふ御子息達をはしめ御一門の御なけき深かりけも御死骸を則御菩提寺清滝寺へオープンアクセス NDLJP:41送り給ひ御戒名は環山寺殿梅叟宗意大居士御弔の儀式いとこまやかに執行ひ給ふ一七日に成けれは嫡子三郎高峰卿入道したまひて利角斎とそ申けるかくて一七日より千部法華妙典修行せられける江北中の大名小名不残替る参上して御焼香をつとむる早其月も過行は三月にうつりける俊孝上平へ参上して家老の者共に申けるは御なけきの中に加様の事申もいかゝと存候へとも三十五日相過候はゝ利角斎御家督披露まして江北の諸士を召し集められ浅井退治の御沙汰可然存候と申けれは家老の者とも是を聞俊孝の仰尤には候とへも環山寺殿逝去し給ひて今幾程も過さるに軍の沙汰も余りなり浅井は何時成とも可討取者をといふ人も有いや俊孝か申処可然といふ人もあり中にも多賀新右衛門尉俊孝か申旨に付尤其沙汰よろしかるへしとて三月十九日に御家督披露有へき旨江北中へ触廻しけれは六郡の諸士我もと馳参し思ひのさゝけ物にて御祝儀を申上るさしもにひろき伊吹山の麓野に駒の立場もなかりけり大将利角斎一々諸士に対面有りて御盃を被下ける中にも浅見俊孝は永古坊と云家重代の太刀をそ指上ける

其後此太刀江南佐々木義賢と利角斎初て対面の時義賢へ送も給ふと申ける義賢所持して己か下部を討時下部逃て門の扉によりそひて居たりけるを追駆討給ふに門の関木を切落し其下部を大袈裟に打おとされけれはそれよりして名を改め関木落しと申ける其太刀今に高宮家来所持し高宮村に伝りけるとなり

かくて江北中の大名小名不残御盃を被下其上にて浅井退治の御沙汰被仰出けれは各畏存候追付御進発被成小谷を取巻せられなは早速城はもみ落し可申とそ申ける去程に来四月十一日に小谷表に進発せらるへき旨被仰渡けるこの利角斎まては泰貞斎に御名跡を御ゆつりなされ環山寺殿万端国の仕置御かまひなくして隠居分なり今治部大輔泰舜其器量にあたらされは又利角斎の御下知を諸将守りけれは上下共に本に立帰る事国の可栄瑞相なりとてよろこひさゝめき先己か居城へ帰り支度をそいたしける大将手ぬるく渡らせ給ふ故御進発の日限延々になる事是非なけれ

 
京極勢揃前軍評定の事
 
去る丑の三月十九日御家督相続の嘉儀の折節仰出さゝる旨にまかせ遠近の次第をついてゝ江北六郡の武士共我もと馳集る程に上平より春照上野まて人数満々たり六人の家老共高峰入道利角斎の御前に伺候し軍評判とりなり先尾木修理亮多賀新右衛門申上けるは今度の御合戦は人数くみ大事たるへし浅井小勢なりとは申せとも去年数度の戦ひに何れも勝利を得れは取籠所の人数一致にして動すること有へからす其上浅井は其分限よりも心剛強にして謀の上手なれは味方人数くみ大事たるへし先誰をか御先に可被仰付と申けれは利角斎宣ひけるは浅見俊孝軒父子に可申付と被仰けれはいや左様の儀に候はす俊孝は案内者なれは旗本か遊軍におかるへしと申上けれは然らは汝等六人の者共評定をとけ書付を可出御覧有へしと宣へは多賀新右衛門尉尾木修理亮大津弾正黒田甚四郎加州宗愚若宮兵助彼等六人軍兵組をそ書付ける先一番に磯野伊予守員吉同右衛門大夫員詮子息源三郎東野左馬助オープンアクセス NDLJP:42千田伯耆守子息帯刀右六人定め置此磯野源三郎為員と申は先年泰貞斎に付生年十五歳の時鳥井本合戦の折節国中にて強き弓を引歴々の武士共多く射落しけるか今は其時分より気力いやまし定五人張に十六束の矢束を引大すやきを以て四町面を射通しける誠に其国はかりにての事なれは他国へは其名高くも覚えねと古今ためしなき大兵なり近き比まて大音大明神に弓と矢を籠是を見る者多かりけれとも今は炎上いたしける此者真先に立ち浅井駆向ひなは射取せんとのたくみなり二番は井の口宮内少輔〈後改弾正〉令村掃部頭西野丹波守阿閉三河守渡部監物三番安養寺河内守赤尾筑前守同興四郎今井肥前守同孫左衛門尉熊谷弥次郎〈後女内蔵助〉

同新次郎摩守〈後改志摩守〉月ケ瀬新六郎〈後改若狭守〉塩津熊谷主殿助小蘆宮内大輔香鳥庄助中山五郎左衛門四番加納弥八郎神田孫八郎〈後改修大木左太右衛門富田新七久徳左近大夫下坂甚太郎五番新庄駿河守土肥次郎左衛門伊吹内匠助百々隠岐守大宇右近大夫六番山崎源郎土田兵助田那部式部錦織周防守早崎吉兵衛細江甚七郎長沢入道宗琢七番笠原杢助今村掃部小室隼人島若狭守入番宮部位上坊高島新庄法泉坊高宮三河守堀能登守子息遠江守野村伯耆守同肥後守第八備は大軍なり九番御旗本六人家老馬廻衆なり脇備の左は上坂治郎大夫同兵庫頭右脇備は浅見入道俊孝軒子息対馬守布施次郎左衛門尉横山大和守等なり総して俊孝軒は浮武者となり軍の指引せらるへきとそ定けるかゝりける所へ俊孝馳来り軍の次第尋侍れは右定の通り語りけるにいや左様にあらす浅井といひし者我数度戦ひ候ひて見申候に常の者と打かへて命を塵芥にかけ死を不惜兵なれは屋形如此攻寄給ふと見は門を開き切て出るかさなくは亮政己一人なりとも東西の山のしけみの蔭にかくれ御旗本へ馳込勝負を決せんといたすへし能々御思案候へと申利角斎間召右の人数組御覧有俊孝と相談したまへとも右の備に極りけり俊孝重て申けるは浅井いかやうの謀いたし置もしれされは功者なる人四五人小谷近辺に物見に出され可然とそ申ける列座尤なりとて上坂八郎右衛門尉浅見新八郎大塚十兵衛なとゝ云者共を初として六人物見に被仰付ける

 
阿閉三河守赤尾孫三郎海北善右衛門尉小谷へ味方に参る事
 
去間阿閉三河守は子息万五郎を近付ひそかに申けるは明十一日の合戦に第二番備の内に我々も被入置候なり浅井小谷山に籠り勇気をはけますといふとも如此大軍にて段々に備を立押寄給ひなはさそや心くるしく思ふらん今日は人の身の上明日は我身の上そかし其上浅井百にもたらぬ手数にて大功を思ひ立度々合戦に討勝事是名将のなす所なりいさ小谷へ見次はなしく相働名を後代に可残と思ふはいかにと有けれは子息万五郎承り仰の趣御尤なり今屋形下知し給ふといへと武将の中間隔て取しまりたる手立なし俊孝一人心も剛にて案深しとは申せ共此人度々の異見に及ふと雖とも終に御用ひ無之して軍の図ぬかし給へは行末とても頼もしからす又浅井軍立は中々凡慮に及ひかたしとかく浅井に付給ひ家の面目ほとこし給へと有けれは三河守はやかて家の子郎等八十七騎召具して四月十日の白昼に小谷の城へ引籠る亮政頓て対面して阿閉殿味方に被参る事ひとかたならぬ忠義なりとて称美する事中々なり赤尾孫三郎つら物を案するに近年度々の戦ひに終に心にかなふ軍なし亮オープンアクセス NDLJP:43政手に付花やかに相働き討死し名を後の代に可残とおもひ切同姓小四郎をいざなひ小谷へ籠り此由かくと語けれは御心付神妙なり一騎当千の士とは各なるへしと悦ひける此赤尾孫三郎は後美作守とそ申ける海北善右衛門尉も木村甚次郎を同道(心イ)にて小谷へかけ入亮政に対面し我々両人来る事明日の御合戦に討死の御供可仕と存来る旨を申けれは亮政不斜悦ひ給へは城中の者共見次勢来るとていきほひをなす事おひたゝしかくて上平殿人数を段々に組明日当城へ押寄給ふ旨告来りけれは亮政は清兵衛尉為利善次郎秀元を近付江北中の諸士段々に備を立押寄るといふ一段二段は切立可申と存候へとも八段九段の備ならは心はたけく勇む共大勢に取籠られ討れん事は必定なりたとひ討死をとくるとも軍の手立をかへ花やかに討死すへし秀元為利両人は五百余騎の勢にて大洞虎御前山森の中にかくれ居て旗指物をふせられ寄手此城を取巻とひとしく旗指物をほのかに出し鯨波を揚て切てかゝらせ給ふへし然らは追手の門をひらき無二無三に切て出なは寄手少は色めくへし東の手は阿閉殿父子赤尾殿両人海北善右衛門尉とは小谷山の東なる大寄山と小室山との間に隠れたまひて追手より切て出るとひとしく敵の中へ駆込給へ其時からめてより大野木三田村鬨を作りて切て出て給はゝ大形は大軍なりとも可切崩と申されけれは各其方便尤なりとて此儀に決定して十日の宵より弓手馬手の人々は小谷山を下りて人数をかくし置たりけり
 
京極利角斎小谷城攻阿閑赤尾海北働の事
 
かくて永正十四年四月十一日の未明より物見に被仰付し六人の者共小谷近辺見廻りけるにに大洞と虎御前山との森の内あやしく人おとすれは馳帰て此旨注進す俊孝申処不違とて其方便をいたされける善次郎清兵衛二人の者共は物見山の峯を通ると見てもはや敵にさとられたると思ひ敵不向先に小谷へ引取て亮政にかくと語れはされはこそ俊孝の老武者軍に念を入ると見えたれさあらは寄手を近々と取巻せ可切出とたくまれける去程に京極殿は八千余騎の軍兵を引率し段々に寄たまふ尊照寺村より八段の人数を二つに分つ第二番の備内阿閉敵方へ引籠りけれは俊孝思案こそ有つらめ第八番の備野村肥後守を入替第四番備まてを小谷の東口へさしむけらる五番より八番まてを西表南まて引廻す御旗本尊照寺村に陣取給ふ俊孝父子は四方八方に目をくはり駆廻り下知をなす城中には亮政物見に下り為利秀元に申けるは寄手の次第を見るに卒爾に切て出る事かなひかたし俊孝浮武者となり我数度の戦ひに一番に働くを知り若切て出なは城へ付入にせんとの様子なり持口を堅め城を丈夫に防き能時分を見切出へしと宣ひはや持口をそ堅めける寄手小谷の城を取巻き鯨波を揚けけれは城中しつまり帰て居たりけり宵より相図を定め大寄山にかくし置し阿閉三河守海北善右衛門尉赤尾孫三郎は城中追手より切て出るかと相まてとも其沙汰に不及候て寄手小谷を取巻は追手の方便相違すると見えたり今はかなはしと思ひ三人心を一にして大音あけて名乗やふ阿閉三河守海北善右衛門尉赤尾孫三郎爰に有討死せんと言まゝに二百余騎の勢にて一足も引しと思ひ定め面も振らす敵の囲へ駆込喚叫て切てかゝれは寄手此勢に追立られ四方へさつと引たりけり野村肥後守今村掃部頭是を見て敵は小勢なるそこれ討とめて高名オープンアクセス NDLJP:44せよとて三人の者共を真中に引包む赤尾海北事ともせす向ふを幸と火花を散し戦ふたり赤尾長刀を以てやにはに三騎なき落す海北も二騎突落す阿閉父子も向ふ敵を突散しかけ通らんとせしを井の口宮内少輔西野丹波守か備にて支へける城中には亮政此由を見るよりも阿閉打すな赤尾海北を城中へ引取れ大橋伊部と宣へは承候とて搦手の門を開き三百騎計り鬨を噇と作りかけ真黒になり切て出る井の口西野か手にても討留されは三人の者共二百騎の勢にて一文字にかけぬけ山田口へ引のき難なく城中へ引取けれは敵方にもあつはれよき働かなと感せぬ者はなかりけり亮政海北赤尾阿閉に向ひ宣ひけるは唯今三人の働は異国の張良陳平にもおとらしと称美再三に及ひける斯て寄手猛勢を以て息をもつかせす攻給へは城中にも矢尻を揃へて防きける赤尾孫三郎海北善右衛門尉大橋善次郎三人は四方を廻り軍の下知をそしたりける亮政兄弟三人清兵衛尉は味方のたゆむ所へ立そひ士卒の勇気を励ましけれは城中小勢なりとはいへとも寄手たやすく攻入るへきとも見えさりけり浅見父子は亮政切て出なは横鑓になり跡をしきらんと相待とも城中は持口を堅め不駆出防けれは寄手は書夜のさかひも無入替攻たりけれとも剛の人共籠りけれはいつ可落とも見えさりけり
 
浅井夜合戦の事
 
小谷の城には亮政千三百五十余騎にて楯籠りけるか寄手八千余騎にて被取囲五六日か間は昼夜のさかひなく喚叫て攻給ひけれとも味方少もたゆますつまりより矢種ををします射出しけれは寄手左右なく攻入る事もならさりけり上平殿は頭共に下知したまひけるは浅井二千に不過勢にて楯籠る所の小城を国中の武士共打集り五六日に至るまて構の一つも不乗取事油断のやうよ見えたりと怒らせ給へは追手搦手三方に廻て攻入ける東の手へ向ひし磯野伊予守員吉同右衛門大夫員詮子息源三郎為員東野左馬助なとはや総構打破込入ける城中にはこれと見てすは東の手は敵惣構まて込入たるそつみ石を落せと有けれは山のかさより為利秀元心得たりとて石を落し大木を切れとせは切岸まて寄たる磯野か兵共三十余人矢場に討殺されてすゝみかねてそ見えにける抑此小谷山と云は近江無双の名城にて山高くして峰平なり麓嶮岨にして三方ははなれ山先束ま池の奥と申て山のすそにまはり二里計なる大池あり南に大沼あり西は堀水深し山は手を立たることし北は大山引まはすされとも其間きれて村あり敵可向方便なき所なれは秘して通ふにぬけ道あり美濃国越前国まて山通りに道もあり古木森々とはへ茂り尾通りなるくして味方の働自由なり元来亮政此城を取建る時より如此被取囲給はん事は覚悟なりから堀深くほり立其上は岸なり高さ四丈計も土ひきおとし手を立たるかことくなり其上に石を所々に置大木を横たへひかへ縄を付敵近々と寄来る時縄を切とひとしく敵の上へ落かゝるやうに拵へ置それのみならす種々の方便をたくみれき敵近付は平討にうたるゝやうにしたりけれは寄手攻あくみ徒に日をそ送りける是に城中難義に及ひしは磯野源三郎為員大嵩の焼野へ忍ひ入江北中の弓の上手共をすくつて召連れ城の後なる山の高みへあがり間三町許もある所よりすきまをねらひ遠矢に射たりけれは塀楯ともいはす射通しけり残る人々射たる矢は別の子細もなかりけるか源三郎か矢オープンアクセス NDLJP:45先に廻る者たすかる者とてはなし城中彼にはあくみけるされとも真木坂にてかこひ置其かけに居て防きける然る所に浅井亮政は大橋伊部赤尾海北此人々を近付密談して宣ひけるははや寄手も攻あくみ油断のやうに見えたるそ味方も又此中の籠城に人数も労れけれは次第に小勢に成へし然れ共各や我たに残りなは二ケ月や三ケ月は城も堅固に守るへけれとも誰を頼みにいつまてかくは籠るへき寄手の方へ忍ひの者を出し其様体を聞届夜合戦に駆出勝負を可決とそ宣ひける四人の者是を聞可然候らんと同しけれは亮政さあらは方便を語るへし敵方にも此中の対陣に草臥たると見えけれは城中にも源三郎か大兵の矢先にあくむ体にて防矢も少々ひかへさせなは追付城を可乗取といさむへし其能図を謀り海北善右衛門尉赤尾孫三郎大橋善次郎此三人の衆は敵廻らさる山田村山の東谷口の方へ忍ひ出東の山の峰をつたひて京極殿の旗本尊照寺村の後十町許南なる矢島村へしのひ入放火し鬨を作り給ふへし其時火の手を見は旗本色めくへし我等と大野木三田村七百騎にて追手の門をひらき鬨を啼とあけ切て出へし阿閉三河守父子浅井新次郎同新助彼等四人は追手の鬨の声とひとしく東の門より駆出給ふへし伊部清兵衛尉は残る三百騎にて城中に残り給ふへし我等切て出る物ならは俊孝幸ひと思ひ跡をしきりて城中へ駆入へし其心得をしたまへ我等は京極殿の旗本さして可切立敵踏留て取巻に随分と相働討死をとく可也各も悪縁にむすほふれ若死するとおほしめし討死したまへと宣ひける四人の者共称美していふやうはあつはれよき大将かなかく手きれたる軍をせては何そ大敵を亡さんやと何れもいさんてすゝみける亮政重て宣ひけるは味方の相詞を定むへし南風吹といはゝ切て掛るへし北風烈といはゝ城中へ引退くへし谷かと云はゝ味方は山とこたふへし味方のあるしには天目さいを切具足のわたかみに付へし歩立の者には織羽の後に付へし打物のさやには三引両を紙にて押付へしと相定め其支度をそいたされけるかくて寄手の方には去月十一日より取巻当月一日まての事なれは各くたひれたる体なりしかれとも磯野源三郎為員精兵の矢前を以て城中殊の外よはるとて寄手是を悦ひけるかゝりける処に亮政五月朔日の夜忍ひの者を出し寄手の様子聞せ給ふに立帰て申けるは寄手の方には源三郎山のかさより大矢を城中へ射込により城中以の外難儀に及ふの間追付当城をもみ落すへしとて悦ひ今はやはしめと違ひ夜廻り番も少しく懈怠のやうに見え候其中に俊孝軒備はたしかに守ると相見え申候尊照寺村の御旗本には御酒宴なとの体と見え申候と語りけれは亮政よろこひ時節は今成そ明夜に是非思ひ可立堅く此事他へもらすまし先明夜の夜討の支度を書付五人組七人組とて一組に頭を付互にまめし合せ其夜は酒肴を出し下々に至るまて酒宴こそは初めけれ是も浅井か謀なり寄手の者共是を聞今宵か明早朝には切て可出と定めたるか若さなきものならは自害をするか城中の酒宴は無心許と申ける中にも功者なる者は今宵か明日是非切出へき討死の用意といふ人もありて寄手其夜は用心きひしくしたりけり去程に永正十四年五月三日の夜総軍兵を中の丸へあつめ又酒を出しける酒三献も過れは今宵は必死非生と思ひ定めし事なれは各と我等と盃を取かはすへしと又盃を巡らしける其時亮政の北方奥よりつゝと出物頭共に肴を引それよりオープンアクセス NDLJP:46下々まて引通しけれは城中の兵心一筋に成にけり忍ふ夜の事なれは小声に成ていさみすゝむ誠に城中千三百余騎の勢今宵の軍に敵を追立すんは生て可帰といふ者一人もなし此亮政の室と申は浅井教政女にて亮政とは従弟の間とそ聞えける斯て其夜もやう更行は初めの定の如く大橋善次郎海北善右衛門尉赤尾孫三郎残る人々をまたかへて其勢二百騎にて山田村東の山谷口へしのひ出る筧助左衛門尉宮川左治兵衛尾山彦右衛門尉山田辺助七同方より忍ひ出馬上山の峰通へしのひ通り亮政の在所丁野村の百姓を頼み近郷へ放火すへきとなり去間矢島村へ忍ひ行三人のひとは無難忍ひ入しか火影を後にして敵陣へ駆入は敵に見すかされ敵のたよりと可成思ひ下人二三十人計に申付三人の者共は旗本尊照寺村を西向ひに見て火の手を左に為へきそと思ひ尊照寺村の東へ廻るとひとしく矢島村に放火し鬨を噇と揚たりけれは丁野村落川村柏原村所々を放火し百姓五百計鯨波をそあけたりける城中にも相図の火の手を見るとひとしく追手搦ヲ鬨を一度に合せ門を開き切て出る寄手俄に騒動してすは夜討か入か浅井と兼て約諾して味方の内に謀叛人か出来し裏切するかとて周章する事限りなし去程に旗本へ向ひし大橋善次郎海北善右衛門尉赤尾孫三郎三人の者共は二百騎の兵何れも歩立にて真黒に突駆り手本に向ふ兵十七八騎切落す本よりさわき立ぬる備なれは踏留り可防とも見えさりけり三人の者共は兼て定めし事なれは敵の中へまきれ入二十騎三十騎つゝ引分れこゝかしこへ駆込喚叫て攻入馬の平首太腹なとゝもいはす突落しなきすゆる比は五月三日の夜亥の刻計の事なれは東西暗くして敵味方ともわかたねはちりに落行けり寄手の面々は矢島北西は丁野落川馬上村の放火を見てこはいかなる事やらんとあはてふためく所を鬨を作りかけ攻下しけれは我先にと落行けり亮政是に力を得て追討に討取旗本指て進行く浅見俊孝父子是を見て城中より切て出るともいか程の事かあるへき返せとよははれと踏留る者あらされは我身は五百余騎にて横鑓に突掛る亮政八百余騎火花をちらし戦ひしか浅井勢も此横鑓に突立られ半町計引退く俊孝浅井か跡へ廻る処に伊部清兵衛尉は三百余騎小谷山の切ぬけ道の脇にひかへしか三百余騎面もふらす突かゝれは俊孝勢叶はしとや思ひけん跡も見すして敗北す俊孝父子も志はさすかなれとも浅井か勢四方八方に打ちりて戦へは尾上をさして敗北す清兵衛尉はそれより逃る敵には目も掛す城の内へ引取ける浅井はこゝかしこへ駆廻り群る敵中を駆通り討破てにくる敵をこゝろよけにそ討取ける爰に東の手へ廻りし阿閉父子浅井新次郎舎弟新助は磯野か備の中へ駆込蜘手十文字に働けるか寄手の者共四角八面の放火を見て味方浅井に心を合せ裏切すると思ひ敵を少々あひしらひ皆散々に落行けるかゝりける処に海北赤尾大橋小勢なりとは申せとも四方十文字に駆立けれは京極殿引取兼て居給けるを黒田甚四郎大津弾正尾木修理亮なと引包落給ふを海北善右衛門尉赤尾孫三郎と名乗透間もなく突かゝれは上坂掃部頭同八郎右衛門尉二人取て返し戦ふたり上坂掃部頭は赤尾孫三郎に渡し合せしのきを削り鍔をわりしはしか間は戦ひける掃部頭蹈込て討太刀を孫三郎長刀にてうけたりけるかあまる太刀にて孫三郎かこ手のはつれを切けれと孫三郎ことゝもせす飛かゝりむすと組赤尾は元来大力掃オープンアクセス NDLJP:47部頭は老武者の事なれは上を下へと働けと終に赤尾は組勝て掃部頭の首を取にけり海北善右衛門尉は上坂八郎右衛門尉と仕合けるか互に名にしたふたる手きゝ共なれはしはし勝負はつかさりけり善右衛門尉は八郎右衛門尉か討太刀を請上て飛掛て組けるか海北終に組勝て首をかゝんとする処に上坂もさすか名有る武者なれは下より腰指をぬき上なる海北を二刀つきけれと海北実よき鎧を着けれはいたむ程は通らす難なく首をそ討取ける此両人討るゝ隙に京極殿は上平指て落給ふ善次郎は歴々の首二ツひつさけ赤尾海北に向ひ申やう夜中長追無益なりいさや引取んとて浅井か旗本へ引取ける北の方寄手の後へ向ひし筧助左衛門宮川左治兵衛尾山彦右衛門尉田辺助七四人の者共も郷人をめしつれ四五箇所も放火し小谷山を左にして敵の囲へ横鑓になり鬨を作りてかけ入はしたなく働き敵悉く追払ひ城の中へ引取ける今宵の軍に敵の首三百七十討取けれは味方も五十二騎うたれにけり浅井は大敵を思ふまゝに追払ひ不斜悦て城の中へ引にけり近国にかくれなく浅井か夜軍と申伝へしは此軍の事なり
 
浅井三代記第四終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。