浅井三代記/第十七

斯而備前守は信長卿大軍を催し又此面へ進発せらるゝ旨をきゝ越前朝倉左衛門太輔義景の本へ為㆓使節㆒木村喜内之介浅井福寿庵を差遣申入けるは信長近日分国の士卒を引率し当城小谷へ押寄味方の勢を押へ置付城を相構可㆑申の手立のよし慥に其聞え候今度は是非義景急き出張被㆑成敵を深々と引入一戦をとけなは勝利うたかひあるましきと被㆓申越㆒けれは義景けにもとやおもはれけん其方一左右次第諸勢を引率し可㆓打立㆒とかく相究使者を小谷へ被㆑帰ける長政の使小谷へ至り義景今度はひつてう出馬可㆑有と相見え申候と申上れは長政喜悦たくひなしさて信長卿は子息城之介殿具足初有て召つれさせたまひ御分国の諸勢を引率し同七月十九日に江州横山の城に着陣あれとも後陣は濃州関ケ原面を引もきらす其時御父子の御勢五万余騎とそ聞えける斯て信長卿柴田修理亮木下藤吉郎佐久間等を近付させたまひ宣ひけるは我当国へ度々出張すといへとも小谷を手いたく責る事なし今度は押寄可㆑責とおもへ共此城たやすく落へからす其上浅井か侍歴々城郭をかまへ所々に有㆑之也先近々と付城を長政か居城の麓西南に当たる虎御前山に丈夫に拵置軍をのへ置敵をつからし秀吉に才覚いたさせ浅井か大名分の者共大分程味方に引入其上にて長政に腹切すへきはいかにと被㆑仰けれは仰左可㆑然と御請申上るさあらは人数組をし小谷の城山本の城所々取出の要害をおさゆへしとて同廿二日に柴田修理亮木下藤吉郎丹羽五郎左衛門尉蜂屋此人々を宗徒の大将として其勢八千余騎小谷と虎御前との間雲雀山に押上る丸毛兵庫頭市橋九郎左衛門尉水野下野守中川八郎右衛門四人は雲雀山の東山本山には池田庄三郎内藤庄介塚本小大膳不破河内守彼等四人は早水村の西の方に備へを立る虎御前山の城普請には江北にて御味方仕候者共に福富平左衛門尉佐々内蔵之介奉行に被仰付御父子の旗本矢島の南の野に五段に備へさせ給ふ備前守長政此由見るよりも越前朝倉義景の許へ注進す義景如例今度も又のひ〳〵にそ成にける長政身をもたへて被㆑申けるは義景今少早く来らるゝ物ならはきやつはらに足はためさせし物をと胸ふくらしてそ居給ひける斯て寄手の人々は味方をひしと押へ置普請を急きける程に虎御前山をなしく山の内八相山に付城悉く出来して虎御前山には木下藤吉郎秀吉八相山には柴田修理亮を籠おかれ人数横山へ引入んとし給ふ所へ越前義景二万余騎の勢にて同月晦日に田部山に着陣すはや先勢は小谷面に充々たり八相山に置れし柴田は小谷面へ一千計にて討て出弓鉄炮を放ちかくる義景の先勢朝倉修理太夫か者共も二百余騎馬よりはらりと下り立切てかゝる木下藤吉郎も虎御前山より討て出柴田か後陣にひかへたり柴田一軍して越前勢を追立へしと思ひ真黒に突かゝる朝倉修理亮山崎長門守一千計相続てすゝみにすゝんて切てかゝる其よりしてこふつこまれつ戦ひける柴田か後にひかへし藤吉郎一千余騎にて噇と突かゝれは越前勢此競ひに追立られ色めく所を朝倉式部太輔丁野山の方よりそこを引なといふまゝに二千計にておめきさけんて突懸るさしもに剛成柴田木下も越前勢雲霞のことく馳付けれは人数さつと虎御前山さして引入ける越前勢も【 NDLJP:137】長途につかれたる武者なれは深入すへからすとて式部大輔諸勢を引つれ小谷をさして打入ぬ信長卿一里計引給ふ所に越前勢小谷面へ馳付柴田木下鑓を入たると聞給ひ池田稲葉に下知して追散せと被㆑仰けれは承ると申て二千はかりにて馬煙を立て馳せ来る朝倉勢は我人数を打つれ小谷の東谷へおしまはし人数をかためて陣取けれは池田稲葉も矢島野にひかへたり信長此旨聞たまひ敵陣取なは早々勢を引とれと御使番を以被㆓課越㆒稲葉池田勢を横山へ引にけるその後十日計か間は互に陣をはりたまへ共足軽合戦もなかりけり信長卿被㆑仰けるは虎御前山は敵合近けれは無勢にてかなふましとて佐久間右衛門尉を柴田木下に指加へてそ被㆑籠ける斯て備前守長政義景と相談して被㆑申けるは宮部世上坊か楯籠る宮部の要害は普請あら〳〵敷して無勢なれは是を一責攻へしとて浅井長政侍大将には同姓七郎大野木土佐守朝倉義景侍大将には同姓式部大夫なり義景長政双方の勢七千余騎にて討て出ける虎御前山の敵をは押へ可㆑申とて前波九郎兵衛尉富田彦右衛門二千余にておさへをく宮部の城を幾重ともなく取巻喚呼て責入にけり世上坊も聞ゆる兵なれは走廻士卒の気をはけましけるされ共猛勢にて責平押に押寄けれは惣構矢庭に打破り我先にとこみ入はかゝはり難く見えし所に柴田木下は近所なれは佐久間を城中にのこし置敵不㆑来西の方川毛村の方へ討ていて宮部を助来り味方後へまはりけれは味方色めき立てさはきけるに柴田木下はおめきさけむて切てかゝる朝倉式部大輔は旗本六七町程引退き人数備へて待かくれは柴田木下もおなしく備へて居たりけるか既にその日も暮に及へはたかひに人数を引にける義景長政相談して丁野山に要害をかまへ朝倉方よりは堀江甚介平泉寺玉泉坊浅井方よりは中島宗左衛門尉を籠をきける此丁野山は小谷山麓よりい八町西なり斯て敵味方矢島野を間にして陣を張けれとも互に手さしもなくして八月十六日には信長横山をひき取たまへは浅井朝倉も浅井に加勢として斎藤刑部少輔は小森彦六左衛門西方院を侍大将として一千余騎大嵩の城にのこしおかれ信長当国を引取たまふとひとしく朝倉も越国をさしてひきにけり其後虎御前と小谷山と敵味方の若者共掛をとりをかけ合ける信長方の若者共田川野迄来り躍りける其歌に曰浅井か城はちいさい城やあゝよい茶の子朝茶の子とうたひ躍りけれは浅井か若者共返し歌に浅井か城を茶の子とをしやる赤飯茶の子こはひ茶の子とおとり次の躍信長方へ懸ける歌に信長殿は橋の下の土亀ひよつとてゝひつこみひよつとてゝひつこみも一度出たらくひをとろとかけあひける今に当国草苅童の口すさみなり

〈後改備中〉を近付申けるは汝は信長卿の本へ罷越可㆓申入㆒者本領に加増被㆑成においては御味方申上加街の者とも追出し可㆑申候条其時分御加勢可㆑被㆑下と申上へしと言含め遣しけれは介兵衛は信長卿の本へ至右之趣申上れは信長よろこひたまふ事限りなし則此介兵衛に引出物なと被㆑下淡路守には本領に御加増被㆑成御教書をそ被㆑下けるかくて淡路守人数を催し三の丸と二の丸との間へ人数を立置以㆑使申けるは長政卿我々を信長卿に可㆓責討㆒ためにや安養寺熊谷を引とらされしなり我等は今日よりは信長卿の御味方に可㆑参なり其上唯今木下藤吉郎当城請取に勢を被㆑出候也各も同心にて候哉若さもなき物ならは討果可㆑申ため我手勢を出し申也と申込みけれは三人の者是をきゝ其意に相随ひ申度候得共我々者長政を見立可㆑申と返事す阿閉大に怒ていて物見せんといふまゝに人数をおしかけ揉にもむて責けれは今村西野今井も爰をせんとゝ切むすふ阿閉兵に下知して申けるは安養寺熊谷か後巻せぬ間【 NDLJP:139】に責や者ともすゝめや兵と一刻責に攻たりけるに秀吉此よしを聞手勢三百計にて虎御前より出し給へは三人の者共かなはしと思ひ阿閉に人質を取三の丸を開渡し小谷をさして落にけり備前守阿閉逆心の趣を聞既に人数を出し阿閉を可㆑責とへうきせられけるか物頭共申けるは足本に敵を置なから人数を出し取入る事おほつかなしと諫言すれは長政も胸ふくらしてそやめにける角て阿閉は三人の者共を追出し不㆑浅喜ひ秀吉と相談して安養寺を可㆑責とて阿閉案して居たりける秀吉其勢七百余騎安養寺村へ押寄取まかむとせし所を三郎左衛門尉纔其勢四百計にて江きは迄打て出けるに秀吉の先勢は弓鉄炮を放ちかくる安養寺向ふ敵に相かまはす城中へさつと引しつまり切てそ居たりける秀吉是を見たまひて敵は小勢と見ゆるそ押込一もみもむて見よと宣へは時を作り責入むと勇みけれとも此安養寺村と申は西の方は湖水面北は沼也一方口にして容易可㆓責入㆒様もなくして二時計か間はにらみあふてそ居たりける安養寺又二百計の勢を出し弓鉄炮を放ちかくれは秀吉の勢敵を引出可㆑討とや思ひけん秀吉の先手のもの共三町計さつと引安養寺か勢既に追懸勝負を決せんとせし所を安養寺久左衛門尉卒爾成味方の者共はや引とれとて城中へ引取けれは秀吉も此城は急に落へからすとて人数を引具し虎御前へ引給ふ翌日信長卿の本へ秀吉卿より被㆓仰越㆒けるは阿閉は御味方に参浅井に敵の色を見せ加番の者共追出し候とおゝせられけれは信長卿被㆑仰けるは浅井可㆑討よきたよりなりとて御喜ひは限りなし


この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。