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浅井三代記/第七

目次
 
オープンアクセス NDLJP:64
 
浅井三代記 第七
 
 
京極殿浅井に御詫言被仰事
 

浅井備前守亮政は思慮をめくらす処の謀少も不違して江南江北の猛勢悉追立十二日の申の刻はかりに小谷に帰城したまひて諸勢さゝめき渡て悦ひける斯りける処に大橋安芸守伊部清兵衛赤尾孫三郎雨森弥兵衛海北善右衛門尉五人の者等相談して備前守殿の御前へ進み出て申けるは今宵我々五人の者共に御人数少被相添候はゝ上平を夜の中にもみ落し京極殿に御腹めさせ可申と申けれは亮政聞給ひてのたまひけるは尤其方達被申如く此勢ひを以て上平を攻なは攻取へくは候得とも黒案可有事也味方の勢ひもさそつかれ可申其上此中の籠城に一命を捨て戦へはしはらくなりとも休息いたさせ可申又某謀毫髪も不違して大敵を一時に追払ふ事是皆天の我をたすくるところなり某軍を初めしより虚にして敵を驚し討事四度に及へり今日より後は心に剛を立敵をつゝしみ身をつゝしみ軍法に心を砕く事専一なり謀といふものも時に当り地形によるものなれは常に敵は計り安きと思ふは不覚なり又小勢にて大軍を破る事心得たりとおもはゝ必す討るゝへし大軍にて小勢を討事やすきは常の法なり小勢にて大軍に向ひ勝利をうる事は其例多しといへとも後々に至て其功立かたし然れは某度々小勢を以て大敵を破れは今より後は敵方にも其心得第一としるへしかりそめの取合にも敵を大事にかけられ敵の城取山取陣取地形第一と思慮をめくらし敵の気を見味方の色に心をかけ軍の指引あるへきものなりと宣ひて五人の者等の勇気を諫言したまオープンアクセス NDLJP:65へは五人の者共承り仰尤辱とて各悦ひ申けるかくて亮政何とか思案侍りけん二三日も諸勢に休息いたさせ上平殿を可攻と沙汰せられけるかゝりける処に上平には六人の家老寄合評議しけるは江北の諸侍軍散して後味方の侍一人も来らされは浅井攻寄へき事は案の内なり折節勢は無勢なり浅井を可防たよりなしとやせんかくやあらんとて案しわつらひ居たりけるか多賀新右衛門尉申けるは南北の諸勢浅井を取巻事度々なれとも終に勝利を得す行末とてもたのもしからす面目なくは候得とも浅井に手を入れ無事をつくろひ可然候らんと申けれは加州宗愚申けるは浅井唯今は何とか色なくては同心すましきなり某存候は弾正と某と両人して当正月年頭の嘉儀に浅井参着いたしなは可討取の沙汰を彼者内々聞及ふの由承り候なり屋形御謀叛の御心底これなきのところを両人して御すゝめ申上るにより如此と事よせ両人の者共国治るまて御家を立退他国いたし候へし其跡にて御家のとかを両人の者に課せたまひ各無事をつくろはるへし一命を捨るも他国へ移も主君の為は同し断なり兎角御暇申上立退くへしと申けれは尾木修理亮申けるは御家を立退れ浅井と無事を致といふとも貴殿両人を見放ち可申事心得かたき所なりと申承引申さゝれは加州大津屋形の御前に伺候して右の旨趣申上る入道聞給ひて汝等申分某に対し忠節不過之併両人の者共に他国をいたさせ京極の家を立るといふとも甲斐なき事なるそ当城に一所に籠り浅井を防てたへ其内に心有武士共も一二千馳集り楯籠り防なは一ケ月や二ケ月は籠城堅固につとむへし又江南勢後巻せられなは途中にて討取るへしとそ宣ひけるかくて浅井備前守は近習二千余騎同六月十七日に上平へ押寄すへきと催し給ひける此旨早く上平へ注進する者ありけれは大津弾正加州宗愚両人示合せ妻子等をそこに隠し置我身は一門二百五十人引具し上平を立退美濃国斎藤山城守秀龍を頼み義濃国さして引退きけるかゝりける所に浅井備前守亮政上平を近く押寄けれは城中より多賀新右衛門尉黒田甚四郎両人すはたにて亮政陣所へ駆来り申けるやうは今度貴殿と京極入道と一戦に及ふ事全く京極の心底にあらす大津弾正加州宗愚と二人はからひとして御謀叛をすゝめ申せしなり夫故身を隠すに所なけれは両人とも何方へともしらす立退申候京極殿にも貴殿是へ押寄せ給ふ旨を聞給ひて御腹被遊へきと被仰候得とも我々堅く諫申候此上にて候へは貴殿の御指図を頼み度と詞をつくして詫言申けれは亮政心得かたくは思へとも江北の主とあかめし京極家の事なれはさすか心なくもならされは家老の面々を近付此儀如何と評議ある大橋安芸守伊部清兵衛尉進み出て申けるは去年御和睦候て程なく約を変しられ候御心底なれは末頼母数も不覚候此上上平殿を立置給ふ物なれは国の騒動止可らす於是是非今度は討亡し給ふへしと申けれは備前守宣ふは両人の申条一々至極に候得とも近江源氏の嫡々にて六角京極と申候て江南江北の侍大将を忽ち只今其家一方打破る事も不便なり某の存入有之間後々は謀叛の事は成へからす其段は心安かれと宣へは三田村左衛門太夫大野木土佐守なと仰尤しかるへしと申に付上平より来る二人の家老を備前守御前に召れ仰られけるは去年中和の時申上ることく亮政心底に少も御如才無御座候得とも御心替度々に及ひ候得は国の乱しつめかたく候其上江北の諸浪人姦オープンアクセス NDLJP:66邪の侫臣近付により御心変し申候間小谷の内に城収を仕り請し奉るへし御勝手の納米の儀は御用次第に可申付此殿可仰上御同心候はゝ人数を引取へきと被申両使を城中へ帰されけるかくて多賀新右衛門尉黒田甚四郎京極殿の御前に参り浅井か存分申上けれは京極殿聞給ひていかゝ有へきと案し煩はせ給ひけるか家老の者とも申上けるは近年度々御旗向給ふといへとも一度も勝利を得されは浅井はためしなき智勇の者なりと見えたり彼を討事かたかるへし一先浅井を御頼み被成時節を御待可然と種々に御諫め申上けれは御同心被成けるかくて両人浅井か許へ越ともかくも汝等かはからひ次第と宣まへは二人の者共承り浅井か許へ馳来り京極殿の仰一々申上けれは浅井も内々京極の家を立置度との存念の上なれは不斜悦て家老共の妻子を人質に取小谷へ人数打入ける其後小丸と中の丸との東よりに丸を一ツ拵て京極入道を請待申京極丸と名を付君臣の礼正しく尊崇する事かきりなけれは亮政は義深き大将なりと人皆是を感しける

 
今浜の城開退事井今浜近辺侍降参の事
 
かくて今浜の城には上坂治部大輔泰舜同兵庫頭泰信楯籠り京極殿の御旗本をかため度々戦場に向ふと雖も終に勝利を得されは以前の耻辱をきよむる事もなく剰へ京極人道浅井と重て中和の縁を結ひ浅井か城小谷へ押こめられさせ給へは今は頼に便りなし当城に楯籠り数月を送るといふとも頼む処の武士とも去る永正十三年八月下旬の乱より思ひに立退き己々か在所へ立越しか下知にしたかはされは今浜の兵一千騎にすきす此兵を以て浅井を防く事も覚束なしとて近辺の武士を相頼み二三千も集りなは一先浅井を防き置き世間の安否を見計るへきと思はれ上坂修理亮を近付此儀いかゝ可有と相談したまへは修理亮此旨承り近辺の武士を御頼候とも味方に参し浅井を可防と御請申者有まし犬上郡佐和山の城へ落給ひ磯野伊予守と被示合佐和山に籠城したまひて敵味方の様子を御覧有へしとそ申ける泰舜重て申させ給ふは此城を開退うへは江南観音城へ走込定頼義賢を頼み観音城に隠れ居て江南より重て勢を出さるゝ時御先を仕本望を遂へきなりと宣へはさあらはひとまつ落らるへしとて同六月二十七日に今浜の城を開退江南佐々木定頼卿を頼み観音城へ引退くそれよりして近辺の侍共浅井に手を入降人となり来る者多かりけり先一番には神田孫八郎下坂甚太郎相撲平八郎中山五郎左衛門尉細井甚七郎宮部世上坊富田新七香鳥庄助此者共寄合評議して申けるは上平殿小谷へ押籠られさせ給へは今浜にも城を開退き落給ふうへは何方を頼みに勇気をはけますへき便りなし兎角浅井に属し其家名を可継と思ひそれの縁を取小谷へ人質を指上皆降人となりにけり備前守対面して各本領無相違たまはれは降人の者共不斜悦て猶も忠義を可抽と心に掛けぬ者はなし爰に錦織何某二枝村の笠原木工落合か一党治部大輔か開退所の今浜の城へ入替り佐和山に楯籠る磯野伊予守門根の城に籠る堀能登守磯野山山本山の者共と県し合せ小谷勢を相さゝへ江南勢を呼出し一戦を遂くへきと思ひ定め永正十五年七月二日に近辺の浪人を相かたらひ其勢六百余騎にて楯籠る浅井郡坂田郡伊吹山辺の落人等承相共に取寵り其首尾よくは何方へなりとも身をかたつオープンアクセス NDLJP:67けはやと思ひ我もと馳集る程に城中忽八百余騎にそ成にける錦織壱岐守落合主税助笠原木工頭不斜悦ひ山本の城磯野の城へ内通して申遣しけるは浅井己か居城へ人数を引寄謀を廻し勝利を得る事度々なり今度は今浜を攻に来るへし其時は味方小勢なりといふとも途中へ打出相支へ可申其時は山本磯野より裏切したまふへし途中に引包可討取と内談堅くしめおき勇気をはけまし居たりけり
 
浅井今浜を攻る事
 
かくて浅井亮政は今浜の様子を聞き給ひて赤尾駿河守を大将として大橋安芸守伊部清兵衛尉海雨赤の三士の者共に被仰付其勢都合二千余騎今浜の城へ指向らる備前守も二千五百余騎にて山本山磯野山の間柳野村といふ所に鶴翼に備へて居給ふ是は両城より人数を出しなは可討取との儀なり去程に永正十五年七月九日に赤尾駿河守二千余騎にて押寄攻たまへは城中にも四方へ駆廻り防戦ふ大橋安芸守伊部清兵衛海雨赤の三士共四方にはやりて攻めけれは城中こらへかたく思ひ味方見次勢を待居けれとも山本磯野の両城を亮政押へおき給ふ門根佐和山両城の間には今井新庄今村小蘆打隔て居たりけれは一人も見次す城中難儀に及ひ京極殿へ手を入頼むにより京極殿より御詫言として若宮兵助を亮政陣所へ被仰越けれは亮政心得かたくはおもへとも京極殿中和のしるしに御意にしたかふへきと思ひ今浜の城を開退においては可助命と赤尾駿河守方へ被仰越けれは城中の者共人質を出し城を開退き高島郡へ落のきけり是も其年の暮に各皆立帰り亮政の幕下に属しけるかくて亮政は柳野村に陣を張給へとも山本磯野両城の者共出て向はされは同十四日に柳野村を引取給ふ処に為員件の大矢を以て射手五十人計城中より立出薬師堂といふ所の川を此方にひかへ指詰引詰射出しけれとも亮政事ともしたまはす敵は小勢なり其上川より向ひなるそ引取へしとのたまひて駒をはやめて引たまへは為員も跡におくれし兵五六人射取相引にひきにけりこれよりして山本磯野両城の者共浅井をかろく思ひ取勇気をはけます事限りなし
 
亮政宮沢を頼み為員を可討計略堀能登守降参の事
 
去程に亮政は今浜を攻取其上近辺の里侍幕下に属しけれは残り山本磯野佐和山門根四ケ所の城なれは先近所の山本磯野雨城を可攻と沙汰せられけれとも此両城には源三郎為員弓勢を頼みに思ひ諸勢堅固に城を守りけれはたやすく可落とも覚えされは源三郎為員を可討計略を廻し給けるこゝに雨森弥兵衛赤尾孫三郎は磯野近辺の案内よく覚え侍れは此者共に亮政密に語り給ひけるは磯野村山本村両郷近所にてかひしき郷侍一人此方の味方に可引入と宣へは二人の者共申けるは宮沢平三郎か甥右衛門大夫か為にも近き一門なり先年大森野にして相撲興行いたせし時平三郎弟忠左衛門尉か忰平八と申者いまだ幼少の身として磯野か若党と口論し出しける処に平八歴々の若党三人切て捨けるによりそれより一門中と不和になり磯野村を追払らはれ申により親忠左衛門尉と共に立退き熊野村と申所に浪人仕罷在候某共と忠左衛門尉といにしへは念比に語り申旨申けれは亮政聞給ひそれこそよき幸なれ成程ひそかに此者を呼出し可申と仰けれは承り候と申雨森弥兵衛赤尾孫三オープンアクセス NDLJP:68郎二人夜中に熊野村へしのひ行忠左衛門尉父子に対面し少しく頼み可申子細有り父子同心にて小谷へ今夜同道可申と語りけれは天はいかやうなる子細にて候そと尋けれはいやとよ別の儀にてこれなし貴殿父子亮政殿味方に頼み度と語りけれは忠左衛門尉承り我一家の者ににくまれ今かく流浪の身なれは願ふ所の幸なり亮政の御前可然頼むなり随分御奉公つとむへしといふ二人の者とも悦ひさあらは今宵同道すへしといひけれは夜中にいかゝと思案すれとも是非ともとすゝむるにより同七月十八日に雨森赤尾忠左衛門父子同道にて小谷へ来り其夜は赤尾か許に休息し翌朝備前守に右の次第申上けれは備前守悦ひて頓て対面す稍ありて亮政宣ひけるは某汝等父子に頼む儀有て呼出すなり此儀首尾せしめなは父子の者共に恩賞の地を大分に可遣と宣へは如斯罷出御奉公望む上は一命を指上置ぬ何にても被仰付なは其功を遂へしとて謹て申上る亮政重て仰けるは頼儀別の子細に候はす磯野山に楯籠る源三郎を可討謀なり彼者勇力を以て大すやきの上さしにて味方の兵進みかね度々陣を被破今まて磯野を落さす候間汝父子の者共は熊野村の郷人を頼み苅田の稲を積置に事よせて山本村の通路に焼草をつみをかせよ其方一左右次第に山本を攻むへし源三郎磯野山より大弓を鼻にかけ味方の陣へ駆いらん時味方よはとひかは押続て追かけ来るへし其時は山本の城中よりも切て出て戦はん又味方の陣所を少し引退かは敵猶も勇て追かくへし其時に汝等父子郷人と源三郎か後へ廻り焼草に火を放ち熊野村をも焼立は磯野山よりも右衛門大夫切て出働へし味方三方より引包み命を捨て戦ひなは磯野か兵悉く敗軍せんは必定なりもし源三郎一人ふみ留り働らかは遠矢にて射取へしと宣ひけれは此儀可然と一同し宮沢忠左衛門尉は子息平八によく軍の次第まめ置て熊野村へかへられけりかくて備前守は七月二十一日赤尾駿河守教政井口弾正大野木土佐守三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出在々の侍共を押寄攻給ふに皆降人となりて会釈す同月二十四日に門根村の城へ押寄たまふ堀能登守は子息遠江守に両家老の樋口三郎兵衛多良右近相添山口へ出向ひ可防と被申けれは遠江守三百計りにて打て出山口にてさゝへけりもとより双方山の切所なれは小勢なりと申せとも討破り可入様もなくして互に矢軍して居たりかゝりける所に浅井大和守は赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛いさなひ二百騎計りの勢にて敵の城取の後の山へしのひあかり山のかさより大石を落し込けれは城中驚き騒動する事夥し堀能登守は物馴れたる兵なれは走り廻りて下知しけるは味方の兵共大手樋口か陣へ加りて防へし後の敵に向ひ石にうたれて犬死すな又後敵かさよりおとし来り城を攻は其時は出向ひ可防敵近つかさる先に出向ひ石にうたるへからすとて追手の陣へ向ひける斯て一両日か間息をもくれすおめきさけんて攻けれは城中の兵残りすくなく落行く能登守今はかなはしと思ひ樋口多良を左右にして四百騎はかり真黒になり寄手の陣へ駆込敵を四方へ追払ひ城中へ引取門をかためて防きけれは亮政心に思ひ給ふやう此堀は江北にて久しき家其身も剛の者なれは討取事も不便なりと思ひ給ひ今井肥前守新庄駿河守被仰付噯を入給へは堀は不斜悦ひて子息小次郎を人質に出し我身は一門召具オープンアクセス NDLJP:69し備前守殿の御前に伺候し御礼申上以後忠節をはけますへしと悦ふ事限りなし備前守は其近辺の仕置等今井肥前守新庄駿河守に被仰付則堀には本領無相違給はり佐和山表へ重て可攻寄とて同二十七日に小谷に帰城したまひけり
 
亮政軍評定高島郡退治の事
 
浅井備前守坂田郡を悉討したかへ指上る所の人質共僉議有りて大野木土佐守三田村左衛門大夫両人に預け給ふかくて物頭の面々を近付軍評定したまひけるは犬上の郡佐和山の城は先年より攻難き城なり殊に員吉近辺の諸浪人を集め人数もあまた籠る旨聞えたり同郡高宮の城には高宮三河守久徳左近大夫龍るといへとも小勢なれは攻易かるへし然りといへとも佐和山を残し置攻る事もいかゝなり伊香郡磯野山本両城は小勢にて籠ると雖とも為員矢先にて味方多く損害に及ふへし急に攻る事成かたし其上熊野村の浪人宮沢忠左衛門尉父子に両城おとす計畧堅くしめし置けは此者一左右を相待へし兎角高島郡を可攻取と宣へは列座の面々申上けるは高島は海上へたつといひ江南の領分志賀の郡につゝきたる所なれは弓毛も馬手も皆敵なれは如何可御座やと同音に申亮政重て宣ふはいや其儀にあらす江南定頼以の外煩出し義実義賢も前後に相詰の由伝へ聞えたり志賀の郡の者共も替る観音城へ相詰のよし慥に聞伝へ侍へれは此節こそ好き幸ひなり高島を攻取なはたとへ押寄不討取とも磯野山本はむしおとしに落すへきなりとのたまへは尤其儀可然と同しけりさて赤尾駿河守を大将に定め給ふ相従ふ人々には坂田郡の降人共堀能登守頼真今井肥前守頼弘新庄駿河守基昭伊吹宮内少輔小室隼人上坂備中守小蘆宮内大輔神田孫八郎下坂甚太郎加野弥八郎今村掃部頭北方にては野村伯耆守同肥後守阿閉三河守子息万五郎中山五郎左衛門尉山崎源八郎西野丹波守東野左馬助平野左兵衛両先手は大橋安芸守伊部清兵衛と相定め都合其勢三千五百余騎永正十五年寅の八月四日に勢揃して船にて向へ渡るも有陸地を打て𪉩津越にかゝるもあり浅井郡海津の浦にて待合同十五日には海津近郷の郷侍共の在所へ押寄攻通れは一人も手こたへせす皆人質を出し味方に来れは同日の申の上刻に高島玄蕃楯籠る大溝の城へ三千五百余騎にて先遠取巻に押寄せけるか玄蕃此由見るよりも子息柏木木工助舎弟高島斎宮助は山口の浜手へ討て出寄手を防くへしと申けれは畏候とて其勢二百五十騎にて山口の浜道へ討て出支へけり寄手猛勢にて討破り駆通らんとせしか敵小勢なりと申ともさすかの難所を楯に取命を捨て防きけれは味方進みかねて見えけるに大橋安芸守は大溝の城の後の山へ人数を引上け鬨を噇と作れは大橋に先をせられけるよとおもひ伊部清兵衛身つから鑓をつ取木工助か備の中へ駆込は三百計真黒になり面もふらす突掛る木工助斎宮助はやりをの若武者なり伊部清兵衛も生死を三らぬ猪武者なれは火花をちらし時移るまて戦ひけるか味方多勢にて引包て戦へは木工助は中山五郎左衛門と鑓を合せたるか遂に中山討勝つ斎宮助は山崎源八郎討取る此所にて高島か兵三十五騎枕をならへて討死すかくて後の山へ向ひし大橋安芸守阿閉三河守野村伯耆守同肥後守西野丹波守小蘆宮内大輔なと城の惣構まて攻寄ける浜手へ向ひし兵共は大将の首二ツ討取り其上敵多く討取けオープンアクセス NDLJP:70れは勝にのり追手の門前迄乗込喚叫て攻たりけり玄蕃助は城の後の寄手を防き居たりけるか木工助斎宮助両人共に討死の由告来れば玄蕃助はいつまてなからふへき頓て冥途へ追付へし二人の子供といひすてゝ其勢百騎計にて追手の門を開き寄手の陣へ駆込蜘手十文字に働き向ふ敵二十九騎討取我勢を見渡せは三十騎計に成にけり其上我身も深手二三ケ所も負けれはかなはしと思ひ城の中へ駆入一門十四人並居て腹を切たりける此高島玄蕃といひし者は是も佐々木流にて心も剛なる者なりけるか先年治部大輔佐和山の合戦の砌も江北へも属せす又江南へもつかす此度京極入道の御廻文にも不随我かまゝをふるまひ知行を押領してゐたるゆゑ高島郡の諸侍ににくまれ申に依て加勢一人も来らす己か一家而己かゝる滅亡に及ふとて人皆是をにくみける斯て赤尾駿河守大溝の城を攻取不斜悦ひ諸勢大溝に三日休息しけりかゝりける処に伊黒の城の法泉坊深溝の城の玉林坊小松の城の小松内膳福島内匠真野の城の真野十郎左衛門尉木戸左太右衛門尉を先として内々首尾を以て浅井幕下に属し可申と存する上なれは我もと馳来り御詫言申上る駿河守は大橋安芸守伊部清兵衛尉に向ひ此儀如何可有と宣へは人質を出し今度御供仕小谷へ来るに於ては御詫ゆるし可有と申されけれは去あらは人質可取と被申各子息を人質に出し御礼に罷出るいたはしや俊孝軒は己か知行所新庄といふ所に居たりしか高島郡の諸土浅井に降参申不残味方に参る故今は頼むに便りなし俊孝といはれし者の又本城に立帰り子息対馬守と一所に籠るもはつかしとや思ひけん江南石​本マヽ​​□​​ ​のよしさねを頼み江南へ落行くさる程に赤尾駿河守数日も経さるに高島の郡退治して其郡の降人共を召具し同月二十六日に諸勢さゝめき渡りて小谷に帰り給ひ備前守殿に軍の次第降人の様子一々申上けれは備前守不斜悦ひ給ひ軍功遂一吟味し給ひ感状に領分を相添たまふもあり褒美はかりをたまふもあり夫々に賞を行ひ給ひけり
 
山本合戦附磯野為員討死の事
 
去程に山本の城浅見対馬守は磯野右衛門大夫か許へ来り密談して申けるは赤尾駿河守は高島郡へ働出しか大溝の城主高島か一家三人討捕高島一郡退治して諸勢小谷へ引取旨聞えたり近日此二ケ所の城へ押寄らるへし近辺悉浅井にしたかひ侍れは磯野山本両所として大軍を防く事も覚束なし此所を一先引退き犬上郡佐和山城へ立越へ伊予守員吉と一所に取籠り浅井勢を支へ置江南定頼卿の御出勢を待請可達本望はいかゝ候らんと申けれは右衛門太夫員詮承り仰尤に候此辺の侍共浅井に属しはべれは浅井を可討に無勢にてはかなふへからす犬上郡へ立越可然と決定すかゝりける処に右衛門大夫か嫡子源三郎為員進出て申けるは御意尤には御座候へとも元来浅井をそむき当城に楯籠るよりしては己れか居城を枕として討死したまひ可然奉存候江北の屋形唯今浅井か為に小谷の城にとらはれさせ給ふ上はたとへ戦は勝といふとも御運は何方にてひらき給ふへきやと申けれは右衛門大夫も源三郎にはつかしめられ我子なからも心底はつかしく思ひ汝がいふところも理あり兎角籠城せしむへきとそ申されける対馬守重て申しけるはいや左様にあらす一命を亡す事は誰しもやすく捨る也命全ふして敵を討を以て良将とは申候間しはらく此所を引き退くといふともオープンアクセス NDLJP:71何そはつかしめを被むるへきや是非ともとすゝむれは源三郎こたへて云く各は一旦此所を立のき味方の様子を御覧し候へ此為員は一人なり共当城に取籠り討死すへしと一筋に荒言すれは対馬守余りに蔑に云物かなと思へとも右衛門大夫心よく両人共に宥れは退く沙汰は止みにけり斯て籠城にきはまれは西川筋の所々をせき留其上に逆茂木を引寄て敵を待居けり又小谷の城には熊野村宮沢忠左衛門父子か合図を今やと相待所に忠左衛門尉熊野村阿閉村の郷人共を近付亮政より御頼候条相頼まるゝにおいては此所の公儀の年貢役等三年の間はゆるさるへきとの儀なり末々まてもよろしく有へきとひそかに語らひけれは御忠節可仕と同心して磯野より山本まての通路に稲場に藁を干置か如くして所々につみおけば忠左衛門尉時分よきと心得て小谷へ一左右申上る亮政此由聞たまひ諸勢に支度被仰付永正十五年九月八日三千五百余騎にて小谷を立其日の午の刻計の事なるに諸勢一手になり山本の城へ打向ふ山本磯野には是を見てすは亮政寄来るそ川を間にして可防とて射手共を揃へける以前は人数を二手に分ち指向け給ふか今度は山本山の城へはかり人数一所に向ひけれは磯野右衛門大夫千田伯耆守大森山へ討て出鶴翼に備を立たり山本山の城浅見対馬守は安養寺河内守熊谷弥次郎を先として其勢五百余騎山の麓へ下り備へたり寄手の大勢川端まて押寄けれとも水高うして滄海の様になり可渡やうもなくしはらく猶予して居たりけれは亮政は大橋伊部に向ひて下知し給ふは川尻へ人数を廻しせき切おとせと宣へは承候と申て五百計の勢川のすそへ行せき切りれとさんとせし処を山本勢是を見て山の高みより指詰引詰射たりけれは伊部大橋も進みかねてそいたりけり阿閉三河守西野丹波守は在所近ければ両人其勢百五六十人伊部大橋か防矢を射る内に川せき切ておとしけりさしも深かりし山本川忽ち徒にて渡れる程にそなりにけるそれよりして味方三千五百余騎山を四方に廻り鬨を作りかけ一日一夜か間は息をもくれす攻たりけるかくて城中の者共防きくたひれ磯野山へ加勢被出候へと申遣けれは右衛門大夫千田伯耆守宮沢平三郎横山大和守同越前守布施次郎左衛門尉山の尾通りを討て片山坂のこなた西野山へさしむかふ磯野源三郎千田帯刀森勘解由は射手わつか百六十騎計にて本道を馬煙をたてゝ馳来る亮政御覧してやよいかに兵共為員か己か弓勢にほこりて小勢にて味方の後へまはるそあれ討とめて高名せよと宣へは我もと駆向ふ源三郎是を見て五人張に十六束さしつめ引つめ射たりけれは味方の兵遠矢なりといへとも六七人射たほされて死たりけれは進みかねてそ見えにける源三郎云やう千田殿いさや浅井か勢を射ちらし山本勢に力を付へしと申けれはそれ可然候とて百五十計の兵くつはみをならへて馳来る亮政見給ひて究竟の射手百計双方へたてわけて矢前を揃へて射させられけれは為員進出てにつくき寄手の奴原かなそも為員か矢前に駆ふさかり可防者は異国を見ねはいさしらす本朝に於ひては覚えなし其陣ひけと荒言す浅井大和守聞かねて此方にひかへて貴殿を待は浅井大和守にて候源三郎為員に見参申さんと名乗ける為員是を聞さすかにわたらせ給ふも断なり亮政の御舎弟なるか我等か為にも似合たる敵なるそ其陣引給ふなといふまゝに件の大矢を以て其間五段許の間にて指詰引オープンアクセス NDLJP:72詰射駆けれは大和守もかねて巧みし事なれは一町計さつとひく為員勝に乗いつくまても御供申へくとて追懸る今村掃部赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛二百騎計にて馳来り源三郎をあはし支へけるか源三郎向ふ敵数十人射落しけれは味方こらへすして又一町計引退く源三郎手立にて引とはまらすして熊野村を後にして五町計深入す宮沢忠左衛門尉子息平八時分はよきと心得へ郷人二十人計相したかへ源三郎か後へまはり彼焼草に火をかけ熊野村へ走込四方より火をかくれは亮政は旗本を崩し一千計鬨を噇と作り面も不振切て掛らせ給ふ源三郎は一足も不引矢種ををします射たりけるか矢種つくれは弓をからりと打すて三尺八寸の太刀を真向にかさし四方八面に働き手本に進む兵忽ち六人切捨て我か身も矢疵二ケ所負けれとも少もひるます戦ふたり宮沢忠左衛門尉源三郎に渡し合せ名乗けるは為員殿汝一家に久しくひつめられ勇気も少し衰ろへしか亮政にたのまれ貴殿にかくはむかふなり日比の遺恨散せんと太刀を合せしはし戦ふと見えしか為員忠左衛門尉か大腰すんとなきすつる子息平八透間もなく突かゝれは為員につこと笑ひやさしやな平八我等と勝負を望むかとて件の太刀にて働きけるか平八父か敵なれは思ひ切て突けるを為員うけはつせは馬手の脇より弓手の脇つほまて一文字に突とほす平八突たる鑓をすて走りかゝり首をかゝんとせし処に為員つかれし鑓をかせにしてかなたこなたと働け共次第に弱れは平八終に討勝無難首をそ取たりける平八為員か首を太刀の先につらぬき大音あけて名乗けるは江北にて鬼神といはれし磯野源三郎為員をは宮沢平八只一鑓にしとめたり是々御覧候へとさもゆゝしく名乗味方の陣へ駆込は敵も味方も是を聞き江北にての勇力大剛一の為員を討取事を合戦の習ひとは申せ共不便さよとて惜まぬ者はなかりけり此平八と申せしは為員か為にも再従兄弟にて一門なり後伊予守か家を続磯野丹波守員正と名乗佐和山の城を預りしか猶も軍功かさなりけりかくて其日も暮に及へは九月十日の合戦は為員を討取たるにそやみにける
 
山本山の城の者共降参磯野の城開退の事
 
同十日の事なるに磯野右衛門大夫は子息為員討れたるよしを聞片山坂を下りに熊野村へ手勢百騎計にて討おろさんとせし処へ野村伯耆守同肥後守小蘆宮内大輔なと駆へたゝり火花を散して戦へは右衛門大夫小蘆手へ駆入命を捨て戦ひけるに終に小蘆戦ひまけ右衛門大夫に討取られけり然るところに両野村磯野か勢を引つゝみしはしか間戦ひしか終に勝負もなくして双方へ相引に引のき備を立て居たりけるを浅井本陣より使番を以て人数を山本村へ可引取旨被仰越けれは野村は山本さして引取けれは磯野可働様もなくして磯野を指して引揚けるかくて山本山の城には頼むところの源三郎為員は討死なし楯籠る所の兵共も心々になり行は浅見対馬守兄弟安養寺河内守熊谷弥次郎同新次郎一所に集り評議しけるは為員討れし上は明日にもならは寄手四方より込入るへし江南定頼も此ころは御病気にて御出張有へからす然る上は味方頼む所の便りなし籠城堅固に守るといふとも味方残りすくなく可討兎角浅井に降参して所領相続せしむへきとおもひ阿閉三河守を頼み詫言可申上と相談一図に極りけれは列座の者共よろしく可御座候とて九月十一日に阿閉三河守か許オープンアクセス NDLJP:73へ右の旨委く申入る阿閉頓て亮政へ右の段申上れは亮政聞給ひて城を開き渡し小谷へ相詰以来忠節をはけますにおいては本領無相違可遣旨のたまふ阿閉此由を山本山の城へ申つかはす城中大ひに悦ひ磯野の城へ一左右なくてはかなはしと思ひ磯野の城へ対馬守か方より申越されけれは右衛門大夫大に驚き夜の中に城を開退き己か知行所唐川村へそ落にける磯野の城それより大に騒動し思ひに立退けりかくて浅見対馬守安養寺河内守熊谷弥次郎同新次郎は備前守殿へ降人となり御礼申上けれは亮政対面して宣ひけるは磯野の城の者共も城を開退と聞えたるなり其方共随分さかし出すへし此方へ味方に来り以来忠節をはけますに於ては本領無相違遣候条其段申聞せ具して可参と被仰けれは畏候と請をそ申けるそれより亮政は山本山の城へ登り給ひ近辺の様子見計ひ先当分のしまりとして山本山の城には赤尾駿河守教政磯野山の城には大橋安芸守秀元を入置給ひ小谷へ諸勢引取給ふ其後十日計も過き対馬守は右衛門大夫隠家へ行種々に宥めけれは次男源十郎宮沢平三郎森勘解由共に亮政へ御礼申亮政対面して汝等来る事満足なり併源三郎諸共に味方に来りなは汝等もこゝろよく我等も重宝に可存所に合戦の習ひ不是非為員を討取事不便なりと被仰けれは右衛門大夫是に力を得て源三郎か儀被仰出事且又我等を今かく被召出事共誠に有難き次第なりと被討たる子息為員か事はわすれ大将一言の御情御恩報し難しとて悦ふ事限りなし千田伯耆守父子三人布施次郎左衛門尉横山大和守同越前守は安養寺河内守召具して亮政へ御礼申上るかくていつれも本領給はれは誠に亮政は仁義を専にして文武を備へたる大将なりとなひかぬ者はなかりけり山本磯野悉く降参し伊香郡高島郡坂田郡平均に治まれは浅井殿の威勢日々に益々盛なり
 
浅井三代記第七終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。