浅井三代記/第五
去程に先日三日の夜の軍竟て後江北の武士ともおのれ〳〵の居舘へ取籠り居たりけるか浅井度々大軍を破り剰上坂掃部頭同八郎右衛門尉を討取けれは各したしき中と寄合浅井に心をかたむける者多かりけり爰に浅見入道俊孝此事を聞出し上平殿へ伺候して家老の者共と打寄評定して申けるは江北の大名分の内にも去る三日の敗軍の後は浅井に心をかよはする者数多有之候由風聞す時刻移りなは御家の大事なるへしいかゝ有へきと申けれは多賀新左衛門尉大津弾正申けるは近日勢を催し今度は小谷の後大嵩をもみ落し高みより大軍を以て一もみもんて見んと申ける黒田甚四郎若宮兵助申けるは大津殿多賀殿申さるゝ処も理有へく候へとも浅井大軍を追払ひ勝に乗たる兵なれは一刻に攻落す事も覚束なし其上勇気にほこりたる兵共なれは此方へ寄来る事も可㆑有かと申けれは俊孝聞て自然寄なは幸なり待うけ四方より引つゝみやす〳〵と討取へし併浅井と申兵は左様なる軍立にては無㆑之候江北の侍共三分一も彼に組せすんは他所へ出働事はあるまし今度は御合戦なさるれは大軍を以て四方七重に取巻一刻攻にせめらるへし延々に攻なは味方のすきをうかゝひ智略を以て又勝利を得へきなり兎角此度の事なれは江南佐々木定頼を頼み給ひ両旗にて攻らるへしとそ申ける六人の家老共は承尤いにしへは御兄弟の別にて御座あれと此近年は敵味方と色を立国を争ふ折なれは今更六角殿を頼む事もいかゝ候らんと申せとも俊孝重て申けるは各被㆑【 NDLJP:48】仰処も尤には候へとも京極家の大事今此時なれは先々頼みて見給へと再三に及ふ各これに一同して利角斎に申上けれは何れも宜く計らへとの御意にて評議決定し多賀新右衛門尉河瀬壱岐守両使にて佐々木殿の御内なる平井加賀守三雲新左衛門尉か許へ参扣して申入けるは京極殿の家人浅井新三郎亮政と申者逆心を企て小谷山に楯籠りしを味方大軍を以て取囲候処に味方の若者共亮政に被計多勢忽に討破られ悉く敗北仕候誠に以て無㆓面目㆒次第にて御座候彼者をゆるかせに仕置候はゝ国の騒動難止候条頓て押寄可攻と存候間御加勢を頼上度存候と京極仰の口上細に申上ける平井三雲は定頼卿の御前に伺候して此旨申上けれは旗頭の者共を被㆓召集㆒此儀いかゝあるへきと相談をとけ給ふ家老の面々承申上けるは京極入道環山寺殿御名代として上坂泰貞入道此方の御勢と度々合戦に及ひ其上にて互に国分を定め中和被成候てより軍やみけるに今江北乱るゝ事幸なり京極の家滅せは江州一国御手に可㆑入儀珍重なり御加勢は御無用たるへしと申者多かりけり中にも進藤山城守後藤但馬守二人進み出て申上けるは京極殿はいにしへ御兄弟の御別れの儀を思召出して当家を御頼み候事江南家の面目なり殊に両家か中一家眼前にて浅井に討れん事他国の嘲いかゝなり京極の家御再興被㆑遊可㆑然とそ申ける定頼卿両藤か申分神妙なり然らは京極よりの使節を召と有けれは両人の使節観音城に登城す定頼対面まし〳〵て此比合戦の次第御尋有けれは使節の者共一々申上るかくて定頼卿よりは進藤後藤伊庭三人を大将として何時成とも一左右次第に御加勢可㆑被㆑成由議定候て京極の両使に無束十郎右衛門尉相添てかへし給ふ両使伊吹の上平に至て観音城の始尾申上けれは京極殿不㆑斜悦て則観音城の使節に対面あり善をつくし美をつくしてのもてなし也京極宣ひけるは加勢を請ひ奉る処に早速加勢可㆑賜旨誠に以過分の次第なりとて無東を高宮まて馬上二十人に被㆓仰付㆒送りてかへし給ひけるかくて此度は南北両家の勢を以て浅井攻討可㆑申とて利角斎をはしめ上下勇て悦ひけり
浅井新三郎私に備前守となる事 去程に浅井一家会合して申けるは今度京極殿数千の御勢を以て被㆓取囲㆒候処に亮政手立宜き故悉追払ひ剰歴々の旗頭共討取候事弓矢取ての面目なり其上此功近国他国まて伝り候へきに其大将の新三郎なとと名乗給はん事あまりかる〳〵しく存候間何れの御国名成とも下にて私に御受領被㆑成可㆑然存候旨申けれは新三郎聞給ひ上より御ゆるしも不㆑受して受領なとゝいふ事は天のとかめも恐あり先新三郎にて可㆑有㆑之旨を宣へは大野木三田村重て申けるは仰御尤には候へとも下にて国名を付たる其例多く御座候追付国治りなは其時参内被㆑成候て御ゆるしを申下し給ふへし是非ともにと申けれはさあらは先舎兄新次郎教政の名を改むへしとて則字をもかへ給ひ赤尾駿河守教政と改る我身は浅井備前守亮政と改る此備前守を近江にては故備前守殿と申其故は浅井三代目備前守長政と申有之に付故の字を加へて申けり三男浅井新助政信を大和守に改大橋善次郎を安芸守利為とそ申ける如㆑此名替有て御内外様の者共まて召集め一日の酒宴幾千代まてとの祝言目出たかりける事ともなりかくて浅井備前字亮政城中の物頭衆被㆓召寄㆒宣ひけるは上平には此中江南佐々木定頼卿を御頼【 NDLJP:49】有て両旗にて猛勢を率し近日可攻との企のよし風聞す定て各も聞給ふらん今度は如何可㆑有との評定なり大橋安芸守伊部清兵衛尉阿閉三河守海北善右衛門尉四人の者同音に申けるは以前のことく当城を堅固にかため置其内に敵の気を御計り被成又切て出追散し候はんに何の子細の可㆑有㆓御座㆒と申けれは備前守聞たまひていや〳〵其儀にあらす以前の謀も不㆑違か今は寄手も段々に手立をし味方顔出しもさせさるやうにたくむへし今度は味方に勢少くくはかり二千騎計もこれあるなり二千の勢を三百赤尾駿河守に付城中に残し千七百騎矢島村へ討出野合にて可㆑働海北赤尾は三百にて先へ出し我等千騎にて備へ大橋伊部二百にて引かくさせ大野木三田村二百にて脇に備を立置野合にて一手立せんと被㆑申けれは各是に同しける中にも大野木三田村二人進出て被㆑申けるは手立は宜しく御座候はんすれ共去なから上平京極殿さへ江南佐々木を御頼み被㆑成勢を引出し給ふと聞えたり此方にも越前の国司朝倉貞景を御頼み被㆑成御加勢を請給ふへしさためて御加勢あるへきなり越前勢を同勢にして六角京極両旗本の勢追払ん事何の子細の候へきと手に取様に申けれは各いしくも申さるゝ者かな尤可㆑然とて満座同意に心をかたふけけれは備前守此旨を聞宣ひけるは大野木三田村申さるゝ処も可㆑有候へとも我度々の合戦に討勝其名をあらはす処に今佐々木京極両旗向ふにおそれ無㆓甲斐㆒朝倉を頼み軍をするも無念なりとかく二千の勢にて可㆑働とそ申されける列座の面々申けるは御意御尤至極仕候へとも如何様にも智略を廻し大敵をほろほすを以て文武二道の良将とは申なり是非朝倉を御頼被遊候て御覧せられよと再三申上けれはさあらは各相計らはれ候へと宣ひけれは兄にて渡らせ給ひし赤尾駿河守に木村甚七郎を相添越前への使節にそ相極りける 浅井備前守越前朝倉貞景に加勢を請事 かくて赤尾駿河守教政木村甚七郎永正十四年七月二十一日に小谷を立て美濃の山道越に忍ひ行越前国大野郡へ出てけるか内々より朝倉掃部頭魚住玄蕃助に内縁ありけれは此両人か許へたより申入けるは上坂兄弟の者共無道なる者共なれは両人か城を追立しかのみならす度々軍打勝江北小谷山に楯籠候処京極入道利角斎数千騎を引率し取巻たまふに亮政千三百余騎にて取籠り智略を以て大軍悉討破り首数多討取遂㆓本望㆒といへとも佐々木京極より江南佐々木六角を頼み候て近日両旗を以て数万の軍兵を率し当城を可㆓攻落㆒の旨決定仕候然れは我等小勢を以て大軍を破るにたえすあはれ朝倉の御太刀影を蒙り本望を遂申度の条偏に奉㆑願候間御取成願上るの由申入けれは掃部玄蕃右の意旨委曲承やかて登城して朝倉殿へ申上る家老の面々をめされ如何可有との僉議なり朝倉修理同式部大輔申けるは浅井と申者治部大輔に付えたかひ泰貞斎相果しより逆心を企て治部大輔兵庫頭両人追払ひ上坂今浜を乗取私にほこり我まゝを振舞により京極殿退治被㆑成度旨尤なり浅井今身のたゝすみのなき故越前よりの加勢を頼むなり御人数を被㆑遣候事勿体なき御事なり殊更国を隔てゝの加勢六角京極に追立られは御家の悪名なりと申せは貞景を初列座尤と思案すかゝりける所に朝倉太郎左衛門尉進み出て申けるは各評議承候に某は一円同心に存せす浅井は公卿三【 NDLJP:50】条の末流今まて流浪して居たりけるに時に至て図に当れは大剛を思ひ立去年当年度々の合戦に討勝小勢にて小谷山へ取籠り勇気をはけます事古今にすくれたる名人なり彼者朝倉の家を頼もしく存今血刀をふり走込候処を無下にかなふましきと被仰候においては弓矢の道は長くすたり近国他国まても笑草と成給ふへし其上只今御加勢有て彼浅井を御取立給はは其恩をわするゝ事はあるまし当家に自然の大事も出来なは浅井一番に馳参し御先を可㆑仕又江北は当国と打続く国なれは中睦敷こそ望む所なれ他国に御味方一人持事末頼もしき事也是非御加勢被遺へくと申されける貞景聞給ひ太郎左衛門尉被㆑申所尤なりさあらは誰を大将に可遣と有けれは仰にて候はゝ年罷寄て候へとも我等罷越佐々木六角佐々木京極両旗にて向ふといふとも悉く追払ひ浅井に本望を遂させすんは二度当国へは帰るましき物をとそ申されけれは貞景宣ひけるは太郎左衛門尉例の荒言かなと笑みをふくませたまひけるかくて使節赤尾駿河守木村甚七郎を貞景の前へめされ対面ありて備前守への返事には加勢の儀何時なりとも一左右次第に我等名代に朝倉太郎左衛門尉を可被遣旨御返事有けれは両人は不㆑斜よろこひて小谷に帰り越前にての次第一々備則守に語けれは近習外様の者まても色をなほしてよろこひける 京極殿江南勢を引率し小谷へ押寄給ふ事 かくて京極三郎入道利角斎同九月十九日に江北中の武士悉人数揃へし給ひて江南佐々木六角殿へ宣ひ被㆑遣けるは今月二十一日に小谷へ押寄せ備前守亮政を討取可㆑申と存候条御加勢被㆑成可㆑被㆑下旨被㆓仰遣㆒けれは後藤但馬守進藤山城守を大将として江北へ仰付らるゝ人々には平井加賀守三雲新左衛門尉小倉将監奈良崎源五左衛門三上外記吉田安芸守馬淵大賀を宗徒の大将として其勢都合七千余騎矢島野に着陣す江北勢都合八千余騎南北其勢一万五千余騎小谷の城へ押寄ける其日江北軍奉行は浅見俊孝軒磯野伊予守なり後藤但馬守俊孝に向ひ申されけるは江南の勢は荒手に候へは小谷を荒攻可仕と望みけれは俊孝承誠に宜敷仰にては御座候へとも江北の者共に一もみもませて其後御勢を被㆓入替㆒可㆑然と申けれは是非一番に可㆑攻と申けれとも俊孝何とか思ひけん其旨をゆるさすしていや〳〵左様の儀にあらす浅井は智謀の達せしものなれは何方へ勢を廻し置後より切て駆る事もしれす後備大事に候間後に備給ひ敵後より廻らは討取給へ左なくは味方つかれ候間御入替頼むなりと申けれは後藤此儀をうけ後備丁野表に備を立る寄手小谷四方に廻るとひとしく合図の鐘をならし鬨を一時にあくれは天地俄に震動して大山も崩れて湖海に入かと夥しくそ聞えし城中には時の声をもあけす役所〳〵の持口を堅めまつまりかへりて居たりけれは寄手の者共も又謀や有らんとて進みかねて見えけるを浅見俊孝上坂修理亮四方田彦七郎三人の者共浮武者となり走り廻りて下知すれは城中よりも矢先を揃へて防きける 越前朝倉太郎左衛門尉江北小谷へ加勢の事 かくて浅井備前守亮政越前に使節を以て申入られけるは今月二十一日より江南江北数万の軍兵を引率し当城小谷山を稲麻竹葦の如くに取囲み候条御加勢を頼上候よし木村甚七郎を【 NDLJP:51】して申遣けれと朝倉太郎左衛門尉兼て用意の上なれは此一左右聞とひとしく八千余騎を引率し永正十四年九月二十七日に江北椿坂柳ケ瀬に着陣し諸軍勢に申付られけるは先へ見え渡りたる山々へ物頭を相添一千二千つゝ段々によちのほりまはらに勢を押へしと申されけれは先一番に龍門寺千騎にて東野村の東の山へ打あくる前波彦右衛門尉千騎にて池原山へ取のほる黒田山賤嵩山へは魚住立蕃二千余騎にて一番備より先へ打て人数をくり出すはや先勢は木の本山田部山まて満々たり是は敵方へ多勢引続くと見せん為の備と聞えたり六角勢此由を見て浅井は朝倉を頼み加勢あると見えたり猛勢雲霞の如く馳寄るとて色めき立てそさはきける浅見俊孝駒をはやめて馳来り後藤但馬守にむかひて申けるは越前より浅井に加勢して人数少々坂口木の本辺に見ゆるよし物見の者共申来り候間江北の者とも某同道由井の口田部両郷の内にて朝倉勢を支へ可㆑申候間江南の御人数を入替へられ小谷を攻給へと申けれと後藤承りいや〳〵京極殿の御人数は其儘小谷を攻たまふへし我等朝倉勢を可㆑防と申けれは俊孝聞ていやとよ其儀にあらす江北の武士共我住所に候へは駆引場所の地案内をよく存候江南の御衆は御無案内の地なれは是非入かへてたへと有けれと進藤後藤円心せす其間にはや朝倉勢むらかり井の口辺まて前勢旗をなひかせ来れは俊孝力及はすして京極の旗本へ参り江南勢ははや引色に見に申候間様子御覧し御引取なさるへし御前なる人々能々守護し申されよ我々父子磯野か一家千田横山を同道して朝倉勢さゝへんとて千三百騎にて田川と申川小谷の間に有けるを前にあてひかへて敵を待にけりかくて太郎左衛門尉物見を出し小谷の近辺を見せけれは立帰申けるは両旗本殊の外騒動仕候と申せはさあらは先手より操出せと申けれは馬上山へ人数を打あけんとすれは六角勢是を見て一支もさゝへすして引取虎御前山へ取登り備て一戦すへきとせしを龍門寺前波彦右衛門は是を見ていさみにいさんて進みける小谷を攻る江北勢色めき立て騒動す上坂修理亮四方田彦七郎是を見てきたなき人々のありさまかなとて引返し備を立一合戦すへしと下知すれと耳にも更に聞入す右往左往に周章けれは城中には時分今と心得て備前守二千余騎にて鬨を噇とあけ門をひらき切て出る朝倉勢も城中より切て出るを見るより喚叫て磯野か備たる田川表へ切てかゝる為員例の大弓にてむかひ来るを幸と朝倉勢の歴々五六騎矢庭に射落せは朝倉勢是におそれ猶予して居たりけるを朝倉掃部頭龍門寺なと大音あけてかゝれ〳〵と下知すれは入みたれ戦ひける浅見俊孝軒子息対馬守安養寺河内守磯野右衛門大夫子息源三郎磯野伊予守千田伯耆守子息帯刀同弥九郎横山大和守同肥後守命もをします戦へは朝倉勢あはしか間はさゝへしか江南勢虎御前山へ取のほり備を立んとせしを越前魚住玄蕃丁野川原へおし廻り進藤勢にひしと付すき間をあらせす戦へは浅見磯野安養守千田横山かなはしとや思ひけん向ふ敵を追払ひ駒をはやめて落にけりそれよりして朝倉勢は江南勢を中道筋へ追討に討浅井は京極旗本勢を上道筋へ追討に討浅井京極勢を二百三十二討取けれは味方も五十一騎討れにけり朝倉勢は江南江北両方にて首三百八十討取けれは朝倉勢も六十七騎討れにけりかくて朝倉勢は其日は横山に陣取浅井勢は春照寺村に陣取て人馬を休めて居たりけるか翌日【 NDLJP:52】上平へ押寄へきに議定してそ居給ひける誠に六角勢一戦もとけすして見くるしき敗北かなと後日に至るまて笑ひける其時蹈返し戦ひなはかほとに多くうたれましきものをと申さぬ者はなかりけり 京極殿備前守と和睦朝倉と浅井対面の事 去程に朝倉勢勇みにいさんて六角勢をしたひ行程に今浜辺まて追討に討取それより人数を引かへし観音坂横山に陣取浅井か勢は春照寺村まて京極勢をしたひ行春照寺村に陣取九月晦日の事なるに日も漸々黄昏に及へは其夜はそこに陣取翌日越前の陣所へ浅井大和守を使として上平へ押寄給ふへき旨申遣す備前守も上平へ人数くり出し京極城郭を幾重ともなく取巻は朝倉勢も伊吹の麓に勢を立ならへ一刻にもみ落すへきとしたりけれは城中には昨日味方敗北に及ひ皆ちり〳〵に落うせ其上旗頭の面々も上平へ取籠る事かなひかたくして方々へ敗軍せし上無勢籠城かなひかたしとて以の外驚き京極殿より浅井備前守方陣へ大津弾正忠河瀬壱岐守を以詫言被仰入けるは此比数度人数を寄相戦ひけるといへとも終に不㆑得㆓勝利㆒今如㆑此に罷成事面目もなき次第なり然る上は其方江北の守護所となり某を先年上坂入道泰貞斎致置候通に閑居分にいたし置候はゝ可㆑為㆓満足㆒旨被㆓仰越㆒けれは亮政承両使に対面して宣ひけるは某全く私用私欲をかまへ逆心を企るにては無御座候御一家にては候へとも上坂治部大輔同兵庫頭泰貞斎入道相果数日も不経に我まゝを振舞罪なき国民を多く損害し国穏かならす其上仮初の出仕をいたす侍共にさへ対面もなく武士の道長くすたり当国他家へ渡り可申事を歎き此両人の衆を追立申処に屋形大きに怒せ給ひ人数を寄らるゝ事御不覚にて御座候且又我先祖洛陽より流浪いたし参候処に当屋形の御先祖京極大膳大夫持清より丁野一箇所給はりて其耻辱を隠置事御恩賞も深かりき然れとも時にしたかへは泰貞斎に幼少の時より被㆓付置㆒随分忠功を遂けゝれと治部大輔兵庫頭にとほさけられ今かく逆意の様に罷成候へとも屋形へ対し少も逆心は不㆑存候間泰貞斎守護せしことく屋形に立置可㆑申諸事御隠居分にて御かまひあるまし江北の仕置は我等方より取行可㆑申候併今度我等につよく弓を引候者共国中を追払ひ可㆑申候問左様に御心得可㆑被㆑成とそ申されける大津河瀬承兎角中和調なはいか様にも宜相談可㆑仕と申に付備前守宣ふは其儀候はゝ上平殿よりも誓紙一通可㆑被㆑下我等も一通可㆑捧と両使へ申渡されけれは二人の者共承備前守いにしへを思ひ出され早速承引したまふ事誠に無我なる勇士なりとて備前守にいとまこひ上平殿に備前守口上の趣一々申上けれは京極殿をはしめ参らせ家老の面々もろともに悦ふ事はかきりなしやかて互に書状取かはし勢を小谷へ引揚け給ふ翌日十月二日朝倉勢浅井勢二千三千つゝ引分小谷近辺の小城共押寄〳〵攻けれは手答へするもの一人もなし勢の不向先にあけ退くも有詫言申立退くもあり誠に目もあてられぬ風情なりいたはしや孝俊は敵攻来らさる先に尾上の城を開き高島の知行所新庄へ落行けりかくて備前守陣中の取込ともいはす小谷の内に麁相にかり屋を取立朝倉太郎左衛門尉を請待し備前守対面したまひ宣ひけるは今度京極六角両旗を以て攻給ふ故既討死可㆑仕と覚悟仕候処に朝倉殿の御すくひ故助命仕候事【 NDLJP:53】且は貴殿御武勇達したるゆゑなり今御老体の身として早速是まて御出馬被成候故大敵を破る事御恩山を重ぬれは兎角申もおろかなりと慇懃にのたまへは太郎左衛門尉悦て誠に貴殿儀越前にて伝へ聞しより軍に功者なる御人なり一昨日の城出の時分誠に図に当り候故敵一支もさゝへす皆敗北仕候殊に仁儀を本とし給ふ故京極殿を可被取立との儀弥以神妙に存候と称美し給ひける小谷に中四日逗留有て昼夜軍物語なり金吾申されけるは此城今少引さかり候間大嵩の方へ二町計も引上られ築給はゝ敵取巻候とも攻入事成かたかるへしと申さるゝに付其後城を引上け築直し給ひけり太郎左衛門尉居給ふ処を今に至るまて金吾嵩と申候てこれありかくて太郎左衛門尉申されけるは我越前より加勢申候次手に近所の城持共を貴殿と某との人数を二手に分ち押寄〳〵攻取へきと有けれは備前守も多勢永々留置事も遠慮と思ひ候又京極殿と中和の上なれは江北の諸侍共降参すへきとおもはるゝか此度は先貴殿の御人数は越前へ被㆑入給ふへし重て大事出来せは頼み可㆑申と申されけれは金吾も京極和睦の事なれは江北は可㆑治と思ひ其儀にて候はゝ先人数を可㆓引取㆒とて同月七日に人数を越前へ可㆓引入㆒と互に暇乞したまへは小谷の城より二里北木の本まて備前守見送り給ひけり太郎左衛門尉越前に至て貞景へ江北にての軍の次第被㆓申上㆒けれは朝倉の面目是に過しとよろこひ給ふ太郎左衛門申されけるは浅井はあつはれ能き武士なり今度御加勢被㆑成彼に本望を遂させ小谷の城に居候儀末頼もしき事に御座候浅井に先駆させ江南佐々木を追払ひ天下に御旗あけ給へと有けれは列座の諸士同音に勇みをなさぬ者はあらさりけり 浅井備前守上平殿へ御礼申上る事 かくて京極入道利角斎家老の面々を召て宣ひけるは今度多人数を引率し浅井を攻といへとも一度も勝利を得す剰へ浅井に手を下け降参に及ふ事無㆓面目㆒次第なり併浅井早速同心いたし京極の家業相続可㆑仕の旨祝着の事なり彼者の心を宥んか為此方より家老の者一人差遣し先日は早速人数を引揚け満足申段可㆓申入㆒は如何にと被㆓仰出㆒けれは尤可㆑然存候其上江北の大名小名流浪いたしあはれなる次第にて御座候条彼者共を浅井に能々被㆓仰入㆒本領安堵仕候様に被㆑遊候はゝ尤に存候と申上けれはさあらは浅井へ使節可㆑遣とて多賀新右衛門尉黒田甚四郎両使にて京極殿より浅井か方へ被㆓仰下㆒候は今度一戦に及ふの処に此方軍大に敗るゝに付和睦を請申候処に早速同心申され剰京極の家を守り江北の成敗可㆑仕の旨一入神妙の至りに存候自今以後は弥頼入度との由被㆓仰下㆒けれは浅井備前守両使を小谷へ請待仕善つくし美つくし馳走尤夥し浅井京極殿の仰謹て承冥加不㆑浅思ひ満足する事かきりなしやかて御請申上両使見送り返しける翌日十月十二日備前守は三田村左衛門大夫大野木土佐守赤尾駿河守三人を小谷に残し置大橋安芸守伊部清兵衛尉海北善右衛門尉赤尾孫三郎彼等四人を召具し上平殿へ参上申大津弾正を以案内申上けれは京極殿は聞召備前守早速是まて参らるゝ事神妙の至なりとて急き対面まし〳〵て今度は早速人数を引取和睦無㆓残所㆒忠義なりと宣へは備前守御意添奉㆑存候私儀御家へ対し少も不忠なる事可㆑仕にては無㆓御座㆒候へとも弓馬の道の習ひにて一両年の間は争事御免可㆑被㆑下以来は御意を承江北六郡の【 NDLJP:54】仕置可㆓申付㆒と被㆓申上㆒けれは家老の面々承り古へを被㆑存加様に申上らるゝ事古今稀なる次第なり向後よりは貴殿存知のまゝに仕置等可被申付とそ申ける備前守重て申上られけるは江北の諸士中追払ふへき者共多し其上に敵対申におひては押寄可討取とそ申されけれは京極家老の面々承貴殿の御所存尤に候へとも今日は敵となり明日は味方となるも是皆乱国の習なれは降参仕候はゝ可㆑有㆓赦免㆒京極の家を其まゝ被㆓立置㆒の上は郷侍の者共も旧家にて候へは赦免候へと宥ける其日は上平にて御馳走有て翌朝小谷へ帰城したまひけれは京極和睦の上なれは江北の諸士内縁を以て我も〳〵と降参す先第一番に東野左馬助舎弟平野左兵衛井の口弾正少弼西野丹波守野村伯耆守同肥後守錦織周防守今村掃部頭片桐右馬允山田か一党大宇右近大夫山崎源八郎雨森主計中山五郎左衛門高野瀬修理亮彼等を降人のはしめとして我も〳〵と小谷の城へ馳参して備前守に降参して各幕下に属せしなり中にも降参せさる者亦多し此の次第後に記すへし 浅井備前守亮政越前に参朝倉殿へ御礼申上る事 去程に備前守は家臣共を召寄て相談して申されけるは我等今度既京極六角両将の為にうたるへきの処に越前朝倉殿加勢候故猛勢を追払ひ江北六郡の内二郡半手に入相残る敵共をたのれ〳〵か在所へ追込置候ぬ是も追付可㆓切取㆒さなくとも自からに降参し可㆑来儀是皆朝倉殿の御恩なり急き越前へ罷越先一礼可㆓申上㆒と存なりいかゝ候らんと宣へは列座の面々承仰御尤には御座候へとも唯今雪降に向ひて北国下向の儀覚束なし来春早々思召立給ひて可㆑然存候と申けれは備前守聞たまひ各の申さるゝ様も尤には候へとも来春迄は延引なり雪つもり候とも当月中に馬の足立さる程の事はよもあらし自然雪俄につもりなは中河内椿坂まての間へ人足を入雪をふみわけさすへし是非に当年中に可㆓思立㆒とのたまひて永正十四年十一月三日に大橋安芸守伊部清兵衛尉浅井大和守阿閉三河守四人を大将として今度降人と成来候者共を相添小谷の留主を被㆓仰付㆒我身は兄にて渡らせ給ひし赤尾駿河守海北善右衛門尉赤尾筑前守同与四郎同孫三郎彼等をはしめ手勢五百にて居城小谷を立て翌日四日に越前国府中につき朝倉太郎左衛門尉所へ案内申入られけれは太郎左衛門尉殊の外に驚き急き貞景へ此旨申上けれは貞景をはしめ家老の面々集り備前守寒中押して来らるゝ事義深くして慇懃をつとめらるゝ人なりとてよろこひはかきりなし先当夜は太郎左衛門尉方にて体息あるへしとて種々の取持なり翌朝貞景対面ありて申されけるは備前守殿此雪中に国を隔て是まて御越の儀不㆑浅候と悦ひ給へは備前守亮政は承㆓御意㆒忝存候今度江南佐々木六角江北佐々木京極両旗にて被㆓取籠㆒候処に御同名太郎左衛門尉殿に被㆓仰付㆒国中の御勢被㆓指向㆒候てはけしく御働被㆑成候に付其御影を以て虎狼の囲を免かれ候段生涯の面目過分不㆑浅奉㆑存候自今以後御家に御大事もあらは一番に馳参し此御恩を報し候はんとそ申されける然る処に朝倉太郎左衛門尉取成て申されけるは浅井殿儀武道はかりてもなく仁道もつはらにして義を重んし礼正しくして智謀深き人に御座候今度も先祖の亡慮を鑑み京極すてに討れ給はんを助命ししかのみならす其家業を立置和睦の段は常人のわさならす候と褒美【 NDLJP:55】いたされけれは貞景聞給ひ亮政殿は弥末頼もしく覚え候条向後は何によらす人数入申事候はゝ加勢せしむへし此方へも入申事候はゝ可㆓頼入㆒と宣ひけるかくて越前一乗の城に中三日の逗留なり先初日には御能三番これあり第二日には越前国の射手を揃給ひて弓の会これあり第三日には国中の名馬共をそろへて若者共に乗せ亮政をもてなし給ひ此馬の中に何れなりとも亮政の気に入候はゝ可㆑遣との給ひけれは朝倉栗毛と申名馬を申請られけるかくて備前守可㆓能帰㆒旨申入けれは備前守へは来国光の太刀給はる兄駿河守には長光の太刀に馬一匹なり是も名ある馬なり赤尾孫三郎には助実の太刀海北善右衛門尉にも金作太刀を給はりて魚住玄蕃に被㆓仰付㆒騎馬五十にて国境まて見送り給ふ今度朝倉殿の馳走言語を絶するはかりなりかくて小谷の留守居の者共の中大橋安芸守伊部清兵衛尉木の本まて御迎に罷出けれは井の口弾正今村掃部頭なと御迎に罷出さゝめきつれて小谷へ帰城したまひけり是よりして浅井三代朝倉三代の間水魚の思ひをなし中よかりしなり終に両家共に右の由緒ゆへ信長の為に一同に滅亡せしなり備前守留守の趣を高島へ立退し浅見入道俊孝聞付人数を集め留守の隙を窺ひ小谷へ込入へきと所々の郷士をかたらひけれとも浅見入道に勢思ひ付されは心はかりをはやらかしいたつらに日を過しける其内に浅井帰国に及ひ残り多しとはかりにて終に其手立もむなしくなりにけり 浅井三代記第五終この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。