コンテンツにスキップ

浅井三代記/第十六

目次
 
オープンアクセス NDLJP:129
 
浅井三代記 第十六
 
 
朝倉浅井堅田寺内を取返す事坂井右近討死の事
 

斯而堅田の地下人井一統して信長卿の勢を引入浅井朝倉か役人共悉く討取旨朝井浅倉両将の許へ注進有しかは味方の諸勢いろをうしなひあはて騒く事おひたゝし浅井朝倉家老共を近付被申けるは東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらは誠に鳥ならてはかけりかたし兎やせん角やあらんと評議したまふに朝倉義景被申けるはとかく信長の本陣へ切入一戦をとくるか又は朽木越を可落かと被申けれは備前守長政の曰敵陣へ切入といふ共敵籠城したる数万の勢なれはやはか利有へしとも不覚又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ末代迄の悪名をとゝめむより明日は未明に堅田へ人数四五千計出し無二無三に一刻に責つふし坂井右近か首を刎んに何の子細候へきと被申けれは義景の家老朝倉式部大輔山崎長門守進出て長政の仰誠にゆゝしく御座候明日の御先は某等両人可仕と申により評義一統してあけゝれは十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫山崎長門守を侍大将として三千余騎浅井方には赤尾美作守浅井玄蕃亮侍大将として二千余騎都合其勢五千余騎なり浅井勢は朝倉勢の後陣也斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る坂井右近は是を見て壱千余騎の勢を五百余騎は引かへす残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれは右近も弓鉄炮を以あいしらふ越前勢敵を小勢成と勝にのりはや鑓を入面もふらす突懸る右近は本より功者也しばしさゝへ敵の色を見てかゝれと下知すれは右近か五百余騎一度に噇と突かゝる越前勢引色に見えたりけるか山崎は是を見てきたなし味方の者共よ我一軍してみせんとて五百計おめきさけむてすゝめは右近此いきほひに突立られ一町計引退く跡をしたふて突かゝる右近能時分を引請取て返し火花を散して戦へは右近かかくし勢五百計噇と喚て真黒にて成面もふらす突かゝる越前勢足をしとろにみたし既に崩れんとせし処に式部大輔は其を引なと云まゝに馬煙を立てかけ込は浅井か勢も備へて待て何にかせんとて相かゝりに突かゝるてき味方入違へ互に命も不惜たゝかへは右近は寺内へ引入むとする処を味方堀きは迄ひしと付寺内を付入にせんとせしを右近取て返し敵を四方へ追払ひ其透に寺内へ懸入は朝倉浅井か兵とも寺内をおつ取巻よりはや堀へひたと飛込我先にと乗込は右近も大剛の兵なれは走り廻て下知すれ共敵は多勢味方は小勢叶はすして遂に討死したりける浦野源八父子坂井馬場居初イソメもはしたなく働右近と同枕に打死す味方にも前波藤左衛門尉堀平右衛門尉中村木工之丞きらひやかに相働討死す是は朝倉か兵也浅井方には浅井甚七赤尾甚介田那部平内八木又八郎ゆゝしき働して討死す総して其時の責口にては敵味方にて寺内の堀は平地と成かくて義景長政寺内を取かへすといひ坂井右近討取事浅からさりし次第なりとて喜の事は限なし則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平浅井よりは月个瀬若狭守を入をかる去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひわれらか命にかはるといひ数度の忠功報しかたしとて鎧の袖をぬらし給ふそ忝なき

オープンアクセス NDLJP:130
 
信長与朝倉浅井和睦の事
 

斯而元亀元年の歳も極月にせまりけれは雪いたく降積りぬれは敵味方の足軽せり合も止けれ共軍兵殊の外勇気をつからし侍れは信長卿より御内意こそ侍りけめ室町殿時分をはかりたまひ信長も浅井朝倉も対陣につかるへし噯を可入と思召双方中和せしむへき趣信長卿の本へ仰こされけれは本より信長卿は内通したまひける事なり其上森三左衛門尉坂井右近左右の臣は両月の間にうたれぬ朝倉浅井は山門を城にかまへ陣取いきほひをなせは幸と思ひたまひとも角も御諚次第と御請申上させたまふゆへ浅井朝倉両人の方へも将軍の御使として中和可仕旨被仰越けれは両人右の趣承将軍の仰尤忝奉存候へ共信長卿はよく契約を違へ被申人の事にて御座候へは相心得難く奉存旨申上承引申さゝれ共御使再三に及ひ其上将軍義昭公御自身御出被成達て被仰付けるに長陣にやつかれけんやかて御請申上る将軍御諚として向後よりしては互の領分へ手さし有間敷旨誓紙を取かはし和睦重て相調りけるそれよりして信長勢を引取たまへは朝倉浅井も諸勢悉く叡山面を引取ける其時浅井朝倉叡山にて対陣をはり越年して大坂野田福島といひ合せ後巻をせさする物ならはなんなく信長卿を討取へきものを児童の様成浅き噯かなと京童は笑ひける扨信長卿は室町殿に御いとまこひしたまひて坂本を立て佐和山の麓鳥井本に着せたまへは丹羽五郎左衛門尉水野下野守御迎に罷出被申けるは今度は永々御対陣被成候之所に味方無恙渡らせたまひ朝倉浅井と御和睦被成候段月出度奉存旨申上けれは信長卿たはふれさせたまひ世間の世話にて被仰けるは我等の無事は申待サルマチの夜の歌なりと宣ひ打わらはせあまひやゝ有て丹羽五郎左衛門尉を近付潜に被仰付けるは汝は随分智謀をめくらし当城磯野丹波守を味方に引入可申と被仰置極月十日に岐阜に帰城したまひける

 
磯野丹波守佐和山城を開退事
 
斯而丹羽五郎左衛門尉内縁を以信長卿の仰の通を城中へ申入けれ共丹波守も先同心せさりけるされ共此事度々におよへは員正か口も少やはらかにそ成にけるかゝりける処に信長卿元亀二年二月中旬に其勢二万余騎を引率し佐和山面へ発向し佐和山の城を幾重ともなく取巻たまひ責させたまふ磯野元来剛の者なれは敵近付は切払ひ勇気をはけましけれはたやすく可落とも見さりける丹波守員正たび小谷へ後巻をこひけれと終に其沙汰あらされは員正か防く兵も勇気いよいよおとろえけれは丹波はよき時分と心得て員正か方へ申遣しけるは今度信長卿へ忠節したまはゝゆく末迄も可然候はん同心あれと申越員正心に思ふやう兎角当城を開渡小谷へつほみ味方の雌雄を可見届とおもひ丹羽に返事申けるは此方よりもたしか成人質を指上へし信長卿よりも慥なる人質たまはるにおいては当城をあけ渡すへしと申越けれは丹羽大によろこひ信長卿へ此旨申上れは信長卿不斜おほしめしさあらは人質を可遣とて織田おきくを被遣けれは員正は男子壱人も持されは女子一人を指上佐和山をあけ渡し小谷をさして来りけるか長政内々磯野二心有よし聞たまひ磯野か人質老母を張付にかけ丁野山にさらし置小谷の内へ入されは己か知行処西近江高島郡へ引退きオープンアクセス NDLJP:131ける此時取置たる人質おきく殿すくに養子に信長卿より申請たりける後織田七兵衛殿と申せしは此人質なり斯而木下藤吉郎秀吉丹羽五郎左衛門両人として江北中大名小名によらす町人郷人によらすまいないをし引出物なとをいたし侍には信長より本領安堵の御京書を取つかはしけれは国中の者共なひかぬものはなかりける爰に米原太尾の城には中島宗左衛門尉楯籠りしか磯野佐和山をあけのけは己も大尾を開退き小谷をさしてひきこもる佐和山より一里計西浅妻といふ所に新庄駿河守弐百五十余騎にて楯籠りしか小谷へ注進申けるは佐和山城磯野は信長卿へ城を開渡しけれは当城無勢にてかゝはりかたし加勢を可下と申越其儘降人と成信長卿の人数を引入る斯而信長卿は近江へ至り其間七八日の間二三个所の城手に入れは当春の首途よしとて佐和山の城には丹羽五郎左衛門に近辺五万貫の所領を相そへ同廿六日に岐阜に帰城したまひける其後沙汰して申けるは今度は磯野を味方に可引入ためよ発向したまひぬると聞えける惣して時日をうつす其間に浅井か人持悉くみかたに引入へきとの手立とそ聞えし
 
浅井軍評定之事
 
浅井備前守長政家老の者共を近付被申けるは去年信長にたしぬかれ中和せし事味方大につかれしゆへなれ共是大にあやまりなり若かりといへと信長を可討手立有味方の人持共小谷近辺一里二里の間所々つまりに要害をかまへ入置大坂顕如上人を頼江北三郡の本願寺下坊主共に一揆を催させ近所なれは堀か籠る本江の城を責さすへし其時横山に籠る木下藤吉みつくへし其透に当城より軍兵一二千も出し責へし然者大形十に七八は責取へし其時信長即時に馳来虎御前か矢島野に本陣をすえらるへしさあらんにおいては当城ひそかに持かため打しつまつて寄る敵を待うくへししからは此城を取まかるゝかさなくは陣取所々の小城を人数分して責らるへし其刻越前へ一左右して越前国中の軍兵を引率し義景木之本辺へ出たまはゝ信長勢を四方八方より出合戦はゝ勝利有へしと被申けれは一座同音に尤よろしかるへしと決定すそれより越前へ使を立右の手立申入けれは尤可然とて重而日限相究使節は小谷へ帰りける長政よろこひいにしへより有所の小城に普請等を申付人数分して籠られける一番に国友の要害には野村兵庫頭同肥後守を入をかる宮部の要害には宮部世上坊を入をかる月ケ瀬の要害には月个瀬播磨守子息若年なるにより伯父若狭守楯籠る山本のしろには阿閇アツシ淡路守今村掃部頭〈父は先持手五太現うしろ巻の時討死す〉安養寺三郎左衛門今井十兵衛〈先年切腹せし十兵衛か子息〉熊谷忠兵衛〈弥次郎か嫡子〉彼等五人を籠をかる賤ケ嵩の城には東野左馬之介西野壱岐守千田采女西山旦右衛門楯籠る雲雀山の要害には浅見大学之介八木与一左衛門楯籠る小谷山の焼尾丸には浅見対馬守を籠をかる小谷中の丸には浅井立蕃亮三田村左衛門大夫大野木土佐守彼等三人をこめ置る丁野山には中島宗左衛門尉そ籠りける是は敵を包打に可討との手立とそ聞えける
 
浅井大坂顕如上人を頼一揆を催す事
 
去程に浅井備前守長政大坂へ以使札申けるは我等領分北三郡の道場本へ被仰付一揆を被催候はゝ忝可存旨深く頼みて越れけれは顕如上人幸と思召則顕如より御書をたまはオープンアクセス NDLJP:132りけれは長政よろこふ事はかきりなし斯而越前と一揆と一図にしめ合せ可責とて其日限をしめられ長沢の福田寺へ彼顕如の御書を相渡すそれよりして三郡の一向坊主我檀方共にふれけれは我もと進みたるしか堀次郎か楯籠りたる本江の城を可責とて箕浦の誓願寺四千二百人先懸にて抑寄新庄の金光寺二千余人榎の乗願寺千五百人上坂順慶寺五百余人ゆすきむらの清動寺木之本新敬坊いまた又右衛門の時此人々都合八千七百余人後備へにひかへたり尊照寺の称名寺二千余人唐川長照寺増田真宗寺此三人は三番にひかへたり長沢の福田寺四千五百余人イヌヒ村の福照寺三千二百余人は同勢なり其日の軍奉行は浅井七郎野村兵庫頭中島日向守に仰付らる元亀二年五月六日の未明に堀か居城へ押寄四方町屋を焼払ひ我先にと責よせたり城中にも四方より弓鉄砲を放ちかくれとも事ともせすおめきさけむて責かくる秀吉ば横山の城にいたまひしか堀か住所と其間わつか一里余の事なれはこのよしを見て一揆は定て猛勢なるへし一手立して敵を追払はんとて内々用意やしたりけんかみのほりさし物なと少々拵日比なさけを懸置し百姓をやとひ越其者共に申付美濃海道筋の山の嶺に立置我身は五百余騎にてふきぬきののほりを立福田寺陣取たる小屋山甲山へ取登る斯而長政は越前よりの義景出陣を待居けれ共時刻もうつり行は浅井玄番亮赤尾新兵衛を侍大将として一千余騎横山の城へ押寄る横山の城は無勢なれは上を下へとかへしけるされとも竹中半兵衛物なれたる兵なれは走廻て下知をなす浅井勢いさみにいさんて責入は城中は無勢なりはや惣構打破二九迄乗取敵本丸さして付入に切入んとせしを半兵衛取て返して追散す浅井玄蕃亮一刻責にもめや者共と下知すれは野一色介七と名乗かけ加藤作内〈後云遠江守〉と渡し合せ火花をちらしてたゝかひける介七ふみ込て打太刀にて作内かひさの口をそわつたりける介七は首を取んとせし処に苗木左介と名乗かけ介七に飛かゝる介七えたりとて左介をひきよせむすと組取ておさへ首を取此介七後には頼母之介と申ける其後青野合戦に大垣面にて無比類働して討死をそしたりけるかくて本江一揆の者共秀吉加勢に来りたまうを岐阜より信長進発にて先勢向ふとおもひ気をうしなひ福田寺か人数はや裏崩れしてにけぬれは秀吉は五百計さつと懸入四方八面に打破かけ通れは一揆の者とも一さゝへもさゝへすして散々に敗北す武者す武者奉行の浅井七郎敵は小勢成そかへせと訇れは上坂の順慶寺にくい味方の者共の働かなとて箕浦川を楯に取しはしか間はさゝへしか多良右近か郎等鑓を振て馳来る順慶寺そ仕合しか順慶寺かかたのはつれを一鑓突たりしか物の数ともせす飛かゝりおしならへてむすとくみ上を下へと取てかへす順慶寺組勝頓て首を取立あからんとせし所を多良右近走かゝり順慶寺を一鑓に突伏せ首をかゝんとはしり寄順慶寺ねなから腰の刀にて切けれは多良は薄手なれは終に首をそ取てんける木之本藤田又右衛門は深いりして敵に取まかれしを追払ひ二三度取てかへし其をなんなく突抜箕浦の辺にて息つき居たりしか林甚之丞と名乗かけ又右衛門に突かゝる其時又右衛門持たる鑓を取なをししははく戦ひけるか甚之丞かたゝ中を突通し田の中へはねたをすかゝりける所に香鳥介七と名乗又右衛門とむすとくみおさへて首を討たりける斯而秀吉はにくる一揆を追打に四方へさつと追払オープンアクセス NDLJP:133ひ横山さして引たまふ扨横山寄手の者共は敵不来先にもめやもの共すゝめや兵共と玄蕃身をもむて下知すれ共城中の兵必死非生と思ひ切防けれはすゝみかねてそ居たりける秀吉は一揆のやつはら思ふまゝに討取追散しかけぬけ横山へ馳付給ふ寄手の者共秀吉の後へまはり給ふを見て勢を小谷へ引取ける此時竹中粉骨をぬき働しゆへ当城は落さるとて秀吉大によろこはに本江面にして討取たる一揆の耳鼻千八百信長へ進上せられしかは頓而感悦に預り給ふ秀吉其後近江の一向坊主にあひたまひて我五百の勢にて一千八百討取たるとて御一代の御荒言とそ聞えける
 
浅井朝倉を呼出すに不出事信長卿江北へ押寄給ふ事
 
斯て浅井備前守長政は去る夏越前と示合一揆をもよをすといへとも義景事の子細有之出張せさるゆへ味方の手立相違して立腹する事かきりなしかゝりける所に又近日信長卿江北発向のよし注進すれは越前へ使者を立今度は是非出張せらるへき旨申遣しけれは早速可打立とかたく契諾すそれゆへ長政は其手あてをそしたりけるかゝりし故信長卿は分国の人数をかりもよほし五万余騎にて八月十六日に打立同十八日には坂田郡横山に陣取給ひ江北悉く焼払ひ小谷をはたか城にすへきとて先山本の城には阿閉淡路守安養寺三郎左衛門今村掃部熊谷忠兵衛今井十兵衛彼等五人楯籠りけれは此城と小谷の間をゝさへ置放火せしむへきとて柴田修理亮勝家佐久間右衛門尉市橋九郎左衛門なとを宗徒の大将として四万余騎にて小谷と山本のあはひ二里計の間を人数にて立切所々の要害共に手あてを申付上海道筋曽禰村馬渡辺迄焼払ひ翌日横山へ引とらんとせし時浅井備前守は同姓七郎同玄蕃亮を侍大将として二千余騎小谷の城よりおしいたす山本山の城よりも阿閉淡路守を初所々の小城より討て出る又江北所々の一揆共我をとらしと催して出れは信長卿も其日の殿ひ大事とやおもひ給ひけん柴田修理亮に原田備中をあひそへ弓鉄炮の者多く加勢被成諸勢引取給ふとひとしく浅井勢爰のつまりかしこの山合へ人数を引つゝみ切てかゝれは原田勢を一足もためす追散す浅井勢競ひをなし息をもつかすたゝかへは柴田か勢も敗北す勝家是を見て味方をのゝしり鑓を横たへ二三度返し合せ敵を突しりそけしけれ共味方事共せす十四五町もしたひ行備前守も雲雀山迄罷出敵味方の様子を見居たまひけるか味方深入してはあしかりなんとやおもはれけん使番を以はや引取れと下知すれは玄蕃尤とこゝろへ味方を引つれ小谷をさして引入れけれは山本勢も上道筋へ引にけり此時柴田すてにあやうく見えけるか味方はやく引取故なんなく信長卿の御本陣へ引付けるもとより信長も殿ひ大事とや思ひたまひけん三度迄使番を以被仰付けるか其中に猪子兵介といふ者かけ引の体見はからひ様子申上る其次第少もたかはすとて御感有けるとそ聞えし其夜は坂田郡か横山に陣取たまひ翌日犬上郡か佐和山の城にうつらせ給ひ近辺所々の残徒共の城取可責取手分被仰付我身は佐和山に本陣をすえ給ふ
 
世上坊逆心之事
 
斯て秀吉宮部の城に楯籠る世上坊か方へ申遣しけるは汝は城にて本望をとけ給はむ事九牛オープンアクセス NDLJP:134か一毛成へし信長卿の幕下に成給はゝ本領相違有へからす行末よろしかるへしと申越れけれは世上坊同心して秀吉へ人質指遣し頓而信長の味方に参世上坊心に思ふやう御味方を申上るしるしに近所国友の城野村肥後守同兵庫頭に一矢射て信長の御機嫌に可入とおもひ手勢二百余騎にて国友面へ押出す肥後兵庫は是を見て己心替するのみならす剰へ当城へ勢を寄るはあますなもらすな討捕とて三百余騎にて姉川をさつと打渡り世上坊に切てかゝるそれよりして宮部勢と国友勢と追つおはれつ戦ふたり国友勢つよくして宮部勢一二町引退く世上坊取て返し討死せんと切てかゝる国友勢此競ひに追立られ我先にと敗北して川中迄追入れげるかゝりける所に富岡藤太郎取てかへし二つ玉の鉄炮にてねらひ打に打けれは世上坊か高もゝを打ぬき馬より下へとうと落る富岡飛かゝり首を取んとせし所に郎等の友田左近右衛門尉とつて返し富岡を突しりそけ主の世上坊をかたにかけしりそかんとせし所を国友勢追かくれは世上坊いかに友田汝はしりそけ我は爰にて打死せん二人うたれて何かせんと有けれは主を捨る法や候とてかたにひつかけのきけれはそれよりして敵味方あひ引に引にけり
 
信長卿江北進発の事
 
斯而信長卿は今度小谷面へ押寄敵を防き置虎御前山に向ひ城を取立御勢を入置小谷の士卒をつからせんと思召元亀三年三月五日に二万余騎の勢を引率し濃州岐阜を御立有翌日六日に横山の城に着陣したまひて柴田修理亮は山本の城をおさゆへし佐久間右衛門尉市橋九郎左衛門尉丸毛兵庫頭彼等三人は小谷山と虎御前山との其間八町なれは其間へ人数をわりこみ立置へし木下藤吉郎は残る勢を引具し虎御前山に要害をとり立へしと被仰付ける信長卿の本陣は矢島野にすえさせたまふ斯て佐久間右衛門佐小谷面へわりこみ備へを立んとせし時備前守長政は居城間近く敵に足たまりを拵させてはかなふましと思ひ二千余騎にて小谷面谷より打て出佐久間か陣へ討手を揃へさしつめ射立切立ける佐久間しはしか間はさゝへしか小谷勢案内はよくしつたり爰かしこよりひらき合せて戦へは佐久間も本陣へ引取小谷勢跡を追てすゝみける長政の其日の先手は浅見対馬守なりけるか深入して大勢につゝまれあしかりなんと思ひ長政の本陣田川山へ引取ぬ又西の方山本の城よりも阿閉淡路守父子安養寺三郎左衛門尉熊谷忠兵衛一千余騎にて討て出る国友の城よりも横鑓に突かゝれは信長卿の勢防きかねてそ見えにける味方深入せしと人数さつと引取己々か城中へ入にける信長卿此由を見給ひて御旗本を崩し田川迄押出し給へ共浅井勢はや引取けれは可責入手立もなくして人数横山迄引取たまふ信長卿今度は何とか思案侍りけん同十一日に横山の城を御立有西近江志賀郡へ発向したまふかゝりける所に高島伊黒の城には浅井方より新庄法泉坊を入置けるか浅井に企逆心信長卿へ忠節可仕旨申上則人質を差上けれは信長御感被成頓而安堵の御教書をそくたされける
 
高島伊黒の城責取事
 
去程に伊黒の城主新庄法泉坊信長卿へ味方して近辺の傍はい共を押寄責取乱入し家財オープンアクセス NDLJP:135道具なんとをうはひ取けるか海津信濃守小谷に籠城して居たりけるに己か一家の者其妻子等迄おかし押なひくるの旨注進有けれは不安思ひ長政に右のむね申上けれは長政聞たまひて汝無念に思ふ段左至極せりしかりといへと海上をへたて人数を出すといひ当城のふもと皆敵なりいかゝ有へきと案し煩ひたまふされとも海津達て討手を望みける故長政も又此法泉坊忽にすて置なは高島一郡をゝしなひけ此方へもせいを可出急き責とるへしとて海津信濃守に浅見対馬守山田順哲斎赤尾与四郎日根野弥次右衛門尉子息弥太郎を相添られ其勢一千三百余騎伊黒の城の討手として同四月十四日に小谷を出したまへは翌日海津に付日根野本より軍法は得たり一千三百を二手に作り一手は城の後へまはし置七百余騎にて城中を取まかんとせし時法泉坊は是を見て其勢雑兵八百計の勢を三百は城中に残しをき五百の勢にて町面へ打て出る味方七百余騎にて弓鉄炮を以て四方より射立打立しに法泉坊も射立打立防きけるか後には鑓おつとり互に入乱れ追つおはれつたゝかひける味方伊黒勢に切立られ我先にと敗北すゑかつし所に伊黒勢勝にのり浅見か勢を追かくる跡に日根野はひかへしか二百計鬨を作りかけ面もふらす切てかゝる法泉坊も火いつる程に戦ひけるに後へ廻し味方の勢ときを と作り一度に塀際迄責寄れは法泉坊かなはしとや思ひけん城中さして引取る海津浅見日根野此競ひぬかさしと付いり二三の丸迄乗込ける既につめの城をも乗取へき所に法泉坊か家老堀江伝左衛門と云しものよき時分にふみ留り向ふ敵を追払ひ門をかためてふせきけるそれよりして味方息をもつかす責たりけり城中にも爰を先途と防きたゝかへは日根郡浅見に向て申けるは此近所敵多し其上信長も京都に居給ふへし一刻に揉落すへし先我等は責口の様子見るへしとて裏手へ廻るとひとしく進めや兵のれや者ともと下知をして塀に手をかけ日根野父子乗込は赤尾美作守か子息加兵衛同新介〈後改赤尾伊豆守〉続てのりこめは味方の兵五百計我おとらしとのりこむたり城中の兵敵にまきれて落るもあり或はうたれて死るもあり暫時に城は乗取ぬされ共法泉坊は軍兵共の討るゝ透に何く共なく落うせぬ其時日根野弥太郎と敵数多きりふせ其身も討死したりける此日根野父子は美濃国斎藤右兵衛佐龍興か侍なりしか龍興岐阜退散の時より浅井か家に来りしなり赤尾新介もてき二騎討とり我身も深手負て今をかきりと臥居たりしか郎等二人馳来りかたに引懸退にけり斯て浅井か兵共大将の法泉坊は打もらせとも敵の首三百八十余討取は味方も百七八十もうたれにける伊黒の城を破却して海津信濃は残りけるは高島郡の仕置のためなり扨小谷勢はさゝめき渡て帰陣して長政に此むね申上れは悦ふ事は限なし
 
浅井三代記第十六終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。