浅井三代記/第二

目次
 
オープンアクセス NDLJP:16
 
浅井三代記 第二
 
 
軍評定の事
 

去ぬる三月十八日の軍畢て後は敵味方互に我居城へ取籠り六月上旬迄休息をそしたりける斯て上坂治部大輔泰貞は屋形へ登城して謹て言上しけるは今度鳥井本表において忠戦をとけ候面々に恩賞褒美あたへさせられ尤たるへき旨をそ申遣る雄家卿宣ひけるは今度の一戦に勝利を得る事偏に汝か武略の達したるゆゑなり我汝を見立名代をゆつる処に不違眼力佐々木六角に一しほ付け候儀満足此所に期す江北の諸士家恩褒美の儀は我隠居の身なれは汝心に相叶ふやうに可執行たとへ我弟なりとも不忠においては其罪をたゝし誅罰すへしと仰けれは泰貞も達て謙退申上けれ共雄家卿立腹に及ひ畏て候とてそれに恩賞褒美をあたへける各忠より賞の重けれは世中の習にて欲にはふけるものなれは諸卒大に悦て勇みをなさぬ者はなしかくて上坂の城にて江北の諸侍をそれのもてなしにて三献の酒も漸過行は泰貞立出軍評定せしむへしとて旗頭共と評しけるにも浅見対馬守上坂信濃守なとは年老たけたる者なれは二人進み出て申けるは今度のてたて何と可被遊候やと申けれは泰貞申されしは去ぬる三月の軍は鳥井本にての取合なれは場所窄くして働自由ならさる故思ふ程に勝利なし重ては浜道越に押よすへし此中は幸に空打つゝき雨降す磯山の脇山に四川なとも白河原に成たると聞此分にて有ならは五三日の内に雨降へしとも不覚たとへは一日二日大雨降ともわたらさる程にはよもふらしさあらんにをいては鳥井本口は付城の面々可防オープンアクセス NDLJP:17磯山越に打寄無二の一戦可遂なり先てたてといつは随分此議を秘すへしとて皆並居たる侍をのけ只旗頭四人近付ての評議なり明後十一日は吉日なり十日に廻文をまはし支度をさせ十一日の暮四つ時分に当城を立て磯山の城へ取のほり後陣の者共を待合せ人数余程着たりと見は付城の者に約諾して置一左右すへし其時鳥井本山米原山に郷人少々雇ひ置鬨を作らすへし敵其声を聞此方より又中道をよすると思ひ切通道へかけむかはん事案の内なり若さなくともからめてを大事とかたむへし其時味方の鳥井本口の付城の者共城より人数を出し責戦ふへし旗本よりよき時分をはからひ松原村へ切て入平井奈良崎朝かけにふみつふし佐和山の追手へ押よせ外かまへ町屋を焼払ひ追手からめ手一同に攻なは城中やはかこたふへき即時に城は此方へ可乗取と申けれは浅見対馬守上坂信濃守尤よろしき御術にて御座候去なから観音城より多人数可被寄大将の旗むかはさるさきに佐和山の城御手に入申事はいかかと申けれは泰貞こたへていはく尤なる不審なりからめて一千七百にて付城の者とも責させ磯野阿閉西野今西両熊谷彼等五人をして平田山に人数を段々に立させ戦ふへし然らはたやすく来る事よもならし其内には城をもみ落すへしといはれたりけれは尤御術よろしきとて旗頭共同音に感しける扨それよりして諸士おのれか住所へ帰り支度をそしたりける

 
松原佐和山両城没落の事
 
永正七年六月十一日の事なるに上坂治部大輔泰貞佐和山表へ進発すへしとて十一日の暮子の上刻に上坂の城を立今浜村に諸卒をしはらく待合せける相従かふ人々には磯野伊予守員吉同右衛門大夫員詮子息源三郎為員西野丹波守家澄同与八郎大野木土佐守三田村左衛門大夫安養寺河内守勝光浅見対馬守俊孝浅井新次郎同新三郎亮政三男新助政信渡辺監物八木与藤次井の口宮内少輔後藤弾正忠筧助右衛門尉赤尾与四郎東野左馬助野村伯耆守同肥後守口分田彦七郎布施次郎左衛門尉中山五郎左衛門尉千田伯耆守横山掃部頭家盛加納弥八郎伊吹内匠住居平八郎今井肥前守新庄駿河守富田新七香鳥庄助大宇右近大夫高野瀬修理亮山崎源八郎黒田甚四郎堀能登守小室隼人助此等を宗徒の大将として段々に馳集め都合其勢四千余騎雑兵二万余浜道へおしければ今浜より磯山迄三里か間は人馬打続きて駒のひつめもなかりけりかくて先勢磯山に着しかは鳥井本口へ右の相図のことく時をあくへしと申つかはされけれは三所の付城の者とも心得たりとて夜もように明方の事なるに鳥井本山の城に鬨をあくれは残る二所の城よりも同しく鬨をそあけにけるもとよりたくみし事なれは郷人多く馳集りおの時をつくる佐和山の城には是を聞すは敵よするは支度せよ者ともとて上を下へとかへしけり中にも小河目賀多は物なれたる老武者なれはいまた夜はあけさるそ卒爾に切て出な兵共とて四方をかけ廻り持口をさためける目賀多は切通へ出敵の様子を可見計とて出けるか小河は城に残り高宮と久徳は追手をかためてゐたりけり目賀多はかり切通道迄出敵の様子を見るに寅の刻はかりの事なれは空暗くして敵の色めも見えさりけり斯て三ケ所の付城より一千七百騎にて討て出切通道へはせむかひ矢尻をそろへて射たりけり目賀多も射手をそろへて防き矢をこそ射させけれかゝりける所へ泰貞味方の鬨のこゑを聞オープンアクセス NDLJP:18とひとしく松原村へをしよせて鬨を憧とそあけにける折しも城中無勢にて以の外騒動して弓取者は矢をわすれ甲を着てよろひを着す城中しはらくしつまらねは敵を可防様もなしされとも平井奈良崎は切て出命ををします戦へと味方多勢にて一千騎の兵を味方四千にてもみにもふて責けれは平井奈良崎かなはしとや思ひけん南方あけれけは佐和山へかけ入一手に成て可防とて寄手は西南をあけ東北より大軍にて入かへせめたりけり此西と申すは湖水なり南をあけおく事は諸卒を落し心安く攻取へきとのはかりことゝそ聞えけるかくて南向に敗北す磯野員吉阿閉貞義西野家澄熊谷直光同信直五人の者ともは佐和山見次勢の役人にて平田山へ取登り備を立る筈成けるか松原の様子暫見届度とおもへは佐和山と松原の間に西向に備を立味方の軍を見居たるに平井奈良崎落ると見て横鑓に突かゝれは佐和山へ取入事ならされはふみ留り戦ふたり味方大軍にて三方よりつゝまんとせしを見て蜘の子をちらすことくにちりに敗北す味方にくる敵に目をかけす其まゝ其を引取佐和山へ押よする城中の者とも此中数度の戦にも搦手こそ大事と固めつれ追手の敵は思ひよらさる事なれはとやせん角やあらんとしはしは評議きはまらすやゝあつて孫七郎高宮三河守に向ひて申けるは目賀多伊豆守は切通口を防ぎ給へはからめては心やすし追手は我々三人して可防随分敵をさゝへ可申其中に後巻あるへし其期まて防き給へと申けれは高宮も久徳も相心得たりとて追手より三百五十騎にて切て出矢軍少々して泰貞か備を目懸切て入かと見えしか兼て約諾の事なれは降人と成寄手の勢と一つになる泰貞両人に対面して数年京極の舘へ御心付の段不浅神妙に被存候今度の忠義の段弥以念比に可申上候条御忠節頼入と申悦事かきりなしかくて降人の者とも案内として尾末山へ人数をあけもみにもふて責たりけれは城中こらへかねたるけしきなり切通口へは三所の付城の者とも追手の軍利を得ると間真黒になり千七百騎にて目賀多五百騎と戦しか目賀多爰を詮途と防たり今村掃部頭小蘆宮内大輔安養寺河内守なと立かはり入かはり揉にもふて責れは目賀多も過半人数をうたせ其上跡よりつゝく勢はなし城中へ引にけりそれより追手からめて四方七重八重に取囲喚叫て責れは城中防かねて見えにけるかゝりける所に尾末山の責手にむかひし堀能登守は敵嶮岨をたのみにて防く兵もあらされは塀逆茂木ともいはすのりこえ責入は目賀多小河追手まて二三度切て出はしたなき働しつめの城へかけ込けり泰貞心に何とか思ひけん城中へ使を立申けるは城さへ無相違渡されなは命の義は違背有ましきと申つかはしけれは両人の者とも相談して城を敵方へ渡し命はかりを助かる事侍の本意にあらされとも重て本望とけんとて異儀なく城を相渡し中道より観音城へ落行は泰貞は今日数刻も経さるに松原佐和山両城を攻取悦ひ給ふ事かきりなし斯て観音城定頼卿は佐和山表へ敵働出たる旨松原城代の者方より注進あれは定頼館に折ふし旗頭とも休息しておのれか在所へ引籠り候てわつか馬上千五百にてもみにもふて打立給ふ江南諸士此由聞付ておひにかけつくれは救常寺にて其勢三千余騎に成にけり平田山の者ともは不勢にて大敵の押なれは一術せんとて磯野三百にて一番備を立る二番阿閉二百にて備へたり三番西野二百騎にて備を立る両熊谷は百五十つゝオープンアクセス NDLJP:19両脇村中に引かくす然る所に定頼卿の前手進藤山城守一千騎にて磯野か陣所へ押よする源三郎為員例のつよ弓にて射手二十人すくりて左右におきさしつめ引つめ矢種ををします射たりけれは進藤か先勢すゝみかねて見えにける吉田安芸守是を見て進藤殿磯野か手に我等を仰付られよとて我弟子の究竟の射手三十人すくつて弓手馬手に並へ置四人張にて十三束をさしつめひきつめ互にさんに射たりしか磯野勢此矢前に立かねて半町はかりも引にけり此吉田と申は江南にてつよ弓を引代々弓の上手なり今にいたる迄雪賀むらをなほしたる弓皆人是を賞翫せしは此吉田か末の事なりかゝりける所に進藤は是にきほひつゝ敵小勢成そ討取れ人々とてきほひ懸つて押よする磯野進藤もみ合火花をちらしてたゝかふたり後藤伊庭喚叫て突かゝれは阿閉見て横鑓に寄手の方へ突かゝる今西熊谷両人爰にありとて両脇より兵三百騎面もふらす切て出れは敵なとかはたまるへき足をみたしてさわきける磯野西野阿閉三人の者共打死爰なるそ味万の者共よとて一足も引す切てかゝれは佐々木勢大に崩れて旗本迄さわきけり味方の者共は勝に乗て不覚すなとて二町はかり追捨て平田山迄引にけりかくて佐和山の城程なくせめとれは平田表へ江北勢我もと馳あつまる又江南勢も聞かけにはせあつまり敵味方乱合火花を散したゝかへはしはし勝負はなかりけり鳥井本表の兵とも切通の上に人数を休め半時はかりも居たりしか大将平田へ打向ひ給ふと見て人敷を佐渡根山へおし出平田表を見れは敵味方黒煙をたて相たゝかへはこらへかたくや思ひけん平田山の南の方へおしまはす佐々木是を見てうら崩して敗北す泰貞旗本を崩し高名せよや兵ともよとて一文字にかけやふりかけとほれは佐々木勢我さきにと敗北す泰貞勝に乗二町はかり追かけたりかゝりし所に永原新左衛門尉は藪の一村あるかた陰に人数をかくし置自余の敵には目もかけす泰貞を心かけ相待て居たりしを泰貞是を夢にも知すして向ひしを新左衛門尉と名乗かけ四五十騎とつと突かゝる泰貞こはいかにと退かねてありけるに浅井新三郎亮政主の命にかはるを見よとてふみとゝまつて歴々の武者二騎突落す亮政もそこにてうたるへかりしに大橋善次郎伊部清兵衛尉尾山彦右衛門田中助七と名乗かけ亮政を討せしと取てかへしたゝかへは味方の兵我もとふみとゝまつて難なく永原を追立たり此時に亮政なかりせは泰貞命もあやうくそ見えにける新左衛門尉残りおほくは思へとも両陣さつと引にけり扨其後泰貞は佐和山へ帰城したまへは定頼卿も荒神山へそ惣人数を引取給ふ其日敵の首数五百討れけれは味方は三百うたれにけり誠に昔より佐和山の城は落かたき城なれとも高宮久徳降参し泰貞武略の達したりし故と皆人感し合にけり
 
江南江北和睦の事
 
去程に佐和山落城以後佐々木定頼と上坂泰貞愛知川表にして日々夜々に足軽小せりあひにて敵味方共にやすきこゝろもせさりしか其年の九月迄は泰貞は佐和山の城に住せしに江北の諸士は一手つゝ番かはりに休息のために已々か在所へ引こもりけり佐々木勢も一手宛在所へそかへりける斯て泰貞佐和山には磯野伊予守に与力二百相添て籠置我身は九月初に上坂村へ帰城し給ひけり次の年正月元朝より序次正しくして江北中の城持共青銅百疋にて礼オープンアクセス NDLJP:20をうけらるそれより泰貞城持衆同道にて上平へ伺候致され高清卿へ太刀一腰にて年始の嘉儀を被申上同二日には江北侍衆の外様衆の礼をうけ給ふに門前に駒の立所もなかりけり此泰貞と申は内に寛徳有て外に仁政をほとこし我徳を謙退し人の徳をあけ万民を撫育し給ふ人なれは上下共にあつはれ能大将也とて帰依せさるものはなし斯て年始の祝例幾万歳ととり行ひ給ひて正月中休息有て二月五日に治部大輔は同姓信濃守掃部頭手廻馬廻計りにて佐和山の城へこえて着座有り同七日に江北の諸侍共具し給ひて佐和山へ登城せらるへき旨触まはし給へは九日十日両日の内には諸軍勢不残佐和山へ馳集る泰貞物頭に向ひ被申けるやうは去年は各一命をもをしみ給はす軍功とけ給ふ故当城并に磯山を乗取高宮三河守久徳左近大夫味方に参る事偏に各忠戦故と存るなり併如此日を積み年をかさね日々夜々の戦にては国中人民安き心も是あるまし此度は近辺の小城共をふみつふし観音城へ押よせ無二の一戦をとけ是非の埓を付可申覚悟を極申つる間各も頼み入と有れは列座同音に尤たるへしと評判相極れは佐和山に十一日十二日休息して十三日に愛知川村の城波止土濃主税助か城をふみつふし可申と一図に相極れは各其通を触まはしける然る所に観音寺には江南旗頭不残集り軍評定をして居たりけるに三井寺門主登城被遊ける此門主は円満院殿なり江南屋形定頼卿一門なれは軍評議を聞給ひて宣ひけるは近年は君は臣を討て臣は又君をおかし父子の間に干戈を用る世となれは仁信の道すたれて天下大きにみたれけれは其故を以て江南江北の戦となる本は六角京極とて一家にして車の両輪の如くなり今かく一家として雌雄をあらそひなは他国の大事は何と防くへきよからぬ一家の取合なり中和尤たるへしと諫められけれは定頼卿も長陣あくみ給へは仰尤にて御座候先年明応の戦に京極と不和に成江南より人数を出し相戦ふ所に度々の取合に打勝佐和山城迄此方より切とるなりそれゆゑ今以遺恨散せねは如此戦ふなり中和の理御座候はゝ可被仰付諸卒休め可申とそ被申ける三井寺の門主聞給ひてさあらんに於ては先江北勢をおさふへしとて円満院殿より治部大輔許へ思召入有之条先軍互にやめらるへしとて御使僧を被遺ける治部大輔承り江北の物頭共に件の旨いかゝ可有とありけれは決定中和相調へきにはあらされと三井寺の御門主の仰にて候へは一先御請可然奉存候其上にて此方の勝手悪く候はゝ御承引被成ましく候と申けれは泰貞然らは御請を可申上とて御使僧の趣畏奉存候御一左右次第迄軍をやめ可申とそ被申上ける斯て円満院御門跡延暦寺へ御越被成彼山の御門主をかたらひまして中和の粧ひ被成ける両御門主御相談あつて被仰けるは江北京極家へのたよりなし其方にて聞出し注進可申由佐々木家へ被仰遣けれは定頼吟味を被致けれは平井加賀守すゝみ出て申けるは御内の小倉将監道氏は上坂治部大輔泰貞とは近き一門にて別ての間のよし兼々承及申候といひけれは道氏をめされて右の旨を宣へは御諚畏存候へ共大事の御使なり泰貞と申者一戦に取結よりしては親子の間にても心をゆるさゝる者なり今斯敵味方と罷成候上は私罷越候共定て逢申間敷かと被存候いかゝ可有御座候やと辞退申上れは後藤いやとよ相調ひ不申とても貴殿の無調法にては更になし先御請被申可然と申せは畏て候と申上る斯て両門主の御使僧に道氏被相添オープンアクセス NDLJP:21佐和山へ罷越則先へ案内申入れは泰貞聞て道氏殿には逢申ましくと申けれは道氏脇指を泰貞か小姓に預けて是非御目にかゝり申入度事候と申に付泰貞対面す両御所の使僧も御登城のよし道氏申に付泰貞衣冠たゝしくして請待申入善尽美尽し御馳走を申上らる漸有て中和の事申出されけれは泰貞謹て承り両御門主の御説誠以恐多御事に御座候尤佐々木京極は双方ともに佐々木氏にて京都御守護の館によそへて六角京極と名乗候へ共本は一家の儀にて御座候間中和仕可申の旨難有奉存候乍然数年か内江北は佐々木殿に掠められ遺恨山のことくに御座候間是非此度は一戦仕両家の内一方は滅亡可仕と覚悟極め是迄罷向ひ申候間御前宜被仰上可被為下とさらぬ体にもてなせは両使の衆もあきれたる体なり道氏泰貞を引立小声に成て申けるは此度は其方存分達するやうにいたすへしと申しけれは泰貞存分は何と御はからひ候と被申けれは道氏いやとよ佐々木家此中の戦に大きにつかれ申候貴殿も嘸つかれ給ふへしいにしへのことく国分の定相違有ましと申せは泰貞も長陣に疲れ果言葉やはらかに成にけり両使の人々重て申されけるは泰貞殿両御所より被仰出よりしては貴殿にきつはつけ申ましよく思案し給へと申けれは浅見対馬守上坂信濃守なとは老武者共なれは御噯の筋目によりいかにも畏可奉存とそ申けるに付泰貞も御請をそ申ける両使は夫より佐和山を御立有て佐々木の舘へ引給ひ噯の筋目を被申けるに定頼とかく両御所の御下知次第に仕違背申ましくと御請被申上ける此旨両御所はきこしめされいにしへの如く愛知川をかきり北は京極南は佐々木領分たるへし海より西両郡は志賀の郡は佐々木高島郡は京極家の領知たるへき旨かたく一札を取かはし双方一家の中和と成にけるそれより泰貞は鳥井本磯山二个所の城郭を破却して佐和山には磯野伊予守に与力二百人相付佐和山城代に置米原太尾の城には近所の城持共かはる相守へしと被申付新庄駿河守は桐妻城を拵籠置同月廿一日に上坂村へ帰城し給へは江北の諸大将悦ひ勇みて我居住へ帰りける泰貞は翌日上平へ参扣し右の次第を一々高清卿へ申上れは御悦かきりなくて永孝坊といふ京極重代の刀を被下けれは泰貞喜悦の肩をひらき上坂へ帰城したまひけり
 
上坂泰貞養子入道の事
 
斯て南北両家和睦し給ひてより軍止物静に成行は諸侍も安堵の思ひをなし国中の農夫それの家業をなし穏なる事本にきこえたりある時泰貞熟我身を顧るに若き形日におとろへて既に四十余歳に及へとも家督をゆつる嫡子なし女子一人ありけれと浅見対馬守室となれは今は誰をか養子とせんと種々思案をなすに我高清卿御取立にて今はかく栄ゆるなり此思いかてか報すへきとかく高清卿の御息一人申下し我苗跡を譲らはやと思ひ上平寺へ参上して高清卿へ言上す高清不斜思召汝か心に相かなふもの一人とらすへしとありけれは泰貞大に悦ひ其時御子三人有けるか中に次男にてわたらせ給ふ左近大夫殿を上坂の城にくしたてまつり泰貞はやかて隠居の暇を被申上けれは京極殿被仰けるは汝隠居せは自然の時誰をか大将に指向へき二三年も隠居の事はやきと被仰けれは御意は御尤とは奉存候へとも我等隠居仕候とも敵来にれいては何時なりとも罷出討果し可申とさもゆゝしく申上れは京極殿しオープンアクセス NDLJP:22からはともかくもと御免を被出ける泰貞よろこひ功成名とけしと申も今なるへしとてやかて上坂より一里余西に今浜といふ所に城をつくり上坂の城をは左近大夫にゆつり我身は入道して実名を其まゝ用ひ上坂入道泰貞斎と申今浜に住城す此今浜と申は大閤秀百いまた筑前守にておはせし時城をきつき在名を改住給ふ今の長浜是なり斯て治部大輔入道し給へは上坂信濃守も入道して清眼と号同修理亮入道し上坂道雲と申同伊賀守は了清と名乗ける入道泰貞斎聟なりける浅見対馬守は文武二道に達たる者にて南北共に人用ゐる侍なりしか各入道を聞嫡子斎宮助を対馬守と号し家督を相渡し入道して実名を用ゐ俊孝軒と申尾上村の城を拵隠居したりけり泰貞斎つく物を案するに其筋正しき人の子今一人申請江北を雨人しておさめ置京極殿にかしつきたてまつらせたく被思けるに此事美濃国土岐殿聞給ひ幸御息や多かりけん泰貞斎に一人とらせたく思召されける今浜への縁を尋給ふに伊吹内匠助は土岐家中より縁組の人なれは彼を被頼可然と申に付内匠か許へ被仰遣泰貞斎へ我子一人可遣候間よくはからへよかしと御頼あれは内匠今浜に来り土岐殿方より右かやうと申入れは泰貞斉聞て土岐殿なとの御子我養子なとゝある事無勿体次第なりふつ同心なしと申ける伊吹罷帰土岐殿に此旨申入れは土岐殿聞給ひてされはとよ泰貞斎もいやとは思はぬと見えたり彼は義ふかきものと聞達て被取持可給と伊吹か方へ被仰越けれは伊吹又今浜に来り再三しゐてそ申ける泰貞斎然は若君拾れかるへしさあらは若き時より我城一里はかりの間は夜廻り仕候間其時見付申候はゝひろひ取養子に可仕と申は伊吹首尾は調ひたると悦ひてしからは何方に拾置可申やと間けれはたつか鼻の川の辺にすてられよと申互に約諾相極伊吹内匠濃州へ立越右の段々申上れは泰貞老は聞及たるより義理の達したる人なりとて御よろこひかきりなし内匠もおくへ請しられ御馳走残る所なし翌日十二歳に成たまふ若君小玉兵庫に被仰付泰貞老か望にまかせよとて江北に来龍か鼻川辺に捨置あたりを守護してゐたりけり泰貞斎相図の暮にもなりぬれは馬上二十人めしつれ龍か鼻へ行若君を見付やあいかに人々われは子をもたされは一人は養子あり今一人望しを仏神三宝感応を蒙りいまかく次男をあたへ給ふ事祝着不過之候とて則今浜へ具し申囲繞渇仰中々なりやかて少名を付淵堤と申けり此名は川端にてひろひ取しにより淵堤とそ申ける十三歳の春元服させ上坂兵庫頭泰信と申けるそれより今浜の城を嫡子上坂治部大輔泰信にゆつり上坂の城はかまへせましとて次男兵庫頭泰信に相渡し我身は今浜の内に舘を構へ仏道修行に心を入て昼夜念仏三昧にて暮されける此泰貞斎は着年の時分京極殿に奉公をとけ後御名代被仕度々合戦に打勝剰二人の子ともに所領大分あて行ひ今又身ありそき安楽に暮し給ふは一かたならぬ果報とてうらやまさるものはなし
 
上坂入道泰貞斎病死の事
 
去程に永正十二年十二月上旬より上坂入道泰貞斎は以の外の煩出しけれは良医かはる召寄せ医術をつくすといへとも業病のかなしさゆめ薬力すこしもかなはすして次第によはり果て入道必死と思ひさため両人の子共を左右に近付其外一門家老呼あつめてオープンアクセス NDLJP:23宣ひけるは某病気日にそひ重くして精気殊の外よわれは定て程なく可死と思ふそや然は今迄我等仕置のことく江北の政事治部大輔とり行はるへし第一に先君に忠義あるはこれ常のならひ道なり上平におはします高清卿を尊崇し随分忠義をつくし給ふへし又弟兵庫頭は治部大輔を主人とせられよ治部大輔は兵庫頭を慈愛深くせらるへし其下々旗本は先嫡子なれは治部大軽を江北の主として某に付随ふかことくせよ一家とゝのはされは其国必乱るゝものなり万事両人相談して国の仕置を取行ふへしとのたまひて其後二人の子ともはかりを枕本へ近付潜に被申渡けるは江北諸侍の中に某死したるとも敵となるへき者一人もあるへからすゆゑいかんとなれは当国の諸侍いつれも久敷家なれは其分際にしたかひて所領安堵の地に住する故求て謀叛の者あるましきなり爰に浅井新三郎亮政は若年の時よりも傍を不放召仕けるか智恵才覚他にすくれ思案の深き者なれは度々軍功其数多し此者軍の術を我に向ひ推参せしに一つとして違事なし疾にも取立て物頭にもいひ付へしと度々思ひけれとも汝等か為にも行々あしかりなんとおもひ家恩をも不宛行小身にして置しかとも少も不足の気色なくよく奉公を勤めしはとかく此亮政一人は僻者と思ふそや彼に心をゆるすな又隔つる事も無益なりよく念比にして召仕へと次第委被申渡けるいよ病気おもく成行は浅見俊孝軒を近附て被申けるは治部大輔も兵庫頭も両人共に若き者の事なれは貴殿を偏に頼むなり我存生の如く家老の者と相談し給ひて万事の仕置を申付給へ兄弟のもの共も俊孝軒を父泰貞斎とれもひ諸事異見に付可申とそれそれに遺言して永正十二年三月九日生年六十三歳臨終正念にして念仏往生をそとけられける誠に若き時軍功数度に及ひ仁政厚して君臣の道正しき者なれは高清卿御落涙ましませは江北中の諸侍をしまぬものはなかりけり斯て弥高寺にて葬礼いとなみ青松院殿春岩宗月大居士と贈名して其とふらひはおひたゝし高清卿御焼香被成けれは江北の諸侍残らす焼香をそまたりける此泰貞斎初は上坂を三分一と堀部といふ小村一个所領知してゐたりし人なれともかやうに江北の大将となり死てまて人皆其跡をしたふ事誠に果報の侍かなとうらやまさるはなかりけり
 
浅井備前守先祖の事
 
浅井備前守亮政の先祖を相たつぬるに両説あり先一説に後花園院御宇嘉吉年中に三条大納言公綱卿〈後に改氏と改〉勅勘を蒙り左遷の身と成給ひ佐々木京極中務少輔持清にあつけさせ給ひ則三条家の御知行所として江州浅井郡丁野村に蟄居したまふ其時丁野村にて御子一人出来させ給ひぬ若君三歳の時勅勘をゆるされ帰洛したまふ政氏公都に帰りのほりて程なく薨す母の心ひとつにて都へ若君を供し奉り上るへき便りなくして十一歳迄土民の中にてそたておくに若君母にむかひたつね給ふは我父は何人そや何方におはしまし候やと申給へは母答て申せしは汝か父は洛陽三条大納言殿にてわたらせ給ふか勅勘を蒙り此所へ来汝三歳の時帰洛ましてやかて御迎可被下とかたく被仰置けれとも程もなく薨し給ふと申父の御かたみなるそとて守り脇指さし出す其後御年十四の春京極持清鷹狩に出給ふを此君聞て馬のさきにひさまつき被申は某は丁野村の流人の子なり供奉の御侍衆御名字を被仰付いかやうにオープンアクセス NDLJP:24も被召仕可被下旨宣へは持清聞たまひ若年の身として近比神妙なりとてそはちかくよせ給ひ貴殿の父は公家なり某近習に召仕事もいかゝなり名字の事は貴殿住したまふ郡は浅井なりけれは則其名をなのらせ給ふへし合力には其里を可遣とて丁野村の内をそ被遺ける去程に丁野村の内上米は京着所の替作は京極の持分なりそれよりして浅井新次郎重政と名乗後には新左衛門尉とそ申ける其子浅井新三郎忠政是も年たけ新左衛門尉とそ申ける其御子三人有嫡子をは新次郎堅政次男新七郎是は三田村か家を継三男新八郎是も大野木か養子と成嫡子新次郎堅政男子四人あり其嫡子をは浅井新次郎〈後には姓字を改赤尾駿河守教政と申太尾後巻の時箕浦河原にて討死次男〉

浅井新三郎亮政〈後備後守と改〉三男浅井新助〈後に大和守政信と改〉備前守亮政に男子四人あり嫡子は浅井新三郎高政〈早世〉次男新九郎久政〈後に下野守久政と云〉三男宮内少輔と申四男は僧に成て智山和尚とそ申ける下野守久政の嫡男をは浅井新九郎〈後備前守長政と申て〉近代の武勇者なり此長政に男子一人万福となつくるなり長政の子とも衆の事〈此物語の末に委可書入之〉又一説には敏逹天皇守屋大臣​本マヽ​​より​​ ​俊忠卿其御子式部大輔藤原忠次卿初て武家にくたり浅井郡五ケ所を知行して俊忠俊政と成此俊政より亮政迄廿七代と申なり則其巻物も所持仕候へとも不審御座候いつれか本説にて可有御座もいまた考出さす候されとも浅井新左衛門忠政より浅井名字多く栄へ又一門も有之と申伝候亮政武略を以て上坂の城を乗取まては江侍の内にても数ならさる小身人なり四代か間は蟄居し給ふとそ聞えける

 
浅井新三郎木の本地蔵へ祈願を籠る事
 
浅井新三郎亮政つら吾身の先祖を案するに是三条大納言公綱卿の末流にして今弓馬の家に下りて其姓名をけかすといへとも草芥の中に埋れて当国にさへ人しれるものなし武士たらん者は天下をも心かけせめては一国一城をも不持して徒に星霜を送る事生涯もなき次第なり仰願は仏神三宝の感応を蒙り暴悪奸邪の偽臣を解し一国一城の政事をも取行度思ふにむかしより今に至るまて仏神に祈願を籠其意思を述る習あれは我も丹誠を抽て立願をなさんと思ふに当国伊香郡木の本の邑長祈山浄信寺地蔵大菩薩は南天竺龍樹大士の彫刻たりしか仁王四十代の帝天武天皇白鳳元壬申年に竺土より摂津国難波の浦へ万里の波濤に漂流してよな金色の光海上に耀きたまひけれは浦の長帝へ奏し奉る帝も怪き夢見たまひける事侍れは思召あたらせ給ひて則南都薬師寺の祚蓮に勅命をなし下し給ひて彼尊像を海上より取上けさせたまふ則難波に伽藍を営み唐隔由金光善寺と号し尊崇し給ふ其後宣旨あつて当国へ祚蓮安置し給ふ今の尊像是なり如此の霊像なれは貴となく賤となく歩を運ひ誠を以て祈り奉るに所願成就せすといふ事なし吾則一夏九旬の間日詣をせんとて永正七年四月八日長祈山に詣て一通の願状をそこめたまひける其詞曰

帰命頂礼地蔵大菩薩者六趣苦海之大導師其徳巍々而将超余尊也是故昼夜愍郡生普欲彼岸矣是以無浄仏国土成就衆生之義者乎抑当寺菩薩尊容者霊験無双而其号施海内実是日域不共之霊像也時今及澆季政道悉廃国家将傾爰亮政臥田間熟思此上専好驕無撫民之義下困窮而既陥塗炭職之此由也吾雖庸夫潜有興復之志以為夫生武勇之家オープンアクセス NDLJP:25此衰頽拯而徒累月積年与草木朽廃非武夫之本意仰願菩提薩埵垂無二之慈愍吾素望矣然則已往当意於尊像能修堂塔及僧房伽藍麽偏耀寺門仍願書之意趣蓋以如斯

  永正十二年孟夏吉旦             藤原朝臣浅井新三郎亮政敬白

かくて亮政奉公の暇をうかゝひ夏中九旬の間参詣をそいたされける其相満る夜汝か祈願成就せり能信せよとうつゝに告させ給へは夢さめ手水うかひして礼拝合掌して地歳大薩埵の擁護し給ふよと感涙肝に銘していよ末たのもしくそ覚えける又同郡已高山鶏足寺は伝教大師来朝し給ひて然るへき霊地をと所々を見立たまふに御心にかなはせ給はねは伊香郡に来て延暦年中にみつから正観音の像を作りてえはらく安座したまふ其後又桓武帝に御心をあはせ給ひて延暦寺を開き給ふとそ聞ゆ誠なるかな此観世音は大慈大悲の御誓ひ衆生済度の御願ありとて同しく願状を籠給ふとそ聞えけるしかはあれと今相尋ぬるに其文章はしれさりき

 
浅井亮政隠謀の事
 
去程に浅井新三郎亮政は上坂入道泰貞斎死去の後子息上坂治部大輔泰舜に付奉り随分奉公勤といへとも泰貞斎に打かへ新参の佞者を近付忠諫なす者を遠さけらる誠なるかな忠言耳に逆ひ良薬口に苦しとて亮政なとにも万物隔つるようにして外様奉公になりけれは亮政つら物を案するに入道果給ひて今幾程の年月もへさるによろつ我まゝにふるまはれ酒宴遊興に心をよせ出仕の侍にさへ不逢は行々は弥以て遊興に募り家老の諫をも用る事はよもあらしさあらんにおいては他人の国となるへきなり我江北の物頭共の思慮を鑑るに治部大輔を取のけ上平殿を可守侍一人もなし我所領さへ人にうはゝれすんはたのしみこれに過しと思ふと見えたり此時に当りて泰舜泰信の行儀悪敷こそ幸なれ何とそ思案をめくらして泰舜泰信を​本マヽ​​立て​​ ​江北の政我家より出すへししかはあれと小身の体として加様の大功思ひ立事誠に蟷螂か斧を以て龍車にむかふよりおろかなる事なるへし去乍ら戦場の習にて小勢を以て大軍を破る事古今其例多かりき併我百分一に足さる勢にて思ひ立んもおほつかなししかはあれと泰舜泰信いまたうゐしき内に思ひ立すんはいつの代を待へきたとへは七十八十迄なからふるとも死は同し理なり某当年廿二歳にて討死せんも以ては夢の夢なれは此度是非に思ひ立花々しき討死せんと決定思ひ切兄にておはします浅井新次郎教政か本へ行此由潜にかたれは教政大に怒て申されけるは汝は気違候よな我等兄弟三人か勢わつか六十には過す此端武者を以て泰舜泰信を討ん事九牛か一毛よりもれとつて候そ其上大野木三田村は一門なりとは申せとも御辺かやうなる死武者によも組せんとは申さしかたく思ひとゝまれと大に怒てかへしけりかくて亮政三田村か舘に至り隠謀かくと語れは貴殿は狂気に成たまふか治郎大輔兵庫頭とは江北の諸士うやまひ尊ふ折なれは何とて我々にくみする武士のあるへきそ勿体なき心中かなと耳にも更に聞いれねは亮政心に思ふやふ扱は此人も役には立ましとてもならぬ物ゆゑにことはをつくすも無益なりと思ひそこをもすんと罷立大野木か方へ行内談して見んとて対面し右の趣密談す大野木聞ていはく亮政殿は例の大オープンアクセス NDLJP:26気なる事を宣ふ物かな貴殿兄弟三人三田村我等以上五人の勢を以て泰舜を討ん事張良か術をえたりとも何とて本意を達せんや五人か勢を今浜上坂勢に合すれは百分一もあるましきそとてもかなはぬものゆゑに耻辱をかきて後代に悪名をとゝめんより時節を待たまへとよく諫られけれは亮政心に思ふやふ三田村大野木は頼甲斐なきものなるそ彼等か存立ならは勢は七八百も有へきそ又我日比ちなみし方にも味方に参りなは彼是合一千一二百騎も有へき又治部兵庫勢とても五六千の外はよもあらしとかくに思ひ立追散さん事何の子細の有へきとはかみをしてこそかへられけれかくありける程に誰にたよりて相談をすへきやうもなかりしかいや思ひ出したりけにも尊照寺村に住せし大橋善次郎秀元は互に竹馬の時よりもちなみたる朋友なれはかれに語り見はやとて秀元をひそかによひ此由かくとかたれは善次郎聞さて貴殿にはよくこそ思ひ立給ふ物かな今治部大輔物ことうゐしき内に思立すんはいつの時をか期すへき我等も内々は貴殿とこそ相談し此儀を是非と思ひしによくこそしらせ給ふ物かなと感しけれは亮政は不斜によろこんて誠に貴殿なちてはたれあつて頼み甲斐のある人や候はんと残ることもなけにそ見えにける秀元申けるは扨大野木殿三田村殿へは御しらせあるましきやと問に其事にて候はつかしくは候へとも昨夜両人方へ罷越かくとかたりしかとも中々色を変し以の外の体にて剰我を狂気者のやうに申候て取合申さすとあれは善次郎聞て御一門には候へとも腰のぬけたるかたに候程に左様ならてはえ申されましきととつといふてそ笑ける此事他所へもれぬさきに一時もはやく思ひ立給へ貴殿御兄弟三人と我勢を合せなは百六十程こそ有へけれ今少勢も不足に候へは伊部清兵衛為利は軍功も其隠なし御辺とも我等とも別して心底残さすかたらふなれかくと申さはやといへは亮政ともかくも御分別次第と被申けれはさあらはとて清兵衛尉所へ行対面してしはらく世間の事を語りやゝあつてひそかに申けるは貴殿を此度偏に頼申度事候かたのまれたまはゝ申へし御同心もいかゝとおほしめさはこのまゝ罷帰らんといへは為利聞てにつこと笑ひ御辺の事に候はゝ一一なき命を奉らんと心よけに申てはや意趣をかたられよとあれは秀元別の子細ならす我等も浅井亮政にたのまれ其為に命をつかはして候と申せはそれはいかやうなる事に候やと問されはとよ亮政逆心を企て泰舜を討へき謀なり就其貴殿を偏に頼へきとの事なりとあれは為利聞て内々は我等も思ひ立貴殿又亮政を頼むへしと思ひしか扱は亮政の若者に先をせられける事よいまた若年の分として加様に思慮あるは江北の主となり天下をも心にかけ諸士の棟梁となるへき器量そかしと感し何時なりとも我等先をいたし一方打破へしと憚もなく荒言すとかく加様の事のひにては他へもるゝものなり明後日は是非に打たゝんとそ申ける秀元不斜に悦て御心中の通亮政にかたりよろこはせんとて暇乞して立帰り為利か心中を亮政にくはしく申けれはさてもたのもしき人かな是こそ武士の道ならめとたかひによろこひ勇みける其儀ならは明後日は打立んとそれに支度をそしたりはる誠に小勢を以て大軍に打むかひ其功をとくへきの謀よのつねならぬ人々かなと功なつて後感せぬ者はなかりけり
 
浅井三代記第二終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。