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浅井三代記/第三

目次
 
オープンアクセス NDLJP:27
 
浅井三代記 第三
 
 
浅井新三郎智略を以て上坂の城乗取事
 

かくて伊部清兵衛尉為利大橋善次郎秀元二人の者ともは浅井新三郎亮政か舘へ夜中に行密談して申ける明後日は軍の手立は何と謀りたまふそや様子心許なくおもひ夜中にかくは来るなりといひけれは亮政承り今宵是迄御越の儀一入過分に候明後日の手立相談可仕兄弟共にも軍の契諾いまた申含めす候間只今此方へ呼よせ評議相極可申とて則使節を以て申されける其時兄新次郎政信は同所丁野村に住城す三男浅井新助政統は川毛村と申て丁野村より五六町はかり脇に住所ありけるか二人の者共を呼寄軍評定をそしたりける先亮政の思召入を語りたまへと有けれは亮政被申けるは明後日はことく支度して日暮なは五つ時分に上坂の城近く堀部村へしのひ入それより物見をは彼城内へ入様子を見はからひ時分を告来るにおいては我等百騎の勢をつれ上坂村惣構内の藪の内へしのひ入合詞を以て我手前へ馳来るやうに侍共に申付置なり御辺達両人は新次郎を召つれられ残る百三十騎の勢にて堀部村は上坂村より間六七町ならてはこれなけれは其堀部村に火をかけ鬨を噇とあけらるへし其時城中驚き取ものも取あへす我先にとかけ出へし敵合遠きと思ひ給はゝ又鬨をあけ給へ其時兵庫頭も討て出へきなり其後両人の人々は百騎の人数を打つれ敵の中へまきれ入追手の門を心かけ随分はやく可被来新次郎は残る三十騎の勢にて四五町次なる垣籠村へ行又四方より火を放ち鬨を作り給ひそれより何方へなりとも敵むかはさる方へにけのかるへし自然首尾もよきならはからめての門を心さし可被馳来我等は上坂の勢城中を出といふより心かけ八分程出るを見は敵の帰足の様にして城中へかけ入門を固めたるやつはら番所の者共一々に切捨やかて門をかため手あてを申付敵帰るものならは射立切立さんさんに可防貴殿達も随分はやく城中へかけ入たまひ共に防き給ふへし若兵庫頭か勢懸出ぬ物ならは上坂の城へ押寄侍共の家々町屋不残放火して其上にて様子見はからひ無二に切て入へし敵こはくしてかなはすは丁野村へ各一所に取籠り在所をかためて可防敵猛勢にて責来らは花々敷一働し此程の眠を覚させ其上にも我々に見つくものこれなくは復かき切て可果そ各も覚悟し給へとありけれは秀元為利是を聞さて亮政の手立は異国の張良韓信我朝にては義経正成も御辺の術にはいかてか過へき如此の術ならは江北は廿日の内には切取へし其いきほひを以て江南へ乱れ入六角殿を追立天下に旗を可立程の器量なりと称美すれは亮政大によろこひてさあらは明後日の暮に丁野村へ二人の衆も御出あれと堅く契約いたし置秀元為利二人の人々は我居住へ帰其用意をそしたりける去程に永正十三年子の八月廿三日の戌の刻に二百三十騎の勢を引具し丁野村を立て上坂の城近くしのひより堀部村の森に居たりしかえのひの者をつかはし上坂の様体を見せけるに折ふし城中に酒宴の音したりけれは此者時分は今なるへしとおもひ立帰り此旨かくと申せは合図のことく亮政は百騎の勢をつれ追手の総構の弓手馬手の藪陰田中に人数をかくし置折しも稲葉をおとつるゝ秋風物さはかしく吹けれは思ふまゝにそしのひよる教政秀元為利三人の人々は堀部村にみたれオープンアクセス NDLJP:28入家々に火をかけ鬨の声をそあけたりける上坂の城には酒宴なかはの事なるに是はいかなる事やらん何様謀叛人出来て夜討するかとて上を下へとかへしつゝ騒動することおひたゝし泰信申されけるは入道泰貞斎殿の申れかれし事の候へは浅井新三郎にて有へし此者人数をよく持とも五十か六十ならてはあるまし急き懸むかひしやつ生捕にせよとありけれははやりをの若者とも我先にとかけむかふ兵庫頭もはやりきつたる若者なれは進みにすゝんて出給ふ城中には大将打出給へは誰可残といふ者なくて皆追々に馳出千五百騎の兵一人も不残兵庫頭に馳付けり折ふし上坂入道了清子息伊賀守同入道道宥子息修理亮四人は其夜は今浜治部大輔泰舜にてふるまはれ夜更まても不帰上坂入道清眼子息信濃守はかり城より外にあつて住たりし兵庫頭懸向ふを聞き若大将一人夜中に取放事心許なく思ひ追続き打て出る新三郎は思図に敵を出しぬき百騎の勢を引率して城内へ懸込は番所の者とも味方帰とおもへとも寄手兵仗して門番の者五六人矢場になきすてけれはこはいかなる事そとてあなたこなたと防けとも百騎の者とも四方八方へかけ廻り追つめ戦へは皆ちりに落にけりかゝりける処に兵庫頭の妻をはしめ武士の妻ともいとけなき子をいたきこゝのつまりかしこのつまりにひれふし涙にむせひ途を失なひてゐたりしを新三郎さすか大将と可成人の事なれは此方へあたとならさる者を一人も殺すへからすと下々に下知して矢倉へ打あかり敵合を見給ふにいまた一人もきたらされは搦手の門を開き其妻子共を案内を付てそのけ給ふかくて伊部清兵衛尉為利大橋善次郎秀元敵むかはさる先に鬨を二度作り百騎の勢を引つれ案内はよく知つ上道へ廻り敵一人にも行逢す上坂の城へ馳付新三郎と一所にこもりける新三郎不斜によろこひ門々を固め敵の帰るをそ待ゐたる浅井新次郎教政は郷つゝきなる垣籠村に火を放ち鬨を噇とあけ行方しらす成にけれは上坂勢は是を聞されは小勢なるそ一人もゝらすな討とれとかの村へ押寄四方を取巻て見れとも敵一人もなかりけり里の者を尋出し問けれは武士とおほしくて甲冑を着たる者二三十人馳来り家〻に火を放ち鬨をあけ何方へか帰り行候と申せはそれはいかなる方へにげ行やと問は南東へ逃行候と申兵庫頭是を聞扱もにくき夜込の次第かなとて跡をえたふて討とらんといひしに信濃入道清眼申けるは是いかさま心得かたき敵のふりにて候味方をれひき出すかと覚え候はや引取給へと有けれは兵庫頭も信濃入道に諫められ上坂さして帰り何心もなく城へ入へきとせしを城中には是を見て究竟の射手ともさしつめ引つめさんに射ける程に手負死人出来けれはこはいかに城中ははや寄手の方へとられけるとて兵庫頭無念たくひなくおもはれ此まゝ取巻可攻と下知せられけれは上坂信濃入道申けるは比は八月廿三日折から一しくれして東西暗く物の色さたかならねは敵いかやうなる謀をやたくみ置らんに多勢を頼みに取掛城中より追掛られなは味方半討るへし其上浅井一人して如此なる大功はよも思ひたゝし組するもの多かるへし又大野木三田村も同心にて有へし定て勢の一二千もなくはよも思ひたつまし裏切をせられぬ先にまつ爰を引退き治部大輔殿と被示合明日押よせ攻たまへと有し処へ修理入道道雲子息修理伊賀入道了清子息伊賀守四人の者共は敵味方呼声を聞もろあふみにて馳来オープンアクセス NDLJP:29りけるかはや城中を敵にうはひとられけれは伊賀の入道信濃入道を怒て申けるは大将兵庫頭殿こそ若年にてはやり給ふとも其方爰に有なから如此敵におめとたしぬかれける事の口惜さよとてすてに攻んとせしに味方雲のすきまを見て敵のよするかたへまはりさしつめ引つめさんに射立けれはとやせんかくやあらんとしはしかあひたは騒動す城中には是を見て秀元為利は門をひらき切て出一々討取へきとひしめきける新三郎引とめて申けるは夜中に敵の中へかけ入一旦利ありとも多数取てかへされ城を付入にせられはいかに悔とも益あらし今夜の勝は十分にて城中心易くかためたりしつまり給へととゝめたりかくて清眼了清心はたけく思へともさうなう責入事のならされは兵庫頭の供をして今浜さして落行は治部大輔は驚きいかにいかにと尋ねけるに信濃守右の仕合委く語れは不覚悟なる次第かなと言語を絶て怒りけるかくて明れは廿四日の早朝に浅井新三郎亮政謀叛を企て上坂の城を乗取旨江北中に隠れなし亮政と常々なちみし者とも扨も大気なる事を思ひ立ものかな亮政を見つかんとて浅井新六郎中島加助伊部助七郎丁野弥助田部助八尾山彦右衛門尉彼等六人其勢二百上坂の城へ懸込亮政に逢加様の大義思召立ならは我々にも少まらせ給ふへきに心底隔給ふかと恨をなして申ける亮政大に悦ひ早速是迄御見次給ひ候段弓矢のなさけにて一所に討死したまはんとの御事過分不浅とてよろこひかきりなしかゝりける所に三田村左衛門大夫大野木土佐守上坂の様子を聞扱々亮政我等の意見も不聞入上坂の城を攻取なり我々も一門の中なれはとてもゆるさぬ物そかし上坂へ馳入一所に成て今浜勢を防かんとて一門与力八百余騎を引率して上坂の城へかけいれは廿四日の巳の刻迄に城中忽に千二百五十騎になれは亮政大に悦ひて此人数を以て戦はゝ敵幾千万騎にて寄来るとも敵を城外に一足もためさせしと荒言す大野木三田村是を聞亮政の例のことくかさつなる事を被申よとて皆一笑をそしたりける

 
上坂合戦の事
 
明れは子の八月廿四日の事なるに今浜の城には上坂同姓打集り軍の評定とりなり中にも上坂掃部頭進出て申けるは今日の軍は時刻移りてはあしかりなん旗本人数にて上坂へ押寄せ侍町まて焼立四方より責らるへし其内に味方多く馳付可申候時をうつしなは新三郎に心をあはせし者とも上坂へ馳着多勢籠城せは事の外味方の手間入可申候間はや打立給へと申けり並居たる人々味方在々より馳来を待合せ可寄といふもあり又掃部頭申所尤可然といふもあり評定更に決しかたし誠に泰舜泰信日比行儀あしき故家老の中間さへしまらねは諸卒の心もしられたりかゝりける所に尾上村に住する浅見入道俊孝軒は山本へ馳来る子息対馬守孝成をいさなひ手勢五百余騎を引率して今浜さして急きける今浜に着治部大輔に対面して何とて御油断候そ御家老衆歴々の評定いかゝ被極候や一時も急き彼城へ押寄責らるへし故いかにとなれは世中の習ひにて先新敷を用ひ古きを捨る物そかし人の心は花そめのかはるに早き物なれは旗本の中にも新三郎に心をあはせつる者も多かるへし彼に勢のつかさるさきに押寄へしとて先其日の士大将には浅見対馬守上坂信濃守同掃部頭彼等三人にオープンアクセス NDLJP:30いひ付らるかくて永正十三年八月廿四日の巳の下刻に今浜を打立給へは四方より人数馳集り六千五百余騎に成にけり俊孝軒治部大輔に向ひて申けるは敵は小勢なれは無難責落すへし去なから新三郎は目はやくして心するとしかなはしと思ひなは四方を不顧旗本へ突かゝるへし惣して平城の事なれは四方八面に働へし物に心得たる者を旗本に可残とて上坂修理入道同信濃入道両人して旗本を守護したり俊孝軒は脇備に有へしとて遊軍と成てそゐたりける去程に上坂の城近く押まはし遠巻に取巻て鬨を噇とあけたりけり城中には是を見て伊部清兵衛大橋善次郎二人の者共は元来勇気なるものなれはすてに懸出敵を追立んといふ大野木土佐守秀国三田村左衛門大夫定光清兵衛善次郎を留め卒爾なりしはらく御覧せよ敵もむさとは寄ましきそ味方も手立有へき所なり亮政は何方に御入候やらんと有けれは亮政は敵いまた寄さる先より大手の矢倉へ取のほり敵のよする次第を物見して居たりしか寄手近と来るを見て矢倉よりおり軍の手立をしたりける亮政申されけるは寄手近と取巻なは城中は無勢なり勝利を得る事あるましとかく今日の軍は無二の働こそよく候はめ先一番備をは清兵衛殿善次郎殿両人の人を頼み候なり第二番は某可仕三番には大野木殿三田村殿を頼むなり三番備は人数を被備我等手引色に見給はゝ切て懸らせ給ふへしとのたまへは清兵衛善次郎尤なりとて門脇へ打立出る相続く人には伊部助七郎丁野弥助田部助八以上其勢百七十騎大手の門より五反はかり打て出てそ備へたる新三郎亮政二番備にて敵を待三番に大野木三田村門の内にひかへたり寄手は近々とよせむかひ二番備まての人数を見て小勢なるそいさ押よせて打とれとて浅見対馬守五百騎はかりを左右にして鬨を作りて切て懸る清兵衛善次郎百七十騎にて面もふらす突立追まはす亮政時分はよきと心得噇といふて前手に追続き切てかゝる寄手大勢と申せ共此競ひに突立られて敗北す上坂掃部頭口方田彦七郎両人の者とも鑓を横たへきたなき味方の者共かな敵を味方に合すれは十分一もなきに取てかへして打とめよと喚叫て突かゝる清兵衛善次郎も心はたけく勇めとも上坂口方田に追立らる新三郎是を見て大音あけ浅井新三郎亮政といふ者なるそ討取給へと名乗てかゝる舎兄新次郎三男新助も相続て面もふらす突かゝり蜘手十文字に打破りかけ通れは掃部頭口方田も爰を詮途と防けとも其まゝそこを追立る対馬守入替りて戦へときほひかゝれる味方の勢一足もひかす戦へは旗本迄騒動す遊軍となりて居たりし浅見入道俊孝軒さすか年老の武功の人なれは二百五十騎横鑓につきかゝれは大橋と伊部と火花を散して戦ふたり亮政申されけるは是名ある古武者なり心得よ味方とてしはしか間は戦ひしを対馬守信濃守掃部頭三人嗤といふて取てかへす俊孝の横鑓に味方難儀に及ひしに又直道よりも追立る味方大に敗軍す跡にひかへし大野木三田村八百はかりの人数を一度に啼といふて打て出る今浜勢肝をけし一さゝへもさゝへすして旗本さして崩れけれは味方是に気を得て旗本さして追立る旗本大崩して騒動す俊孝は是を見てきたなき味方のありさまかな討死爰なりとて取てかへせは新三郎清兵衛爰にあり俊孝殿に見参とて面もふらす切てかゝるさしもに剛なる俊孝も今浜さして引たまふ新三郎何くまて落さんとて追ふたりける浅見新七堀屋弥七引かオープンアクセス NDLJP:31へして討死す亮政は此隙に落のひける俊孝軒を既に討とらんとせしに浅見新七堀屋弥七れきの働して打死する故もらしぬるこそ無念なれ去なから味方の勢もつかるらん長追すへからすとて七八町追討して皆打つれてそ引にける誠なるかな一陣敗れて残党不全侍大将三人の者ともか手にて敗北しつれは手に不合引のく兵過半なり武者は大将のつかひからなる物なるへしと陰沙汰して申ける今日の軍に敵百八十討とれは味方も四十一人被討にけり
 
今浜勢軍評定上坂勢評議の事
 
かくて昨日廿四日上坂表にして治部大輔か勢大きに利を失ひけれは治部大輔兄弟浅見入道を初め敗軍の士卒を集め重て上坂へ出張し今度は無二の一戦をとけんとの儀なり浅見入道俊孝軒士大将にむかひ申けるは昨日廿四日の合戦に敵を小勢なりとあなとり我討取高名せんと諸卒一度にいきほひしに浅井味方の気をつよくのんて二番備まてに火出る程戦ひ味方つよくして追立二度迄敗北すしかれとも跡に大野木三田村門の陰によつてこらへゐて二番備の人数戦ひまけ崩れしを時分と思ひ大軍身命を捨切てかゝる故我等横鑓にて善次郎清兵衛は討取へき物を大野木三田村に突くつされし故味方敗北す我等精鑓の図今少はやき故若者ともに戦ひまけ申候間重ては一二三の備軍法をよく定めかけむかはるへしと被申けれは其座に並居たる各申けるは俊孝軒の仰の通残多き軍なり重ては此方にも一術しめて被遊可然とそ申しけるかくて方々へ廻文付人数を集め給ひける惣して江州一国は六角京極両家代々久しく領知の国なり其上近江侍とて我住する郡を知行する大名も有或は我住する郡に他国の郡を添て知もありそれより下つかたは己か在所に則領知して居るもあり又五ケ所も七ケ所も相添て知行するも有て其在所にて筋目正敷して戦場にてけなけなる者には只今の足軽扶持程得させ置はいつれも馬にのり家来少々引具し供せしなり平生は月替に郡分に相詰供せしと聞其時治部大輔旗本三千と申けり兵庫五百内同姓掃部頭三百を加へてつもるなり上坂伊賀同修理同信濃は幕下なり人数つもり場所より多く出るにより此段にて相断るなりかくて高島郡は海を隔けれは先指置浅井郡は不及申伊香郡坂田郡犬上郡迄今浜へ相詰らるへしとて触まはしけれは或は昨日の軍にいた手を負たるとかこつけて居るもあり又畏存ると申て不来もあり心にしてしまらさりけり是を如何にと申に泰信元来心甚しくて我前にて媚語ふ者は近付又諫言なとを申程なる者は遠さくるやうなる気質なれは人不思付又浅井智略を以て上坂を乗取といひ翌日の合戦に花々敷働して今浜勢追立る其力高く思へは人二の足を蹈てゐたる故廻文ありといへと坂田郡の勢犬上郡の勢一人も不来浅井郡伊香郡人数少々来りけれは俊孝軒のたまひけるは方々より来る勢を待ともはかしき事よもあらし此人数に旗本人数をさし加へ押寄可責とそ申けるかくて上坂の城には今浜の様子告しらする者有て勢不集事聞けれは伊部清兵衛大橋善次郎二人の者とも申けるは今浜より敵寄さる先に此方より押寄明日未明より今浜の城を責られなは矢一筋をもはかしく射出す者あるまし大方逃失可申泰舜泰信も定て落らるへし城に残て戦ひなは此二人の者手にかけ可討取と憚なくそ申ける亮政此旨を聞御辺達のつもりも尤には候へとも今浜オープンアクセス NDLJP:32の城は入道泰貞斎のよく拵置れたり堀深うして岸高し其上俊孝軒は軍道常にわすれぬ良武者なれは味方堀にひたると思ひなは城中より切て出らるへし其時味方切立られん事案の内なりたとひ勝利ありとも後の大事たるへし先しつまり給へとて秀元為利二人の者共をとめられけり重て二人の人申けるはいやいや軍は手ぬるく被成ては勝利すくなきものなり其上勢多く集りなはむつかしくなるへきそ唯打立たまへと申ける亮政制してとめけるは尤各の術も宜く候へとも俊孝といへる入案深き人なれは一昨日も今浜に勢を残し被申へし荒手の少々あるへし其上今日押寄責るとも城中に人数二千はかりも有へし又馳集る勢の五六百もあるらん此方の諸卒も丈夫には思へとも多勢にて追立られは長途追討にうたれ剰此城を付入にせられなはいかにせん此城にて敵を引よせ俊孝軒の手立を見城中堅めて今一両日も敵の働をよく見届すんは軍はあひしらひはかりにてつよくは働ましきと申されけれは大野木三田村尤と同し二人の者共もとかく御手立次第なりとておもひとゝまりけりかくて今浜には敗軍の士卒をあつめ給ふに方々より馳集り其勢四千余とそしるしける治部大輔俊孝軒に向ひてそれ人数組いたされよと有けれは俊孝心得たりとて人数立をそ定めける浅井は武者の色をよく見て軍立すくやかなり此方にも一術せんとて旗本に治部大輔兵庫頭を七百余騎にてかためさせ一番を浅見対馬守二番を掃部頭三番寄勢今村掃部頭上坂信濃入道と俊孝は脇備になりて亮政か働く色を見て双方より包討に可討との巧みなり其座の若者共は加様に敵にをちては軍勝事よもあらし敵の勢を味方の勢に合すれは五分一も有まし新三郎討て出はひつつゝみ討取へき物をと敵をあなとつて申者も多かりけり俊孝人数組それ相極め永正十三年九月三日の卯の刻に六千余騎を率し上坂の城へ押寄たまふ一番浅見対馬守上坂修理亮二番に上坂掃部頭口方田彦七郎三番寄勢今村掃部頭四番上坂伊賀守小蘆宮内五番旗本上坂兵庫頭同治部大輔指添て置上坂信濃守は脇備となりて居る浅見入道俊孝右脇備となり堀部村に隠居る是は浅井つよく働は押包可討との事なり新三郎は此旨を見て今日の一番には大将亮政五百余騎を左右にして出らるゝ清兵衛善次郎は二番に備たり大野木三田村は上坂の郷内に備を立てゐるかくて浅井一番にかけ出射手をそろへ浅見対馬守上坂修理亮備の中へ真黒に成て寄かくる今浜勢も射手を出し敵味方互にさんに射たりけり修理亮鬨を作り切てかゝれは新三郎しはらく敵をあひしらひ次の備へさつと引跡にひかへし口方田彦七郎いきほひをぬかすな討とれとて喚叫て切てかゝれは浅井勢一さゝへもささへすして郷の内へにけいれは今浜勢追続てかけいらんとせし処を俊孝軒使立深入して敵に取てかへされたまふな早々引取れよとて再三宣ひ越れけれは彦七郎申けるは左様におくしたまふは何事そや三段四段の勢を是へよせられ城の内へ敵を追込平責にせむへしとて勇みにいさんて責よする俊孝達て引へしとありけれは今浜勢は浅井の勢を郷内へ追込てそ引にける清兵衛善次郎此由を見るよりも爰こそ能軍の図なれ跡を黒めてたへ大野木殿とて討て出んとす新三郎鎧の袖にすかり付てとめけるは先我次第にしたまへ悪数は計ましとてとゝめ城の中へ引入けり俊孝手立は相違して敵少も働かねはいさ押寄て可責とて追手搦手オープンアクセス NDLJP:33一度に取巻鬨を作りかけ責れとも浅井勢しつまり切てかけ出すされは寄手猶も競ひ四方八方より責けれはやゝあつてつまりより矢先を揃へ一度に雨の降程射出しけれは寄手猶予して見えしを時分はよきそいさ追散さんとて追手からめての城戸一度にひらき千三百おめきさけんて切て出れは寄手一足も踏とゝめすちりはつと敗北す浅井首三十はかり打取り門前はかり追払ひ味方を打つれ城の中へ引とれは今浜勢共日の暮方迄城を取巻責れとも城中の兵ともこゝかしこと走廻り矢先をそろへて防きけれは責あくみて見えし処に又新三郎五百はかり引具し追手の門をひらき鬨を作りて切て出敵をさつと追払ふて人数打つれ城の中へ引とれは亮政の軍ふり古今まれなるかけ引と敵味方と諸共にとよめき渡つてほめにけり日も漸に暮行は治部大輔も諸勢打つれ今浜さしてそ引取ける
 
京極殿へ上坂治部大輔御出馬をこはるゝ事
 
かくて上坂治部大輔は浅見入道俊孝軒いさなひ上平へ参扣して浅井新三郎亮政逆心を企て上坂の城を乗取旨申上れは京極高清卿聞たまひて被仰けるは其旨此方へも疾きこえしか只今迄此方より何の一左右もせさる段は余り汝等鼻毛をのはして大ふせりをする故目をさます迄はすきと君臣の中をたち可申と思ひかまはさるなり先兵庫頭といふ上気者浅井の若者に出抜れ我居城を無由緒乗取れ候事前代未聞の耻辱たるへし泰舜も又浅井小勢にて眼前に働かせ踏つふさゝる事汝か武勇の程のあさましさよとて大に怒りたまへは入道俊孝軍の始終申上れとも御耳にも中聞入給はす怒らせ給へは治部大輔は赤面してとかう不申上されは俊孝御諚尤には御座候へとも屋形の御旗不差向候はては諸事働事も有まし其上御出馬被成候はゝ治部大輔先懸仕無二の軍勇をはけますへきとの覚悟にて御座候と申上れは家の執権被召出いかゝ可有との評定なり列座の面も御返事申かねてそゐたりける中にも大津弾正進み出て申上るはとかく此軍油断候ひては悪敷可有御座候此節にて候へとも江北の大名分中にも浅井に心をかよはし二の足踏者も多く候らん時刻移しなは上坂勢は重り可申候間早々御出馬可然と申ける所に錦織図書申けるは弾正被申段尤に候先日も今浜よりの人数揃にも泰貞斎の時分とちかひ無返事なる者も多きよし聞え候条江北大名分の者共の心底もしれ不申候間御廻文御まはし勢を御そろへ被成候ひて御出馬可然奉存と申けれは此儀尤と同して頓て御出馬可被成候間上坂の此方に向陣を取て敵城へ人数を不馳込やうに可仕とて治部大輔を今浜へ被返けり斯て治部大輔人数を押出し上坂の近辺垣籠村小堀村小蘆村三ケ所に人数を備てそゐたりける浅井か方よりも足軽歩立二十三十つゝ出合敵をあひしらひてゐたりけるか敵つよけれは構の内へ引取懸つ返しつ足軽合戦をそしたりける今浜勢は浅井あひしらひ置とはしらすして各寄合申けるは先日廿四日の軍に亮政は深手を負ぬるか又討死をするか二つに一つ必定なるへし彼者堅固にあるならは加様にれくれてよもあらしといふ者もあり又上平より御旗むかひ申を聞城中の侍共多く落行無勢に成故城中よはるかと覚ゆるとそ申ける浅井城中より人数も不出其上見次勢も不来は寄手大きに油断して浅見入道俊孝父子共に屋形の御一左右迄休息せんとて居城山本の城へ帰り給へは治部大輔も兵オープンアクセス NDLJP:34庫も足軽少々在番に置今浜へ引取休息をそしたりける
 
浅井智略を以て今浜の城を責取事
 
去程に江北屋形京極高清入道環山寺殿より廻文有て諸侍に一左右次第に可馳参旨黒田甚四郎多賀新右衛門尉に被仰付御触有けれは御一左右迄休息せんとて皆己か在所へ行明日の命もしらされは妻子とも名残ををしみ我もと引籠りけれは今浜の城には治部大輔兄弟の手勢上坂一家はかりにて漸々千五百余騎程ならては勢なかりけり此旨浅井か本へ注進する者侍れは亮政聞て是よき幸なり謀を以て城を責取度被思けるか今浜近所の侍に誰人か伝あらんと相尋給ふに今浜村つゝき宮川といふ所に宮川左次兵衛といふ者は代々久しき家にて武功も多く有者なりけり大野木姓聟なり其所に筧助左衛門といふ者有けるか此者たに味方に引入給はゝ左次兵衛か儀は味方に異議有ましきと大野木申されけれは其儀に候はゝ左次兵衛尉を頼み筧に手入を頼みて見はやとて大野木方より頼越けれは筧助左衛門宮川両人味方となれは今浜七八町北に烈毛村といふ所あり是に住せし細江十兵衛といひし者も宮川村の二人の者共に被誘引味方に来る亮政不斜悦て清兵衛善次郎を近付被申けるは此者とも味方に来る事天のあたふる幸なり殊に今宵は風雨はけしけれは一手立して見んとあり二人の人いかにもしかるへしと有けれは清兵衛尉兄新次郎召つれられ三百余騎にて宮川村へ其夜丑の刻はかりにまのひ入て居給ふへし善次郎は今浜の脇八幡の森に二百余騎にて伏たまへ大野木殿と我等は六百際騎にて今浜の丑寅の方により明六ツ前に陣取程に可出三田村殿は此城に残り給ふへしとありけれは三田村此旨を聞尤術はさも可有候へとも四方共に皆敵なれは途中にて取巻なは此城へ引取事もなるへからす又留守の内に此城へ上平より寄られは我等無勢に追立る程の事はいかゝなり今浜と此方との間取きられは可引様あるまし此はかり事無用なりと同心せす亮政為利秀元は身命を塵芥よりも軽く思切し人なれは三田村か異見に付可止との気色なくて亮政重て申けるは先我等の手立を聞たまへと手立の始終を語りける亮政のいはく大野木我等六百余騎にて今浜よりはるか此方にて明方に鬨を可揚今浜勢宮川に敵あるとは不思寄物見を出し小勢なりとあなとり討て可出なり其時矢軍して跡なる勢へ引取へし敵勝に乗追て可来そこにてしはらくさゝへ又さつと引へし敵いよ責来らは其にて火出る程戦ふへし其時は治部大輔かけ出たゝかひなん治部大輔乗出すとひとしく宮川左次兵衛筧助左衛門町屋に火をはなち火の手を見は三方一度に鬨をあくへし然らは今浜勢途をうしなふて騒動すへし其時にれしよせ戦はゝ大半治部大輔も可討取と思ひ切て宣ひけれは三田村もしゐてとゝむる事もならすいつれも其儀に一同して首途の酒を出せとて時移るほと酒宴してそあそはれけるかくて伊部清兵衛浅井新次郎同新助大橋善次郎永正十三年九月廿一日の丑の刻上坂を立て宮川村中久保村八幡森にしのひ居る新三郎亮政大野木土佐守二人はあけほの暗き早天に今浜丑寅の方へ近々と忍ひより鬨を噇とあくれは城中以の外騒動して新三郎か此中軍に勝にのり又上坂の城を乗取様に出抜へきとのたくみなるへしとて大将を初め上を下へと返しつゝとやせんかくやあらんとありけれはオープンアクセス NDLJP:35中にも上坂修理亮走廻て下知すれは城中少はまつまりけり先物見を出し敵の様子を見せんとて上坂八郎右衛門を被出けれは昨夜より雨気はれやらす朝霧深くして敵の様子も見え分されは八郎右衛門物なれたる者にて近々と懸出し様体見分て城中に帰り申けるは敵はわつか千騎には不可過といふ治部大輔兵庫頭は是を聞追散せ兵共と下知すれは我先にと進みけり上坂修理は是を見て大音あけて下知しけるは城中猥にかけ出給ふへからす小敵なりとてあなとり付入に城をとられ給ふなと懸廻て下知すれと城の可落前兆かうわうさわうにまつまらねは先修理亮五百はかりにて討出備を立んとせし処を浅井射手を出しはや軍をはしめける今浜勢も射手を出しさんに射たりけるか浅井か勢射立られ色めく所を爰こそ戦ふへき所なれ時節をぬかすなと修理亮黒煙をたてゝ戦へは浅井勢次の備へさつと引兢をぬかさしと追かけ戦ふたり治部大輔時分はよきと心得て備を崩して切てかゝる大野木浅井勢は井溝を間にして火花を散して防きけりかゝりける処に宮川筧今浜の侍町に火を放つ火の手を見るとひとしく夜の内より隠し置たる大橋善次郎今浜の町屋へ踏込四方八方かけ廻り敵のむかふを幸にて働きける折ふし辰巳の方より風はけしく吹けれは町屋一軒も不残焼廻り其火城の土手矢倉にかゝりけれは城中に上坂信濃入道清眼子息信濃守走廻て下知するは浅井忍ひの者を入焼立る物なるへし敵は小勢なるそ首尾を見て切て出可討取そ先城中へ火不入様に火の手を防くへしとて四方八面にかけ廻り下知すれと風はけしくして防くに暇のあらされは城中騒動夥し善次郎は風下より鬨をあくれは清眼も信濃守もさすかゆゝしき人なれは煙の中より切て出善次郎と半時計蜘手十文字に働終にそこにて討死す信濃守家来廿七騎枕を並へて討れにけりさて其間に城中一宇も不残焼廻れは治部大輔浅井と火花を散して戦ひしか城中の火の手を見て引にひかれさる所なりと覚悟し思ひ切てそ戦ひける伊部清兵衛八幡の森より横鑓に突かゝれは今浜勢不思寄方より敵切て出れは戦かねてそゐたりけるさて大野木浅井今浜殿に見参せんと名乗かけ面もふらす切て懸れは裏崩れして敗北す修理亮治部大輔を引つゝみ尾上をさして敗北す浅井其まゝ追詰なは泰舜を討取へくは候へとも上平より御出勢心許なきと思へは人数を引取へしと味方を集めて居たりけるかくて善次郎は信濃守を討取そのいきほひに城中の焼る煙の中へ打入て見てあれと裏手より海上へ舟に取乗みなちりに落行敵一人もなけれは我人数を引つれ旗本さして引とれは亮政も思ふまゝ今浜は破却して上坂の城へそ引取けるかくて浅見俊孝は今浜の煙を見て是はいかなる事やらん浅井は智略第一のおのこなれはしのひを入城を焼立る物か又は手あやまちか急見て可帰とて海老江彦次郎と言者に申付我身も人数召つれ出給へは治部大輔兄弟尾上の城を心さし落来り給ふを途中まて逢申それより帰り俊孝に右の旨申上れは俊孝さて無念なる次第かな浅井に両城迄出抜れ乗取られ剰兄弟是へ落たまふは前代末聞のありさまなり此体ならは行末とてもたのもしき事はあらしとてはかみして申は口惜やな我休息を仕る故今浜迄敵に落さるゝとて後悔する事かきりなしかゝりける所へ治部大輔兄弟百騎はかりにて俊孝の本へ落来れは俊孝出むかひ請待して城中へ入奉り馳走かきりはなかりけり扨修オープンアクセス NDLJP:36理亮俊孝に今日の軍の次第一々被申けれは俊孝清眼信濃守父子討死を聞双眼に涙をうかへてなけかるゝ是は若年より入魂の人とそ聞えける
 
浅井三代記第三終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。