浅井三代記/第十五
斯くて越前勢の手当は徳川家康卿に決定す浅井か勢に向ふ信長卿の先陣は坂井右近二番には池田庄三郎三番は木下藤吉郎四番は柴田修理亮五番は中条将監簗田出羽守摠して信長卿の本陣迄は十三段なり横山の押へには氏家常陸介入道卜全伊賀伊賀守丹羽五郎左衛門尉を立置る如㆑此人数定めし給へは五更の天にそ及ひける合戦の次第御使番を以て仰触られけれは先衆は横山の東北をおもてむきにおしまはす家康卿の勢は西北むきにおしまはすかくて浅井か先勢磯野丹波守員正に山崎源八郎高宮三河守大宇大和守赤田信濃守蓮台寺を相副られ其勢一千五百余騎二番は浅井玄蕃允舎弟雅楽助三男斎宮助四男木工助上坂備中同刑部舎弟五助其弟弥太郎三番阿閉淡路守子息万五郎西野壱岐守四番新庄駿河守今井十兵衛田那部式部神田修理亮五番東野左馬助月ケ瀬若狭守世上坊六番浅見対馬守同大学助七番は旗本と相定め段々に可㆓相働㆒と定め置摠して浅井か勢八千余騎なり越前の手には朝倉九郎次郎景紀黒坂備中守豊原平泉寺の法師武者気比の社人先勢三千なり越前勢は一万三千騎とそ申ける如此段々相定め大路村三田村へ陣をうつすかゝりける処に家康卿の先勢すきまもなく弓鉄炮を射かけ打かけせめかけ〳〵討入けれは朝倉か勢案に相違しけるに寄手の勢我も〳〵と進みけるを見て平泉寺の法師武者いさ追払はんといふまゝにひし〳〵と討出徳川殿の先勢にひしと取合姉川を打越追つ返しつ討つ打れつ火出る程戦ひしか家康卿の先手の者【 NDLJP:122】とも進みかねて見えけれは越前勢勝にのりいきほひかゝつて川をむかひへ打あかる浅井か先勢磯野是を見て越前勢ははや鑓を入たるそ我勢をもうち入んとて敵を西南向ひに見ておめきさけんて押出す処に右近は一軍はしたなくして大将軍に見せ申さはやと存すれはひかへて待かけたるに丹波千五百にて面もふらす右近か二千余騎にてひかへたる備の中へ討入らんとせしを右近姉川をこさせしとさゝへける磯野か勢強くして川を追越さん〳〵に戦ひ右近か勢を追払ふ右近か一族同苗の者とも口惜くや思ひけん百余騎引返し戦ひしか枕をならへて討死し残り少なになりけれは猶かなはすして退かんとしけるに嫡子坂井久蔵いまた十六歳容顔美麗人にすくれ心もゆうにやさしかりつるか引返しむかふ敵と渡り合せ切つきられつ追なひけしはらく戦ひけるか終にうたれて失にけり郎等可児彦右衛門坂井彦八郎なとも枕をならへて討死す父の右近は夢はかりも是を知らすしてのきにけりそれより丹波守きをひ二番にひかへたる池田か勢も追立る浅井か勢とも是を見て摠懸りにかゝるへしと浅井玄蕃兄弟四人阿閉新庄月ケ瀬上坂西野東野を宗徒の初として七千余騎一足もひかしと突懸る程に信長の備給ふ十三段の勢を十一段迄切崩す信長卿は手に汗をにきり御腹めさるへきとの覚悟なりかゝりける処に西の方朝倉か勢一万三千余騎に家康卿の勢わつか五千余騎にてむかはせ給ひける先手酒井左衛門尉其外小笠原与八郎東三河の兵共二千余騎馬を一面に立ならへ鑓をそろへ面もふらす進みける敵の先陣は千余騎鑓衾を作り突かゝる東西に開き合せ南北に追なひけさん〳〵に戦ひけるか越前勢つよくして味方少引退けるに酒井小笠原いく度か返し合せ〳〵向ふ敵数十人撞伏せ切伏せさゝへけれとも越前勢は浅井か手討勝と見て猛勢にて喚叫てそ追来れは家康卿も信長卿の本陣既にあやうく見えしかは本多豊前守松平左近将監に向つて東西を見るに味方すてに利を失ふと見えたり此上は我旗本をくつしかゝれと御身をもんて下知し給へは聞もあへす本多平八郎馬上に鑓曳さけ面もふらす只一人朝倉か一万余騎にてひかへたる中へをめきさけんて馳向ふ豊後守左近将監も本多うたすな平八うたすなとて手つから鑓おつとり〳〵老武者若武者二千余騎の兵共我おとらしと懸むかふ二陣にひかへたる稲葉も一千計噇といふて朝倉か勢の中へ懸込鑓を合せけれは敵も爰を先途と防き戦ふ家康卿の勢一足も不㆑退首を取もありとらるゝもあり十文字にかけやふり巴の字に追廻し太刀の鍔をと矢さけひの音天地にひゝきて攻戦ふ家康卿の御近習の兵共左右に立鬨を噇と作りかけ鑓を入けれは敵已に引色に成て見えける処を猶大音声をあけて爰をもめや兵共と士卒の機を励し透間もなく下知し給へは皆しころをかたふけ爰を先途と戦ふほとにさしも競ひかゝつたる朝倉勢もかなひかたくや思ひけん徳川殿に追立られ蛛の子をちらすか如く落行けるを三川村田川辺迄追討にうつ程に真柄十郎左衛門父子三人前波新八郎舎弟新太郎小林瑞周軒魚住龍門寺黒坂備中守なとゝいふ兵とも敵に総角を見せしとや思ひけん引返し手柄を尽討死す中にも真柄は大力無双の剛の者なれは五尺三寸の大太刀を真向にさしかさし取て返し四方八面に切て廻りけれは四五十間四方は小田をすき返したる如くにそなりにける彼に渡し合せ是に渡し合せ追詰追廻し十四五人切伏せ是は真柄【 NDLJP:123】十郎左衛門といふ者なり心さしの者あらは引組て勝負をせぬかといふ声を聞て是は徳川か郎等匂坂式部といふ者なり参りあはんといふまゝに手鑓ひつさけ渡し合せしはらく戦ひ草摺のはつれ一鑓突たりけるをものゝかすともせす大太刀を以て打払ひ払ひ切に切たれは匂坂か冑のふきかへしを打砕きあまる太刀にて持たる鑓を打おとしたるに式部か弟匂坂五郎次郎たすけ来て真柄に渡し合せ戦ひけるか余りにつよく打程に蜻蜓にうけなかす所をおかみ切に切て勾坂か太刀をはゝき本よりすんと切ておとしあまる太刀にて弓手の股をなきすへたる太刀の柄はかり持て既にあやうく見えける処を匂坂六郎五郎是を見付て透間もなく助来るに郎等の山田宗六我主を討せしとや思ひけん太刀を真向にかさし進み来る真柄きつと見て心さしの奴原おしくは候へといて物見せんといふまゝに持たる太刀を取直しえいやと打たれはから竹わりに討わり弓手馬手へそひらきける六郎五郎得たりとて十文字の鑓にて駈たるを真柄いとゝ打物は達者なれはしはらくうけなかし戦ひしか終にかけたをされけるに最期こそ神妙なれおきあかり今は是まてなも真柄か首取ておのこの名誉にせよといひたりけれは六郎五郎は式部に向ひてはしめ鑓付られしは御辺なり首取て大将に見参に入よといひたりけるか式部ふりあをのき真柄か太刀にてかく冑を砕かれ薄手少々負たれは相かなはさるそ汝取てまいらせよと辞しけれは走かゝり首を討おとしてけり真柄か嫡子十郎も返し合せ戦ひけるか郎等馳来り父はかく討れ給ふと告たれは涙をこほし打太刀もよはれとも敵を討はらひ父はいつれの辺にてうたれ給ひけん同しくは一所にともとめ行処に青木加賀右衛門尉か嫡男所右衛門尉引付て音に聞えし真柄殿いつくへにけ給ふそや引返し勝負あれとよははりかけし処に十郎逃るとは何事そにくきおのこの言葉かないて物見せんと打向ひ父にはおとりし太刀なれ共受て見よといふまゝに四尺三寸氷の如くなるを打振て懸りしに青木か郎等馳ふさかりて戦ひしを太刀振上るより早く細頸中に討落しいさみにいさんて競ひかゝる所右衛門尉是を見て十郎に渡し合せ鎌鑓を打かけたるに運こそ尽て有けるか十郎か馬手の肘を切落され今はかうとや思ひけん尋常に首をうけたるに我は青木の某といひも果す首を討おとしてけりかくて浅井か手は信長卿の御勢を十一段まて切崩し森か手にてしはしさゝへけれとも備前守長政勝にのり旗本をくつしかゝれと下知せられけれは信長卿の御旗本大に騒動す信長卿も既にあやうく見えしに家康卿稲葉伊予守朝倉勢を追拾て浅井か勢の真中へ馬煙を立て横鑓に駆入せ給ひ喚叫て戦ひ給ふ浅井か勢横鑓に驚き色めき引足になるかゝりし処に横山の押へに置れし氏家常陸介入道卜全伊賀伊賀守三千余騎にて馳来る家康卿御勢と双方よりもみ合て戦へは浅井か兵共爰を大事と命も不㆑惜火花をちらして戦へと家康卿の横鑓にかけちらされ氏家伊賀にもみ合され味方摠敗軍にそなりにける浅井玄蕃磯野丹波阿閉淡路は取てかへしけれとも敵猛勢きそひすゝんてつきかゝる中にも忠左衛門安藤右衛門佐桑原平兵衛今枝弥八森九兵衛稲葉刑部少輔同土佐古江加兵衛豊瀬与十郎といふ者共も面もふらす切てかゝれは玄蕃淡路もとより戦ひつかれて引しりそく磯野丹波守員政は立帰後をきつと見けるに味方まはらに敗北すれはかなはしと思ひ我預り置し佐和【 NDLJP:124】山の城心許なしとて打ちらしたる手勢少々まとひわつか三百計にて敵のむらかる真中を討破りかけ通り佐和山の城へこそ引取ける此所より佐和山迄其間四里余あり此丹波守の働感せぬ者こそなかりけるかくて浅井雅楽助舎弟斎宮助加納次郎左衛門尉同次郎兵衛安養寺甚八郎舎弟彦六郎細江左馬助早崎吉兵衛上坂五助舎弟弥太郎同次右衛門は爰を先途と相戦ひ居たりしか味方ちり〳〵に敗北すれは討死と思ひ切各手柄あくまてつくし敵あまた討取終に討死なしたりける上坂刑部ははるかに退きて居たりしか郎等にあひて二人の兄弟の者共はいかに弥太郎何と成行候やと尋けれは何れも敵の中へ駆入討死とけ給ふと申さらは漸て追付へし兄弟の者共といふより早く乗返し敵の中へかけ入よき武者を忽突たをし先へすゝんてかけ入本望をとけ討死をそしたりけり此者共は軍功あまたある剛の者なり中にも物のあはれをとゝめしは浅井雅楽助兄弟そかし先年野良田合戦御影寺合戦終て後朋輩ともとよりあひ味方の働の僉議なと侍れは斎宮助申けるはたれ〳〵と申とも我等か祖父大和守働又は兄玄蕃なとか働ふりに越たる者家中には候はしと申けれは兄雅楽助大に怒てかほと歴々多き中にて其荒言は無益なりとはちしめけれは斎宮助は歴々の中にて諫言せらるゝ事奇怪なりとてそれより近年中をたかひて居たりけるか二十七日の亥の刻はかりに兄の雅楽助斎宮助か陣所へ行て明日討死とけん事は一定なるへし今は遺恨もよしなし名残の盃をのむへしとて父尊霊を見たくは互の顔を見よとて目と目を見合せしはしか程は物をもいはす有けるか雅楽助酒をこひ出し久しき郎等ともに出てのめやとて盃をめくらしたるはあはれにも覚えたり勇士たらん者は斯こそあらまほしけれといはぬ人こそなかりけれかゝりける処に遠藤喜右衛門尉首を提け寄手の勢にまきれ入信長卿に近付刺違へんと心かけ御大将は何方におはしますそやといひまはり行程に信長卿の居給ふ所へ其間十間程近よりけるに折しも竹中久作是を見付味方にては候はし脇目多く遣ふとて名乗懸て引組上を下へと返しけるか久作遂に打勝て遠藤か首をそ討たりける兼て遠藤か首を取へき者をと申せしか剛の者の心さしは恐ろしかりける事ともなり遠藤か郎等富田才八といひし者五六町引退けるか喜右衛門尉討れたるときゝ何をか期すへきとて取て返しさん〳〵に太刀打して爰を最期と戦ひしか終に討れてうせにけり弓削六郎左衛門尉今井掃部助も遠藤か次第を聞同し道にゆかはやとて大勢の中へ駆入是も比類なき働きして討死す斯て散々に敗北せしかは寄手は勝に乗り追打に打程に矢島の郷尊照寺田川迄追たりけるに備前守長政も小谷をさして逃入ぬかゝりける処に安養寺三郎左衛門は兄弟の者共討れけれは今は何処まてと思ひて敵の中へ駆入よき武者と引組首を取立上らんとせしに信長卿の小走の者四五人落重り生捕にせられて信長卿の御前に引すゆる信長卿は御覧して安養寺久敷と被仰けれは兎角の御返事も不㆓申上㆒〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉 日比の御恩実にとく〳〵首をはねられ可㆑被㆑下旨申上れはそは何事そ汝は子細あるものゝ事なり先若者共の取たる首を見せよやと仰けれは織田おなあ持来る首安養寺見て是は私の弟甚八郎と申者にて御座候と申又織田おきく持来る首是も私弟彦六と申者にて御座候と申上れはさて〳〵不便の次第なり汝か心底さそやと被㆑仰竹中久作か取たる首を見すれは是【 NDLJP:125】は遠藤喜右衛門尉にて御座候と申上る其外首数三十計見せ給へは一々に名付をそしたりける安養寺重ねて申上るは早時刻も移り申候間御暇被㆑下首をはねられ可㆑被㆑下と申上れはいやとよ汝は一度備前守か用に立命を捨たり今日よりは此信長か命なり小谷に帰り無二の忠義致すへし我等も随分加恩を可行なり先汝に問へき子細あり此まゝ押寄小谷を可㆑攻と思ふなり其故は今日の軍に働きたる浅井か兵は何の役にも立可らす候間小谷は即時に可㆑落と宣へは安養寺申上けるは備前守長政か親下野守久政か手勢一千騎も御坐候長政か城番井の口越前守か勢五百余騎千田采女正と西野入道か勢も少々二三百余騎も御坐候へは荒手の勢の千七八百余騎は堅く御坐候間早速は落申ましきかと申上けれは信長卿聞召安養寺か申所尤なり其上我等か勢も今日数刻の戦につかるへし重て小谷を可㆑攻なり其時は忠節をはけますへしとて安養寺は不破河内守に預け給ひ小谷へ帰し給ひけるかゝりける処に木下藤吉郎秀吉馳来り何とてそれに緩々と被㆑成㆓御坐㆒あるそ小谷へ勢を押寄乗取給へと申けれは爰にて安養寺と相談するに城中に残る兵多く有といへは早速には落へからす先此度は味方の勢を可㆑入と被㆑仰けれは秀吉重ての給ひけるは此競に攻なは即時に可㆓乗取㆒ものをと申給へとも信長卿被仰けるは今に初めぬ藤吉郎の大腹をいふと笑せ給ふ此時信長攻給はゝ小谷は即時に落へきなり留守居の老武者二百余騎とそきこえける安養寺かはかりし故其後三ケ年はかゝはりけりかくて其日味方へ討取首八百余うたるゝ兵千七百なり今日の軍に家康卿の横鑓暫時の間をそかりせは信長卿を討取へきものをと今に至る迄人皆申あひにけり
横山の城没落附佐和山の城を攻給ふ事 かくて信長卿の諸勢姉川表の合戦其日の辰の刻にはしまり未の刻に終りけれはそれよりして木下藤吉郎柴田修理亮森三左衛門尉三人か勢横山の城を取巻けれは大野木土佐守三田村左衛門大夫野村肥後守同兵庫守彼等四人の者共相談して此分にては当城かゝはりかたし其上今日の一戦に味方大きに利を失ふ事なれははか〳〵しき事あるへからす城を開て小谷へ退き可㆑申と談合して敵陣へ申遣しけるは命さへたすけおかるゝに於ては当城を開渡し可㆑申といひ遣しけれは信長卿は城中開渡すにおいては可令助命と仰けれは其夜彼四人の者共は城を開渡し小谷へ引入る斯て信長卿は横山の城には木下藤吉郎竹中半兵衛両人に加勢三百騎相副られ横山の城に籠置翌日二十九日に我身は三万五千余騎の軍兵を率し犬上郡佐和山の城へ押寄給ふ磯野丹波守は兼て心得たる事なれは若者共二百計左右にして鳥井本表へ打て出信長卿の先勢に弓鉄炮を少々打かけ化粧軍して城の中へ引入城を丈夫にかたむれは信長卿は諸勢手分して幾重ともなく取巻攻させ給へとも城中少もひるます磯野丹波守高宮三河守勇気を励し戦へは此城はたやすく可㆑落とも見えされははり番を置へしとて鳥井本口百々屋敷に向ひ城を拵丹羽五郎左衛門尉を入たかる北の方尾すへ山の城には市橋左衛門尉南の方佐渡根山には水野下野守西の方彦根山には河尻与兵衛定番にすへおかる如㆑此とまり〳〵に勢を入おかれけれは誠に鳥ならてはかけりかたかるへしとそ見えたりける斯て所々の仕置を被㆓仰付㆒ける中にも横山の城に籠をかれける木下殿には随分今度智畧を【 NDLJP:126】はけまし浅井か物頭共所々の城主を味方に可㆓引入㆒しからは浅井の郡を重ては可㆑被㆑下との御契約とそ聞えける信長卿は七月六日に御馬廻小姓計にて御上洛有て室町殿へ今度の合戦の次第くはしく被仰土追付帰国したまひける 浅井越前朝倉を呼出す事 浅井備前守長政は去ぬる六月二十八日の妨川合戦に信長卿を毫髪のたかひにて不㆓討取㆒事も朝倉勢家康卿に引取られし故我勢迄のさはりとなり残多き事いふはかりなし其時に当りて信長卿摂州大坂表にて日々夜々の取合にて難儀に及ひ給ふ旨承り越前へ福寿庵木村喜之助を以て被㆑申けるは今度信長摂州大坂表へ出張し日々夜々の取合にて難儀に及ふの由其え候然らは此時義景長政両旗にて西近江へ発向し所々の敵方打破都に旗をなひかせ野田福聞島の者共と言合せ途中にて相戦はゝ勝利有へく候間御一国の御人数をかり催され出張有へしと申遣しけれは義景も家老もけにもと同心して越前国一乗をは来る九月十三日に出張せしむへき旨堅く約諾して両使は小谷へ帰りけり長政に此由かくと申せは大きによろこひさあらは当国の勢をも催すへしとて其勢八千余騎にて同九月十三日小谷を打立塩津越にをし出す同十七日に高島郡伊黒の城に着陣して朝倉を待てそ居給ひける斯て期倉義景は国中二万余騎を引率し元亀元年九月十三日には越前一乗の谷を出同十六日には高島郡伊黒の城にそ着給ふそれより朝倉浅井軍評定して比叡辻八王寺に陣取けり 坂本合戦附森三左衛門尉討死の事 あくれは九月十八日浅井朝倉か勢の中よりも物なれたる若武者二三百騎すくり皆歩立となり宇佐山の取出に信長卿より織田九郎森三左衛門尉を籠をかれしか城際へ押寄る三左衛門尉是を見て敵既に足軽を懸ては卒爾に軍すへからす味方のあしらひを見て猛勢を出し城を乗取へきとのたくみそかし定め置候持口を堅め少も働くへからす我等か小勢にて討て出て敵の様子を計ひ見んとて一二百の勢をつれ町はつれへ出ふか〳〵と勢をかくし二三十騎出し弓鉄炮を射かけ打かけたり北国勢も五六十騎立出矢軍をはしめ後には鑓をつと�突かゝれは三左衛門尉か勢も鑓を合せけれ共大勢なれは引かへす北国勢も引退く三左衛門尉兼ていひ含てや置つらん百騎計かたかけの木の間に引かくし百騎計をつれ又町はなれまて懸出れは味方も二百計の歩立の者共を打入面もふらす戦ひけるか城中よりひた冑二百計打て出る北国勢少引退き跡の勢と一つになる三左衛門尉も我勢を引つれ城の中へ駆入ける其時敵十八騎討取れは味方も十二騎討れにけり其日三左衛門尉か勢はかり隠し置し色を味方見知て人数を出さゝるとの評定なり翌日十九日の未明に朝倉勢は穴太村より押寄る浅井勢は辛崎浜へをしまはしからめてよりそ寄たりける三左衛門尉是を見て町表へ打出一戦を決すへしとて五百条騎はおしかくし残る五百余騎にて打て出よする敵をそ待にける朝倉式部大輔は其日の先陣にて三千余騎を三段にくみおめきさけんて切てかゝる三左衛門尉は間近く敵をよせ鉄炮を打かくれは式部大輔か先勢一さゝへもさゝへす後へさつと引とれは三左衛門尉勝にのりためきさけんて追討に可㆑討と追かゝる式部大輔は是を見てきたなし味方の兵【 NDLJP:127】すゝめや〳〵と下知をなし式部大輔一番にすゝみて突かゝれは敵勢は敗北す其時三左衛門尉よき時分を見はからひ鑓を横たへ名乗かけ取て返せは味方も爰を先途と防きけれとも馬手の藪陰の思ひよらさる方より隠し置し勢五百余騎喚叫て切てかゝれはさしもにいさむ朝倉勢我先にと敗北す式部大輔もうたるへう見えし処にからめ手へ押廻したる浅井か先勢浅見対馬守浅井玄蕃二千余騎横鑓になり面もふらす切てかゝれは是を見てかなはしと思ひけれは城をさして引んとするに朝倉中務大輔山崎長門守阿波賀三郎荒手にて突かゝる備前守も旗本を崩しかゝれかゝれと下知すれは人数ひしと付森は城際まて引のきしか城を付入にとられてはかなふましと思ひ切我等爰にて討死をとくへきそ城中堅め給へと使を本城へ立敵の中へ面もふらす切入大勢を追崩し追なひけけれとも味方の猛勢につゝまれ終に討れけるこそむさんなれ織田九郎青地駿河守森か郎等尾藤源内舎弟又八道家清十郎其弟助十郎等も枕をならへて討れにけり此道家と申兄弟は軍功度々そのかくれなき者にて信長卿より感状等に預りし兵なりかくて朝倉浅井か勢森は討取其競ひを以て宇佐山の城へおしよせ既に二の丸迄攻取けるか武藤五郎左衛門尉肥田玄蕃允同彦右衛門尉楯籠り命を捨て防き戦へはさうなく攻入事ならされは人数をさつと引取けるかくて宇佐山を押へ置同二十日に大津近辺放火して二十一日には醍醐山科辺に煙を揚山門へ引籠りてそ居たりける 信長卿大坂表を引取給ふ事附浅井朝倉対陣の事 かくて信長卿は浅井朝倉叡山表に陣取先勢醍醐山科辺に煙をあくるよし摂津国中島へ聞えけれは浅井朝倉か兵に帝都に煙をあけさせなは末代迄の耻辱なるへし然りといへと此地難所に川あれは敵の中を引退事かたかるへしとかく三好を御頼可㆑被㆑成と思召内縁を以て御頼被㆑成被㆓仰遣㆒けるは某此地を引取候やうにいたされ候はゝ当家に対し永く難㆑忘候御同心頼入と被㆓仰入㆒けれは三好此旨承天下をしろしめさるゝ信長我等を頼むとの儀弓矢取ての面目なり心やすくのかせらるへき旨返事すれは信長卿不㆑斜悦ひ申されけるは三好は心安くしすましたれとも野田大坂よりしたふへしとて殿を和田伊賀守柴田修理亮両人に被㆓仰付㆒引給ふ敵此便りを幸と思ひ江口の渡しの舟を引一揆の者共雲霞の如くさしつとひ柴田か勢にひしと付喚叫て馳集る柴田取て返し蛛手十文字に追払ひ二三度取てかへしけれは一揆の者共はしたひ得すして引ければ柴田御本陣へ引附けりかくて柴田修理亮信長卿の御前へ進み出申けるは御大将信長卿は大坂表にて討死し給ふよし京中の者共聞及以の外さはくよし承候間京へ御人数入られ御旗本をも町人共に御見せ被㆑成候はゝ可㆑然旨申上けれは信長卿間召先一刻も早く敵の方へ向ふへし路中へんはくは臆して来る者と思ふへし柴田はほれたるかとそ宣ひける柴田大に腹を立我若き時より数度の合戦に出あひて一度もほれたる事は候はす目の前にて度々の働き御目にかけ置候か早くも忘れ給ふものかな我等かほれ申候は四畳半の数寄屋へ入茶をのむ事はほれ申候と申上る信長卿詞なくして京へも入らせ給はす直に大津へ打出給ふ柴田は京へ入今度信長卿は大坂表を引取朝倉浅井退治の為に江州坂本へ駆向はせ給ふと触まはり山中越に打出浅井朝倉か陣取たる坪笠山の青山の麓を旗【 NDLJP:128】さし物をさしあけ信長卿の本陣へ引付しはあつはれ剛の者なりとてとよめいてほめたりけるかくて信長卿は其夜は下坂本に陣を取て翌日二十五日には叡山の麓南谷香取屋敷に平手監将長谷川丹波守山田三左衛門不破河内守丸毛兵庫浅井新八丹羽源六水野大膳穴太村には佐久間右衛門尉津田東市佐佐々内蔵助塚本小大膳明智十兵衛苗木久兵衛村井民部丞進藤山城守後藤喜三郎多賀新右衛門尉梶原平次永井雅楽助種田助之丞佐藤六左衛門中条将監中村には柴田修理亮氏家十全伊賀伊賀守稲葉伊予守唐崎には織田大隅守津田太郎左衛門尉佐治八郎山岡対馬を入おかれ将軍塚には室町殿御本陣を居をかる志賀城宇佐山二ケ所には信長卿近習馬廻りにて守り居る又味方には古しへより寄手入かたき山なれは衆徒一統にかたらひ山のつまり〳〵に要害をかまへて楯籠る如此なれは敵百万騎にて寄たり其一人も踏入事なるへからすとて丈夫にこそはおもはれけれかくて双方よりしきりに戦ふへきやうもあらされはにらみあひて居たりけるかはし〳〵所々にては若者其十騎二十騎つゝ切あひ討るゝもあり又討取もあり日々夜々の小せり合なり信長卿より忍ひを入僧坊に火をかけんとする事度ゐなりけれとも其者はいつれも味方へ討取けりかくて信長卿難儀におよひ佐久間右衛門尉稲葉伊予守を以山門の内縁を聞出し頼み給ふには今度信長卿へ与力し忠義をいたさんにおいては朝倉浅井か山門領十倍して領地あておこなふへし数年壇方のちなみもたしかたきによりて此方へ与力かなはすは双方見除あるへし然る上に同心なきにおいては根本中堂山王の社を始め一宇も不㆑残焼払ひ僧徒一人も不㆑残誅伐すへしと再三内意をかよはせとも僧徒金鉄の心にて浅井朝倉を見放すへからすとて一人も同心する者なし 坂井右近堅田を乗取又寺内を乗取事 十一月二十三日堅田の住人猪飼甚助馬場孫次郎居初又次郎彼等三人いひ合せ信長卿へ御味方に参り忠節可㆑仕旨申上けれは信長卿御感悦不㆑斜して褒美大分に被㆑下けれは是に乗り誰そ御大将一人被㆑下候はゝ我等とも随分粉骨を抽へしと申漸て人質をさし上候へは信長卿宗徒の人々をめしよせられ誰か堅田へ可㆓指遣㆒と宣へは海上を隔つといひ敵の囲へ入といひ御請申者一人もなし信長卿御覧ありさあらは鬮取にすへきと宣へは坂井右近進み出て加程の所へ向ひ候はん事安き事にては御座候へとも若仕損し候へは忠義もいたつらになり其上敵勝よ乗味方機をうしなはんも計かたくとためらひ申候某罷向ひくるしかるましきにて候はゝ参るへしとそ申ける信長卿不㆑斜に思召急き可㆓罷越㆒と被㆓仰付㆒けれは右近御前を罷立堅田をさして急きけり相従ふ人々には伊賀伊賀守か郎等柔原平兵衛なとゝいふ兵一千七百余騎夜中に舟に取乗堅田へ漕着舟よりあかり所の住人共相語らひ朝倉浅井か兵粮奉行万賄を仕者共百五六十騎籠り居たる寺内へおしよせおつとりまき攻入ける籠る兵共あはてさはく事限りなしされともあけゑほりをおろししはしか間はさゝへけるに地下人共案内は知たり爰かしこより取入はふせくに力なく枕をならへて五十三騎そ討れにける右近大きによろこひ信長卿へ注進すれは即坐に御感状をそ被㆑下ける面目たくひはなかりけり 浅井三代記第十五終この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。