浅井三代記/第十五

斯くて越前勢の手当は徳川家康卿に決定す浅井か勢に向ふ信長卿の先陣は坂井右近二番には池田庄三郎三番は木下藤吉郎四番は柴田修理亮五番は中条将監簗田出羽守摠して信長卿の本陣迄は十三段なり横山の押へには氏家常陸介入道卜全伊賀伊賀守丹羽五郎左衛門尉を立置る如㆑此人数定めし給へは五更の天にそ及ひける合戦の次第御使番を以て仰触られけれは先衆は横山の東北をおもてむきにおしまはす家康卿の勢は西北むきにおしまはすかくて浅井か先勢磯野丹波守員正に山崎源八郎高宮三河守大宇大和守赤田信濃守蓮台寺を相副られ其勢一千五百余騎二番は浅井玄蕃允舎弟雅楽助三男斎宮助四男木工助上坂備中同刑部舎弟五助其弟弥太郎三番阿閉淡路守子息万五郎西野壱岐守四番新庄駿河守今井十兵衛田那部式部神田修理亮五番東野左馬助月ケ瀬若狭守世上坊六番浅見対馬守同大学助七番は旗本と相定め段々に可㆓相働㆒と定め置摠して浅井か勢八千余騎なり越前の手には朝倉九郎次郎景紀黒坂備中守豊原平泉寺の法師武者気比の社人先勢三千なり越前勢は一万三千騎とそ申ける如此段々相定め大路村三田村へ陣をうつすかゝりける処に家康卿の先勢すきまもなく弓鉄炮を射かけ打かけせめかけ〳〵討入けれは朝倉か勢案に相違しけるに寄手の勢我も〳〵と進みけるを見て平泉寺の法師武者いさ追払はんといふまゝにひし〳〵と討出徳川殿の先勢にひしと取合姉川を打越追つ返しつ討つ打れつ火出る程戦ひしか家康卿の先手の者【 NDLJP:122】とも進みかねて見えけれは越前勢勝にのりいきほひかゝつて川をむかひへ打あかる浅井か先勢磯野是を見て越前勢ははや鑓を入たるそ我勢をもうち入んとて敵を西南向ひに見ておめきさけんて押出す処に右近は一軍はしたなくして大将軍に見せ申さはやと存すれはひかへて待かけたるに丹波千五百にて面もふらす右近か二千余騎にてひかへたる備の中へ討入らんとせしを右近姉川をこさせしとさゝへける磯野か勢強くして川を追越さん〳〵に戦ひ右近か勢を追払ふ右近か一族同苗の者とも口惜くや思ひけん百余騎引返し戦ひしか枕をならへて討死し残り少なになりけれは猶かなはすして退かんとしけるに嫡子坂井久蔵いまた十六歳容顔美麗人にすくれ心もゆうにやさしかりつるか引返しむかふ敵と渡り合せ切つきられつ追なひけしはらく戦ひけるか終にうたれて失にけり郎等可児彦右衛門坂井彦八郎なとも枕をならへて討死す父の右近は夢はかりも是を知らすしてのきにけりそれより丹波守きをひ二番にひかへたる池田か勢も追立る浅井か勢とも是を見て摠懸りにかゝるへしと浅井玄蕃兄弟四人阿閉新庄月ケ瀬上坂西野東野を宗徒の初として七千余騎一足もひかしと突懸る程に信長の備給ふ十三段の勢を十一段迄切崩す信長卿は手に汗をにきり御腹めさるへきとの覚悟なりかゝりける処に西の方朝倉か勢一万三千余騎に家康卿の勢わつか五千余騎にてむかはせ給ひける先手酒井左衛門尉其外小笠原与八郎東三河の兵共二千余騎馬を一面に立ならへ鑓をそろへ面もふらす進みける敵の先陣は千余騎鑓衾を作り突かゝる東西に開き合せ南北に追なひけさん〳〵に戦ひけるか越前勢つよくして味方少引退けるに酒井小笠原いく度か返し合せ〳〵向ふ敵数十人撞伏せ切伏せさゝへけれとも越前勢は浅井か手討勝と見て猛勢にて喚叫てそ追来れは家康卿も信長卿の本陣既にあやうく見えしかは本多豊前守松平左近将監に向つて東西を見るに味方すてに利を失ふと見えたり此上は我旗本をくつしかゝれと御身をもんて下知し給へは聞もあへす本多平八郎馬上に鑓曳さけ面もふらす只一人朝倉か一万余騎にてひかへたる中へをめきさけんて馳向ふ豊後守左近将監も本多うたすな平八うたすなとて手つから鑓おつとり〳〵老武者若武者二千余騎の兵共我おとらしと懸むかふ二陣にひかへたる稲葉も一千計噇といふて朝倉か勢の中へ懸込鑓を合せけれは敵も爰を先途と防き戦ふ家康卿の勢一足も不㆑退首を取もありとらるゝもあり十文字にかけやふり巴の字に追廻し太刀の鍔をと矢さけひの音天地にひゝきて攻戦ふ家康卿の御近習の兵共左右に立鬨を噇と作りかけ鑓を入けれは敵已に引色に成て見えける処を猶大音声をあけて爰をもめや兵共と士卒の機を励し透間もなく下知し給へは皆しころをかたふけ爰を先途と戦ふほとにさしも競ひかゝつたる朝倉勢もかなひかたくや思ひけん徳川殿に追立られ蛛の子をちらすか如く落行けるを三川村田川辺迄追討にうつ程に真柄十郎左衛門父子三人前波新八郎舎弟新太郎小林瑞周軒魚住龍門寺黒坂備中守なとゝいふ兵とも敵に総角を見せしとや思ひけん引返し手柄を尽討死す中にも真柄は大力無双の剛の者なれは五尺三寸の大太刀を真向にさしかさし取て返し四方八面に切て廻りけれは四五十間四方は小田をすき返したる如くにそなりにける彼に渡し合せ是に渡し合せ追詰追廻し十四五人切伏せ是は真柄【
NDLJP:123】十郎左衛門といふ者なり心さしの者あらは引組て勝負をせぬかといふ声を聞て是は徳川か郎等匂坂式部といふ者なり参りあはんといふまゝに手鑓ひつさけ渡し合せしはらく戦ひ草摺のはつれ一鑓突たりけるをものゝかすともせす大太刀を以て打払ひ払ひ切に切たれは匂坂か冑のふきかへしを打砕きあまる太刀にて持たる鑓を打おとしたるに式部か弟匂坂五郎次郎たすけ来て真柄に渡し合せ戦ひけるか余りにつよく打程に蜻蜓にうけなかす所をおかみ切に切て勾坂か太刀をはゝき本よりすんと切ておとしあまる太刀にて弓手の股をなきすへたる太刀の柄はかり持て既にあやうく見えける処を匂坂六郎五郎是を見付て透間もなく助来るに郎等の山田宗六我主を討せしとや思ひけん太刀を真向にかさし進み来る真柄きつと見て心さしの奴原おしくは候へといて物見せんといふまゝに持たる太刀を取直しえいやと打たれはから竹わりに討わり弓手馬手へそひらきける六郎五郎得たりとて十文字の鑓にて駈たるを真柄いとゝ打物は達者なれはしはらくうけなかし戦ひしか終にかけたをされけるに最期こそ神妙なれおきあかり今は是まてなも真柄か首取ておのこの名誉にせよといひたりけれは六郎五郎は式部に向ひてはしめ鑓付られしは御辺なり首取て大将に見参に入よといひたりけるか式部ふりあをのき真柄か太刀にてかく冑を砕かれ薄手少々負たれは相かなはさるそ汝取てまいらせよと辞しけれは走かゝり首を討おとしてけり真柄か嫡子十郎も返し合せ戦ひけるか郎等馳来り父はかく討れ給ふと告たれは涙をこほし打太刀もよはれとも敵を討はらひ父はいつれの辺にてうたれ給ひけん同しくは一所にともとめ行処に青木加賀右衛門尉か嫡男所右衛門尉引付て音に聞えし真柄殿いつくへにけ給ふそや引返し勝負あれとよははりかけし処に十郎逃るとは何事そにくきおのこの言葉かないて物見せんと打向ひ父にはおとりし太刀なれ共受て見よといふまゝに四尺三寸氷の如くなるを打振て懸りしに青木か郎等馳ふさかりて戦ひしを太刀振上るより早く細頸中に討落しいさみにいさんて競ひかゝる所右衛門尉是を見て十郎に渡し合せ鎌鑓を打かけたるに運こそ尽て有けるか十郎か馬手の肘を切落され今はかうとや思ひけん尋常に首をうけたるに我は青木の某といひも果す首を討おとしてけりかくて浅井か手は信長卿の御勢を十一段まて切崩し森か手にてしはしさゝへけれとも備前守長政勝にのり旗本をくつしかゝれと下知せられけれは信長卿の御旗本大に騒動す信長卿も既にあやうく見えしに家康卿稲葉伊予守朝倉勢を追拾て浅井か勢の真中へ馬煙を立て横鑓に駆入せ給ひ喚叫て戦ひ給ふ浅井か勢横鑓に驚き色めき引足になるかゝりし処に横山の押へに置れし氏家常陸介入道卜全伊賀伊賀守三千余騎にて馳来る家康卿御勢と双方よりもみ合て戦へは浅井か兵共爰を大事と命も不㆑惜火花をちらして戦へと家康卿の横鑓にかけちらされ氏家伊賀にもみ合され味方摠敗軍にそなりにける浅井玄蕃磯野丹波阿閉淡路は取てかへしけれとも敵猛勢きそひすゝんてつきかゝる中にも忠左衛門安藤右衛門佐桑原平兵衛今枝弥八森九兵衛稲葉刑部少輔同土佐古江加兵衛豊瀬与十郎といふ者共も面もふらす切てかゝれは玄蕃淡路もとより戦ひつかれて引しりそく磯野丹波守員政は立帰後をきつと見けるに味方まはらに敗北すれはかなはしと思ひ我預り置し佐和【
NDLJP:124】山の城心許なしとて打ちらしたる手勢少々まとひわつか三百計にて敵のむらかる真中を討破りかけ通り佐和山の城へこそ引取ける此所より佐和山迄其間四里余あり此丹波守の働感せぬ者こそなかりけるかくて浅井雅楽助舎弟斎宮助加納次郎左衛門尉同次郎兵衛安養寺甚八郎舎弟彦六郎細江左馬助早崎吉兵衛上坂五助舎弟弥太郎同次右衛門は爰を先途と相戦ひ居たりしか味方ちり〳〵に敗北すれは討死と思ひ切各手柄あくまてつくし敵あまた討取終に討死なしたりける上坂刑部ははるかに退きて居たりしか郎等にあひて二人の兄弟の者共はいかに弥太郎何と成行候やと尋けれは何れも敵の中へ駆入討死とけ給ふと申さらは漸て追付へし兄弟の者共といふより早く乗返し敵の中へかけ入よき武者を忽突たをし先へすゝんてかけ入本望をとけ討死をそしたりけり此者共は軍功あまたある剛の者なり中にも物のあはれをとゝめしは浅井雅楽助兄弟そかし先年野良田合戦御影寺合戦終て後朋輩ともとよりあひ味方の働の僉議なと侍れは斎宮助申けるはたれ〳〵と申とも我等か祖父大和守働又は兄玄蕃なとか働ふりに越たる者家中には候はしと申けれは兄雅楽助大に怒てかほと歴々多き中にて其荒言は無益なりとはちしめけれは斎宮助は歴々の中にて諫言せらるゝ事奇怪なりとてそれより近年中をたかひて居たりけるか二十七日の亥の刻はかりに兄の雅楽助斎宮助か陣所へ行て明日討死とけん事は一定なるへし今は遺恨もよしなし名残の盃をのむへしとて父尊霊を見たくは互の顔を見よとて目と目を見合せしはしか程は物をもいはす有けるか雅楽助酒をこひ出し久しき郎等ともに出てのめやとて盃をめくらしたるはあはれにも覚えたり勇士たらん者は斯こそあらまほしけれといはぬ人こそなかりけれかゝりける処に遠藤喜右衛門尉首を提け寄手の勢にまきれ入信長卿に近付刺違へんと心かけ御大将は何方におはしますそやといひまはり行程に信長卿の居給ふ所へ其間十間程近よりけるに折しも竹中久作是を見付味方にては候はし脇目多く遣ふとて名乗懸て引組上を下へと返しけるか久作遂に打勝て遠藤か首をそ討たりける兼て遠藤か首を取へき者をと申せしか剛の者の心さしは恐ろしかりける事ともなり遠藤か郎等富田才八といひし者五六町引退けるか喜右衛門尉討れたるときゝ何をか期すへきとて取て返しさん〳〵に太刀打して爰を最期と戦ひしか終に討れてうせにけり弓削六郎左衛門尉今井掃部助も遠藤か次第を聞同し道にゆかはやとて大勢の中へ駆入是も比類なき働きして討死す斯て散々に敗北せしかは寄手は勝に乗り追打に打程に矢島の郷尊照寺田川迄追たりけるに備前守長政も小谷をさして逃入ぬかゝりける処に安養寺三郎左衛門は兄弟の者共討れけれは今は何処まてと思ひて敵の中へ駆入よき武者と引組首を取立上らんとせしに信長卿の小走の者四五人落重り生捕にせられて信長卿の御前に引すゆる信長卿は御覧して安養寺久敷と被仰けれは兎角の御返事も不㆓申上㆒〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉
日比の御恩実にとく〳〵首をはねられ可㆑被㆑下旨申上れはそは何事そ汝は子細あるものゝ事なり先若者共の取たる首を見せよやと仰けれは織田おなあ持来る首安養寺見て是は私の弟甚八郎と申者にて御座候と申又織田おきく持来る首是も私弟彦六と申者にて御座候と申上れはさて〳〵不便の次第なり汝か心底さそやと被㆑仰竹中久作か取たる首を見すれは是【
NDLJP:125】は遠藤喜右衛門尉にて御座候と申上る其外首数三十計見せ給へは一々に名付をそしたりける安養寺重ねて申上るは早時刻も移り申候間御暇被㆑下首をはねられ可㆑被㆑下と申上れはいやとよ汝は一度備前守か用に立命を捨たり今日よりは此信長か命なり小谷に帰り無二の忠義致すへし我等も随分加恩を可行なり先汝に問へき子細あり此まゝ押寄小谷を可㆑攻と思ふなり其故は今日の軍に働きたる浅井か兵は何の役にも立可らす候間小谷は即時に可㆑落と宣へは安養寺申上けるは備前守長政か親下野守久政か手勢一千騎も御坐候長政か城番井の口越前守か勢五百余騎千田采女正と西野入道か勢も少々二三百余騎も御坐候へは荒手の勢の千七八百余騎は堅く御坐候間早速は落申ましきかと申上けれは信長卿聞召安養寺か申所尤なり其上我等か勢も今日数刻の戦につかるへし重て小谷を可㆑攻なり其時は忠節をはけますへしとて安養寺は不破河内守に預け給ひ小谷へ帰し給ひけるかゝりける処に木下藤吉郎秀吉馳来り何とてそれに緩々と被㆑成㆓御坐㆒あるそ小谷へ勢を押寄乗取給へと申けれは爰にて安養寺と相談するに城中に残る兵多く有といへは早速には落へからす先此度は味方の勢を可㆑入と被㆑仰けれは秀吉重ての給ひけるは此競に攻なは即時に可㆓乗取㆒ものをと申給へとも信長卿被仰けるは今に初めぬ藤吉郎の大腹をいふと笑せ給ふ此時信長攻給はゝ小谷は即時に落へきなり留守居の老武者二百余騎とそきこえける安養寺かはかりし故其後三ケ年はかゝはりけりかくて其日味方へ討取首八百余うたるゝ兵千七百なり今日の軍に家康卿の横鑓暫時の間をそかりせは信長卿を討取へきものをと今に至る迄人皆申あひにけり




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