浅井三代記/第九

浅井備前守亮政は地頭山合戦に味方多く討せたりと雖も寄手を事故なく江南へ追込江南江北の間佐和山を根城として鳥井本山に要害を構へ大野木土佐守五百余騎にて被㆓籠置㆒太尾の城には三田村左衛門大夫四百余騎にて楯籠る磯山の城に月ケ瀬若狭守島若狭守両人其勢三百被㆓籠置㆒江南勢の江北への通路を差塞き給ふかゝりける処に美濃国斎藤山城守秀龍江南佐々木六角に被㆑頼番場表へ働出し江北へ切入亮政の裏へ廻り包討に討へきとの手筈〈[#「筈」は底本では「笞」]〉なりけるか山城守何とか思案ありけん延引して居たりけるか六角勢番場表にて大きに破れ江南へ退くの旨を聞弥手袋を引て出さりけるに六角定頼大きに立腹して使節を以申遣けるは我等今月五日に当城を打立十二日に勝利を得浅井か兵大半討取候処に味方浅井に被㆑計十三日に敗軍す是偏に貴殿出張を相待しより味方の術相違せりとかく浅井に御心入候やと存右頼候段面目なく候と申遣しけれは斎藤大きに怒てそも此斎藤を二心有へき者と思ひ給ふ定頼の心術によりて度々浅井と取合とも終に勝利を得給はす江南へ追込れ給ふと荒言していつ出へきとも返事せす使節を帰し給ひけり斎藤夫より勇気を励まし家老の面々を呼集め宣ひけるは定頼今度当国よりの加勢遅きとて立腹せられ重て使節来るなり兎角近日江北へ発向し浅井一家を討取其上にて首尾を窺ひ江南へ乱れ入佐々木か一類に腹切らせ近江一国を平均に可㆑治と被㆑申けれは家老の面々承り定頼に頼まれ候処に只今迄御延引の段おくれ【 NDLJP:84】て勢を不㆑出と近江にてあさけられんも口惜かるへし早々思召立給ひ浅井を討とらせ給へと同音に申上けれはさあらは勢を揃へよと丸毛主殿助永井隼人に被㆓仰付㆒軍勢一万二千余騎の着到にて大永本マヽ□ 年九月十八日に居城岐阜を立て其日は同国大垣に旗本をすゑたまへは先陣垂井の宿に着陣すかくて亮政此旨を聞給ひ敵近江路へ越なは小勢を以て大軍防かたしいさ打立んと催し給へと味方の軍兵山城守一万二千の着到にて押寄ると聞進みかねてそ見えにける亮政味方の気を見て宣ひけるは斎藤か兵一万二千と聞ゆ我等か勢は何程可㆑有と尋給へは大橋安芸守こたへて申けるは三千には過へからすと申亮政重て宣ふは味方無勢こそ幸なれ国堺玉村小関二ケ所の難所を楯にとり山あひのつまり〳〵に勢を置防へし惣て山あひの合戦には多勢を防くに小勢にて利あり数年当国において味方の兵度々無㆓比類㆒手柄有といへとも終に其沙汰他国へ不㆑出此度は他国との取合なり花々敷出立山城守か勢一万二千悉追立其名を美濃路に輝し給へ人々と有けれは大橋安芸守秀元伊部清兵衛尉為利勇気第一の兵とも仰尤なり此度に於ては敵百万騎にて寄来るとも近江路へ一足も蹈入る事は恐らくはさせましきと荒言すそれより吉例なれはとて小谷の城にして上下の軍兵に不㆑残酒を被㆑下けるに漸々数献めくれは亮政の室みつから立出給ひかち栗に打蚫を下々まて手つからひかせ給ひ又一入興を催し此度おくれては世になからふへきと思ふ者一人もなしかくて時刻もうつり行は大将亮政大寄山へ打あかり味方の勢をあつめ給ふ亮政其日の装束は地紫の直垂に萠黄おとしの鎧金の五枚甲に鍬形打日輪のすゑ紋に朱をさゝせ浅井黒といふ名馬に梨地鞍おかせ手綱かいくり出させ給ふは天晴よき大将とそ申ける相従ふ人々も他国の取合に装束見苦てはかなふましとて我も我もと花々敷出立大寄山へ打上る石田長楽庵に被㆓仰付㆒着到を付給ふに先日地頭山にて味方多く討れ打散たる砌なれは折しも勢は無勢にて三千余騎には過さりけりされとも亮政は少もおくれさせ給はす兵共に向ひて宣ひけるは敵味方対々の勢にて討勝といふともこれはさして手柄にあらす十に一をあてゝ一を以て十を討是良将なり此三千余騎を以て美濃勢一万二千騎を追立其名を天下に顕すへし諸卒ともゝ三千騎か三百騎になるとも働て尸骸は藤川の土となすとも名を江濃の両州にとゝめよとのたまへは士卒いよ〳〵勇気をはけまし勇みすゝみて見えにける去程に九月十九日に大寄山を立て其日の酉の上刻に玉の山中に着陣す亮政赤尾孫三郎伊部清兵衛尉主従三人陣所を忍ひ出玉村の東の上なる山へ取のほり敵の陣所屯を見たて味方の術をさため給ふへしとて山城守か本陣関か原表まて一々巡見したまひて立帰り宣ふやうは美濃勢は多勢なり味方はいよ〳〵小勢に備へんとて大橋安芸守に五百余騎相添黒地山の南へ十町はかり立出勝山といふ山へ打あけ勢を備へさせてれき給ふ舎弟大和守阿閉三河守五百余騎にて是も六七町打出山陰に引かくす伊部清兵衛尉赤尾美作守〈孫三郎事地頭山合戦の後改美作守〉海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八野村肥後守を先に立二千余騎を真円に備へ玉村山まり五町計前の広みへ出て寄手を待請居給ふ亮政の心底蟷螂か斧を把て立車にむかふ共いひつへしかくて寄手の方には亮政の小勢を見あなとり一揉に可㆓討取㆒と進まぬ者はなかりけり去程に九月二十日の巳の刻はかり【
NDLJP:85】の事なるに永井隼人日根野備中守三千余騎真先駆て攻寄る亮政此由見給ひて兵共に下知し給ふは敵合五段計近付まて味方防矢も射出すへからすしつまつて備をみたすなと被㆓仰付㆒たり永井日根野か三千余騎敵味方の間二町計よりえいや声を立て攻寄る味方の兵は弓を横たへしつまり返つて居たりけれは敵は是を小勢故おくれたると思ひいさみすゝんて矢を射かくる事雨の降か如し味方は敵を近々とよせ五百計一度に二行に立別れ矢種を不㆑惜射出しけれは永井日根野か兵足をそゝろに乱しける浅井勢時はよきそ鑓を可㆑入とて五百余騎おめきさけんて切て掛る濃州勢なとかはたまるへき一さゝへもさゝへすして二町はかり引退く浅井勢敵を漸追拾て本陣へ引取けるそれよりして濃州勢は小勢に駆ちらされし事を無念に思ひ桑原刑郎大輔舎弟八郎巻村牛之助徳山五兵衛一丸毛主殿助永井日根野か後へ馳付惣掛に押寄浅井を山合へ追込一々に討取へしとて其勢七千余騎おめきさけんて切てかゝる浅井是を見て開合せて命も不㆑惜爰を先途と戦へと敵七千余騎火花をちらして働けは防きかねてそ見えけるかゝりける処へ西なる山へ打あけて置し大橋安芸守五百余騎鬨を噇とあけ一文字に横鑓に突かゝる日根野備中守永井隼人是を見て西の山より敵積鑓に来るを横鑓を押へんとて三千計にて西向になり駆向ふ其時隠し置たる浅井勢時分を引請五百余騎面もふらすそかゝりける濃州勢思ひよらさる方より敵突かゝれは引色に見えし処に赤尾美作守海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八敵の中へわり込四方八面に働それよりして大将亮政一陣に進み出敵の中へ討入給へは江北勢三千余騎一足も不㆑引切入は濃州勢惣敗軍にそなりにける桑原刑部大音あけ申けるはきたなし味方の者共よ浅井か兵三千には不㆑可㆑過かやうの小勢に味方多労の敗北は臆病神にさそはるゝか返せ〳〵とよははつて七百はかり取て返し浅井勢と戦ひしか野村肥後守磯野右衛門大夫東野左馬助渡し合せて戦ふたり日根野備中守野村十郎左衛門桑原を討せしと取て返し黒煙を立て戦へは浅井勢防きかねて見えし処に堀能登守頼定土肥次郎左衛門尉百々隠岐守三人は今井新庄か様子難㆓見届㆒候故彼者共か押へとして番場門根黒田三ケ村に引籠りて居たりけるか濃州勢大軍にて味方防きかたきの旨を聞三人共勢七百余騎今洲中山より馬煙を立て馳来るとひとしく鬨を噇とあくれは山城守是を見て稲葉巻村に下知して三千計今洲口へさしむけらる江北勢は力を得て追つ巻つ爰のつまりかしこの山陰を楯にして開き合せて戦へは濃州勢関ケ原さしてそ引にける爰に桑原刑部か舎弟同八郎は美濃尾張両国に隠れなき大剛の者力は十五人か力と聞えしか赤尾美作守黄糸おとしのよろひいまた已の時はかりにかゝやくを着金の鯰尾の甲に金の六本菖蒲の指物して黒くふとうたくましき馬にみかき貝の鞍おかせ朱柄の長刀をつこふて四方の軍に向ひ目をくはり味方のたゆむ方へ駆向ひけれは八郎大将亮政と思ひ定め一騎五段計駆出し名乗けるはそも爰許に進み出たる兵をいかなる者とか思ふらん尾濃の両国にかくれなき桑原刑部か弟八郎といふものなり尾濃両国にしては度々組討するといへと江州へ来り終に勝負をせす其許に金の鯰尾の甲に六本菖蒲の指物さしたる武者は江北にての大将か左なくは歴々の人と見えたるそ引組勝負したまへと名乗かけて馳来る美作此山見るよりも元来其身【
NDLJP:86】も力あり組はやなんと思ひ数ならす候へとも御意にしたかひ組申さんとて駒引寄むすとくみしはしは勝負見えさりけるか桑原本より大力なれはつゐに美作組負けり八郎美作を取ておさへ首をかゝんとせし処に伊部清兵衛尉雨森弥兵衛は五段はかり此方に居たりしか美作か組たるを見て無㆓心許㆒おもひ手に汗を握りかけ付落重り八郎を引立れは美作起上り八郎か首を取り長刀の先に貫ぬき敵陣へさしあけ名乗やう濃州にて鬼神とよはれし桑原八郎を赤尾美作組勝首給て候是々御覧候へといひ捨味方の陣へ引にけりかくて濃州勢大軍なりといへとも一陣破て残党不㆑全とて皆散々に敗北すれは山城守も関ケ原の東八幡山へ引取陣取て居かまふ備前守も陣所をひき退き玉村と藤川の間なる小山に陣をすゑたまふ今日の軍に敵五百余討とれは味方も二百余騎討れにけりされとも味方の内に名有者一人もうたれすして浅井十分の勝利を得ていさみをなしてそ居給ひける



一大永五年の春より浅井八千余騎にて発向し垂井表にて度々相戦のよし
一亮政焼働と申候て青野表にて味方利を失ひ引取かたき処を己か陣小屋に火を放引取申候由
一伊部清兵衛尉濃州赤坂にて討死仕候由
一斎藤五郎と申者大垣の城にて浅井方へ討取申候由に御座候
一江州と濃州と相争ふ事二年の内に有之候然れとも覚書の留に無㆓御座㆒候故合戦の次第場所知れ不㆑申候定て落丁仕者にて可㆑有㆑之候故しるし不㆑申候
一浅井と斎藤と中和仕亮政か第二の娘あふみと申候を申請嫡子龍興か室と仕候
一美濃国にて不破郡安八郡二郡切とり浅井三代目長政代には八郡程申付候則人質等小谷に取置申候惣して美濃軍の次第すきと覚書に無㆓御座㆒候
京極入道利角斎上平に館を被㆑移事
かくて江南江北の諸侍此近年は軍やみ物静になりゆけは安堵をなして居たりけるに爰に京極高峯入道利角斎は先年永正十四年に浅井と中和の時浅井思ふやふには江北の屋形として久敷侍の大将を取行ひ給へは江北の諸士此亮政に思ひ付さるは度々御心替に付てなり此入道を我か小城の内に守護し申なは諸侍も思ひ可㆑付其上御心替も自由になるへからすと思ひ小谷の内に丸をかまへ京極丸と名を付己か山取の内にうつし奉りて守護し申せしか今は江北浅井か家の威勢になひかぬ者もなくして平均に治りけれは京極入道の御野心もうせさせ給へは御身を自由にはたらかせ鷹狩なんとに出給ふ或時利角斎入道大野木土佐守を頼み亮政へ断り被㆑仰けるは小谷の内にては不自由なり本のことく所領少相添へ上平へ返し置くれ候へと御断り再三なれは亮政同心し給ひて上平を拵なほし天文八年五月の比京極高峰入道を上平へ入置申則其近辺にて所領大分付れかる今は御心替りの気色少もなく浅井と中よき事水魚のことく国中も猶おたやかなり
久政家督相続の事并病死の事 嫡子浅井新三郎高政は心も剛に智恵深し度々美濃国と取合の砌大将としてさしむけらるゝに一方討破らすと云事なしあかれとも大永六年四月九日に早世す然れは亮政世をはかなく思ひ冷めけれとも家督を可㆑譲男子なし次男新九郎は心にふくして亮政の御心にはかなはせ給はねとも御前より達ての訴訟により新九郎十八歳なりしか于時亨禄二己丑歳に新九郎を下野守久政と名をあらため井口弾正忠か娘をめあはす此娘は親井口弾正番場の地頭山に【

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。