浅井三代記/第九

目次
 
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浅井三代記 第九
 
 
斎藤山城江守北発向小関合戦の事
 

浅井備前守亮政は地頭山合戦に味方多く討せたりと雖も寄手を事故なく江南へ追込江南江北の間佐和山を根城として鳥井本山に要害を構へ大野木土佐守五百余騎にて被籠置太尾の城には三田村左衛門大夫四百余騎にて楯籠る磯山の城に月ケ瀬若狭守島若狭守両人其勢三百被籠置江南勢の江北への通路を差塞き給ふかゝりける処に美濃国斎藤山城守秀龍江南佐々木六角に被頼番場表へ働出し江北へ切入亮政の裏へ廻り包討に討へきとの手筈〈[#「筈」は底本では「笞」]〉なりけるか山城守何とか思案ありけん延引して居たりけるか六角勢番場表にて大きに破れ江南へ退くの旨を聞弥手袋を引て出さりけるに六角定頼大きに立腹して使節を以申遣けるは我等今月五日に当城を打立十二日に勝利を得浅井か兵大半討取候処に味方浅井に被計十三日に敗軍す是偏に貴殿出張を相待しより味方の術相違せりとかく浅井に御心入候やと存右頼候段面目なく候と申遣しけれは斎藤大きに怒てそも此斎藤を二心有へき者と思ひ給ふ定頼の心術によりて度々浅井と取合とも終に勝利を得給はす江南へ追込れ給ふと荒言していつ出へきとも返事せす使節を帰し給ひけり斎藤夫より勇気を励まし家老の面々を呼集め宣ひけるは定頼今度当国よりの加勢遅きとて立腹せられ重て使節来るなり兎角近日江北へ発向し浅井一家を討取其上にて首尾を窺ひ江南へ乱れ入佐々木か一類に腹切らせ近江一国を平均に可治と被申けれは家老の面々承り定頼に頼まれ候処に只今迄御延引の段おくれオープンアクセス NDLJP:84て勢を不出と近江にてあさけられんも口惜かるへし早々思召立給ひ浅井を討とらせ給へと同音に申上けれはさあらは勢を揃へよと丸毛主殿助永井隼人に被仰付軍勢一万二千余騎の着到にて大永​本マヽ​​□​​ ​年九月十八日に居城岐阜を立て其日は同国大垣に旗本をすゑたまへは先陣垂井の宿に着陣すかくて亮政此旨を聞給ひ敵近江路へ越なは小勢を以て大軍防かたしいさ打立んと催し給へと味方の軍兵山城守一万二千の着到にて押寄ると聞進みかねてそ見えにける亮政味方の気を見て宣ひけるは斎藤か兵一万二千と聞ゆ我等か勢は何程可有と尋給へは大橋安芸守こたへて申けるは三千には過へからすと申亮政重て宣ふは味方無勢こそ幸なれ国堺玉村小関二ケ所の難所を楯にとり山あひのつまりに勢を置防へし惣て山あひの合戦には多勢を防くに小勢にて利あり数年当国において味方の兵度々無比類手柄有といへとも終に其沙汰他国へ不出此度は他国との取合なり花々敷出立山城守か勢一万二千悉追立其名を美濃路に輝し給へ人々と有けれは大橋安芸守秀元伊部清兵衛尉為利勇気第一の兵とも仰尤なり此度に於ては敵百万騎にて寄来るとも近江路へ一足も蹈入る事は恐らくはさせましきと荒言すそれより吉例なれはとて小谷の城にして上下の軍兵に不残酒を被下けるに漸々数献めくれは亮政の室みつから立出給ひかち栗に打蚫を下々まて手つからひかせ給ひ又一入興を催し此度おくれては世になからふへきと思ふ者一人もなしかくて時刻もうつり行は大将亮政大寄山へ打あかり味方の勢をあつめ給ふ亮政其日の装束は地紫の直垂に萠黄おとしの鎧金の五枚甲に鍬形打日輪のすゑ紋に朱をさゝせ浅井黒といふ名馬に梨地鞍おかせ手綱かいくり出させ給ふは天晴よき大将とそ申ける相従ふ人々も他国の取合に装束見苦てはかなふましとて我も我もと花々敷出立大寄山へ打上る石田長楽庵に被仰付着到を付給ふに先日地頭山にて味方多く討れ打散たる砌なれは折しも勢は無勢にて三千余騎には過さりけりされとも亮政は少もおくれさせ給はす兵共に向ひて宣ひけるは敵味方対々の勢にて討勝といふともこれはさして手柄にあらす十に一をあてゝ一を以て十を討是良将なり此三千余騎を以て美濃勢一万二千騎を追立其名を天下に顕すへし諸卒ともゝ三千騎か三百騎になるとも働て尸骸は藤川の土となすとも名を江濃の両州にとゝめよとのたまへは士卒いよ勇気をはけまし勇みすゝみて見えにける去程に九月十九日に大寄山を立て其日の酉の上刻に玉の山中に着陣す亮政赤尾孫三郎伊部清兵衛尉主従三人陣所を忍ひ出玉村の東の上なる山へ取のほり敵の陣所屯を見たて味方の術をさため給ふへしとて山城守か本陣関か原表まて一々巡見したまひて立帰り宣ふやうは美濃勢は多勢なり味方はいよ小勢に備へんとて大橋安芸守に五百余騎相添黒地山の南へ十町はかり立出勝山といふ山へ打あけ勢を備へさせてれき給ふ舎弟大和守阿閉三河守五百余騎にて是も六七町打出山陰に引かくす伊部清兵衛尉赤尾美作守〈孫三郎事地頭山合戦の後改美作守〉海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八野村肥後守を先に立二千余騎を真円に備へ玉村山まり五町計前の広みへ出て寄手を待請居給ふ亮政の心底蟷螂か斧を把て立車にむかふ共いひつへしかくて寄手の方には亮政の小勢を見あなとり一揉に可討取と進まぬ者はなかりけり去程に九月二十日の巳の刻はかりオープンアクセス NDLJP:85の事なるに永井隼人日根野備中守三千余騎真先駆て攻寄る亮政此由見給ひて兵共に下知し給ふは敵合五段計近付まて味方防矢も射出すへからすしつまつて備をみたすなと被仰付たり永井日根野か三千余騎敵味方の間二町計よりえいや声を立て攻寄る味方の兵は弓を横たへしつまり返つて居たりけれは敵は是を小勢故おくれたると思ひいさみすゝんて矢を射かくる事雨の降か如し味方は敵を近々とよせ五百計一度に二行に立別れ矢種を不惜射出しけれは永井日根野か兵足をそゝろに乱しける浅井勢時はよきそ鑓を可入とて五百余騎おめきさけんて切て掛る濃州勢なとかはたまるへき一さゝへもさゝへすして二町はかり引退く浅井勢敵を漸追拾て本陣へ引取けるそれよりして濃州勢は小勢に駆ちらされし事を無念に思ひ桑原刑郎大輔舎弟八郎巻村牛之助徳山五兵衛一丸毛主殿助永井日根野か後へ馳付惣掛に押寄浅井を山合へ追込一々に討取へしとて其勢七千余騎おめきさけんて切てかゝる浅井是を見て開合せて命も不惜爰を先途と戦へと敵七千余騎火花をちらして働けは防きかねてそ見えけるかゝりける処へ西なる山へ打あけて置し大橋安芸守五百余騎鬨を噇とあけ一文字に横鑓に突かゝる日根野備中守永井隼人是を見て西の山より敵積鑓に来るを横鑓を押へんとて三千計にて西向になり駆向ふ其時隠し置たる浅井勢時分を引請五百余騎面もふらすそかゝりける濃州勢思ひよらさる方より敵突かゝれは引色に見えし処に赤尾美作守海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八敵の中へわり込四方八面に働それよりして大将亮政一陣に進み出敵の中へ討入給へは江北勢三千余騎一足も不引切入は濃州勢惣敗軍にそなりにける桑原刑部大音あけ申けるはきたなし味方の者共よ浅井か兵三千には不過かやうの小勢に味方多労の敗北は臆病神にさそはるゝか返せとよははつて七百はかり取て返し浅井勢と戦ひしか野村肥後守磯野右衛門大夫東野左馬助渡し合せて戦ふたり日根野備中守野村十郎左衛門桑原を討せしと取て返し黒煙を立て戦へは浅井勢防きかねて見えし処に堀能登守頼定土肥次郎左衛門尉百々隠岐守三人は今井新庄か様子難見届候故彼者共か押へとして番場門根黒田三ケ村に引籠りて居たりけるか濃州勢大軍にて味方防きかたきの旨を聞三人共勢七百余騎今洲中山より馬煙を立て馳来るとひとしく鬨を噇とあくれは山城守是を見て稲葉巻村に下知して三千計今洲口へさしむけらる江北勢は力を得て追つ巻つ爰のつまりかしこの山陰を楯にして開き合せて戦へは濃州勢関ケ原さしてそ引にける爰に桑原刑部か舎弟同八郎は美濃尾張両国に隠れなき大剛の者力は十五人か力と聞えしか赤尾美作守黄糸おとしのよろひいまた已の時はかりにかゝやくを着金の鯰尾の甲に金の六本菖蒲の指物して黒くふとうたくましき馬にみかき貝の鞍おかせ朱柄の長刀をつこふて四方の軍に向ひ目をくはり味方のたゆむ方へ駆向ひけれは八郎大将亮政と思ひ定め一騎五段計駆出し名乗けるはそも爰許に進み出たる兵をいかなる者とか思ふらん尾濃の両国にかくれなき桑原刑部か弟八郎といふものなり尾濃両国にしては度々組討するといへと江州へ来り終に勝負をせす其許に金の鯰尾の甲に六本菖蒲の指物さしたる武者は江北にての大将か左なくは歴々の人と見えたるそ引組勝負したまへと名乗かけて馳来る美作此山見るよりも元来其身オープンアクセス NDLJP:86も力あり組はやなんと思ひ数ならす候へとも御意にしたかひ組申さんとて駒引寄むすとくみしはしは勝負見えさりけるか桑原本より大力なれはつゐに美作組負けり八郎美作を取ておさへ首をかゝんとせし処に伊部清兵衛尉雨森弥兵衛は五段はかり此方に居たりしか美作か組たるを見て無心許おもひ手に汗を握りかけ付落重り八郎を引立れは美作起上り八郎か首を取り長刀の先に貫ぬき敵陣へさしあけ名乗やう濃州にて鬼神とよはれし桑原八郎を赤尾美作組勝首給て候是々御覧候へといひ捨味方の陣へ引にけりかくて濃州勢大軍なりといへとも一陣破て残党不全とて皆散々に敗北すれは山城守も関ケ原の東八幡山へ引取陣取て居かまふ備前守も陣所をひき退き玉村と藤川の間なる小山に陣をすゑたまふ今日の軍に敵五百余討とれは味方も二百余騎討れにけりされとも味方の内に名有者一人もうたれすして浅井十分の勝利を得ていさみをなしてそ居給ひける

 
翌日二十二日合戦付朝倉宗滴加勢の事
 
斎藤山城守は昨日の合戦に浅井か勢を小勢と見あなとりし故敗北に及ふ事無念に思ひ二十二日の未明より又関ケ原八幡の森より人数をくり出しけるに浅井備前守は玉村藤川の山合へ昨夜の間に引取山のつまりに二百騎三百騎射手を置我身は玉村の東の山に本陣をすゆる百々隠岐守堀能登守土肥次郎左衛門尉三人は山中宿双方の山に陣取上海道をさしふさきてそ居たりける山城守か勢は永井日根野を大将として究竟の射手共五百計にて大関の北玉山近く打て来りけれとも此地随分の難所なれは討破り切入へきやうもなくして互に矢軍してそ居たりける又佐和山表へは観音城より定頼一万余騎にて寄られ合戦初ると聞えけれは濃州勢は勇み進んてそ見えにける浅井は此由聞よりも美濃勢を防き数日を送りなは其内に佐和山表覚束なし先美濃勢を無二に切入追払ひ其上にて六角と雌雄を可決と御身をもませ給へは舎弟大和守申されけるは佐和山表の儀は五日十日の内に敵に破らるゝ事有へからす先此表たしかに堅め其内に様子御覧候へしと有けれは列座の諸卒一段よろしかるへきと其日は敵味方互に矢軍してそ居たりける斯て越前朝倉太郎左衛門入道宗滴は江北番場表にて浅井か軍大に利を失ひ申旨を聞越前大将貞景の御前に参申けるは今度浅井江北五郡をきりしたかへ其威近国に徹しけれは佐々木定頼大軍を催し番場の地頭山にして合戦し浅井利を失ふ旨承候其上美濃国斎藤山城守を定頼加勢に頼み呼出して両旗にて攻ると申候間此度の儀に候へは浅井も此方へ御加勢を頼度可存候へとも度々加勢頼候儀武将のひけと存候か不申来候私に御暇被下候はゝ江北へ見廻申度と被望けれは貞景暫思案して無用たるへしと宣ひけれは宗滴元来一徹なる人なれは左様に候はゝ長く御家の暇を可下と請れけれは貞景重て宣ひけるはそれはいかやうの存入にて御入候やと問給へは先年此方より御加勢被成候て浅井か難をすくひ給ひ当地へ御礼に罷出候節何時なりとも御加勢可成旨自被仰出候儀御偽にて候や武の道は左様には有ましく候と宗滴声をあらゝけて申されけれは貞景言語につまり左様に候はゝ貴殿老体にて苦労には可有候へとも加勢あるへしとて貞景より人数七千給はれは大永元年九月二十日に手勢合せて八千余騎にて一乗谷を打立急オープンアクセス NDLJP:87きたまへは程なく二十一日の幕には先勢木の本の宿に着陣す翌二十二日には春照野にて諸勢待合せ浅井か陣所へ是まて発向せし旨注進したまへは浅井忽色をなほしよろこふ事限りなし浅井か方より案内として筧助左衛門田那部式部を越けれはそれよりして洲川山へ人数を打あくる一手は本海道の今洲口へおしまはしけれは濃州勢是に気をうしなひ陣中以の外に騒動す浅井此由見るよりも玉山より討て出大関小関まて追立る宗滴も関ケ原口へくり出しける山中に居たりし堀能登守百々隠岐守土肥次郎左衛門尉横鑓に突掛りけれは山城守是を見て使番を以て永井か手へ申遣けるは二番備日根野か勢と一つに加つて引取へきと被申越けれは永井日根野一つになり関ケ原山へ引取ける朝倉勢も長途のつかれにかさしてしたはす浅井勢も敵を漸々に追捨て備を立てそ居たりける山城守も重て勝負を可決とや思ひけん菩提へ人数引いれけりかくて宗滴は備前守に案内も不申して人数引返し佐和山表へ向はれける備前守は猶も美濃勢無心許とおもはれけん小関に陣取備を立てそ居給ひける
 
朝倉勢佐和山表働の事南北和睦事
 
去程に定頼は江南勢を召具し其勢一万余騎にて九月十八日に観音城を出立て十九日の暮には先勢小野の宿に着陣す本陣は高宮に居へ給ひ翌日二十日には佐和山の城へ押寄給ふ磯野伊予守此由を見るよりも町はつれへ討て出矢先を揃へてさゝえけるに六角勢猛勢なれは味方防きかねて見えけれは若敗北に及ひなは付入にせられてはあしかりなんと思ひ諸勢打連城の内へさつと引揚け門をかため四方を廻りて防きける定頼勢それよりして三方にめくり城中をおつとり巻喚叫て攻たりけるに鳥井本の要害より大野木土佐守射手を揃へ寄手の後よりさしつめ引つめ射たりけれは六角勢鳥井本表の人数を引取佐渡根山へ勢をあけ互ににらみ合てそ居たりける二十二日の巳の刻計の事なるに定頼進藤山城守に向ひて宣ひけるは鳥井本の要害は新しき普請なれは攻やすし勢を二三千程さし向岑通りより踏落せと下知したまへは進藤承候とて三千余騎山の尾通りを人数押上鳥井本の要害へ攻寄る太尾の城には是を見て鳥井本の尾崎へ敵まはるそとて城中より三田村左衛門大夫四百計にて鳥井本の要害可見継とて人数摺針の峯よりおしまはす寄手難所を越かねて見えし処に大野木か勢山の切岸を楯に取すきを見て矢種を不惜さんに射出しけれとも寄手の多勢物の数ともせすえいや声をあけてつめよする味方一千にたらぬ勢にて四方をめくりて防きけれは既に危く見えし処に朝倉勢八千余騎にて先勢摺針峠へ旗さし物をさし上貝鐘にて人数おしかけけれは六角は是を見て斎藤由城守小関表を討破り此方へ向ひ給ふか又敵浅井勢かと是をあやしむ又味方の者共も斎藤か勢こなたへこえ前後を取切給ふかと手に汗を握り周章す朝倉宗滴鳥井本の城へ内通したりけれは大野木三田村悦ひていさみにいさんて防きける朝倉勢二手に分て一手は鳥井本道一手は上なる山へおしまはす定頼卿は朝倉よりの加勢と見て本陣へ人数を引取備へなほして一戦とくへきと人数引とらんとせし処を宗滴釆拝を取て馬煙を立て馳向ふ定頼勢佐渡根山の南はなれにして爰を先途と戦へと付城の面々所々より駆出オープンアクセス NDLJP:88れは定頼かなはしとや思ひけん引とらんとせし処を朝倉勢ひしと付火花をちらし戦へは引かねて見えし処に後藤但馬守進藤山城守伊庭美濃守取て返し討死爰なるそ味方の者ともと火出る程戦へは朝倉勢も長途のつかれにや二町はかりさつと引其透に定頼勢高宮まて引取給ふかくて亮政は小関山に陣取て居給ひけるに美濃勢菩提へ勢をいれけれは又向ひ来る事もあるらんと其日は備を張て居給ひけるに斎藤山城守も朝倉勢に驚き居城岐阜へ引取旨を聞舎弟大和守を小関に置亮政も佐和山表へむかひ給ふそれよりして佐和山近辺人数みちみちたれは定頼卿荒神にて勝負を決すへしとて諸勢荒神山へ入給ふ浅井朝倉の両将も人馬に息をつかせんとて佐和山の城に打入給ふかくて浅井朝倉の両将軍評議して近日荒神山へ押寄佐々木六角を討取近江一国を可治と事決定して居たりける処に三井寺山門の門主達江南江北近年又乱れ互に雌雄をあらそふと聞給ひ御噯に出御有て已前の如く愛知川堺南北の領内証文をたゝし起請文を取かはし可為中和旨種々再三宣ふ故亮政もいかゝと思はれけれとも南北数年の戦ひに諸士も疲れはて神社仏閣破減不大形民屋もおたやかならねは先味方の者共にもしはしなりとも休ませはやと思ひ和睦同心して勢を小谷へ引入けれは定頼も観音城へ引給ふ朝倉宗滴浅井か城小谷に打入浅井と相談して申けるは我今度遠路を来りさして其しるしもなく越前へ引入事其甲斐なし美濃国へ切入へきと申けれは亮政申けるはいや其儀に候はす貴殿御加勢故上坂泰貞斎か如仕置南北の領分に堺を立雌雄のあらそひやみ諸人勢引事御情深し当国へ両度まて御越有て難をすくひ給ふ段御恩不浅候美濃国へ切入事は重て首尾を窺ひ我等一人可切入自然味方難儀に及ひなは一左右可申入其時又可頼入と申ける宗滴小谷に逗留あれは亮政善尽し美尽し馳走にて十月二日に竹生島へ宗滴同船にて社参し同十四日に柳か瀬まて見送り立波といふ浅井重代の名太刀に浅井黒といふ馬一疋を宗滴へ遣す宗滴不斜悦ひて越国をさして帰られける誠に此今度宗滴の振舞不浅次第なりこれより江南江北の軍止物静にそ成にける
 
今井肥前守同孫左衛門同十兵衛尉切腹の事
 
今度南北和睦して亮政江北中の侍の忠不忠の輩を正しけるに忠節の人には感状に所領を相添給はるも有り褒美計を給ふもあり其品々を糺したもふ爰に今井肥前守頼弘同孫左衛門尉同十兵衛三人は番場表にて敵江南定頼卿方へ内通して亮政を可討計略したる旨慥に証人出けれはたはかつて小谷の城へ右三人をめされける三人の者共何心もなく登城仕たりけれは惣門の下馬より供の侍を押留め三人か脇指を雨森弥兵衛海北善右衛門尉請取亮政の前へ召出し一々吟味したまへは肥前守臆する色なく有のまゝに白状す亮政是を聞流石名ある者なれは少も己か罪をかくさす申条神妙なりとて神勝寺と云寺へ右三人追込一三日して切腹を被仰付肥前守か嫡孫権六と申者当年五歳になりけるか親肥前守は江北にて久敷相仕へ其身も剛なる者なれは亮政其跡の絶さん事不便におもはれ新庄の内二箇村賜り今井の庶子筋近き一門なれはとて新庄駿河守に権六を預け置る此者十五になるならは領分一所も不違権六に可相渡とて助け給ふ此新庄も同罪に可申付に少子細有て其罪をゆるされけオープンアクセス NDLJP:89る誠に亮政の心底頼もしき仕置とて諸侍是を感しける此嫡孫権六事下野守久政代の覚書に出たり其年の暮には所々の付城の者共を悉呼取佐和山の城太屋の城はかり残しおかる佐和山の城には磯野伊予守太尾の城には島若狭守田那部式部一組神田孫八郎岩脇市助一組替る番を可仕と被申付高宮三河守は高宮の城へ帰り久徳左近は久徳村へ帰りける小関の城には山田百々伊吹なとを籠おかれ大和守は小谷へ帰り給ひけり
 
亮政美濃国切取事斎藤と緑を結ふ事
 

大永五年の春より浅井八千余騎にて発向し垂井表にて度々相戦のよし

亮政焼働と申候て青野表にて味方利を失ひ引取かたき処を己か陣小屋に火を放引取申候由

伊部清兵衛尉濃州赤坂にて討死仕候由

斎藤五郎と申者大垣の城にて浅井方へ討取申候由に御座候

江州と濃州と相争ふ事二年の内に有之候然れとも覚書の留に無御座候故合戦の次第場所知れ不申候定て落丁仕者にて可之候故しるし不申候

浅井と斎藤と中和仕亮政か第二の娘あふみと申候を申請嫡子龍興か室と仕候

美濃国にて不破郡安八郡二郡切とり浅井三代目長政代には八郡程申付候則人質等小谷に取置申候惣して美濃軍の次第すきと覚書に無御座

  京極入道利角斎上平に館を被移事

かくて江南江北の諸侍此近年は軍やみ物静になりゆけは安堵をなして居たりけるに爰に京極高峯入道利角斎は先年永正十四年に浅井と中和の時浅井思ふやふには江北の屋形として久敷侍の大将を取行ひ給へは江北の諸士此亮政に思ひ付さるは度々御心替に付てなり此入道を我か小城の内に守護し申なは諸侍も思ひ可付其上御心替も自由になるへからすと思ひ小谷の内に丸をかまへ京極丸と名を付己か山取の内にうつし奉りて守護し申せしか今は江北浅井か家の威勢になひかぬ者もなくして平均に治りけれは京極入道の御野心もうせさせ給へは御身を自由にはたらかせ鷹狩なんとに出給ふ或時利角斎入道大野木土佐守を頼み亮政へ断り被仰けるは小谷の内にては不自由なり本のことく所領少相添へ上平へ返し置くれ候へと御断り再三なれは亮政同心し給ひて上平を拵なほし天文八年五月の比京極高峰入道を上平へ入置申則其近辺にて所領大分付れかる今は御心替りの気色少もなく浅井と中よき事水魚のことく国中も猶おたやかなり

 
久政家督相続の事病死の事
 
嫡子浅井新三郎高政は心も剛に智恵深し度々美濃国と取合の砌大将としてさしむけらるゝに一方討破らすと云事なしあかれとも大永六年四月九日に早世す然れは亮政世をはかなく思ひ冷めけれとも家督を可譲男子なし次男新九郎は心にふくして亮政の御心にはかなはせ給はねとも御前より達ての訴訟により新九郎十八歳なりしか于時亨禄二己丑歳に新九郎を下野守久政と名をあらため井口弾正忠か娘をめあはす此娘は親井口弾正番場の地頭山にオープンアクセス NDLJP:90して亮政の命に替り切腹したる故其年より亮政の御前矢島殿小谷の城へよひよせ養育し当年十三に成親弾正忠か忠節を報せんか為今久政か妻女とはなし給ふかくて此事江北に隠れなけれは各常国は申におよはす美濃一国の諸侍まて我もと馳集り太刀折紙を以て御祝儀をそ申ける去程に天文八年には亮政の家督を久政にゆつり隠居し小谷山の内小丸に住し久政の後見をし給ひける亮政世を治むる事十八年なり其内にも所々にて小せり合ありといへとも数ならぬは書のせす生年五十二歳にして天文十五年七月十七日逝去なり死骸は住所丁野村にて取置小谷の麓田川山辺に寺を営み救外寺殿英徹高月大居士と贈名し御弔は夥し京極高峰入道利角斎御焼香被成其外江州濃州両国の名有侍に焼香せさるはなかりけり誠に此人一代の間に何とそして天下に旗をあけんとの所存成に近年は病気故終に本意も不達して失給ふ近習外様にいたるまて灯のきえたるやうにて無十方そ思ひける又江南定頼卿は堅田内膳義実卿は三井修理亮御名代として小谷へ御弔被成ける誠に武士の道はかくこそあらめとて人皆感しけり
 
浅井三代記第九終
 
 
 

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