浅井三代記/第八
かくて佐和山の城には磯野伊予守員吉楯籠り佐々木定頼卿御出陣を相待罷有けるか伊香郡の本城被㆓攻亡㆒剰源三郎為員討死の旨を聞き安からす思ひて江南観音城へ行き進藤山城守後藤但馬守なとにあひ此旨かくと語りけれとも定頼病気に取込けれはいつ江北へ出張せらるへきともおほえされは員吉佐和山へ立帰て居たる処に伊香郡磯野右衛門大夫方より飛脚到来して申けるは今度山本の合戦に味方討負散々に落行処に小谷より被㆓呼出㆒本領無㆓相違㆒給り其上亮政無二のなさけ有る仰に預り無㆓面目㆒は候へとも唯今は小谷に相詰申候との飛脚なりけれは員吉此よし承り今日は味方となり明日は敵となるも是皆武士の習なりとは申せとも一家の間敵味方に引別るゝ事あさましき事なりと思ひ己は猶も勇気をはけまし小谷へ味方に可㆑来との気色もなかりけりかゝりける処に京極入道利角斎此時は小谷山の内京極丸と申所に御座有けるか江北の諸士浅井か手にしたかはすといふ者なくして皆旗下に属しけれとも佐和山の城高宮の城二ケ所の城したかはて有けるを入道浅井方へ呼取給ひ浅井に一働可被遊と思召多賀新右衛門尉若宮兵助をめされ此旨いかゝと評定し給へは多賀若宮此儀宜しく可㆑有㆓御座㆒と申に付其年の十月四日に両人に被㆓仰付㆒佐和山高宮両所へ被㆓仰遣㆒けるは京極一家の侍共義を守り所々に楯籠り浅井を可㆑討との沙汰神妙の至りなり併時当らされは力なし我等も既に上平に取籠り味方の雌雄を可㆓見届㆒とおもひし処に江北の久しき侍とも多くうたるゝ事を不便に思ひ浅井に中和をむすひ唯今は小谷に籠居するなり亮政も又義を重し礼を正しくして京極を尊崇する事古の上坂入道泰貞斎にも越たりそれ故瞋恚も日に遠さかりぬる間佐和山高宮として京極の家相続すると存浅井か手へ付江北を治めたひ給へと被㆓仰遣㆒けれは高宮三河守久徳左近大夫も佐和山の城員吉か許に来り一所に集り京極殿の両家老に対面す多賀若宮京極殿の仰一々三人の者共に演説申けれはとやせんかくやあらんと評定す磯野は高宮久徳に向て申けるは観音城の定頼卿をたのみ浅井一家を討亡し江北の屋形可㆓取立㆒とはおもへ共定頼卿も病気に付江北への出張かなひかたく義賢義実の体を見るに浅井か器量とは抜羣劣りてわたらせ給ふと覚えたり南北の中に浅井をしたかへ可㆑申侍一人もなし今京極殿の家を浅井尊敬せしめは指て恨所もこれなし其上屋形よりの仰として両御家老御越の上は兎角の儀京極公の仰次第と御返事可㆓申上㆒と申けれは高宮も久徳も尤よろしかるへきと同音一統して京極公への御請には浅井と闘諍に及ふ事も屋形の御家を古のことく可㆓取立㆒との事なり浅井京極の下知にしたかふ上は子細無㆓御座㆒候間犬上郡の者共の儀は兎も角も御下知次第と御請を申上両使を小谷へ帰しける両使小谷に到りて京極の御前に伺候し右の旨を申上る利角斎不㆑斜思召やかて亮政に此由被㆑仰けれは亮政も佐和山の城をむつかしく思ひたる処なれは悦ふ事はかきりなしかくて中和事故なく調ひけれは磯野伊予守員吉高宮三河守頼勝久徳左近大夫三人の者共小谷へ来り浅井へ出仕申ける亮政対面して馳走尤数をつくされ中三日小谷に留め人質等をしめ置て佐和山【 NDLJP:75】高宮は江南の境にてむつかしき所なる間随分軍を励ますへきとて御暇給りて本城へ被帰ける其後の事なるに磯野伊予守員吉には女子はかりにて男子一人も非されは宮沢平八は員吉か為には又甥の事なり則聟養子に被㆓仰付㆒員吉は高島郡へ隠居しけり去程に佐和山の城高宮の城京極の仰として浅井に属し申けれは江南屋形と江北屋形と又御中悪敷なり給ひ干戈闘諍のはしとそ成にける去程に永正十五年戊寅十月までに江北五郡平均に治りけれは江北の諸士少安堵の心地そしたりける亮政は三ケ年の間は日々夜々の取合なれは其間の敵味方多く討死する事不便に思ひ給ひ上平寺清滝寺二ケ所において其年の十一月四日より千部妙典の法華をはしめ給ひ闘諍修羅の苦をすくひ給ふは誠に外には仁政内には仏乗共にかねそなへたる大将なりとて敵も味方もゝろともに亮政の徳化になひかぬ者はなかりけり
江南佐々木美濃国斎藤を加勢に頼む事并軍評定の事 浅井備前守亮政は去ぬる永正十五年戊寅の年まてに江北悉攻したかへ侍れは其威近辺に徹し江南佐々木か領分諸士の中にも浅井に内通する者多し其上若狭の国主武田の家来江北境に有㆑之者共浅井に契盟をむすふの由江南佐々木六角定頼伝へ聞き安からす思ひ給ひて家老の面々を近付宣ひけるは我一両年は病気故江北京極加勢を請といへとも不㆑能㆓其儀㆒懸りし故京極今は無㆓甲斐㆒備前守となれあひ犬上郡の城持共も京極入道の下知として浅井に降り侍りけれは此浅井ゆるかせに捨おかは江南へ乱入り領内多く可㆓切取㆒其上先年両度まて京極に加勢せしかとも終に彼者不㆓討取㆒敗軍に及ふ事佐々木の家の耻辱なり今度は浅井を討亡し京極入道を攻取近江一国を六角の自領となすへきなり然りといへとも今は浅井も勢多く付ぬれは江南勢にて思ひたゝんも覚束なし美濃国斎藤山城守を加勢に呼出し可㆑攻と存るなり此儀いかゝと宣へは家老の面々仰御尤に御座候と同しけれは斎藤山城守秀龍〈道三とも云〉か方へ使節を以て被㆓申入㆒けるは我国江北小谷山に楯籠る浅井備前守は京極三郎高清か家臣上坂治部大輔か家臣たりしに己か主を追払ひ京極をかすめ江北を盗取剰近辺に徘徊して国民不㆑穏候故此者可㆓討取㆒と存此方の旗頭共に申付度々合戦に及ふといへとも其功終になくして只今まて徒に捨置申候今度は我等病気も本腹仕候間江北へ発向し備前守を可㆓討取㆒と存候然し我等の人数許にては少し不足に候条貴殿御加勢を頼度存候両旗を以て達㆓本意㆒度と被㆓申越㆒けれは斎藤使節に対面して被㆑申けるは我等も浅井近年働出候由承故江北へ乱入浅井を可㆓討取㆒と内々存候処に遮て佐々木殿の御頼所㆑希にて御座候間何時なりとも御一左右次第に罷向ひ両旗を以安々可㆓討取㆒使使へ契諾堅く被申渡返札を相添使を近江へ被㆑帰けり佐々木使節観音城へ帰り返札并口上の趣申上けれは定頼悦ひ給ふ事限りなしそれよりして江南の旗頭不㆑残召寄軍評定をし給ひけるに進藤山城守進み出て申けるは先道筋なれは高宮の城を先手の者共に踏落させ佐和山の城を攻たまふへし浅井佐和山の城を攻ると聞なは中道より後巻に来るへし米原太尾の城は今井肥前守一家の者共楯籠りぬれは此者共味方に心をかよはすと聞え申候間いよ〳〵味方に引入浅井を番場表にてさゝえ今井か居城へ味方を入加へ前後より江北勢と戦は勝利是に過しと申ける定頼聞給ひて汝か言処も【 NDLJP:76】尤もなり併このころ浅井か軍立を見るに智略第一にして先勢を以て敵をいさめ隠勢を以て敵の気をうはひ二段三段の備を以て敵を討或時は又自身先駆して寄手の気を計らふ此者軍謀密策して知てせずと云事なし先第一に小勢をよく遣ひ覚えたる兵なり此者討んには智謀第一なるへし先年我等か祖父蠏か坂合戦の砌汝等の親共軍法の術を得て敵勢州の国司一万四千の勢にて当国に乱れ入んとせしを味方一万の勢を三手に分一手は敵をあひしらひ一手は隠人数可㆑有と覚ゆる方に陣を取て軍をせす一手は横鑓なり勢州勢一万四千六段に立両脇山の峯谷底に人数を隠置味方勝に乗なは一方のふせ人数を出し可㆑討とのたくみなり重て又おしかけなは少敗北のやうに見せて又一方の伏人数を出し包討に可㆑討との儀也かゝる処に蒲生目賀多左脇の遊軍となりて谷峰に目かけ味方の軍をするを見てかまはす居る右脇には伊庭三ツ井遊軍となりて居る両先手は進藤後藤なり敵案の如く一万四千を八千騎計に見せ敵味方間近くなりけれは駆つ返しつ相戦ふ敵つよくして両藤か兵次の備へさつと引勢州勢続てしたひくる味方三千騎計喚叫て切てかゝる国司勢三町計引退く味方の若者共追討にてかゝれは国司兼てたくみし事なれは右脇に隠し置し兵共三千騎計谷底より鬨をあけ一度につきかゝる味方気をとられ四方へさつと敗北す伊庭三ツ井思ふ図に不㆑違とて三千騎計の者共真中に引包み火花をちらして相戦ふ国司勢術は相違せり度を失ひて見えし処を味方透間もなくつきかゝれは勢州勢も半時計死もをします防きけるかはや引色になれは左脇のふせ勢今はかなはしとや思ひけん喚叫て切て出る蒲生目賀多請取たりといふまゝに三千計に渡し合せ一足も不㆑引防きけり義綱時分は今そかゝれ〳〵と軍配を取旗本崩し切てかゝらせ給ふ国司か備三段まて追立る味方是に猶も気を得て勇みいさんて切てかゝれは摠敗軍にそなりにける味方追討に首五六百討取思ふまゝに討勝しなり此度亮政討取らんにも如㆑斯味方の人数手分々々を可㆓相極㆒先吉例にまかせんとて進藤後藤に先駆させ蒲生目賀多左脇の遊軍と定め右脇備の遊兵には伊庭三ツ井を可㆑置なり二番備は落合内匠三上内記三番備は小倉将監四番備は高野瀬越中守五番旗本両脇備は義賢義実左右の脇を堅むへし亮政謀をして味方の気をうはひなは人数のたゆむ方へ可㆑向とて両脇の遊軍を置なり此度の合戦には上道より切入番場に陣取浅井を近々と引寄戦ふへし其内に美濃へ一左右申入山城守殿関か原玉藤川へ切入浅井か裏を切なは亮政張良陳平か術を得たりと云とも一時に討取へきかいかにと宣ひけれは江南諸将同音に感入て誠にすゝしき御術にて御座候此事敵方へもれさる先に御出陣可㆑然とて各支度を申ふれけり 江南佐々木定頼江北発向井高宮の城開退事 去間佐々木六角定頼は江南軍勢悉召連其勢都合一万三千余騎にて大永元年辛巳九月五日観音城を立て其日は荒神山へ諸勢打あけ給ひて翌日六日に高宮の城を両藤か兵に攻させ諸軍佐和山へ取かけらるへきに事定まりて御座しけるかくて高宮の城には是を聞磯野伊予守の許へ飛脚を以申遣しけるは定頼数万の軍勢にて此表へ発向したまふと聞味方如何に可㆑防候哉と申遣しけれは磯野返事に曰く其方にては所取開き防き難く候条此方へ一所にこもら【 NDLJP:77】れ当城にて江南勢を防置小谷よりの出陣を可待と申に付高宮三河守久徳左近大夫両人共に佐和山の城へ取籠りけりあくれは九月六日の事なるに両藤其勢二千余騎にて高宮へ押寄けれとも敵一人も取合されは暫様子を可㆓見届㆒とて高宮川原に陣を張て居たりけるそれより次第〳〵に軍勢操出しける程に荒神山より佐和山まて三里か間は透間もなくそ続たる前勢大堀瀬利川に着陣すれとも後陣はいまた荒神山に支えたりかくて鳥井本口へは永原安芸守小倉将監三雲新左衛門尉小河孫七郎佐渡根山へは三井修理亮伊庭美濃守彦根口へは平井加賀守目賀多伊豆守蒲生筑前守馬淵大賀奈良崎等なり定頼本陣は平田山にすへ給ふかくて寄手三方に廻て鬨をとつとあくれは天地も翻るかと夥し城中の者共少しもあはてす持口〳〵を相定めしつまり帰りて音もせす去る程に小谷の城亮政此注進を聞給ひ大嵩に狼煙を上給ふ在々所々に休息したる諸侍我も〳〵と馳集る亮政小谷の城には三田村左衛門大夫四百余騎の勢にて京極殿の横目に付置我身は三千余騎にて同六日未の下刻に小谷を立て横山に陣取給へは江北の諸卒聞かけに馳集る程に其日の暮亥の刻迄には六千余騎にそ成にけるかくて浅井小谷を立て横山に着陣する旨小谷勢の中に平田山へ注進する者侍れは佐々木六角定頼此旨聞給ひされはとよ思ふ図に不㆑違とて佐和山の城の押へには永原安芸守平井加賀守三雲新左衛門尉大将として三千余騎の勢にて佐渡根山鳥井本彦根山三ケ所に人数を立置城を丈夫に押置進藤山城守後藤但馬守両先手二番落合内匠三上内記三番石寺の義実四番小倉将監高野瀬越中守五番馬淵摂津守奈良崎源五左衛門六番小河孫七郎松原弥次右衛門尉七番は御旗本なり蒲生筑前守目賀多伊豆守左脇の遊兵なり伊庭美濃守三井修理大夫は右脇の遊兵なり如㆑此人数段々に組其勢都合一万余騎にて上道を打給ふ定頼卿本陣は摺針山にすえらる又江北の方には浅井備前守亮政翌日七日に七千余騎の勢にて番場の上地頭山に本陣をすえ伊部大橋先手として人数段々に備へたりかくて寄手の先勢と味方の先勢と七日の未の刻計に合戦初まりけるか双方功者の集りなれは駆ては引引ては駆野合の合戦二三日か間は互に勝負はなかりけりかゝりける処に米原の太尾の城は今井肥前守預りにて今井孫左衛門同十兵衛楯籠りけるか佐々木方へ心をかよはし内通申けれは吉田出雲守堅田内膳池田半蔵前田帯刀其勢八百余騎同十一日中道通米原太尾の城へおしよする兼て内通の上なれは一支もさゝへすして城を開きて退にけるそれより定頼下知して子息の義賢を大将として中道へ切て入給ふ備前守は敵中道より切入ときゝ赤尾駿河守を大将として西野丹波守今村掃部頭安養寺河内守をさしむけらるかくて佐々木勢太尾の城江南の手へ入とひとしくいさみにいさんで攻入ける赤尾駿河守さぬきといふ所より人数米原道へ討入亀山の此方無常堂に人数を備へて爰を先途と防きけれは義賢勢米原坂を越かねてそ居たりける同十二日の事なるに亮政は地頭山の西六波羅山に陣を遷され我身は地頭山に旗本をすえ給ふ六波羅山の南に蓮華寺と云寺有けるに夜の内に大野木土佐守野村伯耆守同肥後守七百にて引かくす阿閉三河守磯野右衛門大夫熊谷弥次郎同新次郎六百余騎にて地頭山六波羅山の間さいかちといふ所の森の内に隠し置伊部清兵衛尉大橋安芸守六百余騎にて敵陣の向山より十町計此方ま【 NDLJP:78】て押出し魚鱗に備て居たりけり進藤後藤は是を見て浅井勢今日は無二に可働と見えたり味方の人数も山よりおろしまはらに立さるやうに可㆑被㆓仰付㆒御旗本も近々と寄られ可㆑然と申越けれは定頼卿も摺針峠の五町計南東の寄へ打上り旗本をすえ給ふ去程に十二日の巳の刻はかりの事なるに進藤後藤か備の中へ大橋安芸守伊部清兵衛尉六百の勢脇目もふらす駆入は両藤は左右山の事なれは人数を双方へ立別れ道をあけ山手に添て戦ひける伊部大橋両藤か兵を足をもためさせす追払ひけれは三上内記落合内匠か備の中へ引取ける大橋伊部いさみすゝんて追駆たり両藤時分を引うけ取て返し面もふらす戦へは伊部大橋も爰を先途と防けとも此いきほひに追立られ一町計引にける佐々木勢勝に乗三千計まころをかたむけ追駆る蓮華寺に伏居たる浅井勢七百余騎鬨を作りて駆出る佐々木勢是を見て引色に見えし処を蒲生筑前守目賀多伊豆守左脇の遊軍にて蓮華寺の西なる山に入数を立置けるか横鑓に突きかゝる浅井勢横鑓に足をしとろにみたす処に六波羅山さいかちに備へたる浅井か伏勢今はかなはしとや思ひけん一千余騎真円になりて切てかゝるそれよりして敵味方の兵入乱れ黒煙をたてゝ戦ひける江北勢つよくして寄手の勢を一町はかり追立けるか三井修理亮伊庭美濃守山より人数打たろし横鑓につきかゝる浅井此よし見るよりも赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛に下知して宣ひけるは敵横鑓に来るそ味方のうしろに汝等三人相詰時分を見て追散せと宣へは畏て候とて三百余騎の勢にて旗本より討て出る味方横鑓に突立られたる所に海雨赤の三士敵の中へかけ入四角八面に切てまはれは敵味方入替〳〵火花を散らして戦ひけり爰に中道へ切入給ふ人々には番場表の鯨波矢さけひの音天地に響て夥しく聞えけれは軍急なりと思ひ義賢一千騎にて山へ人数打あけ赤尾駿河守か後へまはり給ふ池田半蔵前田帯刀吉田出雲守は太尾下りに押よせけれは味方の勢二手になり戦ひけるか寄手つよくして味方敗北す赤尾駿河守二町はかり退きて防きけれとも義賢勢勝に乗たる兵なれは面もふらす突駆る今村掃部頭西野丹波守安養寺河内守取て返し討死は爰なるそ味方の者共とて火出る程戦ひけれとも敵多勢なれは惣押にれし来る駿河守自鑓おつとり敵の中へ駆込給へは味方八百余騎真黒になり寄手の中へ討入駆つ返しつ半時許か間は死を不㆑惜戦ひけるか味方終にうち負ちり〳〵に敗北す赤尾駿河守は池田半蔵と自鑓して突たほし引かへさんとせし処を義賢近習の侍四五人落重り戦へは終に討死したまひける今村掃部頭西野丹波守もはしたなく相働き敵数多討取義賢の手にて討死す是を討死の初として味方二百騎計枕をならへて討たれにけり義賢は赤尾駿河守を討取不斜悦ひ勝鬨を噇とあけ番場をさして急ける道わつか一里にたらぬ所なれは味方の後へまはり鬨を堕とあけ給へは定頼此よし聞よりも中道へさしむけし義賢討勝敵の後へまはるとおもひ備を崩し惣掛りにかゝるへしとて旗本を崩し掛らせ給ふ浅井勢寄手前後に道を取きれは度を失ひて見えけるに定頼旗本を近々とよせ浅井を可㆑討図は今なるそ討とめて高名せよとて身をもんてかゝらせ給へは浅井も旗本を崩し命も不㆑惜相戦ふ主討れとも郎徒知らす父討るれと子是をかへりみすかはねをのりこえ〳〵戦ひける流るゝ血は楯を漂はし死骸は麻を乱すに異ならす味方の軍大に敗【 NDLJP:79】れけれは木村小市郎同水常坊小室隼人平野左兵衛中山五郎左衛門布施次郎左衛門野村伯耆守浅見新八郎下阪甚太郎宮川左次兵衛八木与藤次笠原木工相撲平八を先として江北に名ある侍百十五人取て返し枕を並へてうたれにけり宮沢平八は三上内記と馬上にて組けるか平八終に組勝て亮政の御前に来りけるを亮政汝は我近習はなるへからすと留置給ふ亮政は海雨赤の三人を左右にして敵の囲へ切入る事四度に及へとも我身は終に疵もかふむらされは小高き所に打あかり味方の体を見給へは或はうたれ或は落行後まはらに成行は腹をきらんとせし処に舎弟大和守駆来り申けるは大野木土佐守東野佐馬助磯野右衛門大夫野村肥後守敵陣を破り新庄今村へ引取候新庄へ御退なされ一先様子御覧候へかしと申につきさあらは一先落退き心しつかに腹きるへしと四方を見てあれは敵集りて並居る中へさし物をかなくりすて赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八浅井大和守主従十五人にて義賢のかため給ふ陣所へ駆入大音あけて申様弓矢の運命つき果て大将亮政うたれ給へは今は生残りても益なし主の弔合戦するを見よかくいふ者をいかなる者と思ふらん赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八といふ江北にての侍なり討留て高名にせよとて敵の真中へかけ込は大橋安芸守伊部清兵衛尉敵の中に被㆓取籠㆒戦ひけるか亮政落給ふと見て敵を四方へ追散し相続てかけ入四方八面に働き寄手歴々数十人許突たほしはねおとし通りけれは義賢は死武者に手さして郎等討せてかなはしとてかまはすこゝを通しけり彼人々は虎狼の囲をまぬかれ新庄今村の城へ落行給ふ新庄の城主今井江南六角に心を合せたる事夢にも亮政しり給はねは先安堵の心地そめされけるしかれとも今井様子見分かたく侍れは少も心をゆるし給はす其上味方の歴々前後を守護し申されけれは今井新庄両人の者共亮政を討取事もならすして味方貌にて居たりける斯て味方の落人十騎二十騎つゝこゝかしこに打散て見えけれは舎弟大和守に下知したまふは爰は敵合近けれは汝は顔戸山の北東へ行旗指物をさしあけ味方の勢を可㆑集と被㆓仰付㆒宮沢平八を相添て被㆑遣ける去程に江南定頼軍に討勝地頭山の麓番場村に陣取給ひて浅井定て今日の戦に討取たる事も有へしとて首共を吟味し給ふ味方其日米原坂地頭山二か所にして討るゝ兵六百余佐々木方にも三百余うたれにけり誠に武士の習なりとは申せとも去々年まては南北共に京極の加勢に来り互に見知あひたる者も有近付になりむつましく語りあひし中なれは討もうたるゝもしらさる者は壱人もなし浅ましき浮世なりとて皆人これをなけきける去程に定頼卿亮政を討取たりと思ひ首一々吟味し給ひは亮政こそ我討取たりとて首ひつさけ〳〵出る者多し上坂治郎大輔よく見知るへしとて見せ給へとも終に大将の首出されは不思議にこそはおもはれけれ今日の軍は巳の刻より申の下刻まての戦ひに人馬もさこそつかれなんとて其日の暮には地頭山の麓におり居て陣取明日は佐和山の城へおしよせ員吉頼勝に腹切すへしとて皆悦ひの酒をのむ 亮政計策霊顕付井の口弾正亮政に替切腹の事 亮政は舎弟大和守政信に下知して顔戸山へ打あけ亮政の馬しるし并に白地に井けたの紋の旗をあけわつか其勢十騎はかりにて坂の真中に立置せ給ふは味方の落人の中に義ある侍共【 NDLJP:80】を集へきとのたくみなり去程に味方こゝかしこに討散て引捨小舟の波にたゝよへるかことくして居たりけるに大将御紋の旗顔戸山の秋風に翻反して唯一流あるを見てされはとよ地頭山にして亮政公討れさせ給はすして顔戸山の峰に備へ給ふと見えて義心金鉄の兵は我も〳〵と馳集り程なく其日の暮六ツ時分まてに歴々の武者二百はかり馳付ける大和守は本陣亮政のもとへ此旨注進し給へは亮政大に悦ひ今宵は是非におひて一働し敵を追散らすへし顔戸山の勢共も夜更人しつまらは新庄村へ可㆑来と宣ひ被㆑遣けりこゝかしこと敗軍の士卒を集め給へは四百五十余騎そ集りけり顔戸山の二百を合せて六百五十余騎にそなりにけるかくて亮政は大橋安芸守秀元伊部清兵衛尉為利赤尾孫三郎清綱海北善右衛門尉貞兼雨森弥兵衛近習五人の者共を近付宣ひけるは今日の軍に味方討負物頭の歴々悉討れし上は此分にて小谷へ取籠り候と云とも運命ひらきかたし今宵地頭山へしのひあかり定頼の旗本へ切入江南勢を思ふまゝに駆ちらし山合のつまり〳〵に隠居て定頼を初め一々に首をはね今日の軍にうたれし味方の者共の亡魂のいきとほりをやすめはやとのたまへは五人の者共は御意尤と同しけるこゝに大野木土佐守野村肥後守磯野東野なと申けるは敵一万三千の中へ味方六百余騎にて働くと云とも何そ勝利有へきや夜の内に小谷へ御引取なされ定頼を小谷へ引付先年両度の御籠城のことく城を丈夫にかため置共内に透間を見て寄手を悉く追払可㆑申と諫言す亮政答て云く汝等の異見も理なり併武将となる身の心得あり可㆑死所を知死をのかれ可㆑引所を知是一ツ勝て不㆑勇負て不㆑臆此二ツ是はこれ今日の合戦の義にあたれり江南江北数年度々相戦ふといへとも江北一度も不㆓討負㆒然るに今度は味方大に討負歴々多くうたるれは寄手勝利を得討すましたると存油断の気色有へし其上我等もうたれたると思ふへし又今日の軍に高名あくまてしたりけれは今は命をつゝしみ世をむさほる心ち有へし味方は是に引かへて父を討せ子討れ侍れは瞋恚鉄心にいきとほりたる武者計相残り唯今我手へ付来るなり是は一騎当千の武者とも云へし且又ひまやか村に蟄居する修理大夫か方より京極家へ注進したりけるは定頼美濃国稲葉山に在城す斎藤山城守秀龍を頼み近日当国へ乱入のよしに付昨朝三田村左衛門大夫か方より告知らす然れは今は遁るゝに所なし小谷へ引籠りて何かせん是非打立須臾に勝負を決すへしと宣へは大将一筋に思ひ定めし上なれは列座の者同心しさあらは御術被㆓仰聞㆒候へと申けれは亮政物頭共に潜に語り給ふは大和守野村肥後守阿閉三河守は門根村堀河の番場の東へ廻らるへし大野木土佐守東野左馬助磯野右衛門大夫はさぬき川右にそひさいかちの森へむかはるへし我等は若者共を召具し地頭山へ忍ひ上り定頼の旗本を見すかし旗本近くしのひ下り鬨をとつとあけ一筋に切入へし鯨波を聞とひとひく双方より味方鬨を揚らるへし敵の方には今日数刻の戦に兵つかれ又敵は悉討取たると心をゆるして臥へきなり其透を可㆓討取㆒とて其夜の亥の刻計の事なるに浅井大和守を大将として野村肥後守阿閉三河守三百騎にて醒井口番場の東へおしまはす大野木土佐守東野左馬助磯野右衛門大夫は地頭山の北西さいかちの森へよせむかふ亮政は井の口弾正伊部清兵衛尉大橋安芸守上坂備中守宮沢平八郎海北善右衛門尉赤尾孫三郎雨森弥兵衛なと【 NDLJP:81】を初めとして歴々はかり相すくりて四十五人何れも歩立となり郎等共は少々すくりて残し大和守大野木か手へ付各名ある者はかり四十五人地頭山の北さしもはけしき山なれと岩をつたひ木の根を足かゝりとして其夜の子の刻に山の峰へ攀上り給ふかゝりける処に味方の内今井一家の者共帰忠して定頼卿の旗本へ右の旨注進申けれは定頼おとろき陣中へ此旨触廻しけるは敵小勢にて山の峰に隠れ居るそ一人もゝらすなと下知し給へは陣中俄に騒動し畏り候とてさしもに高き地頭山とは申せともひし〳〵と七重八重におつ取巻いたはしや亮政は敵にしられたりと暫猶予して居給しか敵いやかさなりて取巻は亮政伊部に向ひて云く一方討破るといふとも終に追討にうたるへし雑兵の手にかゝらんよりいさ腹切へしと宣へは大橋答て申けるは暫御待なさるへし少存当りたる儀候条敵をすかし可㆑申と留置井の口弾正を引のけ申けるは近比貴殿に申出しかたき所なり併此節なれは力なし貴殿亮政公の御身替りに立給はゝ士卒悉く助命し重て運を開くへしもしさもあらは御子供衆の中一人申請亮政公の跡目として井の口家も可㆑栄貴殿はかりをかく頼む事別の子細に候はす貴殿亮政公に御よはひもひとしく容顔御ものこしまてよく似給ふとて小谷へ出仕の砌は遠侍の者共大将亮政公と取違ひ礼を正すと申けるかく申我々も能似させ給ふと存るなりと涙をなかして頼みけれは弾正義氏心よけに打笑ひ我等一人切腹して大将并に各の御役に立ならは望む所の幸なり井の口家の儀は男子あまた持されは亮政公の養子なとゝいふ事は存もよらぬ事なりとかく大将と相談したまひて能に頼むとはかりなり大橋しすましたりとおもひ亮政の御前にひさまつき右の旨申上けれは亮政心得給はさる気色なり列座の侍一先敵を計略して見給へと種々再三に及へは亮政も汝等はからひて見よと仰けるかくて寄手の兵は夜中に攻なは自然味方にまきれにくることもこそあれとて夜の明るを待てそ居たりけるに大橋安芸守峰より五段計下り大音揚て申けるは進藤殿後藤殿の堅め給ふは何方にて御入候そかく申者は大橋安芸守と申者にて候浅井備前守亮政か方より定頼卿へ使節に申付候子細申上度候とそ名乗ける進藤由城寄は六波羅山の東の間を堅めたるか浅井殿よりはいかやうなる使にて候進藤は此方にて候と答へたり比は九月十二日の夜やう〳〵明方の事なるに雲間をたよりに山を下り進藤か陣所へ行断て申けるは浅井定頼卿へ申上候意趣は我等不肖の身として大功を存立近年江北を討したかへ候といへ共今かく取囲れ候儀弓矢神にもはなたれ候無㆓面目㆒候へとも明けなは亮政一人切腹いたし候へし只今当山の峰に取籠る所の人数はつみなき者の事なれは一命御ゆるし可㆑被㆑下侍は渡り者御味方となるへき者共を只今悉く討せん事不便に存候あはれ御情を下しおかれ五十にたらね士卒を助命したまはゝ未来まての御恩有難かるへしと申けれは進藤旨趣承り旗本へ此旨曲に申上る定頼卿聞給ひて如何可㆑有と思案し給ひけるか子息義賢宣ひけるは過し昼の戦にも我等か手を十五騎にて駆ぬけし者共なれはもらさす討取んものとおもはゝ味方多くうたるへし其上必死非生の兵共なれは味方破るゝ事も有へし高政一人さへ腹切らは残る勢は渡り者味方に来り忠節はけます事も有へし御検使を被㆑遣亮政一人の首さへ御覧候はゝ残る兵は御助有へしと宣へは汝【 NDLJP:82】か云所も理有り明日になるならは亮政を見しれる者を召具し腹きらすへしと進藤か方へ被㆓仰越㆒けれは進藤やかて大橋に返事す大橋はたはかりすましたると悦ひ亮政の陣所へ帰り此旨語てよろこへは井の口も共よ悦ひけり去程に九月十三日の卯の刻に明行は井口弾正少弼は亮政公の鎧装束を着かへ萠黄おとしのよろひに金の五枚甲に鍬形打て日輪のすゑもん置たるを猪首に着なし検使を待て居たりけるは吉野山にして村上彦四郎大塔の宮の御身替となり名を一天にあけゝるも是にはいかてまさるへきと四十三騎の兵共さすか別のをしけれはよろひの袖をそしほりける上坂治部大輔は亮政をよく見知たるらんとて進藤山城守同心して地頭山の坤の方より手勢三百計にて打上りけるか弾正少弼も不臆進藤殿久敷対面不㆑申候貴殿の御取持にて随兵共を御助可㆑被㆑成の儀冥途黄泉まて御恩忘れかたく候無㆓面目㆒次第に候得とも只今切腹致すへし契約の如く随兵のけられ給はれとて甲をぬき大童になりて対面す進藤は亮政にうたかふ所少もあらされは味方の人数押開き道をあけ四十余騎の人教を一度にとつと通しける井口は味方の兵山のふもとへ下り敵の後へ廻ると見て進藤に向ひて云く我等も大将分にて候へは芝の上にては腹切もいかゝなり敷物たまへと請ひけれは進藤心得たりとて番場の辻堂より扉一枚取よせ弾正か前に置弾正よろこひよろひぬきすて座をくみ腹十文字にかき切臓くり出さんとせし処を介錯小寺十蔵といふ井口小姓一人残り居て御首を水もたまらす討落し進藤にさし出し其身も腹を切たりける進藤は井口か首を大将亮政と心得悦ひいさんて定頼卿の前へさし上る定頼御感ありて矢島野に獄門に可㆑懸と被㆓仰付㆒軍中一度にゑみをふくみ人数佐和山へ引揚け佐和山の城を可攻と沙汰せられけるかくて門根とさぬき口へむかひし浅井勢地頭山の合図を今や〳〵と相待と其沙汰せされは大将亮政しのひ入難くして人数引取給ふものかと不審をなして居たる処に寄手地頭山を取巻を聞手に汗をにきりとやせんかくやあらんと案し煩へとも寄手の中へ可㆓切入㆒やうもなけれは徒に時を移しける既に其夜も明なんとすれは此所は敵近し陣所少立さり様子見へきとおもひ新庄河原に人数を臥せ置き浅井大和守は醒ケ井の北に陣取て居たりける処へ小谷よりは京極公江北の軍大に討負亮政を初め諸卒悉討れたりと聞召多賀新右衛門尉黒田甚四郎三百余騎計にて様子可㆑承とて小谷を被出けれは三田村左衛門大夫京極の御心底替る事なしと思ひ四百余騎にて多賀黒田と打つれ小屋山甲山へ人数を打上様子を見てそ居たりける亮政は辛き命をたすかり新庄村へ心さして来りけるに大野木東野磯野四百余計にて新庄川原に人数を伏置は其陣所にかけ込各も供してたへ佐々木勢を追立へし大和守手へ其段可㆓申遣㆒とて宮沢平八をさしつかはし既に打立んとせし処に京極の見次勢七百余騎馳来るそれより亮政番場を西に見てさいかち森より一千余騎の勢一手になりて敵陣へ追駆る定頼卿は亮政死たると思ひ佐和山を可攻とて摺針峠を下り給ふに後陣は番場の内をはなれす居たる処を亮政一千余騎ひしと付喚叫て戦へは佐々木勢上を下へと騒動す大和守も三百余にて横鑓に突駆る折しも引立たる勢なれは踏返して戦ふ者もなかりけれは小倉将監ふみ留て火花を散して戦へと味方は難所を楯に取開き合せてたゝかへは将監終に討れにけ【 NDLJP:83】り高野瀬越中も海北善右衛門尉と渡し合せまはしか間は戦へと海北終に討勝なんなく首をそ取にける去程に佐々木本陣の者共踏かへさんとせしかとも双方高山の坂道なり跡より敵追駆れは味方の敗軍関となり同士軍をするもあり誠に周章たる体なりかゝりける処に今井肥前守新庄駿河守神田孫八郎田那部式部島若狭守岩根市助抔は米原近所の者なれは浅井勝を得ると聞心忽に変して八百騎計米原坂を越鳥井本口へ切入けれは佐々木勢いよ〳〵度をうしなひて見えし処に佐和山より磯野伊予守高宮三河守久徳左近大夫一千余騎の勢にて切通口の門をひらき鬨を作り切て出る佐々木勢三方に敵廻ると見て惣敗軍にそなりにける味方追討に小野宿まて追たりける定頼も既にうたるへく見えし処に蒲生筑前守進藤後藤四五度取て返し近付敵を追払ひ引包観音城さして落にけり味方追討に首四百三十討取勝鬨を噇と作り十三日の午の刻計に亮政佐和山の城へ人数引入給ふ今日の軍に味方勝利を得大軍を追立剰歴々の首多く討取事は井口弾正大将の身替に立骸は戦場にさらすといへとも佳名を江北のちまたにあけたるゆゑ亮政運をひらき給ふ其後弾正男子一人女子二人ありしを女一人は亮政の嫡子浅井下野守久政の室にむかへたまひ男子一人には中の庄といふ所に一ケ所恩賞したまひ井口越前とそ名乗り浅井随心の勇士にして近国へ其名を顕はしける 浅井三代記第八終この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。