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浅井三代記/第十一

目次
 
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浅井三代記 第十一
 
 
浅井備前守江南働の事
 

去程に去年十月中旬より父下野守久政をして隠居いたさせ侍れは江北中の大名小名のこらす年頭の祝儀を相勤けるに其次第父久政に越けれは江北の諸侍当家さかふへきとて祝ふ事かきりなしかくて正月十六日には祈祷の連歌興行せられける宗匠は木の本村浄信寺浄阿上人なり例年の如く会終て後長政思ひ入る事侍るとて発句望まれ浄阿上人

   近き江は陰さへなひくやなきかな

とありけれは長政

   朝日のとかにうつるまさこ地

と付給ひ百韻興行したまひけるかくて其月も過行は二月中旬の事なるに江北中の物頭ともを呼集め佐和山表出張を催さる中にも三田村左衛門大夫国定大野木土佐守秀俊は親共は相果ぬ久政代には遠さけられて居たりしか今度の先手を望みけるに備前守何とか思ひ入侍りけんこれをゆるし給はすして亮政代に武功多き者なりとて赤尾美作守清綱阿閉淡路守貞秀両人にそ被仰付ける江北五郡の諸侍と北美濃の勢まて被催けるに浅井代替の事なれは我もときらしく出立はせ集る長政は小谷を立大寄山に旗本をすへ諸勢矢野島にて着到を付亮政の吉例なれはとて石田長楽庵か跡目に被申付けるに其勢九千三百余とそしるしける永禄三年三月六日に矢野島を立其勢二手に分て一手は浜道浅妻に楯寵る新庄駿河守を可改とて浅井玄蕃允大将としてさしむけらる玄蕃允舎弟雅楽助斎宮助木工助兄弟四人相従ふ人々には河瀬主税助同徳左衛門山田権九郡脇坂甚七郎片桐左兵衛服部悪右衛門なとをはしめとして其勢二千余騎浜口へ押出す長政箕浦の城に本陣を居給ふ又箕作の佐々木六角入道承禎へ太尾近辺の降人の者共方より備前守長政大軍此表へ打向ふ旨注進度々に及へは旗頭共を近付評定しけるは太尾浅妻は佐和山にへたてられし難所なれは此方より人数出しかたし太尾を開退き高宮表にて一戦候はゝ味方の利有へしといふ者もあり又中道肥田の城にて一戦いたしなは利あるへしとて評議しはししまらねは入道子息右衛門督義弼申けるは浅妻太尾両城を江北へ攻取なは佐和山を押置鳥井本表へ人数を出し可戦と申けれは列座少も同心せす中にも平井進藤は軍功の兵なれとも佐和山の城を後にして浅井か大軍防きかたし太尾浅妻の者共城を開高宮の城へ取籠るへき由達て申けれは一座同音に尤とそ申ける去程に浅井方より浅妻太尾両城一度に息をもくれす攻たりける浅妻の新庄駿河守は太尾に楯籠る吉田か方へ人質に指遣置ける息女を吉田か侍と心を合せ夜の中にぬすみ出し又浅井に降参して古主へ帰る太尾の城の者共は助命を備前守に申請城をあけてそ退にける備前守長政は一両日の間に両城手に入事軍初の道途よしと悦ひ給へは諸軍勢も諸共に御代替の軍初に数日もへさるに早速両城手に入事は浅からさりし事ともなりとて上下さゝめき渡て佐和山の城へ討入諸勢を休められけり

 
高宮三河守帰参前久徳か城没落の事
 
オープンアクセス NDLJP:100

爰に高宮三河守勝義と申せしは頼勝か嫡子なり父頼勝年老て勝義に家督をゆすり去年江南へ切取れ其上当春佐々木の宮の神事に勝義帯劔役に承禎より被申付剰愛知蒲生両郡の諸侍の末座に押下列座被申付しより口惜き事といきとをりを忍ひ居たりしうへに去年佐々木に人質に取れし子息城之助か事を思ひ煩ふて居たりしか兎角城之助を盗出し浅井に帰参仕へしと思ひ定め家老の小川権左衛門か嫡子十兵衛に申付け城之助方へ内通申入けるに運つきたるや人質の預主平井加賀守内通を聞出し承禎へ告其夜に誅し剰愛知の川原にさらしけれは恨み弥深くして浅井長政に帰参仕度由申入けれは浅井同心す重て高宮申けるは御人数少御加勢候ものならは久徳村に押寄左近大夫を討取可申と会釈に申けれは長政心得たりとて先日帰参せし新庄駿河守に横目として中島宗左衛門を相添らる佐和山より高宮まては一里其里より久徳まてはわつか其間二十町計の事なれは暫時に押よせひしと取巻久徳も流石剛の者なれは城中より二百計にて切て出追つ返しつ戦へとも味方は多勢かなはしとや思ひけん城中へ駆入門を閉てそ防きけるかくて承禎父子は是を聞久徳討せてはかなはしとて同月十日に其勢七千余騎にて箕作の城を立て愛知川に陣を取浅井も向陣を可取と諸勢高宮州原に備へけれは其内に新庄高宮今度の帰参の験と思ひもみにもんて攻けれは惣搆討破りつめの城へ追込処に城中に多賀の神官其加勢に来り此城に籠りけるか新庄高宮に内通して中より火をかくるいたしはや久徳一家さしちかへて死するもあり敵と引組討果して死するもあり二百計の侍とも悉討れにけり此由長政聞よりも人数多もさしむけさるに城を早速攻落し剰久徳左近大夫を討取とて諸勢もろともに喜悦して人数佐和山へ引入へしとて敵あひを見せけるに右衛門督先陣して沓掛の宿まて馳付けれはいまた敵合は杳に一里計も隔りし事なれは高宮の城に新庄駿河守中島宗左衛門尉城主三河守を残し置我身は諸勢打つれ佐和山の城へ打入ける

 
野良田合戦の事
 
かくて佐々木承禎抜関斎父子は沓掛の宿まて馳付けるか久徳はうたれ浅井は佐和山へ引取ぬ手立相違やしたりけん其里より西に当て肥田と申所に番場にて討死せし高野瀬越中か跡目親か名なれは越中と名乗楯籠りて居りしか彼城を足たまりとして一戦とくへきと肥田の城へ取入ぬ翌日十一日の事なるに佐和山より肥田まては其間わつか三里にたらぬ所なれは人数を出されける先陣は磯野丹波守員正二番に阿閉淡路守義秀三番に大野木土佐守秀俊四番に三田村左衛門大夫国定五番に野村肥後守定元同兵庫頭直次六番に浅井玄蕃允兄弟四人七番に月ケ瀬若狭守木村日向守同喜内助八番に東野左馬助行信磯野平三郎千田采女正西野壱岐守九番に黒田中務大輔百々隠岐守十番に浅井石見守同七郎同福寿庵十一番には旗本馬廻小性其勢一千五百赤尾美作守海北善右衛門尉両人は亮政代の剛の者なれはとて浮武者になり軍の下知をなすへしとて武者奉行に相定翌日十一日に野良田表へ押出し先勢は宇曽川より二町計北に陣取長政本陣は吉田口にすへ給ふ又江南方にも昨夜観音城義秀より人数三千来り其勢一万余にて肥田の城より討て出宇会川を隔て陣取先陣は進藤後藤両人惣して七オープンアクセス NDLJP:101段に備へたりかくて其日の午の下刻はかりの事なるに佐々木勢和田和泉守を大将として磯野丹波守か備を目にかけ二千五百騎計宇曽川へさつと打入一文字に渡しける丹波守はかたきに川を越させてきほひをぬかして戦はゝ利有るへしと思ひ川より二町はかり手前にひかへて居たりしかかたきに冑の鉢をうたるゝまて矢も射出すへからすと下知したりけれは敵一千計難なく川を越こなたの岸に打あかりおめきさけんて突掛る丹波守敵あひ五段計と見るより鬨をつくり突かくる和泉守は爰を先途と防けとも丹波守喚叫て戦へは和泉守防兼て見にしか承禎は之を見て和泉うたすな味方の者共つゝけやものともと身をもたへて下知すれは進藤山城守平井加賀守後藤父子永原大炊助我一と川を越て馳来る浅井此由見るよりも六番の備を崩して懸るへしと有けれは阿閉淡路守大野木土佐守三田村左衛門大夫野村兵庫頭同肥後守浅井玄蕃舎弟雅楽助其弟斎宮助なと鬨を作り掛突かゝる又承禎方よりも子息義弼身をもんて宇曽川へ駆込は一万計の人数一度に川へ駆入る味方の者共四方十文字に働き一番に馳来り和田を川中へ追込平井進藤岸さかひにて踏とゝまつて戦へは阿閉大野木野村か者とも一足も引す追立る義弼此よし見るより八千計の人数一度に備を崩して突掛る浅井此いきほひをぬかすなとて旗本を崩して切てかゝる夫よりして川中にて戦ふもありこなたの岸にて戦ふもあり敵味方入みたれ半時か程は生死をわすれ黒煙を立て戦ふたりかゝりける処に磯野丹波守阿閉淡路守二人首尾やよかりけん敵をさつと追散し川の向ひに打渡り横さまに割込戦へは江南勢なしかはたまるへき皆逃足に成けり新庄駿河守高宮三河守中島宗左衛門は高宮に籠りしか高宮へは敵一人も向はされは一千計の勢にて味方の陣へかけ入少勢なれとも荒手なれは敵の馬手へ押廻す佐々木勢是を見て惣敗軍になりぬ長政は此競をぬかすなとて自ら川を渡り越しにいや声を立て追駆る承禎父子は味方ちりに敗北すれは肥田の城へ取入るゝ事ならすして箕作さして退給ふ浅井は江南勢を思ひのまゝに討取肥田の城へ押寄る高野瀬越中も防き難くや思ひけん人質を出し降人となる既に其日も暮に及へは諸勢佐和山へ引取長政は十二日十三日両日諸勢佐和山にて休息せしめ愛知川近辺仕置して小谷へ帰城し給ける其時皆人口すさみけるは武者は大将による者なり先年長政父久政は承禎に追立られしか又長政は江南勢を数日もへさるに悉追払ひ敵に押領せられし地を切取犬上愛知の諸侍ふたゝひ帰参せし事は文武両道なるへしとて長政をそ感しける
 
美濃国斎藤か家臣日根野備中守浅井を美濃国へまねく事
 
かくて美濃国西方三人衆氏家常陸介稲葉伊予守伊賀伊賀守此三人の者共織田上総介信長を引入此国のあるしとし面々の家長久に栄へきと評議相定信長卿へ忠節可仕旨内々手を入るよし風聞すれは日根野備中守此沙汰聞出し舎弟弥次右衛門尉を近付相談して申けるは西方三人の者共は信長を当国へ引入右兵衛佐龍興を討たてまつらんと相たくむのよし慥に聞出す是以て大将龍興の甲斐なく渡らせ給ふ故なり兎角龍興の体を見るに信長と一戦に及ふともはかしき事可有とも不覚又今まて頼む所の主君をかひなく討するも口惜かへし当国は浅井に属せし郡も多し其上右兵衛殿は本は浅井とも御一門なり今右兵衛殿御前オープンアクセス NDLJP:102近江殿相果給ふといへとも浅井よも見はなたしいさや江州の浅井を当国へ引入先一戦をとけさせ其上にて永井隼人巻村牛之助丸毛兵庫頭なとゝ相談して浅井と無事を繕ひ龍興を此国のかたはらに隠居させ備前守を稲葉にすへ其勢を以て我等兄弟さきかけし尾張の国へ乱れ入信長を討取当国ゆたかに可治はいかにと申けれは弥次右衛門尉承り宜しき御たくみにて候いそき使者を遣し牒し合さるへきと申ける然は誰をか可遣と有しかはとかく家子日根野助右衛門を浅井方へ可遣とて助右衛門に手立の次第段々に申含め浅井玄蕃允方へ書札を相添江州へ遣しける日根野か使節小谷に到り玄蕃允に口上の趣申入けれは玄蕃即長政にかくと甲上る此儀評定すへきとて親にて渡らせ給ふ下野守久政を初めまいらせ浅井一家打寄如何可有との評議なりかゝる所に赤尾美作守進み出て申ける此儀御家可栄吉兆なり先年祖父亮政公美濃国へ切入給ひ濃州まて過半切したかへ其上にて無事になり息女近江殿を龍興へ被遣しか今は此方の手下の者とも出仕もせす国境ひに罷在侍の分は御手下となり候へとも残分は思ひに押領す近江殿果給ひてより龍興殿通路もなしよき時分にて御座候其上日根野兄弟かく申上るよりしては濃州は早速御手に可入当国と濃州との勢一つになり佐々木承禎を追払ひ都へ切て入上るへき事何の子細候へき併日根野兄弟の心底堅め給ふへしと外を不恐申上る長政を初め一座各同心して日根野か使節に玄蕃私の使節を相添日根野許へ返しける備中守も弥次右衛門も玄蕃か使に対面して毛頭無偽旨深く誓紙を書したゝめ玄蕃か使者に相渡すいそき罷帰り右の趣玄蕃に申玄蕃備前守殿へ誓紙指上る長政を初近習外様の者まても悦はぬ者はなし
 
備前守長政美濃国へ出張の事
 
永禄六年三月中旬に浅井備前守長政は濃州へ可打立とて佐和山の城には醒ケ井権頭小蘆宮内大輔か息与一郎を籠置高宮には城主三河守に百々隠岐守相添籠置る肥田城には高野瀬越中守に与力二百人相漆差置る小谷の城には父下野守に井口越前守千田采女正東左馬助横山和泉守をこめおき我身は其勢七千余騎にて濃州表へ発向す先一番には磯野丹波守二番に三田村左衛門大夫野村肥後守同兵庫頭三番は堀遠江守四番は大野木土佐守五番は長政御旗本跡勢の大将には阿閉淡路守西野壱岐守なりかくて先勢はや垂井赤坂に着陣し近き在々所々を放火す稲葉山には此注進を聞よりも物頭共集りとやせんかくや有んと評議す中にも永井隼人進出申けるはとにもかくにも此国の滅亡今此時に究りぬ先足軽を出し浅井か勢の様子を見届其上にて長政と無事をつくろひ長政を同勢にして信長と無二の一戦とくへきなりいつれも如何と有けれは日根野元来心得ある事なれは尤とそ申けるされとも国に歴々多き事なれはいや左様に候はす先一戦と望む者も多かりけり永井日向守重て申けるはいや其儀に候はす先年も斎藤山城守殿と浅井の故備前守亮政と垂井赤坂にして度々合戦あれとも互に勝負なけれは其上にて双方中和をとけ今迄御家長久なり今度も一戦して其上にての儀なるへしと申けれは巻村牛之助道毛平左衛門同修理亮は是を聞尤宜き御たくみなり先勢を出すへしとて先一番に巻村野村二千余騎にて馳向ふ二番に道毛平左衛門尉同修理亮千オープンアクセス NDLJP:103五百余騎にて相続てかけむかふ日根野兄弟は五百余騎にて村の中に引かくす永井隼人二千余騎にて同勢にて扣へたり浅井勢此由を見るよりも御影寺川の表へ人数操出し乗込んとせし時に赤尾美作守申様は山城殿の御家は宜き武勇の家なるそ卒爾に大河を乗こえては如何なり先武者二三百乗越させ様子を見て其後川を打渡り一戦候へかしと申けれは長政聞給ひ使番を以磯野丹波守に右の旨被申付けれは丹波守承候とて若武者三百計川中へさつと打入御影寺の郷に陣を取る巻村此由見るよりも浅井か勢は河を越御影寺村に陣取と見えたり去なから川越たるは小勢なり跡に猛勢ひかへたり味方の手立を見て駆入せんとの儀なるへし此方よりも先二三百出し合せ矢軍して其上にて人数を出し戦ふへしと有し処に永井甚之丞進み出申けるは味方の勢は二千余騎なり敵の勢は漸二百には不過先さきかけのやつはらを川中へ追込ん事何の子細有へきとて一番にすゝみけれは巻村此由を聞貴殿の被申所も候へとも我等存る子細あり先味方の若者二百はかり出合敵の振を見届くへしとて若武者二百計御影寺表へ押出す浅井勢は郷内をは不出矢鉄炮を放ちけり美濃勢郷きはまてのりかけ鉄炮をはなち入れ我もと名乗れとも浅井方には一人もかけ出さすしつまりきつて居たりける永井甚之丞此由見るよりも浅井か勢は臆したり此方より勢を出して浅井か先手の者共を川中へ追込討取給へと有けれは巻村も野村も実にもとや思ひけん勢を崩して押よする磯野此よし見るよりも味方うたせて叶ふましと我等は河を乗越可申御備を近々とよせられ候へと旗本へ一左右して一千余騎にて川ひたとうち渡り向ふの岸にさつと打あけ鬨の声をそあけにける御影寺の郷の内に取籠る先勢の者共二百計面もふらす突掛る斎藤か勢も開き合て戦ふたりかゝりける処に磯野丹波守と名乗かけいさみにいさんて切てかゝる巻村野村も爰を先途と切結ふ磯野か兵強くして斎藤か兵共引色に見えし処を浅井か者共能時分と心得て堀遠江守三田村左衛門大夫大野木土佐守野村肥後守此四人の者共我先にと川を越おめきさけんて突かゝる巻村野村は之を見て人数引つれ一町計さつと引道毛平左衛門尉は備をたて向ふ敵を待居たり丹波守此由を見るよりも能き引取時分とおもひ敵をやう追払ひ勝鬨噇と作り首七八十計取勢をまとふて引にけり濃州勢も日も漸暮合に及へは稲葉山へそ引にける浅井か勢は御影寺村へ取籠り陣取て居たり斯て翌日二十日の未明に先勢を引つれ稲葉山の近所まて押よせ備をたて敵の強弱を見立注進すへしと磯野丹波守に被仰付けれは承候とて御影寺村を打立江戸の川を前にあて備を立てそ居たりける大野木三田村堀両野村も同しく人数段々に備へたり備前守も川を越御影寺村に本陣をすゆる去程に稲葉山には寄手の陣取し其次第を見て卒爾に軍す可らすとて巻村牛之助野村も稲葉山より討て出江戸川を前にあて陣取て居たりける道毛日根野も同しく後陣に扣へたり永井隼人は稲山葉より十町計此方に人数深々とそなへ置互に足軽二百三百つゝ出合川を隔て矢軍して対陣数日をふれは日根野は永井に近付中和の首尾を取繕ひ見申度と申けれは隼人承りよろしく候はん間御辺内縁を以て此段浅井方へ御肝煎候へと申せは日根野大に悦ひ浅井か陣所へ使をたて此由かくと申越ぬれは浅井か一家是を聞悦ふ事は限りなしかくて長政のオープンアクセス NDLJP:104そみ給ふには家老共の子共を人質に取へきと日根野か方へ被申遣けれは相心得たりとて人質を渡す者もあり心得さると申者も有て一日とのひにけり
 
佐々木承禎佐和山表へ働出る事
 
佐々木入道は先年肥田表にして浅井の若者に追立られ無念たくひなくおもひ其後勢をかりもよほしけれとも終に味方すゝまねは首尾窺ふて居たりしに備前守長政は濃州へ働出佐和山の城主磯野丹波守も長政か供して今は彼城無勢なり是天のあたふる幸なりと思ひ子息義弼を近付相談したまへは尤宜き仰なり此方より江北へ度々切入といへとも佐和山の城味方の御手に入申さゝるゆへ所々の小城たもちかたし丹波守も長政かとも仕なは城中無勢なるへし高宮の城を押置佐和山を攻取其いきほひを以て小谷へ押寄下野守に腹切せ年来のいきとをり散せはやとそ申けるさあらは人数駆催しの手筈すへしとて家老の面々召集此儀如何と評議す中にも永原新左衛門進出て申けるは談合も事により候此時浅井を討とらすんはいつの時にか討へきそやはや打立申さんと言葉をあらけて申けり此儀列座一同して永禄七年三月二十三日に永原安芸守同新左衛門尉山本将監小倉将監柏木左衛門大夫三井修理亮三雲親左衛門目賀多摂津守和田和泉守進藤山城守後藤但馬守伊庭美濃守河合の何某吉田出雲守かれらを宗徒の大将として一万余騎本道を打てをしよする高宮川原より柏木左衛門大夫山本将監永原新左衛門落合此四人其勢二千高宮と肥田の城を襲ふへしと引わけ先へ打せけるかくて江南勢佐和山の城へをしよせ鬨を噇とあけゝれは城中の者共少々鬨の声を合せ四方を堅めて防ける故城中不勢なりといへとも要害はよしたやすく可落とも見えすされとも多勢取巻昼夜のさかひなく攻けれは小谷へ後巻せらるへしとて注進再三に及へり下野守は我此勢を以て後巻はかなひかたし兎角越前は縁ある国なれは加勢を乞へしとて同姓福寿庵を越前へさしこさる越前にいたり朝倉家老にたより此旨かくと頼けれは家老共集り此儀いかゝと思案をなす式部大輔申やうは浅井いかにたのむとも卒爾に数人を出しても取入事かなひかたかるへし然らは重て此国の大事たるへし先浅井には重て加勢可出との返事可然と申けれは列座同音に尤とそ申ける福寿庵は力不及して小谷に帰り野州にかくと返事す野州越前の旨趣を聞是非に及はぬ次第なり此上なれは佐和山の城の落ぬ間に備前守を呼とれとて濃州へ使節を遣し先太尾へ勢を打あけ佐和山の味方の者共に力を可付とて山口越前守東野左馬助其勢都合七百にて太尾の古城へ取のほり向陣を張かくて備前守長政は此注進を聞給ひ如何に美濃国手に入とても佐和山を敵方へ乗取られ小谷落城に及ひなはなにを便に可働いかゝせんと有けれは物頭の面々承御意尤に候此表を片時も早く御引取可然と同音に申けれはさあらは江州へ人数を可入なりしつはらひは誰にかいひ付へきと面々異見を請給へは大野木三田村堀野村此四人の者共口を揃て申けるは磯野か勢は先かけにて再三骨を折候間今度は我々四人に被仰付候へ段々に人数を立くり引にのくへしと申せは長政聞給てよろしきしつはらひの次第そや去なから此国は軍に功有者共多し殊に前後に大河をかゝへてあり赤尾美作守はいにしへより度々物馴たる老武者なれは今度は跡オープンアクセス NDLJP:105に残り殿の下知をし給へと有しかは畏り候今度の殿の儀御安心おほしめし急き御人数引取給ふへし四人の衆に我等差加りなは恐くは可防とて五百余騎の勢を引具し浮武者となり居たりけり
 
浅井三代記第十一終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。