財産保存増殖の安全法

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財産保存增殖の安全法(昭和版『続福澤全集』収録版)[編集]

 財産保存增殖法の最も安全なるものを求めんと欲する者は決して資産の全額を擧げて唯一の事物に投入すべからず必ずやこれを幾部幾十部に小分して各其一部を一事物に托し損益を平均するの法を求めざるべからずとは昔しよりの言ひ傳へにしてこれを事實に照らして言の過まらざるを知る所なり目下文明世界に行はるゝ生命保險海上保險火災保險などの類は皆此理に基づき遠近大小無數の損益を平均して其中を執りたるものなるが今若し資本を下すの法も此等保險の法に則とり其損益を受くるの區域を極めて廣大に爲さんには卒然意外の利益を得る事もなき其代りに亦卒然意外の損毛を蒙ることもなく安全確實に一定の增殖法を得て未來を豫算するにも頗る容易なる所あるべし然るに從來日本の金滿家が其財産を保存增殖するの法を見るに兎角に資本を下すに一二事物を限るの習慣ありて地面妙なりといへば專ら地面に依頼し公債慥かなりといへば專ら公債に依頼し一二事物を偏愛し敢て他を顧るの餘裕なきが如きは此人人の爲めに謀りて甚だ不安心の事なりといはざるを得ず古來日本人が土地を貴重することの過大なるは封建時代の餘習にやあらんと雖ども近時地租改正引續きて米價騰貴の爲め土地を所持する者は收入の確實なるに加へて財産の價値日に增大するの利益あるより益々土地の重きを加へ家に金ある者は競て土地を買はざる者なく有名の金滿家にして其全資を擧げて土地に委托したる者所在其人に乏しからず然るに不換紙幤濫用の結果として一旦大に騰貴したる米價も漸くに下落し地價亦隨て下落し前日は百萬圓に當たる財産も今は三十萬圓の價もなきものと變じ來り浮沈動搖の容易ならざるを見て土地に對するの信用は忽ちに消滅し果は世に危險近づくべからざるものは土地なりとするに至りたり而して近年までは大に全國の金滿家に輕蔑せられ一旦政變あるに當りては一片の故紙たるに過ぎざるものなりとまで云はれたる彼の公債證書が漸く此人々の歸依を受け歸依益々甚だしくして靈驗益々著しく坐して百萬の身代を維持增殖するは此福神を祈るに勝るものなしとて一切の家産を賣却して公債に換へこれを土藏の奧に勸請して家運長久を願ひしは昨今まで全國一般の實況なりし然るに過般突然政府の都合を以て整理公債と稱する五分低利の公債を發行して六分以上利付一億七千萬圓の公債を一切償還するとの沙汰ありてより此沙汰と共に公債信徒の家産は忽ち其價格の十分一を減じ歳入を減ずることも亦十分の二三に上るべしと定まりたり信徒の狼狽察するに餘りあるなり信徒の心中獨り現時の出來事に驚くのみならず今日を以て後日を推すに後日の都合次第にては四分の整理公債も出でん三分五厘も出でん又只の三分も出でん我子孫の代は勿論我一代の中にても如何なる危難に遇ひて如何なる禍を蒙るやも知るべからずこれに應ずるの法果して如何と後來を慮るの心痛蓋し最も深切なるべし此心痛固より其理なきにあらず土地必ずしも百代不易の財産にあらず況んや公債證書をや汽船會社鐵道會社銀行鑛山取引所製造所其株劵甚だ多しといへども金滿家の信心を博するに足るものは蓋し全國に絶無ならん金滿家にして若し人生の朝露の如くなるに觀念し一身の今日に處する所以を思ふて必ずしも明日の事を憂へず子孫の計の如きは我敢て知るべき限りにあらず子孫自からこれに任じて可なりとて百萬の身代を維持するの心も水の如く淡泊ならんには事に當て惑はず悠々一生を永うして面白き生涯を送ることもあらんかなれども人情は斯の如き淡泊なるものにあらず今日の財産は百代に維持して百代の金滿家たらんことを希望するは人の至情にして我輩はこれに對して敢て異存を唱ふるものにあらず唯我輩の金滿家諸氏に忠告するは一旦諸氏にして財産維持の不安を感じ公債も土地も株劵も世に十分の信用を措くべきものなしと知らるゝ以上は此不安の世に處して及ぶべき丈けの安全を求むる唯一の方策として財産を擧げて一二の事物に依仛せずこれを多數に分配して損益を平均すること甚だ肝要ならん或は公債に或は土地に或は株劵に或は商品に其財産を分配するの法亦極て多數なるべしと雖どもこれを實行するに當て特に我輩が諸氏の注意を促がさんとするは大に其限界を廣くし區域を廣くし財産の安全を謀るに單にこれを日本の一島中に限らず廣く其良法を世界に求めて同じ土地を買ふにも北海道以外に米國あるを思ひ同じ公債を買ふにも日本の外に歐米諸國あるを思ひ鐵道に汽船に一般の商業に必ずしも獨り日本國内の浮沈陰晴のみを待たず大小遠近世界の廣きを以て我財産維持增殖の基礎と定むるの一事なり言少しく廣漠に亘るが如しと雖ども中に自から亦眞理の存するものあり金滿家諸氏の一考を煩はす所なり(明治十九年十一月十日)

財産保存增殖の安全法(現行版『福澤諭吉全集』収録版)[編集]

 財産保存增殖法の最も安全なるものを求めんと欲する者は、決して資産の全額を擧げて唯一の事物に投入すべからず。必ずやこれを幾部幾十部に小分して各其一部を一事物に托し、損益を平均するの法を求めざるべからずとは、昔しよりの言ひ傳へにして、これを事實に照らして言の過まらざるを知る所なり。目下文明世界に行はるゝ生命保險、海上保險、火災保險などの類は皆此理に基づき、遠近大小無數の損益を平均して其中を執りたるものなるが、今若し資本を下すの法も此等保險の法に則とり、其損益を受くるの區域を極めて廣大に爲さんには、卒然意外の利益を得る事もなき其代りに、亦卒然意外の損毛を蒙ることもなく、安全確實に一定の增殖法を得て、未來を豫算するにも頗る容易なる所あるべし。然るに從來日本の金滿家が其財産を保存增殖するの法を見るに、兎角に資本を下すに一、二事物を限るの習慣ありて、地面妙なりといへば專ら地面に依頼し、公債慥かなりといへば專ら公債に依頼し、一、二事物を偏愛し、敢て他を顧るの餘裕なきが如きは、此人々の爲めに謀りて甚だ不安心の事なりといはざるを得ず。古來日本人が土地を貴重することの過大なるは封建時代の餘習にやあらんと雖ども、近時地租改正、引續きて米價騰貴の爲め、土地を所持する者は收入の確實なるに加へて財産の價値日に增大するの利益あるより、益土地の重きを加へ、家に金ある者は競て土地を買はざる者なく、有名の金滿家にして其全資を擧げて土地に委托したる者、所在其人に乏しからず。然るに不換紙幤濫用の結果として、一旦大に騰貴したる米價も漸くに下落し、地價亦隨て下落し、前日は百萬圓に當たる財産も今は三十萬圓の價もなきものと變じ來り、浮沈動搖の容易ならざるを見て、土地に對するの信用は忽ちに消滅し、果は世に危險近づくべからざるものは土地なりとするに至りたり。而して近年までは大に全國の金滿家に輕蔑せられ、一旦政變あるに當りては一片の故紙たるに過ぎざるものなりとまで云はれたる彼の公債證書が、漸く此人々の歸依を受け、歸依益甚だしくして靈驗益著しく、坐して百萬の身代を維持增殖するは此福神を祈るに勝るものなしとて、一切の家産を賣却して公債に換へ、これを土藏の奧に勸請して家運長久を願ひしは、昨今まで全國一般の實況なりし。然るに過般突然政府の都合を以て整理公債と稱する五分低利の公債を發行して、六分以上利付一億七千萬圓の公債を一切償還するとの沙汰ありてより、此沙汰と共に公債信徒の家産は忽ち其價格の十分一を減じ、歳入を減ずることも十分の二、三に上るべしと定まりたり。信徒の狼狽察するに餘りあるなり。信徒の心中獨り現時の出來事に驚くのみならず、今日を以て後日を推すに、後日の都合次第にては四分の整理公債も出でん、三分五厘も出でん、又只の三分も出でん、我子孫の代は勿論、我一代の中にても如何なる危難に遇ひて如何なる禍を蒙るやも知るべからず、これに應ずるの法果して如何と、後來を慮るの心痛、蓋し最も深切なるべし。此心痛固より其理なきにあらず。土地必ずしも百代不易の財産にあらず。況んや公債證書をや。汽船會社、鐵道會社、銀行、鑛山、取引所、製造所、其株劵甚だ多しといへども、金滿家の信心を博するに足るものは、蓋し全國に絶無ならん。金滿家にして若し人生の朝露の如くなるに觀念し、一身の今日に處する所以を思ふて、必ずしも明日の事を憂へず、子孫の計の如きは我敢て知るべき限りにあらず、子孫自からこれに任じて可なりとて、百萬の身代を維持するの心も水の如く淡泊ならんには、事に當て惑はず、悠々一生を永うして面白き生涯を送ることもあらんかなれども、人情は斯の如き淡泊なるものにあらず、今日の財産は百代に維持して百代の金滿家たらんことを希望するは人の至情にして、我輩はこれに對して敢て異存を唱ふるものにあらず。唯我輩の金滿家諸氏に忠告するは、一旦諸氏にして財産維持の不安を感じ、公債も土地も株劵も世に十分の信用を措くべきものなしと知らるゝ以上は、此不安の世に處して及ぶべき丈けの安全を求むる唯一の方策として、財産を擧げて一、二の事物に依仛せず、これを多數に分配して損益を平均すること甚だ肝要ならん。或は公債に、或は土地に、或は株劵に、或は商品に、其財産を分配するの法、亦極て多數なるべしといへども、これを實行するに當て特に我輩が諸氏の注意を促がさんとするは、大に其限界を廣くし區域を廣くし、財産の安全を謀るに單にこれを日本の一島中に限らず、廣く其良法を世界に求めて、同じ土地を買ふにも北海道以外に米國あるを思ひ、同じ公債を買ふにも日本の外に歐米諸國あるを思ひ、鐵道に、汽船に、一般の商業に、必ずしも獨り日本國内の浮沈陰晴のみを待たず、大小遠近、世界の廣きを以て我財産維持增殖の基礎と定むるの一事なり。言少しく廣漠に亘るが如しといへども、中に自から亦眞理の存するものあり。金滿家諸氏の一考を煩はす所なり。

〔十一月十日〕

参考文献[編集]

  • 福澤諭吉「財産保存增殖の安全法」『続福澤全集』第2巻、石河幹明 編、岩波書店、1933年7月20日、357-359頁。国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/1078022/1/196
  • 福澤諭吉「財産保存增殖の安全法」『福澤諭吉全集』第11巻、富田正文土橋俊一 編、岩波書店、1970年8月13日、再版、136-139頁。
  • 福澤諭吉事典』福澤諭吉事典編集委員会 編、慶應義塾大学出版会、2010年12月25日ISBN 978-4-7664-1800-2

関連資料[編集]

外部リンク[編集]

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