- 初出:『時事新報』明治27年(1894年)7月5日
- 底本:『時事新報』明治27年(1894年)7月5日
- 所蔵:国立国会図書館新聞資料室
- 注釈:原文は漢字ひらがな交じり。句点はなし。
日本國人が兵力を以て朝鮮に臨むは前記の理由にして他意なしと雖も我輩は尚ほ念の爲めに土地占領の事に就て一言せざるを得ず強弱の兩國相對して苟も兵を動かすときは其名義の如何に拘はらず和戰勝敗の如何に論なく種々無量の事情魂膽の末弱者の地を割て強者の有に歸すること恰も世界古今の通例にして掩ふ可らざるの事實なるが如し今、日韓相對すれば其強弱の數既に明白にして人間普通の眼を以て見るときは今日こそ兩國の交際至親なるが如くなれども其交際の枝より枝を生して隨て種々無量の事情を釀し又隨て面白き名義を製作して其極、遂に朝鮮國の土地を日本に併することはなかる可きやと不言の間に人をして疑を懷かしむるは决して無理ならぬ次第なり世間或は既に此邊に注目する者もある可しと雖も我輩の所見を以てすれば日本國の政略に於ては萬々此事ある可らずと斷言して躊躇せざるものなり世界中日本國人に限りて無慾淡泊なるに非ず又無氣力痴鈍なるに非ず都合能き國土を見出して占領す可きものあれば决して辭退する者に非ずと雖も朝鮮の國土は之を併呑して事實に益なく却て東洋全體の安寧を害するの恐あるが故に故さらに會釋して之を取らざるのみ徳不徳の談は擱き利害の上に訴へて併呑を斷念する者なり其次第如何と云ふに同國は日本、露西亞、支那三國の間に介在する小弱國にして三國共に竊に併呑の意なきに非ずと雖も若しも其三國中の一國が之を併するか又は之を三分して各その一分を領するときは強國と強國と直に境を接して其間に忽ち激動なきを得ず即ち東洋全體の安寧を害するものなり尚ほ其上に遠き西洋の諸強國とても亞細亞の東邊に弱肉強食の活劇を見て之を默々に附するものはなかる可し事態切迫すれば如何なる大波瀾を生ずるやも計る可らざるに今その然らずして東邊の平穩を維持するは朝鮮と名くる小弱國ありて其間に挾まり國の如く國ならざるが如く綿の如く紙の如くにして双方の衝突激動を防ぐが故のみ瀬戸物を重ぬるに必ず合紙を用ひ或は個々綿に包んで積重ぬるは何ぞや實質の堅牢なる瀬戸物と瀬戸物と直に相觸るゝときは些細の震動にも激して其一片を破るか或は兩個共に破るゝことあるが故に紙の柔かなるものをして其激動を防がしめんが篇めなり左れば今朝鮮國の軟弱なるこそ幸なれ之を日露支三國の間に挾さんで相互の激動を防がしむるは國交際の上策にして此點より見るときは東洋の太平は朝鮮國の賜なりと云ふも可なり數年前には我國にも隣國併呑の議論なきに非ざりしか共人文の進歩と共に外交論も共に上達して利害の所在を明にし今日に至りては國中復た神功皇后豐臣秀吉の舊夢を夢みる者なし是即ち我輩が今回の出兵に付き日本國人に土地併呑の意なきを保證する所以なり左れば朝鮮の軟弱なるは東洋の利益にして諸強國の由て以て安全を保つ所の合紙なれども然りと雖も其合紙の軟弱にも自から程度なきを得ず苟も一國として土地人民を支配する上は内治外交夫れ相應の規律を要することなるに彼の現状を見れば立國の名ありて自立の實なく政府の形を具へて施政の機關なく專制の君主政を專らにすること能はずして輔佐の大臣責任あるに非ず萬般の政令、大臣の名を以て行はるゝは政府の如くなれども其源は宮中より發して深宮の國王は却て之を知らざることあり王の特命頓に發して大臣を進退するは主權の盛なるが如くなれども其王命は王妃と二三の寵臣と密議して一夜の間に製造したるものなり財政次第に困窮して官吏の俸給に常の數なく其登用に才を撰ぶに非ず官を賣て政費に充るが如きは尋常一樣の手段にして今は賣官法に次ぐに賄賂法を以てし多く賄賂を用る者は高き官位を得るの風を成して相互に其多寡を競爭するは恰も政府の地位を競賣に附するものに異ならず小官は中官に依頼し中官は大臣に附托し其極に至れば大臣の地位を望み又は既得の地位を固くせんが爲めに國王王妃に私金を献納し其献金の厚薄に從て上意の趣を異にし收賄の最も盛なるは王室なりと云ふ宮中府中を腐敗の中心として餘毒を全國に及ぼし牧民の地方官は税權法權を濫用して民の膏血を絞り先づ自から奉じて其餘りを中央政府に輸し國庫常に空ふして汚吏の懷中非常に温なるものあり都鄙に散在する幾千萬の士大夫は紛れもなき社會の遊民にして專横跋扈常に他人の私有に衣食して憚る所なき其有樣は正しく幾千萬の餓虎を國中に放つものに異ならず凡そ一國に政府を立る所以は國民の榮譽生命財産を保護して安全ならしむる爲めのものなるに朝鮮國の政府は恰も其正反對にして政府あるが故に却て安全ならずと云ふ國にして國に非ず政府にして政府に非ざるなり左れば我輩は今日俄に彼等の文明富強を望むに非ず萬般の施設都て漸進を期すと雖も漸進にも急進にも國その國にして始めて談ず可き談なれば兎に角其立國の根本を固くして政治の機關に運轉の機を附せざる可らず之を喩へば衰弱死に瀕したる病人の如し何は兎もあれ最第一の要は空氣の呼吸と飮食の消化と此二者の回復を得て然る後に樣々の攝生法をも命ずべし是即ち我輩が彼の國事の改革に急なる所以なり
明治27年(1894年)7月5日
日本人が武力によって朝鮮にのぞむのは前記の理由によって他意がないといっても、筆者はなお念のために土地を占領することについて一言せざるを得ない。
強弱の両国が相対していやしくも軍隊を動かすときは、その大義がどうかにかかわらず、和戦勝敗がどうかの話ではなく、さまざまな無量の事情のすえ、弱者の地をさいて強者のものに帰すことは、あたかも世界古今の通例としておおうことのできない事実だ。
今、日韓が相対すればその強弱の趨勢はすでに明白であり、人間が通常の視点で見るときは、今日こそ両国の関係は近しいようだが、その関係の枝から枝に生じて種々無量の事情を生み、また面白い大義を作って、その極みにはついに朝鮮国の土地を日本に併合することはあるべきだろうかと、言わない間に人が懐疑するのも決して無理もない。
世間にあるいはすでにこの辺に注目する者もあるだろうといっても、筆者の所見をもってすれば、日本国の政略において万一にもこれはあるべきでないと躊躇なく断言する。
世界中で日本人に限って無欲淡泊なのではなく、また無気力で痴鈍なのではなく、都合のよい国土を見出して占領すべきものがあれば決して辞退する者ではないといっても、朝鮮の国土は併呑しても事実として益はなく、かえって東洋全体の安寧を損なうおそれがあるために、さらに好意をもってこれを取らないだけだ。道義的な議論はおいても、利害上にうったえて併呑を断念する者だ。
その理由はどうかというと、同国は日本、ロシア、中国の三国の間に介在する小弱国であり、三国共に水面下では併呑の意思がないわけではないといっても、もしもその三国中の一国がこれを併合するか、またはこれを三分割して各々その一部を領するときは、強国と強国とが直接に境を接して、その間でたちまち激動することは免れない。すなわち東洋全体の安寧を損なう。なおそのうえ遠くの西洋列強としても、アジアの東辺に弱肉強食の活劇を見てこれを見逃すことはないだろう。
事態が切迫すればどのような大波瀾を生ずるかも予想できないため、今そのようにせずに東辺の平穏を維持することは、朝鮮と名のつく小弱国があってその間に挟まり、国のように、国ではないように、綿のように、紙のようにして、双方の衝突激動を防ぐことしかない。
瀬戸物を重ねるとき必ず合紙を用い、あるいは個々を綿に包んで積み重ねるのは何のためか。実質の堅固な瀬戸物と瀬戸物とが直接に触れると、些細な震動にも激して、その一片が壊れるか、あるいは両方共に壊れることがあるために、紙の柔いものでその激動を防ごうとするためだ。
ならば今朝鮮国が軟弱であることが幸いであり、これを日露中三国の間に挟んで相互の激動を防がせるのは国際関係の上策であり、この点から見ると東洋の平和は朝鮮国の賜物だということもできる。
数年前には我国にも隣国併呑の議論がないわけではなかったが、人文の進歩と共に外交論も共に上達して、利害の所在を明らかにし、今日にいたっては国中に再び神功皇后、豊臣秀吉の旧夢を夢みる者はいない。
これがすなわち筆者が今回の出兵について日本人に土地併呑の意思がないことを保証するゆえんだ。
ならば朝鮮の軟弱さは東洋の利益であり、諸強国のよってもって安全を保つところの合紙なのだが、そうだとはいってもその合紙の軟弱さにもその程度があって、いやしくも一国として土地人民を支配する上には、内政や外交にそれ相応の規律を要することなのに、彼の現状を見れば立国の名あって自立の実なく、政府の形をそなえて施政の機関なく、専制の君主が政治を専らにすることもできずに、輔佐する大臣にも責任がない。
万般の政令が大臣の名をもって行われるのは政府のようだが、その源は宮中から発して深宮の国王はかえってこれを知らないことがある。
王の特命が頻繁に発して大臣を進退するのは主権の盛んのようだが、その王命は王妃と二三の寵臣が密議して一夜の間に作ったものだ。
財政は次第に困窮して官吏の俸給は決まっておらず、その登用は能力で選ばれず、官を売って政費に充てるようなものは一般に同じような手段であり、今は売官法に次ぐ賄賂法をもってして、多く賄賂を用いる者は高い官位を得る風潮となり、相互にその多寡を競争するのは、あたかも政府での地位を競売にかけるのと異ならない。
小官は中官に依頼し、中官は大臣に附托し、その極みに至れば大臣の地位を望み、または既得の地位を確固とするために国王や王妃に私金を献納し、その献金の厚薄にしたがって支配者の意見は異なり、収賄の最も盛んなのは王室だという。
宮中府中は腐敗の中心として後々まで残る害毒を全国に及ぼし、人民を治める地方官は税権や法権を濫用して民の膏血を絞り、まず自らいただいてその余りを中央政府に送り、国庫は常に空いており汚吏の懐中は非常に温かいものがある。
都と地方に散在する幾千万の士大夫は紛れもなく社会の遊民で、専横をほしいままにし常に他人の財産で衣食して憚る所のないその有様は、まさに幾千万の餓えた虎を国中に放つものと異ならない。
およそ一国に政府を立てるゆえんは国民の栄誉、生命、財産を保護し安全とするためのものなのに、朝鮮国の政府はいやしくもその正反対で、政府あるがゆえにかえって安全ではないという。国にして国ではなく、政府にして政府ではない。
ならば筆者は今日すぐに彼等の文明富強を望むのではなく、万般の施設がかつて漸進を期すとはいえ、漸進でも急進でもその国で初めて議論すべき話ならば、とにかくその立国の根本を固くして政治の機関に運転の機を附さないべきではない。
これを例えれば衰弱死に瀕した病人のようだ。何はともあれ、第一の必要は呼吸と飲食の消化、この二つの回復を得た後に様々な摂生法も命ずべきだ。
これがすなわち筆者が彼の国事の改革が急がれるとするゆえんだ。
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
Public domainPublic domainfalsefalse
Public domainPublic domainfalsefalse