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株熱の余症恐るべし

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株熱の餘症恐る可し(現行版『福澤諭吉全集』収録版)

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 近日諸會社の景氣は次第に上進して、株式賣買の價貴きのみならず、其取引も中々盛なるが如し。金融緩慢と稱する近日に於ては自然の勢なる可しと雖も、凡そ人事は極端に走り易きの常にして、資産に餘裕ある人が、銀行などへ金を預けても其利子の割合甚だ低くして面白からず、左ればとて他に資金の用法もなければ、先づ會社の株劵にても所有せんとて、漸く其邊に着目する折柄、經濟社會の人氣は機を見て一時に動き、唯株の一方に向て噪進する其勢は、之を留めて留む可らず。即ち價の暴騰を致したる所以なり。物價の昇降は人氣の如何に由ることなれば、株式の暴騰も人氣の然らしむる所なりとして、敢て怪しむに足らず、又假令ひ暴騰したればとて、富豪大家の計算を以て永遠の利益を見込み、恰も其株式を世襲財産として私有すれば豪も妨なきのみか、眞に世襲の名に相應するものもある可しと雖も、爰に經濟社會の動靜の爲めに憂ふ可きは、諸會社の株劵をして投機者流の玩弄物たらしむるの一事なり。元來株劵の價は、其會社の基礎の確なると不確なると、其配分利益の多きと少なきとを視察し、之を標準にして始めて定まる筈なれども、市價昇進の勢をなすときは、時としては其標準の在る所を忘れ、上々じやう進んで止まることを知らざるの事例なきに非ず。例へば今の鐵道株にても、其株の時價と配分利益との割合とを念入れて計算したらば、一年の金利僅に二分以上三分に達するものも少なき程の次第なるに、市場の實際に之を買ふ者の多きこそ不思議なれ。況んや諸會社中に、其基礎も固からず、樣々に彌縫して計算を作り、會社に屬する不動産などを物價騰貴の今の相場に積り、或は物品の未だ賣れざるものを現金と視做す等、樣々の工風を運らして外面を裝ひ、兎角して營業費を少なくし配分益を多くして人氣を引き、以て株の價格を維持せんとするものさへあるに於てをや。斯る内情を知りながら其會社の株を買ふとは、益々不思議なりと云ふ可し。或は目下の利益は多からずとも、又は社中の現状に多少の不都合あるも、將來に見込みあるが故にと云へば自から一理なれども、是れは永遠の利益に着眼する富豪大家の事なり。然るに今日の實際には、左まで資産もなき人々が、身分不相應の株劵を所有して曾て不安心の樣子なきのみか、尚ほ進んで買はんとする者多きは何ぞや。他なし、其これを買ふは之を賣らんが爲めのみ。今日右より買ふて明日左に賣り、其賣買の間に利する所あればなり。唯人々の度胸次第にて、買持の時限に長短あり、其金高に多少ありと雖も、之を要するに賣るが爲めに買ふの目的に至りては則ち一なり。株劵の價にして、既に其標準たる會社の基礎配分の利益如何を問はず、唯人氣に從て昇進とあれば、亦是れ流行のうさぎ萬年青おもとの一種にして、甲乙丙丁轉々賣買の間、不圖ふとしたる拍子へうしはづみに人氣去り流行止むときは、夫れこそ由々しき騒動なれ。其時機の未だ到らざるに先だち、旨く賣拔けたる者は高運なれども、最終に至りて誰れか災厄を負擔する者なきを得ず。時價膨脹の時に當りて、所有の株劵幾百幾千、正に何十萬圓の大富豪と自から信じ人も亦許したるものが、今は則ち收縮して自から身邊の淋しきを覺ゆるのみならず、素より身分不相應の品を買持するが爲めには、所謂頭金あたまきんを附して抵當に差入れたるものこそ多ければ、金主は頻りに增抵當を促して義務者は之に應ずるを得ず、双方共に悲運に陷りて空しく既往の狂夢を嘆息するの日ある可し。殷鑑遠からず、明治二十二、三年の頃に在り。我輩の懸念する所なり(官設鐵道論より遂に今の鐵道會議に至りし其起源を記臆する者は、當時の事状を知るに難からざる可し)。但し經濟社會の事は容易に斷言す可きものにあらず。今日諸會社の景氣は果して實に過ぎ、其株の賣買も既に狂して、狂熱の病名を下す可きものか、或は未だ然らずして今後尚ほ一層の甚だしきに至り、始めて大に破裂す可きや、或は昨今の有樣を頂上として徐々に退き、自から調理して無事太平に歸す可きや、我輩の知る可き限りにあらざれども、兎に角に事の常ならざるは經濟論者の敢て許す所なれば、實業社會先達の士人は、萬般に注意して人の狂奔を止め、前年の惨状を再演することなからしめんが爲め、豫防の策を講ずること肝要なる可し。或は政府の政策を以て云々の説もなきにあらざれども、商人の利に熱するは其人の私事にして、政令の達す可き區域に非ず。唯此處は有力なる實業界の先輩が、私に事の利害を説き、或は自家の經驗に照らして徳義上に之を警め、又或は金融取引上に於て暗々裡に之を抑制する等、臨機の處置ある可きのみ。凡そ其社會の先輩には自から先輩の榮譽あり。我輩は其人の榮譽に訴へて其社會の平和を維持せんことを祈るものなり。

〔明治二十六年七月二十七日〕

参考文献

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  • 福澤諭吉「株熱の餘症恐る可し」『福澤諭吉全集』別巻、富田正文土橋俊一 編、岩波書店、1971年12月24日、初版、9-11頁。
  • 福澤諭吉事典』福澤諭吉事典編集委員会 編、慶應義塾大学出版会、2010年12月25日ISBN 978-4-7664-1800-2

関連資料

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外部リンク

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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。