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  • NDLJP:562】元年己丑(つちのとのうし)。三月十七日辰刻(たつのこく)。頼経(よりつね)将軍(しやうぐん)。三崎の磯(いそ)。御遊覧(ゆうらん)のため。出御(しゆつぎよ)し給ふ。相州(さうしう)。武州(ぶしう)をはじめ御供(とも)するがの前司(ぜんじ)。御船(ふね)をもよほし。海上(かいじやう)にて管絃詠歌(…
    161バイト (13,821 語) - 2023年11月20日 (月) 01:56
  • 武州松山後詰として謙信出馬并松山落城の事附上州山の根城暫時攻落さるゝ事長尾謙忠誅戮并北城厩橋城代の事之根に於て謙信死間を以て武田北条両城の間を隔てらるゝ事謙信群臣と領国政事談合の事宇佐美駿河守病死の事謙信諸将の功を選み賞禄の事三好松永将軍家御生害の由細川藤孝飛檄到来の事三好家先祖噂の事謙信上
    3キロバイト (3,813 語) - 2024年3月24日 (日) 14:44
  • の戦に草臥、こと〳〵くかけまけ引退、それより相州武州の一揆とも、管領にしよくするもあり、又総​本マヽ​​上総​​ ​野の侍とも、御所かたに心をよせ、或は管領かたに成、己か城に籠り居ける、長尾昌賢謀を廻し、康正元年十月十七日、八ケ国の軍兵を催し、武州滝山の城主大石源左衛門を先かけの大将として、岡部…
    47バイト (2,462 語) - 2024年4月5日 (金) 23:09
  • はなきが如くに成りければ、管領の家運傾き亡ぶべきの時来りけると、心有るは悔悲せり。北条氏康は相州小田原に在城し、文を以国を治め、を以て辺境と戦ひ、いまだ一度も不覚なし。依之諸将の思ひ付くこと赤子の母をしたふ如く也。其の頃武州河越の城は、氏康の家臣北条左衛門大夫在職す。上杉憲政多勢を率し攻むると…
    3キロバイト (6,114 語) - 2024年4月11日 (木) 08:50
  • 松山岩村記事 編者:近藤瓶城 明治35年 1902年 『松山岩村記事』(まつやまいわむらきじ) - “武州松山書捨、濃岩村城記、同異聞記の三条を載す” -『改定史籍集覧総目解題』より 底本: 近藤瓶城 編『史籍集覧』第13冊,近藤出版部,明治39. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/1920348…
    44バイト (1,918 語) - 2024年4月19日 (金) 07:02
  • 正月廿一日上杉氏族二千余騎与㆓成氏㆒戦㆓於武州分倍河原㆒上杉憲秋上杉顕房討死 太平後記云成氏は上の敵退治のために正月五日鎌倉を立武州府中へ一千余騎にて発向して高安寺に陣を取是を聞て上杉衆二千余騎にて上を打立て亨徳四年〈即康正元年〉正月廿一日武州府中分陪河原へ寄来る成氏五百余騎にて馳出短兵急…
    47バイト (25,785 語) - 2024年4月5日 (金) 22:55
  • 【NDLJP:137 】康熙四十三年甲申 質六十五歳。春初八大山人に書を与へて、前年謁陵の事を報す。書中に長児文起が来りて山人の近状を述べたることを言へり。是歳陳留の阿衡廟記の作あれば、或は南帰の途次、開封附近に淹留せるか。又紫硯銘序に是歳漢上に客たること見えたり。 康熙四十五年丙戌 質六十七歳。二月王崑縄源、質
    44バイト (11,980 語) - 2024年5月3日 (金) 15:04
  • 武州(ぶしう)河越(かはごえ)の城主(しろぬし)上杉五郎朝良(ともよし)加勢(かせい)として今川(いまがは)氏親(うちちか)北条氏茂(うぢしけ)と一味し武州立河原(たてかはら)にをいて。上杉顕定(あきさだ)と合戦の事 一同年十月。上杉顕定越後(ゑちご)の軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)し。武州
    198バイト (21,098 語) - 2023年11月20日 (月) 00:09
  • 武州(ぶしう)鉢形(はちかた)の城主(しろぬし)。北条安房守(あはのかみ)氏邦(うぢくに)所へ。使者(しゝや)を遣(つかは)すあはの守(かみ)此よしを聞。扨は滝(たき)川上がたへ。にげ行(ゆく)と覚へたり。西(なし)上
    214バイト (18,263 語) - 2023年11月20日 (月) 00:21
  •  いにしへのあととひ行は山人のたき木こるてふ鎌倉の里 上總國昨夢齋陣中切々訪來。付興行。六月廿二日。  まつによゝは千くさのはまやあきの浪 古織より角田川見物の時歌など讀たるよし文を送られける返事に。  都より心にのかけすゝりうたよみてする角田川かな 水無月晦日。御祓する日と人々申せしかば。早川陣取のの麓なり。名寄に名所のよしあり。…
    434バイト (1,679 語) - 2023年6月24日 (土) 06:56
  • 相摸国北条氏康ト安房ノ国里見義弘合戦アリ然ルニ太田美濃守武州岩槻ニ在テ謀反ヲ企テ義弘ト一味スルニヨツテ義弘義高父子下総国ヘ発向シ高野台近辺ニ陣ヲ張ル此ノ高野台古文ニハ国府台小府代鴻岱トモ書タリ今所ノ者ニ問ヘニ高野台ト書クト云フ見レハ字面ニ合タル高キ台也武州江戸ヨリ北条方遠山丹波守富永三郎左衛門尉等馳参シカ…
    44バイト (2,925 語) - 2024年4月19日 (金) 07:06
  • 武州等、分国なれは不㆑及㆑申、其外家来共の領知も広大なれは、軍勢凡二十万騎とそ記しける、扇谷殿は、上杉家にても庶流にて、分国も少し、御家老にも大軍の兵なし、漸々山内の家中、長尾の領知程ならてはなし、少身なれとも、大将定政智謀深き
    47バイト (16,335 語) - 2024年4月5日 (金) 23:08
  • 武州の南一揆を狩催し、雲霞の軍勢にて、永正七年七月十一日、神奈川の権現山の城を、稲麻竹葦の如く取巻きたり。彼は四方嶮岨にて、岸高く峙ち、南は海、北は深田なり。西には小山続きたりしを、其間を掘切りて、に続きたる本学寺の地蔵堂を根城に取立て、越
    3キロバイト (70,791 語) - 2024年2月3日 (土) 11:08
  • の虚弱を警固の為め、両方より三百五十宛、都て七百の兵を別けて、太田方へ遣し置く。三楽、是等に芳賀・大法寺・高梨を相副へ、二千五百を以て、城内を守らせ、吾身は二千五百を手に付け城を出でて、下屋に陣取り相対し、度々の迫合あり。謙信は、佐渡帰陣あり。追付上武州
    536バイト (41,859 語) - 2023年11月26日 (日) 19:21
  • 夏目舎人助定吉の事 一、夏目姓氏代々の事 二、夏目豊後守定盛〈定吉祖夫〉武州八幡山より相州長尾城に移る事 三、長尾城に於て定盛北条氏綱を防ぐ其手柄の事 四、夏目左衛門尉定虎〈定吉父〉 上杉家を去り武者修行以後、越後に行き謙信公に仕へ上沼田城代たる事 五、夏目舎人助定吉窂入以後、永井家へ罷出づる事 六、夏目舎人助子共并親類箇条の事…
    283バイト (23,605 語) - 2023年12月2日 (土) 18:38
  • 沼田(ぬまた)に付。氏政(うぢまさ)は武州河越(かはごえ)まで着馬(ちやくば)。遅参(ちさん)ゆへ。三郎は勝頼(かつより)のために誅(ちう)せらるゝよし。途中(とちう)より。益(ゑき)なく引返すと語(かた)りければ。かたへなる
    206バイト (13,023 語) - 2023年11月20日 (月) 00:36
  • 武州松山後詰として謙信出馬并松山落城の事附上州山の根城暫時攻落さるゝ事長尾謙忠誅戮并北城厩橋城代の事之根に於て謙信死間を以て武田北条両城の間を隔てらるゝ事謙信群臣と領国政事談合の事宇佐美駿河守病死の事謙信諸将の功を選み賞禄の事三好松永将軍家御生害の由細川藤孝飛檄到来の事三好家先祖噂の事謙信上
    3キロバイト (30,964 語) - 2024年3月24日 (日) 13:39
  • 強之高名。依㆑之蒙㆓手疵㆒之条、佳名最為㆓甚々㆒。加㆑之、今度関東表出陣之砌、上小幡之取出宮崎落城、悉皆其方在㆓計策㆒。剰此時、殿之武者討㆓取之㆒、或武州八王寺本丸之戸張涯之高名、同一番乗者引㆓纏於我組㆒而、観勇之誉功之働、不㆑恥㆓先英後雄㆒也。斯外、為美々稼之品々、明白㆑難筆焉。厚恩期㆓帰陣…
    283バイト (25,327 語) - 2023年12月2日 (土) 18:50
  • (ゑつしう)のしやてい。九郎房義(ふさよし)。家老長尾六郎為景(ためかげ)と。むじゆん有。つゐには。義房うちまけ。あまみぞといふ地にてうたれ給ひぬ。是によつて。顕定うつぷんをさんぜんため永正六年七月廿八日。(ぶ)を打たち。翌(よく)月越(えつ)
    198バイト (16,389 語) - 2023年11月19日 (日) 23:47
  • 。敵(かたき)打入のよし其聞えあり。此人は武州(ぶしう)の弟(おとゝ)なり。武州評定(へうぢやう)の座(ざ)にありて。此よしを聞。直(すぐ)に彼地(かのち)にむかはしめ給ふ相州(さうしう)以下出仕の人々。其後(あと)にしたひて。駕(が)を馳(は)す。然に越(ゑつしう)は。他行(たぎやう)なり。留守…
    199バイト (16,402 語) - 2023年11月20日 (月) 00:31
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